金曜日, 11月 11, 2022

北斎の狂句(その十)

 その十 明キ株は三郎坊に中天狗

明キ株は三郎坊に中天狗(ちゅうてんぐ) 卍 文政八年(一八二五)

●明キ株=「株」=「特定の集団が、その構成員を身分・資産・業務などによって限定して認めた場合、その資格が権利化したものをいう。封建的な身分制度が確立した江戸時代に、身分、格式、業務が世襲継承され固定してくると、これが株となった。株には、主として社会的理由によるものと、経済的理由によるものの2種類が考えられる。たとえば武士の御家人(ごけにん)株、郷士(ごうし)株、町人の名主株、家主株、農民の百姓株などは前者であり、商人、職人などが営業上の利益のために結成した仲間組合の株などは後者の例である。株は権利であるから売買、譲渡が行われた。しかし御家人、名主のような身分は、実質上株化して売買されていても、形式上は養子相続などの形をとり、表面には現れない。しかし商人、職人仲間の株などは領主にも公認され、株仲間などがつくられた。」(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)「明(空)キ株」=売りに出された株。

 ●三郎坊=「太郎坊(長男)・次郎坊(次男)・三郎坊(三男)」の「三男坊」で、ここは、

「太郎坊天狗(「愛宕太郎坊天狗」など)・「次郎坊天狗(「比良次郎坊天狗」など)に比し、「三郎坊天狗」は、「四十九天狗」などの呼称には出てこない。すなわち、珍しいという意のようである。

 ●中天狗=「大天狗(「鼻が高い天狗」など)・中天狗・小天狗(「鳥の姿をした天狗」など)の「中天狗」で、この「中天狗」も「天狗」の別称などには使われない。これまた、珍しいということになる。

 大天狗の鼻やちよつぽりかたつむり (一茶)  夏動物/蝸牛/文政句帖/文政7

鳴き虫(を)つれて行くとや大天狗 (一茶)     /人事/神の旅/文政句帖/文政7

大天狗小天狗とて冬がれぬ(一茶)                 /植物/冬枯れ/七番日記/文化11

 

句意=貧乏旗本などの身分の「売り買い」は、「太郎坊天狗・次郎坊天狗」や「大天狗・小天狗」のように、耳にすることもあるが、我が「卍」らの「葛飾連」の「連=株=仲間入り」に関しては、「三郎坊天狗・中天狗」の類で、その正体は、さっぱり表には出てこない。

  この句がつくられた文政八年(一八二五)に、その「年譜」(『北斎館肉筆画大図鑑』所収「葛飾北斎年譜」)に因ると、「川柳選句集『俳風柳多留』八十五編(四代川柳輯)に序文を寄せ北斎作十九句が載る」と記されている。その北斎の「序」は次のものである。

 【 敷島の道ハ正(ただしふ)して動ず。縦(たとへ)バ人の立(たて)るに等(ひと)し。是(これ)(しん)と言(いふ)べきや。連俳(れんぱい)ハ前句(ぜんく)の意を伝(つた)へて其(その)(さま)を異(こと)にす。巻中自(おのずから)(あゆ)むが如(ごと)し。亦(また)(ぎやう)ならずや。されバ此(この)風詠は滑稽を元とし、興(きやう)を縱(ほしいまま)にす。聞人(きくひと)咄笑(とつせう)して、能(よく)世に走るを以(もつ)て艸(さう)とせんか。しかも川柳(かハやなぎ)の枝葉(しえふ)繁茂もして、八十五編の著名を分(わか)つ。夫()が中に女郎花(をみなへし)と呼べる名に愛(めで)て馬喰町に居()る清屎(きよくそ)の主(あるじ)一ト年(ひととせ)風流の筵を開き、四方(よも)の好子(かうし)を勧めて、何百有余吟(ぎん)を集め川柳(せんりう)翁の撰(えら)みを乞()ふ。甲乙の位定(さだま)りて、上木(じうぼく)して集の末編に備(そな)ふ。僕(やつがれ)(その)席に連(つらな)るを以(もつて)(これ)に序(じよ)せよとなり。幼より画を好むの癇癪(こへき)ハあれど文編(ぶんへん)の筵を窺(うかが)ふの眼(まなこ)なく、烏焉馬(うえんば)の誤(あやまり)いかにせんと再三辞すといへども赦(ゆる)さず。止事(やむこと)を不得(えず)して丹青の筆を霏(そそ)ぎ鈍(にぶ)き墨を点(てん)じ、文に似(にた)るを記(しる)す。観(みる)人咎(とがむ)る事(こと)(なか)れ。

于時(ときに)文政酉(とり)の夏前             北斎葛飾為一述卍   】(『謎解き 北斎川柳(宿六心配著)』p10-11

  この北斎の「序」中の「※烏焉馬(うえんば))を、「私本『葛飾北斎ハンドブック』年譜で辿る画工の生涯(改訂版)」:東京都台東区生涯学習「葛飾北斎研究会」村井 信彦」では、「※烏亭焉馬(うていえんば)(落語中興の祖。17431822)の勧めでしかたなく序文を書いたというのである」と、「江戸中期の俗文壇の万般に通じた世話役」ともいうべき、「烏亭焉馬」(「立川焉馬」「「立川談洲楼」」「談洲楼焉馬」「「鑿釿言墨曲尺(のみのちょうなごんすみかね)」)を登場させている。

 【 ※烏亭焉馬(うていえんば)

没年:文政5.6.2(1822.7.19)

生年:寛保3(1743)

江戸中期の戯作者。当時の劇文壇、劇界のパトロンとしても知られた。江戸相生町住の大工棟梁を家職とし、通称を和泉屋和助というが、天明末年(1789年ごろ)に町大工となる。戯作は安永6(1777)年ごろから手を染め,活動はほとんどのジャンルにわたる。また,平賀源内や大田南畝などとの親交を通じて、やがて江戸浄瑠璃の作者となり、芝居関係にも顔の利く存在となって、市川団十郎の贔屓団体「三升連」を組織して、代々の団十郎をおおいに守り立てた。晩年、団十郎の顕彰を意図して刊行した『花江戸歌舞伎年代記』(181115),江戸歌舞伎の根本資料として貴重である。一方、天明末年には新作の落咄の会を創始し、落語中興の祖とも称されている。戯作と芝居と狂歌と落咄という、江戸中期の俗文壇の万般に通じた世話役という役所をつとめた親分肌の人物であったらしい。<参考文献>延広真治「烏亭焉馬年譜」16(『東京大学教養学部人文科学科紀要』19823月号他)

(中野三敏)    】 (「 朝日日本歴史人物事典」)   

 


「落噺詞葉の花(おとしばなしことばのはな)」烏亭焉馬編 寛政9年(1797)刊

https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/rakugo/page1-1.html

『 烏亭焉馬編『喜美談語(きみだんご)』の後編に当る、「咄の会」の咄本第二集で、寛政84月初めより10月末までの間に、焉馬が披露した落し噺中より4751話を選び、出版したものです。

 序題は『落噺六義(おとしばなしりくぎ)』。『古今和歌集』の和歌六義(わかりくぎ)(そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌)にならって落し噺を分類している点に特色があります。

口絵は三升連(焉馬の主催した五世市川団十郎の贔屓連中の名称)の紙を吊した玄関に、武士・僧侶たち三人が入ろうとする絵で、「咄の会」に集まってくる人々の様子が窺えます。』(「東京都立図書館」・「大江戸エンターテインメント」)

 

 この口絵の、左側の玄関に張り出されている紙に書かれているのが、五世市川団十郎の「三升」連(焉馬の主催した五世市川団十郎の贔屓連中の名称)である。


「市川團十郎 (5代目)」(「ウィキペディア」)

『恋女房染分手綱』の竹村定之進=市川鰕蔵(五代目市川團十郎)の竹村定之進、『恋女房染分手綱』より(「東洲斎写楽」画)

  これは「写楽」画の「五代目市川団十郎」の演ずる「『恋女房染分手綱』の竹村定之進」であるが、「歌川豊国」画の「五代目市川団十郎と孫の市川新之助(七代目團十郎)」を描いたものは、次図のとおりである。


『寛政8年に引退する際に出された絵。「一世一代口上」と題して、「当顔見世かぎり隠居仕り候に付き、御贔屓様方へおいとまごいの為口上を以て申上げ奉り候」と役者を引退すること、さらに孫の市川新之助(七代目團十郎)をのちのちまで贔屓にしてくれるようにと頼んでいる。歌川豊国画。』(「ウィキペディア」)


20205月、十三代目市川團十郎白猿の襲名披露を発表」

https://www.kabuki-bito.jp/news/5258/

20205月、6月、7月歌舞伎座で、市川海老蔵が十三代目市川團十郎白猿を襲名することが発表されました。同時に、海老蔵長男の堀越勸玄が八代目市川新之助として初舞台を行います。』(「歌舞伎美人」)

(追記)

自殺や早世…十三代目襲名の海老蔵が背負う“市川團十郎の重圧と業” (msn.com)

(参考その一)「私本『葛飾北斎ハンドブック』年譜で辿る画工の生涯(改訂版)」:東京都台東区生涯学習「葛飾北斎研究会」村井 信彦」での、(北斎の川柳)(柳多留85 )(柳多留86 )(柳多留88 )」(抜粋)

   (北斎の川柳)  p509-510

安永5 年(1776)・寛政元年(1789)に「可候(かこう)」(草双紙作者)、文化2 年(1819)に「錦袋(きんたい)」、同23 年からは「万二」「万仁」「萬二」「万治」「万子」と「まんじ」と読む俳号が登場するが、いずれも北斎とは別人と考えられる。文政8 年(1825)の『誹風柳多留』85 扁では序文を書き、本格的に卍号を使用し始めた。作句は天保15 年(弘化元年:1844)まで続けたと思われる。その間、文政11 年(1828)に「カツシカ」、晩年には「万字(まんじ)」「百姓(ひゃくしょう)」「百性(ひゃくしょう)」なども使用している(以上は田中聡『北斎川柳』2018 河出書房新社 p1517 の記載を参照した)。】

 【 (柳多留85 )    p517-518

 ☆団子屋(だんごや)の夫婦喧嘩は犬も喰くい  卍(犬も食わない夫婦喧嘩も、団子屋の喧嘩は飛び散った団子を犬が食う)

☆黄色なゑり巻和尚さまきつい好(すき)  卍(黄色の襟巻きの高僧は、襟巻き同様、男色の狭くてきついのが好き)

 

☆誰が嗅かいで見て譬(たとえ)たか河童の屁   卍(屁の河童というが、いったい誰が嗅いで譬えたというのか)→ 北斎の狂句(その七)

https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_3.html

 

☆鳥指(とりさし)ハ生きた雀の帯を〆(しめ)  卍(鳥指しは捕まえた雀を生きたまま腰の帯に挟み込み、後で鷹匠に渡す)

 

※☆誰がかいで見て譬(たとえ)たか河童の屁   卍(他者評により前出。但し、表記に異同あり)   → 北斎の狂句(その七)

https://yahantei.blogspot.com/2022/11/blog-post_3.html

 ☆いろはへ花のちりにるハ比叡おろし     卍(比叡山に縁のある上野寛永寺の坊主が、花の散るようにぞろぞろと不忍のいろは茶屋を目指す)

☆とかく葛(くず)の葉は後(うし)ロろからさせ勝手   卍(安倍清明の母・葛の葉は狐の化身。交接は後からのし放題)

☆大道(だいどう)(なふ)おして昌平(しょうへい)まで柳   卍(無)(浅草御門から昌平までの柳の大道は吉原通いの人出が多い)

☆新造(しんぞう)を備後(びんご)(おもて)へのり出させ    卍(経験浅い新造は、備後表の畳に船を乗り出すように頭が蒲団の上に出る)

☆気行(きゆき)の情(じょう)を能(よく)真似(まね)るので流行(はやり)   卍(いく表情や仕草が演技ながら上手なので人気の遊女だ)

☆足ながの三里(さんり)手長がすへてやり   卍(足長の男の三里には手長の男が灸を据えてやる。『山海経』から)

☆頭(かしら)()をひろつて夫婦ツマト呼ヒび   卍(妻も夫もツマと呼ぶ。妻のツビ、夫のマラの頭文字も続ければツマ)

☆真直(まっす)ぐな樫木(かた)ぎの棒を母の杖(つえ)   卍(真っ直ぐな硬い棒が母の杖になる。堅気の真面目な息子の棒も義母の棒だ)

☆見附物(みつけもの)だと突つき合あわぬ鳩仲間   卍(口うるさい見附の番人のいる所の鳩は、互いに突つかずに、付き合わない)

☆雪の朝親を炬燵に呵しかり込ミ   卍(雪の朝、仕事を装い遊郭に行こうとする父親を炬燵に入れと諫める子)

☆売(うり)居だなのやうに御寺(おてらの煤(すす)はらひ   卍(売り家のように堂内をからっぽにしての寺の煤払い)

☆化物の息子三郎(さぶろう)ツ首(くび)ぐらゐ   卍(六郎っ首の息子だから三郎っ首ぐらいのものだろう)

☆鉄壁(てっぺき)も通ふれと浅黄(あさぎ)おやしてる   卍(遊郭で、浅黄木綿の田舎侍が鉄壁も破らんと勃起して控えている)

☆干()蛸魚(だこ)()と麩()となり果(はてる)口惜(くちおし)  卍(干蛸の足を藁で包んだようなあそこの元気も、柔らかい麩のようになった悔しさ)

 

(柳多留86 )    p518-519

 ☆御薬(おやく)(えん)(あお)(びょう)(ママ・たん)がゑんを這はひ   卍(小石川薬草園の療養所の縁側に青ざめた病人が寝ている)

☆灰(はい)小屋(ごや)の出逢イ穣いが栗ぐり投入れ   卍(灰を貯える小屋での密会は、覗いた男に嫌がらせで毬栗いがぐりを投げ込まれる)

☆紅葉ふみわけぐんにやりと鹿の屎(ぐそ)   卍(紅葉踏み分け、なんと鹿の屎を踏む。猿丸太夫の歌を踏まえる)

☆御薬(おやく)(えん)(あお)(びょう)(ママ・たん)がゑんを這はひ   卍(他者評により前出)

☆ 鮞(はららご)と唐(とう)もろこしハ又いとこ   卍(魚の卵のつぶつぶはトウモロコシと似ていて従姉妹いとこの従姉妹か)

☆紅葉ふみわけぐんにやりと鹿の屎(ぐそ)      卍(他者評により前出)

☆小当(こあたり)のこたつにむすこ首ツたけ  卍(娘と炬燵に入り、息子は相手の気持ちを探る。息子も元気)

☆雪かきの十(じゅう)のふの出る美しさ   卍(冷たい雪かきに、炭火を運ぶ十能じゅうのうを持って出てくる娘の美しさ)

☆唐(とうの)節季候(せきぞろ)チャルメラで踊り込み   卍(割竹を鳴らす門付けの節季候が、チャルメラを鳴らす唐人だ)

☆ふん付けたかとおもわれる乱(らん)拍子(びょうし)   卍(能「道成寺」の足踏みの舞は踏んづけたよう。「糞」に掛ける)

☆二に間柄(けんえ)の蛇皮線(じゃびせん)を弾く手長(てなが)(じま)   卍(一間いっけんの柄()を二間にして蛇皮線を弾く『山海経』にある手長国の女)

☆天狗の管弦簫(しょう)の笛をバば吹(ふか)  卍(天狗は管弦も得意だが、簫は鼻が邪魔して吹くことができない)

☆すくはせ給へ御十(ごじゅう)()のあづきがゆ   卍(御十夜の日のあずき粥。私を救うように掬ってください)

☆惣(そう)(どう)()女房と共に身をしづめ    卍(借金で、女房は身売りし、火鉢の高価な銅の燗付けまでも売りに出す)

☆新道しんみちへ金のなる木をやりたがり 卍(横町の細い新道には妾が多い。娘も妾にして裕福に暮らさせたい)

☆いゝの〱いいのを尻で書ク大年増(だいどしま)   卍(大年増は娘と違い、指ではなく「いいの」を恥じらいなく畳に尻で書く)

☆灸点(きゅうてん)に勇士(ゆうし)(うし)ロろを見せる也(なり)  卍(敵に後ろを見せない勇士も、灸を据えるときは背中を見せてやせがまん)

☆彫物の有るが稲荷の吾妻ツ子   卍(浅草稲荷町の寺は彫刻が多い。彫物のある寺も男も江戸っ子の自慢)

☆灸点(きゅうてん)に勇士(ゆうし)(うし)ロろを見せるなり   卍(他者評により前出。但し、表記に異同あり)

 ※※☆明キ株は三郎坊さぶろうぼうに中天ちゅうてん狗ぐ  卍(長男・次男ならぬ三男坊や大天狗ならぬ中天狗には株がなく、一人身が多い)

   北斎の狂句(その十)=冒頭の句・句意

(再掲)

 句意=貧乏旗本などの身分の「売り買い」は、「太郎坊天狗・次郎坊天狗」や「大天狗・小天狗」のように、耳にすることもあるが、我が「卍」らの「葛飾連」の「連=株=仲間入り」に関しては、「三郎坊天狗・中天狗」の類で、その正体は、さっぱり表には出てこない。

 

☆六部宿(ろくぶやど)千手観音(せんじゅかんのん)背負(しょわ)せられ   卍(六十六部が泊まる安宿では、千手観音と称す虱をうつされる)

☆ふへますに気がへりますと姑(しゅう)とめいゝ   卍(娘に子が増えたけれど、私は白髪や皺が増えて気が滅入る)

☆大切な屎(ぐそ)を見に来る小児(しょうに)医者(いしゃ)  卍(もっともらしく診察で子どもの屎を見に来る小児医は胡散臭い)

☆我ながらくさめを笑ふ鏡磨キ   卍(銅の鏡面を磨きながらくしゃみをした自分の変な顔に思わず苦笑い)

☆振袖と羽織を吃(ママ・吠ほえ)る村の犬   卍(村には珍しい振袖姿の娘や羽織の男。胡散臭さに犬も吠える)

☆其(その)腰で夜ルも竿さす筏(いかだ)乗り  卍(木場のいなせな筏乗りは、そのしっかりした腰で夜も竿さすのか)

☆さめての上の御分別(ごふんべつ)黒に染()メ   卍(色褪た着物はよく思案して古さの目立たない黒に染め直そうか。『仮名手本忠臣蔵』七段目「一力茶屋」の場での平右衛門の台詞「醒(さめ)ての上の御分別、無理を押へて三人を」を踏む)

 

(柳多留88 )   p519

 ☆猪子(いのこ)から櫓(やぐら)の下でたゝきばき   卍(猪子の日は炬燵こたつ開きの日。炬燵の下は男女の舞台。触れた手を叩く)   

 

(参考その二) 北斎の画号・戯作名(狂句名など)とその使用年代(『謎解き 北斎川柳(宿六心配著)』を中心に『北斎川柳(田中聡著)などで補筆)) ※は「主要狂句名」

 春朗(しゅんろう)  20歳~35歳     安永8(1779)~寛政6(1794)

群馬亭(ぐんばてい)26歳~35歳   天明5(1785)~寛政6(1794)か?

百琳宗理(ひゃくりんそうり)36歳~38    寛政7(1795)~寛政9(1797)

俵屋宗理(たわらやそうり) 37歳 ~39   寛政8(1796)~寛政10(1798)

北斎宗理(ほくさいそうり)38歳~39    寛政9(1797)~寛政10(1798)

北斎(ほくさい)  38歳~60歳        寛政9(1797)~文政2(1819)

※可候(かこう)39歳~52歳               寛政10(1798)~文化8(1811)

 不染居北斎(ふせんきょほくさい)40歳 寛政11(1799

辰政(ときまさ)40歳~51歳          寛政11(1799)~文化7(1810)

画狂人(がきょうじん) 41歳~49歳    寛政12(1800)~文化5(1808)

※錦袋舎(きんたいしゃ)46歳~50歳    文化2(1805)~文化6(1809)

九々蜃(くくしん)  46歳               文化2(1805)

画狂老人(がきょうろうじん) 46歳~47歳 文化2(1805)~文化3(1806)

  75歳~90歳 天保5(1834)~嘉永2(1849)

戴斗(たいと)52歳~61歳            文化8(1811)~文政3(1820)

雷震(らいしん) 53歳~56         文化9(1812)~文化12(1815)

鏡裏庵梅年(きょうりあんばいねん)53歳 文化9(1812)

天狗堂熱鉄(てんぐどうねってつ) 55歳 文化11(1814) 

 為一(いいつ)   61歳~75歳             文政3(1820)~天保5(1834)

前北斎為一(ぜんほくさいいいつ)  62歳~74歳  文政4(1821)~天保4(1833)

不染居為一(ふせんきょいいつ) 63歳                   文政5(1822)

月癡老人(げっちろうじん) 69歳                     文政11(1828)

※卍(まんじ) 72歳~90             天保2(1831)~嘉永2(1849)

(万二・万仁・満二・満仁・万治・百々爺=ももんじい・百×百=万)

三浦屋八右衛門(みうらやはちえもん) 75歳~87歳  天保5(1834)~弘化3(1846)

※百姓八右衛門(しゃくしょう八右衛門)75歳~87歳 天保5(1834)~弘化3(1846)

土持仁三郎(つちもちにさぶろう) 75歳       天保5(1834)

藤原為一(ふじわらいいつ)88歳~90歳     弘化2(1846)~嘉永2(1849)

  

(参考その三)『北斎年譜 』永田生慈「葛飾北斎年譜」より(「島根県立美術館浮世絵コレクション」)

https://shimane-art-museum-ukiyoe.jp/life/nenpyo/index.html

※本年譜は、永田生慈「葛飾北斎年譜」(『北斎研究』二十二号 1997年)に記載された「主な事蹟」、「作品」について抜粋したものです。「年齢」は数え年です。「作品」には、近年発見された作品も追加したほか、作品名について一部近年の表記に統一しました。「作品」に付随する( )内は、作品中にある北斎の署名です。「作品」末尾の[ ]は、本サイトの作品番号を示しています。版画作品(錦絵・摺物・版本)の所蔵先は主な所蔵先例を記載しました。「作品」で所蔵先の表記がないものは当館所蔵品です。「作品」について、制作年未定または制作期の幅が大きい作品は割愛しました。

 宝暦十年(1760             1        ・九月二十三日、江戸本所割下水に出生したという。

幼名を時太郎、のち鉄蔵と名乗ったという。(『葛飾北斎伝』より)父親は川村某、倉田某、

二代中嶋伊勢の長男など諸説ある。

宝暦十三年(1763          4        ・この頃、幕府御用鏡師中嶋伊勢の養子になるという。また壮年期の事ともいわれる。(『曲亭来簡集』馬琴覚書より)

明和二年(1765             6        ・この頃より好んで絵を描くという。(『富嶽百景』、『画本彩色通』より)

安永二年(1773             14      ・この頃、彫師の修行を始めるという。(『葛飾北斎伝』より)   

安永四年(1775             16      ・洒落本『楽女格子』(雲中舎山蝶作)、末六丁の文字彫りをしたという。(朝倉夢声「浮世絵私言」、『葛飾北斎伝』より)

安永七年(1778             19      ・勝川春章に入門するか。

安永八年(1779             20      ・「春朗」号で、作品を発表し始める。・細判錦絵 《三代目瀬川菊之丞 正宗娘おれん》(勝川春朗画)・細判錦絵 《四代目岩井半四郎 かしく》(勝川春朗画) 

安永九年(1780             21      ・細判錦絵 《四代目岩井半四郎 おかる》(勝川春朗画)・黄表紙 『白井権八幡随長兵衛 驪比異(翼)塚』(作者不詳・勝川春朗画) 東京都立図書館蔵(加賀文庫)

天明二年(1782             23                    ・細判錦絵 《五代目市川団十郎 あげまきのすけ六》(勝春朗画) 日本浮世絵博物館蔵 ・黄表紙『はなし〈柱題〉』(自惚門人皆山五郎治・作・勝春朗画)・洒落本 『富賀川拝見』(蓬萊山人帰橋述・春朗画)

天明四年(1784             25                    ・細判錦絵 《市川団十郎 悪七兵衛景清・市川門之助 畠山重忠》(無款) ・この頃、大判錦絵 《花くらへ 弥生の雛形》(無款)ヵ・談義本『教訓雑長持』(伊藤単朴作・右十葉勝川春朗画)

天明五年(1785             26      ・本年から翌年にかけて「群馬亭」の号を用いる。・黄表紙『親譲鼻高名』(可笑門人雀声作・春朗改群馬亭画)

天明六年(1786             27      ・黄表紙『我家楽之鎌倉山』(作者不詳・群馬亭画)・黄表紙『前々太平記』(自惚山人戯作・勝春朗画) ・黄表紙『二一天作二進一十』(通笑門人道笑作・群馬亭画)

天明七年(1787             28      ・小伝馬町に住むとされるが未定。(『葛飾北斎伝』より)・摺物(大小)《五代目市川団十郎の暫》(春朗画) ケルン東洋美術館蔵

寛政元年(1789             30                    ・細判錦絵《三代目大谷廣次 濡髪の長五郎》(春朗画)・細判錦絵《五代目市川団十郎 かげきよ》(春朗画)・摺物(大小)《十六むさしで遊ぶ子供》(春朗画)

寛政二年(1790             31      ・本年頃、葛飾に住むか。(翌年の摺物《弓に的》に「葛飾住春朗画」とあり)・細判錦絵《五代目市川団十郎 ともへ御ぜん》(春朗画)・この頃、細判錦絵 《新板おどりゑづくし》(春朗画)ヵ  ・この頃、将棋本『駒組童観抄』(高久隆編・春朗画)ヵ

