木曜日, 7月 20, 2006

久保田万太郎の俳句



久保田万太郎の句鑑賞

○ 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

万太郎の傑作句である。芥川龍之介は万太郎の句
をして、「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」と喝波
した。その何かを直視するような寂寥感の伴う、
詠嘆の「嘆き」の吐露は、とても言葉では表現で
きない、万太郎俳句の凄さを有している。ここに
も、雀郎と同じ、「あわれ」・「おかし」・「ま
こと」が見え隠れしている。

○ 神田川祭の中を流れけり

大正十四年の昭和と衣替えするころの万太郎
の句である。この句に接すると、昭和が終り
平成となった、ついこの間まで若者の間で歌
われていた、南こうせつとかぐや姫の「神田
川」のソングを思いだす。「窓の下には神田
川、三畳一間の小さな下宿」…、万太郎の句
は、この神田界隈を流れて隅田川へと注ぐ、
その神田川を実に平明な言葉で、平明な俳句
的骨法で、恐ろしいほど的確に描きあげてい
る。

○ 新参の身にあかあかと灯りけり

「新参」とは新参の奉公人のことで、今では
死語となったものの一つであろう。万太郎の
大正十一年の頃の作。「あかあかと灯りけり」
と「ありのままに、さりげなく」、何の変哲
もないような表現に、その「新参の奉公人」
の「あわれ」な境遇の姿が 浮かび上がって
来る。「万太郎は俳句の天才」と何かの小説
の題名にもあるようだが、こういう感覚とその
感覚にマッチした技法は、まさに「天才」とい
う言葉を呈してもよいのかも知れない。

○ ふゆしほの音の昨日をわすれよと

「ふゆしほ」は冬汐。「昨日」は「きのふ(う)」の詠み。
この句には「海、窓の下に、手にとる如くみゆ」との前
書きがある。万太郎には、この前書きのある句が多い。
この前書きとその当該句をあわせ味わうと、万太郎の作
句の時の姿影が浮かび上がってくる。
万太郎の全貌を知るには、その戯曲や小説の類でもなく、
万太郎が「余技」と称していた、この「俳句」の世界に
おいて、万太郎の、その偽らざる真実の吐露をうかがい
知ることができる。この句は、昭和二十年の、あの終戦
当時の陰鬱な時代の句なのである。

○ ボヘミアンネクタイ若葉さわやかに

「ボヘミアンネクタイ」・「若葉さわやかに」…、何と骨格だけ
で俳句ができている。しかし、この骨格は正確無比の修練を積ん
だデッサン力なのであろう。この句には、万太郎俳句の一つの特
徴である前書きが施されている。「永井荷風先生、逝く。先生の
若い日を語れとあり」。この句は断腸亭主人・荷風への追悼句な
のである。万太郎も、若かりし頃の洋行帰りの颯爽とした「ボヘ
ミアンネクタイ」の永井荷風に、当時の最先端のゾラなどの講義
を受けたのであろうか。そして、この二人とも、江戸情緒の世界
に耽溺した。ひるがえって、この二人の唯美主義的な傾向は本物
のそれという感じがしてならない。

○ セルの肩 月のひかりにこたへけり

「木下有爾君におくる」との前書きのある一句。
木下有爾とは、詩人で万太郎の主宰する「春燈」
で活躍した俳人でもあった。「春燈」は終戦の
翌年の昭和ニ十一年に万太郎を選者に仰いで、
安住敦らが中心になって創刊したのであった。
その「春燈」創刊号の万太郎の巻頭言に「夕靄
の中にうかぶ春の燈は、われわれにしばしの安
息をあたへてくれる」とある。万太郎の俳句も、
有爾の俳句も、「夕靄の中に浮かぶ春の燈」の
ように、強烈な燈ではなく、ぼんやりとしてい
るが、妙に安らぎを覚える燈のようでもある。
この掲出の句は昭和三十四年の作。「セルの肩」
の上五の次に、一字の空白があり、ここで「間」
(ポーズ)を取るのであろうか。万太郎の俳句に
は、このような細部に神経を払った句が多い。

○ 初午や煮しめてうまき焼豆腐

 万太郎の昭和ニ十七年の作。この万太郎の句は、いわゆる
「類似・類想句」が問題になると、よく話題にされるという
ことで、よく知られている句である。小沢碧童の、昭和四年
作の句に、「初午や煮つめてうまき焼豆腐」という句があり、
この類想句だというのである。
 万太郎俳句の良き理解者であった安住敦さんが「引っ込める
べきではないか」という助言に、焼豆腐は「煮つめて」ではな
く、「煮しめて」が正しいのですと、万太郎は平然としていた
という。万太郎には、しばしば、このようなことがあり、万太
郎像ということになると、そのファンもいるが、アンチ・万太
郎もそのファン以上に多いように思われる。しかし、こと、俳
句に関しては、万太郎が「俳句は余技」と口にしていた以上に、
万太郎が終生、心では「俳句は本技」と、その情熱を傾けてい
たように思える。この句なども、万太郎の碧童の先行句を超え
ているという、万太郎の自信の表れとも取れなくもない。

○ 来る花も来る花も菊のみぞれつつ

 この句には「昭和十年十一月十六日妻死亡」との前書き
がある。この亡き妻とは万太郎の最初の京子夫人のことで
あろう。この夫人は万太郎とのいざこざで、自分で自分の
命を絶ったというのが、その真相らしい。こういうことが
いろいろな流聞となって、「万太郎その人」を巡っての評
判というのは、どうにも、悪評の方が多いというのが、今
になっても、これまた、真相というところであろう。しか
し、この句などを見ると、万太郎の、その時の心境は、こ
の句の「みぞれ」のように、寒々とした惨めなものであっ
たろう。しかし、万太郎は、江戸っ子の、意固地な「外面」
が、どうにも悪いのである。そんな惨めな気持ちや奥様に
対する悔恨の情など、素振りにも見せないのである。しか
し、「句は嘘をつかない」。そして、その万太郎の句は、
現に、今も、語りつがれているのである。

○ 芥川竜之介仏大暑かな

 この句には、「昭和三年七月二日」との前書きがある。竜之介
が服毒自殺を遂げたのは、その前年のことであり、この句はその
一周忌での追悼句ということになる。この句の詠みは「芥川竜之
介仏(ぶつ)」で切り、「大暑かな」と続けるのであろう。何の変
哲もない平明そのものの句であるが、この「大暑かな」に、万太
郎の追悼句としての見事なまでの巧みさがある。竜之介は、万太
郎の句を評して、「東京の生んだ嘆かいの発句」と喝破したが、
この「大暑かな」は、その竜之介の喝破の「嘆かいの発句」の典
型的な息づかいともいえるものであろう。竜之介には、その死後
に刊行された『澄江堂句集』という句集があるが、その句の中
に、「兎も片耳垂るる大暑かな」という「破調」という前書きの
ある句があるが、万太郎は、竜之介のこの句の「大暑かな」を本
句取りにしていることは言うまでもない。そして、その本句取り
が見事に結実しているのである。

○ 鶏頭の秋の日のいろきまりけり

 万太郎の昭和二年から同七年までの句が収録されている
『吾が俳諧』所収の句。「吾が俳句」にあらず、「吾が俳諧」
と命名しているのが、万太郎らしい。万太郎においては、何
時も、「俳諧における発句」としての句作りということを念
頭に置いていたという、一つの証しでもあろう。
この句は万太郎句のうちでも傑作句の一つであろう。「きまり
けり」の下五の「けり」止めの余情とその時間的経過を醸し出
している点は心憎いばかりである。子規の「鶏頭の十四五本は
ありぬべし」等々、鶏頭の句には名句が多いが、この万太郎の
句も、鶏頭の名句として、これからも、永く詠み続けられてい
く句の一つであろう

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