土曜日, 10月 29, 2022

北斎の狂句(その五)

 その五 灰吹に烟りの残る暮の客

灰吹(ふき)に烟(けむ)りの残る暮(くれ)の客 卍 文政十年(一八二七)

 


「灰吹から大蛇」(『北斎漫画 十二編』)

http://kawasaki.iri-project.org/content/?doi=0447544/01800000H0


「灰吹から大蛇(部分拡大図)」(『北斎漫画 十二編』) (「川崎市市民ミュージアム図録『日本の漫画300年』」より)

 ●「灰吹き」=タバコ盆についている、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。吐月峰(とげっぽう)(「デジタル大辞泉」)

※「吐月峰(とげっぽう)」=《静岡市西部の丸子町にある山の名。連歌師宗長が、ここの竹林の竹で灰吹きを作り、吐月峰と名づけたところから》タバコ盆に用いる竹製の灰吹き。

(「デジタル大辞泉」)

※雑俳・しげり柳(1848)「暁にはづむ鞠子の吐月峯」(「精選版 日本国語大辞典」)

灰吹きから蛇(じゃ)が出る=意外な所から意外なものが出るたとえ。また、ちょっとしたことから途方もないことが生じるたとえ。(「デジタル大辞泉」)

※灰吹きと金持ちは溜まるほど汚い=灰吹きはタバコの吸いがらがたまるほどきたないように、金持ちも財産がふえればふえるほど金にきたなくなる。(「ことわざを知る辞典」)

※煙草盆(たばこぼん)= 喫煙用具を入れる器で、火入れ、刻み煙草入れ、灰吹き(吸殻入れ)が収められ、煙管(きせる)2本を吸口が右になるように置く。寄付(よりつき)や腰掛、薄茶(うすちゃ)席に用意され、客は煙草を吸うほどのくつろいだ気分を味わう(「日本大百科全書(ニッポニカ)『茶道/茶事用語』」)

 

句意=暮れの大晦日はなんやかんやと人の出入りが多い。煙草盆の吸い殻入れの「灰吹き」(竹筒)も、先客の煙草の吸殻の煙りが未だにくすぶっている。

これに蛇足を付け加えると、つい先だって、北信濃の俳諧寺一茶が亡くなった。中気を患い、無理がたったと、そんな話をして、先ほど川柳会の仲間が、中風気味の吾輩に「この薬を飲んで養生しろ」とのことだ。

 そうそう、この年の翌年のこと、長崎のオランダ商館の「シーボルト」さんらが、吾輩の作品や、国禁である日本地図などを国外に持ち出そうとしたとかの、奇妙奇天烈な「シーボルト」事件やらが勃発して、まさに、「灰吹きから蛇(じゃ)が出た」ような、不気味な年であったわい。

 

句意周辺=文政十年(一八二七)、画狂老人・卍、狂句人・卍は、四月二十九日、五月二十二日、六月五日開催の川柳の会(催主=風松、判者=柳亭種彦)に出席した。その川柳の会での一句である。この頃、中風を患うが、自家製の薬で回復したという。(『没後150年記念葛飾北斎―東西の架け橋(日本経済新聞社編)』所収「葛飾北斎年譜(未定稿)・菅原真弓編」)

 この年の十一月十九日、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の小林一茶が没した(享年六十五)。 北斎は、宝暦十年(一七六〇)の生まれ、一茶は、宝暦十三年(一七六三)の生まれ、北斎が三歳年上であるが、ほぼ同世代の生まれである。

そして、北斎は、自ら、「葛飾の百姓(性)八右衛門」を号するほどに、「武蔵国葛飾(現・東京都墨田区の一角)の百姓出身、そして、一茶は、信州柏原の百姓の出で、後半生は、継母との遺産相続の農地の争いなど、帰郷して、一百姓である共に、俳諧師としての、二股人生を歩んだ。

一茶は、その六十五年の生涯において、「芭蕉の約千句、蕪村の約二千八百句に比して、一茶、約二万句」(『小林一茶―句による評伝(金子兜太 著)』)と、膨大な句を今に遺している。まさに、句狂()人・俳諧寺一茶の名が相応しい。

一方、「北斎は、絵筆一筋の生活を四十歳から半世紀続けた北斎は、生涯でおよそ三万四千点という膨大な作品を残した。単純計算しても、一日約二点を五十年間描き続けたことになる」(『知られざる北斎(神山典士著)』)と、一茶以上の、「葛飾」の「春朗・宗理・北斎・戴斗・為一・卍・画狂老人・北斎辰政(ときまさ)・三浦屋八右衛門・百姓八右衛門」と変幻自在の、大画狂(巨)人なのである。

そして、一茶が亡くなった翌年の、「シーボルド事件」が勃発した、文政十一年(一八二八)に、画・俳二道を究めた、江戸琳派の創始者の「酒井抱一(姫路藩主・忠以の弟・忠因)」(屠牛・狗禅・鶯村・雨華庵・軽挙道人・庭柏子・溟々居・楓窓・白鳧・濤花、杜陵(綾)・尻焼猿人・屠龍)が没している(享年六十八)。

まさに、この「北斎(宝暦十年生まれ)・抱一(宝暦十一年生まれ)・一茶(宝暦十三年生まれ)」(年齢順)は、江戸後期の最後を飾る、その大道芸を見せてくれる。

 

葛飾北斎「北斎漫画」十編 香具師  すみだ北斎美術館蔵

https://intojapanwaraku.com/art/4057/

 (煙草曲芸)=一茶「煙草・二十句」

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi?group=hirarajp&dbi=20140103235455_20140104000746&s_entry=17340&se0=0&sf0=0&sk0=

 今春が来たよふす也たばこ盆   新年       八番日記

 かすむ程たばこ吹つゝ若菜つみ  新年   書簡

 一引はたばこかすみやわかなつみ 新年   八番日記

 二葉三葉たばこの上に若な哉         新年    文政句帖

 二葉三葉たば粉の上の若な哉         新年    文政句帖

 永き日やたばこ法度の小金原   春    文政句帖

 酒法度たばこ法度や春の雨                       七番日記

 大寺のたばこ法度や春の雨                       文政句帖

 てうちんでたばこ吹也春の風                   七番日記

春風に二番たばこのけぶり哉                      七番日記

菜畠やたばこ吹く間の雪げ川                      文政句帖

雛棚やたばこけぶりも一気色                      七番日記

参詣のたばこにむせな雀の子                      七番日記

鶯よたばこにむせな江戸の山                      七番日記

鶯やたばこけぶりもかまはずに  春           七番日記

()立とは吹かざりしたばこ哉 春           文政句帖

さく花にけぶりの嗅いたばこ哉  春           七番日記

青くさきたばこ吹かける桜哉                      花見の記

涼しさや土橋の上のたばこ盆                      八番日記

二番のむつくり見ゆるたばこ哉  秋   享和句帖

老らくもことしたばこのけぶり哉 秋   八番日記

赤くてもことしたばこのけぶり哉 秋   梅塵八番

けぶりともならでことしのたばこ哉 秋  八番日記

けぶりともならでことしのたばこ吹 秋  文政句帖

 

