4-54 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2580
「梨」(三秋)
【子季語】梨子、長十郎、二十世紀、洋梨、有りの実、梨売、梨園
【解説】秋の代表的な果物の一つ。赤梨の長十郎、青梨の二十世紀など品種も多い。水分に富み甘みが強く、食味がさっぱりとしている。
(参考)【有りの実】=「梨 (なし) 」が「無 (な) し」と音が通じるところから、「梨の実」の忌み詞。《季 秋》(「デジタル大辞泉
」)
「山梨」(晩秋)
https://kigosai.sub.jp/001/archives/11681
【子季語】棠梨/小梨/犬梨
【解説】山梨はバラ科ナシ属の落葉高木。果樹として栽培されている梨は、この山梨を品種改良したもの。四月から五月にかけて白い花を咲かせ、秋に直径
七センチほどの実をつける。果肉は固く、生食には適さない。
(参考) 「頭・天窓(読み)あたま」=③
頭部に付随している状態の髪。頭髪。また、髪の結いぶり。※浮世草子・好色一代女(1686)四「下を覗(のぞけ)ば天窓(アタマ)剃下たる奴(やっこ)が」(「精選版 日本国語大辞典」)
句意(その周辺)=この句の前に、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」との前書きがある。「寛政九年丁巳(一七九七)」、抱一、三十七歳の時で、『酒井抱一(井田太郎著・岩波新書)』所収の「酒井抱一略年譜」には、次のとおり記述されている。
≪ 秋、『天の川』に入集・挿絵提供(溟々居屠龍、庭柏子)、九月、酒井忠実、酒井忠道の養子となる。十月、築地本願寺に出家、西本願寺門主文如から偏諱を受け、等覚院文詮暉真と名乗る。十~十二月、上洛、年末、千束村に転居。≫
山ありの実の
山なし(梨)の実(身)の
頭(あたま)
天窓(あたま)かな
抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0017_m.html
この寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳時の「年譜」には、次のとおり記載されている。
十月十八日、出家。西本願寺十六世文如上人の江戸下向に会して弟子となり、築地本願寺にて剃髪得度。法名「等覚院文詮暉真」。九条家の猶子となり準連枝、権大僧都に遇せられる。(御一代)酒井雅樂頭家の家臣から西本願寺築地別院に届けられる。(本願寺文書・関東下向記録類)
十一月三日より十二月十四日まで、挨拶のため上洛。< 抱一最後の上方行き >(御一代) 十一月十七日京都へ到着。俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴した。(句藻)
十二月三日、「不快に付」門跡に願い出て、京都を発つ。この間一度も西本願寺に参殿することはなかった。(御一代)
十二月十七日、江戸へ戻る。築地安楽寺に住むことになっていたか。(御一代・句藻)
年末、番場を退き払い、千束に転居。(句藻) 】
遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
うつせみの世にいとわれし
この身なりせば
この全体の歌意は、「出家することを、どうか、あれこれと咎めだてしないで欲しい。思えば、この夢幻のような現世(前半生)では、いろいろと、敬遠されることが多かったことよ」というようなことであろう。
この出家の際の歌意をもってすれば、前書きのある、次の抱一の出家の際の句の意は明瞭となって来る。
遯るべき山ありの實の天窓哉
この句の表(オモテ)の意は、「出家する僧門の天窓(てんそう・てんまど)には、その僧門の果実がたわわに実っています」というようなことであろう。
そして裏(ウラ)の意は、「僧門に出家するに際して、天窓(あたま)を、丸坊主にし、『ありの実』ならず『無し(梨)の実』のような風姿であるが、これも『実(み)=身』と心得て、その身を宿世に委ねて参りたい」ということになる。
ただ一つ、掲出の、抱一の俳句と和歌とに照らして、抱一の出家は、抱一自身が自ら望んで僧籍に身を投じたことではないことは、これは間違いないことであろう。
4-55
草の戸や小田の氷のわるゝ音
https://kigosai.sub.jp/?s=%E6%B0%B7&x=0&y=0
【子季語】厚氷、綿氷、氷の声、氷の花、氷点下、氷塊、結氷、氷結ぶ、氷面鏡、氷張る、氷閉づ、氷上、氷雪、氷田、氷壁、氷の楔、蝉氷
【解説】気温が下がり水が固体状になったもの。蝉の羽根のように薄いものを蝉氷、表面に物影が映り鏡のように見えるものを氷面鏡という。
【例句】
一露もこぼさぬ菊の氷かな 芭蕉「続猿蓑」
氷苦く偃鼠(えんそ)が喉をうるほせり
芭蕉「虚栗」
瓶破(わ)るゝよるの氷の寝覚め哉 芭蕉「真蹟詠草」
(参考)
「初氷」(はつごおり、はつごほり)/初冬
芹焼や裾輪の田井の初氷 芭蕉「其便」
「氷柱」(つらら)/晩冬
朝日影さすや氷柱の水車 鬼貫「大悟物狂」
松吹きて横につららの山辺かな 来山「続いま宮草」
「草の戸」(くさのと) =草ぶきの庵(いおり)の戸。転じて、粗末なわびしい住まい。草のとぼそ。草のあみど。※寂蓮集(1182‐1202頃)「卯の花の垣根ばかりはくれやらで草の戸ささぬ玉河の里」 ※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)旅立「草の戸も住替る代ぞひなの家、面(おもて)八句を庵の柱に懸置(かけおく)」(「精選版 日本国語大辞典」)
「草の戸も住替る代ぞひなの家」=「住み慣れてきたこのみすぼらしい草庵も、住み替わるべき時がきた。誰かあとで引っ越してくる人が、おひなさまを飾って華やかになることがあるだろう。
」
「氷苦く偃鼠(えんそ)が喉をうるほせり」=「取っておいた水は、氷りやすくほろ苦いが、どぶ鼠のような私の咽喉を潤してくれた。」という意味で、これは『荘子』(偃鼠河ニ飲ムモ満腹ニ過ギズ)に拠っている。
「瓶(かめ)破(わ)るゝよるの氷の寝覚め哉」=寒い夜、甕<かめ>の割れる音で目が覚める。寒さのために氷が張って甕を割ったのであろう。甕の中には明日の朝の飲み水や、ご飯を炊くための調理用の水などが入っていたはずである。芭蕉庵の冬の夜の厳寒と底深い静寂があたりを覆っている。
すなわち、芭蕉の「奥の細道」の「旅立」の「草の戸も住替る代ぞひなの家」を念頭に置いての一句ということになる。
(序句) 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
(旅立) 草の戸や小田の氷のわるゝ音
氷苦く偃鼠(えんそ)が喉をうるほせり 芭蕉「虚栗」
瓶破(わ)るゝよるの氷の寝覚め哉 芭蕉「真蹟詠草」
酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(右隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
【 右隻の右から平坦な土坡に、春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する。続いて夏の花、牡丹、鬼百合、紫陽花、立葵、撫子、下の方には河骨、沢瀉、燕子花に、やはり白鷺が二羽向き合い、水鶏も隠れている。
左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である。
モチーフはそれぞれ明確に輪郭をとり厚く平たく塗り分け、ここで完璧な型づくりが為されたといっていいだろう。光琳百回忌から一年、濃彩で豪華な大作としては絵馬や仏画などを除いて早い一例となる。淡い彩色や墨を多用してきた抱一としては大変な飛躍であり、後の作画に内外に大きな影響を及ぼしたことが想像される。
本図は、昭和二年の抱一百年忌の展観に出品され、当時は、金融界の風雲児といわれた実業家で、浮世絵風俗画の収集でも知られる神田鐳蔵の所蔵であった。その前後、大正から昭和初めにかけて、さまざまな所蔵家のもとを変転したことが入札目録よりわかるが、それ以前の情報として、新出の田中抱二資料の嘉永元年(一八四八)の「写真」に、本図の縮図が見出されたことを報告しておく。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(松尾知子稿))
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