土曜日, 3月 24, 2007

其角とその周辺・五(四十六~五十五)



(謎解き・四十六)

○ 新月やいつを昔の男山 (其角『いつを昔』)

『いつを昔』(其角編・元禄三年刊)所収。「同講の心を 心の月をあらはして鷲の御山の跡を尋(たずね)ん」との前書きがある。「同講」は「舎利講」のこと。「舎利講を 願はくは心の月をあらはして鷲の御山の跡を照さむ」(藤原良経『秋篠月清集』)、「今こそあれ我も昔は男山さかゆく時もありこしものを」を踏まえている。「新月」に「心月」を掛けている。
句意は、「心月のような新月の明るく照らす男山を見ていると、何時のことを昔というのだろうか、昔も今も少しも変わりはない」というようなことであろうか。この句の中七の「いつを昔」が、書名の由来となっている。(新月・秋)。この『いつを昔』の序文は、去来が書いている。

一 俳諧に力なき輩(やから)
  此(この)集のうちへ かたく
  入(はいる)べからざる也

この去来の幕府の高札に見立ての序は、後の『沾徳随筆』の「芭蕉発句はよき句あれどうすし。薄き所を得たる作者也。其角はつよき程の句に、ばせをは力及ばず」と一脈通ずるニュアンスでなくもない。芭蕉没後、其角と去来・許六との間に、「其角が芭蕉の遺風に従わない」ということで、『俳諧問答』(許六編)でそのやり取りが記述されているが、芭蕉在世中の元禄三年当時においても、其角は芭蕉の作風(不作為の薄き句)とは方向を異なにして、洒落風の作風(作為の強き句)に軸足を置き、そのことは、芭蕉・去来を始め、蕉門の面々は、これを認めていたといっても過言ではなかろう。ここで、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)は、次のような興味ある記述をしている。

○『いつを昔』は、其角の好みによる東西名句選で、普通の四季別類題によらず「十題百句」「交題百句」とつづいて行く。その二句目に、「凩(こがらし)に二日の月の吹きちるか」(荷兮)が入っている。荷兮は名古屋連衆のリーダーで、『冬の日』『春の日』『阿羅野』と芭蕉七部集の三部を編集した才人である。この「凩に……」の句は、荷兮の代表句であり、「凩の荷兮」と呼ばれた。しかし芭蕉は、この句を「作為」があるとして認めなかった。凩が吹いて、二日の空の月は、こなごなに吹き散ってしまう、という水晶のような吟で、二日という、さして見ばえのしない日を詠みこんだところに力がある。「吹き散るか」という語が強い。その「二日の月」という人を驚かす選択に芭蕉は「作為」を見た。こうなると、「うまい句」や「はっと驚かす句」は、すべて「作為」があるとされてしまい、蕉門の俳人には、芭蕉の評に異をはさむ者も出てくる。荷兮がその一人となっていく。

其角の図太さは、師の芭蕉が、「これはまずい」ということであっても、頑として自説を押しを通すだけの器量が備わっていた。そして、其角の師たる芭蕉も、其角に対しては、正面から其角の非を諭すという姿勢は取らなかった。それだけではなく、「自分にないものを其角が有している」ということを正しく見抜いていたともいえるであろう。其角はそういう芭蕉を、これまた正しく見抜き、終生、芭蕉を師と仰ぎ、師の下を離れることなく、その最期を看取ったのであった。それに比して、荷兮は芭蕉から離反していく。芭蕉との離反は、俳人・荷兮の寿命を縮め、目標を失ったように、晩年には、昌達として連歌師に転進し、不遇のうちに没した。しかし、この荷兮の「作為ある句」を良しとし、荷兮を高く評価し、荷兮離反後も、荷兮と同じく「作為ある句」の世界を確立していた、その人こそ、其角であったということもできょう。


(謎解き・四十七)

『いつを昔』(其角編・元禄三年刊)所収の其角の句には傑作句が多い。『榎本其角』(乾裕幸編著)を参考にしながら、その幾つかを見ていきたい。

○ しばらくもやさし枯木の夕附(ゆうづく)日 (其角『いつを昔』)

「芭蕉翁の旧草」との前書きがある。「旧草」とは昔住んでいた草庵のこと。句意は、「芭蕉師の旧庵の枯れ木に、ひとときの間やさしい夕陽の光が差し込めている」。この「やさし」には芭蕉師の面影を宿しているか。其角にしては作為過剰にならず、芭蕉好みの一句。其角は、何でも自分本位の句作りに邁進するのではなく、俳諧自在で、「時・所・人」に応じて作句するだけの器量と能力を有していたということか。こういう其角の俳諧自在的な配慮は、芭蕉から離反していく荷兮などの面々は有していなかった。其角の好みによる東西名句選の『いつを昔』に、芭蕉師が閲覧するであろうことを予期してか、こういう、芭蕉師の好みの、しかも、芭蕉旧庵を主題にしての一句を、何の衒いもなく入集しているのが、いかにも、其角らしい。(枯木・冬)。

○ からびたる三井の二王や冬木立 (其角『いつを昔』)

「遊園城寺」との前書きがある。「園城寺」は三井寺。「冬木立の中、古い三井寺にふさわしく、山門の仁王像はからびきって枯淡な趣をたたえている。一句の命は『からびたる』の一語に尽きる。からびた仁王に冬木立を取合わせたのは其角の手柄。蕉風の秀句と称すべきである」(乾・前掲書)。(冬木立・冬)。潁原退蔵著『俳諧評釈』で「其角のすぐれた詩人的素質がみられる。蕪村の『三井寺の日は午にせまる若楓』と宣い対照をなした句だ」との指摘がある。これも、芭蕉好みの句。其角にはこういう詩人的資質が底流に迸っており、そこのところが、芭蕉の本質に通ずるものがあり、荷兮のように無下にはせずに、常に特別視していたということであろうか。それは即、「芭蕉だけが其角の真の姿を見抜いていた」ということもできるのかも知れない。ちなみに、芭蕉にも、「三井寺の門たゝかばや今日の月」の「三井寺」を主題にした句がある。謡曲「三井寺」の「今夜は八月十五夜名月」の場面の「月の誘はおのづから、舟はこがれ出づらん、舟人もこがれ出づらん」や賈島の詩の「僧は敲く月下の門」などを背景とした句である。其角の側からすると、こういう芭蕉の句は、好みの句であって、其角は、『雑談集』に「於大津義仲寺庵」との前書きを付して収載している。この芭蕉の句は元禄四年秋の作とされ(井本農一他校注『松尾芭蕉集(一)』)。うがった見方をすれば、芭蕉が掲出の其角の句を念頭においてのものとも理解できるのである。