寛政三年(1791             32      ・細判錦絵二枚続《市川蝦蔵の山賊実は文覚上人・三代目坂田半五郎の旅僧実は鎮西八郎為朝》(春朗画) 東京国立博物館蔵・摺物(大小)《寛政三弓始(弓矢と的)》(葛飾住 春朗画)・市村座絵本番付『岩磐花峯楠』(無款)・富本節正本『女夫合愛鉄槌』(春朗画)

寛政四年(1792             33      ・十二月八日、師・勝川春章没す。・細判錦絵《市川鰕蔵 かげきよ》(春朗画) ・黄表紙『昔々桃太郎発端説話』(山東京伝作・春朗画)

寛政五年(1793             34      ・本年か翌年頃、狩野融川に破門されるとされるが異論あり。(『葛飾北斎伝』などより)・この頃、摺物《冷水売り》(叢春朗画)ヵ ・この頃、俳諧絵半切《鎌倉勝景図巻》(叢春朗)ヵ・黄表紙『貧福両道中之記』(山東京伝作・春朗画)・この頃、肉筆画《婦女風俗図》(無款)ヵ  ・この頃、肉筆画《鍾馗図》(叢春朗画)ヵ  

寛政六年(1794             35      ・春朗号を廃して「俵屋宗理」を襲名するか。・黄表紙『福寿海无量品玉』(曲亭馬琴作・無款)

寛政七年(1795             36      ・本年か翌年頃、浅草第六天神脇町に住むか。(『浮世絵類考』より)    ・摺物(大小)《大筒》(宗理写)・摺物(大小)《座敷万歳》(宗理画)・狂歌本『狂歌歳旦 江戸紫』(万亀亭花の江戸住撰・宗理画)

寛政八年(1796             37      ・摺物(大小)《懐通辰己楼》(百琳宗理画) ベルリン東洋美術館蔵・摺物(大小)《元結作り》(宗理画)・摺物《花卉》(北斎宗理画)  ・狂歌本『帰化種』(清涼亭菅伎撰・百琳宗理画) シカゴ美術館蔵・この頃、狂歌本『四方の巴流』(狂歌堂真顔撰・北斎宗理画)ヵ・この頃、肉筆画《夜鷹図》(北斎宗理画)ヵ 細見美術館蔵・この頃、肉筆画《瑞亀図》(北斎宗理画)ヵ 奈良県立美術館蔵・この頃、肉筆画《玉巵弾琴図》(北斎宗理画)ヵ 個人蔵

寛政九年(1797             38      ・摺物《曙艸(吉野山花見)》(北斎宗理画)・摺物《巳待の御札》(宗理画) ・狂歌本『柳の絲』(浅草庵市人撰・北斎宗理画)・狂歌本『さんたら霞』(三陀羅法師撰・北斎宗理画) 大英博物館蔵

寛政十年(1798             39      ・本年か寛政十二年頃、林町三丁目甚兵衛店に住むという。・江戸長崎屋に滞在中のカピタンより、絵巻の依頼を受けるという。(『古画備考』より)・「宗理」号を門人の宗二に譲り、「北斎辰政」へ改名する。・摺物《石なご遊び》(北斎宗理校合)・摺物《亀》(北斎辰政画)・黄表紙『化物和本草』(山東京伝作・可候画)・狂歌本『春興帖』(森羅亭万象撰ヵ・北斎宗理画)・狂歌本『男踏歌』(浅草庵市人撰・北斎宗理画) 大英博物館蔵・この頃、活花教本『抛入花の二見』(十楽坊鬼丸編・北斎宗理画、完知など)ヵ ・この頃、肉筆画《小野小町図》(北斎画)ヵ ・この頃、肉筆画《人を待つ美人図》(北斎画)ヵ ・この頃、肉筆画《大仏詣図》(北斎画)ヵ 

寛政十一年(1799          40      ・二月、三囲稲荷開帳に提灯と扁額を描く。(『寛政紀聞』より)・摺物(大小)《風呂上がりの母子図》(無款)・摺物《屠蘇を飲む福禄寿》(宗理改北斎画)・狂歌本『東遊』(浅草庵市人撰・画工北斉(ママ)) 

寛政十二年(1800          41      ・摺物《宮詣の官女図》(先ノ宗理北斎画)・摺物《女刀鍛冶》(先ノ宗理北斎画)・摺物《玉虫と子安貝》(先ノ宗理北斎画)・狂歌本『東都名所一覧』(浅草庵市人撰・北斎辰政)

寛政十三年・享和元年(1801      42      ・摺物《笠に蔬菜図》(画狂人北斎写) 太田記念美術館蔵・黄表紙『児童文殊稚教訓』(画作時太郎可候)

享和二年(1802             43      ・本年刊行された黄表紙『稗史憶説年代記』(式亭三馬画作)に、春朗より北斎辰政までの画風が紹介される。また「倭画巧名尽」に写楽・歌麿・長喜・三蝶などと共に北斎辰政が浮島で表される。・摺物(大小)《大晦日掛取り》

(画狂人北斎)・狂歌本『みやことり』(画狂人北斎)・狂歌本『五拾人一首 五十鈴川狂歌車』(千秋庵三陀羅法師撰・北斎辰政)・狂歌本『画本忠臣蔵』(桜川慈悲成撰作・北斎辰政)・絵本『画本東都遊』(画工北斉(ママ))・この頃、狂詩絵本『潮来絶句集』(富士唐麿、柳亭陳人編・無款)ヵ  

 

※享和三年(1803          44      ・三月十五日、大田南畝・烏亭焉馬に招かれ、亀沢町の竹垣氏別荘で席画をする。(大田南畝日記『細推物理』より)・黄表紙『三国昔噺 和漢蘭雑話』(曼亭鬼武作・可候画)・狂歌本『夷歌 月微妙』(樵歌亭校合・画狂人北斎画)・狂句本『絵本 小倉百句』(反古庵白猿作・北斎辰政)・読本『古今奇譚 蜑捨草』(流霞窓広住作・画狂人北斎画)・この頃、肉筆画《振袖新造図》(画狂人北斎画)ヵ ・この頃、肉筆画《旭日山水図》(画狂人北斎画)ヵ

 享和四年・文化元年(1804) 45            ・四月十三日、江戸音羽護国寺にて百二十畳大の大達磨半身像を描く。(『一話一言』などより)    ・摺物揃物《春興五十三駄之内》(画狂人北斎画)・摺物(大小)《見立芝居看板》(北斎画)・この頃、摺物(大小)《美人爪切り図》(ほくさゐのふで)ヵ・この頃、摺物《盆踊り》(画狂老人北斎画)ヵ・黄表紙『真柴久吉 武地光秀 御伽山崎合戦』(作者不詳・勝春朗画) 狂歌本『画本狂歌 山満多山』(大原亭主人撰・北斎画)・この頃、肉筆画《東方朔と美人図》(画狂人北斎画)ヵ

文化二年(1805             46      ・この年、「九々蜃」の号を用いる。・摺物《菅原の上》(九々蜃北斎画)・摺物《山吹と桜》(九々蜃北斎画) ・狂歌本『百囀』(二世桑楊庵撰・画狂人北斎画)・読本『復讐奇話 絵本東嫩錦』(小枝繁作・画狂老人北斎)・読本『新編水滸画伝 初編初帙』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)・肉筆画《隅田川両岸景色図巻》(九々蜃北斎席画) すみだ北斎美術館蔵・肉筆画《円窓の美人図》(九々蜃北斎席画) シンシナティ美術館蔵・この頃、肉筆画《中国武人図》(画狂老人北斎画)ヵ 

文化三年(1806             47      ・春より夏、曲亭馬琴宅に寄宿する。(『苅萱後伝玉櫛笥』馬琴自序より)・六月頃、上総国(千葉県)木更津に旅し、畳が池辺水野清兵衛方に逗留。水野家宅の襖に「唐仙人の楽遊」という襖絵を描くという。(永田生慈「房総の旅客葛飾北斎」ほかより)    ・大判錦絵《仮名手本忠臣蔵》(無款) 東京国立博物館蔵・摺物《西王母図》(無款)・この頃、狂歌本『絵本隅田川 両岸一覧』(無款)ヵ ・肉筆画《富士の巻狩図(木更津日枝神社奉納絵馬)》(画狂人北斎旅中画)

文化四年(1807             48                    ・大判錦絵二枚続(二組)《三国妖狐伝》(北斎画) 東京国立博物館蔵、中右コレクション・この頃、摺物《子供の遊び》(葛飾北斎画)ヵ ・読本『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月 前編』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)・読本『そののゆき 前編』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)・読本『墨田川梅柳新書』(曲亭馬琴作・葛飾北斎筆)・この頃、肉筆画《酔余美人図》(葛飾北斎画)ヵ 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館

