月曜日, 7月 03, 2006

加藤楸邨と大岡信の唱和

加藤楸邨と大岡信の唱和(その一)

海鼠食ひし顔にてひとり初わらひ 楸邨
  赦すべかりし朋ひとり持つ   信 

 「現代詩手帳」(一九八七・一月号)に大岡信氏の「楸邨句交響十二章」と題して、「加藤楸邨新句集『怒涛』より十二句を選び、短句を付して唱和、『吹越』以来十年ぶりの新句集の悠揚たる風格を敬仰す」との詞書(前書き)を付しての作品があるとのことである。未見だが、「三つ物」・「歌仙」と見てきたので、連句の最小形式の「(二人・二句)唱和」ものの鑑賞を試みたい。そもそも、連歌・俳諧(連句)の起源として、『万葉集・巻八』の「佐保河の水せき上げて植ゑし田を(尼作る)」・「苅る早飯(わさいひ)はひとりなるべし(家持続く)」の、その詞書に記載されている「頭句・末句」とをもって、「是レ連歌ノ根源也」(『八雲御抄』)とされている。しかし、この「唱和」のスタイルは、最もスタンダードな『連句辞典』(東明雅他著)中の「連句の諸形態」には出てこない。しかし、「芭蕉連句集」などでは、「二句」・「付合」として、これらの「唱和」ものも紹介されているし、連句の底流に流れているものの一つとして、この「唱和」というものはもっと吟味されて然るべきものと理解をしたいのである。さて、掲出の二句であるが、楸邨氏の俳句(楸邨氏の最晩年の句集『怒濤』の中の一句)に対して、楸邨氏の知己でもあり詩人・評論家の大岡信氏が短句(「脇句」と言わず「長句」に対しての「短句」)を付してのものである。句意は、それほど解説を施すようなものもなく、楸邨氏の七十一歳から八十一歳までの満十年間の句業を収めた『怒濤』に対する、大岡信氏の贈答句と理解すればそれで足りるのであろう。実は、この楸邨氏の海鼠の句が、フロリダ在住のロビン・ギル氏の『浮け海鼠千句也』(Rise,Ye Sea Slugs!)に紹介されているが故に、この「唱和」ものを鑑賞してみようと思ったことが、その内実なのである。ロビン・ギル氏は、楸邨氏のこの海鼠の句について、五つつの翻訳を試みて紹介しているのである。その五つつの翻訳をしないと、日本人を含めてなかなかこの句の真の理解ができないということを紹介したいのである。
○ eating sea slug / alone, my face cracks / its first smile
○ all by myself / first smile on my face / eating sea slug
○ my first smile / of my year as i sit alone / eating sea slug
○ eating sea slug / alone: a first – smile / upon his face
○ new year’s alone eating sea slug / my face cracks a smile: / my first laugh!

 加藤楸邨と大岡信の唱和(その二)

ペン擱けば猫の子の手が出てあそぶ 楸邨
   親はふたたび恋猫の修羅     信

掲出の二句は、「楸邨句交響十二章」の二番目のものである。大岡信氏はわざわざ「交響」という造語を使っているが、要は加藤楸邨氏の俳句(『怒濤』の中の句)を「長句」(五・七・五)として、それに、「短句」(七・七)を付けた、「付合」・「唱和」といわれるものであろう。この両氏のこの種のものは、いろいろな形で紹介され、公表されており、それらの筆で書かれたものも目にすることができる(大岡信著『ことのは草』の口絵の写真など)。
どうやら、この種のものの最初は、「和唱達谷先生五句」という「寒雷」(三百五十号)に寄稿したものが、その先例のようである。これらのことについては、氏の『しのび草』の「楸邨先生 一面」という章に記されている。それによると、「楸邨句をいわばわが創作に利用するという形で楸邨句への敬愛を語ろうとしたものだった。詩は五つの句に合わせた五篇。各五行という短いもので、その中に一行は楸邨の句が入っている」とのことである。そして、「ほんとうは『唱和』とすべきところだが、語呂が気に入らず『和唱』とした」と、どうやら、氏は「唱和」という言葉は好みではないようなのである。そして、その「和唱」も「交響」という言葉に置き換えられており、氏のイメージには「交響詩」(シンフォニック・ポエム)というようなイメージで、これらのものを創作しているともとれるのである。加藤楸邨・大岡信両氏とも、その共通の知己の詩人・連句人の安東次男(流火)氏らとの連句作品が残されており、両氏とも実作的にも連句に造詣が深いことは夙に知られているところだが、掲出の付合は、連句の付合からすると、長句の「猫」と短句の「猫」と同一言葉の使用など、まず、連句の「付合」という意識は持たずに、文字とおり、それぞれのイメージを「交響」(相互交流)しあうというようなことで、ことさらに、これらのものをメインに取り上げることそれ自体が、両氏にとっては予想外のことといえるものであろう。しかし、この掲出の二句の、大岡信氏の「親は再び恋猫の修羅」という短句それ自体一つ取ってみると、連句の「恋の句」として、例えば、江戸時代の「高点付句集」の一つの『武玉川』の一句と並列しても何ら遜色がなく、その中に溶け込みそうな句であるということが、どうにも不思議なのである。


 加藤楸邨と大岡信の唱和(その三)

○ 霧にひらいてもののはじめの穴ひとつ      楸邨
   三千世界森閑(しんかん)と鳴る       信
○ のんのんと馬が魔羅振る霧の中         楸邨
   差す手引く手も魔羅もまぼろし        信
○ みちのくの月夜の鰻あそびをり         楸邨
   藝名を問へば拾得(じつとく)といふ     信
○ 蜜柑吸ふ目の恍惚をともにせり         楸邨
   かくのごときかかの世の桃も         信  

これらのものは『しのび草 わが師 わが友』(大岡信著)の「楸邨先生 一面」の中からの抜粋である。楸邨氏の晩年の句集にあたる『吹越(ふつこし)』・『怒濤』の中からの句を選んで、「楸邨句に私(信氏)が七七の付句をつけるのである。付合はその一句だけで打ちどめの、最短連句である。私はその付句を持って達谷山房に出かける。そして先生とともに、お互いの付合を一枚の紙に書き合うのである」との記載が見られる。また、信氏はこれを「達谷山房でのお習字」の時間とも称している。これらのことから、信氏は、これらのものを「付合」といい、「最短連句」といい、そして、即興というよりも、あらかじめ用意しての「孕句(はらみく)」の短句で、信氏自身は「お習字」の時間といっているけれども、これらのものは、後に、他の人が見ても十分に鑑賞に耐え得るものという意識があってのものということも推測できるのである。そして、これらの時間が、全くの二人だけの時間だけではなく、石寒太氏らの楸邨門人も傍らに居ての時間というのであるから、まさに、連句や句会と同じような一種独特の「座」の中でなされたものと理解しても差し支えないように思えるのである。さて、上記の掲出句の付合を見ながら、楸邨氏の句には、「老いのエロス」のようなものと、信氏の句には、いわゆる、連句ではともすると敬遠されるところの前句に「付き過ぎる」ところの付句を提示しているということである。そして何よりも、俳人・楸邨氏の句には「季語」がまとわり付いているのであるが、詩人・信氏の句には、全く、その「季語」を無視して、丁度、信氏の代表的な業績の一つとして取り上げられている「折々のうた」のように、楸邨氏の句に一つの鑑賞文を提示しているように思えるのである。すなわち、信氏にとっては、これらの付合は、これまでの長い取り組みであった「折々のうた」や、後に、展開される「連詩」というジャンルと密接不可分のものという思いがするのである。そして、こういう「唱和」・「和唱」ということが、詩歌の原点であるということを、信氏がアッピールしているように思えてならないのである。


 加藤楸邨と大岡信の唱和(その四)

  暗に湧き木の芽に終る怒濤光
  鳥は季節風の腕木を踏み渡り
  ものいはぬ瞳は海をくぐつて近づく
  それは水晶の腰を緊(し)めにゆく一片の詩
  人の思ひに湧いて光の爆発に終る青

