水曜日, 4月 26, 2023

第五 千づかの稲(5-11~5-14・5-15)

     晩器改名朝四

5-11  いろ鳥の中によき名を鶫哉

5-12    しらぎくや籬(まがき)のうちの羽林軍

5-13  竜胆や慈鎮の菊の後に咲く

5-14    をり屑の堰(いせき)にかゝるもみぢかな

 (「句意周辺」)

 この四句の前書の「晩器改名朝四」の「晩器」は、寛政九年(一七九七)十月十七日に抱一が出家して、その「出家得度答礼」の西本願寺などの挨拶のため、十一月三日より十二月十四日まで上洛した折に、抱一(等覚院文詮暉真)に同行した俳友(其爪・古櫟・紫霓・雁々・晩器)の中の一人である。

 この「晩器」については、下記のアドレスで、「享和から文化の頃にかけて、喜多川歌麿風の美人画や読本の挿絵などを描いている浮世絵師・恋川春政(晩器・花月斎・春政と号す)」ではないかとして、紹介した。

 https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-564-57.html

  続く、「晩器改名朝四」の「朝四」は、下記のアドレスで、「柳沢米翁」と共に、抱一の後見人の一人であるような関係にある「佐藤晩得」の俳号の一つなのである。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-03

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-12

 佐藤晩得

没年:寛政4.10.18(1792.12.1)

生年:享保16(1731)

 江戸中期の俳人。通称,又兵衛祐英。堪露,北斎,朝四,木雁,哲阿弥な

したどを号す。居が向島牛島神社近くにあったので,半渚老魚,牛島庵とも称した。秋田角館の人。佐竹藩江戸詰留守居役を勤めた。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門。西山宗因の風を慕い,居室に「清談林」の額を掲げたという。谷菅井らと考えを同じくした。交流圏は広く,酒井抱一,柳沢信仰,十寸見蘭洲らと親交する。句集に七回忌刊行の『哲阿弥句藻』がある。多くの著作のうち,諸俳人の逸話を記した『古事記布倶路』は特に有名。(楠元六男)(「朝日日本歴史人物事典」)

晩器春政(恋川春政)

 生没年未詳

恋川春町の門人、または二代目春町の門人といわれる。北川や恋川の画姓を称し、晩器、花月斎、春政と号す。作画期は享和から文化の頃にかけてとされ、喜多川歌麿風の美人画や読本の挿絵などを描いている。

(作品)

『朝顔日記』十冊/読本/※雨香園柳浪作、文化8年(1811年)刊行 「北川春政」落款

「遊女」 絹本着色 光記念館所蔵 ※「晩器春政筆」の落款、「春」の朱文方印あり。那須ロイヤル美術館(小針コレクション)旧蔵

「懐紙を持つ芸妓図」 紙本着色 熊本県立美術館所蔵 ※「春政筆」の落款、「春」の朱文方印と印文不明の白文方印あり。(「ウィキペディア」)

 

5-11  いろ鳥の中によき名を鶫哉

 (「句意」)

 季語は「鶫」(晩秋)。「いろ鳥(色鳥)」は「秋に渡ってくる美しい小鳥」のことで、季語(三秋)の働きをするが、この句では、例示的な用例で、季語的な働きは、「鶫」が主で、「いろ鳥」は従ということになる。

 句意は、「佐藤晩得の俳号の一つの『朝四』の継受者として、その候補者は、例えば、抱一の出家得度答礼の挨拶のため上洛した折に同行した『米翁・晩得(哲阿弥)』に連なる俳人の『其爪・古櫟・紫霓・雁々・晩器』は、何れも、それに値する「色鳥(美しい秋の小鳥)」だが、『朝四』(『朝四大尽』)の号には、「酒上不埒(さけのうえのふらち)」の狂歌名を有する『恋川春町』の門人でもある『晩器春政』の、俳人『晩器』が相応しい。」


5-12    しらぎくや籬(まがき)のうちの羽林軍

 (「句意」)

 季語は「しらぎく(白菊)(三秋)。「羽林軍」は「天子の宿衛をつかさどる役=近衛府()=親衛隊」のこと。この「しらぎく(白菊)」は、「晩器」ではなく、「朝四=哲阿弥=佐藤晩得」を比喩ということになろう。

「句意」は、「『晩器改名朝四』の『改号祝い』を迎えるにあたって、その『朝四=哲阿弥=佐藤晩得』の『白菊』を護衛する『籬』の、その『羽林軍』(『近衛軍団』)の、何と、『隆々たることか」。』


5-13  竜胆や慈鎮の菊の後に咲く

(「句意」)

 季語は「竜胆」(仲秋)、この「慈鎮の菊」というのは、「いとせめてうつろふ色のをしきかなきくより後の花しなければ」(慈鎮和尚=慈円)、そして、それを踏まえての、芭蕉の「菊の後(のち)大根の外(ほか)更になし」(『陸奥鵆』)を念頭に置いての一句のように思われる。

 「句意」は、「『菊の花が散ってしまえばもはや花はない』(慈鎮和尚)、それをパロディ化して、芭蕉翁は、『菊の後(のち)大根の外(ほか)更になし』と反転させた。ここは、その両翁の歌と句に唱和して、『慈鎮の菊』の『哲阿弥(佐藤晩得・前号『朝四』)』和尚の、その『朝四』の号を引き継ぐ『晩器(春政)』は、『芭蕉翁の大根』の風味謳歌ではなく、楚々と咲く『竜胆の花』に例えられる。」

 

5-14    をり屑の(いせき)にかゝるもみぢかな

 (「句意」)

 この上五の「をり屑の」の「をり」というのが、一見して誤記のたぐいかと難儀したが、これは「澱・滓(おり・をり)(水底・水中の沈殿物)の意に解したい。「堰(いせき・ゐせき)」は、「水を他へ引いたり流量を調節したりするため、川水をせきとめる所。せき。い」

(「デジタル大辞泉」)

 「句意」は、「水中・水底の『澱(おり)・滓(かす)・屑(くず)』を堰き止める『堰(せき)』に、『紅葉(もみじ)』(晩秋の季語)の葉が引き掛かって、それが、一際、晩秋の風情を漂わせている。(そして、この『紅葉』こそ、混沌として澱(よど)んだ今の俳諧の世界に、一石(いっせき)を投ずるであろう、吾らの『東風流(あずまぶり)』俳諧の、枢要な名跡『朝四』(『哲阿弥晩得』の号)を引き継ぐ、若き『晩器(春政)』と見立てても良かろう。)

 (参考一)

『吉原大通会』(「恋川春町の自画・自作の黄表紙(絵入りの草双紙)」)に見る「天明狂歌壇」の面々と「佐藤晩得」(「朝四大尽」)

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-03

 

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)10/20

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

 

(メモ)

 (『吉原大通会』関連)

https://blog.goo.ne.jp/edomanga/e/1e80b15744cccdfbf5696358b123f7d2

 (上記の図の「上段右から左」の順・下記の)

 ※手柄岡持(狂名:てがらのおかもち)=享保二〇~文化一〇年(一七三五一八一三)。江戸後期の戯作者。狂歌師。秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役、佐藤晩得の後任者)。別号に朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)。寛政の改革の時、君侯の命で筆を絶っている。この『吉原大通会』の主役(「すき成」)として登場し、上記の図の場面は、天通(恋川春町)の神通力で、大文字屋で狂歌会をやっていたメンバーを、「天通とすき成」が居た菊場屋(松葉屋か?)に引き連れて来て、「それがし、つりが『すき成』なれば、「手がらの岡もち」(手柄岡持)と名をつきましょう」との科白を吐いている。普通の格好をしているのは、唐丸と岡持の二人だけで、この二人は、春町(天通)と一緒に、菊場屋(松葉屋?)に居たような感じである。

※四方赤良(狂名:よものあから)=寛延二~文政六年(一七四九一八二三)、江戸後期の狂歌師。洒落本、滑稽本作者。別号に大田南畝(おおたなんぽ)、蜀山人(しょくさんじん)、寝惚(ねぼけ)先生など。江戸幕府に仕える下級武士。上記の図は、漏斗(ろうと・じょうご)を頭に載せているようである(脳から狂歌を注ぎたい洒落か?)唐丸が「春さんが」と赤良に問い掛けると「春とは誰だ。恋川春町か」と唐丸に問い質している。

 ※元木綱(狂名:もとのもくあみ)=享保九~文化八年(一七二四一八一一)。江戸後期の狂歌師。湯屋を業とした。狂歌最古参の一人。その門下を落栗連と称した。上記の図は「(赤良の格好を見て)さすがに趣向の人だね。当方は名前のとおり普段のままだ」と頭に手をやっている。

 ※朱楽菅江(狂名:あけらかんこう)=元文三~寛政一〇年(一七三八一七九八)、江戸後期の狂歌師、洒落本作者。江戸生まれた幕臣。上記の図は天神様の格好のようで、清盛風の酒盛入道常閑に向かって、上記の図は「襟巻は良いが、掻巻は似合わないね」とケチをつけている。

 ※紀定丸(狂名:きのさだまる)=宝暦十~天保十二年(一七六〇-一八四一)、四方赤良の甥。幕臣で精励な能吏で旗本となった。上記の図は「何時も気が定まらず、思案に暮れている」と自嘲している。

※大腹久知為(狂名:おおはらくちい)=『徳和歌後満載集(一巻)』(四方赤良編著)に「大原久知位」で一首、『同(九巻)』に「大原久知為」で一首、『同(巻十)』に「大原久ちゐ」で一首、計三首の狂歌が収載されている。上記の図は「おお原くちいから、お茶でいこう。眠い。眠い」とぼやいている。

 ※酒盛入道常閑(狂名:さかもりにゅうどうじょうかん)=未詳。上記の図は「(菅江が常閑の襟巻は褒め、掻巻にはケチを付けたので)菅江の袖頭巾の梅は良いが、水仙はお粗末だ」とお返しをしているようである。

 (上記の図の「下段左から右」の順・下記の△印)

 △平原屋東作(狂名:へいげんやとうさく)=享保十一~寛政元年(一七二六八九)。「平秩東作(へずつとうさく)の名で知られている。内藤新宿で家業の馬宿、たばこ商を営んだ。幕府の事業にも手をそめるが、寛政の改革により、幕府の咎めを受ける。上記の図は「(煎餅袋を逆さに被って)へいげん屋東作にあらず、べいせん屋頓作の座興だ」とソッポを向いている。

 △蔦唐丸(狂名:つたのからまる)=寛延三~寛政九年(一七五〇九七)、蔦屋重三郎、江戸中期の地本問屋、蔦屋の主人。通称蔦重(つたじゅう)。上記の図は「狂歌より、どうか一幕の狂言をお書きください」と硯と紙を差し出している。他の登場人物は全員仮装しているのだが、後から駆けつけて来て普通の格好をしている(普通の格好は「手柄岡持」との二人のようである)。

△加保茶元成(狂名:かぼちゃのもとなり)=宝暦四~文政十一年(一七五四-一八二八)、江戸新吉原の妓楼大文字屋の初代村田市兵衛の養子となる。天明狂歌壇の一翼として活躍し、吉原連を主宰した。上記の図は「人さまに見せない『加保茶元成』振りは、先代が歌って踊ったとおりです」と、顔を覆面で覆っている。この集まりは、当初、加保茶元成の大文字屋での各人が扮装しての狂歌会だったのだが、菊場屋(松葉屋の仮名?)に居た恋川春町と手柄岡持が、二次会にと大文字屋から菊場屋へと場所を移させたようである。

△腹唐秋人(狂名:はらからのあきんど)=宝暦八~文政四年(一七五八~一八二一)、狂歌を大屋裏住に学び本町連に入り、中井董堂(なかいとうどう)の号で書家としても知られている。上記の図は「俺の着ているのは、竜紋という上等の絹物だ」と嘯いている。

 △大屋裏住(狂名:おおやのうらずみ)=享保十九~文化七年(一七三四一八一〇)。江戸中期の狂歌師。号は萩廼屋(はぎのや)。江戸で更紗染屋から貸家を業とした。手柄岡持(朋誠堂喜三二)や酒上不埒(恋川春町)らの属している本町連を主宰している。上記の図は「土の車の吾らまで、かかる時節に大屋裏住」と能「土車」の科白を吐いている。

(上記図には登場しない。)

 〇恋川春町=延享元~寛政元年(一七四四‐八九)、 狂名:酒上不埒(さけのうえのふらち)