○ 若鳥もあやなきねにもホトゝギス (其角『いつを昔』)

「あやなき」ははっきりしないこと。「ね」は音。句意は、「若鳥がまだはっきり分からないような声で鳴いている。それでも、ホトトギスの声らしいところを宿している」。ホトトギスの異名の「あやなし鳥」を背景とした句であろう。(ホトトギス・夏)。やや作為的なところもあるが、それほど嫌味はない。芭蕉の師風を頑なに遵守し、決して器用ではない武骨者の去来が、この其角の『いつを昔』の「序」を書いているが、去来に「序」を依頼する其角の器量の広さと巧みさとともに、当時の俳諧の作風から見て、この句なども去来始め蕉門の面々にそれほど違和感を与えるものではなかったであろう。

○ 人うとし雉(きじ)をとがむる犬の声 (其角『いつを昔』)

「草庵」との前書きがある。「守家一犬迎人吠」(『和漢朗詠集』都良香)を踏まえているという(乾・前掲書)。句意は、「訪れる人とてなく、犬がなくのは、雉子を見咎めてのことである。そんな辺鄙なところなのです」。この句には、犬公方・綱吉の「生類憐れみの令」への風刺を含んでいないであろう。『和漢朗詠集』の背景を度外視しても、一句として鑑賞し得る。「人うとし」を浮き上がらせるために、「雉(きじ)をとがむる犬の声」というのが、いかにも、ドラマティツクで、荷兮の作風と同じく作為が先行する感じがしなくもないが、それが嫌味ではない。(雉・春)。

○ 鼠にもやがてなじまん冬籠(ふゆごもり) (其角『いつを昔』)

「居をうつして」との前書きがある。「今度越して来た新宅は、鼠がうろちょろと出没する。今年はここで冬籠りするのであるが、新しい鼠どもにもやがてなじむことであろうよ。旧宅にも鼠はいただろうが、新宅の鼠とは初対面という気分である」(乾・前掲書)。(冬籠・冬)。其角の「切られたる夢は誠か蚤の跡」(『花摘』)に、芭蕉は「彼は定家の卿也」と、「さしてもなき事をことごとしくいひつらね」ることのできる独特の才能を見て取り、歌作りの名人の藤原定家に擬している。こういう句を見ると、芭蕉の批評眼の凄さを思い知る。芭蕉の「冬籠」の句で、「金屏の松の古さよ冬籠」(元禄六年許六宛書簡など)がある。「金屏の松の古さよ」の見立てや、即興的な情趣は、これも、其角側からすれば、其角好みの一句ということになろう。ともすると、其角の句の鑑賞は、芭蕉の視点からのものを多く見かけるが、逆に、其角の視点からの芭蕉の句の鑑賞というのも、これまた一興と思われる。

(謎解き・四十八)

○ 木兎(ミミヅク)の独(ひとり)わらひや秋の昏(くれ) (其角『いつを昔』)
○ 帆かけぶねあれやかた田の冬げしき (其角『いつを昔』)
○ 病雁(やむかり)の夜さむに落(おち)て旅ね哉 (芭蕉『猿蓑』)

掲出の一句目。「けうがる我が旅すがた」との前書きがある。「木兎は赤い頭巾を着せられて諸鳥をとらえる囮にされる。秋の夕暮れ、そぞろ寂しさのつのる中にも、赤い頭巾をかぶったわが旅姿は、まるで木兎そっくりだわいと、つい独り笑いがこみあげてくる。寂しさにおかしさを織りまぜた佳句である」(乾・前掲書)。(秋の昏・秋)。其角の自嘲の一句。「おかしさとわびしさと」、まさに、佳句。「赤い頭巾を着せられて諸鳥をとらえる囮」の「木兎」の比喩が、まさに、当時の其角を彷彿させる。
掲出の二句目。「十月二日、膳所水楼にて」との前書きがある。「元禄元年(一六八八)十月二日、曲翠・素葉と膳所水楼に遊んだ折の吟。『かた田』は堅田。滋賀県大津市、琵琶湖西岸。古くから湖上交通の要所であった。水楼に登って琵琶湖上を見渡すと帆かけ舟が見える。あれが堅田の冬景色として欠くことの出来ないものだ、の意。大雑把な描きように風情がある」(乾・前掲書)。(冬げしき・冬)。「大雑把な描きように風情がある」というよりも、「大景把握の冴えを見せる感興の一句」と解したい。何の技巧も弄さず、実景を抉り出す其角の確かな俳眼を見せつけるような一句である。こういう其角の句に接すると、近江をこよなく愛した芭蕉と、その近江俳人の一人・東順を父とする其角とは、単に、師弟の関係にあったというよりも、真に、親しい関係にあった俳人同士という思いがしてくる。
掲出の三句目。『猿蓑』には「堅田にて」、また『横平楽』には「堅田にふしやみて」という前書きがある。また、『枯尾花』の其角の「芭蕉終焉記」に「心をのどめて思ふいち日もなかりければ、心気いつしかに衰微して、病ム雁のかた田におりて旅ね哉と苦しみけん」との記述がある。「秋も深まって夜の寒さがしみじみと身にせまる今晩である。と、病気らしい弱った雁の鳴き声が聞え、どこか近くに降りたらしい様子である。そんなあわれなさまを感じながら、雁と同じように孤独で病身の自分も、秋の夜をわびしく旅寝するのである。季節といい、情景といい、またわが身の境涯といい、むひとしお旅愁の心に沁みることだ」(井本他・前掲書)。其角好みの一句といえよう。
『去来抄』によれば『猿蓑』撰集のとき、この句と「海士(あま)の屋は小海老にまじるいとゞ哉」との句について、どちらを入集すべきかに関しての、撰者の去来と凡兆との間の論争の記述が見られる。「作者の志」を高く評価する去来は「病雁の」の句を、「句の働き・情景の新鮮さ」を高く評価する凡兆は「海士の屋は」の句を主張した。その後芭蕉は「病雁と小海老などと同じ事に論じけり」と笑ったという。この「病雁」は「病む芭蕉」の比喩と理解して、掲出一句目の其角の「木兎」の自画像との比喩とが、好一対のように思えてくる。さらに、「病雁の」の芭蕉の句は、「堅田にて」の前書きがあり、「堅田落雁」を意識した作意の句であり、「病雁」・「夜寒」・「旅寝」の道具立ての面からも、師たる芭蕉と弟子たる芭蕉の比喩の一句として、掲出一句目と三句目とは、「句兄弟」のような関係のものと理解したい。さらに、掲出二句目の其角の「堅田」の句と、掲出三句目の芭蕉の「堅田」の句についても、同じ「近江堅田」の旅中吟ということで、これも「句兄弟」のようなものとの理解をいたしたい。
ここらへんのところを、其角と芭蕉との年譜を見ていくと、其角の近江・堅田行きは、元禄元年(一六八八)十月で、芭蕉はその翌年の元禄二年に「おくのほそ道」の旅を決行して、十二月末に、近江・膳所で越年する。時に(元禄三年)、其角は、三十歳、この四月十五日に、『いつを昔』を刊行する。一方の芭蕉は、四十七歳、三月中旬に、膳所にて、「木の本に汁も膾(なます)も桜哉」を立句にして曲翠・珍碩と三吟歌仙。この頃より「かるみ」・「不易流行」の語を口にするようになる(今泉・前掲書)。四月には、幻住庵に入り、持病の下血に悩んでいることの如行宛ての書簡などがある。八月に『ひさご集』を刊行し、九月二十六日に、「『ひさご集』ノ事、キ角などは心に入不申候様ニ承候」(芭蕉宛曽良書簡)と、芭蕉と其角との俳諧観などの相違が浮き彫りになってくる。これらのことを背景として、掲出の三句を鑑賞していくと、当時の其角や芭蕉の思いの一端というのが伝わってくる。

