土曜日, 7月 22, 2006

若き日の蕪村(八)



若き日の蕪村(八)

(九十一)

先に触れた、蕪村が十歳前後の頃に桃田伊信という絵師に絵の手ほどきを受けたということについて、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)で紹介されている『俳画の美』(岡田利兵衛著)のその箇所を見てみたい。
それは、天明五年(一七八五)十一月二十五日に、田福・月渓主催で蕪村三周忌追悼会を池田で催したときの刷り物にある次の田福の詞書によるものであった。

※夜半翁、むかし、池田なる余が仮居に相往来し、呉江の山水に心酔し、且、伊信(これのぶ)といへる画生に逢ひて、四十(よそ)とせふりし童遊を互に語りて留連せられしも、又二十(はた)とせ余りの昔になりぬ。ア丶我此(この)翁に随ひ遊ぶ事久し。(以下略)

 この「蕪村三回忌追悼摺物」の紹介に続けて、次のように記している。

※『池田人物誌』に「桃田伊信」の条がある。すなわち氏は桃田、名は伊信。号は雪蕉堂・好古斎。明和二年三月廿日(「稲塚家日記」)池田で没した。蕪村が来池の時、適々この地へ来遊して邂逅したのではなく、宝暦……蜆子図の日初の賛に庚辰(宝暦十年)の年記がある……明和の頃には池田の荒木町(今の大和町で、一部には絵屋垣内といった所があった)に住み、池田に相当の画作をのこしている。たとえば呉服神社拝殿(宮司馬場磐根氏)
左右四枚の杉戸(各タテ一六九糎ヨコ一三八糎)の芦に鶴(向って右二枚)岩に大鷹(向って左二枚)の図とか、建石町法園寺観音堂天井の龍などはすぐれた大作であり。紙本半切の草画「蜆子図」(今所在不明)などもある。落款には「呉江法稿」とか「法眼伊信」などしるされているから、名実ともにすぐれた画家であったと思われる。その手法はすべて大和絵風を加味した狩野派であるが、その出生も画系も明白ではない。ただし『古画備考』の「御仏絵師」の条に神田宗信なるものがあって、その四代に伊信(明和二、正、廿六没、七十九)なる人があるが、この桃田伊信はそれに該当するのではないか。京都の人らしいがそれがどうして池田へ移ったかについては明らかにできない。もしかすると五代栄信に譲って隠棲したのかもしれない、伊信の墓は池田市桃園町の共同墓地にある。正面に「鋤雲翁法眼桃田伊信墓」、向って左側に「天保戊戌三月建之」また中段台石に「施主町中」とあって伊信没後七十三年に町内有志によって建碑されたことがわかる。        

 この記述によると、蕪村が十歳前後の頃に絵の手ほどきを受けたという絵師・桃田伊信は「京都の人らしい」が、池田在住の画家で、この池田には丹後時代以降の蕪村は何回となく訪れていて、その初期の頃に、この池田にてこの絵師・桃田伊信に再会したというのである。

(九十二)

※さて田福はその時点を「二十とせ余りの昔になりぬ」と記していることを拠点とすると天明五年(一七八五)から二十年前は明和二年(一七六五)となり、「余り」を考慮して宝暦末から明和初頭の頃となる。すなわち明和二年没した伊信の最晩年に当たり、蕪村は丹後遊学から帰って讃岐へ旅する前、五十歳の画俳両芸に名声愈々高まった頃池田へ来遊したことが明らかとなる。なお、田福が「伊信といへる書生に逢ひて四十とせふりし童遊を互に語り」といっている点に注目せねばならぬ。ここで「書生」とあるのは勿論いわゆる青年学徒といった意味でなく、画家とか学者を指したものと解する。また「童遊」は童同士の遊びということではない。伊信は明和二年には上掲の墓石の法眼から推して相当高齢と思われる。蕪村は五十歳で両人の年齢に大分の相違があるから、「四十とせふりし」によって、この童遊は享保九年頃、蕪村の八・九歳の童児の頃であり、伊信は三十余歳であったようである。つまり蕪村の童幼の頃に画家伊信と交わったことを意味する。このことは蕪村にとって重大な歴史の一こまといわねばならぬ。そこで思うのは、蕪村が伊信と画談し。或いは絵の手ほどきをうけたのではなかろうかということである。この頃は十歳になると絵けいこを始める風習があったから、この推定は無理ではない。少なくともこの伊信との童遊によって絵に関心を持ったということはいえるであろう。そうすると蕪村が生涯を画事に託した発端はこの頃にあったと私は思う。その場所はいずれか明らかにし難いが年齢から推して蕪村在郷の時とするべきであろう。これは憶測だが伊信が蕪村の毛馬の家に出入りしていたのではあるまいか。幼時における四十年前の思い出を、計らずも池田で再会し、留連追憶談笑したのであって、これは特筆すべき事実である。蕪村は天性絵が好きであった。それは追悼集『から檜葉』の「夜半翁終焉記」に「抑(そもそも)此(この)翁、無下にいはけなきより画を好(このみ)て」と几董がかいた記載と合致する。そして桃田伊信が蕪村幼童時の絵心に大きな刺激を与えたと考えられるのである。

 岡田利兵衛氏は、「伊信が蕪村の毛馬の家に出入りしていたのではあるまいか」として、し、蕪村の生まれ故郷の毛馬村で、「蕪村の八・九歳の童児の頃」に、「伊信は三十余歳で」、「蕪村の童幼の頃に画家伊信と交わったことを意味する」というのである。しかし、蕪村はその毛馬村のことについては何一つ言い残してはいない。いや、その事実を隠し通そうという痕跡すらうかがえるのである。そして、蕪村の母は蕪村が十三歳の頃に他界している。岡田氏は上記のことを「憶測だが」としているが、「当時、蕪村は京都に居て、その京都で画家伊信と交わった」ということも、「憶測の域」は出ないが十分に考えられるところのものであろう。とにもかくにも、蕪村は十歳前後の頃に、専門絵師との交流があり、「無下にいはけなきより画を好(このみ)て」いたということは、その後の蕪村の生涯を考える上で貴重なことだけは、岡田氏が指摘するごとく、「これは特筆すべき」ことであろう。


(九十三)

岡田利兵衛氏は、その著『俳画の美』でこの桃田伊信と蕪村との出会いについて触れるとともに、『蕪村と俳画』所収の「蕪村の絵ごころ」でも同じようにこの出会いについて記述している。そして、その『蕪村と俳画』の「与謝蕪村小伝」ということで、次のような興味深い記述を続けている。

※蕪村の画の志向は、すでに十歳ならずして萌芽を見せていたのである。画精進の希望をいだきつつ一人旅ができるまで郷里にあって、やっと十七歳(享保十七年・一七三二)の頃、関東下向の本志をとげたのであった。江戸で俳諧は一応内田沾山についたといわれるが、元文二年(一七三七)夜半亭早野巴人が帰江したので、石町の夜半亭の内弟子として侍することになり、翌三年『夜半亭歳旦帖』に宰鳥の号で入集している。あらゆる修業において、蕪村が門下生として仕えたのはこの巴人だけで、画も書もすべて師匠をとらなかった。これは巴人が高潔の士であったからで、どんなにその道に長じても俗人であっては相手にしなかったのである。ところがその巴人が寛保二年(一七四二)に没したので、江戸の宗匠は俗人が揃っているので嫌気を催し、巴人門下の友人であった雁宕らの招きによって、留居十年の江戸を去って野総地方に赴くのである。画修業も江戸で積み重ねていたらしく、十四人の俳仙をかいた「俳仙群会図」がある。天明二年に人から頼まれて自ら書いた書詞が同貼されるが、それに「此俳仙群会図ハ元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」と記されており、自ら元文の作であめことを証している。朝滄落款で大和絵風の手法、現存する蕪村画作の最古のものである。

 この記述で、「やっと十七歳(享保十七年・一七三二)の頃、関東下向の本志をとげたのであった」ということについては、元文二年説(蕪村二十二歳)や享保二十年説(蕪村二十歳。この頃までに江戸に下るという説)と異なる。それは、上記の「俳仙群会図」(「此俳仙群会図ハ元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」)の制作時期との関連で江戸下向を早めたということなのであろう。しかし、江戸に来て直ぐに、生存中の師の巴人をその俳仙の一人に入れているというのは不自然に思えることと、その印章の「丹青不知老至」が蕪村の丹後時代のものであることからして、蕪村が丹後宮津行きを決行した宝暦四年(一七五四)以降の作と考えると、蕪村十七歳の頃に江戸に下向したという必然性も乏しいように思われるのである。それよりも、巴人が京都に上洛した享保十三年(一七二八)以降の巴人京都滞在中に面識があり、その面識の後、享保十七年の頃、江戸に下向したということであれば、この享保十七年説も考えられないことではないという思いがするのである。

(九十四)

 蕪村が十歳前後で、専門絵師の桃田伊信に絵の手ほどきを受けたということが事実としても、伊信は蕪村の絵画の師ということではなく、そもそも、蕪村は、画・俳二道の面において、蕪村自身師と仰いだ方は、当時、俳諧師として関東・関西一円に名を馳せていた夜半亭一世・早野巴人唯一人といって過言ではなかろう。そして、その絵画の面においては、画・俳二道の面において著名な英一蝶(画号・朝潮など)・小川破笠などの影響も受けていたのであろうが、なかでも、俳諧にも造詣が深く南画の画人・榊原(彭城)百川の影響は大きなものがあったろう。この百川の簡単なネット記事は次のとおりである。

http://www.sala.or.jp/~matu/matu5.htm

元禄十一年(一六九八)~宝暦三年(一七五三)。
 画人。名古屋の人である。名は真淵。百川、蓮洲、八遷と称した。俳諧をよくした関係上、当初は俳画を得意とした。三十一才のとき、京に出て画業に専念した。博学であって、漢書を解したので、元明の図譜より南宗画(文人画)の画風を会得した。それがその後の彼の南画のもととなった。著作に「元明画人考」がある。高遊外との交遊もあった。江戸中期に活躍した画家の一人である。


 興味深いことは、先に触れた蕪村の丹後宮津行きを決行したのが、この百川が亡くなる一年前の宝暦四年(一七五四)であり、何か百川の死と蕪村の丹後宮津行きとの関連もありそうな気配なのである。なお、この頃の蕪村の作品の「天橋立自画賛」には、次のような賛がしてある。

※八遷観百川は、丹青をこのむで明風(みんぷう)を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流(かんりゅう)に擬す。はた俳諧に遊むで、ともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮二(註・支考)に出て蓮二によらず、我は晋子(註・其角)にくみして晋子にならず。されや竿頭に一歩をすゝめて、落る処はまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことももとめざるも同じおもむきなり鳧(けり)。されど百川いにしころこの地にあそべる帰京の吟に、はしだてを先にふらせて行(ゆく)秋ぞ わが今の留別の句に、せきれいの尾やはしだてをあと荷物 かれは橋立を前駈(ぜんく)として、六里の松を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎(でんき)として洛城の東にかへる。ともに此(この)道の酋長(註・風雅の頭領)にして、花やかなりし行過(註・道行)ならずや。
 丁丑(註・宝暦七年)九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中

(九十五)

 蕪村の絵画の面でどういう影響を多く受けていたかということにおいて、桃田伊信・英一蝶・小川破立・彭城百川などを見てきたが、蕪村が「宰町自画」として初めて登場する元文三年(一七三八)に刊行された『俳諧卯月庭訓』の撰者の豊島露月との関係も特記しておく必要があろう。露月は蕪村の師の早野巴人と昵懇の俳諧師でもある。宗因系の露沾の門人で、沾徳、沾涼・露言などと同門で、巴人が元禄二年に京都から江戸に再帰して移り住む江戸本石町に居て、観世流謡の師匠をしながら、総俳書刊行の趣味をもち、多くのものを世に出している。この絵入り版本の一つの『卯月庭訓』に「宰町自画」として、その「鎌倉誂物」が収載されているというのは、元文三年、蕪村が二十三歳の頃、露月の目に留まるほどの絵画の面において実績を有していたということなのであろう。この「宰町自画」の「鎌倉誂物」は、挿絵としての版画であり、その彫師のくせなどもあり、当時の蕪村の画技を論ずることは危険な要素もあろうが、こういう刊行物の一端を担うということは、もうその頃までには、相当の技量を有していたということは言えるであろう。そして、それらのことは、蕪村の俳諧の面ので師の早野巴人はもちろん、その早野巴人を取り巻く夜半亭一門の俳人達は均しく認めるところのものであったのであろう。なお、露月のメモは下記のとおりである。

豊島露月〔本名、治左衛門、貞和。別号、識月・纎月・五重軒〕一七五一(宝暦一)・六・二没<享年八十五歳>・江戸本石町の俳諧師。露沾門下。観世流謡曲師。絵画の家元。撰集に『麻古の手』『江戸名物鹿子』『ひな鶴』『ふたご山』『ふたもとの花』『宮遷集』『倉の衆』など。句に<行年や手拍手にぬぐ腰袴>など。

(九十六)

蕪村は、後に大雅とともに、南画の大成者として日本画壇の中にその名を馳せることになるが、その先駆者としては、荻生徂徠門下で詩文をもってその名をうたわれた服部南郭と土佐の商家に生まれた中山高陽などが上げられる。そして。この南郭と若き日の蕪村に係わりについては、先に、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)の紹介記事で触れた。そして、この南郭・高陽に次いで、南画に大きな影響を及ぼした、祇園南海と柳沢淇園とについては、次のように紹介されている。

祇園南海

http://www.city.gojo.nara.jp/18/persons/nankai.html

延宝四(一六七六)年生、宝暦元(一七五一)年九月八日没。名は玩瑜、字は伯玉、通称は余一、号は南海、蓬莱、鉄冠道人、湘雲居など。和歌山藩医祇園順庵の長男。江戸で生まれ、元禄二(一六八九)年八月、新井白石・室鳩巣・雨森芳洲らが師事する木下順庵に入門する。父が没した翌元禄一〇(一六九七)年、その跡目を継ぎ、和歌山藩の儒者に二〇〇石の禄で任命され、和歌山に赴く。しかし、元禄一三(一七〇〇)年、不行跡を理由に禄を召し上げあられて城下を追放され、長原村(和歌山県那賀郡貴志川町)に謫居を命じられた。宝永七(一七一〇)年、藩主吉宗に赦されて城下に戻るまで習字の師匠として生計を立てた。正徳元(一七一一)年、二〇人扶持で儒者に復し、新井白石の推挙で朝鮮通信使の接待に公儀筆談を勤め、その功により翌二(一七一二)年、旧禄(二〇〇石)に復し、翌三(一七一三)年、藩校設立に際して主長に任命された。病死して和歌山の吹上妙法寺に葬られた。著作に『南海先生集』、『一夜百首』、『鍾情集』、『南海詩訣』、『南海詩法』、『詩学逢原』、『湘雲鑚語』などがある。

柳沢淇園

http://www.sala.or.jp/~matu/matu5.htm#柳沢淇園

宝永三年(一七〇六)~宝暦八年(一七五八)大和(奈良)群山藩の武人にして画家。曽根家の次男として生まれ、元服時藩主吉里より柳沢の姓と里一字を拝領し名を里恭とした。字は公美、号は淇園、竹渓、玉桂と称した。皆が柳里恭と呼んで慕った。多才多芸の人望家であったようだ。詩書画は勿論、篆刻、音曲、医療、敬仏の精神と万能な武士。いち早く南画を研究し文人画の先駆を成した。(畸人百人一首より)

この南画の先駆者の二人について、「江戸初期文人画 放蕩無頼の系譜」・[士大夫的性格の系譜](儒教的教養をもつ)と位置付け、さらに、「放蕩無頼を以て禄をうばう」「不行跡に付き知行召し放たる」(祇園南海)、「不行跡未熟之義、相重なり」(柳沢淇園)との記事が下記のアドレスで紹介されている。

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon24.html

 これらのことと、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との蕪村にまつわる逸話とは、何か関連があるのであろうか。それとも、これらのことは単なる偶然のことなのであろうか。どうにも気がかりのことなのである。

(九十七)

この祇園南海と柳沢淇園の「不行跡」のことなどに関して、『南画と写生画』(吉沢忠他著)で、次のような興味のひかれる記述がある。
○南海と同様に淇園も「不行跡」が重なったという理由で処罰されている。これは単なる偶然の一致とは思われない。南海にしろ淇園にしろ、その学問の系統は朱子学であるが、道徳と密接にむすびついている朱子学に拘束されることはなかった。かれらには、詩文、芸術の世界がひらけていた。こうした文人的性格をもっていたがゆえに、絵画の世界に遊び「放蕩無頼」とか「不行跡」とみられたのか、あるいは、「放蕩無頼」「不行跡」とみられるような人物であったから、画を描くようになったのか・・・というより両者のあいだには相互関係があったのであろうが、とにかく日本南画の先駆者として数えられるひとびとが、おおやけにこうした烙印をおされていることは、注目してよかろう。淇園の学系は朱子学であったが、幼時から柳沢家の儒官荻生徂徠の影響を受けていた。そんなことからも朱子学に拘束されなかったのかもしれない。

 蕪村が江戸に出てきた当時、服部南郭に師事したと思える書簡(几董宛て書簡)などに係わる対談記事について先に触れた。そして、この服部南郭は、京都の人で、元禄九年に江戸に出て、一時、柳沢吉保に仕え、後に、荻生徂徠門に入り、漢詩文のみならず絵画(画号は周雪など)にも造詣が深かったということなのである。蕪村の誕生した享保元年というのは、享保の改革で知られている徳川吉宗の時代で、この吉宗時代になると、綱吉時代に権勢を振るった柳沢吉保らは失脚することとなる。そして、その吉保の跡を継ぐ柳沢吉里は、綱吉の隠し子ともいわれている藩主で、その吉宗の幕藩体制の改革とこの柳沢由里と深い関係にある柳沢淇園の「不行跡」との関連、さらには、これまた、その吉宗によって失脚される新井白石とは同門(木下順庵門)である祇園南海の「不行跡」との関連など、何か因縁がありそうでそういう一連の当時の大きな幕藩体制の改革などもその背景にあるようにも思えてくるのである。そして、蕪村が師事したという、服部南郭もまた、淇園・南海と同じく、柳沢吉保並びに荻生徂徠門というのは、これまた何か因縁がありそうで、当時の蕪村の生い立ちや関心事のその背後の大きな要因の一つのように思えてくるのである。なお、服部南郭については、下記のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www.tabiken.com/history/doc/O/O302L100.HTM

服部南郭

一六八三~一七五九(天和三~宝暦九)江戸時代中期の儒学者・詩人。詩文に長じ,学識豊かで世に容れられること大であった。通称小右衛門,名は元喬,字は子遷,南郭は号。京都の人。一六九〇年(元禄九)十四歳で江戸に出てきて十六歳で柳沢吉保に仕えた。壮年にして荻生徂徠の『古文辞説』に共鳴して門下となる。資性温稚で詩文の才能が世に知られ,北村季吟の門下であった父の感化もあって和歌も詠み絵画にも関心をもっていた。三十四歳のころ,家塾を開き門人を教授し古文辞の学を世に広めた。徂徠の門弟として,経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。収入は年々百五十両あったと言われる。著書のうち四編四十巻にのぼる『南郭先生文集』は本領を発揮した詩文集。「大東世語」「遺契」にはその学識の広さが見られ,「唐詩選国字解書」「灯下書」「文筌小言」は詩文論として評判を高めた。南郭は政治・経済を弁ずることがない点に特徴があるとされている。


(九十八)

 蕪村は、服部南郭に師事したというのが、それがどの程度のものであったのかは定かではない。南郭は、「政治・経済を弁ずることがない点に特徴がある」とされているが、朱子学の正統的な官学としての流れではない、在野の革新的な流れの荻生徂徠門であるということについては、やはり注目すべきことであろう。そして、従前の蕪村伝記については、これら荻生徂徠の影響ということについては等閑視してきたきらいがなくもない。そういうなかにあって、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)は「荻生徂徠の影響」という一項目をあげて、これらについて触れられていることは卓見というべきであろう。ここらへんのところを要約して紹介しながら、関連するようなことを記しておきたい。
○蕪村の学問・教養の基本を成したものがなんであったかについては、本人は明らかにしていない。しかし、かれが大阪の近郊の半農・半工的環境で成長した享保期の学問的状況は判明しているし、また、画俳として身を立ててからの知識の源泉は、その作品から相当程度掘り当てられる。一口に言うならば、それは朱子学のなかの構造論的な系列である。と言えば、直ぐさま念頭に浮かぶのは、荻生徂徠である。徂徠の学問は多岐にわたっているが、その最大の特徴は、政治の世界を道徳とは別のものであると見たこと、そして、文芸・思想においては言語の機能を重視したことに要約できるだろう。それは、道徳的規範を以てすべてを律しようとした従前の文教政策に対する最大の異論であった。
※上記は瀬木前掲書の出だしの部分なのであるが、それに、次のようなことが付記できるのではなかろうか。「蕪村が、その生涯を通して追求して止まなかった、『南画と俳諧』というのは、当時の社会の根底に流れていた、いわゆる朱子学の道徳的規範遵守とは相容れない世界のものであった。ここで、蕪村は荻生徂徠の世界に多くの点で共鳴し、その徂徠門にあって、己が生涯を賭けようとしている『南画と俳諧』の面での先駆者たち(祇園南海・柳沢淇園・彭城百川等)とその先駆者たちと同じ反俗・反権威の清高な気品を保ち続けた俳諧師・早野巴人をその生涯の師とし、それらの師の教示を生涯にわたって実践し続け、その『画俳二道』の頂点を極めた、その人こそ、蕪村であった」と、そんな感慨を抱くのである。

 なお、荻生徂徠のネット紹介記事は以下のとおりである。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/sorai.htm

荻生徂徠

綱吉に仕える医師方庵の二男として江戸二番町に生まれる。名は双松、字は茂卿のち茂卿、通称は惣右衛門。はじめ朱子学を学ぶ。伊藤仁斎の古義学を攻撃したが、のち『弁道』『弁名』を著わして、さらにより徹底した古文辞学の立場を確立。1696年(元禄9)以来柳沢吉保に仕え、政治顧問的役割を果たす。 吉保に赤穂浪士の意見を求められ、『擬自律書』を著して処分を上申した。徳川吉宗の内命によって『太平策』『政談』を著し、時弊救済策を述べた。門人に経済理論の太宰春台、詩文の服部南郭らをを輩出し、またその文献学的方法態度は、国学に影響を与えた。元禄・享保時代の社会的変動を思想面に於て最も痛切に受容して、その時代的社会的な問題性と真正面から取り組まんとしたのは、徂徠学である。それはまさしく時代の子であった。さればこそ、成立と共にたちまちにして思想界を風靡し、他派を圧倒するの勢を示したのである。また同時に、時代の子たるが故に、この時代の含む矛盾を自らの中に刻印しており、やがては没落すべき運命をも有していたといえよう。徂徠がその名声を獲得したのは、未だ朱子学者としての立場から古文辞学を打ち樹てたときのことであるが、徂徠学としてのオリジナリティを確立したのは、享保二年の『弁道』及び『弁名』の二書を以てであった。(中略)徂徠学は、一面彼のパ-ソナリティと密接に結びついており、彼のパ-ソナリティは元禄精神の象徴であったとも考えられる。とりわけ、その不羈奔放な豪快さが見られることである。彼は、「熊沢(蕃山)の知、伊藤(仁斎)の行、之に加ふるに我の学を以てせば、則ち東海始めて一聖人を出さん」(先哲叢談)と自負した。故に権門に服するを潔しとせぬ初期からの気風が見られる。徂徠学はなによりもまず政治学たることを本質とする。一面からいえばそれは、徂徠学が修身斉家治国平天下を標語とする儒教思想に属することの当然の結果とも見られるが、他の一切の儒教に於ては政治的なるものは最後的な帰結として現われ、出発点となるのは個人道徳であるに反し、徂徠学では逆に「出発点」をなす。すなわち、政治的価値は常に先行者の地位を占め、個人ないし家族の倫理的な義務の履行という回路を経ないで、端的にその実現が求められた。 彼は問題を二つに分けた。一は、機構の面、他は、これを具体的に運営している人間の面である。そして彼は、この両面から社会病理を追求した。前者について指摘した矛盾は、何よりも第一に、彼が「旅宿の境界」と呼ぶところの武士生活の矛盾であった。(中略)第一には、「旅宿ノ境界」からの武士の脱却をはかること - そのために、武士は領地に帰り、土着して大規模に再生産に従事すること、また戸籍を作成し「旅引」(旅行証明書)を発行して人々の移動を統制することである。第二は、「礼法」を確立して、身分制度を樹立すること。このことは「礼楽」に「道」を求めた徂徠の基本哲学の具体化であり、徂徠学の本来的な思惟方法の発現であって、しばしば誤解されるような「法家」的立場の現われでは決してない。徂徠によれば、朱子学がかかる観念的思弁に陥った論理的要因は、「大極」を「理」としてこれに究極的価値をおくところの儒教的自然法思想に胚胎する。理がいかなる時代にも、またいかなる社会制度にも常にその根底に在って無時間的に妥当しているという考え方、そかもその理は決して現実の社会規範ないし制度を超越せるものではなく、それと必然的な牽連関係を以て、そのような規範に内在するものである以上、かかる理の優位の破壊なくしては、制度的変革を論理的に基礎づけることはできない。つまり「制度ノ立替」と彼がいう場合、その担い手となるのは従来の制度のなかにある人格ではなく、むしろ従来の制度ないし規範から超越した人格である。つまり制度の客体でなくて、それに対し、主体性を有するような人格の予想の下に始めて可能なのである。換言すれば、理の優位でなく、いかなるイデ-をも前提しない現実的具体的な人格を基礎におくことにより、始めて無時間的な理の妥当性が破られうるのである。

(『日本政治思想史講義録』1948 169-180頁 第七章 儒教思想の革命的転回=徂徠学の形成)

(九十九)

『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」は次のように続ける。
○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

※この徂徠の蕪村への影響は、蕪村をして、当時の絵画の主流であった中国北宗画を基本する狩野派よりも、蕪村が生をうけた享保時代前後に入ってきた反官的立場の南宗画に目を向けさせ、蕪村より八歳年下の大雅とともに、その中国風を払拭して日本独特の南画を樹立していくこととなる。そして、そのことは同時に、当時の御用絵師の狩野派の画人からは「文人趣味の手すさび」と批判され、特に蕪村は、中国的規範を遵守する正統的な南画派の画人からはその俳諧的興趣により「橘にして正ならず」(田野村竹田)との「邪道」ともとれる批判をも甘受することとなる。そして、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「漂泊の蕪村」において、次のように「蕪村の蕪村たる所以」を記述している。

○蕪村の蕪村たるゆえんは、画俳であることである。俳人であり、画家であり、また、俳人でもなく、画家でもなく、字義どおり「画俳」という以外にはない蕪村。かれをめぐる論議は止むことなく、いつまでも続くとしても、唯一つ明らかなことは、この復元的にして融合的な不定型の個性を測る尺度は、「近代」にはないということである。