江戸中期の黄表紙作者、狂歌師。駿河小島藩士。寛政の改革を風刺した「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」に関わる召喚に出頭せず、その年死んだことから、自殺説も伝えられる。上記の図には登場しない(上記の図は大文字屋(一次会)から菊場屋(二次会:松葉屋の仮名か?)に会場を移しての場面で、その菊場屋の別室で『吉原大通会』を書いているか?)。この『吉原大通会』では、「天狗が化けた通人=天通」として登場している。

 

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)5/20

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

 

〇荻江露友(「おうぎ江西林」の名で登場)と佐藤晩得(佐藤晩得=朝四=朝四大尽、ここでは「蝶四といふ大通」の名で登場))

 

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)14/20

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

  この場面は、天通(恋川春町)の神通力で、当時の名のある大通(吉原通いの大通人=お大尽)を一同に集めて、「荻江節」(吉原の遊郭で座敷歌風に三味線に合わせて唄う長唄=めりやす=長唄の短い独吟物)が、その創始者・荻江露友(「おうぎ江西林」の名で登場)によって、その「九月がや」(作詞家・佐藤晩得=朝四=朝四大尽、ここでは「蝶四といふ大通」の名で登場)が披露されている場面のようである。

 上記の図の花魁の右脇の立膝をしている方が、初代荻江露友のようで、その右脇の三味線を弾いているのは芸者衆であろう。そして、その芸者衆から左周りに花魁まで大通(お大尽)衆が並び、中央の荻江露友と正面向きになっている武士風の大通は、蝶四(朝四大尽=佐藤晩得)のように思われる。この場面は、荻江節の初代荻江露友より、自分の作詞した「九月がや」の節付けなどの指導を受けているように解して置きたい。

 そして、この初代荻江露友(作曲家)と佐藤朝四(作詞家)を囲んでの大通(お大尽)衆は、「吝株(しわかかぶ)の貧通(ひんつう)は大費とぞ惜しみける」などの、この『吉原大通会』の作者・恋川春町の文章を見ると、そもそも、この戯作の『吉原大通会』の「大通」は、「大通人」(吉原に精通している大通人)を意味していて、ここでは、「荻江節愛好大通人」と解した方が、上記の図を理解するのには良いのかも知れない。

 

荻江露友(おぎえろゆう)→荻江節の家元名。

初世

(?―1787)荻江節の創始者。初名は千葉新七といって津軽藩士千葉源左衛門の子、のちに長谷川と改姓し泰琳(たいりん)と号した。長唄(ながうた)の初世松島庄五郎(しょうごろう)の門弟であったといわれているが、師弟であるとの証拠はない。1766年(明和311月より市村座に出勤、当時の名人富士田吉次(ふじたきちじ)と並び称されたが688月に引退、19か月の芝居勤めであった。一般的には小音で劇場長唄向きではなかったとの説が有力であるが、67年に立(たて)三味線の錦屋総治(にしきやそうじ)、西川奥蔵(おくぞう)が隠退したことに関係があるのではないかという説もある。

 市村座を去ってから、新吉原でお座敷長唄を創始、これが流行になって荻江節の名を残した。右手に扇を持って縦に構え、左の足を立てて立膝になり、左手で左の耳のあたりを押さえて謡う癖があったという。[林喜代弘・守谷幸則](「日本大百科全書(ニッポニカ))

 https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

 ≪初代露友はめりやす作曲もやっていて、佐竹藩留守居役の佐藤朝四の作詞「九月がや」、山東京伝作詞の「素顔」、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻作詞の「賓頭盧」(びんずる)の節付けをしたことが知られている。()「めりやす(メリヤス)」=「節付け」のこと。≫

  

(参考二) 「晩器春政」(恋川春政)周辺

 

絵師:晩器春政/作品名:diptych print/日付:1800-1820 (floruit)/情報源:大英博物館/画題等:Woodblock print, diptych. Popular culture. Young man and young woman rousing another girl who has fallen asleep in a norimonot(「駕籠の女を起こす男女」の部分拡大図:「晩器筆」)

https://ja.ukiyo-e.org/image/bm/AN00602864_001_l

  

5-15 落葉して都の見ゆる庵かな

  この句は、『日本俳書体系第一四(近世俳話句集)』では、「晩器改名朝四」の前書のある四句(5-11・いろ鳥の中によき名を鶫哉/5-12 ・しらぎくや籬(まがき)のうちの羽林軍/5-13 ・竜胆や慈鎮の菊の後に咲く/5-14・ をり屑の堰(いせき)にかゝるもみぢかな)と同列の一句とされているのだが、「日本名著全集刊行会」所収本『俳文俳句集』所収の「屠龍之技」では、独立の一句として掲載されている。

 ここでは、この一句は、「晩器改名朝四」の前書に掛かる句というよりも、この「晩器改名朝四」当時の、抱一自身の心境を吐露した一句として解して置きたい。

 (「句意」周辺)

 この句の四句の前書の「晩器改名朝四」というのは、抱一自身の、一方的な前書で、必ずしも、この前書の「晩器改名朝四」の、その当事者の「晩器」は、「朝四」(「朝四大尽」)という枢要な名跡は辞退して、「朝四」(抱一)の前座名の「朝三」(晩器)を名乗っているようにも、抱一の、この自撰句集の『屠龍之技』などからも窺えるようなのである。

 

 「朝三いつのとしか予と京師に遊ぶ。

  ことし又、心牛にいざなわれて花洛  

  におもむく。その餞として」

当て来よ大和路かけて二の替り   (第八 花ぬふとり)

島一つ梭(しゅん)を投たりいとざくら(第八 花ぬふとり)

  これらのことは、寛政十年(一七九八)の、抱一自身の「句藻」で、次のように記していることからも窺い知れる。

   師((晩得=朝四)にあつ()かり置ける予(抱一)が朝四の名を/

       素兄(晩得の息)にかへすとて

預りをお復(かへ)し申()鉢の柿

  素兄朝四の名を晩器に譲る

色鳥の中で能き名を鶫かな

  即ち、「晩器」は「朝四」に改号したのではなく、「抱一」(「朝四」の継受者)そして、「素兄」(晩得=朝四の息)から、由緒のある「朝四」を継受するような誘いがあったのだが、その「朝四」は「抱一」(晩得からの継受者)のままとし、その前座役のような「朝三」を改号後の俳号としているようにも解せられるのである。

 この「朝三」を前書とする抱一の句は、これ以後の「軽挙館句藻」に、しばしば見られるところのもので、「朝四」の号は見受けられなくなってくる。そして、「晩得」の号は、文政七年(一八二四)、抱一の晩年の六十四歳時の「軽挙館句藻」に、その「息(継嗣)・素兄」が継受された句が遺されている。

   素兄父の名にあらため晩得と名のる

 葛餅や親の名て()御師龍大夫

  この「素兄」(晩得の息)と「抱一」との関係というのは、寛政八年(一七九六)、抱一、三十六歳時の、『江戸続八百韻』(「序」=抱一=墨陽庭柏子、「跋」=「米翁の息・保光=月邨所)、「連衆」=「大虎(千秋館)・素兄(清談林)・雁々(繍虎堂)」との四吟」時に遡ることになる。

 ここで、その翌年に、抱一が出家して、その得度の答礼挨拶を兼ねての上洛した折、同行した俳友(其爪・古礫・紫霓・雁々・晩器)の、その一人の「雁々」は、「酒井家の家臣・荒木家某」と紹介されている(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

 そして、ここで、改めて、「晩器改名朝四」の、「佐藤晩得」の「朝四」の号は、「朝四・暮三」・「朝三・暮四」(「詐術で人を愚弄(ぐろう)すること。中国、宋(そう)に狙公(そこう)という人があり、自分の手飼いのサル(狙)の餌(えさ)を節約しようとして、サルに「朝三つ、夕方に四つ与えよう」といったら、サルは不平をいって大いに怒ったが、「それでは朝四つ、夕方三つにしよう」というと、サルはみな大喜びをした、と伝える『列子』「黄帝篇(へん)」の故事による。このエピソードに続けて、「聖人の智()を以()って愚衆を籠絡(ろうらく)するさまは、狙公の智を以って衆狙を籠するが如(ごと)し」とある。転じて、目先の差別のみにこだわって、全体としての大きな詐術に気づかぬことをいう。[田所義行]」(「日本大百科全書(ニッポニカ))

 「句意」は、「『晩器改名朝四』」の改号は、晩器は、『朝四・暮三』の『朝四』でなく、『朝三・暮四』の、その『朝三』に改号すると謂う。そして、『朝四』は、『千束の隠士・抱一堂屠龍=抱一』のままと謂う。思えば、出家して上洛した折りに、晩器などとの、あの『俳諧(洒落俳諧)の旅路』が、今、こうして、落葉して見える『江戸の都』から『夢に描いていた京の都』の、そのあれかこれかを、あたかも、『朝三・暮四/朝四・暮三』の思いで回想している。」

木曜日, 4月 20, 2023

第五 千づかの稲(5-7~5-10)

     泰室改名春来

5-7  嶋臺の鶴と成りけり茗荷の子

5-8    刈除けて雁待つ小田の景色哉

5-9 待宵や降出す庭の捨箒

5-10  明月や曇ながらも無提灯

 この四句(5-75-10)の前書「泰室改名春来」の「泰室」は、「軽挙館句藻」には、「此度、国枝(「杖」は誤記?)泰室、春来の名を、郡山候(米翁の息・柳沢保光)に乞て、又、与(抱一)に、かの古印(前田春来の四霊の古印)乞ふ。かれも俳職(業俳の点者)の名利なればと思ひ、写しあたえぬ」(「抱一上人年譜稿(『相見香雨集一』」を「寛政前期の抱一(井田太郎稿)」を参考に、句読点と注などを付記している)

  この「寛政前期の抱一(井田太郎稿)」は、下記のアドレスに因っている。

 https://cir.nii.ac.jp/crid/1390282680795098112 

  上記の「寛政前期の抱一(井田太郎稿)」に因ると、この「泰室」は、「国枝泰室・黙翁泰室・大小庵曲笠・文化二年(一八〇五)以前に死亡」など、「米翁・晩得・抱一」と深い関わりのある、そして、それらの「遊俳(点者を業としてない「俳諧宗匠」)」の表の「業俳(点者を業としている「俳諧宗匠」)の、最右翼の一人ということになろう。

 5-7  嶋臺の鶴と成りけり茗荷の子

 「嶋臺」周辺

https://chanoyujiten.jp/simadainoyurai/

 ≪「嶋台」とは、金銀の重なった赤楽茶碗のことです。金銀二段になっていて盃の形、蓬莱山を表しています。本歌は長入作になります。

https://blog.goo.ne.jp/hougetukai/e/1c0eaaade1466b540dda0306a088932e

https://chanoyujiten.jp/simadainoyurai/

 高台は金の茶碗は五角形で鶴を表し、銀の茶碗は六角形で亀を表しています。おめでたい茶碗であることから、お正月の初釜の時の濃茶に使われる茶碗です。

 この茶碗が出来たのは、江戸中期。表千家七代如心斎によって造られたものです。この茶碗と川上不白には、特別な繋がりがあります。

不白は、京都で如心斎を師事していました。その如心斎に頼まれて江戸で行方不明になっている「利休遺偈」を取り戻す使命を受けます。

不白は単身で江戸に出てきて、まずは京都の茶道を江戸に広めていきます。たくさんのお弟子さんに不白流を継がせて、「利休遺偈」のことを探します。そして、茶事をする中で「利休遺偈」は深川の材木問屋の冬木家が所有していることを知ります。

不白は茶事に冬木氏を招き、「利休遺偈」は利休の最期の言葉であり、表千家が所有していることがふさわしいと説得し、如心斎から預かった品々と「利休遺偈」を交換してもらいます。

この功績を称えて、如心斎が嶋台を造り不白に贈ったことが「嶋台」の始まりです。今では、様々な流派が初釜で使われている嶋台ですが、始まりは表千家と表千家不白流からなのです。≫

  ここに紹介されている「嶋臺」の系譜の、「利休・川上不白・深川材木屋の『冬木家』」の「冬木家」は、江戸に下向した頃の「尾形光琳」と深い関係にあり、これらの系譜に連なる人物は、何れも、その後の「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と深い繋がりのある系譜ということになろう。

