土曜日, 7月 01, 2006

芥川龍之介の句



芥川龍之介の句(その一)

○ 古池や河童飛びこむ水の音

答 少なくとも予は欲せざるを能はず。然れども予の邂逅したる日本の一詩人の如きは死後の名声を軽蔑し居たり。
問 君はその詩人の姓名を知れりや?
答 予は不幸にも忘れたり。唯彼の好んで作れる十七字詩の一章を記憶するのみ。
問 その詩は如何?
答 「古池や蛙飛びこむ水の音」
問 君はその詩を佳作なりと倣(な)すや?
答 予は必しも悪作なりと倣さず。唯「蛙」を「河童」とせん乎、更に光彩離陸たるべし。

 上記の問答は、現在の「芥川賞」で偶像化されている小説家・芥川龍之介の小説「河童」の中の問答の一節である。河童国の自殺した詩人・トックをして、龍之介は、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を「古池や河童飛びこむ水の音」にすると、より一層佳句となると言わしめているのである。龍之介には「続芭蕉記」という創作もあり、そこでは、「彼(芭蕉)は実に日本の生んだ三百年前の大山師だった」と、逆接的な大賛辞を呈しているのである。龍之介にとっては、正岡子規も高浜虚子も、更には、龍之介を世に出した恩師ともいうべき夏目漱石すらも、こと、俳句においては眼中になく、たた゜、芭蕉とその門人の凡兆らのみに、多くの関心を示したのであった。蕪村については、潁原退蔵が編纂した『芭蕉全集』に、その「序」を呈しているが、その作品の多くは目にしていなかったし、一茶についても、ほとんど、その作品に目を通しているという形跡は見あたらない。龍之介は生前に、五百六十句ほどの俳句を創作して、そのうちの、七十七句のみを、昭和二年に刊行した『澄江堂句集』に収録したという(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。七十七句と厳選に厳選を施したこと、そして、昭和二年に、その句集を刊行したということは、昭和俳諧史のスタートは、龍之介の俳句をもってスタートしたともいえる。

芥川龍之介の句(その二)

○ 水洟や鼻の先だけ暮れ残る

「この句を辞世の句とみなす論者もある。得意の句でたびたび染筆しているという。七月二十四日の午後一時か二時ごろ、彼は伯母の枕もとへ来て、一枚の短冊を渡して言った。『伯母さんこれをあしたの朝下島さんに渡してください。先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれないが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、そのまままだねているからと言ってわたしてください』これが彼の最後の言葉となった。『下島さん』は主治医下島勲であり、乞食俳人井月を世に紹介した人である。彼はヴェロナールおよびジャールの到死量を仰いで寝たのである。短冊には『自嘲』と前書して、この句が書かれてあった」(山本健吉著『現代俳句』)。彼のデビュー作として夏目漱石に激賞された短編小説の「鼻」の主人公の禅智内供の「細長い腸詰めような鼻」すらも連想させる。この句について、「鼻に託して、冷静に自己を客観し、戯画化した句であり、恐ろしい句である。彼の生涯の句の絶唱であろう」
(山本・前掲書)と山本健吉は評している。龍之介が自殺したのは、昭和二年(一九二七)の三十五歳という若さであった。そして、この辞世の句とされている句も、この同じ年に刊行された『澄江堂句集』に収録されているのである。この昭和二年は台湾銀行の休業が発端となっての金融恐慌が勃発した年である。龍之介は「或る旧友へ送る手記」で、「唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である」との言葉を残している。何か、龍之介が生きていた時代、そして、その後の、日本が辿る時代を予感しているような響きすら有している。

芥川龍之介の句(その三)

