木曜日, 10月 18, 2012
茅舎の風景(その一からその二十)
茅舎の風景(その一)
本門寺山
木枯に真珠の如きまひるかな
杉の穂に日の円光に冬は澄む
短日の大木の影なみうてる
冬紅葉堂塔谷に沈み居り
星亨墓前に大き糞凍てぬ
鵯(ひよどり)もおどろき我もおどろきぬ
寒凪や舞ひ澄む鳶の限にはつと
冬の空鳶白眼をひからせし
氷る田の馬込は九十九谷かな
氷る田に団扇(うちわ)太鼓は打たれけり
※昭和九年「俳句研究」第一巻第一号所載 (『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
「本門寺山」と題する十句である。池上本門寺は日蓮宗の大本山で、山号は長栄山、院号は大国院、全国に旧末寺約二百ヶ寺を持つ関東では有数の大刹である。茅舎は、この池上本門寺一帯のことを、「本門寺山」と呼称しているのだろうか。
この池上本門寺の裏手に隣接して、茅舎が住んでいた「青露庵」があり、茅舎の異母兄の川端龍子の家も近くにあった。龍子の家は、現在の「馬込文士村」の一角にあるが、茅舎の「青露庵」も、その外れの方に、「馬込文士村」のマップには記載されている。
この一帯は、「馬込九十九谷」と呼ばれ、アシやススキなどが生い茂る丘と谷が複雑に入り組む、起伏に富んだ地域である。現在、住宅の密集地であるが、戦前までは長閑な田園地帯で、雑木林と畑が広がっていて、さながら、掲出の十句のような光景がよく見かけられたのであろう。
四句目の「堂塔」は、池上本門寺の堂塔。五句目の「星亨の墓」は池上本門寺内にある。戦前は、その銅像も建っていたという。十句目の「団扇太鼓」は、日蓮宗・法華宗などで用いられる太鼓で、これまた、池上本門寺のそれであろう。
茅舎の風景(その二)
デューラーの崖
アルブレヒト・デューラーは我が少年
の日の憧憬なりしが、先頃不図(はから
ず)も我が本門寺裏なる三方の崖の皆
デューラーが形相の目のあたりに現ぜ
るをば発見して真に蕭条と冬たり得た
る芸術の怪しさをば再び少年の日の如
く驚きぬ
霜柱崖は毛細根を垂り
寒の日の静かさ崖はこぼれつぎ
寒の日光浴 四句
引かれたる葱のごとくに裸身なり
我が背筋さらせば寒の日のやいば
寒の日の今こそ我が背焼き給ふ
寒の日の肩はほこほこと打ち給ふ
御僧や今朝さへづりの揶揄に覚め
草庵の足らず事足る目刺かな
ふだらくの初観音へ川蒸気
※昭和十三年「俳句研究」第五巻第三号所載 (『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
この前書きの「我が本門寺裏なる三方の崖」というのは、茅舎の住まいの「青露庵」から池上本門寺へ至る付近の景なのであろうか。
アルブレヒト・デューラーは、ドイツルネサンス期に活躍したドイツ美術史上最大の画家の一人で、「我が少年の日の憧憬なりしが」というのは、茅舎の年譜によれば、「明治四十二年(一九〇九)十二歳。三月、有隣代用小学校を卒業。四月、小石川区の私立独逸協会中学に入学。聖書に親しむ」とあり、この独逸協会中学当時のことを指しているのだろうか。
デューラーは、「聖母七つの苦しみ」など、その宗教画などは特に名高いが、風景画、版画、素描などにおいても数多くの傑作画を今に遺している。茅舎の異母兄の龍子は、日本画の大家であるが、そのスタートは、デューラー張りの、洋画家、素描(挿絵など)画家でもあり、龍子の手許には、この種の画集は沢山あり、洋画家を目指した茅舎は、日頃から、デューラーの作品などには親しんでいたのであろう。
その画集の中の一つに、「霜柱崖は毛細根を垂り」と、茅舎が目にしたであろう、デューラーの作品(下記のとおり)に接して、やはり、茅舎は、生涯に亘って、洋画家の道を捨て切れなかったのだという思いを深くした。
○ 朴の花猶青雲の志
この茅舎の句は、亡くなる昭和十六年の作であるが、「茅舎は大金(大学卒初任給の百倍ほど)を残して死んだ。フランスへ絵の修行に行くための貯金だ。素十はこの句を引用し、『猶といふ字がまことに淋しい』と書いている」(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。
掲出の「デューラーの崖」と題するものは、亡くなる三年前の昭和十三年の作であるが、当時から、茅舎は、脊椎カリエスなどで、病床の日常であり、掲出の「寒の日光浴」のような日々であったのだろう。
その「寒の日光浴 四句」に続く三句については、茅舎の一面の「有情滑稽(フモール)」の句と、池上本門寺に近い「六鄕の渡し」などの風景であろうか。
これらの句を寄せた、改造社の「俳句研究」は、後に、『現代俳句』の名著を遺す、文芸評論家・俳句評論家として名高い、山本健吉がその編集に携わっており、茅舎にとっては、これはと思う作品を、この「俳句研究」に投稿した形跡が、ありありと窺われる。
(デューラー・水彩とグワッシュ 1494年)
http://www.site-andoh.com/durer.html
茅舎の風景(その三)
煉丹
芋の葉のこれに
煉る露は金銀の薬
少年の老い易く
夢見しは金銀の薬
よし町の通り今清の横の
瀟洒に掃き清めし露地を行けば
人魚を描ける金看板清心丹の老舗あり。
露地は敷石も美しく
今清の鋤焼の匂ひと
金銀の薬煉る匂ひと
打交り打交り妖しく薫染し
人魚の匂ひはかくの如きかと
少年の日のかなしさに
人魚は恋しく
ふと煉丹の乙女を
汝は恋ひゐたりしか。
人魚はかなしく
芋の葉はかなしく
鵙は猛りて
青天白日の夢を覚しぬ
昭和十三年十月二日
※昭和十三年「誹諧」第二号所載。昭和十三年四月創刊の「誹諧」は高浜虚子が年尾に刊行させたもので俳諧文学の広汎な分野に亙つて編纂した。「俳諧詩」も亦虚子が推唱したもの、茅舎も多くの作品を同誌によせた。 (『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
茅舎の「俳諧詩」である。「俳諧詩」とは馴染みのない言葉だが、「俳句趣味に基づき、昭和十年代に書かれた自由詩をいう」(『俳文学大辞典』)とある。同著によれば、「『誹諧』第一号(昭和十三・四)から三十号(昭和十九・一)までに、『ホトトギス』の俳人十九人による二百三篇の作が書かれた」という。そして、「連句からヒントを得て模索された俳体詩の伝統を新しい形で継承したもの」とある。では、「俳体詩」はというと、「明治三十七年(一九〇四)ごろ、連句形式を藉(か)りながら、俳句趣味に基づいて作られた意味の一貫した詩」とある。この「俳体詩」としては、高浜虚子と夏目漱石の「尼」などが知られている。「俳諧詩」の作者では、茅舎を始め、松本たかし・中村草田男らの名が上げられる。要は、「日本古来の『俳諧』(連句)的なものを、明治期に勃興した西洋的な『新体詩』に拮抗しようとして、高浜虚子の流れを汲む俳人が試みた自由詩」と理解して差し支えなかろう。
「俳体詩」も「俳諧詩」も、考案者は、高浜虚子で、虚子のご子息の年尾に、「誹諧」(「俳諧」よりも語源的には、こちらの「誹諧」が正しいのかも知れない)という俳誌を発行させて、その俳誌「誹諧」が、当時の、「ホトトギス」の若手の有力俳人の牙城として、それらの若手俳人を育成しようとする意図もあったのであろう。掲出の茅舎の「俳諧詩」(自由詩)は、そのうちの一つである。
