金曜日, 3月 23, 2007

其角とその周辺・三(二十一~三十二)


画像:其角

(謎解き・二十一)

○ 鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分 (其角『五元集』)
○ 夕顔にあはれをかけよ売名号 (其角『五元集』)
○ 此(この)碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉 (其角『五元集』)

四十 この掲出の三句は、『五元集』では、一句目が「春」、二句・三句目が「夏」と分かれて掲載されているが、その『五元集』のもとになっている『焦尾琴』の「早船の記」では、次のように掲載されているうちの三句である。

http://kikaku.boo.jp/haibun.html

   其引 所の産を寄て
※行水や何にとゝまる海苔の味   其角
朝皃の下紐ひちて蜆とり      午寂
雨雲や簀に干海苔の片明り     文士
幕洗ふ川辺の比や郭公       序令
椎の木に衣たゝむや村時雨     同
浮島の親仁組也余情川       景□(けいれん)
すまふ取ゆかしき顔や松浦潟    同
建坪の願ひにみせつ小萩はら    白獅
※幸清か霧のまかきや昔松     其角
※鯉に義は山吹の瀬やしらぬ分   同
さなきたに鯉も浮出て十三夜    秋航
雷の撥のうはさや花八手      百里
夕月や女中に薄き川屋敷      同
村雨や川をへたてゝつく丶丶し   甫盛
後からくらう成けり土筆      堤亭
揚麩には祐天もなし昏の鴫     朝叟
※夕顔に哀(あはれ)をかけよ売名号 其角
 河上に音楽あり
笙の肱是も帆に張夏木立       午寂
お手かけの菫屋敷は栄螺哉      同
 こまかたに舟をよせて
※此碑ては江を哀(カナシ)まぬ蛍哉 其角
若手共もぬけの舟や更る月      楓子

さて、この掲出の一句目の、「鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分」は、「綾瀬の御留川(漁獲禁止の川)の名物の山吹鯉を獲るのに、見張りの役人に少々山吹色の小判を与えれば、見て見ぬふりをしてくれる」という世相風刺(当時の幕政の腐敗の風刺)の句のようなのである(今泉・前掲書)。二句目の「夕顔に哀(あはれ)をかけよ売名号」は、『五元集』では、「裕天和尚に申す」との前書きがあり、この裕天和尚は、当時の五代将軍綱吉の母桂昌院の尊信を受け、隅田川東岸の牛島を去って、一躍高位の僧となられた方で、その「裕天和尚に申す」という形での、「売名号」(仏あるいは菩薩の名号を書いた札で、書き手によって御利益がある)の御利益のように、民衆に「哀れをかけよ」としての、これまた、当時の幕政への不満に基づく風刺の句のようなのである。この「夕顔」は、『源氏物語』の「夕顔」の「山がつが垣穂荒るともをりをりはあはれをかけよ撫子のつゆ」を踏まえているとのことである(今泉・前掲書)。そして、三句目の「此碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉」は、「この殺生禁断の碑のお蔭で何となく不景気で、川の流れを眺めながら哀れに感じないのは蛍だけ」という意の、当時の五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」への嘆きの句であるという(半藤・前掲書)。其角の謎句には、このような当時の幕政への痛烈な風刺の句があり、その意味では、其角は、終始一貫して、反権力・反権威の反骨の俳人という姿勢を貫いている。こういう句の背後にあるものを、当時の人でも察知できる者と、察知できない者と、完全に二分されていたのであろう。そして、その背後にあるものを察知できない者は、其角の句を「奇想・奇抜・意味不明」の世界のものとして排斥していったということは、容易に想像のできるところのものである。

○ 香薷(じゆ)散犬がねぶつて雲の峰 (其角『五元集』)
○ まとふどな犬ふみつけて猫の恋 (芭蕉『菊の道』)

四十一 掲出の一句目の其角の句は、「雲の峰が立つ真夏の余りの暑さに、犬までが暑気払いの『香薷(じゆ)散』を舐(なぶ)っている」という意であろう。この句の背後には、『事文類聚』(「列仙全伝」)の故事(准南王が仙とし去った後、仙薬が鼎中に残っていたのを鶏と犬とが舐めて昇天し、雲中に鳴いたとある)を踏まえているという。さらに、この句の真意は、「将軍綱吉の生類憐れみの令による犬保護の世相を背景とし、犬の増長ぶりを諷している」という(今泉・前掲書)。と解すると、これまた、其角の時の幕政への痛烈な風刺の句ということになる。それに比して、其角の師匠の芭蕉の二句目の犬の句は、「恋に切なく身を焦がす猫が、おっとり寝そべっている犬を踏みつけてうろつきまわっている」と、主題は「猫の恋」で実にのんびりとした穏やかな光景である。この「まとふど」は、「全人(またいびと)」の「純朴で正直な人」から転じての「とんま・偶直な」という意とのことである(井本農一他注解『松尾芭蕉集』)。いずれにしろ、ここには、其角のような、時の幕政への痛烈な風刺の句というニュアンスは感知されない。芭蕉もまた、反権力・反権威ということにおいては、人後に落ちない「隠棲の大宗匠」という雰囲気だが、どちらかというと、「おくのほそ道」に関わる「芭蕉隠密説」も流布されるように、「親幕府」という趣だが、こと、その蕉門第一の高弟・其角は、「反幕府」という趣なのが、何とも好対照なのである。ちなみに、芭蕉もまた、其角と同様に、綱吉の「生類憐れみの令」の御時世の元禄の俳人であったことは、付言する必要もなかろう。

(謎解き・二十二)

○ 御秘蔵に墨をすらせて梅見哉 (其角『五元集』)

四十二 『五元集』の冒頭の句である。「四十の賀し給へる家にて」の前書きがある。この四十歳の祝宴の家は、松平隠岐守の重臣・久松粛山の邸宅といわれている。「御秘蔵」は殿様御寵愛の御小姓であろうか。その御小姓に墨をすらせて悠然と梅見をしている光景である。こういう句から、しばしば、其角は、幇間俳人などとの風評の中にある。しかし、実態は、一俳諧師の其角が大名クラスの貴人と対等に渡り合って、むしろ、その御寵愛の御小姓を顎で使っているような、反骨・其角の真骨頂の句と解すべきなのであろう。

○ 炉開や汝をよぶは金の事  (其角『五元集』)

四十三 「三年成就の囲(かこい)に入(いる)」との前書きがある。「この句は、かなり人口に膾炙しているが、前書のあることに気づかず、其角が炉開きをするとて門人を呼び集め、実はお前を呼んだのは金の相談だ、というようなことを露骨に言い放った如くに思われている」(今泉・前掲書)。しかし、実態は、これまた、この古注にある、「諸侯方の金をかりに町人をよびし也。さればこそ汝とすゑたり」のとおり、世相風刺(当時の武家階級の露骨な町人階級への無理強いなどの風刺)の句なのであろう(今泉・前掲書)。前書きの「囲」は茶室の数寄屋と同意で、三年も日数を費やしての、贅を尽くしての「貴賓を招待」するために茶室を新築し、炉開きに招くのを口実として、実はその新築費用を町人(富豪)に出費させるという、そういうことを背景とした句なのである。さらに、これは、当時の五代将軍綱吉を迎えるための前田綱紀候などの例などが背景にあり、その茶室に其角も招かれて、この句の背景にあるようなことを実際に見聞して、「これはやりきれない」という其角の反骨の裏返しの句と理解すべきなのであろう(今泉・前掲書)。それが、よりによって、一般には、其角本人が無理強いをしたような風評が立つことは、其角にとっては、やり切れないことであったろう。

○ 起きて聞けこのほととぎす市兵衛記 (其角『五元集』)

四十四 この句には、「禄を給はりたる事世に聞え侍るを」との前書きがある。この「市兵衛記」については、次のアドレスで、その詳細を知ることができる。

http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/tenji/hitobito/ichibee/ichibee.htm

この「市兵衛記」では、市原市の姉崎妙経寺にある、この「其角句碑」を見ることができる。次のアドレスものは、市兵衛の子孫、斎藤家十三代目 斎藤孝三氏の書かれたものである。

http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/siryou/itibeeki/itibeeki.htm

この掲出句の意は、「惰眠をむさぼることなく、ちゃんと、起きて、この市兵衛記に出てくる、忠僕・市兵衛の哀切極まりのない、ほととぎすのような鳴き声を聞きなさい。市兵衛は、その忠僕が故に、禄を給わったと評判だが、その禄を給わったくらいで、一見落着というようなものではない」というようなことであろうか。「何が市兵衛というこの悪意のない人間をこのような非惨に追いやったか、世の人よ、とくにその直接の責任者たる為政者よ、『起きてきけ』『このほととぎす』を、と其角が訴えている句意がおのずから出てこよう」(今泉準一著『元禄俳人宝井其角』)。この句もまた、其角の時の為政者に対する痛烈な「風刺」の句とういよりも、「怒りのメッセージ」ともいえるものであろう。これらの三句に、五代将軍綱吉の幕政、さらには、当時の「公卿・大夫(大名)・士・庶人・土民百姓・工・商」の階級制度への、其角の、冷徹な批判の眼を見ることができる。

(謎解き・二十三)

○ たらちねに借銭乞ひはなかりけり (其角『類柑子』)
○ 子のだだにたらちねの恩を知り (柳樽八九)

四十五 『類柑子』は、宝永四年(一七〇七)に刊行された、沾洲・秋色・青流(空)編による、其角の遺稿集である。その「松の塵」に、次の其角の遺文が収められている。
「文月十三日、上行寺の盆にまふでてかへるさに、いさらごの坂をくだり、泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとおもふより、子葉、春帆、竹平等の俤、まのあたり来りむかへるやうに覚えて、そぞろに心頭にかかれば、花水とりてとおもへど、墓所参詣をゆるさず、草の丈ケおほひかくしてかずかずならびたるも、それとだに見えねば、心にこめたる事を手向草になして、亡霊聖霊、ゆゆしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。」
ここまでは、先に紹介したところであるが(第一八・三十三)、この後、其角は次のように続ける。
「およそ人間のあだなることを観ずれば、我々の腹の中に屎(し)と慾との外の物なし。『五輪五体は人の体、何のへだてのあるべきや』とか、かの傀儡(かいらい)に唄ひけん。公卿・大夫・士・庶人・土民百姓・工・商、乃至(ないし)三界万霊等この屎慾(しよく)を覆はんとて、冠を正し、太刀はき、裃を着て、馬に召す。法衣・法服の其品(そのしな)まちまちなりといへども、生前の蝸名蠅利(かみようようり)なり」とし、その次に、掲出の其角の句が記されているのである。
この掲出句の「たらちね」は「母」とか「親」の意である。「借銭乞ひ」は「借金取り」で、この其角の句には、いわゆる季語はない。句意は、「親は子の借金を取ろうとはしない。それが親の情愛というものだ」くらいのものであろう。これは、今日の「川柳」と解して差し支えなかろう。二句目の『柳樽』の「たらちね」の句(子がだだをこねて、始めて親の恩というのを知る)の句(川柳)の元祖のような「穿ち」の一句と解して差し支えなかろう。
ここで、其角の遺文というのを見てみると、上段(第一八・三十三)は、赤穂浪士(子葉、春帆、竹平等)を悼んだもので、当時の泉岳寺での其角の感想文である。この遺文の末尾の方の「修羅道」(六道の一。阿修羅の住む、争いや怒りの絶えない世界。また、そういう生存のあり方。阿修羅道。修羅界) というところに、其角は決して赤穂浪士を無条件に賛美しているのではなく、そのような「争いや怒り」に巻き込まれてしまった彼等への「情愛」というものが基礎になっており、これが末尾の句と結びついてくるのであろう。さて、その後段であるが、「我々の腹の中に屎(し)と慾との外の物なし」とは、医術を志した其角らしく、「人間の正体というのは屎(くそ)と慾(よく)だけだ」と、実に冷徹なラジカルな視点である。そして、その視点は、「公卿・大夫・士・庶人・土民百姓・工・商」という、当時の身分制度への批判を内包し、それらは、人間の「屎慾(しよく)を覆はん」としてのものと断じているのである。続けて、「冠を正し、太刀はき、裃を着て、馬に召す。法衣・法服の其品(そのしな)まちまちなりといへども、生前の蝸名蠅利(かみようようり)なり」と、当時の高位・高官・寺僧への批判と結びつき、どんなに、彼等が、権威を持って、盛装で外面を繕っても、人間の「情愛」というもの抜きにしては、所詮、それらは、蝸名蠅利(蝸牛や蠅程度の小さな名利)でしかないと、ここでもまた、掲出の句の無私・無限の「情愛」というものと結びついてくる。これらの根底にあるのは、先の「起きて聞けこのほととぎす市兵衛記」、さらには、赤穂浪士への、「うぐひすに此(この)芥子酢はなみだ哉」と結びつき、其角の、当時の為政者に対する痛切な痛憤とも言えるものなのであろう。そして、この其角の痛憤は、一歩間違えば、其角の絵画の師匠ともいわれている英一蝶が「島流し」に断罪されたように、時の為政者によって、処断の対象になったであろうことは想像に難くない。

(謎解き・二十四)

○ なきあとも猶塩梅の芽独活哉  (沾徳『橋南』) 
○ うぐひすに此芥子酢はなみだ哉 (其角『橋南』)

四十六 さて、ここでまた、其角の赤穂浪士の追悼句の「うぐひすに此(この)芥子酢はなみだ哉」の句に戻りたい。上記の掲出二句について、沾徳撰『橋南』に収録されているということは、蘭氏の次のメッセージにおいてであった。

「私が見ている復本一郎(俳号 鬼ヶ城)『俳句忠臣蔵』では、沾徳撰『橋南』(はしみなみ)という版本の完本を氏が昭和五十四年に発見したとあります。『橋南』が発刊(自主規制の禁書か)されたのは宝永二年(一七〇五)と考えられ、追悼会は元禄十六年の一回忌としています。沾徳、沾洲らと義士春帆、子葉らとの六吟歌仙『小屋の戯』を載せ、そのあとに、俳人達の義士俳人追悼の句が三十三句並んでいます。最初の六句は、

   君臣塩梅しれる人は誰。子葉、春帆、竹平、涓泉等也。
 なきあとも猶塩梅の芽独活哉  沾徳
 うぐひすに此芥子酢はなみだ哉 其角
 枝葉迄なごりの霜のひかり哉  沾洲
 ちるはなは皆男にてなみだかな (宣雨)
 落着に人を泣かせてたまつばき 暁松
 その骨の名は空にある雲雀哉  貞佐
 (中略)  右於合歓堂写之 」

 この復本一郎著『俳句忠臣蔵』を参考にしての、掲出二句の句意などは以下のとおりとなろう。

この沾徳の「なきあとも猶(なほ)塩梅(あんばい)の芽独活哉」については、まず、その「塩梅」は、前書きの「塩梅」と共に、義士に関連する「赤穂塩」がイメージ化され、その「塩加減が丁度良い」というような意であろう。「独活」は春の季語で、「芽独活」は、「冬から初春にかけて、根の尖った処に紫の苗が出る。これを俗に免宇土(めうど)という」(『本朝食鑑』)。句意は「芽独活を、上手に調理された調味汁(たれ)で食そう、義士俳人達の義挙を偲びびつつ、というのであろう」(復本・前掲書)。続けて、復本氏は、次の其角の掲出の句について、「沾徳は『なきあとも猶塩梅の芽独活哉』と詠んだが、鶯を聞きながら、子葉が『江戸のからしは四季の汗』と詠んで、初夏の鰹を食べた、その『からし』を用いて『芥子酢』を作り、沾徳と一緒に春の『芽独活』につけて食べよう、それにしても、辛すぎて、汗ならぬ涙が出てきてしょうがない」(復本・前掲書)と鑑賞している。しかし、其角のこの句については、「沾徳は『なきあとも猶塩梅の芽独活哉』と詠んだが、そんな生易しいことではない。今回の義士への切腹の幕府の処断はこの芥子酢のように辛くて、今鳴いている鶯のように、子葉らの義士達は鳴きながら涙を滂沱していることであろう」と、この「芥子酢」に幕府の今回の措置の比喩のように理解しての鑑賞も可能であろう。なお、末尾の「合歓堂」は、沾徳の庵号で、この三十三句の追悼句のうち、作者名のない句が二句あり、それについては、「忽卒の間にまとめられたためであろう。二つの中の一句(『ちるはなの』・注、上記の括弧書きの句)の方は、其角遺稿『類柑子』(宝永四年刊)によって宣雨の句であることがわかる」(復本・前掲書)としているが、うがった見方をするならば、この作者名のない二句については、幕府への抗議のように取られるのを危惧して、名は記さなかったとの推量も可能であろう。

○ 故赤穂之城主浅野長矩之旧臣大石内蔵之助等四十七人報讐之後、官裁下令伏刃之悼。
うぐひすに此芥子酢はなみだ哉    
  万世のさえづり黄舌をひるがえして、肺肝をつらぬく。気味、よく泪をすゝりあげたり。
  二月十日            晋其角
             

四十七 昭和五年(一九三〇)に刊行された、伊藤松宇編の『蕉影余韻』に、掲出の「二月十日」付けの其角の懐紙が掲載されているという(復本・前掲書)。赤穂浪士の討ち入りがあったのは、元禄十五年十二月十四日、切腹の「官裁」が下ったのが、翌元禄十六年二月四日で、この懐紙の日付の「二月十日」は、元禄十六年二月十日、すなわち、義士の切腹からわずか七日目のものと解せられる。この前書きと添書きは、其角の没後に刊行された遺稿句集『五元集』(旨原編・延享四年刊)所収のものとほぼ同じであるが、細部は異なっている(『五元集』のものについては、第十四・二十七を参照)。この前書きの「漢文」体のものは、其角のものではなく、時の大学頭の林信篤の事件の概要を述べた部分とのことで(今泉・前掲書)、其角はその林信篤の漢文体のものを、そのまま借用し、次に、其角の追悼句、そして、その追悼句の添書きのようなスタイルで、次に、其角の和文が記されているという体裁になっている。そして、この其角の和文と其角の句関連で、先に、蘭氏より次のようなメッセージが寄せられていたのである。

○ネットの其角三百回文学忌というページでは、句の字面の意味を「鶯に摺餌を与えるところを間違えて芥子酢を食わせたような酷さだ」とし、詞書の引用元と後注の解釈が載っています。

【『文選』(もんぜん)の「三良詩」に「黄鳥タメニ悲鳴ス、哀シイ哉、肺肝ヲ傷ル」を踏み、後註を読めば、赤穂事件により切腹させられた富森春帆、大高子葉、神崎竹平の三人を「三良」に擬しているのが分かるだろう。】

http://kikaku.boo.jp/hokku.html

上の句の字面の意味解釈に私はちょっと違和感(摺餌と芥子酢の間違えが無理がある)があり、以下のように解釈しました。

初春に出回る小松菜や水菜などの若いものはうぐいす菜とよばれる。ゆがいた小松菜にささみを入れてごま油を少々、三杯酢やゴマダレで食べるとうまいとか。今うちにもうぐいす菜があったので、芥子酢で食べてみました。たしかに芥子がきつく涙目になりました。
それで私の解釈は、「この早春に厳しい裁断が下り死んでいった赤穂浪士を思いながら、うぐいす菜を芥子酢で食べていたら涙が出てきたよ」。

ウグイス(江戸川柳鳥の吹き寄せでの分類)
http://homepage2.nifty.com/t-michikusa/senryu_1.htm

(謎解き・二十五)

○ 初鰹江戸のからしは四季の汁 (子葉『二つ竹』)
○ なきあとも猶塩梅の芽独活哉  (沾徳『橋南』) 
○ うぐひすに此芥子酢はなみだ哉 (其角『橋南』)

四十八 掲出の一句目は、義士俳人の大高源五こと子葉が編纂した『二つ竹』(元禄十五年刊。討ち入りの七カ月前)所収の子葉の句である。この句には、「卯月の筍(たかんな)、葉月の松茸、豆腐は四季の雪なりと、都心の物自慢に、了我(注・江戸の俳人貞佐)さへ精進物の立(たち)かたになれば、東潮(注・江戸の俳人)、仙水(注・江戸の俳人)等とうなづきて」との前書きがある。この前書き・句意については、「京都には、陰暦四月の筍、陰暦八月には松茸、そして、豆腐は一年中あって、それを自慢にしているが、江戸生れの俳人・貞佐も、京都の精進物贔屓になられて、そこで、江戸の俳人、東潮・仙水の賛意を得て、江戸は何といっても『鰹』ということでの一句です。この初鰹を、京都の四季を代表する豆腐と同じくらいに味わいのある、江戸の四季を代表する芥子を汁に、食べる・・・、これこそ、江戸第一の味自慢だろう」というようなことであろうか。そして、掲出の二句目と三句目は、その義士俳人子葉等の一回忌追善集『橋南』(宝永二年刊)に掲載されているもので、これらについては先に触れた(第二十四・四十六)。ここでは、これらの二句(掲出二句目・三句目)は、一句目の子葉の「初鰹江戸のからしは四季の汁」を念頭においてのものであろうということを特に付記しておきたい。

四十九 そして、この掲出の其角の三句目、「うぐひすに此芥子酢はなみだ哉」は、上記の一回忌追善の前に、その初七日の日付(元禄十六年二月十日)の懐紙に既に記録されており、さらに、其角亡き後の遺稿句集『五元集』(延享四年刊)にも収録されていることについても触れた(第二十四・四十七)。そして、初七日の日付の懐紙のものと『五元集』のものとには、前書きが付与されており、その中で、最も詳細なものは、『五元集』のものであり、その前書きをここで再掲しておきたい。
「故赤穂城主浅野少府ノ監長矩之旧臣大石内蔵之助等四十六人、同志異体ニシテ報(ムクユ)亡君之讐(カタキ)。今茲(ココニ)二月四日、官裁下リ令一時伏刃(ヤイパニフシテ)斉屍(カバネヲヒトシクセシム) 万世のさえづり黄舌をひるがへし、肺肝をつらぬく」(注・この漢文の詠みは『古典文学大系本』によっている)。
この前書きの漢文のものは、時の大学頭の林信篤の記述文のままで、この林信篤や室鳩巣は、赤穂浪士の行動を義挙として助命を主張し、荻生徂徠は天下の法を曲げる事はできずとして、武士の体面を重んじた上での切腹を主張するなど、識者の間でも、その処断の対応は大きく二分したのであった。そういう中にあって、其角は、林信篤の「義挙による助命」とも、荻生徂徠の「武士の体面を重んじた上での切腹」とも、そういう形式的にこれらの行動を見ることなく、その漢文に続く和文の基礎になっている、『文選』(もんぜん)の「三良詩」の「黄鳥タメニ悲鳴ス、哀シイ哉、肺肝ヲ傷ル」という、「殉死という無理に強いられた三人の善良な臣のむごさ、とその死を素朴に悲しんでいる詩」(今泉・前掲書)の、その詩人の眼をもって、この一句を俳人仲間の子葉等に献じていることは特に付記しておく必要があろう。また、そういう観点からの句意の理解の仕方もあるであろう。その句意の理解の一つとして、「鶯が鳴いている。その鶯の化身のような仲間が大きな政争に巻き込まれ、まるで、鶯の目に辛子酢を与えられるような酷さで、その生を絶ってしまった。彼等の目にも、そして、彼等を取り巻く我等の目にも、涙は滂沱として止まることは知らない」との解も付記しておきたい。

(謎解き・二十六)

○ 梅が香や隣は荻生惣右衛門 (其角)

四十九 この掲出句の、「荻生惣右衛門」とは、時の将軍・徳川綱吉の御用人の柳沢吉保のブレーンでもあった「荻生徂徠」その人である。この句は、其角の自選句集ともいうべき『五元集』には収載されていない。夏目漱石に「徂徠其角並んで住めり梅の花」という句があり、それに由来があるという句で紹介され、「実際、其角は日本橋茅場町で荻生惣右衛門こと荻生徂徠と隣合わせに住んでいたときがある」(半藤・前掲書)ということなのである。
この掲出句の徂徠と其角とは、「落語や浪曲の演目である『徂徠豆腐』は貧窮時代の徂徠と人情家の豆腐屋夫婦の心のふれあいを描いた名作である。現在は立川志の輔の演出が高名」の頃のものであろう。なお、下記のアドレスの「荻生徂徠」の赤穂浪士の処分裁定関連のものは、下記のとおりである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0

○元禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡(注・林信篤)をはじめ室鳩巣・浅見絅斎などが賛美助命論を展開したのに対し、「義は自分を正しく律するための道であり、法は天下を正しく治めるための基準である。礼に基づいて心を調節し、義に基づいて行動を決定する。今、赤穂浪士が主君のために復讐するのは、武士としての恥を知るものである。それは自分を正しく律するやり方であり、それ自体は義に適うものである。だが、それは彼らのみに限られたこと、つまり私の論理にすぎない。そもそも浅野長矩は殿中をも憚らず刃傷に及んで処罰されたのに、これを赤穂浪士は吉良義央を仇として幕府の許可も得ずに騒動を起こしたのは、法として許せぬことである。今、赤穂浪士の罪を明らかにし、武士の礼でもって切腹に処せられれば、彼らも本懐であろうし、実父を討たれたのに手出しすることを止められた上杉家の願いも満たされようし、また、忠義を軽視してはならないという道理も立つ。これこそが公正な政道というものである。」と私義切腹論を主張し、「徂徠擬律書」として上申。結果的に採択されるに至った。禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣・浅見絅斎などが賛美助命論を展開したのに対し、「義は自分を正しく律するための道であり、法は天下を正しく治めるための基準である。礼に基づいて心を調節し、義に基づいて行動を決定する。今、赤穂浪士が主君のために復讐するのは、武士としての恥を知るものである。それは自分を正しく律するやり方であり、それ自体は義に適うものである。だが、それは彼らのみに限られたこと、つまり私の論理にすぎない。そもそも浅野長矩は殿中をも憚らず刃傷に及んで処罰されたのに、これを赤穂浪士は吉良義央を仇として幕府の許可も得ずに騒動を起こしたのは、法として許せぬことである。今、赤穂浪士の罪を明らかにし、武士の礼でもって切腹に処せられれば、彼らも本懐であろうし、実父を討たれたのに手出しすることを止められた上杉家の願いも満たされようし、また、忠義を軽視してはならないという道理も立つ。これこそが公正な政道というものである。」と私義切腹論を主張し、「徂徠擬律書」として上申。結果的に採択されるに至った。

また、林信篤のものは、下記のとおりである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B3%B3%E5%B2%A1

○一六八〇年(延宝八年)林家を継ぎ、四代将軍徳川家綱以後八代吉宗まで五代にわたり将軍の下で幕府の文書関係の行政に参与し、特に五代綱吉・八代吉宗の信任が厚かった。朝鮮通信使の応接にもかかわっている。また「武徳大成記」などの編纂に従事し、林家の官学的傾向をつよめた。一六九一年(元禄四年)それまで上野不忍池湖畔にあった家塾が、湯島に移され湯島聖堂として竣工したにあわせて大学頭に任じられ、以後林家が世襲した。それまで僧形で勤めていた儒官も終わりを告げた。

五十 幕府の学問の責任者である大学頭の林信篤にも、さらには、その官学の主流ではないけれども、時の幕藩体制の一角に参与していた旧知の荻生徂徠にも加担せず、其角はより一人の人間として、林信篤流に「義士」として賞賛する立場ではなく、さりとて、荻生徂徠流に、「武士の礼でもって切腹に処す」などという、「公が私に優先する」立場ではなく、「悲しみを悲しみ」としてありのままに「事の信」を見ようとする詩人の魂と、その「悲しみ」の根底にある幕藩体制や身分制度などの鋭い批判精神が、時として、其角の句の根底に流れていて、さしずめ、旧知の俳人であった、大高子葉等の赤穂浪士の切腹に関連しての、「うぐひすに此芥子酢はなみだ哉」の句と、その一連の「前書き」などは、その其角の人間性と批判精神が顕著に宿しているものとして、その筆頭にあげられるべきものなのであろう。

(謎解き・二十七)

○ 山をぬく力も折れて松の雪 (子葉)

五十一 この掲出の赤穂浪士の大高源吾こと子葉の句は、その俳諧の師匠でもあった水間沾徳の『沾徳随筆』の所収のものである(復本・前掲書)。これに関して、先に、次のアドレスに関連するものとして、次のように記した(第十六・三十一)。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013357&VOL_NUM=00000&KOMA=95&ITYPE=0

※この記事は、明治四十一年に刊行された、元禄山人著『赤穂義士四十七士譚』(「第十六回大高源吾忠雄の事並に其角」)に紹介されているもので、実は、ここに紹介されている、「秋田の人梅津半右衛門」宛てに送った書面(日付・十二月二十日)は、実は、真っ赤な偽書ということなのである(半藤・前掲書)。確かに、この書面に出て来る、「我が雪と思へばかろし笠の上」は、元禄五年刊行の『雑談集』に出てくるもので、さらに、大高源吾の句とされている「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句も其角の句ということである(半藤・前掲書)。次の大高源吾(書面では「子葉」)から沾徳宛ての書面(日付・十二月十五日)、さらには、その書面の次の「かくて其翌年の春交はりふかき人々合歓堂にて追悼ありその時の発句」として、紹介されている、上記の掲出の四句についても、その一同に会しての追悼句会でのものなのかどうか、はなはだ、あやふやの文面のようなのである。

この上記の記載中、「秋田の人梅津半右衛門」宛てに送った書面(日付・十二月二十日)は、偽書として、その次の、沾徳宛ての書面(日付・十二月十五日)は、上記の『沾徳随筆』に収載されているものであって、この書面の信憑性はすこぶる高いとされている(復本・前掲書)。この書面が事実とすると、討ち入りは、元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の寅の上刻(午後四時頃)、引き上げたのは卯の刻(午前六時頃)とされており、その泉岳寺へ引き上げて間もない頃のものということになる。果たして、あれだけの大きな事件の後で、それだけの余裕があったものかどうか、疑問がなくもない。

○ 山をさくちからも折れて松の雪 (子葉)

五十二 その疑問とともに、実は、『沾徳随筆』に出てくる子葉の「山をぬく力も折れて松の雪」は、上記の掲出のような句形のものもあり、こちらは、元禄十五年(一七〇二)十二月七日に、子葉が母親宛に送った書簡中の中に記載されているものなのである(復本・前掲書)。

○ さて、私事、金のたんざくに、名めうじ書(かき)しるしに、かたおもてには、じせい書付申候、
  山をさくちからも折れて松の雪
  右之通りいたし、さげ申候。     『赤穂浪士資料』(中央義士会編・雄山閣)

「金の短冊に、名と氏を記し、その片方に辞世を書き付け申し上げました」と、子葉こと大高源五は、討ち入りの一週間前に、母親宛に辞世の句として上記の句形のものを送っているのである。この句については、中国の故事に見える言葉「力抜山兮気蓋世」(『史記』)に由来があるとされている(復本・前掲書)。この故事に由来があるとするならば、『沾徳随筆』に出てくる、「山をぬく力も折れて松の雪」の方がその典拠に近い句形ということになる。そして、その故事と辞世の句としての句意は、「山を引き抜くほどの力で、一世を蓋(おお)うほどの気合いで、討ち入りを果たし、その初心の操を完遂した後、操木の松の雪折れのような、そんな気持です」とでもなるのであろうか。

○ 子葉末期
梅でのむ茶屋も有(ある)べし死出の山

この「子葉末期」(子葉辞世)の句は、其角の遺稿集『類柑子』に出てくるもので、これが「正真正銘の辞世と言ってよい」(復本・前掲書)と、こちらのものは子葉が切腹前にしたためたものとされている。句意は、「これから死出の山に赴くが、その死出の山にも梅が咲き、その梅を見ながら酒を飲むことができる茶屋もあるだろう」とでも解しておきたい。この正真正銘の辞世の句も「死出の山」の「山」で、『沾徳随筆』に出てくる、「山をぬく力も折れて松の雪」などの「山」と一脈通い合うものがあるような趣ではある。これらの子葉こと大高源五の句を見ていくと、当時の俳壇の頂点に位置した、其角・沾徳が、その「子葉」の名を留めているように、俳人としての力量は相当なものがあり、また、その戒名の「刃無一剣居士」にふさわしいような武士像が浮かび上がってくる。享年三十二歳とか、やはり、今に語り継がれているその理由が見えてくる趣もしてくる。

(謎解き・二十八)

○ うぐひすや朝日綱張(はる)壁の穴     沾徳
   辛夷が覗く渓の奥行          沾洲
  滝の淀春ずれるほど広どりて       香山
   振(ふるい)はじめは傘持が袖      春帆(富森氏)
  湯あがりの耳は城下へ城の月       子葉(大高氏)
   いやがるものを裏で踊らす       涓水(菅野氏)

五十三 沾徳編『橋南』所収の「小屋の戯」との前書きのある歌仙のうちの表の六句である。この『橋南』は、復本一郎氏の所蔵本で、氏は、「当時の出版取締り令を考慮しての自主規制本、すなわち、私家版二部のみを作成して、公刊を控えた一種の禁書であると推定する」としている(復本・前掲書)。復本氏は、早くに、『芭蕉の弟子たち』(復本一郎編・昭和五十七年刊)所収の「宝井其角」で、この『橋南』に触れ、さらに、『笑いと謎』(復本一郎著・昭和五十九年刊)で「新出・赤穂義士の俳書」として、この『橋南』について紹介している。そして、平成三年刊の『俳句忠臣蔵』(復本一郎著)で、「沾徳撰『橋南』禁書夢譚」として、上記のとおり「禁書に近い自主規制本」との判断をしているのである。今回、この『橋南』の三十三句の追悼句のうち、其角の「うぐひすに此芥子酢はなみだ哉」も収載されていることに鑑みて、氏のこの推定の判断は蓋し自然のようにも思われるのである。いや、それ以上に、其角のこの句の鑑賞にあたっては、このような情勢下のものであるということを前提として鑑賞されて然るべきという思いを深くするのである。
五十四 ここで、掲出の「小屋の戯」との前書きのある歌仙のうち、その表の六句について、復本氏のものを参考として一応の句意などを記しておきたい。まず、前書きの「小屋の戯」は、「沾徳自らの日本橋南の家を卑下しての措辞」(復本・前掲書)で、宗匠の沾徳の発句での沾徳一門の歌仙と解して差し支えなかろう。その沾徳の発句は、「鶯の声が聞えてくる。この粗末の小屋の壁の穴から朝日があたかも綱のように差し込んでいる」。そして、この沾徳の発句を受けての脇句は、宗匠代行のような沾洲が、「その庭の一角には造作したところの渓があって、その渓の奥行のところに辛夷が咲いていて、結構な風情です」と応えているのだろう。転じの第三は香山で、作庭の渓から郊外の滝へと転じている。「春が過ぎ去って行こうとして日中にあって、滝の滝壺の広さを測っている」のような意であろうか。ここで、軽く易く付ける第四を、義士俳人の一人の春帆(富森助右衛門)が、「貴人に傘を差し掛けている傘持が、滝の飛沫に濡れるので、袖をまず振っている」という光景であろう。ここで五句目の「二花三月」の最初の「月の定座」を子葉(大高源五)が担当し、子葉が沾徳一門にあって、それなりの実績のある俳人であるということを窺い知ることいができる。「その貴人は宿に帰られて風呂に入られ、その湯上がりの耳には、城下町のざわめきが聞えてきて、折から城の上には月がかかっている」というところであろう。そして、表の六句目(折端)は、萱野三平こと涓水で、前句の「湯上がりの耳」を「踊り女」と「見立て替え」して、「湯上がりの踊り女に踊りを強要する」という光景であろう。沾徳は、かって、一門の主要な仲間であった、これら三人の義士たちと興行した歌仙を、その追悼の意味合いを込めて、義士俳人一回忌追善集として刊行を予定していた『橋南』に収載して、「これもてなして、香花(仏前に供える香と花)のたよりとす」としたのであろう。そして、これらの一連の義士俳人たちへの追善集などを見ていって、これら大高源五を筆頭とする義士俳人たちは、其角よりも沾徳に近い俳人たちであったということは、これまた、窺い知ることができるところのものであろう。

(謎解き・二十九)

一  青のりや浪のうづまく摺小鉢 (暁雲、二十七歳、延宝六年、『江戸新道』)
二  中宿や悪性ものゝ衣がへ (暁雲、二十九歳、延宝八年、『向之岡』)
三  藺殻(いがら)の平太朝比奈粽が一族たり (同上)
四  はなりけり仙人すべる山西瓜 (同上)
五  菜の花や在郷坊主のをみなえし (暁夕寥、二十九歳、延宝八年、『軒端の独活』)
六  唐がらしの女調(シラベ)音高し摺子鉢 (同上)
七  詩酒家々煙草(タバコ)俳を釣ン良夜の月 (同上)
八  暮春の夜ル土圭を縛(シバ)る心哉 (暁夕寥、三十歳、天和元年、『東日記』)
九  しどろ里そば刈男こととはん (同上)

五十五 ここで、其角と親交のあった画人・英一蝶(俳号・暁雲)のことについて触れることとする。掲出の句は、白石悌三遺稿集ともいうべき『江戸俳諧史論考』所収「英一蝶」(年譜は内藤和子氏のものを白石悌三氏が補訂している)の発句四十四句(順に応じて紹介)のうちの九句である。一蝶が何時芭蕉門ニ入ったのかは定かではないが、上記の『東日記』(言水編)に入集された頃なのかもしれない。其角より十歳ほど年長であるが、芭蕉門では其角と相弟子の関係のようである(白石・前掲書)。この一蝶は、元禄六年に、「民部・半兵衛らと共謀、本庄資俊に遊女大蔵を身請させる。八月十五日、町奉行北条安房守の詮議により、入牢。二ヶ月後に釈放される」。元禄十一年に、「再び入牢、十二月二日(或いは十二日)三宅島に流罪となる。民部・半兵衛は三宅島で越年後、八丈島に送られる」とある。この三宅島に流罪となった理由について、先に、蘭氏より紹介のあった次のサイトでは、以下のとおりの記事が見られる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6

○当時幕府は、元禄文化華やかな、つまりは風紀の乱れ、特に武士や大名らの綱紀を粛清しようと試みていた感がある。 元禄6年(1693年)には「大名および旗本が吉原遊郭に出入りし、遊ぶこと」を禁じている。同年中に、"上は大名から町人に至るまで、江戸で大人気の有名人であり、著名文化人であり芸人でもあったスーパースター。ミスター遊び人。"であった一蝶が、見せしめのターゲットにされ逮捕された、と考えるのは推理しすぎであろうか。三宅島流しに至る経緯であるが、彼が作品中で"時の権力者柳沢吉保が出世する過程で、実の娘を将軍綱吉の側室に差し出した"件を風刺したから。町人の分際で釣りを行った(武士は修練目的として黙認されていた)ことが、生類憐みの令違反とされた(同年、追加条例として"釣り道具の販売禁止令"すらも出ている。) 「"馬がもの言う"という歌を広めたから」=放送禁止歌謡。 芸でお座敷を盛り上げて、とあるお大名(旗本)をそそのかせて、勢いで花魁を身請け(つまり武家らしからぬ行状と、巨額浪費)させてしまったら、実はその殿様は綱吉の母である桂昌院や柳沢吉保の派閥と縁のある六角越前守だったから、とも伝わる。(表高家旗本の六角家。当時の当主で「遊郭吉原での狼藉により1967年頃閉門蟄居命令」が確認される六角広治か。広治の母は桂昌院実家の本庄氏出身。またこの六角家は守護大名六角氏とは別の家系。公家の烏丸家系)。などの諸説があるが、正式な罪状として採用されたのは、上記2項目の"釣り罪"であるらしい。


(謎解き・三十)

一〇 柴にかへけん蚕婦(サンブ)が籮(フゴ)の忘レ児 (暁雲、三十一歳、天和二年、『武蔵曲』)
一一 ひるがほの宿冷飯の白くなん咲る (同上)
一二 盞ヲ漕ゲ芋を餌にして月ヲ釣ン (同上)
一三 雪辱(ハズカ)し夜ルかつらぎの蝮姿 (同上)
一四 田螺とられて蝸牛の益なきやうらやむ (暁雲、三十一歳、天和二年)
一五 袖つばめ舞たり蓮の小盞 (暁雲、三十二歳、天和三年、『虚栗』)
一六 うすものゝ羽織網うつほたる哉 (同上)
一七 あさがほに傘干ていく程ぞ (同上)
一八 鳴損や人なし嶋のほとゝぎす (同上、『空林風葉』)
一九 採得たし蓮の翡翠花ながら (暁雲、三十四歳、貞享二年、『一葉賦』)
二〇 芭蕉葉に箴(シイン)さす女心哉 (同上)
二一 花に来て袷羽織のさかりかな (暁雲、三十九歳、元禄三年、『花摘』)
二二 花に来てあはせばをりの盛哉 (同上、『其袋』)
二三 秋を日に二人時雨の小傘 (暁雲、四十歳、元禄四年、『餞別五百韻』)
二四 うすものゝ羽織網うつ蛍かな (暁雲、四十一歳、元禄五年、『一字幽蘭集』)

五十六 掲出の句は、白石悌三遺稿集『江戸俳諧史論考』所収「英一蝶」四十四句のうちの十五句である。年代的に天和二年(一八六二)から元禄四年(一六九一)までのものである。
この天和時代というのは、いわゆる芭蕉の『虚栗』の、漢詩文調時代でもある。一蝶もその流行下の俳人であった。貞享三年に、「この年より本庄安芸守資俊(桂昌院の甥)の吉原通いが始まり、仏師民部、のち絵師朝湖、医師半兵衛がとりまきとなって、茗荷屋の遊女大蔵を取り持つという」(白石・前掲書)とあり、この「絵師朝潮」が一蝶のことであろう。この年に、芭蕉の「古池吟」の『蛙合』(仙化撰)が刊行されている。元禄七年に、「十月十二日、芭蕉没。五十一歳。追悼集『枯尾花』(其角編)に暁雲の句なし」とあり、時に、一蝶、四十三歳であった。流罪になる前年の元禄十年に、「六角越前守広治(桂昌院の姻戚で、本庄資俊の義弟にも当る)に到仕・蟄居の厳命下る。和応(朝潮の遊里における通名)・民部、半兵衛と吉原通いの途中に殺人を犯したとも、三人の取持ちで菱屋の遊女小幡を身請けしたともいう」とある。これらの英一蝶の年譜に出てくる、桂昌院は八代将軍綱吉の母で、「男子の生まれない綱吉に対し、帰依していた亮賢に僧の隆光を紹介され、生類憐みの令発令に関わったとされる」と下記のアドレスの記事にあり、一蝶らの流罪の背景に見え隠れしている人物の一人でもある。

(桂昌院)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%98%8C%E9%99%A2

また、次のアドレスのもの(「流されびとと英一蝶」)は、これらの背景を語るものとして参考となる。ここに出てくる、「遊扇・角蝶」というのは、上記の年譜に出てくる「民部・半兵衛」の遊里の名であろう。当時、一蝶の画号は、「朝潮・蝶古」で、この「角蝶」(半兵衛)は、俳諧を「其角」に、絵画を「蝶古」(一蝶)に学んでおり、その師筋の関連のものともいわれている(村松梢風著『本朝画人伝(巻一)』所収「英一蝶」)。
(「流されびとと英一蝶」・三)

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido111.htm

○しかしこんなことで挫けるような一蝶ではなかった。遊び仲間の有力な大名たちの裏工作もあり、自由を回復するとすぐに派手な遊蕩生活を始めた。高位の人々や豪商を背景にした驕慢な振る舞いは、神も仏も恐れない大尽遊び。人々は眉をひそめた。「お仕置きにもいっこうに懲りていない」「またも派手に遊んでる」「もはや放置できない。」幕府は決断した。元禄十一年にまたもや彼を拘置したのである。その理由は彼が描いた〔朝妻舟〕という絵にあった。それは近江国坂田郡朝妻の港から、琵琶湖を大津まで渡る舟があり、白拍子が客を誘う情景を描いたもの。その画の中の女がときの将軍綱吉の側用人として絶大な権力を持つ、柳沢吉保の妻に似ているというもの。この吉保の妻をひそかに将軍綱吉が愛している。世間ではまことしやかに噂されていた。そんなときの画だったからたまらない。 これは綱吉を揶揄したものとされたのである。この島流しの罪状話はいくつもある。諸説入り乱れてはっきりしていない。もう一つの逮捕理由は「馬が物を言う牛が物を言うという、戯作を書いただろう」これは将軍綱吉の生類御憐れみの法度を皮肉るもの。馬が物を言うとは将軍綱吉のことを指す。彼は将軍になる前は館林右馬頭と名乗っていた。牛が物を言うとは柳沢吉保のこと、彼の幼名が牛之助だったからだ。この戯作は英一蝶はまったく知らないことなので『私どもはまったく知りません』と否定し続けていのだが、町奉行所の役人は『これまでの行状からみて、その方らの仕業に違いない。神妙にいたせ。』と、強引に牢屋送りにしてしまったという。ようするに逮捕理由は何でもよかった。あまりにも目に余る遊蕩ぶりが彼らの罪だと云うべきだろう。そして元禄十二年(1699)十二月に三宅島に島流しにされたのである。一蝶は四十八才になっていた。遊蕩仲間の遊扇と角蝶も八丈島に流されてしまった。遊扇は四十五才、角蝶は三十五才だった。英一蝶らが霊岸島から島送りの船に乗る日がきた。親友の宝井基角も大勢の見送りの中にいる。一蝶は友の厚誼に感謝して涙を流した。そして『三宅島はクサヤの名産地です。流人はクサヤを作らされるそうだ。島に生えている椎の葉を私は干物のエラに挟むから、もし江戸の魚屋で椎の葉をつけたクサヤを見つけたら、私がまだ元気でいると思ってください。』と告げたという。
クサヤはむろ鯵のひらきで作った伊豆諸島の特産品である。鯵の臓物で汁を作り、それに浸して日干しをするため、独特の強烈な匂いを放つ。味は絶品だが匂いのために人により好みが分かれる。クサヤの名前はその匂いからきている。

(「流されびとと英一蝶」・一)

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido109.htm

(「流されびとと英一蝶」・二)

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido110.htm

(謎解き・三十一)

二五 たがかけのたがたがかけて帰るらん (一蝶、六十九歳、享保五年、「画賛」)
二六 牽牛花のつぼみながらや散あした (七十歳、享保六年、「嵐辞」・『画師姓名冠字類抄』所収)
二七 野分せしばせをは知りつ雨の月 (一蝶、七十二歳、享保八年、「画賛」)
二八 たが謂や一夜に月のたりひづみ (同上)
二九 嚏の腹も帒も秋の風 (『画師姓名冠字類抄』)
三〇 しばしとて蕣に借す日傘 (同上)
三一 罪も霜も消なん道の杖木履 (同上)
三二 蝶の夢獏にくわれて何もなし (同上)
三三 大津絵に負なん老の流れ足 (同上)
三四 舞燕まひやむまでのねぐら哉 (同上)
三五 はり物の相人にならぬ柳哉 (同上)
三六 おのづからいざよふ月のぶん廻し (同上)
三七 清く凄く雪の遊女の朝ゐ顔 (同上)
三八 臼こかす賤の男にくし雪の跡 (同上)
三九 呼かけて燗酒一つ鉢叩 (同上)
四〇 この砌左り鎌倉すじ鰹 (同上・『温故集』)
四一 燕やあだしあだ波かへる浪 (同上・『東風流』)
四二 いつ聞を古声にせん郭公 (同上)
四三 憎さげや臼きらしかす雪の趾 (同上)
四四 手鍋する身にや聞さぬか郭公 (同上)

五十七 掲出の句は、白石悌三遺稿集『江戸俳諧史論考』所収「英一蝶」四十四句のうちの二十句である。この二十五句目の「たがかけのたがたがかけて帰るらん」(一蝶)に、其角は「身をうすのめと思ひきる世に」と唱和したことが享保五年の年譜にある(白石・前掲書)。三十六句目の「おのづからいざよふ月のぶん廻し」は、『仮名世説』に、「英一蝶晩年に及びて、手ふるへて月など画くにぶんまわしを用ひたるが、それしもこころのままにもあらざりければ」と、晩年の一蝶の自画像であろう。白石悌三氏は一蝶について次のとおり記している。
○今日に残る英一蝶の名は赦免後のものであるが、彼にとってその日々はもはや余生にすぎなかった。其角の周辺では、あたかも彼が江戸を追われた元禄十一年ごろから連衆の交替が起り、天和の息吹を知らない新世代によって他愛もない言語遊戯が洒落風俳諧の名で行われる。そうした最中に、しかも其角没後に帰還した一蝶が、「浦島太郎」と我が身をかこったのは無理もない。悪所に狂い風狂に身をやつす双頭の鷲であった天和の青春は、息の根をとめられ、飼いならされた俳人群は体制内に身分を保障された宗匠として、江戸座を編成し秩序の安定を計る。一蝶が深川の昔を懐かしむ心境を世の常の老境と見なしてはなるまい。牙を抜かれた一蝶が、旧作の「十二ケ月風俗図」の「跋」に「今ヤ此ノ如キ戯画ヲ事トセス」と記したのは享保二年のことであった(白石・前掲書)。

五十八 次のアドレスの「美の巨人たち」で、一蝶の「布晒舞図」(埼玉県川島町遠山記念館蔵)が見られる。なお、このネットの記事では、「幇間・一蝶」が強調されているが、当時の幇間というのは、現代のように男芸者として、卑しむべき職業というよりも、「遊びやイベントのディレクター(演出者)」のような趣で、一蝶らのそれは、職業的幇間というよりも、傑出した芸能の士(タレント)で、当時の豪華絢爛とした吉原文化の一躍を担っていたマルチスター的存在であったということは付記しておく必要があろう。幇間・一蝶と同じく、「幇間・其角」というイメージもあり、現に、高浜虚子なども、「私は其角が幇間的なところの外に何かありはしなかったかと思う。芭蕉の亡くなる時に其角が駆けつけて諸事を一人で取り行っている。去来を始め多くの門人が黙ってそのなすがままに任せている。これは彼が才走っているばかりでなく、何か皆に推重されるところがありはしなかったかと思う」(『其角研究』)という理解である。これは、幇間・其角ということを前提として、その「幇間・其角」以外に、「何か」があるということを指摘しているのだが、そもそも、当時の幇間の認識が、虚子時代の幇間と同一視している点において、誤解されやすい面がなくもない。

http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/050416.htm

(謎解き・三十二)

○ 初鰹カラシが無くて涙かな     一蝶の贈句
○ そのカラシ効いて涙の鰹かな    基角の答句

五十九 掲出の句は、下記アドレスの「流されびとと英一蝶」(四)によるものである。

http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido112.htm

五十九 ここで、一蝶の句とされている「初鰹カラシが無くて涙かな」は、かって見てきた、赤穂浪士の大高源五こと子葉の「初鰹江戸のからしは四季の汁」(『二つの竹』)とどうにも似通っているのである。さらに、其角の句とされている「そのカラシ効いて涙の鰹かな」の句は、これまでに何回か話題になったところの、其角の赤穂浪士の俳人の子葉らに対する追悼句の「うぐひすに此芥子酢はなみだ哉」(『橋南』)とこれまたその類相句の趣なのである(これらの句については、第二十五・四十八など参照)。赤穂浪士の俳人・大高子葉らと其角との関連のものは、数々の偽書簡やらフィクションがあり、どうにもミステリーに包まれているのだが、それ以上に、英一蝶と其角との関連とになると、ミステリーの中のミステリーという趣なのである。ここで、上記のネット記事の「流されびとと英一蝶」の参考文献の一つにあげられている『本朝画人伝(巻一)』所収「英一蝶」により、元禄元年の英一蝶を取り巻く、その群像を年齢順にあげて見ると、芭蕉(四十五歳)、一蝶(三十七歳)、遊扇(三十五歳)、柳沢出羽守(三十一歳)、佐々木文山(三十歳)、其角(二十七歳)、角蝶(二十五歳)、紀伊国屋文左衛門(二十四歳)、奈良屋茂左衛門(十九歳)となる。芭蕉は、一蝶と其角との俳諧の師匠ということであげたが、これらの豪華絢爛とした「伊達風」の吉原文化(快楽主義)に耽溺したグループとは正反対の反吉原文化とも位置付けられる「侘び・寂び」を基調としての「閑寂」な「ストイック(禁欲主義)」的な世界へ身を投じた人物との理解てよいのかもしれない。逆説的にいえば、芭蕉らの、極端な「ストイック(禁欲主義)」の世界への反動として、年齢的にも世代的にも、次の一蝶や其角らの「快楽・刹那主義」的世界であったとの見方もできるのかもしれない。いずれにしろ、一蝶・其角を取り巻く群像は、元禄江戸文化の頂点にあったことだけは間違いない。

(其角・一蝶を巡る群像)

其角
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E4%BA%95%E5%85%B6%E8%A7%92
寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日〈一説には2月29日〉(1707年4月2日))は、江戸時代前期の俳諧師。本名は竹下侃憲(たけした ただのり)。別号は螺舎(らしゃ)、狂雷堂(きょうらいどう)、晋子(しんし)、宝普斎(ほうしんさい)など。
一蝶
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6
承応元年(1652年) - 享保9年(1724年)は、江戸時代の絵師。本名は「多賀信香」(もしくは藤原信香)か。幼名は猪三郎、次右衛門、助之丞。多賀朝湖、号暁雲、藤原信香、牛麻呂など別名多数。
紀伊国屋文左衛門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E5%9B%BD%E5%B1%8B%E6%96%87%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
寛文9年(1669年)? - 享保19年4月24日(1734年5月26日)?)は、日本の江戸時代、元禄期の商人である。元姓は五十嵐氏。名は文吉。俳号は千山。略して「紀文」と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。
奈良屋茂左衛門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B1%8B%E8%8C%82%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
江戸時代中期の江戸の材木商。通称奈良茂(ならも)。姓は神田。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。奈良屋は寛永年間(1624年-1644年)以降、代々江戸深川霊岸島(れいがんじま)に住んだ。
柳沢出羽守(吉保)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E5%90%89%E4%BF%9D
万治元年12月8日(1658年12月31日) - 正徳4年11月2日(1714年12月8日))は、江戸時代前期の幕府側用人、譜代大名。はじめは小身の小姓であったが、第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。官位は従四位下・左近衛権少将・出羽守(でわのかみ)、後に美濃守(みののかみ)。
佐々木文山http://www.db.fks.ed.jp/txt/10090.002/html/00162.html

江戸時代中期の書家として代表的な佐々木文山(一六五九~一七三五)である。文山は、磐城平藩主・内藤政樹に召抱えられていた能書家であった。
○ 遊扇http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido110.htm
鎌倉仏師より二十二代目に当る大仏師・民部の遊里名。
角蝶
http://www6.ocn.ne.jp/~kameyama/bungei/aichikogan/tokaido110.htm「色の村田の中将や」と在原業平に譬えられた美男子の商人・村田半兵衛の遊里名。

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