○ 更くる夜を上(うは)ぬるみけり泥鰌汁

この句には、「田舎びとは夜のあることを知らず。知れるは唯闇ばかりなるべし。夜とはともし火にも照らされたるものを。この田舎は闇のけうとかりければ」との前書きが付与してある。さらに、この句は、大正十一年九月八日付けの真野友彦あての手紙にも書かれており、その頃の作とされている(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、山本健吉は、「小島政二郎氏がこの句には、芭蕉の『夏の夜や崩れて明けし冷やし物』が透いて見えると言ったのは、当時芥川と句を見せ合った人の言葉だけあって、よく見透かしている」(山本・前掲書)と、この句の背景について指摘している。芭蕉の「崩れた冷やし物」を、龍之介は「上ぬるみけり泥鰌汁」と置き換えているのである。また、芭蕉が「夏の夜や崩れて明けし」を、龍之介は「更くる夜を上ぬるみけり」と逆付けを試みているのである。こういう本句取りの、換骨奪胎的な手法は、龍之介の生みの親でもある夏目漱石の俳句においても、顕著に見られるものであった。それ以上に、この本句取りの手法というのは、永い俳諧(連句)の歴史を省みて、芭蕉を始め多くの俳人が金科玉条としてきたものであった。そして、そういう技法上のこと以外に、芭蕉の句においても、夜を徹しての宴(俳諧興行)の後の侘びしさのようなものを漂わせているが、龍之介のこの句に至っては、その前書きにある「闇のけうとかりければ」と「気怠い雰囲気」が、芭蕉の句以上にストレートに伝わってくるのは、龍之介の神経が極度に研ぎ澄まされていて、何時か破綻を来すような、言葉では表現できないような不安に苛まれていたということを暗示しているように思えるのである。そして、こういう龍之介の当時の姿は、彼の描く小説よりも、より以上に、七十七句と、極端に厳選した『澄江堂句集』の句の中に、より多く真相が見え隠れしているように思えるのである。

芥川龍之介の句(その四)

○ 兎も片耳垂るる大暑かな   (龍之介)
○ 芥川龍之介仏大暑かな    (万太郎)

龍之介の掲出句には「破調」との前書きがある。「兎も」が四字で「字足らず」の破調を、わざわざ前書きにしているのである。それは、「片耳垂るる」で、それで、「両耳でなく片耳だけの字足らずの破調」と言葉遊びを楽しんでいるのである。そして、龍之介の知己の一人の久保田万太郎のこの句には「昭和三年七月三日」との前書きがある。龍之介が服毒自殺したのは、その前年であり、これは一周忌の追悼句ということになる。この万太郎の句は、龍之介の掲出の破調の句を意識していることは勿論である。意識しているというよりも、龍之介の破調の句の「本句取り」の句と言って差し支えなかろう。追悼句の名手とされている万太郎は、また、「情にウエート」を置いての作句を得意とした。それに比して、龍之介はこの掲出句のように「知にウェート」を置いた作句を得意とした。そして、両者に共通していることは、共に、当時の俳壇の「ホトトギス」調とか「馬酔木」調とかとは無縁で、江戸の古俳諧、そして、子規が痛罵・排斥した、月並俳句的技法を自家薬籠中の物にしているということである。このことは、両者とも意識していて、龍之介は万太郎の句集『道芝』(昭和二年刊)の「序」で、「江戸時代の影の落ちた下町の人々を直写したものは久保田氏の外には少ないであろう」と指摘している。この指摘は、龍之介にも均しく当てはまることであろう。

芥川龍之介の句(その五)

○ 木がらしや東京の日のありどころ  (龍之介)
○ 東京に凩の吹きすさぶかな     (万太郎)

龍之介の大正六年の作。龍之介には「木枯し」の句が多い。その龍之介の「木枯し」の句は、彼の代表句とされている「木がらしや目刺にのこる海のいろ」で見ていくこととして、この掲出句では、「東京の日のありどころ」に注目したい。この「日のありどころ」は、蕪村の「几巾(いかのぼり)きのふの空のありどころ」を意識していることであろう(同趣旨、山本健吉著『現代俳句』)。この蕪村の句について、萩原朔太郎の「『きのふの空の有りどころ』という言葉の深い情感に、すべての詩的内容が含まれていることに注意せよ。『きのふの空』はすでに『けふの空』ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの凧が揚がっている。すなわち言えば、常に変化する空間(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しげに、窮窿(きゅうりゅう)の上に実在しているのである」との指摘をしている。山本健吉は、この萩原朔太郎の指摘を紹介しながら、「龍之介のこの句にも、凩の空にかかる東京の白っぽい太陽に、作者の郷愁と追慕とが凝結しているというべきであろうか」と、生粋の東京ッ子・芥川龍之介の「東京という彼の故郷の、心を締めつける光景だ」という評を下している(山本・前掲書)。その龍之介が俳句の方では一目も二目を置いてていた同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破していた。この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、この龍之介の掲出句を含めて、龍之介俳句の全てにも均しく言えることであろう。そして、万太郎の掲出句は、昭和十五年の作。龍之介が亡くなって十三年という年月を経てのものである。しかし、この句の背景には、亡き同胞の龍之介の掲出の句が脳裏にあったことは想像に難くない。

芥川龍之介の句(その六)

○ 木がらしや目刺にのこる海のいろ      龍之介
○ 海に出て木枯(こがらし)帰るところなし   山口誓子
○ 木枯(こがらし)の果てはありけり海の音   池西言水

一句目は龍之介の大正七年作。二句目は「ホトトギス」の「四S」(秋桜子・素十・誓子・青畝)の関東の「秋桜子・素十」に比しての関西の「誓子・青畝」といわれた誓子の昭和十九年作(「四S」の呼称は昭和三年に山口青邨が用いた)。そして、三句目の言水の句は元禄三年の『都曲』に出てくる。この言水の句は言水の句で最も人口に膾炙されているもので、この句をして「木枯の言水」と異名されているほどである。古典に造詣の深い龍之介はこの言水の句が意識下にあったことであろう(山本健吉著『現代俳句』)。その上で、改めて、この龍之介の掲出の句を鑑賞すると「上五や切り」の「下五体言止め」の最も安定した典型的なスタイルで、言水の「中七切字」の「下五体言止め」よりも古典的な雰囲気を有していることと、「目刺にのこる海のいろ」の鋭い把握は、画・俳二道を極めた蕪村の画人的な眼すら感じさせるということである。この句は龍之介の自慢の句の一つで、小島政二郎宛ての書簡などにも書き添えられているという(山本・前掲書)。そして、この二句目の誓子の句も、誓子の傑作句の一つに上げられるもので、この句の背景にも、言水の句が見え隠れしているが、さらに、龍之介の掲出の句も意識下にあるのではなかろうか。そして、この誓子の句は、太平洋戦争の真っ直中の作句で、「野を吹き木の葉を落としながら吹きすさんで行った木枯しは、何も吹くもののない海上に出て消え失せるのでのである」(山本・前掲書)と、その時代の背景すら、この句に接する者に語りかけてくるのである。そして、木枯しの句は、言水、龍之介、そして、誓子に至って、その頂点に達したように思われるのである。

芥川龍之介の句(その七)

初秋の蝗(いなご)つかめば柔かき

龍之介のこの掲出句は、蕪村の「うつつなき抓(つま)ミごころの胡蝶かな」が意識下にあるであろう。小説の神様といわれて、龍之介も脱帽していた志賀直哉の蕪村に関連しての龍之介論がある。「大蛾の『十便』を互いに讃め合った時、芥川君は『十便』に対し『十宣』を書いた蕪村を馬鹿な奴だと言っていた。しかし久保田君の所にある『時雨るるや』の句に雨傘を描いた芥川君の画を新聞で見、銀閣寺にある蕪村の『化けさうなの傘』と全く同じなので、芥川君は悪く言いながらやはり大雅より蕪村に近い人だったのではないかとふと思った。同時に蕪村よりは大雅が好きだったろうとも思った」(山本健吉著『現代俳句』所収、志賀直哉「沓掛にて」)。続いて、山本健吉は「彼(龍之介)がもっとも敬慕したのは芭蕉であり、もっとも愛惜したのは丈草と凡兆とであった」(山本・前掲書)と指摘している。これらのことは、龍之介の特質を実に的確にとらえていて、龍之介は「好きな人」を「嫌いだ」と逆説的な表現をすることが多いことと、俳句の方では、蕪村よりも芭蕉とその蕉門の丈草と凡兆との句に精通していたということは自他共に認めるほどだったのである。その背景には、当時はまだ、画人・蕪村は喧伝されていたが、俳人・蕪村については、「蕪村句集」なども完備しておらず、昭和八年に刊行された潁原退蔵編の『蕪村全集』が出て、始めて、俳人・蕪村の全貌が明らかになったということもあるであろう。そして、龍之介はこの潁原退蔵編の『蕪村全集』に「序」を寄せていて、「わたしはあなたの蕪村全集を得たならば、かう言う知的好奇心の為に(「蕪村も一朝一夕になったわけではありますまい。わたしはその精進の跡をはっきりと知りたい」という前文を指している)、夜長をも忘れるのに違ひありません」と、まるで子供が玩具を渇望するよにその刊行を待ち望んでいたのである。志賀直哉が指摘した「龍之介は大雅より蕪村に近い人だったのではないか」、そして、「同時に蕪村よりも大雅が好きだった」という指摘は、「龍之介は気質的にも蕪村に近い人で、それが故に、あたかも自己を見ているようで蕪村を敬遠していた」ともとれなくもないのである。ただ決定的に両者が相違することは、龍之介が早熟な天才肌の人であったの対して、蕪村は老成の努力肌の達人であったということであろう。とにもかくにも、龍之介は、「芭蕉」オンリーのような姿勢をとりながら、内実、この掲出句のように、俳人・蕪村にもどっぷりと浸っていたのである。

芥川龍之介の句(その八)

○ たんたんの咳を出したる夜寒かな
○ 咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな

 龍之介には自分の子を詠んだ句が多い。家庭を顧みない「火宅の人」(擅一雄の小説の題名)のような無頼派のイメージはないけれども、早熟な夭逝した鬼才というイメージから、家庭人というイメージは浮かんで来ない。しかし、小説と違って、十七音字という極めて短小な俳句の世界においては、その人の境涯が浮き彫りになってくるのに、しばしば遭遇する。龍之介のこういう句に接すると、これもまた龍之介の一面かと、「芥川が死んだのは、芥川があまりにも真面目であった為である。あまりにも鋭敏なモラル・センスを持っていた為である」(小宮豊隆)という指摘も素直に受け入れられるように思えてくるのである。この掲出の一句目には、「越後より来れる婢、当歳の児を『たんたん』と云ふ」との前書きがある。この「たんたん」というのは、越後の方言的な、または、幼児の仕草などから来る愛称的な、一種の「造語」的なものなのであろう。そして、二句目には、「妻子は夙に眠り、われひとり机に向ひつつ」という前書きがある。この句については、大正十三年四月十日夜の日付のある小沢碧童(俳人)あての手紙の「半月ばかり女中の一人もゐない為、子供二人をかかへ、小生まで忙しい思ひをして居ります」と文章の後に書かれているという(山本・前掲書)。この二つの句について、山本健吉は「『咳一つ』といきなり言ったのが、いかにも大事件のようだ。赤子の咳一つにすぎないが、親にとっては大事件に違いない。その、ひんやりとするような不安と驚きが出ているのが、おもしろいのである」として、この二つの句のうち、二句目よりも一句目を優れているとしている(山本・前掲書)。しかし、龍之介は自選の定本句集『澄江堂句集』には、この二句目は棄てて、一句目を収載しているのである。この二つの句は、それぞれ前書きが付与してある句なのであるが、その前書きが付与してある句として、この一句目の「たんたん」という造語的な句に、より多く、龍之介は愛惜していたということと、そして、いかにも、この「たんたん」という造語的な語句が「吾が子」というイメージをストレートに伝えていて、ここは、龍之介の選句を是としたいのである。

芥川龍之介の句(その九)

○ 青蛙おのれもペンキ塗りたてか(龍之介)
○ 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな(龍之介)
○ 影像(すがた)のかりゅうど(ジュール・ルナール)
○ ぜんまいののの字ばかりの寂光土(川端茅舎)

大正デモクラシーの洗礼を受けた芥川龍之介と江戸時代の与謝蕪村とでは、その王朝趣味、怪奇趣味という点では類似点を多く見ることができるが、決定的に西洋文明と真正面に対峙した点において、龍之介の世界がより多く現代人にアッピールするものを有していることは多言を要しないであろう。龍之介には、アフォリズム的(箴言的・警句的)な短編小説『侏儒の言葉』という著書がある。「わたしは神を信じてゐない。しかし、神経を信じてゐる」。「わたしは良心を持つてゐない。わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」。掲出の第一句目の「雨蛙」の句、これは、まぎれもなく、龍之介の「わたしの持つてゐるのは神経ばかりである」の毒々しい病的な神経の句である。この二句目に至っては、「彼の異常にとぎすまされた神経が生んだ幻想である」(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。そして、この句は、「我鬼が龍之介とは知らなかった飯田蛇笏は『無名の俳人によって力作された逸品』とほめ、虚子は『特異な境地の句』といって賞賛した」という(志摩・前掲書)。蛇笏も虚子も名うての選句の達人であるから、龍之介の俳句の卓越性というのを見抜き、そして、その真価を認めていたということであろう。しかし、こういう異常に研ぎ澄まされた神経によって作句していた龍之介が、何時か破綻するということも予知されるような二句でもある。ちなみに、フランスの作家、ジュール・ルナールの『博物誌』のこの三句目は、自分自身を「影像(すがた)のかりゅうど」と表現しているが、同じアフォリズムでも、自然に対する愛情や温かい洞察の眼が感じられる。それに比して、龍之介は、自然や生き物が自分の分身として痛々しいほど神経が繊細でギラギラとしていて自嘲しているように思われるのである。そして、同じ、「ぜんまい」の比喩でも、この四句目の川端茅舎の「ぜんまい」の句は、虚子に、「花鳥諷詠真骨頂漢」と讃えられた「茅舎浄土」ともいわれる、「静寂・静浄の境地」・「茅舎がきずきあげた美の世界」(志摩・前掲書)が詠みとれるのである。龍之介は優れたアフォリズムを残し、優れた俳句をも残した類い希なる才能の持主であったが、
ルナールや川端茅舎ほど、そのアフォリズムにおいても俳句においても、後世に影響を与えるものではなかったということはいえるであろう。

芥川龍之介の句(その十)

○ 松風をうつつに聞くよ夏帽子
○ 明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす
○ しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり
○ 切支丹坂を下り来る寒さかな

山本健吉著『現代俳句』の中で、正岡子規の「鶏頭は十四五本もありぬべし」の句鑑賞に次の一節がある。「志摩芳次郎に至っては、『花見客十四五人は居りぬべし』『はぜ舟の十四五艘はありぬべし』など愚句を並べ立てて、鶏頭の句の揺るぎなさを否定しょうとする」。
この一節に登場する志摩芳次郎は、その著『現代俳人伝(二)』の中で、上記の掲出の四句について、「芥川の絶唱」として高く評価している。これらの四句については、「震災の後増上寺のほとりを過ぐ」との前書きがある。この前書きにある関東大震災は大正十二年(一九二三)九月のことであった。これらの四句について、志摩芳次郎は「芥川は、芭蕉や『猿簑』から、俳句の美しいリズムを学んだ。茂吉によって、文芸上の形式美にたいする目をひらいたかれは、その内奥美を芭蕉から学びとっている」として、「芭蕉に直結する唯一の現代俳人であった」とまで指摘している。とにもかくにも、この志摩芳次郎の指摘をまつまでもなく、龍之介が芭蕉に心酔して、こと俳句の創作においては、芭蕉を模範としていたということは、その『澄江堂句集』に収載されている七十七句に均しく当てはまるように思えるのである。そして、同時に、この掲出句に見られるように、大正時代の東京に限りない思慕を懐き、そして、その東京という龍之介の心の故郷への鎮魂の句ともいうべき、そのような哀調のリズムが、龍之介の俳句の根底に流れているように思えるのである。志摩芳次郎は、この掲出の一句目に、「地獄図絵を現出した震火災悪夢」を「うつつに聞く」龍之介を見て、その二句目で、「芭蕉の『野を横に馬引むけよほとゝぎす』と形が似ているが、声調は芥川の句のほうが、はるかに美しい」とし、その三句目で、「冬ざれのわびしい風景をうたって、これほど情趣をもりあげた句を知らない」としいる。そして、その四句目で、「この句を口ずさむと、とんとんと、自分が坂を下りてくるような気持になる」と絶賛しているのである。龍之介はかって、俳句の同胞の久保田万太郎の『道芝』の「序」に寄せて、「久保田氏の発句は東京の生んだ『嘆かひ』の発句である」と喝破した。そして、この龍之介の万太郎評の「東京の生んだ『嘆かひ』の発句」との評は、つくづく、これらの龍之介の掲出句にも、そして、龍之介俳句の全てにも均しく言えるということを再確認する思いなのである。

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