この茅舎の自由詩に接して、「煉丹・芋の葉・露・金銀・薬・よし町・今清・瀟洒・露地・人魚・金看板・清心丹・老舗・敷石・鋤焼・薬煉る・薫染し・煉丹の乙女・鵙・青天白日」などと、江戸っ子の茅舎が好んで用いる、いわゆる、茅舎語録の満載である。
昭和四年(一九二九)の『大東京案内』には、「東京自慢の牛鍋屋として、銀座の『松喜』、四谷の『三河屋』、よし町の『今清』、神田の『今文』の四件が載っている」という。この「よし町」というのは、現在の人形町・浜町あたりのことで、茅舎の頃は、「よし町」(葭町・芳町)と呼んでいたのであろう。
茅舎は、明治三十年(一八九七)生まれの明治っ子で、東京都日本橋区蛎殻町生まれの、チャッキチャキの江戸っ子(東京っ子)である。推敲に推敲を重ねたような、茅舎の俳句よりも、実に、伸び伸びと、自由奔放な、詩人・茅舎の世界と感ずるのは、贔屓の贔屓倒しになるのであろうか。
ちなみに、現代詩の最先端を行く、荒川洋治の「口語の時代は終わった」で知られる「見附のみどりに」(次の詩)の、その先鞭を付けるような詩ではないか。これまた、贔屓の贔屓倒しになるのであろうか。
見附のみどりに 荒川洋治
『水駅』(昭和五十刊)所収
まなざし青くひくく
江戸は改代町への
みどりをすぎる
はるの見附
個々のみどりよ
朝だから
深くは追わぬ
ただ
草は高くでゆれている
妹は
濠ばたの
きよらかなしげみにはしりこみ
白いうちももをかくす
葉さきのかぜのひとゆれがすむと
こらえていたちいさなしぶきの
すっかりかわいさのました音が
さわぐ葉陰をしばし
打つ
かけもどってくると
わたしのすがたがみえないのだ
なぜかもう
暗くなって
濠の波よせもきえ
女に向う肌の押しが
さやかに効いた草の道だけは
うすくついている
夢をみればまた隠れあうこともできるが妹よ
江戸はさきごろおわったのだ
あれからのわたしは
遠く
ずいぶんと来た
いまわたしは、埼玉銀行新宿支店の白金(はっきん)のひかりをついて
あるいている。ビルの破音。消えやすいその飛沫。口語の時代は寒い。
葉陰のあのぬくもりを尾けてひとたび、打ちいでてみようか見附に。
茅舎の風景(その四)
蕗の薹
さみどりの
蕗の薹に
紫の袱紗(ふくさ)を
空から落した
鳶の影
昭和十四年三月九日
※昭和十四年「誹諧」第三号所載。 (『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
この茅舎の俳諧詩は、行数からすると「五行詩」である。「俳諧詩」の定義の、「俳句趣味に基づき、昭和十年代に書かれた自由詩をいう」(『俳文学大辞典』)の「俳句趣味」とは、いわゆる、「俳趣味・俳味・俳諧味」と同意義と解して、「俳諧のもつ、脱俗・風流・淡泊・軽妙・滑稽・さび・しおりといった趣」のある自由詩が、「俳諧詩」と解して差し支えなかろう。
と解しても、いわゆる「俳諧詩」と「自由詩」との区別は判然としない。ここで、「俳体詩は、明治三十七年(一九〇四)ごろ、連句形式を藉(か)りながら、俳句趣味に基づいて作られた意味の一貫した詩」(『俳文学大辞典』)との関連で「五行詩」を考えると、連句の「長句(五七五)」と短句「七七」を、分かち書きした、「五/七/五/七/七」として、これは、スタイル的に、「俳体詩」というのが理解できる。
しかし、茅舎の、この俳諧詩は、「五/七/五/七/七」のスタイルではなく、極めて、自由詩そのもので、これは、あえて「俳諧詩」と区分する必要はさらさら無いと思われる。
さみどりの (五)
蕗の薹に (六)
紫の袱紗(ふくさ)を (九)
空から落した (八)
鳶の影 (五)
ここで、茅舎の次の世代の、戦後、「多行式俳句」を樹立していった、高柳重信の「一行」表記から「五行」表記のものを見てみたい。
一行表記の俳句
○ 全集の一冊買ふや啄木忌 (『前略十年』)
○ 怒濤 ああ 海さへ夜に敗れたり (『前略十年』)
○ 友よ我は片腕すでに鬼となりぬ (『山川蝉夫句集』)
二行表記の俳句
○ 月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵 (『蕗子』)
三行表記の俳句
○ 冷凍魚
おもはずも跳ね
ひび割れたり (『蕗子』)
四行表記の俳句
○ 海も
山も
出雲かなしや
紫なす (『日本海軍』)
五行表記の俳句
○ 明日は
胸に咲く
血の華の
よひどれし
蕾かな (『伯爵領』)
これらのものと、掲出の茅舎の「俳諧詩」とを比べて見て、どうにも、高柳重信の方が、「俳趣味」(脱俗・軽妙・滑稽など)が濃厚であって、どうやら、重信の「多行式俳句」の方が、茅舎らが試みた、「俳諧詩」(俳句趣味に基づく自由詩)に近いものという感じでなくもない。
これらのことに関して、重信には、明瞭に、「俳句の器」の定型(五七五)そのものを打破するという意図があったが、茅舎らには、そういう意図は微塵もなく、ともすると、その「俳句の器」の定型からの解放というような、そんな雰囲気すら有している。
○ 蕗の薹(とう)小さき壺の緑かな
○ 蕗の薹雪ふかければ青磁かな
○ 蕗の薹息づく孔よ白雪に
○ 蕗の薹雪遍照(へんじょう)と落窪む
これらは、『白痴』所収の昭和十五年の作であるが、これらの句の背景には、掲出の昭和十三年作の「俳諧詩」が見え隠れしていているが、これらの茅舎の「蕗の薹」の句は、掲出の「俳諧詩」が定型の解放とすれば、その定型を墨守するという堅い決意が読み取れる雰囲気を有している。そして、こういう句の後で、掲出の茅舎の詩に接すると、何とも、伸び伸びと、心地よい思いがしてくるのである。
茅舎の風景(その五)
千鳥
薬研堀の不動様の年の市の近づく頃となつて
夜な夜な母の肩は石のやうに凝つた。
学校の復習の嫌ひな僕も
母の肩を叩く夜なべなら好きだつた。
大根河岸の講中のお会式の太鼓の稽古もなくなつて
ひつそり閑と冷込む夜更に
僕は母の肩を叩いてゐた。
一貫三百どうでもいい
テケテンツクテンツクツツツツ
一貫三百どうでもいい
トコトンツクトンツクツツツツ
かういう調子で僕は母の肩を叩いてゐた。
父は未だ帰つて来なかつた。
雪にでもなつたのか
馬鹿に寒くてひつそりと
今夜は鼠達も出て来ないのは
却つて淋しく
「鼠達も家の子よ」といふいつもの母の口癖を思出し乍ら
矢鱈に目茶目茶に調子を早めて
僕は母の肩をば叩き続けた。
チヤンツクツツツツ
テンツクツツツツ
トンツクツツツツ
トトントン
トトントン
「ハイハイご褒美一貫三百」
その時大川端からボーボーと悲しい汽笛は流れて
この銚子行の津運丸の出発の合図と全く同時に
両国向うの百本杭の辺からギヤツと一と声鳥とも獣とも分からぬ異様な叫びが
吹飛んで来た。
僕はあつと母の肩を掴んで
「アレ何だろう」と母に尋ねた。
母は然し平気で静かに
「千鳥かもしれないよ」といつた。
昭和十五年十月二十三日
※昭和十五年「誹諧」第六号所載。 (『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
