木曜日, 10月 18, 2012
三好達治の「路上百句」
三好達治の「路上百句」
一 鶺鴒のよけて走りし落椿
「路上百句」の冒頭の一句。この句は「鶺鴒」(三秋の季語)の句なのであろうか(?)
それとも「落椿」(三春の季語)の句なのであろうか(?) 「五七五」のスタイルからすると下五の「落椿」に主題がある句のように思われる。俳句に造詣の深い三好達治にしては、「やはり三好達治は詩人であって俳人ではない」という思いにかられる。この句は四行に行分けした方がすっきりするというのは、穿った見方なのであろうか(?)
鶺鴒の
よけて
走りし
落ち椿
一行表記だと「鶺鴒」と「落椿」の「季重なり」がどうにも目についてくるし、上五の「鶺鴒」と下五の「落椿」が、連句上の「観音開き」の雰囲気で、どうにもしっくりしない。上記の四行表記にすると、それが幾分緩和されるような気がしてくる。
(参考)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1628825.html
↓
芭蕉の有名な推敲、(ほととぎす宿借るころの藤の花)を後に(草疲れて宿かるころや藤の花)とし治定したことは余りにも有名ですがこの二重の季語による句の散文化を戒める立場(現俳壇の大部分)をとれば季語の持つ意味の深さと季感の欠如となります。
いわば緊張感の欠如が問題なのです。しかしこの緊張感が漲りただいま其処に生きていることに満ち溢れ人の心を揺さぶることが出来る句なら季重りであろうが何であろうが構わないのですが、不幸にして人口に膾炙する句に出会えません。それは先ほど申しあげた緊張感、季重りによるピントボケにならざるを得ない句になるからです。
二 春の雪とぶや函嶺(はこね)の裏関所
「春の雲・とぶや」の、この破調的な「や」切りが、詩で絶妙な諷詠派の三好達治にしては、どうにも、首を傾げたくなるのである。この「や」切りは、やはり、この句も四行に区分けして音読が出来よう。
春の雲
とぶや
函嶺(はこね)の
裏関所
三好達治には、「短歌集『日まはり』」というものがあるが、これが全て四行区分けというのが、何か暗示的である。
日のあたる
石垣の裾 鶏ら
たちて歩めり
一羽のこれる
この二行目は、「石垣のすそ・鶏ら」で、「・」の一字空けしてまで、四行の区分けをしている。この短歌は、五七五七七のリズムで、五行の区分けが自然で、何故に、四行区分けにしているのか分からない。
日のあたる
石垣の裾
鶏ら
たちて歩めり
一羽のこれる
それにしても、「白骨温泉にて」と題する、「短歌集『日まはり』」の冒頭の、この四行表記の、この短歌の、この五句目の、「一羽のこれる」というのが、詩人・三好達治の「詩眼」(写生眼)も、「この程度か」と、目を白黒するのである。
同様にして、掲出句の、「春の雪とぶや函嶺(はこね)の裏関所」の、「函嶺(はこね)」
は、「箱根(はこね)温泉」の「函嶺(かんれい)温泉」をも意図してのものなのかどうか(?)これまた、この措辞も気に掛かるのである。
三 樫どりのうかがひ去りし雛祭
「樫どり」は「懸巣」(三秋の季語)のこと。雛祭(仲春の季語)は三月三日の桃の節句である。この句は勿論「雛祭」の句である。それにしても、「雛祭」に「懸巣」が「うかがひ」来て、「去り」ましたとは、「詩的な風景」ではなく「俳句的な風景」であることは確かなようだ。
三好達治は、その年譜に、「大正三年(一九三四)十四歳 四月、大阪府立市岡中学校入学。先輩に教えられて、俳句を作るようになる。毎月二十銭の『ホトトギス』を購読」とあり、それはその一時期の後きっぱりと俳句と訣別してしまったが、こと俳句に関してはその生涯にわたって一家言を有する詩人でもあった。
その達治が、よりによって、春の代表的な季語(季題)の「雛祭」に、秋の季語の「懸巣」を「樫どり」の別称で持って来るのは、達治特有の「風狂人」のなせる技という思いがして来る。
この句も、四行に区分けすることが出来る。
樫どりの
うかがひ
去りし
雛祭
この中七の「うかがひ・去りし」というのが、三行区分けよりも四行区分けにより馴染むということに他ならない。
四 紅三頃(こうさんけい)桃の畑を鷗どり
三好達治は、戦時中の昭和十七年(一九四二)に古今の詩歌俳諧を解説論評した『諷詠十二月』を刊行する。ここには漢詩に関するものがすこぶる多い。また、戦後の、昭和二十七年(一九五二)には、吉川幸次郎と共著で『新唐詩選』も刊行し、ベストセラーとなっている。これらのことからも窺い知れるように、達治の漢詩に造詣が深いことは定評がある。その漢詩に造詣の深い達治が、「紅三頃(こうさんけい)」と冒頭に持って来ると、これは、てっきり漢詩に関係するものかと思ってしまうが、どうも、これは達治の造語らしい。意味は、桃が「紅色三分の頃」という意か(?)
下五の「鷗どり」は、三好達治の全詩業の序詩ともいうべき、次の「春の岬」の象徴的なもので、それはまた、達治その人を象徴するものでもあろう。
春の岬
春の岬旅のをわりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
これは二行詩で、その処女詩集『測量船』の「序詩」にも据えられている。しかし、「短歌集『日まわり』」のスタイルからするならば、この二行詩もまた四行詩にすることも可能であろう。
春の岬
春の岬
旅のをわりの鷗どり
浮きつつ遠く
なりにけるかも
そして、掲出の五七五の俳句についても、四行の句分けも可能であろう。
紅(こう)
三頃(さんけい)
桃の畑を
鷗どり
五 菜の花やかづきやすまぬかいつぶり
「かいつぶり(鳰)」は冬の季語で、冬に「ケリリリリ…」と鳴く(なわばりの主張またはつがいの確認)ことに由来がある。カルガモは夏の季語で、夏に子育てをすることに由来がある。カイツブリの場合は、「鳰(にお)の浮巣」あるいは「浮巣」「鳰の巣」は夏の季語となる。
「かづき」は、「被き・被衣」(動詞「被づく」の連用形の名詞化)で、頭にかぶること、また、そうするもの。特に、身分の高い女性が外出するとき、頭から背にかけて垂らして被り、顔を隠すようにする衣服のことなど。
「菜の花」は言わずと知れた春(晩春)の季語で、ここでも、「かいつぶり」(三冬の季語)との「季重なり」の句ということになる。達治は、季語重視の俳人をあたかも挑発するかのごときに、一年中見られる「かいつぶり」などを「菜の花」と配合して、俳諧本来の滑稽味(古語の「をかしみ」など)の一句にしている。
句意は、「一面の菜の花の季節に、カイツブリは被づきをかぶったまま、その菜の花を見ている」というようなことであろう。
この句もまた、四行のリズムに馴染むであろう。
菜の花や
かづき
やすまぬ
かいつぶり
六 艸木瓜(くさぼけ)や山火事ちかく富士とほし
艸(草)木瓜は樝子(しどみ)の花のこと(晩春の季語)。木瓜の一種で、木瓜に似た紅色鮮麗な五弁花がかたまって咲き、素朴可憐に野を彩る。この句は、近景(草木瓜)・中景(山火事)・遠景(富士)を趣向しての一句か。また、それだけの句で、「山火事ちかく」・「富士とほし」の対句法的な「中七」と「下五」も、また、「艸木瓜」の赤と「山火事」の赤の色彩的な把握も、月並な感じが濃厚なのである。
この句は、四行表示よりも三行表示か五行表示で、「上五」や切りと「中七・下五」の対句的なことを考慮すると、五行表示が良いのであろうか。
艸木瓜や
山火事
ちかく
富士
とほし
七 合歓の花ゆれゆれてはつかきらら雲
「合歓の花」は晩夏の季語。「はつか」は「僅か」の意。ここは「かすかに」という意か。「きらら」は「雲母(うんも)」の呼称で、「きらら雲」は「雲母のようにきらきら輝く雲」の意か。中七の「ゆれゆれて・はつか」が字余りで語呂も良くない。「ゆれゆれて・はつか」は、「ゆれゆれ・はつか」ではまずいのであろうか。この句は、「合歓の花」から「きらら雲」を連想して「見立て」の面白さの句なのであろうか。
達治は、「雲母」の飯田蛇笏を高く評価していた。その『諷詠十二月』などにおいては、こと俳句に関しては蛇笏を中核に置いて鑑賞している。その「雲母」の前身は「キララ(きらら)」である。この「きらら雲」というのは、その蛇笏や俳誌「雲母」にも通ずる雰囲気でなくもない。
これは行分けをすると、「ゆれゆれて・はつか」からして四行がしっくりする。
合歓の花
ゆれゆれて
はつか
きらら雲
八 蚊帳をつる川のむかひのすまひかな
「酒肆長谷川一句」との前書きがある。「蚊帳」は三夏の季語。「すまひ」は「住まい」。何とも凡なる一句で、即興的な作なのであろう。「「酒肆長谷川」との前書きは、何か特別な意味合いがあるのかどうか不明だが、馴染みの「酒の店」の「長谷川」で、酒を飲みながら、即興的に、その屋外の景を一句にしたという趣である。この句は、芭蕉の「黄金を打ち延べたる如き句」、そして、臼田亜浪の「一句一章」の句ということになろう。
臼田亜浪の「一句一章論」は、大須賀乙字の「二句一章論」に対してのもので、「結果において五七五たるも、はたまた二句一章たるもそは敢て問ふところなく、十七音そのものを以て一句となし、そのうちに音綴(おんてつ)(すなわち音節)を単位としての脚の自由なる配合によつて、詩としての音律をもこれに求めて行きたい。即ち五七五調における三行詩的配列や、二句一章における二行詩的な配列法を墨守することなく、あくまで一行詩としての俳句の性能を完からしめたいと思ふ」(「石楠(昭和二・十)」所収「形式としての一章論」)というものである。
この一行形式に馴染むものを敢えて四行にすると次のとおりとなる。
蚊帳をつる
川の
むかひの
すまひかな
(追記)「酒肆長谷川」とは、俳人・長谷川春草がやっていた銀座三十間堀の出雲橋の飲み屋の「長谷川」かも知れない(この「長谷川・はせ川」は『駱駝の瘤にまたがって(石原八束著)』二五二頁~二五三頁に記事がある)。
(長谷川春草)
http://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%98%A5%E8%8D%89
1889-1934
大正-昭和時代前期の俳人。
明治22年8月19日生まれ。渡辺水巴(すいは)にまなぶ。俳書堂にはいり,「俳諧(はいかい)雑誌」の編集にたずさわる。のち春灯派の俳人である妻湖代(こよ)と東京銀座で料亭「はせ川」を経営した。昭和9年7月11日死去。46歳。東京出身。本名は金太郎。通称は金之助。句集に「春草句帖(くちょう)」など。
【格言など】すずしさや命を聴ける指の先(辞世)
☆「酒肆長谷川壁上の戯画に寄す」(「文芸春秋」昭和二十五年三月号)との三好達治の詩(この「長谷川」には、久保田万太郎、菊地寛、久米正雄、横光利一、さらには、永井龍男、井伏鱒二、河上徹太郎などが出入りしていたという。)
もとこれ三十間堀の河童ども
棲むに水なき境涯を
頭にベレをちよんとのせて
重きリュックをやっこらさのさ
流れもせまき長谷川に
数もつどひに踊るかな
さあさあれはいさの旅の空
☆諷詠十二月(三好達治著)』に、「五月雨やわが身と古りし櫛たたう」(湖代)が掲載されているという(この「湖代」は長谷川春草夫人で久保田万太郎門の俳人)。
九 鸚鵡(おうむ)叫喚日まはりの花ゆるるほど
「日まはり(向日葵)の花」は晩夏の季語。「鸚鵡(おうむ)」は人の声を真似るのが上手い鳥。「叫喚(きょうかん)」は「叫ぶ・喚く」こと。「日まはりの花」が「ゆるる」ほど「鸚鵡」が「叫び」・「喚いて」いるという光景。「日まはりの花ゆるるほど」が比喩的表現で、その比喩的表現がこの句の眼目。高濱虚子の「花鳥諷詠」というのが、「花や鳥が代表するその自然を諷詠する」ということなら、三好達治の俳句の世界は、まさに、「花」(日まはりの花)と「鳥」(鸚鵡)の「花鳥諷詠」・「自然諷詠」の世界のものということになろう。言葉の巧みさや着眼点は、「人事諷詠」の名手の久保田万太郎的で、その世界は全く万太郎の「人事諷詠」と正反対の「自然諷詠」ということで、万太郎の「人事諷詠」の世界と好対照を為している。
このことは、詩人三好達治というのは、本来的に「自然」をその作詩の対象とする「自然詩人」であるということと軌を一にするものなのかも知れない。
と同時に、そのスタイルは、この自然詩人が最も得意とする「四行詩」の詩形に、どことなく落ちつくという感じなのである。
鸚鵡(おうむ)
叫喚(きょうかん)
日まはりの花
ゆるるほど
(追記)『三好達治随筆集』(岩波文庫)の「葉書随筆」の中でこの句について記している。
[行きつけの由比ヶ浜通りの小禽屋に鸚鵡がいる。何とかという種類の淡紅色の大柄な奴でうる。価五十金。そのうち都合がつけば買いとってもいい。こ奴朝夕方図もない大声で叫びたてる。それだけが困りものですと小禽屋はいう。否、その消魂(けたま)しき駑馬叫喚、必ずしもわが家の風流にそむかず。
鸚鵡(おうむ)叫喚日向日葵の花ゆるるほど ]
一〇 街角の風を売るなり風車
「風車」は三春の季語。この句は「風車売り」の句ではなく「風車」の句。抒情詩人・自然詩人の三好達治の「詩眼」は常に、人物ではなく自然そのものに向いている。その「風車」が「街角の風を売る」と「人事諷詠」的な表現で比喩しているのである。「街角の風を売る」というならば、「風車売り」の句が自然であろう。また、「風車売り」のその風情に眼が行くのが自然なのであろうが、人物にはとんと興味を示さずに、「風車」そのものに興味が行って、そこには、人物が消えてしまうのである。
これが、達治の短歌になると、やや、「人事諷詠」的な人物にも視線が注がれて来る。
路のべに
鼻なし男
鋸の 目をたててをり
春の昼すぎ
この三行目の、「鋸の・目をたててをり」の「一字空け」をしてまで、「五・七・五・七・七」の短歌の詩形を「五・七・五七・七」の四行にこだわっている。
掲出の句も下記のとおり四行に分けられる。
街角の
風を
売るなり
風車
二行目の「風」と四行目の「風車」が響きあっている。
一一 勇魚(いさな)ふくはるかなりけり土用波
「勇魚(いさな)」は鯨(くじら)の古称で、「鯨(くじら・いさな)・勇魚(いさな)」は三冬の季語である。そして、「土用波」は晩夏の季語である。即ち、異季の「季重なり」の句である。この句は「勇名」の句というよりも、全体として晩夏の「土用波」の句ということになろう。そして、この句もまた、「勇魚取り・鯨取り」の「人事諷詠」の句ではなく、「勇名・鯨」そして「土用波」の「自然諷詠」の句なのである。
三好達治の師は『郷愁の詩人与謝蕪村』の著を持つ萩原朔太郎であり、達治もまた蕪村好きなのであろう。そして達治も蕪村の次の鯨の句を愛唱しているに違いない。
菜の花や鯨もよらず海くれぬ 蕪村
この蕪村の句も「菜の花」(晩春)と「鯨」(三冬)の「季重なり」の句だが、この句の主題は「菜の花」の句であり、この「季重なり」には必然的なところがある。それは、下五の「海暮れぬ」にある。即ち、「貧しい寒村の漁港に、今年の冬には鯨も捕れずに、もう、そのシーズンも過ぎ、菜の花の咲く晩春の季節となり、その晩春の海も暮れようとしている」。ここには、蕪村の思いや、人間の生活の影というのが仄かに見えてくる。
それに比して、達治の掲出の句はどうであろう。「勇名ふく」とは、「土用波」の形容詞のようなものなのである。「鯨の汐吹きのような土用波がはるかに見える」と、ここでは、「鯨」そのものも、そして、そして、その「鯨と人」との関係も、そういうものは全て消失して、ただ、「土用波」というその一時の「自然諷詠」に他ならない。
すなわち、与謝蕪村が「郷愁の詩人与謝蕪村」ということならば、さしずめ、三好達治は「自然吟詠詩人三好達治」ということになろう。
この句も四行の句分けに馴染む。
勇名ふく
はるか
なりけり
土用波
一二 大蓼や百済の翁口論す
「鶏林四句」という前書のある一句である。「鶏林」とは「新羅(しらぎ)の脱解王が、城の西方の始林に白鶏の鳴くのを聞き、始林を鶏林と改めたという『三国史記』の故事からの新羅の異称。転じて、朝鮮の異称」。「年譜」(『三好達治詩集(岩波文庫)』所収)に、「昭和十五年 四十歳 三月、第二回『詩歌懇話会賞』受賞。九月、則武三雄と朝鮮各地を二ヶ月にわたって旅行」とあり、その折りの句なのかも知れない。「大蓼」は「大きな蓼」の意だと三夏の季語で、「大犬蓼・蓼の花」の意だと初秋の季語となる。ここは、「大きな蓼」の意なのかも知れない。そして、「蓼食う虫も好き好き」(人の好みもさまざまである)などを利かしているのかも知れない。「百済」は、古代朝鮮の三国の一つ(他の二国は「新羅・高句麗」)。句意は、「大きな蓼の傍で百済の老人が大口論をしている」というようなことであろうか。この句意の鑑賞は、「百済の翁口論す」を主としての「人事諷詠」的な鑑賞であるが、「大蓼や」の「上五」や切りの、「大蓼」の「自然諷詠的」な鑑賞ですると、「誠に外地の百済の蓼に相応しく大きな蓼であることよ。その大きな蓼の傍で翁がこれも大口論している」という雰囲気の方が、この句形にはより馴染むのかも知れない。しかし、これはどちらにしても、「人事諷詠」的な句で、単純な「自然諷詠」のそれではなかろう。
この句は、一行表示、そして、句分けをすると三行表示であろう。
大蓼や
百済の翁
口論す
なお、「年譜」にある「則武三雄」は、下記のアドレスなど。
http://www.library.pref.fukui.jp/info/kyoudo/noritake_kazuo.html
1909(明治42)~1990(平成2)年。鳥取県生まれ。本名は一雄。朝鮮京城時代に『鴨緑江』を発刊。帰国後、三好達治の招きで雄島村(現坂井市)に住む。福井市に移り、県立図書館司書として働く傍ら、文学サロン・北荘文庫を主宰。広部英一、荒川洋治らに多大な影響を及ぼす。
(追記)この掲出句も四行表記にすると次のとおりである。
大蓼や
百済の
翁(おきな)
口論す
一行目の「大蓼」の「オ」と三行目の「翁」の「オ」が響きあっている。
一三 大蓼や遠見に見ゆる牛の市
この句は、「鶏林四句」のうちの二句目の句である。「大蓼」は前の句(一二句)で「大きな蓼」(三夏の季語)と「大犬蓼」(初秋の季語)の二つの句意を並列したが、色彩感覚で行くと「大犬蓼」の方が良いのかも知れない。「牛の市」というと日本の風景というよりも「鶏林」(朝鮮)の光景という雰囲気でなくもない。「遠見に見ゆる」というのが、意味的には、「遠見(遠くに見える)」と次の「見ゆる」がダブっているようだが、これも、三好達治の愛好する四行詩のように、四行にするとリズム的にはすっきりする。
大蓼や
遠見に
見ゆる
牛の市
「四行詩」のことをフランス語で、カトレン(quatrain)といい、このカトレンの「四行詩」は三好達治によって初めて使用されたということが、「年譜」(「三好達治(日本詩人全集二一)」)に記されている。
[昭和七年(一九三二) 三十二歳 (前略)八月、詩集『南窗集』を椎の木社より刊行。病中の作三十一篇を収録。フランシス・ジャムの影響で、日本で初めて「四行詩」という定型を使用、注目される。 ]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%A1%8C%E9%80%A3
四行連
四行連(よんぎょうれん;四行連句、quatrain, クウォートレイン、クワトレイン)は、4行で構成されるスタンザ(詩節、連)のこと。狭義の「quatrain」は、4行のみで作られた四行詩(四行連詩)を指す。ヨーロッパの詩の中で最も一般的なスタンザ形式である。押韻構成は「aabb」「abab」「abba」「abcb」などでなる。
一四 王陵に牛を放つや秋の雲
「鶏林」四句のうちの三句目。「王陵」というと「朝鮮王陵」(李朝の王墓郡)ということになろう。この句は、「中七」や切り、「下五」の体言止めの典型的な俳句のスタイルであろう。これを達治の得意とする「四行詩」的に行分けをすると次のとおりである。
王陵に
牛を
放つや
秋の雲
達治の「四行詩」の草分けは、第二詩集『南窗集』(昭和七年・三十二歳)である。そこに次のような詩がある。
茶の丘や
枯皐(はねつるべ)
馬
梅の花 (馬)
「馬」と題するこの四行詩は、「五・五・二・五」の十七音字の俳句と理解しても差し支えなかろう。季語も「梅の花」。「枯皐(はねつるべ)・馬・梅の花」は、上五の「茶の丘や」の説明である。「自然諷詠」詩人(俳人)の面目躍如たるという雰囲気である。しかし、これを一行表示にすると、四行表示よりも、その伝達されて来るものが稀薄になって来る。
茶の丘や枯皐(はねつるべ)馬梅の花
これは、やはり四行に句分けする必要があろう。しかし、掲出の句は一行表示でも四行表示でも違和感はない。そして、一行表示は「俳句」で、四行表示は「詩」なのかという疑問が生じて来る。しかし、これらは、「俳句」と「詩」とを別なジャンルと決めつけているからの疑問のように思われる。
即ち、三好達治の「俳句」は、極めて「詩的な俳句」で、その「四行詩(短詩)」は、極めて「俳句的な詩」という考え方も出来よう。そして、この「詩的」というのは、「ヨーロッパの詩の中で最も一般的なスタンザ形式」の「四行詩」などを背景としている「西洋的な詩」とも理解出来るし、そして、「俳句的な詩」の「俳句的」というのは、「和歌から派生した一つの詩歌としての俳句」というニュアンスのものである。
この考え方ですると、三好達治の「短歌集 日まはり」のそれは、「詩的な短歌」ということになる。
蝉のころ
松の丘べをゆくときは
かなしきほどの
思ひ出もよし (をりふしの歌)
一五 盗掘をすとや彼方に渡り鳥
「鶏林」四句のうちの四句目。そもそも三好達治の、この「路上百句」というのは誰がまとめたものなのか(?)『三好達治研究(小川和佑著・教育出版センター)』に、「達治の俳句は『定本川端達治全詩集』に於て石原八束編の『路上百句』に初めてまとめられた。『三好達治全集』第二巻に右の『路上百句』の他に句集『柿の花』五十句を収録、達治の俳句の殆どことごとくが収められている」との記述がある。どうやら、俳人で達治の側近の石原八束が中心になって、これらをまとめたということなのかも知れない。そして、その出来た年次などは、まちまちなのであろう。
これらの「鶏林四句」というのは、「朝鮮」との前書を付してのものもある。この「鶏林四句」という前書も石原八束が付したものなのかも知れない。この掲出句は、「渡り鳥」が三秋の季語。中七の「すとや・彼方に」が「句またがり」(意味的な切れ目を五・七・五の音の切れ目とは異なる場所に持ってくることで、リズムに変化を与える技法)が、この句の眼目で、そして、この「句またがり」をすると、「四行詩」の四行表示に馴染んでくる。
盗掘を
すとや
彼方に
渡り鳥
達治の第一詩集『測量船』には、「四行詩」というのは見あたらない。そして、短歌的な二行詩の「春の岬」が冒頭の詩となっている。
春の岬旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも。
そして、代表的な「雪」も二行詩である。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ
そして、面白いことには、「散文詩」(「秋夜弄筆」・「落葉やんで」)の中に、すばりと「俳句」そのものを挿入しているものもある。その俳句のうちで、「句またがり」の顕著な句として、次の句などが上げられよう。
落葉やんで鶏の目に海うつるらし (「落葉やんで」)
一六 鶺鴒のひひななれども尾の上下
「鶺鴒」は三秋の季語。ここの「ひひな(雛)」は「孵化して間もない雛(ひな)の鳥の子」のこと。そして、「尾の上下」ということは、鶺鴒のことを「石たたき」といい、その尻尾で石をたたくように上下に振る仕草を、雛の鳥がしているということの面白さなのであろう。
こういうものに接すると、フランス文学者でもある三好達治は、フランスで活躍した、イタリア出身のポーランド人の詩人、小説家、美術批評家のギヨーム・アポリネールの『動物詩集』(堀口大学訳)などの影響下で、四行詩(カトランス)を試みていたということが察知される。そして、達治の俳句は、その四行詩と深く結びついている。
ひきずるほども長いから
尾羽根を車輪にひろげると
この鳥 むしょうに美しい
もっともお尻はまる出しです (孔雀)
海豚(いるか)よ!君らは海の中で遊ぶ
しかしそれにしても 潮水はいつも苦いことだ
ときに僕によろこびがないでもないが
しかし人生はどのみち残酷だ (海豚)
僕は持ちたい 家のなかに
理解のある細君と
本のあいだを歩きまわる猫と
それなしにはどの季節にも
生きてゆけない友だちと (猫)
一七 柿うるる夜は夜もすがら水車
三好達治の東大での恩師にあたる辰野豊が、ヴェルレーヌ調とかと激賞したとかいわれている達治の俳句としてはよく知られて一句である。東大での卒論は、「ポール・ヴェルレーヌの『英知』について」とかが、石原八束などによって紹介されている。
掲出の句について、辰野豊が「ヴェルレーヌ調」と喝破したのは、この句の「コットン・コットン」とひねもす音を立てている「水車」の、その聴覚的な印象から、「ヴェルレーヌ調」の「音楽性」のようなものを見て取ったということではなかろうか。
三好達治門下の詩人・杉山平一は、その「三好達治」論のサブタイトルに「風景と音楽」の題を付している。「柿うるる夜は夜もすがら水車」の、この「風景」、そして、「柿うるる夜は夜もすがら水車」の、この「音楽」、これこそ、三好達治の「詩」の世界であり、即「俳句」の世界でもある。
なお、三好達治の東大の卒論の、「ポール・ヴェルレーヌの『英知』について」については、次の詩に関係するものなのかも知れない。
http://poesie.hix05.com/Verlaine/12ciel.html
叡智 Sagesse:ヴェルレーヌ
空は屋根の上にありて
青く静かに澄み渡る
木は屋根の上にありて
ゆらゆらと枝を揺する
鐘は空の彼方に
やさしくも響き渡る
鳥は梢の彼方に
嘆きの歌を歌う
神よ 我が神よ 人生は
何事もなく静かに過ぎ行く
かの平和なささやきは
街の方より聞こえきたる
何をしたといって そこなる君よ
さめざめと泣き続けるのか
何をしたというのだ そこなる君よ
悔い改めるに遅すぎはしない
一八 鵯(ひよ)どりの来るも去るもあはれかな
「鵯」(ひよ・ひよどり)は晩秋の季語。「あはれ」は、古語で、「しみじみとした情趣・感動・風情(ふぜい)」のこと。中七の「来(きた)るも去(さ)るも」が達治調。これで、
達治の四行詩に分解される。
鵯どりの
来るも
去るも
あはれかな
『三好達治 風景と音楽(杉山平一著・編集工房ノア)』の中で、達治が四行詩を書いた理由を、達治の言葉で記述している。
[仕事の方は病院のゐる間に小さな形の四行詩に書き初めてそれを一冊にまとめたのが先に第一書房から出た『測量船』につづく私の第二詩集であつた。葉つぱのやうに薄い和本の『南窗集』、------仰臥したまま枕許の塵紙か何かに書きちらすのに、かういふ形が手ごろであつて根気をつめる要もなかつた。](愚か者の回顧)
三好達治の年譜に、[昭和七年(一九三二) 三十二歳 三月二日 喀血。東京女子医大付属病院へ入院。入院中に梶井基次郎逝去。追悼詩「友を喪ふ(四章)」を「文芸春秋」五月号に発表。(後略)](『三好達治 日本詩人全集二一(新潮社)』)とある。四行詩を書き始めた頃は、達治の無二の親友であった梶井基次郎の逝去の頃であった。
一九 岸よりに落ちゆく鮎のあはれかな
「落ちゆく鮎」(落鮎・錆鮎)は三秋の季語。前句の「鵯(ひよ)どりの来るも去るもあはれかな」と同時の作なのであろう。というよりも、この前句の「鵯(ひよ)どりの来るも去るも」を「岸よりに落ちゆく鮎の」と、「鵯(ひよ)どり」を「落ち鮎」に換えたような雰囲気である。
達治は、梶井基次郎が亡くなったとき、病室で次のような四行詩を作った。
展墓
梶井君 今僕はかうして窓から眺めてゐる 病院の庭に
山羊の親仔が鳴いてゐる 新緑の梢が飛びすぎる
その樹立の向うに 籠の雲雀が歌つてゐる
僕は考へる ここを退院したなら 君の墓に詣らうと
この詩の「山羊」は病室の窓から見える汚い山羊であったという。そして、この山羊をモデルにして、次の鹿の詩を作ったという(『現代詩読本三好達治(思潮社)』所収「三好達治の追憶(河上徹太郎稿)」)。
鹿
午前の森に 鹿が坐つてゐる
その背中に その角の影
微風を間(ま)ぎつて 虻が一匹飛んでくる
遙かな谿川を聴いてゐる その耳もとに
「換骨奪胎」を自由自在に操る無類のテクニシャンの三好達治の裏技であるが、掲出の句もそんな雰囲気のものである。
四行詩のスタイルだと、「鮎」を強調して次のようになる。
岸よりに
落ちゆく
鮎の
あはれかな
二〇 雲代謝みなうつくしき枯木立
「枯木立」は三冬の季語。この「代謝」は「新陳代謝」(古いものと新しいものとが入れ代わる)の意味か。歌とか俳句とかでは見掛けない用語である。「代赭」は「赤褐色の色」だが、その「代赭」の誤字でもないらしい。
詩人三好達治の「言葉についてのきびしさ」は様々な語り草になっている。戦後間もない、昭和二十一年(一九四六)十二月号の「新潮」に八十一行の長詩「横笛」が掲載された。そのなかに作者が「老がを指をふるはせて」横笛を吹くところがあり、そこに、次のようなオノマトペで表現されているところがある。
ふるるひよう
ひようふよう
ふひよう
ひよう
このオノマトペ表現のものの、「う」が「ろ」と誤植されてしまった。それに対しての、三好達治から河盛好蔵あての激烈な抗議文が今に伝えられている(「現代詩読本三好達治・思潮社刊」所収「憂国の詩人三好達治の追憶――思い出断片」)。
掲出の句、四行表示にすると「みな」を強調したい。
雲代謝
みな
うつくしき
枯木立
二一 しき鳴くは樹氷の山に何の鳥
「樹氷」は晩冬の季語。中七の「樹氷の山」というと「樹氷林」とか「樹氷原」とかと同じ用例と解したい。下五の「何の鳥」は、「どういう鳥なのか」という意なのか。として、この上五の「しき鳴く」の「しき」がよく分からない。第一の理解は、「しき」は「鴫・
鷸(しぎ)」(三秋の季語)で、「湿地帯に来る渡り鳥の鴫(しぎ)が鳴いてる。樹氷の山の方でも鳴き声がするが、何の鳥なのであろうか。あれも鴫なのであろうか」というような解である。第二の理解は「四季」だが、やはり、この「しき」は第一のように鳥の名と解したい。
『三好達治随筆集(中野孝次編・岩波文庫)』の中に、「鳥好き」というのがあり、「私にも『馬鹿の鳥好き』の資格があるらしい」と記している。達治は無類の鳥好きである。その随筆の中に、その「バカの鳥好き」の男として、「信州に引き籠っていたじぶん、志賀高原の奥の方で竹伐りに入っている男」の話が出てくる。この句も信州あたりの句なのでうろうか。また、「カラス」という随筆もあり、こちらは「越前に引き籠っていた頃、春さきの波の靜かな砂浜で、一度奇妙な場景を目撃した」と越前三国あたりの句なのであろうか。
樹氷といえば、蔵王とか八甲田ということになるが、戦後、達治は、花巻郊外に隠棲していた高村光太郎を訪れているが、その頃の作なのであろうか。
どうも、意味が取り難い句である。
しき鳴くは
樹氷の
山に
何の鳥
二二 ゆく年や山にこもりて山の酒
「ゆく年」は仲冬の季語。『三好達治随筆集(中野孝次編・岩波文庫)』を見て行くと、「信州に引き籠っていた」とか「越前に引き籠っていた」とか、この「引き籠もる」というのが達治用語の一つである。この「籠もり居の詩人」というと、与謝蕪村が思い浮かんで来るが、達治の師の萩原朔太郎も達治も蕪村好きである。
達治には、二冊の「俳句鑑賞」に関する図書がある。その一は、昭和二十六年初版の、「中学生全集」の一冊で、『私たちの句集』(筑摩書房刊)である。これは、その刊行の言葉にあるとおり「各方面の権威者協力によって」なされたと、当時の第一線の錚々たるメンバーが著者となり、全百巻が刊行されている。そのうちの一冊である。その二は、昭和三十年初版の、『俳句鑑賞』(筑摩書房刊)で、これは『私たちの句集』をベースにしたもので、その前著をさらに充実させたものであるが、殆ど、前著と変わらない。それらの仲で蕪村の鑑賞ものは多い。
蕪村を「籠り居の詩人」と命名したのは、芳賀徹であった(『与謝蕪村の小さな世界』)。
うづみ火や我かくれ家も雪の中
冬ごもり心の奥のよしの山
冬ごもり妻にも子にもかくれん坊
戦後の三好達治は、まさに、「冬ごもり妻にも子にもかくれん坊」であった。
ゆく年や
山に
こもりて
山の酒
四行詩にすると、この「こもりて」が強調される。
二三 ゆく年の硯を洗ふ厨(くりや)かな
『三好達治随筆集(中野孝次編・岩波文庫)』の中に「冬日鎖閑」と題するものがある。
そこに、三好達治の習字に関することが記されている。
[十年一日の如く我流の下手くそであっても、懸腕直筆、筆の穂先が紙の上に動いているのが楽しいから、私はこれに満足する。(中略)とにかく天地玄黄天地玄黄ととめどなくつづけててるとようやくいくぶんの昂奮を覚えてくるのが、また楽しい。]
また、こうも記している。
[朝日がぱっとさしているのにこんな始末であるから新聞をそこそこにほうり出して、ゆうべのままに宿墨のたまった硯に新しく水をそそいで、行儀の悪く斜めになった墨などすりはじめるのが、近ごろの日課とまでは律儀でない習慣である。磨墨はそれ自身気持のいい手仕事で途方に暮れた人間に軽い気分を与えてくれる。いつまでもこうして墨をすっていたいものだなあ、というふうな考えになる。それにもすぐと手首が疲れるけれども。]
掲句も、そんな三好達治の一スナップなのであろう。この下五の「厨(くりや)」(台所・調理場)というのが、いかにも達治らしい。
二四 麦踏みの角力(すま)ひたりけり阿蘇麓
「麦踏み」は初春の季語。昭和十四年(一九三九)に二冊の詩集が刊行された。合本詩集『春の岬』と第六詩集『艸千里』である。その『春の岬』の「霾(つちふる・ばい)」に「大阿蘇」、そして、『艸千里』に「艸千里浜」が収載されている。この阿蘇を主題とした詩はどちらも名高い。これらの名高い詩が「自然諷詠」とすると、掲出の俳句は「人事諷詠」という趣でなくもない。
大阿蘇
雨の中に 馬がたっている
一頭二頭子馬をまじえた馬の群れが 雨の中にたっている
雨は蕭々(しょうしょう)と降っている
馬は草をたべている
しっぽも背中もたてがみも ぐっしょりとぬれそぼって
彼らは草をたべている
草をたべている
あるものはまた草もたべずに きょとんとしてうなじをたれてたっている
雨は降っている 粛々と降っている
山は煙をあげている
中岳の頂から うすら黄いろい 重っ苦しい噴煙がもうもうとあがっている
空いちめんの雨雲と
やがてそれはけじめもなしにつづいている
馬は草をたべている
草千里浜のとある丘の
雨に洗われた青草を 彼らはいっしんにたべている
たべている
彼らはそこにみんな静かにたっている
ぐっしょりとあめにぬれて いつまでもひとつところに 彼らは静かに集まっている
もしも百年が この一瞬の間にたったとしても なんの不思議もないだろう
雨が降っている 雨が降っている
雨は粛々と降っている
艸千里浜
われ嘗(かつ)てこの国を旅せしことあり
明け方のこの山上に われ嘗て立ちしことあり
肥の国の大阿蘇の山
裾野には青草しげり
尾上には煙なびかふ 山の姿は
そのかみの日にもかはらず
環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は
今日もかも
思い出の藍にかげらふ
うつつなき眺めなるかな
しかはあれ
若き日のわれの希望(のぞみ)と
二十年(はたとせ)の月日と 友と
われをおきていづちゆきけむ
そのかみの思われ人と
ゆく春もこの曇り日や
われひとり齢(よはい)かたむき
はるばると旅をまた来つ
杖により四方(よも)をし眺む
肥の国の大阿蘇の山
駒あそぶ高原の牧
名もかなし艸千里浜
二五 柿若葉ふうわりととぶみちしるべ
「柿若葉」は初夏の季語。「みちしるべ」は三夏の季語(斑猫・道おしえ)。三好達治の年譜に、「昭和五年(一九三〇)三十歳 二月、神戸の藤井氏宅へ帰り、梶井を見舞う。四月、大阪市西淀川区大和田町六百十三番地の実家に滞在し、毎日、中之島図書館に通って、ファーブル『昆虫記』の翻訳に励む。(中略)九月末より信州白骨温泉に一ヶ月余滞在し、『昆虫記』の翻訳二千枚を完訳。(後略)」(『三好達治 日本詩人全集二一(新潮社)』所収「年譜)とある。
三好達治の昆虫などの「小動物」などに関する観察は、そのファーブル『昆虫記』の完訳などに関係するものなのかどうかは定かではないが、実に鮮やかであるという印象を受ける。「みちしるべ」というのは、体長二センチほどの光沢のある虫で、それが「ふうわりととぶ」とは、言い得て絶妙である。「柿若葉」も光沢のある若葉で、「斑猫」の名もある「みちしるべ」と響きあって、初夏の信州の大菩薩峠あたりの雰囲気でなくもない。
四行詩にすると、中七の「ふうわり・と・とぶ」と、ここは工夫するところだろう。
柿若葉
ふうわりと
とぶ
みちしるべ
二六 鯖売りと赭土山を越えにけり
「鯖」は三夏の季語。高浜虚子の句に、「鯖の旬即ちこれを食ひにけり」と、いかにも虚子らしい句がある。それに引き換え、三好達治の句は、「鯖売り」の句である。「鯖売り」と来ると「鯖街道」がイメージとして浮かんで来る。若狭の小浜と京都を結ぶ街道。この若狭街道には、「寒風峠・花折峠」などの峠が知られている。「赭土山」も、その若狭街道のイメージである。
三好達治と共に萩原朔太郎門の二大双璧ともいわれている西脇順三郎は、達治の詩を「三好君の詩は一般には言葉の音調の詩人の作と思われているが、どうも俳句のようにイメジから出発しているようにも思われる」(「三好君の詩について――文語調の抒情(西脇順三郎稿)」(「現代詩読本三好達治・思潮社刊」所収))と指摘しているが、これは、まさに、俳句そのものであろう。そして、それは、「鯖売り」といい、「赭土山」といい、その言葉一つ一つは何の変哲もないものなのだが、それらが組み合わさって、「若狭街道」などをイメージさせ、そして、単に、その街道の風景だけではなく、その街道にまつわる歴史とかさまざまな人間の営みなどすらもイメージさせるという、ミクロの世界がマクロの世界を創造するところの、これぞ「俳句」の世界という思いがするのである。
戦後、三好達治の詩を痛罵した鮎川信夫や吉本隆明らの、次の世代の詩人・清水昶は、達治の詩について、「三好達治には思想なんてものはなかった。あったのは庶民的な気分であり、その気分も日本語の中に閉じることであった」(「三好達治について――日本的な気分(清水昶稿)」(「現代詩読本三好達治・思潮社刊」)所収)と喝破している。
この清水昶が喝破する「庶民的な気分」、これこそ、西脇順三郎が指摘する「俳句的イメージ」の世界であり、また、清水昶の「日本語の中に閉じることであった」ということは、即、「俳句という極めて日本語的な空間の中に閉じることであった」と置き換えても良かろう。
この清水昶の喝破は、昭和五十四年(一九七九)になされたものであるが、その二十一年後の、平成十二年(二〇〇〇年)に、「現代詩の終焉へ向けて――三好達治」(「現代詩手帖――生誕百年三好達治新発見」所収)の中で、三好達治の俳句を評価し、「現代詩を再構築する道は、どうやら達治が模索した俳句の世界に、まだ、火種がのこっているような気がする」と指摘していることには、「快哉!」という思いを深くする。
二七 こすもすや干し竿を青き蜘蛛わたる
「こすもす」(コスモス・秋桜)が仲秋の季語。「蜘蛛」は三夏の季語。この句は「こすもす」の句なのであろう。「コスモス」は外来種で、日本には明治二十年(一八八七)頃渡来したという。普通は「コスモス」と片仮名表記であるが、平仮名表記というのが三好達治らしいといえるかも知れない。その平仮名表記に対応してか、「わたる」も「渡る」の漢字表記ではない。それと、「干し竿を青き」の、この「を」を入れての「字余り」も、俳人ではなく詩人という感じがしないでもない。
「コスモス」の和名は「秋桜」で、平仮名表記では「秋ざくら」というのもある。達治には、『花筺』という詩集がある。昭和十九年(一九四四)の戦時中の刊行で、この年、離婚し、萩原アイと再婚して福井の三国に疎開している(その萩原アイとの生活は翌年の二月までと短期間であった)。そして、その『花筺』というのは、萩原アイに献げられた詩集ともいわれ、そこに出て来る花々は、萩原アイが好きだという花をモチーフにしたともいう(「三好詩を追うて――三好達治入門(石原八束稿)」(「現代詩読本三好達治・思潮社刊」)所収)。
この『花筺』所収の詩は平仮名表記のものが多い。その「花筺拾遺」のものに、全文平仮名の四行表記のものもある。
なにのほだしにほだされて
ゆくてをいそぐたびならむ
そらゆくくももかりがねも
をばながすゑにしづみたり (なにのほだしに)
二八 柿落葉家鴨よごれて眠りたる
「柿落葉」は三冬の季語。「家鴨」は歳時記には載っていない。三好達治には第二詩集『南窗集』に家鴨の詩がある。
にび色のそらのもと ほど近い海の匂ひ
汪洋とした川口の 引き潮どきを
家鴨が一羽流れてゆく
右を眺め 左を眺め
「にび色」(鈍色)は薄墨色。掲出の句の「よごれて」と同じ雰囲気なのだが、「にび色」となると達治調の詩となり、俳句の方は「よごれて」と素っ気がない。おまけに、「よごれて」の「て」が、詩の方の三行目の「流れて・ゆく」と同じ用例のようで、これまた、達治調なのかも知れない。「て」の使い方は難しい。ここで句切れがあるのかどうか。おそらく、これは、句切れなしの、「よごれたまま」の継続の「て」の用例の感じである。「眠りたる」の「たる」も「をり」の感じなのだが、これまた、達治調か(?)
柿落葉
家鴨
よごれて
眠りたる
二九 鵯どりの朱の一刷けの頬も秋
鵯(ひよ・ひよどり)は晩秋の季語。三好達治の表記は、「鷗どり」「鵯どり」と「とり・どり」を入れるのが多い。「朱の一刷けの」「頬も秋」とは、誠に細部描写の、そして華麗な雰囲気である。この句、全体的に、芭蕉と去来の付け合いが思い起こされて来る(『猿蓑』)。
鳶の羽も刷(かいつくろい)ぬはつしぐれ 去来
一ふき風の木の葉しづまる 芭蕉
鵯どりの
朱の
一刷の
頬も秋
鵯どりの
朱の一刷けの
頬も
秋
四行詩としては「頬」に焦点を当てた後者の方が佳いか(?)
三〇 星とぶや隣家の鯉の水を打つ
「星とぶ」は三秋の季語(流れ星)。「星一つ命燃えつつ流れけり」(高浜虚子)、「死が近し星をくぐりて星流る」と、それぞれ感慨深い句が多いのだが、三好達治のは、「鯉の水を打つ」句で、しかも、それも、「隣家の」「鯉」というのは、いかにも、耳の敏感な達治らしい句である。と同時に、換骨奪胎自由自在の、この詩人には、次の蕪村の句が脳裏にあるのかも知れない。
我を厭(いと)う隣家寒夜に鍋ならす (蕪村)
蕪村の方は「鍋の音」だが、達治のは「鯉の水を打つ音」である。さらに、蕪村にはもう一句ある。
壁隣ものごとつかす夜さむ哉 (蕪村)
蕪村のは長屋暮らしの一句だが、この「ごとつかす」というよりも、「鯉の水を打つ音」となると、いかにも、風雅の詩人、三好達治の句に相応しいか(?)
星飛ぶや
隣家の
鯉の
水を打つ
三一 冬うらら空より下りて鷗どり
「冬うらら(麗ら)」は三冬の季語。「冬麗ら花は無けれど枝垂梅」(高浜虚子)。「鳥語」の世界の三好達治の「鷗」の句。「冬うらら」「空より下りて」「鷗どり」、何から何まで達治調である。この句については、下記のアドレスで取り上げられていた。
http://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/folder/385596.html?m=lc&p=9
[いい俳句というのは一見、当り前じゃないか、それがどうした、と思うようなものが多い。
この句もそう。
しかし、それだけではないのは、例えば光りなどの色彩、羽音などの音、そういった五感にひびくものがあるからではないか。
以前、私は俳句は追体験、疑似体験の文芸だと書いたが、その、ひびく五感が読み手を詩の世界へと誘うのだろう。
掲句。
冬晴れの美しい光りと羽音をもって舞い降りる、白い鴎たちは、まさしく美の象徴である。
あたたかな冬の日差し。
空より舞い降りる鴎の羽ばたきの音。
そういったものが読み手の心に広がれば、美しい詩の世界が現れる。]
http://yasumasa.jp/2008/11/20/post_376.html
[冬うららが冬の季語。冬晴、冬日和、冬晴るるなども同意の季語です。
見たままを句にしていますね。11月に入って時々、小春日和の日がありますが、それが過ぎたころになると穏やかに晴れる日が続くことがあります。この天気が始まると、冬の日差しの中でのんびりとすべてがみなうららかにくつろいだ日常になります。ときには子猫がじゃれて遊ぶような気分にもなりますね。
この句は、そのような中で、いつも気ぜわしい鴎がゆったりと空より下りてくる様子を句に仕立てています。好感が持てますね。]
三二 礎(いしずみ)のやぶれてここだしじみ蝶
「鶏林六句」と前書のある一番目の句である。「鶏林」は朝鮮のこと。三好達治の朝鮮旅行は、昭和十五年(一九四〇)の九月中旬から二ヶ月にわたっての長期のものであった。この旅行は、当時、朝鮮総督府に勤めていた達治門の詩人・則武三雄が案内したものであった。則武三雄は、終戦後帰国して当時三国に居た達治の所に身を寄せ、以来、福井に身を埋めることとなる。
掲句の「礎(いしずみ)」は、ソウルの城郭の石積みか(?)「しじみ蝶」は羽を広げた形がしじみ貝に似ていることによるとか。また、「チョウセンアカシジミ」という蝶もいるとか。フアーブルの『昆虫記』を訳した達治の詩には、蝶は格好なモチーフであった。「ここだ」は、「ここに居た」という意か(?)