(鉤柿)=一茶「柿・二十句」

http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi?group=hirarajp&dbi=20140103235455_20140104000746&s_entry=17340&se0=0&sf0=0&sk0=

 柿を見て柿を蒔けり人の親    秋           七番日記

胡麻柿や丸でかぢりし時も有   秋           七番日記

渋い柿灸をすへて流しけり    秋           七番日記

浅ましや熟柿をしやぶる体たらく 秋           七番日記

くやしくも熟柿仲間の坐につきぬ               七番日記

御所柿の渋い顔せぬ罪深                          七番日記

渋柿をはむは鳥のまゝ子哉    秋           七番日記

高枝や渋柿一つなつかしき    秋           七番日記

生たりな柿のほぞ落する迄に   秋           七番日記

庵の柿なり年もつもおかしさよ  秋           七番日記

頬べたにあてなどするや赤い柿                  八番日記

頬べたにあてなどしたり赤い柿                  梅塵八番

甘いぞよ豆粒程も柿の役        秋           八番日記

甘いぞよ豆粒程でも柿の役                         梅塵八番

柿の木であえ(と)こたいる小僧哉 秋       八番日記

狙(さる)丸が薬礼ならん柿ふたつ 秋       八番日記

師の坊は山へ童子は柿の木へ    秋       八番日記

渋柿をこらへてくうや京の児    秋       八番日記

渋い柿こらへてくうや京の児    秋       梅塵八番

渋い所母が喰いけり山の柿     秋       八番日記

 

(無芸大食)=一茶「蕎麦・十句」

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 藪蕎麦のとくとく匂へかへる雁        春       文化句帖

蕎麦国のたんを切りつゝ月見哉        秋       おらが春

蕎麦の花たんを切つゝ月見哉    秋       発句鈔追加

更しなの蕎麦の主や小夜砧               秋       享和句帖

徳本の腹をこやせよ蕎麦(の)花     秋       七番日記

日の入のはやき辺りを蕎麦の花        秋       発句鈔追加

雪ちるや御駕へはこぶ二八蕎麦        冬       だん袋

初霜や蕎麦悔る人めづる人               冬       寛政句帖

芭蕉忌の客が振舞ふ夜蕎麦切            冬       発句鈔追加

草のとや先蕎麦切をねだる客            冬       梅塵八番

 

(曲喰)=一茶「団子・十五句」

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 春雨やあさぢが原の団子客                春    希杖本

草の葉や彼岸団子にむしらるゝ         春    文化句帖

草の家や丁どひがんの団子哉             春    文政句帖

寺町は犬も団子のひがん哉      春    文政句帖

胡左を吹口へ投込め土団子                春    浅黄空

黒土も団子になるぞ梅の花                春    七番日記

有様は我も花より団子哉          春    七番日記

正直はおれも花より団子哉                春    浅黄空

団子など商ひながら花見哉                春    八番日記

としまかりよれば花より団子哉         春    文政句帖

としよりの身には花より団子哉         春    書簡

看板の団子淋しき柳哉             春    享和句帖

十団子玉だれ近く見れけり      夏    いろは別雑録

土団子けふも木がらしこがらしぞ      冬    七番日記

霜がれ(や)胡粉の剥し土団子         冬    八番日記

木曜日, 10月 27, 2022

北斎の狂句(その四)

 その四 起きてみつ寝てみつ蚊帳をあしたうけ 

起きてみつ寝てみつ蚊帳(かや)をあしたうけ  万仁 文化五年(一八〇八)

 ●「起きてみつ/寝てみつ/蚊帳の/広さかな」の「本歌取り(本句取り・文句取り)」。

※本歌取り=歌学用語。典拠のしっかりした古歌 (本歌) の一部を取って新たな歌を詠み,本歌を連想させて歌にふくらみをもたせる技法。「苦しくも降りくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに」 (『万葉集』) を本歌として「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮」 (『新古今集』) が詠まれるなどがその例。『万葉集』『古今集』にもこれに類する方法は行われていたが,平安時代末期,藤原俊成の頃から意識的に行われた。藤原定家はその技法を規定し,(1) 本歌は三代集またはその時代のすぐれた歌人の歌に限る,(2) 本歌の2句と34字程度の長さを取るのがよい,(3) 取った句の位置は本歌と異なるのがよい,(4) 春の歌を取って恋の歌を詠むというように主題を変えるのがよいとした。時代が下がるにつれ,本歌の範囲は広がり,細かくその方法が論じられて,中世ではごく普通に用いられる技法だった。なお物語や漢詩文に典拠をもつ場合は「本説 (ほんぜつ) 」があるといい,漢詩文の場合は「本文 (ほんもん) 」があるともいう。和歌だけでなく,連歌でも行われた。(出典「ブリタニカ国際大百科事典」)

世に経(ふ)るは苦しきものを槇の屋にやすくも過ぐる初時雨かな 二条院讃岐「新古今」

世にふるもさらにしぐれの宿りかな 宗祇「新撰苑玖波集・巻二十」

世にふるもさらに宗祇のやどり哉  芭蕉「虚栗」     

初しぐれ猿も小蓑をほしげ也    芭蕉「猿蓑」

あれ聞けと時雨来る夜の鐘の聲   其角「猿蓑」

 https://jhaiku.com/haikudaigaku/archives/1225

 その中に唯の雲あり初時雨    加賀千代女

はつしぐれ何所やら竹の朝朗    

はつ時雨見に出た我は残りけり   同

はつ時雨野にととのふたものは水  同

まだ鹿の迷ふ道なり初しぐれ    同

京へ出て目にたつ雲や初時雨    同

初しぐれ京にはぬれず瀬田の橋   同

初しぐれ水にしむほど降にけり   同

初しぐれ風もぬれずに通りけり   同

晴てから思ひ付けりはつしぐれ   同

草は寝て根にかへりけり初しぐれ  同

眺めやる山まで白しはつ時雨    同

田はもとの地に落付や初時雨    同

日の脚に追はるる雲や初時雨    同

柳には雫みじかしはつ時雨     同

露はまた露とこたえて初しぐれ   同

●「あしたうけ」=「明日(あした)受け(質受け(する)=質受けとは、元金と質料を支払って、質屋に預けている品物(質草)を受け戻す事。

※「抜け」=「抜け風」=「抜け句」=「ヌケ」=「俳諧で、主題を句の表面にあらわさないで、なぞめいた余意によってそれと暗示させる手法。談林俳諧で流行したもの。たとえば『鹿を追ふ猟師か今朝の八重霞〈舟中〉』では『鹿を追ふ猟師山を見ず』」の諺から「山を見ず」という詞が「ぬけ」になっている。ぬけがら。」(出典精選版 日本国語大辞典))=「あした(あした)『質(「ヌケ」)=省略されている』うけ(受け)」=「明日質受けする」の意。

 句意=「起きてみつ/寝てみつ/蚊帳の/広さかな」、この句は加賀の千代女の作とか、江戸吉原の名妓・浮橋の句ともされているが、もうどうにも、質入れしてしまった『蚊帳』がないと『ダメ・ダメ』と、「ネテもサメても」頭から去らずに、「明日、必ず、質受けする」と、ここで一句、「卍」にあらず「万仁」の名をもって、認めた。」

 

北斎筆「夕顔棚納涼」(「信州小布施 北斎館蔵」)

紙本著色一幅 八十四老卍筆 印=葛し可 101.2×28.8㎝ (『北斎館肉筆大図鑑』)

 

北斎筆「夕顔棚納涼」(部分拡大図)(「信州小布施 北斎館蔵」)

https://hokusai-kan.com/news/1191/

  『北斎館肉筆大図鑑(p66)』によると、この「団扇には菊(除虫菊)が描かれ、蚊よけを意味する」とか。そして、これは、「夕顔のさける軒端の下涼み男はててれ女はふたの物」の歌や、村田了阿の「楽しみは夕顔棚の下涼み男はててら(褌、襦袢)女はふたの(腰巻)して」とを踏まえているという。

 さらに、ここに描かれている男女(夫婦?)は、二人とも煙管(キセル)を加えている。

https://www.tabashio.jp/collection/tobacco/t14/index.html

 『 たばこは、江戸文化にとけ込み、欠かせない風俗のひとつとなりました。特に庶民にとっては数少ない身近な楽しみであり、生活のなかのいこいとして疲れをいやすものでした。また、会話しながらの一服は、雰囲気をなごやかなものにし、来客にはもてなしのひとつとなるなど、社交の場でも活躍したのです。いつでも喫煙できるように行楽や旅にも携えられました。きせるやたばこ入れの喫煙具にも、庶民の「粋」の精神が発揮され、人よりも凝ったものや、良いものを持つことが自慢されていました。』

 ここで、北斎(万仁)の「起きてみつ寝てみつ蚊帳(かや)をあしたうけ」の句が、加賀・千代女(江戸吉原の名妓・浮橋とも)の「本歌取り(本句取り)」の句とするならば、この北斎(八十四老卍筆)の「夕顔棚納涼」は、次の、狩野探幽の弟子・久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風』の、その「本絵取り」ということになろう。 

 

「夕顔棚納涼図屏風』 作者:久隅守景 17世紀末作 二曲一隻 紙本淡彩 

150.5cm×167.5cm  収蔵場所 東京国立博物館(東京都・上野)

http://artmatome.com/%E3%80%8E%E5%A4%95%E9%A1%94%E6%A3%9A%E7%B4%8D%E6%B6%BC%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8%E3%80%8F%E3%80%80%E4%B9%85%E9%9A%85%E5%AE%88%E6%99%AF/

『夕顔棚の下で農民一家が夕涼みをしている場面。題材は木下長潚子(15691649)の和歌「夕顔のさける軒はの下すずみ、おとこはててれめはふたの物」であると言われている。男はててれめ(襦袢)姿で、女はふたの物(腰巻)である。この穏やかな農民の表情に共感を覚える人々が多かったと思われる。』

 (参考)「蚊帳」「蚊遣火」「若煙草」周辺

 「蚊帳(かや)」=三夏

近江蚊帳汗やさざ波夜の床   芭蕉「六百番発句集」

ひとり居や蚊帳を着て寝る捨心 来山「童子教」

釣りそめて蚊帳面白き月夜かな 言水「前後園」

仰いてながむる蚊帳の一人かな 太祗「太祗句集」

蚊帳の内朧月夜の内待哉     蕪村「遺稿」

「蚊遣火(かやりび )」= 三夏

蚊遣火の煙の中になく子かな    蝶夢「草根発句集」

あはれとより外には見えぬ蚊遣かな 嵐雪「其袋」

旅寝して香わろき草の蚊遣かな   去来「続虚栗」

燃え立つて貌はづかしき蚊やりかな 蕪村「連句会草稿」

もゆるときぱつと涼しき蚊遣かな  麦水「葛箒」

 「若煙草(わかたばこ)」= 三秋

たばこ干す山田の畔の夕日かな   其角「五元集」

若たばこ軒むつまじき美濃近江   蕪村「夜半叟句集」

たばこ干す寺の座敷に旅寝かな   几董「晋明集二稿」

わかたばこ丹波の鮎の片荷かな   維駒「五車反古」

 

『春宵一服煙草二抄』(山東京山伝編)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539856

 https://sites.google.com/site/komonzyokai2/%E6%98%A5%E5%AE%B5%E4%B8%80%E6%9C%8D%E7%85%99%E8%8D%89%E4%BA%8C%E6%8A%84

くゆらする

 野べのきせるも

    桜ばり

 よしの烟草に

  立つしら雲

      山東京山

火曜日, 10月 25, 2022

北斎の狂句(その三)

 その三 焼いて見つ煮て見つ鯛の古さ哉

 焼いて見つ煮て見つ鯛の古さ哉(かな)  百姓 天保十二年(一八四一)

●「腐っても鯛」の「捩り」=「腐っても鯛」=「もともと立派なものや優れた価値のあるものは、落ち目になったり悪条件のもとにおかれても、なおそのよさや品格を保つことのたとえ。(略) 

 https://kotobank.jp/word/%E8%85%90%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E9%AF%9B-483208

 [解説] 古くは、中国にならい鯉を最上位の魚としましたが、江戸中期には、姿や色が美しく味もよいことから、鯛を最高級の魚と評価するようになりました。また、「めでたい」に通じることから祝い膳に欠かせないものとなり、進物にも用いられました。福の神の恵比須が抱えているのも鯛で、正月には干鯛二尾を縄で結び合わせ、かまどや門松にかけて飾る懸け鯛もありました。

 「腐っても」という背景には、正月に塩焼きにして飾った鯛を、後日、吸い物や煮物などにする風習があったようです。鯛は身がしっかりしていて、少し古くなって多少臭ってきても、外見があまり変わらず、品位を保っているように見えることから言い出されたものでしょう。ことわざは比喩的に使われ、品物とかぎらず、没落した旧家や大店などについていうことが少なくありません。(出典「ことわざを知る辞典」)

 ●「起きて見つ/寝て見つ/蚊帳の/広さかな」の「本歌取り(本句取り・文句取り)」=起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」(「千代女」の作とも「浮橋」の作ともいわれている。)

 https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-4904.html

 意味=恋しい人を思って一人寝をするとなかなか寝つけず、起き上がって見、また横になって見てつくづく蚊帳の広さを感じることだ。主人が亡くなって一人で寝る蚊帳の広さ。

作者=浮橋=うきはし。生没年未詳。江戸前期の人。吉原の有名な遊女。千代女の句ともいわれている。(出典・福武書店「名歌名句鑑賞事典」)

 句意=正月元旦のおめでたい「お頭付きの鯛」、「にらみ鯛」で、正月三が日、「起きて見っ・寝て見っして」、そのまま「箸を付けない」で、さて、四日目に、「焼いて見つ・煮て見つ」したが、やはり硬くなって風味は落ちて、もう、これは、「出し汁」に仕上げる以外に術ない。即ち、「鯛の古さかな」の「句狂人卍・月痴老人北斎・百姓八右衛門=百姓」の狂句とあいなった。(やや、興に乗りすぎた句意で、「焼いてみても、煮てみても、これはこれ、腐っても『鯛』で、恰好は良いのだが、どうにも食えたものではない」というのが無難か?)

 


「宝船の七福神  葛飾北斎筆 」 江戸時代・19世紀 (東京国立博物館蔵)

 https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2013/12/27/%E5%8C%97%E6%96%8E%E3%81%AE%E5%AE%9D%E8%88%B9/

 『正月になると初夢で一年を占いました。元日の夜(あるいは2日の夜)に見るのが初夢とされ、良い夢を見るために、宝船売りが縁起のよい宝船の絵を売り歩きました。これを枕の下に入れて、吉夢を呼び込むのです。

 (略)

葛飾北斎が「勝川春朗」と名乗っていた30歳前後の時期に描かれた「宝船図」。

(略)

七福神が龍頭の船に乗っています。恵比須が鯛を釣り上げ、千年長寿の鶴が飛び、万年長寿の蓑亀が船に乗り込もうとしています。

 (略)

枕に敷く宝船図には、回文が添えられていたそうです。この図にも「なかきよの とをのねふりの ミなめさめ なミのりふねの をとのよきかな(長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな)」とあります。

一年を占ういかにも縁起のよい夢が見られそうな作品です。』(「東京国立博物館・1089ブログ」)

 


河鍋暁斎筆『狂斎百図』所収「腐っても鯛」

https://twitter.com/i/events/863604214924140547

『めでたいと言って鯛は珍重される。よいものは最後までよいことの例えだが、これでは困りますね。根付に採用されていますよ。』(「館長河鍋による 暁斎1cut」) 

月曜日, 10月 24, 2022

北斎の狂句(その二)

 その二 出まい洒落まい奢るまい申の暮

 出まい洒落(しゃれ)まい奢(おご)るまい申(さる)の暮(くれ) 百々爺 天保九-十一年(一八三八-四〇)

●申(さる)の暮=申年の暮れ=天保七年(一八三六)丁申(ひのととり・ていゆう)の暮れ(年末)の作か(?)この年、北斎、七十七歳。

●出まい洒落(しゃれ)まい奢(おご)るまい=「見ざる言わざる聞かざるの三猿」の「捩り(もじり」(俗文芸において,滑稽を生み出すためにしばしば用いられる手法。一つの語句に異なる二つの意味を持たせる〈地口(じぐち)〉がその基本となるが,二義の取合せがちぐはぐであればあるほど,より効果的に滑稽が生じる。また,表の意味の裏にあるもう一つの意味が同時に感受されねばならないので,〈もじり〉の対象は人口に膾炙(かいしや)された文句が適する。したがって近世の俗文芸では,和漢の古典の〈雅〉の世界に当世の〈俗〉を見立てたり,こじつける趣向の〈もじり〉が多く見られる。)=「世界大百科事典 第2版」)

百々爺=「ももんじい」=百×百=万。→ 「まんじ」=卍=北斎(?) 『謎解き北斎川柳(宿六心配著)』の説(『北斎川柳(田中聡著)』)

※百々爺(「ウィキペディア」)

『 百々爺(ももんじい)は、鳥山石燕による江戸時代の妖怪画集『今昔画図続百鬼』にある日本の妖怪。

≪ 百々爺未詳 愚按ずるに 山東に摸捫ぐは(ももんぐは)と称するもの 一名野襖(のぶすま)ともいふとぞ 京師の人小児を怖しめて啼を止むるに元興寺といふ もゝんぐはとがごしとふたつのものを合せてもゝんぢいといふ

 原野夜ふけてゆきゝたえ きりとぢ風すごきとき 老夫と化して出て遊ぶ 行旅の人これに遭へばかならず病むといへり ≫

  この解説では、石燕は百々爺のことを「未詳」としながらも、原野に出没する老人の妖怪としており、通行人がこれに出遭うと病気を患うものとしている。また、文中にある「もゝんぐは(モモンガ)」は実在の動物の名前であると同時に、関東地方で化け物を意味する幼児語であり(モモンガ#「モモンガ」の名の由来も参照)、顔つきや体で怪物のような仕草をして子供を脅かす遊びをも意味しており、「がごし(ガゴジ)」も同様に徳島県などで妖怪の意味で用いられる児童語である。石燕は百々爺のことを、これら「モモンガ」と「ガゴジ」の合成語と述べている。』(「ウィキペディア」)

  この≪鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「百々爺」≫の画像は次のとおり。

 


鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「百々爺」≫(「ウィキペディア」)

 この鳥山石燕が描く『今昔画図続百鬼』の「百々爺」に、次の「天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)」が、何処となく似通っている。

 

「天保13年(1842年)、82歳(数え年83歳)頃の自画像(一部)」(「ウィキペディア」)

 句意=申年の暮れ、「見ざる言わざる聞かざるの三猿」の如く、「出まい(脱浮世)・洒落まい(無風流)・奢るまい(万事泰然)」を、この「百々爺」の三か条とす。

 (参考) 北斎(春朗)の「青面金剛」と「三猿」周辺

 

北斎(春朗)の「青面金剛」と「三猿」(部分図)(太田記念美術館蔵) 

https://twitter.com/ukiyoeota/status/1235849976229416971


北斎(春朗)の「青面金剛」と「三猿」(太田記念美術館蔵)

『葛飾北斎が20代後半に描いた珍しい仏画。青面金剛という庚申信仰のご本尊。下には、「見ざる言わざる聞かざるの三猿」が描かれている。』

 

 

日曜日, 10月 23, 2022

北斎の狂句(その一)

 その一 除夜更てなが雪隠の二年越シ

 除夜更(ふけ)てなが雪隠(せっちん)の二年越シ 卍 文政十年(一八二七)

●除夜(じょや)=おおみそかの夜。一年の最後の晩。除夕(じょせき)。《季・冬》

●雪隠(せっちん)=便所のこと。かわや。こうか。東司(とうす)。せっちん。せんち。せちん。また特に、茶室につけられた便所。

●掛取り=掛け売りの代金を受け取ること。また、その集金人。掛け乞い。掛け集め。《季・冬》 

※浮世草子・世間胸算用(1692)三「掛取(カケトリ)上手の五郎左衛門」

※団団珍聞‐一四三号(1880)「明日は元日〈略〉今夜は債乞(カケトリ)が来るから表戸(おもて)を叩いた人があったら留守だと云(いっ)ておいで」

https://senjiyose.com/archives/757

※昔は、日常の買い物はすべて掛け買いで、決算期を節季(せっき)といい、盆・暮れの二回でした。特に大晦日は、商家にとっては、掛売りの借金が回収できるか、また、貧乏人にとっては踏み倒せるかどうかが死活問題で、古く井原西鶴(1642-93)の「世間胸算用」でも、それこそ笑うどころではない、壮絶な攻防戦がくりひろげられています。むろん、江戸でも大坂でも掛け売り(=信用売り)するのは、同じ町内の生活必需品(酒、米、炭、魚など)に限ります。

句意=大晦日、今日は「掛取り」の「トリ」が、「カエセー・カエセー」とやってくる。ついつい、「便所」にこもって、除夜の更けるのを待って、新年を迎える羽目になってしまった。

 


作品名:掛取り(川原慶賀画)  (「シーボルト・コレクション」)

TitleDebt collection, December

●分類/classification:年中行事、12月/Annual events

●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet

●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

 



「掛取り・部分拡大図(川原慶賀画)」(『江戸時代 人物画帳 シーボルトのお抱え絵師・川原慶賀が描いた庶民の姿(小林淳一編著)』)

『長合羽のこの人物を目にしたとき、初めは「富くじ売り」かと思った。(略) (左手にもつ)その紙片には、人の名前がはっきりと書かれている。五枚のうち向かって右から順に、「野中様」「山辺様」「海中様」、四枚目は判読不能だが、最後には「池田様」とある。そして、オランダ語の説明書きにも、「Kaketori」とローマ字で記されている。すなわち、ここに描かれた男は、掛け売りの代金を受け取る「掛取」で、紙片の名は集金先、おそらくは武家筋であろう。(以下略)』(『同書p67  029掛取) 

(参考) 北斎の画号・戯作名(狂句名など)とその使用年代(『謎解き 北斎川柳(宿六心配著)』を中心に『北斎川柳(田中聡著)などで補筆)) ※は「主要狂句名」

 春朗(しゅんろう)  20歳~35歳     安永8(1779)~寛政6(1794)

群馬亭(ぐんばてい)26歳~35歳   天明5(1785)~寛政6(1794)か?

百琳宗理(ひゃくりんそうり)36歳~38    寛政7(1795)~寛政9(1797)

俵屋宗理(たわらやそうり) 37歳 ~39   寛政8(1796)~寛政10(1798)

北斎宗理(ほくさいそうり)38歳~39    寛政9(1797)~寛政10(1798)

北斎(ほくさい)  38歳~60歳        寛政9(1797)~文政2(1819)

※可候(かこう)39歳~52歳               寛政10(1798)~文化8(1811)

 

不染居北斎(ふせんきょほくさい)40歳 寛政11(1799

辰政(ときまさ)40歳~51歳          寛政11(1799)~文化7(1810)

画狂人(がきょうじん) 41歳~49歳    寛政12(1800)~文化5(1808)

※錦袋舎(きんたいしゃ)46歳~50歳    文化2(1805)~文化6(1809)

九々蜃(くくしん)  46歳               文化2(1805)

画狂老人(がきょうろうじん) 46歳~47歳 文化2(1805)~文化3(1806)

75歳~90歳 天保5(1834)~嘉永2(1849)

戴斗(たいと)52歳~61歳            文化8(1811)~文政3(1820)

雷震(らいしん) 53歳~56         文化9(1812)~文化12(1815)

鏡裏庵梅年(きょうりあんばいねん)53歳 文化9(1812)

天狗堂熱鉄(てんぐどうねってつ) 55歳 文化11(1814) 

 

※為一(いいつ)   61歳~75歳            文政3(1820)~天保5(1834)

前北斎為一(ぜんほくさいいいつ)  62歳~74歳  文政4(1821)~天保4(1833)

不染居為一(ふせんきょいいつ) 63歳                   文政5(1822)

月癡老人(げっちろうじん) 69歳                     文政11(1828)

※卍(まんじ) 72歳~90             天保2(1831)~嘉永2(1849)

(万二・万仁・満二・満仁・万治・百々爺=ももんじい・百×百=万)

三浦屋八右衛門(みうらやはちえもん) 75歳~87歳  天保5(1834)~弘化3(1846)

百姓八右衛門(しゃくしょう八右衛門)75歳~87歳 天保5(1834)~弘化3(1846)

土持仁三郎(つちもちにさぶろう) 75歳       天保5(1834)

藤原為一(ふじわらいいつ)88歳~90歳     弘化2(1846)~嘉永2(1849)


土曜日, 10月 22, 2022

屠龍之技(酒井抱一句集)第一こがねのこま(1-5)

 1-5  かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度(たび)

 陽炎(かげろう、かげろふ)=三春。子季語に「野馬(かげろふ・やば)・糸遊・遊糸・陽炎燃ゆ・陽焔・かげろひ・かぎろひ」。

 陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇    芭蕉「猿蓑」

かげろふに寝ても動くや虎の耳     其角「其角発句集」

野馬(かげろふ)に子共あそばす狐哉  凡兆「猿蓑」

陽炎や名もしらぬ虫の白き飛(とぶ)  蕪村「蕪村句集」

かげろふや簣(あじか)に土をめづる人 蕪村「蕪村句集」

  この二句目の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」(其角)の「かげろふ」は、「かげろふ(陽炎)=三春」か「かげろふ(蜉蝣=初秋)・かげろふ(蜻蛉=三秋)」か、それとも、「陽炎と蜉蝣・蜻蛉」とが掛詞になっているのかと、いろいろと悩ましい、これまた「謎句」的な仕掛けのある句なのであろう。

 この句には、「四睡図」という前書が付してあり、『其角発句集(坎窩久臧考訂)』では、「豊干禅師、寒山、拾得と虎との睡りたる図」との頭注(同書p180)がある。 

 其角が、どういう「四睡図」を見たのかは定かではないが、実は、其角の師匠の芭蕉にも、次のような「四睡図」を見ての即興句が遺されている。

  月か花かとへど四睡の鼾(いびき)哉  ばせお (真蹟画賛、「奥羽の日記」)

 この芭蕉の句は、「おくの細道」の「羽黒山」での、「羽黒山五十代の別当・天宥法印の『四睡図』の画賛」なのである。

 










芸阿弥(室町時代)「四睡図」(部分拡大図)(「ウィキペディア」)

 









長沢芦雪筆(18世紀)「四睡図」(部分図)(「ウィキペディア」)

 









菱川師宣(1701)「四睡図」(部分図)(「ウィキペディア」) 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%9D%A1%E5%9B%B3

  其角の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」の「虎の耳」は、芭蕉の「月か花かとへど四睡の鼾哉」の「四睡図」に描かれている「虎の耳」を背景にしているのかも知れない。と同時に、この其角の句は、同じく、芭蕉の、その『猿蓑』に収載されている「陽炎」の句の、「陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇」をも、その背景にしているように思われる。