(謎解き・四十九)

○ 蟷螂(かまきり)の尋常(じんじょう)に死ぬ枯野哉 (其角『いつを昔』)

『五元集』には「霊山のみちにて」の前書きを付している。「殺生禁断の霊山の有難さ。枯野の中に、むごたらしく殺されせず、事故死もせず、寿命を全うして自然死した蟷螂の死骸が落ちている。『尋常に死ぬ』ことの少ない虫けらの自然死に感動したのである」(乾・前掲書)。(枯野・冬)。そのままずばりの「尋常に死ぬ」が何とも其角らしい。「うづみ火の南
をきけや蟋蟀(きりぎりす」と其角の虫の句が続く。

○ 寝る恩に門の雪はく乞食哉 (其角『いつを昔』)

「寒山の讃」の前書きがある。「寒山」は中国唐の僧。「拾得」(じっとく)とともにその飄逸な姿がよく画題とされる。「門前に寝かせてもうら恩返しに、門前の雪を乞食が掃いている」という景。「禅寺に泊めてもらうと、翌朝、寝たあたりを掃除して出る常例を背景とする」(乾・前掲書)。(雪・冬)。乞食は家に泊まっての礼返しではなく、門前に寝るのだろうけど、その礼返しという見立ての面白さを狙っているのだろう。其角の釈教の句。

○ 大虚涼し禅師の指のゆく所 (其角『いつを昔』)

「布袋の讃」との前書きがある。「布袋」は中国唐の禅僧、布嚢を背負った絵で知られる。句はその絵の讃。「指のゆく所」は指先を弾いて注意を喚起する仏教の禅指を匂わせるか(乾・前掲書)。「虚空に向けられた布袋禅師の指の指すところ、涼しさが満ちあふれている」。
(涼し・夏)。「大虚涼し」と「禅師の指のゆく所」の取合わせの奇抜さを狙っている。これも釈教の句。

○ 鈴虫の松明(たいまつ)さきへ荷(にな)はせて (其角『いつを昔』)

「夜過山 沖津にて」の前書きがある。「沖津」は興津。現在の静岡県清水氏。東海道五十三次の一。『東海道名所記』の「由井より興津へ」の項に「駅路鈴声夜直山」(和漢朗詠集)の詩を挙げる。句はこの「鈴声」を鈴虫の声に変えた(乾・前掲書)。「松明を先へ荷わせてゆくと、松明の先の方から鈴虫の声が聞えてくる」。(鈴虫・秋)。旅と題しての句。

○ いざ汲(くま)ん年の酒屋のうはだまり (其角『いつを昔』)

「うはだまり」は濁り酒の上澄み。『催馬原』の「此の殿の、奥の酒屋のうはだまり」を背景としている句。「さあ酌もう、この新年のめでたい酒の上澄みを」。(年の酒・新年)。酒と題して句。

○ かたつぶり酒の肴に這はせけり (其角『いつを昔』)

「草庵薄酒の興 友五に対す」の前書きがある。「友五」は江戸の蕉門の俳人。「薄酒」は味の薄いまずい酒。蝸牛(かたつむり)は別名を舞々とも言いそれなどを意識しているとも解せられる。「何のご馳走もないので、蝸牛でも舞々這わせて、それをご馳走にむして酒でも飲もう」。(かたつぶり・夏)。「即興の軽い句として面白い。其角の磊落な風格が偲ばれる句である」(潁原・前掲書)。これも酒と題しての句。

○ 名月や居酒のまんと頬(ホウ)かぶり (其角『いつを昔』)

「居酒」は居酒屋の酒。『仁勢物語』の「おかし男、ほうかむりして、奈良の都かすかの里に酒のみにいきけり」を踏まえている(乾・前掲書)。「この名月に、頬被りして居酒屋に行き、酒を飲もう」。(名月・秋)。「かたつぶり酒の肴に這せけり」の次に掲載している酒の句。

○ 清滝や渋柿さはす我(わが)意(こころ)  (其角『いつを昔』)

「清滝」は京都の清滝川。「さはす」は柿の実の渋を取り去ること。「清滝川の清流、渋柿をさわすように、わが心もさわされる思いがする」。(渋柿・秋)。「渋柿さはす」と「我(わが)情(こころ)」を「さはす」(洗い清める)との面白さを狙っている。「嵯峨遊吟」と題しての句。

○ 蜑(あま)のかるかぶ菜おかしやみるめなき (其角『いつを昔』)

「蜑」は海士。ここは海女。「かぶ菜」は蕪。「みるめなき」は「海松布(みるめ)なき」に「見る目なき」の言い掛け。『古今集』の「みるめなきわが身をうらと知らねばやかれなで海人のあしたゆくくる」(小野小町)を踏まえている。この歌の「かれな」(離(か)れな)を「かぶ菜」のもじり、「逢うことのない」の意の「みるめなき」の転じなど技巧を凝らしての一句。
「海女が海松布(みるめ)でなく蕪を刈っているのが何とも可笑しい」。(かぶ菜・冬)。取り立てて句にすることもないようなことを、単に、技巧に技巧を施した言葉遊びの句は、芭蕉は敬遠することであろう。膳所の湖上吟の一句。

