火曜日, 1月 31, 2023

第四 椎の木かげ(4-3)

 4-3 乙鳥や汲(くん)ではなせし桔槹(はねつるべ)

 季語=乙鳥(おつどり)=燕(つばめ)仲春

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/1971

 【子季語】 乙鳥、乙鳥(おつどり)、玄鳥、つばくら、つばくろ、飛燕、濡燕、川燕、黒燕、群燕、諸燕、夕燕 燕来る、初燕

【関連季語】 夏燕、燕帰る、燕の子

【解説】 燕は春半ば、南方から渡ってきて、人家の軒などに巣を作り雛を育てる。初燕をみれば春たけなわも近い。

【来歴】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【文学での言及】

燕来る時になりぬと雁がねは国思ひつつ雲隠り鳴く 大伴家持『万葉集』

【実証的見解】

ツバメはスズメ目ツバメ科の夏鳥で、日本には二月下旬から五月にかけて渡ってくる。雀よりやや大きい。背は黒く腹は白い。喉と額が赤く、尾に長い切れ込みがある。翼が大きくよく飛ぶが、脚は短く歩行に不向きで、地面に降りることはめったにない。食性は肉食で、空中にいる昆虫などを捕食する。人が住むところで営巣する傾向がある。これは、天敵である鴉などが近寄りにくいからだとされる。

【例句】

盃に泥な落しそむら燕 芭蕉「笈日記」

蔵並ぶ裏は燕の通ひ道 凡兆「猿蓑」

夕燕我にはあすのあてはなき 一茶「文化句帖」

海づらの虹をけしたる燕かな 其角「続虚栗」

大和路の宮もわら屋もつばめかな 蕪村「蕪村句集」

大津絵に糞落しゆく燕かな 蕪村「蕪村句集」

つばくらや水田の風に吹れ皃(がほ) 蕪村「蕪村句集」

燕啼て夜蛇をうつ小家哉 蕪村「蕪村句集」

 ※はね‐つるべ【撥釣瓶】=支点でささえられた横木の一方に重し、他の一方に釣瓶を取りつけて、重しの助けによってはね上げ、水をくむもの。桔槹(けっこう)。〔色葉字類抄(1177‐81

 


(「精選版 日本国語大辞典」)

 「句意」(その周辺)

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-17

 

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035815

 

(同上:部分拡大図)

 【上図の中央は、枝垂れ桜の樹間の枝の合間を二羽の燕が行き交わしている図柄である。右側には「春(三)」の続きの地上に咲く黄色の菜の花、左側には、これまた、右側の菜の花に対応して、黄色の連翹の枝が、地上と空中から枝を指し伸ばしている。

この行き交う二羽の燕が、これまでの地面・地上から空中へと視点を移動させる。さらに、枝垂れ桜のピンクの蕾とその蕾が開いた白い花、それらを右下の黄色の菜の花と、左上下の黄色の連翹、さながら色の協奏を奏でている雰囲気である。その色の協奏とともに、この二羽の燕の協奏とが重奏し、見事な春の謳歌の表現している。】

  句意は、「撥ね釣瓶で水を汲んでいる。その横木の一方の重しと、もう一方の釣瓶の所を、上下に、二羽の燕が、空中で行ったり来たりしている。」 

第四 椎の木かげ(4-2)

 4-2 とぶ迄を走()つけたる春雉(きぎす)哉  「雉」

 季語=春雉(きぎす)→雉(きじ)三春

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/1985

 【子季語】雉子、きぎす、きぎし、雉子の声、焼野の雉子

【関連季語】雉酒、雉笛、雉の巣

【解説】雉の雄は、春、「けーんけーん」と鳴いて雌を呼ぶ鳥である。飛ぶ姿よりも歩いている姿を見かけることが多い。「春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ 大友家持『万葉集』」のように、妻恋の象徴として詠われていた。

【来歴】『毛吹草』(正保2年、1645年)に所出。

【文学での言及】

春の野のしげき草葉の妻恋ひに飛び立つ雉のほろろとぞ鳴く 平貞文「夫木和歌抄』

【実証的見解】

雉は、キジ目キジ科の鳥で日本の国鳥である。北海道と対馬を除く日本各地に留鳥として棲息している。大きさは雄八十センチ前後で雌は六十センチくらい。雄は全体的に緑色をおびており、目の周りに赤い肉腫がある。雌は全体的に茶褐色。雌雄ともニワトリ似て尾は長い。繁殖期の雄は赤い肉腫が肥大し、なわばり争いのため攻撃的になり、ケンケンと鳴いて翼を体に打ちつける「雉のほろろ」と呼ばれる行為をする。

【例句】

父母のしきりに恋ひし雉子の声 芭蕉「笈の小文」

ひばりなく中の拍子や雉子の声 芭蕉「猿蓑」

蛇くふときけばおそろし雉の声 芭蕉「花摘」

うつくしき顔かく雉の距(けづめ)かな 其角「其袋」

滝壺もひしげと雉のほろろかな 去来「続猿蓑」

柴刈に砦を出るや雉の聲 蕪村「蕪村句集」

亀山へ通ふ大工やきじの聲 蕪村「蕪村句集」

兀山(はげやま)や何にかくれてきじのこゑ 蕪村「蕪村句集」

むくと起て雉追ふ犬や宝でら 蕪村「蕪村句集」

木瓜の陰に皃類ひ住ムきゞす哉 蕪村「蕪村句集」

きじ啼や草の武藏の八平氏 蕪村「蕪村句集」

きじ鳴や坂を下リのたびやどり 蕪村「蕪村句集」

遅キ日や雉子の下りゐる橋の上 蕪村「蕪村句集」

雉啼くや暮を限りの舟渡し 几菫「晋明集二稿」

雉子の尾の飛さにみたる野風かな 白雄「白雄句集」

 「句意」(その周辺)

   「十鳥千句独吟」のトップの、「4-1 うぐゐすに北野の絵馬(えうま)かゝりけり」の、その「鶯」が、「北野天満宮」の「菅原道真(菅贈太政大臣)』の『鶯』」の一首にあやかっての、序句的な「鶯」の句と解すると、この二句目の「とぶ迄を走()つけたる春雉(きぎす)哉」の「春雉(きぎす)」は、次の「雉始雊 (きじはじめてなく)」を踏まえての、ここから、「十鳥千句独吟」の、実質的なスタートの、その発句ということになろう。

 【 小寒の歳時記・季寄せ

二十四節気 / 小寒

七十二候 /

第六十七候(初候)芹乃栄(せりさかう)1/6〜1/102020

第六十八候(次候)水泉動(すいせんうごく)1/11〜1/15 (2020

第六十九候(末候)雉始雊 (きじはじめてなく) /16〜1/192019) 】

 句意は、「春を告げる、『雉始雊 (きじはじめてなく)』の、その『春雉(きぎす)』は、飛ぶというよりも、その助走的な、野辺を『歩きに歩いている姿であることよ。』」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-21

 


酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(二)」東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035813

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-14

その「春(一)」で描いた「蒲公英・木瓜・菫・すぎな(つくし)・薺・白桜草」などに、新たに「虎杖(いたどり)」と「雉(きじ)と母子草」を描いている(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。 

 

第四 椎の木かげ

 4-1  うぐゐすに北野の絵馬(えうま)かゝりけり

 季語=鶯(うぐいす、うぐひす、うぐゐす)=三春

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/1969#:~:text=%E9%B6%AF%E3%81%AF%E3%80%81%E6%98%A5%E3%82%92%E5%91%8A%E3%81%92%E3%82%8B,%E9%B3%A5%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%80%82

