土曜日, 7月 01, 2006

藤沢周平の俳句



藤沢周平の俳句(その一)

○ 蜩や高熱の額暮るゝなり (「梅坂」より)
○ 春蝉やこゝら武蔵野影とゞむ(「のびどめ」より)

平成十六(二〇〇四)年も去ろうとしている。十二月二十九日と三十日に、モンテカルロテレビ祭・ゴールドニンフ賞を受賞したという、藤沢周平原作の「蝉しぐれ」が再放送された。第一部「嵐」、第二部「罠」そして第三部「歳月」と三部構成であった。そのテレビの新聞での紹介に、「藤沢周平原作、黒土三男脚本、佐藤幹夫演出。郡奉行の文四郎(内野聖陽)は、前藩主の側室で初恋の相手のふく(水野真紀)に二十年ぶりに再会した。十五歳の時の文四郎(森脇史登)は、当時十三歳だったふく(伊藤未希)と淡い恋をはぐくんでいた。だが文四郎が十九歳の時、農民のために働いてきた義父の助左右衛門(勝野洋)がぬれぎぬを着せられ切腹。文四郎は義母の登世(竹下景子)と長屋へ転居し、江戸に奉公に出ていたふくは藩主に気に入れられて藩主の子供も身ごもる」とあった。藤沢周平全集(文芸春秋)の第二十五巻に、「句集」として、「『梅坂』より」に五十四句、「『のびどめ』より」に五十句、そして「拾遺」として七句の百十一句が収載されている。その「初出控」によると、「梅坂」寄稿句は、昭和二十八年六月号から昭和三十年八月号、そして「のびどめ」寄稿句は、昭和二十八年十月号から昭和二十九年九月号と、作家・藤沢周平誕生以前の結核療養時代(現・東京都東村山市の篠田病院林間荘)の、これらの俳句創作に打ち込んでいたのは年月にして二年程度のことであった。これらの俳句の多くは、同じ、結核を病み、その病苦をひたすら綴った石田波郷らの、いわゆる「療養俳句」の流れの中に入るものなのであろう。石田波郷の頂点の句集といわれる『惜命』(昭和二十五年刊)、そして、『定稿惜命』(昭和三十二年刊)は、必ずや、藤沢周平こと小菅留治は目にしていたことであろう。その藤沢周平の原点は、この石田波郷の「惜命」ということからスタートとするといって過言ではなかろう。そして、それは、掲出句の「蜩」や「春蝉」のように、人間の定めのような寂寥感を漂わせているものであった。

藤沢周平の俳句(その二)

○ 花合歓や畦を溢るゝ雨後の水(「拾遺」)
○ 花合歓や灌漑溝みな溢れをり(「梅坂」より)

藤沢周平の「蝉しぐれ」の舞台は、架空の藩・梅坂藩である。この梅坂藩の「梅坂」は、周平の闘病生活時代に、俳句創作に打ち込んだ、静岡県の俳誌「梅坂(うなさか)」に由来があるという。この俳誌 「梅坂」は水原秋桜子の高弟の一人である、「馬酔木」同人の百合山羽公が主宰するものであった。百合山羽公は大正十一(一九二二)年に高浜虚子の「ホトトギス」に入門し、昭和四(一九二八)年にその雑詠巻頭にもなり、虚子に見出された俳人の一人であるが、昭和六年の水原秋桜子の「ホトトギス」離脱にともない、秋桜子と行を共にし た俳人で、戦後の昭和二十一年に俳誌 「あやめ」を創刊主宰し、この「あやめ」が、周平が所属した俳誌 「梅坂」の前身である。その俳誌 「海坂」に周平が投句していた花合歓の句が、掲出の下記の句である。それは昭和三十年以前の、作家・藤沢周平以前の、常時肺結核で死と直面するような日々の中の小菅留治その人であった。そして、平成八年の、周平の晩年に到り、戦後間もない昭和二十四年当時に赴任していた生まれ故郷の隣りの町の出羽(山形県鶴岡市)の湯田川中学校に建立を依頼されていた「藤沢周平記念碑」に寄稿した周平の句が、掲出の冒頭のものである。即ち、この掲出の冒頭の句は、いわば、藤沢周平の忘れ形見ともいえる「花合歓」の句であり、それは、まだ、作家・藤沢周平が誕生する以前の、およそ三十年余以上の前の、肺結核で療養していた一療養者の掲出の二番目の花合歓の句に由来のあるものなのであろう。このように見てくると、山本周五郎、そして、司馬遼太郎と並び称せられる名うて時代物の作家・藤沢周平の原点は、まぎれもなく、この療養時代の、この掲出の二番目の花合歓の句にあるのであろう。その藤沢周平の記念碑は次のアドレスで見られる。
http://www.yutagawaonsen.com/fujisawa.html

藤沢周平の俳句(その三)

○ 友もわれも五十路に出羽の稲みのる(「拾遺」)

作家・藤沢周平がこのペンネームでスタートとしたのは、ネットの年譜によると昭和四十年(一九六五)、三十五歳の時であった。その二年前に亡くした奥様の出身地名の「藤沢」からの命名という。そして、藤沢周平が第三十八回直木賞を受賞したのが、昭和四十八年(一九七三)、四十六歳のときであった。この掲出句の「五十路」を迎えた頃は、「オール読物新人賞選考委員」(四十九歳の時)、「直木三十五賞選考委員」(五十八歳の時)と、作家・藤沢周平の絶頂期の頃と解して差し支えなかろう。出羽(山形県)は藤沢周平の生まれ故郷である。
ここで育ち、ここで学び、ここで二年間の教職に立ち、ここで病を得て、東京の病院に入院したのが、昭和二十八年(一九五三)、二十六歳の時であった。この病院の俳句愛好会の俳誌が「のびどめ」であり、そして、この病院にて静岡県の俳誌 「海坂」に投句を始めたのである。さらに、俳句から詩へと、その病院内の詩の会の「波紋」に参加して、それらの詩の創作も、藤沢周平全集(文芸春秋)の第二十五巻に収載されている。

  一枚の枯葉が
  悲しく落ちた夜

  野にも山にも
  雪が降つた
  雪は音もなく地上を白くした   「白夜」の抜粋

 この雪の降る白夜の風景は、周平の生まれ故郷の出羽が脳裏にあることであろう。周平はこの出羽を離れて、東京で業界紙に職を得て、その仕事を何度か替えながら二度と出羽に帰ることはなかった。その出羽への望郷の思いは、その出発点の俳句にも、さらには、詩にも、そして、その名を不動のものにした時代物の小説の分野においても、色濃く宿している。そして、この掲出句は、五十路を迎えて、懐かしき出羽の幼友達とその稲穂の稔れる出羽の大地を目にしたときの感慨の句であろう。藤沢周平の年譜は次のアドレスのものに詳しい。
http://www.asahi-net.or.jp/~wf3r-sg/nsfujisawa3record.html

藤沢周平の俳句(その四)

○ 梅雨寒の旅路はるばる母来ませり  (藤沢周平)
○ 春夕べ襖に手をかけ母来給ふ    (石田波郷)

当時の結核病というのは、最も恐れられていた病気で完全治癒は絶望視されていて、幸いに軽快に赴いても社会復帰はまず叶わないものと一般的に見られていた。こういう宿痾というものを抱えての療養所生活というものは実に暗澹たるものであったろう。こういう療養所が各地に設立され、そこでは盛んに句作が行われ、その「療養俳句のメッカ」とも称せられていたのが、石田波郷が療養していた東京都下の清瀬村国立東京療養所(清瀬療養所)である。ここで、石田波郷は昭和二十四年四月号の「現代俳句」に「屍の眺め」五十句を発表し、そして、これが後に集大成され、昭和二十五年刊の句集『惜命』として結集され、これは療養俳句のバイブルとも称されるものであった。また、その石田波郷が所属していた水原秋桜子主宰の「馬酔木」でもこの療養俳句は盛んであり、藤沢周平が参加した百合山羽公主宰の「海坂」もこの「馬酔木」系の俳誌 であり、単に療養俳句の中心的な俳人としてだけではなく、「馬酔木」系の「鶴」の主宰者として、当時の昭和俳壇の代表的俳人としての石田波郷の名は一世を風靡していたものであった。その石田波郷の随想に「母来り給ふ」というものがあり、その随想の中に記されている句が掲出の二句目の波郷の句である。その他、波郷のこの療養所生活時代の母の句はどれもよく知られた句であり、これらの波郷の療養時代の母の句について、同じ療養生活をおくり、同じ療養俳句に携わり、同じ「馬酔木」系の俳誌に投句していた藤沢周平は、意識・無意識とを問わず、それらが脳裏の片隅にあったであろうことは容易に想像ができるところのものである。藤沢周平は一言も石田波郷については触れてはいないが、この掲出句の一句目の藤沢周平の母の句は、石田波郷の影響下にあったということを素直に語りかけているように思われる。また、そういう観点での藤沢周平俳句の鑑賞というのが、必須のように思われるのである。