※この蕪村の「画俳」二道の「復元的にして融合的な不定型の個性」は、まさしく荻生徂徠とその学派による影響によるものであろうし、そして、この蕪村をして、その個性を測る尺度は、「近代」にはないというよりも、「現代」においてもないといえるのではなかろうか。そして、つくづく思うことは、「近代」・「現代」とを問わず、「画俳」二道の面において、蕪村と同じレベルに達しているという「復元的にして融合的な不定型の個性」を見出すことは不可能なのではなかろうか。これらのことに思いを巡らすときに、蕪村が突如として、西洋の近代詩に匹敵するような古今に稀なスタイルと内容の俳詩「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)やその絵画化とも思われる「夜色楼台雪万家図」などをこの世に残しているその必然性をも垣間見る思いがするのである。


(一〇〇)

 蕪村はその存命中は俳諧師というよりは画人として名が馳せていた。安永四年(一七七五)・天明二年(一七八二)の『平安人物志』にも、いずれも画家の部にあげられている。

安永四年

http://isjhp1.nichibun.ac.jp/contents/Heian/00065/fr.html

天明二年

http://isjhp1.nichibun.ac.jp/contents/Heian/00110/fr.html

蕪村は、俳諧師として、明和七年(一七七〇)に夜半亭一世宋阿こと早野巴人の跡を継ぎ夜半亭二世となるが、いわゆる、俳諧師としてその生計をまかなうのではなく、あくまでも画人として暮らしを立て、点者(宗匠)として金銭を貪る当時の俳諧宗匠に対して批判的であった。その俳句も絵画的であることが大きな特徴であることは言をまたない。そして、その俳論も、実は当時の中国画論の影響が著しいのである。蕪村の俳論の代表的なものとして、安永六年(一七七七)『春泥句集序』に書かれた「離俗論」がある。

○画家ニ去俗論あリ。曰、画去俗無他法(画ノ俗ヲ去ルニ他ノ法無シ)、多読書則書巻之気上升(多ク書ヲ読メバ則チ書巻ノ気上升シ)、市俗之気下降矣(市俗ノ気下降ス)、学者其旃哉(学者其レ旃(こ)レ慎マンカナ)。それ画の俗を去(る)だも筆を投じて書を読(よま)しむ。況(や)詩と俳諧と何の道遠しとする事あらんや。

 『南画と写生画』所収の「南画の大成……池大雅 与謝蕪村」(吉沢忠稿)で、これらのことに関して次のように記している。

○画に俗気をなくすには、多くの書を読まなければならないとするこの去俗論は『芥子園画伝(かいしえんがでん)』の「去俗」からそのまま引用したものであるが、それを蕪村は俳諧に応用したのである。ここに、蕪村の画俳一致論はその理論的根拠をみいだしたのである。
 
 そして、この蕪村の画俳一致論は、南画の先駆者の一人である柳沢淇園の、「先(まず)、絵もから絵(唐絵)より学ぶべし。絵をかく人の常に見るべきは芥子園伝也」(『ひとりね』)の影響下にあることは、これまた言をまたないであろう。ことほど左様に、蕪村は、荻生徂徠とその系譜者たちの影響を、その生涯にわたって享受し、そして、それを忠実に実践していったのである。

若き日の蕪村(七)



(七十六)

ここで、蕪村の絵画の方面について触れてみたい。そもそも、与謝蕪村の出発点は、俳諧師を目指したものなのか、それとも、絵画師を目指したものなのかどうか、これもまた謎である。明治に入って、正岡子規の、いわゆる、俳人・蕪村の再発見以前は、どちらかというと、画人・蕪村という趣であった。すなわち、蕪村は大雅とともに日本の文人画(南画)の大成者として日本画壇の一方の雄として燦然と輝く存在であった。次のアドレスの「日本美術史ノート 江戸中期の絵画 南画 大雅と蕪村」に、その生涯の年譜が紹介されているが、その書画を中心として抜粋すると下記のとおりとなる。

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/nihon24.html

(書画)

元文二(一七三七)京から江戸に戻った夜半亭宋阿 (早野巴人)の内弟子となる。画にも親しむ。 服部南郭の講義にも列席。
寛保二(一七四二)恩師宋阿に死別、同門下総結城の雁宕 (がんとう) に身を寄せる。約十年奥羽などを旅の生活。この頃、結城、下館等に画。
延享一(一七四四)宇都宮で処女句集『歳旦帖』、初めて蕪村の号。  
宝暦一(一七五一)宋阿門流の多い京に上る。俳諧より画業に専心。
(1754-57)丹後宮津(与謝郡、母の墓)に滞在。絵による生活も安定。結婚、一女をもうける。四明,朝滄の号で多彩な様式を試みる。 彭城百川に学ぶ。 狩野派・大和絵系、中国絵画や版本類を研究し自己の画風を形成。
宝暦九(一七五九)沈南蘋を学ぶ。 趙居の落款。
宝暦十(一七六〇)この頃、名を長庚、字を春星、また与謝氏を称する。
(1763-66)山水画の屏風を講組織のために盛んに描く。
(1766-68)二度讃岐滞在。俳諧にも次第に熱意。丸亀妙法寺《蘇鉄図》。
明和七(一七七〇)夜半亭二世、宗匠に。  
(1771)春、歳旦帖『明和辛卯春』を出す。〈離俗論〉。詩(漢詩)・画・俳一致、俳諧の理想境に至る方法。《十便十宜図》池大雅合作。〈十宜図〉。
(1772)安永年間、画の大成期。   
(1776)洛東金福寺に芭蕉庵を再興。この頃〈俳諧物の草画〉俳画の完成。
(1778)以降晩年 謝寅 (しやいん) 落款。芭蕉紀行図巻、屏風を多作。
(1779)芭蕉紀行図巻、屏風を多作。
天明三(一七八三)暁台主催の芭蕉百回忌、取越追善俳諧興行。九月宇治田原にきのこ狩に行ったのち病に倒れる。十二月二十五日没、金福寺に葬られる。  

(七十七)

 この年譜の「元文二(一七三七) 京から江戸に戻った夜半亭宋阿 (早野巴人)の内弟子となる。画にも親しむ。 服部南郭の講義にも列席」ということは、現に、柿衛文庫に所蔵されている「俳仙群会図」(画像・下記アドレス)の画賛「此俳仙群会の図は、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、ここに四十有余年に及べり。されば其稚拙今更恥べし。なんぞ烏有とならずや」(この俳仙群会の図は、元文の昔、私が若い時描いたもので、それからもう四十年あまりもたってしまった。だからその下手な筆づかいは今さら恥ずかしい。どうしても焼けなくなってしまわなかったのだろうか)なども念頭にあってのことだろう。この「俳仙群会図」について、山下一海氏は、「古今の俳人から、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口上人・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿の十四人を選びその像を描いて朝滄と書名し、その上段に任口以外の十三人の代表句を一句ずつ記している。四十余年後の蕪村が、拙いものだから残っていない方がよかったといっているように、蕪村独自の表現とはなり得ていないにしても、簡素ながら丁寧な描出ぶりは、この時期の蕪村の画投への打ち込み方を十分に窺わせるものである」(『戯遊の俳人 与謝蕪村』)と記している。しかし、この初期の蕪村の傑作作品とされている「俳仙群会図」については、尾形仂氏らによって、「『朝滄』の落款から推して、四十代初頭の丹後時代の作」(『蕪村全集四』)と、元文時代(二十二歳~二十五歳の頃)のものではなく、宝暦元年(三十六歳)の京再帰後の、丹後時代(三十九歳~四十二歳の頃)の作とされ、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」の制作時期を巡っての論争と同じように、その制作時期については、「元文年間説」と「宝暦年間説」とが対立している。この作品を所蔵している「柿守文庫」は、下記の「参考」のとおり、「元文年間説」の記述なのであるか、やはり、その署名の「朝滄」、そして、「丹青不知老到」(白文方印)からして、ここは、尾形仂氏らの「宝暦年間説」(丹後時代)によるものと解したい。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/shozo-buson.html

(参考)

 蕪村(ぶそん・一七一六~一七八三)は文人画家として独自の画境を開きました。また、俳諧では「離俗」を理念に、高い教養と洗練された美意識をもって、写実的で浪慢的な俳諧を展開し、芭蕉亡き後の俳壇を導きました。本点は下段に14人の俳仙、宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女・宋阿(巴人)の像を集め、中段に任口以外の13人の代表句を記しています。さらに上段には蕪村が後年になって求めに応じて書き加えた賛詞があり、それによると、「元文のむかし」、すなわち蕪村の21歳から24歳のころの作品で、本図が伝存する蕪村筆の絵画の中では最も初期のものであることがわかります。


(七十八)

この「俳仙群会図」については、「柿衛文庫」の創設者の岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』で、その解説を目にすることができる。その紹介の前に、先の「柿衛文庫」の紹介記事中の、岡田利兵衛こと岡本柿衛に関するものを参考までに以下に掲載をしておきたい。

http://hccweb6.bai.ne.jp/kakimori_bunko/okada-rihei.html

(参考)

岡田柿衞は明治二五年(一八九二)八月二七日、江戸時代から続く伊丹の酒造家、岡田正造の長男として生まれました。幼名は真三、二六歳のとき利兵衞(リへえ)を襲名。京都帝国大学文学部国文科卒業。梅花女子専門学校、聖心女子大学、橘女子大学などで教鞭をとるとともに、伊丹町長・市長職を務めました。 郷土の俳人、鬼貫(おにつら)に端を発する俳諧資料の収集は、俳諧史全般へと拡大。学術研究上必要な資料の蓄積を、現在の(財)柿衞文庫に遺しました。『鬼貫全集』『俳画の美』ほか著書多数。中でも『芭蕉の筆蹟』は芭蕉筆蹟学の礎を築いた名著。柿衞は号で、歴代の当主が愛でた岡田家の名木「台柿(だいがき)」を衞(まも)るの意を込めたもの。この柿の実は、文政一二年一〇月、頼山陽が母とともに伊丹を訪れた際、「剣菱」醸造元の坂上桐陰の酒席で、デザートに供され、山陽はあまりのうまさに感激したという逸話が残っています。そのとき、山陽はもう一つと所望しましたが、「岡田家に一本あるだけの柿なのであきらめてほしい」と断られたといいます。柿衞が岡田家伝来品に加え、独自の俳諧資料収集を思い立ったのは昭和一二年、鬼貫の短冊との出合いがきっかけでした。その後終戦前後の一〇年間は積極的に資料を集め、当時の様子を「俳人遺墨入手控」や「俳諧真蹟入庫品番付」に記録しています。番付は相撲好きの柿衞が、前年度手に入れた俳諧関係の真筆資料を相撲の番付に模して作成したもので、たとえば昭和二三年度の東の横綱として「西鶴自画賛十ニケ月」、西の大関として「鬼貫筆にょっぽりと秋の空なる富士の山の一行物」をあげています。柿衞は多趣味で知られ、洋鳥の飼育、写真撮影、高山植物の育成などにも熱中。洋鳥においては、山階芳麿(やましなよしまろ)ら九人で「鳥の会」を結成したり、千坪近い庭に禽舎『胡錦園(こきんえん)」を設けて飼育するほどでした。昭和五七年(一九八二)六月五日、伊丹で没。八九歳でした。柿衞は没するまで、現在の柿衞文庫、伊丹市立美術館、工芸センターの敷地内で暮らし、その家の一部は平成四年一月、「旧岡田家住宅」(店舗・酒蔵)として国の指定文化財となり、阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたため、解体修理されています。山陽の愛した台柿(二世)は、柿衞文庫館の庭園で毎秋、独特の実をたくさんつけています。

(七十九)

さて、「柿衛文庫」の創設者の岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』での、「俳仙群会図」の解説は次のとおりである。

右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。

元日や神代のこともおもハるゝ           (守武)
鳳凰も出よのとけきとりのこし           (長頭丸)
これハこれハ(註・送り記号)とはかり花のよしのやま(貞室)
手をついで歌申上る蛙かな             (宗鑑)
ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け        (梅翁)
古池や蛙飛こむ水の音               (芭蕉)
桂男懐にも入や閏の月               (八千代)
古暦ほしき人にはまひらせむ            (嵐雪)
いなつまやきのふハひかしけふは西         (其角)
はつれはつれ(註・送り記号)あハにも似さるすゝき哉(園女)
不二の山に小さくもなき月しかな          (鬼貫)
かれたかとおもふたにさてうめの花         (支考)
こよひしも黒きもの有けふの月           (宋阿)
  任口上人の句ハわすれたり
   平安 蕪邨書  謝長庚印 謝春星印

さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。

此俳仙群会の図ハ、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年に及へり。されハ其稚拙今更恥へし。なんそ烏有とならすや。今又是に讃詞を加へよといふ。固辞すれともゆるさす。すなはち筆を洛下の夜半亭にとる。
花散月落て文こゝにあらありかたや
   天明壬寅春三月
    六十七翁  蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印

この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画
中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
 この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
 本点上段の句文は『蕪村翁文集』(忍雪・其成編 文化十三年刊)に登載している。原典と異なるところは、句文の前に三行の詞書を加え、本文句中に「何そ・則・斯」の三カ所を漢字に変えている。詞書は下段・中段をはずしたために説明が必要で添付したものであり、原典仮名を改めたのは筆写の手数をはぶくためで、どちらも原典を改変した作為の責めは負わねばならぬ。本点は蕪村最古の絵画として意義深いものであるからカラーで掲げた。

(八十)

この「俳仙群会図」は、この岡田利兵衛氏の解説にあるとおり、「下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作」と三時期に別々にかかれたものであるということと、もし、この下段の画が「元文」年間のものとすると、この岡田氏の指摘のとおり、「蕪村最古の絵画」として誠に意義深いものということになろう。ここで、この三時期の、署名と印章などを見てみると、上段は「天明壬寅春三月 六十七翁 蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印」、中段は「平安 蕪邨書 謝長庚印 謝春星印」、そして、下段の画は「朝滄写 丹青不知老到印」ということになる。この上段の天明期の「謝長庚印 溌墨生痕印」は、蕪村の最高傑作の一つとされている、国宝「十宣図」などで見られるもので、「六十七翁 蕪村書」も、天明三年の「恵比寿図」の「六十八翁蕪村写」とその例を見ることができる。中段の安永期の「謝長庚印 謝春星印」は、これまた、重要文化財の「峨嵋露頂図」などに見られるもので、その「平安 謝蕪邨」の「平安」は「洛東芭蕉菴再興記」、そして、「謝蕪邨」についても、『夜半楽』などにその例を見ることができる(この『夜半楽』の二つの署名の「謝蕪邨」と「宰鳥校」については先に触れた)。問題は、この下段の元文期の画の「朝滄写 丹青不知老到印」なのである。この元文期というのは、蕪村の前号の「宰町・宰鳥」期のものであって、そもそも比肩するものなく、わずかに、元文三年の版本挿絵図の「鎌倉誂物」自画賛(『卯月庭訓』所収)から推測する程度と極めて限られてしまうのである(この「鎌倉誂物」自画賛についても先に触れた)。さらに、この元文期に続く、巴人亡き後の、寛保・延享・寛延時代の、いわゆる、結城・下館・宇都宮を中心とする北関東出遊時代の「絵画・俳画・版本挿絵図・遺墨」類などにおいて、「朝滄写」との落款ものは見当たらず(「朝滄印」は目にすることができるが、落款は「四明」が多い)、また、この「丹青不知老到印」は、丹後時代の傑作作品の一つとされている六曲屏風一双「山水図」(寧楽美術館蔵)などに見られるもので、この丹後期以前の作品ではまずお目にかかれないものの一つであろう。そもそも、この「朝滄」という号は、英一蝶の号の「朝湖」に由来があるとされている(河東碧梧桐『画人蕪村』)。そして、この英一蝶は俳号を睦雲・和央といい、蕪村の俳諧の師である宋阿(早野巴人)と同じく其角門の俳諧師でもあった。
後に、画・俳二道を極めることとなる蕪村が、そのスタートにあたってこの英一蝶を目標に置いていたということは想像するに難くない。その英一蝶の影響を察知できるものとしては、これまた、丹後時代の傑作画である「祇園祭礼図(別名・田楽茶屋図屏風)」(落款「嚢道人蕪村」、印「朝滄(白文方印)」・「四名山人(朱文方印)」)などがあげられるであろう。画人・蕪村の絵画として今に残っている最初の頃の作は、巴人亡き後(寛保二年)の、北関東出遊時代の下館(中村風篁家)・結城(弘経寺)に所蔵されているものが、その「蕪村最古の絵画」ということになろう。それより以前に、この「俳仙群会図」が描かれたものとすると、蕪村の丹後時代以前の全半生というものは、ことごとくその歴史を塗り替える必要があろう。即ち、蕪村が江戸に出てきて宋阿門に入ったとされる元文二年(蕪村・二十二歳)当時に、これだけの絵画作品を残していたということは、それ以前に、相当の絵画関連の知識・技能・経験を積んだものということが推測され、蕪村の未だに謎の部分とされている、蕪村の出生の年の享保元年(一七一六年)から江戸に出てきた元文二年(一七三七年)の謎の一角がほの見えてくるという感じでなくもないのである。ここで、
画・俳二道の画を中心として、その蕪村の謎の部分について触れてみたい。

(八十一)

 蕪村が江戸に出てきて宋阿門に入門する元文二年(蕪村、二十二歳)以前のことについては、蕪村自身多くを語らず、逆に、それを隠し続けて、その生涯を終わったという印象を深くする。晩年、「春風馬堤曲」に関連しての蕪村書簡中(年次不明二月二十三日付け柳女・賀瑞宛て書簡)に、「馬堤は毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」とし、「余幼童之時、春色清和の日には、必(かならず)友だちと此(この)堤上にのぼりて遊び候」と記しており、摂津国東成郡毛馬村(大阪市豊島区毛馬町)に生まれたということは、少なくとも、蕪村の意識下にはあったように推測される。この毛馬村説についても確たる確証があるわけではなく、その他に、摂津の天王寺村(大阪市天王寺地区)としたり、丹後の与謝(京都府与謝郡)とする説など実体は謎に隠されているというのがその真相である。何時生まれたかについても、これまた真相は藪の中で、明治十五年(一八八二年)に寺村百池の孫百僊が、蕪村百回忌・百池五十回忌を記念して金福寺境内に建立した碑文などにより、享保元年(一七一六)の生まれという推測がなされている。その碑文では天王寺説をとっており、この碑文の内容自体あやふやのところが多いのであるが、「本姓谷口氏は母方の姓」で「宝暦十年頃から与謝氏を名のる」というのが、その出生に関連するものである。さらに、この出生に関連するものとして、夜半亭二世与謝蕪村の後を継いで、夜半亭三世となる高井几董がその臨終を記録した「夜半翁終焉記」(草稿を含めて)が、蕪村出生の謎をさらに深い霧の中に追いやっている。それは、その草稿の段階においては、「難波津の辺りちかき村長の家に生ひ出て」と記し、さらに、その「村長」を「郷民」と改め、さらにそれを削って、「ただ浪花江ちかきあたりに生ひたち」として、それを定稿としているという事実である。これらのことから、「父は村長で、母はその正妻ではなく、使用人か妾ではなかったか」という説すらまかり通っているのだが、ことさらにこれらの謎をあばきたてて、それらを白日下のもとに明らかにするということは、行き過ぎのきらいもあるし、土台不可能なことという思いを深くする。そういう認識下に立っても、蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六年)に大阪で刊行され、当時の文学者の逸話を幾つか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』の「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」との逸話は、やはり当時の蕪村の一端を物語るものとして、やはり記録に止めておく必要があるように思われる。
 なお、大阪市(都島区)の「与謝蕪村と都島」のアドレスは次のとおりである。

http://www.city.osaka.jp/miyakojima/spot/yd_yosa/index.html


(八十二)

 蕪村が出生した享保元年というのは、八代将軍吉宗が、いわゆる「享保改革」といわれる大改革に乗り出したその年に当たる。当時の徳川幕府というのは経済的にどん底の状態にあり、倹約令を発し続け、さらに、追い打ちをかけるように、特に、農村からの収奪を強化することによって、その改革を進めようとした。それらの改革は時代の空気を陰鬱なものとし、あまつさえ、享保十七年(一七三二年)には、山陽・南海・西海・畿内の西国地方の各地では長雨と蝗の襲来により、減収四万石ともいわれている大凶作に見舞われていた。米価は高騰し、多数の餓死者が出て、各地で強訴や一揆が多発し、その翌年には、江戸をはじめ各地で打ち壊し運動が起こり、騒然とした風潮であった。そのような何もかも変革するような時代風潮の中にあって、田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』でいう「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」という逸話は、単に、蕪村の個人的な遊蕩三昧によって「家産を破敗」したというよりも、この経済環境の激変の高波をもろに引っ被ったその結果であるということが、その真相のように思われる。その「身を洒々落々の域に置いて」ということについては、高井几董の「夜半翁終焉記」に出てくる「此翁(註・蕪村)無下にいとけなきより画を好み」、はたまた、「弱冠の比(ころ)より俳諧に耽り」ということと裏返しのことなのかもしれない。しかし、単なる、「画を好み」・「俳諧に耽り」の結果で、二度と故郷に足を踏み入れることが出来なくなったほどの、世間体を憚る「父祖の家産を破敗」したいうことは、どう考えても不自然なところがある。このことを一歩進めて、蕪村が住んでいた全村が、あるいは、その近隣の全域が「破敗」し、蕪村は文字とおり二度と再び「返るべき故郷」を喪失してしまったという理解の方が、より自然のようにも思われてくるのである。もし、そのような推測が許されるならば、蕪村は、享保十七年の近畿一帯の大飢饉に関連して、当時のその地方の人達が辿ったと同じように、当時の飢饉者の多くかそうしたように、誰一人身よりのない江戸へと移り住んだ、その理由がはっきりしてくる。従来、蕪村が江戸に出てきたのは、享保二十年(一七三五年)頃とされていたが、蕪村の前号の「宰鳥・宰町」以前に「西鳥」と号していたのではないかということに関連して、享保十七年(一七三二年)頃に出てきたのではないかとの見方もなされてきており、あながち、享保十七年の大飢饉に関連して江戸に流入してきたということも、有力な一つの見方であるということは言えそうである。しかし、真相は依然として藪の中であることには変わりはない。なお、享保十七年の大飢饉関連のアドレスは次のとおりである。

(飢饉・享保の大飢饉)
http://www.tabiken.com/history/doc/E/E147C100.HTM

(人権関連の一揆など)
http://www.can-chan.com/jinken/jinken-rekishi.html

(八十三)

 蕪村伝記のスタンダードな『戯遊の俳人与謝蕪村』(山下一海著)の田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』関連の記述は次のとおりである。

○蕪村没後二十三年たった文化三年(一八〇六)に大阪で刊行され、文学者の逸話をいくつか伝えている田宮橘庵(仲宣)の『嗚呼矣草(おこたりぐさ)』には、「夫(それ)蕪村は父祖の家産を破敗し、身を洒々落々の域に置いて」とある。これも確証はないが、信じたくなる記事である。正妻の子ではなかったにしても、男子であるからには、家督を相続したということもあったのだろう。いつ父が死んだのか、それはわからない。母も幼い頃に先立ったらしい。安永六年(一七七七)に行われた『新花摘』の夏行(げぎょう)を、母の五十回忌追善のものとする説によると、母が亡くなったのは蕪村十三歳のときである。蕪村が家督を継いで家産を蕩尽するまでは、そう長いことではなかっただろう。それは大都市近郊農村の悲劇であった。都市の商人に農地を買いあさられ、土地を手放すかわりに金が入ってくる。そこで農村型の経済生活から都市型のそれに切り替えていかなければならないところだが、農村はそういった情勢に順応できなかったのだろう。せっかく父から譲られた家屋敷も手放さなければならないことになったが、あるいはそこに、父に対する蕪村の反抗の気持ちが多少はあったのかもしれない。それが破産を回避する努力をにぶらせ、破滅の到来をいささか早める結果になったということも、あるいはあったことだろう。

 多かれ少なかれ、蕪村伝記の記述は上記のようなものであるが、上記の「都市近郊農村の悲劇」は当時の時代風潮であり、その時代風潮とあわせ、享保の時代特有の。改革の嵐と大飢饉という異常事態の発生ということは、やはり特記しておく必要があろう。また、上記の記述で、「母が亡くなっのは蕪村が十三歳のとき」ということに関連して、当時は十五歳で元服するのが通常であったろうから、蕪村の家督相続というのは、その元服以後と通常考えられるし、この十五歳から十七歳のときの享保の大飢饉にかけてが、蕪村にとっては大きな曲がり角であったということも特記しておく必要があろう。さらに、蕪村が母を失ったとされる享保十三年(一七二八)の一年前の享保十二年に、蕪村の俳諧の師となる早野巴人(宋阿)が江戸を去って大阪に赴き、さらに京都に上り、十年ほど居住するという、このこともやはり蕪村伝記の記述に当たっては必要不可欠のところのものであろう。

(八十四)

『戯遊の俳人与謝蕪村』(山下一海著)では、蕪村が江戸に出てきたことについて、次のように記述している。

○親もなく家もない故郷にとどまっていることはできない。あるいは、蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、とどまっていたくないところであったのかもしれない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。しかしそれだけに、故郷の思いは、かえって深く、心の底に沈殿した。そうして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。当時の多くの人がそうであったように、そういう事情で故郷を離れたとき目ざすところは、京や大坂ではない。新しい土地江戸である。江戸開府以来百年以上たっているけれども、依然として江戸は京・大坂とは違った新興都市であり、また百年以上もたっているだけに、徳川将軍のお膝元としての権威は確立していた。江戸は当時の青年の気をそそるに足る唯一の都会であった。蕪村は江戸に出て何をしようという方策を、はじめにはっきりと立てていたわけではないだろう。江戸に出れば何とかなる。とにかく江戸に出た。享保末年、二十歳のころのことである。江戸に出ても、生活の方途は定まっていなかったが、俳諧や絵画については、すでにかなりの関心を持っていたようである。あるいはその関係で、江戸出府の手引きをした人物があったのかもしれない。蕪村没後十九年目の享和二年(一八〇二)に刊行された大江丸の『はいかい袋』によると、蕪村は江戸に出て、はじめ内田沾山(せんざん)に学び、ついで早野巴人の門弟になったという。巴人入門は確かだが、沾山入門のことは確実な資料が見当たらないので、いささか疑わしい。ほかに足立来川(らいせん)に学び、西鳥と号したとする説もあるが、今はほとんど否定されている。

 上記の記述で、蕪村が故郷(大阪近郊の毛馬村)を離れ、当時の経済第一の都市・大阪や日本文化の中心都市・京都ではなく、それらの都市に比して新興都市の江戸を目指した指摘については説得力がある。と同時に、「俳諧や絵画については、すでにかなりの関心を持っていたようである。あるいはその関係で、江戸出府の手引きをした人物があったのかもしれない」ということについては、当時の江戸俳壇にその名を留めている、足立来川、内田沾山はたまた早野巴人らに入門するということは、それ相応のルートなり縁というものがあると思われるのだが、その手引きした人物が誰なのかは、これは全くの霧の中である。ただ、注目すべきことがらとして、巴人と親交があり、当時、巴人・百里と並んで享保俳壇の三羽烏の一人とされていた琴風(きんぷう:寛文七年・一六六七~享保十一年・一七二六。生玉氏)が蕪村と同郷の大阪摂津東成郡の人で、その接点というのも選択肢の一つとしてはあげられるであろう。また、当時の大阪・京都の上方俳壇に大きな影響力を及ぼしていた俳人は、松木淡々(たんたん:延宝二年・一六五四~宝暦十一年・一七六一。初号、因角、のち謂北。大阪の人。江戸に出て、初め不角門、のち其角門。巴人と同門。上京して、半時庵を営む。その後、大阪に帰り、上方俳壇に絶大な門戸を張る)で、この淡々門で、のちに、淡々の号・謂北を継ぐ麦天(ばくてん:元禄十六年・一七〇三~宝暦五年・一七五五。右江氏。別号・時々庵。江戸に出て二世青蛾門。享保頃秋田遊歴。元文二年・一七三七に謂北に改号)と蕪村とは親交があり、その麦天の師の淡々と蕪村との接点も注目すべきものがあろう(享保十二年・一七二七、巴人が江戸から京に移り住むのは、当時親交のあった百里・琴風が亡くなり、この其角門で親交の深かった淡々が大きく関与している)。また、巴人門の宋屋(そうおく:元禄元年・一六八八~明和三年・一七六六。望月氏。別号、百葉泉・富鈴房など。京都の人)も巴人門に入る前から蕪村との親交があったものかどうかなども検討に値する一つであろう。なお、上記の山下一海氏のものでは、「巴人入門は確かだが、沾山入門のことは確実な資料が見当たらないので、いささか疑わしい。ほかに足立来川(らいせん)に学び、西鳥と号したとする説もあるが、今はほとんど否定されている」ということについても、「沾山・来川との関係、宰町以前の西鳥を号していたかどうか」などについては、肯定的に解して、その範囲を広めて置いた方が、謎の多い蕪村の解明にはより必要のようにも思われる。

(八十五)

寛保三年(一七四三)の宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に当時江戸に居た蕪村は「東武 
宰鳥」の号で、「我泪古くはあれど泉かな」の句を寄せる。その前書きに、「宋阿の翁、このとし比(ごろ)、予が孤独なるを拾ひたすけて、枯乳の慈恵のふかゝりも(以下、略)」と記しているが、「枯乳の慈恵」とは、乳を枯らすほどの愛情を受けたということであろうから、この記述が江戸での流寓時代のことなのかどうか、その「予が孤独なるを拾ひたすけて」と重ね合わせると、宋阿の享保十二年(一七二七)から元文二年(一七三七)までの京都滞在中の早い時期に、宋阿と蕪村との出会いがあったとしても、決しておかしいということでもなかろう。まして、蕪村が十五歳の頃、元服して家督を相続し、そして、享保十七年(一七三二)の十七歳の頃、大飢饉に遭遇し、故郷を棄てざるを得ないような環境の激変に遭遇したと仮定すると、この方がその後の宋阿と蕪村との関係からしてより自然のようにも思われるのである。尾形仂氏は、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下ったんじゃないかと考えることさえできるんじゃないかと思っているのですが」(「国文学解釈と鑑賞」昭和五三・三)との随分と回りくどい対談記録(森本哲郎氏との「蕪村・その人と芸術」)を残しているのだが、少なくとも、宋阿が江戸に再帰した元文二年に、その宋阿の所にいきなり入門するという従来の多くの考え方よりも、より自然のように思われるのである。一歩譲って、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下った」ということまでは言及せずに、、ということは、あながち、無理な推測ではなかろう。このことは、蕪村が、宝暦元年(一七五一)に、十年余に及ぶ関東での生活に見切りをつけ、京都に再帰することとも符合し、その再帰がごく自然なことに照らしても、そのような推測を十分に許容するものと思えるのである。これらのことに関して、上述の尾形仂氏と森本哲郎氏との対談において、尾形仂氏の「蕪村の京都時代ということの推測」について、「しかしそれはありうることじゃないですか。というのは、彼は関東から京都へ行くわけですが、入洛してすぐに居を定めている。むろん、はしめは間借りだったようですけれども、京都には知人もいたらしいし土地カンもあったように思えます」と応じ、この両者とも、「蕪村は生まれ故郷の大阪を離れ、京都に住んでいたことがあり、少なくとも、巴人の十年に及ぶ京都滞在中に蕪村は巴人と面識があった」という認識は持っているいるように受け取れるのである。

(八十六)

「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)に次のような興味の惹かれる箇所がある。

尾形 ええ。もう一つ京都との結びつきを考えさせられるのは、岡田先生の『俳画の美』という本がございますね、あの中に、京都から池田に下って明和二年に亡くなった桃田伊信という絵師がいて、蕪村が童幼のころ、この伊信について絵の手ほどきを受けたらしいことを、蕪村の三回忌に池田の門人田福が書いているということが紹介されていまして、そうすると、蕪村が少年時代を京都で過ごしたという可能性がまた出てきたことになります。
森本 私もあれを読んで、そうなのか、と思ったんですけれども・・・。池田とはずいぶん関係があったようですね。
尾形 そうですね。後に月居や月渓を池田に紹介したりしているくらいですものね。そもそも田福が百池と親戚で、京都の本店と池田の出店との間を往き来していたところから縁ができたものでしょう。
森本 「池田から炭くれし春の寒さ哉」という句がありますし。その絵の先生というのは後年までずっと?
尾形 明和二年ごろ、つまり伊信の最晩年、蕪村が池田へ下ったとき再会して、昔を語り合ったというのですから、ずっとというわけではなかったのでしょう。ともかく、もと京都にいた伊信に十歳前後のとき絵の手ほどきを受けたのだとすれば、蕪村は何かの事情で郷里を離れ京都へ出て来て、あるいは学僕というような形で伊信なり、巴人なりに師事したという想像もできなくはありませんね。

 これらの対談の箇所は、「蕪村が少年時代を京都で過ごしたという可能性」があるということに関連するものなのであるが、そのこととあわせ、「蕪村はもと京都にいた(桃田)伊信に十歳前後のとき絵の手ほどきを受けた」ことがあるという事実もまた、当時の蕪村を知る上では貴重な情報と思われるのである。先に、蕪村絵画の若描きの頃の落款の「朝滄」ということに関連して、その「朝滄」という号は、蕪村が目標とした画家の一人とも思われる英一蝶の号の一つの「朝湖」に由来するという河東碧梧桐氏のものなどについて触れた。この蕪村と同じく大阪出身の英一蝶は、蕪村が八歳のとき、享保八年(一七二七)に江戸で亡くなっているが、そもそもは狩野派(京都狩野派)の画家で、そして、蕪村が少年時代に絵の手ほどきを受けたという京都の画家・桃田伊信も、当時の画家の多くがそうであったように、いずれかの狩野派の影響下にあったことは想像に難くないし、その意味では、先に触れた蕪村最古の絵画とされる「俳仙群会図」に英一蝶的なものが察知されることと関連して、興味がそそられる点なのである。

(八十七)

「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)には、蕪村の初期絵画の落款の「四明・朝滄」について、次のような箇所がある。

尾形 それから関東に出てくる経緯についてもわかりませんですね。大正十年ごろ出た武藤山治さんの『蕪村画集』というのがございますね。あれに、関東時代から丹後時代にかけて使った四明・朝滄という画号について、四明は比叡山で、朝滄は琵琶湖を意味するという説明が付けられているんです。そうすると蕪村は京都から関東へ出て来たんじゃないか。まあ生まれたのは毛馬だとしても、京都で幼年時代を送って、そして関東へ出てきたんではないだろうか。つまり自分は、大阪生まれだけれども京都人であるという意識があって、そうした号をつけたのではないだろうかなどと推測してみたこともあったんですけれども。しかし、四明が天台、つまり比叡山であるということはよろしいんですけれども、朝滄が琵琶湖だということは、ちょつといろいろと探しても出てこないんですね。字引を引くと、朝滄は、波が集まるという意味だそうですから、なにも琵琶湖でなくて、淀川の下流でも十分意味が通ずるわけなんです。けれども、今度ははたして淀川の下流の毛馬堤から比叡山が見えるかどうか、という疑問になってきましてね。それから戦前に、正木瓜村というかたがいらしゃって、『蕪村と毛馬』という本を書いていらしゃいましたが、あの方にお目にかかりまして伺ってみたんですが、そうすると、自分の子どものころにはたしかに見えたというんです。今からではぜんぜん想像もできないんですけれども、毛馬の堤から朝夕に比叡山が眺められるなら四明と名のってもおかしくないわけで、それで蕪村の京都時代というのことを推測したのが、いっぺんに消えてしまったわけなんですけれども。

 蕪村の元文年間(一七三六~一七四一)、寛保(一七四一~)から寛延(一七四八~)にかけての落款は、「朝滄・子漢・浪華四明・四明・浪華長堤四明・浪華長堤四名山人」などである。このうち、四明が主号のようで、次いで、朝滄、この朝滄は落款とともに印章に用いられており、この印章は、関東出遊時代と後の丹後時代とは異なっていて、先に触れた「俳仙群会図」のものなどについては、関東出遊時代のものではなく、丹後時代のそれではないかということについては、先に触れた。それにあわせ、河東碧梧桐の『画人蕪村』では、この四明については、比叡山に由来があり、朝滄については、英一蝶の朝湖に由来があるということについても、先に触れた。そして、この「子漢」については、別に、「魚君」の号も用いているものもあり、屈原の「漁夫辞」の「滄浪ノ水清(す)マバ」などに由来があり「水に因んでのもの」(淀川に因んでのもの)と「子は午前零時、漢は天の川」(夜の連想に因るもの)との両意のものなどを目にすることができる(仁枝忠著『俳文学と漢文学』所収「蕪村雅号考」)。いずれにしろ、四明は比叡山の最高峰の四明山に由来がある「山」、そして、朝滄は、英一蝶の「朝湖」、あるいは、「琵琶湖」・「淀川」・「宇治川」(「木津川」・「桂川」と合流し「淀川」となる)などに由来がある「川」に関連があるものと解しておきたい(「子漢」についても、初期の落款については、滄浪などの水に由来があるものと解せられるが、後の「春星」などの号に鑑みて、「真夜中の銀漢(天の川)」いう理解に留めておきたい)。その上で、上述の尾形仂氏のものに接すると、その「四明」といい「朝滄」といい、これは朝な夕なに生まれ故郷で目にしていた山・川の「比叡山」であり「淀川」という思いを強くする。とすれば、「浪華四明」・「浪華長堤四明」・「浪華長堤四名山人」などの落款も、消そうとして消せない母郷への想いの一端を語っているもののように思われる。と同時に、全く抹殺したいようなことならば、これらの痕跡すら留めておかないであろうから、これは蕪村個人にとっての何らかの心の奥底に沈殿している「故郷は遠くにありて想うもの」という想いなのであろう。ここで、山下一海氏の次のような記述を再掲しておきたい。

○親もなく家もない故郷にとどまっていることはできない。あるいは、蕪村にとって故郷毛馬村は、積極的な意味で、とどまっていたくないところであったのかもしれない。蕪村のような生い立ちの人間にとって、故郷の家が消滅することは、さっぱりと心地よいことでもあったのだろう。しかしそれだけに、故郷の思いは、かえって深く、心の底に沈殿した。そうして生涯にわたって、そこから沸々と発酵するものがあった。しかしその後、ほんのすぐそばを通っても、蕪村は一度も故郷に足を踏み入れていない。そこに蕪村と故郷の特別の関係が窺われるように思われる。

(八十八)

その他、「国文学解釈と鑑賞(昭和五三・三))所収の「蕪村・その人と芸術」(尾形仂・森本哲郎対談)で、注目すべきことなどについて記しておきたい。

尾形 内田沾山に師事したというのは、同時代の大江丸が言っていることですから、かなり尊重しなければいけませんけれども、巴人との関係のほうが濃厚ですし、その後も巴人の系統の人のところをずっと渡り歩いていますものね。巴人にはかなり長く師事していたんじゃないでしょうか。そうすると、巴人が京都にいた時代にすでに師事していたと考えることも想像としてはできなくないと・・・。
森本 蕪村は師の巴人について、『むかしを今』の序で、「いといと高き翁にてぞありける」というぐあいに、たいへん人格的に傾倒しておりますね。
尾形 そして父親のようにというんですから、かなり年齢の低い時代からついていたんじゃないかという感じがいたしますね。

 このところの、蕪村が内田沾山に師事したということについては、大江丸の『俳諧袋』に記述されていることに由来するのだが、この大江丸は、蕪村より七歳若い大阪の人で、三都随一の飛脚にして、俳諧にも親しみ、淡々とも親交があり、後に、蓼太門に入った。蕪村の後継者の几董との交友関係からして、この大江丸の記述はかなり信憑性の高いものなのであろう。この沾山は芭蕉・其角亡き後の江戸座の主流をなす、沾徳・沾州に連なる俳人で、巴人もまた沾徳・沾州と関係の深い俳人で、巴人が江戸に再帰する元文二年(一七三七)以前に、蕪村が江戸で沾山門に居て、巴人再帰後、巴人門に移ったということもあるのかもしれない。沾山は宝暦八年(一七五八)に没しており、その晩年には蕪村と親交のあった存義らが退座しており、蕪村のこの人への師事はいずれにしても短期間のものであったのであろう。

森本 蕪村は自ら嚢道人と称していますが、とにかく、何から何まで詩、画嚢に貯えて、それが将来花になったということなんでしょうね。しかし、私は彼の作品に接するたびに不思議に思うのですが、いったい彼はどこで、いつ、あのような幅広い教養を身につけたんでしょうね。たとえば、漢籍の素養、唐詩、宋詩についての知識、こういうものは江戸時代にどの程度普及しておったのですかね。最近、今田洋三氏が『江戸の本屋さん』という興味深い本を書かれましたが、当時、どのような本が、どのくらいの値段で、何部ぐらい出たのか、それを知らないと蕪村の教養の源泉も見当がつきませんね。
(中略)
尾形 先生というのは、儒学者に対する一般的な呼び方だそうですけれども、蕪村の場合、南郭先生と言っているのは、そうした一般的な意味でなくて、特殊、つまりかって南郭の講筵に列したか、あるいはすぐその近く、つまり南郭の講筵に列した人を知人に持っていたのではないかということが、かなり実証的に明らかにされてきました。(以下略)

 ここのところの「嚢道人」の理解について、この嚢を乞食僧などの「頭陀袋」の意ではなく、「詩」嚢、「画」嚢の、それらを貯えておく「袋」の意と解する考え方は素直に受容ができる。また、蕪村の、単に、「画・俳」の二道だけではなく、広く、儒学者の服部南郭らの当時の他の分野との交流関係についても、密度の濃いものであったということについては、やはり特記しておく必要があるのであろう。

(八十九)

 先に、蕪村最古の画作とされている「俳仙群会図」について触れた。その一番上段に書かれて画賛は次のとおりである。

※守武貞徳をはじめ、其角・嵐雪にいたりて、十四人の俳仙を画きてありけるに、賛詞をこはれて、此俳仙群会の図ハ、元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年に及へり。されハ其稚拙今更恥へし。なんそ烏有とならすや。今又是に讃詞を加へよといふ。固辞すれともゆるさす。すなはち筆を洛下の夜半亭にとる。
花散月落て文こゝにあらありかたや
   天明壬寅春三月
    六十七翁  蕪村書 謝長庚印 潑墨生痕印

この「俳仙群会図」について、『蕪村雑稿』(谷口謙著)で次のとおり紹介されている。

○天明壬寅は二年(一七八二年)で蕪村六十七歳の執筆。元文元年(一七三六年)~元文五年(一七四〇年)は蕪村二十歳から二十四歳。この蕪村の賛詞を信ずれば、現存する蕪村の画のなかで最古のものとなり、貴重な資料といえよう。岡田利兵衛氏は蕪村の加えた証詞をそのまま信用し、蕪村の若書きとして「全く後代の蕪村筆と異なり、漢画でもなければ土佐風でもない手法である。しかし子細に見ると着衣の皺法(しゅんぽう)、顔貌、眼ざしに後年の特色は、はやくも認めることができる。静のうちに活気ん゛ある表現である」(『俳人の書画美術五=蕪村』)と評している。これに対し「文学」誌五十九年十月号の座談会「蕪村…絵画と文学」で尾形仂氏は「朝滄」の落款、「丹青老ノ至ルヲ知ラズ」の印章が丹後時代だけに限って使われたものであることを重視し、丹後時代の作品ではないかと推定し、今迄は「俳仙群会図」を蕪村の画歴の最初としてきたが、置き換えた方がいいのではないかと提言している。これに答え佐々木丞平氏はこの画の衣の線を重視して、非常に決った線で、丹後時代になると例えば「三俳僧図」のように衣の線がかなり弛援してくる。つまり崩れを見せ、感覚的になっている。それでやはり「俳仙群会図」を丹後時代の作とするには、いささかためらいが残る、としている。

 この昭和五十九年(一九八四)の座談会の後、平成十年(一九九八)に刊行された『蕪村全集六…絵画・遺墨』(佐々木丞平他編)においては、この「俳仙群会図」は「丹後滞在」時代の中に収録され、その佐々木丞平氏の「解説(蕪村画業の展開)」では「蕪村画業の最初のものとしては、「『俳諧卯月庭訓』(元文三年・一七三八)の中の一句に書き添えられた『鎌倉誂物』の自画賛で、版本の挿図であった」としている。やはり、この「俳仙群会図」は、その印章の「丹青不知老至」からすると「丹後時代」の作品と解すべきなのであろう。
もし、この作品を蕪村の天明二年(一七八二)の画賛のとおり元文年間のものとすると、この「俳仙群会図」の一人に描かれている、蕪村の師の宋阿(早野巴人)の像は在世中のものとなり、はなはだ興味がひかれるのところのものであるが、在世中の師の像を芭蕉らの他の俳仙と一緒にするという奇妙さ(同時に極めて俳諧的でもある)もあり、丹後時代の作品と解する方が、より妥当のようにも思われる。

(九十)

 蕪村の『新花摘』に次のような一節がある。
「むかし余、蕉翁・晋子・雪中を一幅の絹に画(えが)キて賛をもとめければ、淡々、  
もゝちどりいなおふ(ほ)せ鳥呼子どり
 三俳仙の賛は古今淡々一人と云(いふ)べし。今しもつふさ日光の珠明といへるものゝ(の)家にお(を)さめもてり。」
 この「もゝちどりいなおふ(ほ)せ鳥呼子どり」は、『延享廿歌仙』(延享二年刊)に収録されている松木淡々の門弟で蕪村と親交のあった謂北(麦天)の付句である。その句意は、「芭蕉・其角・嵐雪」の三俳人を古今伝授の三鳥「百千鳥・稲追鳥・呼子鳥」に擬したものということであろう。この句を当時の大物俳人の松木淡々が蕪村の画に賛をしたというのである。そして、この「三俳仙図」画は、下野の日光の隣の今市の富豪、斎藤珠明(三郎右衛門益信)の家に納めたというのである(現在、所在不明)。この賛をした淡々は宝暦十一年(一七六一)に八十八歳に没しており、この「三俳仙図」画が何時頃描かれものか定かではないが、蕪村はこの種の「俳仙図」画を多く手がけたということはいえそうである。こういう本格的な「俳仙図」画以外に、例えば、『其雪影』収録の「巴人像」などの版画・略画風のものは、いろいろな形(「俳仙帖・俳仙図・夜半翁俳僊帖など)で今に残されているが、この種のものは、河東碧梧桐氏によると殆ど偽作との鑑定をしている(潁原退蔵稿「蕪村三十六俳仙画)。これらのことに関して、潁原退蔵氏は、「碧氏の如き全面的抹殺説が出るのも、故なきではないわけである。しかし決して真蹟が絶無といふのではなかった。模写や偽作の背後には、その拠つた真蹟の存在が考へられもした。偽作が多く流布して居れば居る程、その間いくつかの真蹟がなほ存して居ることを思はしめるのである」(前掲書)としている。これらのことを背景として、先の「柿衛文庫」所蔵の「俳仙群会図」などは非常に貴重なものであると同時に、その制作時期の如何によっては、他の同種のものの作品に与える影響も決して少なくはないのである。そして、とりもなおさず、これらの「俳仙図」画が、蕪村の絵画の初期の頃に存するということは、蕪村の絵画のスタートが、これらの俳諧関係と大きく関係していたということも、十分に肯けるところのものであろう。

木曜日, 7月 20, 2006

子規と虚子の両吟




子規と虚子の両吟(その一)

オ 発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
  脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
  第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規

 「発句は文学なり、連俳(連句)は文学に非ず」と、いわゆる「連句非文学論」を唱えて、発句だけを切り離して独立させ、これを「俳句」と称して「俳句革新」を成し遂げたその人こそ、正岡子規である。子規が亡くなるのは明治三十五年(一九〇三)なのだが、その晩年の、明治三十二年ごろには、「自分は連句といふ者余り好まねば、古俳書を見ても連句を読みし事無く、又自ら作りし例も甚だ稀である。然るに此等の集にある連句を読めばいたく興に堪ふるので、終には、これ程面白い者ならば自分も連句をやつて見たいといふ念が起つてくる」と「ホトトギス」誌上に、かっての「連句非文学論」を撤回するような記録も残しているのである。子規の跡を継ぎ、名実共に「俳句王国」の牙城の「ホトトギス」を不動のものにしたのは、いわずと知れた高浜虚子である。この子規と虚子の両吟の連句(歌仙)を三句位に分けて鑑賞してみたい。この子規の発句、季語が「荻吹く」(初秋)と「雲の峰」(三夏)との「季重なり」の句で、ここでは、「荻吹く」が季語の役割をしてて、その「荻の葉に吹く初秋の風」が来ると夏の「雲の峰」(入道雲)も崩れて秋の雲の景になってくるというのである。この句の背後には、芭蕉の「雲の峰幾つ崩れて月の山」が見え隠れしている。虚子の脇句は、発句が秋の句なので、五句目の「秋の定座」を引き上げていて、定石どおりで、虚子は連句についてはかなり精通していて、こと、連句については、俳句その他全般の師にあたる子規にいろいろと情報を提供している雰囲気である。そして、次の子規の第三は、秋の句は三句以上続けるということで、「うそ寒み」(薄寒み)という晩秋の季語で、「もなし」留めと第三の定石のとおりなのである。ただ、発句・脇句が叙景句で、ここは「転じ」の第三としては、同じような叙景句の付けは避けたいところなのであるが、虚子の連句感というのは、「小説が縦断的な繋がりとすると、連句は横断的な繋がり」としているようで(「ホトトギス(第八号)所収「連句の趣味」)、ここも虚子の捌きに、子規は忠実に作句しているような流れである。


子規と虚子の両吟(その二)

オ 発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
  脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
  第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
  四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
  五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
  折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

 四句目の「駕舁(かごかき)二人銭かりに来る」の虚子の句、第三句目までの叙景の句から一変して駕籠を担ぐ人の登場である。前句が「うすら寒い日で人が家から出てこない」ので商売にならず「銭をかりに来る」というのである。現在の感覚ではさしずめタクシーのドライバーなどを想定すればよいのかもしれない。五句目の子規の句は、発句(秋)・脇句(秋・月)・第三(秋)、そして、第四が季語なしの雑(ぞう)の句となると、ここは、夏の句が普通なのであるが、子規は堂々と「夜の雪」と冬の句にしている。前句の「駕籠かき人夫が商売にならない」の景から「洗足の湯」と「夜の雪」の連想である。一句独立した句としても鑑賞に堪える「俳句創始者・子規」の即興的な付けというところである。表六句目の虚子の折端も、前句の「夜の雪」を受けて、「風呂吹きの味噌」と冬の句で付けている。前句の屋外の風景を屋内に転じているのである。「芭蕉七部集」の『炭俵』の「秋の空」の巻の表の六句の展開は「冬・冬・秋・月・冬・雑」など余り式目にこだわらずに、その時の創作上の流れというのを優先するなどともいわれているが(浅野信著『炭俵注釈』)、ともすると式目(ルール)一点張りの連句の創作の上の一つの警鐘かもしれない。


子規と虚子の両吟(その三)

オ 発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
  脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
  第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
  四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
  五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
  折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ 折立 開山忌三百年を取り越して         子規
  二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
  三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規


表(オ)の六句が「起承転結」の「起」にあたるとする、裏(ウ)の十二句は「承」に当たる。
子規の折立の句は、前句の「風呂吹きの味噌」から「開山忌」の連想であろうう。「取り越し」とは法事などを引き上げること。雑の句。二句目の虚子の句は、前句の「開山忌」から、「鐘楼に鐘を引き上げ揚ぐる声」と、何かただらぬ雰囲気の滑稽句。雑の句。三句目の子規の句は、前句の「鐘楼に鐘を引き揚ぐる声」などは、馬上の「うたゝ寝」のことであって、もうすぐ駅(宿場)に着くという景である。雑の句。こういう二人の雑の句を見ると、古俳諧に精通している呼吸の合った雰囲気が伝わってくる。


子規と虚子の両吟(その四)

オ 発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
   脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
   第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
   四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
   五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
   折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ 折立 開山忌三百年を取り越して         子規
  二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
  三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規
  四    公事の長びく畑荒れたり        虚子
  五  水と火のたゝかふといふ占ひに       子規
  六    妻子ある身のうき名呼ばるゝ      虚子

裏の虚子の四句目の「公事(くじ)」は訴訟のこと、「訴訟が長引いて畑が荒れてしまった」という付け。前句の「駅付近」に着目しての連想であろうか。雑の句。次の五句目の子規の「水と火のたゝかふといふ」という措辞は、やはり「俳句創始者」子規という趣すら漂わせている。しかし、これは「吉方位」の「占い」の「水」(一白水星)と「火」(九紫火星)の句なのであろう。雑の句。前句の「訴訟」に関連しての付けであろう。虚子の六句目。いよいよ雑の恋の句の登場。手慣れた恋の句という雰囲気である。句意は明瞭。そして、この種のものは現在の週刊誌ネタ記事そのものという感じである。
 

子規と虚子の両吟(その五)

オ 発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
  脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
  第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
  四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
  五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
  折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ 折立 開山忌三百年を取り越して         子規
  二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
  三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規
  四    公事の長びく畑荒れたり        虚子
  五  水と火のたゝかふといふ占ひに       子規
  六    妻子ある身のうき名呼ばるゝ      虚子
  七  鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて         子規
  八    石に吹き散る萩の上露         虚子
  九  捨てかねて秋の扇に日記書く        子規

子規の裏の七句目、前句が恋の句で、ここは恋の句は二句以上続けるところなのだが、子規は鸚鵡の句としてしまった。この七句目は「月の定座」でそれは定石通り。芭蕉は恋の句は一句で捨ててもよいとしているので、子規は芭蕉の言に従ったまでのことかもしれない。芭蕉は恋の句の名手であったが、子規は苦手だったのかもしれない。次の八句目の虚子の句、前句が「月」で、「萩」の句はこれまた付き過ぎの嫌いがあり敬遠されるところだが、こういう縁語の付けは虚子は歓迎していたのかもしれない。虚子は芭蕉の「吹き飛ばす石は浅間の野分かな」の句が脳裏にあったに違いない。次の子規の九句目、この句も芭蕉の「今日よりや書付消さむ笠の露」を意識しての前句の応答句なのかもしれない。子規の露の句に「病牀の我に露ちる思ひあり」の名句がある。子規の「連句非文学論」は神聖化された芭蕉を否定しようとする『芭蕉雑談』の中で展開されるのだが、後に、『猿蓑』などの芭蕉七部集の連句にも触れて、これらの連句の実践と、それと共に、芭蕉の再評価ということも心の片隅にあったのかもしれない。


子規と虚子の両吟(その六)

