木曜日, 4月 13, 2023

第五 千づかの稲(5-2~5-3)

5-2  鳴かぬ田もなく田も動く蛙哉

 季語=蛙=蛙(かわず、かはづ)三春

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/1967

 【子季語】 殿様蛙、赤蛙、土蛙、初蛙、昼蛙、夕蛙、夜蛙、遠蛙、筒井の蛙、蛙合戦、

鳴く蛙、苗代蛙、田蛙

【関連季語】 蝌蚪、蟇、牛蛙

【解説】 蛙は、田に水が張られるころ、雄は雌を求めてさかんに鳴き始める。昼夜の別なくなき続け、のどかさを誘う。「かはず」はもともとカジカガエルのことをさしていたが、平安時代から一般の蛙と混同されるようになった。

【実証的見解】 蛙は、両生類カエル目に分類される動物の総称。ほとんどは、日本各地の水辺または湿地帯に生息するが、樹上や土中に棲むものもある。大きさは一センチくらいのものから二十センチをこえるものまでさまざまで、体は頭部と胴からなる。頭は三角形で、目は大きく飛び出し視力が発達している。四肢を持つ胴体は丸っこく、尾はない。後肢が特に発達しており、後肢で跳躍して敵から逃げたり、虫を捕まえたりする。後肢の指の間の水掻きを使って泳ぐ。アオガエルやアマガエルなどの樹上生活をする種の多くは指先の吸盤が発達している。蛙のほとんどは肉食性で、昆虫などを食べる。冬は冬眠する。

【例句】

古池や蛙飛込む水のおと 芭蕉「春の日」

月に聞て蛙ながむる田面かな 蕪村「蕪村句集」

閣に座して遠き蛙をきく夜哉 蕪村「蕪村句集」

痩蛙負けるな一茶是に有 一茶「七番日記」

 「句意」(その周辺)

 下記のアドレスで、抱一の描く「吉原月次風俗図(九月・干稲)」関連のものを紹介した。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-03

 抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「九月(干稲)」

 【≪九月(干稲)

吉原遊郭は江戸の北郊に位置し、周囲は田で囲まれていた。収穫の時期には稲を架けて干す寂びた田園の風情も、二階座敷から望み見ることができたのである。賛は「京町あたりの奥座敷からさしのそけは 鷹も田に居馴染むころや十三夜」。≫(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

    京町あたりの奥座敷からさしのぞけば

 鷹も田に居馴染むころや十三夜  抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」

  この句の前書きの「京町(一丁目)」には、下記のアドレスなどで度々紹介している加保茶元成(大文字屋市兵衛)の妓楼「大文字屋」が見世を構えている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

 『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、「楼主と加保茶元成(初代・大文字屋市兵衛)」などについて、下記のとおり紹介している。

 ≪ 楼主は妓楼の経営のトップで、忘八(ぼうはち)と呼ばれる。『吉原大全』によると、その由来は、仁・義・礼・智・忠・信・考・悌といった八つの徳目を忘れさせるほど面白い場所を提供する人ということにな っているが、実際には遊女たちをこき使い、遊客から金をむしり取る、八つの徳目を忘れた人非人という、さげすみの意味も含まれていたらしい。大文字屋の初代楼主・市兵衛は伊勢から江戸へ出て、吉原で一旗上げようとやってきた人で、めはお歯黒溝(どぶ)沿いに河岸見世を開くも、なんとか五丁町に進出したいと遊女の食事をすべて安いカボチャにして、経費を節減。ヒドイ! しかし、これが功を奏して、見事京町一丁目に店を構えたため、「カボチャ」とあだ名された。当時子供たちの間で流行っていた歌に「ここ京町大文字屋のカボチャとて、その名を市兵衛と申します。せいが低くて、ほんまに猿まなこ、かわいいな、かわいいな」とあるように、ユニークな外見だったよう。名物社長といったところか。ちなみに、彼は園芸を愛する文化人でもあり、跡を継いだ二代目も加保茶元成のペンネームで天明狂歌壇の一翼を担う教養人だった。花魁を中心に見世をいかにプランディングしてゆくか手腕を問われる妓楼の経営には、情緒的価値を理解するセンスが求められたのだ。≫(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 ≪おどけた表情がユニークなこの小柄の男は、吉原京町大文字屋の初代主人、村田市兵衛。かぼちゃに似た市兵衛の顔立ちは宝暦の頃ざれ唄になり囃されたが、彼は自らこれを歌って人気を得たという。抱一は二代市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)やその子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、くだけた姿の初代の肖像も、そのゆかりで描いたものだろう。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』「作品解説・岡野智子稿」)

 

酒井抱一筆「大文字屋市兵衛図」一幅 板橋区立美術館蔵

 上記の「大文字屋市兵衛図について、同書(岡野智子稿)で、詳細な「作品解説99」も掲載している。

 ≪ 吉原京町大文字屋の初代主人、村田市兵衛をモデルとする小品。市兵衛の風貌はかぼちゃに似て、宝暦の頃ざれ唄になり囃されたが、彼は自らこれを歌って人気を得たという。市兵衛が歌い踊る酔興な姿は白隠画にもあるが(永青文庫蔵)、本図は大田南畝『仮名世話』『耽奇漫録』に見出される西村重長原画の大文字屋かぼちゃ像をほぼ踏襲している。賛はそのざれ唄の歌詞。署名は「郭遊抱一戯画」「文詮」(朱文円印) 抱一は二代目市兵衛(一七五四~一八二八、狂名加保茶元成)やその子三代市兵衛(村田宗園)と親しく、二代目市兵衛の千束の別宅に千蔭と遊び、庭内の人丸堂で人麿影供を行うなど、吉原を離れての私的な集まりに参じていたという指摘もある。もとより大文字屋は小鶯を身請けした妓楼であり、抱一のパトロン的存在でもあった。長年にわたる交際により抱一と大文字屋を結ぶ作品が遺され、吉原通の抱一の姿を伝えている。

()      

十にてうちん

 の花むらさきの

  ひも付で

   かさりし

玉や女らう衆かこいの

 すこもりもんな

 つるのまるよいわいないわいな

        其名を 市兵へと 申します ≫

  ここに出て来る、三代目市兵衛(村田宗園)は、抱一に絵の手ほどきを受けていたと伝えられ、抱一が吉原で描いた淡彩による俳画集『柳花帖』(姫路市美術館蔵)には、その三代目市兵衛が箱書きをしている。 その『柳花帖』の賛に書かれた発句一覧などについては、下記のアドレスで触れている。

それを再掲して置きたい。

  ここで、抱一の前半生と後半生の分岐点となった、寛政二年(一七九〇)、三十歳時の、実兄・忠以が亡くなった当時のことの一端を、『琳派―響きあう美―(河野元昭著)』から下記に抜粋して置きたい。

 ≪ 抱一がしばしば点取りのために百韻や二百韻、さらに千句を米翁に寄せ、ともに歌仙を巻いているのに対し、絵画に関する記事が非常に少ないのは、この時期、抱一の主力が俳諧に注がれていたことを示している。米翁の日記によってはじめて知られた事実のうち、もっとも興味深い寛政二年十二月の一条を紹介しておこう。俳人屠龍すなわち抱一の邸に松平雪川・松前泰卿が集まって、いわゆる三公子の揃い踏み、そこに米翁・晩得といった当時の有名俳人が加わって、抱一の得意たるや目に見えるようである。

 八日 晩得より愈々明日屠龍方俳諧に雪川も行るゝ由、消息来る。

 九日 四時半より浜町屠龍邸へ行。供村井

 (以下六名)本郷通り昌平橋、朝日山に休み、お玉が池、新材木町、楽屋新道永楽の門へ寄、留守也。大阪町より、どうかむ堀屠龍門へ入る。晩得・沾山・岩松・神稲来在。初て呑舟に逢ふ。程なく未白、八過雪川来らる。干菓子味噌漬鯛参らす。

 雪川・屠龍・呑舟・雁々・神稲・沾山・岩松・米木十一吟俳諧

 晩得は点者に定めし故、二階次間にて予が点の歌仙。七半頃、泰卿来る。

六時駕にて帰る。どうかん堀よりあらめ橋、新材木町より前路を帰る。≫  】

  句意は、「ここ吉原の妓楼の二階より見える千束(せんぞく)の里の田は、今や、ざわざわと騒々しい「鳴く田」も、一瞬静寂の「なかぬ田」も、正に、共に、「動く(蠢いている)田」であることよ。」

 さらに、この句の背景には、下記のアドレスの、芭蕉の「古池吟」(参考一)や、それに関連しての『蛙合(仙化編)』(参考二)が、これまた「動く」、「蠢いている)」のであろう。