 この「柴胡(さいこ)の糸」というのは、薬草の「セリ科の植物のミシマサイコの漢名、和名=翁草」で、その糸ような繊細な「柴胡」を、「糸遊」の別名を有する「陽炎」と「見立て」の句なのである。

 そして、其角は、芭蕉の、その「糸ような繊細な『柴胡』=「陽炎」という「見立て」を、「かげろふ」=「陽炎」=「薬草の糸のような柴胡」(芭蕉)=「蜉蝣(透明な羽の薄翅蜉蝣・薄羽蜉蝣・蚊蜻蛉)」(其角)と「見立て替え」して、「蕉風俳諧・正風俳諧」(『猿蓑』の景情融合・姿情兼備の俳風)から「洒落風俳諧」(しゃれ・奇抜・機知を主とする俳風)への脱皮を意図しているような雰囲気なのである。

 (『猿蓑』の「陽炎」の句)

 陽炎や/取つきかぬる雪の上      荷兮(かけい)

かげろふや/土もこなさぬあらおこし  百歳

かげろふや/ほろほろ落る岸の砂    土芳

いとゆふのいとあそぶ也虚木立(からきだて)  伊賀 氷固(ひょうこ)

野馬(かげろふ)に子共あそばす狐哉  凡兆

かげろふや/柴胡の糸の薄曇      芭蕉

(「洒落風」其角俳諧)

かげろふに寝ても動くや虎の耳     其角「其角発句集」

かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度 抱一『屠龍之技』


 1-5  かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度(たび)

  句意=「陽炎(かげろう)」が立つ野辺に、「かげろう(野馬)」の異名をもつ「野馬(のうま・やば)」が「四睡図」の虎のように寝入っていて、その耳に「かげろう(蜉蝣)」が止まるのか、時折、耳を動かしている。

 (参考)英一蝶の「風流四睡図」周辺

 

「風流四睡 英一蝶」(「ウィキメディア・コモンズ、フリーメディアリポジトリ」)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%A2%A8%E6%B5%81%E5%9B%9B%E7%9D%A1_%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6.jpg

  其角の畏友「英一蝶」は、「四睡図」の「豊干禅師」=「花魁(おいらん)」、「寒山・拾得」=「二人の禿(かむろ)」、「虎」=「猫」に「見立て替え」して、「風流四睡図」を描いている。其角が、この「風流四睡図」に画賛をすれば、次のような句になる。

       かげろふに寝ても動くや猫の耳 

金曜日, 10月 21, 2022

屠龍之技(酒井抱一句集)第一こがねのこま(1-4)

 1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

 梅=初春。「うめ(梅)が香」=梅の匂い、梅(親季語・季題)の子季語(傍題)。「梅が香や」の「上五や切り」の例句に、次のような句がある。

 梅が香やしらら落窪京太郎        芭蕉(『忘梅』)

梅がゝやひそかにおもき裘(かはごろも) 蕪村(安永六年書簡)

梅が香やどなたが来ても欠茶碗  一茶(『文化句帖』)

梅が香や乞食の家ものぞかるゝ  其角(『五元集』)

梅が香や隣りは荻生惣右衛門   其角(?『江戸名所図会」

  其角の「梅が香や乞食の家ものぞかるゝ」の句には、「遊大音寺」(大音寺ニ遊ブ)との前書きがある。この句に関連して、次のアドレスで、下記のように解説している。

http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

 『  んめがや乞食の家も覗かるゝ

 「んめがゝ」は「梅が香」。現在、大音寺は台東区下谷竜泉寺の町中にありますが、当時は吉原遊郭の裏手で、江戸郊外の田圃の中のあったという事です。其角にとっては、大音寺は読み書きなどを習うために、通いだったか寄宿してだったか分かりませんが、10歳頃に入学した「寺子屋」であったようで、久しぶりに訪れたのかも知れません。町から外れたこの付近は、乞食の住む小屋も多くあって寂しげなところかと思われますが、土地勘があっての散策だったのでしょう。野梅の馥郁な香が伝わってきます。

 この句は「梅が香」という雅な縦の題材を「乞食」と取り合わすことで、其角らしい感性で俳化しています。「雁・鹿・虫とばかり」和歌と俳諧との本質の違いに悩んだ入門から、既に八年、俳諧を自家薬籠中の物にした其角の姿が目に浮かびます。』(「詩あきんど」)

 同じく、其角(?)の句とされている「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」は、下記のアドレスで、『江戸名所図会」に記述されている「俳仙宝晋斎其角翁の宿」に関連しての原文が紹介されている。

 https://yeahscars.com/kuhi/ogyusoemon/

 『 「江戸名所図会」(天保年間)に「俳仙宝晋斎其角翁の宿」があり、

「茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。按ずるに、梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は、其角翁のすさびなる由、あまねく人口に膾炙す。よってその可否はしらずといえども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。」

 とある。現実に、荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた場所の隣に蘐園塾を開いたのは、其角の死後2年が経過した1709年である。其角と荻生徂徠に面識はないという。

今ではこの句は、杉山杉風の弟子である松木珪琳のものだと言われている。けれども、「隣りは荻生惣右衛門」と詠まれたあたりは、其角を意識してのものだと言えるだろう。

 其角の「梅が香や…」の句には、「梅が香や乞食の家も覗かるゝ」(一茶の句)がある。現在になってこの2句を併せて鑑賞するなら、将軍吉宗に仕えた学者の、「徂徠豆腐」で知られる倹しい一面が、面白く浮かび上がってくる。』

 








『江戸名所図会』所収「茅場町薬師堂」(江戸名所図会 7. [2]  24/49) (国立国会図書館デジタルオンライン)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563381/25

  この『江戸名所図会』の次頁(25/49頁)の記述文の中に、「隣りは荻生惣右衛門」の句が出て来る。この「茅場町薬師堂」(24/49)の句は、「夕やくし涼しき風の誓いかな」である。                                                                                      

http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/chisenin/

「 『江戸名所図会』には「薬師堂、同じく御旅所の地にあり、本尊薬師如来は、恵心僧都の作なり、山王権現の本地仏たる故、慈眼大師勧請し給ふといへり、縁日は毎月八日、十二日にして、門前二・三町の間、植木の市立てり、別当は医王山智泉院と号す」とあります。

歌人で芭蕉十哲の一人、其角が境内地に住んでおり、

夕やくし涼しき風の誓いかな

の句をよんでおります。 」(「鎧島山 智泉院(通称:茅場町のお薬師さま)」)

  この其角の「夕やくし涼しき風の誓いかな」は、百万坊旨原編の『五元集』『五元集拾遺』(『俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)には収載されていず、『其角発句集(上)(坎窩久臧 考訂)(名家俳句集)』に収載されている。それには、頭注があって、「夕やくし」=「薬師には夜の参詣多きより夕薬師といふ」とある(『同書』p220)。