オ 発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
  脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
  第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
  四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
  五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
  折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ 折立 開山忌三百年を取り越して         子規
  二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
  三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規
  四    公事の長びく畑荒れたり        虚子
  五  水と火のたゝかふといふ占ひに       子規
  六    妻子ある身のうき名呼ばるゝ      虚子
  七  鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて         子規
  八    石に吹き散る萩の上露         虚子
  九  捨てかねて秋の扇に日記書く        子規
  十    座つて見れば細長き膝         虚子
 十一  六十の祝ひにあたる花盛          子規
 折端   暖き日を灸据ゑに来る          虚子

 裏の虚子の十句目、「座つて見れば細長き膝」の雑の句、前句の何処に着眼したのであろうか。ここは病床の寝たきりの子規のことがその背景にあるのではなかろうか。前句の「日記書く」に着目して、子規居士ならずその日記を書く人は「座って見れば細長き膝」という、そういう虚子の「そのもののあるがまま」を写すという虚子流の写生観の典型的な一句と解したい。次の子規の「六十の祝ひにあたる花盛」の句。ここは「花の定座」の句で、裏の七句目の「月の定座」とともに「花の定座」も虚子は子規居士に詠ませているという雰囲気である。子規が亡くなったのはわずかに享年三十六歳という短い生涯であった。その子規が「六十の祝ひにあたる花盛」という付句をしているのである。子規の生涯というのは、本当に「花盛り」を知らずに逝ってしまったということをあらためて実感する。次の虚子の裏の最後の折端の句、「暖き日に灸据ゑに来る」、これも病床の寝たきり子規居士の、そのある日の一場面と捉えることはできないであろうか。連句というのはその背後にその付句をした何かしらが蠢いているということを実感する。

子規と虚子の両吟(その七)

オ   発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
    脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
    第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
    四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
    五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
    折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ   折立 開山忌三百年を取り越して         子規
    二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
    三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規
    四    公事の長びく畑荒れたり        虚子
    五  水と火のたゝかふといふ占ひに       子規
    六    妻子ある身のうき名呼ばるゝ      虚子
    七  鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて         子規
    八    石に吹き散る萩の上露         虚子
    九  捨てかねて秋の扇に日記書く        子規
    十    座つて見れば細長き膝         虚子
   十一  六十の祝ひにあたる花盛          子規
   折端   暖き日を灸据ゑに来る          虚子

ナオ 折立 まじなひに目ぼの落ちたる春の暮       虚子
    二   地虫の穴へ燈心をさす          子規
    三  しろがねの猫うちくれて去りにけり     虚子


名残の表(ナオ)に入る。両吟の歌仙の進行は、普通には、この例で行くと、子規・虚子・虚子・子規の流れなのであるが、この歌仙では、前半(オ・ウ)は子規が長句、虚子が短句を担当し、後半(ナオ・ナウ)は虚子が長句、子規が短句を担当する流れで行われている。そこで、順序が入れ替わり、虚子が長句の折立の句を投じているのだが、この虚子の折立の「まじなひ」の句は、裏の四句目に「占ひ」の句があり、差合い(類語・類字表現など)で嫌われるのが通例なのであるが、虚子はそこら辺には余り拘泥せず、無頓着という流れでもある。春の句。それにしても、この句なども付句ではなく一句独立の俳句そのものという感じである。ナオの二句目の「地虫」の句は、前句の春の景を受けて「啓蟄」(地虫穴を出づ)の滑稽句仕立てで、子規の得意気な様子が見えてくる。三句目の「しろがね(銀)の」という切り出しは、前句の滑稽句を受けて、虚子は雅語(歌語)で応え、季語なしの雑の句の仕立てであるが、「恋猫」の句で、これまた滑稽句であろう。子規も虚子も、俳句の大先達の名を頂戴しているが、こと連句においても相当な練達者という雰囲気である。


子規と虚子の両吟(その八)

オ   発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
    脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
    第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
    四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
    五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
    折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ   折立 開山忌三百年を取り越して         子規
    二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
    三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規
    四    公事の長びく畑荒れたり        虚子
    五  水と火のたゝかふといふ占ひに       子規
    六    妻子ある身のうき名呼ばるゝ      虚子
    七  鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて         子規
    八    石に吹き散る萩の上露         虚子
    九  捨てかねて秋の扇に日記書く        子規
    十    座つて見れば細長き膝         虚子
   十一  六十の祝ひにあたる花盛          子規
   折端   暖き日を灸据ゑに来る          虚子

ナオ 折立 まじなひに目ぼの落ちたる春の暮       虚子
    二   地虫の穴へ燈心をさす          子規
    三  しろがねの猫うちくれて去りにけり     虚子
    四   卯木も見えず小林淋しき         子規
    五  此夏は遅き富山の薬売           虚子
    六   いくさ急なり予備を集むる        子規
    七  足早に提灯曲る蔵の角           虚子
    八   使いの男路で行き逢ふ          子規
    九  亡骸は玉のごとくに美しき         虚子
    十   ひつそりとして御簾の透影        子規
   十一  桐壺の月梨壺の月の秋           虚子
   折端   葱の宿に物語読む            子規

 名残の表の四句目の子規の句、卯木(うつぎ)は花卯木で夏の句。前句との関係は「しろがねの猫」が「小林」の方に「去りにけり」というところか。五句目の虚子の句は花卯木が咲く頃来るいつもの富山の薬売りが来ないという人物の登場の句で、夏の句。子規の六句目、「薬売りが来ないのは、戦線急を告げていて、予備役兵まで招集されたからだろう」ということであろう。雑の句。虚子の七句目も雑の句で、前句の招集された予備役を送る提灯行列が、「足早に提灯曲がる蔵の角」というところか。次の子規の雑の八句目、その「蔵の角」を曲がったら「使いの男路で行き逢ふ」という景。虚子の雑の九句目、「玉のごときに美しき」亡骸とは恋の句仕立てか。前句との関係は「使いの男」が「亡くなったことを知らせる飛脚」と鑑賞してのものであろう。子規の雑の十句目、前句のその「亡骸」は「ひつそりとして御簾の透影」で横たわっているのを見守っている景であろうか。十一句目は「月の定座」、そして、前句から御簾の透影から『源氏物語』の連想であろう。「句またがり」のリズムが面白い。子規の折端の句、前句の上流階級の源氏物語の世界を「葱の宿」と思い切り卑属の世界に転回しているのであろう。しかし、「物語読む」はどう見ても「三句がらみ」で避けたいところだが、捌きを担当していると思われる虚子はフリーパスである。


子規と虚子の両吟(その九)

オ   発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
    脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
    第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
    四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
    五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
    折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ   折立 開山忌三百年を取り越して         子規
    二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
    三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規
    四    公事の長びく畑荒れたり        虚子
    五  水と火のたゝかふといふ占ひに       子規
    六    妻子ある身のうき名呼ばるゝ      虚子
    七  鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて         子規
    八    石に吹き散る萩の上露         虚子
    九  捨てかねて秋の扇に日記書く        子規
    十    座つて見れば細長き膝         虚子
   十一  六十の祝ひにあたる花盛          子規
   折端   暖き日を灸据ゑに来る          虚子

ナオ 折立 まじなひに目ぼの落ちたる春の暮       虚子
    二   地虫の穴へ燈心をさす          子規
    三  しろがねの猫うちくれて去りにけり     虚子
    四   卯木も見えず小林淋しき         子規
    五  此夏は遅き富山の薬売           虚子
    六   いくさ急なり予備を集むる        子規
    七  足早に提灯曲る蔵の角           虚子
    八   使いの男路で行き逢ふ          子規
    九  亡骸は玉のごとくに美しき         虚子
    十   ひつそりとして御簾の透影        子規
   十一  桐壺の月梨壺の月の秋           虚子
   折端   葱の宿に物語読む            子規

ナウ 折立  ひゝと啼く遠音の鹿や老ならん       虚子
    二     物買ひに出る禰宜のしはぶき     子規
    三   此頃の天気定まる南風          虚子


いよいよ最終局面の名残の裏である。虚子の折立の鹿(秋)の句、「ひゝと啼く」と来ると、芭蕉の「びいと啼く尻声かなし夜の声」が思い起こされてくる。子規一門の蕪村再発見はつとに喧伝されているところであるが、子規は「家集にては芭蕉句集、去来発句集、丈草発句集、蕪村句集などを読むべし」(『俳諧大要』)と、芭蕉一門の俳諧についても一目も二目も置いていたことが了知される。次の子規の「禰宜のしはぶき」の冬の句、前句の秋の句から直接冬の句へと「季移り」の句で、さらに、ナオ折端(冬)・ナウ折立(秋)・二句目(冬)と「季戻り」と子規には虚子は細かい指示はしていない雰囲気である。また、ナオ折端の「葱」とナウ二句目の「禰宜(ねぎ)」とも「観音開き」の感じで、子規はあえて式目違反を楽しんでいる感じがしなくもない。虚子の四句目もここは雑の句が普通であるが「南風」(夏)と、とにもかくにも、連句を楽しむには一々式目などには拘泥せず「興趣の赴くままに」という流れでもある。


子規と虚子の両吟(その十)

オ   発句 荻吹くや崩れ初(そ)めたる雲の峰      子規
    脇句  かげたる月の出づる川上         虚子
    第三 うそ寒み里は鎖(とざ)さぬ家もなし     子規
    四   駕舁(かごかき)二人銭かりに来る     虚子
    五  洗足の湯を流したる夜の雪         子規
    折端   残りすくなに風呂吹の味噌       虚子

ウ   折立 開山忌三百年を取り越して         子規
    二    鐘楼に鐘を引き揚ぐる声        虚子
    三  うたゝ寝の馬上に覚めて駅近き       子規
    四    公事の長びく畑荒れたり        虚子
    五  水と火のたゝかふといふ占ひに       子規
    六    妻子ある身のうき名呼ばるゝ      虚子
    七  鸚鵡鳴く西の廂の月落ちて         子規
    八    石に吹き散る萩の上露         虚子
    九  捨てかねて秋の扇に日記書く        子規
    十    座つて見れば細長き膝         虚子
   十一  六十の祝ひにあたる花盛          子規
   折端   暖き日を灸据ゑに来る          虚子

ナオ 折立 まじなひに目ぼの落ちたる春の暮       虚子
    二   地虫の穴へ燈心をさす          子規
    三  しろがねの猫うちくれて去りにけり     虚子
    四   卯木も見えず小林淋しき         子規
    五  此夏は遅き富山の薬売           虚子
    六   いくさ急なり予備を集むる        子規
    七  足早に提灯曲る蔵の角           虚子
    八   使いの男路で行き逢ふ          子規
    九  亡骸は玉のごとくに美しき         虚子
    十   ひつそりとして御簾の透影        子規
   十一  桐壺の月梨壺の月の秋           虚子
   折端   葱の宿に物語読む            子規

ナウ 折立  ひゝと啼く遠音の鹿や老ならん       虚子
    二     物買ひに出る禰宜のしはぶき     子規
    三   此頃の天気定まる南風          虚子
    四     もみの張絹乾く陽炎         子規
    五   花踏んで十歩の庭を歩行きけり      虚子
   挙句     柿の古根に柿の芽をふく       子規

名残の裏の子規の四句目、「陽炎」で春の句。「もみ絹物を張り板で乾かしていると陽炎の立つ暖かき日で乾きが早い」という景。そういう光景はその当時よく目にしたものなのであろう。五句目は「花」の定座。この連句も子規の病で臥せている根岸庵でのものであろうか。子規の句に「小夜時雨上野を虚子の来つつあらん」という句が思い起こされてくる。そして、子規の挙句の「柿の芽」の春の句、「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」の傑作句を残した、柿好きの子規に相応しい挙句である。「柿の古根」の正岡子規が朽ち果てても、今に、その子規一門の「柿の芽」は群れなす一大の大樹になって、しっかりと根づいているのである。子規を語るとき、この子規の「柿の芽」の挙句のある、この子規と虚子の両吟の連句を度外視することは許されないであろう

久保田万太郎の俳句



久保田万太郎の句鑑賞

○ 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

万太郎の傑作句である。芥川龍之介は万太郎の句
をして、「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」と喝波
した。その何かを直視するような寂寥感の伴う、
詠嘆の「嘆き」の吐露は、とても言葉では表現で
きない、万太郎俳句の凄さを有している。ここに
も、雀郎と同じ、「あわれ」・「おかし」・「ま
こと」が見え隠れしている。

○ 神田川祭の中を流れけり

大正十四年の昭和と衣替えするころの万太郎
の句である。この句に接すると、昭和が終り
平成となった、ついこの間まで若者の間で歌
われていた、南こうせつとかぐや姫の「神田
川」のソングを思いだす。「窓の下には神田
川、三畳一間の小さな下宿」…、万太郎の句
は、この神田界隈を流れて隅田川へと注ぐ、
その神田川を実に平明な言葉で、平明な俳句
的骨法で、恐ろしいほど的確に描きあげてい
る。

○ 新参の身にあかあかと灯りけり

「新参」とは新参の奉公人のことで、今では
死語となったものの一つであろう。万太郎の
大正十一年の頃の作。「あかあかと灯りけり」
と「ありのままに、さりげなく」、何の変哲
もないような表現に、その「新参の奉公人」
の「あわれ」な境遇の姿が 浮かび上がって
来る。「万太郎は俳句の天才」と何かの小説
の題名にもあるようだが、こういう感覚とその
感覚にマッチした技法は、まさに「天才」とい
う言葉を呈してもよいのかも知れない。

○ ふゆしほの音の昨日をわすれよと

「ふゆしほ」は冬汐。「昨日」は「きのふ(う)」の詠み。
この句には「海、窓の下に、手にとる如くみゆ」との前
書きがある。万太郎には、この前書きのある句が多い。
この前書きとその当該句をあわせ味わうと、万太郎の作
句の時の姿影が浮かび上がってくる。
万太郎の全貌を知るには、その戯曲や小説の類でもなく、
万太郎が「余技」と称していた、この「俳句」の世界に
おいて、万太郎の、その偽らざる真実の吐露をうかがい
知ることができる。この句は、昭和二十年の、あの終戦
当時の陰鬱な時代の句なのである。

○ ボヘミアンネクタイ若葉さわやかに

「ボヘミアンネクタイ」・「若葉さわやかに」…、何と骨格だけ
で俳句ができている。しかし、この骨格は正確無比の修練を積ん
だデッサン力なのであろう。この句には、万太郎俳句の一つの特
徴である前書きが施されている。「永井荷風先生、逝く。先生の
若い日を語れとあり」。この句は断腸亭主人・荷風への追悼句な
のである。万太郎も、若かりし頃の洋行帰りの颯爽とした「ボヘ
ミアンネクタイ」の永井荷風に、当時の最先端のゾラなどの講義
を受けたのであろうか。そして、この二人とも、江戸情緒の世界
に耽溺した。ひるがえって、この二人の唯美主義的な傾向は本物
のそれという感じがしてならない。

○ セルの肩 月のひかりにこたへけり

「木下有爾君におくる」との前書きのある一句。
木下有爾とは、詩人で万太郎の主宰する「春燈」
で活躍した俳人でもあった。「春燈」は終戦の
翌年の昭和ニ十一年に万太郎を選者に仰いで、
安住敦らが中心になって創刊したのであった。
その「春燈」創刊号の万太郎の巻頭言に「夕靄
の中にうかぶ春の燈は、われわれにしばしの安
息をあたへてくれる」とある。万太郎の俳句も、
有爾の俳句も、「夕靄の中に浮かぶ春の燈」の
ように、強烈な燈ではなく、ぼんやりとしてい
るが、妙に安らぎを覚える燈のようでもある。
この掲出の句は昭和三十四年の作。「セルの肩」
の上五の次に、一字の空白があり、ここで「間」
(ポーズ)を取るのであろうか。万太郎の俳句に
は、このような細部に神経を払った句が多い。

○ 初午や煮しめてうまき焼豆腐

 万太郎の昭和ニ十七年の作。この万太郎の句は、いわゆる
「類似・類想句」が問題になると、よく話題にされるという
ことで、よく知られている句である。小沢碧童の、昭和四年
作の句に、「初午や煮つめてうまき焼豆腐」という句があり、
この類想句だというのである。
 万太郎俳句の良き理解者であった安住敦さんが「引っ込める
べきではないか」という助言に、焼豆腐は「煮つめて」ではな
く、「煮しめて」が正しいのですと、万太郎は平然としていた
という。万太郎には、しばしば、このようなことがあり、万太
郎像ということになると、そのファンもいるが、アンチ・万太
郎もそのファン以上に多いように思われる。しかし、こと、俳
句に関しては、万太郎が「俳句は余技」と口にしていた以上に、
万太郎が終生、心では「俳句は本技」と、その情熱を傾けてい
たように思える。この句なども、万太郎の碧童の先行句を超え
ているという、万太郎の自信の表れとも取れなくもない。

○ 来る花も来る花も菊のみぞれつつ

 この句には「昭和十年十一月十六日妻死亡」との前書き
がある。この亡き妻とは万太郎の最初の京子夫人のことで
あろう。この夫人は万太郎とのいざこざで、自分で自分の
命を絶ったというのが、その真相らしい。こういうことが
いろいろな流聞となって、「万太郎その人」を巡っての評
判というのは、どうにも、悪評の方が多いというのが、今
になっても、これまた、真相というところであろう。しか
し、この句などを見ると、万太郎の、その時の心境は、こ
の句の「みぞれ」のように、寒々とした惨めなものであっ
たろう。しかし、万太郎は、江戸っ子の、意固地な「外面」
が、どうにも悪いのである。そんな惨めな気持ちや奥様に
対する悔恨の情など、素振りにも見せないのである。しか
し、「句は嘘をつかない」。そして、その万太郎の句は、
現に、今も、語りつがれているのである。

○ 芥川竜之介仏大暑かな

 この句には、「昭和三年七月二日」との前書きがある。竜之介
が服毒自殺を遂げたのは、その前年のことであり、この句はその
一周忌での追悼句ということになる。この句の詠みは「芥川竜之
介仏(ぶつ)」で切り、「大暑かな」と続けるのであろう。何の変
哲もない平明そのものの句であるが、この「大暑かな」に、万太
郎の追悼句としての見事なまでの巧みさがある。竜之介は、万太
郎の句を評して、「東京の生んだ嘆かいの発句」と喝破したが、
この「大暑かな」は、その竜之介の喝破の「嘆かいの発句」の典
型的な息づかいともいえるものであろう。竜之介には、その死後
に刊行された『澄江堂句集』という句集があるが、その句の中
に、「兎も片耳垂るる大暑かな」という「破調」という前書きの
ある句があるが、万太郎は、竜之介のこの句の「大暑かな」を本
句取りにしていることは言うまでもない。そして、その本句取り
が見事に結実しているのである。

○ 鶏頭の秋の日のいろきまりけり

 万太郎の昭和二年から同七年までの句が収録されている
『吾が俳諧』所収の句。「吾が俳句」にあらず、「吾が俳諧」
と命名しているのが、万太郎らしい。万太郎においては、何
時も、「俳諧における発句」としての句作りということを念
頭に置いていたという、一つの証しでもあろう。
この句は万太郎句のうちでも傑作句の一つであろう。「きまり
けり」の下五の「けり」止めの余情とその時間的経過を醸し出
している点は心憎いばかりである。子規の「鶏頭の十四五本は
ありぬべし」等々、鶏頭の句には名句が多いが、この万太郎の
句も、鶏頭の名句として、これからも、永く詠み続けられてい
く句の一つであろう

木曜日, 7月 13, 2006

木下夕爾の俳句




○ 学院の留守さかんなる夏樹かな

 昭和四十年作。『遠雷』所収。この句は、詩人で俳人でも
あった、木下夕爾が、久保田万太郎が主宰する「春燈」の
七月号に発表した五句のうちの一句である。この時の五句
が、夕爾の俳句の作品発表の最後らしい。この年の八月に
夕爾は、その五十年の生涯を閉じた。

  1965年夏
  私はねじれた記憶の階段を降りてゆく
  うしなわれたものを求めて
  心の鍵束を打ち鳴らし

 その前年にオリンピック東京大会が開催された。この掲出
句の「夏樹」には、死の影は毛頭ない。しかし、昭和三十
九年の、この詩の「階段を降りてゆく」に、ふと、死の影
が見え隠れしている。


○ たべのこすパセリの青き祭かな

 昭和三十六年作。「たべのこす/パセリの」までは
平明な調子であるが、「青き/祭かな」と来ると、
詩人・夕爾調となってくる。そして、夕爾には、
「港の祭」という詩がある。

  べんとうの折詰からはみ出している
  パセリのひときれのように
  私は今ひどく孤独で新鮮である。

 夕爾の「青」とは「孤独と新鮮」の「青春の息吹」
のようなものなのであろう。それよりもなによりも、
「べんとうの折詰からはみ出しいる/パセリ」の思い
が、常に、夕爾にはつきまとっていたということなの
であろう。


○ 噴水の涸れし高さを眼にゑがく

 昭和二十八年作。その詩集『笛を吹く人』の中に、
「冬の噴水」という詩がある。

  噴水は
  水の涸れている時が最も美しい
  つめたい空間に
  ぼくはえがくことができる
  今は無いものを

  ぼくはえがく
  高くかがやくその飛場
  激しく僕に突き刺さるその落下

 この夕爾の眼の置き所、江戸時代の画・俳二道を
極めた蕪村の、その視点と同じものを感ずる。

  凧(いかのぼり)昨日の空のあり所


○ あたたかにさみしきことをおもひつぐ

 昭和二十八年作。夕爾の母郷への回想的な句の一つ
であろう。

  故郷よ 竹の筒に入れて失くした二銭銅貨よ
  僕はかへつてくる べつにあてもないのに
  ぼくはかへつてくる そこは僕の故郷だから

  風は樹木の間をぬけて
  怒つた縞蛇のやうに
  僕の首や腕に巻きつく



  故郷よ 竹の筒に入れて失くした二銭銅貨よ
  僕はかへつてくる べつにあてもないのに
  ああ大根の花にむらがる 無数の蝶のなかの
                    一匹

 この詩の「無数の蝶のなかの一匹」という想いが 
夕爾の詩や俳句の原点であったのだろう



○ 山葡萄故山の雲の限りなし

 昭和二十四年作。「故山」とは故郷の山のこと。また、故郷
そのものを指していう。夕爾の詩・俳句のモチーフが「母郷へ
の回想的風景」が多いということは、この句においても、故郷
の山に限定することなく、広く母郷への想いの句と理解すべき
であろう。
 
 山ぶどうをつんでいるうちに
 友だちにはぐれてしまった

 白い雲がいっぱい
 谷間の空をとざしていた
 谷川の音がかすかにきこえていた

 ひとりでたべるにぎりめしに
 お母さんのかみの毛が
 一本まじっていた

 母郷への想いは母の想いへと繋がる。その想いは白い雲の流れ
のように、限りなくなつかしいものの一つなのである。



○ 家々や菜の花いろの灯をともし

 昭和三十三年の作。夕爾の句のなかで最も
よく知られてものである。「菜の花」の句と
いえば、蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」
がまず浮かんでくる。画人・蕪村の句は、
「西の空に日輪が、そして、東の空に月が昇
り、そして、地上には、黄色の菜の花に彩ら
れている」という、十七字音の中に、宇宙の
広がりを見事に収めた、画家の眼が躍如とし
ている。
 そして、この夕爾の菜の花の句は、詩人・
夕爾の眼が息づいている。「灯をともし」の、
この下五が絶妙で、薄暮の中に、「菜の花い
ろの灯がともる」というのである。それが、
人間の生活の象徴のように、詩人・夕爾の眼
には映るのであろう。
 この「菜の花いろの灯」は、薄暮前の「菜
の花」が前提となっていって、そして、「家
々に、その菜の花のような灯」が、ともると
いうのである。この句の、あたかも比喩のよ
うな「菜の花」は、十七字音という短い詩形
の俳句の、いわゆる、掛詞のような、季語と
しての「菜の花」が働いているというところ
に、詩人・夕爾の眼があるのであろう。
 この句は。句碑となって、夕爾の住んでい
た家の庭に刻みこまれているという。その夕
爾の家の郊外には、一面の田んぼが広がり、
その田んぼの傍らの水車小屋辺りでの作とい
う。夕爾らしい句である。


○ にせものときまりし壷の夜長かな 

夕爾の昭和三十年の作。夕爾の句としては異色で滑稽味
のする句。夕爾に骨董や陶器の趣味があったのかどうかは
定かではない。この夕爾が骨董や陶器にも造詣の深い井伏
鱒二と郷里を同じくし、終戦後の井伏鱒二が疎開生活をし
ていた頃、交遊があったことはよく知られている。
 この句の面白さは、「壷の夜長かな」と、その壷の擬人
化の醸し出す面白さであろう。と同時に、この句に接する
と、その終戦後の夕爾と鱒二との二人の交遊関係などを彷
彿させるなど、その壷の背後にいる「人物の夜長」を主題
としているからに他ならない。そして、この句のように、
「物」(壷)に則して、「者」(陶器談義をしている人)
の心境(「夜長」の退屈さ)を醸し出すのは、俳句の骨法
中の骨法である。この句は詩人・夕爾の作というよりも俳
人・夕爾の作という趣である。
 こういう理屈よりも、この句の「壷」が鱒二の「山椒魚」
に思えてくるのが、妙に面白いという雰囲気なのである


○ 地の雪と貨車のかづきて来し雪と

昭和二十八年作。新興俳句弾圧事件で二年半の刑期
後、終戦直前に北海道に移住した、細谷源二の雪の
句、「地の涯に倖せありと来しが雪」が髣髴として
来る。有爾の、この「地の雪」も、源二の「地の涯
に倖せありと来しが雪」と同一趣向のものであろう。
そして、有爾の、この雪の句の主題は、その「地の
涯に降ってきた雪」と「貨車のかづきて来し雪」と
の「出会い」に、有爾の眼が注がれている…、そこ
に、この句の生命と有爾の作句する基本的な姿勢を
見ることができるのである。同年の作の、「炎天や
相語りゐる雲と雲」の、「相語りゐる」、その交響
・交流こそ、有爾の詩や句の根底に流れているよう
な、そんな思いがするのである。即ち、有爾は、「
地の雪」と「貨車のかづきて来し雪」とが「遭遇」
し、その「出会い」の中に、「人と自然との営み」
のようなものを感じ取っているに違いない。



○ 遠雷やはづしてひかる耳かざり

昭和三十二年作。有爾の句集『遠雷』は、この
句に由来があるのだろうか。「遠雷」と「耳か
ざり」の「取り合わせ」の句。この句のポイント
は、その異質なフレーズの「取り合わせ」の他
に、「はずして・ひかる」という、この中七の
フレーズにある。「耳かざり・を・はずして」、
それは、作句者・有爾以外の第三者、そして、
この句では、それは「女性」であろうか。そし
て、五・七・五の十七音字の世界に、作句者以
外の第三者を登場させることにおいて、抜きん
出ていた俳人こそ、有爾がその師とした久保田
万太郎であった。ともすると、自己の心象風景
に眼を向ける有爾の、もう一つの有爾の眼であ
る。



○ とぢし眼のうらにも山のねむりけり

昭和三十三年作。「とぢし眼の」の上五の切り出しは、
「目(まな)うらの」とか、決して、有爾の独壇場では
なく、さまざまな俳人が用いているものの一つである
けれども、詩人・有爾の、いかにも好むような雰囲気
を有している。この句は一句一章体の、一気に読み下
すスタイル…、このスタイルも、詩人・有爾の、いか
にも好むような雰囲気を有している。そして、この「
山のねむりけり」の「けり」の切れ字は、「余韻」を
句の生命線のように大事にして、そして、多様する、
有爾の師の久保田万太郎の世界のものであろう。有爾
は、安住敦を知り、そして、万太郎の世界に入ったよ
うであるが、詩の世界と違って、句の世界にあっては、
「寡黙」、そして、「余韻」こそ、その生命線である
ということを、十分に承知し、その関連において、有
爾は万太郎から多くのものを学んだことであろう。

