6-1 鳥さしが手際見せけり梅林
季語=梅林(うめばやし・ばいりん)=梅(初春)の林
② 江戸幕府の御鷹の餌にする小鳥を請け負った者。また、その配下。
③ 江戸時代の遊戯の一つ。殿様・用人・鳥刺し各一枚、他に種々の鳥の絵を描いた札一三枚、合計一六枚の札から成り、殿様の命により用人が鳥刺しに鳥を捕えさせる仕組みになっている。
※歌舞伎・五十三駅扇宿附(岡崎の猫)(1887)五幕「是れから鳥(トリ)さしか、お茶坊主をして遊ばうと」
④ 民俗芸能の一つ。①の動作をおもしろおかしく舞踊化したもの。また、万歳の一つ。大夫が鳥を刺すまねをし、才蔵が鳥づくしの歌をうたうもの。鳥刺し舞。鳥刺し踊り。
⑤ 鳥肉の刺身。
[2] 歌舞伎所作事。清元。三升屋二三治作詞。初世清元斎兵衛作曲。天保二年(一八三一)江戸市村座初演。本名題「祇園町一力の段」。二世関三十郎の太鼓持ち次郎左衛門が、鳥づくしの文句で、鳥刺しの振りを座興に踊る。≫(「精選版 日本国語大辞典」)
https://kuniedayu.com/library/torisashi/
現在では一つの演目として上演されるのみとなりました。
鳥さしの刺す→盃を注す→初会の客(遊郭などで初めてのお客に盃を交わすしきたり)と、鳥さしと一力茶屋を関連付けた歌詞になっています。
その他各所に「鳥」との洒落を盛り込んだ文句に軽妙な曲付けになっております。
さすぞぇさすは盃 初会の客よ
手にはとれども初心顔
さいてくりょ さいてくりょ
これ物にかんまえて まっこれ物にかんまえて
ちょっとさいてくりょうか さいたら子供に羽根やろな
ひわや小雀や四十雀 瑠璃は見事な錦鳥
こいつは妙々 奇妙鳥類何んでもござれ
念仏はそばで禁物と 目当違わぬ稲むらを
狙いの的とためつすがめつ
いでや手並を一と差しと 一散走りに向うを見て
きょろつき眼をあちこちと 鳥さし掉も其儘に
手足延して捕らんとすれば 鳥はどこへか随徳寺
思案途方に立ち止まり
したりところてんではなけども 突出されても自分もの
是じゃ行かぬと捨鉢に 跡はどうなれ弾く三味線の
気も二上りか三下り 浮いて来た来た来たさの
酒の酔い心
上から下へ幾度も ゆたかな客の朝帰り カァカァカァ
鴉鳴きさえェェ うまい奴めと
なぶりおかめから そこらの目白が
見つけたらさぞ 鶺鴒であろうのに
文にもくどう駒鳥の そのかえす書きかえり事
なぞと口説きで仕かけたら 堪った色ではないかいな
其時あいつが口癖に 都々逸文句も古めいた
いつも合図の咳払い ハックサメ
噂されたを評判に 幸いありや有難き
息せき楽屋へ走り行く ≫
この「第六 潮のおと」は、文化二年(一八〇五)、抱一、四十五歳、「浅草寺の弁天池に転居」の頃に、スタートしており(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、この前年の文化元年(一八〇四)に、抱一と親交の深い「佐原菊塢(さはらきくう)」が「向島百花園(別称「新梅屋敷」)」を開園している。その梅林での一句と解するのも一興であろう。
(参考一) 佐原菊塢(さはらきくう)の『新梅屋敷』」
「東都三十六景 向しま花屋敷七草」(歌川広重筆)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/mukojimahyakkaen/
【文化元(1804)年、骨董商の佐原菊塢(さはらきくう)が梅やすすきなどの日本古来の草木を集め、幕臣の多賀家屋敷跡に造園した庭園。名称は江戸後期の画家酒井抱一が「梅は百花のさきがけ」の意から名付けたとされる。当初は360本の梅が主体で、亀戸梅屋敷に対して、新梅屋敷とも呼ばれた。現在は都営庭園となり、国の史跡・名勝に指定されている。】
(国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」)
佐原鞠塢肖像、「園のいしぶみ」より
↑
http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h16/kikakuten_hyakkaen.html
↓
【百花園の開園者、佐原鞠塢(きくう)
百花園を開いた佐原鞠塢は、奥州仙台の農民の出で、俗称を平八といった。明和元年(1764年)生まれという説があるが不詳。天明年間(1781年から1789年)に江戸に出てきて、中村座の芝居茶屋・和泉屋勘十郎のもとで奉公した。その後、財を蓄え、それを元手に寛政8年(1796年)頃、日本橋住吉町に骨董屋の店を開き、名を北野屋平兵衛(北平とも)と改めた。芝居茶屋での奉公、骨董商時代の幅広いつき合いがもとで、当代の文人たちとの人脈を形成し、その過程で自らも書画・和歌・漢詩などを修得した。鞠塢は、商才のある人であったらしく、文人たちを集めて古道具市をしばしば開催したが、値をあげるためのオークション的な商法が幕府の咎めを受けたという。
しばらくの間、本所中の郷(現向島1丁目付近)にいたが、文化元年(1804年)頃に剃髪して、「鞠塢菩薩」の号を名乗った。この頃、向島にあった旗本・多賀氏の屋敷跡を購入し、ここに展示で紹介する著名な文人達より梅樹の寄付や造園に協力を仰ぎ、風雅な草庭を造ったのが百花園の起こりである。園は梅の季節だけでなく、和漢の古典の知識を生かして「春の七草」「秋の七草」や「万葉集」に見える草花を植えたため、四季を通じて草花が見られるようになり、いつしか梅屋敷・秋芳園・百花園などと呼ばれるようになった。園の経営者としても鞠塢の才能はいかんなく発揮され、園内の茶店では、隅田川焼という焼き物や「寿星梅」という梅干しなどを名物として販売。また、園内で向島の名所を描きこんだ地図を刷り人々に頒布して、来園者の誘致を図り、次第にその評判が高まっていった。天保2年(1931年)8月29日に死没。編著書に漢詩集「盛音集」、句集「墨多川集」「花袋」のほか、
「秋野七草考」「春野七草考」「梅屋花品」「墨水遊覧誌」「都鳥考」などがある。】(「墨田区企画展『開園200年記念百花園』」)
「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」(歌川広重筆)奈良県立美術館蔵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/112047
【 歌川広重
(1797~1858) 江戸時代/1857/竪大判錦絵/37.2×24.3㎝
(解説) 前景に当時有名であった「臥竜梅」を大きく描く構図は、新鮮で印象的な詩情を求めた『名所江戸百景』の新しい試みをよく示している。赤・紫・緑を背景に純白の梅が馥郁と薫っている。装飾的で象徴的な日本の伝統的表現法が生かされ、早春の気配が巧みに描き出されている。印象的で装飾的な表現を多用したこのシリーズは、『東海道五十三次』などに見られる繊細な写実を脱し、歌川広重の新しい詩境を示すものであった。判形もたて形を用い、緊張感と動性をよくあらわすものである。 】(「文化遺産オンライン」)
(参考四)「第六 潮のおと」の「潮(しお)のおと」の由来
(『酒井抱一・玉蟲敏子著・山川出版社』)
「江戸名所之内 浅草金竜山弁天山之図」(絵師:歌川広重/出版者:丸甚/収載資料名:東都名所/国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail287.html?sights=sensoji;tokyo=taito
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