 これらは大岡信氏の詩集『悲歌と祝禱(しゆくとう)』の中に収載されている「和唱達谷先生五句」の中の一つとのことである(大岡信著『ことのは草』)。この『ことのは草』の「響き合わせた句と句」という章で、信氏のこれらの創作意図ということを垣間見ることができる。それによると掲出の詩は、「第一行目が楸邨の句である。私(信氏)は楸邨作品に対する批評的解釈とも、唱和とも、楸邨句自体のありうべき展開を考えるとも言いうるような私自身の詩を、句をそっくり頂きながら産み出そうとしたのである」。「楸邨氏の句は、どちらかと言えば他者の唱和を気軽に誘ってくるような句ではない。むしろ反対で、孤心の強い、その意味でまさしく現代俳句の代表的なるもの、といった性質の句である」。「何人かが集まって共同で作る連句や連詩は、ややもすると互いに馴れ合って遊び半分にやる中途半端な文芸、と見なされる傾向がある。しかし実情はまったく違う。参加者一人ひとりの最も個性的な部分こそ、互いに互いを刺激し、映発し合うために欠かすことのできない結節点なのである」。「馴れ合いで作った句に真剣に応じることはできない。だから、この種の『座』の文学では、互いが互いをよく知り、親密であることが必要であると同時に、一見それとは逆に思えるほどに、互いが互いに未知であることを鮮烈に示し合う付け合いが、不可欠の要件となる」。これらのことから、信氏の言わんとする「唱和・和唱・交響」という言葉の意味が伝わってくる。それと同時に、これらに対する信氏の基本的な姿勢の、「批評的解釈」・「句自体のありうべき展開」・「私自身の詩を、句をそっくり頂きながら産み出す」ということが浮き彫りになってくる。そして、信氏の「連句・連詩観」の、「共同制作という作業の協調」とともに、「相手の新しい側面をつきつけられて、狼狽しながら新鮮な驚きと珍しさをもって唱和してゆく。そこに連詩や連句の最も大事な花の部分がある」とが明瞭となってくる。そして、これらの信氏の基本的な姿勢、そして、その「連句・連詩観」の背景には、あの限られたスペースで、その折々の「日本の詩歌」に対する「批評的解釈」・「その展開」・「自分の詩を産み出す」という、継続した、長い取り組みがあっての、すなわち、朝日新聞の一面の片隅にコラムのように掲載された「折々のうた」が、その原点にあるということを、重ねて強調しておきたいのである。


加藤楸邨と大岡信の唱和(その五)

牡丹の奥に怒涛怒濤の奥に牡丹        楸邨
閻魔の哄笑(わら)ふ時は来向(きむ)かふ  信

 こらの句(付合)は、「楸邨句交響十二章」(「現代詩手帖」一九八七・一月号)の中のものである。この楸邨氏の句については、この「楸邨句交響十二章」を紹介していただいたメールに、「楸邨旧作二句を引く。『隠岐やいま木の芽をかこむ怒涛かな』・『火の奥に牡丹崩るるさまを見つ』、前者は東京大空襲の夜、二人の子を求めて妻知世子と共に火中を彷徨した時の作。ともに楸邨代表作なること言ふをまたず」との添え書きがなされていた。この「隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな」の句は、昭和十八年刊行の『雪後の天』の一句で、 同時作の「さえざえと雪後の天の怒濤かな」とともに後鳥羽上皇の流刑の土地である隠岐での作として夙に知られているものである。そして、楸邨氏が当時の俳句の一つの目指す方向と考えていた「実ありて悲しびそふる」(芭蕉の「許六離別の詞」に出てくる後鳥羽上皇の口伝)ものの句として、晩年までこれらの句に愛着を持っていたことは容易に想像のできるところのものである。そして、もう一句の「火の奥に牡丹崩るるさま見つ」は昭和二十三年刊行の『火の記憶』所収の中のものである。この句については「五月二十三日、夜大編隊侵入、母を金沢に疎開せしめ、上州に楚秋と訣れ、帰宅せし直後なり、わが家罹災」との前書きがある。これまた、楸邨氏の戦争中の忘れ得ざる一句として、晩年の楸邨の胸中にあったこともまた想像に難くない。この『火の記憶』と同時に刊行された『野哭』の句集こそ、楸邨氏が愛着して止まなかったものであろう。そして、「死ねば野分生きてゐしかば争えり」と、当時、中村草田男氏らからは「戦争協力者」として批判され、楸邨氏にとっては、忘れようとしても忘れることのできない、様々な思いが晩年まで去来していたことは、これまた想像に難くない。そして、昭和六十年の楸邨氏の八十歳のときに刊行した句集『怒濤』の中に、上記の付合の楸邨氏の字余りの破調の句が収載されているのである。それに対しての、信氏の「閻魔の哄笑(わら)ふ時は来向(きむ)かふ」とは、楸邨氏の、喜びや悲しみの様々な「来し方」を振り返りながら、晩年の楸邨氏の悠揚迫らざる大人の風姿に接しての、諧謔的な畏敬の念を込めての付句と理解できるものであろう。
それは、「時は来向かう」という措辞に、万葉集の「春過ぎて 夏来向かへば あしひきの
山呼び響(とよ)め さ夜中に 鳴く雷公鳥(ほととぎす) 初声を 聞けばなつかし 菖蒲(あやめぐさ) 花橘を 貫(ぬ)き交へ かづらくまでに 里響(とよ)め 鳴き渡れども なほし偲はゆ」(『巻第十九』の長歌、この巻には大友家持のものが多い)の、その響きが、「閻魔は哄笑ふ」という諧謔的なものを、日本古来の大和言葉で締め括って、その落差を楽しんでているように思えるのである。この付合が、この「楸邨句交響十二章」のうちでは筆頭にあげられるものであろうか・・・、そんな風に信氏は感じているのではなかろうか。

加藤楸邨と大岡信の唱和(その六)

○ 海鼠食ひし顔にてひとり初わらひ   楸邨
   赦すべかりし朋ひとり持つ     信 
○ ペン擱けば猫の子の手が出てあそぶ  楸邨
   親はふたたび恋猫の修羅      信
○ 春の蟻つやつやと貌拭くさます    楸邨
   朱唇うつさむ鏡もてこよ      信
○ 葱の香は直進し蘭の香はつつむ    楸邨
   自明ならざるものに人の香     信
○ だまされてをればたのしき木瓜の花  楸邨
   藝術なんてものもありけり     信
○ 蟇の声にて鳴いてみぬ妻の留守    楸邨
   啄木ならば牛の啼き声       信   
○ 暮れそめていつか蛾の向きかはりをり 楸邨
   風の小径と遊びゐるらん      信
○ 花吹雪やんで口あく顔のこる     楸邨
   ゆめ語るまじ今見し夢は      信
○ 四五本の枯蘆なれど隅田川      楸邨
   武蔵野になしむらさき草は     信     
○ くさめしてそのままに世を誹るなり  楸邨
   われも昔は在五中将        信
○ 牡丹の奥に怒涛怒濤の奥に牡丹    楸邨
   閻魔の哄笑ふ時は来向かふ     信
○ 両断す南瓜の臍を二度撫でて     楸邨
   衆生濟度のこれぞ眼目       信

「楸邨句交響十二章」(「現代詩手帖」一九八七・一月号)に収載されている両者の付合は上記のとおりのことである。これらのいくつかについては既に見てきたが、改めて、これらの「交響十二章」を見てみて、大岡信氏の著の『うたげと孤心』の、その「うたげ」ということを痛感したのである。この「うたげ」とは、密室の孤心から生み出されるところの現代詩(大岡信氏の本技)とは最も距離の離れている饗宴的な共同的・通時的な共同体の「座」から生み出されことを意味し、そして、この「うたげ」こそ日本詩歌(和歌・和謡・連歌・俳諧など)を支えてきたものなのだという大岡氏の主張を痛感したのである。
すなわち、これらの十二章は、詩人・大岡信氏が敬愛する俳人・加藤楸邨の晩年の句集『吹越』の中の作品について、自分の感性に引っ掛かったものを探り当て、それに対して、「孤心」ではなく「うたげ」の心を持って「和唱」した「うたげ」の産物なのである。そして、その「うたげ」の産物が、楸邨氏の単独の創作作品(俳句)とは別に、信氏の付句と合わさって、一つの独立した大岡信氏の創作的作品として位置付けをしたいというのが信氏の狙いのように思われるのである。再度繰り返すこととなるが、これらの作品は、加藤楸邨氏の俳句とは別次元の大岡信氏の創作的作品(唱和・和唱・交響的作品)と理解すべきであって、楸邨氏の世界を如何に異次元な信氏の世界へと転換できるかどうかに焦点を合わせたものであり、その観点に立って鑑賞されるべきものということなのである。しかし、こういう大岡信氏の狙いが、現代の詩人・連句人・俳人などに何処まで理解され得るかどうかは甚だ未知数のように思われのである。