月曜日, 7月 03, 2006

橋本夢道の自由律俳句



橋本夢道の自由律俳句

(その一)

○ 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ  橋本夢道

 『橋本夢道集』(筑摩書房刊『現代日本文学全集91』)の中の一句。この句集が収められている『現代日本文学全集91』の中には、この句の夢道自身の書の色紙が掲載されている。五七五の俳句に比しては勿論のこと、種田山頭火や尾崎放哉などの自由律俳句と比しても、この夢道の自由律俳句は、その異色さにおいては群れを抜いている。そして、その異色さは、この掲出句に見られるように、その発想の異色さにおいて、完全に脱帽せざるを得ないように思われてくるのである。これらの夢道の句を評して、夢道の「愛妻俳句」の一つに数えているものもいる(志摩芳次郎著『現代俳人(一)』)。
 夢道をよく知る志摩芳次郎によれば、この句について、「戦後のあの国民が飢餓線上を彷徨させられたころの作品は、無礼なの妻ではなくて、世の中である」として、この句は、「『無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ』と飄々とうたってのけたところに、かれの俳諧の精神、俳人の本領が現れている」と的確な指摘をしている。 この句は、日本の戦後のどさくさのあの極限状態にあった頃の作で、この句の背後には、そうした日本の極限状態への失望やさまざまな怒りなどが鬱積していたことであろう。そして、そういう極限の時代にあって、こういう句を堂々と作句していた俳人がいたということを忘れてはならないと・・・、この句に接すると何時もそんなことを思うのである。

(その二)

○ うごけば、寒い

 この夢道の自由律俳句、「うごけば、」の「、」を入れても七語で、おそらく、古今東西、一番短い字数の句ではなかろうか。前回の「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」が何と長い句形かと思うと、今回の句のように極端に短い句形と、夢道の句はそのスタイルだけとっても千変万化である。しかし、この何とも異様な、この句形の、その背後は、夢道の「俳句弾圧事件」の忘れざる恐ろしい体験に根ざしたところの一句なのである。夢道は、昭和十六年に、その「生活俳句」・「プロレタリア俳句」を理由にして、時の検察ファッショによって逮捕され、獄中生活をおくるのである。この句は、その獄中での一句である。「橋本夢道集」の、、この句の前の句は、「大戦起るこの日のために獄をたまわる」、その後の句は、「面会やわが声涸れて妻眼(まな)ざしを美しくす」である。これらの獄中での連作の一句なのであろう。これらの連作と併せ、この句を味読すると、この「うごけば、寒い」の、この極端に短い句形の必然性が浮かび上がってくる。即ち、これ以上の文字数を使うことすら拒否するような、そんな「寒さ」の中の「夢道」が浮かび上がってくるのである。

(その三)

○ 赤坂の見附も春の紅椿

 この定形の紅椿の句は、型破りの異色の自由律俳人で知られている、橋本夢道の句である。この句には、「予審に行く護送車より」の前書きがある。この句は、新興俳句弾圧事件で獄中生活を余儀なくされていた夢道が、その裁判所に出廷する時の、その護送車よりの一句ということになる。夢道は、その獄中で、「うごけば、寒い」という壮絶な最短詩ともいうべき自由律の俳句作品を残しているが、その夢道が、その護送車より、赤坂見附付近の紅椿を目にした時、「もう、春なのだ」ということを強烈に感じての一句というのが、この句の背景なのであろう。『橋本夢道集』に収録されている、この句の次の句は、「二十四房を出るわが編笠にふり向かず」というものであった。夢道は、懲役二年、執行猶予三年の判決を受けて、普通の生活に戻る。これらの句の後に、夢道は、「いくさなき人生がきて夏祭」という、これまた、有季の定形の句(終戦直後の句)を収載している。夢道らの自由律俳人の多くが、このような有季の定形の句を自家薬籠のものにしていて、その上での、心の内在律を重視する自由律俳句の世界に身を挺しているということを知るべきであろう。

(その四)

○ 思い出のみつ豆たべあつている妻が妊娠している

 愛妻俳句を数多くのこしている自由律俳人・橋本夢道の句である。夢道は四国の阿波で明治三十六年(一九〇三)に生まれた。大正七年(一九一八)に上京して、江東区深川で肥料問屋などに勤め、後に、銀座に、甘いものの店「月ヶ瀬」を出店して成功を収める。その時の宣伝用の俳句が「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」という。掲出の句の「思い出のみつ豆」も、この「月ヶ瀬」を象徴するような、その「蜜豆」に相違ない。そして、その「蜜豆をたべあつている」妻ともう一人の人物は、この句の作者・夢道その人であろう。「蜜豆」は夏の季語、そして、「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」は、五・七・五の定形の句である。しかし、その定形の蜜豆の句よりも、掲出の五・十一・十一の非定形の蜜豆の句の方が何とも魅力的に思えるのは、どうしたことであろうか。そして、五・七・五の定形の句は、それはそれとして、そして、その句心を持しながら、あえて、その定形の器にもりこまない、この掲出の夢道ような句を「俳句」という範疇でとらえることに、いささかの躊躇も感じない。

(その五)

○ ひるすぎぎんぎよううりのこえのゆきすぎるおんなよびとめる

 全文平仮名の何とも異様な橋本夢道の自由律の句である。この句の詠みは、「ひるすぎ・きんぎよううりのこえのゆきすぎる・おんなよびとめる」の「四・十六・八」のリズムであろうか。それとも二句一章体の「ひるすぎきんぎよううりのこえのゆきすぎる・お
んなよびとめる」の「二十・八」のリズムであろうか。とにもかくにも、「五・七・五」の十七音字の俳句の世界からすると、「これは俳句ではなく、より短い自由詩の領域に属するのではなかろうか」という声が上がることは必至のことであろう。しかし、この作者の橋本夢道からすると、「四・十六・八」あるいは「二十・八」の二十八字音とスタイルからすると極めて長いスタイルではあるけれども、その心の「内在律」は極めて俳句の世界のスタイルに近似して、そして、それ以上に、この句の原動力となっている作句する心は、「和歌・連歌」から反旗を翻しての「俳諧自由・俳諧自在」の心が脈打っている主張し、こういう定形からの飛翔を目指しての、そして、「スタイルに拘束されることなく、心の俳諧的
内在のリズムに即応したスタイルの発見」こそ、一つの俳諧の探求の道ではなかろうか、とそんな夢道らの声も聞こえてくるようなのである。例えば、「子の生まれし日・金魚売・来てゐたる」(成瀬桜桃子)の「七・五・五」の破調の十七音字の世界と掲出の夢道の極端の破調の二十八音字の世界とは、同一の円の中に存在しているように思えるのである。

(その六)

○ 父の手紙が今年も深い雪のせいだと貧乏を云うて来る真実なあきらめへ唾をのむ

 橋本夢道の三十六字(音律からするともっと長い)からなる自由律俳句の一つである。もっと長いものもあるのかも知れない。これらの俳句と五・七・五の十七音字の定形律のそれとをどのように理解すれば良いのか・・・、はなはだどうにも答えられないのだが、俳句を知り尽くしている夢道が、「これは私の俳句です」と主張するならば、それを拒む必要もないのではなかろうか。「五七五の十七音字の定形・季語有・切字有」の「俳句」を「もっとも基本的なバターン」のものとして捉え、それらのいずれからも逸脱はしているが、その底に流れている「俳諧心」(滑稽・おどけの心)という一点に絞って、この長い、夢道が「自由律俳句」と名乗る一行詩を、「もっとも基本的なバターン」ものと同じ感覚で、「詠み・鑑賞し・共感する」という、そういうことを、「これは俳句ではない」とのことで、
一顧だににしない昨今の風潮には、どうにも納得がいかないのである。このことは、高柳重信らの多行形式の俳句にも、即、あてはまることであって、「俳諧・俳句」探求に骨身を削り、前人未踏の分野に鍬を入れようとする冒険心を、昨今の俳句に携わるものは何処かに置き忘れてしまったようなのだ。

  馬車は越えゆく
  秋の飛雪
  鉛の丘      高柳重信

 夢道の「自由律」の雪の句、そして重信の「多行式」の雪の句、やはり、俳句を熟知している人のものという印象を強く受けるのである。

(その七)

○ 路地裏しづかになるや黄金バット始まらんとす

 橋本夢道の「黄金バッド」の自由律俳句である。この句の詠みは、「路地裏しずかになるや/黄金バット/始まらんとす」の「十・七・七」の詠みであろう。上十の「や」切りで、無季の句である。そして、「黄金バット」という有季定型の俳句の季語に匹敵するようなキィワードがあり、戦後の間もない頃大流行した紙芝居の「黄金バット」の句として忘れ得ざる句の一つである。自由律俳句では十七音字よりも短いものを「短律」、そして、それよりも長いものを「長律」といわれているが、いわゆる、この句のような「長律」は言葉の省略ということがなく、それだけ、俳句特有の曖昧さがなく、鑑賞者にとっては、鑑賞しやすいという利点がある。しかし、そのことは、同時に、鑑賞者に「余韻・余情」というものを残さないという短所をも具えているということも意味する。ここのところが、いわゆる「長律」を作句する者にとって一番工夫するところのもので、この夢道の「黄金バット」の句ですると、上十の「路地裏しづかになるや」の切り出しに、夢道の工夫の跡を察知することができる。とにもかくも、夢道の自由律俳句のうちの好みの一句である。

(その八)

○ 弾圧来劫暑劫雨日共分裂以後不明

 橋本夢道の全文漢字の自由律俳句である。詠みは定かではないが、「ダンアツキタル・コウショコウウ・ニッキョウブンレツ・イゴフメイ」とでも詠みたい。この句のキィワード(フレーズ)は「日共分裂」であろう。夢道の略年譜に、「昭和五年栗林農夫(一石路)らとプロレタリヤ俳句運動を起す。九年『俳句生活』を創刊し、その編集に従う。十六年俳句事件により検挙され、十八年まで投獄された」とある。この句の「弾圧来」とは、その戦前の俳句弾圧事件を指しているのであろうか。そして、「劫暑劫雨」と「想像を絶するような暑さ・寒さ」を経験したということであろう。そして、戦後になって、やっと念願の生活に根ざした俳句運動に邁進していたら、その運動の支えであった「日本共産党」が分裂してしまったというのであろう。昭和二十五年当時のことであろうか。そして、この異様な全文漢字の夢道の句が収められている句集『無礼なる妻』は昭和二十九年に刊行さたのであった。もう、この句を作句していた頃は、「以後不明」と、それらの運動と一線を画していたのかも知れない。夢道らの俳句について、「あやふさ」が見え隠れして、「愚者の戯言」とのアイロニカルな指摘に接すると、夢道自身、その半生を振り返り、「何と愚者の戯言」であったかと忸怩たる想いが去来するのではなかろうか。しかし、それでもなお、その「愚者の戯言」は、人間の本質、俳諧・俳句の本質について、大きな示唆を与えていてくれているという思いを強くするのである。それは、とりもなおさず、この句でいえば、結句の「以後不明」の四字に、夢道の「諧謔精神」の息吹を感ずることにほかならない

(その九)

○ 葱買て枯木の中を帰りけり    蕪村
○ 酒の香のするこの静かな町を通る 夢道

 夢道のこの句は、昭和二十九年に刊行された『無礼なる妻』の冒頭の一句である。この夢道の句集は句の創作順に編集している、いわゆる、編年体の編集と思われるので、この句は夢道の初期の頃の作品と思われる。一読して、この夢道の句に並列した蕪村の句を想起した。ここで、一つ思いあたることは、蕪村の句は、江戸時代の大阪生まれの京都在住の蕪村の句で、その詠みは「ねぶかこうてかれきのなかをかへりけり」と、いわゆる、文語体の旧仮名遣いの詠みであろう。一方の夢道の句は、正岡子規門の一人の河東碧梧桐の新傾向俳句の流れの自由律俳句で、文語体特有の、「や・かな・けり」などの「切字」を使
用せず、口語体の句が多いのである。夢道のこの句も「さけのかのするこのまちをとおる」と、当時の口語体の詠みなのであろう。そして、蕪村の句のように、この「けり」の「切字」が、俳句特有の「行きて帰る」ところの「余韻・余情」を醸し出すのであるが、この「切字」を使用しない夢道らの自由律の句は、その人の、その心のリズムに即した句作りとなり、はなはだ、恣意的な「内在律」・「感動律」というものに頼りきるのである。そのことが、韻律としての「あやふさ」・「あいまいさ」と直結して、鑑賞者に戸惑いを起させるのであるが、定形律をとらず、口語体重視の立場の自由律の俳句の、それは宿命ともいうべきものであろう。そして、それが故に、自由律俳句は常に傍流にあり、異端の俳句とされているのであった。しかし、外在的・形式的な定形律からの自由、そして、現代語重視の、表現・内容の自由という観点からは、自由律の俳句というものは、極めて自然な、そして、極めて現代的な表現スタイルであるということは認める必要があると思われるのである。そして、「や・かな・けり」という文語体スタイルで、公然と新仮名遣いの俳句が、その主流となりつつある昨今の状況は、もう一度自由律俳句の、その歩みなどを検証する必要があるように思えるのである。

(その十)

○ 「きんかくしを洗いましよう」ユーモレスクにうら悲し

 夢道の句集『無礼なる妻』の後半に収録されている一句である。「きんかくしを洗いましよう」という切り出しの面白さ、その切り出しと「ユーモレスクにうら悲し」との取り合わせの面白さ。とにもかくにも、泣き笑いの滑稽味のする一句である。俳諧(俳句を含めて)の本質を「滑稽・即興・挨拶」と喝破したのは山本健吉であった。その三要素の何れに因っても、この夢道の句は立派な俳諧に深く根をおろした一句ということができよう。しかし、その俳諧(連句)の一番目の発句(十七字定型・季語・切字)から独立した俳句の観点からすると、その母胎の発句の三要素の何れの面においても、逸脱しており、この夢道の句は、発句、そして、俳句というにはいささか抵抗があるということも真実であろう。しかし、翻って、連歌からの自由を目指して俳諧(連句)が誕生し、その俳諧の発句の月並みからの脱却を目指して俳句が誕生し、その俳句の不自由さからの解放を目指しての自由律俳句の誕生は、一つの必然的な流れの中にあったのだ。そして、この自由律俳句がもたらした、俳句の三要素ともされている「十七字定型・季語・切字」に因らなくても、俳諧の精神(滑稽・即興・挨拶)は見事に具現化することができるということの証明は、この夢道の句の一つをとっても、それを証明しているのではなかろうか。とするならば、夢道らの自由律の俳句は俳句に非ずと一蹴することなく、これを「異端の俳句」として、その諧謔的精神を学ぼうとする姿勢こそ、今望まれていると、そんな思いを深くするのである。 

加藤楸邨と大岡信の唱和

加藤楸邨と大岡信の唱和(その一)

海鼠食ひし顔にてひとり初わらひ 楸邨
  赦すべかりし朋ひとり持つ   信 

 「現代詩手帳」(一九八七・一月号)に大岡信氏の「楸邨句交響十二章」と題して、「加藤楸邨新句集『怒涛』より十二句を選び、短句を付して唱和、『吹越』以来十年ぶりの新句集の悠揚たる風格を敬仰す」との詞書(前書き)を付しての作品があるとのことである。未見だが、「三つ物」・「歌仙」と見てきたので、連句の最小形式の「(二人・二句)唱和」ものの鑑賞を試みたい。そもそも、連歌・俳諧(連句)の起源として、『万葉集・巻八』の「佐保河の水せき上げて植ゑし田を(尼作る)」・「苅る早飯(わさいひ)はひとりなるべし(家持続く)」の、その詞書に記載されている「頭句・末句」とをもって、「是レ連歌ノ根源也」(『八雲御抄』)とされている。しかし、この「唱和」のスタイルは、最もスタンダードな『連句辞典』(東明雅他著)中の「連句の諸形態」には出てこない。しかし、「芭蕉連句集」などでは、「二句」・「付合」として、これらの「唱和」ものも紹介されているし、連句の底流に流れているものの一つとして、この「唱和」というものはもっと吟味されて然るべきものと理解をしたいのである。さて、掲出の二句であるが、楸邨氏の俳句(楸邨氏の最晩年の句集『怒濤』の中の一句)に対して、楸邨氏の知己でもあり詩人・評論家の大岡信氏が短句(「脇句」と言わず「長句」に対しての「短句」)を付してのものである。句意は、それほど解説を施すようなものもなく、楸邨氏の七十一歳から八十一歳までの満十年間の句業を収めた『怒濤』に対する、大岡信氏の贈答句と理解すればそれで足りるのであろう。実は、この楸邨氏の海鼠の句が、フロリダ在住のロビン・ギル氏の『浮け海鼠千句也』(Rise,Ye Sea Slugs!)に紹介されているが故に、この「唱和」ものを鑑賞してみようと思ったことが、その内実なのである。ロビン・ギル氏は、楸邨氏のこの海鼠の句について、五つつの翻訳を試みて紹介しているのである。その五つつの翻訳をしないと、日本人を含めてなかなかこの句の真の理解ができないということを紹介したいのである。
○ eating sea slug / alone, my face cracks / its first smile
○ all by myself / first smile on my face / eating sea slug
○ my first smile / of my year as i sit alone / eating sea slug
○ eating sea slug / alone: a first – smile / upon his face
○ new year’s alone eating sea slug / my face cracks a smile: / my first laugh!

 加藤楸邨と大岡信の唱和(その二)

ペン擱けば猫の子の手が出てあそぶ 楸邨
   親はふたたび恋猫の修羅     信

掲出の二句は、「楸邨句交響十二章」の二番目のものである。大岡信氏はわざわざ「交響」という造語を使っているが、要は加藤楸邨氏の俳句(『怒濤』の中の句)を「長句」(五・七・五)として、それに、「短句」(七・七)を付けた、「付合」・「唱和」といわれるものであろう。この両氏のこの種のものは、いろいろな形で紹介され、公表されており、それらの筆で書かれたものも目にすることができる(大岡信著『ことのは草』の口絵の写真など)。
どうやら、この種のものの最初は、「和唱達谷先生五句」という「寒雷」(三百五十号)に寄稿したものが、その先例のようである。これらのことについては、氏の『しのび草』の「楸邨先生 一面」という章に記されている。それによると、「楸邨句をいわばわが創作に利用するという形で楸邨句への敬愛を語ろうとしたものだった。詩は五つの句に合わせた五篇。各五行という短いもので、その中に一行は楸邨の句が入っている」とのことである。そして、「ほんとうは『唱和』とすべきところだが、語呂が気に入らず『和唱』とした」と、どうやら、氏は「唱和」という言葉は好みではないようなのである。そして、その「和唱」も「交響」という言葉に置き換えられており、氏のイメージには「交響詩」(シンフォニック・ポエム)というようなイメージで、これらのものを創作しているともとれるのである。加藤楸邨・大岡信両氏とも、その共通の知己の詩人・連句人の安東次男(流火)氏らとの連句作品が残されており、両氏とも実作的にも連句に造詣が深いことは夙に知られているところだが、掲出の付合は、連句の付合からすると、長句の「猫」と短句の「猫」と同一言葉の使用など、まず、連句の「付合」という意識は持たずに、文字とおり、それぞれのイメージを「交響」(相互交流)しあうというようなことで、ことさらに、これらのものをメインに取り上げることそれ自体が、両氏にとっては予想外のことといえるものであろう。しかし、この掲出の二句の、大岡信氏の「親は再び恋猫の修羅」という短句それ自体一つ取ってみると、連句の「恋の句」として、例えば、江戸時代の「高点付句集」の一つの『武玉川』の一句と並列しても何ら遜色がなく、その中に溶け込みそうな句であるということが、どうにも不思議なのである。


 加藤楸邨と大岡信の唱和(その三)

○ 霧にひらいてもののはじめの穴ひとつ      楸邨
   三千世界森閑(しんかん)と鳴る       信
○ のんのんと馬が魔羅振る霧の中         楸邨
   差す手引く手も魔羅もまぼろし        信
○ みちのくの月夜の鰻あそびをり         楸邨
   藝名を問へば拾得(じつとく)といふ     信
○ 蜜柑吸ふ目の恍惚をともにせり         楸邨
   かくのごときかかの世の桃も         信  

これらのものは『しのび草 わが師 わが友』(大岡信著)の「楸邨先生 一面」の中からの抜粋である。楸邨氏の晩年の句集にあたる『吹越(ふつこし)』・『怒濤』の中からの句を選んで、「楸邨句に私(信氏)が七七の付句をつけるのである。付合はその一句だけで打ちどめの、最短連句である。私はその付句を持って達谷山房に出かける。そして先生とともに、お互いの付合を一枚の紙に書き合うのである」との記載が見られる。また、信氏はこれを「達谷山房でのお習字」の時間とも称している。これらのことから、信氏は、これらのものを「付合」といい、「最短連句」といい、そして、即興というよりも、あらかじめ用意しての「孕句(はらみく)」の短句で、信氏自身は「お習字」の時間といっているけれども、これらのものは、後に、他の人が見ても十分に鑑賞に耐え得るものという意識があってのものということも推測できるのである。そして、これらの時間が、全くの二人だけの時間だけではなく、石寒太氏らの楸邨門人も傍らに居ての時間というのであるから、まさに、連句や句会と同じような一種独特の「座」の中でなされたものと理解しても差し支えないように思えるのである。さて、上記の掲出句の付合を見ながら、楸邨氏の句には、「老いのエロス」のようなものと、信氏の句には、いわゆる、連句ではともすると敬遠されるところの前句に「付き過ぎる」ところの付句を提示しているということである。そして何よりも、俳人・楸邨氏の句には「季語」がまとわり付いているのであるが、詩人・信氏の句には、全く、その「季語」を無視して、丁度、信氏の代表的な業績の一つとして取り上げられている「折々のうた」のように、楸邨氏の句に一つの鑑賞文を提示しているように思えるのである。すなわち、信氏にとっては、これらの付合は、これまでの長い取り組みであった「折々のうた」や、後に、展開される「連詩」というジャンルと密接不可分のものという思いがするのである。そして、こういう「唱和」・「和唱」ということが、詩歌の原点であるということを、信氏がアッピールしているように思えてならないのである。


 加藤楸邨と大岡信の唱和(その四)

  暗に湧き木の芽に終る怒濤光
  鳥は季節風の腕木を踏み渡り
  ものいはぬ瞳は海をくぐつて近づく
  それは水晶の腰を緊(し)めにゆく一片の詩
  人の思ひに湧いて光の爆発に終る青

 これらは大岡信氏の詩集『悲歌と祝禱(しゆくとう)』の中に収載されている「和唱達谷先生五句」の中の一つとのことである(大岡信著『ことのは草』)。この『ことのは草』の「響き合わせた句と句」という章で、信氏のこれらの創作意図ということを垣間見ることができる。それによると掲出の詩は、「第一行目が楸邨の句である。私(信氏)は楸邨作品に対する批評的解釈とも、唱和とも、楸邨句自体のありうべき展開を考えるとも言いうるような私自身の詩を、句をそっくり頂きながら産み出そうとしたのである」。「楸邨氏の句は、どちらかと言えば他者の唱和を気軽に誘ってくるような句ではない。むしろ反対で、孤心の強い、その意味でまさしく現代俳句の代表的なるもの、といった性質の句である」。「何人かが集まって共同で作る連句や連詩は、ややもすると互いに馴れ合って遊び半分にやる中途半端な文芸、と見なされる傾向がある。しかし実情はまったく違う。参加者一人ひとりの最も個性的な部分こそ、互いに互いを刺激し、映発し合うために欠かすことのできない結節点なのである」。「馴れ合いで作った句に真剣に応じることはできない。だから、この種の『座』の文学では、互いが互いをよく知り、親密であることが必要であると同時に、一見それとは逆に思えるほどに、互いが互いに未知であることを鮮烈に示し合う付け合いが、不可欠の要件となる」。これらのことから、信氏の言わんとする「唱和・和唱・交響」という言葉の意味が伝わってくる。それと同時に、これらに対する信氏の基本的な姿勢の、「批評的解釈」・「句自体のありうべき展開」・「私自身の詩を、句をそっくり頂きながら産み出す」ということが浮き彫りになってくる。そして、信氏の「連句・連詩観」の、「共同制作という作業の協調」とともに、「相手の新しい側面をつきつけられて、狼狽しながら新鮮な驚きと珍しさをもって唱和してゆく。そこに連詩や連句の最も大事な花の部分がある」とが明瞭となってくる。そして、これらの信氏の基本的な姿勢、そして、その「連句・連詩観」の背景には、あの限られたスペースで、その折々の「日本の詩歌」に対する「批評的解釈」・「その展開」・「自分の詩を産み出す」という、継続した、長い取り組みがあっての、すなわち、朝日新聞の一面の片隅にコラムのように掲載された「折々のうた」が、その原点にあるということを、重ねて強調しておきたいのである。


加藤楸邨と大岡信の唱和(その五)

牡丹の奥に怒涛怒濤の奥に牡丹        楸邨
閻魔の哄笑(わら)ふ時は来向(きむ)かふ  信

 こらの句(付合)は、「楸邨句交響十二章」(「現代詩手帖」一九八七・一月号)の中のものである。この楸邨氏の句については、この「楸邨句交響十二章」を紹介していただいたメールに、「楸邨旧作二句を引く。『隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな』・『火の奥に牡丹崩るるさまを見つ』、前者は東京大空襲の夜、二人の子を求めて妻知世子と共に火中を彷徨した時の作。ともに楸邨代表作なること言ふをまたず」との添え書きがなされていた。この「隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな」の句は、昭和十八年刊行の『雪後の天』の一句で、 同時作の「さえざえと雪後の天の怒濤かな」とともに後鳥羽上皇の流刑の土地である隠岐での作として夙に知られているものである。そして、楸邨氏が当時の俳句の一つの目指す方向と考えていた「実ありて悲しびそふる」(芭蕉の「許六離別の詞」に出てくる後鳥羽上皇の口伝)ものの句として、晩年までこれらの句に愛着を持っていたことは容易に想像のできるところのものである。そして、もう一句の「火の奥に牡丹崩るるさま見つ」は昭和二十三年刊行の『火の記憶』所収の中のものである。この句については「五月二十三日、夜大編隊侵入、母を金沢に疎開せしめ、上州に楚秋と訣れ、帰宅せし直後なり、わが家罹災」との前書きがある。これまた、楸邨氏の戦争中の忘れ得ざる一句として、晩年の楸邨の胸中にあったこともまた想像に難くない。この『火の記憶』と同時に刊行された『野哭』の句集こそ、楸邨氏が愛着して止まなかったものであろう。そして、「死ねば野分生きてゐしかば争えり」と、当時、中村草田男氏らからは「戦争協力者」として批判され、楸邨氏にとっては、忘れようとしても忘れることのできない、様々な思いが晩年まで去来していたことは、これまた想像に難くない。そして、昭和六十年の楸邨氏の八十歳のときに刊行した句集『怒濤』の中に、上記の付合の楸邨氏の字余りの破調の句が収載されているのである。それに対しての、信氏の「閻魔の哄笑(わら)ふ時は来向(きむ)かふ」とは、楸邨氏の、喜びや悲しみの様々な「来し方」を振り返りながら、晩年の楸邨氏の悠揚迫らざる大人の風姿に接しての、諧謔的な畏敬の念を込めての付句と理解できるものであろう。
それは、「時は来向かう」という措辞に、万葉集の「春過ぎて 夏来向かへば あしひきの
山呼び響(とよ)め さ夜中に 鳴く雷公鳥(ほととぎす) 初声を 聞けばなつかし 菖蒲(あやめぐさ) 花橘を 貫(ぬ)き交へ かづらくまでに 里響(とよ)め 鳴き渡れども なほし偲はゆ」(『巻第十九』の長歌、この巻には大友家持のものが多い)の、その響きが、「閻魔は哄笑ふ」という諧謔的なものを、日本古来の大和言葉で締め括って、その落差を楽しんでているように思えるのである。この付合が、この「楸邨句交響十二章」のうちでは筆頭にあげられるものであろうか・・・、そんな風に信氏は感じているのではなかろうか。