文化五年(1808             49      ・本年より、柳亭種彦との親しい交遊の様子が知られる。(『柳亭種彦日記』より)・八月二十四日、亀沢町に新宅を構え、柳橋の河内屋半二郎の楼で書画会を催す。この書画会の報状あり。(「北斎新築報状」より)・読本『近世怪談 霜夜星』(柳亭種彦作・かつしか北斎画)・読本『國字鵺物語』(芍薬亭長根作・葛飾北斎)・読本『阿波之鳴門』(柳亭種彦作・葛飾北斎画)・読本『三七全伝南柯夢』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)・合巻『敵討身代利名号』(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)

文化六年(1809             50      ・六月四日、柳亭種彦が火事見舞いの後に北斎宅で終日遊ぶ。(『柳亭種彦日記』より)・十一月、顔見世の絵看板を一枚描くという。また翌年にも絵看板を二枚描くという。(『我衣』より)・十二月二十五日、柳亭種彦が読本の構想を北斎に相談する。(『柳亭種彦日記』より)・本年頃、本所両国橋辺に住むか。(『阥阦妹脊山』奥付より)・摺物《還城楽》(葛飾北斎写) ・摺物《七福神》(かつしか北斎画)・読本『山桝太夫栄枯物語』(梅暮里谷峨作・葛飾北斎)・読本『忠孝潮来府志』(談洲楼焉馬作・葛飾北斎画)・読本『飛驒匠物語』(六樹園飯盛作・画匠葛飾北斎画) ・読本『於陸幸助 恋夢艋』(楽々庵桃英作・葛飾北斎)

文化七年(1810             51      ・この頃より「戴斗」号を用いるか。(『己痴羣夢多字画尽』巻末広告より)・一月十六日、両国三河屋で馬琴が催した書画会に出席する。(『滝沢家訪問往来人名簿』より)・二月、三月、柳亭種彦の日記に北斎と完斎知道の記載あり。・三月、四月、柳亭種彦の日記に北斎門人北周(雷周)の祖母孝行に関する記載あり。・十一月、市村座の絵看板を描くという。(蜀山人日記(『歌舞伎年表』)より)・本年、葛飾に住むか。(『勢田橋竜女本地』見返しより)  ・絵手本『己痴羣夢多字画尽』(葛飾北斎戯画)・肉筆画《七福神の図》(北斎筆※合筆) エドアルド・キオッソーネ記念ジェノヴァ東洋美術館蔵

文化八年(1811             52      ・本年、読本の挿絵をめぐって馬琴と絶交したとする逸話あるも異論あり。(鈴木重三「馬琴読本の挿絵と画家」などより)・本年、 『椿説弓張月』の完結を記念して、版元平林庄五郎の依頼で肉筆画《鎮西八郎為朝図》を描く。(『近世物之本江戸作者部類』より)・当年刊行の『誹風柳多留』五十編に北斎に関する川柳(「北斎だねと摺物を撥で寄せ」)あり。・この頃、大判錦絵五枚続《吉原遊廓の景》(かつしか北斎画)ヵ・読本『勢田橋竜女本地』(柳亭種彦作・葛飾北斎) ・滑稽本『串戯二日酔』(十返舎一九作・葛飾北斎画)・滑稽本『宮島参詣 続膝栗毛 二編』(十返舎一九作・北斎画)・肉筆画《鎮西八郎為朝図》(葛飾北斎戴斗画) 大英博物館蔵

文化九年(1812             53      ・秋頃、名古屋に滞在。門人・牧墨僊宅に滞在中、『北斎漫画』の下絵三百余図を描くとされる。(『北斎漫画』初編序文より)・大阪、和州吉野、紀州、伊勢などへも旅するか。(『葛飾北斎伝』より)    ・この頃、絵手本『略画早指南 前編』(北斎老人)ヵ 

文化十年(1813             54      ・二月刊行の「作者画工見立番附」で北斎は行司の部に載る。門人では北馬(小結)、柳川重信(前頭)らが載る。・「亀毛蛇足」印を門人の北明に譲る。(肉筆画《鯉図》添書より)・読本『寒燈夜話 小栗外伝 初編』(小枝繁作・葛飾北斎)・地誌『勝鹿図志 手くりふね』(鈴木金堤編・北斎筆)・肉筆画《鯉図》(北斎) 埼玉県立博物館蔵・この頃、肉筆画《潮干狩図》(葛飾北斎)ヵ 大阪市立美術館蔵

文化十一年(1814          55      ・この頃、摺物《山姥と金太郎》(北斎改戴斗筆)ヵ・この頃、摺物《おし鳥》(北斎改戴斗)ヵ ・絵手本『伝神開手 北斎漫画』(葛飾北斎筆)・この頃、絵手本『北斎写真画譜』(無款)ヵ ・この頃、艶本『喜能会之故真通』(無款)ヵ

文化十二年(1815          56      ・春頃、蛇山に住むか。(『踊独稽古』序文より)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 二編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 三編』(北斎改葛飾戴斗)・絵本『絵本 浄瑠璃絶句』(葛飾北斎筆)・絵本『踊独稽古』(葛飾北斎画編・藤間新三郎補正)

文化十三年(1816          57      ・摺物《寿老人》(前北斎戴斗筆) ・絵手本『伝神開手 北斎漫画 四編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 五編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『三体画譜』(北斎改葛飾戴斗画)

文化十四年(1817          58      ・春頃、再び名古屋に滞在するか。(『葛飾北斎伝』り)・十月五日、名古屋西掛所(西本願寺別院)境内集会場広場で、百二十畳敷の半身達磨を描く。(『葛飾北斎伝』、『北斎大画即書細図』などより)・本年末頃、大阪、伊勢、紀州、吉野などへ旅したといわれる。(『葛飾北斎伝』より)・絵手本『画本早引 前編』(葛飾戴斗老人筆)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 六編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 七編』(北斎改葛飾戴斗)

文化十五年・文政元年(1818      59      ・二、三月頃、紀州へ旅したといわれる。(『葛飾北斎伝』より)・曲亭馬琴より鈴木牧之宛の書簡に北斎についての記述(ちとむつかしき仁、画料なども格別の高料、など)あり。(「鈴木牧之宛曲亭馬琴書簡」より)・この頃、大々判錦絵《総房海陸勝景奇覧》(葛飾前北斎改戴斗画)ヵ ・この頃、大々判錦絵《東海道名所一覧》(葛飾前北斎戴斗筆)ヵ ・絵手本『伝神開手 北斎漫画 八編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎画鏡』(葛飾北斎筆) [74・関連画像]

文政二年(1819             60      ・本年、戴斗号を門人の斗円楼北泉に譲るか。(『画狂北斎』より)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 九編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎漫画 十編』(北斎改葛飾戴斗)・絵手本『伝神開手 北斎画式』(葛飾戴斗筆)・絵手本『画本早引 後編』(前北斎戴斗筆)・この頃、肉筆画《鵜飼図》(葛飾戴斗筆)ヵ MOA美術館蔵

文政三年(1820             61      ・年初の摺物に「為一」落款がみられる。(摺物《碁盤人形の図》などより)・一月、「江戸ゑいりよみ本戯作者画工新作者番付」に、北斎と豊国は同格で最上位とされる。・二月、浅草奥山興行の麦藁細工の下絵を描き、その見世物絵も描く。(『武江年表』より)・大判錦絵四枚続《麦藁細工見世物》(無款) 東京国立博物館蔵・摺物《空満屋連和漢武勇合三番之内》(北斎戴斗改葛飾為一筆) 東京国立博物館蔵

文政四年(1821             62      ・十一月十三日、北斎の娘(四女阿猶か)没す。(誓教寺過去帳などより)・摺物揃物《楉垣連五番之内和漢画兄弟》(月癡老人為一筆)・摺物揃物《元禄歌仙貝合》(月癡老人為一筆)・この頃、艶本『万福和合神』 (無款)ヵ

文政五年(1822             63      ・春頃、三世堤等琳宅に寄宿するか。(『北斎骨法婦集』より)・本年、北斎の長女と門人の柳川重信が離縁するという。(『葛飾北斎伝』よ)・摺物揃物《馬尽》(不染居為一筆) 

 

※文政六年(1823          64      ・この頃より川柳の号に「卍」を用いる。・摺物《美人カルタ》(真行草之筆意北斎改為一画)・絵手本『伝神開手 一筆画譜』(武蔵北斎載(ママ)斗先生嗣意)・絵手本(前北斎為一先生図)  

文政七年(1824             65      ・鈴木牧之の『夜職草』に交友者の一人として北斎の名が記される。・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・摺物《七代目市川団十郎 二代目岩井粂三郎》(かつしかの親父為一筆) ・絵手本『新形小紋帳』(前ほくさゐ為一筆)

文政八年(1825             66      ・本年刊行の『柳多留』八十五篇に序文を寄せる。本篇に北斎の川柳十九句あり。・この頃、四つ切判錦絵《新板大道図彙》(無款永寿堂の広告に「前北斎為一筆」と有) 東京国立博物館蔵・料理本『江戸流行 料理通 二編』(八百屋善四郎著・北斎改為一筆)

文政九(1826   67      ・四月、柳新で画会を催すか。(『馬琴日記』より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・狂歌本『蓮華台』(六樹園撰・為一筆)・随筆考証本『還魂紙料』(柳亭種彦著・葛飾為一筆)

文政十年(1827             68      ・本年か翌年、中風を患うが自製の薬で回復するという。(『葛飾北斎伝』より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・肉筆画《歌占図》(北斎為一敬画) 大英博物館蔵

文政十一年(1828          69      ・一、二月、川柳の号に「万字」を用いる。・六月五日、北斎の妻こと女没す。(誓教寺過去帳などより)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)     ・絵本『絵本庭訓往来 初編』(前北斎為一写)・この頃、狂歌本『花鳥画賛歌合』(春秋庵永女ほか撰・月癡老人為一筆)

文政十二年(1829          70      ・一月、著名人を水滸伝の登場人物に見立てた番付で別格扱いとされる。・春頃、孫(柳川重信の子)が度々悪事を行い、北斎は尻拭いをしたという。(『葛飾北斎伝』より)・六月二十一日、馬琴が北斎の絵本『忠義水滸伝画本』について、「画ハよく出来候へ共、杜撰甚し」と評する。(『馬琴日記』より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・絵本『忠義水滸伝画本』(葛飾前北斎為一老人画)・絵本『新編水滸画伝 二編前帙』(高井蘭山作・北斎戴斗老人画)

文政十三年・天保元年(1830      71      ・一月、放蕩の孫を父親に引き渡し、上州高崎より奥州へ連れて行かせる。(『葛飾北斎伝』より)・一月、浅草明王院地内五郎兵衛店に住むか。(『葛飾北斎伝』より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・この頃、大判錦絵揃物《冨嶽三十六景》(北斎改為一筆ほか)刊行始まるヵ ・この頃、森屋治兵衛版・中判藍摺絵揃物(前北斎筆)ヵ・摺物《汐汲み図》(北斎改為一筆) 太田記念美術館蔵

天保二年(1831             72      ・本年の西村屋与八の広告に《冨嶽三十六景》が見える。(柳亭種彦『正本製』広告より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』り)・大々判錦絵《鎌倉 江ノ嶋 大山 新板往来双六》(柳亭種彦撰・前北斎為一図)・この頃、中判錦絵揃物《百物語》(前北斎筆)ヵ ・この頃、大々判錦絵《奥州塩竈松蔦之畧図》(前北斎為一筆)ヵ・狂歌本『女一代栄花集』(秋長堂老師ほか撰・応需七十二翁前北斎為一筆) 

天保三年(1832             73      ・閏十一月二十八日、もと娘婿の柳川重信が没する。(『馬琴日記』より)・本年の西村屋与八の広告に《冨嶽三十六景》が見える。(馬琴『千代楮良著聞集』広告より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・合巻『花雪吹縁柵』(相州磯部作・前北斎為一[表紙絵を国芳と合筆])・この頃、大判錦絵《琉球八景》(前北斎為一筆)ヵ

天保四年(1833             74      ・本年の西村屋与八の広告に《諸国瀧廻り》が見える。(種繁『改色団七島』広告より)・本年の川柳の会の北斎の句あり。(『誹風柳多留』より)・この頃、大判錦絵揃物《諸国瀧廻り》(前北斎為一筆)ヵ ・この頃、長大判錦絵揃物《詩哥写真鏡》(前北斎為一筆)ヵ ・団扇絵判錦絵《狆》(前北斎為一筆) 太田記念美術館蔵・摺物(大小)《宝船》(前北斎為一筆)・絵本『唐詩選画本 五言律』(高井蘭山著・前北斎為一画)・合巻『出世奴小万之伝』(柳亭種彦作・前北斎為一[表紙絵を国直と合筆])

天保五年(1834             75      ・相州浦賀に潜居するといわれる。また、翌年春のことともいう。(『葛飾北斎伝』より)・本年までに転居の回数は五十六回に及ぶという。(『葛飾北斎伝』より)・本年の西村屋与八の広告に《諸国名橋奇覧》が見える。(柳亭種彦『邯鄲諸国物語 近江の巻』より)・この頃、大判錦絵揃物《諸国名橋奇覧》(前北斎為一筆)ヵ ・長大判錦絵《桜に鷹》(前北斎為一筆)すみだ北斎美術館蔵・絵手本『伝神開手 北斎漫画 十二編』(前北斎為一)・絵本『絵本忠経』(高井蘭山著・葛飾前北斎為一老人画)・絵本『富嶽百景 初編』(七十五齢前北斎為一改画狂老人卍筆) 

天保六年(1835             76      ・二月中旬、相州浦賀より江戸日本橋小林新兵衛(嵩山房)へ手紙を送る。(『葛飾北斎伝』より)・三月、西村屋与八・祐蔵の広告(『富嶽百景』二編)に北斎の「絵本肉筆画帖」の記載あり。(『富嶽百景 二編』広告より)・相州、豆州へ旅する。(絵本『絵本和漢誉』署名より)・この頃、大判錦絵揃物《百人一首うばがゑとき》(前北斎卍)ヵ ・この頃、団扇絵判錦絵《群鶏》(前北斎為一筆)ヵ 東京国立博物館蔵・絵本『富嶽百景 二編』(七十六齢前北斎為一改画狂老人卍筆)・この頃、版下絵《百人一首うばがゑとき》(前北斎卍)ヵ ・この頃、肉筆画《肉筆画帖》(前北斎為一改画狂老人卍筆)ヵ 

天保七年(1836             77      ・一月十七日、相州浦賀より江戸日本橋小林新兵衛(嵩山房)へ手紙を送る。(『葛飾北斎伝』より)・三月頃、深川万年橋近辺に住むか。絵本『和漢 絵本魁』自序より)・夏頃、浦賀より江戸日本橋小林新兵衛(嵩山房)へ手紙を送る。(『葛飾北斎伝』より)・絵直しや『肉筆画帖』を描き、大いに利を得たという。(『葛飾北斎伝』より)・『広益諸家人名録』(天保丙申秋校正)に居所不定と記載される。・絵手本『諸職絵本 新鄙形』(齢七十七 前北斎為一改画狂老人卍筆)・絵本『和漢 絵本魁』(齢七十六前北斎為一改画狂老人卍筆) ・絵本『絵本武蔵鎧』(齢七十七前北斎画狂老人卍筆) ・絵本『唐詩選画本 七言律』(高井蘭山著・画狂老人卍翁筆)

天保八年(1837             78      ・地誌『日光山志』(植田孟縉編集・齢七十二画狂老人卍筆)

天保九年(1838             79      ・本年刊行の『新編水滸画伝』に「病床ノ画」と書かれた挿絵が数図あり。・読本『新編水滸画伝 五編』(高井蘭山作・前北斎為一老人画)・読本『新編水滸画伝 六編』(高井蘭山作・前北斎為一老人画)

天保十年(1839             80      ・本所石原片町と本所達磨横町に住むといわれる。(『葛飾北斎伝』より)・達磨横町では初めて火災に遭い、多くの縮図を消失するといわれる。(『葛飾北斎伝』より)・本年頃にも肉筆の画帖を描くか。(ゴンクール『HOKOUSAÏ』より)・肉筆画《西瓜図》(画狂老人卍筆 齢八十) 宮内庁三の丸尚蔵館蔵・肉筆画《貴人と官女図》(画狂老人卍筆 齢八十歳) すみだ北斎美術館蔵・肉筆画《春秋山水図》(画狂老人卍筆 齢八十) 出光美術館蔵・肉筆画《春日山鹿図》(画狂老人卍筆 齢八十歳) 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館

天保十一年(1840          81      ・房総方面へ旅するか。(錦絵《唐土名所之絵》署名より)    ・この頃、大々判錦絵《唐土名所之絵》(総房旅客 画狂老人卍齢八十一)ヵ・肉筆画《若衆図》(画狂老人卍筆 齢八十一) 大英博物館蔵・肉筆画《若衆文案図》(画狂老人卍筆 齢八十一) 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館

天保十二年(1841          82      ・絵手本『絵本早引 名頭武者部類』(北斎改葛飾為一筆)・肉筆画《雲龍図》(試筆八十二翁卍)

天保十三年(1842          83      ・本所亀沢町に住むという。・年末から翌年にか唐獅子や獅子舞を描いた「日新除魔」を多数描く。・この頃、地誌『花の十文』(橘園樹早苗著・八十二叟画狂老人卍筆)ヵ・肉筆画《日新除魔》 九州国立博物館、一般財団法人 北斎館ほか蔵

天保十四年(1843          84      ・四月二十一日、信州小布施の高井鴻山へ、祭屋台天井絵の下絵が進まないこと、阿栄の旅行手形が取れないこと、来春三月に訪問したいことを認めた手紙を送る。(『高井鴻山宛北斎書簡』より)・八月九日、信州小布施の高井鴻山へ、祭屋台天井絵の鳳凰下図に関する手紙を送る。(『高井鴻山宛北斎書簡』より)・本年までに北斎の転居は六十回に及ぶという。(『葛飾北斎伝』より)・肉筆画《日新除魔》 九州国立博物館、一般財団法人 北斎館ほか蔵・肉筆画《桜に鷲図》(八十四老卍筆) 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館・肉筆画《雪中張飛図》(齢八十四歳 画狂老人卍筆) 公益財団法人氏家浮世絵コレクション・鎌倉国宝館・肉筆画《文昌星図(魁星図)》(八十四老卍筆)・肉筆画《田植図》(八十四老卍筆) 佐野美術館蔵・肉筆画《南瓜花群虫図》(八十四老卍筆) すみだ北斎美術館蔵

天保十五年・弘化元年(1844      85      ・一月一日、肉筆画「大黒天図」(現存不明)に「宝暦十庚辰九月甲子ノ出生」と署名する。・二月頃、向島小梅村に住む。(嵩山房への稿料受取より)・三月頃、信州小布施へ旅するか。(『高井鴻山宛北斎書簡』より)・本年の長寿者番付に北斎が載る。・本年、浅草寺前に住むか。(斎藤月岑『増補浮世絵類考』より)・肉筆画《鍾馗騎獅図》(画狂老人卍筆 齢八十五歳) 出光美術館蔵・肉筆画《月みる虎図》(八十五老卍筆)・肉筆画《鼠と小槌図》(画狂老人卍筆 齢八十五歳) ・肉筆画《狐の嫁入図》(画狂老人卍筆 齢八十五歳)・この頃、肉筆画《朱描鍾馗図[画稿]》(無款)

弘化二年(1845             86      ・読本『釈迦御一代記図会』(山田意斎作・前北斎卍老人繍像)・向島牛嶋神社扁額《須佐之男命厄神退治之図》(前北斎卍筆 齢八十六歳)関東大震災で焼失

弘化三年(1846             87      ・春頃、西両国に住むか。(笠亭仙果書簡より)・十二月頃、北斎の病気が再発するか。(神山熊三郎宛北斎書簡より)・読本『源氏一統志』(松亭中村源八郎保定輯・前北斎為一老人八右衛門画)・肉筆画《羅漢図》(八十七老卍筆) 太田記念美術館蔵・肉筆画《朱描鍾馗図》(八十七老卍筆) メトロポリタン美術館蔵・肉筆画《朱描鍾馗図》(所随老人卍筆 齢八十七歳) すみだ北斎美術館蔵・肉筆画《双鶴図》(画狂老人卍筆齢 八十七歳)

弘化四年(1847             88      ・この頃「三浦屋八右衛門」と称す。・二月頃、田町一丁目に住むか。(神山熊三郎宛北斎書簡より)・天保十三、十四年の「日新除魔」二百余図を松代藩士・宮本慎助に与える。・肉筆画《向日葵図》(八十八老卍筆) シンシナティ美術館蔵・肉筆画《雷神図》(八十八老卍筆) フリーア美術館蔵・肉筆画《柳に燕図》(八十八老卍筆) すみだ北斎美術館蔵・肉筆画《流水に鴨図》(齢八十八卍) 大英博物館蔵・肉筆画《赤壁の曹操図》(八十八老卍筆)

弘化五年・嘉永元年(1848          89      ・六月五日、門人・本間北曜と浅草の仮宅にて面談する。(『西肥長崎行日記』より)・六月八日、再訪した北曜に、長崎でキタコ(うつぼ)などの魚の写生を依頼し、肉筆画《鬼図》を贈る。(『西肥長崎行日記』より)・十一月頃、河原崎座の顔見世興行を見るか。(『花江都歌舞伎年代記』より)・本年、関根只誠と四方梅彦が浅草聖天町遍照院境内の北斎の仮宅を訪れる。この時、北斎の転居は九十三度目であったという。(『葛飾北斎伝』より)・大々判錦絵《地方測量之図》(応需 齢八十九歳卍老人筆)・絵手本『画本彩色通 初編、二編』(画狂老人卍筆) ・肉筆画《鬼図》(齢八十九歳画狂老人卍筆) 佐野美術館蔵・肉筆画《狐狸図》(卍老人筆 齢八十九歳) 個人蔵

嘉永二年(1849             90      ・春頃、病床に臥す。(『葛飾北斎伝』より)・四月八日、暁七ツ時、浅草聖天町遍照院境内仮宅に没す。辞世の句は「飛と魂でゆくきさんじや夏の原」。(『北岑宛北斎死亡通知』[120]、『葛飾北斎伝』より)・同日、娘の阿栄が父の死亡通知を門人・北岑に送る。(『北岑宛北斎死亡通知』 )・四月十九日、朝四ツ時より浅草誓教寺にて葬儀が行われる。法名は「南牕院奇誉北斎居士」。(『北岑宛北斎死亡通知』より)    ・絵本『絵本孝経』(高井蘭山著・東都葛飾前北斎為一翁画図)・この頃、絵手本『伝神開手 北斎漫画 十三編』(葛飾為一老人筆)ヵ・肉筆画《扇面散図》(九十老人卍筆) 東京国立博物館蔵・肉筆画《雨中の虎図》(九十老人卍筆) 太田記念美術館蔵・肉筆画《雲龍図》(九十老人卍筆) ギメ美術館蔵・肉筆画《富士越龍図》(宝暦十庚辰ノ年出生 九十老人卍筆) 一般財団法人 北斎館蔵

火曜日, 11月 08, 2022

北斎の狂句(その九)

 その九 月並ハ浚ふ天狗に引く河童

 月並(つきなみ)ハ(は)浚(さら)ふ天狗に引く河童 卍 文政一(『柳多留百一篇』)

 ●月並(つきなみ)=月並みは、元々「毎月」「月ごと」「毎月決まって行うこと」などを意味する語であった。そこから、和歌・連歌・俳句などで行うなう月例の会を「月並みの会」と言うようになり、俳句の世界では「月並俳諧」という語も生まれた。月並みが「平凡でつまらないこと」を意味するようになったのは、正岡子規が俳句革新運動で、天保期以後の決まりきった俳諧の調子を批判して、「月並調(月並俳句)」と言ったことによる。(「語源由来辞典」)

●浚(さら)ふ天狗=天狗攫い=天狗攫い(てんぐさらい)は、神隠しの内、天狗が原因で子供が行方不明となる事象をいう。天狗隠し(てんぐかくし)ともいう。

●引く河童=水辺を通りかかったり泳いだりしている人を水中に引き込み溺死させたり、尻子玉/尻小玉(しりこだま)を抜いて殺したりするといった悪事を働く描写も多い。尻子玉とは人間の肛門内にあると想像された架空の臓器で、河童は、抜いた尻子玉を食べたり、竜王に税金として納めたりするという。ラムネ瓶に栓をするビー玉のようなものともされ、尻子玉を抜かれた人は「ふぬけ」になると言われている。「河童が尻小玉を抜く」という伝承は、溺死者の肛門括約筋が弛緩した様子が、あたかも尻から何かを抜かれたように見えたことに由来するとの説もある。人間の肝が好物ともいうが、これも前述と同様に、溺死者の姿が、内臓を抜き去ったかのように見えたことに由来するといわれる。(「ウィキペディア」)

●点取俳諧(てんとりはいかい)=点者に句の採点を請うて,点の多さを競う俳諧。芭蕉も《三等の文》(元禄5年曲水宛書簡)で〈点取に昼夜をつくし,勝負に道を見ずして走りまはる〉と言っているように,即吟即点が流行していた。其角は〈半面美人〉の点印を洒落風俳諧の高点句に印し,点取り競争をあおった。とくに享保期(1716‐36)の江戸,京都,大坂で流行し,百韻を中心に連衆(れんじゆ)の点を計算して順位を定め,景品もそえるなどして時好に投じた。(「出典:「平凡社世界大百科事典 第2版」)