 【子季語】 黄鶯、匂鳥、歌よみ鳥、経よみ鳥、花見鳥、春告鳥、初音、鶯の谷渡り、流鶯、人来鳥

【関連季語】 笹鳴、老鶯

【解説】

鶯は、春を告げる鳥。古くからその声を愛で、夏の時鳥、秋の雁同様その初音がもてはやされた。梅の花の蜜を吸いにくるので、むかしから「梅に鶯」といわれ、梅につきものの鳥とされてきた。最初はおぼつかない鳴き声も、春が長けるにしたがって美しくなり、夏鶯となるころには、けたたましいほどの鳴き声になる。

【来歴】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【文学での言及】

鶯の谷より出づる声なくは春来ることをたれかしらまし 大江千里『古今集』

【実証的見解】

鶯はスズメ目ウグイス科ウグイス属の留鳥で、日本各地の山地の明るい笹薮などに生息する。体長十五センチくらいで、雀ほど。背がみどりがかった茶褐色で、腹はやや白っぽい。食性は雑食で、春から夏に虫を捕食し、秋や冬には木の実や植物の種子などを食べる。時鳥の托卵の対象となる。

【例句】

鶯や柳のうしろ藪の前  芭蕉「続猿蓑」

鶯や餅に糞する縁のさき 芭蕉「葛の松原」

鶯を魂にねむるか矯柳(たうやなぎ) 芭蕉「虚栗」

鶯の声や竹よりこぼれ出る 才磨「塵の香」

鶯や下駄の歯につく小田の土 凡兆「猿蓑」

鶯の声遠き日も暮にけり 蕪村「蕪村句集」

鶯の啼やちいさき口明て 蕪村「蕪村句集」

どこでやらで鶯なきぬ昼の月 士朗「枇杷園句集」

鶯の静かに啼くや朝の雨 成美「いかにいかに」

 ※「十鳥千句独吟」(前書)=「千句独吟」というのは、「連歌・俳諧(連句)」の「百韻」(発句から挙句 (最後の句) までの1巻が 100句から成る形式)のものを「十巻」(一巻=百句、十巻=千句)、「独吟」(独りで作句する。他の人と付合(つけあい)をしないで、一巻を一人でよむこと)、すなわち、「十百韻」(百韻を「十巻(とまき)」、すなわち千の句を続けて詠む形式のもの)の意であろう。そして、「十鳥」というのは、その「十巻」の巻頭の「発句」に、それぞれ、「鳥」を詠むという意の、その「十鳥」と解する。

 ※「北野の絵馬(えうま・えま)」=この「北野」は全国天満宮の総祀(総本社)の、京都の「北野天満宮」(「連歌・俳諧」のメッカ、嘗て「連歌所」があった)の、その「北野」、そして、「絵馬」は、そこに奉納する「絵馬」の「絵馬所」があり、それらに関連する「絵馬」(奉納絵馬・奉納俳諧など)の意と解したい。

 「句意」(その周辺)

  この句は、『屠龍之技』の「第四 椎の木かげ」の冒頭の一句である。この「椎の木かげ」は、その「第三 みやこどり」の、寛政五年(一九五三)に移住した、隅田川東岸の、本所番場の「酒井家下屋敷(別邸)」周辺(この東岸の北側=下部を下がる付近)の、「隅田川を往来する猪牙舟(ちょきぶね)がランドマークしたという旧平戸藩邸」の、その「椎の木」のようである。(『酒井抱一・玉蟲敏子著・日本史リーフレット54 )

 

「本所番場・酒井家下屋敷(酒井下野守)A図」(隅田川東岸)と「駒形堂」(隅田川東岸)

http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/iiif-curation-viewer/?curation=http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/owariya/16/1852/ndl.json&mode=annotation&lang=ja

 

「切絵図に見る江戸時代の駒形堂)=B図」(隅田川西岸)

https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0309/

  上記の「本所番場・酒井家下屋敷(酒井下野守)A図」の、「多田薬師こと東暫寺(とうざんじ)の南隣(この図の「酒井下野守」屋敷)で、「夏は西日が激しく」、対岸の「駒形堂」付近の住居と、この「切絵図に見る江戸時代の駒形堂)=B図」の、「駒形の渡し」付近の、「隅田川の東岸と西岸」を往来するような遷住生活であったようなことが、『軽挙館句藻』に記されているようである。(『酒井抱一(井田太郎著・岩波新書)』)

 この句の句意には、この「うぐゐすに北野の絵馬(えうま)かゝりけり」の「北野」に仕掛けがあるようで、これは、京都の「北野天満宮」の、菅原道真(菅贈太政大臣)の、次の「鶯」の和歌を踏まえているような雰囲気なのである。

 谷ふかみ春のひかりのおそければ雪につつめる鶯の声(『新古金和歌集』1441

ふる雪に色まどはせる梅の花鶯のみやわきてしのばむ(『新古金和歌集』1442

   この道真の二首目の「ふる雪に」の「に」の措辞が、抱一の句の「うぐゐすに」の「に」の措辞と同じ用例のようで、この用例などを踏まえると、「学問の神様・和歌の神様・連歌、俳諧の神様」の、「北野天満宮」の「菅原道真(菅贈太政大臣)」にあやかって、この「十鳥千句独吟」のスタートの発句の「鳥」は「うぐゐすに」というのが、その背景にあるものと解したい。

 そして、さらに、この「絵馬かゝりけり」の「絵馬」も、「えま」ではなく「えうま」または「えこま」の詠みということになろう。「え・こま」というのは、「(第一)こがねのこま(金馬門=大手門)」の、南畝・抱一らの「座」(連句会・俳句会)の暗号的・符丁(合言葉)的な意が、この「こま」(駒=馬)のようなのであるが、ここでは、「絵・馬(うま)」の詠みのように解したい。そして、それは、「北野天満宮」の道真の「一願成就のお牛さま」に連動していて、ここでは、「一願成就のお馬さま」というのが、この句の抱一の趣向ということになろう。

 句意は、「談林俳諧の祖の『西山宗因千句』に因んで、ここに『十鳥千句独吟』に挑むことにした。そのスタートの発句に、『北野天満宮』の『菅原道真(菅贈太政大臣)』の『鶯』の一首にあやかって、『鶯』を据え、その作句の座の掛軸として、『一願成就のお牛さま」』ならず、『一願成就のお馬さま』の絵軸を掲げることにした」というようにして置きたい。」

 


「一願成就のお牛さま」(北野天満宮境内の北西に位置する牛舎にお祀りされている臥牛は、当宮で最も古いものであると伝わっており、少なくとも江戸時代にはすでに、「一願成就のお牛さま」として親しまれていたことがわかっています。)

https://kitanotenmangu.or.jp/story/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE%E3%81%A8%E7%89%9B/

 

「酒井抱一: 梅に鶯」(部分図) 19世紀 183.5×46.5 cm メトロポリタン美術館

http://blog.livedoor.jp/a_delp/2021-01-02_SakaiHouitsu

 

(参考=未整理)「十鳥千句独吟」周辺

 4-1 うぐゐすに北野の絵馬(えうま)かゝりけり → 「鶯」

4-2 とぶ迄を走()つけたる春雉(きぎす)哉 → 「雉」

※春雉《きぎし》鳴く高円《たかまと》の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも~作者未詳 『万葉集』 巻10-1866 雑歌

4-3 乙鳥や汲(くん)ではなせし桔槹(はねつるべ)→「乙鳥」(おつどり・つばくら・つばくろ・つばめ)

4-4 ほとゝぎす()やうす雲濃紫(こむらさき)→「ほとゝぎす」(時鳥・杜鵑)

4-5 魚狗(かわせみ)や笹をこもれて水のうへ→「魚狗」(かわせみ)=翡翠(かわせみ、かはせみ)

4-6  田の畔に居眠る雁や旅つかれ → 「雁」

4-7 山陵(みささぎ)の吸筒さがす夕(ゆうべ)かな →山陵(みささぎ)=鵲(かささぎ)三秋か?

4-8 木兎(みみづく)も末社の神の頭巾かな →木兎(みみづく)=木菟(みみずく/みみづく) 三冬

4-9 おし鳥のふすまの下や大紅蓮(ぐれん)→おし鳥=鴛鴦(おしどり、をしどり)三冬

4-10 蒼鷹の拳はなれて江戸の色 →(青鷹・蒼鷹=あおたか・あをたか・そうよう)=鷹(たか)三冬

4-11 夕立や静()に歩行筏さし → 「鳥」が「ヌケ」になっている。

※「日の春をさすがに鶴の歩みかな(其角)」=(「丙寅初懐紙」)季語=日の春(新年)の「鶴」を「夕立」(夏)の「鶴」の句に反転化しているか?

 

日曜日, 1月 22, 2023

第三 みやこどり

3-1  山更(さら)にひび(日々)切る音や秋の風

 季語=秋の風(三秋)

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/2541

 【子季語】 秋の風、白風、金風、爽籟、風爽か

【関連季語】 色なき風

【解説】

秋になって吹く風。立秋のころ吹く秋風は秋の訪れを知らせる風である。秋の進行とともに風の吹き方も変化し、初秋には残暑をともなって吹き、しだいに爽やかになり、晩秋には冷気をともなって蕭条と吹く。秋が五行説の金行にあたるので「金風」、また、秋の色が白にあたるので「白風」ともいう。

【来歴】 『世話盡』(明暦2年、1656年)に所出。

【文学での言及】

秋風に阿倍野靡く河傍の和草のにこよかにしも思ほゆるかも 大伴家持『万葉集』

秋風の寒き朝けを佐農の岡越ゆらむ君に衣借さましを 山部赤人『万葉集』

昨日こそ早苗とりしかいつのまに稲葉そよぎて秋風ぞ吹く よみ人しらず『古今集』

秋風の吹きにし日より音羽内峰のこずゑも色づきにけり 紀貫之『古今集』

初秋風涼しき夕べ解かむとて紐は結びし妹に逢はむため 犬伴家持『万葉集』

ふきいづるねどころ高く聞ゆなり初秋風はいざ手馴らさじ 小弐のめのと『後撰集』

月かげの初秋風と吹きゆけばこころづくしに物をこそ坦へ 円融院『新古今集』

わがせこが衣のすそを吹きかへし裏めづらしき秋の初風 よみ人しらず『古今集』

おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風 西行『新古今集』

【例句】

秋風の吹きわたりけり人の顔 鬼貫「江鮭子」

あかあかと日は難面も秋の風 芭蕉「奥の細道」

石山の石より白し秋の風   芭蕉「奥の細道」

終宵秋風聞くやうらの山   曾良「奥の細道」

秋風やしらきの弓に弦はらん 去来「曠野」

十団子も小粒になりぬ秋の風 許六「韻塞」

蔓草や蔓の先なる秋の風   太祇「太祇句選」

秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者 蕪村「蕪村句集」

子の皃に秋かぜ白し天瓜粉  召波「春泥句集」

https://www.zen-essay.com/entry/torinaite

 【 ※(禅語) 鳥啼いて山更(さら)に幽(しずか)なり

 風がやみ、木の葉が擦れ合うかすかな音さも聞こえない深い森。

その森から一羽のカラスが鳴き声を上げながら飛び立つ。

途端に静寂が破られて、辺りに鳴き声がこだまする。

カラスが次第に遠ざかるにつれて、鳴き声の余韻も散じるように空に消え入り、山は再び静けさを取り戻す。】

※「伐木丁々(ちょうちょう)(前書)=「伐木」(樹木をきりたおすこと)、「丁々」(かん高い音が続いて響くさまを表す語)

 (一茶の「秋風」の句)

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi?group=hirarajp&dbi=20140103235455_20140104000746&s_entry=0&se0=0&sf0=0&sk0=%8fH%82%cc%95%97

 あや竹の袂の下を秋の風(あやたけの/たもとのしたを/あきのかぜ)       文化句帖

水打し石なら木なら秋の風(みずうちし/いしならきなら/あきのかぜ)    文化句帖

秋の風宿なし烏吹かれけり(あきのかぜ/やどなしからす/ふかれけり)    七番日記

淋しさに飯をくふ也秋の風(さびしさに/めしをくうなり/あきのかぜ)    文政句帖

草花やいふもかたるも秋の風(さばなや/いうもかたるも/あきのかぜ)    七番日記

 


『伊勢物語(8段 東下り・信濃)(住吉如慶筆・愛宕通福書・東京国立博物館研究情報アーカイブ巻1-131-14)

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048421

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-04

 【 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-11-27

 第7段東下り(伊勢・尾張)(いとゞしく過ぎ行く方の恋しきにうらやましくもかへる浪かな)

8段東下り(信濃)(信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ)

9段 東下り(八橋)(唐衣きつゝ馴にしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)

     同(宇津)(駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人に逢はぬなりけり) 

     同(富士)(時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ)

     同(隅田川)(名にしおはゞいざこと問は都鳥むわが思ふ人はありやなしやと)

 https://ise-monogatari.hix05.com/1/ise008.asama.html

 むかし、をとこありけり。京や住みうかりけむ、あづまのかたにゆきて、住み所もとむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国浅間の嶽にけぶりの立つを見て、        

   信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ (『伊勢物語(8段 東下り・信濃))

 『新古今和歌集(巻第十・羇旅歌)』に、この在原業平の「浅間山」の歌が収載されている。

    東(あづま)の方(かた)にまかりけるに、浅間の嶽(たけ)

   に煙(けぶり)の立つを見てよめる

903 信濃なる淺間の嶽に立つけぶりをちこち人(びと)の見やはとがめぬ(在原業平朝臣『新古今集』)

(信濃の国にある浅間山に立ちのぼる噴煙は、遠くの人も近くの人も、どうして目を見張ら

ないことであろうか、誰しも目を見張ることであろう。)  】

 ※  3-1  山更(さら)にひび(日々)切る音や秋の風

 「句意」(その周辺)

   この句は、『屠龍之技』の「第三 みやこどり」の冒頭の一句である。この「みやこどり」は、『伊勢物語(9段 東下り)』の、「墨田川」の「名にしおはゞいざこと問は都鳥むわが思ふ人はありやなしやと」の、その「都鳥(みやこどり)」を念頭にあってのものであろう。

 しかし、この冒頭の一句は、「隅田川」の景のものではない。

 


『伊勢物語(9段 東下り・墨田川)(住吉如慶筆・愛宕通福書・東京国立博物館研究情報アーカイブ巻1-15)

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048428

  この前後の、「第8段東下り(信濃)」、そして、その「第9: 東下りの、(宇津)(駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人に逢はぬなりけり) 、(富士)(時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ)」を踏まえてのものなのかも知れない。

 そして、「第三 みやこどり」のタイトルは、寛政五年(一七九三)、抱一、三十三歳から寛政七年(一七九五)にかけてのものが収載されていて、『軽挙館句藻』では欠巻となっている。(『酒井抱一・井田太郎著(岩波新書))

 この「第三 みやこどり」の背景には、この頃、抱一は、日本橋蛎殻町の酒井家中屋敷から、墨田川東岸の「本所番場」の屋敷(下屋敷=別邸=国元からの荷を揚げるため主に水辺につくられた蔵屋敷)に移住している。

 これは、「おそらく同年十一月に行われた藩主忠道の婚礼に関連する動きだろう」とし、「墨田川の東岸(下屋敷)と西岸(中屋敷)とを行き来するこの時期の句集名にまことに相応しい」としている。(『酒井抱一・玉蟲敏子著・日本史リーフレット54)

  すなわち、この「第三 みやこどり」に託した、当時の抱一の心境には、『伊勢物語』の都落ちして、「名にしおはゞいざこと問は都鳥むわが思ふ人はありやなしやと」と、一所不在の、第一線から身を退き、遷住生活を余儀なくされて、「艶(やさ)隠者」としての生活の途を選んだ、当時の、抱一の心境が、ここに託されているように思われるのである。

 そして、この前書の「伐木丁々(ちょうちょう)」は、その詫び住まいの「茶掛け」(「掛け軸・軸」=「「茶禅一味」)に関連しての一句として鑑賞したい。

 句意は、「この茶掛けの『伐木丁々(ちょうちょう)』は、この茶席の、日々、伐木する谺(こだま)に和して、日々、秋風が増して来る気配を象徴している。そして、それは、『山更(さらに)に、昨日より今日と、より深々と、心に沁み亘ってくることか』というような感慨の一句と解したい。

 なお、抱一が、文政六年(一八二三)、六十三歳の時に刊行した『乾山遺墨』周辺のことについて、下記のアドレスなどから再掲をして置きたい。

 

(参考) 「 習静堂の艶(やさ)隠者(光琳と乾山)」と抱一周辺

 https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2018-07-05

 

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02

 (再掲)

 【 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02

 

落款=華洛紫翠深省八十一歳画 逃禅印

箱の内側には桐材の素地に直接「蛇籠に千鳥図」を描き、裏面に「薄図」を描いている。「薄図」に「華洛紫翠深省八十一歳画」という落款があるので、乾山が没する寛保三年(一七四三)の作とわかる。図様にいずれも宗達が金銀泥下絵で試みて以来この流派の愛好した意匠だが、乾山はそれを様式化した線で図案風に描いた。図案風といっても、墨と金泥と緑青の入り乱れた薄の葉の間に、白と赤の尾花が散見する「薄図」は、老乾山の堂々とした落款をことほぐとともに、来世を待つ老乾山の夢を象徴して美しく寂しく揺れている。乾山の霊魂は「蛇籠に千鳥図」の千鳥のように、現世の荒波から身をさけて、はるか彼岸へ飛んでゆくのであろう。この図はそのような想像を抱かせるだけのものをもっている。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説117118) 

 ㈨ 略

 ㈩ 最後に、光琳の百回忌を営み、光琳展図録ともいうべき『光琳百図』を刊行し、続いて、『乾山遺墨』をも刊行した、「江戸琳派」の創設者の酒井抱一の、その『乾山遺墨』の「跋文」を掲載して置きたい。

  余緒方流の画を学ふ事久しと雖更其

 意を得す光琳乾山一双の名家にして

 世に知る處なりある年洛の妙顕寺 

 中本行院に光琳の墓有るを聞其跡

 を尋るに墓石倒虧(キ)予いさゝか作をこし

 て題字をなし其しるし迄に建其

 頃乾山の墓碑をも尋るに其處を知

 ものなし年を重京師の人に問と雖

 さらにしらす此年十月不計して古筆

 了伴か茶席に招れて其話を聞く

 深省か墳墓予棲草菴のかたわら叡麓

 の善養寺に有とゆふ日を侍すして行見

 にそのことの如し塵を拂水をそゝき香

 花をなし禮拝して草菴に帰その

 遺墨を写しし置るを文庫のうちより

 撰出して一小冊となし緒方流の餘光

 をあらはし追福の心をなさんとす干時

 文政六年発未十月乾山歳八十一没

 てより此年又八十有一年なるも

 又奇なり

    於叡麓雨華葊抱一採筆

(『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』所収「乾山と琳派抱一が『乾山遺墨』に込めるもの(岡野智子稿)」)

江戸博本『乾山遺墨』跋文翻刻

翻刻は『酒井抱一 江戸情緒の精華』(大和文華館 二〇一四)所収の宮崎もも氏翻刻(国立国会図書館本)を参照しつつ行った。 】

 https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0575/index.html

 「乾山遺墨 / 乾山 [] ; 抱一 []」・早稲田大学図書館 (Waseda University Library)

(書名は題簽による/文政6年刊の覆刻/一部色刷/和装/印記:梅原書屋/雲英末雄旧蔵)

 

「乾山遺墨 / 乾山 [] ; 抱一 [](ページ16/18)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0575/bunko31_e0575_p0016.jpg

 

「乾山遺墨 / 乾山 [] ; 抱一 [](ページ17/18)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0575/bunko31_e0575_p0017.jpg

 

(メモ) 「文政六年発未十月」、文政六年(一八二三)、抱一、六十三歳の時である。この年(四月)に、「太田南畝」が没している。『軽挙館句藻』は「やぶどり」(第十六巻)が開始されている。この年か翌年に、この『乾山遺墨』は刊行されている。(『酒井抱一・井田太郎著(岩波新書))

土曜日, 1月 21, 2023

 

抱一句集(跋・その他)

跋一(春来窓

跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・四六歳   】


https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/document/15dd5a92-e055-4dcb-a302-1ed3adc3716f#?c=0&m=0&s=0&cv=38&xywh=-825%2C0%2C6602%2C3937
(その他)
酒井抱一自撰句集『屠龍之技』(牧野宏子稿):酒井抱一句集「屠龍之技」周辺:SSブログ (ss-blog.jp)
酒井抱一自撰句集『屠龍之技』ーーー伝本の基礎的調査ーー(その一)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/1985/68/1985_68_52/_pdf

 酒井抱一 (宝暦一一年~文政一一年)は、文化・文政期を通じて多くの花鳥画を描いた画家として知られているが、 一方で馬場存義・哲阿弥晩得に師事した江戸座系の俳人でもあった。

 彼の芸術活動を通して、最も重要な時期は、文化一〇年~一二年ころであろう。文化一一一年、尾形光琳百回忌を主催した抱一は、これ以後、「尾形流略印譜」、「光琳百図」、「乾山遺墨」などを次々に編み、光琳・乾山兄弟顕彰活動を積極的に行ないながら、自らも画業に比重を傾けていく。この時期を後期とするならば、前期、即ち文化一〇年以前は、俳諧に力を入れていた時代といえよう。

 東京・静嘉堂文庫所蔵の「軽挙観(館)句藻」(以下「句藻」と略す)一一十一巻十冊は、抱一の自筆句稿で、三十数年間の句日記とも呼ぶべき書物である。この中から抱一自身が撰んで文化年ころ世に送り出したのが、 「屠龍之技」である。前期俳諧活動の総決算とも考えられる、 この自撰句集の基礎的調査によって明らかになったことを今回は記しておきたい。 「屠龍之技」 の伝本を「図書総目録』によって調べると

「④天理綿屋(「屠龍之技 」)福井久蔵 国会・学習院・東大竹冷
・日比谷加賀・天理綿屋・横山重 日本俳書大係近世俳話句集・日本名著全集俳文俳句集・雨華抱一附録(岡野知十、明治三=l)」

と記されている。右の写本・版本の中で現在所在不明は横山重氏蔵本だけである。また、国書に著録された以外で調査に及んだものは 一東京大学図書館蔵写本、同図書館洒竹文庫蔵写本、同図書館知十文庫蔵写本、家蔵版本である。以上十一本を、句数、序跋の増減等を 一以て大きく六類に分類し、各の書誌を簡略に列記する。その際、便宜上次のような形式に従った。

①表紙 ②外題 ③見返し・扉など ④序 ⑤丁数 ⑥跋 ⑦ 句数 ⑧蔵書印(重要なものだけを扱った) ⑨旧蔵者識語・奥書 ⑩備考

ja (jst.go.jp)

酒井抱一自撰句集『屠龍之技」の研究(牧野宏子稿)

跋一(春来窓)周辺(春来窓六華=酒井忠実?)

(「跋」全文)

抱一上人春秋の発句有り、草稿五車酒井に積べし、其十が一を挙て 一冊とす。上人居を移事数々也、其部を別に其処を以す。これ皆 丹青図絵のいとまなり。此冊子の跋文を予に投ず、尤他に譲べき にもあらず、唯寛文延宝の調を今の世にも弄もの有らば、其判を 乞んと。是上人の望給ふところ也と。春来窓、三叉江のほとりの 筆を瀞休畢。(六華・)

抱一句集『屠龍之技』序(その一)

 抱一句集『屠龍之技』序(その一)


句集表紙.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0001_m.html

【「屠龍之技」の全体構成(上記「写本」の外題「軽挙観句藻」)

序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・四五歳
第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上
第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~
第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳 
第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳
第六潮のおと  (文化二)=抱一・四五歳 
第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~ 
第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳
第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五九歳
跋一(春来窓六華)
跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・四六歳   】

『屠龍之技』の「序」(亀田鵬斎)

軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑、獨泣、獨喜、獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳(ノミ)。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹(俳)諧体ナル者は。唐詩ニ昉(ハジ)マル。而シテ和歌之ニ効(ナラ)フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。
文化九年壬申十月  江戸鵬斎興

序.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0002_m.html

■抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)

書写地不明] : [書写者不明], [書写年不明]1冊 ; 24cm
注記: 書名は序による ; 表紙の書名: 輕舉観句藻 ; 写本 ; 底本: 文化10年跋刊 ; 無辺無界 ; 巻末に「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮樓主人」と墨書あり
鴎E32:186 全頁

琳派の画家として知られる酒井抱一が、自身の句稿『軽挙観句藻』から抜萃して編んだ発句集である。写本であるが、本文は鴎外の筆ではなく、筆写者不明。本文には明らかな誤りが多数見られ、鴎外は他本を用いてそれらを訂正している。また、巻末に鴎外の筆で「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮楼主人」とあることから、この校訂作業の行われた時日が知られる。明治30年(1897)前後、鴎外は正岡子規と親しく交流していたが、そうしたなかで培われた俳諧への関心を示す資料だと言えよう。(出)

■亀田鵬斎(かめだほうさい);(宝暦2年9月15日(1752年10月21日) - 文政9年3月9日(1826年4月15日))、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。
 父は萬右衛門といい、上野国邑楽郡富永村上五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町上五箇)の出身で日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭であった。母の秀は、鵬斎を生んで僅か9ヵ月後に歿した。
 鵬斎は6歳にして三井親和より書の手ほどきを受け、町内の飯塚肥山について素読を習った。14歳の時、井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜き、金峨を驚嘆させている。この頃の同門 山本北山とは終生の友となる。23歳で私塾を開き経学や書などを教え、躋寿館においても教鞭を執った。赤坂日枝神社、駿河台、本所横川出村などに居を構え、享和元年(1801)50歳のとき下谷金杉に移り住んだ。妻佐慧との間に数人の子を生んだが皆早世し、亀田綾瀬のみ生存し、のちに儒学者・書家となる。亀田鴬谷(かめだおうこく)は孫にあたる。
 鵬斎は豪放磊落(ごうほうらいらく)な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものだった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。
 松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、酒に溺れ貧困に窮するも庶民から「金杉の酔先生」と親しまれた。塾を閉じ50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流する。
 享和2年(1802)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。
 文化5年、妻佐慧歿す。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがあった。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5両を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。
 鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。
  「鵬斎は越後がえりで字がくねり」 川柳
良寛より懐素(かいそ=唐の草書の大家)に大きく影響を受けた。
 鵬斎は心根の優しい人柄でも知られ、浅間山大噴火(天明3年)による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたという。また赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てている。定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っている。
 晩年、中風を病み半身不随となるが書と詩作を続けた。享年七十五。称福寺(台東区今戸2丁目5−4。浄土真宗本願寺派寺院)に葬られる。現在鵬斎が書いたとされる石碑が全国に70基以上確認できる。

鵬斎肖像.jpg 

亀田 鵬斎は、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ。 鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興。字は国南、公龍、穉龍、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。 ウィキペディア

鵬斎書一.jpg

足立区立郷土博物館所蔵 一行書「酔い飽きて高眠するは真の事業なり」。

鵬斎書二.jpg

「詩書屏風」 亀田鵬斎書 東京国立博物館展示 個人蔵 

https://rakugonobutai.web.fc2.com/296kamedahousai/kamedahousai.html


■ 柳家さん生の噺、「亀田鵬斎」(かめだほうさい) 原題「鵬斎とおでんや」より

下谷金杉の裏長屋に生んでいた亀田鵬斎という方がいました。書家であったが、名人気質があって気にいらないと書を書かないし、気にいれば金額のことなど無視して書いた。
  孫が行方不明になって大騒ぎをしています。
 「御免下さいまし。ごめんください。こちらが亀田鵬斎さん宅でしょうか」、「はい、はい、手前です」、「私はおでん燗酒を商っている平次と申しますが、お宅のお孫さんではありませんか。屋台に寝ています」、「婆さんや、疲れたんだろうから、そっと寝かせてあげなさい。かどわかしでは無いかと大騒ぎしてました」、「吉原田んぼで仕込みしていましたら、子供がワァ~っと泣きじゃくっていたのが、あの子です。色々聞いたら亀田鵬斎とだけ分かって、聞きながらやっとここが分かりました」、「孫が見付かった身祝いに何か差し上げたいが・・・。この生活では・・・」、「そんな事は良いんです」、「そうはいきません」、「子供が泣いていたから連れてきただけ。この汚い家に何も無いのは分かります」、「壊れかかった屋台はお前さんの物か」、「壊れ掛かったとは怒りますよ。これで仕事をしているんです」。
 考えたあげく、屋台の看板になる小障子を外し奥に持って行ってしまった。しばらくして小障子を抱えてきて、行灯に火を入れて小障子をはめ込んだ。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。「先生が書いたの。看板屋?貰って良いの」、「お持ち下さい」。
 平次がいつものように吉原田んぼで仕事をしていると、五十年配の大店の旦那然とした御客が来た。「いらっしゃい。何を・・・」、「寒くなったので、熱燗を一本。吉原を久しぶりに冷やかしてきたんだ。冷えたときには熱燗で身体の中から温めるのが一番。クゥ~、クゥ~、クゥ~、ファ~。・・・チョッと聞くが、お前さんの名前は平次さんかぃ」、「どうして判るんですか」、「ここに書いてある。鵬斎として落款が押してある。これは亀田鵬斎かぃ」、「そうですよ」、「知っているのかぃ」、「知っています」、「私は屋台で酒は飲んだことが無いんだ。この字は、『飲みなさいッ』という字だ。ここに鵬斎の書が有るなんて・・・、目の保養をさせて貰いました」、御客は1両を置いてお釣りも取らず、小障子を持って行ってしまった。
 「こんにちは。私は、おでん燗酒は売っていますが、小障子は売っていません。この1両は先生の物ですからお渡しします」、「アレはお前さんにやった物だ。1両はお前さんの物だ」、お互いに譲り合って、話は先に進まない。「では、この1両は預かっておく。新しい小障子を持って来なさい」。同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書いて落款が押してあった。
 半月ほどたった晩に若い武士が店にやって来た。「亀田鵬斎が書いた看板を掲げた店が有ると聞いたが・・・」、「これが亀田鵬斎が書いた看板なんです」、「そうか。ここに5両置く。小障子は貰っていく」、「チョッと、小障子持って行っちゃいけません」。
 「先生、小障子持って行かれました。5両は貴方の物ですから、ここに置きます。おでんも食べず、燗酒も飲まず5両置いて小障子を持って行っちゃったんです」、「分かった。5両は預かっておく。小障子を持って来なさい」。前回と同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。
 「殿お呼びですか」、「見て見ろ、経治屋に軸装にして貰った。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』、良い書だろう。他には無いぞ。酒の支度をしろ。鵬斎が言っている。飲めと」。
 「お客さまです」、「黒田か、こっちに入れ。良いだろう、この書」、「我が殿が2000両用意しているから、譲って貰えと言っています」、「バカモン。この書は他には無いんだ。譲れん」。
 この黒田がお屋敷に帰ってこの話をすると、「この屋台は必ず何処かに出ているはずだ。探せッ」。
 「鵬斎書の小障子がはめてある屋台が見付かりました」。若侍を集めて、この屋台の周りを取り囲み、号令一下屋台を引っ張って持って行ってしまった。25両の金を置いて行った。
 「御免下さいまし」、「どうした?」、「25両で屋台をやられました」、「平次さん、歳は幾つになる。五十か。屋台では身体がキツいであろう。店を持たぬか?足して31両有る」、「その金は借りるので、少しずつ返していきます。そうですね。生まれが四谷ですから、四谷で豆腐屋でも始めましょう」、「店が出来たら、わしが『豆腐屋 平次』と書いてあげよう」、
「それには及びません。それでは家が無くなっちゃう」。

■下谷金杉(したやかなすぎ);近くに有る金杉村とは違って、旧日光街道(現金杉通り)に面した下谷金杉上町と下谷金杉下町が有ります。現在の言問通り交差点・根岸一丁目辺りから北側の三ノ輪交差点辺りまでの街道に沿った細長い町です。
 下谷金杉辺りから吉原田んぼまでは東に約1km位です。
 鵬斎の金杉時代は里俗に中村というところに住んだ。今もある御行松跡の不動堂の北側で、現台東区根岸四丁目14あたり。昭和三十年代まで中根岸の内だった。
 港区に有る、旧浜離宮恩賜庭園の南側を流れる古川(上部に首都高環状線が走る)に架かり、国道15号線(旧東海道)を渡す”金杉橋”とは違います。

■四谷(よつや);四谷見附の有った、五街道の甲州街道があった新宿の手前の街。現在の新宿区と千代田区の区境にある、四ツ谷駅がその地です。千代田区側には番町と麹町が有りますが、四谷は新宿区側で甲州街道に沿った細長い街になって居ます。
 当時は、四ツ谷伊賀町、四ツ谷忍町、四ツ谷御箪笥町、四ツ谷北伊賀町、四ツ谷坂町、四ツ谷塩町、四ツ谷伝馬町、四ツ谷仲町等がありました。

■吉原田んぼ(よしわらたんぼ);ここで平次さんのおでん屋が仕込みと店を出していました。遊郭吉原を取り巻く一帯に有った田んぼ地(台東区浅草3~6丁目と同千束1~3丁目の一部)。その南側が浅草寺。遊郭吉原に行くのに、蔵前の方から近道を行くと、浅草寺の境内を縦に突っ切り、浅草田んぼを行けば、その先に吉原の明かりが見えた。落語「唐茄子屋政談」に出てくる勘当された若旦那が、初めて唐茄子を担ぎなが売り歩き、気が付くとこの吉原田んぼに出て、吉原を遠くに見ながらつぶやく場面があります。若旦那の述懐が何ともほろ苦く遊びの世界と現実の世界のギャップをまざまざと見ることが出来ます。
 吉原と浅草寺の間だの土地を田町と言った。明治14年頃浅草田んぼが埋め立てられて、約2万1千坪が平地となり、その一部が田町という町名になった。安易な町名の付け方ですが、現在この地名はありません。田町とは江戸に(東京にも)同名の町名が他にも有りますが、落語の世界では断りを入れない限り、ここの”田町”が舞台です

金曜日, 1月 20, 2023

第二 かぢのおと(2-1)

 2-1 星一ツ残して落(おつ)る花火かな

 季語=花火(初秋)

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/2199

 【子季語】 煙火、揚花火、仕掛花火、打上花火、遠花火、花火舟、金魚花火、花火大会

【関連季語】 手花火

【解説】

種々の火薬を組み合わせ、夜空に高く打ち上げて爆発の際の光の色や音を楽しむもの。もともとは、秋祭りの奉納として打ち上げられた。日本一の四尺花火が打ち上げられる新潟県小千谷市の片貝地区では、子供の誕生や入学就職記念、追善供養など、生活の節目節目に、住民が花火を奉納する。

【来歴】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【例句】

一雨が花火間もなき光かな   其角「五元集」

もの焚て花火に遠きかゝり舟  蕪村「落日庵句集」

舟々や花火の夜にも花火売   一茶「一茶句帖」

 


「名所江戸百景 両国花火」(歌川広重(初代)画 安政5年(1858)刊)

https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5536

【 両国の花火を描いた有名な作品です。今でも隅田川の花火大会は多くの人に楽しまれていますが、江戸の人々も夜空に浮かび上がる光の芸術を心待ちにしていました。絵には「ポカ物」と呼ばれる花火の大輪が描かれていますが、江戸時代は花火の技術が発展した時代でもあり、江戸だけでなく、現在の長野県や愛知県などでも花火が作られ、打ち上げられていました。 】

 


https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige179/

【花火が開いた瞬間を広重はとらえ、独特な表現で描いています。幅を広めにぼかした「拭き下げぼかし」、摺師の腕の見せどころです。】

 (其角の「花火」の句)

   舟興

 壱両が花火間もなき光哉 (其角『五元集』)

    2-1 星一ツ残して落(おつ)る花火かな

 「句意」(その周辺)

 抱一は、寛政二年(一七九〇)の頃、その「梶の音」の序文に「筥崎舟守(はこざきのふなもり)」と署名しており、蠣殻町の、箱崎川に面した酒井家の中屋敷に転居していて、その中屋敷の主人の意を込めての、当時の抱一の号の一つである。

 その「梶の音」の、『屠龍之技(第二 かぢのおと)』では、その冒頭の一句ということになる。

 この箱崎川に面した酒井家の中屋敷は、墨田川と直結しており、其角の「舟興」との前書を有する「壱両が花火間もなき光哉 (其角『五元集』)」などの、「両国の花火大会」などが背景にある句のような雰囲気である。

 句意は、「隅田川の屋形船で、江戸の納涼の一大イベントである両国花火大会に興じている。今、そのクライマックスの打ち上げ花火が上がり、夜空一面に満天の星が輝いたと思うと、一瞬にして、闇夜となり、今や、中天には星一つが、なにごとも無かったように輝いている。」

(参考一)  「酒井家中屋敷周辺」


 「酒井家中屋敷周辺」(国立国会図書館 デジタルコレクション『〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図』, doi:10.11501/1286645)

http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/owariya/03/1850/3-275.html.ja

(参考二) 「江戸の花火」

 https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/4246738/

【 江戸両国で、毎年花火があがるようになったのは、享保181733)年から。この年の528日、隅田川の川開きに合わせて打ち上げられたのが最初だ。享保16年は旱ばつによって米は不作。翌享保17年は、イナゴの大量発生で西日本は大飢饉。江戸ではコレラが流行して多数の死者を出した。そのため、両国の料理茶屋が幕府に願い出て、「川施餓鬼」(「施餓鬼[せがき]」とは、死者の霊に飲食物を施すこと)を行い、慰霊のために花火を打ち上げた。以降、隅田川の川開きに花火が定着した。  

花火は、仕込みに手間がかかり冬の間から取りかかって時間をかけて作られる。当然高価になる。一発の相場は一両。一両が一瞬のうちに消えるさまを松尾芭蕉の弟子其角はこう詠んでいる。

   「壱両が花火間もなき光かな」

  だから花火のスポンサーになるには、相当な金が必要だったが、「残るものにはお金をかけず、消えてしまうものにはお金をかける」のが江戸っ子の心意気。こんな狂歌もある。

  「ここに来て金はおしまじ両国の 橋のつめには火をともせとも」

   (「橋の詰(つめ)」と「「爪(つめ)に火をともす」をかけている」)

  一瞬の光の美しさにお金をつぎ込む江戸っ子の精神は、実利主義一点張りの上方の人々には理解できなかった。実際、淀川や鴨川で花火が打ち上げられたのは、明治も中期以降のことだった。

  ところで、江戸時代の花火は、今の花火と比較すると極めて地味。色は、金色、オレンジ色、赤色しかなかった。上がり方も、派手な大輪を描く花火ではなく、シュルシュルと放物線を描いて落ちていく「流星」という花火が主流。花火が円形に開くのは明治71874)年以降、色が多様になるのは明治201887)年以降になってから。玉も小さく、幕末近くなってやっと四寸玉ができた程度。現在でも、四寸玉だと、上がる高さは160m、開いたときの直径は130m500mまで上がり、直径480mまで開く二尺玉とは華やかさの点では比べ物にならない。だから、そもそも江戸っ子のの美的感覚は今とは異なっていたのだと思う。

   糸柳のように名残惜しく枝垂れる姿が、粋好みと映ったようだ。そもそも江戸っ子は花火を、目で見て楽しんだだけではない。打ち上げの音と火薬の匂いも同時に味わった。通ともなると、花火に背を向けて、悠然と酒を飲みながら、音や振動で「今のは大きかったな」などと言い、さらには火薬の匂いも「甘い」「辛い」と嗅ぎ分けたそうである。江戸っ子の豊かな感性。何でも大きければいい、多ければいいというものじゃない。物事の多様な側面を五感をフル動員して十全に味わえるようになりたいものだ。

 (広重「東都名所 両国花火」) 広重ほど多くの花火を描いた浮世絵師はいない。花火の開き方も実に多様に描いている。   】

木曜日, 1月 19, 2023

屠龍之技(酒井抱一句集)第一こがねのこま(1-11)

 1-11 茅の実の四(よツ)もたら(足られ)でや暮遅し

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/1901

 季語=暮遅し(三春)。遅日(ちじつ)、遅き日、暮れかぬる、夕長し、春日遅々。

【解説】

 春の日の暮れが遅いこと。実際には夏至が一番日暮れが遅いが、冬の日暮れが早いので、春の暮れの遅さがひとしお印象深く感じられる。

【来歴】『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【例句】

遅き日のつもりて遠き昔かな 蕪村「蕪村句集」

遅き日や谺聞こゆる京の隅  蕪村「夜半叟句集」

遅日を追分ゆくや馬と駕   召波「春泥発句集」

軒の雨ぽちりぽちりと暮遅き 一茶「文化句帳」

 https://kigosai.sub.jp/kigo500c/778.html

 ※「茅の実」=榧の実(晩秋)。イチイ科の針葉樹で、高さ三十メートルにもなる。四月頃開花し、雌株に二、三センチの楕円形の実がつく。十月に緑色の外皮が紫褐色となり、裂けて種子が落ちる。独特の芳香があり、炒って食べる。

 「茅の実の四(よツ)もたら(足られ)でや暮遅し」の季語は「暮遅し」で、「茅の実」は、「お茶受け」などの食用の炒り榧の実の意で、季語の働きはしていない。

 ※「四()ツ」=「茅の実が四つ」と時刻の「(暮れ・夜)四つ=夜十時」とが掛けられている用例。

※「たらで」=「足らで」(足りない、満たない)の意。

  この句にも、前書の「傾郭」が係り、この句は「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)の句と解したい。

「名所江戸百景 廓中東雲」絵師:広重、版者:魚栄、行年:安政4

https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail268.html?artists=utagawa-hiroshige-1

「句意」(その周辺)

「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」を背景としている句である。一見すると、どうにも、チンプンカンプンの句であるが、中七の「四もたらでや」を「四()もたらでや(足らでや)」の詠みと解すると、前書の「傾廓」とドッキングして、「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」に関連しての句であろうというのが浮かび上がってくる。            

 とすると、この下五の「暮遅し」(三春)の季語が、当時の時刻の「朝四つ(夏=09:40、冬=10:20)」と「夜四つ(夏=22:20、冬=21:40)の、「夜四つ」で、それは「暮遅し」の「暮れ」が係り、暮れ四つ=夜四つ」ということになる。

さらに、この「暮遅し」の季語が、「夏至」と「冬至」による、微妙な「時刻の動き」を暗示していて、実に巧妙な句作りということ分かってくる。

それだけではなく、この上五の「茅の実」が、季語の「榧の実」(晩秋)なのかどうか、それとも、「茅花(つばな)」(仲春)の、その「花穂」(食用となる)なのかどうかとなると、これは、この句を作った抱一その人に問う他は術は無いという雰囲気の句である。

おそらく、季語的には、「茅花(つばな)」(仲春)の穂で、「暮遅し」(三春)と齟齬はなく、その意図するものは、季語の働きをする「榧の実」(晩秋)ではなく、吉原のお茶の茶受けの「炒り榧の実」を指してのもののように思われる。 


(句意その一) 「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」、まだ、お茶受けの「かやの実」を「四つ」にも手を出していない時刻なのに、ついこの間の暮れるのが早いのに比して、もう「こんな時刻」なのかと、春めいた遅日の夜の更けるのを実感する。

  これに、「夜四つ(22:2021:40)=鐘四つ=吉原大門を閉じる」と「暁九つ(24:00)=木四つ=引け四つ=各見世も大戸を下ろす。江戸新吉原の遊里で、遊女が張り見世から引き揚げる時刻。実際には九つ(午後12時)であるが、四つ(午後10時)とみなして拍子木を四つ打った。「木の四つ」と称して、「鐘四つ」と区別した」とを加味すると、次のような句意となる。

 (句意その二) 「遊郭吉原の暮れ四つ(夜四つ=吉原の大門を閉じる時刻)」を告げたら、まだ、お茶受けの「かやの実」を「四つ」にも手を出していないに、もう「引け四つ」の「木の四つ」の拍子木(「茅の実」と「榧の実」の「木=拍子木」を示唆している?)が聞こえてくるとは、何とも、春めいた遅日の夜の更けるのを実感するよ。

 (参考一)

 【 廓の一日

 https://www.edo-yoshiwara.com/kuruwa-2/kuruwa-day/

                                       廓の動き

 05:00     07:00     明六ツ   卯(う)           大門を開ける

昨日の泊まり客を見送った遊女たちがもう一眠りし始めます。朝帰りの客は中宿や茶屋で朝粥などを食べてから帰宅するのが習慣だったようです。中宿とは、前日登楼前に利用した船宿のことです。上客の場合、遊女が大門まで見送りに来ます。

07:20     08:40     朝五ツ   辰(たつ)          仕事の始まり

針仕事など、吉原で商売をする人々がやってくるのがこの頃のようです。

09:40     10:20     朝四ツ   巳(み)              遊女の起床時間

物売りがさかんに行き来するのもこの時間帯のようです。座敷の掃除や花生けなどもこの時間に行われます。

12:00     12:00     昼九ツ   午(うま)          昼見世始まる

昼見世までに遊女たちは入浴・髪結い・化粧をすませます。

14:20     13:40     昼八ツ   未(ひつじ)      昼見世

昼見世はあまり賑わいがなく、遊女たちは手紙を書いたり、本を読んだりして遊び半分過ごします。

16:40     15:20     昼七ツ   申(さる)          昼見世終わる

この時間から夜見世が始まるまでに、遊女たちは食事を済ませます。

19:00     17:00     暮六ツ   酉(とり)          夜見世始まる

夜見世開始の少し前、灯りをともす頃に道中があったようです。見世清掻き(みせすががき・単に清掻きとも)という開店を知らせるお囃子とともに遊女が張り見世につきます。

20:40     19:20     夜五ツ   戌(いぬ)          床に付く

賑やかな宴会も終わり、客と遊女は床に付きます。

22:20     21:40     夜四ツ   亥(い)              大門を閉じる

鐘四ツともいいます。この後は隣の潜り戸から出入りしたようです。四ツは正規の張見世終了時間なのですが、それでは営業にさしつかえるので、この時間を四ツとは言わず、次の九ツを四ツと言い張って時間を延長していました。

24:00     24:00     暁九ツ   子(ね)              引け四ツ

正しい四ツ(鐘四ツ)に対してこちらを引け四ツといいます。各見世も大戸を下ろし、横の潜り戸から出入りします。金棒をならしながら火の番が回ります。

01:40     02:20     暁八ツ   丑(うし)          大引け

客のついた遊女も、つかなかった遊女も就寝時間となります。一般的にこの時間が大引けと言われていますが、いくつかの資料によっては明治以降の呼び方としていたり、大引け=引け四ツとしていたり、未詳の部分があるようです。

03:20     04:40     暁七ツ   寅(とら)          後朝

客と遊女との別れを後朝(きぬぎぬ)といいます。朝帰りの客を茶屋の者が迎えに来始めます。当時非人溜と呼ばれた場所から清掃の者が来て、廓内の清掃をするのもこの時刻のようです。 

※不定時法の時間は九ツから始まり四ツまで減らしていき、また九つに戻ります。

暁(あかつき)・明(あけ)・朝(あさ)・昼(ひる)・暮(くれ)・夜(よる)といった言葉が入ることも入らないこともあったようです。

また、十二支による呼び方は武家社会や改まった時に使われていたようです。】

 (参考二)

【  吉原の正月

 https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p103/

 吉原の正月は静かである。

 元日の朝は居続けの客もなく、メインストリートである仲之町(なかのちょう)通りには人影がない。ひっそりとした音のない世界でもある。時折、時を告げる金棒引(かなぼうひき)が、金棒を引きずり鐶(かん)を鳴らし歩き、時を告げる柝(き)を打つ音がするだけである。

 吉原の大晦日(おおみそか)から元旦にかけて、若い者(妓牛〈ぎゅう〉とも言う)は大忙しである。「引け四ツ」が過ぎて客がいなくなると、通りに門松を出し、妓楼に向けて門松を飾る。通りに背を向けるのは、客が入りやすくするためのスペースを作るためだという。

 この「引け四ツ」は、吉原独特の時報で、九ツ(午前零時)を告げる直前に四ツ時(午後10時頃)を触れ回ることである。明暦3年(1657)の振袖火事で元吉原(中央区堀留町付近)も全焼し、浅草日本堤千束(せんぞく)村へ移転(新吉原)させられた。遠い郊外の地となったことから、吉原遊びは夜の営業が許されるようになった。しかし、四ツ時で営業を終了して大門(おおもん)を閉め、客を帰していたのでは夜の商売にならない。

 誰か頭の切れ者がいたらしく、九ツまでは四ツ時なのだから、九ツの直前に四ツ時を告げて回ればよかろうとなって「引け四ツ」が生まれた。

 大晦日は「引け四ツ」を合図に元日には客をとらないから大門は閉めきりとなり、若い者たちが通りに門松を出し注連縄(しめなわ)を飾る。何時(いつ)もは昼の八ツ時(午後2時頃)に若い者たちが格子を洗うのだが、正月を迎えるからと、九ツ過ぎに、あらたまる春を迎えるようにと、寒さのなか格子を洗う者もいただろう。

 さて、朝を告げる烏(からす)が鳴き出すと、新年を迎える。時代によっては、三日間、庭焚火(にわたきび)をしたようだが、幕末には廃ったようでもある。着物もあらためて内証(ないしょう。主人の居間)に遊女たち家内の者が一同に集まり、揃って雑煮を祝う。

 吉原の元日の朝は遅いから、昼近くになって妓楼の花形花魁(おいらん)は、若い新造(しんぞう)と禿(かむろ)たちを大勢連れ、日頃お世話になっている引手茶屋(ひきてぢゃや)へ挨拶に出向く。どこの妓楼も同じような時刻に雑煮の祝いも終わり、一斉に馴染(なじ)みの茶屋へ挨拶に出かけるから、仲之町通りは遊女などでラッシュアワーとなる。

 落語などでは、遊んだ後にキャッシュ払いをするような感じで噺(はなし)が進むが、それは吉原の最奥にある局見世(つぼねみせ)などの最下級の遊びの世界のことで、吉原の大見世(おおみせ。総籬〈そうまがき〉とも言う)や中見世(ちゅうみせ。半籬〈はんまがき〉とも)の客は、茶屋を通して遊びの勘定を支払う。つまり遣手婆(やりてばば)や太鼓持(たいこもち)へのチップなどは別にして、遊女の揚代や芸者代、料理代などに加えて、茶屋の手数料もすべて茶屋に立替えてもらい、それを後日まとめて支払うことになっている。だから吉原遊びを「茶屋遊び」とも言うわけである。 】

 (参考三)

 【 抱一と吉原 

 https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00885/

 姫路藩主の弟・酒井抱一(ほういつ、1761-1829)は、吉原の大文字屋の「香川」を身請けし、根岸(現・台東区)の雨華庵(うげあん)で創作に勤しんだ絵師である。歌舞伎の七代目市川団十郎の贔屓であり、俳諧や狂歌も得意であった抱一が、高級遊女たちと機知に富む会話を楽しんでいたことが、吉原近くの料理屋「駐春亭」の主人が聞き書きをまとめた『閑談数刻』に残されている(※2)。以下は、鶴屋の花魁・大淀とのやり取りである。

 ある人大淀かたへ馴染通ひけるに、鶯邨(おうそん、抱一の号)君も折々遊びに行給へるを、わけありての事成べしと人のうわさしけるを聞て、

  きのふけふ淀の濁や皐月雨

 と書て御めにかけたるに、鶯邨君、

 淀鯉のまだ味しらずさ月雨

 と、返しをなし給へるを聞て、大淀、

  ぬれ衣を着る身はつらし皐月雨

 といゝ訳てうち連、うなぎ舛やにて一盃のミ笑ひしと也。

大淀と馴染みになっている客が、抱一も時々遊びにくることを知って、深い仲なのではとやきもちを焼いた。そのうわさを聞いた大淀が、「このところの五月雨で、私に悪い評判が立っている(淀が濁っている)」と書いて抱一に見せたところ、「五月雨によって水が淀めば、鯉がいても見えないものさ」と詠み、自分が大淀と深い関係がないことや「大淀がまだ色恋の機微を知らない」ことにかけて返した。それに対して大淀は、「五月雨の中で着物が濡れるのはつらい」と、噂は「濡れぎぬ」であると訴える。2人は笑い合いながら、うなぎの舛屋で酒を楽しんだという。

 抱一は、神田明神や山王権現(現在の日枝神社)の天下祭りで、佐久間町(現・神田佐久間町)や魚河岸(現・日本橋)から参加する手踊(河東節)の作詞もしている。それに曲を付けたのが、吉原に住む高級ミュージシャンだった男芸者で、歌舞伎の地方(じかた)としても音楽を担当していた。出稼ぎ人らによって、江戸に持ち込まれた労働歌やざれ歌を、上品な長唄などにアレンジしたのも男芸者たちであった。 

 

                                   】