  ついでに、芭蕉の句の「梅が香やしらら落窪京太郎」の「しらら・落窪・京太郎」は、「浄瑠璃『十二段草子』姿見の段に「よみけるさうしはどれどれぞ、こきん(古今)・まんやう(万葉)・いせものがたり(伊勢物語)・しらら(散佚=さんいつ)物語=とりかへばや物語)・おちくも(落窪物語)・京太郎(京太郎物語)」の「とりかへばや・おちくぼ・京太郎」物語のことのようである(『松尾芭蕉集一・全発句(井本農一・堀信夫校訂)』)。

 ここで、いよいよ、抱一の、「1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの」の句であるが、この句もまた、抱一が私淑して止まない「宝井(榎本)其角」の、次の句の、「本歌取り(和歌・連歌・狂歌)・本説取り(漢詩文)・本句取り(俳諧・連句・発句・俳句・狂句・川柳)」なのである。

   周防どのは才ある人にて、政事行るゝに一生非なし。

  ひなき(火無き)をめでゝ、板くら(板倉)どのと

  申とかや、この中より、やけたる銭をひろひ出て

 火燵(こたつ)から青砥(あをと)が銭を拾ひけり  (其角『五元集』)

  この「其角」の句は、百万坊旨原編の『五元集』にも、坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)』にも収載されている。この坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)p253』の、この句の頭注には、「板倉殿の冷火燵といふ諺をさせり」とある。

 この「板倉殿の冷火燵といふ諺」は、「火の気の無いこたつの洒落。板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。

 ちなみに、この句の「青砥が銭」とは「十文の銭を五十文使って探した、という青砥藤綱の故事をふまえている」と、何とも、其角の句というのは、いわゆる「謎句(付け)」の「謎掛のような仕掛けのある句」の連続なのである。

1-4  うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

 句意=梅の匂いが春を告げている。だが、まだ、炬燵は離せない。しかし、この家の炬燵も火のない「周防殿の冷炬燵(ひえこたつ)=板倉炬燵」だ。

 句意周辺=「周防どの」とは、「京都所司代周防守板倉重宗」のこと。その「板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。そして、この上五の「うめが香や」と中七の「爰の炬燵も」の「も」の措辞は、やはり、其角の句として夙に名高い「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」の「荻生徂徠」の「徂徠豆腐」などが背景にあるのであろう。

 (参考) 徂徠豆腐 (「ウィキペディア」)

 https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%82%E5%BE%A0%E8%B1%86%E8%85%90

 落語や講談・浪曲の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話である。江戸前落語では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。

ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。

法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」 と法の道理を説いた。さらに「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。

これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。

 

水曜日, 10月 19, 2022

屠龍之技(酒井抱一句集)第一こがねのこま(1-3)

第一こがねのこま(1-3)

1-3  築山の戸奈背にをつるやなぎかな

 柳(やなぎ)=晩春。築山=庭園に山をかたどって小高く土をつみ上げた所。戸奈背=戸無瀬=戸難瀬=京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の古地名。紅葉の名所。歌枕。※恵慶集(985‐987頃)「大井河かはべの紅葉ちらぬまはとなせの岸にながゐしぬべし」

 となせ(戸無瀬)の滝=※散木奇歌集(1128頃)冬「となせよりながす錦は大井河いかだにつめるこのはなりけり」

 句意=この築山は、歌枕の、京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の「戸奈背=戸無背」の「となせの滝」を模して作庭されている。その「となせの滝」に、あたかも、その傍らの柳が落下するように、風に靡いている。

 句意周辺=この句の背景には、「築山殿と松平信康の悲劇」などが隠されているのかも知れない。

 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/naotora/pr/plus/07_20160817.html

 「築山殿と松平信康の悲劇」

 築山殿は、駿府(静岡市)にて今川家の重臣・関口刑部親永(せきぐちぎょうぶちかなが)と井伊直平(井伊直虎の曽祖父)の娘との間に生まれ、直盛(直虎の父)や直親のいとこにあたるとされています。

  今川義元の政略で松平元信(のちの徳川家康)に嫁ぎ、永禄2年(1559年)には長男である松平信康を出産。しかし、生まれてすぐに信康は今川家の人質として駿府で過ごすこととなります。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康は混乱に乗じて岡崎城に入城。名実ともに岡崎城主となると、築山殿と人質になっていた信康も岡崎城に移り住みます。永禄5年(1562年)には織田信長と清州同盟を結び、今川家と敵対関係になります。そして永禄10年(1567年)、9歳となった信康は信長の娘・徳姫と結婚します。

 元亀元年(1570年)、家康が浜松城に移ると、信康は岡崎城主となりますが、天正7年(1579年)、信康に悲劇が襲いかかります。悲劇のきっかけは徳姫が織田信長に送った12ヶ条の訴状だったと言われています。この訴状には、「築山殿が武田勝頼と内通している」といった内容が記されていたとされていて、この内容に織田信長が激昂。築山殿と信康の処刑を要求しました。熟慮の末、信長との関係を重視し、身を切る思いで、築山殿の殺害と信康の切腹を命じました。築山殿は徳川家臣によって佐鳴湖畔で殺害され、信康は二俣城(天竜区二俣町)で自害しました。

 


「築山殿/瀬名姫」(つきやまどの/せなひめ)(「ウィキペディア」)

生誕       不明

死没       天正7829日(1579919日)

別名       築山御前、駿河御前

配偶者    徳川家康

子供       徳川信康、亀姫

           関口親永

∶   今川義元の妹

親戚:      兄弟正長、道秀、

姉妹:   大谷元秀室、築山殿、北条氏規室?

 


火曜日, 10月 18, 2022

屠龍之技(酒井抱一句集)第一こがねのこま(1-2)

 第一こがねのこま(1-2)

1-2  から笠のほねのたくみも柳哉

  柳(やなぎ)=晩春。

わがせこが見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも 大伴坂上郎女『万葉集』

見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春に錦なりける 素性法師『古今集』

青柳の糸よりかくる春しもぞ乱れて花のほころびにける 紀貴之『古今集』

傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな 芭蕉「炭俵」

傾城の賢なるはこの柳かな       其角「五元集」

梅ちりてさびしく成しやなぎ哉     蕪村「蕪村句集」

恋々として柳遠のく舟路かな      几董「井華集」

  から笠(唐笠)=江戸時代に入ってからで、白の和紙に桐油(とうゆ)を引いたのが始まりで、その粗雑なものを番傘とよんだ。のちに家紋をつけたりし、傘の周囲を紺で染めたものを蛇の目傘、それより細身で高級品のものを紅葉(もみじ)傘といい、握りには籐(とう)を巻いたり、骨を糸飾りにしたりして粋筋(いきすじ)の間で流行した。

