金曜日, 4月 06, 2007

其角とその周辺・六(五十六~六十五)


画像:西山宗因

(謎解き・五十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

五番
   兄 信徳
 雨の日や門提(げ)て行(く)かきつばた
   弟 (其角)
 簾まけ雨に提(げ)来(る)杜若

この五番手の伊藤信徳(~元禄十一年没)については、下記のアドレスで、次のとおり紹介されている。

http://apricot.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/shintok.htm

※京都新町通り竹屋町の商人。助左衛門。若かった時分、山口素堂とも親交があつかった。貞門俳諧から談林俳諧に進み、『江戸三吟』は、この芭蕉・素堂・信徳の三人による。梨柿園・竹犬子は別号。享年66歳。

この『江戸三吟』は、京の信徳が延宝五年(一六七七)の冬から翌年の春にかけて江戸滞在中に、桃青(芭蕉)・信章(素堂)と興行した三吟百韻三巻を収める。「三人の技量が伯仲し、軽快で才気あふれる諧謔のリズムに乗って展開しており、江戸談林や京の高政一派に見られるような難解奇矯の句は少なく、当時の第一線の作品となっている」(『俳文学大辞典)。その百韻三巻の表の三句のみを抜粋して見ると次のとおりである。

※ あら何共なや(百韻) 延宝五年
発句 あら何共(なんとも)なやきのふは過(すぎ)て河豚(フクト)汁 桃青
脇  寒さしさつて足の先迄                     信章
第三 居あひぬき(合抜)霰の玉やみだ(乱)すらん          信徳
※ 物の名も(百韻) 延宝六年
発句 物の名も蛸(凧)や故郷のいかのぼり               信徳
脇  あふ(仰)のく空は百余里の春                 桃青
第三 嶺に雪かねの草鞋(ハランヂ)解(とけ)そめて         信章
※ さぞな都(百韻) 延宝六年
発句 さぞな都浄瑠璃小哥(うた)はこゝの花             信章
脇  霞と共に道外(化)人形                     信徳
第三 青いつら笑(わらふ)山より春見えて              桃青

また、掲出の信徳の句については、潁原・前掲書で次のとおり解説されている。

※この句はかつて芭蕉が江戸から書を寄せて、信徳に上都の風体を問うた時、信徳は和及・我黒等と日々相会して討論した結果、遂にこの吟を得て答へたものであるといふ。さうした逸話の真偽はともかくとして、句は誠に素直に嘱目のまゝに叙してゐる。貞享三年の作とすれば、芭蕉はすでに古池の吟に心眼を開いたといはれる頃であるから、あへて信徳に都の俳風を問ふまでもなかつたも知れぬが、この句は俳諧がもはや詞花言葉の弄びではなく、自然を素直に見る所から生るべきものだといふ第一義的態度を表明したものと思はれる。たゞ惜しい哉、信徳はなほ時代がやゝ早く生れすぎた為か、それともその天分が足りなかつた為か、なほこれらの作を最上とする程度に終つた。  

桃青・信章・信徳の『江戸三吟』が興行された延宝五年当時は、芭蕉、三十四歳、其角、十七歳のときで、其角は、この年、『桃青門弟独吟廿歌仙』(延宝八年刊)所収の作品を手がけている(其角年譜)。この当時の其角は、この『江戸川三吟』の三人の師匠の作風、すなわち、貞門俳諧から談林俳諧への新風を、己がものにしていく日々であったことであろう。しかし、掲出の信徳の句が公表される貞享三年(一六八六)には、若干、二十六歳にして、「日の春をさすがに鶴の歩み哉」の歳旦句を発句にして、『初懐紙』の百韻一巻が巻かれ、蕉門筆頭の地位を歩き始めている。いかに、其角が、若くして、蕉門の中にあって、群れを抜いていたかということについて、この延宝五年から貞享三年までの、その年譜を見ただけでも驚かされるのである。いずれにしろ、この信徳とこの掲出句については、其角ネットワーク関連のものというよりも、これまた、芭蕉ネットワーク関連のものと理解すべきなのであろう。

さて、この信徳の掲出句を換骨(古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる)するに、「花の雫をそのまゝに色をも香をも厭ひけるさまをすた(だ)れまけと下知したるなり」と、いかにも「道具立て」の煌びやかな、趣向の俳人、其角らしいという趣である。この二句を見比べて、其角の句(弟)は、信徳の句(兄)の「焼き直し」の句というのよりは、其角その人の「独自の作品」として、「類想」・「等類」・「同素」の域を超えているものという思いを深くする。まさに、「句兄弟」という趣である。


(謎解き・五十七)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

六番
   兄 曲水
 三弦やよしのの山を佐月雨
   弟 (其角)
 三味線や寝衣(ネマキ)にくるむ五月雨

菅沼曲水(曲翠)については、下記のアドレスでは次のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kyokusui.htm

※曲翠とも。本名菅沼外記定常。膳所藩重臣。晩年奸臣を切って自らも自害して果てる。『幻住庵の記』の幻住庵は曲水の叔父菅沼修理定知の草庵。曲水は、近江蕉門の重鎮でもあり、膳所における芭蕉の経済的支援をした。高橋喜兵衛(怒誰)は弟。

『俳句講座二』所収「菅沼曲翠」(榎坂浩尚稿)は、次の文面で始まる。
※元禄二年冬、奥の細道の旅を終えてから、元禄四年十月、江戸に帰りつくまでの三年間、大津、膳所といった湖南の地に滞在した芭蕉は、江戸帰着早々、膳所の曲翠に宛てて、
誠(まこと)三とせ心をとゞめ候はこれたれが情ぞや。何とぞ、今來江戸にあそび候はゞ又また貴境と心構候間、偏へん膳所之旧里のごとくに存候。
と書いた。「三とせ心をとゞめ候はこれたれが情ぞや」・・・言う通り、三年の滞在は、一に湖南の門人たちの暖かい心づかいによるものであった。芭蕉が「旧里のごとく」と懐かしみ、一・二年の中に再び行きたいと漏らす、この湖南の地は、数多くの門弟たちがいた。丈草・正秀・木節・千那・乙州・酒堂・曲翠・昌房・探志・怒誰など、その数はほぼ二十名に及ぶ。しかも、中でも、一夏、旅のつかれを休め、旅中の数々の感銘を反芻整理すべき、恰好の住まい・・・幻住庵を提供した曲翠の暖かい心づかいは、芭蕉にとっては、何よりも嬉しいことであったにちがいない。

 この曲翠の芭蕉入門は、上記の図書によれば、「貞享四年頃と推定される。そして、その後の曲翠の句は多く其角系の俳書に載っていることとか、其角との両吟が少なくないことなどから、江戸において、其角を通じての入門であったと考えられる。曲翠は藩務のため、毎度何度か東下しているから、こうした機会が想定されて当然といってよいだろう」としている(この「其角を通じての入門であったと考えられる」については、後述したい)。
また、その最期について、「享保二年、同輩家老の曽我権太夫が、主君の寵を恃んでしばしば不正を働いていたのを責めて斬り、自らも自刃するという、いかにも武人らしい最期を遂げた曲翠の、非を憎む純粋の人柄は、いわば以上のごとき由緒正しい武人の系譜の中に考えられるべきことであったのである」と、実に悲劇的な最期であった。その家族については、「妻は、和泉岸和田藩士の娘で、誠実純粋な夫の人柄にふさわしく、夫の没後、薙髪して破鏡尼と名乗り、筑紫琴の名手として破鏡流を創始し、岸和田に隠棲して、貞節の生涯を終えたといわれる(『近世畸人伝』)。また、子息の内記は、父の自刃後、江戸にて死を賜り、十八歳の若さで死んだ。なお、芭蕉の書簡にしばしば名を見せる竹助は、この内記の兄に当り、早世したらしい」と記述されている。この曲翠も、その蕉門入門こそ其角を介在してのこととしても、其角ネットワークの人物というよりも、芭蕉ネットワークの、膳所藩重臣と身分の高い近江蕉門の重鎮と位置づけられるであろう。

さて、この膳所藩重臣の由緒正しい家柄の曲翠の掲出の句は、「三弦」の句であっても、何処にも女性を侍らしての艶っぽい世界のものが感知されないのに比して、其角の「三味線」の句は、同じ「三弦(三味線)と五月雨」の句であっても、この中七の「寝衣(ネマキ)にくるむ」で、放蕩生活に明け暮れた其角その人の自画像が浮かび上がってくる。先に紹介した、其角の俳諧撰集『いつを昔』は、当初、『誹番匠(はいばんしょう)』という名で刊行される予定であったが、この『誹番匠』とは「俳諧の大工」というようなことで、同じ主題・言葉を用いても、大工の腕次第で、別世界の、句が善くも悪くもなるというようなことを意図したものであろう。いかにも、この掲出の二句を見比べて、其角の判詞の「寝巻にといふ品にかはりて閨怨の音にかよはせ侍る」とは、つくづく、其角とは、「俳諧の名工」という感を大にするのである。


(謎解き・五十八)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

七番
   兄 (其角)
 禅寺の華に心や浮蔵主
   弟 (其角)
 客数寄や心を花にうき蔵主

これまでの、貞室→拾穂軒(季吟)→素堂→粛山→信徳→曲水(曲翠)と、ここに来て、作者名が空白(其角)で、それが七番・八番と続き、九番が岩翁、十番がまた空白(其角)となっていく。これらの順序なども何か意図があるのかも知れないが、これまでのものを振り返って見て、いわゆる、発句合わせ(句合わせ)の、兄・弟との両句の優劣を競うという趣向よりも、前回に触れた、兄の句の主題・言葉を使って、いかに、弟の句を「誹番匠」(言葉の大工)よろしく、換骨奪胎するか、その腕の冴えを見せるという趣向が濃厚のように思われるのである。この掲出の二句でも、「華(花)・心・浮蔵主(うき蔵主)」は同じで、違うのは、上五の「禅寺」(兄)と「客数寄」(弟)との違いということになる。それだけで、この兄の句と弟の句は、まるで別世界のものとなってくる。この兄の句は、「禅寺にも花が咲き、経蔵を管理する老僧の心も華やいでいる」という対して、弟の句は、「茶の湯の客人は、禅寺の経蔵管理の老僧で、数寄者に相応しく、この庭の花を心から愛でている」とでもなるのであろうか。兄の句は、中七の「華に心や」切り、下五の「浮(き)坊主」と、この判詞にある「古来は下へしたしむ五文字を今さら只ありに云流したれは(ば)」というのを、弟の句では、上五の「客数寄や」切りにして、「心を花にうき坊主」と「心を花にうき」と「うき坊主」と「うき」を掛詞として、「花見る庭の乱舞によせたり」という世界を現出しているということなのであろう。これらは、今にいう「添削」(主に作者以外の人が言葉を加えたり、削ったりして句を改めること)・「推敲」(作者自身による修正)の問題なのであろうか。これらに関して、芭蕉書簡の「点削」は、「評点を加え、添削するの意」で使われているとのことであるが(『俳文学大辞典』)、この其角の『句兄弟』のこれらのものは、この「点削」の要領に近いものを感ずるが、その「点削」そのものではなく、いわば、その兄の句の「主題・言葉」を使用して、また、別の句を作句するという、いわゆる、「反転の法」(ある句の語句の一部や発想を転じて、新たな趣意の句を詠ずる句法、もと漢詩の手法から想を得て、其角が『句兄弟』で等類を免れるために実践した法)の具体例というようなことなのであろうか(「反転の法」の説明は『俳文学大辞典』による)。この「反転の法」というのは、例えば、掲出の二句についていえば、兄の句を「反転の法」により、新しい別の弟の句を作句するということで、この兄の句と弟の句とは、「兄弟句」の関係にあるという理解でよいのかも知れない。なお、「等類」というのは、「先行の作品に作為や表現が類似していること」をいう。そして、「連歌では、心敬などは別にして、むしろこれに寛容な傾向が強いが、新しみを重んじる俳諧では、『毛吹草』以下とりわけ批判の対象となり、『去来抄』などに見られるように、蕉門では特に厳密な吟味がなされた」とされ、「去来は先行の句に発想を借り、案じ変えたものを同巣(どうそう)」といい、「近現代俳句では『類句』とも呼ばれる」(『俳文学大辞典』)。この「兄弟句」と「等類(句)」との一線というのは、はなはだその区別の判断は難しいであろうが、其角は、「漢詩の点化句法(『詩人玉屑』などに所出)をもとに」にしての「反転の法」により「等類」とは似て非なるものという考え方なのであろう。そもそも、連歌・俳諧というのは、「座の文学」であり、「連想の文学」であり、一句独立した俳句(発句)として、「独創性」を重んじるか「挨拶性」を重んじるか、その兼ね合いから個々に判断されるべきものなのであろうが、こういう其角の「反転の法」のような作句法も、これらの『句兄弟』の具体例を見ていくと、確かに、誰しもが、この種の、「推敲」なり「添削」を、無意識のうちに、それも日常茶飯事にやっているということを痛感する。と同時に、「兄弟句」と「等類」(「類句」)とは違う世界のものという感も大にする。また、この「反転の法」というのは、この句合わせの一番などに見られる「云下しを反転せしものなり」、そして、それは「句を盗む癖とは等類をのか(が)るゝ違有」ということで、この一番の解説での「換骨」(古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる)と同趣旨のものと解したい。そして、それは、其角の代表的な撰集『いつを昔』の前題名として予定されていた「誹番匠」(言葉の大工)という用語に繋がり、そして、それは横文字でいうと、「レトリック」(①修辞学。美辞学。②文章表現の技法・技巧。修辞。)という用語が、そのニュアンスに近いものであろう。その意味では、其角というのは、「レトリック」と「テクニシャン」(技巧家)の合成語ともいうべき「レトリシャン」(修辞家)の最たる者という思いがする。いや、もっと「マジック」の「マジシャン」ということで、「言葉の魔術師」とでもいうべきネームを呈したいような思いを深くするのである。


(謎解き・五十九)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

八番
   兄 (其角)
 蔭惜(し)き師走の菊の齢かな
   弟 (其角)
 秋にあへ師走の菊も麦畑

さて、「言葉の魔術師・其角」の「反転の法」による「兄弟句」の二句である。この中七の「師走の菊」が、其角の判詞の「中七字珍重(もてはや)すへ(べ)し」ということで、この中七字は、「師走の菊の」(兄)の「の」と「師走の菊も」(弟)の「も」との一字違いだけである。この中七を活かして、いわゆる「反転の法」によって、それぞれ別世界を創出するというのが、「誹番匠」の其角師匠の腕の冴えの見せ場なのである。
まず、兄の句を見ていくと、「蔭惜(し)き師走の菊の齢かな」と、いわゆる「一物仕立」の「発句はただ金を打ちのべたる様に作すべし」(『旅寝論』)なのに対して、弟の句は、「秋にあへ師走の菊も麦畑」と「師走の菊」と「麦畑」の、いわゆる「取合せ」の「発句は畢竟取合せ物とおもひ侍るべし。二ツ取合せて、よくとりはやすを上手と云(いう)」と、そのスタイルを変えて、いわゆる「反転の法」によって、換骨奪胎を試みているのである。そして、其角は、この換骨奪胎を「句を盗む癖とは等類をのか(が)るゝ違有」と「句を盗むところの等類」を「逃るる」もので、これは「等類」ではなく、いわば「兄弟句」であるとするのである。弟の句の「秋にあへ」は「秋に敢へ」(秋の冷たい霜などにも堪え)と解して、判詞で言う「霜雪の潤むにおくるゝ対をいはゝ(ば)わつ(づ)かに萌出し麦の秋後の菊をよそになしけん姿」の句に変転した、「誹番匠」の其角師匠の腕の冴えは、只々脱帽せざるを得ないという思いを深くするのである。
こうして見てくると、この『句兄弟』の一番最後(三十九番)に、兄の句、「聲かれて猿の歯白し峯の月」(其角)、弟の句、「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」(芭蕉)として、その判詞で、「予が句先にして師の句弟を分(わかつ)。其換骨をさとし侍る」というのは、「其角の師の芭蕉こそ、反転の法の雄であり、その換骨奪胎の腕の冴えを、その教えに続くものは、これをマスターして、自家薬籠中のものにすべし」というのが、其角の真意であって、このことを例にして、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎)の「これより、蕉門は分裂に分裂を重ねることになる。その引きがねをひいたのは、まぎれもなく其角である。其角は芭蕉の『軽み』など屁とも思っていなかった。かくして、芭蕉没後、蕉門は四分五裂をくりかえすことになる」というのは、其角の、この『句兄弟』の真意を曲解しての、其角にしては、「ためにする論理」ということで、どうにもやり切れない思いがすることであろう(このことについては、この三十九番などで、折に触れて記述していきたい)。


(謎解き・六十)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

九番
   兄 岩翁
 達磨忌や朝日に僧の影法師
   弟 (其角)
 達磨忌や自剃にさくる水鏡

一・貞室→二・拾穂軒(季吟)→三・素堂→四・粛山→五・信徳→六・曲水(曲翠)→七(其角)→八(其角)→九(七)・岩翁と、岩翁は実質・七番手として登場する。『元禄の奇才 宝井其角(田中善信著)』(以下『田中・前掲書』)では、岩翁について次のとおり記述されている。

※『続虚栗』に岩翁(がんおう)が初めて一句入集する。彼は多賀谷長左衛門と称する幕府御用を勤める桶屋であったという。其角は元禄四年(一六九一)の大山・江ノ島・鎌倉の小旅行で岩翁親子(子は亀翁)と同行し、元禄七年の関西旅行でも岩翁親子と同行している。岩翁は『桃青門弟独吟二十歌仙』のメンバーの一人だが、一時俳諧から離れていたらしい。『続虚栗』以後は其角派の一員として活躍するが、其角のパトロンの一人であったと思われる。

次のアドレスのネット記事は次のとおりである。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/gannoh.htm

※多賀谷岩翁(たがや がんおう)(~享保7年(1722)6月8日)
 江戸の人。通称は、長左衛門。亀翁はその息子で、ともに其角の門弟で芭蕉にとってはいわば孫弟子にあたる。
(岩翁の代表作)
隈篠の廣葉うるはし餅粽 (猿蓑)
 
『田中・前掲書』では、亀翁について次のとおり記述している。

※亀翁は岩翁の息子で、元禄三年は十四歳であった(『俳諧勧進牒』)。元禄六年刊行の『流川集』(露川編)に彼の元服を祝う支考と其角の句があるから、元禄五年に元服したのであろう。年は若かったが『いつを昔』以後其角派の一員として活躍し、元禄七年には父の岩翁や横几(おうき)・尺草(せきそう)・松翁(しょうおう)らと其角の供をして関西旅行に出かけている。『猿蓑』(元禄四)に三句、『俳諧勧進牒』(同)に五十一句入集しており、将来を嘱望されていた若手の一人であったと思われるが、どういうわけかこの関西旅行以後は俳壇から姿を消す。楠元六男氏の「芭蕉俳文『亀子が良才』の成立をめぐって」(「連歌俳諧研究」五四)によると、元禄七年以後の亀翁の作は、『有磯海・となみ山』(元禄八)に発句一、『洗朱』(元禄一一)に付句一があるだけである。

次のアドレスのネット記事は次のとおりである。

http://apricot.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kioh.htm

※多賀谷亀翁(たがや きおう)(生年不詳)
江戸の人。多賀谷岩翁の息子。通称万右衛門。天才のほまれ高く、14歳のときの句が猿蓑に入集するという天才振りを発揮した。
(亀翁の代表作)
茶湯とてつめたき日にも稽古哉(猿蓑)
春風にぬぎもさだめぬ羽織哉(猿蓑)
出がはりや櫃にあまれるござのたけ(猿蓑)

さて、掲出の兄(岩翁)と弟(其角)の句についてであるが、今度は、上五の「達磨忌や」をそのままにして、反転の法により、換骨奪胎の「兄弟句」の作句の具体例ということになる。この判詞に「俳句ヲ論ズルニ禅ヲ論ズルガ如シ」と、いかにも若くして臨済宗の大顛(だいてん・俳号、幻吁)和尚に詩や易を学んだ其角らしいものである。「口で語るのは不可能である」というのであろう。それにしても、「自剃にさくる水鏡」とは、華麗な作為の「誹番匠」其角という思いがする。ここにいう「華麗な作為」とは、其角をして、「洒落・磊落・新奇・壮麗・多能・俊哲・多才」などという言辞が弄されるが、これらの諸々の意味においての「誹番匠」其角という思いである。

(謎解き・六十一)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十番
   兄 (其角)
 干瓜や汐のひか(が)たの捨小舟
   弟 (其角)
 ほし瓜やうつふけて干す蜑小船

この掲出の二句で、兄の句の「干瓜や汐のひか(が)たの捨小舟」のイメージはつかみ易い。それにしては、この弟の句の「ほし瓜やうつふけて干す蜑小船」の「うつふけて」の表現・言葉が、どうにもつかみ難い。「うつ」は、「棄つ」で「葦船に入れて流し棄つ」(『古事記(上)』)などの「捨てる」の意なのかどうか。それとも、「全」(接頭語)で、「まるまる」の意なのかどうか。次の「ふけて」は、「蒸けて」で「蒸されてやわらかくなって」の意であろう。「うつ」は、「まるまる」の意にとって解しておきたい。
この二句の具体例では、上五の「干瓜」(ほし瓜)は、そのままにして、下五の「捨小舟」(「蜑小船」)は「小舟」(「小船」)は、そのままにして、中七の「汐のひか(が)た」を「うつふけて干す」に変転することによって、「等類」の世界ではなく「句兄弟」の世界に変身しているかどうかというのが、この二句を提示している、「誹番匠」其角の狙いであろう。
この中七字の変転の工夫については、いわゆる「取合せ」論の許六の『俳諧問答』「自得発明弁」に出てくる次の推敲例が思いだされてくる。

梅が香や精進なますに淺黄椀
梅が香やすゑ並べたるあさぎ椀
梅が香やどこともなしに浅黄椀
梅が香や客の鼻には浅黄椀 (最終案)

これらは、この最後の最終案を得るための創作のプロセスであって、これらが、それぞれに一個独立した異次元の世界のものと把握するのは困難であろう。これらは、「梅が香」と「浅黄椀」との「よきとり合わせ」を、中七の表現によって、いかに、その「取合せ」を「ふれぬ」(「ふる」・「ふれぬ」)ものにしていくかという視点での推敲例である。それに比して、掲出の其角の二句については、その判詞でいう「舟の形容汐と云(ふ)一字のはたらきを反転せり」、それによって、弟の句は「古ヲ懐(いだ)キ古ヲ弔フ」の兄の句とは異次元の世界のものとなっているとする「反転の法」の具体例なのである。丁度、下記の有名な剽窃句(類想句)なのか、それとも、剽窃句ではない(句兄弟)ものなのかどうかという問題にも換言されるであろう。

獺祭忌(だっさいき)明治は遠くなりにけり (不明子)
  降る雪や明治は遠くなりにけり (草田男)

これらに関しては、「多行形式俳句」の実践者で優れた俳論家の一人である高柳重信氏の「『書き』つつ『見る』行為」という俳論がある(この俳論も、次のアドレスでネットで見ることができる)。

http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/jyusin/jyusintext/jyuusinkakimiru.html

 この俳論の要点(原文そのままに)は下記のとおりとなる。

一 たとえば、俳壇には、こんな説がある。手みじかに言えば、中村草田男の有名な俳句に「降る雪や明治は遠くなりにけり」があるが、それに先立ち、某氏によって「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という句が書かれており、「降る雪や」は、その盗作、あるいは剽窃だ--という説である。
二 これくらい愚かしい議論はないと思うし、その愚かしさの理由についても、すでに一度ならず書いてきている。もともと「明治は遠くなりにけり」という言葉は誰彼の独占的な所有を主張できるようなものではなかったはずである。この「明治」という言葉は、少なくとも明治から大正にかけて生れてきた日本人にとって、作為的にも無作為的にも、実に、しばしば、多くの喚起を生んできたものである。したがって、その明治が遠くなってゆくという感懐も、かなり普遍的で共通なものであり、しかも、その喚起は、きわめて自然に「明治は遠くなりにけり」という言葉と、ほとんど同じ言葉で、随時、随所に行なわれたと思われる。それは、また、この言葉が、随時、随所に、その場、その時の感情的な限定を受けて、やや鮮明な感懐となり、自他ともどもに対して喚起カを発揮していたことを意味する。しかし、この言葉だけを、まったく無限定な状態で客観的に眺めるときには、かなり雑多な感情を未整理のまま包含していて、その方向も定まらぬように揺れ動いていると思わざるを得ない。人によっては、「明治」という言葉に、それぞれ正反対な感情を喚起される場合も考えられるから、それが遠ざかってゆくという感懐にも、おのずから対立したものが生まれてきて、何の不思議はないのである。
三 問題は、この「明治は遠くなりにけり」に、如何なる詩的限定、あるいは俳句的限定を加えるかにかかってくるわけだが、それを某氏のように「獺祭忌」としてしまったのでは、連想範囲が正岡子規とその周辺に限られて、この言葉の内包しているものを、非常に小さな時のなかに閉じこめてしまうことになる。こうして、みずから小さな枠のなかに閉じこめておきながら、やや大袈裟に言えば、当時の日本人の大多数の普遍的で共通な感懐を盛るにふさわしい「明治は遠くなりにけり」という青葉を、某氏一人の所得にしようとしても、それは、はじめから無理な願望であった。そこへゆくと、中村草田男の「降る雪や」は、この「明治は遠くなりにけり」という言葉が、その裾野を最大限にひろげてゆけるように、見事な詩的限定を行なっている。それは、本来、「明治は遠くなりにけり」という言葉が内包していた感懐のすべてを、少しも失なうことなく、やや情緒的に過ぎるけれど、鮮明なイメージを持った一個の表現としての客観性を、はっきりと獲得しているのである。この結果、「明治は遠くなりにけり」という言葉が、中村草田男の占有すべきところとなったのは、理の当然であろう。しかも、それにとどまらず、この「明治は遠くなりにけり」は、この中村草田男の作品が書かれて以後は、それによっていっそう鮮明となったイメージを伴ないながら、もう一度、日本人すべての手許へと帰ってきたのである。
四 現在の僕は、「獺祭忌明治は速くなりにけり」と「降る雪や明治は遠くなりにけり」の二つの俳句について、僕なりの弁別は出来るけれど、その先へは一歩も進むことは出来ないのである。もちろん、僕は、「獺祭忌」から「降る雪や」までは、幾つもの海や山を越えてゆかねば行きつかぬほどの距離があることを書くことも出来る。また、某氏の俳句は、言いとめると同時に簡単に言いおおせてしまっているから、そこに書かれた文字を通して、その向こう側に何も見えてこないので、要するに駄目なのだ、などと言うことも出来るだろう。そして、更には、やや、したり顔で「獺祭忌」から「降る雪や」までの距離のなかに、俳句表現に関する一切の問題が包含されている、などと説くことも出来るにちがいない。
五 たしかに、そうにちがいないのだが、もし、本当に実用的で有効な俳論を書こうとするならば、この「獺祭忌」にかわる「降る雪や」を、どうしたら発見できるかということを、はっきりと言いとめなくてはいけないはずである。だが、おそらくは、現在の僕のみならず、明日の僕も、明後日の僕も、まず不可能であるにちがいない。もっとも、俳壇では、この段階に至ると、誠心誠意だとか、感動に忠実であれだとか、あるいは、泥にまみれるまで対象に没頭せよだとか、きわめて精神主義的な言葉が安直に乱発され、それが、そのまま、有益な俳論として通用してしまうようである。しかし、それを言っている当人が、その説をどれほど信じているのか疑わしいし、現実に彼等の書きあげる俳句を見ると、その御利益のほども、軽々しくは信じられないような気がするのである。

 この長々と引用した、その最後(要点五)の「この『獺祭忌』にかわる『降る雪や』を、どうしたら発見できるか」という、この視点こそ、この「誹番匠」其角が、この『句兄弟』でさまざまに実践をしていることに他ならない。と考えてくると、「誹番匠」其角の狙いというのは、「等類」とか「等類を逃るる」とかという次元の問題なのではなく、一句を作るという、「素材(道具・見入れ)・構想(趣向)・表現(句作り)」の全てに関わる実践的な具体例ということになる。この意味において、この其角の『句兄弟』の、これらの「句合せ」(「発句合せ」)の具体例というのは、実に、それらの全てについて多くの示唆を含んでいることを痛感するのである。


(謎解き・六十二)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十一番
   兄 杉風
 屋形舟上野の桜散(り)にけり
   弟 (其角)
 屋形舟花見ぬ女中出(で)にけり

先に、其角は「貞享三年(一六八六)には、若干、二十六歳にして、『日の春をさすがに鶴の歩み哉』の歳旦句を発句にして、『初懐紙』の百韻一巻が巻かれ、蕉門筆頭の地位を歩き始めている」(第五十六)と記述したが、ここのところを、『田中・前掲書』では、「本来芭蕉が出すべき一門の歳旦帳を、其角が代行した形になっている。この当時の江戸蕉門の形態を今日の組織にたとえると、芭蕉は会長、其角は社長という関係になる。其角のグループは芭蕉門其角派であって独立した一門ではない。この形態は芭蕉が死没するまで続いている」と、「芭蕉(四十三歳)は会長、其角(二十六歳)は社長」とユニークして適切な指摘をしている。これに、嵐雪(三十三歳)と杉風(四十二歳)を付け加えると、嵐雪は専務(元禄元年に立机か)、杉風は副会長(後に、去来が西日本担当、杉風が東日本担当の二人制)というような位置付けであろうか。それよりも、この杉風は、其角・嵐雪が「業俳」(職業的点者)とすれば、杉風は「遊俳」(趣味的俳人)ということになり、芭蕉没後は、この「業俳」グループの「其角」派・「嵐雪」派、そして「遊俳」グループの「杉風」派と江戸蕉門は分裂していくこととなる。そして、それが顕著になるのは、芭蕉没後というよりも、宝永四年(一七〇七)の其角没後ということになろう。その江戸蕉門の一派を形成していく、「杉風」派の元祖の杉風のプロフィールは、次のアドレスで、以下のように紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/sanpu.htm

杉山杉風(1647~1732)
江戸幕府出入りの魚問屋主人。正保4年(1647年)生れ。蕉門の代表的人物。豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。人格的にも温厚篤実で芭蕉が最も心を許していた人物の一人。芭蕉庵の殆どは杉風の出資か、杉風の持ち家を改築したものであった。特に奥の細道の出発に先立って芭蕉が越した杉風の別墅は、現江東区平野に跡が残っている採荼庵(さいだあん)である。早春の寒さを気遣った杉風の勧めで旅の出発が遅れたのである。一時5代将軍綱吉による生類憐の令によって鮮魚商に不況がおとずれるが、総じて温和で豊かな一生を送った。ただ、師の死後、蕉門の高弟嵐雪一派とは主導権をかけて対立的であった。享保17年(1732年)死去。享年86歳。なお、杉風の父は仙風で、享年は不詳だが芭蕉はこれに追悼句「手向けけり芋は蓮に似たるとて」を詠んでいる。
(杉風の代表作)
影ふた夜たらぬ程見る月夜哉 (『あら野』)
肩衣は戻子(もぢ)にてゆるせ老の夏 (『あら野』)
襟巻に首引入(ひきいれ)て冬の月 (『猿蓑』)
年のくれ破れ袴の幾くだり (『猿蓑』)
がつくりとぬけ初(そむ)る歯や秋の風 (『猿蓑』)
手を懸ておらで過行(すぎゆく)木槿哉 (『猿蓑』)
子や待(また)ん餘り雲雀の高あがり (『猿蓑』)
みちのくのけふ関越(こえ)ん箱の海老 (『炭俵』)
紅梅は娘すまする妻戸哉 (『炭俵』)
めづらしや内で花見のはつめじか (『炭俵』)
挑(提)灯の空に詮なしほとゝぎす (『炭俵』)
橘や定家机のありどころ (『炭俵』)
菊畑おくある霧のくもり哉 (『炭俵』)
このくれも又くり返し同じ事 (『炭俵』)
雪の松おれ口みれば尚寒し (『炭俵』)
昼寐して手の動やむ團(うちは)かな (『續猿蓑』)
枯はてゝ霜にはぢづやをみなへし (『續猿蓑』)
一塩にはつ白魚や雪の前 (『續猿蓑』)
菊刈や冬たく薪の置所 (『續猿蓑』)

これらの杉風の代表作を見ていって、杉風の作風は大雑把に、この「炭俵」(軽み)調のということになろう。「軽み」調とは、「素直な自然観照による平明な表現を志向」(『俳文学大辞典』)しているものといえよう。掲出の杉風の「屋形舟上野の桜散(り)にけり」は、この「軽み」調そのものの見本のような句である。これに対して、其角の「屋形舟花見ぬ女中出(で)にけり」とは、杉風(兄)の句が、「桜散(り)にけり」で、その「花見ぬ女中」の句へと転じているのである。それは「素直な自然観照」より生まれ出てくるものではなく、「さまざまな細工」(作為的工夫)を施して、この掲出句でするならば、「花見ぬ女中ちりなん後に悔しからまし」との作為を施し、「平明な表現を志向」するというよりも「詞の持つ幻術性の発揮を志向」し、この掲出句でするならば、「出(で)にけり」と、一編のドラマ風の仕立ての措辞で、換骨奪胎をしているのである。この二句を並記して、この其角の句(弟)は、杉風の句(兄)の「等類」の句と見る人はいなかろう。これは、杉風の景気(叙景)の句(兄)に接して、其角は、ドラマチックに、人事の句に転換してのものと理解すべきなのであろう。そして、こういう、予想もしない異質の世界へと転換させることが、「番匠たるものの器量のいたす」(『いつを昔』跋)ところであり、そういう作為を施すのが、業俳として、プロの俳諧師としての務めなのだということなのかも知れない。この十一番の兄弟句は、杉風の作風と其角の作風を知る上で恰好のものといえるであろう。

(謎解き・六十三)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十二番
   兄 杜国
 馬ハぬれ牛は夕日の北しく(ぐ)れ
   弟 (其角)
 柴ハぬれて牛はさなか(が)ら時雨かな

杜国については、次のアドレスで、以下のように紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/tokoku.htm

坪井杜国(つぼい とこく)(~元禄3年(1690)2月20日)
本名坪井庄兵衛。名古屋の蕉門の有力者。芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは疑わしいが師弟間に男色説がある)。杜国は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であったが、倉に実物がないのにいかにも有るように見せかけて米を売買する空米売買の詐欺罪(延べ取引きといった)に問われ、貞亨2年8月19日領国追放の身となって畠村(現福江町)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美(<ほび>渥美半島南端の渥美町)に隠棲した。もっとも監視もない流刑の身のこと、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉とともに『笈の小文』の旅を続けたりもしていた。一説によると、杜国は死罪になったが、この前に「蓬莱や御国のかざり桧木山」という尾張藩を讃仰する句を作ったことを、第二代尾張藩主徳川光友が記憶していて、罪一等減じて領国追放になったという。元禄3年2月20日、34歳の若さで死去。愛知県渥美郡渥美町福江の隣江山潮音寺(住職宮本利寛師)に墓があるという。
(杜国の代表作)
つゝみかねて月とり落す霽かな (『冬の日』)
曙の人顔(がお)牡丹霞にひらきけり (『春の日』)
足跡に櫻を曲る庵二つ (『春の日』)
馬はぬれ牛ハ夕日の村しぐれ (『春の日』)
この比の氷ふみわる名残かな (『春の日』)
麥畑の人見るはるの塘かな (『あら野』)
霜の朝せんだんの實のこぼれけり (『あら野』)
八重がすみ奥迄見たる竜田哉 (『あら野』)
芳野出て布子賣おし更衣 (『あら野』)
散(る)花にたぶさ恥けり奥の院 (『あら野』)
こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉 (『あら野』)
木履(ぼくり)はく僧も有けり雨の花 (『あら野』)
似合しきけしの一重や須广の里(『猿蓑』)

この「杜国の代表作」から、掲出の句は『春の日』所収の杜国の一句ということになる。芭蕉七部集の『冬の日』・『春の日』・『あら野』は、尾張(名古屋)蕉門のトップリーダーを担った山本荷兮の編纂とされている。そして、杜国は、この荷兮らのもとにあっての、尾張蕉門の有力俳人の一人であったということになろう。杉風は芭蕉が最も信頼を置いていた後援者のような遊俳の一人とするならば、杜国は芭蕉が最も親近感を抱いた愛弟子のような遊俳の一人ということになるであろう。また、杉風が不作為の無技巧派の俳風とするならば、杜国は作為の技巧派の作風ということになろう。そして、其角の作風は、この杜国、そして、その親玉格の荷兮の、作為の技巧派の作風に極めて近いということができよう。この掲出の、いわば作風的に同じグループとも思える杜国の句(兄)と其角の句(弟)とは、「馬」を「柴」に変え、上五を「柴ハぬれて」と字余りの「て」留めにして、中七を「牛はさなか(が)ら」とその焦点化と比喩的な措辞を配して、其角らしい彩りを施してはいるが、十一番の杉風に施した彩りほどは、この其角の彩りは鮮やかではない。これでは、この二句は、「兄弟句」というよりも、「類想句」と解する方が多いのではなかろうか。これらのことを念頭に置きながら、次の其角の判詞を見るのも一興である。

※此(この)二句はからびを云とりし迄にて類想多く聞(きこえ)侍れども、馬とく進み牛緩(ゆる)ク歩(あゆみ)て、斜陽のこれと見し風景としつ(づ)くおもく成(なり)て、牛はさなか(が)ら時雨をしらせたるあゆみとそ(ぞ)けしきつき侍る也。句の面にて兄弟たしか成(なる)へ(べ)し。


(謎解き・六十四)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十三番
   兄 神叔
 うつ(づ)火に土器(かはらけ)ふせし匂かな
   弟 (其角)
 埋火やかはらけかけていちりやき

「神叔」についての活字情報はほとんど目にすることができないが、『田中・前掲書』では、「俳系略図」で「神叔(嵐雪系) 江戸住」とあり、「『萩の露』によれば、(略)集まったのは、仙化・嵐雪・神叔(しんしゅく)・(略)」と、神叔(しんしゅく)の読みらしい。また、同著では、『炭俵』の入集者の一人として、「神叔は其角・嵐雪二派に属していたと考える」、「『末若葉』下巻の発句の部に、嵐雪をはじめ、嵐雪の門人で其角とも親交があった神叔・氷花・序令などの句が見えないのは、本書が其角一門の撰集として編まれたからであろう」との記述が見られる。

ネット関連では、次のアドレスの、俳書『東遠農久(とおのく)』(百里編)で「神叔 跋」
とのものを目にすることができる。

http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2002/042.html

ちなみに、このネット関連は、「東京大学総合図書館の俳書」の「大野洒竹文庫」関連のもので、下記のアドレスで、其角編『いつを昔』の図録を見ることができる。(其角編。刊本、半紙本1冊。去来序。湖春跋。後補題簽、中央双辺「いつを昔 誹番匠/其角」)。

http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2002/031.html

この其角の『兄弟句』の三十八番に出てくる「轍士」が匿名で論評した『花見車』(元禄十五年)には、「こうし」(格子)の部で、「晋さま(其角)や雪さま(嵐雪)のやり手なりしが、よろづきやうな御人(おひと)にて、いまはこうし(格子)にならんした。さりながらぶたごな(無単袴な=不恰好で不作法なこと)ほどに、立身はあるまいと」との記述が見られる。「格子」は、遊女の階級の一つで、江戸吉原で太夫につぎ、局女郎より上の位の女郎である。この『花見車』には、京・大坂・江戸の三都および諸国の点者二一五名が「太夫」「天神」などと遊女の位に見立てて、その評判記が記述されており、神叔は江戸の其角・嵐雪(太夫で記述されている)につぐ業俳(職業俳人)の一人のようである。この『兄弟句』には嵐雪は登場しないので、嵐雪の代理のようなことで、其角はここに登場させたのかも知れない。

さて、この神叔の「うつ(づ)火に土器(かはらけ)ふせし匂かな」の句に、其角は、「炉辺の閑を添(へ)て侘年の友をもてなしたり冬こ(ご)もりのありさま」ととらえ、「言外弟て(で)いへるいちり焼いりものしてと書けん古人の興を今の俗言にとりなして」、「柴火三盃たのしみうらやむ所に品かはれり」と、すなわち、「埋火やかはらけかけていちりやき」と変転させるのである。そして、これは、「冬夜即時の反転なり」と嘯くのである。この「いちりやき」は、「弄り焼き(いじりやき)」(餅などをせわしく幾度も裏がえし焼くこと。ここは酒の肴を弄り焼きしているか)と解して、この変転の仕方は、いわゆる「匂付け」(前句の言外の余情を感じとっての付け)の趣である。例えば、「前句に接する→その言外の余情を感じとり→新しい転じの句を創案する」、こういう「匂付け」的な、発句の創案というのは、その程度の差はあれ、誰しも経験するところのものではなかろうか。そして、こういう「匂付け」的なものは、本句(付句的には前句)と別次元の世界へ転じており、これは「等類」の世界のものではなかろう。この十三番の、両句(兄・弟)に接して、これは「等類」ではなく、其角のいう、まぎれもなく、「等類を逃るる」ところの「兄弟句」という思いを深くする。

(謎解き・六十五)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十四番
   兄 古梵
 この村のあはう隙(ひま)なき鳴子哉
   弟 (其角)
 あはうとは鹿もみるらんなるこ曳(ひき)

古梵(こぼん)については、下記のアドレスに、次のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kobon.htm

(古梵・生没年不詳)
尾張の僧。『あら野』などに入句。
(古梵の代表作)
たれ人の手がらもからじ花の春 (『あら野』)
笠を着てみなみな蓮に暮にけり (『あら野』)

この古梵は「尾張の僧」という。何か、芭蕉七部集の『冬の日』・『春の日』・『あら野』を編んだ、山本荷兮が思い起こされてくる。もし、十三番の神叔が、雪門の嵐雪の代理での登場ということになると、この古梵は、尾張(名古屋)蕉門のトップリーダーの荷兮の代理登場という趣でなくもない。この荷兮について、先の「轍士」が匿名で論評した『花見車』では、次のように記述されている。

※尾張 荷兮  身のねがひありてみやこにのぼり、太夫の位にならんとしたけれど、今はあとへもさきへもゆかず、松尾屋のむかしこそなつかしけれ。(この「身のねがひありてみやこにのぼり」は、「元禄十二年青葛葉を刊行した後、連歌師昌達として、連歌に精進し、やがて里村家を頼って上京し、法橋となった」をことを指すとの註がある。また、「松尾屋のむかしこそなつかしけれ」は、「芭蕉に師事していたことがなつかしい」との註がある。これらから、この荷兮は、「本来ならば、太夫なれた俳人であるが、芭蕉門を離脱して、今では、連歌師となって、さぞかし、芭蕉門の居た頃を懐かしんでいることだろう」のような意味であろう。)


 其角は、この作為派の荷兮を高く評価していた。先に触れた『いつを昔』では、荷兮の代表作の「凩に二日の月の吹ちるか」の句を、巻頭の露沾の「春も来ぬ南の誉レ星の道」に続いての二番手に持ってきている。そして、その荷兮の次に、芭蕉の「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」と続くのである。この『いつを昔』が刊行されたのは、芭蕉在世中の、元禄三年(一六九〇)で、その頃から、芭蕉と荷兮との関係はこじれていたのであろう。そして、『句兄弟』が刊行されたのは、芭蕉が没した元禄七年で、それが日の目を見たのは、芭蕉が没した後であった。もう、この頃は、荷兮は芭蕉と袂を分かっていたのであろう。芭蕉没後の元禄十二年に刊行した、荷兮の『青葛葉』は、芭蕉に離反して古風に帰った『ひるねの種』『はしもり』に次ぐ最後の撰集とのことである(『俳文学大辞典』)。
これらのこともあって、「芭蕉十哲」の一人として、この荷兮を入れているのは見かけないが、やはり、蕉門の全体の流れから見ていって、その頂点に位置する『猿蓑』を築き上げる原動力となったのが、荷兮ということで、たとえ、轍士の『花見車』の記事のとおり、「松尾屋のむかしこそなつかしけれ」という状態にあったとしても、この荷兮は、忘れてはならない存在であろう(そして、其角も、『いつを昔』などでの荷兮への傾倒ぶりなどを見ると、そんな思いをしていたようにも思えるのである)。

さて、この掲出の句(兄・弟)の「あわう」とは「粟生(あわふ)」(粟のは生えている畑。粟畑)と解する。そして、この古梵の「この村のあはう隙(ひま)なき鳴子哉」の句は、何と、荷兮の「凩に二日の月の吹(き)ちるか」の句に似通っていることか。「隙(ひま)なき鳴子哉」の、この大げさな見立てが、荷兮の「二日の月の吹(き)ちるか」の、この大げさな見立てに通じているのである。こういう大げさな見立ては、其角も得意とするところであった。「切られたる夢はまことか蚤のあと」(『花摘』)と、ここまで来ると、芭蕉が、この句を評して、「しかり、彼(其角)は定家の卿なり、さしてもなきことをことごとしく言ひつらねはべるときこえし評に似たり」(『去来抄』)と、「何でもないことに奇想を構へて、人を驚かさうといふ考へが、実にありありと看取される」(潁原退蔵『俳句評釈』)ということになる。こういう作風を、芭蕉は『猿蓑』以降において、排斥していくこととなる。そして、それらを排斥していくとともに、「軽み」(気取りや渋滞のない、平淡でさらりとした作風)へと重心を移していく。こういう芭蕉の姿勢に反旗を翻したのが、荷兮その人である(其角も内心では荷兮と同じであったろうが、其角は荷兮と違って、そのスタートの時点から芭蕉と共にしており、「師は師、吾は吾」と相互に許容仕合える環境下にあった。極端にいえば、其角は芭蕉に対して「面従腹背」であったが、荷兮はそれが出来なかったということであろう。それは、荷兮が武家出身という其角との環境の違いに大きく起因していることなのかも知れない。ともあれ、荷兮は公然と芭蕉と袂を分かったということで、轍士の『花見車』に出てくるように、蕉門の荷兮ではなく、尾張の荷兮ということで、他の蕉門の面々とは一線を画されることとなる。こういう荷兮を其角がどう見ていたかは、大きな関心事の一つである)。この其角好みの作為の一句を換骨奪胎するのに、其角は、芭蕉の指摘した定家の卿よろしく、和歌の雅の象徴のような「鹿」を配して、
「あはうとは鹿もみるらんなるこ曳(ひき)」と俳諧的というよりも連歌的な一句に仕上げたのは、やはり、「誹番匠」其角の腕の冴えであろう。また、この判詞に見られる「農ヲ憐レム至誠」というのは、当時の「士農工商」という身分制度に批判的であった其角の底流に流れていたということを付記して置く必要があろう。

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