日曜日, 8月 20, 2023

第七 かみきぬた(7-5~7-8)

     卯春興

7-5 鴨のりて氷ながるゝ春日かな

  この前書「卯春興」は、「文化丁卯(文化四年・一八〇七・四十七歳)春興(正月歳旦・春興)」の句ということになる。

 「鴨」(三冬)、「氷」(晩冬)、「氷流る=流氷」(仲春)、「薄氷(春の氷)」(初春)、そして、「春日」(三春)、「初春」(新年)と、この句の主たる季語は、前書の「卯春興」の「春日」の「初春」(新年)の句と解したい。

 「初春(はつはる)」(三春)

≪【解説】年の始めをことほいで初春という。旧暦の年の始めは、二十四節気の「立春」のころにあたったので、「初春」と呼んで祝った。新暦に変わって冬に正月を迎えるようになっても、旧暦の名残から年の始を「初春」と呼ぶ。

【実証的見解】二十四節気は太陽暦に基づいて、一年の長さを二十四に分けたもの。その節入を「立春」や「啓蟄」、「秋分」などの言葉で区切る。二十四節気はもともと中国で生まれたもの。中国では、「立春」と立春の次の「雨水」を含む月を正月として年のはじめとし、これが日本にも伝わって、「立春(現在の二月四日ごろ)」を「正月節」、次の雨水を「正月中」というようになった。以下、啓蟄は「二月節」、春分は「二月中」、清明は「三月節」(以下略)である。旧暦は、月の満ち欠けを基本とした暦であるから、二十四節気に先行して月日が移ろうが、行過ぎれば「閏(うるう)月」を設けて月日を後戻りさせ、基本的には二十四節気に添って進行するのである。≫(「きごさい歳時記」)

  句意は、初春の、ここ紙洗橋付近の「山谷堀」(隅田川の今戸から山谷に至る間の掘割)に、越冬中の鴨が、流れ行く薄氷に乗って、そこに初春の初日が射しこめている。 

「山谷堀/今戸橋/慶養寺」(江戸名所図会より)

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue17.html

≪「待乳(まつち)しづんで、梢(こずえ)のりこむ今戸橋、土手(どて)の合傘(あいがさ)、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布(ほそぬの)

   右 英一蝶(はなぶさいっちょう)戯作」

挿絵の手前の川は隅田川でそこに注ぐ川には「今戸堀り」とあり、これが山谷堀です。堀には「今戸橋」が架かっており、その左上には「此辺船宿」とあります。絵の中央が「慶養寺」で「本堂」、「弁天」があります。遠景に「山谷」があります。≫

 

    鎌田の梅見にまかりて

7-6 萬歳を居並て待つ田舎哉

  この前書の「鎌田の梅見にまかりて」の「鎌田」は、下記の「蒲田の梅園」(現在の東京都大田区蒲田に所在した梅園)を指しているのであろう。

 季語は「萬歳=万歳(まんざい)」(新年)

≪【子季語】千秋万歳、万歳楽、御万歳、門万歳、三河万歳、加賀万歳、大和万歳、万歳大夫

【関連季語】才蔵市

【解説】新年を祝う門付けの一つであり、主役の万歳大夫と脇役の才蔵との二人組で行われる。その家が千年も万年も栄えるようにと賀詞をのべる。才蔵の鼓に合わせて舞ったり歌ったり、滑稽な問答を交わしたりする。

【実証的見解】万歳は出身地によって、三河万歳、大和万歳、尾張万歳などと地名を冠して呼ばれる。もともとは室町時代の下層民の千秋(せんず)万歳が起源とされる。主役の万歳太夫は、風折烏帽子に紋服姿で手に扇を持つ。脇役の才蔵は大黒頭巾をかむって鼓を打つ。昔、江戸では、「才蔵市」なるものが立ち、万歳太夫が相方の才蔵をその市で見つけたという。

【例句】

やまざとはまんざい遅し梅の花  芭蕉「真蹟懐紙」

万歳の踏みかためてや京の土   蕪村「落日庵句集」

万歳や門に居ならぶ鳩雀     一茶「七番日記」

万歳や黒き手を出し足を出し   正岡子規「寒山落木」

万歳も乗りたる春の渡かな    夏目漱石「漱石俳句集」  ≫(「きごさい歳時記」)

  句意は、この正月、何時もの「百花園」(向島百花園)の「梅見」でなく、遠出をして「鎌田村梅園」(「蒲田梅園」)に出掛けた。折から、新年を祝う門付けの「万歳」が来ていて、それを行列して見物するというのは、これは、やはり、田舎の梅見だと実感した。

 

「蒲田の梅園」(『絵本江戸土産』冊次2/二世歌川広重画。/嘉永3年(1850)~慶応3年(1867)刊。

https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hana/contents/02.html

≪現在の東京都大田区蒲田に所在した梅園(梅の木を多く植えた庭園)のこと。≫

 

7-7  はつ午やしるし斗りを揚豆腐

  季語は、「はつ午・初午(はつうま)」(三春)

≪【解説】二月の最初の午の日に行われる稲荷神社の祭礼で、午祭ともいう。京都深草の伏見稲荷をはじめ大阪の玉造、愛知県の豊川稲荷、また神戸の摩耶参など、各地の稲荷神社で盛大に行われる。二の午、三の午もある。

【実証的見解】稲荷信仰はもともと農事の神の信仰で、初午はその年の五穀豊穣を願うものであった。農家はこの日、稲荷社にお神酒や油揚げ、初午団子を供えたりした。

【例句】

はつむまに狐のそりし頭哉   芭蕉「末若集」

初午や物種うりに日のあたる  蕪村「蕪村句集」

初午やその家々の袖だゝみ   蕪村「蕪村句集」  ≫(「きごさい歳時記」)

  句意は、今日は、如月の「初午」の日、この日の「油揚げ」や「揚げ豆腐」は、それはそれとして、ここは、談林誹諧の井原西鶴師匠の「初午は乗ってくる仕合せ」(下記)を、夢みたい。

 

「▲はるばる江戸から大坂の水間寺まで銭を運んできた通し馬。運送馬(駄馬)の腹当には、縁起をかついで「仕合」「吉」「宝」という文字を書くのが通例であった。(小学館『新編日本古典文学全集68 井原西鶴集3』より)

 井原西鶴…1642~93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。俳諧では矢数俳諧を得意とした。庶民の生活を写実的に生き生きと描いた浮世草子の名作を多数書き、『好色一代男』『好色五人女』などの好色ものや、経済小説とも言える『日本永代蔵』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』などで知られる。」

http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=5

「初午は乗ってくる仕合せ」

江戸時代、初午(はつうま)の日(2月の初めに巡ってくる午の日。今年は2月5日は縁起がよく、物事を始めるのに良い日だとされた。

 初午にかかわるこんな話が、元禄元年〈1688〉年に刊行された井原西鶴(さいかく)の浮世草子(うきよぞうし)『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』の劈頭(へきとう)を飾っている(「初午は乗つてくる仕合(しあわ)せ」)。

 初午の日、泉州(せんしゅう。大阪府貝塚市)にある水間寺(みずまでら)は参詣人が多かったが、この寺には古くからのある風習があった。参詣した折に、寺から借銭するとご利益があるというのだ。お寺から3文(もん)、100文と銭を借りたとすると、翌年に借りた倍の6文、200文を返すという習わしであり、信者は決まって「倍返し」したものだった。

ある年の初午の日、年の頃なら23、4歳の質素な身なりをした男が水間寺へやってきて、「借り銭を一貫文(いっかんもん)欲しい」と言った。一貫文とは1両の4分の1、すなわち1000文(実際は960文)である。寺の役人は例のない高額で驚いたが、きっと倍返しをしてくれるだろうからと一貫文を渡したところ、男は借りたまま行方が分からなくなってしまった。

 じつはこの男は、江戸の小網町(こあみちょう。中央区日本橋)のはずれで船問屋(ふなどんや)「網屋(あみや)」をしている者であった。水間寺で金を借りて、漁師たちに貸付けようと考えていたのである。江戸に戻った男は、「仕合丸」と書いた引出しに水間寺の銭を入れておき、漁に出る漁師たちに、これは水間寺で借りた縁起がいい金だからと言って貸付けていた。その噂(うわさ)が広がって、漁師たちは100文借りたなら、無事に漁から帰ったら倍の200文を返すという具合に、倍返しが定着した。そして13年目になると、それが積もり積もって、8192貫文(819.2万銭)にまで増えた。

そこで男は、この銭8192貫文を「通し馬」(東海道を江戸から泉州まで同じ馬で運ぶ)で水間寺まで運び、お礼参りをしたのである。

  初午の日に借りた1貫文が、13年目におよそ8000倍、当時の換金レートにすると2048両に膨れあがった。ちなみに、これを西鶴は逆に、「借銀(かりがね)の利息程おそろしき物はなし」と慨嘆している。今でもローンの複利計算の利息は「おそろしき物」であろう。

さて、この男は、江戸から大坂まで銭8192貫文を返しに行くのに205頭の馬を連ねて行った。当時、駄馬(だば。荷物を専門に運ぶ馬)1頭に積める荷は40貫(約150㎏。銭は約4万文を積める)と決められているから、銭8192貫文を運ぶには205頭の駄馬が必要となる。

 ふつう駄馬は、2里運んで42文、江戸と大坂は130里とされるから、この計算でゆくと、1頭あたり(130里÷2里=6542文=2730文(約0.68両)の経費がかかる。帰りの空馬代を合わせて、1頭につき1両ほど運賃がかかったとすると、雇った通し馬205頭なら205両になり、2048両運ぶのに205両の運送費がかかった計算となる。

  一方、定飛脚(じょうびきゃく)の江戸為替での送金は手数料が5、6%程度だから、5%で計算しても、2048両×5%=102.5両となり、江戸為替のほうが半分の割安になっていた。

 約2倍の経費をかけてまでなぜ馬で運んだと思うだろうが、そこには男の計算があったのである。

 つまり、たとえ輸送費が高くついても「網屋」の宣伝になると男は考え、通し馬で東海道をパフォーマンスしながら水間寺に銭を運んだ。そんな宣伝上手のアイディアマンだった故に、この男は、西鶴がいう「親の譲りを受けず、その身才覚にして稼ぎ出し」儲(もう)けて、「武蔵にかくれなし」と、今で言えば首都圏でも有名な富豪になったという。

  親譲りの資産がなくても金持ちになれたという例は、現代で言えばIT産業の起業家が莫大(ばくだい)な資産を築いたものに匹敵しよう。

  だが、小説のモデルになった「網屋」の栄華も長く続かず、その存在は早く人びとの記憶から消えてしまったと西鶴は結んでいる。ひょっとしたら現代のIT産業で富豪になった場合も、アイディアが続かないと、この男の二の舞になるかも知れない。≫

  

7-8 芹摘みに出て孫もるす彦も留守 

  季語は「芹(摘み)」(三春)

≪【子季語】根白草、根芹、田芹、芹摘む、芹の水

【解説】芹は春の七草の一つで、若菜を摘んで食する。七草粥が代表的だが、ひたし、和え物にしたり香味料として吸い物に用いたりする。

【科学的見解】芹(セリ)は、在来の植物であり、田圃や池付近など湿り気のある場所に生育する。花期は、七月~八月であり、小さな白い花がたくさん集まった花序を形成する。名前は、水辺に群がって「競り(せり)」合うように増え、また花が咲くと草丈を「競り(せり)」合うことに由来する。(藤吉正明記)

【例句】

我がためか鶴はみのこす芹の飯  芭蕉「続深川」

これきりに径尽たり芹の中  蕪村「蕪村俳句集」 ≫(「きごさい歳時記」)

  句意は、春の七草の芹を所望と、訪ねた先の、その家の主「彦」さんこと「「山の神」の女性たちも、その「お孫」さんの子供たちも、「皆みなさん」留守でごわすわい。

 

喜多川歌麿「絵本四季花」より『若菜摘み』/寛政13年〈1801年〉/(ボストン美術館蔵)

https://www.benricho.org/koyomi/nanakusa-wakana.html

 (追記)

 この句自体では、「芹(摘み)」(三春)の句ということになるが、上記の「若菜摘み」(歌麿画)になると、「若菜摘(わかなつみ)」(新年)そして「子の日遊び」(新年)の光景となってくる。そして、掲出句の、「孫もるす彦も留守」というのは、何か仕掛けのある句のようで、この「彦」は、「山彦」=「山の神」(口やかましくなった女房)などの意が隠されているような雰囲気である。

 「若菜摘(わかなつみ)」(新年)

≪【解説】一月七日の七種の菜を摘むこと。古くから正月はじめての子の日に若菜を摘む習慣があったが、後に、七種に合わせて一月六日の行事になった。

【例句】

畠より頭巾よぶなり若菜つみ    其角「鳥の道」

ととははやす女は声若しなつみ歌  嵐雪「虚栗」

山彦はよその事なりわかな摘    千代女「千代尼句集」 ≫(「きごさい歳時記」) 

金曜日, 8月 04, 2023

第七 かみきぬた(7-2~7-4)

    駒宮如岡を悼(いた)みて

7-2 露霜に手を合()たる紅葉哉

  この前書の「駒宮如岡」と抱一の関係は不明だが、その追悼句であり、掲出句は、手の込んだ仕掛けのある句ではなく、「露霜」(晩秋)と「紅葉」(晩秋)との、「古歌」などを踏まえての「取り合わせ」の一句と解したい。

露霜の消やすき我が身老いぬともまた若反り君をし待たむ 『万葉集(12-3043)

(露や霜のように消えやすいわが身ですが、たとえ老いてもまた若返り、あなた様を待とうと思います。)

https://manyoshu-japan.com/10535/

朝霜の消ぬべくのみや時なしに思ひわたらむ息の緒にして 『万葉集(12-3043)

(朝霜はたやすく消えていくが、そのようにはかなく消えてゆくのみだろうかこの恋は。時を定めず恋い続けるだろう細々と。)

https://manyoshu-japan.com/10533/

こころとて人に見すべき色ぞなきただ露霜の結ぶのみにて<道元:傘松道栄>

(こころは元来無色、露霜も無色、色なき世界に色なきものが消滅するのみ)

https://suikan.seigasha.co.jp/mado54.htm

 

 この抱一の句は、「露霜」(晩秋)と「紅葉」(晩秋)と、季語が二つの「季重なり」の句で、さらに、「句切れ」からすると、「二句切れ」(二句一章体)とも、「句切れなし」(一句一章体)の句とも取れる、独特の構成を有している句とも言える。


 「句切れ」(「ウィキペディア」)

 露霜に・手を合()たる/紅葉哉     (「二句切れ」)

露霜に・手を合()たる・紅葉哉/  (「句切れなし」)

  この中七の「手を合()たる」というのは、追悼する作者(抱一)の所作で、これを、上記の「句切れなし」の句とすると、「紅葉が・手を合()たる」と、やや、自然の流れのようには思われない。

 また、季語の働きからすると、「二句切れ」でも、「句切れなし」でも、下五の「紅葉」が、主たる季語で、上五の「露霜」は、それを補完する、従たる季語ということになろう。

 

「句意」は、「『露霜』が一面を白覆っている。それは、忽然と亡くなった『駒宮如岡』が、姿を変えて現れたようにも思われる。しみじみと合掌し、在りし日の『駒宮如岡』を追悼する。眼を転ずれば、ことごとく、『紅葉』の世界である。」

  

    箕輪石川矦()口切出し

    給ふときゝて

7-3 軒にけふはこび手前の時雨哉

  この前書の「箕輪石川矦()口切出し/給ふときゝて」は、『軽挙館句藻』に、「箕輪石川候日向守口切出し給ふときゝて」とあり、「伊勢亀山藩の第4代藩主・伊勢亀山藩石川家9:『石川 総博(いしかわ ふさひろ)』(宝暦9年(1759)~文政2年(1819))」の「箕輪」の屋敷での「口切り茶事」関連の句ということになる。

 

「今戸箕輪・石川日向守の屋敷(「池波正太郎「「鬼平犯科帳」の短編「五月闇」)

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/323360

  掲出の句の季語は、「時雨」(初冬)。「冬の初め、降ったかと思うと晴れ、また降りだし、短時間で目まぐるしく変わる通り雨。この雨が徐々に自然界の色を消して行く。先人達は、さびれゆくものの中に、美しさと無常の心を養ってきた。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

一時雨礫や降て小石川                  芭蕉「江戸広小路」

行雲や犬の欠尿(かけばり)むらしぐれ  芭蕉「六百番俳諧発句合」

草枕犬も時雨るかよるのこゑ            芭蕉「甲子吟行」

この海に草鞋(わらんぢ)捨てん笠時雨  芭蕉「皺箱物語」

新わらの出そめて早き時雨哉          芭蕉「蕉翁句集」

 

「口切り」(くちきり)/初冬。「その年の新茶を葉のまま陶器の壺に入れ、口を封じて保存する。冬にその封を切り、茶臼でひいて茶をたてる。口切の茶事として客を招いてふるまう。もっとも晴れがましい茶会として、しつらいや装いに気を配る。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

口切に堺の庭ぞなつかしき            芭蕉「深川」

口切のとまり客あり峰の坊            太祗「石の月」

口切りや湯気ただならぬ台所          蕪村「落日庵句集」

口切りの庵や寝て見るすみだ河        几董「井華集」

口切りや寺へ呼ばれて竹の奥          召波「春泥発句集」

 

「口切り茶事ご案内状」

https://ameblo.jp/koisuruchakai/entry-12650644272.html

 「句意」は、「近くの、今戸箕輪の石川日向守の屋敷から、口切り茶事の案内状が届いた。折から、その茶事に相応しい時雨模様で、その茶事が行われる茶室の風情が、ありありと偲ばれてくる。」

     歳暮

7-4 鷹の棲む山は霞むかとし樵

  季語は、前書の「歳暮」を受けての「とし樵(年木樵)」(暮・仲冬)。「年内に、新しい年に使う薪を伐りだして来ること。伐り出した薪を年木といい、その山を年木山という。伐った木を里へ舟で運ぶこともあって、その舟は年木舟。薪は家裏などに積んで新年を迎えた。年用意のひとつである。」(「きごさい歳時記」)

 「鷹」(三冬)も「霞」(冬霞=三冬)も季語だが、ここは、「鷹が住む冬霞で茫々とした深山」の意で、「とし樵(年木樵)」(暮・仲冬)の補完的な用例である。

 

「樵夫蒔絵硯箱」(伝本阿弥光悦/江戸時代(17世紀)/一具 縦24.2㎝ 横23.0㎝ 総高10.1/MOA美術館蔵)

https://www.moaart.or.jp/?collections=203

≪ 蓋の甲盛りを山形に高く作り、蓋と身の四隅を丸くとったいわゆる袋形の硯箱である。身の内部は、左側に銅製水滴と硯を嵌め込み、右側を筆置きとし、さらに右端には笄(こうがい)形に刳()った刀子入れを作る。蓋表には、黒漆の地に粗朶を背負い山路を下る樵夫を、鮑貝・鉛板を用いて大きく表す。蓋裏から身、さらには身の底にかけて、金の平(ひら)蒔絵の土坡(どは)に、同じく鮑貝・鉛板を用いてわらびやたんぽぽを連続的に表し、山路の小景を表現している。樵夫は、謡曲「志賀」に取材した大伴黒主を表したものと考えられる。樵夫の動きを意匠化した描写力や、わらび・たんぽぽを図様化した見事さには、光悦・宗達合作といわれる色紙や和歌巻の金銀泥(きんぎんでい)下絵と共通した趣きがみられる。また、鉛や貝の大胆な用い方や斬新な造形感覚からは、光悦という当代一流の意匠家が、この制作に深くかかわっていることが感じられる。原三渓旧蔵。≫

 「句意」は、「この歳暮に、鷹の棲む冬霞で茫々とした深山に入り、年用意の薪の年木を切り出して、それを背負いながら、その深山から里へと向かっている。」