(参考一)「芭蕉の古池吟」

 https://cleanup.jp/life/edo/115.shtml

『江戸名所図会』芭蕉庵 (芭蕉の後ろに描かれているのがバショウ)出典 国立国会図書館貴重画データベース

 【「古池や 蛙とびこむ 水の音」

このあまりにも知られた句が詠まれたのは深川の芭蕉庵。貞享3(1686)、芭蕉をはじめ、門人たちが集まった句合(くあわせ)の席だった。句合とは、主題を決めて句の優劣を競う一種の句会である。その時の主題は「蛙」、こんなエピソードがある。

芭蕉は最初に「古池や…」の句を詠んだ。句を鑑賞したり、意見も出し合う会である。傍らにいた其角(きかく/蕉門十哲の一人)は、上五(かみご/初めの五文字)の「古池や」を「山吹や」としたほうがよろしいのでは、と師匠の芭蕉に提案した。

この意見はもっともで、俳諧においても古くからの和歌の伝統が生きていて、山吹といえ蛙、蛙といえば山吹、というのは暗黙の了解で常識だった。其角の進言通り「山や蛙とびこむ 水の音」とすれば、確かに優等生の句ということになったのかもしれない。

しかし、芭蕉は和歌の伝統にとらわれずに「古池や…」と決めたのである。そればかりか、「蛙」にしても、和歌では“鳴くもの”として捉えるはずなのに、芭蕉の「蛙」は“飛ぶ”のである。】

 (参考二)

『蛙合』『元禄俳諧集 新日本古典文学大系71』(大内初夫、櫻井武次郎、雲英末雄校注、一九九四、岩波書店)

 https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%9B%99%E5%90%88-%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80/

 【 『蛙合』は貞享三年(一六八六)の春、深川芭蕉庵に芭蕉、素堂、孤屋、去来、嵐雪、杉風、曾良、其角らが会して二十番の蛙の句合を行い、その衆議判を仙化が書き留めたもの。その目的は「句合という趣向を借りて全二十組、すなわち四十句によって、和歌伝統の美学を脱した蛙の実相を活写する試み」(「古池の風景」谷地快一『東洋通信二〇〇九・一二』所収)であった。和歌伝統の代表作は「かはづ鳴く井出の山吹散りにけり花のさかりにあはましものを」(不知・古今・春)。

 芭蕉の高弟其角は句合の時、「古池や」ではなく「山吹や」を上五に提案したが採用されなかった。その其角の、発句「古池や」に付けた脇句が、寛政十一年(一七九九)に尾張の暁台が編んだ『幽蘭集』(芭蕉連句集)に収載されている。

   古池やかはづ飛こむ水の音    はせを

      芦のわか葉にかゝる蜘の巣   其角

 「なべて同条件のもとで発句に詠まれていないものを付けて、発句の世界の焦点を絞り、より具体的にして余情豊かな効果を導き出すのが脇句の役所である」(『連句辞典』)が、発句と同時同場の春景がそっと添えられている。飛び込む蛙と蜘蛛の巣の相対付(あいたいづけ)けにおかしみも感じる

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2013_10_01/08.html   】

 

「一番

   左

 古池や蛙飛こむ水のおと      芭蕉

   右

 いたいけに蛙つくばふ浮葉哉    仙化

   此ふたかはづを何となく設たるに、四となり六と成て一巻にみちぬ。かみにたち下におくの品、をのをのあらそふ事なかるべし。」

 「第二番

   左勝

 雨の蛙声(コハ)高(だか)になるも哀也 素堂

   右

 泥亀と門(かど)をならぶる蛙哉     文鱗

   小田の蛙の夕ぐれの声とよみけるに、雨のかはづも声高也。右、淤泥の中に身をよごして、不才の才を楽しみ侍る亀の隣のかはづならん。門を並ぶると云たる、尤手ききのしはざなれども、左の蛙の声高に驚れ侍る。」

「第三番

   左勝

 きろきろと我頬(ツラ)守る蛙哉  嵐蘭

   右

 人あしを聞(きき)しり顔の蛙哉  孤屋

   左、中の七文字の強きを以て、五文字置得て妙なり。かなと留りたる句々多き中も、此句にかぎりて哉といはずして、いづれの文字をかおかん。誠にきびしく云下したる、鬼拉一体、これらの句にや侍らん。右、足音をとがめて、しばし鳴やみたる、面白く侍りけれ共、左の方勝れて聞侍り。」