礎(いしずみ)の
やぶれて
ここだ
しじみ蝶
(追記)
http://www.library.pref.fukui.jp/books/noritakekazuo_bunko.html
則武三雄(のりたけ・かずお)
本名・則武一雄。明治42年(1909年)、鳥取県米子市に生まれる。19歳で朝鮮に渡り、約17年間を過ごす。朝鮮総督府に勤務しながら、満州国と朝鮮の国境を流れる鴨緑江を背景とした文学活動を行う。
終戦後まもなく帰国、雄島村(現・坂井市)に疎開していた生涯の師・三好達治のもとに身を寄せる。その後、三好達治が上京してからも、福井の地にとどまり、41歳で福井市に居を移す。
福井県立図書館司書として勤務する傍ら、文学サロン・北荘文庫を創設主宰。独自の出版活動を行い、福井に根をおろした文学活動を展開していく。 地方主義を提唱し、広部英一、岡崎純、南信雄、川上明日夫、荒川洋治ら多くの後進を育てる。数多くの詩集のほか、福井の文学や、越前和紙など福井の文化についての著書も著す。
昭和39年(1964年)福井県文化賞受賞。昭和61年(1986年)文部大臣表彰受賞。 平成元年(1989年)に福井県立病院に入院。闘病生活中にもベッドで詩を書き続けた。平成2年(1990年)11月21日没。
三三 井戸枠に疲れし蜂の三四かな
「鶏林六句」の二番目の句。「三四かな」の「三四(さんし)かな」の読みか(?) それとも、「三四」(みいよ)かな」の読みか(?) 次の「切字」の「かな」と来ると、ここは、後者の読みのようにも思われる。三好達治の随筆集(岩波文庫)の「夏近し」の中には、「とんぼうの狂ひしづまる三日(みか)の月、という風なのは俳諧の方では秋季に属する」というのも出てくる。「一(ひ)・二(ふ)・三(みい)・四(よ)」の読みも、日本語の美しさを狙う達治らしい雰囲気でなくもない。しかし、前句の、「礎(いしずみ)のやぶれてここだしじみ蝶」と、この「ここだ」という口語調の調子からすると、やはり、ここも、口語調の「三四(さんし)かな」の読みとしたい。
達治の詩で、この種のものの読みは面白い。
二十年(はたとせ)
一日(ひとひ)
三度(みたび)
七(なな)つ八(や)つ
一(ひと)つ一(ひと)つ
夜を一夜秋を一秋 この庭に歌ひつがれし一つ歌 (「歌の歌」)
群盗のはてのちりぢり柿の木に
ふところ手する庭すずめ七 (「庭すずめ七」)
三四 虎渓てふ村あり稲を刈りほせる
三好達治の朝鮮への思いというのは生涯にわたって変わらなかった。それは、次の年譜に大きく関わることであったと思われる。
[大正八年(一九一九) 十九歳 幼年学校本科一年半の過程を終え、北朝鮮会寧の工兵第十九大隊に赴任。士官候補生の軍隊生活を送る。フランス語の学習や剣道に励む。剣道はのち三段まで進む。]
この「虎渓てふ村」というのが、何処なのかというよりも、例えば、「虎渓三笑図」(中村不折書画)などの、漢詩などに多く関係する句のように思われる。
http://blogs.yahoo.co.jp/hotei21jp/32972456.html
「虎渓三笑図」(中村不折書画)
東晋の僧、慧遠(334-416)は、江西省廬山に東林寺を建てて隠棲し、
俗界禁足して30年間山を出なかった。
訪ねてきた客人を見送るときも、山の下にある虎渓の小さな橋を越えることがなかった。
ある日、友人の陶淵明(365-427)と陸修静(406-477)を送って行って、道中話が弾んだ。
遠くの虎の鳴き声で我に返ると、いつの間にか虎渓の橋を越えていて、3人は大いに笑った。
生没年を見ればわかるように作り話だが、
慧遠(=仏教)、陶淵明(=儒教)、陸修静(=道教)ということで、
儒道仏が融合する唐以降に三教一体を示すものとして広まった説話とのこと。
三五 初霜も鴉のわたる仏国寺
三好達治は、昭和十五年(一九四〇)の朝鮮旅行の後、昭和十九年(一九四四)に『一点鐘』を刊行する。そこに、その旅行をもとにしての数々の代表的な詩を刻んでいる。「鶏林口誦」「路傍吟――慶洲四天王寺跡にて」「志おとろへし日は」、そして、「冬の日――慶州仏国寺畔にて」などである。そして、この「冬の日」については、篠田一士は、「作品は終始一貫してコスミックな次元を目指し、ついにそれを獲得する。そして『測量船』のリリシズムから予想もできないような高まりと緊張が生まれる。ぼくはこの作品をぼくたちが今日までもちえた最上の形而上詩だと断言してはばからない」(『現代詩読本三好達治』所収「三好達治再読――現代日本詩の影の部分(篠田一士稿)」)とまで評している。
冬の日 (『一点鐘』所収)
―― 慶州仏国寺畔にて
ああ智慧(ちゑ)は かかる静かな冬の日に
それはふと思ひがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前触れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」
秋は来り 秋は更け その秋は已(すで)にかなたに歩み去る
昨日はいち日激しい風が吹きすさんでいた
それは今日この新らしい冬のはじまる一日だつた
さうして日が昏(く)れ 夜半(やはん)に及んでからも 私の心は落ちつかなかつた
短い夢がいく度か断れ いく度かまたはじまつた
孤独な旅の空にゐて かかる客舎の夜半にも
私はつまらぬことを考へ つまらぬことに懊(なや)んでゐた
さうして今朝は何といふ静かな朝だらう
樹木はすつかり裸になつて
鵲(かささぎ)の巣も二つ三つそこの梢(こずえ)にあらはれた
ものの影はあきらかに 頭上の空は晴れきつて
それらの間に遠い山脈の波うつて見える
紫霞門(しかもん)の風雨に曝(さ)れた円柱(まるばしら)には
それこそはまさしく冬のもの この朝の黄ばんだ陽ざし
裾の方はけぢめもなく靉靆(あいたい)として霞(かすみ)に消えた それら遥かな
巓(いただき)の青い山々は
その清明な さうしてつひにはその模糊(もこ)とした奥ゆきで
空間(エスパース)てふ 一曲の悠久の樂を奏しながら
いま地上の現(うつつ)を 虚空の夢幻に橋わたしてゐる
その軒端(のきば)の雀の群れの喧(さわ)いでゐる泛影楼(へんえいろう)の甍(いらか)のうへ
さらに彼方疎林の梢に見え隠れして
そのまた先のささやかな聚落(しうらく)の藁家(わらや)の空にまで
それら高からぬまた低からぬ山々は
どこまでも遠くはてしなく
静寂をもつて相応(あひこた)へ 寂幕をもつて相呼びながら連つてゐる
そのこの朝の 何といふ蕭条(せうでう)とした
これは平和な 静謐(せいひつ)な眺望だらう
さうして私はいまこの精舎の中心 大雄殿(だいゆうでん)の縁側に
七彩の垂木の下に蹲(うづくま)り
くだらない昨夜の悪夢の蟻地獄からみじめに疲れて帰つてきた
私の心を掌にとるやうに眺めてゐる
誰にも告げるかぎりでない私の心を眺めてゐる
眺めてゐる――
今は空しいそこここの礎石のまはりに咲き出でた黄菊の花を
かの石塔(せきとう)の灯袋(ひぶくろ)にもありなしのほのかな陽炎(かげらふ)のもえてゐるのを
ああ智慧は かかる静かな冬の日に
それはふと思ひがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前触れもなくそれが汝の前にきて
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」
三六 つゆ霜に木鼠啼くや仏国寺
「つゆ霜」(露霜)は、晩秋の季語。露と霜。また露、特に凍ってなかば霜となった露。水霜。「木鼠」は栗鼠(りす)。達治は「お花見日和」という随筆の中で、「栗鼠は囀る」ということを綴っている。
[栗鼠は囀るのである。地上にはわずかに霜が置いて、それはすがすがしい朝の空が爽やかに晴れ上がってゆく、五時すぎ六時にはまだ間のある時刻であった。栗鼠もまた小鳥のように、そういう朝の快感に浮かれ気味に無心に囀っていたのであろうか。もしかすると、彼の歌はそれほど無邪気な性質のものではなく、巧みな欺瞞で迂闊な相手を間近に呼び寄せておいて、すばやい次の動作に移ろうとする狡猾な詭計であったかも知れない、と私は推量した。私の推量は殺風景なものであったが、それを含めてその朝ぜんたいは、――あるいはそれによって一層いきいきと、今もなお私には夢のように美しいものとして回想される。]
また、次のような詩も、その中に綴られている。
[ 霜紫に朝晴れて
栗鼠の囀る仏国寺
涸れた井戸のおごそかに
あれちのぎくの花咲きぬ ]
三七 野分してやがて旅籠(はたご)の時計かな
「野分」は野分けの風で仲秋の季語。「旅籠(はたご)」は江戸時代の宿駅などで武家や一般庶民を宿泊させた食事付きの宿屋。元来旅籠とは馬料入れの丈の低い竹籠を指したとされる。この句は「鶏林六句」の前書きの六番目の句なのだが、「鶏林」での句というよりも、信州(志賀高原など)あたりの句の雰囲気である(前書きがこの句までかかるのかどうかは不明)。また、何処となく、「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」(芭蕉)を思い起こさせる。この芭蕉の句も、「芭蕉野分して、(やがて)盥に雨を聞く夜かな」と、「やがて」が隠されている「野分して」の用例で、達治のは、その「やがて」を明示している。そして、芭蕉の句も、達治の句も、この「野分して」で、ここで「句切れ」がある。達治は、芭蕉のこの野分の句について、「野分は秋に吹く暴風である。強い雨風の後、ひとり薄暗い小屋にいるわびしさが、ひしひしと身にせまっている」と評している。達治の句も、旅中にあっての一人居のわびしさなどの孤独感の一句と解したい。
秋深み
石の上にも葉ずゑにも
蜻蛉(あきつ)らを見ず
はやもほろびし (達治「発晡温泉にて」)
三八 高からぬ山突兀(とつこつ)と百舌遠音
「百舌」が三秋の季語。「百舌の高鳴き」とか「百舌の速贅(にえ)」とかがよく句材にされるが、「百舌遠音」は耳の鋭い三好達治らしい。「突兀(とつこつ)」は高く突き出ているさま。高くそびえるさま。「高からぬ山突兀(とつこつ)」というと、「高い山ではないが突き出ている」ということか(?) それと「百舌遠音」との取り合わせの一句。この「百舌遠音」も、「百舌の高い音ではなく遠くかすかな音」と「高からぬ山突兀(とつこつ)」と同じような雰囲気である。この句は、「突兀とした高からぬ山」の句か、それとも「百舌遠音」の句なのか、俳句的には、季語がある「百舌遠音」の句であろう。しかし、四行詩にすると、次のような行分けが自然で、「突兀とした高からぬ山」の、その「山」の句のような響きである。
高からぬ
山
突兀と
百舌遠音
三九 飼猿も見おくるふりや秋の風
三好達治の処女詩集『測量船』は、萩原朔太郎や室生犀星の詩を背景にしたものが多く見受けられる。そして、こと俳句に関しては、これまた、芭蕉や蕪村の句が見え隠れしているものが多い。掲出の句も、「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」(芭蕉)などが背景にあるか。「飼猿も」の「も」は、飼猿の他に見送る人が居て、この「ふり」は、その飼猿は「見送るふりをしている」と、この「ふり」の二字が効いている。続く、中七「や」切りの、この「や」も俳句の骨法を踏まえている。「よもすがら秋風聞くやうらの山」(曽良)、「大豆(まめ)の葉も裏吹くほどや秋の風」(路通)など。
飼猿も
見送る
ふりや
秋の風
四〇 ででむしのえりうつくしき初時雨
「ででむし・でて虫・蝸牛」が三夏の季語。そして、「初時雨」は初冬の季語で、この句は「季重なり」の句ということになる。この初時雨の句となると、「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」(芭蕉)と、「時雨忌」の芭蕉に因んで、まずは、達治のこの一句も「初時雨」の句と解したいが、この句は、その「初時雨」の句ではなく、「ででむしのえりうつくしき」と「ででむし」の句という雰囲気でなくもない。
「かたつむりつるめば肉の食ひ入るや」は永田耕衣のエロスの根源を凝視しているような一句。三好達治の詩の世界では、このエロスの世界と無縁のものという評が一般的である。事実、達治自身、「エロスを描くことはどうにも性が合わない」旨の発言をしばしば座談会などの場で発言している。その達治にしては、「えりうつくしき」と、実に官能的なエロスの世界という雰囲気を醸し出している。
そして、その官能的なエロスの世界に、下五の「初時雨」が実に情緒的に働いていることは驚くばかりである。とすると、この句は、「ででむし」の句というよりも、やはり、「初時雨」の句と解すべきなのかも知れない。そして、自然諷詠の詩人三好達治の、この一句も、エロスの世界というよりも、やはりその自然諷詠の世界のものという鑑賞が素直なのかも知れない。
ででむしの
えり
うつくしき
初時雨
四一 両三基辞世は松に浜の秋
「両」は両輪のある車輌のことか(?) 例えば、砲車のようなものか(?) 「三基」の「基」は据え付けられているものの単位の「基」か(?) とにもかくにも、「両三基」というのは、軍車輌のような雰囲気である。「辞世は松に」というのは、「松に辞世の歌などが記されている」というような意であろう。続く、「浜の秋」は、「海辺の浜は秋の風情である」というようなことであろう。
達治は、戦時中に多くの戦争詩を公表し、戦後、それらのことから、達治の次の世代の、吉本隆明や鮎川信夫らに痛烈な批判を浴びることとなる。鮎川信夫は、「日本がよくよく駄目な国なら、彼も長命であろう」と、その全詩業は「逃避幻想詩人」の単なるテクニシァンの為せる技のものとばっさりと一刀両断にしている(「現代詩読本三好達治」所収「三好達治論――逃避幻想の詩人(鮎川信夫稿)」)。
しかし、それらの戦争詩批判の背景には、一種の公職追放(その逆コースのレッドパージ)のような色彩がなくもなく、それらの一事を以て、その全詩業を拒絶するという姿勢には、鮎川信夫の言葉でするならば、それこそが、「日本がよくよく駄目な国」になるような、そんな危惧感がしないでもないのである。
ともあれ、三好達治は、その処女詩集『測量船』などに見られる「抒情詩人」であるというイメージ共に、幼年学校そし、陸軍士官学校(中退)と軍人教育を受けたところの「憂国の詩人」というイメージが、常につきまとうということは否定し難いところのものであろう。
両三基
辞世は
松に
浜の秋
四二 海の藍ざぼんの緑赤とんぼ
「赤とんぼ・赤とんぼう・茜(あかね)」が三秋の季語。「ざぼん・ザボン・朱欒・文旦」は三冬の季語だが、この句は「赤とんぼ」の句。上五の「海の藍」と中七の「ざぼんの緑」とは全くの同じスタイル・リズムで、それに合わせて、下七の「赤とんぼ」と、収まりのよい結句としている。「藍・緑・赤」の三色を入れての、「海・ざぼん・赤とんぼ」の取り合わせの一句。そして、単に、それだけの言葉遊びの句という印象だが、わずかに、「ざぼんの緑」の「ざぼん」で南洋的な雰囲気がなくもない。
ところが、この句は、『測量船』所収の「落葉やんで」の詩に関係があるようである。この散文詩の「落葉やんで」には、次のような俳句が出てくる。
飴売りや風吹く秋の女竹
やまふ人の今日鋏(はさみ)する柘榴かな
この二句に続いて、「病を養つて伊豆に客なる梶井基次郎より返書あり、柘榴の句は鋏するところ、剪定の意なりや収穫の意なりや、弁じ難しとお咎め蒙つた」として、次の句が出てくる。
一つのみ時雨に赤き柘榴かな
そして、故郷に帰って、次の二句を得る。
海の藍柘榴日に日に割るるのみ
冬浅き軍鶏のけづめのよごれかな
これらの詩に出てくる俳句などをもとにして、掲出句を見て行くと、どことなく、三好達治の若き日の忘れ得ざる親友の梶井基次郎などに連なっている一句という雰囲気でなくもない。
四三 秋深き柱にとまる胡蝶かな
「胡蝶・蝶」は三春の季語。この三春の象徴的な胡蝶が、「秋深き柱にとまる」というのである。これは嘱目の句ではなかろう。これは、「彼の指先の言葉のあやつり糸によって敏感に反応する自然はつくりものの世界である」(「現代詩読本三好達治」所収「三好達治論――逃避幻想の詩人(鮎川信夫稿)」)との、その「つくり物の世界」に他ならない。
そして、これは、芭蕉や一茶の次のような句が背景にあるように思えるのである。
秋深き隣は何をする人ぞ (芭蕉)
この「秋深き」の句は、芭蕉の最晩年の一句。上五に「秋深き」を持って来れば、誰しもが、この芭蕉の句を想起させる。そして、「柱」と来ると、芭蕉や一茶の次の句が想起されて来るのである。
冬籠りまたよりそはん此(この)はしら (芭蕉)
よりかゝる度(たび)に冷(ひや)つく柱哉(一茶)
芭蕉のこの句は、白楽天の「閑居マタ此ノ柱ニ倚(ヨ)ル」(「閑居賦」)に因るとされている。また、一茶の句は、芭蕉の「柱」の句に対する「すね者一茶」の痛烈な「捩り」の一句である。
掲出句を、これらの芭蕉や一茶の句を踏まえていると解すると、何とも、三好達治の「創作工房」というのが見えて来るような思いがして来るのである。
四四 秋風の山を越えゆく蝶一つ
「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた」は安西冬衛の短詩である。マクロの「韃靼海峡」(間宮海峡・タタール海峡)とミクロの「蝶」(てふてふ)との取り合わせの短詩。三好達治の掲出句も、ミクロの「秋風の山を越えゆく」と、ミクロの「蝶一つ」の取り合わせの一句。この「蝶一つ」というのが、安西冬衛の「てふてふが一匹」と、どこか響き合う雰囲気なのである。
「蝶」は三春の季語だが、「秋の蝶」(老蝶)も立派な三秋の季語である。しかし、「秋の蝶」の句として、「秋風の山を越えゆく蝶一つ」というのは、これまた、「彼の指先の言葉のあやつり糸によって敏感に反応する自然はつくりものの世界である」(「現代詩読本三好達治」所収「三好達治論――逃避幻想の詩人(鮎川信夫稿)」)との、その「つくり物の世界」のように思えてならないのである。
中原中也にも、「一つのメルヘン」という「秋の蝶」が出て来る詩がある。その中也の題名を借りれば、この掲出句は、三好達治の「一つのメルヘン」とも理解できるのではなかろうか。
一つのメルヘン(中原中也 『在りし日の歌』より)
秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。
陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。
やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……
四五 雁も浅間のよなをかづくらし
「雁・かりがね・がん」は晩秋の季語。「よな」は火山灰のこと。「かずく」は「被づく」で「かぶる」の意。「らし」は推定の助動詞(~らしい。~にちがいない)。三好達治は昭和八年(一九三二)当時、信州の発晡温泉・上林温泉などに長期滞在して、歌集『日まわり』を刊行している。その信州辺りからの浅間の句であろうか。
達治は、「詩は本当のことを嘘のように作るものだ」という萩原朔太郎の説を敷衍して実践したというが(「現代詩読本三好達治」所収「三好詩を追うて――三好達治入門(石原八束稿)」)、その虚実皮膜(虚でもなく実でもなくその微妙な空間)の一句という雰囲気である。この虚実皮膜ということは、常に、「彼の指先の言葉のあやつり糸によって敏感に反応する自然はつくりものの世界である」(「現代詩読本三好達治」所収「三好達治論――逃避幻想の詩人(鮎川信夫稿)」)との、その「つくり物の世界」と、即かず離れずの、これまた、微妙な位置関係にあるものなのであろう。
雁も
浅間の
よなを
かづくらし
四六 浅間嶺のよなふる朝の渡鳥
「渡鳥・鳥渡る」が三秋の季語。「雁も浅間のよなをかづくらし」と同時の作なのであろう。
雁も浅間のよなをかづくらし
浅間嶺のよなふる朝の渡鳥
浅間、そして、よな(火山灰)と来ると、三好達治の詩友の立原道造の「はじめてのものに」(『萱草に寄す』の巻頭の詩)の十四行詩(ソネット)が想起されてくる。
はじめてのものに(立 原 道造)
ささやかな地異は そのかたみに
灰を降らした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた
その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた
───人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた
いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた
そして、立原道造が亡くなったときに、達治は、次の追悼詩を献じた。
暮春嘆息
──立原道造君を憶ふて── (三好達治)
人が 詩人として生涯ををはるためには
君のやうに聡明に 清純に
純潔に生きなければならなかった
さうして君のやうに また
早く死ななければ!
四七 木枯やこのごろ多き阿世の徒
「揆未歳晩」の前書き。「揆未」(みずのとひつじ、きび)は、昭和十八年(一九四三)、三好達治、四十三歳のときである。「歳晩」は年末のこと。「阿世」は世の中の大勢(たいせい)におもねること。世にこびへつらうこと。「徒」は連中とか仲間の意。
三好達治の師の萩原朔太郎が亡くなったのは、昭和十七年(一九四二)で、その一年前の作ということになる。達治は、朔太郎から、「隠居じみた俳句などは止めなさい」と言われたということを、何かの座談会などて述べているので、その朔太郎の忠告を守ったとも言っているが、事実は、俳句創作は続けていたということなのであろう。この朔太郎が亡くなったとき、朔太郎の妹のアイと運命的な再会をし、後に、妻子と別離し、日本海に面する三国に二人で逃避行をするが、その頃の作でもある。
太平洋戦争が勃発したのは、昭和十六年(一九四一)の十二月、当時の達治周辺にもいろいろなことがあった。昭和十七年には、自選詩集『覊旅十歳』、詩論集『諷詠十二月』も刊行している。併せ、戦時下の時事風俗詩を収めた詩集『捷報いたる』の刊行も、この年である。昭和十八年には、愛国詩集『寒柝』も刊行し、戦後、これらの戦争詩にからんで、達治は糾弾されることとなる。
掲出句の、「木枯やこのごろ多き阿世の徒」というのは、戦後の、その「戦争協力者」としての達治への非難中傷に向けての「阿世の徒」と反駁している雰囲気でなくもないが、実は、戦時中の、詩人達治の孤高の鬱積した心情を吐露する人事句なのである。その詩人達治が「阿世の徒」として嘆くのは、次の「師よ 萩原朔太郎」の、「あなたの前で喰せ物の臆面もない木偶(でく)どもが / お弟子を集めて横行する(これが世間といふものだ
文人墨客 蚤の市 出性の知れた奴はない)」のような類であろう。
師よ 萩原朔太郎(三好達治)
幽愁の鬱塊
懐疑と厭世との 思索と彷徨との
あなたのあの懐かしい人格は
なま温かい溶岩(ラヴア)のやうな
不思議な音楽そのままの不朽の凝晶体――
あああの灰色の誰人の手にも捉へるすべのない影
ああ実に あなたはその影のように飄々として
いつもうらぶれた淋しい裏町の小路をゆかれる
あなたはいつもいつもあなたのその人格の解きほごしのやうなまどはし深
い音楽に聴き耽りながら
ああその幻聴のやうな一つの音楽を心に拍子とりながら
あなたはまた時として孤独者の突拍子もない思ひつきと諧謔にみち溢れて
――――酔つ払つて
灯ともし頃の遽だしい自転車の行きすがふ間をゆかれる
ああそのあなたの心理風景を想像してみる者もない
都会の雑沓の中にまぎれて
(文学者どもの中にまぎれてさ)
あなたはまるで脱獄囚のやうに 或はまた彼を追跡する密偵のやうに
恐怖し 戦慄し 緊張し 推理し 幻想し 錯覚し
飄々として影のやうに裏町をゆかれる
いはばあなたは一人の無頼漢 宿なし
旅行嫌ひの漂泊者
夢遊病者(ソムナンビユール)
零(ゼロ)の零(ゼロ)
そしてあなたはこの聖代に実に地上に存在した無二の詩人
かけがへのない 二人目のない唯一最上の詩人でした
あなたばかりが人生を ただそのままにまつ直ぐに 混ぜものなしに
歌ひ上げる
作文者どもの掛け値のない そのままの値段で歌ひ上げる
不思議な言葉を 不思議な技術を 不思議な知慧をもつてゐた
あなたは詩語のコンパスで あなたの航海地図の上に
精密な 貴重な 生彩ある人生の最近似値を われらのアメリカ大陸を
発見した
あなたこそはまさしく詩界のコロンブス
あなたの前で喰せ物の臆面もない木偶(でく)どもが
お弟子を集めて横行する(これが世間といふものだ
文人墨客 蚤の市 出性の知れた奴はない)
黒いリボンに飾られた 先夜はあなたの写真の前でしばらく涙が流れたが
思ふにあなたの人生は 夜天(よぞら)をつたふ星のやうに
単純に 率直に
高く 遙かに
燦欄として
われらの頭上を飛び過ぎた
師よ
誰があなたの孤独を嘆くか
四八 遠蛙きく丘の上の花胡瓜
「遠蛙(とおかわず)」は三春の季語。「花胡瓜」は「胡瓜の花」で初夏の季語。この句は遠蛙の句か、それとも花胡瓜の句か(?) 「遠蛙/きく・丘の上の・花胡瓜」で、「花胡瓜が遠くで鳴いている蛙の声」を「きく」ということで、「花胡瓜」に主眼のある句であろう。「きく・丘の上の・花胡瓜」の「丘の上(へ)の」の「の」が微妙である。「遠蛙/きく・丘の上(うえ)/花胡瓜」とすると、「遠蛙」の句となり、「きく」のは「作者」ということになろう。それを「丘の上の花胡瓜」とすると、作者の姿は消えて、「花胡瓜」の句となり、この「私性の消失」は、三好達治の俳句の特徴でもある。
遠蛙
きく
丘の上の
花胡瓜
四九 夏風やてんたう虫を指の先
「夏風」も「てんたう虫・天道虫」も三夏の季語。「指の先」は作者の「指の先」か(?)
とすれば、三好達治の句にしては珍しく作者の姿が明瞭である。達治がファーブルの『昆虫記』の翻訳に当たったのは、昭和五年(一九三〇)のこと。この年には、信州白骨温泉に滞在して、その『昆虫記』を訳了した。この句は、その信州辺りの光景のようでもある。
達治の鳥好き、虫好き、そして、動物好きは定評がある。その第二詩集『南窗集』は、全編、動物詩集という雰囲気である。そして、フランシス・ジャム風の四行詩のオンパレードである。
中でも次の詩はよく知られている。
蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのやうだ。
五〇 ありといへば指す力はあり蝸牛
「蝸牛・かたつむり」が三夏の季語。「ありといへば指す力はあり」の「あり」は「有り・無し」の「有り」であろう。「ありといへば」と「指す力はあり」が字余り。「指す力はあり」の「は」は、三好達治調の助詞という雰囲気である。この句は、蝸牛のの触覚の句なのであろう。蝸牛の触覚については、文部省唱歌がある。
かたつむり(文部省唱歌)
一、
でんでん蟲蟲かたつむり、
お前のあたまはどこにある。
角だせ、槍だせ、
あたま出せ。
二、
でんでん蟲蟲かたつむり、
お前のめだまはどこにある。
角だせ、槍だせ、
めだま出せ。
五一 つゆ艸や露の中なる寺の屋根
「加戸本流院にて」の前書き。「加戸本流院」は達治が戦時中に疎開した三国町(現在の坂井市三国町)の真宗高田派の連枝格寺院の「加戸本流院」のことか(?)。達治の三国在住は、昭和十九年(一九四四)から昭和二十四年(一九四九)の五年間である。戦後も、俳句を作り続けていたのであろうか(?) 「つゆ艸・露草」が初秋の季語で、「露」は三秋の季語。「つゆ艸や」と上五の「や」切りで、「つゆ艸」に主眼のある句なのであろう。
「露草」は、古くは「つきくさ(月草・鴨頭草)」と呼ばれた。色が付着しやすいので「付き草」が語源だろうとする説、夜の暗いうちから月光を浴びて咲くので「月草」と呼ばれたとする説などがある。万葉集にも「月草」の歌が数種ある。それは「はかなさ」などの相聞歌が多く、それはまた「露」に通ずるものでもある。達治の掲出句も、その「露」に通ずる「露草」の本意をしっかりと見据えている雰囲気である。
(大伴坂上家之大娘、大伴宿祢家持に報贈する歌)
月草のうつろひやすく思へかもあが思ふ人のことも告げ来ぬ
(作者未詳)
月草に衣は摺(す)らむ朝露に濡れてののちはうつろひぬとも
(追記)昭和十九年(一九四四)に刊行された『花筺』に、次の「つゆ艸」の詩がある。
かへる日もなきいにしへを
こはつゆ艸の花のいろ
はるかなるものみな青し
海の青はた空の青 (「かへる日もなき」)
五二 物を干す石のひまより秋のこゑ
「石のひま」の「ひま」は「隙」で隙間のことであろう。「物を干す石のひまより」とは、洗濯ものなどを、石の上に置いて乾かすことか(?) 三好達治は軍人教育(陸軍幼年学校など)を受けて、野営などでは、洗濯ものを石の上に干すようなことをしたのであろうか(?) それとも、これは朝鮮などの洗濯の光景なのであろうか(?) 達治は、大正八年(一九一九)の頃、幼年学校本科を終え、北朝鮮会寧の工兵第十九大隊に赴任する。そして、昭和十五年(一九四〇)の九月から十一月まで、達治門の詩人則武三雄の案内で朝鮮各地を旅行する。達治にとって、朝鮮は初赴任の思い出の土地でもある。
「秋のこゑ」というのは、「秋の虫の声がする」ということであろう。「石のひまより秋のこゑ」は、詩人三好達治の確かな詩眼なのであろう。「短歌集日まはり」には、「橋のてすりにもの干せり」のものがある。
女きて
橋の手すりにもの干せり
煙のながれ
はやき春の日
五三 崖下の古庇にも落椿
「落椿(おちつばき)」が三春の季語。「崖下」(がいか)は、ここは「がけした」の読みだろう。「崖下」を「がいか」と読むならば、「落椿」は「らくちん」という読みもあるのか知れない(?) 三好達治の随筆集の、『夜沈々』は、「家賃、家賃」と催促されていることを捩っての題名とか(?) また、「風粛々」はも「貸せ、少々」の意があるとか(?)
掲出の句も、「崖下・古庇・落椿」と来ると、それぞれ読みが気に掛かる。「古庇」は「ふるびさし」と濁っての読みだろう。「崖下」の「が」、「古庇」の「び」、そして、「落椿」の「ば」の、この読みや音声などは、達治の脳裏にあったことだろう。
達治は、漢字の読みには、殊の外うるさかった。
貝殻(『一点鐘』より)
よべひと夜
やさしくあまい死の歌を
うたつてゐた海
しかしここに残されし
今朝の沙上の
これら貝殻
――この「ひと夜」を「ヒトヤ」と「放送局の専属朗読者」が読んだと、作者としては「ヒトヨ」と読んで貰いたいというのが、何かに載っていた。「大阿蘇」という詩は、「ダイアソ」と読む人がいると、これも憤慨していた。
しかし、掲出句の「古庇」の、この「庇」で、「甃(いし)のうへ」の詩では、「廂々」は、「ひさしひさし」と濁らないルビのようである(『三好達治全集六』所収「甃のうへ」)。
これまで、「ひさしびさし」と濁って読んでいたけど、おそらく、達治は、「ひさしひさし」と濁らないで読んでいたのであろう。
もっとも、「作品は、読者の理解味読にまかせておくのが好ましい」(『三好達治全集六』所収「甃のうへ」)とも言っているので、それほど神経質にならなくても良いのかも知れない。
五四 菱喰の彼方は真雁(まがん)春禽舎
「菱喰(ヒシクイ)」も「真雁(マガン)」も雁の一種で、晩秋の季語。真雁よりも菱喰の方が大きく、嘴などに異同がある。共に、秋に飛来し、春になるとシベリア・カムチャッカ半島方面へ去って行く。これは、動物園の春の「禽舎」(鳥小屋)の風景であろう。
「菱喰の彼方は真雁(まがん)」というのは、「近い方に、菱喰が居て、遠くに真雁が居る」というようなことであろう。春になると帰る菱喰や真雁が、うららかな春の鳥小屋の傍らに居るという光景であろうか(?) 鳥好きの三好達治には、菱喰と真雁の違いが分かって、そういう面白さを狙っているのだろうが、関心のないものにとっては、とんと、この句の面白さが伝わって来ない。
菱喰(ひしくひ)の
彼方は
真雁(まがん)
春禽舎
(追記)
「菱喰の彼方は真雁(まがん)」というのは、「彼方に真雁が飛び立って、今、菱喰が飛び立って行く」というような光景にも取れる。そして、「その池の傍に禽舎があって春の装いである」というようなことか(?) 即ち、真雁(遠景)、菱喰(中景)、そして、禽舎(近景)というような光景なのであろうか(?)
五五 木の芽淡し埃まみれの単峰駝
「単峰駝」(たんぽうだ・ひとこぶらくだ)は、ラクダの一種。体高約2メートル、背の中央にこぶが一つ隆起する。アラビア半島を中心にインド西部からアフリカ北部にかけて家畜として使役される。野生のものは絶滅。これは、動物園などの光景であろうか(?)。「木の芽」は三春の季語。「木の芽淡し」で早春の景か(?)
