月曜日, 2月 13, 2023

第七 かみきぬた

 7-1  百舌のなく木末は昏て十三夜

 季語=百舌=鵙(もず)・三秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2229#:~:text=%E9%B5%99%E3%81%AF%E7%A7%8B%E3%80%81%E6%9C%A8%E3%81%AE,%E6%99%B4%E3%80%8D%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%A8%E7%94%A8%E3%81%84%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82

 【子季語】 百舌鳥、伯労鳥、鵙日和、鵙の晴、鵙猛る、鵙の声、鵙の高音

【解説】 鵙は秋、木のてっぺんなどでキーイッ、キーイッと鋭い声で鳴く。小鳥ながら肉

食。その声が澄んだ秋の大気と通ずるので「鵙日和」「鵙の晴」などと用いられる。

【来歴】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【文学での言及】

秋の野の尾花が末に鳴く百舌鳥の声聞くらむか片侍つ吾妹 作者不詳『万葉集』

春されば百舌鳥草潜き見えずとも吾は見遣らむ君が辺りをば 作者不詳『万葉集』

頼めこし野辺の道芝夏深しいづくなるらむ鵙の草ぐき 藤原俊成『千載集』

【例句】

百舌鳥なくや入日さし込む女松原 凡兆「猿蓑」

鵙啼て一霜をまつ晩田哉    浪化「柿表紙」

草茎を失ふ百舌鳥の高音かな  蕪村「新五子稿」

漆掻くあたまのうへや鵙のこゑ 白雄「白雄句集」

鵙の来て一荒れ見ゆる野山かな 蓼太「蓼太句集」

日のさして鵙の贄見る葉裏かな 闌更「半化坊発句集」

鵙の声かんにん袋破れたか   一茶「七番日記」

 ※十三夜=後の月(晩秋)

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 【子季語】 十三夜、名残の月、月の名残、二夜の月、豆名月、栗名月、女名月、後の今宵

【関連季語】 名月

【解説】 旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの

夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆

や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。

【来歴】 『俳諧初学抄』(寛永18年、1641年)に所出。

【文学での言及】

九月十三日夜、閑かに月見るといへることをよめる

すみのぼる心やそらをはらふらむ雲の塵ゐぬ秋の夜の月 源俊頼『金葉集」

【例句】

木曾の痩せもまだなほらぬに後の月 芭蕉「笈日記」

三井寺に緞子の夜着や後の月    蕪村「夜半叟句集」

 

「日本堤・隅田堤による狭窄部と遊水池」(国交省荒川下流河川事務所発行『都市を往く・

荒川下流』より)

https://meishozu.com/edo2/TCGC50A-6-17-47.html

【◎[山谷堀]

東京都小平市に源を発し、練馬区・板橋区を東へ流れて北区堀船で隅田川に合流する石神井川の現・北区飛鳥山の麓には「王子の大堰」と云われる石堰が明暦二年(1656)以前に造られ、北区・荒川区・台東区の水田への灌漑用水を得ていた。灌漑用水の一つに「下郷二十三か村用水」があり、田端・西ケ原・中里を経て荒川・台東区に流れた。水路の最終部では三ノ輪・龍泉寺・千束・橋場・山谷・今戸村を経て、隅田川に注いだ。吉原大門辺りからの下流部は「山谷堀」と呼ばれている。

三ノ輪と今戸の中間辺りに吉原があったため、水路を利用する吉原への遊客は隅田川から今戸を経て猪牙舟で堀を上った。堀には今戸橋、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方〔じかた〕橋、日本堤橋と9つの橋が架かっていた。

◎[日本堤]

『江戸名所図会』本文の「日本堤」の項には、「聖天町より箕輪に至る。その間凡そ拾三町程(凡そ1400m)の長堤なり。(俗に八町縄手と云ふ。-山谷橋ともいった吉野橋から吉原大門辺りまでが八丁であった。)(中略)

日本堤は、高さ10尺(3m)、馬踏4間(7.2m)程だった。明暦三年(1657)に、浅草聖天町~三ノ輪のほぼ中間に吉原が移転してきてからは、吉原への通い路として往来が盛んであった。隅田堤は十六世紀後期の築造といわれている。 】