 「第四番

   左持

 木のもとの氈(せん)に敷(しか)るる蛙哉 翠紅

   右

 妻負(おふ)て草にかくるる蛙哉      濁子

   飛かふ蛙、芝生の露を頼むだにはかなく、花みる人の心なきさま得てしれることにや。つまおふかはづ草がくれして、いか成人にかさがされつらんとおかし、持。」

 「第五番

   左

 蓑うりが去年(こぞ)より見たる蛙かな   李下

   右勝

 一畦(あぜ)はしばし鳴やむ蛙哉      去来

   左の句、去年より見たる水鶏かなと申さまほし。早苗の比の雨をたのみて、蓑うりの風情猶たくみにや侍るべき。右、田畦をへだつる作意濃也。閣々蛙声などいふ句もたよりあるにや。長是群蛙苦相混、有時也作不平鳴といふ句を得て以て力とし、勝。」

 「第六番

   左持

 鈴たえてかはづに休む駅(ムマヤ)哉  友五

   右

 足ありと牛にふまれぬ蛙哉       琪樹

   春の夜のみじかき程、鈴のたへまの蛙、心にこりて物うきねざめならんと感太し。右、かたつぶり角ありとても身をなたのみそとよめるを、やさしく云叶へられたり。野径のかはづ眼前也、可為持。」

 「第七番

   左

 僧いづく入相のかはづ亦淋し     朱絃

   右勝

 ほそ道やいづれの草に入(いる)蛙  紅林

   雨の後の入相を聞て僧寺にかへるけしき、さながらに寂しく聞え侍れども、何れの草に入かはづ、と心とめたる玉鉾の右を以て、左の方には心よせがたし。」

「第八番

   左

 夕影や筑(つく)ばに雲をよぶ蛙  芳重

   右勝

 曙の念仏はじむるかはづ哉     扇雪

   左、田ごとのかはづ、つくば山にかけて雨を乞ふ夕べ、句がら大きに気色さもあるべし。右、思ひたへたる暁を、せめて念仏はじむる草庵の中、尤殊勝にこそ。」

 「第九番

   左勝

 夕月夜畦に身を干す蛙哉       琴風

   右

 飛(とぷ)かはづ猫や追行小野の奥  水友

身をほす蛙、夕月夜よく叶ひ侍り。右のかはづは、当時付句などに云ふれたるにや。小ののおく取合侍れど、是また求め過たる名所とや申さん。閑寥の地をさしていひ出すは、一句たよりなかるべきか。ただに江案の強弱をとらば、左かちぬべし。」

 「第十番

   左

 あまだれの音も煩らふ蛙哉      徒南

   右勝

 哀にも蝌(かへるご)つたふ筧かな  枳風

   半檐疎雨作愁媒鳴蛙以与幽人語、などとも聞得たらましかば、よき荷担なるべけ   れども、一句ふところせばく、言葉かなはず思はれ侍り。かへる子五文字よりの云流し、慈鎮・西行の口質にならへるか。体かしこければ、右、為勝。」

 「第十一番

   左

 飛かはづ鷺をうらやむ心哉     全峰

   右勝

 藻がくれに浮世を覗く蛙哉     流水

   鷺来つて幽池にたてり。蛙問て曰、一足独挙、静にして寒葦に睡る。公、楽しい哉。鷺答へて曰、予人に向つて潔白にほこる事を要せず。只魚をうらやむ心有、と。此争ひや、身閑に意くるしむ人を云か。藻がくれの蛙は志シ高遠にはせていはずこたへずといへども、見解おさおさまさり侍べし。」

  「第十二番

   左持

 よしなしやさでの芥とゆく蛙    嵐雪

   右

 竹の奥蛙やしなふよしありや    破笠

   左右よしありや、よしなしや。」

 「第十三番

   左持

 ゆらゆらと蛙ゆらるる柳哉     北鯤

   右

手をかけて柳にのぼる蛙哉     コ斎

   二タ木の柳なびきあひて、緑の色もわきがたきに、先一木の蛙は、花の枝末に手をかけて、とよめる歌のこと葉をわづかにとりて、遙なる木末にのぞみ、既のぼらんとしていまだのぼらざるけしき、しほらしく哀なるに、左の蛙は樹上にのぼり得て、ゆらゆらと風にうごきて落ぬべきおもひ、玉篠の霰・萩のうへの露ともいはむ。左右しゐてわかたんには、数奇により好むに随ひて、けぢめあるまじきにもあらず侍れども、一巻のかざり、古今の姿、只そのままに筆をさしおきて、後みん人の心にわかち侍れかし。」