藤沢周平の俳句(その五)

○ 水争ふ兄を残して帰りけり(「梅坂」より)
○ 水争ふ声亡父に似て貧農夫(同上)

ネットで芭蕉の「おくのほそ道」関連のものを見ていたら、次のような記事に出合った。
「鶴岡は徳川四天王の一人酒井忠勝を家祖とする、庄内藩十三万八千石の城下町である。母は、作家藤沢周平氏の熱狂的なファンである。『用心棒日月抄』や『三屋清左衛門残日録』に登場する海坂藩が、氏の郷里庄内藩をモデルにしていることを知って以来、鶴岡は母のあこがれの町になった。その鶴岡城跡を歩く。さほど広くもない平城の跡は、鶴岡公園と呼ばれている。お堀にはカルガモの親子が遊び、柳の古木が静かに影を落している。しっとりとして落ち着きのある公園であった。城跡のはずれに記念碑があって、『雪の降る町』が鶴岡で生れたことを知った。触れるとメロディが流れる仕掛けである。『又八郎も歩みし城の風清し』感激の城跡を歩いた母の一句である。因みに又八郎は、『用心棒日月抄』シリーズの主人公で、五十騎町に住んでいた。」そして、象潟のところには、「幕末秋田の有志が決死隊をつくって庄内藩へ斬りこんだ折り、決意のため熊野神社でもとどりを切った、と記された碑が境内に立っていた。いきさつはよく分からないが、世に知られた鳥海山系の水争い以外にも、秋田県と山形県にはどうやら反目の歴史があるらしい。」
こういうネットの記事は楽しい。藤沢周平の作品の背景と一つとなっている鶴岡市も酒田市も芭蕉の「おくのほそ道」と切っても切れない関係のある土地というのを再認識すると共に、それらの農村地帯においては、深刻な「水争い」が絶えなかったという思いを強くしたのである。藤沢周平の「半生の記」には、その療養時代に、家長たる長兄の副業の失敗などによる帰郷のことなどは記されているが、掲出句に見られる「水争い」のことについては記されていない。しかし、「家長たる長兄」のことや、周平の生まれ故郷の庄内藩の農村の「水争い」に思いを馳せるとき、周平の数々の作品の背景のイメージが鮮烈となってくる。藤沢周平の時代物の作品を、芭蕉の「おくのほそ道」の時代とイメージをタブらせて見ていくのも一興である。上記のネット記事のアドレスは次のとおり。
http://www.oka.urban.ne.jp/home/suisho/hito/index.html

藤沢周平の俳句(その六)

○ 閑古啼くこゝは金峰の麓村(「拾遺」)

「私が生まれた山形では、五月は一年の中のもっともかがやかしい季節だった。野と山を覆う青葉若葉の上を日が照りわたり、丘では郭公鳥が鳴いた」(『ふるさとへ廻る六部は』より)。藤沢さんにとって金峰山は母の懐のような存在であっただろう。『海坂藩』には金峰山を思わせる山がしばしば登場する。今回は『三月の鮠』(文春文庫「玄鳥」から)を紹介したい。城下の西を流れる川をさかのぼっていくと丘に突きあたる。その丘は小高い山を背にし、小楢やえごの木、また欅の大樹などの林をぬけてゆくと杉の木立ちに囲まれた社があらわれる。旧暦の三月は今の四月中旬から五月の季節である。『三月の鮠』には五月の金峰山と神社を連想させる箇所がたくさん出てくる。たとえば、『新緑を日に光らせている木木の斜面はかなり急で、傾斜の先は眩しい光が澱む空に消えている。』。『社前の、砂まじりの広場は塵ひとつなく掃き清められていて、杉の巨木に取りかこまれた神域は少し暗く、すがすがしい空気に満たされていた。』など、金峰の登山道や神社が浮かんでくる。この神社の別当は『神室山』の本社から派遣された山伏である。神室山はこの地方の山岳修験の聖地で、この小説の女主人公はこの山へ逃げようとしたが、追手の目をくらますためこの城下近くの山へ身を隠したのである。かつては修験場として栄えたという金峰山のイメージを彷彿させる。他の作品にも多く登場する金峰山は『海坂藩』の重要な舞台となっているのである」。これはネットで紹介されていた藤沢周平の生まれ故郷の金峰山に懐かれて閉村となった旧黄金村(現在の鶴岡市大字高坂字盾の下)と架空の藩の海坂藩に登場してくる金峰山と思われる山のイメージの描写である。そして、この掲出句は、架空の梅坂藩のそれではなく、藤沢周平の終世脳裏に焼き付いていて離れなかった実在した旧黄金村そのもののイメージなのである。藤沢周平はその出発点の療養時代に俳句と取り組み、その後、その俳句の世界と袂を分かったが、折りに触れて、俳句を創作し、その一部が、「拾遺」という形で今に残されているのである。上記のネット記事のアドレスは次のとおり。
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199805.html

藤沢周平の俳句(その七)

○ 春水のほとりにいつまで泣く子かも(「海坂」より)
○ 秋の川芥も石もあらはれて(「のびどめ」より)

藤沢周平の架空の藩・海坂藩の山が周平の生まれ故郷の金峰山をモデルとしているならば、その海坂藩に登場してくる川や橋などもまた周平の脳裏には生まれ故郷の川などがイメージとしてあることであろう。周平の地元の周平を愛する人達がそれらのことについてネットで紹介している。そして、周平の創作上の数々の架空の風物が、周平の生まれ故郷の実在する風物と重ねあわさるとき、たったの十七音字の、たったの二年たかだかの周平の療養時代の俳句が、実に鮮やかに、その架空の風物と実在する風物との橋渡しをしてくれることに、今更ながらのように俳句の持つ一面を思い知るのである。掲出の周平の川の句は、それはそのまま周平の創作上の川の背景となっているものであろう。ここでも、周平のモデルとしている実在の川や橋のネット上の記載やそのアドレスを紹介しておきたい。
「『海坂藩』に必ず登場する風物といえば、川とそれに架かっている橋が挙げられる。城下の真中には「五間川」が流れ、さらに東にも西にも大小の川がある。橋にも千鳥橋とか河鹿橋といった洒落た名前がついている。『五間川』は内川と重なり、主人公が渡っているのは、内川のあの橋だろうか、などと想像するのも楽しみのひとつである。また、町の西側を流れる川は青龍寺川で、例えば『ただ一撃』には主人公の刈谷範兵衛が川原で石を拾ったり、釣りをしたりする川として登場する。青龍寺川は藤沢さんの生家のすぐ前を流れていて、泳いだり、雑魚しめをしたりした想い出深い川である。五間川という一定の名は付けられていないが、『海坂』ものの重要な舞台としてよく登場する。」
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199807.html

藤沢周平の俳句(その八)

○ はまなすや砂丘に漁歌もなく帰る(「のびどめ」より)
○ 冬潮の哭けととどろく夜の宿(「拾遺」)

「『海坂藩』は三方を山に囲まれていて、残りの一方には海がひらけている。その海が近いので、港町から朝とれた新鮮な魚が城下に届く。『三屋清左衛門残日録』に登場する小料理屋・涌井で出される魚の料理がこの小説に彩りを与えていることは周知のことである。例えば『まだ脚を動かしている蟹』は味噌汁で食べ、『クチボソと呼ばれるマガレイ』は焼き、『ハタハタ』は田楽にする。清左衛門が風邪で寝込むと嫁の里江が『カナガシラ』を味噌汁にて食べさせるなどなどである。海坂藩は海の幸にも恵まれた城下として藤沢さんは描いている。」「『龍を見た男』(新潮文庫)には油戸の漁師が出てくる。源四郎という荒くれ者の漁師と、彼の獲った魚を鶴ヶ岡や大山に売りにゆく、働き者で信心深いおりくという女房の話である。甥が海にのまれて死んでしまっているし、源四郎も霧の夜、漆黒の闇の中、港を見失う。浜中の沖にまで流された源四郎を助けたのは善宝寺の龍神だった。このように海は人間に大いなる幸を与える一方で、災いも与えてきたのである。」
 これらも、ネットの世界で紹介されている藤沢周平の時代物の創作に登場する海の風景の背景である。藤沢周平のデビュー作ともいえる葛飾北斎を描いた小説のタイトルは「溟い海」であり、海もまた周平にとっては生まれ故郷の出羽の日本海のイメージであろう。

  異国ではない 古い海辺の町
  のんびりしてゐるやうで敏感な町
  変屈ではあったが
  重い海風が街街の屋根から私を覗いてゐた (「余感」よりの抜粋)

 掲出の海の句もこの詩の延長線上にある。上記のネットのアドレスは次のとおり。
http://www.city.tsuruoka.yamagata.jp/fujisawa/sekai/sekai_199811.html

藤沢周平の俳句(その九)

○ 黒南風(くろはえ)の潮ビキニの日より病む

藤沢周平には、六代将軍・家宣に仕えた儒者の新井白石を主人公にした『市塵』や俳人・一茶を主人公にした『一茶』など実在の人物を実に鮮やかに描いたもがある。最後の遺作となった米沢藩の上杉鷹山の財政改革などを主題とした『漆の実のみのる国』などは、司馬遼太郎の晩年の『この国の形』などに匹敵するほどの、現代の日本への遺言のような警鐘ようにも思われる。また、周平が療養時代の前の二年ほど教職にあった頃の教え子達へのその後の書簡などを見ていくと、わが国の農業政策の政治の貧困を指摘するものなどが目につく。そのような、現実の政治・経済・社会に対する周平の視線は鋭い。掲出の句は、昭和二十九年(一九五四)の当時の日本に大きな衝撃を与えたビキニ環礁でアメリカの水爆実験の死の灰を浴びた第五福竜丸の、いわゆる「ビキニの死の灰」をテーマとしたものであろう。時に、藤沢周平こと小菅留治は二十七歳で、東京都下の東村山で療養生活三年目を迎える頃であった。日々、死と直面するような日々にあって、ひたすら、俳句創作に打ち込んでいた頃のものである。この頃は療養所の中の詩の会「波紋」にも参加し、詩の創作などにも打ち込んでいた。

此の雨の中から
私はもつと美しい物語を作つて見たい
忘れ去られるのは使ひはたした玩具だけだど
そして世界の隅隅で
それらの玩具は忘れ去られて良いのだという物語を
――。                   (「街で」よりの抜粋)

それから十年後の昭和四十年(一九六五)、藤沢周平のペンネームで、作家・藤沢周平の数々の「美しい物語」が誕生するのである。

藤沢周平の俳句(その十)

○ 夕雲や桐の花房咲きにほひ (「海坂」より)
○ 桐の花葬りの楽の遠かりけり ( 同上 ) 
○ 桐の花踏み葬列が通るなり  ( 同上 )
○ 葬列に桐の花の香かむさりぬ ( 同上 )
○ 桐の花咲く邑に病みロマ書読む ( 同上 )
○ 桐咲くや掌触るゝのみの病者の愛 (同上)

藤沢周平には桐の花の句が多い。桐の花は夏の季語である。豊臣家の紋だったこともあるのだろうか、どことなく滅びを象徴するような儚い印象のする花である。そして、同時に療養時代の周平を象徴するような花でもある。いや、藤沢周平の六十九年の生涯において、一番似つかわしい花は、合歓の花か、この桐の花として、何時も生と死を直視して創作活動を続けた周平にとって、「桐の一葉」と共に滅びいくものの儚さを象徴するような淡い紫の「桐の花」が似合うように思われる。平成九年(一九九七)九月一日に発見された奥様あての「書き残すこと」は、平成六年前後の亡くなる三年前あたりに書かれたものらしい。
それを見ると、周平はこの療養時代以後、何時も人間の定めのような滅びいくものの儚さというものを凝視続けてきたように思えてならない。
「小説を書くようになってから、私はわがままを言って、身辺のことをすべて和子にやってもらったが、特に昭和六十二年に肝炎をわずらってからは、食事、漢方薬の取り寄せ、煎じ、外出のときの附きそい、病院に行くときの世話、電話の応対、寝具の日干しなどを和子にやってもらった。ただただ感謝するばかりである。そのおかげで、病身にもかかわらず、人のこころに残るような小説も書け、賞ももらい、満ち足りた晩年を送ることができた。思い残すことはない。ありがとう。」
 今回、藤沢周平の俳句周辺のものを見ていく過程で、周平に対する女性ファンの多いのには改めて驚いたのであった。それと同時に、作家・藤沢周平というのは、どことなく、性格俳優の「宇野重吉」似という印象であったのだが、実は、若き日の教職にあった頃の小菅留治という実像は、二枚目俳優の「佐田啓二」似に近いものだったいうことも新しい驚きであった(藤沢周平全集別巻「仰げば尊し(福沢一郎稿)」)。それを裏付けるように、この全集ものの別巻に掲載されている教職・療養時代の写真は、掲出句に見られる陰鬱なイメージとは正反対に、実に爽やかな、丁度、「蝉しぐれ」の主人公の牧文四郎のような颯爽たるイメージなのである。そういう藤沢周平こと、小菅留治の実像らしきものに接したとき、これらの掲出句の鑑賞にあたっても、単に、療養時代の特殊な環境下の創作活動だったと、その境涯性を強調することなく、その底流に流れている、後世に数々の傑作小説を生む原動力のような「激しい詩魂」というものに焦点をあてて鑑賞すべきなのではなかろうかということを最後に付記しておきたい。

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