木曜日, 3月 23, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-56~4-57」

 4-56  三千風に見付けられけり澤の(しぎ) 

 季語=鴫 =鴫(しぎ)/三秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2562

【子季語】田鴫、青鴫、磯鴫

【解説】日本に渡ってくる鴫は非常に多い。大体、七月から十二月にかけて渡ってくる。なかには越冬するものもある。主に田地、沼地の泥湿地に多く、体上面は茶色と黒の交錯、体下面は白い。鳴きながら直線状に飛ぶ。

【例句】

刈りあとや早稲かたかたの鴫の声  芭蕉「笈日記」

泥亀の鴫に這ひよる夕かな        其角「五元集」

よる浪や立つとしもなき鴫一つ  太祗「太祗句選後篇」

鴫遠く鍬すすぐ水のうねりかな   蕪村「新五子稿」

鴫突きのしや面になぐる嵐かな   一茶「七番日記」

(参考)

「大淀三千風(おおよど・みちかぜ)」=没年:宝永4.1.8(1707.2.10) 生年:寛永6(1639)

江戸前期の俳人。伊勢国(三重県)射和の商家の生まれで本姓は三井氏, 大淀氏を称す。行脚俳人として著名であり,行脚の行程は松尾芭蕉も遠くおよばない。30歳を過ぎてから俳人として立ち,松島見物に出掛けてそのまま仙台に住みつき,15年ほどをここで過ごし多くの門人を育てた。

芭蕉の『おくのほそ道』に登場する画工加右衛門もそのひとりである。天和3(1683)年に仙台の住居を捨てて行脚生活に入り,以後7年間にわたり諸国を巡ったが,その足跡は四国,九州にもおよんでいる。

この間多くの句文を書き残したが,癖のある独特の書体と,衒学的な臭味の強い,特殊な漢語を多用した難解な表現にその特徴がある。これらの文章を簡略にして集大成したものが『日本行脚文集』である。その後西行の遺跡を慕って大磯に鴫立庵を結び,西行の顕彰に努めた。<参考文献>岡本勝『大淀三千風研究』(田中善信) (「朝日日本歴史人物事典」)

 この「衒学的な臭味の強い,特殊な漢語を多用した難解な表現にその特徴がある」は、「三千風は特定の師につかなかったが、『所専、俳諧は狂言なり、寓言也。実書不用にして、戯が中の虚也』」(『日本行脚文集』)という言葉から、談林派の俳人と見なされる」(「ウィキペディア」)とが連動している。

 

『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道九 五十三次 大磯 鴫立沢 西行庵」

歌川広重 - ボストン美術館蔵 (「ウィキペディア」)

≪鴫立庵(しぎたつあん)は神奈川県大磯町にある俳諧道場。京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。

名称は西行の歌「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」(『新古今和歌集』)による。≫(「ウィキペディア」)

 

句意(その周辺)=抱一の『洛の細道』がスタートする。「(序句) 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」「(旅立) 草の戸や小田の氷のわるゝ音」に続く、三句目の句である。

 抱一の『花洛の細道』」その二

 (前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

 句意は、芭蕉翁と同時代の、鴫立庵第一世庵主・大淀三千風の、その「鴫立庵」に立ち寄った。「いさや霞諸國一衣(いちゑ)の賣僧坊(まいすぼん)」(『日本行脚文集』)と、「売僧坊」(堕落坊主)と名乗って、全国を「俳諧行脚」した「大淀三千風」大先達は、その名の「三千風」の名に相応しく、この「大磯・鴫立沢」の「鴫」に、ぞっこん惚れ込んで、ここに居着いてしまったわい。

 

(抱一の「花洛の細道(その一・二)」周辺)

  抱一の「出家」関連については、「ウィキペディア」は、下記のとおり記述されている。

 ≪ 寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)1018日、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。抱一が出家したか理由は不明だが、同年西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる。また、兄が死に、更に甥の忠道が弟の忠実を養子に迎えるといった家中の世代交代が進み、抱一の居場所が狭くなった事や、寛政の改革で狂歌や浮世絵は大打撃を受けて、抱一も転向を余儀なくされたのも理由と考えられる。ただ、僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになる。≫(「ウィキペディア」)

  ここで紹介されている「西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる」の、この「抱一の『洛の細道』」の、抱一の随行者(「俳諧仲間))は、

「其爪(きづめ・きそう?)・雁々(がんがん・がんどう?)晩器(ばんき)・古檪(これき)・紫霓(しげい)の五人である(『酒井抱一:井田太郎著・岩波新書』)

 そして、この「其爪(きそう・きづめ?)」は、「河東節の名門『三世・十寸見(ますみ)蘭州』」その人で、後に、俳諧で「千束其爪」を名乗った人物と思われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AF%B8%E8%A6%8B%E8%98%AD%E6%B4%B2

  続く、「雁々(がんがん・がんどう?)は、『江戸続八百韻(屠竜(抱一) 編〕』の連衆の一人の「雁々(繍虎堂)=酒井家の家臣荒木某」(『酒井抱一:井田太郎著・岩波新書』)、その人であろう(なお、「雁々(がんどう?)」の詠みは、若き日の「蕪村」を支援した「結城」の俳人「砂岡雁宕(がんとう)」の「雁宕(がんとう)」に因る。)

  それに続く「晩器(ばんき)」については、「享和から文化の頃にかけて、喜多川歌麿風の美人画や読本の挿絵などを描いている浮世絵師・恋川春政(晩器・花月斎・春政と号す)」、その人のように思われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%94%BF

  それらに続く、「古檪(これき)・紫霓(しげい)」については不明であるが、とにもかくにも、この抱一の「出家」に関連して、抱一の、無二の「知己・同音・同胞」であったのであろう。

 

4-57  (まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

 季語=火鉢=火鉢(ひばち)/三冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/4531

【子季語】瀬戸火鉢、鉄火鉢、箱火鉢、長火鉢

【解説】暖房器具のひとつ。その中に炭を熾し、手足を焙って暖をとる。木製、金属製、陶製などがある。部屋全体や全身を温めることはむずかしいが、五徳を立てて鉄瓶などをかけたり、燗をつけたりと暮らしになじみ深いものだった。今では他の暖房器具にとってかわられ、ほとんど見かけなくなったが、真っ赤に熾った炭火の色は懐かしい。

【例句】

舟君の泣くかほみゆる火鉢かな  蓼太「蓼太句集三編」

うき時は灰かきちらす火鉢かな  青蘿「青蘿発句集」

ぼんのくぼ夕日にむけて火鉢かな 一茶「享和句帖」

明ほのゝ番所にさむき火鉢かな  露川「小弓俳諧集」

独居やしがみ火鉢も夜半の伽   秋色女「いつを昔」

客去つて撫る火鉢やひとり言   嘯山「葎亭句集」

 句意(その周辺)=この句の前に、「箱根湯泉本福住九蔵がもとにとまりて」との前書がある。この前書の「福住九蔵」は、「初代歌川広重(寛政九年(一七九七) - 安政五年(一八五八))」と親交があった、「十代目福住九蔵(正兄)(文政七年(一八二四) - 明治二十五年(一八九二年))」でなく、「九代目福住九蔵」と思われる。福住家は代々箱根湯本で旅館業(現在の「「萬翠樓福住」)を営み、また湯本村の名主も務める名家であった。創業は、寛永二年(一六二五)、当時の「箱根かごかき唄」に、「晩の泊まりは箱根か三島ただし湯本の福住か」とうたわれるほど、「箱根七湯」の中でも、よく知られた旅館であったのであろう。

 その面影は、下記の「七湯方角略図」(初代歌川広重画)の中央に「湯本・福住」、そして、右下の「福住九蔵板」(「十代福住九蔵」板)で、十分に察せられるであろう。


「七湯方角略図(ななゆほうがくりゃくず)/版画 / 江戸 / 神奈川県/初代歌川広重/安政時代初期/1855-1857/,木版多色刷/1/箱根町立郷土資料館/浮世絵

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/399681

≪(解説)画面中央に湯本温泉を配し、箱根の山々や箱根七湯などが記された、いわば箱根の案内図です。「福住九蔵板」とあるように、湯本温泉の福住旅館が版元となり、初代広重に制作を依頼したもので、自らの旅館を宣伝する目的から、同温泉の中心に「福住」と記されています。同旅館の当主福住九蔵(後の正兄)は、二宮尊徳の高弟としても知られ、国学や和歌にも通じた人物で、箱根に滞在した広重とも親交がありました。≫(「文化遺産オンライン」)


「七湯方角略図」(部分拡大図)

  句意は、「『箱根かごかき唄』」に、『晩の泊まりは箱根か三島ただし湯本の福住か』とうたわれている、『箱根七湯』の中でも知られている『福住』で、『先ず、旅のつかれを癒し」ている。この『福住』では、『外湯』でなく『内湯』で、まさに、『冬の出湯の湧く火鉢(温泉)』を存分に味わっている。』

 

(抱一の「花洛の細道(その三)」周辺)

  「軽挙館句藻」に、「霜月四日/其爪(きそう?)・古檪(これき)・紫霓(しげい)・雁々(がんどう?)・晩器(ばんき)/などうち連て花洛の旅におもむく」(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)と記されている。

 この「軽挙館句藻」の記述からすると、「此度入道したがために一応は本山へも御挨拶しておく位の程度で、実は俳友どもを打つれて観光旅行に出かけてたに過ぎないであろう」(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)という記述もまた、うなづけるが、やはり、この「花洛の細道」の冒頭の「前書」と「序句」は重い。

 (前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根湯本・福住) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

  この、(前書=序章) 寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」と、「(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」とは、「軽挙館句藻」では、次のように記述されている((『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」))。

 ≪ 世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿

 遁入る山ありて実の天窓かな

とかいて、二三枚後に更に改めて

 寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃おとし

 遯るべき山ありの実の天窓かな

  いとふとて・ひとなとがめそ/うつせみの/世にいとわれし・この身なりせば

とある。≫

 ここに記述されている、「世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿」の一首は、下記アドレスの『源氏物語(第四十七帖 総角)』注釈263)で、本歌取りの一首で記述されている『古今六帖六』(『古今六帖4268)のもので、抱一は「人麿」と記述しているが、「人麿」作であるかどうかは定かではない。

 http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined47.2.html

  ここで、この「軽挙館句藻」で、人麿作としている、この一首と、「屠龍之技」(「第四 椎の木かげ」)で、「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」という前書がある「4-51  月の鹿ともしの弓や遁()来て」の、その前書の「良経公」とは、「九条良経(藤原良経)」は、「『新古今和歌集』の撰修に関係してその仮名序を書いた」、「九条家二代当主。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政」その人である。

 そして、抱一は、その出家に際して、「西本願寺」と密接な関係にある「九条家」の「猶子」となって、その上で、「西本願寺門主・文如」に「得度」して貰うという、一連の、「出家」に際しての儀式を踏まえているのである。

 このことは、抱一にとって、「西本願寺」と「摂関家・九条家」と関係というのは、その生涯に亘って重いものがあり、その「出家」に関連しての「答礼」を兼ねての、「洛への旅道」(「花洛の細道」)が、「実は俳友どもを打つれて観光旅行に出かけてたに過ぎないであろう」という指摘は、必ずしも、その十全を語っているとは思われない。

 それ以上に、抱一にとって、この「摂関家・九条家」、殊に、「九条良経(藤原良経)」への思い入れというのは、やはり、これまた、重いものがあったような思いを深くする。

    世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿()

(初案)     遁入る山ありて実の天窓かな

(「屠龍之技」) 遯るべき山ありの実の天窓かな(「椎の木かげ」54)

       のちも憂ししのぶにたへぬ身とならば/そのけぶりをも雲にかすめよ(良経「月清集」)

(「屠龍之技」) 月の鹿ともしの弓や遁()来て(「椎の木かげ」51) 

0 件のコメント: