木曜日, 3月 30, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-63~4-66」

 4-63  (洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

 

「花洛名勝図会東山之部. 1-4 / 木村明啓 編 ; 松川安信,四方義休,楳川重寛 図画」所収「巻一・縄手通/大和橋」→「大和大路三条と四条との間にあり。是、白河の流、賀茂川に入る所なり。大和大路にかくるを以て大和橋といふ。石を以て造る橋なり」→ A

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i13/i13_00528/index.html

 

「都名所之内/四条橋より縄手通大和橋を望 (都名所之内)(長谷川貞信初代画/綿屋喜兵衛版/中判横絵 紙面17・4×23・5センチ位) → B

https://dl.ndl.go.jp/pid/1304796/1/1

 (句意周辺「参考句」)

 布団着て寝たる姿や東山   (嵐雪『枕屏風』)

(『俳家奇人談(竹内玄玄一)』の中で「譬喩(ひゆ)の句難し。この什温厚和平、じつに平安の景なるかな」との評がある嵐雪の代表句)

 嵐雪にふとん着せたり雪の宿  (蕪村『蕪村句稿』) 天明二年(一七八二) 六十七歳

嵐雪にふとん着せたり夜半の雪 (蕪村『夜半叟句集』) 同上 

 東山の梺に住どころ卜したる一音法師に申遣ス

嵐雪とふとん引合ふ詫寝哉   (蕪村『蕪村句集』) 安永四年(一七七五) 六十歳

 (句意周辺)

 この句の前に、「十一月十八日京着、木屋町にて」の前書がある。新暦では一月の、真冬の、まさに、「布団着て寝て見る山や東山」の光景であろう。「木屋町」は「高瀬川沿いの二条・五条間の地域」で、料理屋や旅籠、酒屋などが軒を連ねている(A図・B)。イメージとしては、抱一一行は、「縄手通/大和橋」(B)の旅籠で草鞋を脱いで、丁度、「四条橋より縄手通大和橋を望む」(A)の、雪の東山を見ているような光景としてとらえたい。

 (句意)

 嵐雪師匠の「布団着て寝たる姿や東山」を、蕪村先達の「嵐雪とふとん引合ふ詫寝哉」のような吾ら一行は、まさに、「嵐と雪」の後のような寒さの中で、「布団着て寝て見る山や東山」と、これに付け加える感慨の言葉はありません。

 

4-64  (洛・清水寺) 春待や柳も瀧も御手の糸

 

松村呉春筆「三十六歌仙」下絵図巻子(部分抜粋図)/ 天明7(1787)呉春35歳の作品/紙本彩色/松村景文先生家蔵

https://yushukoharu.com/1597/

北村季吟「地主からは木の間の花の都かな」

服部嵐雪「蒲団着て寝たる姿や東山」

(メモ)「清水寺」は俗称で、正しくは「音羽山北観音寺」。蕪村の後継者の一人で、蕪村没後、応挙門の一人として「円山四条派」の画人として名をとどめている呉春作。下絵図であるが、賛書きの二句は、「季吟と嵐雪」の句。季吟の句は、「清水寺唯一の句碑」で、この「地主」とは、本堂の北側の「地主神社」(縁結びの神社)で、そこに、「一本の木に八重一重の花が咲く珍しい桜」があり、その傍らに、この季吟の句碑があるという(『新撰/俳枕5/近畿)

(「季語」周辺)

花の都(はなのみやこ)/ 晩春

https://kigosai.sub.jp/001/archives/16574#:~:text=%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%83%BD%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%82%84%E3%81%93%EF%BC%89%20%E6%99%A9%E6%98%A5%20%E2%80%93%20%E5%AD%A3%E8%AA%9E%E3%81%A8%E6%AD%B3%E6%99%82%E8%A8%98

【子季語】花洛

【解説】都の栄華繁栄を褒め称える言葉で、都の華美なるをいう。東京はもちろんのこと、京都や奈良にもそうした風情がある。

【例句】

地主からは木の間の花の都かな 季吟「花千句」

傘さして駕舁く花の都かな   蓼太「発句類聚」

 

歌川広重 京都名所之内 清水 横大判錦絵 天保5(1834)頃 山口県立萩美術館・浦上記念館

https://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/collection/2017/04/

≪「京都名所之内」は四季折々の京都名所の風景を描いた10枚揃いのシリーズです。このシリーズは『都名所図会(みやこめいしょずえ)(版本、安永9年刊)や『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)(版本、寛政11年刊)をもとに描かれていることが指摘されており、この作品も『都林泉名勝図会』のなかに類似する挿絵が見出せます。 見ごろを迎えた桜に囲まれる音羽山清水寺と、料亭からそれを眺める客たちの様子が対角線をなすようにして描かれています。≫

 句意(その周辺)

 この句の「滝」は「音羽の滝」として、「清水寺」の名所の一つとなっている。この「柳」は、その寺伝の、「行叡は延鎮に『我、観音の威神力を念じ、千手真言を唱えながら汝を長く待っていた。ここは観音の霊場であり、またこの柳は七仏出世の昔より繁茂する楊柳である。汝、この木で千手観音を刻み、堂舎を建立せよ。汝にこの庵を与え、我これより東国を済度せん』」(下記アドレス)と紹介されている「柳」(楊柳)を指しているのであろう。

https://blog.goshuin.net/1825_01_133/

 

句意

 「清水寺に参りて」(前書)、その「春を待っ」ている「音羽の滝」、そして、その寺の沿革に記されている「柳(楊柳))」等々、これらはすべて、「音羽山北観音寺」の、その「観世音菩薩」の「御手の糸(しるし)」なのだということを実感した。

 

4-65  (洛・戸奈瀬) 山の名はあらしに六の花見哉

歌川広重/「六十余州名勝図会」/「嵐山 渡月橋」

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hiroshige-60yosyu/02.html

≪『 六十余州名所図会 』は、浮世絵師 一立齋廣重( 歌川広重 一世)(寛政9年(1797年) - 安政596日(18581012日))が日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作です。/1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけての広重晩年の作で、五畿七道の68か国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69作に、目録1枚を加えた全70枚からなります。/目録には「大日本六十余州名勝図会」と記されています。/ここでの原画は国立国会図書館によります。≫

 句意(その周辺)

 鵜飼舟下す戸無瀬の水馴(みなれ)棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)

となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)

あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「うけらが花」)

築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)

 戸奈瀬の雪を

山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

 

 「藤原(九条)良経」は、抱一の出家に際し、その猶子となった「九条家二代当主」、そして、「藤原定家」は、その「藤原(九条)良経」に仕えた「九条家・家司」で、「藤原俊成」の「御子左家」を不動にした「日本の代表的な歌道の宗匠」の一人である(「ウィキペディア)

 続く、「橘(加藤)千蔭」は、抱一の「酒井家」と深いかかわりのある「国学者・歌人・書家」で、抱一は、千蔭が亡くなった文化五年(一八〇八)に、次の前書を付して追悼句(五句)を、その「屠龍之技・第七かみきぬた」に遺している。

 