 「茗荷の子」周辺

 茗荷の子(みょうがのこ、めうがのこ)/晩夏

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/2167

 【子季語】茗荷汁

【関連季語】茗荷の花、茗荷竹

【解説】茗荷の花芽。風味があり、味噌汁の具や薬味にするが、これを食べると物を忘れるという俗説がある。「茗荷の花」は秋。

【来歴】『毛吹草』(正保2年、1645年)に所出。

【科学的見解】茗荷(ミョウガ)は、ショウガ科の多年草で東南アジア原産。日本各地の山野に野生化したものが生育しているが、一般的には畑うや庭に野菜として栽培される。高さは五十センチから一メートルくらい。地下茎を伸ばして群生する。生姜に似た披針形の葉は互生する。七月から十月にかけて地下茎から花茎を出し淡黄色の花を咲かせる。花が開く前の莟が食用になるほか、春の若芽の「茗荷竹」も汁の具などにする。釈迦の弟子に周梨槃特(しゅりはんどく)という人がいた。ひどく物覚えが悪く、自分の名さえ忘れるので、自分の名前を書いた札をいつも背負って歩いた。そんなふうだから笑い者にされたが、槃特は、釈迦の教えを守って精進を続け、やがて、悟りの域に達した。死後、その墓に名も知れぬ草が生えた。いつも名をになって歩いていた槃特にちなんでその草は「茗荷」と名付られた。「茗荷を食べると物忘れする」という俗説は、この槃特の忘れっぽさに由来するとされる。(藤吉正明記)

 (「句意」)

 「前田春来(青峨)・岡田米仲・柳沢米翁」の「東風流(あずまぶり)」俳諧の系譜は、「米翁」の俳諧の師筋の一人とされている「国枝曲笠」が、「春来」の前号の「泰室」から、「米翁・抱一」が継受されていた「春来」の号に改名する運びになった。

 これは、釈迦の弟子の周梨槃特(しゅりはんどく)の「茗荷の子」のように精進を重ねた結果で、それは、「東風流(あずまぶり)」俳諧の、金銀二段の蓬莱山を意味する、利休の茶の湯で珍重される「嶋台」茶碗の、その高台の「六角形の銀の亀」(「泰室」の号)から「五角形の金の鶴」の「鶴」に改号したことを意味するもので、誠に目出度いことである。

(参考)

 前田春来(青峨)

16981759 江戸時代中期の俳人。

元禄(げんろく)11年生まれ。江戸の人。鴛田(おしだ)青峨の門人で2代青峨をつぐ。宝暦6年江戸俳諧(はいかい)の伝統の誇示と古風の復活をはかって「東風流(あずまぶり)」を編集,刊行した。宝暦9416日死去。62歳。別号に春来,紫子庵。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

岡田米仲

17071766 江戸時代中期の俳人。

宝永4105日生まれ。前田青峨(せいが)の門弟。知己の俳人の自筆句に画像をかきいれた「たつのうら」や,江戸座俳人についてかいた「靱(うつぼ)随筆」を刊行した。明和3615日死去。60歳。江戸出身。別号に青瓐,牝冲巣,月村所,権道,八楽庵。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

 柳沢米翁(信鴻)

17241792 江戸時代中期の大名,俳人。

享保(きょうほう)91029日生まれ。柳沢吉里の次男。延享2年大和(奈良県)郡山(こおりやま)藩主柳沢家2代となる。俳諧(はいかい)を国枝曲笠(きょくりつ),岡田米仲(べいちゅう)らにまなび,江戸俳壇で活躍した。寛政433日死去。69歳。初名は義稠(ともあつ)。号は米翁,月村所,蘇明山人など,隠居後は香山。句集に「蘇明山荘発句藻」,日記に「宴遊日記」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

 酒井抱一

[]宝暦11(1761).7.1. 江戸 []文政11(1828).11.29. 江戸

江戸時代後期の画家。名は忠因 (ただなお) ,通称栄八。号は抱一,鶯村のほか,俳号として白鳧,濤花,杜稜,屠龍など。酒井忠仰の次男で,姫路城主,酒井忠以の弟。江戸で育つ。酒井家は代々学問芸術に厚い家柄で,抱一も若年より俳句,狂歌,能,茶事などを広くたしなんだ。病気を理由に 37歳で剃髪して等覚院文詮暉真と称し,権大僧都となる。 49歳のとき下根岸に雨華庵を営み,谷文晁ら当時の文化人たちとも親しく交遊。絵は初め狩野派を学び,次いで歌川豊春からは浮世絵,宋紫石からは沈南蘋 (しんなんぴん) の写生画風,さらに円山派,土佐派にも手を染めたが,のち尾形光琳,乾山に深く私淑。ことに光琳の画風の復興に努め,その影響のもとに独自の画風を形成。文化 12 (1815) 年の光琳百回忌にちなんで『光琳百図』『尾形流略印譜』を,文政6 (23) 年には『乾山遺墨』を刊行。文化文政期の江戸の粋人らしい繊細な情感を画面に漂わせる。主要作品『夏秋草図』 (東京国立博物館) ,『四季花鳥図』 (陽明文庫) (「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

なお、掲出句の周辺論稿としては、下記のアドレスの「寛政前期の抱一(井田太郎稿)」が参考となる。

 https://cir.nii.ac.jp/crid/1390282680795098112 

 

5-8    刈除(かりそ)けて雁待つ小田の景色哉

5-9 待宵や降出す庭の捨箒

5-10  明月や曇ながらも無提灯

(参考句)

   鶴が岡の放生会(ほうじょうえ)拝ミにと

  て待宵(まつよい)の月かけて雪の下のや

  どりに侍り。試楽(しがく)の笛に夜すが

  らうかれぬ。明れば朝霧の木の間たえだえ

  に楽人鳥のごとくつらなり社僧雲に似て、

  たなびき出る神のみゆきの厳重なるに、階

  下塵しづまり松の嵐も声をとゞめぬ。

 烏帽子著て白きもの皆小田の雁     嵐雪(「玄峰集・秋」)

 (「句意」の周辺)

 「5-8    刈除(かりそ)けて雁待つ小田の景色哉」の「雁と小田」の取り合せは、上記の嵐雪の「烏帽子著て白きもの皆小田の雁」の「小田の雁」を念頭にしてものという雰囲気を醸し出している。

 さらに、「5-9 待宵や降出す庭の捨箒」の、この「待宵」(旧暦八月十四日の夜の、十五夜の名月の一日前の月)もまた、上記の嵐雪の句の、長い前書に出てくる「待宵の月」と関連があるようにも思える。

 続く、「5-10  明月や曇ながらも無提灯」の、この「明月」(旧暦八月十五日の十五夜の月=明月)も、これまた、嵐雪の前書の「鶴岡八幡宮の、八月十五日供養の放生會の夜の名月」と結び付くように思えるのである。

 この嵐雪の句と前書については、正岡子規の『獺祭書屋俳話』で、子規の見解があり、下記のアドレスで紹介されている。

 https://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2020/05/post-2a2b18.html

 ≪ この句については子規居士の説がある。烏帽子白衣の人を雁に譬えたので、その点からいえば、むしろ鷺の方がいいわけだけれども、鷺では季にならぬから、雁を持出してその列を為すところまで利かしたのである、鳥に譬えたのは放生会ということを現そうとしたものだ、といのである。

この種の句はとても前書なしに解することは出来ない。子規居士もこれを評して「十七字にはとても包含すべからざるほどの事を前言に現し、しかして後その全体の趣味(もしくは一部の事物)を季に配合して文学的ならしめんとする者」だといっている。

前の「蛇いちご」の句にしても、異常な題材の人を驚かすに足るものはあるが、嵐雪の描こうとしたところを伝えるためには、所詮長い前書の力を借りなければなるまい。

「小田の雁」に至ってはそれよりも更に甚しいものがある。これらの句は前書なしには通用しがたいから、一句としては不完全の譏(そしり)を免(まぬか)れないかも知れぬ。 

但長々しい前書を用いて、これらの材料を一句に収めようとしたところに、嵐雪の文学的野心がある。また複雑極まるこの種の内容を取扱うに当って、十七字に盛るべからざるものを前書中に繰入れ、飽くまでも俳句の範囲における表現を企てたところに、嵐雪の手際(てぎわ)はあるのである。

こういう傾向が其角に多いことは、固より怪しむに足らぬであろう。比較的穏健雅正に見える嵐雪にして、時にこの手段に出ずるのを異としなければならぬ。嵐雪は慥(たしか)に其角と同じく「危所に遊ぶ」名人の一人であった。(中略)

(上田孟縉(もうしん)著になる鎌倉地誌「鎌倉攬勝考卷之二」の鎌倉鶴岡八幡宮についての「鶴岡總說」に載る毎年四月十五日行われた放生会についての挿絵)

 「 建久三年八月十五日供養の放生會終て同舞樂を/修せる迦陵頻並胡蝶の/一樂なり舞童是を修せり」≫(「柴田宵曲/俳諧随筆/蕉門の人々/嵐雪三/嵐雪~了」)

  この「柴田宵曲/俳諧随筆/蕉門の人々/嵐雪三/嵐雪~了」の見解は、嵐雪の「烏帽子著て白きもの皆小田の雁」は、上記の「迦陵頻(がりょうびん)」と「胡蝶(こちょう)」との「舞楽」の「童舞(わらびまい)」を、「雁(雁渡る・待つ雁)の列」に「見立て」ての句というのである。

 この見解を参考にすると、上記の、抱一の三句は、これらの句の前書の「泰室改名春来」の、その「改号祝い」の贈答句ということになる。

 (「句意」)

 5-8    刈除(かりそ)けて雁待つ小田の景色哉」

  「泰室改名春来」の「改号祝い」のために、苅田の後をきれいに刈り除()けて、吾らの「東風流(あずまぶり)」俳諧の祖「其(其角)・嵐(嵐雪)」の、その嵐雪の一句、「烏帽子著て白きもの皆小田の雁」の、この、「迦陵頻(がりょうびん)」と「胡蝶(こちょう)」の童舞(わらべまい)に見立てられる「小田の雁」を、この吾らの「千束の里の小田」に迎える準備をいたしたい。

 5-9 待宵や降出す庭の捨箒」

  その「泰室改名春来」の「改号祝い」の前日の「待つ宵」の日は、あいにくの雨で、そのお祝いの「千束の里の隠士の吾が家の庭」には、所在投げな「庭箒」がしょんぼりとしています。

 5-10  明月や曇ながらも無提灯」

  そして、迎えた「泰室改名春来」の「改号祝い」の今夜は、「曇ながらも無提灯」のような今宵ですが、必ずや、「改号祝い」に相応しい、「八月十五日」の「十五夜」の「明月」が上ることでしょう。

 (追記)

 芭蕉の「月十四日今宵三十九の童部(わらべ)」の「(真蹟短冊)」

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/warabe.htm

≪天和2年、芭蕉39歳の作。この年10句が記録されている。この句は、芭蕉庵で開催された甲斐國谷村の高山麋塒興業の句会における作である。「月は十五夜で完成、だから14日の月は未だ未熟。男は40にして立つ。よって39歳は未だ未熟。私は今39歳。」≫

  この若き日の芭蕉の句も、掲出の、「泰室改名春来」の前書のある四句に大きな影響を与えているように思える。

 抱一の、この「泰室改名春来」の前書のある四句の制作時期は、恐らく、寛政十一年(一七九九)、三十九歳時の、「千束の隠士・抱一堂屠龍」を名乗った「寛政十年」(一七九八)」の、その翌年の作のように思われる。

月曜日, 4月 17, 2023

第五 千づかの稲(5-4~5-6)

5-4  其夜降(ふる)山の雪見よ鉢たゝき

 

(「句意」周辺)

 この句の前に、「水無月なかば鉢扣百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」との前書がある。

  この「鉢扣百之丞」は、「鉢叩()・百之丞(人名)」で、「鉢叩()」=「時宗に属する空也念仏の集団が空也上人の遺風と称して、鉄鉢をたたきながら勧進すること。また、その人々。これは各地に存したが、京都市中京区蛸薬師通油小路西入亀屋町にある空也堂(光勝寺)が時宗鉢叩念仏弘通(ぐづ)派の本山(天台宗に改宗)として有名。十一月十三日の空也忌から大晦日までの四八日間、鉦(かね)をならし、あるいは鉢にかえて瓢(ふくべ)を竹の枝でたたきながら、念仏、和讚を唱えて洛中を勧進し、また洛外の墓所葬場をめぐった。また、常は茶筅(ちゃせん)を製し、歳末にこれを市販した。《季・冬》」(「精選版 日本国語大辞典」)

 

「鉢叩・鉢敲(はちたたき)(「精選版 日本国語大辞典」)

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/3783

 「鉢叩(はちたたき)/仲冬」

【子季語】空也念仏、空也和讃

【解説】十一月十三日の空也忌から大晦日までの四十八日間、空也堂の僧が洛中洛外を巡り歩いた空也念仏のこと。瓢、鉢、鉦を叩き鳴らし、和讃や念仏を唱えた。

【例句】

われが手で我が顔なづる鉢たたき  鬼貫「仏の兄」

長嘯の墓もめぐるか鉢たたき    芭蕉「いつを昔」

裏門の竹にひびくや鉢たたき    丈草「泊舟集」

山彦をつけてありくや鉢たたき   千代女「千代尼句集」

京中にこの寂しさや鉢叩き     蝶夢「草根発句集」

ゆふがほのそれは髑髏か鉢たたき  蕪村「其雪影」

墨染の夜のにしきや鉢たたき    蕪村「夜半叟句集」

鉢叩き月下の門をよぎりけり    闌更「半化坊発句集」

川ぞひや木履はきたる鉢叩き    白雄「白雄句集」

 

「吾嬬(あずま・あづま)に下(くだり)けるに」周辺

 この「吾嬬(あずま・あづま)」は、「吾嬬」=「東」の「奥(陸奥)の細道」(芭蕉関連)の「東」(陸奥など)への行脚と捉えるのか、それとも、「下(くだり)ける」(都・京都から地方・東国の江戸に来られた)と捉えて、「吾嬬()=江戸」と解するのか、どちらにも取れるが、前者の意に解して置きたい。

 (「句意」)

 旧暦の六月(「水無月」=夏の最後の月=晩夏)、「鉢扣・百之丞」が、「得道して」(出家して)、「空阿弥と改め」(「空也僧(行脚僧)」の「空阿弥」と名を改め)、「吾嬬」(「奥(陸奥)の細道」(芭蕉関連))行脚に出掛けるということで、「発句遣しける」(発句三句を餞とした)

 その一句目の、「其夜降(ふる)山の雪見よ鉢たゝき」の句意は、「空也忌(十一月十三日)の夜の念仏行脚の頃は、恐らく、陸奥路の行脚の頃で、そこで陸奥の山々の雪を見ることでしょう。」

 (参考)

 http://yahantei.blogspot.com/2007/08/blog-post_21.html

 (再掲)

 ≪ (句合わせ二十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

(謎解き・七十七)

 二十六番

   兄 蟻道

 弥兵衛とハしれど哀や鉢叩

   弟 (其角)

 伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき

(兄句の句意)弥兵衛が鳴らしているものとは知っていても、誠に鉢叩きの音はもの寂しい音であることか。

(弟句の句意)伊勢縞を来て歌舞伎役者のような恰好をしている鉢叩きだが、その伊達風の華やかな音色ではなく、そこのところが、誠の鉢叩きのように思われる。

(判詞の要点)兄句は鉢叩きにふさわしい古風な鉢叩きの句であるが、弟句はそれを伊達風の新奇な句として反転させている。

 () この兄の句の作者、蟻道とは、『俳文学大辞典』などでも目にすることができない。しかし、『去来抄』の「先師評(十六)」で、「伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)」との文言があり、「伊丹の俳人」であることが分かる。

 () この『去来抄』に記述したもののほかに、去来は、別文の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)を今に遺している。

 ○師走も二十四日(元禄二年十月二十四日)、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞かむと、例の翁(芭蕉翁)のわたりましける(落柿舎においでになった)。(以下略。関連の句のみ「校注」などにより抜粋。)

 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢叩  (去来)

米やらぬわが家はづかし鉢敲き     (季吟の長子・湖春)

おもしろやたゝかぬ時のはちたゝき   (曲翠)

鉢叩月雪に名は甚之丞         (越人)

ことごとく寝覚めはやらじ鉢たゝき     (其角)

長嘯の墓もめぐるか鉢叩き        (芭蕉)

 ()『去来抄』(「先師評」十六)はこの時のものであり、そして、『句兄弟』(「句合せ」二十五番)は、これに関連したものであった。さらに、この「鉢叩き」関連のものは、芭蕉没(元禄七年十月十二日)後の、霜月(十一月)十三日、嵐雪・桃隣が落柿舎に訪れたときの句が『となみ山』(浪化撰)に今に遺されているのである。

 千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき    (其角)

今少(すこし)年寄見たし鉢たゝき (嵐雪)

ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき (桃隣)

旅人の馳走に嬉しはちたゝき    (去来)

 これらのことに思いを馳せた時、其角・嵐雪・去来を始め蕉門の面々にとっては、「鉢叩き」関連のものは、師の芭蕉につながる因縁の深い忘れ得ざるものということになろう。

(四)『五元集拾遺』に「鉢たたきの歌」と前書きして、次のような歌と句が収載されている。

   鉢たゝきの歌

鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に

初音きかれて     はつがつを

花はしら魚      紅葉のはぜ

雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん

おもしろや此(この) 樽たゝき

ねざめねざめて    つねならぬ

世の驚けば      年のくれ

気のふるう成(なる) ばかり也

七十古来       まれなりと

やつこ道心      捨(すて)ころも

酒にかへてん     鉢たゝき

あらなまぐさの鉢叩やな

凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  其角             

  

5-5 はつ秋や夏を見かへる和田峠

https://kigosai.sub.jp/001/archives/4902

 初秋(はつあき)/初秋

【子季語】新秋、孟秋、早秋、秋浅し、秋初め、秋口

【解説】秋の初めの頃のこと。暑さはまだ厳しくとも僅かながらも秋の気配を感ずるころ。

【例句】

初秋や海も青田の一みどり              芭蕉「千鳥掛」

初秋や畳みながらの蚊屋の夜着         芭蕉「酉の雲」

 (「句意」周辺)

 この句も、「水無月なかば鉢扣百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」との前書がある。その二句目の句ということになる。

 この「和田峠」は、中山道の「和田峠」(和田宿と西諏訪宿の間の峠)なのか、甲州裏街道(陣馬街道・武州境)の和田峠なのか、そして、前書の「鉢扣百之丞」とどういう関わりがあるのか全く不明であるが、江戸近郊の「甲州裏街道の和田峠」と解して置きたい。

 (「句意」)

 江戸を発って、江戸から甲州・信州への「和田峠」(甲州裏街道の和田峠)に差し掛かる頃は、初秋の気配が漂う中で、そこから、晩夏の江戸滞在中のことを見返ることでしょう。

(追記)

 この「初秋」には、「空也僧」(空也念仏をして歩く僧)の「空阿弥」としての「「初秋」、そして、「夏を見かへる」には、得度前の、半俗半僧としての「鉢扣・百之丞」の頃の「夏を見かへる」の意が込められているのであろう。

 

重要文化財「空也上人立像」康勝作・鎌倉時代(特別展「空也上人と六波羅蜜寺」)

https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=2129

  

5-6 夕露や小萩がもとのすゞり筥

 https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%B0%8F%E8%90%A9&x=0&y=0

 萩(はぎ)/初秋

【子季語】鹿鳴草、鹿妻草、初見草、古枝草、玉見草、月見草、萩原、萩むら、萩の下風、萩散る、こぼれ萩、乱れ萩、括り萩、萩の戸、萩の宿、萩見

【解説】紫色の花が咲くと秋と言われるように、山萩は八月中旬から赤紫の花を咲かせる。古来、萩は花の揺れる姿、散りこぼれるさまが愛され、文具、調度類の意匠としても親しまれてきた。花の色は他に白、黄。葉脈も美しい。

【例句】

白露もこぼさぬ萩のうねりかな 芭蕉「栞集」

一家に遊女もねたり萩と月   芭蕉「奥の細道」

行々てたふれ伏すとも萩の原  曽良「奥の細道」

 (「句意」周辺)

 この句は、前句の「はつ秋や夏を見かへる和田峠」と同時の初秋の句で、そして、上記の芭蕉の「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」と同一趣向の句として鑑賞したい。

 (「句意」)

 芭蕉翁の「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の、その「白露」が、この「夕べの宿舎の小萩」に宿って、その「夕露」を「手元の硯筥の硯」に垂らして、折にふれての、念仏行脚の知らせを認めて欲しい。

 (参考)

 https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2023-02-08

 第五 千づかのいね(その一)

 夕露や小萩がもとのすゞり筥 (第五千づかのいね)

 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 

 

木曜日, 4月 13, 2023

第五 千づかの稲(5-2~5-3)

5-2  鳴かぬ田もなく田も動く蛙哉

 季語=蛙=蛙(かわず、かはづ)三春

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/1967

 【子季語】 殿様蛙、赤蛙、土蛙、初蛙、昼蛙、夕蛙、夜蛙、遠蛙、筒井の蛙、蛙合戦、

鳴く蛙、苗代蛙、田蛙

【関連季語】 蝌蚪、蟇、牛蛙

【解説】 蛙は、田に水が張られるころ、雄は雌を求めてさかんに鳴き始める。昼夜の別なくなき続け、のどかさを誘う。「かはず」はもともとカジカガエルのことをさしていたが、平安時代から一般の蛙と混同されるようになった。

【実証的見解】 蛙は、両生類カエル目に分類される動物の総称。ほとんどは、日本各地の水辺または湿地帯に生息するが、樹上や土中に棲むものもある。大きさは一センチくらいのものから二十センチをこえるものまでさまざまで、体は頭部と胴からなる。頭は三角形で、目は大きく飛び出し視力が発達している。四肢を持つ胴体は丸っこく、尾はない。後肢が特に発達しており、後肢で跳躍して敵から逃げたり、虫を捕まえたりする。後肢の指の間の水掻きを使って泳ぐ。アオガエルやアマガエルなどの樹上生活をする種の多くは指先の吸盤が発達している。蛙のほとんどは肉食性で、昆虫などを食べる。冬は冬眠する。

【例句】

古池や蛙飛込む水のおと 芭蕉「春の日」

月に聞て蛙ながむる田面かな 蕪村「蕪村句集」

閣に座して遠き蛙をきく夜哉 蕪村「蕪村句集」

痩蛙負けるな一茶是に有 一茶「七番日記」

 「句意」(その周辺)

 下記のアドレスで、抱一の描く「吉原月次風俗図(九月・干稲)」関連のものを紹介した。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-03

 抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「九月(干稲)」

 【≪九月(干稲)

吉原遊郭は江戸の北郊に位置し、周囲は田で囲まれていた。収穫の時期には稲を架けて干す寂びた田園の風情も、二階座敷から望み見ることができたのである。賛は「京町あたりの奥座敷からさしのそけは 鷹も田に居馴染むころや十三夜」。≫(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

    京町あたりの奥座敷からさしのぞけば

 鷹も田に居馴染むころや十三夜  抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」

  この句の前書きの「京町(一丁目)」には、下記のアドレスなどで度々紹介している加保茶元成(大文字屋市兵衛)の妓楼「大文字屋」が見世を構えている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

 『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、「楼主と加保茶元成(初代・大文字屋市兵衛)」などについて、下記のとおり紹介している。

 ≪ 楼主は妓楼の経営のトップで、忘八(ぼうはち)と呼ばれる。『吉原大全』によると、その由来は、仁・義・礼・智・忠・信・考・悌といった八つの徳目を忘れさせるほど面白い場所を提供する人ということにな っているが、実際には遊女たちをこき使い、遊客から金をむしり取る、八つの徳目を忘れた人非人という、さげすみの意味も含まれていたらしい。大文字屋の初代楼主・市兵衛は伊勢から江戸へ出て、吉原で一旗上げようとやってきた人で、めはお歯黒溝(どぶ)沿いに河岸見世を開くも、なんとか五丁町に進出したいと遊女の食事をすべて安いカボチャにして、経費を節減。ヒドイ! しかし、これが功を奏して、見事京町一丁目に店を構えたため、「カボチャ」とあだ名された。当時子供たちの間で流行っていた歌に「ここ京町大文字屋のカボチャとて、その名を市兵衛と申します。せいが低くて、ほんまに猿まなこ、かわいいな、かわいいな」とあるように、ユニークな外見だったよう。名物社長といったところか。ちなみに、彼は園芸を愛する文化人でもあり、跡を継いだ二代目も加保茶元成のペンネームで天明狂歌壇の一翼を担う教養人だった。花魁を中心に見世をいかにプランディングしてゆくか手腕を問われる妓楼の経営には、情緒的価値を理解するセンスが求められたのだ。≫(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 ≪おどけた表情がユニークなこの小柄の男は、吉原京町大文字屋の初代主人、村田市兵衛。かぼちゃに似た市兵衛の顔立ちは宝暦の頃ざれ唄になり囃されたが、彼は自らこれを歌って人気を得たという。抱一は二代市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)やその子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、くだけた姿の初代の肖像も、そのゆかりで描いたものだろう。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』「作品解説・岡野智子稿」)

 

酒井抱一筆「大文字屋市兵衛図」一幅 板橋区立美術館蔵

 上記の「大文字屋市兵衛図について、同書(岡野智子稿)で、詳細な「作品解説99」も掲載している。

 ≪ 吉原京町大文字屋の初代主人、村田市兵衛をモデルとする小品。市兵衛の風貌はかぼちゃに似て、宝暦の頃ざれ唄になり囃されたが、彼は自らこれを歌って人気を得たという。市兵衛が歌い踊る酔興な姿は白隠画にもあるが(永青文庫蔵)、本図は大田南畝『仮名世話』『耽奇漫録』に見出される西村重長原画の大文字屋かぼちゃ像をほぼ踏襲している。賛はそのざれ唄の歌詞。署名は「郭遊抱一戯画」「文詮」(朱文円印) 抱一は二代目市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)やその子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、二代目市兵衛の千束の別宅に千蔭と遊び、庭内の人丸堂で人麿影供を行うなど、吉原を離れての私的な集まりに参じていたという指摘もある。もとより大文字屋は小鶯を身請けした妓楼であり、抱一のパトロン的存在でもあった。長年にわたる交際により抱一と大文字屋を結ぶ作品が遺され、吉原通の抱一の姿を伝えている。

()      

十にてうちん

 の花むらさきの

  ひも付で

   かさりし

玉や女らう衆かこいの

 すこもりもんな

 つるのまるよいわいないわいな

        其名を 市兵へと 申します ≫

  ここに出て来る、三代目市兵衛(村田宗園)は、抱一に絵の手ほどきを受けていたと伝えられ、抱一が吉原で描いた淡彩による俳画集『柳花帖』(姫路市美術館蔵)には、その三代目市兵衛が箱書きをしている。 その『柳花帖』の賛に書かれた発句一覧などについては、下記のアドレスで触れている。

それを再掲して置きたい。

  ここで、抱一の前半生と後半生の分岐点となった、寛政二年(一七九〇)、三十歳時の、実兄・忠以が亡くなった当時のことの一端を、『琳派―響きあう美―(河野元昭著)』から下記に抜粋して置きたい。

 ≪ 抱一がしばしば点取りのために百韻や二百韻、さらに千句を米翁に寄せ、ともに歌仙を巻いているのに対し、絵画に関する記事が非常に少ないのは、この時期、抱一の主力が俳諧に注がれていたことを示している。米翁の日記によってはじめて知られた事実のうち、もっとも興味深い寛政二年十二月の一条を紹介しておこう。俳人屠龍すなわち抱一の邸に松平雪川・松前泰卿が集まって、いわゆる三公子の揃い踏み、そこに米翁・晩得といった当時の有名俳人が加わって、抱一の得意たるや目に見えるようである。

 八日 晩得より愈々明日屠龍方俳諧に雪川も行るゝ由、消息来る。

 九日 四時半より浜町屠龍邸へ行。供村井

 (以下六名)本郷通り昌平橋、朝日山に休み、お玉が池、新材木町、楽屋新道永楽の門へ寄、留守也。大阪町より、どうかむ堀屠龍門へ入る。晩得・沾山・岩松・神稲来在。初て呑舟に逢ふ。程なく未白、八過雪川来らる。干菓子味噌漬鯛参らす。

 雪川・屠龍・呑舟・雁々・神稲・沾山・岩松・米木十一吟俳諧

 晩得は点者に定めし故、二階次間にて予が点の歌仙。七半頃、泰卿来る。

六時駕にて帰る。どうかん堀よりあらめ橋、新材木町より前路を帰る。≫  】

  句意は、「ここ吉原の妓楼の二階より見える千束(せんぞく)の里の田は、今や、ざわざわと騒々しい「鳴く田」も、一瞬静寂の「なかぬ田」も、正に、共に、「動く(蠢いている)田」であることよ。」

 さらに、この句の背景には、下記のアドレスの、芭蕉の「古池吟」(参考一)や、それに関連しての『蛙合(仙化編)』(参考二)が、これまた「動く」、「蠢いている)」のであろう。

(参考一)「芭蕉の古池吟」

 https://cleanup.jp/life/edo/115.shtml

『江戸名所図会』芭蕉庵 (芭蕉の後ろに描かれているのがバショウ)出典 国立国会図書館貴重画データベース

 【「古池や 蛙とびこむ 水の音」

このあまりにも知られた句が詠まれたのは深川の芭蕉庵。貞享3(1686)、芭蕉をはじめ、門人たちが集まった句合(くあわせ)の席だった。句合とは、主題を決めて句の優劣を競う一種の句会である。その時の主題は「蛙」、こんなエピソードがある。

芭蕉は最初に「古池や…」の句を詠んだ。句を鑑賞したり、意見も出し合う会である。傍らにいた其角(きかく/蕉門十哲の一人)は、上五(かみご/初めの五文字)の「古池や」を「山吹や」としたほうがよろしいのでは、と師匠の芭蕉に提案した。

この意見はもっともで、俳諧においても古くからの和歌の伝統が生きていて、山吹といえ蛙、蛙といえば山吹、というのは暗黙の了解で常識だった。其角の進言通り「山や蛙とびこむ 水の音」とすれば、確かに優等生の句ということになったのかもしれない。

しかし、芭蕉は和歌の伝統にとらわれずに「古池や…」と決めたのである。そればかりか、「蛙」にしても、和歌では“鳴くもの”として捉えるはずなのに、芭蕉の「蛙」は“飛ぶ”のである。】

 (参考二)

『蛙合』『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)

 https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%9B%99%E5%90%88-%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80/

 【 『蛙合』は貞享三年(一六八六)の春、深川芭蕉庵に芭蕉、素堂、孤屋、去来、嵐雪、杉風、曾良、其角らが会して二十番の蛙の句合を行い、その衆議判を仙化が書き留めたもの。その目的は「句合という趣向を借りて全二十組、すなわち四十句によって、和歌伝統の美学を脱した蛙の実相を活写する試み」(「古池の風景」谷地快一『東洋通信二〇〇九・一二』所収)であった。和歌伝統の代表作は「かはづ鳴く井出の山吹散りにけり花のさかりにあはましものを」(不知・古今・春)。

 芭蕉の高弟其角は句合の時、「古池や」ではなく「山吹や」を上五に提案したが採用されなかった。その其角の、発句「古池や」に付けた脇句が、寛政十一年(一七九九)に尾張の暁台が編んだ『幽蘭集』(芭蕉連句集)に収載されている。

   古池やかはづ飛こむ水の音    はせを

      芦のわか葉にかゝる蜘の巣   其角

 「なべて同条件のもとで発句に詠まれていないものを付けて、発句の世界の焦点を絞り、より具体的にして余情豊かな効果を導き出すのが脇句の役所である」(『連句辞典』)が、発句と同時同場の春景がそっと添えられている。飛び込む蛙と蜘蛛の巣の相対付(あいたいづけ)けにおかしみも感じる

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2013_10_01/08.html   】

 

「一番

   左

 古池や蛙飛こむ水のおと      芭蕉

   右

 いたいけに蛙つくばふ浮葉哉    仙化

   此ふたかはづを何となく設たるに、四となり六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におくの品、をのをのあらそふ事なかるべし。」

 「第二番

   左勝

 雨の蛙声(コハ)高(だか)になるも哀也 素堂

   右

 泥亀と門(かど)をならぶる蛙哉     文鱗

   小田の蛙の夕ぐれの声とよみけるに、雨のかはづも声高也。右、淤泥の中に身をよごして、不才の才を楽しみ侍る亀の隣のかはづならん。門を並ぶると云たる、尤手ききのしはざなれども、左の蛙の声高に驚れ侍る。」

「第三番

   左勝

 きろきろと我頬(ツラ)守る蛙哉  嵐蘭

   右

 人あしを聞(きき)しり顔の蛙哉  孤屋

   左、中の七文字の強きを以て、五文字置得て妙なり。かなと留りたる句々多き中も、此句にかぎりて哉といはずして、いづれの文字をかおかん。誠にきびしく云下したる、鬼拉一体、これらの句にや侍らん。右、足音をとがめて、しばし鳴やみたる、面白く侍りけれ共、左の方勝れて聞侍り。」

 「第四番

   左持

 木のもとの氈(せん)に敷(しか)るる蛙哉 翠紅

   右

 妻負(おふ)て草にかくるる蛙哉      濁子

   飛かふ蛙、芝生の露を頼むだにはかなく、花みる人の心なきさま得てしれることにや。つまおふかはづ草がくれして、いか成人にかさがされつらんとおかし、持。」

 「第五番

   左

 蓑うりが去年(こぞ)より見たる蛙かな   李下

   右勝

 一畦(あぜ)はしばし鳴やむ蛙哉      去来

   左の句、去年より見たる水鶏かなと申さまほし。早苗の比の雨をたのみて、蓑うりの風情猶たくみにや侍るべき。右、田畦をへだつる作意濃也。閣々蛙声などいふ句もたよりあるにや。長是群蛙苦相混、有時也作不平鳴といふ句を得て以て力とし、勝。」

 「第六番

   左持

 鈴たえてかはづに休む駅(ムマヤ)哉  友五

   右

 足ありと牛にふまれぬ蛙哉       琪樹

   春の夜のみじかき程、鈴のたへまの蛙、心にこりて物うきねざめならんと感太し。右、かたつぶり角ありとても身をなたのみそとよめるを、やさしく云叶へられたり。野径のかはづ眼前也、可為持。」

 「第七番

   左

 僧いづく入相のかはづ亦淋し     朱絃

   右勝

 ほそ道やいづれの草に入(いる)蛙  紅林

   雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき、さながらに寂しく聞え侍れども、何れの草に入かはづ、と心とめたる玉鉾の右を以て、左の方には心よせがたし。」

「第八番

   左

 夕影や筑(つく)ばに雲をよぶ蛙  芳重

   右勝

 曙の念仏はじむるかはづ哉     扇雪

   左、田ごとのかはづ、つくば山にかけて雨を乞ふ夕べ、句がら大きに気色さもあるべし。右、思ひたへたる暁を、せめて念仏はじむる草庵の中、尤殊勝にこそ。」

 「第九番

   左勝

 夕月夜畦に身を干す蛙哉       琴風

   右

 飛(とぷ)かはづ猫や追行小野の奥  水友

身をほす蛙、夕月夜よく叶ひ侍り。右のかはづは、当時付句などに云ふれたるにや。小ののおく取合侍れど、是また求め過たる名所とや申さん。閑寥の地をさしていひ出すは、一句たよりなかるべきか。ただに江案の強弱をとらば、左かちぬべし。」

 「第十番

   左

 あまだれの音も煩らふ蛙哉      徒南

   右勝

 哀にも蝌(かへるご)つたふ筧かな  枳風

   半檐疎雨作愁媒鳴蛙以与幽人語、などとも聞得たらましかば、よき荷担なるべけ   れども、一句ふところせばく、言葉かなはず思はれ侍り。かへる子五文字よりの云流し、慈鎮・西行の口質にならへるか。体かしこければ、右、為勝。」

 「第十一番

   左

 飛かはづ鷺をうらやむ心哉     全峰

   右勝

 藻がくれに浮世を覗く蛙哉     流水

   鷺来つて幽池にたてり。蛙問て曰、一足独挙、静にして寒葦に睡る。公、楽しい哉。鷺答へて曰、予人に向つて潔白にほこる事を要せず。只魚をうらやむ心有、と。此争ひや、身閑に意くるしむ人を云か。藻がくれの蛙は志シ高遠にはせていはずこたへずといへども、見解おさおさまさり侍べし。」

  「第十二番

   左持

 よしなしやさでの芥とゆく蛙    嵐雪

   右

 竹の奥蛙やしなふよしありや    破笠

   左右よしありや、よしなしや。」

 「第十三番

   左持

 ゆらゆらと蛙ゆらるる柳哉     北鯤

   右

手をかけて柳にのぼる蛙哉     コ斎

   二タ木の柳なびきあひて、緑の色もわきがたきに、先一木の蛙は、花の枝末に手をかけて、とよめる歌のこと葉をわづかにとりて、遙なる木末にのぞみ、既のぼらんとしていまだのぼらざるけしき、しほらしく哀なるに、左の蛙は樹上にのぼり得て、ゆらゆらと風にうごきて落ぬべきおもひ、玉篠の霰・萩のうへの露ともいはむ。左右しゐてわかたんには、数奇により好むに随ひて、けぢめあるまじきにもあらず侍れども、一巻のかざり、古今の姿、只そのままに筆をさしおきて、後みん人の心にわかち侍れかし。」

