4-56 三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ)
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2562
【子季語】田鴫、青鴫、磯鴫
【解説】日本に渡ってくる鴫は非常に多い。大体、七月から十二月にかけて渡ってくる。なかには越冬するものもある。主に田地、沼地の泥湿地に多く、体上面は茶色と黒の交錯、体下面は白い。鳴きながら直線状に飛ぶ。
【例句】
刈りあとや早稲かたかたの鴫の声 芭蕉「笈日記」
泥亀の鴫に這ひよる夕かな 其角「五元集」
よる浪や立つとしもなき鴫一つ 太祗「太祗句選後篇」
鴫遠く鍬すすぐ水のうねりかな 蕪村「新五子稿」
鴫突きのしや面になぐる嵐かな 一茶「七番日記」
(参考)
「大淀三千風(おおよど・みちかぜ)」=没年:宝永4.1.8(1707.2.10) 生年:寛永6(1639)
江戸前期の俳人。伊勢国(三重県)射和の商家の生まれで本姓は三井氏, 大淀氏を称す。行脚俳人として著名であり,行脚の行程は松尾芭蕉も遠くおよばない。30歳を過ぎてから俳人として立ち,松島見物に出掛けてそのまま仙台に住みつき,15年ほどをここで過ごし多くの門人を育てた。
芭蕉の『おくのほそ道』に登場する画工加右衛門もそのひとりである。天和3(1683)年に仙台の住居を捨てて行脚生活に入り,以後7年間にわたり諸国を巡ったが,その足跡は四国,九州にもおよんでいる。
この間多くの句文を書き残したが,癖のある独特の書体と,衒学的な臭味の強い,特殊な漢語を多用した難解な表現にその特徴がある。これらの文章を簡略にして集大成したものが『日本行脚文集』である。その後西行の遺跡を慕って大磯に鴫立庵を結び,西行の顕彰に努めた。<参考文献>岡本勝『大淀三千風研究』(田中善信) (「朝日日本歴史人物事典」)
この「衒学的な臭味の強い,特殊な漢語を多用した難解な表現にその特徴がある」は、「三千風は特定の師につかなかったが、『所専、俳諧は狂言なり、寓言也。実書不用にして、戯が中の虚也』」(『日本行脚文集』)という言葉から、談林派の俳人と見なされる」(「ウィキペディア」)とが連動している。
『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道九 五十三次 大磯 鴫立沢 西行庵」
歌川広重 - ボストン美術館蔵 (「ウィキペディア」)
≪鴫立庵(しぎたつあん)は神奈川県大磯町にある俳諧道場。京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。
名称は西行の歌「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」(『新古今和歌集』)による。≫(「ウィキペディア」)
句意(その周辺)=抱一の『洛の細道』がスタートする。「(序句) 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」「(旅立) 草の戸や小田の氷のわるゝ音」に続く、三句目の句である。
(序句) 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
(大磯) 三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ)
(抱一の「花洛の細道(その一・二)」周辺)
「其爪(きづめ・きそう?)・雁々(がんがん・がんどう?)・晩器(ばんき)・古檪(これき)・紫霓(しげい)」の五人である(『酒井抱一:井田太郎著・岩波新書』)。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AF%B8%E8%A6%8B%E8%98%AD%E6%B4%B2
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%94%BF
4-57
先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢
https://kigosai.sub.jp/001/archives/4531
【子季語】瀬戸火鉢、鉄火鉢、箱火鉢、長火鉢
【解説】暖房器具のひとつ。その中に炭を熾し、手足を焙って暖をとる。木製、金属製、陶製などがある。部屋全体や全身を温めることはむずかしいが、五徳を立てて鉄瓶などをかけたり、燗をつけたりと暮らしになじみ深いものだった。今では他の暖房器具にとってかわられ、ほとんど見かけなくなったが、真っ赤に熾った炭火の色は懐かしい。
【例句】
舟君の泣くかほみゆる火鉢かな 蓼太「蓼太句集三編」
うき時は灰かきちらす火鉢かな 青蘿「青蘿発句集」
ぼんのくぼ夕日にむけて火鉢かな 一茶「享和句帖」
明ほのゝ番所にさむき火鉢かな 露川「小弓俳諧集」
独居やしがみ火鉢も夜半の伽 秋色女「いつを昔」
客去つて撫る火鉢やひとり言 嘯山「葎亭句集」
その面影は、下記の「七湯方角略図」(初代歌川広重画)の中央に「湯本・福住」、そして、右下の「福住九蔵板」(「十代福住九蔵」板)で、十分に察せられるであろう。
「七湯方角略図(ななゆほうがくりゃくず)/版画 / 江戸 / 神奈川県/初代歌川広重/安政時代初期/1855-1857/紙,木版多色刷/1枚/箱根町立郷土資料館/浮世絵
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/399681
≪(解説)画面中央に湯本温泉を配し、箱根の山々や箱根七湯などが記された、いわば箱根の案内図です。「福住九蔵板」とあるように、湯本温泉の福住旅館が版元となり、初代広重に制作を依頼したもので、自らの旅館を宣伝する目的から、同温泉の中心に「福住」と記されています。同旅館の当主福住九蔵(後の正兄)は、二宮尊徳の高弟としても知られ、国学や和歌にも通じた人物で、箱根に滞在した広重とも親交がありました。≫(「文化遺産オンライン」)
「七湯方角略図」(部分拡大図)
(抱一の「花洛の細道(その三)」周辺)
この「軽挙館句藻」の記述からすると、「此度入道したがために一応は本山へも御挨拶しておく位の程度で、実は俳友どもを打つれて観光旅行に出かけてたに過ぎないであろう」(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)という記述もまた、うなづけるが、やはり、この「花洛の細道」の冒頭の「前書」と「序句」は重い。
(旅立) 草の戸や小田の氷のわるゝ音
(大磯) 三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ)
(箱根湯本・福住) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢
遁入る山ありて実の天窓かな
とかいて、二三枚後に更に改めて
寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃おとし
遯るべき山ありの実の天窓かな
とある。≫
ここに記述されている、「世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿」の一首は、下記アドレスの『源氏物語(第四十七帖 総角)』注釈263)で、本歌取りの一首で記述されている『古今六帖六』(『古今六帖4268』)のもので、抱一は「人麿」と記述しているが、「人麿」作であるかどうかは定かではない。
そして、抱一は、その出家に際して、「西本願寺」と密接な関係にある「九条家」の「猶子」となって、その上で、「西本願寺門主・文如」に「得度」して貰うという、一連の、「出家」に際しての儀式を踏まえているのである。
このことは、抱一にとって、「西本願寺」と「摂関家・九条家」と関係というのは、その生涯に亘って重いものがあり、その「出家」に関連しての「答礼」を兼ねての、「洛への旅道」(「花洛の細道」)が、「実は俳友どもを打つれて観光旅行に出かけてたに過ぎないであろう」という指摘は、必ずしも、その十全を語っているとは思われない。
それ以上に、抱一にとって、この「摂関家・九条家」、殊に、「九条良経(藤原良経)」への思い入れというのは、やはり、これまた、重いものがあったような思いを深くする。
(初案) 遁入る山ありて実の天窓かな
(「屠龍之技」) 遯るべき山ありの実の天窓かな(「椎の木かげ」54)
(「屠龍之技」) 月の鹿ともしの弓や遁(れ)来て(「椎の木かげ」51)
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