 橘千蔭身まかりける。断琴の友なりければ

から錦やまとにも見ぬ鳥の跡

吾畫(かけ)る菊に讃なしかた月見

山茶花や根岸尋(たづね)る革文筥(ふばこ)

しぐるゝ鷲の羽影や冬の海

きぬぎぬのふくら雀や袖頭巾

 この「花洛の細道」のハイライトの一句ということになる。「花洛」(「花の都」=晩春の「季語」)に対応しての、「六(むつ)の花」(「雪」の異名=晩冬の「季語」)の句ということになる。

 句意

 待望久しい「山の名」も「あらし」の「嵐山」を訪れ、その「大堰川(大井川)・渡月橋・戸奈瀬の滝」は、今や「六つの花」()に覆われ、これぞ、「花洛(花の都)」の「華見(「六つの花」見)」かと、その風情を満喫している。

 (参考)  橘千蔭(たちばなのちかげ)/享保二十~文化五(1735-1808)/号:芳宜園(はぎぞの)・朮園(うけらぞの)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tikage.html

  江戸八丁堀の生まれ。父は幕府与力にして歌人であった加藤枝直。橘は本姓。俗称常太郎・要人(かなめ)、のち又左衛門。少年期より賀茂真淵に入門し国学を学ぶ。父の後を継いで江戸町奉行の与力となり、三十歳にして吟味役を勤める。天明八年(1788)五十四歳で致仕し、以後は学芸に専念した。寛政十二年(1800)、『万葉集略解』を十年がかりで完成。書簡で本居宣長に疑問点を問い質し、その意見を多く取り入れた、万葉全首の注釈書である。文化九年(1812)に全巻刊行が成った同書は万葉入門書として広く読まれ、万葉享受史・研究史上に重きをなす(例えば良寛は同書によって万葉集に親しんだらしい)。

歌人としては真淵門のいわゆる「江戸派」に属し、流麗な古今調を基盤としつつ、万葉風の大らかさを尊び、かつ新古今風の洗練・優婉も志向する歌風である。同派では村田春海と並び称され、多くの門弟を抱えた。享和二年(1802)、自撰家集『うけらが花』を刊行。橘八衢(やちまた)の名で狂歌も作る。書家としても一家をなしたが、特に仮名書にすぐれ、手本帖などを数多く出版した。絵も能くし、浮世絵師東洲斎写楽の正体を千蔭とする説もある程である。文化五年九月二日、死去。七十四歳。墓は東京都墨田区両国の回向院にある。

 

4-66  (洛・朱雀野) 島原のさらばさらばや霜の声

『歌川広重・京都名所之内』嶋原出口之柳 = 天保五年・1834年頃 =(国立国会図書館所蔵)

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/kyotomeisyonouchi.html#group1-7

http://sakuwa.com/si20ima.html

 「さらば垣」=京都、島原遊郭の総門の前にある垣。遊女が客を送って来て別れをいう所なのでいう。※俳諧・七柏集(1781)芙蓉園興行「朝朝のともすれば憂さらば垣〈蓼太〉 袖擕錦衾香〈芙蓉〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

「さらば」=別れの挨拶(あいさつ)に用いる語。さようなら。(「精選版 日本国語大辞典」)

「さらばさらば」=中世後期では「さらばさらば」と重ねた言い方が多く見え、さらに近世中期には「さらばの鳥」のような名詞的用法が生じ、打ち解けた間柄で用いる町人言葉「おさらば」もあらわれた。近世後期になると「さようならば」から生じた「さようなら」が一般化したが、近代以降は文語的な表現として「さらば」が用いられている。(「精選版 日本国語大辞典」)

 「霜の声」=霜のおりた時のしんしんとした感じ。冬の季語。 田舎之句合「金蔵(かねぐら)のおのれとうなる也霜の声」(其角) 《広辞苑・第六版》/あるはずもない音、声が聞こえたように思えることがあります。 霜は空気中の水蒸気が凍りつき、細かな氷の粒となったもの。 氷点下まで冷やされた水蒸気が地表や地表に近い草の葉に触れて結晶化した 氷が霜の正体です。

http://koyomi8.com/doc/mlko/201212090.html

「粟食の焦て匂ふや霜の声〈晉子〉 是嘘妄也。〈略〉其短尺を何かたよりか得て、附会して伝書の証に、偽言ものにして正しからぬ事なり」〔南史何遠伝〕→「虚妄」=「事実でないこと。うそ。いつわり。きょぼう。」(「精選版 日本国語大辞典」)

 「芭蕉の霜の句」

葛の葉のおもてなりけり今朝の霜  芭蕉「雑談集」

ありがたやいたゞいて踏はしの霜  芭蕉「芭蕉句選」

霜枯に咲くは辛気の花野哉     芭蕉「続山の井」

霜を着て風を敷寝の捨子哉     芭蕉「六百番俳諧発句合」

霜をふんでちんば引まで送りけり  芭蕉「茶のさうし」

火を焚て今宵は屋根の霜消さん   芭蕉「はせを翁略伝」

薬呑むさらでも霜の枕かな     芭蕉「如行集」

さればこそあれたきまゝの霜の宿  芭蕉「笈日記」

かりて寝む案山子の袖や夜半の霜  芭蕉「其木がらし」

夜すがらや竹こほらするけさのしも 芭蕉「真蹟画賛」

 

句意(その周辺)

 旧暦の「(十一月十八日京着、木屋町にて) 布団着て寝て見る山や東山」から、「(十二月二日都を立て吾妻におもむく、鈴鹿の山中) 晴た雪又ふる鷲羽風かな」と、この句は、抱一一行の「京都滞在」の最後の日の一句で、十一月末日から十二月初日の頃の句ということになろう。

 句意

 この「洛の旅路(花洛の細道)」の目的地・「京の都」の最終日、「島原」の「さらば垣」に「さらば」(「おさらば」)する時がきた。その「大門・見返り柳・さらば垣」を振り返り見ると、しんしんと霜の降りたような「霜の声」が聴こえてくる。

 蛇足

 この下五の「霜の声」に何かしら仕掛けがほどこされている雰囲気である。この後に、「(佐谷<>)水鳥は流るゝ春や橋の霜」と「(三保の松原・明神)いつ迄も夢は覚めるな霜の舟」とが続く。この仕掛けを詠み解くのには、上記の「芭蕉の霜の句」(殊に、芭蕉の愛弟子・杜国の流刑後の隠棲地を訪れた「さればこそあれたきまゝの霜の宿」)と「其角の霜の句」の「金蔵(かねぐら)のおのれとうなる也霜の声」(「田舎之句合」)などが参考になるのかも知れない。

 

(抱一の「花洛の細道(その六)」周辺)