加藤楸邨と大岡信の唱和(その六)

○ 海鼠食ひし顔にてひとり初わらひ   楸邨
   赦すべかりし朋ひとり持つ     信 
○ ペン擱けば猫の子の手が出てあそぶ  楸邨
   親はふたたび恋猫の修羅      信
○ 春の蟻つやつやと貌拭くさます    楸邨
   朱唇うつさむ鏡もてこよ      信
○ 葱の香は直進し蘭の香はつつむ    楸邨
   自明ならざるものに人の香     信
○ だまされてをればたのしき木瓜の花  楸邨
   藝術なんてものもありけり     信
○ 蟇の声にて鳴いてみぬ妻の留守    楸邨
   啄木ならば牛の啼き声       信   
○ 暮れそめていつか蛾の向きかはりをり 楸邨
   風の小径と遊びゐるらん      信
○ 花吹雪やんで口あく顔のこる     楸邨
   ゆめ語るまじ今見し夢は      信
○ 四五本の枯蘆なれど隅田川      楸邨
   武蔵野になしむらさき草は     信     
○ くさめしてそのままに世を誹るなり  楸邨
   われも昔は在五中将        信
○ 牡丹の奥に怒涛怒濤の奥に牡丹    楸邨
   閻魔の哄笑ふ時は来向かふ     信
○ 両断す南瓜の臍を二度撫でて     楸邨
   衆生濟度のこれぞ眼目       信

「楸邨句交響十二章」(「現代詩手帖」一九八七・一月号)に収載されている両者の付合は上記のとおりのことである。これらのいくつかについては既に見てきたが、改めて、これらの「交響十二章」を見てみて、大岡信氏の著の『うたげと孤心』の、その「うたげ」ということを痛感したのである。この「うたげ」とは、密室の孤心から生み出されるところの現代詩(大岡信氏の本技)とは最も距離の離れている饗宴的な共同的・通時的な共同体の「座」から生み出されことを意味し、そして、この「うたげ」こそ日本詩歌(和歌・和謡・連歌・俳諧など)を支えてきたものなのだという大岡氏の主張を痛感したのである。
すなわち、これらの十二章は、詩人・大岡信氏が敬愛する俳人・加藤楸邨の晩年の句集『吹越』の中の作品について、自分の感性に引っ掛かったものを探り当て、それに対して、「孤心」ではなく「うたげ」の心を持って「和唱」した「うたげ」の産物なのである。そして、その「うたげ」の産物が、楸邨氏の単独の創作作品(俳句)とは別に、信氏の付句と合わさって、一つの独立した大岡信氏の創作的作品として位置付けをしたいというのが信氏の狙いのように思われるのである。再度繰り返すこととなるが、これらの作品は、加藤楸邨氏の俳句とは別次元の大岡信氏の創作的作品(唱和・和唱・交響的作品)と理解すべきであって、楸邨氏の世界を如何に異次元な信氏の世界へと転換できるかどうかに焦点を合わせたものであり、その観点に立って鑑賞されるべきものということなのである。しかし、こういう大岡信氏の狙いが、現代の詩人・連句人・俳人などに何処まで理解され得るかどうかは甚だ未知数のように思われのである。


加藤楸邨と大岡信の唱和(その七)

○ 雲の峯かぞへ終りて機嫌よし      楸邨
   安房か上総か峯の根方は       信
○ 沢蟹があるく夕日の瓶の中       楸邨
   少年になりきつひ昨日まで      信
○ 葱坊主わが庭に隅ありにけり      楸邨
   蟻地獄また塀うちに住む       信
○ 風鈴とたそがれてゐしひとりかな    楸邨
   仄明るきはふるさとの河

 大岡信氏の「楸邨句交響十二章」などの取り組みは、これで終わりではなく、さらに、平成二年十月の楸邨氏の八十五歳のときの「寒雷」五十周年記念号にも、「楸邨『忘帰抄』二十句交響」という作品もあるとのことである(「俳句研究」一九九三・十・加藤楸邨追悼特集)。これらのことについて楸邨門下の一人である八木荘一氏が「楸邨の挙句」という寄稿文を寄せている。掲出の五句の付合は、その二十句交響のうちの五句交響ということである。先に、これらの「交響」という付合の前提となる「和唱達谷先生五句」について触れたが(その五)、その楸邨氏の句を冒頭に入れての大岡信氏の詩のフレーズは誠に難解極まりないとのメールを頂戴した。それに比して、掲出の信氏の短句(七七句)は何と取り組み易いことか。この相違は何処から来るのであろうか。そのヒントは、これも前に触れたが(その六)、信氏の著の『孤心とうたげ』の中にあるような予感がするのである。すなわち、「和唱達谷先生五句」に見られる大岡信氏の「詩」は、信氏の「孤心」の表白であって、それは「楸邨句」には「和唱」しているかもしれないが、ひたすら「孤心」に徹して、「誰のものでもない自己の心に交響する言葉の探求」であって、より多く「自己の心との和唱」であったのだ。そして、それに比して、掲出のものに見られる「交響」という付合は、これは紛れもなく「うたげ」の所産であって、「単に楸邨句に和唱しているのみならず、さらに、信氏の句も楸邨氏と楸邨氏以外の第三者に和唱を求めている」という、「自己の心と他者との心の交響する言葉の探求」であり、「自己の心と他者の心との和唱」といえるものなのであろう。そして、ここで大事なことは、「俳句をつくることから逃げて、連句を巻くのではいけない」(八木・前掲書の加藤楸邨氏の言葉)ということ、すなわち、「孤心から逃げるのみで、『うたげ』だけに興じていてはならない」ということではなかろうか。そして、この「孤心」と「うたげ」が渾然一体となったとき、それは「自由無碍」の詩の世界なのかもしれない。


加藤楸邨と大岡信の唱和(その八)

○ 蟇の声にて鳴いてみぬ妻の留守    楸邨
   啄木ならば牛の啼き声       信
  不肖砧井は鶴の一声         光

 加藤楸邨氏の「蟇の声にて鳴いてみぬ妻の留守」という俳句(五七五の長句)に、大岡信氏は「啄木ならば牛の声」という付句(七七の短句)で応じた。これに対して、「これなどは楸邨に寄り添って、信が戯れてみた構図。私も戯れてみたい。砧井は幼少の頃は寡黙で、喋れば『鶴の一声』と言われた。楸邨は墓の中で、砧井付句に苦笑しているのであろうか、それとも、怒り狂っているのであろうか」という添書きのもとに、楸邨・信氏の付合に、光氏の付句が「不肖砧井は鶴の一声」というものであった。この三者の三句の共通のバッググランドは、石川啄木の『一握の砂』の啄木の短歌の、「ある日ふと/やまひを忘れ/牛の啼く/真似をしてみぬ/妻の留守」が見え隠れしていて、それがキィワードとなってこよう。楸邨氏のこの句に接したときに、信氏は啄木の掲出の短歌を思い浮かべたのであろう。「楸邨さんが蝦蟇の声」なら、「啄木さんは牛の声」でしたね・・・、と、そして、光氏は、その付合(唱和・和唱・交響)に触れて、自分の幼少の頃を思いだして、「そうそう、私も『鶴の一声』などと揶揄されたこともありましたよ」と応じたのである。これが信氏の『孤心とうたげ』の著の「うたげ」につながる日本の詩歌(和歌・歌謡・連歌・俳諧など)の中核にあって、そして、それは「贈答と機知と奇想」とに満ち満ちていたものであったのだ。光氏は、楸邨氏の句を冒頭にいれての信氏の西洋的な詩の範疇に入ると思われる「和唱達谷先生五句」(「その四」で触れたもの)に対して難解極まりのないものと痛烈な批判をした。そして、「楸邨句交響十二章」(「現代詩手帖」一九八七・一月号)(「その六」で触れたもの)の、その一つの付合(交響)に対して、「私も戯れてみたい」との衝動にかられたのである。こういう「戯れ」こそ、日本の詩歌の伝統的なものであって、こういう「戯れ」を何時しか、西洋的な「孤心」一点張りの風潮の中にあって、日本の詩歌に携わる者の一人ひとりが何処かに置き忘れてしまったのではなかろうか。そして、楸邨・信の両氏も、これらののことを通して、こういう「交響・和唱・唱和」を歓迎することはあっても、決して、「怒り狂う」ことはなかろうことは、容易に想像することができるものであろう。


加藤楸邨と大岡信の唱和(その九)

  遊びせんとや生(う)まれけむ
  戯(たはぶ)れせんとや生(む)まれけん
  遊ぶ子供の声聞けば
  我が身さへこそ動(ゆる)がるれ  『梁塵秘抄(三五九)』

 平安末期の『梁塵秘抄』の代表的な歌謡である。大岡信著の『うたげと孤心』の「帝王と遊君」の章で紹介されている。この歌謡について、「遊女の身をゆるがす悔恨を謡った」(小西甚一説)と「童子の遊びのたわむれを聞いての心の躍動感を謡った」(志田延義説)との二説が紹介されている。それよりもなによりも、この歌謡集を編んだ後白河院について、大岡信氏は「院がわざわざ『梁塵秘抄』を編み、あまつさえ口伝集を残したということの意味を考えてみたい。『うたげ』の演出者が、同時に最も深い、それゆえに創造的な自覚に深く根ざした『孤心』の持主だった」という指摘は鋭い。そして、「狂言綺語と信仰」の章において、『「折に合ひてめでたき」ものに出会うことの歓びをも院は知っていたのである。折に合ったものに出会う歓びとは、つまり眼に見えるもの、眼に見えないものとの自分との間が、なんらかの絆によって結ばれるのを感じる歓びにほかならない。そして、そういうことに歓びを感じる人間とは、日ごろ孤独と寂寥の中にいる己を自覚している人間にほかなるまい。『うたげ』の歓びを最もよく知るものは、「孤心」の自覚的保持者にほかならぬ」という主張こそ、大岡信氏がこの『うたげと孤心』の著で主張したかったことの最もポイントとなるものであろう。そして、これまで見てきた、加藤楸邨氏の晩年の俳句に、大岡信氏が「折に合ひてめでたき」ものに出会ったことの歓びと、それが故の、「孤心」的な試行の「和唱達谷先生五句」、さらに、「うたげ」的な試行の「楸邨句交響十二章」・「楸邨『忘帰抄』二十句交響」の試行は、単なる偶発的なものではなく、氏にとっては、『うたげと孤心』の著の「日本の詩歌」のルーツを探る旅路での結果としての、必然的な一つの試行といってもよいものなのであろう。そして、それを「遊び」といっても「戯れ」といっても、大岡信氏の言葉を借りるならば、「『孤心』の自覚的保持者」としての「遊び」であり「戯れ」であるということは、やはり、付記しておく必要があるであろう。

加藤楸邨と大岡信の唱和(その十)

青き踏む            
 
さまざまなことまなうらに青き踏む   a ○
  地に低く飛ぶ蜆蝶々         b
  幼子の綾取りの橋花舞って       c 
  ジャブジャブジャブと母残し去る   d

  はたた神いっそ攫ってくれないか    b ○ 
  時鳥行き深夜便聞く         d
  万葉の恋歌ばかり一人酒        c  
  パソコンにまで愛想つかされ      a 

  気が付けば裏山を染め初紅葉      b 
  月の砂漠を唄う髭面          c ○ 
  新走り皆立ちながら廻し飲み     a   

  こんなところにだるまストーブ    b 
  雪舞いて三角帽子目尻下げ       d 
  パイプオルガン堂内に満つ       c  

 この掲出のソネット形式(四・四・三・三)の詩のごときものは、四吟(a・b・c・d)の、「付勝ち」(○印)と「順付け」とを併用した連句の一形態(ソネット俳諧)を変形して巻かれたものである。この基礎となっている「ソネット俳諧」(十四句・一花一月)は、俳誌 「杏花村」で珍田弥一郎氏が公表されたとのことである(『連句辞典』)。掲出のものは、「春・夏・秋・冬」の流れで、さらに、山本健吉氏の「季語ピラミッド」説ともいうべき、「五箇の景物」・「和歌の題」・「連歌の季題」・「俳諧の季題」・「季題」・「季語」の、その頂点をなす「五箇の景物」(花・時鳥・月・紅葉・雪)(『最新俳句歳時記』)を、織り交ぜ、その上に、恋の句(二句)までも設定している。そして、これは、一同に会して巻かれたものではなく、パソコンのメールによって巻かれたものなのである。さらに、このメンバーの中には、中途で視力を失って音声でパソコンを縦横無尽に駆使している方もおられる。そんなこともあり、掲出の作品には旧仮名遣いは使用していない。また、パソコンのメールの世界は横書きが普通で、従って横書き表記となっている。縦書き表示などを当然のこととしている、連句人・詩人、そして、俳人・柳人にとっては、いささか面食らうこともあるのではなかろうか。しかし、ここには、大岡信氏の『うたげと孤心』の、その「折に合ひてめでたき」ものとの出会いと、全く未知の者同士の、全く無機質のパソコンの操作を通しての、丁度「うたげと孤心」との、これまで見てきた、「加藤楸邨と大岡信の唱和」に見られるような、そのような試行と、その試行を通しての、悠久の日本詩歌の伝統を踏まえながら、その時代に即応した「新しいもの」を生み出そうとする、その息吹のようなものを、感じとることはできないであろうか。すなわち、好むと好まざるとにかかわらず、地球的な規模で、パソコンを通しての情報ネットワークが蜘蛛の巣のように張り巡らされた今日において、大岡信氏が主張して止まない「うたげと孤心」とを踏まえながら、「折に合ひてめでたき」ものとの出会いと歓びとを、こういう試行の中に見出せないものであろうかという思いなのである。今日では、翻訳ソフトが、これまた驚くべきほどのスピードで整備されつつあり、今回の「加藤楸邨と大岡信の唱和」の冒頭(その一)で触れた、フロリダ在住のロビン・ギル氏の、日本の俳句の海鼠の句を一千句も集録して、それぞれに翻訳した労作などを見ながら、さらには、大岡信氏が現在試行されている一つの異国人との「連詩」の創作などとに思いを馳せながら、そんな思いにとらわれているのである。何はともあれ、加藤楸邨氏と大岡信氏とが試みた今回の「唱和・和唱・交響」という実践から多くの示唆を受けたということをまとめとしておきたい。

日曜日, 7月 02, 2006

宮沢賢治の俳句



宮沢賢治の俳句(その一)

○ 秋田より菊の隠密はい(ひ)り候

石寒太著の『宮沢賢治の俳句』(「PHP研究所」刊)は、この種のものでは最も本格的な最も基本的な著書と位置づけて差し支えなかろう。この句の鑑賞で、著者は、句意として「秋田から、はるばるやってきた菊の隠密が、いま入国つかまつりましたぞ、と、いう意。『はいり』は『はひり』の誤記である」とし、「『菊』と『隠密』の取り合わせは、意外性があって面白い。詩人でなければできない句で、俳人の範囲からみると”遊び過ぎ”ととられても仕方がない」との評をしている(同著「賢治俳句の鑑賞」)。この賢治の句とその評を見ながら、藤沢周平の次の一節が脳裏をかすめた。
「賢治について、私が懐くもっとも手近なイメージは夢想家である。しかしそれはローレンス・ブロックの表現をかりれば”力ずくで伝えたいメッセージ”というわけではない。むしろ、遅疑逡巡しながらのひとりごとである。(中略) 夢想家でなければ、北上川の岸辺をイギリス海岸と名づけ、岩手をイーハトブと呼び、自分たちの農業研究会を羅須地人協会と命名することがあるだろうか。そして夢想家とは少年の別名ではなかろうか」(『ふるさとへ廻る六部は』所収「岩手夢幻紀行」)。
 この賢治の菊の句の背景は、「昭和八年十月、賢治が参与会員であった『秋香会』という菊づくりの会より出品された一本一本の菊の鉢に、これらの俳句をつけて贈ろうという意図にもとづき、企画された、賢治の、菊の挨拶句である」(石・前掲書所収「賢治の俳句の世界」)とのことである。ここで、俳諧・俳句の三要素として、「挨拶・滑稽・即興」とした山本健吉の観点(『純粋俳句』)からすれば、先の「俳人の範囲からみると”遊び過ぎ”」ととらえないで、夢想家・賢治ならでは奇警・奇抜の句として、丁度、大文豪・夏目漱石の俳句に匹敵する大詩人・宮沢賢治の代表作として大いに喧伝したい衝動にかられるのである。

宮沢賢治の俳句(その二)

○ 魚灯(ぎょとう)して霜夜の菊をめぐりけり
○ 斑猫(はんみょう)は二席の菊に眠りけり
○ 緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす旅の菊
○ 水霜(みずしも)もたもちて菊の重さかな
○ 大管(たいかん)の一日ゆたかに旋(めぐり)けり

宮沢賢治の菊に関する連作句は全部で十六句ある(『校本 宮沢賢治全集』)。この菊の連作句ができた経過を見ると大変に面白い。要約すると次のようなことがその背景となっている。「宮沢賢治は石川啄木以上に名の高い人になるだろうと、そのような世評を聞いて、賢治が審査員となっていた『菊花品評会』の副賞の一つに、賢治に俳句を作らせ、それを短冊に揮毫して貰って、受賞者に贈呈しようとしたこと。賢治は『俳句は専門外で、まして、短冊に筆で書くことはできない』旨固辞したが、賢治の母親がたまたまその時におられて、『短冊まで持ってきて依頼されているのだから、お受けしたら』ということで、
その『菊花品評会』の関係者の依頼を引き受けたという。そして、当時は、賢治の晩年の頃で、身体の調子も悪く、寝たり起きたりの状態であったのだが、賢治は一生懸命に、俳句らしきものを、新聞紙に筆で揮毫の練習をしていたとのこと。それらの、短冊形の障子紙に書かれていたものが、これらの菊の十六句のようなのである」(石・前掲書)。いかにも、賢治と賢治を取り巻く人々らしいと、それらの背景を知ると、とたん、これらの賢治の菊の句が親しいものとなってくる。しかし、掲出の句の、「魚灯・斑猫・緑礬・狼星・水霜・
大管」の、この用語は、およそ、俳句の世界というよりも、賢治曼荼羅の、賢治の詩の世界のものといえよう。「魚灯」(脂肪分の多い魚からとった油を用いてのランブ)、「斑猫」(まだらの模様の猫)、「緑礬」(酸化二次鉱物とか)、「狼星」(星のシリウス)、「水霜」(賢治の好きな気象用語)、「大管」(「太管」のことで和菊の管物の名とか)と、こういう句を、副賞として、賢治自筆の短冊が今に残っていたら、どんなに面白いことか。とにもかくにも、賢治の俳句というものは、これらの句の背景となっているようなことが、その背後にあって、いわゆる、俳句として、これを鑑賞しようとすること自体が、はなはだ、賢治にとっては、予想だにしていなかったということだけは間違いない。

宮沢賢治の俳句(その三)

○ 岩と松峠の上はみぞれそら
○ 五輪塔のかなたは大野みぞれせり
○ つゝじこなら温石石のみぞれかな

『宮沢賢治』(石寒太著)によれば、賢治の俳句は次の三つに分類することができる。一番目は大正十三・四年頃のものと、昭和八年に三十八歳で他界するまでの二年間前後の頃のもので、先に見てきた菊の連作作品以外の一般作品。二番目はいわゆる菊の連作作品。そして、三番目がいわゆる連句の付句のような作品である。そして、この掲出の三句は一番目の、全部で十五句ある一般作品に該当し、大正十三年の賢治が二十八歳頃の作品で、俳句作品としては一番初期の頃のものである。というのは、口語詩「五輪峠」が誕生したのが、その年で、その詩稿の余白にメモ(習作)のように、この掲出の三句が記されているとのことである(石・前掲書)。その詩「五輪峠」(『春と修羅(第二集)』作品十六番)の、掲出句に関係するところを抜粋すると次のとおりである。

○ 向ふは岩と松との高み
  その左にはがらんと暗いみぞれのそらがひらいてゐる
○ あゝこゝは
  五輪の塔があるために
  五輪峠といふんだな
  ぼくはまた
  峠がみんなで五つあつて
  地輪峠水輪峠空輪峠といふのだろうと
  たつたいままで思つてゐた
○ いま前に展く暗いものは
  まさしく北上の平野である
  薄墨いろの雲につらなり
  酵母の雲に朧ろにされて
  海と湛える藍と銀との平野である
○ つつじやこならの潅木も
  まっくろな温石いしも
  みんないっしょにまだらになる
 
 この「五輪峠」は賢治の母郷のような遠野市・江刺市にまたがる「種山ヶ原」の峠で、賢治の「風の又三郎」の由来にも関係する賢治の心の奥深く根ざしている象徴的な原風景なのである。と解してくると、掲出の句のイメージが鮮明となってくる。「岩も松も、そして、(五輪)峠の上の空もどんよりとした霙空である。その五輪峠の五輪の塔(卒塔婆)の彼方の北上平野も霙が降っている。そして、躑躅(つつじ)や小楢、温石石(暖をとるために使われる石)すらも全てが霙の中である」というようなイメージなのであるが、口語詩「五輪峠」がスケールの大きい叙事詩的なダイナミックな叙法なのに対して、どうにも、掲出の句に見られる十七音字の世界が窮屈極まりないものと思われてくるのである。これらの掲出の俳句らしきものの三句は、俳句というよりも、叙事詩「五輪峠」の詩稿の覚書き的なメモ(習作)そのものと解した方がよさそうである。

宮沢賢治の俳句(その四)

○ 岩と松峠の上はみぞれそら
○ 五輪塔のかなたは大野みぞれせり
○ つゝじこなら温石石のみぞれかな
○ おもむろに屠者は呪したり雪の風
○ 鮫の黒肉(み)わびしく凍るひなかすぎ
○ 霜光のかげら(ろ)ふ走る月の沢
○ 西東ゆげ這ふ菊の根元かな
○ 鳥屋根を歩く音して明けにけり
● 風の湖乗り切れば落角(おとしづの)の浜
● 鳥の眼にあやしきものや落し角
△ 自炊子の烈火にかけし目刺かな(石原鬼灯の句)
● 目刺焼く宿りや雨の花冷に
● 鷹(原文は異体字)呼ぶやはるかに秋の涛猛り
● 蟇ひたすら月に迫りけり(村上鬼城の「蟇一驀月に迫りけり」の本句取りの句)
● ごみごみと降る雪ぞらの暖さ

上記の十五句が『校本 宮沢賢治全集(第六巻)』所収の賢治の一般作品句の全てで、そのうち、△印のものは「国民新聞」(明治四十三年四月十六日付け松根東洋城選)に掲載された「雲母」系の俳人の石原鬼灯の句と判明され、賢治の句からは除外されたものという(石・前掲書)。そして、●印は「賢治の作品か否かまだ確定的には決定していない」という(石・前掲書)。また、先に見てきたように、ほぼ賢治の作品とされている○印のものも、賢治の詩稿の余白のメモ(習作)のようなものであって、「賢治にもこの種のものがあるのか」程度の理解で差し支えないのかも知れない。それと同時に、詩人・宮沢賢治は、この△印の句などを毛筆で習字の手習いの素材としていたということであり(石・前掲書)、やはり当時の「国民新聞」の俳句欄などには目を通していて、多いに俳句という世界に関心を持っていたということ知ればこと足りるのかも知れない。さらに、「蟇ひたすら月に迫りけり」は村上鬼城の本句取りの句であって、この種のものとして、従前、賢治の句とされていた「大石の二つに割れて冬ざるゝ」は、村上鬼城の「大石や二つに割れて冬ざるゝ」の一字違いのもので、賢治の本句取りの句というよりも、村上鬼城そのものの作ということで除外されたという(石・前掲書)。これらのことからして、宮沢賢治が、高浜虚子に見出され、境涯俳人として脚光を浴びていた村上鬼城の俳句などに多くの関心を持っていたということを知るだけで十分なのかも知れない。その上で、上記の十五句を見ていくと、詩人・宮沢賢治の好みというものが判然としてくる。「霙・温石石・屠者・鮫・霜光・西東・鳥・落し角・目刺・はい鷹・蟇・雪ぞら」など、賢治の詩の特徴の一つの「心象スケッチ」の詩稿ともいうべきものの原初的なスタイルを、これらのメモ(習作)に見る思いがするのである。

宮沢賢治の俳句(その五)

○緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす首座の菊(十字屋書店・全集)
◎緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす旅の菊(筑摩書房・校本全集)
○斑猫(はんみょう)は二客の菊に眠りけり(十字屋書店・全集)
◎斑猫(はんみょう)は二席の菊に眠りけり(筑摩書房・校本全集)
○魚灯(ぎょとう)してかほる霜夜をめぐりけり(十字屋書店・全集)
◎魚灯(ぎょとう)して霜夜の菊をめぐりけり(筑摩書房・校本全集)
○魚灯(ぎょとう)して小菊の鉢をならべけり(十字屋書店・全集)
◎魚灯(ぎょとう)してあしたの菊を陳べけり(筑摩書房・校本全集)
○徐ろに他国の菊もかほりけり(十字屋書店・全集)
◎夜となりて他国の菊もかほりけり(筑摩書房・校本全集)
○たうたうとかげろふ涵(ひた)す菊屋形(十字屋書店・全集)
◎たうたうとかげろふ涵(ひた)す菊の丈(筑摩書房・校本全集)
□狼星(ろうせい)をうかゞふ菊の夜更かな(両方の全集に収載)
□灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ(同上)
□たそがれてなまめく菊のけはひかな(同上)
□その菊を探りて旅へ罷るなり(同上)
□秋田より菊の隠密はいり候(同上)
□花はみな四方に贈りて菊日和(同上)
□水霜をたもちて菊の重さかな(同上)
△菊株の湯気を漂ふ羽虫かな(筑摩書房・校本全集)
△狼星(ろうせい)をうかゞふ菊のあるじかな(同上)
△大管の一日ゆたかに旋りけり(同上)
●集まればなまめく菊のけはひかな(十字屋書店・全集)
●霜ふらで屋形の菊も明けにけり(同上)
●霜ふらで昴と菊と夜半を経ぬ(同上)
●水霜のかげろふとなる今朝の菊(同上)
●客去りて湯気だつ菊の根もとかな(同上)
●菊を案じ星にみとるる霜夜かな(同上)
●水霜や切口かほる菊ばたけ(同上)

