木曜日, 10月 18, 2012

「茅舎浄土」の世界(その一~その三十一)






「茅舎浄土」の世界(その一)

○ 下り鮎一連過ぎぬ薊かげ    東京  茅舎 (阿賀川)
○ 山越えて伊豆へ来にけり花杏子 神奈川 たかし(熱海温泉)
○ 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 東京  秋桜子(赤城山)
○ 谺して山ほゝぎすほしいまま  福岡  久女 (英彦山)

昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」(賞金「壱百円」)に輝いた二十句のうちの四句である。そのときの応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらに、各景毎の、「優秀句(金牌賞)」の百三十三句のうちの最優秀句の二十句が、「帝国風景院賞」を受賞した(「佳作(銀杯賞)」は各景ごとに五句)。「茅舎」は川端茅舎、「阿賀(野)川」は福島県と栃木県の県境付近の荒海山を源流とする福島と新潟を流れる阿賀野川(大川)である。「たかし」は松本たかし、「秋桜子」は水原秋桜子、そして、「久女」は杉田久女で、これらの句は、今に、これらの作者の代表句とされている。さて、茅舎は、この阿賀野川で、掲出句の他に、「筏衆ぬる温泉(ゆ)に月の夜をあかす」と「巌隠れ露の湯壺に小提灯」の二句が入選句となっている。杉田久女にとって、「英彦山」が忘れ得ぬ山であるならば、茅舎にとって「阿賀(野)川」は忘れ得ぬ川と言っても良かろう。そして、後に、茅舎は「露の茅舎」という異名も冠せられるのであるが、その「露の茅舎」の片鱗も、この阿賀野川の、「巌隠れ露の湯壺に小提灯」の句でも、その「露」への傾倒振りが伺えるのである。また、掲出句の「下り鮎一連過ぎぬ」の、この「一連」は、同時の頃の作の、「ホトトギス」の巻頭句となった「一連の露りんりんと糸芒」にも、その措辞が見られるのである。この巻頭句は、「一連の露」と「糸芒」との取り合わせの句。そして、掲出句は、「一連の下り鮎」と「薊」との取り合わせの句である。「下り鮎」は、落ち鮎のことで、産卵を終えた鮎は、秋にはいると川を下ってその生を終わる。薊は春の季語だが、ここは秋薊。そして、この秋薊は、阿賀野川の源流の尾瀬の、尾瀬沼薊の面影を宿している。季語を重視する「ホトトギス」の作家の茅舎が、敢て、「下り鮎」に「(秋)薊」を配したのは、色彩的な効果とともに、「下り鮎」と「花が終わった後の薊の風情」との親近感、そして、この阿賀野川の地魂に相応しい、そして、それは同時に、「茅舎浄土」の世界のものという印象を強くするのである。この句の背景となっている阿賀野川に焦点をあて、ヨルダン川のほとり(川端)で仮庵(茅舎)を営むという、茅舎の号の由来と、出エジプト記の「荒野放浪」の舞台こそ、この阿賀野川なのだという見解(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)もあるが、茅舎の全句業を見ていくと、そういう雰囲気すら感知させられるのである。


「茅舎浄土」の世界(その二)

○ 白露に鏡のごとき御空かな
○ 金剛の露ひとつぶや石の上
○ 一連の露りんりんと糸芒
○ 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり

昭和六年十二月号「ホトトギス」の巻頭を飾った露の四句である。この四句に「茅舎浄土」の世界の全てが隠されている。一句目の「白露に」の「白」、そして、「鏡のごとき」の「ごとき」の比喩。二句目の「金剛の」の「金剛」の仏教用語。三句目・四句目の「りんりんと」の「りんりん」、「たぢたぢと」の「たぢたぢ」の、擬音語(擬声語)・擬態語。これらは、茅舎の終生の、いわば、茅舎作句工房の主要なツール(道具・用具・技法など)ともいえるものであろう。これらのツールを持って、「ホトトギス」流の「客観写生」の世界を、その「客観写生」の本質のところを探り当てる「象徴」的な、いわば、「茅舎浄土」の世界へと飛翔させるものであった。一句目の「白」、それは、「新涼や白きてのひらあしのうら」(昭和五年作)の、病弱の茅舎の象徴的な措辞といっても良いであろう。二句目の、仏教用語の「金剛」は、実在の写生句が、広大無辺な宇宙的拡がりの象徴句へと脱皮する、その媒介的な役割を担うところの、茅舎にだけ許される特権的な領域のものであった。そして、一句目の「ごとき」の直喩や、三句目、四句目の、「りんりん」・「たぢたぢ」の、擬音語(擬声語)・擬態語もまた、その「茅舎浄土」の象徴的世界には、欠かせないところの、必然的な要請でもあったのだ。これらの四句に、「茅舎浄土」の世界の、その全てが宿されている。そして、それが故に、これらの露の四句と他の多くの露の佳句とを有する、茅舎は、「露の茅舎」と呼ばれるのであった。


「茅舎浄土」の世界(その三)

○ 白露に阿吽の旭さしにけり
○ 白露に金銀の蠅とびにけり
○ 露の玉百千万も葎かな
○ ひろびろと露曼荼羅の芭蕉かな

昭和五年「ホトトギス」十一号の巻頭を飾った露の四句である。一句目、二句目の白露は露の美称だが、病弱の茅舎の化身のような(一瞬のうちに消え失せるような)、それを暗示するような白の世界である。また、一句目の「阿吽」は仁王や狛犬の、「一は口を開き、他は口を閉じる」、その「ア・ウン」の仏教用語である。この一句目は、「金剛の露ひとつぶや石の上」とともに、茅舎の代表句とされている。二句目の「金銀の蠅」というのも、一句目の「旭」に対応してのものであろうが、何となく不気味な感じでなくもない。しかし、人には蔑視されるこの「蠅」もまた、「蟻」・「土竜」・「鼠」・「放屁虫」・「蜂」・「蛇」・「蜾嬴(すがる)」など、「茅舎浄土」の世界の小さな生命を象徴するようなもので、これまた、茅舎その人の化身のようでもある。同時の頃の作の、「露涼し蜾嬴(すがる)の唸りいくすぢも」の「蜾嬴(すがる)」とは、地蜂や虻の異称で、凄味すらある。さて、三句目の「葎(むぐら)」は、こちらは「茅舎浄土」の、茅舎好みの植物で、これまた、「小笹」・「蓮」・「曼珠沙華」・「芭蕉」・「桔梗」・「薊」・「芋の葉」・「百合」・「河骨」などと異色かつ多彩である。さらに、この三句目の、この「百千万」は「百・千・万」と、間を句切って読むところの、茅舎のその時の驚きにも似た、「百か、いや千か、いや万か」という解(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)に賛意を表したい。四句目の「ひろびろと露曼荼羅の芭蕉かな」の句は、伊豆修善寺の川端家の墓域に句碑として立っている。十二歳年上の異母兄の日本画家・竜子(龍子)の建立である。茅舎もまた、医者になる道から竜子の辿った画家になる道へと転向し、岸田劉生に師事していたが、その劉生は、これらの掲出句の作句される一年前の、昭和四年に急逝して、茅舎は、病弱の身体とあいまって、師の劉生を失ったことにより、画業の道も断念するのであった。しかし、これらの露の句を得て、茅舎は、「露の茅舎」としてその声望を高めていくとともに、名実ともに、「ホトトギス」の最右翼の地位を占めるようになる。なお、昭和六年当時の「ホトトギス」の表紙絵などの作家名に竜子の名が見られる。


「茅舎浄土」の世界(その四)

○ 放屁虫エホバは善(よ)しと観(み)たまへり

茅舎の号の由来が、旧約聖書の『レビ記』にある「結茅(かりほずまい)の節(いわい)」
(神が民を「仮庵(かりいお)」に住まわせた事を思い出させるための祭)から採られているという見解(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)には、それに賛意を表するだけのものは持ち合わせてはいない。確かに、茅舎の年譜(明治四十二年・一九〇五・十二歳)には、「このころ聖書を精読」とあり、十二歳の当時から、新約・旧約の聖書に親しんでいたことは、多くの識者が認めているところである(石原八束著『川端茅舎』)。しかし、そこから直ちに、茅舎の号の由来が、旧約聖書の『レビ記』の「仮庵」にあるものなのかどうか、これには、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』では、執拗にこだわっているのだが、そういう見解もあるということで、芭蕉の「芭蕉庵」と同じように、「茅葺きの粗末な庵」のような意と割り切って考えておきたい(なお、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』所収の年譜では、「大正三年(一九一四) 十七歳 この頃母は芸妓置屋「三日月」を営み、信一はその二階の一間を「茅庵」と称し、自分を「茅舎」と号して、父の寿山堂に習って俳句を始める」とある。そして、先の「下り鮎一連過ぎぬ薊かげ」の句に関連して、「まさに荒野放浪。寿山堂はモーゼで、茅舎はイエスなのだ。この句も阿賀野川が舞台」との記述がある)。さて、掲出の句は、『川端茅舎句集』所収のものであるが、茅舎の旧約聖書の「エホバ」の措辞のある句である。エホバとは、「ヘブライ語で書かれている旧約聖書中の、唯一神の意味を表す一語」である。「放屁虫」とは「捕らえると悪臭を放つ昆虫」である。この句は、聖の聖たるなる神(エホバ)と俗の俗たる放屁虫との取り合わせの一句であろう。そして、その二物衝撃に面白さがあるのであって、例えば、この句をして、放屁虫を茅舎の自画像、そして、エホバは、茅舎が信仰の対象としている唯一神とか、そのように、聖書を背景にしての句意の解釈にまで拡げすぎるのには抵抗を感ずる。但し、第一句集『川端茅舎句集』、第二句集『華厳』、そして、それに続く、茅舎が没する昭和十六年(一九四一)刊行の『白痴』の、「夜もすがら汗の十字架背に描き」などになると、やはり、「茅舎と聖書」との関連は、避けて通れないということは実感する。


「茅舎浄土」の世界(その五)

○ 蛍籠(かご)大きな月が覗きけり

昭和五年(一九三〇)の三十三歳の作。この句は、「ホトトギス」への出品作ではなく、島田青峰主宰の「土上」への出品作。この「土上」には、「遊牧の民」という筆名を用いていた。「遊牧の民」という号になると、俄然、「茅舎」の号も、旧約聖書の『レビ記』の「仮庵」(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』で紹介されている)という思いがしてくる。しかし、この号の背景は、昭和三年(一九二八)年に、母(ゆき)が亡くなり、茅舎は父(信吉・寿山堂)と共に、異母兄の龍子が建てた後の「青露庵」に移り住んだことなどに関連しての龍子の命名によるものらしいのである(石原八束著『川端茅舎』)。ちなみに、「土上」主宰の青峰と龍子とは、龍子が「国民新聞」に勤めていた頃の知人で、その関係で、当時、「ホトトギス」に主力を注いでいた茅舎が、龍子命名の「遊牧の民」の名で、「土上」にも投句するようになったのが、その背景のようなのである(石原八束・前掲書)。さらに、茅舎は、生前の母が芸者置屋をしていたことに、絶えず、原罪意識を持っていて、龍子は、「彼(注・茅舎)がどうして親の膝下を離れたかといふと、震災前から父母は商売を換へて芸者屋を始めてゐたのださうで、潔癖な彼はそれを嫌つての遁避なのである」(『現代俳句文学全集』所収「川端茅舎」の「あとがき」)との記述も残している。茅舎の号の一つであった「遊牧の民」の、その由来の背景を見ていくと、当時の、茅舎を取り巻く複雑な家庭環境というのが見え隠れしてくるが、「茅舎」という号も、それほど大袈裟なものではないとしても、龍子命名の「遊牧の民」と重ね合わせて、何らかの聖書との関連は否定できないのかも知れない。さて、掲出の句なのであるが、この句は、小さな明かりの蛍と大きな月の明かりとの取り合わせの面白さもあるが、それ以上に、「大きな月が、蛍籠と作者茅舎を覗く」という、月を疑人化しての面白さを狙ってのものと解せられる。そして、「ホトトギス」の虚子であったならば、こういう月並俳句的な作為的な句は、まず選句しなかったのではなかろうかという思いがする。そして、茅舎は、「ホトトギス」投句以前に、「俳諧雑誌」(大場白水郎・久保田万太郎選)、「雲母」(飯田蛇笏選)、「渋柿」(野村喜舟選)などにも投句していて、「ホトトギス」流の作句だけではなく、例えば、掲出句のような江戸俳諧的な流れの作句にも足を染めていたということは特記して置く必要があろう。


「茅舎浄土」の世界(その六)

○ 秋風や薄情にしてホ句つくる

『川端茅舎句集』所収。「芸術(茅舎の場合は絵)の道は厳しく、世間から見れば鬼に見えるくらいに薄情にならなければならない時がある。そんな薄情な人間が、俳句を作っていると云うおかしみ。自分の薄情さがよく分かっているだけに、この秋風は茅舎の身にしみる。『ホ句』は『発句』で俳句のこと」(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)。しかし、この句は曰くあり気な句なのである。「昭和三年十月号の『ホトトギス』に発表のもの。(中略)茅舎としては異色の作といってもいいのである。それもそのはず、これは実は茅舎の僚友というよりか先輩に当る西島麦南の作なのである。『これは麦南作とするより茅舎作とする方がふさわしい』などと戯れに麦南句帖より抜きとって自作とし、『ホトトギス』に茅舎は投句してしまったものという。今日、八十六歳の麦南は健在だから右はざれ言に言うのではない。茅舎の一面を語る一事としてここに証言しておく。尚、当時の麦南には『秋風や殺すに足らぬひと一人』の句があることも」(石原八束著『川端茅舎』)。ここに出てくる西島麦南は、昭和四年(一九二九)に、草創期の「雲母」に入り、飯田蛇笏に師事、自ら「生涯山廬(ろ)門弟子」と称し、蛇笏没後は飯田龍太を援け重きをなした逸材。茅舎より二歳年上で、茅舎とは、「絵画」・「俳句」・「新しき村」(武者小路実篤主宰)と、切っても切れない交友関係にある。そして、茅舎もまた、麦南の勧誘によるものなのであろうか、俵屋春光の筆名で「雲母」に投句しているのである。ちなみに、この筆名の「俵屋」は、俵屋宗達の「俵屋」のイメージもあろうが、より以上に父方の屋号によるものとのことである(石原八束・前掲書)。ともあれ、この掲出の句は、当時の「雲母」の俳人・西島麦南との交友関係を背景にして誕生したものなのであろう。こういう茅舎と麦南との交友関係を背景にして、この句に接すると、「麦南さんは、薄情どころではない。薄情なのは、茅舎であって、この句は麦南作というよりも、茅舎作ということで、真実味が出てくる」とか、そんな茅舎の洒落気の俳諧味のある一句と解したい。そして、茅舎の俳句のスタートは、父とともに句会などに出ての、久保田万太郎の江戸俳諧的な「嘆かいの発句」(芥川龍之介の万太郎の句を評してのもの)の、そのような土壌からであった。この句の真実の作者が、西島麦南であるとしても、茅舎が、「この句を佳しとして、自分の名で、『ホトトギス』に投句して、虚子の選句を経たもの」で、さらに、その第一句集の『川端茅舎句集』に集録していることから、この二人の関係からして、これは茅舎作と解しておきたい。そして、西洋的な独創性とか重視する風土ではなく、俳諧が本来的に有していた、「座の文学」・「連衆の文学」としての「発句の世界」的風土に、茅舎が片足を入れていたということもまた特記して置く必要があろう。

「茅舎浄土」の世界(その七)

○ 咳(せき)暑し茅舎小便又漏らす
○ 咳(せき)暑し四十なれども好々爺

昭和十六年六月の「あをぎり句会」の「尋常風信」に寄せた句。「あをぎり句会」は虚子の肝煎りの茅舎を中心にしての句会。茅舎が亡くなるのはこの年の七月で、最晩年の作ということになる。「咳暑し」と茅舎の病状に思いを馳せると、これほどの悲痛な、これほど自嘲に充ちた句もないような、いわば、茅舎の末期の眼すら感じさせる句でもある。しかし、「茅舎小便又漏らす」、「四十なれども好々爺」と、茅舎自身にとっては、これは、例えば、旧知の「あをぎり句会」の面々に、茅舎の、茅舎流の、洒落っ気の、俳諧が本来的に有しているところの、「滑稽さ・諧謔さ」そのものの句と理解できないであろうか。そして、茅舎は、このような、俳諧が本来的に有していた、「座の文学」・「連衆の文学」としての、「発句の世界」的風土からスタートとして、そして、最晩年に至って、一切の虚栄や、一切の技法というものを虚脱して、茅舎自身が語るところの、「心身脱落」(そして、それは、良寛の「愚のごとく痴のごとく心身総脱落」の世界)の、その世界、それは、とりもなおさず、「身体も心も一切の束縛から解放された」世界を意味して、それこそが、「俳諧・発句・俳句」の世界なのだということを、そういうことを語りかけている句と解したいのである。そして、そう解することによって、中村草田男が命名した「茅舎浄土」の世界、あるいは、虚子が最晩年に唱えた「極楽の文学」の世界というのが、活き活きと再生してくるような思いがするのである。とにもかくにも、これらの茅舎の句を、茅舎の最期の、末期的な、悲惨な、それこそ、息のつまるようなものという理解は、真の茅舎の世界の理解ではないという確信なのである。そして、同時に、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』の「茅舎はだからこそ『白痴茅舎』と名乗ったのだ。『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう』(マタイ十八・三)を実践したのだ」という聖書的な理解を中心に置いてのものにも距離を置きたいということを付記して起きたい。


「茅舎浄土」の世界(その八)

○ 約束の寒の土筆を煮て下さい

『白痴』所収の「二水夫人土筆摘図」八句のうちの一句。二水夫人は、「あをきり句会」の会長の藤原二水の夫人。二水夫妻は龍子夫妻とも懇意で、茅舎の庇護者的な良き理解者であった。この句もまた、茅舎流の、洒落っ気の、俳諧が本来的に有しているところの、軽妙な、そして、即興の「滑稽さ・諧謔さ」そのものの句ということになろう。山本健吉は、俳諧・俳句の本質を「滑稽・挨拶・即興」と喝破したが(『純粋俳句』)、この茅舎の句こそ、山本健吉流の「滑稽・挨拶・即興」の三要素を兼ね備えた典型的な句といえるであろう。ともすると、茅舎俳句というのは、直喩・暗喩・オノマトペ・仏語などを自由自在に駆使した「茅舎浄土」の世界と関連して、虚子流の「花鳥諷詠真骨頂漢」、そして、同時に、自己を内観的に凝視する象徴的な作風として、月並的な江戸俳諧的な、すなわち、「発句的」世界とは一歩も二歩も距離を置いたものとして理解されているが、実は、この掲出句のように、いわゆる、軽みの、「発句的」な世界の句がその底流にあるということは、ここでもまた、指摘をして置きたい。そして、この掲出句においても、季語的には、「寒」(冬)と「土筆」(春)との季重なりで、例えば、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』では、主たる季語は、「寒」の冬の句としているが、前書きの「二水夫人土筆摘図」の「土筆摘図」の「土筆」の春の句とも解せられるであろう(そして、この「寒」は寒が明けてからなお残る寒さの「余寒」の意なのではなかろうか)。この種の例として、例えば、「咳(せき)暑し茅舎小便又漏らす」の句においても、一般には「咳激し」なのだろうが、「暑し」の夏の季語を活かして、「暑い日に更に咳き込んで灼けるような暑さ」の「咳暑し」の意のように思われるのである。このように、厳格な季語の使用の「ホトトギス」の世界において、茅舎は、杓子定規的な世界を脱して、その初期の頃から、石原八束流の表現ですると「内観的季語」とでもいうような独特の使い方をしているものも数多く見かけるのである。さらに、この茅舎在世中の最期の句集ともいうべき『白痴』という題名に関連して、例えば、ドストエスキーの『白痴』などの西洋的な聖書との関連を掘り下げるのも見かけるが(例えば、嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)、この題名の由来となっている、「栗の花白痴四十の紺絣」の句からして、芭蕉流の「風狂」、あるいは、良寛流の「大愚・大痴」というような捩(もじ)りでの「白痴」(そして、白痴茅舎)と解して置きたい(そう解することによって、この『白痴』の序の「新婚の清を祝福して贈る 白痴茅舎」というのも、お世話になった甥の清への餞の図書として、白痴茅舎と戯(おど)けてのものと解したい)。


「茅舎浄土」の世界(その九)

○ わが魂のごとく朴咲き病よし(昭和十六年七月「ホトトギス」)
○ 朴の花猶青雲の志 (同上)
○ 父が待ちし我が待ちし朴咲きにけり (同上八月)

茅舎が亡くなったのは、昭和十六年(一九九四一)七月十七日のことであった。この最期の病床にあって、この三句目は、茅舎庵の「父(寿山堂)が植えて花の咲くのを待っていた、そして、我(茅舎)もそのことを毎年のように待っていた、朴の花が咲きました」という、これは実景の嘱目の句と解したい。そして、この一句目は、「その朴の花は、わが(茅舎)化身の魂のごとくに真っ白に咲き、それを見ていると宿痾の病も和らぐのです」というのであろうか。そして、この二句目は、「そして、いつまでも、いつまでも、その朴の花を見ていると、この死の幻影を垣間見るこの時にあっても、猶、沸々とたぎるような若かりし頃の絵画への情熱が込み上げてくるのです」という、茅舎の絶唱なのであろう。この句を評して、茅舎の良き理解者であった高野素十は、「猶といふ字がまことに淋しい」とどこかに記しているとか(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)。この「猶」の一字に、茅舎の四十四年の生涯の全てが要約されているような思いが去来する。この句は、句のスタイルの面からも、この「猶」が、上五の「朴の花」と破調の下十の「青雲の志」とを結びつけているキィワードのような独特のスタイルとなっている。この三句目は、昭和十六年八月「ホトトギス」の巻頭の一句で、「青露庵の朴が咲いたのは、五月十日。茅舎は大変喜んで、『この朴の木は植ゑてから八年目ですよ』と抱風子に語っている」とか(嶋田麻紀・松浦敬親・前掲書)。この「抱風子」とは、茅舎の最期の句集『白痴』の実質的な編集者(茅舎の「あとがき」にその名が出てくる)、相馬抱風子のことで、最も、当時の茅舎の身辺にあった直弟子ということになろう。そして、この茅舎の最期の句集『白痴』は、それまでの茅舎句集の『川端茅舎句集』(第一句集)・『華厳』(第二句集)と違って、「ホトトギス」の入選句、そして、さらに、虚子の再選を経たものではなく、茅舎の企画で、茅舎の選で、茅舎が思うとおりに、相馬抱風子をして、編集させたというのが、その真相のようなのである(嶋田麻紀・松浦敬親・前掲書)。これらに関して、「ホトトギス」門の俳人で、虚子の手を煩わせないでの、その企画と選句とをしたものは、「ホトトギス」を脱退した水原秋桜子くらいで、茅舎としては、この『白痴』(こういう西洋的なイメージの強いものは虚子は好まないであろう)を刊行するに当って、その虚子への配慮からも、「白痴茅舎」というような、そんな意味をも込めての「白痴」だったようにも思えるのである。なお、当然のことながら、これらの茅舎が亡くなる直前の掲出の朴の句は、茅舎の第三句集『白痴』には集録されていない。


「茅舎浄土」の世界(その十)

○ 朴散華即ちしれぬ行方かな(昭和十六年八月「ホトトギス」)
○ 石枕してわれ蝉か泣き時雨 (同上九月)

茅舎は亡くなる二日前(昭和十六年七月十五日)の夜に、この掲出の一句目のものがその日にはまだ未刊の「ホトトギス」八月号の雑詠の巻頭になっていることを、虚子の名代ともいうべき深川正一郎から聞かされて大変に喜んだという。そして、その翌日の十六日に、この二句目の句を清記して投句をし、それが翌九月号の巻頭になったという(石原八束著『川端茅舎』)。この二句目の句が、茅舎の文字とおりの絶筆といえるものであろう。しかし、一句目の「朴散華」の句が余りにも世に知られているので、掲出のこの二句を、茅舎の絶唱とするものが多い(石原八束・前掲書)。一句目の句の「散華」は仏教の法会に行う儀式だが、蓮の花と朴の花の散り際には、特にこの言葉が使用されるとか。また、戦死者などもよくこの言葉が使用されたもので、大平洋戦争が勃発した、この昭和十六年(一九四一)には、茅舎もそういう意識もあったのかも知れない。「しれぬ行方」とは、「行方知らずも」と、例えば、柿本人麻呂の「物部( もののふ)の八十(やそ)宇治川の網代木(あじろき)にいさよふ波の行方知らずも.」と古来多くの詩人が詠唱したものであった。誠に、この一句目は、朴の花を限りなく愛した茅舎の絶唱に最も相応しい一句といえるであろう。そして、二句目の句は、上五と中七が、「石枕・して・われ蝉か」と「句またがり」の破調のスタイルで、一句目の「下五『かな』切り」の美しいスタイルと対照をなしているところが、何とも、直喩・暗喩・オノマトペ・仏語などを自由自在に多彩に駆使したところの、茅舎らしい思いを深くするのである。この句もまた、「蝉」(夏)と「時雨」(冬)の「季重なり」の句で、この「時雨」は比喩のような使い方なのであろう。この「石枕」も、「石のように固く感ずる枕」なのか、陶製の「陶枕」なのか、漢詩(「寒山詩集」)に出てくる「枕石(石に枕する)」の意なのか、それとも、「泣虫茅舎が、賽の河原に横たわって、石に枕して泣く己を、をりからの蝉時雨の中で、もう一人の茅舎がながめやっているといったイメージ」(石原八束・前掲書)のそれなのか、ここにも、多義性の、解釈を詠み手に託すところ、茅舎の茅舎らしい用例などが隠されている。それにしても、臨終の間際に、茅舎が、「蝉時雨のように慟哭」した、その心境に思いを巡らすときに、この時の茅舎と同じように、詠み手もまた慟哭したくなるような衝動にかられてくるのである。


茅舎浄土」の世界(その十一)

○ ぜんまいののの字ばかりの寂光土

昭和十二年作。「ぜんまい」を嘱目して、詩人・画人の視点で、「のの字」と装飾化して、そこに、「寂光土」・「寂光浄土」・「極楽浄土」(仏の住する世界)を見る。ありふれた日常の小さな世界、そこから飛翔して、限りなく広大無辺な造物主(造化の神)の恩寵の世界を提示する。茅舎の師の高浜虚子の、「客観写生」・「花鳥諷詠」の世界を具現化した最右翼の俳人であったろう。そして、それは同時に、茅舎が画業で師事した岸田劉生の世界の忠実な後継者としての世界でもあった。『現代俳句(山本健吉著)』で、「劉生が二つの小さな青林檎を描いた画の裏に書き付けた」という、下記の詩(劉生作)が紹介されていたが、茅舎の、「茅舎浄土」の世界というのは、まさしく、下記の詩のような世界と重ね合わさってくる。

この二つの林檎を見て
君は運命の姿を思わないか
ここに二つのものがあるという事
その姿を見つめていると
君は神秘を感じないか
・・・・・・・・・・
君はそこにちょうど人のない海岸の砂原に
生まれて間もない赤子が、二人、黙って静かに遊んでいる姿を思わないか
その静かさ美しさを思わないか
この二つの赤子の運命を思わないか


「茅舎浄土」の世界(その十二)

○ 柿を置き日々静物を作(な)す思念
○ 柿を置き牧渓に神(しん)かよはする
○ 熟柿はやいま手を遂に触れ得ざる
○ 潰(つ)ゆるまで柿は机上に置かれけり
○ 身みずから潰(つ)えんとして柿凝り

茅舎の最後の第三句集『白痴』所収の柿の群作(昭和十四年作)。茅舎が岸田劉生に師事するようになり、鵠沼の岸田邸に出入りして画業に精励したのは、大正十二年(一九二一)、二十四歳の頃であった。爾来、劉生が急逝する昭和四年(一九二九)の、茅舎三十二歳頃まで、日本画家の異母兄・龍子と異なった洋画家の道を精進するのであった。しかし、劉生の急逝と相俟って、茅舎は病臥の生活を余儀なくされ、それ以降、殆ど画業の方は手つかずの状態であった。しかし、掲出句のように、何時の日か再起する日を夢見ていたのであろう。掲出の一句目は、机上に柿の静物を置きひたすらそれを凝視し、劉生的「静物が醸し出す美の思念」に迫ろうとしていたのであろう。二句目の「牧渓」は中国の画人で水墨画に優れ、古来日本画家に大きな影響を与えた一人である。茅舎は、劉生に師事して洋画家を志したが、晩年には日本画への傾倒振りを近辺の人に語っていたとの記述が今に残っている。洋画的色彩画の柿から水墨画的非色彩画の牧渓的世界の柿へと、それは茅舎にとってはいまだ未知の世界であったことであろう。そして、三句目は、その机上の柿は何時しか熟れ柿となり、その無言の凝視のうちに、「遂に手に触れることもなかった」というのであろう。その次の四句目は、この五句中の最大の傑作句であろう。「潰(つ)ゆるまで柿は机上に置かれけり」、この「潰(つ)ゆる」とは、「熟れて柿が柿の形状でなくなること」、そして、それは、次第に迫り来る死と対峙していた当時の茅舎自身への投影でもあったことであろう。五句目の「凝(こお)り」は、「ひと所に金縛りにあったように止まっている」こと、それは同時に「全てを受容する」ということにも連なっていることであろう。茅舎は亡くなる昭和十六年に、「朴の花猶青雲の志」の一句を得るが、その生が尽きる最後の一瞬まで、「青雲の志」の「画業の道」を志し、フランスへ絵の修業に行くための準備(預金など)もしていたという。天は、異母兄の龍子に、その画業の世界を、そして、茅舎にはその画業の世界ではなくて、俳句の世界を恵与したということであろうか。しかし、茅舎本人とって、それはどんなに悲痛のことであったことか。茅舎の「朴の花猶青雲の志」の、この「猶」は、高野素十が「まことに淋しい」と評した以上に、「まことに無念であった」ことかということを語りかけてくる。


「茅舎浄土」の世界(その十三)

○ 栗の花白痴四十の紺絣

茅舎が亡くなる昭和十六年に刊行された、茅舎の最後の第三句集『白痴』というのは、そこに集録されている句の良し悪しということは別にして、「題名・序・目次・後記・もう一度後記」と、そのどれを取っても、どうにも不可解な、不思議な句集だという思いを深くする。題名の『白痴』というのは、「昭和十五年」の「初夏の径(こみち)」と題する中の掲出の句に由来があるのだろう。そして、この句の「白痴」というのは茅舎自身を指していることは自明のところであろう。そして、この自分を「白痴」と称するのは、例えば、ドストエフスキーの小説『白痴』などが背景にあるものなのかどうか。ドストエフスキー全集というのは、大正期には翻訳されており、茅舎がドストエフスキーの『白痴』を目にしていた可能性は無くはない(この「白痴」という用語は、重度の知的障害の古い呼び方として、現在では、差別用語とされることがあるとのことである)。その小説の主人公は、「白痴」というニックネームで、あらゆることを真摯に受け止め、人を疑うことを知らないムイシュキン公爵であるが、ドストエフスキーが「完全に美しい人」として描くところの、このムイシュキン公爵を、自分自身の投影としている感じがしなくもない。しかし、この掲出句などを、取り立てて、ドストエフスキーの『白痴』と関係づけることは、ますます不可思議を倍加させるだけで、その背景の詮索を「あれかこれか」するのは避けて置いた方が無難なのかも知れない。しかし、この第三句集『白痴』の「序」が、「新婚の清(注・茅舎の異母兄の長男、茅舎の甥)を祝福して贈る 白痴茅舎」ということで、「風狂人茅舎」あるいは「大愚茅舎」というようなことを、「白痴茅舎」と洒落て(捩って)使用してのもの解して置きたい(このことについては先に触れた)。とした上で、あらためて、この掲出句の鑑賞をすると、例えば、後の、聖書に深い理解のある、平畑静塔の「ゴルゴタの曇りの如し栗の花」や、角川源義の「栗の花いまだ浄土の方知らず」(「(前略)栗といふ文字は西の木と書いて西方浄土に便あり(後略)」の前書きあり)など、聖書や「西方浄土」とも一脈通ずるところもあり、そういう背景などを、より深く掘り下げて鑑賞したい衝動にも駆られてくる(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』では、「この第三句集の『白痴』は、「『白痴』こそが茅舎の『補陀落浄土』に違いない。(中略) 茅舎は、第二次世界大戦が勃発し、身辺にまで戦争が迫って来た事で、最後の審判が近づいていると感じたのだ。だからこそ、茅舎は白痴になった。『白痴茅舎』とは、イエスの言う『幼な子』だったのだ」との大胆な謎解きと鑑賞をしている)。


「茅舎浄土」の世界(その十四)

茅舎周辺追記(一)

茅舎の号の由来について、かって、次のように記した。

○茅舎の号の由来が、旧約聖書の『レビ記』にある「結茅(かりほずまい)の節(いわい)」
(神が民を「仮庵(かりいお)」に住まわせた事を思い出させるための祭)から採られているという見解(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)には、それに賛意を表するだけのものは持ち合わせてはいない。(「茅舎浄土」の世界・その四)

今回、森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」のものを目にした。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html


○茅舎は若いころ俳句よりも絵画を志しあちらこちら放浪していた。その弟を称して兄龍子は「遊牧の民」と言っていて、それがあだ名となった。川端茅舎とは遊牧の民の意味である。モーゼが遊牧の民を記念する為ヨルダンの川端に茅舎をつくり、仮住まいの祝「結茅の節」を定めている。それ故川端と茅舎を続けなければ意味をなさないのだと、茅舎自身が記している。

これらのことから、やはり、茅舎の号の由来は、旧約聖書の『レビ記』にあることを追記しておきたい。茅舎の聖書を背景とした句と思われるものは下記のとおり。

○ 放屁虫(へひりむし)エホバは善しと観(み)たまへり (『川端茅舎句集』)
○ 亀甲の粒ぎつしりと黒葡萄 (同上)
○ 花杏受胎告知の翅音びび (昭和十四年「ホトトギス」)
○ 筑紫野の菜殻の聖火見に来たり (同上)
○ 窄(せま)き門額しろじろと母を恋ひ (『白痴』)
○ 夜もすがら汗の十字架背に描き (同上)

「茅舎浄土」の世界(その十五)

茅舎周辺追記(二)

森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」の「茅舎の最後の日々と葬儀」は下記のとおりである。

http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_3.html



○没する三日前には、新婚の甥に贈る句集「白痴」を清に手渡すことができたし、その清には 年内に第一子(私=注・森谷香取)が生まれる予定と知らされたことは、茅舎にとって最後の満足を得られた。
死の前日、七月十六日夜、
石枕してわれ蝉か泣き時雨 茅舎
泣きながら推敲し自ら清書して 絶筆となったこの句を「ホトトギス」に送った。
七月十七日正午五分過ぎ、清と 異母姉・秋子が最期を看取った。 十数年に及ぶ闘病の果てではあったが、おだやかに「すこしめまいがする」と一言あって静かな大往生だった。
茅舎は覚悟ができていて、病院ではなく 池上本門寺裏の丹精込めた小庭のある 「ささやかな住まい(茅舎浄土の中)で静かに逝かせて欲しい」、「もう一度だけ会いたいと思う人の名を自分で言うからそれだけを呼び寄せてくれ」と言い含めていた。
兄龍子到着の後、師の高浜虚子と「ホトトギス」より派遣され茅舎のお世話係だった深川正一郎が訪れた。庭の花が手折られて 龍子は芭蕉の花、虚子は白百合、深川は鬼百合を棺の中に収めた。
告別式は七月十九日、長遠寺。梅雨の明けやらぬ大層蒸し暑い日であった。弔問に訪れた俳人仲間の多くにとって、境内の苔に覆われ青々とした木陰の庭や藁葺屋根の寺は、いかにも茅舎に相応しく感じられた筈だった。しかし何といってもその当時「今を時めく日本画家川端龍子」が青龍社を率いて 舎弟のために催した活気ある葬儀であったため、俳人たちは大いに戸惑い早々に退去していったそうだ。
俳人中村草田男の記すところによると、焼香の時 その傍ら近くに佇っていた兄龍子の横顔を見ながら、「この人さえ、あれ程の英傑が亡くなったのだとは、つゆ知らずにいるのではないだろうか」と思えたとの感想を述べている。
草田男は、「茅舎から殉教者の眼で静かに眺められていると意識するたびに、本当の意味での生きてゆく励みを得ていた」とある。草田男にとって「茅舎はかけがへのない人物」であり、いつも彼の病状を気にかけていたので「こんなにして、大気を自由に呼吸していることさえ、故人となってしまった茅舎に対して相済まない」気持ちがこみ上げてきて、「座に居り難し」という状態になった。
冬晴れを我が肺ははや吸ひ兼ねつ 茅舎
冬晴れをすひたきかなや精一杯 茅舎
やり場のない悲しみに襲われた草田男は、小糠雨に濡れながら「大森の駅にやっと辿り着き、駅前の喫茶店へ入って、当時では珍しく洋菓子のあったのを 少したくさんに取り寄せて、それを貪り食いながら、随分永らくの間呆然として、同時に小忙しく、茅舎のことを、しかも脈絡もなしに考え続けていた」とも書いていて、当日の常ならぬ様子が伝わってくる。

「茅舎浄土」の世界(その十六)

○ ぜんまいののの字ばかりの寂光土  (『華厳』)

昭和十二年(一九三七)、茅舎の四十歳のときの作。「茅舎浄土」の典型的な句として、この句などをして、茅舎の俳句の世界を、中村草田男が「茅舎浄土」と命名した。この句の「寂光土」というのは、仏語で、「寂光光土」「寂光浄土」とも言い、仏の居所の「極楽浄土」を意味する。「ぜんまい」の「のの字」の造形の妙に、仏教世界の理想郷の「極楽浄土」の世界を連想する。その茅舎の詩眼・句眼によって発見された世界が、「茅舎浄土」という世界であろう。この句は、茅舎の第二句集『華厳』に収載され、茅舎の師の高浜虚子は、その『華厳』の「序」に、茅舎をして、「花鳥諷詠真骨頂漢」と命名した。まさしく、「花鳥」に代表される「季題・季語」の、その「ぜんまい」に、新しい「茅舎浄土」の世界を見て取った茅舎は、虚子の眼からするならば、「花鳥諷詠真骨頂漢」というのであろう。虚子は、「花鳥諷詠」ということと併せ「俳句は極楽の文学である」と称するが、それらの虚子の主唱は、茅舎の「茅舎浄土」の世界と密接不可分のものと理解しても差し支えなかろう。茅舎もまた、その『華厳』の「後記」で、「只管(注・ひたすら)花鳥諷詠する事ばかりが現在自分の死守し信頼するヒューマニティなのである。それ以外の方法を現在自分はしらないのである」として、「花鳥諷詠」の「茅舎浄土」の世界を切り拓いて行く。これが、「茅舎浄土」の世界の一つの典型である。


「茅舎浄土」の世界(その十七)

○ 金剛の露ひとつぶや石の上   (『川端茅舎句集』)

昭和六年(一九三一)、茅舎、三十四歳のときの作。この句と一年前の作、「白露に阿吽の旭さしにけり」が、茅舎の第一句集『川端茅舎句集』の「二つの高峰と言っていい」とされている(『川端茅舎(石原八束著)』)。この「金剛」も仏語で、「金剛不壊」の「金剛」、また、大日如来を智徳の面から開示した「金剛界」の「金剛」を意味する。「彼(注・茅舎)は石の上に置いた一粒の大きな露の玉を見つめる。何か造化の精錬の力が一粒の露に凝集しているようであり、露は渾身の力をもってその存在に堪えている。露はもはや生まれたばかりの赤子である。『金剛の露』という比喩がぴったりと言い出され、さらに『露ひとつぶや』と強調され具象化される。石上に凝ったたった一粒の露の玉が豊かな浄土世界を現出する。露と言い石と言い、茅舎が創り出すものは木思石語の摩訶不思議の世界だ」(『現代俳句(山本健吉著)』)と、この句の「茅舎浄土」の世界を見事に言い当てている。「茅舎浄土」という世界は、仏語と結びついたものかというと、決してそうではない。「物(もの)の存在」「物(もの)と物(もの)との存在・配合(取り合わせ)」の妙の中に「豊かな浄土世界が現出する」。そして、それは、「木思石語の摩訶不思議の世界なのだ」。茅舎の第一句集『川端茅舎句集』(昭和八年)は四季別に編纂され、その冒頭に秋の部を据えて、「露」の句が二十六句続く。これをもって、茅舎は「露の茅舎」という名を冠せられ、この「露の茅舎」は、即、「茅舎浄土」の世界でもあった。その二十六句は次のとおりである(※印は「二倍送り記号」を平仮名で表記。※※印は代表的な傑作句)。

(茅舎の「露」の句)

一  露径深う世を待つ弥勒尊
二  夜店はや露の西国立志編
三  露散るや提灯の字のこんばんは
四  巌隠れ露の湯壺に小提灯
五  夜泣する伏屋は露の堤影
六  親不知はえたる露の身そらかな
七  白露に阿吽の旭さしにけり      ※※
八  白露に金銀の蠅とびにけり
九  露の玉百千万も葎かな
一〇 ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな    ※
一一 白露をはじきとばせる小指かな
一二 白露に乞食煙草ふかしけり
一三 桔梗の露きびきびとありにけり    ※
一四 桔梗の七宝の露欠けにけり
一五 白露に鏡のごとき御空かな
一六 金剛の露ひとつぶや石の上      ※※
一七 一聯の露りんりんと糸芒       ※
一八 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり    ※
一九 就中百姓に露凝ることよ
二〇 白露の漣立ちぬ日天子
二一 玉芒みだれて露を凝らしけり
二二 玉芒ぎざぎざの露ながれけり     ※
二三 白露に薄薔薇色の土竜の掌
二四 白露が眩ゆき土竜可愛らし
二五 日輪に露の土竜は掌を合せ
二六 露の玉ころがり土竜ひつこんだり


「茅舎浄土」の世界(その十八)

○ ひらひらと月光降りぬ貝割菜  (『華厳』)

昭和八年(一九三三)、茅舎、三十六歳のときの作。「貝割菜」は、大根や蕪が芽を出すと二葉になるが、それが、二・三センチ伸びたのをいう。その貝割菜に月光が「ひらひら」と降り注いでいる。そして、その微小な貝割菜も「ひらひら」とその月光を受容している。この「ひらひら」は、「オノマトペ」(声喩・擬声語)で、月光と貝割菜の両方にかかっている。「露の茅舎」は、「比喩・オノマトペの名手」との評も冠せられている。『川端茅舎句集』の冒頭の露の二十六句のうちでも、次のようなオノマトペの句が見られる(注・番号は出句番号で実際には付されていない)。

一〇 ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな (ひろびろ)
一三 桔梗の露きびきびとありにけり (きびきび)
一七 一聯の露りんりんと糸芒    (りんりん)
一八 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり (たぢたぢ) 
二二 玉芒ぎざぎざの露ながれけり  (ぎざぎざ)

この茅舎の「オノマトペ」については、「オノマトペはほとんどが形容詞か副詞かだから、一句の中にこの形容詞か副詞が大きな位置をしめればしめる程、一句の成果は、その象徴性より遠のくことを茅舎は気付いていない」(『川端茅舎(石原八束著)』)との評もあるが、逆に、その緩やかな平易なリズムが主題の緊迫感と結合されて、そこに緩急のリズムとなって、より神秘的な小宇宙を描き出すための、茅舎の一見無造作のようで、そうではなく、無技巧の技巧のような、計算をし尽したものと理解をしたい。掲出句の「ひらひらと月光降りぬ」も、これまた、「ぜんまいののの字ばかりの寂光土」と同じように、「寂光土」「寂光光土」「寂光浄土」の「茅舎浄土」の世界であることは言を俟たない。

(追記)『現代俳句(山本健吉著)』では「茅舎の魂もひらひらと離れさまよう」とし
ているが、この「ひらひら」は、「月光」・「貝割菜」、そして、言外の「茅舎の魂」にも掛かると解したい。

茅舎浄土」の世界(その十九)

○ しんしんと雪降る空に鳶の笛  (『川端茅舎句集』)

昭和六年(一九三一)、茅舎、三十四歳のときの作。この句もまた、茅舎特有の「しんしんと」の「オノマトペ」(声喩・擬声語)の句である。季語は「雪」「鳶」(三冬)の「季重なり」。それを意識してなのか、「鳶の笛」というのは茅舎の造語で、「鳶の笛のような鳴き声」の意なのかも知れない。「しんしんと」のオノマトペからすると、この句の主たる季語は「雪」ということなのであろう。この句について、「上五のしんしんというオノマトペ(声喩)がなくもがなと言えるからである。鳶の笛という造語も一般受けのする言葉ではあるけれども、さて玩具の鳶の笛と間違われそうなところが、やはり第一級とは言いがたい」(『近代俳句大観(石原八束稿)』)との評があるが、「しんしんと雪降る空の彼方から幻聴のような鳶の笛の音のような鳴き声を聴こえて来る」ということで、これもまた、「茅舎浄土」の句として、この「鳶の笛」の造語感覚を肯定的に解したい。「鳶が鳴くのは晴れから曇り又は雨雪に変わる前である。雨中や雪中でこの句のようにみごとに鳴いたの聞いたことがない。むろんこれは筆者の貧しい知識で言うことだから、この句を難ずる意思はないけれども、茅舎の句には机上の作が意外に多いこともまた事実であろう」(石原稿・前掲書)との評は、それ故にこそ、虚実皮膜の中に展開される「茅舎浄土」の世界なのだと、これまた、その茅舎の作句姿勢を肯定的に解したい。

(追記)『現代俳句(山本健吉著)』では、「『鳶の笛』も新造語とは思えぬほど熟している。このような美しい言葉の一つも探し出すということは、やはり詩人の務めであろう。『鳶の笛』などという用語はこれから一般化すると思うが、先人の創意をかりそめに思ってはなるまい。この句、降りしきる雪空に一点鳶の笛を描き出した深い哀感は余蘊(ようん)がない」との評をしている。この「降りしきる雪空に一点鳶の笛を描き出した深い哀感」の世界、これまた、「茅舎浄土」の世界であろう。


「茅舎浄土」の世界(その二十)

○ まひまひや雨後の円光とりもどし(『あをぎり抄』)
○ まひまひの水輪に鐘の響かな (『定本川端茅舎句集』)
○ まひまひの舞も了せず花吹雪 (『定本川端茅舎句集』)

茅舎の「まひまひ」(まいまい。「まひまひ」の「まひ」は二倍送り記号)の三句である。一句目の句が有名で、昭和十三年(一九三八)の、四十一歳のときの作。茅舎が晩年に主宰した「あをぎり」句会の句集に収載されている。
他の二句は、茅舎没後の戦後に刊行された『定本川端茅舎句集』に収載されている。ここに収載されている句は、全句、「ホトトギス」の総帥・高浜虚子の選句である。虚子が一句目を採らず、他の二句目と三句目とを採ったのは、一句目の下五の「とりもどし」に、虚子が嫌うところの「作為」というのを見て取ったのかも知れない。
この一句目の句について、「軽快な明るさの中に、これも一種の茅舎浄土といっていい世界が具現していることは『ぜんまい』の句の評釈でも指摘した。とにもかくにもここには仏の世界に見られそうな微光にかがやいた平安な小宇宙がある。この小宇宙が花鳥諷詠の極地であるのかもしれない」(『川端茅舎(石原八束著)』)との評がある。
この評で、「この小宇宙が花鳥諷詠の極地であるのかもしれない」という指摘については、茅舎特有の「作為的・ユーモア」の世界で、虚子流の「花鳥諷詠の極地」の世界とは異質なものと理解をしたい。
「『円光』の語に茅舎らしい選択がある。円光とは後光であり、光背である。一小虫に負わしめては、円光も可憐味を覚える。その円光も、晴雨によって現われては消える。『とりもどし』の語、巧みであり仄かなユーモアがある」『現代俳句(山本健吉著)』の「とりもどし」の指摘には共感する。
これらの句は、「あをぎり」句会の吟行の句で、鶴見三ツ池(鶴見三ツ池公園)での作である。他の二句から見て、花吹雪の頃の作なのであろう。

(追記)

茅舎と「ホトトギス」の双璧であった松本たかしの句に、次の「まひまひ」(まいまい)の句がある。

○ まひまひの円輝きて椿泛(う)く  (松本たかし)

この句は、昭和十二年作で、年代的に行くと、茅舎の「まひまひ」(まいまい)の句に先行している。茅舎はこのたかしの句が念頭にあったのかも知れない。この二人は、同時期の「ホトトギス」で、共に、切磋琢磨したことが、これらの句から了知される。


「茅舎浄土」の世界(その二十一)

○ 花杏受胎告知の翅音びび  (『華厳』)

昭和十四年(一九三九)七月号「ホトトギス」初出。茅舎、四十二歳のときの作。「受胎告知」は、新約聖書の、「処女マリアに天使のガブリエルが降り、マリアが聖霊によってイエスを身ごもることを告げ、またマリアがそれを受け入れることを告げる出来事」で、「マリア崇敬の思想を背景として、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。」「絵画では、この場面でのマリアは読書の最中であることが多いが、糸をつむいでいることもある。傍らには白百合(純潔の象徴)が置かれるが、天使が百合を携えている場合もある。二人の上には天上からの光や聖霊の鳩が描かれることが多く、これによって『聖霊によって身ごもる』ことを示す。」「中世の作品としては、ランス大聖堂の彫像や、シモーネ・マルティーニの祭壇画が名高い。ルネサンスでは、天上と地上の邂逅という如何にもルネサンス的な性格が好まれ、もっとも人気のある主題の一つとなった。サン・マルコ修道院にフラ・アンジェリコが描いた壁画、レオナルド・ダ・ヴィンチによる絵画などが傑作として知られる」(ウィキペディア)。
洋画家を目指した茅舎は、これらの「受胎告知」の名画を目にしていたであろう。それ以上に、茅舎は、その年譜に、「明治四十二年(一九〇九) 十二歳。三月 有隣代用小学校を卒業。四月、小石川区の私立独逸協会中学に入学。聖書に親しむ」(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)とあり、聖書とは切っても切り離せない関係にあり、これまた、「茅舎浄土」の世界であろう。
季語は「花杏」(晩春)。「翅音(はおと)びび」の「びび」は茅舎が多用したオノマトペ(声喩・擬音語)。ともすると、「茅舎浄土」というと、茅舎の仏教用語を駆使した句を中心として理解され易いが、それらの仏教用語(金剛・阿吽・華厳・曼陀羅・涅槃・寂光土・円光・瑠璃罷光など)を駆使した句と同程度に、この掲出句の聖書用語やその世界を背景にした句が非常に多い。
そもそも、「茅舎」という号の由来は、「川端茅舎とは遊牧の民の意味である。モーゼが遊牧の民を記念する為ヨルダンの川端に茅舎をつくり、仮住まいの祝『結茅の節』(注・かりほずまいのいわい)を定めている。それ故川端と茅舎を続けなければ意味をなさないのだと、茅舎自身が記している」(「川端茅舎(Kawabata Bousha)・・・俳人川端茅舎と思い出の中の親族(森谷香取(川端)Moriya Katori)」)と、旧約聖書(レビ記)の「結茅の節」(かりほずまいのいわい)に関連したものなのである。
即ち、「茅舎」というのは、旧約聖書のモーゼが「遊牧の民」に建てた仮住まいの、移動用のテントの意で、それを、日本語訳の、芭蕉の「茅舎の感」などに出てくる、「茅舎」(茅葺きの粗末な家)と転嫁しているのである。しかも、この「遊牧の民」は、茅舎の異母兄の龍子が、一所不在のような漂泊の生活をしていた茅舎へのあだ名であり、茅舎は、このあだ名の「遊牧の民」で、俳誌「土上」(島田青峰主宰)に投句をしており、これも茅舎の号の一つなのである。
しかし、茅舎はクリスチャンではない。年譜などを見ると、知己の禅僧などの影響を受け、京都東福寺正覚庵での修行など、仏道により多く親しんでいたということが窺えるのである。しかし、その仏道だけではなく、武者小路実篤らの白樺派やその『新しき村』への憧れなど、内面では常に、西欧の文化に憧れつつ、その憧れを埋めるかのように、仏道の求道生活を通して、独自の聖書の世界にも遊泳していたということなのではなかろうか。
この仏道と聖書との、それらの狭間に揺れる「茅舎浄土」の世界、それこそが、茅舎特有の和洋折衷の「茅舎浄土」の世界なのではなかろうか。


「茅舎浄土」の世界(その二十二)

○ 草餅や御母マリヤ観世音  (『定本川端茅舎句集』)

『定本川端茅舎句集』所収の句で、「ホトトギス雑詠より」(昭和十四年~同十六年)のものである。茅舎の最晩年の頃の作であろう。この句の中七の「御母マリヤ」の「御母(おんはは)」が何とも茅舎らしい措辞である。
この「御母マリヤ(マリア)」は、「讃美歌」や「マリア連祷(お祈り)」に出て来る。

Maria,Mater Gratiae

Maria Mater gratiæ,
マリア マーテル グラチエ、
聖寵の御母マリア
Dulcis Parens clementiæ,
ドゥルチス パレンス クレメンティエ、
甘美なる御慈しみの御母
Tu nos ab hoste protégé,
トゥ ノス アプ ホステ プロテジェ、
御身、敵よりわれらを護り給え、
Et mortis hora suscipe.
エト モルティス ホラ スシペ。
しかして死の時にわれらを受け入れ給え。

この「御母(おんはは)マリヤ」は「聖母マリヤ」と同じようなことなのであろうが、茅舎が、特に「御母マリヤ」の措辞を使用しているのが、何とも異様なのである。それと同時に、下五の「観世音」(観世音菩薩)というのが、「御母マリヤ」とは別の「観世音」なのか、それとも、「御母マリヤ」に似せた「観世音」なのか、そこのところが、どうにも曖昧なのである。
イメージとしては、この「御母マリヤ」というのは、例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチ作の「受胎告知」の「聖母マリア」というよりも、明治期の画家・狩野芳崖の傑作画「悲母観音」(慈母観音)のようなイメージで、「御母マリヤ観世音」と、隠れ切支丹の「観世音菩薩に擬した聖母マリア像」のような印象すら受ける。
さらに、この句は、「草餅や」で切れて、「御母・マリヤ・観世音」の詠みでの、「私の御母(おんはは)よ・聖母マリヤ様よ・観世音菩薩様よ」との三者に分けての句意もあるのかも知れない。
この三者に分けての句意は、「草餅を食べている。草餅にまつわる亡き御母(おんはは)を偲び、さらに、聖母マリア様と観世音様に、この至福のときをお与え下さったことに、感謝のお祈りを捧げる」のようなニュアンスである。
いずれにしろ、この句もまた、茅舎の和洋折衷の「茅舎浄土」の世界の一つの典型であろう。

(追記)

○ 草餅や御母マリヤ観世音
○ たらちねのつまめばゆがむ草の餅
○ 今年はやこの草餅をむざとたべ

『定本川端茅舎句集』には、この三句が並列して収載されている。二句目の「たらちね」の「垂れた乳房」にも由来のある「母」に係わる「枕詞」の用例と、三句目の「むざとたべ」の諧謔的なユーモア調で解すると、この「御母マリヤ観世音」というのも、茅舎特有の「有情滑稽(フモール)」(山本健吉の指摘)の、「軽み」の一句と解すべきなのかも知れない。「草餅や、御母上様・マリヤ様・観世音様、皆様に感謝のお祈りをして、頂きまする」というような、そんな響きのする句とも解せられる。


茅舎浄土」の世界(その二十三)

○ 窄き門額(ぬか)しろじろと母を恋ひ  (『白痴』)
○ 窄き門﨟たき母のかげに添ひ      (同上)
○ 窄き門嘆きの空に花満ちぬ       (同上)

『白痴』所収の「窄き門」と題する六句のうちの三句である。一句目と二句目は季語なしの無季の句である。虚子に「花鳥諷詠真骨頂漢」と命名された茅舎の無季の句というのは極めて珍しい。一句目の「額」を「額の花」(夏)と解しているものもあるが(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)、「額(ぬか)」と詠みのルビが振ってあり、それは無理であろう。
これらの三句の主題は、上五の「窄き門」にある。三句目の下五の「花」(春)も、「窄き門」が主で、従たる位置づけであろう。この「窄き門」とは、アンドレ・ジッドの小説「窄き(狭き)門」やそれに由来している、『新約聖書』(マタイ福音書第七章第十三節)の「狭き門より入れ、滅(ほろび)にいたる門は大きく、その路(みち)は廣く、之(これ)より入る者おほし」などが背景にあるように思われる。
そして、この「窄き門」を、茅舎の一高受験の失敗などに関連させて、「門戸が狭く、競争率が高い」、いわゆる、受験競争などに関連させての句意も当然に考えられよう。しかし、それでは、どうにも平板的で、まして、和洋折衷の独特の小宇宙的空間の「茅舎浄土」の世界とは異質の世界のものという印象を受けるのである。
これらの三句を見て行くと、一句目の「額(ぬか)しろじろと母を恋ひ」の「額(ぬか)と母」、二句目の「﨟たき母のかげに添ひ」の「﨟たき母」、そして、三句目の「嘆きの空に花満ちぬ」の「嘆きの空」というのが、何とも、それらの上五の「窄き門」と呼応して、独特の「茅舎浄土」の世界を醸し出しているように思えるのである。
翻って、この「母」とは、同時期の頃の作と思われる「草餅や御母(おんはは)マリヤ観世音」(『定本川端茅舎句集』)の「御母(おんはは)」と同じようなイメージを受けるのである。そして、「御母(おんはは)マリヤ観世音」が、日本絵画史上の最高傑作とも崇められている(岡倉天心の指摘)、狩野芳崖の絶筆の「悲母観音」(慈母観音)の、その「慈母」のイメージと重なってくるのである。
こうして見てくると、これらの句の「母」を、狩野芳崖の「悲母観音」の「慈母」と見立てると、その「母を恋ひ(憧れ、慕ひ)」、そして、その「母の影に添(ふ)」のは、茅舎自身であると同時に、その「慈母」から「求道の旅」を命ぜられる「善財童子」(『華厳経』の「善財童子求道の旅」の「善財童子」)という見立ても可能なのではなかろうか。
狩野芳崖の「悲母観音」(慈母観音)は、「柳の枝を手にする楊柳観音と善財童子との組み合わせで、この楊柳観音は病難救済を本願とする」(ウィキペディア)もので、それが故に、三句目の「(難病に苦しむ=茅舎の)嘆き空に花満ちぬ」ということなのではなかろうか。
もとより、茅舎は、これらの句について、何らの自解めいたものを遺してはいない。しかし、茅舎の第二句集の題名は『華厳』であり、それが、『華厳経』に基づくものであるということは、自他共に認めるところのものであろう(「句集名は華厳経、華厳宗の『華厳』。漢字は『花飾』の意味なので、装飾的な句風にも応じているようだ。一方、仏語としては、菩薩(修行して悟りを得て仏陀と成る者)の万の修行という華が仏陀と成った際の万徳を荘厳するの意味を持つので、茅舎の仏心をも暗示する(香西照雄稿「『華厳』解題」・『現代俳句体系第三巻』」)。
こうして、茅舎が茅舎自身を『華厳経』の「善財童子」として見立てているとすると、これらの句の全てのイメージが鮮明となってくる。
一句目は、生命を授かった「善財童子」(茅舎自身)が、「悲母観音」(慈母観音・茅舎の生母)を仰ぎ見つつ、その「額(ぬか・ひたい)がしろじろと」、その「母(慈母観音と茅舎の生母とが二重写しになっている)を恋ひ」慕い・偲ぶということになる。
二句目は、「善財童子」(茅舎自身)が、「﨟たき(気品があり美しい)母(慈母観音と茅舎の母との二重のイメージ)のかげに添ひ」ということになろう。
三句目は、「修業に明け暮れている善財童子(病難に明け暮れている茅舎自身)の嘆きの空に(その嘆きの空は、慈母観音(同時に茅舎の生母)の、その頭上の空に)、今や、万の修行を経て、その功徳の象徴として華(花)が荘厳に咲き満ちている」というようなイメージであろうか。
さらに、これらの句が『華厳経』を背景としたものとするならば、これらの句の「窄き門」も、華厳経(「善財童子求道の旅」)にある「広狭自在無礙門(こうきょうじざいむげもん)」(「広=無限性、狭=有限性」の「狭き門」より「広狭自在無礙門」に至る道筋)と関連させての理解もこれまた十分に可能であろう。
独善的な、飛躍した見方との誹りを厭わず、これらの『白痴』所収の「窄き門」の句は、これはまさしく、茅舎の仏心をも暗示している『華厳経』の、その「善財童子求道の旅」を背景とした、「茅舎浄土」の世界のものとして鑑賞をいたしたい。

(追記)『白痴』所収の「狭き門」では、これらの三句に続いて、「つくづくし悲し疑ひ無き事も」「鶯やすでに日高き午前五時」「夕焼の中に鶯猶も澄み」の句が続く。これらの句もまた、「善財童子求道の旅」を背景として理解をいたしたい。この「つくづくし」は春(仏の功徳・神の福音)を告げる地に萌え出るもの。そして、天(空)に春告げ鳥の「鶯」、この「鶯」は、『華厳経』の「華(花)に鶯」の取り合わせなのではなかろうか。なお、参考の「善財童子求道の旅」のアドレスは次のとおりである。



茅舎浄土」の世界(その二十四)

茅舎の処女句集『川端茅舎句集』(昭和八年)は四季別に編纂され、その冒頭に秋の部を据えて、「露」の句が二十六句続く(その二十六句は下記のとおり。※印は「二倍送り記号」を平仮名で表記。※※印は代表的な傑作句。原本には通し番号は付いていない)。

一  露径深う世を待つ弥勒尊
二  夜店はや露の西国立志編
三  露散るや提灯の字のこんばんは
四  巌隠れ露の湯壺に小提灯
五  夜泣する伏屋は露の堤影
六  親不知はえたる露の身そらかな
七  白露に阿吽の旭さしにけり      ※※
八  白露に金銀の蠅とびにけり
九  露の玉百千万も葎かな
一〇 ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな    ※
一一 白露をはじきとばせる小指かな
一二 白露に乞食煙草ふかしけり
一三 桔梗の露きびきびとありにけり    ※
一四 桔梗の七宝の露欠けにけり
一五 白露に鏡のごとき御空かな
一六 金剛の露ひとつぶや石の上      ※※
一七 一聯の露りんりんと糸芒       ※
一八 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり    ※
一九 就中百姓に露凝ることよ
二〇 白露の漣立ちぬ日天子
二一 玉芒みだれて露を凝らしけり
二二 玉芒ぎざぎざの露ながれけり     ※
二三 白露に薄薔薇色の土竜の掌
二四 白露が眩ゆき土竜可愛らし
二五 日輪に露の土竜は掌を合せ
二六 露の玉ころがり土竜ひつこんだり

この冒頭の一句、「露径(こみち)深う世を待つ弥勒尊」の、この「弥勒尊」は、信州湯田中・渋温泉の半身を土中にしている弥勒尊で、茅舎がその弥勒尊を見てのものとされている(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。
茅舎の年譜(嶋田・松浦編著『前掲書』)に、「大正十二年(一九二三) 二十六歳。九月一日、関東大震災に罹災。父母と新大橋の上へ避難して九死に一生を得る。数日後両親と信州渋温泉へ。ここで弥勒石仏を見て深く感銘。更に、茅舎は、大森の龍子宅を経て京都の正覚庵へ。劉生も京都に避難していて、その指導を受ける。十一月、芸術院展に「静物」が入選」とある。
しかし、この句はその時のものではなく、大正十四年(一九二五)一月号の「ホトトギス」の入選句なのである。おそらく、後に、関東大震災のため信州渋温泉に避難していた頃のことを回想しての一句ということになろう。
ここで、この処女句集『川端茅舎句集』の冒頭の「弥勒尊」の一句は、実は、第二句集『華厳』の題名の由来となっている『華厳経』の「善財童子探究の旅」で、善財童子が訪れる五十三人の善友(善知識)のうちの、その最後の五十三番目に登場するのが弥勒尊であり、何か、茅舎の処女句集『川端茅舎句集』、そして、とりもなおさず、茅舎の俳句の世界というのは、『華厳経』の、その「善財童子探究の旅」が一応成就して、また一番目の文殊菩薩に遇う、そのステップからスタートとしているように思われるのである。
ちなみに、「善財童子探究の旅」では、観世音は二十八番目に登場し、茅舎の『川端茅舎句集』では、春の部に、次の句が収載されている。この句は、大正十三年一月号の「ホトトギス」が初出である。

○ 春の夜や寝れば恋しき観世音

『川端茅舎句集』は、露の句を冒頭に持って来て、「秋→冬→新年→春→夏→新盆四句」の順で、その最後の「新盆四句」に続いて、次の茅舎の父(寿山堂)の句を最末尾の句として終わっている。

○ 鶯やいろはしるべの奥の院   寿山堂

この『川端茅舎句集』の末尾を飾る句は、『華厳宗』の「善財童子求道の旅」ですると、五十三番目の弥勒尊が教示する「一番目の文殊菩薩(五十四番目)」に再会して、その文殊菩薩から教示される、最後の教えの「普賢菩薩(五十五番目)に遇う」場面が、この旅のゴールなのである。その最終のゴールは、「大いなる世界・阿弥陀」の世界であり、その普賢菩薩の家の門まで、一番目の文殊菩薩が同行して、そして、最後は善財童子が一人で而立して、普賢菩薩(阿弥陀)にお会いになるということで、この旅は終了する。
とすると、この寿山堂の句の「鶯」は、「大いなる仏・阿弥陀様のお告げ」ということを暗示して、茅舎の父の寿山堂は、茅舎(善財童子)に「いろは=基礎、しるべ=道しるべ」を教示したところの、一番目の文殊菩薩ということを暗示しているようにも思われるのである。
と同時に、この寿山堂の句をもって、この『川端茅舎句集』が終わっているということは、丁度一年前の、昭和八年(一九三三)八月四日に亡くなった、茅舎の父の寿山堂(本名信吉)に捧げる句集であるということを意味しよう。
ことほど左様に、茅舎の処女句集『川端茅舎句集』は、大正十二年(一九二三・関東大震災のあった年)から昭和八年(一九三三・茅舎の父が亡くなった年)まで、茅舎二十六歳から三十六歳までの十年間の作品三百句から成り立っているが、その編纂には、茅舎が微に入り細に入り、精根を尽くしてのものであるということが察知される。
そして、この『川端茅舎句集』の、「意志的求道者としての彼(注・茅舎)の思想や心理が俳句に反映し結晶したのがいわゆる『茅舎浄土』(中村草田男)である」(『現代俳句体系』所収「華厳解題(香西照雄稿)」)ということにもなろう。
この「意志的求道者の彼(注・茅舎)」とは、とりもなおさず、「善財童子・川端茅舎」と置き換えても差し支えなかろう。そして、この句集名は、ずばり、『川端茅舎句集』というものであるが、それは、第二句集『華厳』(『華厳経』の「華厳」)からすると、その第二句集を下巻としての、『華厳上巻』としても、これまた何ら差し支えないものと解したいのである。
かかる、「善財童子・川端茅舎」、そして、『華厳(経)』(花で飾られた広大な教え)という世界を背景にして、これらの二十六句の「茅舎の露」を見て行くと、これはまさしく、「茅舎浄土」の世界ということを痛感するのである。

(茅舎が関東大震災で避難した信州渋温泉で見たとされている「弥勒尊」)

http://photozou.jp/photo/show/223007/39715070




「茅舎浄土」の世界(その二十五))

一  しぐるゝや僧も嗜む実母散
二  湯ぶねより一(ひと)くべたのむ時雨かな
三  時雨るゝや又きこしめす般若湯
四  涙ぐむ粥※あつあつや小夜時雨  (※=二倍送り記号)
五  夕粥や時雨れし枝もうちくべて
六  鞘堂の中の御霊屋《おたまや》夕時雨 (《》=ルビ)
七  しぐるゝや粥に抛《なげう》つ梅法師 (《》=ルビ)
八  袖乞のしぐれながらに鳥辺山
九  時雨来と水無瀬《みなせ》の音を聴きにけり (《》=ルビ)
一一 かぐはしや時雨すぎたる歯朶《しだ》の谷 (《》=ルビ)
一二 通天やしぐれやどりの俳諧師
一三 しぐるゝや目鼻もわかず火吹竹
一四 酒買ひに韋駄天走り時雨沙弥《しやみ》 (《》=ルビ)
一五 しぐるゝや笛のごとくに火吹竹
一六 梅擬《うめもどき》※つらつら晴るゝ時雨かな(《》=ルビ、※=二倍送り記号)
一七 しぐるゝや日がな火を吹く咽喉佛
一八 しぐるゝや閻浮壇金《えんぶだごん》の実一つ  (《》=ルビ)
一九 御僧や時雨るゝ腹に火薬めし
二〇 時雨来と栴檀林(せんだんりん)にあそびをり
二一 しぐるゝや沙弥竈火を弄ぶ
二二 小夜時雨開山さまはおきて居し
二三 鼠らもわが家の子よ小夜時雨
二四 時雨鳩わが肩に来て頬に触れ
二五 花を手に浄行《じやうぎやう》菩薩《ぼさつ》しぐれをり (《》=ルビ)

茅舎の第一句集『川端茅舎句集』所収の「時雨」の二十五句である。『川端茅舎句集』は四季別に編纂され、冒頭は「秋」の部で、「露」の二十六句が続く。この「露」に次いで多いのが、この「時雨」の句である。
この『川端茅舎句集』の編纂スタイルは、芭蕉七部集の最高傑作とされている『猿蓑』のそれと同じである。『猿蓑』は、冒頭に「冬」を持って来て、「時雨」の句が十三句続く。それを茅舎は、その十三句の倍の、二十六句の「露」の句を持って、スタートしているのである。
茅舎は、「露の茅舎」というネーミングを冠せられ、それは丁度俳聖芭蕉のネーミングの「時雨の芭蕉」にも匹敵するものであろう。そして、「露の茅舎」は、その『川端茅舎句集』の「冬」の部に、これまた、芭蕉に倣ってか、「時雨」の句を二十五句続けているのである。「露」よりも一句少ないというのが、茅舎らしい神経の細やかさであろうか。
一句目の「僧」(出家し、仏門にはいって修行する人。僧侶。出家。法師。沙門(しやもん)。比丘(びく))、三句目の「般若湯」(僧家で酒のこと)、六句目の「鞘堂」(覆堂(おおいどう)。中尊寺金色堂のものが有名)・「御霊屋(おたまや)」(霊廟(れいびょう)。みたまや)、七句目の「梅法師」(「梅干し」。「法師」とは僧のこと。禅僧は種々の精進料理を中国から持ち帰ったが、梅干もそのなかの一点)、八句目の「鳥辺山」(「鳥辺野」の異称。古く、火葬場があった)、九句目の「水無瀬」(後鳥羽上皇の離宮のあったところで、上皇を祭る水無瀬神宮がある。水無瀬の里)、十四句目と二十一句目の「沙弥」(仏門に入り、髪をそって十戒を受けた初心の男)、十八句目の「閻浮壇金」(閻浮樹の森を流れる川の底からとれるという砂金。赤黄色の良質の金という。えんぶだんごん。ここは「閻浮樹」(閻浮提の雪山(せっせん)の北、香酔山(こうすいせん)南麓の無熱池(むねっち)のほとりに大森林をなすという大木)のことか)、十九句目の「御僧」(「おんそう」の詠みで「御僧侶」の略称か)、二十句目の「栴檀林」(駿河台の吉祥寺内に設けられた学寮。「檀林」は仏教寺院における僧侶の養成機関、仏教宗派の学問所)、二十二句目の「開山」(仏寺を初めて開くこと。また、開いた僧。開基)、二十五句目の「浄行菩薩」(清らかな世界へいけるように作った菩薩とのこと)などと、何とも「仏教用語」とも思われるもののオンパレードである。
さらに、一句目の「実母散」(漢方の家庭薬の一。産前産後・血の道・月経不順・つわりなどに用い、江戸中橋の木谷藤兵衛店を本家として広く流行した)、二句目の「湯ぶね」、十三句目と十五句目の「火吹竹」(火を起こす竹筒)、四句目・五句目・七句目の「粥」、八句目の「袖乞」(こじき。ものもらい)、十九句目の「火薬めし」(加薬飯。五目飯)、十一句目の「歯朶の谷」、十二句目の「通天・俳諧師」、十四句目の「韋駄天走り」、十六句目の「梅擬」、十七句目の「咽喉仏」、二十一句目の「竈火」、二十三句目の「鼠」、二十四句目の「時雨鳩」などと、これまた、何とも、茅舎の造語を含めて、茅舎ならでは含蓄のある「茅舎用語」が目白押しなのである。
そして、これらの二十五句の「時雨」の句からすると、茅舎の一面の、「白樺派」の人道主義や「旧約・新約聖書」に精通した「耶蘇教・茅舎」的な影は微塵も感じられないで、江戸情緒にどっぷりと浸かった、かっての京都在住の、「江戸っ子の寺住み男・茅舎」という茅舎像のみが浮かんでくる。
しかし、これらの「有情滑稽(フモール)」を基調とした、これらの「江戸っ子の寺住み男・茅舎」の句は、まぎれもなく、「茅舎浄土」の世界(清浄で清涼な世界、浄刹(じょうせつ)、浄国、浄界の世界)ということが、確信的に察知されるのが、何とも、これまた妙なのである。

「茅舎浄土」の世界(その二十六)

○ 芋腹をたゝいて歓喜童子かな  (『華厳』)

『華厳』所収の句。この句について、「この何の奇もない十七字に私は微笑する。歓喜天は仏典にあるが、『歓喜童子』とはおそらく茅舎の造語であろう。この句は何の説明も要しない。ただ茅舎の句を抄するとなれば挙げないではいられないだけだ。茅舎の童心を示す句」(『現代俳句(山本健吉著)』)との鑑賞がある。
この「芋腹」というのは、金魚の「芋らんちゅう」のように、横腹がぶくぶく太った腹のことであろうか。もう一つ、戦時中や戦後の貧しい時代に、米の飯ならず、代用食の芋で我慢していた頃の、「飢えた芋腹」というのも考えられるが、こと、茅舎は、その貧しい時代を知らずに他界してしまった。また、その生涯というのは、親が健在の時には親(特に母親)の庇護下にあり、親亡き後は異母兄の龍子に庇護されての、全く、飢えとは無縁の、こと、食に関しては贅沢な一生であった。
この「歓喜童子」は、「歓喜天」(頭は象、身体は人間の姿をした仏法守護神。もとインド神話の魔王で、のち仏教にとり入れられたもの。単身像と双身像とあり、双身像は、男神と女神とが抱擁する姿をとることが多い。夫婦和合・子宝の神として信仰される。大聖歓喜自在天。聖天(しょうでん))の「童子」(「酒呑童子」など鬼や神仏にも用いられるが、ここは子供の意であろう)の意であろうか。茅舎の造語とされているが、この造語は、「善財童子・茅舎」の、その信仰探究の旅中における「歓喜童子」との邂逅という雰囲気でなくもない。
即ち、この「歓喜童子」という茅舎用語は、茅舎の信仰の証の『華厳経』の「善財童子」(華厳経入法界品(にゅうほっかいぼん)に登場する菩薩(ぼさつ)の名。発心して五十三人の善知識(ぜんちしき)を歴訪し、最後に普賢(ふげん)菩薩に会って浄土往生を願ったという。仏法修業の段階を示したものとされる)が背景にあってのものと理解をいたしたい。



「茅舎浄土」の世界(その二十七)

○ 日盛りや綿をかむりて奪衣婆(だつえばあ) (『川端茅舎句集』)

江戸時代に整備された東海道五十三次の五十三の宿場は、『華厳経』の善財童子を導く五十三人の善知識(指導者)の数にもとづくものとされる。即ち、この一番目は文殊菩薩で、文殊菩薩は五十四番目に再登場して、五十五番目(最後)の普賢菩薩(大いなる仏の「阿弥陀如来」)に会って浄土往生の悟りを開くというストリーで、この五十四番目の文殊菩薩と五十五番目の普賢菩薩を除いての五十三人の善知識(指導者)にもとずくのが、東海道五十三次の五十三の宿場だというのである。
この五十三人の善知識(指導者)の中には、比丘や比丘尼のほか外道(仏教徒以外の者)、遊女と思われる女性、童男、童女も含まれているとのことで、この中に、掲出の句の「奪衣婆」が入っているのかどうかは知らないが、恐らく、入ってはいないであろう。
しかし、「善財童子・川端茅舎探究の旅」の、その五十三人の善知識(指導者)を設定するならば、この奪衣婆などをその中に入れても差し支えなかろう。
この奪衣婆というのは、「三途川(葬頭河)の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。脱衣婆、葬頭河婆、正塚婆(しょうづかのばば)とも言う。奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる」とのことである(ウィキペディア)。
さらに、新宿区の正受院が奪衣婆を祀る寺として知られ、正受院の奪衣婆尊は、咳が治ると綿が奉納され、像に綿がかぶせられたことから「綿のおばあさん」「綿のおばば」などとも呼ばれているという(ウィキペディア)。
この「咳が治ると奉納された綿を被った」「綿のおばば」が、茅舎の掲出の奪衣婆ということになろう。茅舎は咳で苦しみながら、その苦しみの中でその生涯を閉じた。その茅舎の最期の句集『白痴』には、その咳の苦しみの句が、「謦咳(けいがい)抄」として綴られている。

○ そと殺す謦咳の程虔(つつま)しく
○ わが咳くも谺ばかりの気安さよ
○ 大木の中咳きながら抜けて行く
○ 咳きながらポストへ今日も林行く
○ 五重の塔の下に来りて咳き入りぬ
○ わが咳や塔の五重をとびこゆる
○ 咳き込めば響き渡れる伽藍かな
○ 寒林を咳へうへうとかけめぐる
○ 咳き込めば我火の玉のごとくなり
○ 咳止めば我ぬけがらのごとくなり

これらは、晩年の茅舎の咳に病む句であるが、掲出の「綿のおはば」の奪衣婆の句は、茅舎の宿痾の一つの結核性の喘息(心臓喘息とも言われている)が、その背景にあるものであろう。茅舎はこれらの背景については何も黙して語らない。しかし、晩年の「謦咳抄」の句などに接すると、この一見して「有情滑稽(フモール)」の奪衣婆の句も、茅舎の境涯性に根差した「茅舎浄土」の世界のものだということを痛感するのである。


「茅舎浄土」の世界(その二十八)

○ 芋の葉を目深に馬頭観世音 (『川端茅舎句集』)

「馬頭観世音」は、「他の観音が女性的で穏やかな表情で表わされるのに対し、馬頭観音のみは目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒(ふんぬ)相である。このため、『馬頭明王』とも称し、菩薩部ではなく明王(みょうおう)部に分類されることもある」という(ウィキペディア)。
掲出の句は、「観世音菩薩の中で、唯一つ忿怒の相である馬頭観世音は、その忿怒の相を隠すように、芋の葉を目深に被っている」というようなことであろうか。
『川端茅舎句集』は、次のような観世音(観世音菩薩)の句がある。四句目の「千手観世音」は、観世音の変化身(へんげしん)で、「千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している」という(ウィキペディア)。

○ 観世音おはす花野の十字路
○ 春昼や人形を愛づる観世音
○ 春の夜や寝れば恋しき観世音
○ 飴湯のむ背に負ふ千手観世音

これらの観世音の句は、いずれも平和な、馬頭観世音の「忿怒の相」とは別世界のものであり、どことなく、「母恋い句」の雰囲気を醸し出している。この茅舎の、慈愛と柔和な観世音の世界に対して、異母兄の龍子は、「火焔を背にして右手に剣を取り、左手に縄を持って憤怒の姿」の不動明王を、しばしば題材にしており、茅舎とは好対照を為している。
こ異母兄弟の龍子と茅舎との好対照は、龍子が父より見放された母を母親として、若くして而立の道を歩んだのに対して、茅舎は龍子の母を見放した父と母とを両親にして、その溺愛の中で而立することなく病に倒れてしまったという、その両者の境涯性と大きく関係しているように思われる。
これらのことは、龍子のその雅号が「龍の落とし子」という自力本願的なものに対して、茅舎のそれは、「遊牧の民の粗末な茅葺きの家」(「遊牧の民」は「迷える子羊」と同意と解する)で、ひたすら、「弥陀(神・仏)の御加護を願う」という他力本願的な生き方とも密接不可分のものであろう。
もし、龍子が馬頭観世音を描くなら、それは「目尻を吊り上げ、怒髪天を衝き、牙を剥き出した忿怒相」の「馬頭明王」を取り上げるであろうが、茅舎はあくまでも「馬頭観世音」で、その「忿怒相」を「芋の葉を目深に」で隠してしまうという、即ち、「有情滑稽(フモール)」の菩薩像にしてしまうのである。 
この「馬頭観世音」の世界も、これまた「茅舎浄土」の世界であろう。


茅舎浄土」の世界(その二十九)

○ 肥(こえ)担(かつ)ぐ汝等比丘(びく)や芋の秋  (『川端茅舎句集』)

「比丘(びく)」というのは、「出家して、定められた戒を受け、正式な僧となった男子。修業僧」のこと。『華厳経』の「善財童子求道の旅」の、五十三人の善知識(聖者・指導者)の中にも登場する。
その比丘が、「肥(こえ)」(便所の肥壺から取った糞尿)を担いで、それを肥(こ)やしにするため畑に撒いているという光景であろう。
「芋」は、一般的に、「里芋、八つ頭の類を表す、葉が根生し長大で葉柄も長い」。「芋の秋」は、「芋を収穫する頃の候」。田舎らしい素朴な味わいの野趣的な季語である。
しばしば、茅舎の俳句は、「有情滑稽(フモール)」の世界と指摘されるが、その典型的な句でもある。江戸っ子の茅舎自身は農作業に従事したことはないが、京都の正覚庵などで、修業僧が修業の合間に、この「肥汲み」とか「肥撒き」などをしているのを目撃してのものであろうか。
茅舎が京都で滞在していた東福寺正覚庵というのは、臨済宗の禅寺のようだが、東福寺の「東」は、華厳宗の総本山の「東大寺」から、その一字を取ったということで、茅舎の「華厳経」の理解というのは、やはり、この京都在住の頃のものであろう。
「汝ら比丘や」というのは、決して、それらを軽蔑しての茶化したものではない。それらの比丘の一人に、「比丘もどき」の自分を含めてのものと理解したい。
この茅舎の、「有情滑稽(フモール)」の世界は、まさしく、「茅舎浄土」の世界であろう。


「茅舎浄土」の世界(その三十)

○ 花を手に浄行(じょうぎょう)菩薩しぐれをり (『川端茅舎句集』)

通常「四菩薩」というのは、「普賢菩薩、文殊菩薩、観音菩薩、弥勒菩薩」の四菩薩で、この四菩薩については、茅舎の句の中にしばしば出て来る。掲出句の「浄行菩薩」というのは、「法華経」の「上行(じょうぎょう)、無辺行(むへんぎょう)、浄行(じょうぎょう)、安立行(あんりゅうぎょう)」の四菩薩のうちの「浄行菩薩」のようである(ウィキペディア)。
茅舎が、昭和三年(一九二八)に父(寿山堂)と共に移住した、異母兄の龍子の建てた家(後の青露庵)は、池上本門寺(東京都大田区池上)の裏手にあたり、この池上本門寺が日蓮宗の大本山である。
この日蓮宗系統の寺院には、通常、境内に浄行堂というのがあって、中に浄行菩薩をお祀りしているという。それは、たいてい石像か銅像で、宝冠をいただいて合掌している立像で、水盤の中央に立っているか、脇に水盤があるかのどちらかで、柄杓で水をかけるようになっているようである(ウィキペディア)。
この「浄行菩薩」には、柄杓で水をかけるのが慣わしなので、それを茅舎は「しぐれけり」と洒落たのが、この掲出句なのであろう。この句の季語は「花」(春)で、「しぐれ」(冬)は、「水をかける」のを「しぐれけり」と見立て替えしたもので、季語の働きはしていないということになる。
実際に、池上本門寺は桜の名所で、その時節の「浄行堂」(浄行菩薩)の嘱目句という雰囲気である。
こうして見て来ると、茅舎の句風というのは、その師の高浜虚子の「花鳥諷詠」というよりは、俳諧が本来的に有していたところの「見立て替え」などの、「有情滑稽(フモール)」を基本に据えていることが、一目瞭然に察知されるのである。
この句もまた、題材の「浄行菩薩」といい、まことに、「茅舎浄土」の世界の一スナップという趣である。


「茅舎浄土」の世界(その三十一)

常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)目刺を焼きにけり (『華厳』)

「常不軽菩薩」とは、「法華経・常不軽菩薩品に説かれる菩薩で、釈尊の前世の姿であったとされる。常不軽菩薩は自身が誹謗され迫害されても、他人を迫害するどころか、仏法に対する怨敵などと誹謗し返さなかった。この精神や言動は、宗派を問わず教理を越えて、仏教徒としての原理的な行動・言動の規範としてよく紹介引用される」という(ウィキペディア)。
どうやら、茅舎は、「常不軽菩薩」の「無抵抗主義」に着目しているのかも知れない。その「常不軽菩薩は、他人様が誹謗しても決して逆らわず、今日も黙々と目刺を焼いている」と、これまた、茅舎特有の「有情滑稽(フモール)」の句なのであろう。
こういう句は、「常不軽菩薩」という、この菩薩がどんな菩薩なのかを知らないと、この句の面白さは分からないであろう。『華厳』所収の句というのは、その全てが「ホトトギス」の入選句で、虚子の選句で可とされた句なのであるが、虚子は、この「常不軽菩薩」と「目刺」との取り合わせに、意外性を感じての選句なのであろうか。
この「常不軽菩薩」も「浄行菩薩」と同じように、日蓮宗系統の寺院に多くその菩薩像が見られるようで、この句も、茅舎の「青露庵」に隣接した池上本門寺境内の句と解していたのだが、茅舎の絵画の師である岸田劉生が住んでいた代々木駅周辺の立正寺という寺院に、この「常不経菩薩」像があり、茅舎が見たのは、その像ではないのかと、そんな想像にも駆られている。
岸田劉生の代々木時代というのは、大正三年(一九一四)から五年(一九一六)にかけてであって、ここで、劉生の傑作画、「道路と土手と塀(切通之写生)」が生まれた。この傑作画のモデルとなった所は、「渋谷区代々木四丁目」で、現在、ここに、石柱と木柱との二種類の標識が建っているとのことである。この石柱の標識の方に、立正寺があり、そこに、「常不軽菩薩」像があるとのことである。
茅舎が一高の受験に失敗して、画家の道を志すのが、大正三年(一九一四)、十七歳の時。そして、西島麦南を原田彦太郎(劉生門下生)を通して知り合うのが、大正五年(一九一六)、十九歳の時で、茅舎が劉生門下になるのは、年譜によると、大正十年(一九二一)、二十四歳の時である。
いずれにしろ、茅舎、そして、茅舎の無二の親友の西島麦南・原田彦太郎の、この三人が、代々木時代の岸田劉生と接点があり、そして、「道路と土手と塀(切通之写生)」のモデルとなった代々木四丁目周辺、そして、その周辺の、立正寺の「常不軽菩薩」像を目にしていたという想像は、それほど飛躍したものでもなかろうという思いがするのである。
この「常不軽菩薩」像が、代々木時代の岸田劉生と接点があるという想像は、どうも、茅舎の、この句の「常不軽菩薩」の「常不軽」が、その音読みの「常不興」ということから、「常に不興面の偏屈男」の画家、岸田劉生が、「目刺を焼いている」というものだとすると、「茅舎ならそのくらいのことはやりかねない」という、そういうことが、その由来となっている。
茅舎の句というのは、一見、平明で何の含蓄もないような句(例えば、掲出の句)が、いろいろと視点を変えて見ていくと、茅舎の傑作句(例えば、露の句など)以上に面白味があるということを、何故か語りかけているような、そんな思いがするのである。
































































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