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

「≪「軽挙館句藻」

 霜月四日、其爪・古檪・紫霓・雁々・晩器などうち連て花洛の旅におもむく ≫」

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形

(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二

(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな

(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子

(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

「≪「軽挙館句藻」

(三河国八橋)        紫のゆかりもにくし蕪大根

(尾州千代倉:翁の笈を見て)  此軒を鳥も教へつ霜の原

(石山寺・幻住庵:其爪の剃頭) 椎の霜個ゝの庵主の三代目  ≫ 」

  十一月十八日京着、木屋町にて

(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

(洛・清水寺) 春待や柳も瀧も御手の糸

(洛・戸奈瀬) 山の名はあらしに六の花見哉

(洛・朱雀野) 島原のさらばさらばや霜の声

「≪「軽挙館句藻」

  十二月二日都を立て吾妻におもむく

(鈴鹿の山中) 晴た雪又ふる鷲羽風かな

(池鯉鮒の宿) 鳴雁ももらさし宿の大根汁   ≫ 」

(佐谷川)   水鳥は流るゝ春や橋の霜 

(江尻)    置炬燵浪の関もり寝て語れ

(三保の松原・明神) いつ迄も夢は覚めるな霜の舟

  十二月十四日江都にかへりて

(江戸)    鯛の名もとし白河の旅寝哉

()     ゆくとしを鶴の歩みや佐谷廻り

 (メモ) 京都滞在は、「十一月十八日京着(木屋町にて)」から「十二月二日都を立て吾妻におもむく」まで、僅かに十二日前後の滞在で、その間に、「西本願寺への得度答礼の挨拶」(「痔疾」を理由に抱一・本人は赴かず=『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、その他「猶子となった九条家」やら「京都所司代などの関係者」などの挨拶、そして、何よりも、「京都御住居被成候」の、その京都移住などをご破算にすることなどについて、「等覚院殿御一代記」には、次のように記されている。

 一 同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居       (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」) 

日曜日, 3月 26, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-61~4-62」

 4-61  あとからも旅僧は来(きた)り十団子

 

歌川広重 行書版『東海道五十三次之内 岡部 宇津の山之図』(「ウィキペディア」)

≪するがなる/うつのやまべの/うつゝにも/夢にも人に/あはぬなりけり──『伊勢物語』九段「東下り」)

(歌意= 駿河国にある宇津の山あたりに来てみると、その「うつ」という名のように、「うつつ〈現実〉」でも夢の中でも貴女に逢わないことだなあ。(それは貴女が私のことを思って下さらないからなのでしょう。)  ≫

 季語=「あとからも旅僧は来(きた)り十団子」、これは、「うつの谷峠」の前書を加味しても、季語なしの「雑」の句ということになる。しかし、前句の「降霰玉まく葛の枯葉かな」や、この「霜月・師走の洛の旅路」からすると、「冬」の句として、例えば、下記のアドレスで紹介されている、「十団子も小粒になりぬ秋の風/許六(『韻塞』」)に唱和しての、「十団子と秋の風」から「十団子と冬の風(木枯らし)」への「変転」しての一句として鑑賞することも、この句の狙いなのかも知れない。

 http://www.basho.jp/senjin/s1506-1/index.html

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)

 ≪「宇津の山を過」と前書きがある。

句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」

 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。

 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

 句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

(蛇足)

 抱一は、後年、「宇津の山図』(「勢物語東下り」)関連の作例を、下記のアドレスのものなど多く遺している。

酒井抱一筆『宇津の山図』/絹本著色/軸装・1/110.0 cm × 41.0 cm/19世紀(江戸時代後期)作の大和絵/山種美術館蔵

≪『伊勢物語』第9段「東下り」で、東国(鄙)へ向かう主人公(在原業平と目される人物)の一行が駿河国に差し掛かり、蔦の細道を通って宇津山の峠を越えようとしていたところ、平安京へ向かう旧知の修行者にばったり出逢い、主人公が京に残してきた恋しい女への和歌を託す場面(山中で主人公が歌を詠んでいる場面)を描いている。抱一ら琳派の作品には『伊勢物語』を題材としたものが多い。≫(「ウィキペディア」)

左上(今回の其一筆「東下り図(双幅)」) 右上(前回の抱一筆「不二山図(三幅対)」と

『光琳百図』所収「東下り」) 左下(前回の抱一の「伊勢物語東下り・牡丹菊図(三幅対)」)

右下(前回の抱一の「宇津山図・桜町中納言・東下り(三幅対)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-06

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-01

  この歌枕の「宇津山」でも、九条良経の、次の一首がある。(「ウィキペディア」)

 「うつの山/うつつかなしき/道絶えて/夢に都の/人は忘れず ──九条良経自撰の私家集『秋篠月清集』(元久元年〈1204年〉、鎌倉時代初期に成立)」

 これは、「水無瀬恋十五首歌合羇中の恋」での、「後鳥羽院()と九条良経()」との「歌合」が、その初出のようである。

 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utaawase/minase15_7.html

 三十三番

   左 勝           親定(後鳥羽院)

君ももしながめやすらん旅衣朝たつ月をそらにまがへて

【通釈】あなたももしや(旅先で)眺めているだろうか。旅衣を着て出発する朝、有明の月が、空の色にまぎれるほどうっすらと現れているのを

【本歌】源氏物語「花宴」

世に知らぬ心地こそすれ有明の月のゆくへを空にまがへて

    右            左大臣(九条良経)

うつの山うつつかなしき道たえて夢に都の人はわすれず

【通釈】宇津の山を越える峠道――道は細くなり、やがて繁みのうちに途絶えてしまう。現実はそのように悲しく、都で待つ人との間は断絶してしまっているけれども、夢ではあの人を忘れずに見るのだ。

【本歌】「伊勢物語」第九段

駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

  九条良経(九条家二代当主)は、抱一にとって、その出家に際して「九条家の猶子」となって、西本願寺の「得度」を得ている以上、今回の「出家答礼の上洛」は、当然に、「九条家」への答礼も含まれていることであろう。

 そして、この「九条良経」を前書にしての一句(4-51 月の鹿ともしの弓や遁()来て)については、下記のアドレスで紹介した。そこで、抱一が、良経の歌と、芭蕉との句に準拠しているような、次の「例歌・例句」を紹介した。そこに、「うつ(宇津・鬱・鬱っ)」の項を追加して置きたい。

 https://yahantei.blogspot.com/

 「鹿」

たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯()のへにかへるさを鹿の声(良経「新古444」)

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」

 「月」

ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(良経「新古422」)

武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」

 「たへぬ」

のちも憂ししのぶにたへぬ身とならばそのけぶりをも雲にかすめよ(良経「月清集」)

俤や姨ひとりなく月の友        芭蕉「更科紀行」

 「うつ(宇津・鬱・鬱っ)

駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり(良経「月清集」)

憂き人の旅にも習へ木曽の蝿  芭蕉「韻塞」

旅人の心にも似よ椎の花    芭蕉「続猿蓑(許六が木曽路に赴く時)

十團子も小つぶになりぬ秋の風 許六「続猿蓑」

大名の寐間にもねたる夜寒哉  許六「続猿蓑」

 

4-62  あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

 季語=「あとになる潮のおとや松のかぜ」(「屠龍之技」の句形)では、「雑」の句。「あとになる潮のおとや松寒し」(「軽挙館句藻」の句形)では、「寒し」(三冬)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2753

【子季語】寒さ、寒気、寒威、寒冷、寒九

【解説】体感で寒く感じること、と同時に感覚的に寒く感じることもいう。心理的に身がすくむような場合にも用いる。

【例句】

ごを焼て手拭あぶる寒さ哉  芭蕉「笈日記」

寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき 芭蕉「真蹟自画賛」

袖の色よごれて寒しこいねずみ 芭蕉「蕉翁句集」

人々をしぐれよ宿は寒くとも  芭蕉「蕉翁全伝」

塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店   芭蕉「薦獅子集」

 

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 []/ 早稲田大学図書館 (Waseda University Library)/巻之3(p63/84)/「遠湖・堀江村・舘山寺」(A)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0205/bunko30_e0205_0003/bunko30_e0205_0003_p0063.jpg

東海道名所図会/巻之3(p63/84)/部分拡大図/「観音堂・大穴・舘山寺山寺・のぞき松」

(B)

https://superchurchill.ie-yasu.com/kanzanji/meishozue.html

 

「のぞき松」(C)/ (B)の右端(部分拡大図)

≪その「のぞき松」ですが、なんともふしぎな描かれ方をされています。下の湖面にむかって枝が下がっていて、水に浸かっている感じ? 巨松が折れたのか、こういう生え方の松なのかは分かりません。この枝の間から向こうの風景が覗けたのでしょうか。どちらにせよ、現在ではその跡すら残っていませんが、『東海道 名所図会』から40年後(天保5年・1834)に書かれた『遠淡海地志』には「覗の松は海へ這ふこと十余丈、下枝水中にては兎も波を走ることるありさま、四季折々の風景、こゝに止まりぬ」と書かれています。≫

 

(参考)「東海道名所図会」(「ウィキペディア」)

 『東海道名所図会』(とうかいどうめいしょずえ)は江戸時代後期に刊行された名所図会。寛政9年(1797年)に66冊が刊行された。

 京都三条大橋から江戸日本橋までの東海道沿いの名所旧跡や宿場の様子、特産物などに加えて歴史や伝説などを描いたもので、一部には東海道を離れて三河国の鳳来寺や遠江国の秋葉権現社なども含まれる。

 著者は秋里籬島。序文は中山愛親が書き[3]、円山応挙、土佐光貞、竹原春泉斎、北尾政美、栗杖亭鬼卵など約30人の絵師が200点を越える挿絵を担当。1910年(明治43年)には吉川弘文館から復刻されている。

句意(その周辺)=この句には、「汐見の観世音に参り」との前書がある。「東海道五十三次」の「白須賀宿」の「汐見坂図」(歌川広重画)」などの、その近郊の、『東海道名所図会』では、「遠州にて風景第一の勝地なり」と記されている「舘山寺(かんざんじ)(A)付近などでの一句であろう。その「観世音」というのは、上記の「観音堂」(B)に祀られて「観世音」と思われるが、その「観世音」のことではなく、「松のかぜ」(「屠龍之技」)、そして、「松寒し」(「軽挙館句藻)と、これは、どうやら、『遠淡海地志』のは「覗の松は海へ這ふこと十余丈」の「のぞき松」(C)の一句のようである。

 句意(「屠龍之技」の句形)=汐見坂・舘山寺の「のぞきの松」は、「海へ這ふこと十余丈」(『遠淡海地志』)と、まことに、奇抜・奇形な松の雄姿で、その松風の音と後から追いかけるような潮の音とが、絶妙な調べを奏でている。

句意(「軽挙館句藻」の句形)=汐見坂・舘山寺の「のぞきの松」は、まことに、海を覗き見するような、奇抜・奇形な松の雄姿で、そこに、寒々とした松風の音と、それを追いかけるような潮の音とが、一層、寂寥感を感じさせる。

 蛇足=この上五の「あとになる」というのが、前句の「あとからも」と並列させると、何かしら仕掛けがあるような雰囲気である。そして、この二句からは、「出家して、いよいよ、東国から西国への一歩」という感慨と、これまでの「江戸の生活と別離することに、後ろ髪が引かれる」ような、抱一の「寂寥感」のような感慨とが伝わってくる。

(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子

(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

  

(抱一の「花洛の細道(その五)」周辺)

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形

(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二

(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな

(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子

(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

 「≪「軽挙館句藻」

(三河国八橋)        紫のゆかりもにくし蕪大根

(尾州千代倉:翁の笈を見て)  此軒を鳥も教へつ霜の原

(石山寺・幻住庵:其爪の剃髪) 椎の霜個ゝの庵主の三代目  ≫

(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

 「屠龍之技」では、「(汐見坂)あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)」の後、「軽挙館句藻」には記述されている、「(三河国八橋)(尾州千代倉)(石山寺)」の句などは飛ばして、最終地点・京都の「(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山」となっている。

 しかし、この句の前の、「(石山寺・幻住庵:其爪の剃髪) 椎の霜個ゝの庵主の三代目」の句は、今回の、この「花洛(鹹く)の細道」では、欠かせない一句であろう。  

 この句には、「みなみな翁の旧跡おたづぬるに、キ爪が幻住庵の清水にかしら剃(そり)こぼちけるをうらやみて」(『軽挙館句藻』所収「椎の木蔭」)との前書がある(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

 「幻住庵」とは、元禄三年(一六九〇)に、芭蕉が一時閑居した旧跡で、ここで、抱一の同行者の一人の「キ爪・其爪(きづめ・きそう)」が剃髪して、「三代目庵主」(初代=芭蕉?、二代=曲水?)と成ったという、抱一の句なのであるが、『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』では、「後醍醐天皇(抱一)の忠臣・万里小路藤房(其爪)」と見立てているほどの、この「花洛(鹹く)の細道」の「抱一側近」ということになろう。

 ということは、抱一が、この「花洛(鹹く)の細道」の京都で、「西本願寺」の「等覚院文詮暉真」の出家生活に入るなら、「キ爪・其爪(きづめ・きそう)」は、芭蕉が四か月滞在したといわれている「幻住庵」の「三代目庵主」になって、「等覚院文詮暉真」(抱一)をサポートしたいということが、この句の背景にあるのかも知れない。

 ここで、この「花洛(鹹く)の細道」の同行している「俳諧連衆(仲間)」の、「其爪(きづめ・きそう)・雁々(がんがん・がんどう)・晩器(ばんき)・古檪(これき)・紫霓(しげい)」については、大雑把には、次の「(参考一) 『江戸続八百韻(百韻八巻)』と『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆」ということになろう。そして、それらは、「柳澤米翁と酒井抱一」(参考二)との「俳諧連衆(仲間)」ということになろう。

 (参考一)『江戸続八百韻(百韻八巻)(「墨陽庭柏子・屠龍・抱一」序、「跋」=柳澤米翁の息子=保光=月邨所)並びに『あめひと日(歌仙五巻)(「晋子堂大虎」編)の連衆

 ※大虎(千秋館)=寛政十一年に還暦・狂言作者・初代並木五瓶の後援者。『江戸続八百韻(百韻八巻)』の連衆。『あめひと日(歌仙五巻)(「晋子堂大虎」編)の編者。

※素兄(清談林)=佐藤晩得(秋田藩江戸留守居役)の息子。『江戸続八百韻(百韻八巻)』と『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆。

※雁々(繍虎堂)=酒井家の家臣荒木某。『江戸続八百韻(百韻八巻)』と『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆。

※其爪(きづめ・きそう)=江戸時代の俗曲の一種河東節の名門三世十寸見(ますみ)蘭州と同11112日(1828226日))は、2代目蘭洲の門弟の2代目山彦蘭爾が後に2代目蘭州の養子となり、1792年に3代目襲名。後に俳諧で千束其爪を名乗る。寛政4(1792)の『月花帖』(柳澤米翁の俳号「月村」を佐藤晩得に渡号記念集)には、蘭尓(2代目山彦蘭爾?)の号で入集している。『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆。

 (参考二) 「柳沢米翁」と「酒井抱一」周辺

 「柳沢信鴻」(柳沢米翁」)(「ウィキペディア」)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E4%BF%A1%E9%B4%BB

 「酒井抱一」(「ウィキペディア」)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%8A%B1%E4%B8%80

 「米翁と抱一」

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25

 

土曜日, 3月 25, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-58~4-60」

 4-58  冬枯や朴の広葉を関手形

 季語=「冬枯れ」=冬枯(ふゆがれ)/三冬 

https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%86%AC%E6%9E%AF&x=0&y=0

【子季語】枯る/冬枯道

【解説】冬の草木が枯れ果てた荒涼とした景を言う。草や樹、一木一草の枯れのこともいうが、野山一面枯れ色となった景のことでもある。

【例句】

冬枯や平等院の庭の面     鬼貫「大悟物狂」

冬枯の木の間のぞかん売屋敷  去来「いつを昔」

冬枯や雀のあるく樋の中    太祇「太祇句選」

(参考)「関所通手形(せきしょとおりてがた)」=江戸時代、関所を通過する際に所持し提示した身元証明書。武士はその領主から、町人・百姓は名主・五人組・町年寄などの連名で手形発行権をもつ者に願い出て、下付をうけた。関所では手形の印と判鑑とを引き合わせて、相違ないことを確かめた上で通過させた。関所切手。関手形。関所札。関札。関所手形。手形。

(「精選版 日本国語大辞典」)

 句意(その周辺)=この句には、「御関所」との前書が付してある。この「御関所」は、江戸防衛の関門として重視された、東海道の小田原と三島両宿間の箱根峠におかれた「箱根関所」ということになる。この抱一らの「花洛の細道」(「洛・西本願寺」への「得度(出家)答礼」の旅)」の「通行手形」(「往来手形」)は、姫路藩酒井家(十五万国)第三代藩主(抱一の甥)下の、それ相応の重役が作成したものということになろう。

 句意は、「『箱根の山は、天下の嶮(けん)/函谷關(かんこくかん)もものならずの『箱根御関所』の検問を受けている。その検問の際の『通行手形』は、その関所の庭を舞う『冬枯れの朴(ホウ)の広葉』が示して呉れたようで、何のお咎めもなく、フリーパスで通関しましよ」。

  

4-59  夜山越す駕の勢や月と不二

 季語=月(三秋)=冬の月(「前句」の「冬枯」を受けての「冬の月」)/三冬

https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%86%AC%E3%81%AE%E6%9C%88&x=0&y=0

【子季語】月冴ゆ、月氷る

【解説】四季を通しての月ではあるが、冬の月といえば寒さによる心理的な要因もあってか荒涼とした寂寥感が伴う。雲が吹き払らわれた空のすさまじいまでの月の光には誰しもが心をゆすられる思いがあろう。

【例句】

静かなるかしの木はらや冬の月  蕪村「蕪村句集」

比木戸や鎖のさゝれて冬の月   其角「五元集」

背高き法師にあひぬ冬の月    梅室「梅室家集」

(参考)「薩埵峠にて」(前書)の「薩埵峠(さったとうげ)」=、静岡県静岡市清水区にある峠である。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置する。(中略) 「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/ 真白にぞ /富士の高嶺に/ 雪は降りける -山部赤人(巻3-318)」は、その「ゆ」は現代語の「から」に相当する助詞だが、「田子の浦を過ぎた」と解釈することも可能で、東海道五十三次の蒲原、由比、興津の辺りで富士山を見る高台、薩埵峠辺りと訳す事ができ、ここで詠まれたのではないかとも言われる。この「薩埵峠にて」(前書)の「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/ 真白にぞ/富士の高嶺に/雪は降りけるー山部赤人(巻三・三一八)」が、この句の「月と不二(富士)」というのが、抱一の「仕掛け」なのかも知れない。

歌川広重「東海道五十三次・由井」(「ウィキペディア」)

 句意(その周辺)=この句の詠みは、「夜山(よやま) ()/(かご)の勢(イキオイ)/月と不二」(『相見香雨集一』所収)「抱一上人年譜考」)の、中七が「字余り」に詠むのかも知れない。

↓ 

  薩埵峠に日暮て

 夜山越す駕の勢ひや月と不二

  この「中七」の「駕(かご)の勢(イキオ)ひや」の、「字余り」の詠みは、「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/真白にぞ /富士高嶺に/雪は降りける (山部赤人)」、そして、「新古今和歌集(巻六・冬・六七五)」と「百人一首(四)」の、「田子の浦に/うち出(い)でてみれば/白妙(しろたえ)の/ 富士の高嶺(たかね)に/雪は降りつつ(山部赤人)」(「藤原定家」撰)の、冒頭の『字余り』の「田子の浦ゆ」・「田子の浦に」に因っている雰囲気なのである。 

 そして、その下五の「月と不二」とは、「万葉集」の、この「反歌」の「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/真白にぞ/富士の高嶺に/雪は降りける―山部赤人(巻三・三一八)」の、その「長歌」の、次の、「月と不二(布士・不尽・富士)」と解すべきなのであろう。

 https://tanka-textbook.com/tagonourayu/

 「天地(あめつち)の/分(わか)れし時ゆ

神(かむ)さびて/高く貴(とうと)き 

駿河(するが)なる/布士(ふじ)の高嶺(たかね)を

天(あま)の原/振(ふ)り放(さ)け見れば

渡る日の/影(かげ)も隠(かく)らひ 

照る月の/光も見えず 

白雲(しらくも)も/い行きはばかり 

時じくそ/雪は降りける 

語り継(つ)ぎ/言ひ継ぎ行かむ/不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は」「万葉集(巻三・三一七)」

  ここで、これらの「万葉集(巻三・三一八)」そして「新古今和歌集(巻六・冬・六七五)」と「百人一首(四)」との由来などを踏まえつつ、この抱一の句を、次のように詠みたい。

  「夜山越()す・駕(かごかき)の勢()/月と不二」

  この句の句意は、「東海道五十三次の『由比宿と興津宿』とを結ぶ、難所中の難所の、『薩埵峠』を、月下の『夜』の『山越え』となった。『駕籠舁(かき)』の威勢のよい掛け声が山中にこだまして、万葉の歌人・山部赤人が詠んだ、『長歌』の『月下の雪富士』や、『反歌』の『田子の浦の雪富士』などが、髣髴として蘇ってくる。」

 

4-60  降霰玉まく葛の枯葉かな

 季語=霰(あられ)/三冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2777

【子季語】初霰、夕霰、玉霰、雪あられ、氷あられ、急霰 

【解説】雪の結晶に雲の水滴が付着してできるもの。白く小粒の玉となって降ってくる。気温の冷え込む朝夕に多く見られる。地を跳ね、軒をうち、さっと降り、直にやむ。さっぱりと、いさぎよい。雪霰と氷霰があるが、いずれも粒々は、丸く美しい。「玉霰」などと、めでられる由縁である。

【例句】

石山の石にたばしるあられ哉       芭蕉「麻生」

いざ子どもはしりありかむ玉霰    芭蕉「智周発句集」

あられせば網代の氷魚を煮て出さん 芭蕉「花摘」

(参考)

葛の葉のおもてなりけり今朝の霜  芭蕉「雑談集」

http://www.basho.jp/senjin/s0611-1/index.html

≪秋風になびいて、白い葉裏を見せて揺れていた葛の葉であるが、今朝は冬の訪れを告げる初霜に白く染まって表を見せているよ、という意。従来「今朝の霜」にはほとんど注釈がないが、「今朝の秋」に倣った初冬を示す語感を見届け、冬の到来をきりりと告げる句と解したい。その意味では全く叙景の句とする許六の見解に賛同し、句意に芭蕉と嵐雪の不仲をほのめかす野坡の見解に与しない(『許野消息』)。秋の七草のひとつである葛の葉が白い葉裏を見せることは『万葉集』の昔から歌に詠まれる古い歴史を持ち、やがて「秋風の吹きうらかへす葛の葉のうらみてもなおうらめしきかな」(平貞文・古今・恋五)のように、「裏」「心(うら)」「恨み」の枕詞として用いられた。それは中世末から近世にかけて人気をとった浄瑠璃『しのだづま』によって徹底された。すなわち、信太の森(大阪府和泉市)に住む白狐が安倍保名との間にできた子と別れる際に、泣くなく詠んだと伝える「恋しくば尋ねきてみよいづみなるしのだの森のうらみ葛の葉」という子別れ伝説である。だが、こうした伝承から解放されて、実景に基づく句である点にこそ芭蕉の新しさがあるようだ。ちなみに、「葛の花」の美しさを発見するのは近世俳諧で、言語遊戲に終始する伝統和歌で、その花が詠まれることはなかった。≫

 

信太妻(しのだづま)/葛の葉子別れの段」(葛の葉神社蔵)

http://www.eonet.ne.jp/~hanaizm/kuzunohamonogatari.html

≪葛の葉物語(くずのはものがたり)

「葛の葉物語」は、「信太妻」ともよばれ、文学・歌舞伎・浄瑠璃・文楽・説教節・瞽女唄(ごぜうた)など、あらゆる文学・芸能ジャンルでとりあげられてきました。江戸時代、竹田出雲による「芦屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)は歌舞伎で大ヒットし、特に「葛の葉子別れの段」は有名で、今日まで多くの人々に愛好されてきました。物語は、平安時代の天文博士安倍晴明の出生と活躍がえがかれています。信太の森で生まれ、信太の森が育てた作品です。≫

 句意(その周辺)=この句にも、「薩埵峠にて」(前書)が掛かる。すなわち、前句の「夜山越す駕の勢や月と不二」に続いての、「薩埵峠」の、その「夜山越え」の二句目の句ということになる。そして、前句の「月と不二」が、「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/真白にぞ/富士の高嶺に/雪は降りける山部赤人(万葉集・巻三・三一八)」を「本歌取り」の句と解すると、こちらの「霰と葛の枯葉」は、浄瑠璃「信太妻(しのだづま)/葛の葉子別れの段」で知られている、「秋風の/吹きうらかへす/葛の葉の/うらみてもなお/うらめしきかな」(平貞文・古今和歌集・巻十五・八二三)を踏まえての一句と解したい。すなわち、抱一の、この「薩埵峠」の、表面の「字面」だけでは、何の変哲もないような叙景句が、この「葛の葉子別れの歌」を介在させると、抱一の、この「出家答礼」の「花洛の細道(旅路)」は、当時の、抱一の内面を浮き彫りにするような、「鹹(から)くの細道(旅路)」の一端を吐露しているようにも解せられる。

句意は、「この『薩埵峠』の夜越えは、霰の夜と化し、その『霰の夜の峠路に玉舞う・葛の枯れ葉』は、あたかも、浄瑠璃『信太妻(しのだづま)』の『うらみてもなほ/うらめしきかな』と、この『夜越え路』での、『吾の分身』のように舞っている。」

  

(抱一の「花洛の細道(その四)」周辺)

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形

(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二

(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな

 

「御一代記』(「等覚院御一代記」)には、抱一の、出家後に関しての、次のような記述がある。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)

 一 同月十七日(寛政九年十月十八日の「得度式」の前日)御得度被為済/京都御住居被成候ニ付/御合力・千石/五十人扶持・御蔵前ニテ/被進候事ニ被仰出

 (文意=抱一の出家後は、酒井家より、「千石・五十人扶持=付人(つきびと)三人の合計扶持)で、抱一の俸禄は「知行地」でなく「蔵米で一千石」待遇となる。その前段の「京都御住居被成候ニ付」は、出家後は、京都の西本願寺の末寺に住する」ということであろう。)

  この「付人(つきびと)」三人に関して、「御一代記」に、次のとおり記述されている。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)

  此君大手にいませし頃は左右に伺候する諸士もあまたありしか御隠栖の後は僅に三人のみ召仕われける    

 (中略)

同月十九日等覚院様ニテ左の如く被仰付

御家老相勤候被仰付拾六人扶持被下置  福岡新三郎 (給人格)

御用人相勤候被仰付拾五人扶持被下置  村井又助 (御中小姓)

拾五人扶持被下置           鈴木春卓 (伽席)

かくの如く夫々被仰付京都御住居なれば御合力も姫路より京都回りにて右三人の御宛行も御合力の内より給はる事なりされは三人の面々御家の御分限に除れて他の御家来の如くなりし其内にも鈴木春卓は御貯ひの事に預りて医師にては御用弁もあしければ還俗被仰付名も藤兵衛と改しなり後々は新三郎も死亡し又助も退散して藤兵衛のみ昵近申せし也

(文意・注=「此君大手にいませし」(抱一が「酒井家」の上屋敷に居た頃)、「給人」(給人を名乗る格式の藩士は一般に「上の下」とされる家柄の者)、「中小姓」(小姓組と徒士(かち)衆の中間の身分の者、近侍役)、「御伽席」(特殊な経験、知識の所有者などで、主人の側近役)、この「鈴木春卓(藤兵衛)」は、「医師にては御用弁あ()し」(「医事」の知識・経験を有している意か?)、そして、この「鈴木家」が、「(鈴木春卓)→鈴木蠣潭(17821817)→鈴木其一(17951858)」と、画人「酒井抱一」をサポートすることになる。)

(参考)

鈴木蠣潭(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

17821817 江戸時代後期の武士,画家。

天明2年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩士。藩主酒井忠以(ただざね)の弟酒井抱一(ほういつ)の付き人となる。抱一に画をまなび,人物草花を得意とした。文化14625日死去。36歳。名は規民。通称は藤兵衛,藤之進。

 http://blog.livedoor.jp/sesson_freak/archives/52003031.html

 鈴木蠣潭は、抱一の最初の弟子。文化三年に抱一が蠣潭の元服の祝いを、文化六年より中小姓として抱一に仕えたという。それは、抱一の付き人を務めていた播磨姫路藩士養父春卓の跡目を継ぎというからには、幼少のころから抱一のそばで画才を見出され期待をされてのことと思われる。

 名は規民、通称は藤兵衛、藤之進、酒井家の家臣の著わした随筆の「等覚院殿御一代」に「藤之進若年より御側に在て画をよくす画名を蠣潭と云ふ」とあり、家中においても名が通るほどの腕前だったことがわかる。

 蠣潭は抱一の画業を補助していたが、文化十四年七月に二十六歳で狂犬病にて急死したため、急遽同門の其一が蠣潭の姉・りよと結婚し鈴木家に入ることとなる。りよは子持ちで其一より少なくとも五歳以上年が上であるといい、いかに蠣潭の死が大きいことであったかが想像される。

 

鈴木其一(1796―1858(日本大百科全書(ニッポニカ))

江戸後期の画家。名は元長、字(あざな)は子淵(しえん)。噌々(かいかい)、菁々(せいせい)、庭柏子(ていはくし)、祝琳斎(しゅくりんさい)などを号す。近江(おうみ)(滋賀県)出身の染屋の子として江戸に生まれる。幼少のころから酒井抱一(ほういつ)の内弟子として仕え、のち同門の鈴木蠣潭(れいたん)が没するとその跡目を継いで鈴木姓を名のる。画業は抱一に師事し、初め師風を忠実に習ってしばしばその代作を勤めたとされる。1828年(文政11)に抱一が没したのちは、しだいに師風を離れ、画面から叙情的な要素を払拭(ふっしょく)して大胆かつ斬新(ざんしん)な装飾画風に傾斜。花鳥画をもっとも得意とするが、対象の形態を明晰(めいせき)に追究する独特な造形感覚をもって琳(りん)派の流れに特異な存在を示す。代表作に「夏秋渓流図屏風(びょうぶ)」(東京、根津美術館)、「薄椿(すすきつばき)図屏風」(ワシントン、フリアー美術館)などがある。[村重 寧] 

木曜日, 3月 23, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-56~4-57」

 4-56  三千風に見付けられけり澤の(しぎ) 

 季語=鴫 =鴫(しぎ)/三秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2562

【子季語】田鴫、青鴫、磯鴫

【解説】日本に渡ってくる鴫は非常に多い。大体、七月から十二月にかけて渡ってくる。なかには越冬するものもある。主に田地、沼地の泥湿地に多く、体上面は茶色と黒の交錯、体下面は白い。鳴きながら直線状に飛ぶ。

【例句】

刈りあとや早稲かたかたの鴫の声  芭蕉「笈日記」

泥亀の鴫に這ひよる夕かな        其角「五元集」

よる浪や立つとしもなき鴫一つ  太祗「太祗句選後篇」

鴫遠く鍬すすぐ水のうねりかな   蕪村「新五子稿」

鴫突きのしや面になぐる嵐かな   一茶「七番日記」

(参考)

「大淀三千風(おおよど・みちかぜ)」=没年:宝永4.1.8(1707.2.10) 生年:寛永6(1639)

江戸前期の俳人。伊勢国(三重県)射和の商家の生まれで本姓は三井氏, 大淀氏を称す。行脚俳人として著名であり,行脚の行程は松尾芭蕉も遠くおよばない。30歳を過ぎてから俳人として立ち,松島見物に出掛けてそのまま仙台に住みつき,15年ほどをここで過ごし多くの門人を育てた。

芭蕉の『おくのほそ道』に登場する画工加右衛門もそのひとりである。天和3(1683)年に仙台の住居を捨てて行脚生活に入り,以後7年間にわたり諸国を巡ったが,その足跡は四国,九州にもおよんでいる。

この間多くの句文を書き残したが,癖のある独特の書体と,衒学的な臭味の強い,特殊な漢語を多用した難解な表現にその特徴がある。これらの文章を簡略にして集大成したものが『日本行脚文集』である。その後西行の遺跡を慕って大磯に鴫立庵を結び,西行の顕彰に努めた。<参考文献>岡本勝『大淀三千風研究』(田中善信) (「朝日日本歴史人物事典」)

 この「衒学的な臭味の強い,特殊な漢語を多用した難解な表現にその特徴がある」は、「三千風は特定の師につかなかったが、『所専、俳諧は狂言なり、寓言也。実書不用にして、戯が中の虚也』」(『日本行脚文集』)という言葉から、談林派の俳人と見なされる」(「ウィキペディア」)とが連動している。

 

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道九 五十三次 大磯 鴫立沢 西行庵」

歌川広重 - ボストン美術館蔵 (「ウィキペディア」)

≪鴫立庵(しぎたつあん)は神奈川県大磯町にある俳諧道場。京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。

名称は西行の歌「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」(『新古今和歌集』)による。≫(「ウィキペディア」)

 

句意(その周辺)=抱一の『洛の細道』がスタートする。「(序句) 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」「(旅立) 草の戸や小田の氷のわるゝ音」に続く、三句目の句である。

 抱一の『花洛の細道』」その二

 (前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

 句意は、芭蕉翁と同時代の、鴫立庵第一世庵主・大淀三千風の、その「鴫立庵」に立ち寄った。「いさや霞諸國一衣(いちゑ)の賣僧坊(まいすぼん)」(『日本行脚文集』)と、「売僧坊」(堕落坊主)と名乗って、全国を「俳諧行脚」した「大淀三千風」大先達は、その名の「三千風」の名に相応しく、この「大磯・鴫立沢」の「鴫」に、ぞっこん惚れ込んで、ここに居着いてしまったわい。

 

(抱一の「花洛の細道(その一・二)」周辺)

  抱一の「出家」関連については、「ウィキペディア」は、下記のとおり記述されている。

 ≪ 寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)1018日、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。抱一が出家したか理由は不明だが、同年西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる。また、兄が死に、更に甥の忠道が弟の忠実を養子に迎えるといった家中の世代交代が進み、抱一の居場所が狭くなった事や、寛政の改革で狂歌や浮世絵は大打撃を受けて、抱一も転向を余儀なくされたのも理由と考えられる。ただ、僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになる。≫(「ウィキペディア」)

  ここで紹介されている「西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる」の、この「抱一の『洛の細道』」の、抱一の随行者(「俳諧仲間))は、

「其爪(きづめ・きそう?)・雁々(がんがん・がんどう?)晩器(ばんき)・古檪(これき)・紫霓(しげい)の五人である(『酒井抱一:井田太郎著・岩波新書』)

 そして、この「其爪(きそう・きづめ?)」は、「河東節の名門『三世・十寸見(ますみ)蘭州』」その人で、後に、俳諧で「千束其爪」を名乗った人物と思われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AF%B8%E8%A6%8B%E8%98%AD%E6%B4%B2

  続く、「雁々(がんがん・がんどう?)は、『江戸続八百韻(屠竜(抱一) 編〕』の連衆の一人の「雁々(繍虎堂)=酒井家の家臣荒木某」(『酒井抱一:井田太郎著・岩波新書』)、その人であろう(なお、「雁々(がんどう?)」の詠みは、若き日の「蕪村」を支援した「結城」の俳人「砂岡雁宕(がんとう)」の「雁宕(がんとう)」に因る。)

  それに続く「晩器(ばんき)」については、「享和から文化の頃にかけて、喜多川歌麿風の美人画や読本の挿絵などを描いている浮世絵師・恋川春政(晩器・花月斎・春政と号す)」、その人のように思われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%94%BF

  それらに続く、「古檪(これき)・紫霓(しげい)」については不明であるが、とにもかくにも、この抱一の「出家」に関連して、抱一の、無二の「知己・同音・同胞」であったのであろう。

 

4-57  (まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

 季語=火鉢=火鉢(ひばち)/三冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/4531

【子季語】瀬戸火鉢、鉄火鉢、箱火鉢、長火鉢

【解説】暖房器具のひとつ。その中に炭を熾し、手足を焙って暖をとる。木製、金属製、陶製などがある。部屋全体や全身を温めることはむずかしいが、五徳を立てて鉄瓶などをかけたり、燗をつけたりと暮らしになじみ深いものだった。今では他の暖房器具にとってかわられ、ほとんど見かけなくなったが、真っ赤に熾った炭火の色は懐かしい。

【例句】

舟君の泣くかほみゆる火鉢かな  蓼太「蓼太句集三編」

うき時は灰かきちらす火鉢かな  青蘿「青蘿発句集」

ぼんのくぼ夕日にむけて火鉢かな 一茶「享和句帖」

明ほのゝ番所にさむき火鉢かな  露川「小弓俳諧集」

独居やしがみ火鉢も夜半の伽   秋色女「いつを昔」

客去つて撫る火鉢やひとり言   嘯山「葎亭句集」

 句意(その周辺)=この句の前に、「箱根湯泉本福住九蔵がもとにとまりて」との前書がある。この前書の「福住九蔵」は、「初代歌川広重(寛政九年(一七九七) - 安政五年(一八五八))」と親交があった、「十代目福住九蔵(正兄)(文政七年(一八二四) - 明治二十五年(一八九二年))」でなく、「九代目福住九蔵」と思われる。福住家は代々箱根湯本で旅館業(現在の「「萬翠樓福住」)を営み、また湯本村の名主も務める名家であった。創業は、寛永二年(一六二五)、当時の「箱根かごかき唄」に、「晩の泊まりは箱根か三島ただし湯本の福住か」とうたわれるほど、「箱根七湯」の中でも、よく知られた旅館であったのであろう。

 その面影は、下記の「七湯方角略図」(初代歌川広重画)の中央に「湯本・福住」、そして、右下の「福住九蔵板」(「十代福住九蔵」板)で、十分に察せられるであろう。


「七湯方角略図(ななゆほうがくりゃくず)/版画 / 江戸 / 神奈川県/初代歌川広重/安政時代初期/1855-1857/,木版多色刷/1/箱根町立郷土資料館/浮世絵

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/399681

≪(解説)画面中央に湯本温泉を配し、箱根の山々や箱根七湯などが記された、いわば箱根の案内図です。「福住九蔵板」とあるように、湯本温泉の福住旅館が版元となり、初代広重に制作を依頼したもので、自らの旅館を宣伝する目的から、同温泉の中心に「福住」と記されています。同旅館の当主福住九蔵(後の正兄)は、二宮尊徳の高弟としても知られ、国学や和歌にも通じた人物で、箱根に滞在した広重とも親交がありました。≫(「文化遺産オンライン」)


「七湯方角略図」(部分拡大図)

  句意は、「『箱根かごかき唄』」に、『晩の泊まりは箱根か三島ただし湯本の福住か』とうたわれている、『箱根七湯』の中でも知られている『福住』で、『先ず、旅のつかれを癒し」ている。この『福住』では、『外湯』でなく『内湯』で、まさに、『冬の出湯の湧く火鉢(温泉)』を存分に味わっている。』

 

(抱一の「花洛の細道(その三)」周辺)

  「軽挙館句藻」に、「霜月四日/其爪(きそう?)・古檪(これき)・紫霓(しげい)・雁々(がんどう?)・晩器(ばんき)/などうち連て花洛の旅におもむく」(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)と記されている。

 この「軽挙館句藻」の記述からすると、「此度入道したがために一応は本山へも御挨拶しておく位の程度で、実は俳友どもを打つれて観光旅行に出かけてたに過ぎないであろう」(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)という記述もまた、うなづけるが、やはり、この「花洛の細道」の冒頭の「前書」と「序句」は重い。

 (前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根湯本・福住) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

  この、(前書=序章) 寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」と、「(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」とは、「軽挙館句藻」では、次のように記述されている((『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」))。

 ≪ 世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿

 遁入る山ありて実の天窓かな

とかいて、二三枚後に更に改めて

 寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃おとし

 遯るべき山ありの実の天窓かな

  いとふとて・ひとなとがめそ/うつせみの/世にいとわれし・この身なりせば

とある。≫

 ここに記述されている、「世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿」の一首は、下記アドレスの『源氏物語(第四十七帖 総角)』注釈263)で、本歌取りの一首で記述されている『古今六帖六』(『古今六帖4268)のもので、抱一は「人麿」と記述しているが、「人麿」作であるかどうかは定かではない。

 http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined47.2.html

  ここで、この「軽挙館句藻」で、人麿作としている、この一首と、「屠龍之技」(「第四 椎の木かげ」)で、「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」という前書がある「4-51  月の鹿ともしの弓や遁()来て」の、その前書の「良経公」とは、「九条良経(藤原良経)」は、「『新古今和歌集』の撰修に関係してその仮名序を書いた」、「九条家二代当主。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政」その人である。

 そして、抱一は、その出家に際して、「西本願寺」と密接な関係にある「九条家」の「猶子」となって、その上で、「西本願寺門主・文如」に「得度」して貰うという、一連の、「出家」に際しての儀式を踏まえているのである。

 このことは、抱一にとって、「西本願寺」と「摂関家・九条家」と関係というのは、その生涯に亘って重いものがあり、その「出家」に関連しての「答礼」を兼ねての、「洛への旅道」(「花洛の細道」)が、「実は俳友どもを打つれて観光旅行に出かけてたに過ぎないであろう」という指摘は、必ずしも、その十全を語っているとは思われない。

 それ以上に、抱一にとって、この「摂関家・九条家」、殊に、「九条良経(藤原良経)」への思い入れというのは、やはり、これまた、重いものがあったような思いを深くする。

    世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿()

(初案)     遁入る山ありて実の天窓かな

(「屠龍之技」) 遯るべき山ありの実の天窓かな(「椎の木かげ」54)

       のちも憂ししのぶにたへぬ身とならば/そのけぶりをも雲にかすめよ(良経「月清集」)

(「屠龍之技」) 月の鹿ともしの弓や遁()来て(「椎の木かげ」51)