宮沢賢治の俳句のうち第二分類の菊の連作句の全てである。これらの菊の連作句は昭和八年十月の花巻で開かれた菊品評会の副賞として授与するために、賢治が病床の身にありながら、その一年前あたりからノートなどにメモされていたものの全てで、現在、賢治の菊の連作句としているものは、『校本 宮沢賢治全集』(筑摩書房刊・昭和四八~五二)に収載されている十六句(◎・□・△印)である。そして、これらの作品を推敲する過程において、賢治自身が最終的には推敲して最終稿とした句が六句(◎印)、そして最終の推敲の過程において削除したものと思われる句が七句(●印)で、これらは『宮沢賢治全集』(十字屋書店刊・昭和一四~一九)に収載されている。賢治はこれらの菊の連作句のいくつかの句を菊品評会の副賞として、短冊にしたため、それがその時の入賞者に手渡された年(昭和八年)の、その一ヶ月後の九月に永眠する。そういう意味において、これらの菊の連作句は、宮沢賢治の絶句ともいうべきものであろう。そして、これらの菊の連作句の推敲過程をつぶさに見ていくと、凄まじい賢治の創作にかかわる推敲姿勢ということを思い知るのである。

宮沢賢治の俳句(その六)

○ おのおのに弦をはじきて賀やすらん   清
   風の太郎が北となるころ       圭
  一姫ははや客分の餅買ひに       清
   電車が渡る橋も灯れり        圭
  ほんもののセロと電車がおもちやにて  圭 

宮沢賢治の俳句のうち第三分類に入る連句・付句の三組みのうちの一つである。これはいわゆる連句の歌仙(三十六句からなる連句、表・六句、裏・十二句、名残の表・十二句、名残の裏・六句)のうちの表・六句のものと解せられる。この表六句は藤原嘉藤治氏宛書簡(昭和五年十二月一日)に記載されているもので、賢治、三十四歳の作ということになる。この藤原嘉藤治氏は『宮沢賢治全集』(十字屋書店)などで高村光太郎らと一緒に編集委員の一人となっている方である。賢治は大正十年(二十五歳)~昭和元年(三十歳)まで花巻農学校で教鞭をとるが、その頃、隣接して花巻高等女学校で音楽の教鞭をとっておられた方が藤原嘉藤治氏である(賢治の代表作の「永訣の朝」の妹の方もこの学校に奉職していた)。賢治もオルガンやセロを本格的に習っていて、いろいろと藤原嘉藤治氏との交遊関係は密なるものがあったのであろう。この表・六句の作者名の、「清」は賢治の弟の清六氏のそれと解されるが、本人は自分の作ではなく、賢治が「清」と「圭」との両方の名を使っての、いわゆる両吟(二人でする連句)の形での、実質的には賢治の独吟(一人でする連句)であろうということである(石・前掲書)。この六句の冒頭の発句には、「季語・切字」が必須なのであるが、賢治は第一分類の一般的な俳句作品でもそうなのだが、季語は全く無視して作句しているのが特徴である。ただ、この表の六句は、「藤原御曹子満一歳の賀に」という前書きがあり、贈答連句としては、相当に手慣れたものという印象を受ける。二番目の脇句は賢治の童話の傑作「風の又三郎」を連想させ、六句目(折端)はこれまた「セロ弾きのゴーシュ」を連想させる。いずれにしろ、正岡子規の俳句革新以来、連句は片隅に追いやられ、俳句オンリーとなっていた当時において、賢治が連句に興味を持っていて、その連句のうちの代表的な歌仙の、表の六句を、実質独吟のものを、あたかも、二人でする両吟の形で、「藤原御曹司満一歳の賀に」の前書きを付与して、今に残されているということは、実に特筆されるべきことであろう。それだけではなく、作品の内容からして、賢治の「連句・俳句」の作品のなかでも、この表・六句は一番見応えがある作品のように解せられる。


宮沢賢治の俳句(その七)

○ 大根のひくには惜しきしげりかな
    稲上げ馬にあきつ飛びつゝ
 或ハ 痩せ土ながら根も四尺あり     圭

○ 膝ついたそがれダリヤや菊盛り
    雪早池峰(ゆきはやちね)に二度降りて消え
 或ハ 町の方にて楽隊の音

○ 湯あがりの肌や羽山に初紅葉
    滝のこなたに邪魔な堂あり
 或ハ 水禽園の鳥ひとしきり

宮沢賢治の俳句のうち第三分類に入いる連句・付句の三組のうちの二つ目のものである。これらのものについては、佐藤二岳氏宛書簡(昭和三年十月三十日)の中に記載されている。
この佐藤二岳氏は俳人で本名は隆房氏で、これは、いわゆる、文音(手紙などでやりとりする)連句の長句(五七五の句形)と短句(七七の句形)との応答のものと思われる。そして、一番目の短句に「圭」とあるのは、宮沢賢治の号で、このことからすると、これらの長句の作者は佐藤二岳氏で、その二岳氏の長句に、二通りの短句の付句を宮沢賢治がしたためたもののように思える。この長句と短句との付合は、普通は長句の季語に合わせて同じ季の季語を用いるのが普通なのであるが、これまた、宮沢賢治はそういう決まり(式目)には拘泥していない。そして、どの付句(短句)も、前句(長句)の景を的確にとらえていて、どちらかというと疎句(離れ過ぎの句)というよりも親句(付き過ぎの句)的な付け方である。とくに、この掲出の三番目の「滝のこなたに邪魔な堂あり」は、前句の「初紅葉を観賞するのに邪魔な堂あり」と、滑稽味のある面白い付けである。なにはともあれ、「連句非文学論」(正岡子規の主張)の風潮の中にあって、東北の一隅にいて、こういう文音連句に、宮沢賢治が興じていたということは驚きであるとともに、宮沢賢治を取り巻く二・三の俳友・先輩がおられて、詩や童話の創作の傍ら、セロやオルガンにも興を示すとともに、俳句や連句などにも貪欲に取組み、その指導を仰いでいたということが、賢治の短い生涯にあって、一つの光明を投げ掛けているように思われる。

宮沢賢治の俳句(その八)

○  神の丼は流石に涸れぬ旱(ひでり)かな   無価
     垣めぐりくる水引きの笠       賢治
○  広告の風船玉や雲の峰          無価
     凶作沙汰も汗と流るゝ        賢治
○  あせる程負ける将棋や明易き       無価
     浜のトラックひた過ぐる音      賢治
○  橋下りて川原歩くや夏の月        無価
     遁 げたる鹿のいづちあるらん     賢治
○  飲むからに酒旨くなき暑さかな      無価
       予報は外(そ)れし雲のつばくら     賢治
○  忘れずよ二十八日虎が雨         無価
    その張りはなきこの里の湯女      賢治
○  三味線の皮に狂ひや五月雨        無価
     名入りの団扇はや出きて来る     賢治
○  夏まつり男女の浴衣かな        無価
     訓練主事は三の笛吹く       賢治
○  どゞ一 を芸者に書かす団扇かな    無価
     古びし池に河鹿なきつゝ      賢治
○  引き過ぎや遊女が部屋に入る蛍     無価
     繭の高値も焼石に水        賢治

宮沢賢治の俳句の第三分類に入る連句・付句の作品のうちの最も本格的なものである。二句の付合で、俳人の大橋無価氏の長句に宮沢賢治が短句の付句をしたものである。大橋無価氏は賢治の父親とも親交のあった医師で、岩手県医師会長、そして、花巻町長を一期勤めた花巻人物誌に残る傑物である。これらの両者の付合の作品は、「東北砕石工場花巻出張所用箋」に書かれているもので、この東北砕石工場には賢治が三十五歳の時に技師として勤めたところで、その頃(昭和六年)のものなのであろう。賢治のこれらの付句は、無価氏の長句の季語の季に合わせて、同じ季の季語を使ってのものも見受けられるが、総じて、季語には拘らないという姿勢は、これらの付句においてもいえる。しかし、俳人として地方の名士でもあった無価氏の長句に、実に手慣れた付句で、こういう付合の記録が残されているということは、相当、両者の間にはこうしたやりとりがあったのであろうと推測される。それにしても、世故に通じている無価氏の「芸者・遊女」などの句に、どう見ても世故には長けていないと思われる賢治が堂々と渡り合っているのは何とも妙であるし、また、賢治の別な一面を垣間見る思いすらするのである。それは、「侘び・寂び」の俳聖・芭蕉が、こと連句の付合においては、「恋句」の名手であったようなことと軌を一にするものなのかもしれない。


宮沢賢治の俳句(その九)

○ ごたごたや女角力の旅帰り
 稲熟れ初めし日高野のひる

宮沢賢治には十四の手帳が今に残されている。この長句と短句との付合は「兄弟像手帳」に記されており、「車中にて」の前書きが付与してある。何時頃の作か定かではないが、賢治がある時の車中での一時を、このような連句の付合をメモしながら旅をしていたということは興味がそそられるところである。賢治が亡くなったのは昭和八年(一九八三三)のことであるが、昭和十六年の頃(「俳句研究第八巻第八号(昭和十六年八月)東北車中三吟」)の、柳叟(柳田国男)・迢空(折口信夫)・善麿(土岐善麿)の三吟による「赤頭巾の歌仙」と題する歌仙がある。柳田国男は民族学者・俳諧研究家、折口信夫は民族学者・歌人、そして、土岐善麿は歌人として、今なお、三人とも教祖とも崇められている超一流の日本を代表する国文学者としての共通項を有している。この三人による歌仙にも、賢治のこの付合と似たような場面が出てくる。

オ 発句   麦踏むや一人かぶらぬ赤頭巾     善麿
  脇     こだまをかへす山咲(ワラ)ふ也    迢空
  第三   宗任の田打ち桜と見つれども     柳叟
ナオ五    この潟を埋めてしまふ秋風に     善麿
  六     更地を買へば相撲うるさき     迢空

 詩人・宮沢賢治とこれらの超一流の国文学者(柳叟・迢空・善麿)との関係というのはそれほど密なるものがあったということは寡聞にして知らないが、当時の車中などにおいては、
外の景色などを見ながら、こういう歌仙などに興じられるような豊かな時間を持つことができたということは、容易に想像ができるところである。と同時に、当時の車中においては、「稲熟れ初めし」光景や、「麦踏む」光景などを常に目にしていて、更には、「角力・女角力」などの巡業などが大きな娯楽であったということもこれらの付合や歌仙から容易に類推することもできよう。そして、詩人で童話作家として、今にその名を轟かしている宮沢賢治が、このような当時の風物詩をリアルにこのような付合の形で今に残していてくれているということは、大詩人・童話作家の宮沢賢治ではなく、日常の個人としての賢治その人のありのままを見る思いがして、その点で、賢治のこれらの付合や俳句に非常な親近感を覚えるのである。



宮沢賢治の俳句(その十)

○ 灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ    風耿 

この掲出句は宮沢賢治の第二分類の菊の連作句のうちの一句である。この句の賢治の自筆の短冊が『宮沢賢治の俳句』(石寒太著)などで目にすることができる。「菊」といえば秋の代表的な季語であるが、賢治は何時ものことながら、季語には無頓着(無頓着というよりも季語に拘泥することを嫌っているようにもとれる)で、「夏葉の菊」と夏の句として作句している。賢治は短歌からスタートとして、「詩・童話」の世界に入り、数々の独自の世界を築いていった。そして、三十八年という短い生涯の最期にあっても、辞世の次の二首の短歌を残して永別した。

○ 方十里稗貫のみかも/稲熟れてみ祭三日/そらはれわたる
○ 病(いたつき)のゆゑにもくちん/いのちなり/みのりに棄てば/うれしからまし

 この賢治の短歌の世界に比して、賢治の俳句の世界というのは、量・質的に比べようもなく、賢治にとってはほんの手遊びの程度のものであったが、冒頭の掲出句に見られる通りに、俳句の号として「風耿(ふうこう)」を用いており、連句の付合においては先に触れた通りに、「圭」というものを用いていて、決して無関心であったわけではない。そして、賢治の俳句・連句との交友関係として、鎌田一相・河本義行(自由律俳句)・大橋無価・草刈兵衛の各氏などが上げられ(石・前掲書)、これまでの作品でも見てきた通りに、賢治自身、この俳句・連句の世界というものを、一つの詩稿のヒントを得るためのメモとして、あるいは、日常生活の一断面を即興的にこれらの句形に託するという形において、やはり、その生涯において、それに慣れ親しんでいたということはいえそうである。そして、特筆しておきたいことは、単に、俳句だけではなく、連句の付合などに興味を示し、その面での作品が今に残され、それらの作品は数こそ少ないが、賢治の一面を知る上で貴重なものであり、この意味において、これらの賢治の「俳句・連句・付句」の再評価というのは、これからもっとなされて然るべきものと思われるのである。

○ 引き過ぎや遊女が部屋に入る蛍  無価
   繭の高値も焼け石に水     賢治

 無価氏の長句(五七五の句)は「引け過ぎ」(遊女が張り店から引き揚げること)の句。その前句に付けての賢治の短句(七七の句)は「繭の高値も焼け石に水」(繭が高く売れたのにそれも焼け石に水だった)というのである。この句を作句している賢治のことを想うと何故かほのぼのとしてくるのである。

土曜日, 7月 01, 2006

藤沢周平の俳句



藤沢周平の俳句(その一)

○ 蜩や高熱の額暮るゝなり (「梅坂」より)
○ 春蝉やこゝら武蔵野影とゞむ(「のびどめ」より)

平成十六(二〇〇四)年も去ろうとしている。十二月二十九日と三十日に、モンテカルロテレビ祭・ゴールドニンフ賞を受賞したという、藤沢周平原作の「蝉しぐれ」が再放送された。第一部「嵐」、第二部「罠」そして第三部「歳月」と三部構成であった。そのテレビの新聞での紹介に、「藤沢周平原作、黒土三男脚本、佐藤幹夫演出。郡奉行の文四郎(内野聖陽)は、前藩主の側室で初恋の相手のふく(水野真紀)に二十年ぶりに再会した。十五歳の時の文四郎(森脇史登)は、当時十三歳だったふく(伊藤未希)と淡い恋をはぐくんでいた。だが文四郎が十九歳の時、農民のために働いてきた義父の助左右衛門(勝野洋)がぬれぎぬを着せられ切腹。文四郎は義母の登世(竹下景子)と長屋へ転居し、江戸に奉公に出ていたふくは藩主に気に入れられて藩主の子供も身ごもる」とあった。藤沢周平全集(文芸春秋)の第二十五巻に、「句集」として、「『梅坂』より」に五十四句、「『のびどめ』より」に五十句、そして「拾遺」として七句の百十一句が収載されている。その「初出控」によると、「梅坂」寄稿句は、昭和二十八年六月号から昭和三十年八月号、そして「のびどめ」寄稿句は、昭和二十八年十月号から昭和二十九年九月号と、作家・藤沢周平誕生以前の結核療養時代(現・東京都東村山市の篠田病院林間荘)の、これらの俳句創作に打ち込んでいたのは年月にして二年程度のことであった。これらの俳句の多くは、同じ、結核を病み、その病苦をひたすら綴った石田波郷らの、いわゆる「療養俳句」の流れの中に入るものなのであろう。石田波郷の頂点の句集といわれる『惜命』(昭和二十五年刊)、そして、『定稿惜命』(昭和三十二年刊)は、必ずや、藤沢周平こと小菅留治は目にしていたことであろう。その藤沢周平の原点は、この石田波郷の「惜命」ということからスタートとするといって過言ではなかろう。そして、それは、掲出句の「蜩」や「春蝉」のように、人間の定めのような寂寥感を漂わせているものであった。

藤沢周平の俳句(その二)

○ 花合歓や畦を溢るゝ雨後の水(「拾遺」)
○ 花合歓や灌漑溝みな溢れをり(「梅坂」より)

藤沢周平の「蝉しぐれ」の舞台は、架空の藩・梅坂藩である。この梅坂藩の「梅坂」は、周平の闘病生活時代に、俳句創作に打ち込んだ、静岡県の俳誌「梅坂(うなさか)」に由来があるという。この俳誌 「梅坂」は水原秋桜子の高弟の一人である、「馬酔木」同人の百合山羽公が主宰するものであった。百合山羽公は大正十一(一九二二)年に高浜虚子の「ホトトギス」に入門し、昭和四(一九二八)年にその雑詠巻頭にもなり、虚子に見出された俳人の一人であるが、昭和六年の水原秋桜子の「ホトトギス」離脱にともない、秋桜子と行を共にし た俳人で、戦後の昭和二十一年に俳誌 「あやめ」を創刊主宰し、この「あやめ」が、周平が所属した俳誌 「梅坂」の前身である。その俳誌 「海坂」に周平が投句していた花合歓の句が、掲出の下記の句である。それは昭和三十年以前の、作家・藤沢周平以前の、常時肺結核で死と直面するような日々の中の小菅留治その人であった。そして、平成八年の、周平の晩年に到り、戦後間もない昭和二十四年当時に赴任していた生まれ故郷の隣りの町の出羽(山形県鶴岡市)の湯田川中学校に建立を依頼されていた「藤沢周平記念碑」に寄稿した周平の句が、掲出の冒頭のものである。即ち、この掲出の冒頭の句は、いわば、藤沢周平の忘れ形見ともいえる「花合歓」の句であり、それは、まだ、作家・藤沢周平が誕生する以前の、およそ三十年余以上の前の、肺結核で療養していた一療養者の掲出の二番目の花合歓の句に由来のあるものなのであろう。このように見てくると、山本周五郎、そして、司馬遼太郎と並び称せられる名うて時代物の作家・藤沢周平の原点は、まぎれもなく、この療養時代の、この掲出の二番目の花合歓の句にあるのであろう。その藤沢周平の記念碑は次のアドレスで見られる。
http://www.yutagawaonsen.com/fujisawa.html

藤沢周平の俳句(その三)

○ 友もわれも五十路に出羽の稲みのる(「拾遺」)

作家・藤沢周平がこのペンネームでスタートとしたのは、ネットの年譜によると昭和四十年(一九六五)、三十五歳の時であった。その二年前に亡くした奥様の出身地名の「藤沢」からの命名という。そして、藤沢周平が第三十八回直木賞を受賞したのが、昭和四十八年(一九七三)、四十六歳のときであった。この掲出句の「五十路」を迎えた頃は、「オール読物新人賞選考委員」(四十九歳の時)、「直木三十五賞選考委員」(五十八歳の時)と、作家・藤沢周平の絶頂期の頃と解して差し支えなかろう。出羽(山形県)は藤沢周平の生まれ故郷である。
ここで育ち、ここで学び、ここで二年間の教職に立ち、ここで病を得て、東京の病院に入院したのが、昭和二十八年(一九五三)、二十六歳の時であった。この病院の俳句愛好会の俳誌が「のびどめ」であり、そして、この病院にて静岡県の俳誌 「海坂」に投句を始めたのである。さらに、俳句から詩へと、その病院内の詩の会の「波紋」に参加して、それらの詩の創作も、藤沢周平全集(文芸春秋)の第二十五巻に収載されている。

  一枚の枯葉が
  悲しく落ちた夜

  野にも山にも
  雪が降つた
  雪は音もなく地上を白くした   「白夜」の抜粋

 この雪の降る白夜の風景は、周平の生まれ故郷の出羽が脳裏にあることであろう。周平はこの出羽を離れて、東京で業界紙に職を得て、その仕事を何度か替えながら二度と出羽に帰ることはなかった。その出羽への望郷の思いは、その出発点の俳句にも、さらには、詩にも、そして、その名を不動のものにした時代物の小説の分野においても、色濃く宿している。そして、この掲出句は、五十路を迎えて、懐かしき出羽の幼友達とその稲穂の稔れる出羽の大地を目にしたときの感慨の句であろう。藤沢周平の年譜は次のアドレスのものに詳しい。
http://www.asahi-net.or.jp/~wf3r-sg/nsfujisawa3record.html

藤沢周平の俳句(その四)

○ 梅雨寒の旅路はるばる母来ませり  (藤沢周平)
○ 春夕べ襖に手をかけ母来給ふ    (石田波郷)

当時の結核病というのは、最も恐れられていた病気で完全治癒は絶望視されていて、幸いに軽快に赴いても社会復帰はまず叶わないものと一般的に見られていた。こういう宿痾というものを抱えての療養所生活というものは実に暗澹たるものであったろう。こういう療養所が各地に設立され、そこでは盛んに句作が行われ、その「療養俳句のメッカ」とも称せられていたのが、石田波郷が療養していた東京都下の清瀬村国立東京療養所(清瀬療養所)である。ここで、石田波郷は昭和二十四年四月号の「現代俳句」に「屍の眺め」五十句を発表し、そして、これが後に集大成され、昭和二十五年刊の句集『惜命』として結集され、これは療養俳句のバイブルとも称されるものであった。また、その石田波郷が所属していた水原秋桜子主宰の「馬酔木」でもこの療養俳句は盛んであり、藤沢周平が参加した百合山羽公主宰の「海坂」もこの「馬酔木」系の俳誌 であり、単に療養俳句の中心的な俳人としてだけではなく、「馬酔木」系の「鶴」の主宰者として、当時の昭和俳壇の代表的俳人としての石田波郷の名は一世を風靡していたものであった。その石田波郷の随想に「母来り給ふ」というものがあり、その随想の中に記されている句が掲出の二句目の波郷の句である。その他、波郷のこの療養所生活時代の母の句はどれもよく知られた句であり、これらの波郷の療養時代の母の句について、同じ療養生活をおくり、同じ療養俳句に携わり、同じ「馬酔木」系の俳誌に投句していた藤沢周平は、意識・無意識とを問わず、それらが脳裏の片隅にあったであろうことは容易に想像ができるところのものである。藤沢周平は一言も石田波郷については触れてはいないが、この掲出句の一句目の藤沢周平の母の句は、石田波郷の影響下にあったということを素直に語りかけているように思われる。また、そういう観点での藤沢周平俳句の鑑賞というのが、必須のように思われるのである。

藤沢周平の俳句(その五)

○ 水争ふ兄を残して帰りけり(「梅坂」より)
○ 水争ふ声亡父に似て貧農夫(同上)

ネットで芭蕉の「おくのほそ道」関連のものを見ていたら、次のような記事に出合った。
「鶴岡は徳川四天王の一人酒井忠勝を家祖とする、庄内藩十三万八千石の城下町である。母は、作家藤沢周平氏の熱狂的なファンである。『用心棒日月抄』や『三屋清左衛門残日録』に登場する海坂藩が、氏の郷里庄内藩をモデルにしていることを知って以来、鶴岡は母のあこがれの町になった。その鶴岡城跡を歩く。さほど広くもない平城の跡は、鶴岡公園と呼ばれている。お堀にはカルガモの親子が遊び、柳の古木が静かに影を落している。しっとりとして落ち着きのある公園であった。城跡のはずれに記念碑があって、『雪の降る町』が鶴岡で生れたことを知った。触れるとメロディが流れる仕掛けである。『又八郎も歩みし城の風清し』感激の城跡を歩いた母の一句である。因みに又八郎は、『用心棒日月抄』シリーズの主人公で、五十騎町に住んでいた。」そして、象潟のところには、「幕末秋田の有志が決死隊をつくって庄内藩へ斬りこんだ折り、決意のため熊野神社でもとどりを切った、と記された碑が境内に立っていた。いきさつはよく分からないが、世に知られた鳥海山系の水争い以外にも、秋田県と山形県にはどうやら反目の歴史があるらしい。」
こういうネットの記事は楽しい。藤沢周平の作品の背景と一つとなっている鶴岡市も酒田市も芭蕉の「おくのほそ道」と切っても切れない関係のある土地というのを再認識すると共に、それらの農村地帯においては、深刻な「水争い」が絶えなかったという思いを強くしたのである。藤沢周平の「半生の記」には、その療養時代に、家長たる長兄の副業の失敗などによる帰郷のことなどは記されているが、掲出句に見られる「水争い」のことについては記されていない。しかし、「家長たる長兄」のことや、周平の生まれ故郷の庄内藩の農村の「水争い」に思いを馳せるとき、周平の数々の作品の背景のイメージが鮮烈となってくる。藤沢周平の時代物の作品を、芭蕉の「おくのほそ道」の時代とイメージをタブらせて見ていくのも一興である。上記のネット記事のアドレスは次のとおり。
http://www.oka.urban.ne.jp/home/suisho/hito/index.html

藤沢周平の俳句(その六)

○ 閑古啼くこゝは金峰の麓村(「拾遺」)

「私が生まれた山形では、五月は一年の中のもっともかがやかしい季節だった。野と山を覆う青葉若葉の上を日が照りわたり、丘では郭公鳥が鳴いた」(『ふるさとへ廻る六部は』より)。藤沢さんにとって金峰山は母の懐のような存在であっただろう。『海坂藩』には金峰山を思わせる山がしばしば登場する。今回は『三月の鮠』(文春文庫「玄鳥」から)を紹介したい。城下の西を流れる川をさかのぼっていくと丘に突きあたる。その丘は小高い山を背にし、小楢やえごの木、また欅の大樹などの林をぬけてゆくと杉の木立ちに囲まれた社があらわれる。旧暦の三月は今の四月中旬から五月の季節である。『三月の鮠』には五月の金峰山と神社を連想させる箇所がたくさん出てくる。たとえば、『新緑を日に光らせている木木の斜面はかなり急で、傾斜の先は眩しい光が澱む空に消えている。』。『社前の、砂まじりの広場は塵ひとつなく掃き清められていて、杉の巨木に取りかこまれた神域は少し暗く、すがすがしい空気に満たされていた。』など、金峰の登山道や神社が浮かんでくる。この神社の別当は『神室山』の本社から派遣された山伏である。神室山はこの地方の山岳修験の聖地で、この小説の女主人公はこの山へ逃げようとしたが、追手の目をくらますためこの城下近くの山へ身を隠したのである。かつては修験場として栄えたという金峰山のイメージを彷彿させる。他の作品にも多く登場する金峰山は『海坂藩』の重要な舞台となっているのである」。これはネットで紹介されていた藤沢周平の生まれ故郷の金峰山に懐かれて閉村となった旧黄金村(現在の鶴岡市大字高坂字盾の下)と架空の藩の海坂藩に登場してくる金峰山と思われる山のイメージの描写である。そして、この掲出句は、架空の梅坂藩のそれではなく、藤沢周平の終世脳裏に焼き付いていて離れなかった実在した旧黄金村そのもののイメージなのである。藤沢周平はその出発点の療養時代に俳句と取り組み、その後、その俳句の世界と袂を分かったが、折りに触れて、俳句を創作し、その一部が、「拾遺」という形で今に残されているのである。上記のネット記事のアドレスは次のとおり。
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199805.html

藤沢周平の俳句(その七)

○ 春水のほとりにいつまで泣く子かも(「海坂」より)
○ 秋の川芥も石もあらはれて(「のびどめ」より)

藤沢周平の架空の藩・海坂藩の山が周平の生まれ故郷の金峰山をモデルとしているならば、その海坂藩に登場してくる川や橋などもまた周平の脳裏には生まれ故郷の川などがイメージとしてあることであろう。周平の地元の周平を愛する人達がそれらのことについてネットで紹介している。そして、周平の創作上の数々の架空の風物が、周平の生まれ故郷の実在する風物と重ねあわさるとき、たったの十七音字の、たったの二年たかだかの周平の療養時代の俳句が、実に鮮やかに、その架空の風物と実在する風物との橋渡しをしてくれることに、今更ながらのように俳句の持つ一面を思い知るのである。掲出の周平の川の句は、それはそのまま周平の創作上の川の背景となっているものであろう。ここでも、周平のモデルとしている実在の川や橋のネット上の記載やそのアドレスを紹介しておきたい。
「『海坂藩』に必ず登場する風物といえば、川とそれに架かっている橋が挙げられる。城下の真中には「五間川」が流れ、さらに東にも西にも大小の川がある。橋にも千鳥橋とか河鹿橋といった洒落た名前がついている。『五間川』は内川と重なり、主人公が渡っているのは、内川のあの橋だろうか、などと想像するのも楽しみのひとつである。また、町の西側を流れる川は青龍寺川で、例えば『ただ一撃』には主人公の刈谷範兵衛が川原で石を拾ったり、釣りをしたりする川として登場する。青龍寺川は藤沢さんの生家のすぐ前を流れていて、泳いだり、雑魚しめをしたりした想い出深い川である。五間川という一定の名は付けられていないが、『海坂』ものの重要な舞台としてよく登場する。」
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199807.html

藤沢周平の俳句(その八)

○ はまなすや砂丘に漁歌もなく帰る(「のびどめ」より)
○ 冬潮の哭けととどろく夜の宿(「拾遺」)

「『海坂藩』は三方を山に囲まれていて、残りの一方には海がひらけている。その海が近いので、港町から朝とれた新鮮な魚が城下に届く。『三屋清左衛門残日録』に登場する小料理屋・涌井で出される魚の料理がこの小説に彩りを与えていることは周知のことである。例えば『まだ脚を動かしている蟹』は味噌汁で食べ、『クチボソと呼ばれるマガレイ』は焼き、『ハタハタ』は田楽にする。清左衛門が風邪で寝込むと嫁の里江が『カナガシラ』を味噌汁にて食べさせるなどなどである。海坂藩は海の幸にも恵まれた城下として藤沢さんは描いている。」「『龍を見た男』(新潮文庫)には油戸の漁師が出てくる。源四郎という荒くれ者の漁師と、彼の獲った魚を鶴ヶ岡や大山に売りにゆく、働き者で信心深いおりくという女房の話である。甥が海にのまれて死んでしまっているし、源四郎も霧の夜、漆黒の闇の中、港を見失う。浜中の沖にまで流された源四郎を助けたのは善宝寺の龍神だった。このように海は人間に大いなる幸を与える一方で、災いも与えてきたのである。」
 これらも、ネットの世界で紹介されている藤沢周平の時代物の創作に登場する海の風景の背景である。藤沢周平のデビュー作ともいえる葛飾北斎を描いた小説のタイトルは「溟い海」であり、海もまた周平にとっては生まれ故郷の出羽の日本海のイメージであろう。

  異国ではない 古い海辺の町
  のんびりしてゐるやうで敏感な町
  変屈ではあったが
  重い海風が街街の屋根から私を覗いてゐた (「余感」よりの抜粋)

 掲出の海の句もこの詩の延長線上にある。上記のネットのアドレスは次のとおり。
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199811.html

藤沢周平の俳句(その九)

○ 黒南風(くろはえ)の潮ビキニの日より病む

藤沢周平には、六代将軍・家宣に仕えた儒者の新井白石を主人公にした『市塵』や俳人・一茶を主人公にした『一茶』など実在の人物を実に鮮やかに描いたもがある。最後の遺作となった米沢藩の上杉鷹山の財政改革などを主題とした『漆の実のみのる国』などは、司馬遼太郎の晩年の『この国の形』などに匹敵するほどの、現代の日本への遺言のような警鐘ようにも思われる。また、周平が療養時代の前の二年ほど教職にあった頃の教え子達へのその後の書簡などを見ていくと、わが国の農業政策の政治の貧困を指摘するものなどが目につく。そのような、現実の政治・経済・社会に対する周平の視線は鋭い。掲出の句は、昭和二十九年(一九五四)の当時の日本に大きな衝撃を与えたビキニ環礁でアメリカの水爆実験の死の灰を浴びた第五福竜丸の、いわゆる「ビキニの死の灰」をテーマとしたものであろう。時に、藤沢周平こと小菅留治は二十七歳で、東京都下の東村山で療養生活三年目を迎える頃であった。日々、死と直面するような日々にあって、ひたすら、俳句創作に打ち込んでいた頃のものである。この頃は療養所の中の詩の会「波紋」にも参加し、詩の創作などにも打ち込んでいた。

此の雨の中から
私はもつと美しい物語を作つて見たい
忘れ去られるのは使ひはたした玩具だけだど
そして世界の隅隅で
それらの玩具は忘れ去られて良いのだという物語を
――。                   (「街で」よりの抜粋)

それから十年後の昭和四十年(一九六五)、藤沢周平のペンネームで、作家・藤沢周平の数々の「美しい物語」が誕生するのである。

藤沢周平の俳句(その十)

○ 夕雲や桐の花房咲きにほひ (「海坂」より)
○ 桐の花葬りの楽の遠かりけり ( 同上 ) 
○ 桐の花踏み葬列が通るなり  ( 同上 )
○ 葬列に桐の花の香かむさりぬ ( 同上 )
○ 桐の花咲く邑に病みロマ書読む ( 同上 )
○ 桐咲くや掌触るゝのみの病者の愛 (同上)

藤沢周平には桐の花の句が多い。桐の花は夏の季語である。豊臣家の紋だったこともあるのだろうか、どことなく滅びを象徴するような儚い印象のする花である。そして、同時に療養時代の周平を象徴するような花でもある。いや、藤沢周平の六十九年の生涯において、一番似つかわしい花は、合歓の花か、この桐の花として、何時も生と死を直視して創作活動を続けた周平にとって、「桐の一葉」と共に滅びいくものの儚さを象徴するような淡い紫の「桐の花」が似合うように思われる。平成九年(一九九七)九月一日に発見された奥様あての「書き残すこと」は、平成六年前後の亡くなる三年前あたりに書かれたものらしい。
それを見ると、周平はこの療養時代以後、何時も人間の定めのような滅びいくものの儚さというものを凝視続けてきたように思えてならない。
「小説を書くようになってから、私はわがままを言って、身辺のことをすべて和子にやってもらったが、特に昭和六十二年に肝炎をわずらってからは、食事、漢方薬の取り寄せ、煎じ、外出のときの附きそい、病院に行くときの世話、電話の応対、寝具の日干しなどを和子にやってもらった。ただただ感謝するばかりである。そのおかげで、病身にもかかわらず、人のこころに残るような小説も書け、賞ももらい、満ち足りた晩年を送ることができた。思い残すことはない。ありがとう。」
 今回、藤沢周平の俳句周辺のものを見ていく過程で、周平に対する女性ファンの多いのには改めて驚いたのであった。それと同時に、作家・藤沢周平というのは、どことなく、性格俳優の「宇野重吉」似という印象であったのだが、実は、若き日の教職にあった頃の小菅留治という実像は、二枚目俳優の「佐田啓二」似に近いものだったいうことも新しい驚きであった(藤沢周平全集別巻「仰げば尊し(福沢一郎稿)」)。それを裏付けるように、この全集ものの別巻に掲載されている教職・療養時代の写真は、掲出句に見られる陰鬱なイメージとは正反対に、実に爽やかな、丁度、「蝉しぐれ」の主人公の牧文四郎のような颯爽たるイメージなのである。そういう藤沢周平こと、小菅留治の実像らしきものに接したとき、これらの掲出句の鑑賞にあたっても、単に、療養時代の特殊な環境下の創作活動だったと、その境涯性を強調することなく、その底流に流れている、後世に数々の傑作小説を生む原動力のような「激しい詩魂」というものに焦点をあてて鑑賞すべきなのではなかろうかということを最後に付記しておきたい。

芥川龍之介の句



芥川龍之介の句(その一)

○ 古池や河童飛びこむ水の音

答 少なくとも予は欲せざるを能はず。然れども予の邂逅したる日本の一詩人の如きは死後の名声を軽蔑し居たり。
問 君はその詩人の姓名を知れりや?
答 予は不幸にも忘れたり。唯彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
問 その詩は如何?
答 「古池や蛙飛びこむ水の音」
問 君はその詩を佳作なりと倣(な)すや?
答 予は必しも悪作なりと倣さず。唯「蛙」を「河童」とせん乎、更に光彩離陸たるべし。

 上記の問答は、現在の「芥川賞」で偶像化されている小説家・芥川龍之介の小説「河童」の中の問答の一節である。河童国の自殺した詩人・トックをして、龍之介は、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を「古池や河童飛びこむ水の音」にすると、より一層佳句となると言わしめているのである。龍之介には「続芭蕉記」という創作もあり、そこでは、「彼(芭蕉)は実に日本の生んだ三百年前の大山師だった」と、逆接的な大賛辞を呈しているのである。龍之介にとっては、正岡子規も高浜虚子も、更には、龍之介を世に出した恩師ともいうべき夏目漱石すらも、こと、俳句においては眼中になく、たた゜、芭蕉とその門人の凡兆らのみに、多くの関心を示したのであった。蕪村については、潁原退蔵が編纂した『芭蕉全集』に、その「序」を呈しているが、その作品の多くは目にしていなかったし、一茶についても、ほとんど、その作品に目を通しているという形跡は見あたらない。龍之介は生前に、五百六十句ほどの俳句を創作して、そのうちの、七十七句のみを、昭和二年に刊行した『澄江堂句集』に収録したという(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。七十七句と厳選に厳選を施したこと、そして、昭和二年に、その句集を刊行したということは、昭和俳諧史のスタートは、龍之介の俳句をもってスタートしたともいえる。

芥川龍之介の句(その二)

○ 水洟や鼻の先だけ暮れ残る

「この句を辞世の句とみなす論者もある。得意の句でたびたび染筆しているという。七月二十四日の午後一時か二時ごろ、彼は伯母の枕もとへ来て、一枚の短冊を渡して言った。『伯母さんこれをあしたの朝下島さんに渡してください。先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれないが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、そのまままだねているからと言ってわたしてください』これが彼の最後の言葉となった。『下島さん』は主治医下島勲であり、乞食俳人井月を世に紹介した人である。彼はヴェロナールおよびジャールの到死量を仰いで寝たのである。短冊には『自嘲』と前書して、この句が書かれてあった」(山本健吉著『現代俳句』)。彼のデビュー作として夏目漱石に激賞された短編小説の「鼻」の主人公の禅智内供の「細長い腸詰めような鼻」すらも連想させる。この句について、「鼻に託して、冷静に自己を客観し、戯画化した句であり、恐ろしい句である。彼の生涯の句の絶唱であろう」
(山本・前掲書)と山本健吉は評している。龍之介が自殺したのは、昭和二年(一九二七)の三十五歳という若さであった。そして、この辞世の句とされている句も、この同じ年に刊行された『澄江堂句集』に収録されているのである。この昭和二年は台湾銀行の休業が発端となっての金融恐慌が勃発した年である。龍之介は「或る旧友へ送る手記」で、「唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」との言葉を残している。何か、龍之介が生きていた時代、そして、その後の、日本が辿る時代を予感しているような響きすら有している。

芥川龍之介の句(その三)

○ 更くる夜を上(うは)ぬるみけり泥鰌汁

この句には、「田舎びとは夜のあることを知らず。知れるは唯闇ばかりなるべし。夜とはともし火にも照らされたるものを。この田舎は闇のけうとかりければ」との前書きが付与してある。さらに、この句は、大正十一年九月八日付けの真野友彦あての手紙にも書かれており、その頃の作とされている(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、山本健吉は、「小島政二郎氏がこの句には、芭蕉の『夏の夜や崩れて明けし冷やし物』が透いて見えると言ったのは、当時芥川と句を見せ合った人の言葉だけあって、よく見透かしている」(山本・前掲書)と、この句の背景について指摘している。芭蕉の「崩れた冷やし物」を、龍之介は「上ぬるみけり泥鰌汁」と置き換えているのである。また、芭蕉が「夏の夜や崩れて明けし」を、龍之介は「更くる夜を上ぬるみけり」と逆付けを試みているのである。こういう本句取りの、換骨奪胎的な手法は、龍之介の生みの親でもある夏目漱石の俳句においても、顕著に見られるものであった。それ以上に、この本句取りの手法というのは、永い俳諧(連句)の歴史を省みて、芭蕉を始め多くの俳人が金科玉条としてきたものであった。そして、そういう技法上のこと以外に、芭蕉の句においても、夜を徹しての宴(俳諧興行)の後の侘びしさのようなものを漂わせているが、龍之介のこの句に至っては、その前書きにある「闇のけうとかりければ」と「気怠い雰囲気」が、芭蕉の句以上にストレートに伝わってくるのは、龍之介の神経が極度に研ぎ澄まされていて、何時か破綻を来すような、言葉では表現できないような不安に苛まれていたということを暗示しているように思えるのである。そして、こういう龍之介の当時の姿は、彼の描く小説よりも、より以上に、七十七句と、極端に厳選した『澄江堂句集』の句の中に、より多く真相が見え隠れしているように思えるのである。

芥川龍之介の句(その四)

○ 兎も片耳垂るる大暑かな   (龍之介)
○ 芥川龍之介仏大暑かな    (万太郎)

龍之介の掲出句には「破調」との前書きがある。「兎も」が四字で「字足らず」の破調を、わざわざ前書きにしているのである。それは、「片耳垂るる」で、それで、「両耳でなく片耳だけの字足らずの破調」と言葉遊びを楽しんでいるのである。そして、龍之介の知己の一人の久保田万太郎のこの句には「昭和三年七月三日」との前書きがある。龍之介が服毒自殺したのは、その前年であり、これは一周忌の追悼句ということになる。この万太郎の句は、龍之介の掲出の破調の句を意識していることは勿論である。意識しているというよりも、龍之介の破調の句の「本句取り」の句と言って差し支えなかろう。追悼句の名手とされている万太郎は、また、「情にウエート」を置いての作句を得意とした。それに比して、龍之介はこの掲出句のように「知にウェート」を置いた作句を得意とした。そして、両者に共通していることは、共に、当時の俳壇の「ホトトギス」調とか「馬酔木」調とかとは無縁で、江戸の古俳諧、そして、子規が痛罵・排斥した、月並俳句的技法を自家薬籠中の物にしているということである。このことは、両者とも意識していて、龍之介は万太郎の句集『道芝』(昭和二年刊)の「序」で、「江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写したものは久保田氏の外には少ないであろう」と指摘している。この指摘は、龍之介にも均しく当てはまることであろう。

芥川龍之介の句(その五)

○ 木がらしや東京の日のありどころ  (龍之介)
○ 東京に凩の吹きすさぶかな     (万太郎)

龍之介の大正六年の作。龍之介には「木枯し」の句が多い。その龍之介の「木枯し」の句は、彼の代表句とされている「木がらしや目刺にのこる海のいろ」で見ていくこととして、この掲出句では、「東京の日のありどころ」に注目したい。この「日のありどころ」は、蕪村の「几巾(いかのぼり)きのふの空のありどころ」を意識していることであろう(同趣旨、山本健吉著『現代俳句』)。この蕪村の句について、萩原朔太郎の「『きのふの空の有りどころ』という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。『きのふの空』はすでに『けふの空』ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの凧が揚がっている。すなわち言えば、常に変化する空間(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しげに、窮窿(きゅうりゅう)の上に実在しているのである」との指摘をしている。山本健吉は、この萩原朔太郎の指摘を紹介しながら、「龍之介のこの句にも、凩の空にかかる東京の白っぽい太陽に、作者の郷愁と追慕とが凝結しているというべきであろうか」と、生粋の東京ッ子・芥川龍之介の「東京という彼の故郷の、心を締めつける光景だ」という評を下している(山本・前掲書)。その龍之介が俳句の方では一目も二目を置いてていた同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破していた。この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、この龍之介の掲出句を含めて、龍之介俳句の全てにも均しく言えることであろう。そして、万太郎の掲出句は、昭和十五年の作。龍之介が亡くなって十三年という年月を経てのものである。しかし、この句の背景には、亡き同胞の龍之介の掲出の句が脳裏にあったことは想像に難くない。

芥川龍之介の句(その六)

○ 木がらしや目刺にのこる海のいろ      龍之介
○ 海に出て木枯(こがらし)帰るところなし   山口誓子
○ 木枯(こがらし)の果てはありけり海の音   池西言水

一句目は龍之介の大正七年作。二句目は「ホトトギス」の「四S」(秋桜子・素十・誓子・青畝)の関東の「秋桜子・素十」に比しての関西の「誓子・青畝」といわれた誓子の昭和十九年作(「四S」の呼称は昭和三年に山口青邨が用いた)。そして、三句目の言水の句は元禄三年の『都曲』に出てくる。この言水の句は言水の句で最も人口に膾炙されているもので、この句をして「木枯の言水」と異名されているほどである。古典に造詣の深い龍之介はこの言水の句が意識下にあったことであろう(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、改めて、この龍之介の掲出の句を鑑賞すると「上五や切り」の「下五体言止め」の最も安定した典型的なスタイルで、言水の「中七切字」の「下五体言止め」よりも古典的な雰囲気を有していることと、「目刺にのこる海のいろ」の鋭い把握は、画・俳二道を極めた蕪村の画人的な眼すら感じさせるということである。この句は龍之介の自慢の句の一つで、小島政二郎宛ての書簡などにも書き添えられているという(山本・前掲書)。そして、この二句目の誓子の句も、誓子の傑作句の一つに上げられるもので、この句の背景にも、言水の句が見え隠れしているが、さらに、龍之介の掲出の句も意識下にあるのではなかろうか。そして、この誓子の句は、太平洋戦争の真っ直中の作句で、「野を吹き木の葉を落としながら吹きすさんで行った木枯しは、何も吹くもののない海上に出て消え失せるのでのである」(山本・前掲書)と、その時代の背景すら、この句に接する者に語りかけてくるのである。そして、木枯しの句は、言水、龍之介、そして、誓子に至って、その頂点に達したように思われるのである。

芥川龍之介の句(その七)

初秋の蝗(いなご)つかめば柔かき

龍之介のこの掲出句は、蕪村の「うつつなき抓(つま)ミごころの胡蝶かな」が意識下にあるであろう。小説の神様といわれて、龍之介も脱帽していた志賀直哉の蕪村に関連しての龍之介論がある。「大蛾の『十便』を互いに讃め合った時、芥川君は『十便』に対し『十宣』を書いた蕪村を馬鹿な奴だと言っていた。しかし久保田君の所にある『時雨るるや』の句に雨傘を描いた芥川君の画を新聞で見、銀閣寺にある蕪村の『化けさうなの傘』と全く同じなので、芥川君は悪く言いながらやはり大雅より蕪村に近い人だったのではないかとふと思った。同時に蕪村よりは大雅が好きだったろうとも思った」(山本健吉著『現代俳句』所収、志賀直哉「沓掛にて」)。続いて、山本健吉は「彼(龍之介)がもっとも敬慕したのは芭蕉であり、もっとも愛惜したのは丈草と凡兆とであった」(山本・前掲書)と指摘している。これらのことは、龍之介の特質を実に的確にとらえていて、龍之介は「好きな人」を「嫌いだ」と逆説的な表現をすることが多いことと、俳句の方では、蕪村よりも芭蕉とその蕉門の丈草と凡兆との句に精通していたということは自他共に認めるほどだったのである。その背景には、当時はまだ、画人・蕪村は喧伝されていたが、俳人・蕪村については、「蕪村句集」なども完備しておらず、昭和八年に刊行された潁原退蔵編の『蕪村全集』が出て、始めて、俳人・蕪村の全貌が明らかになったということもあるであろう。そして、龍之介はこの潁原退蔵編の『蕪村全集』に「序」を寄せていて、「わたしはあなたの蕪村全集を得たならば、かう言う知的好奇心の為に(「蕪村も一朝一夕になったわけではありますまい。わたしはその精進の跡をはっきりと知りたい」という前文を指している)、夜長をも忘れるのに違ひありません」と、まるで子供が玩具を渇望するよにその刊行を待ち望んでいたのである。志賀直哉が指摘した「龍之介は大雅より蕪村に近い人だったのではないか」、そして、「同時に蕪村よりも大雅が好きだった」という指摘は、「龍之介は気質的にも蕪村に近い人で、それが故に、あたかも自己を見ているようで蕪村を敬遠していた」ともとれなくもないのである。ただ決定的に両者が相違することは、龍之介が早熟な天才肌の人であったの対して、蕪村は老成の努力肌の達人であったということであろう。とにもかくにも、龍之介は、「芭蕉」オンリーのような姿勢をとりながら、内実、この掲出句のように、俳人・蕪村にもどっぷりと浸っていたのである。

芥川龍之介の句(その八)

○ たんたんの咳を出したる夜寒かな
○ 咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな

 龍之介には自分の子を詠んだ句が多い。家庭を顧みない「火宅の人」(擅一雄の小説の題名)のような無頼派のイメージはないけれども、早熟な夭逝した鬼才というイメージから、家庭人というイメージは浮かんで来ない。しかし、小説と違って、十七音字という極めて短小な俳句の世界においては、その人の境涯が浮き彫りになってくるのに、しばしば遭遇する。龍之介のこういう句に接すると、これもまた龍之介の一面かと、「芥川が死んだのは、芥川があまりにも真面目であった為である。あまりにも鋭敏なモラル・センスを持っていた為である」(小宮豊隆)という指摘も素直に受け入れられるように思えてくるのである。この掲出の一句目には、「越後より来れる婢、当歳の児を『たんたん』と云ふ」との前書きがある。この「たんたん」というのは、越後の方言的な、または、幼児の仕草などから来る愛称的な、一種の「造語」的なものなのであろう。そして、二句目には、「妻子は夙に眠り、われひとり机に向ひつつ」という前書きがある。この句については、大正十三年四月十日夜の日付のある小沢碧童(俳人)あての手紙の「半月ばかり女中の一人もゐない為、子供二人をかかへ、小生まで忙しい思ひをして居ります」と文章の後に書かれているという(山本・前掲書)。この二つの句について、山本健吉は「『咳一つ』といきなり言ったのが、いかにも大事件のようだ。赤子の咳一つにすぎないが、親にとっては大事件に違いない。その、ひんやりとするような不安と驚きが出ているのが、おもしろいのである」として、この二つの句のうち、二句目よりも一句目を優れているとしている(山本・前掲書)。しかし、龍之介は自選の定本句集『澄江堂句集』には、この二句目は棄てて、一句目を収載しているのである。この二つの句は、それぞれ前書きが付与してある句なのであるが、その前書きが付与してある句として、この一句目の「たんたん」という造語的な句に、より多く、龍之介は愛惜していたということと、そして、いかにも、この「たんたん」という造語的な語句が「吾が子」というイメージをストレートに伝えていて、ここは、龍之介の選句を是としたいのである。

芥川龍之介の句(その九)

○ 青蛙おのれもペンキ塗りたてか(龍之介)
○ 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな(龍之介)
○ 影像(すがた)のかりゅうど(ジュール・ルナール)
○ ぜんまいののの字ばかりの寂光土(川端茅舎)

大正デモクラシーの洗礼を受けた芥川龍之介と江戸時代の与謝蕪村とでは、その王朝趣味、怪奇趣味という点では類似点を多く見ることができるが、決定的に西洋文明と真正面に対峙した点において、龍之介の世界がより多く現代人にアッピールするものを有していることは多言を要しないであろう。龍之介には、アフォリズム的(箴言的・警句的)な短編小説『侏儒の言葉』という著書がある。「わたしは神を信じてゐない。しかし、神経を信じてゐる」。「わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」。掲出の第一句目の「雨蛙」の句、これは、まぎれもなく、龍之介の「わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」の毒々しい病的な神経の句である。この二句目に至っては、「彼の異常にとぎすまされた神経が生んだ幻想である」(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。そして、この句は、「我鬼が龍之介とは知らなかった飯田蛇笏は『無名の俳人によって力作された逸品』とほめ、虚子は『特異な境地の句』といって賞賛した」という(志摩・前掲書)。蛇笏も虚子も名うての選句の達人であるから、龍之介の俳句の卓越性というのを見抜き、そして、その真価を認めていたということであろう。しかし、こういう異常に研ぎ澄まされた神経によって作句していた龍之介が、何時か破綻するということも予知されるような二句でもある。ちなみに、フランスの作家、ジュール・ルナールの『博物誌』のこの三句目は、自分自身を「影像(すがた)のかりゅうど」と表現しているが、同じアフォリズムでも、自然に対する愛情や温かい洞察の眼が感じられる。それに比して、龍之介は、自然や生き物が自分の分身として痛々しいほど神経が繊細でギラギラとしていて自嘲しているように思われるのである。そして、同じ、「ぜんまい」の比喩でも、この四句目の川端茅舎の「ぜんまい」の句は、虚子に、「花鳥諷詠真骨頂漢」と讃えられた「茅舎浄土」ともいわれる、「静寂・静浄の境地」・「茅舎がきずきあげた美の世界」(志摩・前掲書)が詠みとれるのである。龍之介は優れたアフォリズムを残し、優れた俳句をも残した類い希なる才能の持主であったが、
ルナールや川端茅舎ほど、そのアフォリズムにおいても俳句においても、後世に影響を与えるものではなかったということはいえるであろう。

芥川龍之介の句(その十)

○ 松風をうつつに聞くよ夏帽子
○ 明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす
○ しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり
○ 切支丹坂を下り来る寒さかな

山本健吉著『現代俳句』の中で、正岡子規の「鶏頭は十四五本もありぬべし」の句鑑賞に次の一節がある。「志摩芳次郎に至っては、『花見客十四五人は居りぬべし』『はぜ舟の十四五艘はありぬべし』など愚句を並べ立てて、鶏頭の句の揺るぎなさを否定しょうとする」。
この一節に登場する志摩芳次郎は、その著『現代俳人伝(二)』の中で、上記の掲出の四句について、「芥川の絶唱」として高く評価している。これらの四句については、「震災の後増上寺のほとりを過ぐ」との前書きがある。この前書きにある関東大震災は大正十二年(一九二三)九月のことであった。これらの四句について、志摩芳次郎は「芥川は、芭蕉や『猿簑』から、俳句の美しいリズムを学んだ。茂吉によって、文芸上の形式美にたいする目をひらいたかれは、その内奥美を芭蕉から学びとっている」として、「芭蕉に直結する唯一の現代俳人であった」とまで指摘している。とにもかくにも、この志摩芳次郎の指摘をまつまでもなく、龍之介が芭蕉に心酔して、こと俳句の創作においては、芭蕉を模範としていたということは、その『澄江堂句集』に収載されている七十七句に均しく当てはまるように思えるのである。そして、同時に、この掲出句に見られるように、大正時代の東京に限りない思慕を懐き、そして、その東京という龍之介の心の故郷への鎮魂の句ともいうべき、そのような哀調のリズムが、龍之介の俳句の根底に流れているように思えるのである。志摩芳次郎は、この掲出の一句目に、「地獄図絵を現出した震火災悪夢」を「うつつに聞く」龍之介を見て、その二句目で、「芭蕉の『野を横に馬引むけよほとゝぎす』と形が似ているが、声調は芥川の句のほうが、はるかに美しい」とし、その三句目で、「冬ざれのわびしい風景をうたって、これほど情趣をもりあげた句を知らない」としいる。そして、その四句目で、「この句を口ずさむと、とんとんと、自分が坂を下りてくるような気持になる」と絶賛しているのである。龍之介はかって、俳句の同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破した。そして、この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、つくづく、これらの龍之介の掲出句にも、そして、龍之介俳句の全てにも均しく言えるということを再確認する思いなのである。