加藤楸邨と大岡信の唱和(その七)

○ 雲の峯かぞへ終りて機嫌よし      楸邨
   安房か上総か峯の根方は       信
○ 沢蟹があるく夕日の瓶の中       楸邨
   少年になりきつひ昨日まで      信
○ 葱坊主わが庭に隅ありにけり      楸邨
   蟻地獄また塀うちに住む       信
○ 風鈴とたそがれてゐしひとりかな    楸邨
   仄明るきはふるさとの河

 大岡信氏の「楸邨句交響十二章」などの取り組みは、これで終わりではなく、さらに、平成二年十月の楸邨氏の八十五歳のときの「寒雷」五十周年記念号にも、「楸邨『忘帰抄』二十句交響」という作品もあるとのことである(「俳句研究」一九九三・十・加藤楸邨追悼特集)。これらのことについて楸邨門下の一人である八木荘一氏が「楸邨の挙句」という寄稿文を寄せている。掲出の五句の付合は、その二十句交響のうちの五句交響ということである。先に、これらの「交響」という付合の前提となる「和唱達谷先生五句」について触れたが(その五)、その楸邨氏の句を冒頭に入れての大岡信氏の詩のフレーズは誠に難解極まりないとのメールを頂戴した。それに比して、掲出の信氏の短句(七七句)は何と取り組み易いことか。この相違は何処から来るのであろうか。そのヒントは、これも前に触れたが(その六)、信氏の著の『孤心とうたげ』の中にあるような予感がするのである。すなわち、「和唱達谷先生五句」に見られる大岡信氏の「詩」は、信氏の「孤心」の表白であって、それは「楸邨句」には「和唱」しているかもしれないが、ひたすら「孤心」に徹して、「誰のものでもない自己の心に交響する言葉の探求」であって、より多く「自己の心との和唱」であったのだ。そして、それに比して、掲出のものに見られる「交響」という付合は、これは紛れもなく「うたげ」の所産であって、「単に楸邨句に和唱しているのみならず、さらに、信氏の句も楸邨氏と楸邨氏以外の第三者に和唱を求めている」という、「自己の心と他者との心の交響する言葉の探求」であり、「自己の心と他者の心との和唱」といえるものなのであろう。そして、ここで大事なことは、「俳句をつくることから逃げて、連句を巻くのではいけない」(八木・前掲書の加藤楸邨氏の言葉)ということ、すなわち、「孤心から逃げるのみで、『うたげ』だけに興じていてはならない」ということではなかろうか。そして、この「孤心」と「うたげ」が渾然一体となったとき、それは「自由無碍」の詩の世界なのかもしれない。


加藤楸邨と大岡信の唱和(その八)

○ 蟇の声にて鳴いてみぬ妻の留守    楸邨
   啄木ならば牛の啼き声       信
  不肖砧井は鶴の一声         光

 加藤楸邨氏の「蟇の声にて鳴いてみぬ妻の留守」という俳句(五七五の長句)に、大岡信氏は「啄木ならば牛の声」という付句(七七の短句)で応じた。これに対して、「これなどは楸邨に寄り添って、信が戯れてみた構図。私も戯れてみたい。砧井は幼少の頃は寡黙で、喋れば『鶴の一声』と言われた。楸邨は墓の中で、砧井付句に苦笑しているのであろうか、それとも、怒り狂っているのであろうか」という添書きのもとに、楸邨・信氏の付合に、光氏の付句が「不肖砧井は鶴の一声」というものであった。この三者の三句の共通のバッググランドは、石川啄木の『一握の砂』の啄木の短歌の、「ある日ふと/やまひを忘れ/牛の啼く/真似をしてみぬ/妻の留守」が見え隠れしていて、それがキィワードとなってこよう。楸邨氏のこの句に接したときに、信氏は啄木の掲出の短歌を思い浮かべたのであろう。「楸邨さんが蝦蟇の声」なら、「啄木さんは牛の声」でしたね・・・、と、そして、光氏は、その付合(唱和・和唱・交響)に触れて、自分の幼少の頃を思いだして、「そうそう、私も『鶴の一声』などと揶揄されたこともありましたよ」と応じたのである。これが信氏の『孤心とうたげ』の著の「うたげ」につながる日本の詩歌(和歌・歌謡・連歌・俳諧など)の中核にあって、そして、それは「贈答と機知と奇想」とに満ち満ちていたものであったのだ。光氏は、楸邨氏の句を冒頭にいれての信氏の西洋的な詩の範疇に入ると思われる「和唱達谷先生五句」(「その四」で触れたもの)に対して難解極まりのないものと痛烈な批判をした。そして、「楸邨句交響十二章」(「現代詩手帖」一九八七・一月号)(「その六」で触れたもの)の、その一つの付合(交響)に対して、「私も戯れてみたい」との衝動にかられたのである。こういう「戯れ」こそ、日本の詩歌の伝統的なものであって、こういう「戯れ」を何時しか、西洋的な「孤心」一点張りの風潮の中にあって、日本の詩歌に携わる者の一人ひとりが何処かに置き忘れてしまったのではなかろうか。そして、楸邨・信の両氏も、これらののことを通して、こういう「交響・和唱・唱和」を歓迎することはあっても、決して、「怒り狂う」ことはなかろうことは、容易に想像することができるものであろう。


加藤楸邨と大岡信の唱和(その九)

  遊びせんとや生(う)まれけむ
  戯(たはぶ)れせんとや生(む)まれけん
  遊ぶ子供の声聞けば
  我が身さへこそ動(ゆる)がるれ  『梁塵秘抄(三五九)』

 平安末期の『梁塵秘抄』の代表的な歌謡である。大岡信著の『うたげと孤心』の「帝王と遊君」の章で紹介されている。この歌謡について、「遊女の身をゆるがす悔恨を謡った」(小西甚一説)と「童子の遊びのたわむれを聞いての心の躍動感を謡った」(志田延義説)との二説が紹介されている。それよりもなによりも、この歌謡集を編んだ後白河院について、大岡信氏は「院がわざわざ『梁塵秘抄』を編み、あまつさえ口伝集を残したということの意味を考えてみたい。『うたげ』の演出者が、同時に最も深い、それゆえに創造的な自覚に深く根ざした『孤心』の持主だった」という指摘は鋭い。そして、「狂言綺語と信仰」の章において、『「折に合ひてめでたき」ものに出会うことの歓びをも院は知っていたのである。折に合ったものに出会う歓びとは、つまり眼に見えるもの、眼に見えないものとの自分との間が、なんらかの絆によって結ばれるのを感じる歓びにほかならない。そして、そういうことに歓びを感じる人間とは、日ごろ孤独と寂寥の中にいる己を自覚している人間にほかなるまい。『うたげ』の歓びを最もよく知るものは、「孤心」の自覚的保持者にほかならぬ」という主張こそ、大岡信氏がこの『うたげと孤心』の著で主張したかったことの最もポイントとなるものであろう。そして、これまで見てきた、加藤楸邨氏の晩年の俳句に、大岡信氏が「折に合ひてめでたき」ものに出会ったことの歓びと、それが故の、「孤心」的な試行の「和唱達谷先生五句」、さらに、「うたげ」的な試行の「楸邨句交響十二章」・「楸邨『忘帰抄』二十句交響」の試行は、単なる偶発的なものではなく、氏にとっては、『うたげと孤心』の著の「日本の詩歌」のルーツを探る旅路での結果としての、必然的な一つの試行といってもよいものなのであろう。そして、それを「遊び」といっても「戯れ」といっても、大岡信氏の言葉を借りるならば、「『孤心』の自覚的保持者」としての「遊び」であり「戯れ」であるということは、やはり、付記しておく必要があるであろう。

加藤楸邨と大岡信の唱和(その十)

青き踏む            
 
さまざまなことまなうらに青き踏む   a ○
  地に低く飛ぶ蜆蝶々         b
  幼子の綾取りの橋花舞って       c 
  ジャブジャブジャブと母残し去る   d

  はたた神いっそ攫ってくれないか    b ○ 
  時鳥行き深夜便聞く         d
  万葉の恋歌ばかり一人酒        c  
  パソコンにまで愛想つかされ      a 

  気が付けば裏山を染め初紅葉      b 
  月の砂漠を唄う髭面          c ○ 
  新走り皆立ちながら廻し飲み     a   

  こんなところにだるまストーブ    b 
  雪舞いて三角帽子目尻下げ       d 
  パイプオルガン堂内に満つ       c  

 この掲出のソネット形式(四・四・三・三)の詩のごときものは、四吟(a・b・c・d)の、「付勝ち」(○印)と「順付け」とを併用した連句の一形態(ソネット俳諧)を変形して巻かれたものである。この基礎となっている「ソネット俳諧」(十四句・一花一月)は、俳誌 「杏花村」で珍田弥一郎氏が公表されたとのことである(『連句辞典』)。掲出のものは、「春・夏・秋・冬」の流れで、さらに、山本健吉氏の「季語ピラミッド」説ともいうべき、「五箇の景物」・「和歌の題」・「連歌の季題」・「俳諧の季題」・「季題」・「季語」の、その頂点をなす「五箇の景物」(花・時鳥・月・紅葉・雪)(『最新俳句歳時記』)を、織り交ぜ、その上に、恋の句(二句)までも設定している。そして、これは、一同に会して巻かれたものではなく、パソコンのメールによって巻かれたものなのである。さらに、このメンバーの中には、中途で視力を失って音声でパソコンを縦横無尽に駆使している方もおられる。そんなこともあり、掲出の作品には旧仮名遣いは使用していない。また、パソコンのメールの世界は横書きが普通で、従って横書き表記となっている。縦書き表示などを当然のこととしている、連句人・詩人、そして、俳人・柳人にとっては、いささか面食らうこともあるのではなかろうか。しかし、ここには、大岡信氏の『うたげと孤心』の、その「折に合ひてめでたき」ものとの出会いと、全く未知の者同士の、全く無機質のパソコンの操作を通しての、丁度「うたげと孤心」との、これまで見てきた、「加藤楸邨と大岡信の唱和」に見られるような、そのような試行と、その試行を通しての、悠久の日本詩歌の伝統を踏まえながら、その時代に即応した「新しいもの」を生み出そうとする、その息吹のようなものを、感じとることはできないであろうか。すなわち、好むと好まざるとにかかわらず、地球的な規模で、パソコンを通しての情報ネットワークが蜘蛛の巣のように張り巡らされた今日において、大岡信氏が主張して止まない「うたげと孤心」とを踏まえながら、「折に合ひてめでたき」ものとの出会いと歓びとを、こういう試行の中に見出せないものであろうかという思いなのである。今日では、翻訳ソフトが、これまた驚くべきほどのスピードで整備されつつあり、今回の「加藤楸邨と大岡信の唱和」の冒頭(その一)で触れた、フロリダ在住のロビン・ギル氏の、日本の俳句の海鼠の句を一千句も集録して、それぞれに翻訳した労作などを見ながら、さらには、大岡信氏が現在試行されている一つの異国人との「連詩」の創作などとに思いを馳せながら、そんな思いにとらわれているのである。何はともあれ、加藤楸邨氏と大岡信氏とが試みた今回の「唱和・和唱・交響」という実践から多くの示唆を受けたということをまとめとしておきたい。

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