金曜日, 10月 19, 2012

茅舎追想(その一~その二十)


茅舎追想(その一)芭蕉の花(その一)


芭蕉の花というのを見たことがある。小学生の頃、洋館に住んでいた友人の家にバナナの木があり、そのバナナの木に紅い花が咲いたのである。不思議な光景で今でも鮮明に覚えている。その思い出のバナナの木が芭蕉の木と知ったのは、つい最近のことである。
芭蕉が木なのか草なのか、また、その実は小さなバナナのようなのであるが、それが食べられるのかどうかは定かではない。とにかく、朱っぽい花が咲いたのを見たのは、遠い記憶の片隅の中にある。
芭蕉といえば、植物の芭蕉よりも江戸時代の俳聖芭蕉の方をすぐに思い浮かべる。芭蕉さんが植物の芭蕉が好きであったのかどうか、これまた、あまり詮索するつもりはないが、ただひとつ、芭蕉さんの前号が桃青で、記憶の片隅にある芭蕉の花が桃に似ていて、そんなことから、芭蕉さんは、桃青から芭蕉に俳号を変えたのだろうかと、そんなことを思ったりしたことが、これまた、遠い記憶の片隅の中にある。
さて、秋分の日の頃、「神田の古本市」が開かれる。何時頃から開かれるようになったのか、これまた、記憶はぼけてしまったが、大体、その古本市には顔を出して、これまた、随分と、永い年月を経てしまった。
その神田の古本市の、裸電球の夜店で、『定本川端茅舎句集』という小冊子を買ったことがある。格別、川端茅舎という俳人が好きであったわけではない。むしろ、その異母兄にあたる、日本画家の川端龍子の方が、俳人茅舎よりも関心があった。
ただ、川端茅舎の思い出というのは、茅舎が亡くなった、昭和十六年の、二三年後の、戦時中に、三十九歳の若さで病死した父の思い出と重なる。おそらく、年格好も、育った社会環境なども、また、その病名なども、いろいろと重なる面が多々あり、また、父の遺品の中に、子規のものと、この茅舎のものとがあったことを、祖母(父の母)から聞いた覚えがあり、そんなことが、何時も頭の片隅にあったというようなことはあるのかもしれない。
しかし、偶然のような必然のような、「見えない糸」で結びついているよう、そんな茅舎との出会いがあった。それは、たまたま、入院・手術ということになり、病院に入るときの本を二三冊探していて、この『定本川端茅舎句集』が目に飛び込んできたのである。
その入院中に、病院にある図書とあわせ、その句集を、閑にあかせて見るのを日課にしていた。
無事、手術も終わり、重湯から三分粥、七分粥と段々と食欲も増してきた頃、俄に、夕立模様となり、空は真っ暗闇となり、病院の裏庭の黄緑の芭蕉の葉に、雹のような大粒の雨が襲いかかってきた。そのときの雨風に揺れる芭蕉の葉とざわめきが、ベッドの側にあった、『定本川端茅舎句集』の裏表紙と見事に重ね合わさった。
不思議なこともあるものだと、その茅舎句集を手に取りながら、その表の表紙と、目次の末尾に記載されている「装幀・川端龍子」を見て、これは、茅舎の令兄・龍子の、異母弟・茅舎へ捧げる鎮魂の「芭蕉の花」だったのかと、そのとき、はっきりと悟ったのである。
川端家の長子の龍子にとって、龍子とその母とを見捨てた、その実父と茅舎の母らに対する憎しみにも似たさまざまな思いは、この『定本川端茅舎句集』の裏表紙の、雄渾な墨一色で描かれた芭蕉の大きな葉に要約されていると同時に、その表表紙の、薄墨色の上にたらした薄桃色の、桃のような、「芭蕉の花」には、亡き、薄倖な生涯を閉じた異母弟・茅舎への、名状し難き、鎮魂の調べを有しているのだ。
龍子は一言もそのようなことを語らない。しかし、龍子がその発刊を発意して、それを結実させたところの、この戦後、間もない、昭和二十一年に刊行された、一冊の小冊子の、その『定本川端茅舎句集』の、その装幀に、龍子の万感の思いが込められている。


(茅舎追想その二)庭の花(そのに)

『定本川端茅舎句集』は、後に、「ホトトギス」同人会長となった深川正一郎が編集している。その「あとがき」を見ると、「茅舎句集の発刊は一つに令兄川端龍子氏の発意によることで、私に遺稿の集輯を託された」とあり、その刊行は偏に、茅舎の異母兄の龍子によってなされたのであろう。
龍子自身、「ホトトギス」の同人であり、茅舎が「ホトトギス」で活躍する以前から、その表紙絵・挿絵などを担当していて、「ホトトギス」やその主宰者の高浜虚子との関係は、
茅舎よりも遙かに深いものがあったといえるであろう。
この「ホトトギス」の表紙絵・挿絵などは、錚々たる画人が担当しており、龍子が最初に登場するのは、明治四十四年(一九一一)の頃で、その八月号(第一四巻・第一二号)の目次を見ると、「銀座の裏(川端龍子挿絵)・銀座の角(川端龍子挿絵)」などと、その名を見ることができる。
そもそも、その頃の「ホトトギス」は、単に俳句関係だけではなく、広く「小説・評論・俳句・美術」などの総合誌的な体裁で、号によっては、相当な部分を美術関係に当てていて、明治時代の龍子も渡米する以前の洋画家として、この「ホトトギス」に登場し、後に、大正・昭和時代の渡米後の日本画家として再登場している。
その「ホトトギス」に関係する画人は、中村不折・下村為山・浅井忠・小川芋銭・石井柏亭・平福百穂・岡本月村・池部鈞・森田恒友・小出楢重・岸田劉生・近藤浩一路・・小林古径・横山大観等々と、まさに、目白押しという感じである。
龍子が、その表紙絵を担当するのは、昭和六年(一九三一)の頃で、その年の十二月号(第三十五巻第三号)で、茅舎は「金剛の露ひとつぶや石の上」など四句が、その巻頭を飾ることとなる(この号の「ホトトギス・目次」を下記に掲載をして置きたい)。
さて、茅舎の令兄・川端龍子が発意して刊行した、この『定本川端茅舎句集』には、その「序」として、茅舎の第二句集『華厳』での高浜虚子の「序」の「花鳥諷詠真骨頂漢」とあわせ、虚子の「庭の花」という一文が掲載されている(この「庭の花」は「ホトトギス・・・茅舎追悼・昭和十六年九月号」に掲載されたものを再掲している)。
その虚子の「庭の花」の一節に、「芭蕉の花が軸と共に挘ぎ取られてそれが龍子君の手に渡された。龍子君はそれを左脇(註・棺の亡き茅舎の左脇)の方に入れた。そこは詰め物ががさばつてをつたが芭蕉の花が重かったのでごぼと沈んだ」と、虚子は記している。
この棺の、亡き異母弟・茅舎の左脇に置いたところの、異母兄・龍子の「芭蕉の花」は、それは、まぎれもなく、その五年後の、日本がどん底にあった、戦後の、昭和二十一年に刊行した、『定本川端茅舎句集』の、その川端龍子が装幀した、その表紙絵の、その「芭蕉の花」に連なるものなのであろう。

(茅舎追想その三)庭の花(その三)

[  庭の花    虚子
深川正一郎君と私の二人は門口に立つた。石炭酸の臭ひがする。消毒をしたのだなと思ふ。台所の方にマスクを掛けた女の人が二人許り見えた。私達は玄関を上つてそこに外套と帽子とを脱ぎ棄てて茅舎君の病室であつたところに行かうとすると、龍子君と廊下で逢つた。暫く座敷に坐つて改まつて挨拶をし、又棺のほとりに行つて見ると、一人の人が、庭に咲いてゐた白百合と鬼百合とを手折つて龍子君に手渡した。龍子君はそれを私に渡した。私は其一本を正一郎君に渡した。手に残つたのを見るとそれは白百合であつた。それをどのへんに入れようかと思つたが、茅舎君の右の脇に置いた。正一郎君も同じく右の脇に置いた。それは別に意味があつたわけではなかつたが、詰め物の加減でそこが少し落窪んでゐて、そこに置くのが最も自然であつたやうに思ふ。又芭蕉の花が軸と共に挘ぎ取られてそれが龍子君の手に渡された。龍子君はそれを左脇の方に入れた。そこは詰め物ががさばつてをつたが芭蕉の花が重かったのでごぼと沈んだ。私は別れを叙したいと思つて顔にかぶさつてゐる切れを取つていただきたいと言つた。一人の人がその切れを取つて呉れた。茅舎君の顔は少しむくみが来て居ると思はれたが、併しふだんの顔とあまり違つて居るとも思はれなかつた。少し頸を右にかしげてゐたが、これもふだんでもさうであつたやうに思ふ。私達は拝をした。切れは再び顔の上に覆はれた。 ]

『定本川端茅舎句集』に掲載されている高浜虚子の「庭の花」の全文である。虚子が提唱して、実践していた「写生文」の一典型を見る思いがする。虚子は「写生俳句」とともに「写生文」を、当時の「ホトトギス」に掲載し続けた。その小説の類も「写生小説」と理解しても差し支えなかろう。
虚子は、俳句の実作・鑑賞・研究の全ての分野で、際だった存在であるが、それ以上に、小説家・散文家という自負を常に持ち続けていた。ちなみに、虚子全集(「毎日新聞社」刊)は、巻一から巻四が「俳句集」、巻五から巻七が「小説集」、巻八から巻九が「写生文集」、巻十から巻十二が「俳論・俳話集」、巻十三が「自伝・回想集」、巻十四が「紀行・日記集」、巻十五が「書簡・資料集」、巻十六が「虚子研究年表」で編纂されている。
この「写生文」は、そもそもは、虚子が兄事した正岡子規の、「俳句革新」・「短歌革新」・「文章革新」の、その「文章革新」の「事実を細叙したる文」を志向してのものということになろう。
この「事実を細叙する」という虚子の「コピー機」のような正確無比な冷徹な眼というのは、掲出の「庭の花」だけを見ても察知することができよう。それにしても、「芭蕉の花が軸と共に挘ぎ取られてそれが龍子君の手に渡された。龍子君はそれを左脇の方に入れた。そこは詰め物ががさばつてをつたが芭蕉の花が重かったのでごぼと沈んだ」の、この「ごぼと沈んだ」という箇所などは、まさに、虚子ならではという思いを深くする。
そして、「芭蕉の花」を、異母兄の龍子が異母弟の茅舎へ手向けたというのは、画家として大成した龍子が、俳人として夭逝した茅舎を慮って、「俳聖芭蕉に因んでの芭蕉の花」を手向けたのかと、そんな思いをも深くしたのであった。
しかし、世の中というのは広いもので、同じようなことに興味を持っていて、そして、同じようなことを「あれかこれか」している、謂わば、「似た者同士」が、偶然に、その「関心を一にする」ことについて情報交換するような場に遭遇することがある。
こういうことを「一期一会」とでも言うのであろうか、何かの集まりで、何かの拍子に、たまたま、虚子の「庭の花」の「芭蕉の花」が話題になり、何と、その「芭蕉の花」は、当時の青露庵(茅舎が住んでいた大田区の「馬込文士村」の一角)の庭に芭蕉があって、その「芭蕉の花」だと言うのである。
さらに、何回が目にしている「新訂俳句シリーズ人と作品」の『川端茅舎(石原八束著)』(「桜楓社」刊)に、その芭蕉の写真が掲載されているというのである。誠に、「コロンブスの卵」で、その写真を見て、何のことはない、事実は、「写生文の神様・高浜虚子」の、その写生文の「庭の花」の通りであって、「庭に咲いてゐた白百合・鬼百合・芭蕉の花」の「芭蕉の花」というのが、正解なのであろう(今は、茅舎が住んで居た「青露庵」には句碑があるだけで、その旧宅もその庭も、そして、その「芭蕉の花」も見ることはできない。下記の写真は茅舎が亡くなった頃の「青露庵」で、その庭に「芭蕉」が植えられている)。




(茅舎追想その四)虚子の「厭な顔」

『定本川端茅舎句集』に掲載されている虚子の「庭の花」が「写生文」とするならば、
水原秋桜子をモデルとした「厭な顔」の短編は「写生小説」と位置づけられるであろう。
この短編小説は、『高浜虚子全集第七巻』(小説集三)では三頁程度のもので、その最終部分の会話調のところを記すと次のとおりである。

[ 扱て信長の前に引かれた左近は打ちしほれて面を垂れてゐたが、信長はやさしく、
「左近、暫くであつたな。何故お前は己に背いて門徒の一揆に加はつたのか。」
と聞いた。
左近は矢張り面をふせてゐた。
「いつかお前が己にささやいたことは、お前の親切からであつたらうといふことは己も想像してゐるが、其の時格別気にもとめて聞かなかつた。併し其の時己がお前の言つたことを耳にとめなかつたのでお前が大変厭な顔をしたことは覚えて居る。」
左近は矢張り面を伏せて何ともいはなかつた。
「大方其の為め急に己に背くやうになつたのであらうが、格別背くにも及ばぬことではなかつたか。」
左近は少しく口をもぐくさせてゐる様子であつたが、其の顔は信長には見えなかつた。
「己も折角のお前の言葉に耳を傾けなかつたのは悪かつたが、お前も其の為めに厭な額をしてすぐ逐電したのは愚かなことではなかつたか。」
信長は又左近の其の時の厭な顔を思ひ出してふき出して笑つた。左近は一層首を垂れた。
「左近を斬つてしまへ。」
と信長は命令した。       ]

ここに登場してくる左近(栗田左近)が、「ホトトギス」を離脱して、それに対抗する「馬酔木」という俳誌と俳句集団を創設していくところの水原秋桜子で、信長(織田信長)が、「ホトトギス」の主宰者、且つ、日本俳壇の大御所の高浜虚子なのである。
この「厭な顔」は、昭和六年十二月の「ホトトギス」誌上に掲載されたものなのであるが、これが掲載されると、翌七年一月の「馬酔木」の別冊で、秋桜子は、「生きてゐる左近」の名で「織田信長公へ」との反駁文を掲載し、両者は険悪な状態になっていく。その秋桜子の反駁文は次のとおりである。

[謹白、陣中御多事の折柄御執筆相成候大衆文芸つぶさに拝読仕り候。いつもながら結構布置の妙を極め、御運筆も神に入りて、何も洩れ聞こえざる遠国の武士は、全然架空の御着想とは知る由もなく、これこそ彼の事件の史実よと早呑み仕るべく、又、浜口遠州高野常州などのへつらい武士は、額をたたいて天晴れ御名作と感嘆仕るべく候。さりながら、如何に大衆文芸なりと申せ、全然空想の作物は近頃流行仕らず、ここは矢張り写生的に御取材遊ばさるる方、拙者退身の史実も明らかとなりてよろしからんかと、一応愚見開陳仕り候。御作御発表の上、又何かと御糊塗なされ候点を指摘仕るべく候。何はしかあれ、日頃の御寛仁にも似ず、身づから馬を陣頭に進め給ひしこと、弓矢とる身の面目これにすぎたることはなく、厚く御礼申上候。恐惶謹言。 生きている左近
織田右府どの     ]

この秋桜子の反駁文に出てくる高野常州とは、高野素十のことで、虚子、秋桜子、そして、素十の、この三人の、この「厭な顔」のモデルとなっている、その背景は、何ともおぞましいような、実に、陰惨な形相すら帯びている。
そして、川端茅舎は、虚子から、「花鳥諷詠真骨頂漢」として、秋桜子の去った後の「ホトトギス」の中心俳人として嘱望され、また、秋桜子とは、秋桜子が関係する昭和医専付属病院の入院その他で私事万端の世話になっており、素十とも、素十の関係する新潟大学付属病院に後に入院するなどの昵懇関係にあり、これらの「厭な顔」のモデルとなっている背景のことなどとは、一定の距離は置いているが、好むと好まざるとに関わらず、陰に陽に、その影響を受けることとなる。
ここで、「年譜」(『川端茅舎(石原八束著)』)の「昭和六年」の事項を掲載して置きたい。この年譜に出てくる「浜口今夜」は、上記の秋桜子の反駁文に出てくる「浜口遠州」である。

[ 昭和六年(一九三一) 三四歳
一月号 「ホトトギス」巻頭雑詠
十月号 「ホトトギス」に浜口今夜の「最近俳壇漫評」に「たかし氏と茅舎氏」の一文が載り、四S後、今俳壇は両氏の時代であること、最近十一ヶ月間のホトトギス雑詠に四十句以上の入選者はたかし、茅舎、立子等六名。三十句以上の入選者は秋桜子、青畝、草田男、誓子、風生等十三名であると報告された。
同月及び十一月号「馬酔木」に水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」が発表され、秋桜子は「ホトトギス」を離脱。十一月「脊椎カリエス」のため、茅舎は昭和医専付属病院に入院。同校教授水原秋桜子の斡旋による。入院中も度々秋桜子の慰問を受ける。
十二月「ホトトギス」雑詠欄巻頭(四度目)「金剛の露」登場。作家的声望いよいよ高まる。この年星野立子主宰の「玉藻」に随想「枯芭蕉」、日記「二十一日間」(四月号)他の文章を執筆した。   ]


(茅舎追想その四)虚子の「厭な顔」

『定本川端茅舎句集』に掲載されている虚子の「庭の花」が「写生文」とするならば、
水原秋桜子をモデルとした「厭な顔」の短編は「写生小説」と位置づけられるであろう。
この短編小説は、『高浜虚子全集第七巻』(小説集三)では三頁程度のもので、その最終部分の会話調のところを記すと次のとおりである。

[ 扱て信長の前に引かれた左近は打ちしほれて面を垂れてゐたが、信長はやさしく、
「左近、暫くであつたな。何故お前は己に背いて門徒の一揆に加はつたのか。」
と聞いた。
左近は矢張り面をふせてゐた。
「いつかお前が己にささやいたことは、お前の親切からであつたらうといふことは己も想像してゐるが、其の時格別気にもとめて聞かなかつた。併し其の時己がお前の言つたことを耳にとめなかつたのでお前が大変厭な顔をしたことは覚えて居る。」
左近は矢張り面を伏せて何ともいはなかつた。
「大方其の為め急に己に背くやうになつたのであらうが、格別背くにも及ばぬことではなかつたか。」
左近は少しく口をもぐくさせてゐる様子であつたが、其の顔は信長には見えなかつた。
「己も折角のお前の言葉に耳を傾けなかつたのは悪かつたが、お前も其の為めに厭な額をしてすぐ逐電したのは愚かなことではなかつたか。」
信長は又左近の其の時の厭な顔を思ひ出してふき出して笑つた。左近は一層首を垂れた。
「左近を斬つてしまへ。」
と信長は命令した。       ]

ここに登場してくる左近(栗田左近)が、「ホトトギス」を離脱して、それに対抗する「馬酔木」という俳誌と俳句集団を創設していくところの水原秋桜子で、信長(織田信長)が、「ホトトギス」の主宰者、且つ、日本俳壇の大御所の高浜虚子なのである。
この「厭な顔」は、昭和六年十二月の「ホトトギス」誌上に掲載されたものなのであるが、これが掲載されると、翌七年一月の「馬酔木」の別冊で、秋桜子は、「生きてゐる左近」の名で「織田信長公へ」との反駁文を掲載し、両者は険悪な状態になっていく。その秋桜子の反駁文は次のとおりである。

[謹白、陣中御多事の折柄御執筆相成候大衆文芸つぶさに拝読仕り候。いつもながら結構布置の妙を極め、御運筆も神に入りて、何も洩れ聞こえざる遠国の武士は、全然架空の御着想とは知る由もなく、これこそ彼の事件の史実よと早呑み仕るべく、又、浜口遠州高野常州などのへつらい武士は、額をたたいて天晴れ御名作と感嘆仕るべく候。さりながら、如何に大衆文芸なりと申せ、全然空想の作物は近頃流行仕らず、ここは矢張り写生的に御取材遊ばさるる方、拙者退身の史実も明らかとなりてよろしからんかと、一応愚見開陳仕り候。御作御発表の上、又何かと御糊塗なされ候点を指摘仕るべく候。何はしかあれ、日頃の御寛仁にも似ず、身づから馬を陣頭に進め給ひしこと、弓矢とる身の面目これにすぎたることはなく、厚く御礼申上候。恐惶謹言。 生きている左近
織田右府どの     ]

この秋桜子の反駁文に出てくる高野常州とは、高野素十のことで、虚子、秋桜子、そして、素十の、この三人の、この「厭な顔」のモデルとなっている、その背景は、何ともおぞましいような、実に、陰惨な形相すら帯びている。
そして、川端茅舎は、虚子から、「花鳥諷詠真骨頂漢」として、秋桜子の去った後の「ホトトギス」の中心俳人として嘱望され、また、秋桜子とは、秋桜子が関係する昭和医専付属病院の入院その他で私事万端の世話になっており、素十とも、素十の関係する新潟大学付属病院に後に入院するなどの昵懇関係にあり、これらの「厭な顔」のモデルとなっている背景のことなどとは、一定の距離は置いているが、好むと好まざるとに関わらず、陰に陽に、その影響を受けることとなる。
ここで、「年譜」(『川端茅舎(石原八束著)』)の「昭和六年」の事項を掲載して置きたい。この年譜に出てくる「浜口今夜」は、上記の秋桜子の反駁文に出てくる「浜口遠州」である。

[ 昭和六年(一九三一) 三四歳
一月号 「ホトトギス」巻頭雑詠
十月号 「ホトトギス」に浜口今夜の「最近俳壇漫評」に「たかし氏と茅舎氏」の一文が載り、四S後、今俳壇は両氏の時代であること、最近十一ヶ月間のホトトギス雑詠に四十句以上の入選者はたかし、茅舎、立子等六名。三十句以上の入選者は秋桜子、青畝、草田男、誓子、風生等十三名であると報告された。
同月及び十一月号「馬酔木」に水原秋桜子の「自然の真と文芸上の真」が発表され、秋桜子は「ホトトギス」を離脱。十一月「脊椎カリエス」のため、茅舎は昭和医専付属病院に入院。同校教授水原秋桜子の斡旋による。入院中も度々秋桜子の慰問を受ける。
十二月「ホトトギス」雑詠欄巻頭(四度目)「金剛の露」登場。作家的声望いよいよ高まる。この年星野立子主宰の「玉藻」に随想「枯芭蕉」、日記「二十一日間」(四月号)他の文章を執筆した。   ]


(茅舎追想その五)龍子の「愛染」

島根県安来市に「足立美術館」がある。その美術館のホームページに、「創立者足立全康」について紹介されている。

http://www.adachi-museum.or.jp/ja/index.html


[足立全康は明治32年(1899)2月8日、能義郡飯梨村字古川(現、安来市古川町―美術館所在地)に生まれました。小学校卒業後すぐに、生家の農業を手伝いますが、身を粉にして働いても報われない両親を見るにつけ、商売の道に進もうと決意します。14才の時、今の美術館より、3kmほど奥の広瀬町から安来の港までの15kmを大八車で木炭を運搬する仕事につきました。運搬をしながら思いついたのが炭の小売りで、余分に仕入れた炭を安来まで運ぶ途中、近在の家々に売り歩き、運賃かせぎの倍の収入を得たことがいわば最初に手掛けた商いといえます。その後紆余曲折、様々の事業を興し、戦後は大阪で繊維問屋、不動産関係などの事業のかたわら、幼少の頃より興味をもっていた日本画を収集して、いつしか美術品のコレクターとして知られるようになっていました。また若い頃から何よりも好きであったという庭造りへの関心も次第に大きくなっていったのです。そしてついに昭和45年、71才の時、郷土への恩返しと島根県の文化発展の一助になればという思いで、財団法人足立美術館を創設しました。]

この「足立美術館」は「名園と横山大観コレクション」として名高い美術館で、ここに、川端龍子の傑作画「愛染」(昭和九年作)がある。この「愛染」について、次のように紹介されている。

[「愛染」とは愛欲や煩悩といった意味がありますが、ここではこまやかな夫婦の愛情を表現しています。群青の池と深紅の紅葉、その中でつがいのおしどりが見つめあう一瞬。
装飾性と写実性がみごとに調和した名作です。]

この龍子の「愛染」は、茅舎が生存中の昭和九年の作で、龍子の太平洋戦争前の傑作画の一つである。「現代日本の美術」の『川端龍子(村瀬雅夫解説)』(集英社刊行)で、次のように解説されている。

[第二回の春の青龍展の出品作。太平洋連作の雄大な構想を展開していた秋の展覧会と異なり春は習作的実験的作品の発表を恒例としていた。したがって春の出品作に間奏曲のような珠玉の名品が多い。夏が好きだという南和歌山生まれの龍子は、夏の画題が多い。秋の紅葉、日本画の伝統的なテーマは、龍子の作品には意外に少ない。その紅葉とオシドリの古典的なテーマに挑んで観客をあっと驚かせる新鮮意外な日本の美に目を見開かせたのがこの作品である。モミジの紅に染まる池面に鴛鴦の愛の契りの軌跡がくっきりと浮かび上がる。青く住んだ高い空、錦繍の秋に織りなす愛のドラマの余韻が鮮明華麗に漂うこの作品は、絵の楽しさに酔わせる。池に散るモミジの葉は真上から見た正面性の形で描く象徴の手法を活用、装飾感と写実味が見事に一体化している。最近切手になって再びその新鮮さが見直されている。]

この解説(村瀬雅夫稿)が、最もポピュラーなものなのであろうが、これが制作された、昭和九年(一九三四)、龍子が四十九歳のときには、その前年の八年に、龍子の母(勢以)と龍子らを見捨てたような父(信吉)が他界し、その父との凄まじい葛藤にあった母(勢以)は、昭和四年(龍子、四十四歳)に他界しているのである。
すなわち、龍子の傑作画「愛染」の二羽の鴛鴦は、決して、「モミジの紅に染まる池面に鴛鴦の愛の契りの軌跡がくっきりと浮かび上がる」というような、そんな生易しいものではなく、「壮絶にして異常な限りなく凄絶な愛憎の契りの軌跡、されど、それぞれの、一人の男としての、また、一人の女としての生き様、そのものの、存在と実存との軌跡が、モミジの紅に染まる池面に、くっきりと浮かび上がる」ような、そのような、いわゆる、密教の「愛染明王」を背景にしたようなものに思えてならないのである。
そして、同時に、この二羽の鴛鴦は、両親(信吉・勢以)を亡くした龍子と、十二歳年下の異母弟・茅舎もまた、その両親(信吉・ゆき)を亡くしており、それぞれの肉親を亡くした、異母兄弟の二人の、これまた、その「存在と実存」との「壮絶にして異常な限りなく凄絶な愛憎の契りの軌跡」と捉えることも、これまた、十分に可能であろう。
この龍子の「愛染」を見ていると、異母兄弟同士の、画家・龍子と俳人・茅舎の二人と、そして、それぞれの、その肉親などが、走馬燈のように駆け回るのを覚えるのである。

(追記)愛染明王

http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/aizennZ.htm


愛染という名前のとおり、愛情・情欲をつかさどり、愛欲貪染をそのまま浄菩提心(悟りの心)にかえる力をもち、煩悩即菩提を象徴した明王です。すなれち、人間にはさまざまな欲望がありますが、この欲望は人間には滅亡へとかりたてる力を持つとともに、時には生きて行くうえでの活力源となり、より多くのものを可能にし、高める力を持っています。この両刃の剣である力強い欲望の工ネルギーを、悟りを求め自らを高めようとする積極的なエネルギーに浄化しようというのが愛染明王の教えです。


(茅舎追想その六) 龍子と茅舎(その略年譜など)

一大の画人として文化勲章をも受賞した川端茅舎とその十二歳年下のその才能を惜しまれつつ夭逝した異母弟の俳人・茅舎とでは、まさに、両極端のようなに思われるけれども、この両者は、陰に陽に惹かれ合い、直接・間接を問わず影響し合った兄弟同士であったということを実感する。
殊に、俳人・茅舎の生涯というのは、その年譜を比較対照して見ていくと、異母兄の龍子とその妻・夏子の庇護下のものであったということを実感する。
茅舎が生まれた日本橋蛎殻町の家には、茅舎の両親と共にそこに同居して異母兄の龍子が居て、そして、その龍子の実母はこの家の近くの親戚の経営する日本橋病院に住み込みで働いているという、誠に龍子にとっては異常な境遇下で、やがて、龍子はその実父と茅舎の母とを嫌悪しつつ、この家から離れ、独立独歩の道を進んで行く。
一方、茅舎は、この両親の溺愛の中で育ちつつ、やはり、この異常な環境下の家を離れ、青春彷徨をしつつ、龍子の庇護を受けて、その実母亡き後は、実父共々、龍子が建ててくれた青露庵に落ち着き、そこで、四十四歳の生涯を閉じることとなる。
龍子は、明治三十七年(一九〇四)、十九歳のときに、国民新聞社(現在の読売新聞社)の「明治三十年画史」に応募当選し、明治四十年に国民新聞社に入社して、挿絵などを担当する。当時は写真画像よりも挿絵画像が持て囃され、それで名を成していく。同時に、洋画で文展入選など、当時は日本画ではなく洋画の道を歩んでいた。
そして、龍子は、大正二年(一九一三)に、国民新聞社員のまま渡米して、七ヶ月の滞在の後に帰国して、洋画を捨て日本画に転向する。茅舎は、この頃から、父の寿山堂に習って俳句を始め、一高受験に失敗の後に、龍子が断念した洋画の道に入って行く。以後、茅舎は、龍子とその妻夏子の庇護の下にあって、洋画の修業と共に、龍子が知己としていた「ホトトギス」などで俳句との係わりを深くしていく。
昭和三年(一九二八)、茅舎、三十一歳のときに、母を亡くして、この年から、龍子が建ててくれた青露庵に移り、以後、昭和十六年(一九四一)、四十四歳で亡くなるまで、完全に、龍子一家に面倒を見て頂くことになる。
すなわち、俳人として一時代を画した茅舎は、物心両面にわたって、茅舎以上に画人として一時代を画していた龍子の世話になっており、画人・龍子無くして俳人・茅舎は存在しなかったと言っても、決して過言ではなかろう。
と同時に、俳人としての茅舎の才能を他の誰よりも認めていたのは、これまた、龍子であり、そして、茅舎もまた、画人として龍子のとてつものない才能を陰に陽に見守り続けていたと言って、決して過言ではかろう。
龍子は、太平洋戦争後、まずもって、茅舎の句業の総決算ともいうべき『定本川端茅舎句集』を、茅舎の師の虚子と虚子の側近の深川正一郎の手を借りて実現する。そして、太平洋戦争中に亡くなった妻と戦死した子息の鎮魂のために、昭和二十五年から足掛け六年にわたって四国遍路を決行する。この四国遍路の同行者は、『定本川端茅舎句集』を実質的に編んだ、「ホトトギス」の俳人・深川正一郎であった。
この龍子の四国遍路の記録は、『詠んで描いて 四国遍路』(小学館)にまとめられている。この「四国遍路」だけではなく、その後の、「西国巡礼」・「板東三十三ヶ寺巡礼」・「奥の細道行」など、それは、亡くなった茅舎を始め龍子の肉親者に対する鎮魂の行脚であったように思えてならないのである。
ここで、川端龍子略年譜 [括弧書きは「茅舎略年譜]を付記して置きたい。

(付記)

川端龍子略年譜 [括弧書きは「茅舎略年譜]

1885(明治18) 和歌山市の呉服商の長男として生まれる。
1895(明治28) 家族とともに上京。初め浅草に、後、日本橋に移る。
[1897(明治30) 茅舎、東京都日本橋蛎殻町に生まれる。]
1907(明治40) 国民新聞社に入社。第1回文展に初入選。
1913(大正2) 渡米。帰国後日本画に転向。
[1914(大正三年 茅舎十七歳。この頃母は芸妓置屋「三日月」を営み、茅舎はその二階の一間を「茅庵」と称し、自分を「茅舎」と号して、父の寿山堂に習って俳句を始める。医学を目指しての一高受験に失敗。本郷春日町の藤島武二絵画研究所に通う。]
1915(大正4) 第2回日本美術院展初入選。[茅舎十八歳。「ホトトギス」虚子選(初入 
選)。] 
1916(大正5) 第3回院展、樗牛賞受賞。
1917(大正6) 第4回院展入選。日本美術院同人に推挙される。
1920(大正9) 新井宿に住居と画室を新築。
[1921(大正10) 茅舎二十四歳。岸田劉生に師事。龍子の家に出入りし、龍子の妻・夏子の庇護を受ける。]
1928(昭和3) 日本美術院同人を辞退。[茅舎三十一歳。母ゆき死亡。龍子が建てた家(青
露庵)に父と共に移る。この頃、倉田百三の妹艶子と恋愛。]
1929(昭和4) 青龍社樹立宣言。第1回展開催。[茅舎三十二歳。春頃から特に病弱となる。十二月、岸田劉生急死。]
[1930(昭和5)茅舎三十三歳。妹晴子(生まれて直ぐに他家に養女)急逝。「ホトトギス」一辺倒になる。]
1931(昭和6) 朝日賞を受賞。 [茅舎三十四歳。脊椎カリエスのため昭和医専付属病院に入院。]
[1933(昭和8) 茅舎三十六歳。八月四日、父寿山堂死亡。]
[1934(昭和9) 茅舎三十七歳。五月、龍子の妻・夏子の紹介で、第一生命相互保険会社の「あをきり句会」の指導を始める。十月、第一句集『川端茅舎句集』を刊行。]
1937(昭和12) 帝国芸術院会員に任命されたが4日後に辞退。
[1939(昭和14)茅舎四十二歳。五月、第二句集『華厳』刊行。六月、小野房子を九州に訪ね、筑紫に遊ぶ。]
1940(昭和15) 満州国新京美術院長に就任。 [茅舎四十三歳。一月以降次第に病状悪化。九月、高野素十を新潟に訪ねる。]
[1941(昭和16) 茅舎四十四歳。七月、第三句集『白痴』刊行。その月の十七日に永眠。「青露庵茅舎居士」と龍子が戒名を付け、伊豆修善寺の川端家の墓地に埋葬。]
1944(昭和19)7月龍子の妻・夏子死亡。11月三男嵩戦死
[1946(昭和21) 九月『定本川端茅舎集』刊行(発行者は茅舎になっているが、龍子が虚子と深川正一郎に遺稿を託して刊行)。]
1950(昭和25) 四国遍路に赴く。
1955(昭和30) 古稀記念第1回龍子の歩み展開催。
第1回大観・玉堂・龍子展開催。
1958(昭和33) 青龍社30周年記念第2回龍子の歩み展開催。
第29回ヴェネチア・ビエンナーレ展に出品。
1959(昭和34) 文化勲章受章。
1962(昭和37) 喜寿記念第3回龍子の歩み展開催。
1963(昭和38) 龍子記念館開館。
1966(昭和41) 池上本門寺祖師堂天井画「龍」制作。
4月10日死去。80歳。従三位に叙せられる。


(茅舎追想その七) 龍子と茅舎の号の由来など

龍子は、その「わが画生活」で、その生い立ちと「龍子」の号の由来を次のとおり克明に記している(『川端龍子(菊地芳一郎著)』)。

[ 私の母勢以は平野なおの独り娘で、しかも平野家の戸主であった。父信吉も亦川端家へ養子に這入った戸主であった。戸主同志は法律上婚姻の手続きを踏むことは出来ない。そこで私は戸籍面には、父の認知による庶子男として届けられた。そんな戸籍面を知らず居た私は、徴兵検査の必要から、自分の謄本を取ってみると、そこに意外なる事実が記載されて居た。それのみか、それを手渡した戸籍吏の冷笑的にも皮肉的にも、私をさげすんだ様な眼の色は、純真だった私の心を傷けずには措かなかった。戸籍謄本を見て始めて知った自分の何か情ない様な境遇、嫡男ではなく庶子という身分、これからの自分の一生を支配する、いわば不幸の出発点のやうな気がして、心の底から湧いてくる父への憎念を抑へることは出来なかった。父は母勢以の入籍について合法的な手続きをとらず、異母弟茅舎(信一)の生母ゆきを入籍させ、本来庶子であるべき信一が一転して川端家の嫡子になり、私は名実共に法律上では父の庶子に成り終ってしまった。こうして、母と私を裏切った父の行為、そこで私は「俺は誰のでもない龍の落し子なのだ」という気概に揺すぶられて自らこの雅号を附し、これこそ自分の生んだ芸術上の戸籍なのだとして、その当時の心の調和を図ろうとした。そして、私は、この時限り父への望みを棄て、私から新しい別の川端家を創めるという強い反撥心をもって起き上がった。私は龍子の雅号に因んだ定紋(宝珠)を制定して、私を第一代とする新しい川端家を誕生させたのである。 ]

龍子とは「龍の落し子」、これこそが「川端龍子」の、その号の由来なのである。後に、詩人の佐藤春夫は、龍子に対して、次のような賛辞を呈する。まさに、「龍の落し子」が飛龍になって一大画人として大成するのである。

[ 明治以来今日までのわが芸術界にあって、名手や妙手なら決して少なくないが、真に巨匠と呼ぶにふさわしいのはただ一人川端龍子ぐらいものではないだろうか。(佐藤春夫「朝日新聞・巨人の足あと、龍子の歩み展を見る」) ]


その異母弟「川端茅舎」の「茅舎」の号の由来もいろいろと謎が隠されている。その略年譜を見ると、次のように記されている。

[1914(大正三年 茅舎十七歳。この頃母は芸妓置屋「三日月」を営み、茅舎はその二階の一間を「茅庵」と称し、自分を「茅舎」と号して、父の寿山堂に習って俳句を始める。医学を目指しての一高受験に失敗。本郷春日町の藤島武二絵画研究所に通う。]

この略年譜の「茅庵」・「茅舎」というのは、文字とおり、「かやぶきの家。茅屋(ぼうおく)」の「茅葺きの粗末な棲まい」のような意であろう。そして、芭蕉の「茅舎の感」と題する「芭蕉野分して盥に雨を聞(きく)夜哉」を想起させる。その芭蕉の句は、杜甫の「茅屋秋風ノ破ル所ト為るル歌」を踏まえており、いかにも、俳人「茅舎」の号の由来に相応しいように思われるのである。
しかし、事実はそんな生易しいものではなく、この「茅舎」というのは、旧約聖書の「レビ記」に出てくる「結茅(かりほずまい)の節(いわい)」(出エジプト後の荒野放浪時代に神が民を「仮庵(かりいお)」に住まわせたことに由来する祭)の「仮庵」(茅舎)というのが、その真意らしいのである(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親著・蝸牛俳句文庫)』)。
茅舎には、「茅舎」という号の他に、「遊牧の民」・「俵屋春光」という号での投句も散見される(『川端茅舎(石原八束著)』)。この「俵屋春光」の「俵屋」は、茅舎の父の川端家の屋号が「俵屋」であり、その屋号に由来がある。そして、この「遊牧の民」というのは、どうやら、異母兄の龍子が、当時、転々と住所を替えて移り住む、茅舎や茅舎の父親などに呈した戯言に由来のあるもののようなのである。
この「遊牧の民」から旧約聖書の「茅舎」(仮庵)というのが、どうやら、俳人・川端茅舎の「茅舎」の号の由来のようなのである。
これらのことについて、茅舎は何も語ってはいない。しかし、茅舎が亡くなる年に刊行された、茅舎の第三句集の『白痴』の冒頭の章(「青淵」)の冒頭の句(「大旱天智天皇の『秋の田』も」)に、どうやら、茅舎は、自分の号の由来を託したようなのである。
この『白痴』の冒頭の章名の「青淵」は、「川端」の姓の意にもとれるのである。そして、その冒頭の句の、「大旱天智天皇の『秋の田』も」の、この「天智天皇」の「秋の田」の歌は、百人一首の、「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ 我が衣手は露にぬれつつ」で、どうやら、この茅舎の句は、その天智天皇の「秋の田」の「本歌取り」の句と解せられるのである。
すなわち、その冒頭の章名とその冒頭の句からすると、「青淵」の「川端」の「かりほの庵」の「茅舎」という意が、これらの中に込められているということになる。

川端龍子の「龍子」が「龍の落し子」という、何とも、意表を突いたものならば、川端茅舎の「茅舎」も、「ヨルダン川のほとり(川端)の仮庵の茅舎(遊牧の民の「テント」)というのが、これまた、何とも絶妙な号の由来のように解せられるのである。


(茅舎追想その八) 龍子が建てた茅舎句碑

龍子も茅舎も伊豆修善寺の龍子が「川端家」ならぬ「川端系之墓」と刻んだ墓域の一角に眠っている。「修善寺を墓地に撰んだのは、おそらく夏子夫人がこの地を愛し、ために『青々居』なる別邸までこの地につくった、にもかかわらず、夏子夫人は、遂にこの別邸に住む日もなく、終戦を一年前にして十九年の七月に没しいかれた。それへの追善供養と言う意味を含めて、ここを永遠の地としたことでもあったろう」として、「父祖伝来の墓地は、今和歌山市内に現存する」(『川端龍子(菊地芳一郎著)』)とのことである。
この和歌山市内にある川端家の父祖伝来の墓地には、「昭和十年(一九三五) 三十八歳。十月、龍子の妻夏子と一緒に、和歌山市へ父母の墓参」(「川端茅舎略年譜」)とあり、茅舎と龍子の夏子夫人は訪れている。そして、ここには、龍子や茅舎の父の寿山堂などが眠っているのであろう。
さて、この「川端系之墓」と刻んだ墓域の一角に、龍子が建てた茅舎句碑がある。「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」の一句である。この句は、昭和五年(一九三〇)「ホトトギス」十一月号の巻頭の四句のうちの一句である。その四句は次のとおりである。

○白露に阿吽(あうん)の旭さしにけり
○白露に金銀の蠅とびにけり
○露の玉百千万も葎(むぐら)かな
○ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな(「ひろびろ」の「びろ」は二倍送り記号の表示)

「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」の句意は、「芭蕉の広い葉に乗った露が、仏教浄土の実相図をなしている」(『川端茅舎(石原八束著)』)というようなことであろう。茅舎追善句碑の句としては、誠に相応しい句であろう。また、茅舎は、「露の茅舎」とも「茅舎浄土」とも言われ、それらの面からも、これを句碑の句として撰んだ龍子というのは、茅舎の俳人生というものを正しく見抜いていたという思いを深くする。
と同時に、茅舎が瞑目したときに、龍子は、茅舎の「青露庵」の庭に咲いていた、芭蕉の花を、その茅舎の棺に入れるのであるが(「庭の花(虚子)」)、何故か、龍子にとっては、茅舎というのは、「青露庵」の庭の一角に植えられていた芭蕉の想い出と共に在るのではないだろうか。
さらに、想像を逞しくするならば、龍子は後に「奥の細道」行脚を決行しており、茅舎の「俳人生」というものを「俳聖芭蕉」のそれと重ね合わせているのではなかろうか。
ここで、俳聖芭蕉の「茅舎の感」の前書きのある次の一句を掲げて置きたい。

茅舎ノ感
○芭蕉野分して盥に雨を聞(きく)夜哉  芭蕉

この前書きの「茅舎ノ感」は、深川芭蕉庵をさす(『武蔵曲』・『泊船集』など)。『禹柳伊勢紀行』の前書きでは、「老杜、茅舎破風の歌あり。坡翁ふたたびこの句を侘びて、屋漏の句作る。その世の雨を芭蕉葉に聞きて、独寝の草の戸」とある。この「老杜」とは杜甫、坡翁は蘇東坡のこと。また、芭蕉の句の「盥」は「手水盥」のことであろう。句意は「吹き荒ぶ野分の中の草庵、その草庵の中に独居して、芭蕉の激しく吹き破られる葉音と手水盥に響く雨漏りの音がひとしお身にしみる」というようなことであろう。
川端茅舎の、その「茅舎」の号は、その号を使用した当初の頃は、茅舎自身、芭蕉の「茅舎ノ感」とは直接関係がなくとも、俳人・川端茅舎ということになると、芭蕉の「茅舎ノ感」のある、この芭蕉の句などを思い浮かべることは自然のことであろう。
そして、茅舎の異母兄の龍子が、茅舎の墓の脇の句碑として、茅舎の数少ない、芭蕉を句材とした句の中で、「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」を撰んだということは、宿痾で夭逝した異母弟・茅舎の一生は、俳諧一筋に生きた俳聖芭蕉の申し子のようだったと、そのように理解することこそ、何故か、龍子と茅舎の意に添うような、そんな感慨を抱くのである。




(茅舎追想その九) 茅舎と龍子の「阿吽」の句

○白露に阿吽(あうん)の旭さしにけり  茅舎

『川端茅舎(石原八束著)』の鑑賞文は次のとおりである。

[ 昭和五年十一月「ホトトギス」雑詠の巻頭を飾った茅舎開眼の一作として有名である。雑詠欄の巻頭は大正十三年十一月号以来二度目である。この期の茅舎が仏語を用いてまず「時雨」という自然の詩情を把握することに成功していたことは、その佳品をもいくつかあげてさきに言った。同じ手法で「露」の世界の断面をハスに切って鮮やかな新世界を展開せしめたのが、上掲の作をはじめ後に説くこの期の露の佳品である。阿吽という仏語は剣道や相撲の世界などにも転用されて、呼吸の合った説明に用いられているから、ここでは詳しくは言わない。白露の玉がきらッと光るその一瞬の気息に、発止と合って朝日の閃光がさしたというのである。思わず息をのむようなこのあやしい小宇宙には、鉱質の結晶と化した露の白玉だけが存在するのである。露の白玉を鉱質の結晶と見立て、それをやはり仏語の「金剛」という文字で表現した「金剛の露ひとつぶや石の上」はこの作の一年後に登場するが、その下地はすでにこの「阿吽」の発想のときにあったといっていいだろう。 ]

さて、龍子にも、「阿吽」の一句がある。

○台風を阿吽に受けて二王かな   龍子

龍子は、昭和二十五年(一九五〇)から昭和三十年(一九五五)にかけて、四国八十八カ所の「四国遍路」の行脚を決行する。同行者は、『定本川端茅舎句集』の編集者の「ホトトギス」同人の深川正一郎さんと龍子の三女の紀美子さんである。昭和二十五年というと、龍子、六十五歳の時で、この年には、龍子の話題作の「金閣炎上」などが制作された年である。
掲出の句は、第三十八番札所「金剛福寺」での作である。同時の作に、「台風にあらがひここに札所あり」「台風の渦中に遍路揉みくちやに」がある。この時の龍子の紀行文は次のとおりである。

[ 土佐の海岸線は長い。第二十四番室戸﨑(岬)の最御﨑寺から、第三十八番の足摺﨑(岬)の金剛福寺まで延々実に八十余里の遍路である。四国もここまで来ると海は黒潮の紺碧いよいよ強く、遍路の白衣も浸せば染みそうである。地には熱帯性の樹木が繁茂して、南洋のジャングルのように暗い。如何にも最果ての気分が濃ゆい。折しも台風雨来! 断崖を噛み、灯台を揺り、寺門を襲う。ここに民衆の危惧の念を救護の為に、大師の発願は金剛福寺を建立される。  ]

掲出の龍子の句の「阿吽」の二字、そして、この掲出句を生んだところの「金剛福寺」の「金剛」、この時に、龍子は、亡き異母弟の茅舎のことなどが脳裏にあったのではなかろうか。龍子は黙して語らない。この紀行文の、「民衆の危惧の念を救護の為に、大師の発願は金剛福寺を建立される」の、「民衆」という二字もまた、龍子を探るキィーワードである。
茅舎には、「民衆のための創作活動」ということとは無縁であるが、龍子には、「民衆・大衆のための美術行動・会場芸術」という大きなスローガンがあった。

[ 日本画の歴史に展覧会の施設が加へられて以来、たとへ外面的にも日本画の様子の変わったことは事実です。そして、もとより真正の会場芸術とは銘打てないまでも、明治この方展覧会の作品は、所謂床の間芸術とは調子を別にして、兎も角進展を続けて居るのです。これは今では、画業――展覧会――時代――観衆――会場芸術という関係が、日本画家の一部に朧気ながら判って来た結果だと思はれます。 ]

これは、昭和六年(一九三一)の「第三回青龍社展出品目録」での、龍子の「会場芸術」の宣言の一部なのであるが、この宣言のとおり、龍子の主たる作品は、屏風絵などの大画面表現の大作が、その主流をなしていた。
その一方で、龍子は、「南洋点描」「南方草描」「仏印草描」「盛夏草描」などの、小品の、いわゆる、龍子の造語の「草描画」をも発表して、これら「草描画」は、小画面に抜群の筆技による水墨・淡彩が施され、まさに、龍子の独壇場のものであった。
龍子の、戦後の四国遍路に関するものは、これらの「草描画」に属するものであるが、これらの、小画面の水墨・淡彩画を目の当たりにすると、茅舎のミクロの世界の俳句の世界と軌を一にするものに思い至る。
と同時に、茅舎の俳句の世界や、いわゆる、これらの龍子の小品の草描画の世界は、決して、「画業――展覧会――時代――観衆――会場芸術」の、いわゆる、大作主義の作品に比して、その規模の大小によるインパクトということは別にして、その質的な面において、「これぞ龍子」という生の姿と共に親近感すら抱かせるのである。

すなわち、龍子は、茅舎の、ミクロの珠玉のような「小宇宙」の真の理解者であり、そして、龍子は、そのミクロの珠玉のような「小宇宙」を、その「草描画」と、茅舎と同じように、俳句という作品を添えて、今に遺しているということを実感するのである。


(茅舎追想その十) 茅舎の「茅舎浄土」と龍子の「仏画」

○ぜんまいののの字ばかりの寂光土  (昭和十二年作)

「寂光土」は仏語。寂光浄土の意。仏の住んでいる極楽浄土と同意。「ぜんまい」の「の」の字に似た形から、仏教世界の理想郷を透視する、その茅舎の句眼・句境・芸境を、中村草田男は、「茅舎浄土」の世界と喝破した。

○ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな  (昭和五年作)
「曼陀羅」は仏語で、浄土実相の図という。芭蕉の広い葉の露に、仏教の浄土実相図を透視する、これまた、「茅舎浄土」の世界である。

○白露に阿吽の旭さしにけり  (昭和五年作)

「阿吽」とは仏語で、「阿」は口を開き「吽」は口を閉じて発する声のこと。両者の息の合わせることを「阿吽の呼吸」という。神社の山門の仁王や狛犬はこの「阿吽」を表明している。密教では「万物の根源」と「一切が帰着する知徳」の象徴とされている。白露と朝日の光が阿吽の呼吸の瞬間に小宇宙を透視する、これまた、「茅舎浄土」の世界である。

○金剛の露ひとつぶや石の上  (昭和六年作)

「金剛」は仏語で、「最も硬い物質」の意に用いられるが、密教では「菩提心のシンボル」ともされている。実在の写生句が、その写生を飛翔して象徴相を帯び、そこに「茅舎浄土」とも言うべき小宇宙が展開する。茅舎屈指の佳品として名高い。

○朴散華即ちしれぬ行方かな  (昭和十六年作)

茅舎は昭和十六年(一九四一)七月十七日に絶命した。その二日前、深川正一郎から、この句がまだ未刊の「ホトトギス」八月号雑詠の巻頭になっていることを聞かされて喜んだという。亡くなる一日前の十六日に、「石枕してわれ蝉か泣き時雨」の句を清紀して「ホトトギス」に投句して、「ホトトギス」九月号の巻頭となった。この句が絶筆なのであろうが、この両句をもって、茅舎の辞世の吟とされている。
茅舎の青露庵は朴の木も植えられていた。しかし、茅舎はその朴の落花を見ていないであろう。実在の朴の花は咲いたあとすぐ黄色く萎びて散ることはない。されど、「朴散華」と透視したところに、まさしく、「茅舎浄土」の世界が展開する。茅舎は、「朴散華」の「茅舎浄土」の世界へと旅立ったのである。
「散華」もまた仏語で、「仏に供養するために華(花)を散布すること」、と同時に、「法会で散華を行う際に歌唱する」ところの「声明」でもある。その声明の中で茅舎は旅立ったのである。

俳句という最も小さい十七字という世界の中で、俳人・茅舎は、広大無限の「茅舎浄土」という世界を展開したが、「床の間芸術から会場芸術へ」のスローガンの下に、明治・大正・昭和の三代にわたって、次々と大作を世に問うて、「真に巨匠と呼ぶにふさわしい」(佐藤春夫)と言わしめたところの画人・龍子には、「龍子浄土」という世界は構築されなかった。
龍子は、茅舎以上に仏教の世界にも関心があり、いわゆる、仏画というジャンルでも多くの傑作画や話題作をものにしている。しかし、それらは、「極楽浄土」などの世界を希求したものではなく、「画業――展覧会――時代――観衆――会場芸術」という龍子の考え方の、その「時代――観衆」の希求する仏画といえるものであろう。

大正十年(一九二一)の「火生」について、龍子は次のとおりその狙いを明らかにしている。

[ 三昧経の「本尊自ら火生三昧に住す――又本尊真言句義あり、即ち摩訶慮沙の句是。此智火阿字の一切の智門に住し、重に諸の菩薩の広大習気、煩悩を焼き尽く余す所なからしむるが故に火生三昧と名く」――]

この人間(そして龍子)の、「煩悩を焼き尽く余す所なからしむる」というのが、龍子の命題なのである。

昭和二年(一九二七)の話題作「一天護持」については、『(現代日本の美術)川端龍子(村瀬雅夫解説)』で、次のように解説されている。

[ 大正十五年からの行者道三部作、「使徒所行讃」につぐ二作目。仏画は「火生」につぐ二つ目の試み。火炎の中に立つ行者道の本尊、蔵王権現を描いた。「火生」では赤不動にこだわって、炎を金色にしながら不動を赤のままにした未熟さを反省、紺地に金泥、平安時代以来写経などに使われた伝統手法を活用した。「こうした大作の場合に利用したのは恐らくは自分のこの作が初めてであろう」と自負、仏画の歴史上初の紺地金泥の仏画が登場した。そしてまた力強い描線が画面いっぱい縦横無尽に使われた線の絵画でもある。「この大きさでなくては現わし得ない力量を示している。健康な体力と、健康な感情とを示している。この形態は堂々たる動態である」と発表当時評価された。筋肉を表す肥痩のある線、火炎や雲の片ぼかしの線、岩の立体的大胆な線、足裏の細緻な線、さまざまな線の特色が一つの画面に駆使されて変化とリズムを生んでいる。 ]

この「健康な体力と、健康な感情」というのは、龍子の生涯にわたっての創作姿勢とも言えるものであって、まさに、「宿痾の巣ともいうべきその体力と、その研ぎ澄まされた感情」の茅舎とは正反対に位置するものであろう。
しかし、「宿痾の巣ともいうべきその体力と、その研ぎ澄まされた感情」とを持って、茅舎は、「茅舎浄土」という世界に到達した。それに比して、「健康な体力と、健康な感情」を持って、ひたすら、「画人生涯筆一管」を座右の銘とした龍子は、「絵の描けない絵描きは死んだ方がいい」との語録を遺し、「断食のまま死を迎えた」とも言う(『川端龍子(菊地芳一郎著)』)。

翻って、四十四歳の短い生涯の俳人、川端茅舎と、八十一歳の巨匠としてその生を全うした一大の画人(龍子は「画家」といわず「画人」と称していた)、川端龍子とを比較して、「安心立命」という「極楽浄土」という観点から顧みると、「茅舎浄土」と冠せられるに至った茅舎の方に軍配を上げることは、それほど非難されるべきこととは思われないのである。

(川端龍子「一天護持」)



(茅舎追想その十一) 茅舎と龍子とのネット・データなど(その一)

川端茅舎については、次のアドレスのネット・データが参考になる(その全文も掲載して置きたい)。

http://comet.tamacc.chuo-u.ac.jp/bungaku/haiku/bousya/BOUSYA.HTM


川端茅舎論(渡部芳紀)

「茅舎浄土」という言葉で、茅舎俳句の魅力がよく語られる。中村草田男が言い出したと言うことだ。草田男は、松本たかしが<東洋的・日本的>で<感情的><絵画的>なのに対し、茅舎の<作品境地>は、<国際的><理知的><彫刻的>で、たかしが<地上の具体的な諸現象を享受しながらそれをとおして憧憬の眼を天上へ放とう>とするに対し、茅舎は<本来絶対的なるものを希求して天がけんとする性質の心を地上の愛につなぎとめて現象界裡に結晶させている>(『俳句講座6現代名句評釈』明治書院、昭33・10)と説明する。「茅舎浄土」を小室善弘は<(1)宗教的法悦性あるいは理想性><(2)童心的明朗性><(3)俳諧的余裕ないし遊びの精神><(4)審美的装飾性>の四つに分けて説明している(『川端茅舎』明治書院、昭51・8)。

それぞれ、茅舎の俳句世界の特色をついたものである。そうした多角的でかつ深みを持った(<彫刻的>)茅舎の俳句の魅力を様々な角度から眺めてみよう。

高浜虚子は茅舎の第二句集『華厳』(龍星閣、昭14・5)の序で、ただ一言<花鳥諷詠真骨頂漢>と言った。それに応ずるように、同書の「後記」で茅舎は<花鳥諷詠する事ばかりが現在自分の死守し信頼するヒユーマニテイ>であり<大丈夫(ますらお)の道>だと述べる。それより以前、茅舎は<花鳥諷詠>が<自由と新鮮>とを自分等に与え、<生活と芸術とを醇乎として醇なるもの>(「百合の花」『ホトトギス』昭8・9)にしてくれ、<僕を救って呉れる>と発言している。そうした主張の上に<白露に阿吽の旭さしにけり><ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな><金剛の露ひとつぶや石の上>といった<白露浄土>(加藤楸邨「川端茅舎論」『俳句研究』昭14・1)の世界が形造られる。

茅舎は、画家川端龍子の異母弟であり、岸田劉生について絵を学んだこともあった。事物の写生・描写には透徹した眼を持っていた。そうした画家の眼が<月光に深雪の創のかくれなし><牡丹雪林泉鉄のごときかな>といった彫琢された密度濃い傑作を生み、<河骨の金鈴ふるふ流れかな>といった華麗な句を生み、<菜殻火の映れる牛の慈眼かな>のような味わいある句も生み出す。その透徹した眼差しは、脊椎カリエスという病魔によって磨き上げられ、聴覚をも鋭く育てる。<虫の音のひりりと触れし髪膚かな><蚯蚓鳴く六波羅密寺しんのやみ>などは繊細な感受性の所産であろう。

これらの句からわかることは、茅舎が虚子の<花鳥諷詠>を信奉しながらも、その枠からはみ出し、単なる客観写生に終わらぬ極めて個性的な独自の世界を創り出していることである。しっかりした写生の上に立って<写実即象徴の域に到達>(香西照雄「川端茅舎」『近代俳人-人と作品』桜楓社、昭48・1)しているのである。

そうした写実の上に立ってこそ、彼の宗教的求道者的姿勢は、観念性に傾くことから逃れ得て、<ぜんまいののの字ばかりの寂光土><まひまひや雨後の円光とりもどし><花杏受胎告知の翅音びび><天心に光りいきづくおぼろかな>と言った世界も現出するのである。

加藤楸邨は、そうした<身辺自然の上>の<小さな浄土の建設>を評価しながらも、<生活そのものはどうなってゐるのであらうか><生活苦そのものを掘り下げて歪曲なき真実に達する道もなくてはならない>(既出)と<生活><生活苦>の無さへの不満をもらす。茅舎に<生活苦>が無いわけではない。金銭的には龍子の支えで苦しさは無かったようだが、病苦は人一倍のものであった。が、病いの苦しさを彼は死ぬまで口にしなかった。茅舎にも<生活>を感じさせる句が無いわけではない。<常不軽菩薩目刺を焼きにけり><露の宿附箋の手紙届きけり>などの生活を思わせる佳句もある。が、良い句が「草木国土」を詠んだものに傾いているのも確かである。そうした中にあって、<生活>に近いところを吟じたものがある。それはある時には、俳諧的な滑稽、おかしみの世界となり、ある時は、軽みとなり、ある時は、口語の使用となる。<和尚また徳利さげくる月の夜><肥担ぐ汝等比丘や芋の秋><しぐるゝや目鼻もわかず火吹竹><笹鳴の穏密の声しきりなる><睡蓮に鳰の尻餅いくたびも>などには、若き頃、月並俳諧に接していて身につけた俳の精神が豊かに流れていると言えよう。その俳が「かるみ」にまで達したとも言える<初蛙きりころ遠く近くかな><白牡丹われ縁側に居眠りす>などは見事である。永田耕衣は後句に<駘蕩千万な悟達、道化>を見<茅舎生涯窮極の堂奥一句>(「川端茅舎」『鑑賞現代俳句全集第七巻』立風書房、昭55・5)だとする。この俳諧精神、遊びの精神の形を変えたものが、<春泥に子等のちんぽこならびけり><侍者恵信糞土の如く昼寝たり>といった俗語を使用した句や、<露散るや提灯の字のこんばんは><梅咲いて母の初七日いゝ天気><大機和尚へとへと餅を搗きなさる>などの口語を挿入した句を生み出したのであろう。中でも<約束の寒の土筆を煮て下さい>は口語を使用した句で最高のものとなっている。そこには「かるみ」があり、童心がある。

この童心の基底にあるのは愛の暖かみである。それは人間に対するのはもとより、小動物へ、また全ての存在するものへの愛となって現出する。そうした哀憐の情を、茅舎が若い頃接触した仏教の影響と見る見方もあるようだが、そうした知識的なものより、生得的なものの上に、病いによりはかない自己の姿を常に自覚していたことに起因するものであろう。<露の玉蟻たぢたぢとなりにけり><白露に薄薔薇色の土龍の掌(て)><鼠らもわが家の子よ小夜時雨><とび下りて弾みやまずよ寒雀>はじめ多くの句にそうした茅舎の優しさが読みとれる。また、<一心にでで虫進む芭蕉かな><老松の下に天道虫と在り><鳩の中雀胸張る暖かや>などには、自分と同じはかない存在である小動物たちに自己の姿を見て共感していることがうかがえるのである。

ただ、こうした茅舎の愛情あふるる側面、優しいヒューマニズムの面に比重を置きすぎて、その一方の、男性的な強さの側面を見落とさぬようにしたい。

茅舎の強さは、外見は、弱く、虔(つつま)しやかな形をとっている。<しんがりは鞠躬如たり放屁虫><栗の花白痴四十の紺絣(こんかすり)><蝿を打つ神より弱き汝かな>といった句には、己れを<常不軽菩薩>と見る謙譲の思いが流れている。しかし、それは<捨てし身や焚火にかざす裏表>と詠まれたような、自己放棄の上の態度であって、それは逆に見れば、全てを捨て執着を捨て去った人間の強さをもそこに持っているのである。<鳩の中雀胸張る暖かや>の雀は、全てを捨てたものの強さを持った自己の象徴でもあるのだ。そうした解き放たれたところから、真の強さ<かるみ>を手にできるのだ。<白牡丹われ縁側に居眠りす>は「寒山拾得」の世界ではなかろうか。日野草城はそれを<信念や気魂の表徴>である<如意>にたとえる(「俳壇人物評論 川端茅舎」『俳句研究』昭13・4)。こうした茅舎の強さは病気と孤独に裏打ちされている。<そと咳くも且つ脱落す身の組織><咳かすかかすか喀血とくとくと>といった病気の句は石原八束の最も評価する一面(『川端茅舎』桜楓社、昭54・10)である。また<蟻地獄見て光陰をすごしけり><寒凪の夜の濤一つ轟きぬ><無為にしてひがな空蝉もてあそぶ>には孤独地獄をのぞき見た者の強さがあるのである。彼が芭蕉の句を多く作ったのもただ芭蕉が庭にあったからという理由だけでは無く、<霜にも寒気にもカチカチ凍り乍ら凛然と抵抗した芭蕉>(「枯芭蕉」『玉藻』昭6・4)といった芭蕉の強さに魅かれていたからであろう。彼はまさに「真勇の人」(虚子「序」『川端茅舎句集』玉藻社、昭9・10>なのである。その<真勇>が<咳暑し茅舎小便又漏らす>と自己を冷厳に詠み上げ、最期に近く<朴散華即ちしれぬ行方かな>の絶唱を作らせたのである。

茅舎俳句の魅力の一つに修辞の新鮮さがある。<ひらひらと月光降りぬ貝割菜><蜂の尻ふわふわと針をさめけり>といった畳語の使用を初め、<寒雀もんどり打って飛びにけり><よよよよと月の光は机下に来ぬ><萩さささ芒らららと野分めき>とその表現は多彩だ。直喩、暗喩の多用もその特色である。<如し>の使用の是否も問題にされているが、使用そのものの是否は問題でなく、それが良い句を作っているかどうかだ。<林泉鉄の如きかな>の直喩、<金剛の露><深雪の創>の暗喩は、みごとな独創である。今は一般化されている<鳶の笛>も茅舎の創作だという。山本健吉は<人には見えぬものを見る心眼が彼に比喩を吐かせる>(『現代俳句』角川文庫、昭39・5)と言う。

最後に、茅舎の書について触れたい。富安風生は<原稿のまゝ>の句集を欲しいと言い(「茅舎追憶」『俳句研究』昭16・9)、永田耕衣は<書体の魅力こそ川端茅舎の魅力であり「肌触り」である>(既出)と言うが、本当にそうだ。この書体が茅舎俳句の全てを象徴しているとも言えよう。最後に彼の書体を示して拙文を擱筆したい。

〔わたべ・よしのり 中央大学教授〕   (『解釈と鑑賞』昭和58・2)


川端龍子については、次のアドレスの、公益財団法人大田区文化振興協会「大田区文化振興協会ガイド」「龍子記念館」のものが参考となる。

http://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/



(茅舎追想その十一) 茅舎と龍子とのネット・データなど(その二)

龍子の作品の所蔵一覧は、次のアドレスのものに詳しい。この一覧から見ても、龍子の作品は、「龍子記念館」所蔵のものが多い。すなわち、主立った作品は、龍子は手放さないで、自分で所蔵し、そして、自分で「龍子記念館」を造って、そこで保管し、展示したりするなど、一切合切を手がけたのである。龍子亡き後は、「龍子記念館」ともども、全て、大田区に寄贈されて今日に至っている(上記のアドレスの「所蔵一覧」を掲載して置きたい)。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~fisheye/artist/nihonga/ryushi.html


『 霊泉由来 』 1916 (T05) 永青文庫
『 慈悲光礼讃(朝・夕)』 1918 (T07) 東京国立近代美術館
『 安息 』 1919 (T08) 松岡美術館
『 土 』 1919 (T08) 龍子記念館
『 花と鉋屑 』 1920 (T09) 龍子記念館
『 自画像(草露行)』 □ 1920 (T09) 横須賀美術館
『 火生 』 1921 (T10) 龍子記念館
『 角突之巻(越後二十村行事)』 1922 (T11) 東京国立近代美術館
『 景雲餘彩 』 1922 (T11) 宮内庁三の丸尚蔵館
『 盗心 』 1923 (T12) 東京国立近代美術館
『 瑞彩 』御盃 1924 (T13) 宮内庁三の丸尚蔵館
『 龍安泉石 』 1924 (T13) 龍子記念館
『 佳人好在 』 1925 (T14) 京都国立近代美術館
『 印度更紗 』 1925 (T14) 龍子記念館
『 朝顔 』 1926 (T15) 松岡美術館
『 使徒所業讃 』 1926 (S01) 龍子記念館
『 一天護持 』 1927 (S02) 龍子記念館
『 南山三白 』 1928 (S03) 宮内庁三の丸尚蔵館
『 横山大観還暦祝画帖 』 1928 (S03) 横山大観記念館
『 神変大菩薩 』 1928 (S03) 龍子記念館
『 鳴門 』 1929 (S04) 山種美術館
『 請雨曼荼羅 』 1929 (S04) 龍子記念館
『 草炎 』 1930 (S05) 東京国立近代美術館
『 真珠 』 1931 (S06) 山種美術館
『 草の実 』 1931 (S06) 龍子記念館
『 立秋 』 1932 (S07) 龍子記念館
『 後圃蒐菜 』 1932 (S07) 龍子記念館
『 新樹の曲 』 1932 (S07) 龍子記念館
『 山葡萄 』 1933 (S08) 龍子記念館
『 龍巻 』 1933 (S08) 龍子記念館
『 白梅殿 』 1933 (S08) 講談社野間記念館
『 波切不動 』 1934 (S09) 龍子記念館
『 愛染 』  ▲ 切手 ■ 1934 (S09) 足立美術館
『 椰子の篝火 』 1935 (S10) 龍子記念館
『 炎庭想雪図 』 1935 (S10) 龍子記念館
『 茸狩図 』 1936 (S11) 龍子記念館
『 海洋を制するもの 』 1936 (S11) 龍子記念館
『 朝陽来 』 1937 (S12) 龍子記念館
『 潮騒 』 1937 (S12) 髙島屋史料館
『 大同石窟(大露仏)』 1938 (S13) 龍子記念館
『 大同石窟(接引洞)』 1938 (S13) 龍子記念館
『 源義経(ジンギスカン)』 1938 (S13) 龍子記念館
『 飛行天 』 1938 (S13) 練馬区立美術館
『 龍門図 』 1938 (S13) 遠山記念館
『 香炉峰 』 1939 (S14) 龍子記念館
『 花摘雲 』 1940 (S15) 龍子記念館
『 伊豆の国 』 1941 (S16) 龍子記念館
『 曲水図 』 1941 (S16) 京都国立近代美術館
『 国亡ぶ 』 1942 (S17) 龍子記念館
『 稲妻 』 1942 (S17) 龍子記念館
『 香注図 』 1942 (S17) 東京国立近代美術館
『 越後(山本五十六元帥)』 1943 (S18) 龍子記念館
『 真如親王 』 1943 (S18) 龍子記念館
『 怒る富士 』 1944 (S19) 龍子記念館
『 水雷神 』 1944 (S19) 龍子記念館
『 爆弾散華 』 1945 (S20) 龍子記念館
『 臥龍 』 1945 (S20) 龍子記念館
『 冨貴盤 』 1946 (S21) 五島美術館
『 倣赤不動 』 1946 (S21) 龍子記念館
『 秋緑 』 1947 (S22) 龍子記念館
『 虎の間 』 1947 (S22) 龍子記念館
『 水中梅 』 1947 (S22) 龍子記念館
『 千鳥 』 1947 (S22) 石橋美術館
『 刺青 』 1948 (S23) 龍子記念館
『 卵 』 1948 (S23) 高崎市タワー美術館
『 獺祭(だつさい)』 1949 (S24) 龍子記念館
『 都会を知らぬ子等 』 1949 (S24) 龍子記念館
『 百子図 』 1949 (S24) 龍子記念館
『 金閣炎上 』 1950 (S25) 東京国立近代美術館
『 水巴 』 1950 (S25) 龍子記念館
『 沼の饗宴 』 1950 (S25) 龍子記念館
『 夢 』 1951 (S26) 龍子記念館
『 朝陽松島 』 1951 (S26) 龍子記念館
『 翡翠 』 1951 (S26) 龍子記念館
『 人肌観音 』 1951 (S26) 龍子記念館
『 白河の関跡 』 1952 (S27) 龍子記念館
『 萩の宿 』 1952 (S27) 龍子記念館
『 涼露品 』 1952 (S27) 龍子記念館
『 本尊無事 』 1952 (S27) 龍子記念館
『 池心(雪月花・月)』 1952 (S27) 東京富士美術館
『 薄暮 』 1953 (S28) 龍子記念館
『 花鳥諷詠 』 1954 (S29) 龍子記念館
『 永平寺 』 1954 (S29) 龍子記念館
『 寝釈迦 』 1954 (S29) 龍子記念館
『 気比神宮 』 1954 (S29) 龍子記念館
『 伊勢御遷宮 』 1954 (S29) 龍子記念館
『 こおろぎ橋 』 1954 (S29) 龍子記念館
『 燧が城跡 』 1954 (S29) 龍子記念館
『 河童腕白図 』 1955 (S30) 龍子記念館
『 小鍛冶 』 1955 (S30) 龍子記念館
『 裏見の滝 』 1955 (S30) 龍子記念館
『 陽明門 』 1955 (S30) 龍子記念館
『 議事堂 』 1955 (S30) 龍子記念館
『 千住大橋 』 1955 (S30) 龍子記念館
『 五月鯉 』 1955 (S30)頃 高崎市タワー美術館
『 渦潮 』 1956 (S31) 龍子記念館
『 酒房キウリ 』 1956 (S31) 龍子記念館
『 オリンピック 』 1956 (S31) 龍子記念館
『 道灌堀 』 1956 (S31) 龍子記念館
『 宮城の灯 』 1956 (S31) 龍子記念館
『 白糸の瀧 』 1957 (S32) 五島美術館
『 遠足 』 1957 (S32) 龍子記念館
『 河童青春 井守 』 1957 (S32) 龍子記念館
『 河童青春 水芭蕉 』 1957 (S32) 龍子記念館
『 考える 』 1957 (S32) 龍子記念館
『 ミス・カッパ 』 1957 (S32) 龍子記念館
『 御来迎 』 1957 (S32) 龍子記念館
『 十国峠 』 1957 (S32) 龍子記念館


(茅舎追想その十一) 茅舎と龍子とのネット・データなど(その三)

『 梅とウグイス 』 不明 龍子記念館
『 青不動 』 不明 龍子記念館
『 紫雲を飛ぶ 』 不明 五島美術館
『 武将拝朝図 』 不明 五島美術館
『 奥多摩鳩ノ巣 』 不明 青梅市立美術館
『 御岳本社 』 不明 青梅市立美術館
『 鏑矢 』 不明 栃木県立美術館
『 狩りの雨 』 不明 掛川市二の丸美術館
『 冬眠の前 』 不明 伊東近代美術館
『 藤蕾図 』 不明 佐久市立近代美術館
『 池畔の馬 』 不明 髙島屋史料館
『 金鱗図 』 不明 福岡市美術館
『 木菟(竹夜)』 不明 石橋美術館
『 白梅図 』 不明 石橋美術館
『 東海旭日 』 不明 石橋美術館


龍子の雅号の由来は、「龍の落とし子」の意と、龍子自身その「わが画生活」で記しているが、次のアドレスで、浅草寺本殿の外陣の天井面の「龍の図」を見ることができる。

http://ryuss.cocona.jp/ryu-iware/sensouji-tennjou.htm



茅舎追想その十二)茅舎の『白痴』と龍子の「ドストエフスキー」好き

茅舎の第三句集『白痴』は不思議な句集である。その「序」に、「新婚の清を祝福して贈る 白痴茅舎」とある。「新婚の清」の「清」とは、龍子の次男の清のことである。清は明治四十二年(一九〇九)の生まれで、その前年に長男の昇が没しており、清は龍子家の継嗣ということになる。
茅舎は、龍子の十二歳の年下だが、茅舎と甥っ子の清とも、十二歳の開きがある。茅舎は、昭和三年(一九二六)に母ゆきが亡くなってから、父寿山堂と共に龍子が建ててくれた家(青露庵)に移り住み、そこで、龍子・夏子ご夫妻の庇護下で暮らすこととなる。
この青露庵での茅舎の身辺にあって、最も茅舎と親しい、いわば、茅舎の弟のような方が、この清ということになる。その清の新婚に際して贈る句集が、茅舎の『白痴』なのである。
それにしても、「白痴茅舎」というのが気にかかる。この「白痴茅舎」、そして、句集名の『白痴』は、次の句に由来があるのだろう。

○栗の花白痴四十の紺絣(こんがすり)

この句は茅舎の自嘲的な自画像であろう。「白い栗の花が咲いている。それを見ながら、病身のため、四十にもなっても、昔の白い紺絣の「洟垂れ小僧」のままで、まるで無能無才の『白痴』そのものだ」というようなことであろうか。
当時の、茅舎の句境について、「川端茅舎(香西照雄)」(『俳句講座八』「現代作家論」所収)で次のように記している。

[彼は『華厳』の自跋に、「濁り」から遠ざかっていたいといった意味のことを書いている。「独り澄む」を保ってゆくためには、「濁り」すなわち他人の煩悩を正視することを時に避けなければならなかったのだ。つまり衆生済度へ進む「見ちゃいられない心」もあったが、逃避へ退(しざ)る「見ちゃいられない心」もあったのである。病身のためでもあったこの逃避は、句境をますます浄土化したが、反面、時代や社会の百八煩悩を正しく審判すべき日を曇らせたことも歪めない。第二次大戦中、彼は献身や犠牲の声々に呼び戻されて、個人的求道の果てに到達した遠い浄土から還ってきた。しかし社会的存在としての彼は、異母兄の庇護下にある病隠者に過ぎない。「無為にして日がな空蝉もてあそぶ」といった無力感と鑑賞が襲う。浄土を支える心の張りを失ったため、句境の光彩が褪せる。そして「糞真面目」(茅舎)で清純で『華厳』的な自分を『白痴』と自嘲的逆説的に偽装したり、また一方では反動的に戦争へ協力する「ますらを」的勇気を振るい起こしたりする。]

この、〈「糞真面目」(茅舎)で清純で『華厳』的な自分を『白痴』と自嘲的逆説的〉に表現したもの、それが、茅舎の、この身内の者や知人などを主として対象としている句集の、『白痴』という、この句集の題名なのではなかろうか。
それは、「良寛」(法号)の「大愚」(道号)と同じような意(「大賢に対する大愚)で、「茅舎」(公的な「晴(れ)」の俳号)に対する「白痴」(私的な「褻」の俳号)、そして、「大愚良寛」に擬して「白痴茅舎」というのが、この『白痴』という句集の、その「序」に草したところの「白痴茅舎」なのではなかろうか。
と同時に、「新婚の清を祝福して贈る」ということは、「新しい家庭を持ち、そして、出征していく、最も親しい弟のような甥の、川端家の継嗣の、清に、この『白痴』なる句集から、この『白痴』という句集を編んだ、『白痴茅舎』という一人の薄倖な俳人の生き様の、何もかも見て取って欲しい。必ずや生きながらえて帰って来て欲しい」というようなことをも意図しているのではなかろうか。
とにもかくにも、この句集の題名の『白痴』、そして、その「序」の「白痴茅舎」というのは、「大愚」そして「大愚良寛」の、江戸時代の聖僧・良寛をそのバックにしたものと理解するのが素直のように思えたのである。
しかし、茅舎の異母兄の龍子が、大の「ロシア文学」の愛好者で、大の「ドストエフスキー」の愛読者と知って、茅舎の、第三句集『白痴』も、誰しもが、この二字に接して抱くところの、ドストエフスキーの名作『白痴』に由来があり、そして、茅舎は、その『白痴』の純真無垢の主人公・ムイシュキン公爵に擬して、「白痴茅舎」を、その「序」に記したと、そんな思いに駆られて来たのである。
その龍子の「ロシア文学・ドストエフスキー」愛好者であったということについて、「龍子明暗(菊地芳一郎稿)」(『川端龍子(菊地芳一郎著)』所収)から抜粋をして置きたい。

[私(龍子)に最も大きな影響を与えたものは、ロシア文学でしょう。勿論、ロシア文学といっても漠然たる話ですが、特に、トルストイとドストイェフスキーなどは殆ど全体を愛読したほどでした。就中、ドストイェフスキーの影響は大きかったように思います。第十回院展に「賭博者」などという画を描いたのは、ドストイェフスキーの小説から題材を得たというわけではありませんが、その題名は彼の小説のそれから得たものです。云々]

この一文に接して、「龍子→茅舎→清」という、この川端家の三人を結びつけるものとして、ドストエフスキーの『白痴』という長編小説が、何かしらのキィワードになっているような、そんな思いも抱いてきたのである。

(かって、ネット記事で、龍子のご子息の清さんのご家族の森谷香取さんの、「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族――」を目にした。現在、その一部きりしか、目にすることが出来ないが、そのアドレスと、「龍子・茅舎・清」の三人の写真を掲載して置きたい。)

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html



(茅舎追想その十三)龍子の「龍子記念館」と茅舎の「青露庵」

東京都大田区の「馬込文士村」については、地元で掲示板や散策マップなどを完備して、
年間をとおしての「馬込観光スケジュール」の多彩な行事も実施されているようである。ネットの世界でも、大田区関連の公的なものから、ここを訪れての様々な情報などを目にすることができる。
この「馬込文士村」の一角に、龍子の「龍子記念館」と茅舎の「青露庵句碑」がある。

「龍子記念館」については、次のアドレスの「大田区ホームページ」で次のように紹介されている。

http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/hakubutsukan/ryuushikinenkan/index.html

(龍子記念館)
[大正、昭和の日本画壇の巨匠、龍子の作品を展示。 日本画の巨匠として知られる川端龍子(1885年から1966年)は、 馬込文士村の住人の一人。 そのスケールの大きな作品を常時、展示しています。記念館は龍子が喜寿を記念し、自身の代表作を展示し公開するために、 昭和37年(1962年)に建設したものです。 建物は龍子自身が設計したもので、タツノオトシゴの形をしています。平成3年(1991年)11月3日に、区立の施設としてオープンしました。]

(龍子公園)
[日本画の巨匠、川端龍子氏の居宅跡地(記念館の道路をはさんだ向かい)を区立公園としたもので、園内には旧居、画室(アトリエ)、木々が茂る庭園がこざいます。これらの建物は画伯自ら設計し、亡くなる昭和41年までここで過ごしました。芽吹く草木や、庭に集う鳥たちを眺めると、「画人生涯筆一管」を標榜した画伯の暮らしぶりがしのばれます。]

川端茅舎の旧居跡(青露庵)・句碑などは、「馬込文士村散策マップ」などには記載されているが、上記の「大田区ホームページ」で探すのは容易ではない。ネット情報もいろいろあるが、次のものなどが参考となる。

http://1daikonen8an.at.webry.info/201003/article_3.html


(青露庵跡地の解説板)
[龍子記念館から十分ちょっと本門寺の方へ歩くと青露庵に出る。龍子の異母弟、川端茅舎が住んでいた処で、むかしは桐里町と云い、道一本馬込町を越えた場所である。茅舎も馬込文士村の一人として遇されている。青露庵跡地に解説板が立っていて、そこに七句ばかり載せてある。
つばはいてはこべ花咲く溝と知る
せりの根を洗いし溝にかみそりも
草萌えて馬大王座を既に占む
万福寺門前あぜを塗る田なし
梅の丘をけずりてせりの田を埋む
鶯の丘をラッパや豆腐売り
鶯のこだまの九十九谷かな
これらの句は茅舎の代表句とは云えまい。代表句ならば、<金剛の露ひとつぶや石の上>、<ひらひらと月光降りぬ貝割菜>、<ぜんまいののの字ばかりの寂光土>、<約束の寒の土筆を煮てください>、<朴散華即ち知れぬ行方かな>など、挙げれば数え切れないほどある。
どうして代表的な句が選ばれなかったのか。想像するに、茅舎と馬込との関係、すなわち馬込文士としての茅舎をアピールしたかったのだろう。だから、はこべ、鶯、梅、丘、万福寺とか九十九谷とか、馬込らしい風物を知らしめている句が選べれている。とは云うものの、それなら<鶯や桐里町へ小盗人>、<生馬の身を大根でうづめけり>とか、いろいろあるし、代表句として、私が試みに挙げた句も青露庵時代の句が多いと思う。そんなことを、ここを通る度にいつも不思議に思うのだ。でも、何度も読んでいると、これらの句ものびのびと明るく長閑で、さすがに馬込をうまく詠んでいる茅舎の句と思えて来るのも確かだ。なお、この七句は昭和初期から茅舎の亡くなる十五年までの間の句だと思うのだが、馬込地区が農村からだんだん都市化されてゆく有様も、これらの句から垣間見られるような気がする。]

この解説板と共に「茅舎旧居青露庵」という石碑があり、それが句碑を兼ねており、次の句が刻まれている。

○ 玉芒ぎざぎざの露ながれけり (「きざぎざ」は二倍送り記号の表示)

この句は茅舎の代表句ではなかろう。また、茅舎に関する文献などでも、この句を取り上げて鑑賞しているものも皆無に近い。また、現在では、この句碑が一部不鮮明で、同時の作と思われる「玉芒みだれて露を凝らしけり」と紹介されているものも目にする。
この句は、昭和七年作で、茅舎の第一句集『川端茅舎句集』では、冒頭の「秋の部」で、「露」の句を二十六句続けて、「露の茅舎」と称えられるのだが、その二十六句のうちの二十二番目に出てくるものである。
この句の「玉芒」というのは、「玉のような露が宿っている芒」という意で、茅舎の造語であろうか。「芒」(秋の季語)と「露」(秋の季語)の「季重り」であるが、「芒」の句というよりも「露」の句で、この「玉芒」の「玉」がそれを暗示していて、「季重り」を回避しているようで、技巧的な句でもある。「ぎざぎざ」も、畳語の擬態語で、「オノマトペ」(擬音語と擬態語を総称しての擬声語)の「茅舎」と言われるほどに、茅舎が多用している特色の一つで、茅舎ならではの句という印象は受ける。
しかし、この句を「青露庵」の旧居跡の句碑に選句したのは、やはり、「馬込文士村」の、馬込らしい風物ということに視点を当ててのものなのかも知れない。
茅舎には、龍子が伊豆修善寺に建てた「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」の句碑があるが、この地には、龍子の別邸の「青々居」がある。茅舎の旧居の「青露庵」といい、龍子の別邸の「青々居」といい、この「青」というのは、龍子の「青龍社」の「青」と、さらには、「川端家」の「川」を暗示するものなのかも知れない。
ちなみに、茅舎の第三句集の『白痴』の冒頭の章は、「青淵」で、これは「川端」の意で、
茅舎が、この章名を用いたのが察知されるのである。
なお、現在、「龍子公園」となっている、龍子の旧居は、「御形荘」(おぎょうそう)と命名され、それは、「当時この辺リは人家もまばらで、あちこちに蓮田が点在するのどかな田園がつづき、春には路傍に可憐な母子草(おぎょう)の花が乱れ咲くところから」とのことである(龍子公園内の解説板)。
この「母子草(ははこくさ)」の別名の「御形(おぎょう)」は、龍子の「青龍社」の前身の画塾の「御形塾(おぎょうじゅく)」でも使われており、これは、龍子の、薄倖な生涯を送った、その実母(勢以)の影が見え隠れしているように思われるのである。
ちなみに、龍子が、昭和三十七年(一九六二)の喜寿を記念して、旧居前に自ら設計・建築して、翌三十八年に開館した「龍子記念館」は、上から見ると「龍の落し子」の形をしていて、この「龍の落し子」は、他ならず、「龍子」の画号に由来があることは言うまでもない。

(茅舎追想その十四)茅舎の「朴散華」と龍子の「爆弾散華」

○ 朴散華即ちしれぬ行方かな

茅舎に打ち込んで三十有余年と記している、詩人三好達治の側近で、「内観造型論」主唱者の俳人、石原八束は、その『川端茅舎』(桜楓社)の著の中で、この掲出の句について、次のような鑑賞文を寄せている。

[茅舎川端信一(のぶかず)は昭和十六年七月十七日に絶命したが、その二日前の十五日の夜、深川正一郎から、この句がその日にはまだ未刊の「ホトトギス」八月号雑詠の巻頭になっていることを聞かされて喜んだという。十六日の夜には別途「石枕」の句(注:「石枕してわれ蝉か泣き時雨」)が清記されて投句され、これは九月号の巻頭になった。むろん絶筆である。つまり両句は一ヶ月ほど間をおいて作られたわけであるけれども、両句とも辞世の句と見ていいだろう。句の成果から言えば、これ程の佳品傑作をもって、その生涯を収束した俳人は稀であろう。芭蕉の臨終の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」や蕪村の「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」などに比しても少しも遜色がない。朴の木を庭前に植え、その花を愛した茅舎が、それにみずからの運命の象徴を見て、縹渺(ひょうびょう)たる詩韻をただよわせたところに、この俳人茅舎の見事さがあるのだ。〈しれぬ行方かな〉と言い終えた後のむなしさと言うか人生無常の空虚感が、上五の〈朴散華〉に戻って韻くところにこの運命の象徴がある。むろん、実在の朴の花は咲いたあとすぐ黄色くしなびてしまって散ることはない。だから尚さらにこの朴散華が見事に生きた言葉として残るのだ。]

茅舎が亡くなって四年後の、昭和二十年(一九四五)終戦の年、六十歳を迎えた龍子は、その第十七回青龍展に、「爆弾散華」を出品する。この題名の「爆弾散華」の「散華」は、亡き異母弟茅舎の、傑作中の傑作句の、絶唱、「朴散華即ちしれぬ行方かな」の、その「朴散華」の、その「散華」に他ならないであろう。この龍子の「爆弾散華」について、次のアドレスで、次のような感動的な評を載せている。

http://plaza.rakuten.co.jp/mashenka/diary/200511230001/


[ちらしで見たときは、爆弾のように勢いよく成長し、咲き誇る草花の絵かと思っていたが、違った。実際に終戦直前に、龍子の家が空襲を受け、散ってしまった庭のトマトや草花の絵だった。爆弾にやられてしまったのに、この華やかさ、美しさ、そして強さ。暴力を受けながらもそれに負けていない生命の姿。緑が濃く、背景の金箔と対照的。これを描いた龍子の心もちはどんなだっただろうか。家は倒壊し、庭には7メートルの穴があき、今では池になっていると言う。使用人も死に、アトリエと家族はかろうじて無事で、終戦直後の生きるのさえ必死な時期に、これを描いた。優美な作品を。驚くべき画家としての魂だと感じ入った。]

さらに付け加えるならば、その終戦の一年前の七月十七日に、最愛の夏子夫人を失い、その十一月四日には、三男崇が、南方戦線ニューギニアで戦死している。

この龍子の「爆弾散華」の、その「背景の金箔」と、さらに、そこに、砂子で金箔をまいたような、その「散華」の様は、まさに、「茅舎浄土」そのものであろう。ここに、龍子の「御形荘」(母子草荘)の「トマトや草花」を、茅舎の「青露庵」の「朴の花」にしたならば、まさに、茅舎の絶唱の、「朴の花即ちしれぬ行方かな」であろう。

○ 朴の花即ちしれぬ行方かな          青露庵茅舎
○ 母子草爆弾散華即ちしれぬ行方かな    御形荘龍子

(茅舎の亡くなる二日前に、まだ未刊の「ホトトギス」(昭和十六年八月号)
の巻頭になったこと知らされた、その「ホトトギス」への投句原稿。「鎌倉
虚子立子記念館蔵」)

http://blog.goo.ne.jp/npo_suien05/e/ccfde35e631f958afe3501ee246e2730

(龍子の「爆弾散華」)

http://plaza.rakuten.co.jp/mashenka/diary/200511230001/


(茅舎追想その十五)茅舎と龍子の「母恋い句」

○ 菩提寺のザボンとあるに母の慈味   龍子
○ 窄き門額しろじろと母を恋ひ     茅舎

この龍子と茅舎の「母恋い句」は、『川端龍子(菊地芳一郎著)』(現代美術家シリーズ)からの抜粋である。この前後の文章は次のとおりである。

[「茅舎の母ゆきは昭和三年二月二十三日、六十二歳で、次いで龍子の母勢以は同五年一月二十日、七十三歳で、父信吉は同八年二月四日、八十歳で、それから異母弟の茅舎は、昭和十六年七月十七日、四十五歳で没して行った」と。そして最後に、龍子と異母弟と、それぞれが、共に母恋う姿を、それぞれの立場から、美しく次の様に書いて居る。
「このような不幸な環境の進行と共に、龍子はやがて一人の異母弟を持ったが、この異母弟は、昭和十六年他界したホトトギス派の俳人茅舎であった。龍子が父への非難とは逆に、母への思慕の情を愈々深く傾けて行ったことは、さもあり得べきことである。
龍子は慈愛にあふれた母亡き後、
菩提寺のザボンとあるに母の滋味
の句に、母への無限の思慕を現したが、茅舎はまた茅舎なりに、彼の母を深く愛した心情も極めて自然であった。茅舎は、
窄き門額しろじろと母を恋ひ
の一句を遺し、また死期を控えて、
たらちねのつまめばゆがむ草の餅
と、今は亡き母への思慕を嘆誦したが、二人の兄弟が、たがいに異なった母を慕いながら別れて行った。疑いもなき事実は、二人の芸術世界に複雑多岐な明暗を形成したとはいえ、神の意思から見れば、取り返しのつかない悲劇であった。] 

龍子は画家であると同時に戦後「ホトトギス」の同人となっており、『詠んで描いて 四国遍路(川端龍子著)』の句を見ても、丁度、墨絵でのスケッチ画(龍子は「草描画」と言っている)のような、あれこれと技巧に走らないで、的確な即興の写生句という雰囲気である。下五の「母の滋味」というところが、この句の眼目か。
茅舎は、画家を志したが、病身のため断念し、句作一本槍という環境からして、龍子流の、即興的写生句を一歩進めて、丁度、龍子の一幅の小品の日本画という趣である。「額」は「額の花」で夏の季語。その額の花を擬人化して、同時に、その額の花に己の心情を託しての一句。「たらちね」の句も、「たらちね」という万葉集以来の枕詞からの「母」を暗示しての一句で、これまた、龍子流の「草描画」的なものを「一捻り」しているという雰囲気である。

茅舎には、これらの句の他に、母や身内の方々を主題にした作句が多いが、龍子の画業の中には、こういう母や父、あるいは子などの家庭を素材としてのものは殆ど見られない。
そういう龍子の画業の中で、茅舎が亡くなる一年前の、昭和十五年(一九四〇)、五十五歳の時の大作「花摘雲」(大陸策連作の四)の、「雲」のような「四人の天女」に、何かしら、
龍子の「母」に通ずるものが、その底流に宿しているような、そんな印象を受けるのである。
龍子は、明治期の封建下にあった家庭の女性・母親の悲劇(正妻・後妻・継母・庶子など)を目の当たりにしており、龍子の一生というのは、「妻や子らの幸せ」を第一とする志操堅固な「家族第一主義」という生涯を貫いた。
その龍子の底流に迸っている、「女性愛」「家庭愛」という心情が、丁度、当時の「満州建国」の理念の「王道楽土・五族(日・満・漢・蒙・鮮)協和」と合致して、この大作が生まれたのであろうが、龍子の根底には、そして、それは、異母弟の茅舎にも、この「人間愛」「女性愛」「家庭愛」への切ないまでの思慕の念が、その底流に流れているということを実感するのである。

この「花摘雲」は、龍子記念館蔵で、江戸東京記念館で開催されたときの、次のアドレスの鑑賞文に接することができる。

http://plaza.rakuten.co.jp/mashenka/diary/200511230001/



[「花摘雲」、これも意表をつかれる。
中国大陸のおおらかな草原の雲を、飛天に見立てたそうだ。
横に大きな作品で、地の緑と花に、空かける天女が4体、圧倒的な存在感だ。
天女の肌には金泥を下塗りしてあり、またさまざまに色を織り込んであり、
白といってもやわやわと明るく、翳りもある白だ。

その微妙な濃淡だけで横たわるような姿勢の、4体もの巨大な天女を、
やさしく生き生き描いている。
天女たちは地に咲く草花を摘み、花かごに盛ってかかげ、
左へとなだらかに流れていく図である。

豪快で大胆な絵が多い龍子だが、もちろんこの作品も非常に大胆だが、
繊細な、優美な感覚もいかんなく発揮していると思った。
こうした感受性はどこから来るのだろう?
大陸の風を感じた。
来年行く予定の、モンゴルの平原のことを想った。
こんなに穏やかでおおらかで優しい風土なのだろうか・・・]


(茅舎追想その十六)龍子の「花摘雲」周辺

川端龍子の、昭和十五年(一九四〇)、五十五歳の時の大作「花摘雲」(大陸策連作の四)というのは、何とも魅力のある大作である。その「大陸策連作」というのは、当時の、日本の大陸(中国)進出の国策を背景にしての連作というような意味であろうか。
その第一作は「朝陽来」で、南画風の画面に「万里長城」を描き、その「万里長城」の山脈に太陽が上ってくるという構図である。龍子は何度も現地を訪れて、この地方の「泣くなよ、泣くなよ、今に太陽が上って来るよ」という民謡を主題にしたという。単なる、当時の時代風潮に便乗したものでないことは、この一事を取っても明白である。
第二作目の「源義経」(ジンギスカン)が、これまた、何とも奇抜な構想である。題名からして、「源義経」に振り仮名で「ジンギスカン」と書いてあるという。駱駝が四頭、白馬が一頭の中に、華やかな甲冑をまとった源義経が前方を見据えているというものである。これまた、当時(昭和十三年)の「徐州攻略」などを背景にしたものというよりも、史学界で話題になっていた「義経・成吉思汗(ジンギスカン)説」などを背景にしているのであろう。その龍子のロマン的心情が何とも痛快である。
第三作目は、「香炉峯」で、「香炉峯」といえば、清少納言の『枕草子』ということになるが、龍子は、画面一杯に日の丸印の飛行機を描いて、そこから透かして、「香炉峯」の「芦山連峰」を描写しているという(この第三作は「美術全集」などには収録されていない)。
そして、続く、第四作目が、「花摘雲」なのである。縦、二四四・〇センチ、横、七二六・〇センチの六面の大作である。題名は、「花摘雲」(「花摘む雲」、「花を摘む雲」の意か)で、
雲のような、四体の天女が、日本画の素材としてよく描かれる、牡丹・鈴蘭・芥子などの様々な千草が咲き乱れる大草原で、その草花を摘んでいて、その摘んだ草花が、空中の雲のような天女の手に握られていて、その天女のような雲が、流麗に舞うように流れて行くという、何とも、ロマンに充ち溢れた、美しい一篇の叙情詩のようなのである。ここにおいては、全く、戦争などとは関係ない、丁度、五十五歳の、未知なるものに挑戦する、画人・龍子の一大絵巻物の展開のような趣なのである。
さらに、この雲のような天女の一体、一体を見て行くと、あろうことか、明治期の大画家・狩野芳崖の「悲母観音」の、その「慈母」・「悲母」の雰囲気すら漂わせている。とするならば、これは、まさしく、龍子の母の、「慈悲に充ちた、悲しくも、けなげな」、その母のイメージをも宿しているのではなかろうか。と同時に、龍子の母の対局にあった、茅舎の母の、これまた、「慈悲に充ちた・悲しくも、けなげな」、その母のイメージをも宿しているのではなかろうか。
茅舎の母も、そして、龍子の母も、龍子がこれらの大作にかかる前の、昭和三年(一九二八)から昭和五年(一九三〇)にかけて他界している。そして、龍子と茅舎の父も、昭和八年(一九三三)に他界して、その父が没した年に、「大陸策連作」の前提となる「太平洋連作(第一作・「竜巻」、第二作「波切不動」、第三作「椰子の篝火」、第四作「海洋を制するもの)」に取り掛かっている。そして、それらの、全ての総仕上げの「大陸策連作の第四作」が、この「花摘雲」ということになろう。
龍子の、かれこれ八年に及ぶ、これらの「太平洋連作」・「大陸策連作」の、これらの途轍もない偉業を、病身の異母弟の、俳人・茅舎も、その身辺にあって、陰に陽に、その全てを垣間見ていることであろう。
そして、茅舎もまた、龍子のこれら八年に及ぶ間に、「ホトトギス」派の代表的な俳人として名を成して来る。

○ 花を手に浄光菩薩しぐれけり    (昭和八年)
○ 滝行者真言胸にしかと抱き     (昭和九年)
○ 笹鳴や茨の棘の真紅(まくれない) (昭和十年)
○ 月光に深雪の創(きず)のかくれなし(昭和十一年)
○ ぜんまいののの字ばかりの寂光土  (昭和十二年)
○ 青淵に砂にも白き落花かな     (昭和十三年)
○ 花杏受胎告知の翅音(はおと)びび (昭和十四年)
○ 柿を置き牧渓に神(しん)かよはする(昭和十五年)

ここで、茅舎の異母兄の龍子もまた、これらの俳人・茅舎の、「茅舎浄土」ともいわれる俳句の世界について、陰に陽に、その全てを垣間見ているのではなかろうか。
このような、龍子と茅舎との、龍子の「花摘雲」の周辺を探って来ると、この龍子の「花摘雲」には、茅舎の亡くなる年の、昭和十六年作の亡き母を追慕しての句、「たらちねのつまめばゆがむ草の餅」と同時の作と思われる、次の一句が、最も相応しいように思えて来るのである。

○ 草餅や御母(おんはは)マリヤ観世音 (昭和十六年)


(茅舎追想その十七)虚子・茅舎・龍子の「花鳥諷詠」






茅舎の第二句集『華厳』は、昭和十四年(一九三句)、四十二歳のときに刊行された。この年は、龍子と茅舎の父の七回忌に当たる。言わば、この句集は、茅舎が亡き父に捧げたものとも解しても差し支えなかろう。
この句集の「序」は、高浜虚子の夙に世に知られている「花鳥諷詠真骨頂漢」である。
虚子は、「花鳥諷詠」俳句の主唱者であり、そして、茅舎は、その「花鳥諷詠」の「真骨頂漢」(真の神髄を究めた俳人)だというのである。
虚子の「花鳥諷詠」については、虚子自身、折りに触れて様々に言っているが、端的には、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」(『虚子句集』)ということになろう。
「花鳥」というのは、「花鳥風月」のことで、この「花鳥風月」が集体積されたものが、「季語・季題」であって、「俳句は花鳥風月(季語・季題)を諷詠する」こと、「諷詠」は「調子を整えて詠う」ことで、これらを要約すると、「俳句は花鳥諷詠詩」ということになる。
ここから、「季語・季題重視」と「定型(五七五の調子を持つ十七音の俳句形式)重視」ということになる。
川端茅舎は、この「花鳥諷詠」について、次のように述べている。

「俳句は花鳥を諷詠する以外の目的をば一切排撃することによつて、種々の雑多な目的を持つた他の芸術と毅然と対してゐる。又僕は斯様な啓蒙めく言葉を繰返して置きたい。/然し、時代の問題へ驀地(まっしぐら)に突進する事が勿論勇気を要する如く、花鳥を諷詠する以外の目的を一切排撃する事も亦聊か勇猛な精進を要求する。それゆゑ何か意味ありげな目的の偶像を破壊し得ぬ人達は花鳥諷詠の律法に得堪へず頻々この陣営から遁走した。僕は虚子先生の平明な花鳥諷詠の説話の底に常々斯様な峻厳さを発見する。さうして花鳥諷詠の存在の意義を確かにする。(「花鳥巡礼」第二回 「ホトトギス」昭和九年一月)

茅舎の俳句が、「花鳥諷詠真骨頂漢」なのかどうか、これは、虚子の「ホトトギス」俳句との関連で、「茅舎の俳句が、『ホトトギス』俳句の、一つの目指す俳句」だと、虚子が考えているということにも換言できよう。
そして、このことは、茅舎が登場する以前の、水原秋桜子が、「ホトトギス」派、即ち、「花鳥諷詠詩」のエースであったのだが、秋桜子が、脱「虚子・ホトトギス」して、その秋桜子に替わるエースが、茅舎であるということにもなろう。
この茅舎が亡くなると、茅舎に替わって、「曩(さき)に茅舎を失ひ今朱鳥(注:野見山朱鳥)を得た」(野見山朱鳥の第一句集『曼珠沙華』「序」)と野見山朱鳥が登場して来る。
この野見山朱鳥が、大の茅舎俳句の崇拝者で、後に、『川端茅舎の俳句』(昭和四十四年)を公刊している。しかし、朱鳥は、虚子の「花鳥諷詠詩」から「生命諷詠詩」という新しい世界を樹立していくことになる。
虚子にとって、「花鳥諷詠」は、その悟道の「極楽の文学」のお題目であると共に、「ホトトギス」という組織を束ねていくための教典でもあった。

○ 明易や花鳥諷詠南無阿弥陀    虚子

それに比して、虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」とのお墨付きを頂戴した茅舎は、「花鳥を諷詠する以外の目的を一切排撃する事も亦聊か勇猛な精進を要求する」と、虚子の「花鳥諷詠」に基本を置きつつ、その虚子の「花鳥」(季語・季題)をより内面的な「季題・季語の深化」(それは朱鳥の「生命諷詠詩」の「生命」に近い)を図り、その虚子の「諷詠」をより自覚的に「諷詠詩」(朱鳥の「生命諷詠詩」の「諷詠詩」は茅舎により多く起因している)として、虚子の「花鳥諷詠」とは別次元の世界の飛翔をも匂わせったのであった。

○ 涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩    茅舎

虚子は、「花鳥諷詠南無阿弥陀」とお題目を唱えるが、茅舎は、「花鳥諷詠」はお題目ではないのだ。「自分の心・魂」を詠むための「花鳥諷詠詩」なのである。涅槃会に際しても、お題目は唱えない。ただひたすら、「自分の心・魂」を詠出するための「花鳥諷詠詩」を吟じるのである。

龍子の昭和二十九年(一九五四)作に、「花鳥諷詠」と題する絹本着色一面ものがある。
その解説記事(『現代日本の美術 川端龍子(村瀬雅夫稿)』)の全文は次のとおりである。

[俳人虚子像 一見和紙に水墨風の軽やかな画面だが、絹に描かれている。絹地の上に、自在に線描をふるえる画技の持主は近代日本画人ではむろん、過去の大家にもまれである。梅にウグイス、らんまんの春、黒アゲハに青梅の実る夏、黄ばむ山鳩の秋、雪の枝に雀の冬、四季のうつろいに想をよせる句境が梅の一樹にやさしく広げられる。龍子が国民新聞社に入社した明治の末年、虚子は学芸部長。虚子のもとで新人として新聞の仕事を受け持ち、感化も受けた。社会面に記事を漫画化した挿絵を龍子は毎日描き、ユニークなこの方式は当時の新聞の新企画と評判を集めた。明治四四年七月に、過去一年分を集録した『漫画・東京日記』が本になった。その序文も虚子が書いた。後、俳句雑誌の『ホトトギス』の表紙を一四年間担当、戦後にホトトギス同人になり、堅山南風、奥村土牛氏などと句会も催した。題名は虚子の信条「花鳥諷詠」をそのまま象徴させた。]

この龍子の「花鳥諷詠」も、また、その解説記事(村瀬雅夫稿)も、非常に示唆に富んでいて面白い。
まず、その龍子画の「花鳥諷詠」では、そのバックに、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象」(『虚子句集』)が、「梅の花にウグイス(春)、青梅に黒アゲハ(夏)、黄ばむ梅の葉と山鳩(秋)、梅の枝に雪と雀(冬)」と全部描かれている。そして、そこに、
「四季のうつろいに想をよせる」(村瀬雅夫稿)ところの一人の人物、これが高浜虚子なのである。
虚子の「花鳥諷詠」は、「春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂(いい)であります」の、その「人事界の現象を諷詠する」ことにおいて、「自然界の現象を諷詠する」ことが「主」とすると、「従」となることは、その特色でもあるし、また、それが限界となっていることは、誰しも、素直に肯定することが出来るところのものであろう。
まさに、虚子の「花鳥諷詠」は、この龍子画のとおりのものと言っても、それほど誇張したものではなかろう。
そして、この龍子画の解説記事で、日本俳壇の巨匠・高浜虚子と日本画壇の巨匠・川端龍子は、国民新聞社(読売新聞)で、「上司(虚子)と部下(龍子)」との関係にあり、龍子が社会人としてスタートする時点の頃(明治四十一年、龍子・二十三歳、虚子・三十五歳)からの付き合いだったということなのである。
ともすると、俳人・高浜虚子と俳人・川端茅舎との二者の関係で論じたり見られたりもするが、そこに、画人・川端龍子をも加味して、この三者の関係で見ていくと、新しい「虚子像」、「新しい茅舎像」、そして、新しい「龍子像」が浮かび上がってくるのが、何とも興味深いのである。

(追記)この龍子の「花鳥諷詠」は、『現代日本の美術第一三巻川端龍子(村瀬雅夫解説)』(集英社刊)からのものである。これを取り上げている画集などは少ない。龍子記念館蔵で、縦、一一二・〇センチ、横、一七六・〇センチ。絹本着色 一面。昭和二十九年(一九五四)作。

http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/kyoshi130/01.htm



川端龍子筆虚子像軸
「花鳥諷詠」下絵
(昭和二十九年制作)

下絵ながら晩年の虚子の趣を如実に写した秀作。「龍子記念館」(東京大田区)に蔵されている完成作品「花鳥諷詠」の虚子の背景には、一本の梅の巨木に満開の白梅、たわわに実った青梅、黄葉した葉、枯枝に積もる雪といった四季が描かれており、虚子が唱えた俳句理念「花鳥諷詠」の世界を象徴している。この「花鳥諷詠」は昭和二十九年三月十六日から二十八日までの、第二十二回春の青龍展に出展された。虚子は満八十歳、同年十一月には文化勲章を授与された。
そもそも龍子と虚子の出会いは古く、明治四十年に龍子が二十二歳で国民新聞社会面の挿絵画家として入社した時に始まる。虚子は同社の学芸部長であった。龍子は同じく挿絵画家であった平福百穂と机を並べている。龍子の社会記事の挿絵は評判を呼び、後に「漫画、東京日記」として本になったが、その序文は虚子が執筆している。龍子と百穂は共に「ホトトギス」表紙絵画家及び俳人として活躍し、戦後には「ホトトギス」同人となった。


(茅舎追想その十八)龍子・茅舎と秋桜子

『日本の名画第十六巻川端龍子』(中央公論社刊)に水原秋桜子の長文の「創意あふるる画家」が収載されている。
虚子と龍子とが知己の関係にあったということは知られているが、秋桜子と龍子とが知己の関係にあったとは、この長文に接して始めて知った。と同時に、ここには、秋桜子と茅舎との関係なども詳細に記されている。
ここで、秋桜子と龍子、そして、茅舎の、この三人のことなどについて、その秋桜子のものから、これはと思うようなことを抜粋して置きたい(併せて、簡単なメモを括弧書きで記して置きたい)。

[この第一回展(注・龍子が「青龍社」起こしての第一回展、昭和四年、龍子、四十四歳)に出陳された龍子の「鳴門」は、おそらく龍子全生涯の作のうち随一に推すべきものであろう。(中略) 要するに龍子の「鳴門」は、自然そのものの上につよい感激がかさなり、それが純粋の芸術にまで昇華してものにちがいないと、改めて感心した(注・秋桜子の「自然の真と文芸上の真」の主張の骨子の要約のような記載である)。

昭和五年頃であったろうか。俳句雑誌『ホトトギス』の選句欄に川端茅舎という名を見かけるようになった。(中略) 普通の写生仕立てでなく空想力のつよいもので、主として京都あたりの僧房生活が詠まれ、時には東京の市井風俗も扱われていた(注・虚子の「客観写生」ではなく秋桜子の「主観写生」の俳句であるというニュアンスである)。

ある日『ホトトギス』発行所に顔を見せた中村秀好という作者が、自分は茅舎を知っている。あれは川端龍子の弟であると言った。龍子はそれまでに『ホトトギス』の表紙絵や挿絵を描いていたので、その人の弟が知られていなかったのは不思議だと思ったが、後になって茅舎は龍子の異母弟であり、早くから独り離れて暮らしているということもわかって来た(注・茅舎は龍子の手引きで『ホトトギス』に入ったのではなく、また、龍子の弟であるということは当初の頃は虚子も知らなかったのではないか?)。

その後茅舎は身体の調子がわるく、僧房の独居に耐えがたくなったので上京した。大森区の桐里町という静かなところに、龍子が父のために建てた家があったが、茅舎はそこに父と住むことになった。新井宿の龍子の画室とは四、五町を距てているだけであるが、茅舎が兄の家を訪れるのは月に一、二回のことであるらしかった(注・茅舎が龍子の建ててくれた家に父と共に移るのは、昭和三年、三十一歳のときであった。二月に茅舎らの母が亡くなり、四月にこの青露庵に転居し、父共々龍子の庇護の下に暮らすこととなる。茅舎が龍子のところに訪れるのは月一、二回程度ということだが、龍子の妻夏子夫人などが茅舎らの日常の世話をしたということだろう)。

「僕のところへ送っていただく『馬酔木』を、兄貴がいつも読んでいましてね、『馬酔木』の表紙ならいつでも描くと言っていますよ。頼んで置きましょうか・・・」。私は喜んで、それでは七年度の新年号からのものを描いていただきたいと言って別れた。その表紙絵は十月の末になって龍子から届けられた。期日より五、六日も早めなのである。その上に画が二枚、青獅子と孔雀とが描かれてあり、どちらを使ってもよいという手紙を添えてあった(注・龍子は茅舎の所にある本などには目をとおしていて、秋桜子の『馬酔木』なども読んでいた。そして、虚子の『ホトトギス』だけではなく、その虚子から独立していく秋桜子の『馬酔木』の表紙絵も描いている。龍子には虚子への遠慮とかそういう気配は感じられない)。

十一月の末になって、茅舎を伴った龍子夫人が、荏原区の中延にあった昭和医学専門学校に私を訪ねて来た。この学校は私の友達の四、五人が集まって建てたもので、私は依頼を断ることが出来ず、忙しい中を一週に一回講義と診療のためにかよっていたのだ。来意をきくと、この頃茅舎は身体の調子がわるく、頸部の後方に大きな腫瘤が出来たので、専門の科で診療を受けたいとのことであった(注・昭和六年、茅舎が「頸椎カリエス」で昭和医学専門学校の病院に入院するのは、龍子の夏子夫人と一緒に秋桜子のところに来て、その病院の専門医の診察を受けてのものである。ここでも龍子の夏子夫人の茅舎への日常の介護振りが察知される)。 

茅舎は寒い間つづけて入院することになり、私の周一回の通勤日を待ち通しく思っているらしかった。私も時間の許すかぎり病室にいて話し相手になった。『ホトトギス』と『馬酔木』との間は、もはやどうにも仕方のない状態になり、『馬酔木』は一本立ちすることに決まった。そのことを茅舎に告げると、「それはどうも困ったね」と言っていたが、眼はすこし笑っているようであった。茅舎は深い事情は知らなかったのだが、勘の鋭さでもはやどうにも方法のないことを知っていたのであろう(注・秋桜子の『ホトトギス』からの独立に関しての秋桜子と茅舎とのやり取りに関してのものである。茅舎ならずも、虚子と秋桜子との関係が抜き差しならないところで来てしまったということを承知していたのであろう)。

二月に入って茅舎は退院したが、私は時折桐里町へ見舞に行った。医専としてもその後の容態を知って置く必要があったわけである。茅舎はたいてい病院で作ったギプスベッドに入っていて、「いまお涅槃の最中さ」と、いかにも坊さんめいた冗談を言いながら、ひとりで巧くベッドを抜け、日当たりのよい縁側へ出てきた(注・「青露庵」での茅舎の日常というのは、ギプスベットに入ったりしての極めて不自由なものであったのだろう。「涅槃会に吟じて花鳥諷詠詩」などの句も、こうしたギプスベットなどに入っての自嘲的な句とも取れなくもない)。

その翌々年あたりであったろうか。私は龍門会に入会することをすすめられた。この龍門会というのは大森区と荏原とに住む医師だけで成り立った会で、御形塾を後援するのが目的であった。毎年歳晩になると十五、六人の会員が集合し、塾員の作品を分け合うのである(注・「御形(ごぎょう)塾」は龍子の内弟子の集まりの画塾で、「青龍社」はこの御形塾の塾員が中心になる。この「御形(ごぎょう)」の由来は、龍子が住んでいる地区の「子母沢」の逆さ詠みの「母子」から「母子草」の別称の「御形(ごぎょう)」とがその由来らしいが、龍子の「母」のイメージもあるのかも知れない。そして、秋桜子は、その「御形塾」を後援する「龍門会」のメンバーの一人で、言わば、龍子の後援者の一人でもあったのである)。

昭和二十一年の初夏であったと記憶する。久しく打ち絶えていた龍門会を開くという通知が、当時八王子に住んでいた私の家に来た。(中略) 私が着いたときは午後の日が傾きかけていたが、前に住居のあったところには何もなく、大きな池ほどもある穴が出来ていた。これは戦の終わる二日前、大型爆弾の落ちた跡で、住居は一瞬に微塵となったが、龍子と家人に怪我はなく、画室は少し離れていたため殆ど無疵のままであった。会員が揃うまでに私は画室の前庭を歩いていた。羊歯の葉が揺れたかと思うと、大きな蟇が貌を出したので、蟇嫌いの私はびっくりして立ち止まった。龍子がそれを笑いながら画室で見ていた。
「蟇はわるいことをしませんし、愛嬌がありますが嫌いですか?」
「どうもこれは苦手ですね。しかし蛇よりはいい。蛇だったら画室へ飛び上がりますよ」
(注・終戦二日目の龍子邸に大型爆弾が落ちたことが記されている。また、「蟇ないて唐招提寺春いづこ」の名句を遺している秋桜子が蟇嫌いというのは面白い)。

四十一年一月に池上本門寺の天井に「龍」を描いたが、二月に入って臥床する日が多く、遂に四月十日安らかにその生を了えた。告別式は龍子記念館で行われ、参加した人の列は長くつづいた。館の短い階段を登ると、そこに御形塾の塾員達が静かに立並び、師と今生の別れを告げる悲しみに耐えているようであった。思えば私がはじめてこの新井宿を訪ねてから、すでに四十余年の歳月が流れているのであった(注・龍子の告別式の様子である。そして、龍子と秋桜子とは四十余年という長い付き合いがあったのである)。]


(茅舎追想その十九)龍子の建てた「茅舎句碑」と「芭蕉翁」(龍子画)

昭和十六年(一九四一)七月十七日、川端茅舎は「青露庵」にて永眠した。四十三歳十一ヶ月。「青露院茅舎居士」と異母兄の龍子が戒名を付け、伊豆修善寺の龍子の墓域の一角に埋葬された。そして、龍子は、「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」の茅舎句碑を建立した。
また、龍子は、戦後、高浜虚子と「ホトトギス」同人の深川正一郎の手を煩わせて、『定本川端茅舎句集』を刊行した。その装幀は、龍子自らの手で施し、その表紙絵に、「芭蕉の花」を描いた。
龍子が、茅舎の母亡き後、父と茅舎のために建てた青露庵の庭には、芭蕉が植えられていた。この『定本川端茅舎句集』の表紙絵の芭蕉の花は、その青露庵の庭に咲いていたものであろう。
この句集には、虚子の「庭の花」という一文が収載されていて、茅舎が亡くなったときのことが詳細に綴られている。その中に、龍子が、青露庵の庭の芭蕉の花を手折って、茅舎の棺に入れる場面が、「芭蕉の花が重かったのでごぼと沈んだ」とリアルに記述している。
青露庵の庭の植物などは、水原秋桜子の「創意あふるる画家」によると、龍子の作庭との茅舎の伝言が記されており、茅舎が句材にしている「朴・芭蕉・羊歯・蕨・ぜんまい・土筆」等々は、全て、その庭に植えられたものなのであろう。鳶は、その垣根の向う側は池上本門寺の境内で、そこから飛んで来るのだろう。土竜はその作庭の石の下からよく貌を出したという。
龍子には、大正十二年(一九二三)の、紙本着彩の「芭蕉翁」という絵がある。その解説記事(『日本の名画第十六巻川端茅舎(佐々木直比古稿)』は次のとおりである。

[大正十一年に入ると龍子は大和絵の構成に心をひかれだした。在来の日本画の技法そのものにも漠然ながら疑問を持つようになり、このような懐疑的な過程を切抜ける道は、もっと日本画の伝統的な技法を積極的に考究する以外にないことに気づいた。古土佐の芸術にそれを求めた「つのづきの巻」は上越線小千谷に近い山中で行われた牛の角突きの行事を扱った作品で、大正十一年院展に出品したが、龍子の期待を裏切って批評家の評判はあまりよくなかった。同時に出品した「庭上印象」の方が無難だったのか評判はよかった。「つのづきの巻」は現在ではあまりに有名だし、大きさの都合もあって割愛したが、「芭蕉翁」は「つのづきの巻」の翌年、第九回院展試作展に出品された作品で、かつて霊泉由来を求めて、鹿沢から草津へ歩き、また「神戦の巻」の際に日光湯本の旅から得たものを、白雲流水の東洋的自然観にしたがって、絵巻的表現と金泥多用の描法で描いている。後年奥の細道行脚に赴くが、すでに古くから旅の思想が頭の中にあったようである。]

この「芭蕉翁」を制作した大正十二年の九月一日は、関東大地震があった日で、龍子は三十七歳、茅舎は二十六歳であった。この頃、茅舎は異母兄・龍子の家にも出入りして、洋画家・岸田劉生に師事していた。劉生は京都に避難していて、茅舎も京都の正覚寺に滞在し、劉生の指導を受け、十一月には、芸術院展に「静物」が入選している。
当時の龍子は、洋画家から日本画家に転身して、その地位を着実に確保しつつあったが、茅舎は、未だ、一所不在の画学生という趣で、異母兄の龍子が日本画なら洋画家でという感じでなくもない。
龍子と茅舎が師事した劉生とは未知の関係で、後に、茅舎の縁で龍子は劉生とも知己になるが、劉生は、昭和四年(一九二九)に満州旅行の帰途、山口県徳山で急逝してしまった。この劉生の急逝と相俟って、茅舎は病弱が激しくなり、劉生亡き後の画業はなく、失意のまま「ホトトギス」一辺倒となる。
ここで、興味深いことは、芭蕉翁のように、一所不在で青春彷徨を繰り返していた茅舎と同じように、一家を支えるために若くして洋画家(挿絵画家)として定住・自立しつつ、龍子もまた、「白雲流水の東洋的自然観」に惹かれて、その放浪の詩人、俳聖・芭蕉翁を憧憬していたということなのである。
この「芭蕉翁」の前年作の、「角突(つのづき)之巻」(越後二十村行事)は、横山大観の「生々流転」と同じように絵巻物一巻で、縦四五・五センチ、横七七四・三センチという大作である。これらの作品は、日本の伝統的なもの、風土的なものへの執拗的な取り組みで、それを如何に、「現代的な構成の中へ再現させるか」という、西洋画から日本画へと転向した、当時の龍子の格好なテーマでもあった。
この龍子の「芭蕉翁」というのは、そういう「日本の伝統的なもの、風土的なもの」への回帰を求めての、その一環にあるものであって、単なる思いつきや、単なる要望に添って描いたものではなく、龍子の内なる創作姿勢と密接に絡み合ってのものであった。
その意味では、龍子というのは、当時の画家の中で、「芭蕉翁」に対する崇敬の念とその理解度はずば抜けたものがあったと推測することもあながち無理なことではなかろう。
と同時に、戦後、晩年の龍子は「奥の細道」行脚を決行することになるが、それは、龍子が洋画家から日本画家に転身して、そのスタートの時点から、龍子の胸中にあったものと理解して差し支えなかろう。
即ち、画人・龍子には、その本質的なところに、俳聖・芭蕉翁らの系譜の、「白雲流水の東洋的自然観」への憧憬がある。そして、俳人・茅舎には、直接的な俳聖・芭蕉翁とのかかわりは感知されないが、その根っ子のところに、異母兄の画人・龍子と同じように、「白雲流水の東洋的自然観」への憧憬が滲み出た生涯であっという思いを深くする。
そして、その画人・龍子が、俳句を無上のものとしてそれを嗜んでいた父と、その俳句に生涯をかけたところの異母弟の茅舎の「終の棲家」として「青露庵」を建て、その庭に芭蕉を植えたということも、これは単なる偶然ではないように思われるのである。
さらに、その茅舎が亡くなったときに、龍子は、その最期の別れに際して、その芭蕉の花をその茅舎の亡骸の側に供花するということは、単なる偶然ではなく、亡き俳人・茅舎には、俳聖・芭蕉翁に通ずる芭蕉の花こそ相応しいと、そういう思いが龍子の胸中にあり、それが、最期の瞬間に結実したのではなかろうか。
そして、それだけではない。龍子は、茅舎の墓の一角に、茅舎の異名の「露の茅舎」とその露を宿すところの「芭蕉の葉」の句碑を建立するのである。

ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな   茅舎

この茅舎句碑と、そして、龍子の洋画家から日本画家へと転身した頃の紙本着彩画「芭蕉翁」とは、何故か相互に響き合っているような、そんな思いがしてくるのである。



(茅舎追想その二十)茅舎の『白痴』周辺(その一)

茅舎が亡くなった昭和十六年に刊行された『白痴』という句集は、とにかく、茅舎の句集としては不可思議な句集である。また、その評判も甚だ良くないのはあきれるほどである。
大変に示唆には富んでいるのだがユニークな『蝸牛俳句文庫一一川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』の「解説〈茅舎浄土と茅舎の浄土〉」(松浦敬親稿)では、このような出だしで始まる。

[この本は、二人の対話から生まれた。二人の意見は、『川端茅舎句集』や『華厳』の素晴らしさに対して、『白痴』にはあまりにも駄句が多く、杜撰である事で一致した。『白痴』がそうなった理由として、その「後記」にあるように、何もかも弟子の鈴木抱風子にまかせた事が考えられた。従って、茅舎の病気はそれだけ重く、本当に白痴に近い状態になっていたのだろう、と仮説を立てて、本格的な調査分析に入った。]

「『白痴』にはあまりにも駄句が多く、杜撰である事で一致した。(中略)従って、茅舎の病気はそれだけ重く、本当に白痴に近い状態になっていたのだろう」とは、これは、どうにも、その指摘がたとえ仮説にしても、茅舎にとっては耐えられないようなものであろう。

そもそも、この第三句集『白痴』を第一句集『川端茅舎句集』や第二句集『華厳』と比較鑑賞することは、これまた、茅舎にとっては、甚だ心外なことなのであろう。
即ち、その第一句集『川端茅舎句集』や第二句集『華厳』は、茅舎の師事した「ホトトギス」の総帥・高浜虚子の厳選とそのお眼鏡にかなった、謂わば、「ホトトギス」の「花鳥諷詠真骨頂漢」としての俳人・茅舎を世に問うところの、公的な、晴れ着的な、「ホトトギス句集」の一つの「晴れ」の句集という位置付けが可能であろう。
それに比して、この第三句集『白痴』は、全く、「ホトトギス」や「高浜虚子」とは関係なく、その意味では、「花鳥諷詠真骨頂漢」の茅舎ではなく、謂わば、茅舎の、私的な、普段着的な、世に冠されている「花鳥諷詠真骨頂漢」から飛翔して、その後の、一人の、病者の、身内の人に捧げるような、「死に至る三年間」の、赤裸々な、「余生残日録」的な、極めて、「褻(け)」的な句集ということになろう。
この「晴(ハレ)・褻(ケ)」については、柳田国男、そして、復本一郎などの優れた論稿などを目にすることができるが、こと、俳諧・俳句鑑賞に限ってするならば、「晴(ハレ)の句集」には「晴(ハレ)の鑑賞視点」そして「褻(ケ)の句集」には「褻(ケ)の鑑賞視点」が必要であって、これを区別しないで鑑賞すると、甚だ不具合が生ずるということであろうか。
この甚だ不具合の鑑賞のスタートが、『蝸牛俳句文庫一一川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』の「解説〈茅舎浄土と茅舎の浄土〉」(松浦敬親稿)での、「『白痴』にはあまりにも駄句が多く、杜撰である事で一致した。(中略)従って、茅舎の病気はそれだけ重く、本当に白痴に近い状態になっていたのだろう」という仮説の結果に他ならない。
この茅舎の『白痴』という句集は、その「序」の、「新婚の清を祝福して贈る」のとおり、茅舎の甥(龍子の次男で継嗣)の清に捧げられた、茅舎にとっては「褻(ケ)的句集」ということになる。この「褻(ケ)的句集」について、「晴(ハレ)的句集」の『川端茅舎句集』や『華厳』と同じ鑑賞視点ですれば、これは、まさしく、「駄句が多く、杜撰である」ということにならざるを得ない。
ここで、『白痴』の冒頭の一句を例に挙げて、この『白痴』という句集が極めて茅舎の句集としては異例であるということを証ししてみたい。

○ 大旱天智天皇の「秋の田」も

季語は「大旱」の「旱」で夏。「秋の田」の「秋」で秋。「秋の田」も「大旱」ということになると、「秋」の句と理解したい。そもそも、この句は、百人一首の、「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)の「本歌取り」の句なのである。
ここには、虚子の「ホトトギス」流の「客観写生」や、秋桜子の「馬酔木」流の「主観写生」の、その「写生」に基づくものではなく、「観念」に基づく、極めて、「遊戯的」な句ということになる。「花鳥諷詠」の「花鳥」(季題・季語)という観点からも、「大旱」と「秋の田」と支離滅裂で、その観点から句作りではない。「諷詠」(五七五の定型・切れ字の効果)という観点からも、俳諧連歌の「や・かな・けり」などの「切れ字」がなく、ここでも、駄句という汚名を冠せられるのかも知れない。
この句の茅舎の狙いは何なのか? これは、天智天皇の百人一首の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」の「かりほの庵」、即ち、この「かりほの庵」(仮庵の庵=茅舎)の「茅舎」が主題の句であって、この句に託した茅舎の意図というのは、「私こと茅舎は、この残暑で、カラカラ干上がった状態で、せめて、野草に宿る露で身を浄めたい気持ちです」というようなことなのかも知れない。
とにもかくにも、この句は、俳諧連歌が本質的に有していたところの「笑いと謎」の、その典型的な謎を底に秘めている「謎句」の一句なのであろう。
こういう句に対して、「花鳥諷詠真骨頂漢」という観点から鑑賞したら、これは、どうにも的外れな鑑賞に陥没してしまうことは自明の理であろう。

ここで、もう一つ、この『白痴』の最後を飾る章「抱風子鶯団子」の全句を挙げて置きたい。

抱風子鶯団子

三月廿九日午後三時抱風子鶯団子持参
先週以来連続して夢枕に現はれたるそ
のもの目前へ持参
抱風子鶯団子買得たり
買得たり鶯団子一人前
一人前鶯団子唯三つぶ
唯三つぶ鶯団子箱の隅
しんねりと鶯団子三つぶかな
むつつりと鶯団子三つぶかな
皆懺悔鶯団子たひらげて 

この七句のうちの前の四句は、「尻取り」連句の句作りなのである。「抱風子鶯団子〈買得たり〉」→「〈買得たり〉鶯団子〈一人前〉」→「〈一人前〉鶯団子〈唯三つぶ〉」→「〈唯三つぶ〉鶯団子箱の隅」と、これは「言葉遊び」の句なのである。それに続く、「しんねりと鶯団子三つぶかな」と「むつつりと鶯団子三つぶかな」とは「対句」(似た言葉、文を並べて印象づける方法)の句作りで、これまた、「修辞法」というよりも「言葉遊び」の句なのであろう。そして、最後の、「皆懺悔鶯団子たひらげて」は、「序破急」の三段構成の、「破」の部分の「オチ」ということになり、ここで、この「言葉遊び」は「ゲームセット」ということになる。
このような句について、一句一句鑑賞したら、これはどうにも、「駄句」というよりも、それこそ、「茅舎の病気はそれだけ重く、本当に白痴に近い状態になっていたのだろう」ということになってしまうだろう。
それ以上に、これらの「抱風子鶯団子」の章の、これらの七句は、この「抱風子」こと、当時の茅舎の最も身辺近くに行き来していた愛弟子の「鈴木抱風子」への「挨拶句」のような、二人だけに通用する何かの謎が隠されているような、そんな響きを有しているのである。そして、その謎の十全を解明するという所作は、この二人を除いては、殆ど不可能なのではなかろうか?
これらの、この『白痴』に隠された謎に大胆に挑戦したものとして、先に紹介したところの、『蝸牛俳句文庫一一川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』が挙げられる。ここで、そこから、順不同で、要約して掲げると次のとおりである。

[最終章の「抱風子鶯団子」の七句。「三月廿九日午後三時抱風子鶯団子持参先週以来連続して夢枕に現はれたるそのもの目前へ持参」と前書にある。上野公園の「鶯亭」の鶯団子は、戦争で物質が欠乏し、一人一人前(三つぶ)しか売らなかった。→ 茅舎はここで何を言いたかったのか? それは前書を読めば分かる。茅舎は「三」と云う数に神の啓示を見たのだ。「午後三時」それは、イエスが十字架の上で神を呼び、そして、死んだ時刻だ。しかも、鶯団子は三つぶで、この「抱風子団子」は、二十七章目に当たる。→ 二十七は三を三度掛けた数である。そしてこの二十七章の句の数は七。『白痴』では、七句の章は茅舎の補陀落浄土で、「菜殻の炎」「塵土」「初夏の径」もそうである。→ 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ十八・三)を実践したのだ。→ イエスは続けて、「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイ十八・四)と言っている。茅舎は、若い時から持ち続けて来た精神的な分裂を、「白痴」になることで解消し、救われたのである。
→ 茅舎は、こうして若い時から分裂を解消した。そして、「茅舎の浄土」へと分け入った。勿論その浄土には、父の寿山堂や母ゆき、妹のハルも一緒に住んでいる。『白痴』には、「家族復活」へのそう云う熱い願いが込められていたのである。従って、「新婚の清を祝福して贈る」とは、お前も仕合わせ家庭を築くんだよ、と云う意味だったのだ。]

この『蝸牛俳句文庫一一川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』の「イエスキリストの幼な子・茅舎の、その『茅舎復活』の、その証しとしての句集が、この『白痴』なのだ」という見方は、これまでの、「中村草田男・香西照雄・石原八束」らの「川端茅舎の世界」に、新しい視点を導入したものとして、画期的ではあるけれども、それが十全の正鵠を得たものなのかどうかということになると、どうも、茅舎自身、「これは、遊びの世界であって、そんなに、聖書や華厳教のような、そんな深いものも持ち出さなくても・・・」と苦笑するのではなかろうか?
しかし、この茅舎の『白痴』という句集が、その「序」に出て来る「清」(茅舎の甥、龍子の子)や「あとがき」などに出てくる「鈴木抱風子」(茅舎の身辺に在った愛弟子)、そして、句の前書きに出て来る「小野房子(茅舎の晩年に親交の厚かった筑紫の女流俳人)・二水夫人(晩年の茅舎が主宰した「あをきり句会」会長の藤原二水夫人)など、「もう一度後記」に出て来る「知音同志」を念頭に於いての、極めて、「褻(ケ)」的な句集であることは、これだけは、茅舎自身、この『白痴』に託したところの、紛れもない事実なのだという思いを実感する。


(茅舎追想その二十)茅舎の『白痴』周辺(その二)

(追記)

大田区立龍子記念館では、いろいろな企画展を実施している。この平成二十二年(二〇一〇)五月二十二日から九月五日までは、「龍子の色・いろ・イロ」ということで、龍子の「色」という側面から「龍子独自の表現方法」ということに的を絞っての企画であった。  
その展示作品は、絹本金彩色の「一天護持」や紙本着色の「渦潮」・「立秋」、そして、紙本墨画金彩の「伊豆の国」など、龍子の「赤・青・黒」の世界のもので、こういう企画の展示もあるのかと大変に見応えがあった。
その壁面の作品ではなく、陳列ケースの一つに、茅舎の油絵の小品(「一果二菜」)と短冊などに混ざって、句集『白痴』が展示されていた。この句集『白痴』を見て、想像したものと違って、かなり豪華な装幀であることにびっくりした。何と、その装幀が武者小路実篤のものなのである。そして、箱付きで、これは、確かに、その「序」の茅舎の甥で龍子の次男(長男死亡・継嗣)の「新婚の清を祝福して贈る」に相応しい、後々まで記念になるような句集としての装いを施している。
この豪華な句集『白痴』は、その「後記」によると全て茅舎の愛弟子の鈴木抱風子が「何も彼も整理して呉れて全く自分(注・茅舎)は手を下さずして句集は出来て了つたのである」と記して、茅舎は「終始傍観し得た」というのであるが、その「もう一度後記」で、「もう一度誰哉行燈(たそやアンドウ)を許して欲しい」ということで、「実は何も彼も自分(注・茅舎)がやった」ということを匂わせているのである。
この豪華な不可思議な句集『白痴』は、全編、これ、茅舎ならではという選句と編集とスタイルで、おそらく、この武者小路実篤の装幀も、無二の幼なじみの親友・西島麦南共々、実篤とは「新しき村」を介しての知己であり、茅舎・麦南の青春時代の大きな「新しい村」(理想的な調和社会・階級闘争の無い世界(ユートピア))への共鳴の、その証しのようにも思えるのである。
この『白痴』が刊行されたのは、昭和十六年(一九四一)六月三十日で、茅舎が亡くなったのは、七月十七日、その亡くなる三日前に、茅舎の枕頭に届けられたという(『近代俳句大観』「俳書解題」)。しかし、その「序」の「新婚の清を祝福して贈る」の、その甥の「清」は、応召されて、戦地に赴いていたのであろう。
茅舎の異母兄の龍子は、長男が夭逝し、次男(清)と三男(嵩)とが応召され、三男は、昭和十九年(一九四四)に南方戦線ニューギニアに戦死する。この年、龍子は夏子夫人も失っている。この清が帰還して、敬愛する伯父の茅舎亡き後、この遺書のような『白痴』を手にして、いかなる感慨を抱いたことなのか・・・、そのことに思を巡らす時に、これまた、さまざまな感慨が湧いてくるのを覚える。

(下記のものは、茅舎の第三句集『白痴』の箱の表紙のものである。『白痴』本書の表と裏の表紙には、武者小路実篤の「一果一菜」もののような装幀となっている。かなり豪華な装幀で、本文百五十三ページ、一ページ二句組みとなっている。)













































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