(謎解き・五十)

○ 山陵(カラ)の壱歩をまはす師走哉 (其角『いつを昔』)

「とにかくにもてあつかふはこゝろなりけり 光俊」の前書きがある。「山がらの廻すくるみのとにかくにもてあつかふはこゝろなりけり」(『夫木和歌抄』巻二十七・光俊朝臣)を踏まえている。訓読みの「やまがら(山雀))」と音読みの「さんりょう(三両)」を掛けている。これは当時の「三両一歩」の「座頭金」(高利)を風刺した句である。座頭金は幕府が盲人の保護政策として高利貸しの営業を認め、後に高利の代名詞に「三両一歩」の語が生じたことによる(今泉・前掲書)。また、「山雀利口」(小利口で実際の役に立たないもの)で、師走の遣り繰りに困って、利子を一歩(一歩は一両の四分の一)を先払いして、二両三歩を手にしたが、山雀小利口で、前書きの光俊の歌にあるように「もてあつかふ」(始末に困る)ということになるというのである(今泉・前掲書)。表面的な句意は、「山稜鳥の異名を持つ山雀は胡桃をころころ廻してもてあそぶ習性があるが、その足の一歩でこの師走の忙しい時に、胡桃をもてあそんでいる」。そして、その背後の意味は、「その山雀と同じように、山雀小利口で、師走の資金繰りに困って、山陵鳥ならず、三両を一歩の利子という高利で座頭金を借りて、利子を前払いして、当座の遣り繰りをころころと胡桃のように廻しているが、とどのつまりは、そんな遣り繰りはうまくいかず、仕舞いには、どうにも始末が困ってしまうことになる」というようなことである。これは、其角の「聞えがたき」(意味が分からない)句の、いわゆる「謎句」の範疇に入る句の一つであろう。この種の謎句は、「洒落風」ともいわれ、「一般に芭蕉没後、とくに顕著になる其角独特の作風をさし、武士口調のもじり、世相の風刺などにその一例が見られる」(今泉・前掲書)ところのものであろう。この種の其角の世相風刺などのの句として、前にもその幾つかは紹介したが、次のようなものがある。

○ 鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分 (『五元集』。「見張りの役人に山吹色の小判を与えれば、漁獲禁止の川で、鯉をとっても大目に見てくれる。)
○ 炉開きや汝をよぶは金の事 (『五元集』。大名が炉開きに出入りの町人を呼んで、御用金を申しつける。)
○ 此(この)碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉 (『骨董集・山東京伝著』。「元禄六年駒形に殺生禁断の碑立。今なほ存せり。右の句を考るに、哀江頭は杜子美が七言古詩の題なり。哀江の字義をとり此碑立ては、此川の魚のかなしむことはあるまじといへるこゝろならん。蛍の光に碑文をてらすを、車胤が故事などにおもひよせたる歟」。この記述に対し、「京伝の『車胤が故事』は例の『蛍の光、窓の雪』の故事であるが、これは関係なく読んでよいであろう。もし蛍の光で碑文が読めると解すると、京伝も『此碑では』の語のもつ含みも口にしないだけでわかっていたのかも知れない。京伝の時代は、元禄時代の大らかさがない。うっかり、この句の含みまで書いたら、とんでもないことになる世の中であったことを知ってやる必要があろう」と「今泉・前掲書」では解説している。)
○ 窓銭のうき世を咄(けな)すゆき見哉 (『蕉尾琴』。「窓銭」は窓一つにいくらとかかる税金。「うき世」は「浮世」と「憂き世」とを掛けている。窓銭のかかる憂きことの多い浮世の話をしながら雪見をしている。)
○ 夕顔にあはれをかけよ売名号 (『焦尾琴』。「夕顔」は『源氏物語』「夕顔」に出てくる夕顔の君で、頭ノ中将に贈った歌「山がつが垣根荒るともをりをりはあはれをかけよ撫子のつゆ」を踏まえている。「売名号」は佛あるいは菩薩の名を書いた名号を書いた札を売ることで、高価に売買されていた。この句には、「祐天和尚に申す」との前書きがあり、綱吉の母桂昌院の尊信を受けていた高位の僧・祐天和尚への風刺句で、「源氏物語の夕顔のようなことにならぬように、祐天和尚の売り名号が高値で売られているのだから、その高値にふさわしく、民衆のことにも、哀れをかけて欲しい」というような意であろう。)
○ 衣なる銭ともいさや玉まつり (『五元集』。「棚経よみにまいられし僧の、袖よりおひねりを落しける、かの授記品の有無価宝珠と説せ給ふ心をおもひて」の前書きがある。「衣なる銭」は、この衣の袖に入れたおひねり(銭を紙で包んでひねったもの)。「お盆の魂祀りのお布施を僧は衣に入れ、それを落としたことに気づかず、大金ならそんなこともなかろうに。ささやかなお金でも、一般庶民には、なけなしのお金を包んだことだろうに」のような意であろう。)

こういう、お金にかかわることや、当時の世相風刺の句は、其角の師の芭蕉は勿論のこと、他の蕉門の面々の中でも、こういうことを主題にした俳人を見付けることは困難であろう。いや、後に、『日本永代蔵』や『世間胸算用』などの「浮世物」などの小説の世界を切り開いていた、談林派の俳諧師・西鶴のものでも、こういうものは、お目にかかれないであろう。こういう、当時の世相風刺の句というのは、其角の独壇場といっても良いであろう。そして、この種の世相風刺の句は、時に、為政者批判のものとなり、それ故に、それをカムフラージュしての正体不明の、いわゆる、謎句が、其角関連の句集の中には随所に見られることになる。これまで、見てきた、其角の名句が数多く見られる、元禄三年刊の『いつを昔』の中にも、「山陵(カラ)の壱歩をまはす師走哉」などの、いわゆる、謎句も見られるが、まだ、どちらかとゆうと、言葉遊びの謎句という趣で、其角の俳友でもあった、英一蝶らの流刑後に見られる、顕著な為政者批判の謎句は、元禄十一年以降に多くなってくる。

(謎解き・五十一)

蘭氏より、国立国会図書館のデジタルライブラリに其角の『句兄弟』が掲載されているということとあわせ、次のような貴重なデータの紹介があった。こころのところを、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、「『予が句先にして、師の句弟と分け、その換骨をさとし侍る』と解説した。ここには、作意が働いた其角の伊達と、閑寂をよしとする芭蕉の差がよく示されている。これより、蕉門は分裂に分裂を重ねることになる。その引きがねをひいたのは、まぎれもなく其角である。其角は芭蕉の『軽み』など屁とも思っていなかった。かくして、芭蕉没後、蕉門は四分五裂をくりかえすことになる」として、これを、その著の結びとしている。以下、これらのこととあわせ、其角の『句兄弟』を見ていくことにする。
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 其角は『句兄弟』の最後に三十九番目の句として、自分と芭蕉の句を並べ、自分を兄、芭蕉を弟としている。『句兄弟』が刊行されたのは芭蕉が亡くなった元禄七年。これをもって其角はあえて蕉門の分裂の引き金を引いたのだとする論者もいるようだ。この二句に関しては、『句兄弟』に其角の評、『三冊子』に芭蕉の評、『十論為弁抄』に支考の評が載っている。其角の評の後段の意味がよくわからないが、両者の俳諧観の違いがここに尽きているのかも知れない。支考は両者の本質を見抜いているようだ。
※『句兄弟』三十九番
   兄 晋子
 聲かれて猿の歯白し峯の月
   弟 芭蕉
 塩鯛の歯茎も寒し魚の店
  (or 塩鯛の歯茎は寒し魚の棚)
●其角『句兄弟』 其角の評
※原文:是こそ冬の月といふべきに山猿叫んで山月落と作りなせる物すごき巴峡の猿によせて峯の月と申したるなり。沽衣聲と作りし詩の余情ともいふべくや。此の句(芭蕉が)感心のよしにて塩鯛の歯むき出したるの冷しくや思ひよせられけん。衰零の形にたとへなして、老の果、年の暮とも置かれぬべき五文字を、魚の店と置かれたるに活語の妙をしれり。其幽深玄遠に達せる所、余はなぞらへてしるべし。
 此の句は猿の歯と申せしに合せられたるにはあらず。只かたはらに侍る人海士の歯の白きはいかに猫の歯冷しくてなどと似て似ぬ思ひよりの発句には成まじき事。ともに作意をかすめ侍るゆへ予が句先にして師の句弟を分(わかつ)。其換骨をさとし侍る師説もさのごとく聞こえ侍るゆへ自評を用ひずして句法をのぶ。此の後反転して猫の歯白し蜑の歯いやしなどと侍るとも発句の一躰備へたらん人には等類の難ゆめゆめあるべからず。一句の骨を得て甘き味を好まず意味風雅ともに皆をのれが錬磨なれば発句一つのぬしにならん人は尤も兄弟のわかちをしるべし。
※換骨:古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる。
●土芳『三冊子』 芭蕉の評
※原文:塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚
此の句、師いはく。思ひ出すと句に成るもの自賛にたらずと也。鎌倉を生きて出けん初鰹 といふこそ、心の骨折、人のしらぬ所也。又いはく、猿の歯白し峯の月 といふは其角也。塩鯛の歯ぐきは我老吟也。下を魚の棚とただ言いたるも自句也といへり。
※解釈:この句について師(芭蕉)は、その情景を思い出すと自然に句になるような作品は苦心したのではないから自賛に値しないと言った。鎌倉を生きて出けん初鰹(葛の松原)という句を詠んだときの自分の心中の苦心はいかばかりであったことか、それは人の知らないところだ。聲かれて猿の歯白し峯の月 という句は其角作だ(が同様であろう)。塩鯛の歯ぐきの句は自分の老吟である。下を魚の棚とただ平凡に言った点も(鎌倉の句や其角の句とは違い)自分流の句であると言った。
●支考『十論為弁抄』 支考の評
※原文:されば其角の猿の歯は、例の詩をたづね、歌をさがして、枯れてといふ字に断腸の情をつくし、峯の月に寂寞の姿を写し、何やらかやらあつめぬれば、人をおどろかす発句となれり。祖翁の塩鯛は、塩鯛のみにして、俳諧する人もせぬ人も女子も童部(わらんべ)もいふべけれど、たとひ十知の上手とても及ばぬ所は下の五文字なり。ここに初心と名人との、口にいふ所はおなじなれど。意にしる所の千里なるを信ずべし。
 今いふ其角も、我輩も、たとへ塩鯛の歯ぐきを案ずるとも魚の棚を行き過ぎて、塩鯛のさびに木具の香をよせ、梅の花の風情をむすびて、甚深微妙の嫁入りをたくむべし。祖翁は、其日、其時に神々の荒の吹つくしてさざゐも見えず、干あがりたる魚の棚のさびしさをいへり。誠に其の頃の作者達の手づまに金玉をならす中より、童部もすべき魚の棚をいひて、夏爐冬扇のさびをたのしめるは、優遊自然の道人にして、一道建立の元祖ならざらんや。
※参考文献
(1) 『句兄弟』in 珍書百種. 第1巻 / 宮崎三昧編,春陽堂, 明27.8
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
(2)『三冊子』、連歌論集俳論集 日本古典文学大系 岩波書店
(3)『三冊子』、日本名著全集 芭蕉全集

(謎解き・五十二)

※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

一番
   兄 貞室
 これはこれはとばかり花の吉野山
   弟 晋子(其角)
 これはこれはとばかり散るも桜哉

※其角の『句兄弟』は、この貞室との発句合わせで始まる。発句合わせは句合わせともいい、発句(まれには付句)を左右に番(つが)え、優劣を競うもの。判者が勝負を定め、判詞を添えるのが普通の形態である。元禄七年(一六九四)に刊行された、其角の『句兄弟』は、「上巻が三十九番の発句合(わせ)、判詞、其角。中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める。下巻は元禄七年秋から冬にかけて東海道・畿内の旅をした其角・岩翁・亀翁らの紀行句、諸家発句を健・新・清など六格に分類したものを収める」(『俳文学大辞典』)。安原貞室は、慶長一五(一六一〇)~寛文一三(一六七三)。京都の生まれ。初め松江重頼に親炙したが、のちに松永貞徳直門の正統派と見なされた。芭蕉らの蕉風俳人に高く買われたことで特に著名である。芭蕉の『笈の小文』の吉野山の条に、「かの貞室が『是はこれは』と打ちなぐりたるに、われはいはん言葉もなくて、いたづらに口をとぢたる、いと口をし」と記し、また俳諧七部集の『阿羅野』の巻頭に据えた句こそ、この掲出の貞室の句である。其角が、この貞室の句を、この『句兄弟』の発句合わせの冒頭に持ってきたのも、これらの芭蕉との関連なども十分に考慮してのものであろう。この『句兄弟』が刊行された元禄七年の十一月十二日に芭蕉は亡くなるが、其角は、その中巻に、芭蕉の「東順伝」を収載するなど、芭蕉がこの著を閲覧することを前提としての上梓であり、其角一流の細かい配慮も随所に見られるのである。そして、この『句兄弟』に収載されているものは、句相互の優劣を競うというよりも、其角の「本句取り」(意識的に先人の句の用語・語句などを取り入れて作ること)と思われる句(あるいは句相互の制作年次などに基づいて)などを、発句合わせの形態で記述しているようにも思えるのである。そして、この「本句取り」(本歌取り・本説取り)の芭蕉の句も、その『笈の小文』に見られるのである。それは、芭蕉が伊勢神宮に参詣した際の「何の木の花とは知らず匂ひかな」の句で、これは『西行法師家集』の「何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるる」の「本歌取り」として夙に知られているものなのである。ここらへんのところを、この掲出の貞室の句や、この貞室の句の芭蕉の感慨の文とあわせ、本句取りの見本のような芭蕉の句が見られる『笈の小文』を背景にしての、この其角編の『句兄弟』そのものが、其角らの蕉門の師である芭蕉の基本的な姿勢を踏まえてのものであるということを、其角自身も、そして、この『句兄弟』に接する者の大方が十分に察知させるだけの配慮を、其角は十分に意識しているということを垣間見る思いがするのである。と同時に、掲出の二句の番の句(兄・弟)の判詞のような其角の記述も、判詞というよりも、其角の掲出の句(弟)が貞室の掲出の句(兄)をどのように、「本句取り」をしたのかの、すなわち、どのように、「換骨」(古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること)をしたのかの、その解説文の趣なのである。そういう観点から、この其角の判詞を見ていくと、この貞室の句が、「これはこれはとばかり」と中七の中間で句切れている異体さをそっくり踏襲して、それに続く「花の吉野山」を、「ちるもと桜のうへにうつしたる本 逃句なるべし」と、連句でいう「逃句・遁句」(前句を軽く受け、あらたな展開をうながす付け方)的な手法で、その創作工房の内幕を披露しているということなのであろう。それよりもなによりも、この判詞の後半の部分は、芭蕉に高く評価されたとされている、先にふれた(第四十五)自作の、「明星や桜定めぬ山かづら」の自賛の記述であり、ここらへんのところも、この『句兄弟』が、芭蕉の目に触れることを十分に意識したものであろう。
※※このように、この其角の『句兄弟』は、芭蕉の最晩年にその刊行を企画されたものではあるが、師の芭蕉がここに記述されている全てについて十分に目を通すことをあらかじめ前提にしてのものと理解され(また、そういうことを前提としての編纂者・其角の細かい配慮が随所に見られ)、その発句合わせの最後の三十九番で、「兄・聲かれて猿の歯白し峯の月(晋子)」、「弟・塩鯛の歯茎も寒し魚の店(芭蕉)」とし、その判詞で、「予が句先にして師の句弟を分(わかつ)。其換骨をさとし侍る」などの記述も、師・芭蕉に嫌悪感を抱かせるようなものではなかったであろう。まして、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎)の「これより、蕉門は分裂に分裂を重ねることになる。その引きがねをひいたのは、まぎれもなく其角である。其角は芭蕉の『軽み』など屁とも思っていなかった。かくして、芭蕉没後、蕉門は四分五裂をくりかえすことになる」ということについて、これをストレートに受容することだけは躊躇せざるを得ないのである。また、元禄五年十二月三日付け意専宛ての芭蕉書簡に、其角の掲出の句の後に、「愚句」として、「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚」を記しており、創作年次からしても、芭蕉は、其角の掲出の句を意識して作句していることは事実であろう。これらのことから、其角の『句兄弟』の第三十九番の、「兄(其角)・弟(芭蕉)」という配列も、其角は、決して、師の芭蕉を蔑ろにしていないことだけはいえるであろう(ここらへんのところは、後にその第三十九番のところで再度触れることにする)。

※安原貞室のネット(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)の記事は次のとおり。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%8E%9F%E8%B2%9E%E5%AE%A4

安原貞室(やすはらていしつ:1610年(慶長15年) - 1673年3月25日(延宝元年2月7日))は、江戸時代前期の俳人で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商。
1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事して俳諧を学び、42歳で点業を許された。貞門派では松江重頼と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「毛吹草」を貞室が「氷室守」で論破している。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている。句集は「玉海集」。


(謎解き・五十三)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二番
   兄 拾穂軒
 地主からは木の間の花の都かな
   弟 (其角)
 京中へ地主のさくら飛(ぶ)胡蝶

この「拾穂軒」とは何者なのであろうか。『俳文学大辞典』(角川書店)には、「拾穂軒」の項目はない。『総合芭蕉辞典』(雄山閣)には、この項目こそはないが、「季吟」の解説文の中に、「北村氏。通称、久助。別号を拾穂軒(しゅうすいけん)・湖月亭などと称した」とあり、この掲出の句の作者、拾穂軒は、芭蕉の師とされている、北村季吟その人ということになる(ちなみに、『俳文学大辞典』の「北村季吟」の解説には「拾穂」の別号は見られる)。また、ネット(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)では、次のように紹介され、別号として拾穂軒の名が記されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%91%E5%AD%A3%E5%90%9F

北村 季吟(きたむら きぎん、1625年1月19日(寛永元年12月11日) - 1705年8月4日(宝永2年6月15日))は、江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。名は静厚、通称は久助、別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭。(経歴) 出身は近江国野洲郡北村。祖父の宗竜、父の宗円を継いで医学を修めた。はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳について俳諧を学び、「山之井」の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれた。飛鳥井雅章・清水谷実業(しみずだにさねなり)に和歌、歌学を学んだことで、「土佐日記抄」、「伊勢物語拾穂抄」、「源氏物語湖月抄」などの注釈書をあらわし、1689年(元禄2年)には歌学方として幕府に仕えた。以後、北村家が幕府歌学方を世襲した。俳諧は貞門派の域を出なかったが、「新続犬筑波集」、「続連珠」、「季吟十会集」の撰集、式目書「埋木(うもれぎ)」、句集「いなご」は特筆される。山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出している。