 

広重・『絵本江戸土産』「日本堤・山谷」/注記に「聖天町の末より千住にいたる長堤なり。所々見どころ多しといへども、なかんづく吉原大門入口の辺より見渡せば、茫々たる広野にして、遙かに小塚原の地蔵を見る。雪の日に絶景なり。」とある。

https://meishozu.com/edo2/TCGC50A-6-17-47.html

 「句意」(その周辺) 

 抱一は、文化二年(一八〇五)、四十五歳時に、「浅草寺の弁天池」辺りに転居し、「第六潮の音」をスタートとして、その年末に、「山谷の紙洗橋」付近に転居し、「第七 紙(かみ)きぬた」が開始されたと記されている(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)。

 この「第七 紙(かみ)きぬた」は、「かみきぬた」そして「(かみ)きぬた」と、その『軽挙館句藻』では、その微妙な「紙・かみ・帋」と用字の使い分けをしながら、文化五年(一八〇八)、四十八歳時頃までの句作を書き留めているようである(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)。

 そして、この「第七 かみきぬた・紙きぬた・帋(かみ)きぬた」の由来は、その頃の転居先の、「山谷(堀)の紙洗橋」(吉原に通ずる日本堤に沿って流れる山谷堀に架かる小さな橋))にあるだろうとされている(『酒井抱一・玉蟲敏子著・山川出版社』)。

 この「紙洗橋近くの新鳥越」に、享和三年(一八〇三)、抱一、四十三年歳頃に開店した「料亭八百善」(『江戸流行料理通』初編を文化五年に出版。太田南畝、亀田鵬斎が序、酒井抱一、葛飾北斎が挿図を寄せている)がある(『酒井抱一・玉蟲敏子著・山川出版社』)。

 

歌川広重『江戸高名会亭尽』「山谷 八百善」(「ウィキペディア」)

【 享保年間に浅草山谷で創業[1][2]して以来、栄枯盛衰を繰り返す。もともとは八百屋だったが、周囲に寺が多かったことから料理の仕出しを始め、次第に料理屋として評判を取るようになった。

 文政期の四代目の当主栗山善四郎は、多才多趣味で当世一流の文人墨客との交流が深く、狂歌、絵師、戯作家の大田南畝(蜀山人)に「詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者は小萬 料理八百善」と言わしめた。また、八百善が文政五年に刊行した『江戸流行料理通』は当時の料理テキストとも言うべきものだが、蜀山人・鵬斎(亀田鵬斎)が序文を寄せ、谷文晁、葛飾北斎らが挿画を描いて評判になり、江戸土産としても人気を博した。】(「ウィキペディア」)

  句意は、「吉原の『大文字屋』(大文字屋市兵衛)、そして、その別邸近くの『千束の料亭・田川屋(駐春亭)』(駐春亭右衛門)、それに続く、この『紙洗橋の料亭・八百善』(八百善善四郎)と、折りから、この晩秋を告げるような『百舌(もず)』が鳴いている。その鳴いている『木末(梢)』は、夕闇が迫って、もう、真っ暗闇と化してきた。さて、今日は、『大文字屋市兵衛』のねぐらか、それとも、『駐春亭右衛門』、それよりも、『八百善善四郎』のところとかと、ついつい、「十六夜(いざよい)」していると、その真っ暗闇の天に、何と、この晩秋の最後の名月の『後の月』が姿を現したことよ。」

 (参考)「酒井抱一と『八百善善四郎』周辺

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

 

『江戸流行料理通大全』p29 「食卓を囲む文人たち」

 【上記は、文政五年(一八二二)に刊行された『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の中からの抜粋である。ここに出てくる人物は、右から、「大田南畝(蜀山人)・亀田鵬斎・酒井抱一(?)か鍬形蕙斎(?)・大窪詩仏」で、中央手前の坊主頭は、酒井抱一ともいわれていたが、その羽織の紋所(立三橘)から、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎(くわがたけいさい)」のようである(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録武田庸二郎稿))。

