5-7 嶋臺の鶴と成りけり茗荷の子
5-8
刈除けて雁待つ小田の景色哉
5-9 待宵や降出す庭の捨箒
5-10 明月や曇ながらも無提灯
この四句(5-7~5-10)の前書「泰室改名春来」の「泰室」は、「軽挙館句藻」には、「此度、国枝(「杖」は誤記?)泰室、春来の名を、郡山候(米翁の息・柳沢保光)に乞て、又、与(抱一)に、かの古印(前田春来の四霊の古印)乞ふ。かれも俳職(業俳の点者)の名利なればと思ひ、写しあたえぬ」(「抱一上人年譜稿(『相見香雨集一』」を「寛政前期の抱一(井田太郎稿)」を参考に、句読点と注などを付記している)。
https://chanoyujiten.jp/simadainoyurai/
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高台は金の茶碗は五角形で鶴を表し、銀の茶碗は六角形で亀を表しています。おめでたい茶碗であることから、お正月の初釜の時の濃茶に使われる茶碗です。
この茶碗が出来たのは、江戸中期。表千家七代如心斎によって造られたものです。この茶碗と川上不白には、特別な繋がりがあります。
不白は、京都で如心斎を師事していました。その如心斎に頼まれて江戸で行方不明になっている「利休遺偈」を取り戻す使命を受けます。
不白は単身で江戸に出てきて、まずは京都の茶道を江戸に広めていきます。たくさんのお弟子さんに不白流を継がせて、「利休遺偈」のことを探します。そして、茶事をする中で「利休遺偈」は深川の材木問屋の冬木家が所有していることを知ります。
不白は茶事に冬木氏を招き、「利休遺偈」は利休の最期の言葉であり、表千家が所有していることがふさわしいと説得し、如心斎から預かった品々と「利休遺偈」を交換してもらいます。
この功績を称えて、如心斎が嶋台を造り不白に贈ったことが「嶋台」の始まりです。今では、様々な流派が初釜で使われている嶋台ですが、始まりは表千家と表千家不白流からなのです。≫
【関連季語】茗荷の花、茗荷竹
【解説】茗荷の花芽。風味があり、味噌汁の具や薬味にするが、これを食べると物を忘れるという俗説がある。「茗荷の花」は秋。
【来歴】『毛吹草』(正保2年、1645年)に所出。
【科学的見解】茗荷(ミョウガ)は、ショウガ科の多年草で東南アジア原産。日本各地の山野に野生化したものが生育しているが、一般的には畑うや庭に野菜として栽培される。高さは五十センチから一メートルくらい。地下茎を伸ばして群生する。生姜に似た披針形の葉は互生する。七月から十月にかけて地下茎から花茎を出し淡黄色の花を咲かせる。花が開く前の莟が食用になるほか、春の若芽の「茗荷竹」も汁の具などにする。釈迦の弟子に周梨槃特(しゅりはんどく)という人がいた。ひどく物覚えが悪く、自分の名さえ忘れるので、自分の名前を書いた札をいつも背負って歩いた。そんなふうだから笑い者にされたが、槃特は、釈迦の教えを守って精進を続け、やがて、悟りの域に達した。死後、その墓に名も知れぬ草が生えた。いつも名をになって歩いていた槃特にちなんでその草は「茗荷」と名付られた。「茗荷を食べると物忘れする」という俗説は、この槃特の忘れっぽさに由来するとされる。(藤吉正明記)
「前田春来(青峨)・岡田米仲・柳沢米翁」の「東風流(あずまぶり)」俳諧の系譜は、「米翁」の俳諧の師筋の一人とされている「国枝曲笠」が、「春来」の前号の「泰室」から、「米翁・抱一」が継受されていた「春来」の号に改名する運びになった。
これは、釈迦の弟子の周梨槃特(しゅりはんどく)の「茗荷の子」のように精進を重ねた結果で、それは、「東風流(あずまぶり)」俳諧の、金銀二段の蓬莱山を意味する、利休の茶の湯で珍重される「嶋台」茶碗の、その高台の「六角形の銀の亀」(「泰室」の号)から「五角形の金の鶴」の「鶴」に改号したことを意味するもので、誠に目出度いことである。
(参考)
1698-1759 江戸時代中期の俳人。
元禄(げんろく)11年生まれ。江戸の人。鴛田(おしだ)青峨の門人で2代青峨をつぐ。宝暦6年江戸俳諧(はいかい)の伝統の誇示と古風の復活をはかって「東風流(あずまぶり)」を編集,刊行した。宝暦9年4月16日死去。62歳。別号に春来,紫子庵。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
岡田米仲
1707-1766 江戸時代中期の俳人。
宝永4年10月5日生まれ。前田青峨(せいが)の門弟。知己の俳人の自筆句に画像をかきいれた「たつのうら」や,江戸座俳人についてかいた「靱(うつぼ)随筆」を刊行した。明和3年6月15日死去。60歳。江戸出身。別号に青瓐,牝冲巣,月村所,権道,八楽庵。(「デジタル版
日本人名大辞典+Plus」)
1724-1792 江戸時代中期の大名,俳人。
享保(きょうほう)9年10月29日生まれ。柳沢吉里の次男。延享2年大和(奈良県)郡山(こおりやま)藩主柳沢家2代となる。俳諧(はいかい)を国枝曲笠(きょくりつ),岡田米仲(べいちゅう)らにまなび,江戸俳壇で活躍した。寛政4年3月3日死去。69歳。初名は義稠(ともあつ)。号は米翁,月村所,蘇明山人など,隠居後は香山。句集に「蘇明山荘発句藻」,日記に「宴遊日記」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)