傘にねぐらかさうやぬれ燕  其角『虚栗』

柳に風=柳が風に従ってなびくように、少しも逆らわないこと。また、巧みに受けながすこと。※雑俳・如露評万句合‐宝暦九(1759)「いつ見ても柳に風の夫婦中」

 句意=唐笠の骨の仕組みは、実に巧みに出来上がっている。それは、丁度、「柳に風」のごとく、巧みに、従順な働きをしている。抱一の句作りの要諦は、江戸座俳諧の元祖の宝井其角の句をいかに「柳(其角)に風(抱一)」ごとく、咀嚼して、さりげなく一句にしているかどうかにかかっている。

 

鈴木其一筆「柳図扇」一本(柄) 酒井抱一賛 太田記念美術館蔵

一六・六×四五・五㎝

【 軽やかに風に揺れる柳が描かれる。抱一による賛は「傾城の賢なるはこれやなきかな 晋子吟 抱一書」。晋子(しんし)とは、芭蕉の門弟の一人で江戸俳座の祖である其角のこと。この句は『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)などで京都の遊郭、島原を形容する際に用いられており、江戸時代後期にはよく知られていたと思われる。本扇面は、当時の吉原文化の一翼を担った抱一とその弟子其一の、粋な書画合筆による。賛のあとに抱一の印章「文詮」(朱文瓢印)が捺される。画面右に其一の署名「其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。なお、其一の弟子入りの時期と抱一没年から制作期は文化十年(一八一三)から文政十一年(一八二八)の間と考えられる。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 (参考) 「藤図扇子」(其一筆・抱一賛・其角句)周辺

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-25

 抱一の賛の其角の句「傾城の賢なるはこれやなきかな」は、『五元集(旨原編)』では「傾城の賢なるは此柳かな」の句形で収載されている。この其角の句が何時頃の作なのかは定かではない。『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)で京都の遊郭、島原を形容する際に用いられているということは、其角の京都・上方行脚などの作なのかも知れない。

  闇の夜は吉原ばかり月夜哉   (天和元年=一六八一、二十一歳)

 西行の死出路を旅のはじめ哉  (貞享元年=一六八四、二十四歳、一次上方行脚)

 夜神楽や鼻息白し面の内    (元禄元年=一六八九、二十八歳、二次上方行脚)

 なきがらを笠に隠すや枯尾花  (元禄八年=一六九四、三十四歳、三次上方行脚)

 

月曜日, 10月 17, 2022

屠龍之技(酒井抱一句集)第一こがねのこま(1-1)

 第一 こがねのこま

 
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/document/15dd5a92-e055-4dcb-a302-1ed3adc3716f#?c=0&m=0&s=0&cv=2&xywh=-995%2C-177%2C7335%2C4375










1-1  うぐひすは鳴ともかたし腰瓦 

  鶯(うぐいす、うぐひす)=三春。

鶯の谷より出づる声なくは春来ることをたれかしらまし 大江千里『古今集』

鶯や餅に糞する縁のさき  芭蕉「葛の松原」

鶯の啼やちいさき口明て  蕪村「蕪村句集」

鶯の静かに啼くや朝の雨  成美「いかにいかに」

腰瓦(こし‐がわら)=長屋や土蔵、塀などの外壁の腰板の部分に瓦を張ったもの。※雑俳・川柳評万句合‐安永九(1780)梅二「たべる程近所であるとこしかわら」。

 句意=春を告げる鶯が、屋根の腰瓦の上で鳴いているが、黒い腰瓦は固い冬の風情のままである。この「かたし」は「固し」で、「難し」との「掛詞」を加味すると、「鶯が鳴いても、腰瓦は頑として「固い」ままで、春の風情を「こじ開ける」は「難し(むつかしい)」。それよりも、雑俳の「食べる程近所であるとこしかわら」の意を汲んで、この「腰瓦」を「瓦煎餅」(江戸吉原の「名物」)と掛けての句意もあろう。

(追記) 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔交遊編〕

 

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/oota/ootananpo/nanpo-kouyuu/kobetu/nanpo-kouyuu-sakaihouitu.html

 

【酒井抱一】(さかい ほういつ)(屠龍)(とりゅう)

 

「上元、屠竜公子の館に宴す 金馬門前白日開 上元春色満楼台 若令飛蓋遊西苑 天下誰当八斗才」  南畝集7/漢詩番号1400/ 484/ 天明8/1788/01/15

 

※ 太田南畝は、大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を讃えて七言絶句の漢詩を詠んでいる(『南畝集』七)。その書き出しには「金馬門(きんばもん)白日開」とあり、中国漢代の末央宮(びおうきゅう)の門を気取って、江戸城の大手門をペダントリーに「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語から「こがねのこま」としていたようだ。(『酒井抱一 大江戸にあそぶ美の文人(玉蟲敏子著)』「日本史リブレット54p10

 

「秋日、屠竜公子に過る 居竜公子在江皐 百尺楼頭臥自高 晩命漁人聊下網 得魚新欲酌醇醒」南畝集9/漢詩番号1750/93/寛政3/1791/09/

 

「屠竜公子の席上、妬婦夜貴船の嗣に祈るの図に題す

 香羅骨結両同心 海誓山盟契濶深 溝水応須無断絶 谷風何事変晴陰 伐柯斧使良媒失 積羽舟随旧怨沈  苦向叢嗣将告訴 松杉夜色気蕭森」南畝集9/漢詩番号1890       /④138/寛政3/1791/

 

「宝刀歌

 君不見宝刀勝昆吾 万物之炭造化炉 金躍冶中声将発 鋳成千載気象孤 王環鉄鞘千金質 精光直射扶桑日 干将莫邪何足誇 太平時節未出室 屠竜公子学屠竜 技成三年竜未逢 蔵匝以比天子剣 笑他突鬢頭如蓬 神物有意何処帰 一夕奪之忽西飛 奪之真人号白水 白水所佩天下稀」南畝集9/漢詩番号1888/④137/寛政5/1793/09/

 

鶯村君の松の画は金川宿羽根沢といふ楼の庭にある松なり

 かな川の松の青木の台の物洲浜にたてる鶴の羽根沢」放歌集/②177/ 文化9/1812/01/

 

春日、抱一君を尋ぬ 狂風処々起清芬 不是探梅偶訪君 幽谷孤鴬求友人 片時閑話洗塵氛」

「席上、画に題す 一枝白雪含春色 数朶黄金発歳蘭 莫道吏情誇老健 唯将酒力敵余寒」

南畝集19/漢詩番号3972-3/⑤341 /文化12/1815/02/

 

「卯月十二日、鶯邨上人のやどりに晋子のかける光陰の道行といふものをみて

 光陰の道行はやきかくれ家は鴬村も山ほとゝぎす

 所からちかき山屋の若楓岡べのまくづかゝるもてなし

 夕ぐれに山の根ぎしをいでくればいそぐ四つ手に帰る案茀(アンポツ)」紅梅集/②338/文化15/1818/04/12