 「第十四番

   左持

 手をひろげ水に浮(うき)ねの蛙哉  ちり

   右

 露もなき昼の蓬に鳴(なく)かはづ  山店

   うき寐の蛙、流に枕して孫楚が弁のあやまりを正すか。よもぎがもとのかはづの心、句も又むねせばく侍り。左右ともに勝負ことはりがたし。」

 「第十五番

   左

 蓑捨(すて)し雫にやどる蛙哉   橘襄

   右勝

 若芦にかはづ折(をり)ふす流哉  蕉雫

   左、事可然体にきこゆ。雫ほすみのに宿かると侍らば、ゆゆしき姿なるべきにや。捨るといふ字心弱く侍らん。右、流れに添てすだく蛙、言葉たをやか也。可為勝。」

 「第十六番

   左

 這(はひ)出て草に背をする蛙哉      挙白

   右勝

 萍(うきくさ)に我子とあそぶ蛙哉     かしく

   草に背をする蛙、そのけしきなきにはあらざれども、我子とあそぶ父母のかはづ、魚にあらずして其楽をしるか。雛鳧は母にそふて睡り、乳燕哺烏その楽しみをみる所なり。風流の外に見る処実あり、尤勝たるべし。」

 「第十七番

   左勝

 ちる花をかつぎ上たる蛙哉     宗派

   右

 朝草や馬につけたる蛙哉      嵐竹

   飛花を追ふ池上のかはづ、閑人の見るに叶へるもの歟。朝草に刈こめられて行衛しられぬ蛙、幾行の鳴をかよすらん、又捨がたし。」

 「第十八番

   左持

 山井(やまのゐ)や墨のたもとに汲(くむ)蛙 杉風

   右

 尾は落(おち)てまだ鳴(なき)あへぬ蛙哉  蚊足

   山の井の蛙、墨のたもとにくまれたる心ことば、幽玄にして哀ふかし。水汲僧のすがた、山井のありさま、岩などのたたずまひも冷じからず。花もなき藤のちいさきが、松にかかりて清水のうへにさしおほひたらんなどと、さながら見る心地せらるるぞ、詞の外に心あふれたる所ならん。右、日影あたたかに、小田の水ぬるく、芹・なづなやうの草も立のびて、蝶なんど飛かふあたり、かへる子のやや大きになりたるけしき、時に叶ひたらん風俗を以、為持。」

 「第十九番

   左勝

 堀を出て人待(まち)くらす蛙哉   卜宅

   右

 釣(つり)得てもおもしろからぬ蛙哉 峡水

   此番は判者・執筆ともに遅日を倦で、我を忘るるにひとし。仍而以判詞不審。左か  ちぬべし。」

「第二十番

   左

 うき時は蟇(ヒキ)の遠音も雨夜哉  そら

   右

 ここかしこ蛙鳴ク江(え)の星の数  キ角

   うき時はと云出して、蟾の遠ねをわづらふ草の庵の夜の雨に、涙を添て哀ふかし。わづかの文字をつんでかぎりなき情を尽す、此道の妙也。右は、まだきさらぎの廿日余リ、月なき江の辺リ風いまだ寒く、星の影ひかひかとして、声々に蛙の鳴出たる、艶なるやうにて物すごし。青草池塘処々蛙、約あつてきたらず、半夜を過と云る夜の気色も其儘にて、看ル所おもふ所、九重の塔の上に亦一双加へたるならんかし。」

 「追加

    鹿島に詣侍る比(ころ)真間の継はしニて

 継橋(つぎはし)の案内顔(かほ)也飛(とぶ)蛙 不卜」

  頃日(けいじつ)会/深川芭蕉庵而/群蛙(ぐんあ)鳴句以衆議判(しゅうぎはん)而/  馳禿筆(とくひつ)青蟾(せいせん)堂仙化(せんか)子撰(えらぶ)焉乎

  貞享三丙寅歳閏三月日  新革屋町 西村梅風軒

※衆議判(しゅうぎはん)

① 合議で優劣、善し悪し、採否などを決めること。

※浮世草子・好色敗毒散(1703)三「まづ今日は初会の事なれば、女郎の物好き重ねて、衆議判(シュギハン)にて極むべし」

② 歌合で、参加した左右の方人(かたうど)が、互いにその歌の優劣を判定すること。また、その方法。

※源家長日記(1216‐21頃)「此御歌合和歌所にて衆儀はん也しに、この歌をよみあけたるを、たひたひ詠せさせ給、よろしくよめるよしの御気色なり」

(「精選版 日本国語大辞典」)

  

5-3 水貝の鉢に小嶋やまつ嶋や 

 季語=水貝=水貝(みずがい/みづがひ) 三夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/15622

【子季語】 水介/生貝

【解説】 水貝とは鮑料理の一種で、新鮮な鮑を粗いさいの目に切り氷やいろどりの胡瓜などとともに薄い食塩水に浮かべたの。貝の歯ごたえと鮮度がなにより大切。

【考証】(『図説 俳句大歳時記(夏)・角川書店)』所収「水貝・考証」)

 「水貝は、雌貝にても雄貝にても、鮑を放し、塩にて揉み、なるほど塩づくめにして、三時(さんとき)ばかりも置いて、それをよく塩にてみがき洗ひて、みみかはを去りて、大いかたに厚さ一分ばかりにし少し厚く切りて畳み、盛り方なるほど景のあるやうに花車(きやしや)に盛りて、出だしざまに諸白(もろはく)を出(にだ)しに薄くのべ、たつぶとためで出だすべし。」(『江戸料理集・延宝二』)

 

「水貝料理」(「小諸城主」献上品)

https://www.slow-style.com/detail/1120/news/news-9153.html

 

「大をんし前 田川屋「狂句合 田川やの筏牛房に竹の箸」(歌川広重画・大判横錦絵)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%AB%98%E5%90%8D%E4%BC%9A%E4%BA%AD%E5%B0%BD

 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-10

 (抱一と駐春亭宇右衛門)

 【 毎日夕景になると散歩に出掛ける廓の道筋、下谷龍泉寺町の料亭、駐春亭の主人田川屋のことである。糸屋源七の次男として芝で生れ、本名源七郎。伯母の家を継いで深川新地に茶屋を営む。俳名は煎蘿、剃髪して願乗という。龍泉寺に地所を求めて別荘にしようとしたところ、井戸に近辺にないような清水が湧き出して、名主や抱一上人にも相談して料亭を開業した。座敷は一間一間に釜をかけ、茶の出来るようにしてはじめは三間。風呂場は方丈、四角にして、丸竹の四方天井。湯の滝、水の滝を落として奇をてらう。

(中+略)

上人が毎日せっせと通っていたわけがこれで分かる。開業前からの肩入れであったのである。「料理屋にて風呂に入る」営業を思いつき、「湯滝、水滝」「浴室の内外額は名家を網羅し」「道具やてぬぐいのデザインはすべて抱一」「鉢・茶器類は皆渡り物で日本物はない」当時としては凝った造り、もてなしで評判であったろう。これもすべて主人田川屋の風流才覚、文人たちの応援があったればこそである。 】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

  ◯田川屋(料理屋)

 △「田川屋料理  金杉大恩寺

    風炉場は浄め庭に在り  酔後浴し来れば酒乍ち醒む

    会席薄茶料理好し    駐春亭は是れ駐人の亭

 □「下谷大恩寺前 会席御料理 駐春亭宇右衛門」

 http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/

「抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いた++という。」   

『閑談数刻』(東京大学総合図書館)は、駐春亭宇右衛門の聞き書きによるものなのである。

「句意」(その周辺)

  吉原の妓楼「大文字屋」の「主人・村田市兵衛=狂名・加保茶元成」は、その初代から三代に亘って、抱一のパトロン(後援者・厚誼者など)的な親密な間柄であった。そして、もう一人、この吉原の「千束」の郷(里)の「大音寺」門前の料亭「田川屋」(別名・駐春亭)の「主人・駐春亭右衛門=狂名・『煎蘿、剃髪して願乗』」も、抱一の無二のパトロン的な一人であったのであろう。

 「句意」は、「この、吉原(よしわら)妓楼(大文字屋)からの道筋の、千束(せんぞく)『大音寺』前の、この料亭『田川屋こと・駐春亭』の、この『水貝(みず)』料理、これは、まさしく、その『盛り鉢』」に描かれている、その『小嶋』の、その『ああ、小嶋(松嶋)』や、その、『まつ嶋(待っていた『水貝料理)』や』。」

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