[生]宝暦11(1761).7.1. 江戸 [没]文政11(1828).11.29. 江戸
江戸時代後期の画家。名は忠因 (ただなお) ,通称栄八。号は抱一,鶯村のほか,俳号として白鳧,濤花,杜稜,屠龍など。酒井忠仰の次男で,姫路城主,酒井忠以の弟。江戸で育つ。酒井家は代々学問芸術に厚い家柄で,抱一も若年より俳句,狂歌,能,茶事などを広くたしなんだ。病気を理由に 37歳で剃髪して等覚院文詮暉真と称し,権大僧都となる。 49歳のとき下根岸に雨華庵を営み,谷文晁ら当時の文化人たちとも親しく交遊。絵は初め狩野派を学び,次いで歌川豊春からは浮世絵,宋紫石からは沈南蘋 (しんなんぴん) の写生画風,さらに円山派,土佐派にも手を染めたが,のち尾形光琳,乾山に深く私淑。ことに光琳の画風の復興に努め,その影響のもとに独自の画風を形成。文化 12 (1815) 年の光琳百回忌にちなんで『光琳百図』『尾形流略印譜』を,文政6
(23) 年には『乾山遺墨』を刊行。文化文政期の江戸の粋人らしい繊細な情感を画面に漂わせる。主要作品『夏秋草図』 (東京国立博物館) ,『四季花鳥図』
(陽明文庫) 。(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)
なお、掲出句の周辺論稿としては、下記のアドレスの「寛政前期の抱一(井田太郎稿)」が参考となる。
5-8 刈除(かりそ)けて雁待つ小田の景色哉
5-9 待宵や降出す庭の捨箒
5-10
明月や曇ながらも無提灯
(参考句)
て待宵(まつよい)の月かけて雪の下のや
どりに侍り。試楽(しがく)の笛に夜すが
らうかれぬ。明れば朝霧の木の間たえだえ
に楽人鳥のごとくつらなり社僧雲に似て、
たなびき出る神のみゆきの厳重なるに、階
下塵しづまり松の嵐も声をとゞめぬ。
烏帽子著て白きもの皆小田の雁 嵐雪(「玄峰集・秋」)
「5-8
刈除(かりそ)けて雁待つ小田の景色哉」の「雁と小田」の取り合せは、上記の嵐雪の「烏帽子著て白きもの皆小田の雁」の「小田の雁」を念頭にしてものという雰囲気を醸し出している。
さらに、「5-9 待宵や降出す庭の捨箒」の、この「待宵」(旧暦八月十四日の夜の、十五夜の名月の一日前の月)もまた、上記の嵐雪の句の、長い前書に出てくる「待宵の月」と関連があるようにも思える。
続く、「5-10
明月や曇ながらも無提灯」の、この「明月」(旧暦八月十五日の十五夜の月=明月)も、これまた、嵐雪の前書の「鶴岡八幡宮の、八月十五日供養の放生會の夜の名月」と結び付くように思えるのである。
この嵐雪の句と前書については、正岡子規の『獺祭書屋俳話』で、子規の見解があり、下記のアドレスで紹介されている。
この種の句はとても前書なしに解することは出来ない。子規居士もこれを評して「十七字にはとても包含すべからざるほどの事を前言に現し、しかして後その全体の趣味(もしくは一部の事物)を季に配合して文学的ならしめんとする者」だといっている。
前の「蛇いちご」の句にしても、異常な題材の人を驚かすに足るものはあるが、嵐雪の描こうとしたところを伝えるためには、所詮長い前書の力を借りなければなるまい。
「小田の雁」に至ってはそれよりも更に甚しいものがある。これらの句は前書なしには通用しがたいから、一句としては不完全の譏(そしり)を免(まぬか)れないかも知れぬ。
但長々しい前書を用いて、これらの材料を一句に収めようとしたところに、嵐雪の文学的野心がある。また複雑極まるこの種の内容を取扱うに当って、十七字に盛るべからざるものを前書中に繰入れ、飽くまでも俳句の範囲における表現を企てたところに、嵐雪の手際(てぎわ)はあるのである。
こういう傾向が其角に多いことは、固より怪しむに足らぬであろう。比較的穏健雅正に見える嵐雪にして、時にこの手段に出ずるのを異としなければならぬ。嵐雪は慥(たしか)に其角と同じく「危所に遊ぶ」名人の一人であった。(中略)
(上田孟縉(もうしん)著になる鎌倉地誌「鎌倉攬勝考卷之二」の鎌倉鶴岡八幡宮についての「鶴岡總說」に載る毎年四月十五日行われた放生会についての挿絵)
この見解を参考にすると、上記の、抱一の三句は、これらの句の前書の「泰室改名春来」の、その「改号祝い」の贈答句ということになる。
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/warabe.htm
≪天和2年、芭蕉39歳の作。この年10句が記録されている。この句は、芭蕉庵で開催された甲斐國谷村の高山麋塒興業の句会における作である。「月は十五夜で完成、だから14日の月は未だ未熟。男は40にして立つ。よって39歳は未だ未熟。私は今39歳。」≫
抱一の、この「泰室改名春来」の前書のある四句の制作時期は、恐らく、寛政十一年(一七九九)、三十九歳時の、「千束の隠士・抱一堂屠龍」を名乗った「寛政十年」(一七九八)」の、その翌年の作のように思われる。
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