達治は、昭和二十七年(一九五二)、五十二歳のとき、第二十詩集『駱駝の瘤にまたがつて』を刊行する。その翌年、この詩集などによって、芸術院賞を受賞する。達治と駱駝とは深い関係にある。
「駱駝の瘤にまたがつて」(『駱駝の瘤にまたがつて』「水光微茫」)
えたいのしれない駱駝の背中にゆさぶられて
おれは地球のむかふからやつてきた旅人だ
病気あがりの三日月が砂丘の上に落ちかかる
そんな「天幕」(テント)の間からおれはふらふらやつてきた仲間の一人だ
何といふ目あてもなしに
ふらふらそこらをうろついてきた育ちのわるい身なし児だ
ててなし児だ
合鍵つくりをふり出しに
抜き取り騙り「掻払」(かっぱら)ひ樽ころがしまでやつてきた
おれの素性はいってみれば
幕あいなしのいっぽん道 影絵芝居のようだった
もとよりおれはそれだから こんな年まで行く先なしの宿なしで
国籍不明の札つきだ
けれどもおれの思想なら
時には朝の雄鶏だ 時に正午のひまわりだ
また笛の音だ 噴水だ
おれの思想はにぎやかな祭りのように華やかで 派手で陽気で無鉄砲で
断わっておく 哲学はかいもく無学だ
その代わり駆引きもある 曲もある 種も仕掛けも
覆面も 麻薬も 鑢(やすり)も 匕首(あひくち)も 七つ道具はそろっている
しんばり棒はない方で
いづれはカルタの城だから 築くに早く崩れるに早い
月夜の晩の縄梯子
朝は手錠というわけだ
いづこも楽な棲みかぢゃない
東西南北 世界はひとつさ
ああいやだ いやになった
それがまたざまを見ろ 何を望みで吹くことか
からっ風の寒ぞらに 無邪気ならっぱを吹きながら おれはどこまでゆくのだろう
駱駝の瘤にまたがって 貧しい毛布にくるまって
こうしてはるばるやってきた遠い地方の国々で
いったいおれは何を見てきたことだろう
ああそのじぶんおれは元気な働き手で
いつもどこかの場末から顔を洗って駆けつけて 乗合馬車にとび乗った
工場街じゃ幅ききで ハンマーだって軽かった
こざっぱりした菜っ葉服 眉間の疵も刺青もいっぱし伊達で通ったものだ
財布は骰ころ酒場のマノン------
いきな小唄でよかったが
ぞっこんおれは首ったけ惚れこむたちの性分だから
魔法使いが灰にする水晶の煙のような 薔薇のような接吻もしたさ
それでも世間は寒かった
何しろそこらの四辻は不景気風の吹きさらし
石炭がらのごろごろする酸っぱいいんきな界隈だった
あろうことか抜目のない 奴らは奴らではしっこい 根曲がり竹の臍曲り
そんな下界の天上で
星のとぶ 束の間は
無理もない若かった
あとの祭はとにもあれ
間抜けな驢馬が夢を見た
ああいやだ いやにもなるさ
――それからずっと稼業は落ち目だ
煙突くぐり棟渡り 空巣狙いも籠抜けも 牛泥棒も腕がなまった
気象がくじけた
こうなると不覚な話だ
思うに無学のせいだろう
今じゃここらの国の大臣ほどの能もない
いっさいがっさいこんな始末だ
――さて諸君 まだ早い この人物を憐れむな
諸君の前でまたしてもこうして捕縄はうたれたが
幕は下りてもあとはある
毎度のへまだ騒ぐまい
喜劇は七幕 七転び 七面鳥にも主体性―― きょう日のはやりでこう申す
おれにしたってなんのまだ 料簡もある 覚えもある
とっくの昔その昔 すてた残りの誇りもある
今晩星のふるじぶん
諸君にだけはいっておこう
やくざな毛布にくるまって
この人物はまたしても
世間の奴らがあてにする顰(しか)めっつらの掟(おきて)づら 鉄の格子の間から
牢屋の窓からふらふらと
あばよさらばよさよならよ 駱駝の瘤にまたがって抜け出すくらいの知恵はある
――さて新しい朝がきて
第七幕の幕があく /さらばどこかでまた会おう------
五六 春浅き麒麟(きりん)の空の飛行雲
「俳句は季題を詠む詩」ということであれば、この句は「春浅し(き)」(初春)の句ということになるが、「麒麟」という目立った用語が来ると、この句は「麒麟)」の句かという思いもして来る。しかし、この中七・下五の「麒麟の空の飛行雲」と、「空に麒麟の形をした飛行雲」ということで、飛行雲が主体なのである。即ち、この句の主題は、上五の「春浅し(し)」で、その具象的なものとして、「麒麟の空の飛行雲」を配したということになろう。恐らく、動物園での作なのであろうが、動物好きの三好達治が、麒麟そのものではなくて、その形をした飛行雲に着目しているのは、やはり、三好達治は、「自然諷詠」派の詩人にして「俳句は季題を詠む詩」という考えを基本に据えているのかも知れない。
『三好達治全集(四)』に「俳句と季題」(初出「俳句研究(昭和十一年四月号)」)というのがあって、そこで、次のように述べている。
[筆者は必ずしも、詩歌に於ける固陋な伝統派、退屈な守旧主義者に与みする者ではありませんが、要はただ、常に伝統精神に忠実であり、それを深く理解し、それを保育愛護して、しかも自らなる新風新声をその間に創造する、さういふゆり方を最も賢明着実なものとして、また最も困難な道として、尊敬し尊重する者であります。]
五七 人ありて象の糞掃く春浅し
三好達治には、戦後の第二十詩集『駱駝の瘤にまたがつて』所収の「ちつぽけな象がやつて来た」という詩がある。掲出の象の句とは直接には関係がないのかも知れない。詩の方の象は、今も生きている井の頭自然動物園の「はな子」(六十四歳?)さんである。この「はな子」さんがやって来たのは、昭和二十四年(一九四九)のことであった。達治は、昭和三十六年(一九六一)、六十一歳の時、「甃のうへ」(「国文学解釈と鑑賞(昭和三十六年六月臨時増刊号)」)という自作について述べたエッセイがある。そこで、この「ちつぽけな象がやつて来た」を取り上げている。達治にとっては、忘れ得ざる詩の一つなのであろう。
ちつぽけな象がやつて来た(『駱駝の瘤にまたがつて』所収)
颱風が来て水が出た
日本東京に秋が来て
ちつぽけな象がやつて来た
誕生二年六ヶ月
百貫でぶだが赤んぼだ
象は可愛動物だ
赤ん坊ならなほさらだ
貨車の臥藁(ねわら)に臥そべつて
おさつやバナナを食べながら
昼寝をしながらやつて来た
ちつぽけな象がやつて来た
牙がないのは牝だから
即ちエレファス・マキシムス※
もちろんそれや象だから
鼻で握手をするだらう
バンコクから神戸まで
ふる郷遠い波の上
八重の潮路のつれづれに
何を夢見て来ただらう
ちつぽけな象がやつて来た
ちつぽけな象がやつて来た
いただきものといふからは
軽いつづらもよけれども
それかあらぬか身にしみる
日本東京秋の風
ちつぽけな象がやつて来た
※アジア象とて、この種のものには牡に牙がない。去る年泰(タイ)国商賈(しょうこ)某氏上野動物園に贈り来るもの即ちこれなり。因(ちなみ)にいふ、そのバンコックを発するや日々新聞紙上に報道あり、その都門に入るや銀座街道に行進して満都の歓呼を浴ぶ。今の同園の「花子さん」即ちこれなり。
五八 屈託げ屈託なげな春の象
「屈託」とは、退屈(することがなく、退屈している)ということ。「屈託げ」の「げ」は「気(け)」の濁音化したもので、「様子・感じ」の意。「屈託なげ」は「屈託が無い気配」のこと。これは「屈託」を廻っての言葉遊びのような句である。「退屈して欠伸しているかと思うと、退屈していないかのように鼻を動かしている、春の動物園の象」というようなところであろう。こういう句は、やはり、実際に象を見て、その観察をもとにしてのもので、頭だけで空想して作ったものではないという印象を受ける。前句と共に、昭和二十四年(一九四九)の、達治、四十九歳のとき、上野動物園に来日した「二歳六ヶ月」の象(花子さん)を見てのものとすると面白い。この年の二月、「三国より東京都世田谷区代田一の三一三岩沢家に移り、終生そこを離れなかった」(「達治年譜」)。
そして、その達治が、昭和三十六年(一九六一)、六十一歳の時、「甃のうへ」(「国文学解釈と鑑賞(昭和三十六年六月臨時増刊号)」)というエッセイで、この象(「ちつぽけな象」)を取り上げ、「『ちつぽけな象』はただ今、井の頭公園に養われてゐる『花子さん』である。もう二十歳にもなっただろう」と綴っている。動物好きの三好達治は、井の頭公園に移り住んだ花子さんも見ていると解すると、なおさら面白い。
(参考)
ちつぽけな象がやつて来た
牙がないのは牝だから
即ちエレファス・マキシムス
もちろんそれや象だから
鼻で握手をするだらう
この三行目の「エレファス・マキシムス」は、アジア象の学名である。
http://kemonoyasan.web.fc2.com/af0proboscidea01.html
長鼻目ゾウ科アジアゾウ
学名:Elephas maximus(エレファス・マキシムス)
英名:Asian elephant(アジアン エレファント)
体長5~6.5m
生息地:インド、マレーシア、インドネシア、中国南部などの森林
インドゾウ、セイロンゾウ、スマトラゾウ、マレーゾウの4亜種。
年寄りのメスをリーターとして、その娘と子供からなる女系家族で数十頭の群れを作り、木の葉、樹皮、草、タケなどを食べます。
オスは単独で暮らしたり、オスのみでグループを作ったりします。
オス、メス、子供も牙を持っていて、オスの牙は特に長くて立派です。
東南アジアでは、木材や石材を運ぶ力仕事をする使役動物として飼われています。
五九 小半とき河馬の見てゐる春の水
「小半時とき(時)」は、半時(はんとき)の半分。一時(いっとき)の四分の一。現在の三十分分。「小半とき、作者が河馬を見ているのか」。それとも、「小半とき、河馬が春の水を見ているのか」。文脈から行くと、後者であろう。しかし、それを見ている作者が言外にあることも確かなことであろう。三好達治も「河馬」派なのであろうか。「河馬」派、の代表各は、『カバに会う―日本全国河馬めぐり』(岩波書店)の著書を持つ、坪内捻典さんであろう。
http://haiku-space-ani.blogspot.com/2008/12/blog-post_6912.html
(詩)
動物園へちょっと寄ろ
雨のあがった昼さがり
水から鼻だけ出している
河馬の夫婦を眺めよう
ガバッと河馬は口あけて
思わず私も口あけて
河馬の気分になりました
のんびりゆったり河馬気分
肩のしこりがとれました
(俳句→ 抜粋の抜粋)
日ざらしの河馬が口あけ一日あけ ⇒「一日」は「いちにち」
西空の犀ぶっ倒れ妻走る ⇒「妻」は「さい」
秋風の横に倒れて太る犀
遠方の犀燃えるとき俺を殺る ⇒「殺る」は「やる」
山頂へ犀吹き寄せて空の秋
君を抱く犀が笛吹くように抱く
鍋釜の溶けるあたりの犀孕む
河馬燃えるおから煎る日を遠巻きに
さようなら、犀にか川にか火が移る
犀が来てメリケン粉吐く春暮れる
愛暴れて犀に桜が散っている ⇒「暴」に「あ」とルビ
春を寝る破れかぶれのように河馬 ⇒「河馬」に「かば」とルビ
恋情が河馬になるころ桜散る
桜散るあなたも河馬になりなさい
水中の河馬が燃えます牡丹雪
河馬へ行くその道々の風車 『百年の家』
桜散る河馬と河馬とが相寄りぬ 同
小春日や河馬に涙の湧くような 同
平成の春のあけぼの河馬もいる 『人麻呂の手紙』
秋風に口あけている河馬夫婦 同
河馬までの冬の日踏んで恋人は
正面に河馬の尻あり冬日和
冬の日に尻を並べて河馬夫婦
ぶつかって離れて河馬の十二月
岩に置く顎岩になり冬の河馬
桜咲く河馬は口あけ人もまた
炎天やぐちゃっと河馬がおりまして
ああ顎が目覚めているよ春の河馬
大粒の三月の雨河馬の口
春うらら石屋の石が犀になる
秋の夜の鞄は河馬になったまま
口あけて全国の河馬桜咲く
全国の河馬がごろりと桜散る
恋人も河馬も晩夏の腰おろし
横ずわりして水中の秋の河馬
なっちゃんもてっちゃんも河馬秋晴れて
水澄んで河馬のお尻の丸く浮く
秋晴れてごろんと河馬のお尻あり
遺言八句
若い友へ。私がしてきたのは、結局、大好きな河馬になる工夫だったかも。
河馬のあの一頭がわれ桜散る
六〇 河馬日永ここに汝も戦犯か
「日永」が三春の季語。「汝も戦犯か」には「吾も戦犯か」という想いが滲み出ている。
この句は、明らかに、戦後の句であろう。三好達治は、戦後も俳句を作っていたのであろう。
大岡信は、三好達治の晩年の詩について、「自然界の樹木や動物、鉱物と、人間の世界とが、渾然一体となって、共通の律的運動に身を任せているようなところが感じられるからである。人間は樹に、樹の精は人間に、互いに変身し合ってもふしぎでないような、自然と人間との一体化がみられる。そこに、一種独特の艶が生じるのである」と指摘している(『現代詩人論(大岡信著)』所収「三好達治」)。
掲出の句は、大岡信の指摘する「艶」というのは感じないが、「自然(河馬)と人間(作者)との一体化がみられる」というのは実感する。
六一 丹頂のさて水に入る日永かな
「丹頂(鶴)」・「鶴」は、三冬の季語。「鶴来る」は、晩秋の季語。「初鶴」は新年の季語。
三好達治の掲出の句は、「日永」で、春の鶴の句。この句も、動物園(水族園)での作なのであろうか。野生の鶴の句という雰囲気ではない。この句の眼目は、中七の「さて水に入る」の「さて」にあろう。「さてと」になると、「確かに」の意。「さては」は、「今度は」のような意になる。この句の「さて」は、その「確かに」と「今度」との、両方の意があるような雰囲気である。この二字の発見は、やはり、並の観察ではない。
丹頂の
さて
水に入る
日永かな
六二 黒猿の黒き夫婦の日向ぼこ
「日向ぼこ」が三冬の季語。「黒猿」は、オナガザル科の哺乳類。スラウェシ島にすみ、全身黒色で、大きさ・体形はニホンザルに似る。「黒猿の黒き夫婦の日向ぼこ」と、何とも語呂の良い素直な句作りである。「平明・平凡・平淡」の高浜虚子流を三好達治は可としている雰囲気である。この句も動物園などの嘱目の句なのであろう。こういう句は、全くの空想では、こういう発想は出てこないであろう。
黒猿の
黒き
夫婦の
日向ぼこ
六三 万太郎折柴汀女桜餅
「万太郎」は「暮雨・傘雨」の号も有する人事諷詠の名手の久保田万太郎。「折柴」は小説家滝井孝作の俳号。「汀女」は虚子門の女流俳人の第一人者の中村汀女。「桜餅」は、本所両国の長命寺の「桜餅」。「万太郎・折柴・汀女」の、この三人は、それぞれ、俳句にかけては天才的な名手で、真に、「宗匠」(文芸・技芸などの道に熟達しており、人に教える立場にある人)の名に相応しい。長命寺の「桜餅」は、上方風の道明寺の「桜餅」に対して江戸風といわれ、万太郎と親交のあった芥川龍之介の「本所両国」などに出て来る。その芥川龍之介には、「久保田万太郎氏」というエッセイもあって、そこには、江戸っ子傘雨宗匠が見事に描かれている。
掲出の句は、「万太郎・折柴・汀女」への挨拶句で、三好達治にとっては、珍しい人事諷詠の一句ということになろう。そして、こういう、一見、万太郎調のものを目にすると、いかに、達治が、いろいろな俳句の世界に精通していたかが偲ばれる。句意は、「万太郎・折柴・汀女は、江戸の俳諧宗匠の風情で、いかにも、江戸風の長命寺の桜餅が似つかわしい」というようなことであろう。
(参考)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/43369_26102.html
久保田万太郎氏(芥川龍之介)
僕の知れる江戸っ児中、文壇に縁あるものを尋ぬれば第一に後藤末雄君、第二に辻潤君、第三に久保田万太郎君なり。この三君は三君なりにいずれも性格を異にすれども、江戸っ児たる風采と江戸っ児たる気質とは略(ほぼ)一途に出ずるものの如し。就中後天的にも江戸っ児の称を曠(むなしゅ)うせざるものを我久保田万太郎君と為す。少くとも「のて」の臭味を帯びず、「まち」の特色に富みたるものを我久保田万太郎君と為す。
江戸っ児はあきらめに住するものなり。既にあきらめに住すと云う、積極的に強からざるは弁ずるを待たず。久保田君の芸術は久保田君の生活と共にこの特色を示すものと云うべし。久保田君の主人公は常に道徳的薄明りに住する閭巷(りょこう)無名の男女なり。是等の男女はチエホフの作中にも屡その面を現せども、チエホフの主人公は我等読者を哄笑せしむること少しとなさず。久保田君の主人公はチエホフのそれよりも哀婉なること、なお日本の刻み煙草のロシアの紙巻よりも柔かなるが如し。のみならず作中の風景さえ、久保田君の筆に上るものは常に瀟洒たる淡彩画なり。更に又久保田君の生活を見れば、――僕は久保田君の生活を知ること、最も膚浅なる一人ならん。然れども君の微笑のうちには全生活を感ずることなきにあらず。微苦笑とは久米正雄君の日本語彙に加えたる新熟語なり。久保田君の時に浮ぶる微笑も微苦笑と称するを妨げざるべし。唯僕をして云わしむれば、これを微哀笑と称するの或は適切なるを思わざる能わず。
既にあきらめに住すと云う、積極的に強からざるは弁じるを待たず。然れども又あきらめに住すほど、消極的に強きはあらざるべし。久保田君をして一たびあきらめしめよ。槓(てこ)でも棒でも動くものにあらず。談笑の間もなお然り。酔うて虎となれば愈然り。久保田君の主人公も、常にこの頑固さ加減を失う能わず。これ又チエホフの主人公と、面目を異にする所以なり。久保田君と君の主人公とは、撓(た)めんと欲すれば撓むることを得れども、折ることは必しも容易ならざるもの、――たとえば、雪に伏せる竹と趣を一にすと云うを得べし。
この強からざるが故に強き特色は、江戸っ児の全面たらざるにもせよ、江戸っ児の全面に近きものの如し。僕は先天的にも後天的にも江戸っ児の資格を失いたる、東京育ちの書生なり。故に久保田君の芸術的並びに道徳的態度を悉(ことごとく)理解すること能わず。然れども君の小説戯曲に敬意と愛とを有することは必しも人後に落ちざるべし。即ち原稿用紙三枚の久保田万太郎論を草する所以なり。久保田君、幸いに首肯するや否や? もし又首肯せざらん乎、――君の一たび抛下すれば、槓(てこ)でも棒でも動かざるは既に僕の知る所なり。僕亦何すれぞ首肯を強いんや。僕亦何すれぞ首肯を強いんや。
因に云う。小説家久保田万太郎君の俳人傘雨宗匠たるは天下の周知する所なり。僕、曩日(のうじつ)久保田君に「うすうすと曇りそめけり星月夜」の句を示す。傘雨宗匠善と称す。数日の後、僕前句を改めて「冷えびえと曇り立ちけり星月夜」と為す。傘雨宗匠頭を振って曰、「いけません。」然れども僕畢に後句を捨てず。久保田君亦畢に後句を取らず。僕等の差を見るに近からん乎。
六四 ゆく春の店きららかに扇売る
「ゆく春・行く春」が晩春の季語。この季語での芭蕉の句は三句ある。
行春(ゆくはる)にわかの浦にて追付たり (『笈の小文』)
行く春や鳥啼き魚の目は泪 (『おくのほそ道』)
行春を近江の人と惜しみける (『猿蓑』『去来抄』)
三好達治の「ゆく春」の句は、上記の芭蕉の三句で、「行春を近江の人と惜しみける」の句に近いか(?)「きららかに」というのが、近江の琵琶湖を連想させる。また、「近江扇子」のイメージもある。
(去来抄)
「先師曰く、「尚白」が難に、近江は丹波にも、行く春は行く歳にも振るべし、といへり。汝いかが聞き侍るや。」去来曰く、「尚白が難あたらず。湖水朦朧として、春を惜しむに便有るべし。殊に今日の上に侍る。」と申す。先師曰く、「しかり。古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都におとらざるものを。」去来曰く、「此の一言心に徹す。行く歳近江にゐ給はば、いかでか此の感ましまさむ。行く春丹波にいまさば、本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかな。」と申す。先師曰く、「汝は去来、共に風雅を語るべきものなり。」と殊更に悦び給ひけり」
六五 柳は緑ベレ紅(くれなゐ)と申すべし
「柳」は晩春の季語。蘇東坡(そうとうば)「蘇軾」(そしょく)の詩の一部の「柳緑花紅真面目(やなぎはみどり はなはくれない しんめんもく)」の、三好達治の俳諧化。「ベレ」は、ベレー帽(フランス語: béret)、ウールフェルト(当初はウール)製の、軟らかく、丸くて平らな、鍔や縁のない帽子である。軍人さんのベレー帽は、黒、緑、栗色とか、その所属する部隊によって色分けされるとか。ここは、芸術家(画家・漫画家など)のベレー帽であろうか。三好達治はベレー帽よりも宗匠帽(利休帽)の方が様になる感じだが、
達治の友人には、初代の文化庁長官の今日出海などベレー帽の愛用者もいたのであろう。文芸春秋の池島信平の随筆ものに「ベレー党」とか、映画の「赤いベレー」とかも目にする。これは戦後の句であろうか。それとも、戦前の「銀座の柳」が流行した頃であろうか(?) その流行は、昭和十二年(一九三七)とか。どちらにも取れるが、戦前の句なのかも知れない。
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-ginzanoyanagi.html
銀座の柳
作詞:西条八十
作曲:中山晋平
歌唱:四家文子
制作:滝野細道
(一)
植えてうれしい 銀座の柳
江戸の名残りの うすみどり
吹けよ春風 紅傘日傘
今日もくるくる 人通り
(二)
巴里のマロニエ 銀座の柳
西と東の 恋の宿
誰を待つやら あの子の肩を
撫でてやさしい 糸柳
(東京行進曲の間奏)
(三)
恋はくれない 柳は緑
染める都の 春模様
銀座うれしや 柳が招く
招く昭和の 人通り
六六 第一銀行夜は手相見の春灯し
季語は「春灯し・春灯(はるひ)」(三春)。第一銀行は、第一勧業銀行を経て、現在はみずほ銀行・みずほコーポレート銀行。第一勧業銀行の前身は、第一国立銀行(帝国銀行)。この第一国立銀行時代であれば、戦前の句となるが、これも、戦後の句(昭和二十三年以降)の雰囲気でなくもない。三好達治の数少ない時事・世相諷詠句の一句である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%8A%80%E8%A1%8C
1948年
(昭和23)10月 - 株式会社第一銀行設立。帝国銀行より営業譲渡を受け、開業。
六七 菜の花や渡しに近き草野球
「菜の花」は晩春の季語。「渡し」は、人や貨物を舟で向こう岸に渡すこと。また、その舟や、舟の着く場所。ここは、舟の渡し場。「草野球」は、素人(しろうと)が集って、楽しみとしてする野球。素人野球のこと。「菜の花・渡し・草野球」と、実にイメージの鮮明な句である。
「渡し」というと、隅田川の「渡し」を連想するが、「菜の花・渡し」となると、三好達治が愛した信州の千曲川あたりにも、この句のような情景は浮かんで来る。この句が戦前のものであれば、その信州の千曲川あたりの光景、そして、戦後のものであれば、隅田川の何処かの光景のような印象を受ける。
六八 水門をいくたびくぐる初燕
「燕・乙鳥・玄鳥・つばめ・つばくら・つばくろ・つばくらめ」は仲春、「初燕」も初春の季語かと思ったら、これまた仲春の季語。「水門」は、河川や運河、湖沼、貯水池などに設けられる構造物。可動式の仕切り(門扉)によって水の流れや量を制御し、高水時には堤防としての機能をもつ。水門というと江戸川とか荒川の水門が有名だが、ここはそれほど大きくない河川や用水路で見掛ける樋門(ひもん)・樋管(ひかん)のような光景であろうか。この句の眼目は、「いくたび」(幾度・何度)にあろう。この句もイメージ鮮明な句である。
六九 貯炭場に入りし燕霞みけり
季語は「燕」(仲春)。読みは「つばくろ」。「霞」は三春の季語。燕が主体の句。「貯炭場」は石炭や木炭をたくわえること。また、その石炭や木炭。ここは、鉄道などの貯炭場であろうか(?) この「貯炭場」も今では死語化しつつある。失われて行く日本の原景の一つであろう。
七〇 貯炭場に入りし燕の帰りこず
「燕」(仲春)。「貯炭場」の句。前句と同時の作か。「貯炭場に入った燕が帰って来ない」ということが、「戦場に行った人が戻って来ない」と同じような響きを有している。
国は亡びて山河あり
城春にして
萌えいづる
萌えいづる
草のみどりを
ふみもゆけ
つばくらならば
はたはまた
ここの広野にかへりこん
――かへりこん
心ままなる空の子よ
あとなき夢よ
春風の
柳の糸のたゆたひに (「横笛」四章のうちの第二章)
七一 堤より近き家並の鯉幟
「鯉幟(こいのぼり)」(初夏)。この「より」が微妙である。「寄り」の「堤側寄りの近き家並の鯉幟」という意であろうか(?)比較を表す「より」の意もあるのであろうか(?)
その両方にも取れる。「堤側寄りの、その堤により近い家並に、鯉幟が舞っている。」
堤があって、家並があって、そして、鯉幟と、そして、作者はどの辺に居るのであろうか。その作者の位置は、完全に省略されている。こういう作風が、三好達治の俳句の基本であろう。
山みちを 犬が帰つてゆく
ああその 山上の 水車小屋の
木の間がくれの
鯉幟 (『山果集』)
七二 鯉幟近きは垂れてゐたりけり
初夏の「鯉幟」の句。前句と同時の作か。「ゐたりけり」は、「ゐる(居る)」に完了の助動詞「たり」と過去・詠嘆の切れ字「けり」の合成語である。「をりにけり」と同じような意であろうが、「ずうと垂れていた」というようなことであろうか。この句は、この下五の「ゐたりけり」と中七の「近きは」にあろう。
鯉幟
近きは
垂れて
ゐたりけり
七三 あんぱんの葡萄の臍や春惜しむ
「江戸川べりに乙女子どちのたまふもの」の前書きあり。「春惜しむ」(晩春)。三好達治の俳句の中ではよく知られた句。次のような鑑賞文がある。
http://zouhai.com/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20100421,20100420,20100419&tit=20100421&today=20100421&tit2=2010%94N4%8C%8E21%93%FA%82%CC
[陰暦の歳時記では四月はもう夏だけれど、ここでは陽暦でしばし春に足をとどめて春を惜しんでみたい。三好達治という詩人とあんぱんの取り合わせには、意外性があってびっくりである。しかも、ポチリと付いているあんぱんの臍としての一粒の葡萄に、近視眼的にこだわって春を惜しんでいるのだから愉快。達治の有名な詩「春の岬」は「春の岬 旅のをはりの鴎どり/浮きつつ遠くなりにけるかも」と、詩というよりも短歌だが、鴎への洋々とした視点から一転して、卑近なあんぱんの臍を対比してみるのも一興。行く春を惜しむだけでなく、あんぱんの臍である一粒の葡萄を食べてしまうのが惜しくて、最後まで残しておく?ーそんな気持ちは、食いしん坊さんにはよく理解できると思う。妙な話だけれど、達治はつぶあんとこしあんのどちらが好きだったのだろうか。これは味覚にとって大事な問題である。私も近頃時々あんぱんを買って食べるけれど、断然つぶあん。その懐かしさとおいしさが何とも言えない。いつだったか、ある句会で「ふるさとは梅にうぐひす時々あんぱん」という句に出会った。作者は忘れてしまったが、気に入った。達治は大正末期に詩に熱中するまでは、俳句に専心していたという。戦後は文壇俳句会にも参加していたし、「路上百句」という句業も残している。「干竿の上に海みる蛙かな」という句など、彼の詩とは別な意味での「俳」の味わいが感じられる。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)]
上記の鑑賞文で、「あんぱんの臍である一粒の葡萄を食べてしまうのが惜しくて、最後まで残しておく?」というのは、「春惜しむ」からの連想なのかも知れないが、前書きからすると、「あんぱんの真ん中の葡萄とか黒ごまとかついている凹んだところを『あんぱんの臍』」というのを江戸川辺りで聞いての即興の句なのであろう。その乙女子供たちの会話が何とも江戸川辺りの惜春の光景とマッチしているという感慨なのであろう。
三好達治の俳句というのは、殆ど作者自身に関わる心情の吐露というのは皆無で、「自然諷詠派」と「人間諷詠派」との区別からすると、典型的な「自然諷詠派」ということになろう。
これらのことに関して、「三好達治が一流詩人であるのは、自然詩人であり、抒情詩人である点であって、しかも彼が純粋にその領域から足を踏み外さぬからである」(『現代詩読本三好達治』所収「三好達治論――アンテリジャンスと風流(黒田三郎稿)」)との指摘がなされており、これが俳句になるとさらに徹底されるという印象を深くする。
即ち、三好達治の俳句というのは、典型的な高浜虚子流の「花鳥諷詠派」の世界のものであり、この達治の「あんぱん」の句も、文字とおり「あんぱん」の句で、その「あんぱん」を食べる人間は、ここでは消滅しているという印象を強く受けるのである。
しかし、この句は、そういう「自然諷詠派」とか「人間諷詠派」とかを論外にして、「あんぱんの葡萄の臍」と「春惜しむ」との取り合わせの一句として、さまざまなイメージが彷彿としてくる点において、三好達治の俳句では異色でもあるし、また、成功している傑作句として挙げられるものであろう。
七四 桐ひろ葉小学生の立話
「桐一葉(きりひとは)」は初秋の季語。「桐ひろ葉」というのは、その「桐ひと葉」の捩り(パロディ・地口など)なのではなかろうか。この句も、前句と同じように、江戸川辺りを散策している折の作なのであろうか。句意は、「小学生が立ち話をしている。『桐ひと葉』というのを『桐ひろ葉』と言っている。なるほど、桐の葉は広い」というようなことであろうか。高浜虚子の、「桐一葉日当たりながら落ちにけり」などが念頭にある句なのであろう。
この句は四行分けは無理のようである。
桐ひろ葉
小学生の
立話
七五 海しづか桐の木の間の豆畑
「桐の花」(初夏)、「桐一葉」「桐の葉落つ」「桐の秋」(初秋)。「桐」単独でも初秋。「ももしきや桐の木ずゑにすむ鳥のちとせは竹の色もかはらじ」(『夫木抄』巻十五・秋の題)。
「豆」(初秋)。ちなみに、「豆の花」(晩春・初夏)、「豆植う」「豆蒔く」(初夏)、「豆引く」「豆干す」(初秋)、「豆打つ」(初秋)、「豆打・豆蒔・豆はやす」(晩冬)。
掲出の句は、「海・桐・豆畑」と賑やかであるが、中七・下五の「桐の木の間の豆畑」が主で、上五の「海しづか」は従という初秋の光景であろうか。
海しづか
桐の
木の間の
豆畑
七六 土佐よりは伊予が美し麦は穂に
「麦の穂」(初夏)。「青麦」(三春)、「麦踏」(初春)、「麦刈」(初夏)、「麦笛」(初夏)、「麦蒔」(初冬)、「麦の芽」(初冬)。連句の「十七季」で行くと、「麦」(初夏)もいろいろとある。「土佐(現在の高知県)よりは伊予(現在の愛媛県)が美し」とは、何が「美し」なのか(?) 下五の「麦の穂に」で、その頃の初夏の光景は「伊予が美し」ということなのであろうか(?) 伊予松山は「俳句王国」。正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪、そして、今に続く、俳句のメッカである。一方、土佐高知は、坂本竜馬の維新の志士たち。どことなく、「伊予優美・土佐武骨」というイメージでなくもない。この句も、実際の、土佐とか伊予とかに訪れての、その土地に対する挨拶句というよりは、土佐とか伊予とかの語感からの即興的な言葉遊びの句という印象でなくもない。
土佐よりは
伊予が
美し
麦は穂に
七七 つばくららどこまで揚がる土用波
「つばくら(燕)」(仲春)、「土用波」(晩夏)。ちなみに、「卯波」(初夏)、「皐月波」(仲夏)。この句は、夏の土用(立秋前十八日間で、猛暑の時期)の頃、海岸に押し寄せて来る大波の「土用波」の句であろう。中七の「どこまで揚がる」は、上五の「つばくらら」のことなのであろうが、下五の土用波にも掛かると解したい。
つばくらら
どこまで
揚がる
土用波
七八 柳散る彼方は二十六戸村
「柳散る」(仲秋)。「二十六戸村」は地名なのであろう(ちなみに、詩人寺山修司の生まれは現三沢市の六戸村)。掲出句の場所は不明。「柳散る」と来ると、若き日の放浪時代の蕪村の次の句が連想される。三好達治の師の萩原朔太郎には、『郷愁の詩人与謝蕪村』の名著を残しているが、達治もまた蕪村派なのであろう。
柳散り清水涸れ石処々 (蕪村)
この蕪村の句は、蘇東坡の「山高月小 水落石出 曾日月之幾何」(山高ク月小ニ 水落チ石出ズ 曾テ日月ノ幾何ゾヤ)に因っている。達治もまた漢詩に造詣が深かった。
七九 古着屋のうらに乏しき麦の秋
「麦の秋」(初夏)。この句もどことなく蕪村の句などが思い出されて来る。
飯盗む狐追ひうつ麦の秋 (蕪村)
病人の駕(かご)も過ぎけり麦の秋 (同)
辻堂に死せる人あり麦の秋 (同)
古寺やほうろく捨てる芹の中 (蕪村)
この句について、『郷愁の詩人与謝蕪村(萩原朔太郎著)』では、「人間生活の家郷に対する無限の思慕と郷愁(侘びしさ)が内在している」と評している。達治の掲出句もそれと同じような響きを有している。
八〇 人去りて門前低き法師蝉
「法師蝉」(初秋)は「つくつく法師」のこと。蕪村に次のような句がある。
門を出でて故人に逢ひぬ秋の暮 (蕪村)
門を出づれば我も行く人秋のくれ (同)
『郷愁の詩人与謝蕪村(萩原朔太郎著)』では、「一つの同じテーマからこの二つの俳句が同時に出来たため、蕪村自身その取捨に困ったらしい。二つとも佳作であって、容易に取捨を決しがたいが、結局『故人に逢ひぬ』の方が秀れているだろう」としている。
これは、芭蕉が『笈日記』で次の両句が出来て、その優劣を門人に問うたことに対しての蕪村の洒落で、蕪村も芭蕉の真似をして二句を作り、その優劣を門人に正したというのが真相のようである。
この道や行く人なしに秋の暮れ (芭蕉)
人声やこの道帰る秋の暮れ (同)
蕪村というのは、常に芭蕉を念頭に置いていたが、三好達治は芭蕉というよりも蕪村に親近感を有していたように思われる。
八一 千住の化ヶ煙突や雷きざす
「雷」(三夏)。「千住の化ヶ煙突」は、「煙突の見える場所」で映画化されている東京名物の一つであった。その映画は昭和二十八年(一九五三)に上映されたもので、この年、三好達治は五十三歳、『駱駝の瘤にまたがって』『午後の夢』その他の全詩業によって芸術院賞を受賞した年でもある。戦後、三好達治は、鮎川信夫や吉本隆明らによって、戦時中の戦争礼賛の詩を書いたということで、「日本がよくよく駄目な国なら、彼も長命であろう」とまでに糾弾され、いわば、日本詩壇から追放されたというような境遇にあったが、再び、日本詩壇に、「詩人三好達治健在也」とカムバックして来る。そして、その十年後の昭和三十八年(一九六三)に、『定本三好達治全詩集』を刊行し、それによって、読売文学賞を受賞する。その翌年、その六十四年(享年六十三歳)の生涯を閉じる。
この掲出句は、三好達治の俳句を語る上ではエポック的な作品の一つであろう。
八二 ひなげしのちる日のほどを歌の選
「ひなげし・雛罌粟・雛芥子・芥子の花」(初夏)。高浜虚子の最晩年の句の「独り句の推敲をして遅き日を」を連想させる。虚子の一生を象徴するような句である。掲出の句は、句の選ではなく「歌の選」で、それが、「虞美人草」という別名を有する「ひなげし」とマッチして、実に味わい深い一句にしている。
「ひなげし」、「虞美人草」、そして、「虞や虞や汝をいかんせん」、それは、漢詩に造詣の深い三好達治の世界である。その漢詩の世界の正反対の和歌の世界にしているのが、これまた、三好達治ならでは世界ということになろう。
この句もまた、三好達治俳句の代表的なものという感慨を深くする。
八三 端居して角力(すま)はせてみる蝉の殻
「蝉の殻」は晩夏、「空蝉」のこと。「端居」は三夏、縁側でくつろぐこと。「角力」は初秋、ここは「角力(すま)はせて」の用例で、「角力(かくりょく)」の力を比べるの意か。
この句は、おそらく、蝉が羽化するときの句なのであろう。
「夏、縁側に出て夕涼みをしていると、その縁側の端の方で、蝉が羽化している。一生懸命角力して、後には、蝉の殻だけが残っている」というようなことであろうか。
ファーブルの昆虫記の翻訳に取り組んだ三好達治の自然観察は徹底したものである。これは、嘱目の実景の句なのであろう。
八四 水に入るごとくに蚊帳をくぐりけり
「蚊帳」(三夏)。この句は三好達治の句としてよく知られているものである。「水に入るごとくに」の直喩が利いている。中七の「ごとくに・蚊帳を」の「句またがり」も自然である。それにしても、「蚊帳」も見掛けなくなってしまった。「蚊帳をくぐって」、そして、兄弟姉妹が枕を並べて寝たのは、もう思い出の中に出てくるだけの風物詩なのであろうか。
俳句に季語が必須のように、俳句と風物詩とも切っても切れない関係にあろう。
八五 ひるがへるのみとはいへど青はちす
「はちす(蓮)」は晩夏。「青蓮」は蓮の花でなく、蓮の葉に焦点を当てたもの。蓮の葉は表は濃い緑で、後ろは白っぽい。それが風に揺られて、「ひるがへり」、それもまた、風情があるという一句なのであろう。平仮名多用の句で、中七の「のみとはいへど」のが、この句の眼目。こういう句に接すると、三好達治というのは、俳句にかけても、なかなかのテクニシャンということを実感する。
八六 白はちす夕べは鷺となりぬべし
「白はちす(蓮)」(晩夏)の句。「なりぬべし」と来ると、「鶏頭の十四五本もありぬべし」(子規)が思い起こされて来る。これは「なりぬ」と「べし」がついたもの。「ぬ」はもともとの動作や作用の完了を表す助動詞であり、「べし」は当然とか、可能とか、想像の意味を持つ助動詞である。「ぬ」と「べし」をくっつけて、「確かになったはずだ」というようなことであろう。「白はちす」を「鷺」に見立てて、「夕べは鷺となりぬべし」というのは、やはり巧者の句という雰囲気である。
八七 鮎鷹の日すがら去らず蘆の天
「鮎鷹」(三夏)は、鮎刺が基本季語で、その別名。鮎刺ともいう。カモメ科アジサシ亜科に属する海鳥の総称。暖熱帯域に主に分布するが、南極圏にすむものも。飛翔力の強い長い翼、切れ込んだ尾、先細の嘴を持ち、地上や海面に降りることはめったにない。上空から海面近くの魚を狙い、急降下して刺すようにすばやく捕らえる。これが名前の由来。
「日すがら」は、「日もすがら」で終日、一日中。「道すがら」の「すがら」と同じ用例。
「蘆の天」は、河口の芦の原の上の天の意であろう。「鮎鷹」・「日すがら」・「蘆の天」と、それぞれ、独特の用例で、また、そういう言葉のニュアンスなども狙っての一句という雰囲気である。
八八 俵屋は秋も蛙の鳴きにけり
「これなむカンズメ越前大野市淹留」の前書きあり。「淹留」は、長く同じ場所にとどまること。滞留。滞在。「蛙」(三春)。「雨蛙」「青蛙」「枝蛙」は三夏の季語。季語の蛙はややっこしい。
三好達治は、昭和十九年(一九四四)から昭和二十四年まで、福井県三国に移住する。いわゆる、三国流寓時代である。その頃の作なのであろう。この三国時代は、「著者が三国に隠栖中、畠中哲夫、則武三雄、藤野邦康等と句作し、句集『柿の花』を残さんとした意図をくみ、そのときの作約五十句をまとめて、俳詩『秋』三好達治追悼号(昭和三九・七)に発表したものをその拾遺にした」(『三好達治全集二』所収「解題(石原八束)」)とあり、その頃の作なのであろう。
この句は、季語の「蛙」と現実の「蛙」とのギャップが一つの狙いとなっていよう。
http://www.kerotamatei.com/3syou2.htm
近世前期
蛙(かはづ) 『至宝抄』 『花火草』(2月) 『山之井』 『増山井』 『番匠童』(2月)
蛙(かへる) 『至宝抄』 『毛吹草』(中春) 『増山井』 『をだ巻』(2月) 『新式』(二月の詞) 『通俗誌』(2月)
蛙子(かへるこ) 『初学抄』(中春) 『毛吹草』(2月) 『山之井』 『増山井』 『をだ巻』 『新式』(二月の詞)
蛙鳴く 『通俗誌』(3月)
雨蛙なく 『をだ巻』
蟇蛙(ひきがえる) 『山之井』 『増山井』 『番匠童』 『新式』
青蛙 『新式』
近世後期
蛙(かはづ) 『季引』
枝の蛙(えだのかはづ) 『清鉋』(4月) 『手挑灯』(4月) 『糸切歯』(4月) 『部類』(4月) 『名知折』 『年浪草』 『小筌』(9月) 『歳時記』(4月) 『季引』
無声の蛙 『歳時記』(2月) 『季引』
蛙狩り 『糸切歯』(7月)
蛙飛び神事 『季引』(七月六日よしの)
蛙(かひる) 『歳時記』
蛙(かへる) 『清鉋』(2月) 『手挑灯』(2月) 『部類』(2月) 『年浪草』(2月) 『小筌』(2月) 『季引』
蝌斗(かへるこ) 『清鉋』(2月) 『手挑灯』(2月) 『部類』(2月) 『年浪草』(2月) 『季引』
蛙の目かる時 『年浪草』
蝦蟇化して鶉となる 『歳時記』(7月)
蟾(ひき) 『清鉋』(2月)
月の蛙 『清鉋』 (8月)
蟇
(ひきがへる) 『手挑灯』(2月) 『部類』(2月) 『年浪草』 『歳時記』 『季引』
山蛤
(あまかひる) 『歳時記』
雨蛙 『手挑灯』 (2月)『年浪草』(2月) 『小筌』(2月) 『歳時記』 『季引』
雨蛙なく 『清鉋』 『糸切歯』(4月)
八九 俵屋の蛙もなかずなりにけり
蛙(三春)。前句の「俵屋は秋も蛙の鳴きにけり」に続いて、今度は、「俵屋の蛙もなかずなりにけり」と、時期的に、遅くなって、「もう蛙の鳴く季節も終わった」というのであろう。この二句は、いわゆる、対句(二行で一組の韻文)形式のものであろう。それと同時に、季語(季題)の「蛙」と現実の「蛙」とのギャップなどを句にしている。
この対句と「蛙」の詠みは、やはり、「かえる」ではなく「かわず(かはず)」か?
http://sogyusha.org/saijiki/01_spring/kahadu.html
「古今集」の序に「花に鳴く鴬水に棲む蛙の声をきけば、生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける」と書かれて以来、蛙はその「鳴声」をもってたくさんの和歌に詠まれ続けて来た。ところが芭蕉は鳴声には耳を藉さず、蛙が水に飛び込む「音」を取り上げた。しかもそこでは、蛙は「古池に飛び込む」と詠まれながらも主役ではなくて、静寂幽邃な雰囲気を際立たせるための引立て役になっている。この句によって芭蕉は新境地を
拓いたわけだが、同時に「蛙」も俳句(俳諧)の世界で一躍重要な季語に祭り上げられることになった。 俳句では「かえる」とは言わずに「かはづ」と詠むのが慣習のようになっている。傍題として初蛙、昼蛙、夕蛙、遠蛙などがあり、種類別に殿様蛙、赤蛙、土蛙なども春の季語になっている。種類別に言う場合はもちろん「トノサマガエル」「ツチ
ガエル」というように、「かはづ」とは言わない。しかし、近代俳句では「蛙」という漢字が使われていても「かはづ」よりは「カエル」と読んだ方がいいものも見受けられる。「蛙は『かはづ』である」と墨守することもないように思う。
九〇 渡る雲のみとなりたる鳥威し
「鳥威し」(三秋)。「鳥威し」は、実った稲などの穀物を荒しにくる鳥をおどす仕掛けである。音でおどすものに鳴子や空砲、形や色でおどすものに案山子、カラスの翼、金・銀・赤のテープ、大きな目玉の形をした風船などがある。「秋も終わりの時期になって、稲などを荒らしに来る鳥なども見掛けず、ただ、秋天に渡る雲のみの風情となった」というような意であろう。「時の推移」などが、この句の背景にあろう。三好達治は、俳句の一番の要諦の「省略」ということについて、常に心がけていたということが、例えば、この句の「のみとなりたる」の「句またがり」の用例などで察知される。
九一 いかさまにたのめる秋か渡鳥
「渡鳥」は三秋。「鳥帰る」は仲春。「いかさまに」は「如何様に」、「いかように」の読みもある。「いかさま博打」、「いかさまをやる」と、「ごまかしをやる」と取られ易いが、「いかさまにたのめる」の「いかさまに」は、「自分の考えがまちがっていないはずだ、という気持ちを表す。確かに。本当に。」 または、「どんな事情があっても事を成し遂げたいという、強い意志を表す。何としてでも。ぜひとも。」の意であろう。「きっと稔り多き秋であることか。空には渡り鳥がやってきた」というようなことであろう。
「いかさまにたのめる秋か」がなかなか味わい深い一句にしている。
九二 よみがたき母の手をよむ端居かな
「端居」(三夏)。縁側でくつろぐこと。「母の手をよむ」とは、母の手相を見ていることか? 「よみがたき」は、手相を見てなかなか判断ができないこと。三好達治の母思いは、その詩や短歌に詠われている。
茜さす
かの夕焼をよしといひ
母じやと渡る
冬の橋かな (『日はり』)
母として長谷観音のおみ足に
ろうそく献ず冬の日の暮れ
るしやな仏露座にておはすおん前に
腰くぐもれる母のあゆます
ざんぎりの髪を洗はせたまふなり
母そはのははの老いたまひけり (『風蕭々』)
九三 盤石をたのめてかづく川烏
「川烏」(三夏)。鷭 、 鷭の笑い、大鷭など。「盤石」は、①大きな岩。巌 ②転じて、どっしり構えて動かないことの例え。また、堅固なことの例え。「かづく」は、かず・く〔かづく〕(潜く) 水中にもぐる。「にほ鳥の―・く池水心あらば君に我(あ)が恋ふる心示さね」〈万・七二五〉。句意は、「大きな岩を足掛かりして川烏が水中に潜っている」。
三好達治の俳句は、まずは、的確な写生が基本となっている。そして、日本の美しい古語の表現が基本となっている。
九四 大蓼の門の名札を見てすぎし
「大蓼」は「大きな蓼」(三夏)。「犬蓼」は「赤まんま」で、「犬蓼の花」が三秋の季語。
ここは、「大きい蓼」か。「大きな蓼が咲いている門の名札」の「名札」は、表札なのであろうか。「大蓼」と書いた名札ではなかろう。
一三 大蓼や遠見に見ゆる牛の市
この一三番目の句は「鶏林四句」で、朝鮮旅行での句。同時の頃の作か。
九五 大寺に障子はる日の猫子猫
「障子はる」は仲秋。「障子」は三冬。その他に、「障子洗う」「障子入るる」などは仲秋。
障子というのは、昔の住生活では大切なもので、生活のリズムの一つともなっていた。お寺さんの場合は、さらに行事化されていたのであろう。冬に入る準備である。夏の間涼をとるためにはずして物置などに蔵ってあった障子を出し、敷居に嵌める前に紙を変える。普通、紙を貼った重ね目に埃が溜まらないように、下から上へ貼っていく。米などで適当な濃さに作った糊を盆などに調え、刷毛で桟に塗り、障子幅に切った和紙を一気に貼る。
こういう光景も今では見かけなくなった。
一家総出で、気忙しい中を子猫が縁側で日向ぼっこをしているというような光景であろう。一つの日本の原風景の風物詩である。
九六 狗悲鳴寒夜の奧にころがりぬ
「寒夜」(三冬)。「狗」は犬、中国風の表現か。子犬という感じでなくもない。「寒夜の奥」は、寒夜の闇の奥というようなことであろう。「犬が悲鳴をあげている。寒い夜闇の彼方で転がって悲鳴をあげているようだ」というようなことであろうか。
おのが身を闇より吼(ほえ)て夜半の秋 (蕪村)
蕪村の句は「丸山氏が黒き犬を画(ゑがき)たるに賛せよと望みければ」と丸山応挙の黒犬に賛した犬の句。達治の句もこの蕪村の句などが背景にあるか。
九七 雲疾(は)き沙上の影やねむの花
「ねむの花・合歓の花」(晩夏)。「沙上」は砂の上。「雲の動きが速く、それが砂上に影をおろし、そこに合歓の花が咲いている」という光景であろうか。
七 合歓の花ゆれゆれてはつかきらら雲
「路上百句」の七番目も「合歓の花」の句。『花筺』には、四行詩の「ねむの花さく」がある。
ねむの花さくほそ路を
かよふ朝こそたのしけれ
そらだのめなる人の世に
たのめて老いし身なれども (「ねむの花さく」)
九八 夏の風二日の旅の海の音
「夏の風」(三夏)。「夏風」「南風」(みなみ)「南吹く」「正南風」。「南風」(はえ)、「黒南風」(くろはえ)=五、六月の雨を伴う南風。「白南風」(しろはえ)=梅雨明けの南風。
「夏の風」もいろいろある。「二日の旅」は、旅の二日目のことか。
[枝移りをしながらチーチーと鳴き交わしている目白の声、そのかすかな澄んだ声が天地を領しているように思われた。くさめがでても悪かろう。私はそんな心配をしていると、そのとき、弾かれたように、不意に子供たちは駆けだした。私はほっとしてそこにしばらくとり残された。そのときになって、林の向こうのすぐ近くから海の音が聞こえてきた。]
(三好達治「春の岬」)
「海の音」とは、三好達治の象徴的な音の世界である。
九九 とんぼうの沙上の影を仰ぎけり
「とんぼう・とんぼ・蜻蛉」(三秋)。「とんぼうの沙上の影」というのは、「とんぼうの砂上に映った影」のことだろうか。「仰ぐ」は、「上を向く。上方を見る。あおむく」ことではなかろう。「尊敬する。敬う」の意であろう。この「仰ぎけり」が何とも厄介な感じでなくもない。「とんぼう」ではなく、その「砂上の影」に視点が行くのは、やはり尋常ならざるものを感じさせる。
この「とんぼう」は、群生しているのだろうか、それとも一・二匹のものなのであろうか。
群生している「とんぼう」の影だと、何か、「仰ぎ見る」という感じでなくもない。
一〇〇 陸奥(みちのく)のその入口の蓮の花
「蓮の花」(晩夏)。「蓮の実」(仲秋)、「敗荷(やれはす)」(晩秋)、「枯蓮」(三冬)、「蓮根掘る」(初冬)と蓮関連の季語もバラエティに富んでいる。三好達治の「路上百句」の百句目が、「陸奥(みちのく)」というのは、東日本大震災の年に、何か因縁のようなものを感じる。「陸奥(みちのく)の入口」というと、芭蕉の『おくの細道』では、白河の関辺りが思い起こされて来る。そこに、旅人を歓迎するかに蓮の花が咲いている、旅好きの『覇旅十歳』の著書を持つ詩人三好達治に相応しい一句である。この句は、東日本大震災の鎮魂の句としても、これまた、相応しい一句であろう。
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