月曜日, 7月 03, 2006

橋本夢道の自由律俳句



橋本夢道の自由律俳句

(その一)

○ 無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ  橋本夢道

 『橋本夢道集』(筑摩書房刊『現代日本文学全集91』)の中の一句。この句集が収められている『現代日本文学全集91』の中には、この句の夢道自身の書の色紙が掲載されている。五七五の俳句に比しては勿論のこと、種田山頭火や尾崎放哉などの自由律俳句と比しても、この夢道の自由律俳句は、その異色さにおいては群れを抜いている。そして、その異色さは、この掲出句に見られるように、その発想の異色さにおいて、完全に脱帽せざるを得ないように思われてくるのである。これらの夢道の句を評して、夢道の「愛妻俳句」の一つに数えているものもいる(志摩芳次郎著『現代俳人(一)』)。
 夢道をよく知る志摩芳次郎によれば、この句について、「戦後のあの国民が飢餓線上を彷徨させられたころの作品は、無礼なの妻ではなくて、世の中である」として、この句は、「『無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ』と飄々とうたってのけたところに、かれの俳諧の精神、俳人の本領が現れている」と的確な指摘をしている。 この句は、日本の戦後のどさくさのあの極限状態にあった頃の作で、この句の背後には、そうした日本の極限状態への失望やさまざまな怒りなどが鬱積していたことであろう。そして、そういう極限の時代にあって、こういう句を堂々と作句していた俳人がいたということを忘れてはならないと・・・、この句に接すると何時もそんなことを思うのである。

(その二)

○ うごけば、寒い

 この夢道の自由律俳句、「うごけば、」の「、」を入れても七語で、おそらく、古今東西、一番短い字数の句ではなかろうか。前回の「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」が何と長い句形かと思うと、今回の句のように極端に短い句形と、夢道の句はそのスタイルだけとっても千変万化である。しかし、この何とも異様な、この句形の、その背後は、夢道の「俳句弾圧事件」の忘れざる恐ろしい体験に根ざしたところの一句なのである。夢道は、昭和十六年に、その「生活俳句」・「プロレタリア俳句」を理由にして、時の検察ファッショによって逮捕され、獄中生活をおくるのである。この句は、その獄中での一句である。「橋本夢道集」の、、この句の前の句は、「大戦起るこの日のために獄をたまわる」、その後の句は、「面会やわが声涸れて妻眼(まな)ざしを美しくす」である。これらの獄中での連作の一句なのであろう。これらの連作と併せ、この句を味読すると、この「うごけば、寒い」の、この極端に短い句形の必然性が浮かび上がってくる。即ち、これ以上の文字数を使うことすら拒否するような、そんな「寒さ」の中の「夢道」が浮かび上がってくるのである。

(その三)

○ 赤坂の見附も春の紅椿

 この定形の紅椿の句は、型破りの異色の自由律俳人で知られている、橋本夢道の句である。この句には、「予審に行く護送車より」の前書きがある。この句は、新興俳句弾圧事件で獄中生活を余儀なくされていた夢道が、その裁判所に出廷する時の、その護送車よりの一句ということになる。夢道は、その獄中で、「うごけば、寒い」という壮絶な最短詩ともいうべき自由律の俳句作品を残しているが、その夢道が、その護送車より、赤坂見附付近の紅椿を目にした時、「もう、春なのだ」ということを強烈に感じての一句というのが、この句の背景なのであろう。『橋本夢道集』に収録されている、この句の次の句は、「二十四房を出るわが編笠にふり向かず」というものであった。夢道は、懲役二年、執行猶予三年の判決を受けて、普通の生活に戻る。これらの句の後に、夢道は、「いくさなき人生がきて夏祭」という、これまた、有季の定形の句(終戦直後の句)を収載している。夢道らの自由律俳人の多くが、このような有季の定形の句を自家薬籠のものにしていて、その上での、心の内在律を重視する自由律俳句の世界に身を挺しているということを知るべきであろう。

(その四)

○ 思い出のみつ豆たべあつている妻が妊娠している

 愛妻俳句を数多くのこしている自由律俳人・橋本夢道の句である。夢道は四国の阿波で明治三十六年(一九〇三)に生まれた。大正七年(一九一八)に上京して、江東区深川で肥料問屋などに勤め、後に、銀座に、甘いものの店「月ヶ瀬」を出店して成功を収める。その時の宣伝用の俳句が「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」という。掲出の句の「思い出のみつ豆」も、この「月ヶ瀬」を象徴するような、その「蜜豆」に相違ない。そして、その「蜜豆をたべあつている」妻ともう一人の人物は、この句の作者・夢道その人であろう。「蜜豆」は夏の季語、そして、「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」は、五・七・五の定形の句である。しかし、その定形の蜜豆の句よりも、掲出の五・十一・十一の非定形の蜜豆の句の方が何とも魅力的に思えるのは、どうしたことであろうか。そして、五・七・五の定形の句は、それはそれとして、そして、その句心を持しながら、あえて、その定形の器にもりこまない、この掲出の夢道ような句を「俳句」という範疇でとらえることに、いささかの躊躇も感じない。

(その五)

○ ひるすぎぎんぎよううりのこえのゆきすぎるおんなよびとめる

 全文平仮名の何とも異様な橋本夢道の自由律の句である。この句の詠みは、「ひるすぎ・きんぎよううりのこえのゆきすぎる・おんなよびとめる」の「四・十六・八」のリズムであろうか。それとも二句一章体の「ひるすぎきんぎよううりのこえのゆきすぎる・お
んなよびとめる」の「二十・八」のリズムであろうか。とにもかくにも、「五・七・五」の十七音字の俳句の世界からすると、「これは俳句ではなく、より短い自由詩の領域に属するのではなかろうか」という声が上がることは必至のことであろう。しかし、この作者の橋本夢道からすると、「四・十六・八」あるいは「二十・八」の二十八字音とスタイルからすると極めて長いスタイルではあるけれども、その心の「内在律」は極めて俳句の世界のスタイルに近似して、そして、それ以上に、この句の原動力となっている作句する心は、「和歌・連歌」から反旗を翻しての「俳諧自由・俳諧自在」の心が脈打っている主張し、こういう定形からの飛翔を目指しての、そして、「スタイルに拘束されることなく、心の俳諧的
内在のリズムに即応したスタイルの発見」こそ、一つの俳諧の探求の道ではなかろうか、とそんな夢道らの声も聞こえてくるようなのである。例えば、「子の生まれし日・金魚売・来てゐたる」(成瀬桜桃子)の「七・五・五」の破調の十七音字の世界と掲出の夢道の極端の破調の二十八音字の世界とは、同一の円の中に存在しているように思えるのである。

(その六)

○ 父の手紙が今年も深い雪のせいだと貧乏を云うて来る真実なあきらめへ唾をのむ

 橋本夢道の三十六字(音律からするともっと長い)からなる自由律俳句の一つである。もっと長いものもあるのかも知れない。これらの俳句と五・七・五の十七音字の定形律のそれとをどのように理解すれば良いのか・・・、はなはだどうにも答えられないのだが、俳句を知り尽くしている夢道が、「これは私の俳句です」と主張するならば、それを拒む必要もないのではなかろうか。「五七五の十七音字の定形・季語有・切字有」の「俳句」を「もっとも基本的なバターン」のものとして捉え、それらのいずれからも逸脱はしているが、その底に流れている「俳諧心」(滑稽・おどけの心)という一点に絞って、この長い、夢道が「自由律俳句」と名乗る一行詩を、「もっとも基本的なバターン」ものと同じ感覚で、「詠み・鑑賞し・共感する」という、そういうことを、「これは俳句ではない」とのことで、
一顧だににしない昨今の風潮には、どうにも納得がいかないのである。このことは、高柳重信らの多行形式の俳句にも、即、あてはまることであって、「俳諧・俳句」探求に骨身を削り、前人未踏の分野に鍬を入れようとする冒険心を、昨今の俳句に携わるものは何処かに置き忘れてしまったようなのだ。

  馬車は越えゆく
  秋の飛雪
  鉛の丘      高柳重信

 夢道の「自由律」の雪の句、そして重信の「多行式」の雪の句、やはり、俳句を熟知している人のものという印象を強く受けるのである。

(その七)

○ 路地裏しづかになるや黄金バット始まらんとす

 橋本夢道の「黄金バッド」の自由律俳句である。この句の詠みは、「路地裏しずかになるや/黄金バット/始まらんとす」の「十・七・七」の詠みであろう。上十の「や」切りで、無季の句である。そして、「黄金バット」という有季定型の俳句の季語に匹敵するようなキィワードがあり、戦後の間もない頃大流行した紙芝居の「黄金バット」の句として忘れ得ざる句の一つである。自由律俳句では十七音字よりも短いものを「短律」、そして、それよりも長いものを「長律」といわれているが、いわゆる、この句のような「長律」は言葉の省略ということがなく、それだけ、俳句特有の曖昧さがなく、鑑賞者にとっては、鑑賞しやすいという利点がある。しかし、そのことは、同時に、鑑賞者に「余韻・余情」というものを残さないという短所をも具えているということも意味する。ここのところが、いわゆる「長律」を作句する者にとって一番工夫するところのもので、この夢道の「黄金バット」の句ですると、上十の「路地裏しづかになるや」の切り出しに、夢道の工夫の跡を察知することができる。とにもかくも、夢道の自由律俳句のうちの好みの一句である。

(その八)

○ 弾圧来劫暑劫雨日共分裂以後不明

 橋本夢道の全文漢字の自由律俳句である。詠みは定かではないが、「ダンアツキタル・コウショコウウ・ニッキョウブンレツ・イゴフメイ」とでも詠みたい。この句のキィワード(フレーズ)は「日共分裂」であろう。夢道の略年譜に、「昭和五年栗林農夫(一石路)らとプロレタリヤ俳句運動を起す。九年『俳句生活』を創刊し、その編集に従う。十六年俳句事件により検挙され、十八年まで投獄された」とある。この句の「弾圧来」とは、その戦前の俳句弾圧事件を指しているのであろうか。そして、「劫暑劫雨」と「想像を絶するような暑さ・寒さ」を経験したということであろう。そして、戦後になって、やっと念願の生活に根ざした俳句運動に邁進していたら、その運動の支えであった「日本共産党」が分裂してしまったというのであろう。昭和二十五年当時のことであろうか。そして、この異様な全文漢字の夢道の句が収められている句集『無礼なる妻』は昭和二十九年に刊行さたのであった。もう、この句を作句していた頃は、「以後不明」と、それらの運動と一線を画していたのかも知れない。夢道らの俳句について、「あやふさ」が見え隠れして、「愚者の戯言」とのアイロニカルな指摘に接すると、夢道自身、その半生を振り返り、「何と愚者の戯言」であったかと忸怩たる想いが去来するのではなかろうか。しかし、それでもなお、その「愚者の戯言」は、人間の本質、俳諧・俳句の本質について、大きな示唆を与えていてくれているという思いを強くするのである。それは、とりもなおさず、この句でいえば、結句の「以後不明」の四字に、夢道の「諧謔精神」の息吹を感ずることにほかならない

(その九)

○ 葱買て枯木の中を帰りけり    蕪村
○ 酒の香のするこの静かな町を通る 夢道

 夢道のこの句は、昭和二十九年に刊行された『無礼なる妻』の冒頭の一句である。この夢道の句集は句の創作順に編集している、いわゆる、編年体の編集と思われるので、この句は夢道の初期の頃の作品と思われる。一読して、この夢道の句に並列した蕪村の句を想起した。ここで、一つ思いあたることは、蕪村の句は、江戸時代の大阪生まれの京都在住の蕪村の句で、その詠みは「ねぶかこうてかれきのなかをかへりけり」と、いわゆる、文語体の旧仮名遣いの詠みであろう。一方の夢道の句は、正岡子規門の一人の河東碧梧桐の新傾向俳句の流れの自由律俳句で、文語体特有の、「や・かな・けり」などの「切字」を使
用せず、口語体の句が多いのである。夢道のこの句も「さけのかのするこのまちをとおる」と、当時の口語体の詠みなのであろう。そして、蕪村の句のように、この「けり」の「切字」が、俳句特有の「行きて帰る」ところの「余韻・余情」を醸し出すのであるが、この「切字」を使用しない夢道らの自由律の句は、その人の、その心のリズムに即した句作りとなり、はなはだ、恣意的な「内在律」・「感動律」というものに頼りきるのである。そのことが、韻律としての「あやふさ」・「あいまいさ」と直結して、鑑賞者に戸惑いを起させるのであるが、定形律をとらず、口語体重視の立場の自由律の俳句の、それは宿命ともいうべきものであろう。そして、それが故に、自由律俳句は常に傍流にあり、異端の俳句とされているのであった。しかし、外在的・形式的な定形律からの自由、そして、現代語重視の、表現・内容の自由という観点からは、自由律の俳句というものは、極めて自然な、そして、極めて現代的な表現スタイルであるということは認める必要があると思われるのである。そして、「や・かな・けり」という文語体スタイルで、公然と新仮名遣いの俳句が、その主流となりつつある昨今の状況は、もう一度自由律俳句の、その歩みなどを検証する必要があるように思えるのである。

(その十)

○ 「きんかくしを洗いましよう」ユーモレスクにうら悲し

 夢道の句集『無礼なる妻』の後半に収録されている一句である。「きんかくしを洗いましよう」という切り出しの面白さ、その切り出しと「ユーモレスクにうら悲し」との取り合わせの面白さ。とにもかくにも、泣き笑いの滑稽味のする一句である。俳諧(俳句を含めて)の本質を「滑稽・即興・挨拶」と喝破したのは山本健吉であった。その三要素の何れに因っても、この夢道の句は立派な俳諧に深く根をおろした一句ということができよう。しかし、その俳諧(連句)の一番目の発句(十七字定型・季語・切字)から独立した俳句の観点からすると、その母胎の発句の三要素の何れの面においても、逸脱しており、この夢道の句は、発句、そして、俳句というにはいささか抵抗があるということも真実であろう。しかし、翻って、連歌からの自由を目指して俳諧(連句)が誕生し、その俳諧の発句の月並みからの脱却を目指して俳句が誕生し、その俳句の不自由さからの解放を目指しての自由律俳句の誕生は、一つの必然的な流れの中にあったのだ。そして、この自由律俳句がもたらした、俳句の三要素ともされている「十七字定型・季語・切字」に因らなくても、俳諧の精神(滑稽・即興・挨拶)は見事に具現化することができるということの証明は、この夢道の句の一つをとっても、それを証明しているのではなかろうか。とするならば、夢道らの自由律の俳句は俳句に非ずと一蹴することなく、これを「異端の俳句」として、その諧謔的精神を学ぼうとする姿勢こそ、今望まれていると、そんな思いを深くするのである。 

0 件のコメント: