4-58 冬枯や朴の広葉を関手形
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【子季語】枯る/冬枯道
【解説】冬の草木が枯れ果てた荒涼とした景を言う。草や樹、一木一草の枯れのこともいうが、野山一面枯れ色となった景のことでもある。
【例句】
冬枯や平等院の庭の面 鬼貫「大悟物狂」
冬枯の木の間のぞかん売屋敷 去来「いつを昔」
冬枯や雀のあるく樋の中 太祇「太祇句選」
(参考)「関所通手形(せきしょとおりてがた)」=江戸時代、関所を通過する際に所持し提示した身元証明書。武士はその領主から、町人・百姓は名主・五人組・町年寄などの連名で手形発行権をもつ者に願い出て、下付をうけた。関所では手形の印と判鑑とを引き合わせて、相違ないことを確かめた上で通過させた。関所切手。関手形。関所札。関札。関所手形。手形。
(「精選版 日本国語大辞典」)
句意は、「『箱根の山は、天下の嶮(けん)/函谷關(かんこくかん)もものならずの『箱根御関所』の検問を受けている。その検問の際の『通行手形』は、その関所の庭を舞う『冬枯れの朴(ホウ)の広葉』が示して呉れたようで、何のお咎めもなく、フリーパスで通関しましよ」。
4-59 夜山越す駕の勢や月と不二
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【子季語】月冴ゆ、月氷る
【解説】四季を通しての月ではあるが、冬の月といえば寒さによる心理的な要因もあってか荒涼とした寂寥感が伴う。雲が吹き払らわれた空のすさまじいまでの月の光には誰しもが心をゆすられる思いがあろう。
【例句】
静かなるかしの木はらや冬の月 蕪村「蕪村句集」
比木戸や鎖のさゝれて冬の月 其角「五元集」
背高き法師にあひぬ冬の月 梅室「梅室家集」
(参考)「薩埵峠にて」(前書)の「薩埵峠(さったとうげ)」=、静岡県静岡市清水区にある峠である。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置する。(中略) 「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/ 真白にぞ /富士の高嶺に/ 雪は降りける -山部赤人(巻3-318)」は、その「ゆ」は現代語の「から」に相当する助詞だが、「田子の浦を過ぎた」と解釈することも可能で、東海道五十三次の蒲原、由比、興津の辺りで富士山を見る高台、薩埵峠辺りと訳す事ができ、ここで詠まれたのではないかとも言われる。この「薩埵峠にて」(前書)の「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/ 真白にぞ/富士の高嶺に/雪は降りけるー山部赤人(巻三・三一八)」が、この句の「月と不二(富士)」というのが、抱一の「仕掛け」なのかも知れない。
歌川広重「東海道五十三次・由井」(「ウィキペディア」)
↓
薩埵峠に日暮て
夜山越す駕の勢ひや月と不二
そして、その下五の「月と不二」とは、「万葉集」の、この「反歌」の「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/真白にぞ/富士の高嶺に/雪は降りける―山部赤人(巻三・三一八)」の、その「長歌」の、次の、「月と不二(布士・不尽・富士)」と解すべきなのであろう。
神(かむ)さびて/高く貴(とうと)き
駿河(するが)なる/布士(ふじ)の高嶺(たかね)を
天(あま)の原/振(ふ)り放(さ)け見れば
渡る日の/影(かげ)も隠(かく)らひ
照る月の/光も見えず
白雲(しらくも)も/い行きはばかり
時じくそ/雪は降りける
語り継(つ)ぎ/言ひ継ぎ行かむ/不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は」「万葉集(巻三・三一七)」
4-60 降霰玉まく葛の枯葉かな
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【子季語】初霰、夕霰、玉霰、雪あられ、氷あられ、急霰
【解説】雪の結晶に雲の水滴が付着してできるもの。白く小粒の玉となって降ってくる。気温の冷え込む朝夕に多く見られる。地を跳ね、軒をうち、さっと降り、直にやむ。さっぱりと、いさぎよい。雪霰と氷霰があるが、いずれも粒々は、丸く美しい。「玉霰」などと、めでられる由縁である。
【例句】
石山の石にたばしるあられ哉 芭蕉「麻生」
いざ子どもはしりありかむ玉霰
芭蕉「智周発句集」
あられせば網代の氷魚を煮て出さん
芭蕉「花摘」
(参考)
葛の葉のおもてなりけり今朝の霜
芭蕉「雑談集」
http://www.basho.jp/senjin/s0611-1/index.html
≪秋風になびいて、白い葉裏を見せて揺れていた葛の葉であるが、今朝は冬の訪れを告げる初霜に白く染まって表を見せているよ、という意。従来「今朝の霜」にはほとんど注釈がないが、「今朝の秋」に倣った初冬を示す語感を見届け、冬の到来をきりりと告げる句と解したい。その意味では全く叙景の句とする許六の見解に賛同し、句意に芭蕉と嵐雪の不仲をほのめかす野坡の見解に与しない(『許野消息』)。秋の七草のひとつである葛の葉が白い葉裏を見せることは『万葉集』の昔から歌に詠まれる古い歴史を持ち、やがて「秋風の吹きうらかへす葛の葉のうらみてもなおうらめしきかな」(平貞文・古今・恋五)のように、「裏」「心(うら)」「恨み」の枕詞として用いられた。それは中世末から近世にかけて人気をとった浄瑠璃『しのだづま』によって徹底された。すなわち、信太の森(大阪府和泉市)に住む白狐が安倍保名との間にできた子と別れる際に、泣くなく詠んだと伝える「恋しくば尋ねきてみよいづみなるしのだの森のうらみ葛の葉」という子別れ伝説である。だが、こうした伝承から解放されて、実景に基づく句である点にこそ芭蕉の新しさがあるようだ。ちなみに、「葛の花」の美しさを発見するのは近世俳諧で、言語遊戲に終始する伝統和歌で、その花が詠まれることはなかった。≫
「信太妻(しのだづま)/葛の葉子別れの段」(葛の葉神社蔵)
http://www.eonet.ne.jp/~hanaizm/kuzunohamonogatari.html
≪葛の葉物語(くずのはものがたり)
「葛の葉物語」は、「信太妻」ともよばれ、文学・歌舞伎・浄瑠璃・文楽・説教節・瞽女唄(ごぜうた)など、あらゆる文学・芸能ジャンルでとりあげられてきました。江戸時代、竹田出雲による「芦屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)は歌舞伎で大ヒットし、特に「葛の葉子別れの段」は有名で、今日まで多くの人々に愛好されてきました。物語は、平安時代の天文博士安倍晴明の出生と活躍がえがかれています。信太の森で生まれ、信太の森が育てた作品です。≫
句意は、「この『薩埵峠』の夜越えは、霰の夜と化し、その『霰の夜の峠路に玉舞う・葛の枯れ葉』は、あたかも、浄瑠璃『信太妻(しのだづま)』の『うらみてもなほ/うらめしきかな』と、この『夜越え路』での、『吾の分身』のように舞っている。」
(抱一の「花洛の細道(その四)」周辺)
(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」
(序句) 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
(旅立) 草の戸や小田の氷のわるゝ音
(大磯) 三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ)
(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢
(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形
(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二
(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな
「御一代記』(「等覚院御一代記」)には、抱一の、出家後に関しての、次のような記述がある。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)
(中略)
同月十九日等覚院様ニテ左の如く被仰付
御家老相勤候被仰付拾六人扶持被下置 福岡新三郎 (給人格)
御用人相勤候被仰付拾五人扶持被下置 村井又助 (御中小姓)
拾五人扶持被下置 鈴木春卓 (御伽席)
かくの如く夫々被仰付京都御住居なれば御合力も姫路より京都回りにて右三人の御宛行も御合力の内より給はる事なりされは三人の面々御家の御分限に除れて他の御家来の如くなりし其内にも鈴木春卓は御貯ひの事に預りて医師にては御用弁もあしければ還俗被仰付名も藤兵衛と改しなり後々は新三郎も死亡し又助も退散して藤兵衛のみ昵近申せし也
(文意・注=「此君大手にいませし」(抱一が「酒井家」の上屋敷に居た頃)、「給人」(給人を名乗る格式の藩士は一般に「上の下」とされる家柄の者)、「中小姓」(小姓組と徒士(かち)衆の中間の身分の者、近侍役)、「御伽席」(特殊な経験、知識の所有者などで、主人の側近役)、この「鈴木春卓(藤兵衛)」は、「医師にては御用弁あ(り)し」(「医事」の知識・経験を有している意か?)、そして、この「鈴木家」が、「(鈴木春卓)→鈴木蠣潭(1782-1817)→鈴木其一(1795-1858)」と、画人「酒井抱一」をサポートすることになる。)
(参考)
鈴木蠣潭(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
1782-1817 江戸時代後期の武士,画家。
天明2年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩士。藩主酒井忠以(ただざね)の弟酒井抱一(ほういつ)の付き人となる。抱一に画をまなび,人物草花を得意とした。文化14年6月25日死去。36歳。名は規民。通称は藤兵衛,藤之進。
名は規民、通称は藤兵衛、藤之進、酒井家の家臣の著わした随筆の「等覚院殿御一代」に「藤之進若年より御側に在て画をよくす画名を蠣潭と云ふ」とあり、家中においても名が通るほどの腕前だったことがわかる。
蠣潭は抱一の画業を補助していたが、文化十四年七月に二十六歳で狂犬病にて急死したため、急遽同門の其一が蠣潭の姉・りよと結婚し鈴木家に入ることとなる。りよは子持ちで其一より少なくとも五歳以上年が上であるといい、いかに蠣潭の死が大きいことであったかが想像される。
鈴木其一(1796―1858)(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸後期の画家。名は元長、字(あざな)は子淵(しえん)。噌々(かいかい)、菁々(せいせい)、庭柏子(ていはくし)、祝琳斎(しゅくりんさい)などを号す。近江(おうみ)(滋賀県)出身の染屋の子として江戸に生まれる。幼少のころから酒井抱一(ほういつ)の内弟子として仕え、のち同門の鈴木蠣潭(れいたん)が没するとその跡目を継いで鈴木姓を名のる。画業は抱一に師事し、初め師風を忠実に習ってしばしばその代作を勤めたとされる。1828年(文政11)に抱一が没したのちは、しだいに師風を離れ、画面から叙情的な要素を払拭(ふっしょく)して大胆かつ斬新(ざんしん)な装飾画風に傾斜。花鳥画をもっとも得意とするが、対象の形態を明晰(めいせき)に追究する独特な造形感覚をもって琳(りん)派の流れに特異な存在を示す。代表作に「夏秋渓流図屏風(びょうぶ)」(東京、根津美術館)、「薄椿(すすきつばき)図屏風」(ワシントン、フリアー美術館)などがある。[村重 寧]
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