 句意=月並みの、一般的な日常用語ですると、「悪さをすると、天狗に浚われるとか、河童に引かれる」ということになるが、点取り俳諧の、卍らの月次狂句連の用語ですると、「悪さ(俳諧・狂句)をすると、『勝ち組』は『高点句』を浚って『天狗』様々の有頂天となり、『負け組』は『水中にもぐった河童』のように、こそこそと姿をくらましてしまう」ということにあいなる。

 

天狗図」(部分) 葛飾北斎 江戸時代・19世紀 個人蔵 (「大妖怪展 土偶から妖怪ウォッチまで」江戸東京博物館) 




 


「北斎漫画. 3編」(「葛飾北斎 画」・明11・出版者=片野東四郎)(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → (コマ番号  28/37

 

「北斎漫画. 3編」(「葛飾北斎 画」・明11・出版者=片野東四郎)(「国立国会図書館デジタルコレクション」) → (コマ番号 30/37


 一茶の「天狗」の句(十七句)

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

1 花咲(さく)や散(ちる)や天狗の留主事(ごと)に 春/植物// 文政句帖/文政8  

2   天狗衆の留主()うち咲く山ざくら  春/           植物// 文政句帖/文政8

3    俳諧の天狗頭(がしら)が団扇(うちわ)かな  /人事/ 団扇/文政句帖/文政5

4    天狗はどこにて団扇づかひ哉          /人事/団扇/文政句帖文政8         

5    天狗衆は留主ぞせい出せ時鳥          /人事/時鳥/文政句帖/文政8       

6    大天狗の鼻やちよつぽりかたつむり  /          動物/蝸牛/文政句帖/文政7

7    末枯(うらがれ)や木の間を下る天狗面             秋/植物/末枯/八番日記/ 文政4

8    末枯れや木の間を下る天狗哉                     /植物/末枯/梅塵八番/

9    栃餅や天狗の子供など並(ならぶ)      秋/植物/栃の実/八番日記/文政4

10  栃餅や天狗の子分など並ぶ                          /植物/栃の実/梅塵八番/

11  くらま山茸(きのこ)にさい(へ)も天狗哉 秋 植物//八番日記/文政4

12   天狗茸(だけ)立(たち)けり魔所の入口に   秋/植物//八番日記/文政4

13   天狗茸立けり魔所の這入(はいり)口      / 植物// 文政句帖  

14   此(この)おくは魔所とや立(たて)る天狗茸  /植物//文政句帖/文政7

15   かつらぎや小春つぶしの天狗風           /時候/ 小春(小六月)/  文政句帖/文政7

16   鳴き虫(を)つれて行くとや大天狗      /人事/神の旅/文政句帖/文政7

17   大天狗小天狗とて冬がれぬ                    /植物/冬枯れ/七番日記/文化11

 

一茶の「河童」(河太郎・川太郎・猿猴・水神・河伯・河童子・水虎など)の句 =無

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi


  「芭蕉・蕪村・一茶」の中で、蕪村のみ、次の「河童(かわたろ)」の一句がある。

 河童(かはたろ)の恋する宿や夏の月    蕪村(『蕪村句集』)

 『 夏の月(夏)。カッパ。「かわたろ」は京都地方の呼称(『俚言集覧』)。「かしらの毛赤うして頂に凹なる皿あり。(中略)或は恠(あやし)みをなし婦女を姦淫す」(『物類称呼』)。句意=夏の夜の夢幻的な淡い月光に照らされた水辺の家。河童がしきりに様子をうかがっているような、中には美しい娘がいるのだろう。』(『蕪村全集一 発句』p565

 

(参考)芥川龍之介の『水虎晩帰之図』周辺


『水虎晩帰之図(芥川龍之介筆)』(長崎歴史文化博物館蔵) 

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0704/index1.html

 ≪ 芥川は東検番の名花とうたわれた芸妓・照菊(杉本わか・後年料亭「菊本(きくもと)」の女将)に、河童の絵を銀屏風に描いて与えている。数多く河童を描いた芥川だが、乳房のある『水虎晩帰之図』はこれだけで、最大の傑作と言われるものだ。

 橋の上ゆ(から)胡瓜(きゅうり)なくれば(投ぐれば)

水ひひき(響き)すなわち見ゆる

かふろ(禿 おかっぱ)のあたま

   お若さんの為に

    我鬼(がき・龍之介の俳号)酔筆   (以下略)     ≫

  この「水虎(すいこ)」=「河童(かっぱ)」は、「乳房のある『水虎晩帰之図』」で、芥川龍之介(俳号=餓鬼)が描いた「河童図」の中でも唯一の、雌の河童図のようなのである。

 

「芥川がいくつも描いた河童の絵」(出典:『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』)

「澄江堂(主人)」=芥川龍之介の号(庵号)=書斎の扁額「澄江堂」による。

https://designroomrune.com/magome/daypage/06/0620.html

 



「娑婆(しゃば)を逃れる河童の図」(昭和二年=一九二七・七・二四自殺する数日前作)

https://www.shunyodo.co.jp/blog/2020/11/akutagawa_ryunosuke_to_shunyodo_5/

 ※橋の上ゆ/胡瓜なくれ/は水ひひき/すなはち/見ゆる/禿の頭(龍之介)

  ここで、この龍之介の絶筆とも思われる、この「娑婆(しゃば)を逃れる河童の図」の、この「橋の上ゆ/胡瓜なくれ/は水ひひき/すなはち/見ゆる/禿の頭(龍之介)は、先の、龍之介の、長崎での、その『水虎晩帰之図(芥川龍之介筆)』(長崎歴史文化博物館蔵)に描かれている「雌河童(?)」の脇に、「餓鬼」の号で賛をしている、その「橋の上ゆ胡瓜なくれは水/ひひきすなわち見ゆる/かふろのあたま(餓鬼)」と、全く、同じものなのである。

 そして、その龍之介の長崎旅行は、「大正11年(1922425日から530日まで、長崎に一ヶ月間滞在」中のもので、すなわち、この作品(短歌)の初出は、大正十一年(一九二二)にまで遡ることになる。

 その長崎旅行中の、その六月に公表された、龍之介の「長崎」と題する「詩」らしきものが、同上のアドレスで紹介されている。

 ≪菱形の凧(たこ)。

サント・モンタニの空に揚つた凧。

うらうらと幾つも漂つた凧。

路ばたに商ふ夏蜜柑やバナナ。

敷石の日ざしに火照(ほて)るけはひ。

町一ぱいに飛ぶ燕。

丸山の廓の見返り柳。

運河には石の眼鏡橋。

橋には往来の麦稈帽子。

---忽(たちま)ち泳いで来る家鴨(あひる)の一むれ。

白白と日に照つた家鴨の一むれ。

南京寺の石段の蜥蜴(とかげ)。

中華民国の旗。

煙を揚げる英吉利(イギリス)の船。

『港をよろふ山の若葉に光さし……』顱頂(ろちやう)の禿げそめた斎藤茂吉。ロティ。

沈南蘋(しんなんぴん)。

永井荷風。

最後に『日本の聖母の寺』その内陣のおん母マリア。

穂麦に交じつた矢車の花。

光のない真昼の蝋燭の火。

窓の外には遠いサント・モンタニ。

山の空にはやはり菱形の凧。

北原白秋の歌つた凧。

うらうらと幾つも漂つた凧。≫ (出典:「ナガジン」)

   これらの世界は、下記のアドレスなどで逍遥したきものと、全く、同一方向での世界ということになる。 

 

「銭座小学校カッパの壁画」

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1512/index.html

≪ 銭座小学校カッパの壁画〝なかよし〟

崑さんの出身校です。「友だちに対する思いやりを大切にすることが、自分の命を大切にすること」をテーマにした六コマ漫画がそのまま壁画になっています。≫ 



≪「かっぱっぱルンパッパ かっぱ黄桜かっぱっぱ♪」

 ご存知の方も多いと思います、酒造メーカーのCMソング『かっぱの唄<黄桜>』の歌いだしの部分です。「黄桜」といえば「かっぱ」というほど、そのイメージが定着していますが、このブランド・キャラクターを生み出したのが長崎出身の漫画家の清水崑(こん)さん。今回は、戦前・戦中・戦後という激動の時代を、筆一本でしなやかに生き抜いた「清水崑の世界」をひも解いてみたいと思います。≫(出典:「ナガジン」)

 (余聞)「河童ものがたり」(「餓鬼→崑→木久扇) 

 

(左図)昭和三十八年頃、高輪時代の清水家」での「木久扇」(?)

(右図)『木久蔵錦絵』 木久扇師匠が独自に工夫した多色刷りの絵画「木久蔵錦絵」 (C)TOYOTA ART

https://spice.eplus.jp/articles/265434/images/818453