 この「グルメ紹介本」は、当時、山谷にあった高級料亭「八百善」の主人・栗山善四郎が刊行したものである。酒井抱一は、表紙見返し頁(P2)に「蛤図」と「茸・山葵図」P45)などを描いている。「序」(p2345)は、亀田鵬斎の漢文のもので、さらに、谷文晁が、「白菜図」(P5)などを描いている(補記一のとおり)。

 ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。

 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。

 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。

 上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。

 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。

 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。

 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。

 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。

 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

  抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「享和二年(一八〇二)四十二歳」に、「亀田鵬斎、谷文晁とともに、常陸の若芝金龍寺に出かけ、蘇東坡像を見る」とある。

 この年譜の背後には大きな時代の変革の嵐が押し寄せていた。それは、遡って、天明七年(一七八七)、徳川家斉が第十一代将軍となり、松平定信が老中に就任し、いわゆる、「寛政の大改革」が始まり、幕府大名旗本に三年の倹約令が発せられると、大きな変革の流れであったのである。

 寛政三年(一七九一)、抱一と同年齢の朋友、戯作者・山東京伝(浮世絵師・北尾政演)は、洒落本三作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖五十日の処分を受ける。この時に、山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」こと蔦屋重三郎も過料に処せられ、財産半分が没収され、寛政九年(一七九七)には、その四十八年の生涯を閉じている。

 この蔦屋重三郎が没した寛政九年(一七九七)、抱一、三十七最の時が、抱一に取って、大きな節目の年であった。その十月十八日、西本願寺第十八世文如の弟子となり、出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗り、以後、「抱一上人」と仰がれることになる。

 しかし、この抱一の出家の背後には、抱一の甥の姫路藩主、酒井忠道が弟の忠光を養嗣子に迎えるという幕府の許可とセットになっており、抱一は、酒井家を実質的に切り捨てられるという、その「酒井家」離脱を意味するものなのであろう。

 この時に、抱一は、柿本人麻呂の和歌「世の中をうしといひてもいづこにか身をばかくさん山なしの花」を踏まえての、「遯入(のがれい)る山ありの実の天窓(あたま)かな」(句稿『椎の木陰』)との、その出家を受け入れる諦めにも似た一句を詠んでいる。そして、この句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』では、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」と、自らの意思で出家をしたように、断定的な句形で所収され、それが最終稿となっている。これらのことを踏まえると、抱一の出家というのは、抱一に取っては、不本意な、鬱積した諸事情があったことを、この一句に託していねかのように思われる。

 これらのことと、いわゆる、時の老中・松平定信の「寛政の改革」とを直接的に結びつけることは極めて危険なことであるが、亀田鵬斎の場合は、幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥するところの、いわゆる「寛政異学の禁」の発布により、「異学の五鬼」(亀田鵬斎・山本北山・冢田大峯・豊島豊洲・市川鶴鳴)の一人として目され、その門下生が殆ど離散するという、その現実的な一面を見逃すことも出来ないであろう。

 この亀田鵬斎、そして、その義弟の建部巣兆と酒井抱一との交友関係は、この三人の生涯にわたって密なるものがあった。抱一の「画」に、漢詩・漢文の「書」の賛は、鵬斎のものが圧倒的に多い。そして、抱一の「画」に、和歌・和文の「書」は、抱一が見出した、橘千蔭と、この二人の「賛」は、抱一の「画」の一つの特色ともなっている。

 そして、この橘千蔭も、鵬斎と同じように、寛政の改革により、その賀茂真淵の国学との関係からか、不運な立場に追い込まれていて、抱一は、鵬斎と千蔭とを、自己の「画」の「賛」者としていることは、やはり、その根っ子には、「寛政の改革」への、反権力、反権威への、抱一ならでは、一つのメッセージが込められているようにも思われる。

 しかし、抱一は、出家して酒井家を離脱しても、徳川家三河恩顧の重臣の譜代大名の酒井雅樂頭家に連なる一員であることは、いささかの変わりもない。その酒井雅樂頭家が、時の権力・権威の象徴である、老中首座に就いた松平定信の、いわゆる厳しい風俗統制の「寛政の改革」に、面と向かって異を唱えることは、決して許されることではなかったであろう。】

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