 「第十四番

   左持

 手をひろげ水に浮(うき)ねの蛙哉  ちり

   右

 露もなき昼の蓬に鳴(なく)かはづ  山店

   うき寐の蛙、流に枕して孫楚が弁のあやまりを正すか。よもぎがもとのかはづの心、句も又むねせばく侍り。左右ともに勝負ことはりがたし。」

 「第十五番

   左

 蓑捨(すて)し雫にやどる蛙哉   橘襄

   右勝

 若芦にかはづ折(をり)ふす流哉  蕉雫

   左、事可然体にきこゆ。雫ほすみのに宿かると侍らば、ゆゆしき姿なるべきにや。捨るといふ字心弱く侍らん。右、流れに添てすだく蛙、言葉たをやか也。可為勝。」

 「第十六番

   左

 這(はひ)出て草に背をする蛙哉      挙白

   右勝

 萍(うきくさ)に我子とあそぶ蛙哉     かしく

   草に背をする蛙、そのけしきなきにはあらざれども、我子とあそぶ父母のかはづ、魚にあらずして其楽をしるか。雛鳧は母にそふて睡り、乳燕哺烏その楽しみをみる所なり。風流の外に見る処実あり、尤勝たるべし。」

 「第十七番

   左勝

 ちる花をかつぎ上たる蛙哉     宗派

   右

 朝草や馬につけたる蛙哉      嵐竹

   飛花を追ふ池上のかはづ、閑人の見るに叶へるもの歟。朝草に刈こめられて行衛しられぬ蛙、幾行の鳴をかよすらん、又捨がたし。」

 「第十八番

   左持

 山井(やまのゐ)や墨のたもとに汲(くむ)蛙 杉風

   右

 尾は落(おち)てまだ鳴(なき)あへぬ蛙哉  蚊足

   山の井の蛙、墨のたもとにくまれたる心ことば、幽玄にして哀ふかし。水汲僧のすがた、山井のありさま、岩などのたたずまひも冷じからず。花もなき藤のちいさきが、松にかかりて清水のうへにさしおほひたらんなどと、さながら見る心地せらるるぞ、詞の外に心あふれたる所ならん。右、日影あたたかに、小田の水ぬるく、芹・なづなやうの草も立のびて、蝶なんど飛かふあたり、かへる子のやや大きになりたるけしき、時に叶ひたらん風俗を以、為持。」

 「第十九番

   左勝

 堀を出て人待(まち)くらす蛙哉   卜宅

   右

 釣(つり)得てもおもしろからぬ蛙哉 峡水

   此番は判者・執筆ともに遅日を倦で、我を忘るるにひとし。仍而以判詞不審。左か  ちぬべし。」

「第二十番

   左

 うき時は蟇(ヒキ)の遠音も雨夜哉  そら

   右

 ここかしこ蛙鳴ク江(え)の星の数  キ角

   うき時はと云出して、蟾の遠ねをわづらふ草の庵の夜の雨に、涙を添て哀ふかし。わづかの文字をつんでかぎりなき情を尽す、此道の妙也。右は、まだきさらぎの廿日余リ、月なき江の辺リ風いまだ寒く、星の影ひかひかとして、声々に蛙の鳴出たる、艶なるやうにて物すごし。青草池塘処々蛙、約あつてきたらず、半夜を過と云る夜の気色も其儘にて、看ル所おもふ所、九重の塔の上に亦一双加へたるならんかし。」

 「追加

    鹿島に詣侍る比(ころ)真間の継はしニて

 継橋(つぎはし)の案内顔(かほ)也飛(とぶ)蛙 不卜」

  頃日(けいじつ)会/深川芭蕉庵而/群蛙(ぐんあ)鳴句以衆議判(しゅうぎはん)而/  馳禿筆(とくひつ)青蟾(せいせん)堂仙化(せんか)子撰(えらぶ)焉乎

  貞享三丙寅歳閏三月日  新革屋町 西村梅風軒

※衆議判(しゅうぎはん)

① 合議で優劣、善し悪し、採否などを決めること。

※浮世草子・好色敗毒散(1703)三「まづ今日は初会の事なれば、女郎の物好き重ねて、衆議判(シュギハン)にて極むべし」

② 歌合で、参加した左右の方人(かたうど)が、互いにその歌の優劣を判定すること。また、その方法。

※源家長日記(1216‐21頃)「此御歌合和歌所にて衆儀はん也しに、この歌をよみあけたるを、たひたひ詠せさせ給、よろしくよめるよしの御気色なり」

(「精選版 日本国語大辞典」)

  

5-3 水貝の鉢に小嶋やまつ嶋や 

 季語=水貝=水貝(みずがい/みづがひ) 三夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/15622

【子季語】 水介/生貝

【解説】 水貝とは鮑料理の一種で、新鮮な鮑を粗いさいの目に切り氷やいろどりの胡瓜などとともに薄い食塩水に浮かべたの。貝の歯ごたえと鮮度がなにより大切。

【考証】(『図説 俳句大歳時記(夏)・角川書店)』所収「水貝・考証」)

 「水貝は、雌貝にても雄貝にても、鮑を放し、塩にて揉み、なるほど塩づくめにして、三時(さんとき)ばかりも置いて、それをよく塩にてみがき洗ひて、みみかはを去りて、大いかたに厚さ一分ばかりにし少し厚く切りて畳み、盛り方なるほど景のあるやうに花車(きやしや)に盛りて、出だしざまに諸白(もろはく)を出(にだ)しに薄くのべ、たつぶとためで出だすべし。」(『江戸料理集・延宝二』)

 

「水貝料理」(「小諸城主」献上品)

https://www.slow-style.com/detail/1120/news/news-9153.html

 

「大をんし前 田川屋「狂句合 田川やの筏牛房に竹の箸」(歌川広重画・大判横錦絵)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%AB%98%E5%90%8D%E4%BC%9A%E4%BA%AD%E5%B0%BD

 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-10

 (抱一と駐春亭宇右衛門)

 【 毎日夕景になると散歩に出掛ける廓の道筋、下谷龍泉寺町の料亭、駐春亭の主人田川屋のことである。糸屋源七の次男として芝で生れ、本名源七郎。伯母の家を継いで深川新地に茶屋を営む。俳名は煎蘿、剃髪して願乗という。龍泉寺に地所を求めて別荘にしようとしたところ、井戸に近辺にないような清水が湧き出して、名主や抱一上人にも相談して料亭を開業した。座敷は一間一間に釜をかけ、茶の出来るようにしてはじめは三間。風呂場は方丈、四角にして、丸竹の四方天井。湯の滝、水の滝を落として奇をてらう。

(中+略)

上人が毎日せっせと通っていたわけがこれで分かる。開業前からの肩入れであったのである。「料理屋にて風呂に入る」営業を思いつき、「湯滝、水滝」「浴室の内外額は名家を網羅し」「道具やてぬぐいのデザインはすべて抱一」「鉢・茶器類は皆渡り物で日本物はない」当時としては凝った造り、もてなしで評判であったろう。これもすべて主人田川屋の風流才覚、文人たちの応援があったればこそである。 】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

  ◯田川屋(料理屋)

 △「田川屋料理  金杉大恩寺

    風炉場は浄め庭に在り  酔後浴し来れば酒乍ち醒む

    会席薄茶料理好し    駐春亭は是れ駐人の亭

 □「下谷大恩寺前 会席御料理 駐春亭宇右衛門」

 http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/

「抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いた++という。」   

『閑談数刻』(東京大学総合図書館)は、駐春亭宇右衛門の聞き書きによるものなのである。

「句意」(その周辺)

  吉原の妓楼「大文字屋」の「主人・村田市兵衛=狂名・加保茶元成」は、その初代から三代に亘って、抱一のパトロン(後援者・厚誼者など)的な親密な間柄であった。そして、もう一人、この吉原の「千束」の郷(里)の「大音寺」門前の料亭「田川屋」(別名・駐春亭)の「主人・駐春亭右衛門=狂名・『煎蘿、剃髪して願乗』」も、抱一の無二のパトロン的な一人であったのであろう。

 「句意」は、「この、吉原(よしわら)妓楼(大文字屋)からの道筋の、千束(せんぞく)『大音寺』前の、この料亭『田川屋こと・駐春亭』の、この『水貝(みず)』料理、これは、まさしく、その『盛り鉢』」に描かれている、その『小嶋』の、その『ああ、小嶋(松嶋)』や、その、『まつ嶋(待っていた『水貝料理)』や』。」

土曜日, 4月 08, 2023

「第四 椎の木かげ(4-72~4-73)」

 4-72    うぐひすや雲水の井を水かがみ

 

「白梅鶯・紅葉鹿図 酒井抱一 江戸時代」/絹本著色/(各)23.0cm×22.6cm

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000333/4000471/4000474.html

≪ 酒井抱一(17611828)は江戸後期の琳派の画家。姫路城主酒井忠仰の二男として生まれる。 狩野派、南蘋派、歌川派、さらに円山派、土佐派にわたる諸派の画風を学んだが、尾形光琳の作品に感銘し、その芸術の復興を志した。文化121815)年には光琳の百年忌を営むなど、数々の光琳顕彰を行う。抱一によって江戸に定着した琳派の系脈は、江戸琳派と呼称される。叙情性ゆたかな草花図を得意とした。

この作品は画帖をはがしたものと思われ、白梅鶯図と紅葉鹿図で対をなすものである。色調を抑えた画面は、あくまでも写実を排し、塗抹的な筆致は平面性に徹している。 たおやかな気品を醸す愛すべき小品である。≫(「板橋区立美術館」)

 「雲水(うんすい)」=行雲流水(こううんりゅうすい)、浮雲(ふうん)流水の略で、行脚僧(あんぎゃそう)、雲水僧のこと。修行中の僧が一所にとどまらず、自由に諸国を遍歴し、よき師を求め歩く姿が雲水に例えられた。このような僧の衲衣(のうえ)を雲に、袂(たもと)を霞(かすみ)に例えて行脚僧のことを雲衲霞袂(うんのうかべい)、略して雲衲(うんのう)ともいう。その服装は、網代笠(あじろがさ)、黒衣(こくえ)、手甲脚絆(てっこうきゃはん)、草鞋(わらじ)ばきの姿で、袈裟(けさ)文庫、頭陀袋(ずだぶくろ)を首にかけ、日常生活用具を携行するのを常とした。また一般に、叢林(そうりん)で修行中の僧や、托鉢行(たくはつぎょう)を行っている僧も雲水とよばれる。[石川力山](「日本大百科全書(ニッポニカ))

 (「句意」周辺)

 この句の前に、「戌午 春興」との前書がある。「戌午」は、「寛政十年(一七九八)」の、「春興」(「正月句会」)の句ということになる。この前年に、抱一は、出家して「等覚院文詮暉真」となり、十一月から十二月に掛けて上洛し(「花洛の細道」)、その年末に、下記(再掲)の「築地安楽寺」ではなく、「浅草寺」北方の「千束村(せんぞくむら)」に居を構えた。

(再掲)

一 同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居     (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」)

  そこで、「花洛の細道」から「蜚遯」(飛んで遁げ帰った)の、その「関西蜚遯人」(抱一の号)から、「千束隠子(千束の隠子)との号を名乗るようになる。

 この「千束隠子(千束の隠子)」の「隠士」とは、その『軽挙館句藻』の「千づかの稲」の冒頭の、その前書のある、次の『古今和歌集』の本歌取りの一首に因っている。(なお、その前書の「入間郡千束村」は、「浅草裏の千束は豊島群で、抱一の誤記であろ」と『相見香集一』では記している。)

   入間郡千束村ら庵をむすびて

 いとひこす/うき世の外の/柴の戸に/ひとくひとくと/鶯のなく (抱一)

  この抱一の一首は、次の「俳諧」のルーツの「誹諧歌」(『古今和歌集』巻第十九「雑体」)の、その冒頭の、次の一首の「本歌取り」なのである。

 1011  梅の花/ 見にこそきつれ/ うぐひすのひとくひとくと  いとひしもをる(「読人しらず)

 http://www.milord-club.com/Kokin/uta1011.htm

 ≪梅の花を見にきたのに、そこにいるウグイスが 「人が来た、人が来た」と嫌がっている、という歌。お前を見にきたわけじゃない、という感じか。  "ひとくひとく" はウグイスの鳴き声を「人来、人来」と合わせたもの。「をる」はラ変の動詞「居り」の連体形。「こそ」からの係り結びを受けている。 この歌から誹諧歌(はいかいか)がはじまり、それは巻末の 1068番まで五十八首続く。誹諧歌というジャンルは一言で言えば 「品がない歌」の集まりであるが、他の部立ての中のものと厳密には区別がつきにくいものもある。 

 (「句意」)

 「うぐひすや雲水の井を水かがみ」と、この「雲水」(抱一の「等覚院文詮暉真」)の、この「千束の仮寝の宿」の、この飲水の「井」(井戸)に、春を告げる「うぐひす()」が、あたかも、「水かがみ(水鏡)」するように訪れている。それは、「いとひこす/うき世の外の/柴の戸に/ひとくひとくと/鶯のなく」の、隠遁し、隠棲している、一介の「雲水」の、吾が心境を物語っている。

 (蛇足)

「寛政十年戌午(一七九八)」、抱一、三十八歳の頃の「等覚院殿御一代」に、次のような記述がある。

 ≪ 京都より御帰りの後は、安楽寺(「安楽寺」の詳細不明)におわしますべき筈なるに、竊(ひそか)に御栖隠には御座なされずして、箕輪(「千束」の誤伝)の辺にいとせまき御住居に閑居なり。其後は、浅草観音の境内、弁天の池のほとりに、御幽棲にておわしましける比頃は、大手(「酒田家」の大手門前の上屋敷)へも、御うとうと敷て、御音つれもなかりし也。(注・「濁点・句読点・詠み」と括弧内に「私注」を付す。) ≫(『抱一上人年譜稿(相見香雨著))

  そして、「4-67  (佐谷<>)水鳥は流るゝ春や橋の霜」と「4-71   (江戸) ゆくとしを鶴の歩みや佐谷廻り」、さらに、掲出の「4-72 うぐひすや雲水の井を水かがみ」の、この「雲水」の用例は、下記アドレス(参考)の、「水鶏啼と(歌仙)(元禄七年五月二十五日『笈日記(支考撰))(『笈日記(支考撰)・上巻・「伊賀群」』所収「紀行」)、そして、(『笈日記(支考撰)・下巻・「雲水追善」』)と、深い関わりがあるように思われる。

 https://nangouan.blog.ss-blog.jp/2023-04-05

 (参考)「水鶏啼と(歌仙)(元禄七年五月二十五日『笈日記(支考撰))

 https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%95%89%E9%96%80%E4%BF%B3%E8%AB%A7%E9%9B%86-%E4%B8%8B/%E6%B0%B4%E9%B6%8F%E5%95%BC%E3%81%A8-%E3%81%AE%E5%B7%BB/

 初表

   隠士山田氏の亭にとどめられて

 水鶏啼(なく)と人のいへばや佐屋泊 芭蕉(「水鶏」で夏、鳥類、水辺。「人」は人倫)

   苗の雫を舟になげ込(こむ)      露川(「苗」で夏。「舟」は水辺)

 朝風にむかふ合羽(かつぱ)を吹たてて   素覧(無季。「合羽」は衣裳)

   追手(おふて)のうちへ走る生もの   芭蕉(無季)

 さかやきに暖簾せりあふ月の秋  露川(「月の秋」で秋、夜分、天象)

   崩(くづれ)てわたる椋鳥の声     素覧(「椋鳥」で秋、鳥類)

初裏

 耕作の事をよくしる初あらし   芭蕉(「初あらし」で秋)

   豆腐あぢなき信濃海道    露川(無季。旅体)

 尻敷の縁(ヘリ)とりござも敷やぶり   素覧(無季)

   雨の降(ふる)日をかきつけにけり  芭蕉(無季。「雨」は降物)

 焙烙のもちにくるしむ蠅の足   露川(「蠅」で夏、虫類。)

   藺()を刈あげて門にひろぐる  素覧(「藺を刈」で夏)

 切麦であちらこちらへ呼れあふ  芭蕉(「切麦」で夏)

   お旅の宮のあさき宵月    露川(「宵月」で秋、夜分、天象。神祇)

 うそ寒き言葉の釘に待ぼうけ   素覧(「うそ寒」で秋。恋)

   袖にかなぐる前髪の露    芭蕉(「露」で秋、降物。「袖」は衣裳。恋)

 咲花に二腰はさむ無足人     露川(「咲花」で春、植物、木類。「無足人」は人倫)

   打ひらいたるげんげしま畑  素覧(「げんげ」で春、植物、草類)

二表

 山霞鉢の脚場を見おろして    支考(「山霞」で春、聳物、山類)

   船の自由は半日に行(ゆく)     左次(無季。「船」は水辺)

 月夜にて物事しよき盆の際(きは)    巴丈(「月夜」で秋、夜分、天象)

   かりもり時の瓜を漬込(つけこ    露川(「瓜」で秋)

 三鉦(みつがね)の念仏にうつる秋の風  素覧(「秋の風」で秋。釈教)

   使をよせて門にたたずむ   支考(無季。「使」は人倫)

 我恋は逢て笠とる山もなし    左次(無季。恋)

   年越の夜の殊にうたた寐   巴丈(「年越」で冬。恋。「夜」は夜分)

 扨(さて)は下戸いちこのやうに成にけり 露川(無季。「いちこ」は人倫)

   達者自慢の先に立れて    素覧(無季)

 金剛が一世の時の花盛      支考(「花盛」で春、花、植物、木類)

   つつじに木瓜の照わたる影  左次(「つつじに木瓜」で春、植物、木類)

二裏

 春の野のやたらに広き白河原    巴丈(「春の野」で春)

   三俵つけて馬の鈴音      露川(無季。「馬」は獣類)

 それぞれに男女も置そろへ     素覧(無季。恋。「男女」は人倫)

   よめらぬ先に娘参宮      支考(無季。恋。神祇)

 あり明に百度もかはる秋の空    左次(「あり明」で秋、夜分、天象。神祇)

   畳もにほふ棚の松茸      巴丈(「松茸」で秋。「畳」は居所)

 

『ゆづり物(杜旭自筆・元禄八年成)』の句形(参考)

 二表(2)

 一度は暮して見たき山がすみ    支考

   ふねの自由は半日にゆく    左次

 月夜にて物事しよき盆の前     巴丈

   かりもり時の瓜を漬込     露川

 三鉦の念仏にうつる秋の風     素覧

   小者をやりて門にたたずむ   支考

 我恋は逢うて笠取ル山もなし    左次

   貧はつらきよ〇〇假寐     巴丈

 酒塩に酔ふた心も面白や      露川

   一里や二里の路は朝の間    素覧

 伊勢に居て芝居をしらぬ花盛    支考

   つつじの時はなを長閑也    左次

二裏(2)

 春の野のやたらに広キ白河原    巴丈

   から身で馬はしやんしやんと行 露川

 板葺のゆたかに見ゆるお蔵入    素覧

   山ちかふして薪沢山      支考

  参考;『校本芭蕉全集 第五巻』(小宮豐隆監修、中村俊定注、一九六八、角川書店)

 (『笈日記(支考撰)・上巻・「伊賀群」』

 紀 行

 さや(佐屋)の舟まはりしに、有明の月入はてゝ、みのぢ、あふみ路の山々雪降かゝりていとお(を)かしきに、おそろしく髭生たるものゝふの下部などいふものゝ、やゝもすれば折々舟人をねめいかるぞ、興うしなふ心地せらる。桑名より処々馬に乗て、杖つき坂引のぼすとて、荷鞍うちかへりて、馬より落ぬ。ものゝ便なきひとり旅さへあるを、「まさなの乗てや」と、馬子にはしかられながら、

    かちならば杖つき坂を落馬哉

 といひけれども、季の言葉なし。雑の句といはんもあしからじ。

                             ばせを

そのゝちいがの人々に此句の脇してみるべきよし申されしを

 

(『笈日記(支考撰)・下巻・「雲水追善」』)

 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00032010#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-2923%2C-260%2C12437%2C5191

  


雲水追善

 悼芭蕉翁   尾州熱田 連中

その神な月の二日、しばしとゞめず、今のむかしはかはりぬ。何事もかくとわきまへかぬるなみだ思へばくやし。芭蕉翁、十とせあまりも過ぬらん、いまぞかりし比(ころ)、はじめて此蓬莱宮におはして、「此海に草鞋を捨ん笠時雨」と心をとゞめ、景清が屋しきもちかき桐葉子がもとに、頭陀をおろし給ふより、此道のひじり()とはたのみつれ。木枯の格子あけては、「馬をさへ詠る雪」といひ、やみに舟をうかべて浪の音をなぐさむれば、「海暮て鴨の声ほのかに白し」とのべ、白鳥山に腰をおしてのぼれば、「何やらゆかしすみれ草」となし、松風の里・寝覚の里・かゞ見山・よびつぎ(呼続)の浜・星崎の妙句をかぞへ、終にかたみとなし給ぬと、互に見やり泪の内に、人々一句をのべて、西のそらを拝すのみ。(『日本俳書体系3芭蕉時代三・蕉門俳諧後集』所収「笈日記(上・中・下:支考撰))

 

4-73    塩竃のあたりに煙るやなぎ哉

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-18

 (再掲)

 

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵 → C

六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝

落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

【 抱一画には珍しい六曲一双の大画面に、桜と柳(右隻)、および紅葉(左隻)を中心とする、春秋の花卉草木を描いた作品。屏風の下辺に沿って土坡が連なり、その上をそれぞれ春草、秋草が覆って、木々の根元を彩っている。

 桜、柳、紅葉の幹は、濃い墨に緑青をまじえた、強い調子のたらし込みの技法を以て表される。いっぽう、桜の花や蕾、柳の細い葉、土筆、菫、竜胆といった、細部の描写においては、隅々まで神経の行きとどかせた、丁寧な筆づかいをみせる。金箔地を背景に、濃彩で明快な草花を描く琳派の伝統を強く意識しながら、余白を広くとる構図や、草花を描く細やかな筆づかいにも、抱一独特の構成力、描写力が発揮されている。

 「松藤図」屏風(アジア・ソサエティ・ロックフェラー・コレクション)や「四季花鳥図」屏風(陽明文庫・文化十三年)にも見出されるこのような表現を、本図は受け継ぐとみられ、落款の形式や特徴からも、文化年間末から文政前期の作と思われる。

 なお、本図は『酒井抱一画集』(国書刊行会)に載るほか、ブルックリン美術館で一九七五年に開かれた、Japaneese Paintings from the C.D.Center Collection 展カタログの表紙ともなっている。】(『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』所収「作品解説(大野智子稿)」)

(芭蕉の「柳」の句)

八九間空で雨降る柳かな    芭蕉「木枯」

青柳の泥にしだるる塩干かな  芭蕉「炭俵」

青柳の我からむすぶ仏かな   芭蕉「翁反古」

小鯛插す柳涼しや海士がつま  芭蕉「船庫集」

傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな 芭蕉「炭俵」

はれ物に柳のさはるしなへかな 芭蕉「芭蕉庵小文庫」

上記の≪酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)≫は、掲出の「芭蕉の『柳』の句)よりも、次の「花ざかりに京を見やりてよめる」素性法師の一首が参考となろう。

 https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/waka23

   花ざかりに京を見やりてよめる

見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける(素性法師「古今巻第一春歌上56)

(訳・参考

はるかに見渡すと、緑の柳と薄紅の桜をまじり合わせて、ほかならぬこの都こそが、春の錦(の織物)だったのだ。

『古今和歌集』の詞書によれば、都に近い山に行き、都の春景色を一望して詠んだ歌である。和歌の世界において「錦」といえば、秋山の紅葉をさすのがふつうである。作者は、その「秋の錦」に対して、「春の錦」があるとしたら、それは何なのだろうと考えていた。そして、都の春景色を一望して、自分の住むこの都こそが、さがし求めていた「春の錦」だったのだ、と気づき驚いているのである。)

 (「句」の周辺)

 「軽挙館句藻」では、この句に「融の大臣旧跡は六条本願寺の寺内にあり」との前書が付されている。すなわち、この句の「塩竃」は、「河原院をめぐる伝説を題材とする能」の「融」(世阿弥作)に由来するものである。

 4-17   名月やもと塩窰(塩釜)の人通り

4-70   鯛の名もとし白河の旅寝哉

4-73   塩竃のあたりに煙るやなぎ哉

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%8D

 「融 (前場) (「ウィキペディア」)