さて、其角は、季吟の掲出句について、「老師名高き句也」と記している。この「老師」とは「師の芭蕉の師」というようなことであろう。其角の師の芭蕉とこの季吟との関係については、一般には、「芭蕉が一時期季吟を師としたことは確実である。しかし、その時期や二人の関係がどの程度のものであったかは不明である。現存の資料からは密接な師弟関係はうかがえない。少なくとも、芭蕉の俳諧は季吟の影響と無関係に成立したといってもよかろう」(『総合芭蕉事典』)というようなことである。しかし、芭蕉の筆頭の弟子の其角が、その『句兄弟』の発句合わせの二番目に、この季吟を取り上げ、そして、「老師」という名を冠している事実は、季吟と芭蕉との師弟関係を、「現存の資料からは密接な師弟関係はうかがえない」というものを、もっと一歩進めて積極的なものと位置づけても良いのではなかろうか。次に、「名高き句也」と、「地主からは木の間の花の都かな」を記述しているが、この句は、延宝三年八月(『花千句』)のもので(『俳句講座二』所収「北村季吟(野村貴次稿)」)、この延宝三年(一六七五)の前年あたりに、其角は、「芭蕉門に入る(『元禄宝永珍話』)。この前後に、嵐雪・嵐蘭らも入門」(今泉・前掲書)と、俳人・其角のスタートの年とも重なってくるのである。こういう芭蕉や其角の年譜から見ていくと、季吟とこの掲出句などは、芭蕉・其角、そして、蕉門の面々といろいろとクロスしているという趣がする。この掲出句については、スタンダードな参考書の『評釈江戸文学叢書 俳諧名作集(潁原退蔵著)』(講談社)に取り上げられている(また、拾穂軒の別号も記載も見られる)。これによると、「花盛りの頃地主権現(ぢしゅごんげん)の高みから、花の都を見下ろして景色である。それを謡曲の文によって、木の間の花から花の都へと続けたのが句の面白い所。これは『花千句』の巻頭の発句で、正立は、『残る雪かと見ゆる白壁』という脇をつけて居る」との解説が施されている。また、頭注には、「地主 ヂシュ 京都東山清水寺の鎮守の神なる地主権現のこと。謡曲田村に『あらあら面白の地主の花の景色やな。桜の木の間に漏る月の』とある。これらの解説から、其角の「反転して市中の蝶を清水の落花と見なしたるなり」などの記述の背景が明らかととなってくる。それにしても、この掲出の其角の句(原文には其角の名は空白となっている)、「京中へ地主のさくら飛(ぶ)胡蝶」は、何とも華麗で、スケールが大きく、いかにも、洒落風俳諧の頭領たる其角らしい句であることか。この発句合わせを見て、つくづくと、其角の換骨の真骨頂を見る思いがする。と同時に、芭蕉も其角も、こういう貞門俳諧の縁語や掛詞などの言葉の技巧を駆使したものからスタートとし、そして、後の、芭蕉の時代になっても、このような貞門俳諧の流れというのは、その本流にあったということは付記しておく必要があろう。さらには、こういう言葉の技巧を最大限に駆使した俳人こそ、其角その人であったということもいえるのかも知れない。

(謎解き・五十四)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三番
  兄 素堂
 又これより青葉一見となりにけり
   弟 (其角)
 亦是より木屋一見のつゝし(じ)哉

『句兄弟』の三番手は山口素堂である。素堂のネット(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)の記事は次のとおりである。

※山口素堂(やまぐち そどう、寛永19年(1642年) - 享保元年8月15日(1716年9月30日))は、江戸時代前期の俳人・治水家。本名は信章。通称勘兵衛。
[経歴] 生れは甲斐国で、家業は甲府魚町の酒造家。20歳頃で家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て漢学を林鵞峰に学んだ。俳諧は1668年(寛文8年)に刊行された「伊勢踊」に句が入集しているのが初見。1674年(延宝2年)京都で北村季吟と会吟し、翌1675年(延宝3年)江戸で初めて松尾芭蕉と一座し以後互いに親しく交流した。晩年には「とくとくの句合」を撰している。また、治水にも優れ、1696年(元禄9年)には甲府代官櫻井政能に濁川の治水について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いている。

素堂はいわずと知れた、芭蕉と同じく季吟門で、芭蕉より二歳年長の、芭蕉の終世の信頼を置いていた同僚ともいうべき俳人であった。其角(十四歳)が芭蕉門に入門した延宝二年(一六七四)には、三十三歳で、季吟らとの歓迎百韻を今に残している。終始、蕉門にあっては、芭蕉の客分として別格扱いであった。其角とも親しく、其角が二十三歳のときに刊行した『虚栗』では、漢学に強い素堂は、そのバックボーンのような役割を果たしたともいえるであろう。貞享四年(一六八七)の其角の『続虚栗』では「序」を草し、この年には帰郷(『笈の小文』)する芭蕉に餞別の句詩(句餞別)を贈っている。其角の『句兄弟』は、芭蕉の亡くなる元禄七年に刊行されるのだが、この年は、素堂は妻の喪中で、芭蕉が亡くなったときには、大阪に下向せず、江戸で、湖春・露沾・杉風・素龍・桃隣・萍水・岱水・野坡・利牛・利合らと芭蕉追善歌仙を興行している(ここに登場する湖春は、この『句兄弟』の二番手登場する芭蕉の師の季吟の長男である)。また、其角のこの『句兄弟』の冒頭を飾る、「これはこれはとばかり花の吉野山」(貞室)の句が入集されている『阿羅野』には、素堂の傑作句も多く入集されている。この『阿羅野』を編集したのは、尾張蕉門の筆頭俳人であった作為の俳人、荷兮その人であり、ここらへんのところにも、荷兮贔屓の其角のおぼろな影が透いて見えてくる。いずれにしろ、この『句兄弟』の三番手に素堂を持ってきたことは、其角の師の芭蕉への配慮が背景にあることは、これまた透いて見えてくるのである。素堂の『阿羅野』に入集されている句は次のとおりである。

○目には青葉山ほとゝぎす初がつほ (素堂『阿羅野』)
○池に鵞なし假名書習ふ柳陰 (素堂『阿羅野』)
○綿の花たまたま蘭に似たるかな (素堂『阿羅野』)
○名もしらぬ小草花咲野菊哉 (素堂『阿羅野』)
○唐土に富士あらばけふの月もみよ (素堂『阿羅野』)
○麥をわすれ華におぼれぬ鴈ならし (素堂『阿羅野』)

なお、芭蕉と素堂との交流略年譜は次のアドレスのものに詳しい。

http://homepage3.nifty.com/hakushu/sodou-bashou-kouryuu.htm

さて、掲出の素堂の句であるが、素堂の『とくとくの句合』には、次のとおりで掲載されている。

http://homepage3.nifty.com/hakushu/sodou-tokutoku.htm

※其 五   初  夏
左  土龍躓竹子
右  洛陽の花終りける頃
    亦是より若葉一見と成にけり
左、躓の字よろし。
右は其角が句兄弟に見えたり。下の五文字異風ながら不為不可、可為持。

