日曜日, 6月 25, 2023

第六 潮のおと(6-1~6-7)

6-1 鳥さしが手際見せけり梅林

6-2 から傘に柳を分(わけ)るいほり哉

6-3 銭湯も浅香の沼の六日かな

6-4 鉞(まさかり)に氷を砕くあつさかな

6-5 物申()に返事の遅き暑()

6-6 とび移る蝉の羽赤きあつさ哉

6-7 御袚して各々包む袴かな


6-1 鳥さしが手際見せけり梅林

 http://yahantei.blogspot.com/2023/02/6-1.html

 (再掲)

 季語=梅林(うめばやし・ばいりん)=梅(初春)の林

 「句意」は、「『鳥刺し』が、この『梅林』で、見事な『手際』を見せている。折から、声曲『鳥さし』の『手際』よい調べが聞こえくる。『さいてくりょ さいてくりょ これ物にかんまえて まっこれ物にかんまえて ちょっとさいてくりょうか …… 』と、これまた、見事な『手際』であることよ。」

 この「第六 潮のおと」は、文化二年(一八〇五)、抱一、四十五歳、「浅草寺の弁天池に転居」の頃に、スタートしており(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、この前年の文化元年(一八〇四)に、抱一と親交の深い「佐原菊塢(さはらきくう)」が「向島百花園(別称「新梅屋敷」)」を開園している。その梅林での一句と解するのも一興であろう。

 (追記) 「潮(しお)の音(おと)」の由来

 《 浅草寺周辺(浅草寺弁天池付近)に居た頃の句襲名は「潮(しお)の音(おと)。浅草寺の祀る観音菩薩像にちなみ、「法華経観世音菩薩普門品偈(ふもんぼんげ)」の「妙音観世音、梵音(ぼんおん)海潮音(かいちょうおん)」を出典とする。 》(『酒井抱一(玉蟲敏子著・山川出版社))

 

「東京名所四十八景 浅草寺境内弁天山」(昇斎一景筆/蔦屋吉版/竪大判錦絵・画帖1冊(目次共49図)/40.6×28.7 /慶応大学・ボン浮世絵コレクション)

https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/bon-ukiyoe/016/018

 

6-2 から傘に柳を分(わけ)るいほり哉

   季語は、「柳」(晩春)。「柳といえば枝垂柳。春、柔らかい葉が煙るように美しいので春の季語とされる。街路や庭園、水辺などに植えられ、古くから、霊力のある木とされてきた。枝垂柳のほか、枝が上に向かって伸びる川柳などもある。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな  芭蕉「炭俵」

 抱一の句は、この芭蕉の「傘と柳」との本句取りの句のようである。この芭蕉の句は、元禄七年(一六九四)、濁子・野坡・曾良らと八吟歌仙『傘に(雨中)』の、即興的な発句である。

「傘に(歌仙)」表六句(抜粋)

発句 傘におし分見たる柳かな      芭蕉

脇  わか草青む塀の筑(つき)さし   濁子

第三 おぼろ月いまだ巨燵にすくみゐて  涼葉

四  使の者に礼いふてやる       野坡

五  せんたくをしてより裄(ゆき)のつまりけり  利牛

六  誉られてまた出す吸もの      宗波

  この歌仙が巻かれた元禄七年(一六九四)は、芭蕉が五十一歳時で、この年の十月十二日に、芭蕉は大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で客死する。この脇句の「中川濁子(じょょくし)(生年不詳、大垣藩江戸詰めの武士。絵の才能が優れてプロの域にあったといわれる。その腕で『野ざらし紀行画巻』を描いた。)で、この歌仙は、芭蕉の、その最期の旅路の留別吟という雰囲気で無くもない。

 この濁子の脇句の「塀の筑(つき)さし」は、「塀の中途で造作を止めている」という意で、芭蕉の発句と一体となると、「傘におし分見たる柳かな(草庵の入り口の枝垂れ柳を唐傘を押し分けて見る)」と、「わか草青む塀の筑(つき)さし(その草庵の塀は未完成のままに柳が青めいて茂っている)」というような光景であろう。

 そして、この光景は、抱一が、文化二年(一八〇五)、四十五歳時に浅草寺の弁天池に転居した、その詫び住まいを連想させる。それは、まさしく、抱一が出家して、市井を彷徨っていた、隠遁していた、されど、文人的な生き方を見出していたイメージと重なってくる。

「句意」は、「折からの雨中の柳が、我が詫び住まいを覆い、それを唐傘で押し分けて出入りする、何ともうら淋しい光景であることよ。」

  

6-3 銭湯も浅香の沼の六日かな

  季語は、この掲出の一句だけでは、「六日」(新年)。「正月六日のこと。節日である七日正月の前日で、この日に年をとりなおすといって、麦飯をたいて、赤イワシを食べる風習がある。」(「きごさい歳時記」)ということになるが、前句の「6-2 から傘に柳を分(わけ)るいほり哉」の次に搭載されていることになると、この「浅香の沼の六日」の「浅香の沼」に仕掛けを施しているようである。

 この句の「参考句」(例句)としては、芭蕉の『奥の細道』の次の一句を挙げたい。

 文月や六日も常の夜には似ず  芭蕉「奥の細道」

  この芭蕉の句の季語は、「文月(旧暦七月)」で「初秋」。即ち、「七月七日」の「七夕」の前日(「六日)」の句ということになる。抱一の掲出の「銭湯も浅香の沼の六日かな」、この「浅香の沼の六日」の仕掛けは、この芭蕉の「文月の六日」の仕掛けと同じ趣向ということになる。

 そして、この「浅香の沼の六日」の典拠は、『奥の細道』の「元禄六年(一六九三)四月二十九日・五月一日日・二日」の「安積山・信夫もじ摺り」の条ということになる。

 ≪ 等窮が宅を出て五里計*、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。

 あくれば、しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや*

  早苗とる手もとや昔しのぶ摺 

( 四月二十九日。快晴。須賀川を出発。まず、南下して石川郡玉川村の石河の滝を見物。あちこち立ち寄りながら夕方、郡山に到着してここで一泊。宿はむさ苦しかったようである。

 五月月一日。快晴。日の出とともに宿を出て、郡山市日和田町で馬を求め、安積山・安積沼を見ながら、二本松へ。黒塚の鬼を埋めたという杉の木立を眺めながら、日の高いうちに福島に入る。福島に一泊。ここでは、宿はきれいだった。

 五月月二日、快晴。福島を出発。阿武隈川を岡部の里にて船で渡り、信夫文字摺石を見物。源融<みなもとのとおる>と土地の長者の娘虎女との悲恋伝説のある「虎が清水」などを見てから、月の輪の渡しで再度阿武隈川を渡って瀬の上に出た。ここより佐藤兄弟の旧跡へと辿るのである。)≫(「芭蕉データベース」)

  そして、この「あさかのぬま」(「安積沼・浅香沼・朝香沼」)は、≪福島県郡山市、安積山のふもとにあったといわれる沼。ショウブの名所。歌枕。※古今(905‐914)恋四・六七七「みちのくのあさかのぬまの花かつみかつみる人に恋ひやわたらん〈よみ人しらず〉」≫(「精選版 日本国語大辞典」)ということになる。

  これらを踏まえると、抱一の掲出の句の季語は、「浅香の沼=あさかのぬまの花かつみ=菖蒲=菖蒲(尚武)の節句=端午の節句(午=五が重なる五月五日)」のの翌日の、「立夏(五月六日)」の日で、「夏」(初夏)の句ということになる。

 そして、この句には、もう一つ、「銭湯も浅香の沼の六日かな」と、「銭湯(お風呂に入る)も、六日(六日ぶり)」と、即ち、芭蕉の句の「文月や六日も常の夜には似ず」の根底に流れている「不易流行」の「不易」(「永遠に変わることのない不易そのの本質」)の句を、「流行」(「新しみを求めてたえず変化する流行性」=「俳諧・諧謔・滑稽・洒落・臨機応変・ユーモア」)の句に仕立てているということになる。

「句意」は、「芭蕉翁の『奥の細道』の、『安積山・信夫もじ摺り』」の条を見ながら、その典拠となっている『みちのくのあさかのぬまの花かつみかつみる人に恋ひやわたらん(古今集)』の幻の花『花かつみ』(姫菖蒲)ならず、これまた、芭蕉翁の『文月や六日も常の夜には似ず』の、その『菖蒲の節句・端午の節句の五月五日』」の翌日の「立夏(五月六日)」の日を反芻しながら、どっぷりと『六日ぶり』の銭湯の湯に浸かっている。」

「湯屋(銭湯)=戸棚風呂」

http://kamikuzuann.web.fc2.com/zakkiire/yuyanituite.html

≪(湯屋=銭湯)

 江戸では武家屋敷以外で風呂のある家は稀で、住民は湯屋(銭湯)通いが当たり前でした。旅籠屋にも風呂はなく、客を湯屋へ行かせていました。このため各町内に必ず一軒は湯屋がありました。これは江戸では水が貴重で、薪代も高く、なにより火事を恐れたためで、風の強い日には湯屋も店を休むほど火の扱いには気を付けていました。

(戸棚風呂)

江戸時代初期の銭湯は戸棚風呂という蒸し風呂でした。これは湯気を逃がさないよう浴槽を戸棚で仕切り、体を蒸気で蒸し、洗い場に出て垢を落とすというものです。浴槽と洗い場の間は引戸を使って出入りするのですが、開ける度に湯気が逃げ湯が冷めるので人口増加に伴い各湯屋は引戸をやめ、湯が冷めにくいように入り口を低くした柘榴口を設置するようになりました。さらに江戸市中に水道網が整備され、上方から掘り抜き井戸の技術が伝わると、蒸し風呂から湯に浸かる形式へと変化していきます。≫

 

6-4 鉞(まさかり)に氷を砕くあつさかな

 「季語は、「あつさ」の「暑し」(三夏)で、それを「鉞(まさかり)に氷(晩冬の季語)を砕く」でも足りないほどの「酷暑」であると、何とも「意表を突く大袈裟な形容詞」をもって一句に仕立てている。そして、「鉞(まさかり)」と来ると、「鉞(まさかり)担いだ金太郎」(「まさかり(大斧)を担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデル」)の「坂田金時(坂田公時)」(頼光四天王の一人)の幼名「金太郎」(「金太郎伝説」)と言うことになる。

 

「幼時を夢見る坂田金時(部分)」鳥居清長筆/江戸時代・18世紀/東京国立博物館蔵

https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6655

 「句意」は、「どうにも暑くて堪らない。『鉞(まさかり)金太郎』の『鉞(まさかり)』で、貴重な『夏氷』を砕き『酷暑退治』をしたいが、それでも、この『酷暑』には耐えられないであろう。」

 

6-5 物申()に返事の遅き暑()

 

「幼時を夢見る坂田金時」鳥居清長筆/江戸時代・18世紀/東京国立博物館蔵

https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-1195?locale=ja

≪ 「金」と大きく書かれた着物を片肌脱ぎしている坂田金時(さかたのきんとき)からふき出しが出ています。ふき出しに描かれているのは金時が見ている夢、森で熊と闘う幼い金時は昔話の金太郎です。金時は歴史上に実在した武将(ぶしょう)で、金太郎のモデルとなった人物でもあります。金時がもたれ掛かっている酒樽(さかだる)にはお正月の飾りがついており、足元にある宝船の絵は良い初夢を見るために用いられることから、金時が見ている夢は初夢なのでしょう。初夢には、なりたい姿が出てくると言われています。丈夫で元気な金太郎には子どもの健やかな成長を願う親の思い、武将になった金時には出世や成功への願いが表されています。見る人が様々な願いを抱くことができる作品です。酒樽に書かれている「馬喰町(ばくろちょう)西村版(にしむらはん)」はこの作品の版元(はんもと)、今でいう出版社の名です。日本橋馬喰町にあった西村屋はこのように趣向を凝らした作品を多く制作しました。≫

  季語は「暑さ」=「暑し」(三夏)。「句意」は、「この暑さで、この草庵の主は暑気にやられたようで、問い掛けての返答も、何時もの「ツーといえばカー」という感じて、どうにも、朦朧状態のようである。」

 

6-6 とび移る蝉の羽赤きあつさ哉

 

「准源氏教訓図会・空蝉(ナゾラエゲンジキョウクンズエ・ウツセミ)」/作者名・歌川国芳/落款等備考・朝桜楼國芳画/制作者備考・丸甚/時代区分・天保14年、弘化14名主障印より/西暦・1843-1847/形態・大判、木版浮世絵、錦絵/公文教育研究会蔵」 

https://www.kumon-ukiyoe.jp/index.php?main_page=product_info&cPath=8_17&products_id=1116

≪ 源氏物語「空蝉」になぞらえた教訓画であり、殻を脱ぎすて、短い夏を樹上で鳴きくらすゆえに、捕えられることも多い蝉をテーマにしている。源氏物語の空蝉は、伊予介の妻で、一度は源氏に身を許すがその後は自制、ある夜忍んできた源氏に、小袿一枚を寝所に残して去る。こちらは、蝉の殻のように小袿を残すが、そっと静かに消え去り、悩みながらも源氏をこばみ続ける。≫

 「季語」は、主たる季語が「あつさ」の「暑し」(三夏)、従たる季語が「蝉」(晩夏)の「季重なり」(二つ以上の季語がある)の句。「句意」は、「蝉が、一瞬、赤き翅(はね)を広げて、別な木に飛び移る。蝉の鳴き声も、そして、その、垣間見せた赤き翅の赤さも、この酷暑を象徴しているようだ。」

 

6-7 御袚して各々包む袴かな

 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「季語」は「御袚・御禊(みそぎ)」(晩夏)。「陰暦六月晦日、神社で行われる神事。人の罪や穢れを祓う。夏の疫病などの災いを逃れ、無事を祈願する。宮中では古くから六月と十二月に行ったが、現在では、六月三十日に行うことが多い。茅の輪潜り、形代を流したりする。」

(「きごさい歳時記」)

 (例句)

吹く風の中を魚飛ぶ御祓かな   芭蕉「真蹟画賛」

沢潟による傾城や御祓川     蕪村「落日庵句集」

泪して命うれしき御祓かな    樗良「樗良発句集」

川ぞひを戻るもよしや御祓の夜  白雄「白雄句集」

夕虹も消えて御祓の流れかな   闌更「三傑集」

雨雲の烏帽子に動く御祓かな   正岡子規「寒山落木」

 「句意」は、「禊祓(みそぎはらえ)の水垢離(みずごり)で身体を浄める者が、各々、自分の袴(はかま)をたたんで、身繕いをしている。」

 (再掲)

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-06-23

尾形光琳・乾山の「禊図」周辺

 

A Shinto ceremony   禊図屏風 (フリーア美術館蔵)

Type  Screen (two-panel) 二曲一隻

Maker(s) Artist: Attributed to Ogata Kenzan (1663-1743) 尾形乾山

Historical period(s) Edo period, 1615-1868

Medium  Color on paper  紙本着色

Dimension(s) H x W: 173.5 x 177 cm (68 5/16 x 69 11/16 in)

 (メモ)

 一 乾山の作品としては、二曲一隻の屏風画として大作である。落款はないが、右の端に下記の朱印(「深省」)が押されていて、乾山作というのが分かる。

 

二 原題は「A Shinto ceremony」(神道儀式)だが、下記の「禊図」(光琳筆)を念頭に置いたもので、「禊図屏風」として置きたい。 

 

尾形光琳筆「禊図」 一幅 紙本着色 畠山記念館蔵

九七・〇×四二・六㎝

【『伊勢物語』六十五段禊を絵画化したもの。人物のポーズと配置は、宗達も利用した『異本伊勢物語絵巻』(鎌倉時代末の作か)を踏襲するが、縦長の拡幅画の画面に合わせて、水流を光琳好みの意匠化された形に変え、狩野派風の樹木を添えている。 】(『もっと知りたい 尾形光琳(仲町啓子著)』)

 三 上記の解説文の『伊勢物語』(六十五段)の絵画化というのは、『異本伊勢物語絵巻』との関連に焦点を当てたものであるが、上記の光琳の「禊図」は、「家隆禊図」と言われ、次の解説文の方が分かり易い。

 【 この図は藤原家隆(一一五八~一二三七)の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を描いたもので「家隆禊図」ともいわれる。左下に暢達(ちょうたつ)した線にまかせて、簡潔に水流の一部を表わし、流れに対して三人の人物が飄逸な姿で描かれ、色調は初夏のすがすがしさを思わせる。「法橋光琳」の落款、「道崇」の方印がある。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説131)

 四 『伊勢物語』の川は、「恋せじと御手洗河にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな」の「御手洗川(みたらしがわ)」(神社の近くを流れていて、参拝人が口をすすぎ手を洗い清める川)だが、これが家隆の川は、「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」で、「奈良の小川」ではなく、「京都の上賀茂神社境内の楢の木の下を流れている御手洗川」ということになる。光琳画の「禊図」の右端上部に描かれている「狩野派流の樹木」は、その「楢の木」ということになる。

 五 そして、冒頭の乾山の「禊図屏風」では、左隻に、光琳が描く「楢の木」を配して、右隻には、「蛇籠」(護岸・水流制御などに使う円筒形に編んだかごに石を詰めたもの)などを配して、遠く、江戸にあって、京都の上賀茂神社の「六月の禊」などに思いを馳せての作と解したい。 

 六 この右隻の「蛇籠」などについては、下記のアドレスの「武蔵野隅田川図乱箱」の「蛇籠」などが思い起こされてくる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02

 (参考)伊勢物語絵巻六五段(在原なりける男)

 

「禊図(俵屋宗達筆)(伊勢物語図色紙/第六十五段「禊」/紙本着色/24.5×21.0/TOREKコレクション)

https://j-art.hix05.com/17sotatsu/sotatsu18.ise.html

http://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html

むかし、おほやけおぼして使う給ふ女の、色ゆるされたるありけり。大御息所とていますがりけるいとこなりけり。殿上にさぶらひける在原なりける男の、まだいと若かりけるを、この女あひしりたりけり。男、女方ゆるされたりければ、女のある所に来てむかひをりければ、女、いとかたはなり、身も亡びなむ、かくなせそ、といひければ、

  思ふにはしのぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ

といひて曹司におり給へれば、例の、この御曹司には、人の見るをも知らでのぼりゐければ、この女、思ひわびて里へゆく。

されば、何のよきことと思ひて、いき通ひければ、皆人聞きて笑ひけり。つとめて主殿司の見るに、沓はとりて、奥になげ入れてのぼりぬ。

かくかたはにしつつありわたるに、身もいたづらになりぬべければ、つひにほろびぬべしとて、この男、いかにせむ、わがかかる心やめたまへ、と仏神にも申しけれど、いやまさりにのみおぼえつつ、なほわりなく恋しうのみおぼえければ、陰陽師、神巫よびて、恋せじといふ祓への具してなむいきける。祓へけるままに、いとど悲しきこと数まさりて、ありしよりけに恋しくのみおぼえければ、

  恋せじと御手洗河にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな

といひてなむいにける。

この帝は、顔かたちよくおはしまして、仏の御名を御心に入れて、御声はいと尊くて申し給ふを聞きて、女はいたう泣きけり。かかる君に仕うまつらで、宿世つたなく、悲しきこと、このをとこにほだされて、とてなむ泣きける。かかるほどに、帝きこしめしつけて、このをとこをば流しつかはしてければ、この女のいとこの御息所、女をばまかでさせて、蔵にこめてしをりたまうければ、蔵にこもりて泣く。

  海人の刈る藻にすむ虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ

と泣きをれば、このをとこ、人の国より夜ごとに来つつ、笛をいとおもしろく吹きて、声はをかしうてぞ、あはれに歌ひける。かかれば、この女は蔵にこもりながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなむありける。

  さりともと思ふらむこそ悲しけれあるにもあらぬ身をしらずして

と思ひ居り。をとこは、女しあはねば、かくし歩きつつ、人の国に歩きて、かくうたふ。

  いたづらにゆきては来ぬるものゆゑに見まくほしさに誘はれつつ

水の尾の御時なるべし。大御息所も染殿の后なり。五条の后とも。

(現代語訳)

昔、天皇が御寵愛になって召しつかわれた女で、禁色を許された者があった。大御息所としておいでになられたお方の従妹であった。殿上に仕えていた在原という男で、まだたいそう若かった者を、この女は愛人にしていた。男は、宮殿内の女房の詰所に出入りを許されていたので、女のところに来て向かい合って座っていたところ、女が、とてもみっともない、身の破滅になりますから、そんなことはやめなさい、と言ったので、男は

  あなたを思う心に忍ぶ心が負けてしまいました、あなたに会える喜びにかえられれば、どうなってもよいのです

と読んだ。(そして女が)曹司に下ると、例の男は、この曹司に、人目を憚らずについて来たので、この女は、困り果てて実家に帰ったのだった。

すると(男は)、なんと都合のよいことだと思って、(女の実家に)通って行ったので、人々が聞きつけて笑ったのであった。朝方に、主殿司がその様子を見ると、男は靴を手に取って、それを沓脱の奥に投げ入れて昇殿したのだった。

このように見苦しいことをしながら過ごしているうちに、これでは自分もだめになってしまって、遂には破滅してしまうだろうからとて、この男は、どうしよう、このようにはやる心を静めて下さいと神仏に御願い申し上げたが、いよいよ思いが募るのを覚えて、やはりやたらと恋しいとのみ思えたので、陰陽師や神巫を呼んで、恋せじというおはらいの道具を持参して(川へ)いったのだった。しかし、お祓いをするにつけても、ますますいとしいと思う心が募って来て、もとよりもいっそう恋しく思われたので、(男は)

  恋をすまいと御手洗河にしたみそぎを、神は受け入れては下さいませんでした

と読んで、立ち去ったのだった。

この時の帝は、顔かたちが美しくいらして、仏の名号をお心にかけられ、お声もたいそう尊く念仏を唱えられるので、それを聞いて、女はひどく泣いた。このような尊い君におつかいせずに、宿世つたなく悲しいことに、この男にほだされてしまった、といって泣いたのだった。そのうちに、帝が事情をお知りになって、この男をば流罪になさったので、この女の従姉の御息所が女を呼びつけて、蔵に閉じ込めてしまった。それで女は、蔵にこもって泣いたのだった。そして、歌うには

  海人の刈る藻に住む虫のワレカラのように、声を立てて泣きましょう、世の中を恨むことなどしないで

するとこの男は、他国より夜毎にやってきては、笛をたいそう上手に吹いて、美しい声で、哀れげに歌ったのだった。それで、女は蔵にこもりながら、男がそこにいるらしいと思いつつ聞いていたが、互いにあうこともならなかったのだった。そこで女は、

  あの方がいつかは会えると思っていらっしゃるようなのが悲しい、生きているかわからぬようなわが身の境遇を知らないままに

と思っていたのだった。男の方は、女があってくれないので、このように笛を吹いて他国を歩きながら、次のように歌うのであった。

  会えると思って行っては空しくもどってくるのだが、それは会いたい思いに誘われてのことなのだ

水の尾帝の次代のことであろう。大御息所というのも染殿の后のことだと言われている。あるいは五条の后とも言われている。

 

月曜日, 6月 19, 2023

第五 千づかの稲(5-55~58)

     末白の一周忌に

5-55 ひとめぐり廻りて居るたかへ哉

5-56 月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ

    年尾

5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒()

5-58 植木屋が歳暮の梅のにほひ哉

 

   末白の一周忌に

5-55 ひとめぐり廻りて居(いて)るたかへ哉

5-56 月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ

 「ひとめぐり廻(めぐ)りて居(いて)るたかへ哉」の「たかへ」が季語と思われるが、この「たかへ」を、「たかべ」(三夏)と解すると、「ズキ目タカベ科の硬骨魚。地方によってシャカ、ベント、ホタとも。体長二十五センチに達する。背面は青緑色で幅広い黄色縦帯が特徴。夏場、焼魚にして美味。」(「きごさい歳時記」)の、魚の句となる。

 しかし、これは、次句の「月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ」の「うき寐の鳥(浮寐鳥)(三冬)と解すると、「毎年越冬のため、毎年日本に渡ってきて川や湖沼で一冬を過ごす水鳥の群れ。鴨・雁・鳰・鴛鴦・白鳥などが、水面に浮かんで眠るさまをいう。おおかたは羽根に首を突っ込みまるまった姿で浮いている。」(「きごさい歳時記」)の、鳥の句ということになる。

 ここは、この「たかへ」を「水鳥」(三冬)の一種と解して置きたい。

「水鳥」(《子季語》水禽/≪解説≫水上に暮らす鳥の総称である。この、水鳥がもっとも多く観察できるのが冬である。鴨、雁、白鳥、都鳥、鳰(かいつぶり)、鴛鴦(おしどり)など、家鴨(あひる)も含まれる。)(「きごさい歳時記」)

(例句)

水鳥や堤灯遠き西の京      蕪村「新五子稿」

水鳥を吹きあつめたり山おろし  蕪村「新五子稿」

水鳥や百姓ながら弓矢取     蕪村「新五子稿」

水鳥やさすがに雨をうちそむき  暁台「暁台句集」

水鳥のどちらへも行ず暮にけり  一茶「享和句帖」

「雪松群禽図屏風(せっしょうぐんきんずびょうぶ)」/尾形光琳 /江戸時代/18世紀初頭/紙本金地着色/21/156.0×171.6cm/岡田美術館蔵

https://www.okada-museum.com/collection/japanese_painting/japanese_painting23.html

≪金箔の地に青い水面が切り込む背景が用意され、その前面に、鴨や雁などの水鳥が13羽、空を飛び、あるいは地上で休んでいます。降り止んだばかりなのか、松の木や草の葉に雪が白く積もっており、金色に輝く空や地面は、雪晴れのまばゆい光に映えていることを示しているのでしょう。 尾形光琳(16581716)は、雁金屋(かりがねや)という京都の高級呉服店に生まれ育ち、工芸的なデザイン感覚を身につけて育ちました。署名には、歌枕の「蝉の小川」(瀬見の小川)に由来し、都の画家であることを雅に名乗った「蝉川(せみがわ)」が使われています。≫(「岡田美術館」)

 「末白の一周忌に」の「末白」も不詳。

 5-55 ひとめぐり廻りて居(いて)るたかへ哉

 「句意」は、「親しい俳人・末白の一周忌、末白が愛しんだ水鳥が、この池を一巡りして、正面に居座りて、凝視している。」

 5-56 月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ

 「句意」は、「折から、中天には月の昼が懸かり、末白の一周忌もさることながら、亡くなった人の数を、この池辺の浮寝鳥の水鳥を数えるように、指を折っている。」

  

   年尾

5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒()

5-58 植木屋が歳暮の梅のにほひ哉

  「前書」の「年尾(年の尾)(年の終わり、十二月も押し詰まったころ)も季語(仲冬・暮)だが、「5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒()」の句の「季語」は「としの夜(年の夜)(大晦日の夜。除夜ともいう。一年のけじめの日であり、その年の息災を感謝し、来る年の家内安全を願う夜である。)の大晦日(仲冬・暮)の句である。

 この「としの夜」の平仮名の表記は、「年の夜」と「都市(江戸)の夜」とを掛けての用例なのかも知れない。また、「犬の兒()」の「兒()は、「前書」の「年の尾」の「尾」との対応なのかも知れない。

 

葛飾北斎も餅つきの風景をユーモラスに描いています。のびすぎぃ!!(『北斎漫画』十二巻より「餅は餅屋」)

https://edo-g.com/blog/2016/12/new_year_holiday_season.html/3

 5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒()

「句意」は、「今日は大晦日、今年最後の夜、大掃除や餅つきなど、新年を迎えるための準備で忙殺されている。庭には焚火が焚かれ、所在投げ犬の顔を浮かび上がらせている」

 5-58 植木屋が歳暮の梅のにほひ哉

 

画像右下に見える紋付の荷物はどこかの大名のお歳暮でしょう(『東都歳事記』「歳暮交加図」)

https://edo-g.com/blog/2016/12/new_year_holiday_season.html/8

  この句の季語は、「歳暮」(仲冬・暮)で、「もともとは歳暮周りといって、お世話になった人にあいさつ回りをしたことに始まる。そのときの贈り物が、現在の歳暮につながるとされる。お世話になった人、会社の上司、習い事の師などに贈る。夏のお中元と同様、日本人の大切な習慣である。」(「きごさい歳時記」)

「句意」は、「植木屋が、歳暮周りの挨拶にやってきた。新年の飾りなどの仕事も一段落して、その合間の挨拶周りで、その半纏には、新年の如月の梅の香がしていてる。」

(参考) 「二十四節季」と「季節区分」(「四季」「五季」「六季」「十七季」「旧暦」「新暦」など)

 https://kigosai.sub.jp/kigoken3.html

四季=「春・夏・秋・冬」

五季=「春・夏・秋・冬・新年」

六季=「春・夏・秋・冬・暮・新年」

十七季=「(初春・仲春・晩春・三春)(初夏・仲夏・晩夏・三夏)(初秋・仲秋・晩秋・三秋)(初冬・仲冬・晩冬・三冬)(新年)

木曜日, 6月 15, 2023

第五 千づかの稲(5-50~54)

    永代橋のもとに、

 銀鱸(すずき)を、

    をあぐるとき

5-50 さし覗く顔も鷗や五兵衛舟

5-51 朝がほや花の底なる蟻ひとつ

5-52    新蕎麦のかけ札早し呼子鳥

    良夜瓢雨驟雨

5-53    宵寐して雨夜の月は夢にみむ

5-54    霧吸て蟲も千代経ん渓の菊


   永代橋のもとに、

 銀鱸(すずき)を、

   をあぐるとき

5-50 さし覗く顔も鷗や五兵衛舟


 「東都名所 永代橋全図」広重初代/木版/文化天保期(1815-1842

 https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/detail.php?item_id=52306

 

「江戸名所図会 永代橋」

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue2.html

≪  上の挿絵の中央が永代橋(えいたいばし)です。中央を流れる川は隅田川(浅草川)で、左から隅田川に流れ込む川は日本橋川(新川)です。日本橋川に架かる橋は豊海橋(とよみばし)です。≫

 

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue2.html

≪江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸名所図会の時代の永代橋は、右の地図のオレンジの楕円の位置、つまり、現在より200m程上流にありました。≫

 「五兵衛舟」=「銭屋五兵衛」の「北前船」(日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称)に積荷などをする小型の「手漕ぎ舟」の意であろう。「銭屋五兵衛」関連については、下記のアドレスのものが参考になる。

 https://www.zenigo.jp/zenigo/5/

 「鱸」=「鱸(すずき)三秋」=「(子季語)せいご、ふつこ、川鱸、海鱸、木つ葉、鱸網 (解説)スズキ科に属する海魚で、北海道から九州に至る沿岸や近海に広く分布する。ボラなどのように成長とともに呼び名が変わるので、出世魚の名がある。刺身、洗膾、塩焼きにして食する。」(きごさい歳時記」)

(例句)

打つ櫂に鱸はねたり淵の色   其角「句兄弟」

釣り上ぐる鱸や闇に太刀の影  支考「川琴集」

釣り上げし鱸の巨口玉や吐く  蕪村「蕪村句集」

百日の鯉切り尽きて鱸かな   蕪村「蕪村句集」

 「冬鴎(ふゆかもめ)三冬」=チドリ目カモメ亜科の鳥の総称。鴎、海猫、百合鴎などの種類があり秋渡来する冬鳥である。鴎はみな冬鳥であるからわざわざ冬鴎ということもないのだが、従来無季とされていたので冬鴎とされた。(「きごさい歳時記」)

 「句意」=季語は、冬鳥の「鴎」が渡来する晩秋の、前書の「鱸」(三秋)を前提にしてのものと解したい。「句意」は、「隅田川の永代橋で見事な銀鱸を釣り上げた。その銀鱸を覗き込むように、渡来してきたばかりの冬鳥の鴎が飛翔している。その晩秋から初冬にかけての鴎の風情は、折からの津軽経由の『北前船』に荷揚げや積荷をする「銭屋(銭屋五兵衛)」の持ち舟の「五兵衛舟」が連れてきたような趣がする。」

 

5-51 朝がほや花の底なる蟻ひとつ

  季語は「朝顔」(初秋)=朝顔は、秋の訪れを告げる花。夜明けに開いて昼にはしぼむ。日本人はこの花に秋の訪れを感じてきた。奈良時代薬として遣唐使により日本にもたらされた。江戸時代には観賞用として栽培されるようになった。旧暦七月(新暦では八月下旬)の七夕のころ咲くので牽牛花ともよばれる。(「きごさい歳時記」)

(例句)

朝貌や昼は錠おろす門の垣      芭蕉「炭俵」

あさがほに我は飯くふおとこ哉    芭蕉「虚栗」

あさがほの花に鳴行蚊のよわり    芭蕉「句選拾遺」

朝顔は酒盛知らぬさかりかな     芭蕉「笈日記」

蕣(あさがほ)は下手の書くさへ哀也 芭蕉「続虚栗」

蕣や是も又我が友ならず       芭蕉「今日の昔」

三ケ月や朝顔の夕べつぼむらん    芭蕉「虚栗」

わらふべし泣くべし我朝顔の凋(しぼむ)時 芭蕉「真蹟懐紙」

僧朝顔幾死かへる法の松       芭蕉「甲子吟行」

朝がほや一輪深き淵のいろ      蕪村「蕪村句集」(例句)

 

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(二)」東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035822

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-29

 ≪ 右から、前図に続く「朝顔」と、その上の黄色い花は、尾形光琳の「夏草図屏風」に連なる「岩菲の花」はそのままにして置きたい。そして、朝顔の下の白い蕾のようなものは、白い「綿の実」(「部分拡大図」の右脇)と解したい。そして、それに連なる黄色い一輪の花は「綿の花」と解したい。そして、それに続く、「白い大輪(蕊はピンク)・蕾二つ」は「木槿」であろう。その脇の大きな朱の花は「鶏頭」で下部に小花を咲かせている。木槿や鶏頭の背後に描かれているピンクの粒状の花は「蓼の花」であろう。≫

 あさがほの花に鳴行蚊のよわり    芭蕉「句選拾遺」

白雲や花に成行顔は嵯峨       其角「五元集」

  其角の「白雲や花に成行顔は嵯峨」は、芭蕉の「あさがほの花に鳴行蚊のよわり」の本句取りの一句であろう。この其角の句は、下記のアドレスで、次のとおり紹介されている。

 http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

 ≪ 護国寺にあそぶ時、馬にてむかへられて

   白雲や花に成行顔は嵯峨  (『五元集』)

  「花に成りゆく顔は嵯峨」と読むが、前書によれば、馬を回してもらって其角が護国寺へ行く途中の吟という事になる。遠くから白雲のように見えていたものが、次第に花の山になり、自分の顔も嵯峨の景の前にいるような「嵯峨顔」になって来たの意であろう。ここで嵯峨と言ったのは、護国寺の景を京の嵯峨に見立てて言っているのだが、元禄13年の夏、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来像の出開帳が江戸の護国寺で行われて大変評判になったので、江戸市中の人は嵯峨で分かるわけだ。

 『そこの花』(元禄十四年刊)には「嵯峨の釈迦武江に下り給ひける時」と前書し掲句が載っている。この前書だと、馬上の主体は釈迦如来像という事になる。即ち、はじめ白雲のように見えていたのが、花の山のさまになり、さらに近づくにつれて京の嵯峨と見まごう面影の護国寺の森が見えて来たとの、釈迦如来像からの眼になる仕掛けの句である。

 この「白雲や」のような句をつくる(作れる)俳人は、少ないだろう。明治以降主流になった写生句を超えているし、何よりも前書によって句の意味が変わってしまう等という「連句的手法」は、俳諧を自在にしたプロの俳諧師の仕事という事になろうか。≫

  掲出の、抱一の「朝がほや花の底なる蟻ひとつ」は、この芭蕉と其角の本句取りの一句と解したい。

 「句意」は、「芭蕉翁は「朝顔」の句で『花に鳴行(なりゆく)蚊のよわり』と吟じた。それに対して、其角祖師は『花に成行顔は嵯峨」と唱和した。されば、芭蕉翁・其角祖師に唱和して、『朝がほ(「蚊」・「嵯峨の釈迦如来」」) や「花の底」には「蟻一つ(一匹)」』と唱和したい。』

 

5-52    新蕎麦のかけ札早し呼子鳥

 季語は「新蕎麦」(晩秋)=蕎麦の実が熟すより一か月ほど早く刈り取った蕎麦粉。熟す前の蕎麦ゆえに青みがありその風味を賞する。一日も早く初物を味わうことにこだわった江戸っ子に好まれた。最近では、今年取れた蕎麦という意味でも使われる。「蕎麦刈」は冬の季語。(「きごさい歳時記」)

(例句)

堂頭の新そばに出る麓かな    丈草「笈日記」

新蕎麦やむぐらの宿の根来椀   蕪村「夜半叟句集」

江戸店や初そばがきに袴客    一茶「一茶句帖」

 この「呼子鳥」(晩春)の季語であるが、季語としての「呼子鳥」(「万葉集」や「古今集」にも出てくるが、貎鳥同様、この鳥も何の鳥であるかはわかっていない。鶫、鶯、郭公など諸説あるがどれも不確か。猿の声という説もある。)ではなく、「新蕎麦の頃の晩秋の鳥」一般の意でのものであろう。

(例句)

雫たる山路のませんよぶこ鳥    重頼「犬子集」

むつかしや猿にしておけ呼子鳥   其角「五元集脱漏」

役なしの我を何とて呼子鳥     一茶「九番日記」

 

「江戸名所道化盡(歌川広景筆)」所収 「九・湯島天神の台」(「東京都立図書館」蔵)

https://ja.ukiyo-e.org/image/metro/025-C003-010

 https://www.sankei.com/article/20170119-24TLY6LKLRMHBIYL7ZSVCVD2J4/

 ≪ 舞台は江戸・湯島天神の境内。不忍池が見える高台の風光明媚(めいび)な地。そばの出前をしている男が犬に足をかまれ、侍の頭にそばをぶちまけてしまう。ズッコケてしまった侍をお供の者が見て大笑い。背景の風景がきれいなだけに、こっけいさが際立つ。

 この錦絵は、広景の代表作「江戸名所道戯尽」シリーズの一つ「湯嶋天神の台」だ。「江戸名所道戯尽」は1859年から61年にかけて制作された50点からなる作品で、ちゃめっ気たっぷりの表現が特徴的。「本郷御守殿前」という作品は、突然の夕立に3人の男が肩車をして1本の傘に入ろうとする場面を描写。傘はところどころで破れ、下で支える男の不満そうな表情がおかしく、あきれるほどばかばかしい。≫

「句意」は、「初物好きの江戸っ子の『新蕎麦』の、その『掛けふだ(看板)』が早くも蕎麦屋に掛かった。折しも、空には、それを呼ぶかのように、名も知れない『呼子鳥』が鳴いている。」


    良夜瓢雨驟雨

5-53    宵寐して雨夜の月は夢にみむ

  「前書」の「良夜瓢雨驟雨」は、「中秋良夜瓢風驟雨(ちゅうしゅうりょうやひょうふうしゅうう)」(『老子(第二十三章)』など)に由来するもので、抱一の代表作に数えられている「夏秋草図屏風」(重要文化財 /二曲一双/紙本銀地着色/東京国立博物館蔵)は、この漢詩文の一節を表現したものとされている。

 https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/1992/

 

酒井抱一「夏秋草図屏風」重要文化財 二曲一双 紙本銀地着色 江戸時代・文政41821)年ごろ 各164.5×181.8cm 東京国立博物館蔵

≪ 俳諧をたしなんでいた抱一は、あらかじめ考えていた「中秋良夜瓢風驟雨(ちゅうしゅうりょうやひょうふうしゅうう)」の言葉をもとに、月のきれいな秋の夜と激しい風雨の後の野を描きました。右隻は夕立の後で左隻は野分(のわけ。今でいう台風)の後。銀地は、右隻では雨を、左隻では月夜を表し、右から左にかけて過ぎ行く季節を、繊細な草花で表現しました。本来、右隻から左隻にかけて春夏秋冬を描く屏風も二曲一双では自由になり、抱一はその特性を最大限生かして傑作をものにしたのです。≫(「和楽WEB)

  この抱一の傑作画は、文政四年(一八二一)、抱一、六十一歳時の作で、掲出の抱一の句は、寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時頃のものとすると、抱一は、この「中秋良夜瓢風驟雨」という命題を、実に、二十年という長い年月の末に、その具象化を試みたということになる。

 そして、この「前書」の「良夜瓢雨驟雨」の「良夜」は「仲秋」の季語で、「子季語」に「良宵・佳宵」、「関連季語」に「名月」、意味するところのものは「月の明るい美しい夜のことだが、主として旧暦八月十五日の中秋の名月の夜を指す。」(「きごさい歳時記」)

 「瓢雨驟雨」は、『老子(第二十三章)』の「瓢風驟雨」に由来する、抱一の造語のように思われる。

 https://blog.mage8.com/roushi-23

 (原文)

希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。

(書き下し文)

希言(きげん)は自然なり。故(ゆえ)に飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず、驟雨(しゅうう)は日を終えず。孰()れかこれを為す者ぞ、天地なり。天地すら尚()お久しきこと能わず、而(しか)るを況(いわ)んや人に於(おい)てをや。故に道に従事する者は、道に同じくし、徳なる者は徳に同じくす、失なる者は失に同じくす。道に同じくする者は、道も亦()たこれを得るを楽しみ、徳に同じくする者は、徳も亦たこれを得るを楽しみ、失に同じくする者は、失も亦たこれを得るを楽しむ。信足らざれば、焉(すなわ)ち信ぜられざること有り。≫『老子(第二十三章)

 「飄風(ひょうふう)は朝を終えず」=「瓢風は朝まで続かず」→「瓢雨・秋驟雨」(仲秋)

「驟雨(しゅうう)は日を終えず」=「驟雨も一日中続かない」→「驟雨・夕立」(三夏)

 「句意」周辺

 季語は、前書の「良夜瓢雨驟雨」の「良夜」(仲秋)、「宵寐(良宵の宵寝)・月(良宵の月=旧暦八月十五日の中秋の名月)(仲秋)」で、「仲秋」の「名月」の句ということになる。

そこに、前書の「瓢雨驟雨」を加味すると、これは「雨月」(仲秋・「中秋の名月が雨のために眺められないこと。名月が見られないの を惜しむ気持ちがある)の句の方が、より相応しい。

句意は、「今日は仲秋の名月の日、生憎の雨で、宵寝をして、雨の名月を夢見ることにしょう。」

(補記) 能「雨月」

 http://www.tessen.org/dictionary/explain/ugetsu

 前シテ   老人  じつは神の化身

後シテ   神職の老人(住吉明神の憑霊)

ツレ       姥  じつは神の化身

ワキ       西行法師

アイ       眷属の神

 ≪ 鎌倉初期。西行(ワキ)は歌神・住吉明神へ参詣のため、住吉の里に赴く。今夜の宿を願って訪れた一軒の庵には、雨音の風情を楽しむ翁(前シテ)と、月光を愛でる姥(ツレ)の、風流な老夫婦が住んでいた。屋根を葺くべきか、葺かぬべきか。そう嘆じる翁の言葉は、期せずして歌の下句となった。これに上句を付けたならば宿を貸そうと言う翁へ、西行は二人の美学を汲み、見事な上句を付ける。しみじみとした夜、雨音かと聞き紛う松風の声に耳を傾け、秋の風情を楽しんでいた三人。やがて夜は更け、夫婦は眠りにつこうと言うと、そのまま姿を消してしまう。実はこの夫婦こそ、住吉明神の化身であった。

 やがて、西行の前に、神職に憑依した住吉明神(後シテ)が現れた。明神は歌道の奥義を示し、西行こそ和歌を語り合うべき友だと告げる。閑かに舞を舞い、歌も舞も心の表れだと明かす明神。明神は、この神託を疑わぬよう言い遺すと、天に昇ってゆくのだった。≫

 (追記) 「夏秋草図屏風」

酒井抱一(その五)「抱一の代表作を巡るドラマ」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-26


抱一の「銀」(夏秋草図屏風)と「金」(下絵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-28

 

「四季花鳥図屏風」の左隻(秋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-28

 

「秋夜月扇子」(抱一筆・季鷹賛)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-03

 

抱一筆「月に秋草鶉図屏風」など

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-12

  

5-54    霧吸て蟲も千代経ん渓の菊

 

「菊慈童図」(酒井抱一筆/足立区千住個人蔵)

http://jmapps.ne.jp/adachitokyo/det.html?data_id=15560

≪ 抱一の作品中で未表装のまま伝来した希少な例である。やわらかな画風で抱一の比較的若い時代の作品と推定される。画題の菊慈童は菊の露を飲んで不老不死の仙人になった童の伝説を描く。俳賛は「やまに居て 七百とせや きくの酒」で、慈童がすむ魏の酈縣山(れっけんざん)と、その年齢「七百歳」、不老長寿の菊葉の水を表している。≫(「足立区立郷土博物館」)

  掲出の句の季語は、「渓の菊」の「菊」(三秋)。この「渓(たに)」が、「渓谷・幽谷」の「菊慈童」が流刑された「酈縣山(れっけんざん)」を連想させる。

  山中や菊はたおらぬ湯の匂 (芭蕉『おくの細道』)

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno33.htm

 ≪ 謡曲『菊慈童』に、周の国の慈童が菊の露を飲んで不老長寿を得たとする話。これを題材として、薬効のある山中温泉のお湯ならば、菊の露など飲まなくても700年の不老長寿が得られるに違いないと、宿屋の主人桃妖への挨拶吟。≫(「芭蕉発句全集」)

  ちなみに、「虫も千代経ん」の「虫」も「三秋」の季語。

  蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 (芭蕉『続虚栗』)

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/minomusi.htm

 ≪ 貞亨4年秋、深川芭蕉庵での作。芭蕉は、この句をもって秋の虫の音を聴く会を開くべく俳友に芭蕉庵へ来るようにさそったのである。このとき、嵐雪にも届けられたが、かれは、「蓑虫を聞きに行く辞」なるものを書いて「何も音無し稲うちくふて螽<いなご>哉」なる句を添えたという話が残っている。

 なお、伊賀上野の服部土芳は、貞亨534日庵を開き、些中庵<さちゅうあん>と名づけたが、311日、折りしも『笈の小文』の途次伊賀上野に立ち寄った芭蕉をそこに招き句会を開いた。このとき芭蕉は一枚の絵を土芳にプレゼントし、その画讃にこの句があったので、特に蕉翁に許しを得て、この庵を「蓑虫庵」と改名したという。また、このときの句会の發句がこの句であったので、庵名をこのように変えたという説もあって判然としない。≫(「芭蕉発句全集」)

 「句意」は、「能・謡曲・長唄」にも取り上げられている「菊慈童」(「菊慈童」伝説)は、奥深い山中の露の「菊の露」を飲んで「千代」の「不老長寿」を賜ったが、この深い渓間の「虫」(「蓑虫庵」の連集)も、「菊の露」ならず「菊の霧」を飲んで「千代」までの「佳吟」を遺すことであろう。

 (補記) 能「菊慈童」

 http://www.tessen.org/dictionary/explain/kikujidou

 (前シテ) 周の穆王(ぼくおう)の寵童 慈童

シテ        同(不老長寿の身)

ワキ       魏の文帝の勅使

ワキツレ              勅使の従者 【2人】

(ワキツレ)          周の穆王の官人

(ワキツレ)          輿を担ぐ役人 【2人】

 ≪〔中国 周の時代。誤って王の枕を跨いだ王の寵童・慈童(前シテ)は、酈縣山へ配流となる。彼が流刑地へ続く唯一の橋を渡り終えるや、非情にも橋を切り落とした警護の官人(ワキツレ)。慈童は、王の形見の枕を抱きつつ、ひとり山中に取り残されるのだった。〕

 それから七百年が経った魏の時代。酈縣山麓から霊水が湧き出たとの報せに、勅使(ワキ・ワキツレ)が現地へ派遣される。すると、山中には一軒の庵があり、中には一人の童子(シテ)がいた。彼こそ、かの慈童のなれの果て。実は彼は、形見の枕に添えられた妙文を菊の葉に書きつけ、そこから滴る雫を飲んだことで、不老不死の身となっていたのだ。慈童は〔妙文の功徳を勅使に説いて聞かせると〕、不老長寿の薬の酒を讃えつつ上機嫌で舞い戯れ、妙文を勅使に捧げて帝の安寧を言祝ぐのだった。≫

土曜日, 6月 03, 2023

第五 千づかの稲(5-46~5-49)

     ()覚上人の院宣を持来たる

     處畫たるに

5-46 伊豆千鳥その足あとの力かな

     李笠翁になろふて

5-47    一幅の春掛ものやまどの冨士

5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ

5-49 水になる自剃盥や雲のみね

 

     ()覚上人の院宣を持来たる

     處畫たるに

5-46 伊豆千鳥その足あとの力かな


「那智滝で滝行を行う文覚と、文覚を助ける矜羯羅童子・制多迦童子」(月岡芳年画)(「ウィキペディア」)

 ()覚上人(「ウィキペディア」)

 文覚(「もんがく、生没年不詳])は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。

 (中略)

『平家物語』では巻第五の「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣」にまとまった記述があり、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として描かれている。頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたり、配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか8日で院宣をもたらした。巻十二の「泊瀬六代」では頼朝に直接六代助命の許し文を受け取りにいく。また後鳥羽上皇の政を批判したため隠岐国に流されるが、後に上皇自身も承久の乱で隠岐国に流される結果になったとする。いずれも史実との食い違いが多く、『平家物語』特有のドラマチックな脚色がなされていると言える。 

 (中略)

 那智滝の下流に文覚が修行をしたという「文覚の滝」が存在し、滝に打たれる文覚の元に不動明王の使いがやってきて修行を成就するシーンがよく描かれる。この滝は2011年(平成23年)の紀伊半島大水害で消滅した。

 

 上記の「那智滝で滝行を行う文覚と、文覚を助ける矜羯羅童子・制多迦童子」(月岡芳年画)は、『平家物語』では巻第五の「文覚荒行」の場面のものである。これに続く、「文覚被流」や「福原院宣」の、流刑地の「伊豆」から「福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか8日で院宣をもたらした」場面を、抱一が描いたのであろう。そして、その画に「賛」をして欲しいと頼まれて、一句認めた「賛」が掲出句ということになろう。

   伊豆千鳥その足あとの力かな

 「季語」は、「千鳥」(三冬)。「チドリ科の鳥の総称で留鳥と渡り鳥がある。嘴は短く、色は灰褐色。足を交差させて歩むのが千鳥足。酔っ払いの歩行にたとえられる。」(「季語さい歳時記」)

(例句)

星崎の闇を見よとや啼千鳥         芭蕉「笈の小文」

一疋のはね馬もなし川千鳥   芭蕉「もとの水」

千鳥立更行初夜の日枝おろし  芭蕉「伊賀産湯」

 「文覚忌」(初秋)も季語で、「陰暦七月二十日、真言宗の僧文覚の忌日。もと北面の武士で遠藤盛遠。袈裟御前を誤って殺し出家、熊野で苦行した。神護寺復興、東大寺大修理を主導したほか、頼朝の挙兵を助成。幕府開創後重用された。晩年隠岐に流刑。終焉のことは不明。」(「季語さい歳時記」)

 「前書」との一体性を重視すると、「文覚忌」(初秋)の一句としての「句意」もあろう。

「句意」は、歌舞伎・浄瑠璃の外題にもなっている「文覚上人」の、流刑地、伊豆での「源頼朝」に「後白河法皇の平氏追討の院宣」をもたらした場面も一幅の絵にした。その絵に「賛をせよ」というので、「伊豆千鳥その足あとの力かな」(伊豆の浜辺の千鳥の足跡は、伊豆と福原とを八日間で往復し、平家追悼の院宣を持って帰ってきた「荒行法師」として名高い「文覚上人」の力強い足跡のように見える。)の一句を「賛」した。

 

     李笠翁になろふて

5-47    一幅の春掛ものやまどの冨士

 https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

  上記のアドレスでは、この前書(「李笠翁になろふて」)は、この句に続く「5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ」と「5-49 水になる自剃盥や雲のみね」にも掛かるものと解したが、季語の観点からすると、「5-47    一幅の春掛ものやまどの冨士」()、「5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ」()、そして、「5-49 水になる自剃盥や雲のみね」()で、この前書は、「5-47    一幅の春掛ものやまどの冨士」()にのみ掛かるものとして鑑賞したい。

 「李笠翁」

 https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

 ≪ この「李笠翁」(李漁)については、百科事典(マイペディア)などでは、次のとおり紹介されているが、与謝蕪村と池大雅の競作画帖「十便(大雅画)十宣(蕪村画)図」(国宝)の主題が、李笠翁の山居「伊園」における漢詩に基づくものであるということと、蕪村や大雅に大きな影響を与えた『芥子園画伝』(中国、清初に刊行された画譜)の「序」を起草した、その人こそ「李笠翁(李漁)」ということの方が、上記の抱一の句の前書きには相応しいのかも知れない。

 https://kotobank.jp/word/李漁-148469

 【「李笠翁」(李漁)→中国,明末清初の劇作家。字は笠翁(りゅうおう)。江蘇省の出身。明滅亡後清に仕えず終わる。自作の戯曲を上演し全国の名家を巡遊。自由で大胆な表現で恋愛や滑稽(こっけい)を扱った《笠翁十種曲》,口語短編小説集《無声戯》,戯曲論,演出論を含む随筆集《閑情偶寄》などがある。日本には18世紀初頭に伝えられ,読本(よみほん)などに影響を与えた。】≫

 

『古今画藪、後八種』(宋紫石画)「笠翁居室図式」(第八巻)「尺幅窓図式」(「早稲田大学図書館蔵・高村光雲旧蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_b0132/bunko08_b0132_0008/bunko08_b0132_0008_p0014.jpg

 ≪ 抱一は、歌川豊春に「浮世絵」、宋紫石に「漢画(明画)」を習ったされ(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』所収「屠龍之技(贅川他石稿)」)、その宋紫石の『古今画藪』に、上記の「閑情偶奇」のものが、上記のとおりに翻刻され、掲載されている。

 この「尺幅窓図式」とは、「窓枠を掛幅に見立て、窓の外の風景を絵として楽しむ趣向をあらわしている」図ということになる。ここで、抱一の、「李笠翁になろふて」を前書きとする「一幅の春掛ものやまどの冨士」の句意は明瞭になってくる。すなわち、「李笠翁に倣って、この窓枠を一幅の春掛物と見立てて、実景の『冨士』を愉しむこととしよう」ということになる。 ≫

 「季語」は「春」(三春)。「句意」は、「李笠翁に倣って、この窓枠を一幅の春掛物と見立てて、実景の『冨士』を愉しむこととしよう。」

  

5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ

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 ≪ この句は、「門(かど)涼み」(外に出て夕涼みをすること・晩夏の季語)の句である。「井の水」の、「井」は、「掘り抜き井戸」ではなく、「湧()き水や川の流水を汲み取る所」の意であろう。「門涼み」とは別に、「噴井(ふきい)」(絶え間なく水が湧き出ている井戸、三夏の季語)という季語もある。

 句意は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている」というようなことであろう。特別に「李笠翁になろふて」の前書きが掛かる句ではないかも知れないが、強いて、その前書きを活かすとすれば、「風流人・李笠翁に倣い」というようなことになろう。

 そして、次の無風流な宝井其角の作とされる句と対比させると、「風流人・李笠翁に倣い」というのが活きてくるという雰囲気で無くもない。

 夕すずみよくぞ男に生れけり  宝井其角(伝)    ≫

 「季語」は、「門(かど)涼み・納涼(すずみ)」(晩夏)。「句意」は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている。」

  

5-49 水になる自剃盥や雲のみね

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 ≪ 季語は「雲のみね(峰)」(聳え立つ山並みのようにわき立つ雲。積乱雲。夏といえば入道雲であり、夏の代名詞である。盛夏の季語)、「自剃盥」というのは、剃髪用の盥というようなことであろう。句意は、「雲に峰の夏の真っ盛りで、自剃盥も、お湯ではなく、冷たい水で、それが実に気持ちが良い」というようなことであろう。」

  香薷(じゆ)散犬がねぶつて雲の峰  宝井其角(『五元集』)

 この句は、抱一俳諧の師筋として敬愛して止まない其角の「雲の峰」の句である。表面的な句意は、「雲の峰が立つ真夏の余りの暑さに、犬までが暑気払いの『香薷(じゆ)散』を舐(なぶ)っている」というようなことであろう。

 しかし、この句の背景は、『事文類聚』(「列仙全伝」)の故事(准南王が仙とし去った後、仙薬が鼎中に残っていたのを鶏と犬とが舐めて昇天し、雲中に鳴いたとある)を踏まえているという。

すなわち、其角は、この句に、当時の其角の時代(元禄時代)の、「将軍綱吉の『生類憐れみの令』による犬保護の世相と、犬の増長ぶりを諷している」(『其角と芭蕉と(今泉準一著)』)というのである。

 とすると、抱一の、この「水になる自剃盥や雲のみね」の句も、抱一の寛政時代の「松平定信の寛政の改革」と、自己に降り掛かった、その「寛政時代(寛政九年)の出家」が、その背景にあると解しても、それほど違和感もなかろう。

 ここまで来ると。この句の、意表を突く上五の「水になる」というのは、抱一の、当時の「時代風詩」と「己の自画像」と読めなくもない。

 すなわち、この句の「雲の峯」は、「寛政の改革の出版統制や風紀統制」など、また、抱一自身の「若き日の青雲の志」などが、その背景にあると解すると、この句の上五の「水になる」は、文字とおり、それらの「青雲の志」が、「水になる」ということになろう ≫

 「季語」は、「雲のみね(峰)」(三夏)。「句意」は、「雲に峰の夏の真っ盛りで、自剃盥も、お湯ではなく、冷たい水で、それが実に気持ちが良い」というようなことであろう。」