(「僧の登場」)=東国から上洛した旅の僧(ワキ)が登場し、京都六条河原院に着いたことを告げる。

ワキ「これは東国方より出でたる僧にて候、われいまだ都を見ず候ふほどに、このたび思ひ立ち都に上のぼり候 (後略)

(「潮汲みの老人の登場」)=そこに老人(前シテ)がやってきて、河原院の景色をほめるとともに、自らの老いた身を嘆く。前シテは、笑尉(または朝倉尉)の面で、尉髪、水衣、腰蓑、扇という出で立ちである。担桶(たご)を担っている。

シテ〽月もはや、出潮でじおになりて塩竈しおがまの、うらさびわたる景色かな

シテ〽陸奥はいづくはあれど塩竈の、恨みて渡る老いが身の、寄る辺もいさや定めなき、心も澄める水の面おもに、照る月並みを数ふれば、今宵ぞ秋の最中(もなか)なる、げにや移せば塩竈の、月も都の最中かな   (後略)

(僧と潮汲みの老人との問答)=僧が老人に話しかけると、老人は、自分のことを「潮汲み」と名乗る。僧は、海辺でもない都で「潮汲み」というのはおかしいのではないかと問うと、老人は、河原院は融の大臣が昔塩竈の浦の景色を移してきた場所なので、「潮汲み」と言っておかしくないと答える。そのうちに月が出て、2人は唐の詩人賈島の詩句を思い出して感慨にふける。(前略)

シテ「河原の院こそ塩竈の浦候(ぞうろふ)よ、融の大臣おとど陸奥(みちのく)の千賀(ちか)の塩竈を、都のうちに移されたる海辺なれば

 〽名に流れたる河原の院の、河水かすいをも汲め池水(ちすい)をも汲め、ここ塩竈の浦人なれば、潮汲みとなど思おぼさぬぞや  (後略)

(「前場:河原院の来歴の述懐」)=僧が、老人に、塩竈の浦を都に移した由来を尋ねる。すると、老人は、融の大臣が難波から海水を都まで持ってこさせて塩竈の浦を模した池を作り、御遊を楽しんだことを語るが、その後は受け継ぐ人もおらず、荒れ果てている有様を嘆く。(前略)

〽池辺(ちへん)に淀む溜水(たまりみず)は、雨の残りの古き江に、落葉散り浮く松蔭の、月だに住すまで秋風の、音(おと)のみ残るばかりなり、されば歌にも、君まさで、煙絶えにし塩竈の、うら淋(さみ)しくも見えわたるかなと、貫之(つらゆき)も詠ながめて候

地謡〽げにや眺むれば、月のみ満てる塩竈の、うら淋しくも荒れ果つる、後(あと)の世までも塩染(じみ)て、老いの波も返るやらん、あら昔恋しや

地謡〽恋しや恋しやと、慕へども嘆けども、かひも渚の浦千鳥、音()をのみ泣くばかりなり、音をのみ泣くばかりなり 

(「名所教え」)=一転して、僧は老人に、河原院から見える名所を尋ねる。老人は、東に見える音羽山、そこから南の方へ清閑寺、今熊野、稲荷山、藤の森、深草山、木幡山、と名所を教えていく。()

(「間狂言」)            ()

「融 (後場) (「ウィキペディア」)

(「待謡」)=僧は、河原院で旅寝をする。()

(「融の大臣の亡霊の登場」)=融の大臣の亡霊は、昔を思い出しながら、舞を舞う。(前略)

シテ〽千重(ちえ)振るや、雪を廻らす雲の袖

地謡〽さすや桂の枝々に

シテ〽光を花と散らすよそほひ

地謡〽ここにも名に立つ白河の波の

シテ〽あら面白や曲水(きょくすい)の盃

地謡〽受けたり受けたり遊舞(いうぶ)の袖

(「終曲」)=融の大臣の亡霊は、名残を惜しみながら月の都に帰っていく。

シテ〽霞む夕べの遠山

地謡〽黛(まゆずみ)の色に三日月の

シテ〽影を舟にもたとへたり

地謡〽また水中の遊魚は

シテ〽釣り針と疑(うたご)

地謡〽雲上(うんしょう)の飛鳥は

シテ〽弓の影とも驚く

地謡〽一輪も降(くだ)らず

シテ〽万水(ばんすい)も昇らず

地謡〽鳥は池辺の樹に宿し

シテ〽魚は月下の波に伏す

地謡〽聞くともあかじ秋の夜の

シテ〽鳥も鳴き

地謡〽鐘も聞こえて

シテ〽月もはや

地謡〽影傾きて明け方の、雲となり雨となる、この光陰に誘はれて、月の都に、入りたまふよそほひ、あら名残り惜しの面影や、名残り惜しの面影

 (「句意」)

 昨年の、十月十四日、築地本願寺で、西本願寺門主文如上人から偏諱を受け、出家した。その答礼の挨拶を兼ね、十一月四日、「京都御住居被成候」の上洛で江戸を立った。

しかし、「同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居  (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」)」と、「京都御住居被成候」を放擲し、そして「得度答礼の挨拶」もそこそこに、その十二月十七日(「屠龍之技」の句の前書では「十四日」)に江戸に帰ってきた。

その、自称、当時の「号」の一つとしている、「関西蜚遯人(ひとんじん)(西国を飛んで遁げ帰ってきた男)の、その「花洛(鹹く)の細道(旅路)」は、夢幻能「融」(世阿弥)の、「源融」(実在の人物「河原左大臣」=「融の花やかな舞」=出家前の「抱一」)と、その「融の亡霊」(「荒廃した河原院跡の哀しさ」=出家後の「抱一」)とが織り成す、当時の、抱一(それまでの「酒井家の一員としての抱一」=「朱門」から、その後の「雲水・隠者としての抱一」=「白門」)との、その狭間での、当時の抱一の感慨が伝わってくる。

句意それ自体は、「隠棲している吾が身には、この千束の隅田河畔の烟る柳の姿影は、嘗て、「出家得度答礼の挨拶」を兼ねての上洛の際見聞した、夢幻能「融」の、その「河原院(塩竃あたりに烟る柳)」の、その鴨川河畔の「烟る柳」の姿影と重なってくる。」

 

(参考その一) 「源融( みなもとのとおる)弘仁一三~寛平七(822-895) 号:河原左大臣」周辺

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tohoru.html

 

嵯峨天皇の皇子。母は大原全子。子に大納言昇ほか。子孫に安法法師がいる。臣籍に下って侍従・右衛門督などを歴任、貞観十四年(872)、五十一歳で左大臣にのぼった。

元慶八年(884)、陽成天皇譲位の際には、新帝擁立をめぐって藤原基経と争い、自らを皇位継承候補に擬した(『大鏡』)。仁和三年(887)、従一位。寛平七年(895)八月二十五日、薨去。七十四歳。贈正一位。河原院と呼ばれた邸宅は庭園に海水を運び入れて陸奥の名所塩釜を模すなど、その暮らしぶりは豪奢を極めたという。また宇治に有した別荘は、その後変遷を経て現在の平等院となる。古今集・後撰集に各二首の歌を残す。

 題しらず

陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰たれゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに(古今724

【通釈】陸奥の「しのぶもぢ摺り」の乱れ模様のように、私の忍ぶ心は誰のせいで乱れようというのか。あなた以外に誰がいよう。ほかの誰のためにも、心を乱そうなどと思わぬ私なのに。

【語釈】◇しのぶもぢずり 陸奥国信夫郡特産の摺り染め布。「しのぶ」は忍ぶ草を用いたゆえとも言う。「もぢずり」は後世「文字摺り」と書かれたが、もとは「捩()ぢ摺り」、すなわち「よじれた模様の摺り染め」の意。乱れた模様なので、恋に乱れる心の象徴となる。なお「しのぶ」には「恋を忍ぶ」意が掛かると見ることもできる。ならなくに ではないのに。

【補記】百人一首では普通第四句が「乱れそめにし」となっている。この場合、「そめ」は「染め」「初め」の両義を兼ねることになる。(古今集の非定家系諸本の多くも「乱れそめにし」。百人秀歌は「乱れむと思ふ」。)

 

(参考その二)「抱一の『融』関連句」周辺

 https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

 (再掲)

 4-17  名月やもと塩窰(塩釜)の人通り

   https://japanese.hix05.com/Noh/4/yokyoku402.tooru.html

  句意(その周辺)=「緑樹影沈()では」、謡曲「竹生島(ちくぶしま)」、そして、「月も早。出汐になりて塩釜の」は、謡曲「融(とおる)」の名調子である。今宵の「名月」、その世阿弥の「融」の背景となっている「伊勢物語第八十一段」の、「塩竈にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はこゝに寄らなん」などが、脳裏を去来している。

 


https://yahantei.blogspot.com/2023/04/4-674-71.html

4-70   鯛の名もとし白河の旅寝哉

  https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_27.html

  (句意「その周辺」)

  この句には、「十二月十四日江都にかへり」の前書がある。この」鯛の名もとし白河の旅寝哉」の「鯛の名もとし」の「とし」は「寿(ことぶき)」で、「江戸に帰着『祝いの席』上での『鯛の料理』の『寿(とし)』の意であろう。そして、「白河の旅寝」は、世阿弥の夢幻能「融」の、下記の「融の大臣の亡霊の舞」の「ここにも名に立つ白河」の、その旅路を回想している雰囲気である。

 http://insite-r.co.jp/Noh/shunkoukai/2019/tooru/tooru_notice.html

 

 

(参考その三)「抱一と仏教」周辺

 http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/ronshu/9-3.pdf

「酒井抱一筆《白蓮図》(細見美術館所蔵)に関する一試論 ―仏画と花鳥画の関係に注目して―(木下明日香稿)

 (抜粋)

二、抱一と仏教

次に砲一と仏教との関わりについてみていきたい。抱一はどういった経緯で出家をする

ようになったのだろうか。抱一は寛政十一年(一七九七)、西本願寺の文如光暉の関東下

向に際して得度し、等覚院文詮暉真となる。出家の理由は様々に推察されるが、近年では、

井田太郎氏、玉島敏子両氏が、酒井家の跡継ぎ問題に関して、嫡流から遠ざけようとする

周囲からの圧力により、出家せざるを得なかったとする説を出している。

抱一は、出家後すぐに京都・本山へ挨拶に向かうが、西本願寺の寺務方の日記の記述から、病気を理由に西本願寺へは行かなかったことがわかっている。抱一の出家は、信仰心によるものではないと考えられる。

しかし、その後の抱一と仏教の関係は、決して希薄であったわけではない。文化十四年

(一八一七) には、抱一が身請けした遊女、春條(香川?)が剃髪して妙華尼となり、

住居を雨華庵と称するようになった。文政元年(一八一八)には、築地本願寺地中浄立寺

の次男・八十九を十二歳で養子に迎えている。この八十九は、酒井鷺蒲のことで、雨華庵

の二世となる。雨草庵の後継者は、鈴木其一のような有力な弟子や酒井家からではなく、

寺に後継者を求めており、三世の鷺一も、浄栄寺から築地善林寺に嫁した娘の子である。

市ヶ谷浄栄寺の過去帳から、雨華庵が唯信寺と称されていることがわかっている。

天保八年(一八三七)頃、酒井家家老・松下高徐が記した酒井家記録集「等覚院殿御一

代」に、朝夕には仏事も行われていたことが記述される。

また、「彿弟子抱一」、「等覚院前権大僧都文詮暉真写」などの落款を伴う仏画の制作を

行っていることから、抱一は自身が僧であることを意識していたことがうかがえる。また、

雨華庵二代目・酒井鷺蒲は、僧形の《砲一上人像》一幅(シアトル美術館所蔵)を描いて

いること、砲一に関する書物で『砲一上人真蹟鏡』、国立国会図書館所蔵『抱一上人粉本』

のように、砲一は、周囲から、「上人」つまり、僧として認識されていたと考えられる。当初、自らに反して出家せざるを得なかったが、僧としての自分を受け入れるようになっていった様が読み取れる。

 四、抱一の仏画

 《妙音天像》一幅、絹本若色、文化十一年(一八一四)

《観世音像》一幅、絹本著色、妙顕寺、文化十二年(一八一五)

《青面金剛像》一幅、絹本若色、細見美術館、文化十四年(一八一七)

《日課観音像》三十三幅のうち四幅、絹本墨画または紙本塁画、文政七年 (一八二四)

《白衣観音像》一幅、絹本著色

《灑水観音像》一幅、絹本著色、MOA美術館