この「青葉一見」は、謡曲の「一見せばやと存じ候」、「亦これより」なども謡曲の口調を背景にしてのものであろう。また、上記の素堂の『とくとくの句合』により、「洛陽の花終りける頃」の感興の一句ということで、素堂自身は「下の五文字異風ながら不為不可、可為持」に対して、其角は、華麗な「つつじ」と「哉留め」で「下五字の云かへにて強弱の躰を分つものなり」とは、いかにも其角らしい思いがする。この素堂の『とくとくの句合』は、芭蕉も其角も没した後の、素堂の最晩年(七十歳の頃)に編まれたもので、素堂没後の享保二十年(一七三五)に刊行されている。これらの其角の『句兄弟』、そして、素堂の『とくとくの句合』を見ていくと、其角が、延宝八年(一六八〇)に、桃青(芭蕉)判詞を得て、杉風編の『常磐屋之句合』と合わせて『俳諧合』として刊行した『田舎句合』などが想起されてくる。この其角の初句合わせともいうべき『田舎句合』は、其角が自作の発句五十句を、「ねりまの農夫」と「かさいの野人」の名で、左右二十五番に合わせ、各番ごとに芭蕉による勝負の判定と判詞を添えたもので、この『田舎句合』で、芭蕉は「予先年吟(季吟)先生にまみえて此事を尋ね侍れば」などの文面があり、当時の芭蕉とそのの師の季吟との関係などが伺えるなど、当時の芭蕉の俳諧観や其角観などが如実に出ている画期的なものとされている(『総合芭蕉事典』)。そもそも、芭蕉が亡くなる年に刊行された、この『句兄弟』は、その其角の処女句合わせの『田舎句合』と、其角の句合わせの「姉妹編」ともいうべき、それらを念頭に置いたことは想像に難くない。そして、芭蕉・其角亡き後、そのお二人の師弟関係を一番よく熟知している素堂が、自分の俳諧関連の総決算として、『とくとくの句合』を、その最晩年に編んだということは、何かしら因縁めいた趣すらしてくるのである。ともあれ、其角が、その『句兄弟』の三番手に、師の最も敬愛して止まなかった素堂を持ってきたということも、これまた、其角の師の芭蕉への配慮だったという思いを深くするのである。


(謎解き・五十五)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

四番
   兄 粛山
 祐成か袖引(き)のばせむら千鳥
   弟 (其角)
 むらちどり其(の)夜ハ寒し虎が許

この「祐成か袖引のばせむら千鳥」の作者の「粛山」とは何者か。『俳文学大辞典』にも『総合芭蕉事典』でも目にすることはできない。この其角の『句兄弟』の、「上巻が三十九番の発句合(わせ)、判詞、其角。中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める。下巻は元禄七年秋から冬にかけて東海道・畿内の旅をした其角・岩翁・亀翁らの紀行句、諸家発句を健・新・清など六格に分類したものを収める」(『俳文学大辞典』)の、「中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める」に出てくる、この「粛山」その人なのであろう。『句兄弟』の其角の判詞には、「さすか(が)に高名の士なりけれハ(ば)」とあり、この粛山とは、先に(第二十二の四十二)触れた松平隠岐守の重臣・久松粛山のことであろう。その先に触れたところを下記に再掲しておきたい。

再掲(謎解き・二十二)
○ 御秘蔵に墨をすらせて梅見哉 (其角『五元集』)
四十二 『五元集』の冒頭の句である。「四十の賀し給へる家にて」の前書きがある。この四十歳の祝宴の家は、松平隠岐守の重臣・久松粛山の邸宅といわれている。「御秘蔵」は殿様御寵愛の御小姓であろうか。その御小姓に墨をすらせて悠然と梅見をしている光景である。こういう句から、しばしば、其角は、幇間俳人などとの風評の中にある。しかし、実態は、一俳諧師の其角が大名クラスの貴人と対等に渡り合って、むしろ、その御寵愛の御小姓を顎で使っているような、反骨・其角の真骨頂の句と解すべきなのであろう。

この久松粛山について、下記のアドレスで紹介されている。「愛媛の偉人・賢人」の紹介のもので、後に、正岡子規・高浜虚子・河東碧梧桐と続く「(愛媛)俳句王国」が今に続いているが、その元祖のような「高名の士」とももいえるであろう。

http://joho.ehime-iinet.or.jp/syogai/jinbutu/html/031.htm

さて、掲出の粛山と其角との二句、これは『曽我物語』で名高い「曽我兄弟の仇討ち」の「祐成」と「虎が雨」の句であろう。「虎が雨」の季語の解説には、「陰暦五月二十八日は曽我兄弟が討たれた日で、この日降る雨は、十郎祐成の愛人、大礒の遊女虎御前の涙が雨になったという言い伝えがある。俗説から出た古風な季題だが、それなりに面白く、いまも俳句に詠まれることが多い。なお、奥州南部地方では、この日三粒でも雨が降ると、曽我の雨といって、曽我五郎が苗代を踏み荒らすといい、それを防ぐために苗じるしに竹を立てる」(『日本大歳時記』)とある。例句として、蕉門俳人の路通や小林一茶のパトロンの一人でもあった成美の句が掲載されている。

○ 草紙見て涙たらすや虎が雨  (路通)
○ 夜の音は恨むに似たり虎が雨 (成美)

この一茶のパトロンの夏目成美なども江戸蔵前の札差で豪商であるが、其角を取り巻くパトロン群は、この粛山始め紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門と実に豪華絢爛たるものである(これらについては、下記のアドレス(第三十二)などで触れた)。

http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_23.html

それにしても、粛山の句(兄)を「本句取り」にしての其角の句(弟)は、その判詞に、「兄の句に寒しといふ字を含みて聞へ侍れハ(ば)こなたの句弟なるへ(べ)し」にあるが、句の言外の「寒し」の意を感じとっての、いわゆる、連句の「匂付け」のごときものの趣がする。また、この四番手に、久松粛山を持ってきたのも、いかにも、気配りの其角らしい思いがする。なお、『曽我物語』関連のものは、下記のアドレスに詳しい。

曽我兄弟の仇討ち

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E4%BB%87%E8%A8%8E%E3%81%A1#.E9.96.A2.E9.80.A3.E9.A0.85.E7.9B.AE

曽我祐成

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E7%A5%90%E6%88%90

虎御前

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%BE%A1%E5%89%8D

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