この茅舎の詩が掲載されている「誹諧」について、高浜虚子は、「人事句と連句」(「ホトトギス」昭和十六年十月)の中で、次のように触れている。
[年尾と共に「誹諧」と称える雑誌を発行し、其初号以来猿蓑の連句の研究を発表し又二号以来実作を発表するやうになつて今日まで来たのである。この「誹諧」という雑誌は、連句を発表するのみが目的ではないのであるが、連句も亦その主な要素であって、私達の連句研究は一切この「誹諧」誌上に発表したのであるが、思ふところがあつて今これを一まとめにしてホトトギス誌上に転載発表することにしようと思ふ。]
この虚子の記述にあるとおり、「猿蓑」の連句研究とか連句の実作の掲載とか、さらに、掲出の「俳諧詩」とか、「ホトトギス」という大所帯ではやれないような企画を、この「誹諧」で実践したいというのが、この「誹諧」の背景にあるだろう。
茅舎は、この「誹諧」と、もう一つの「ホトトギス」の姉妹編の「玉藻」(これまた、虚子の娘さんの星野立子さんが主宰)と、この二つに、多くの作品の寄稿をして、多くの稔りある収穫を得たということが言えるであろう。
この「千鳥」と題する茅舎の詩は、茅舎の幼年時代を知る上で、大変に貴重なもので、茅舎の句に登場する、「鼠達も家の子よ」という母の口癖など、興味が惹かれる点が多々ある。
「薬研堀・大根河岸・大川端・銚子行の津運丸・両国向う百本杭」など、茅舎の生まれた日本橋界隈の隅田川などにまつわる思い出など、茅舎や、茅舎の母や、そして、茅舎の俳句などを知る上で、こういう茅舎の詩は大変に有難い。そして、「テケテンツクテンツクツツツツ」などの「オノマトペ」や、起承転結の利いた、一篇の詩として、大変に魅力溢れる雰囲気を有している。
茅舎の風景(その六)
蘆刈千鳥
十二月六日朝、風強けれども小春日の一天玉の如し。
行徳の千鳥見学、同行二水野双山孫淙々子等十人。
蘆刈女きりきり褞袍(どてら)脱ぎにけり
蘆刈女千鳥呼ぶ名の誵訛(ごうか)あり
蘆刈も白鷺も亦映り居り
蘆刈れば千鳥の州あり古鏡なす
洲の千鳥筑波颪に向き並び
寂然と千鳥の陣や洲の真昼
洲に並ぶ千鳥の縷々と鳴くもあり
洲に並ぶ千鳥のどれか鳴くもあり
白帆飛び千鳥の陣の驚かず
するすると千鳥走れり潦(にわたずみ)
潦千鳥走りて破(や)れもせず
走る時千鳥の脚の細さかな
するすると子千鳥蟹に走り寄り
子千鳥の陣を離れてするすると
日輪に風ひうひうと千鳥かな
日輪に沖赫突と群千鳥
群千鳥又琅玕を日に返し
青天やあからさまなる群千鳥
襟巻を頬冠(ほほかむり)して千鳥見ゆ
友千鳥大堤防は一とすぢに
稲扱きしあとふわふわと大堤
浦安風景
子を負うて餓鬼大将ぞ海蠃(ばい)開帳
海蠃を打つ無尽会社の表かな
水洟に目鼻もわかず文字焼
浅蜊剥く母毛絲編む娘かな
塩引の届く浦安めでたけれ
行徳は千鳥浦安はおでんかな
千鳥見て来て皆おでん所望かな
鍋蓋を繕ふ老爺日向ぼこ
※昭和十二年「俳句研究」第四巻第二号所載 (『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
前書きの、「同行二水野双山孫淙々子等十人」は、「同行、二水・野双・山孫・淙々子等十人」で、このメンバーは「あをきり句会」の方々であろう。「あをきり句会」は、当時の「第一生命相互保険会社」の有志の句会で、昭和九年(一九三四)の頃から、異母兄・龍子の妻・夏子の紹介で、茅舎が主宰しているもので、代表者は藤原二水などであろう。
また、「行徳の千鳥見学」の「行徳」は、「千葉県市川市の南部、江戸川放水路以南の地域名である。現在では、一般的に旧東葛飾郡行徳町の江戸川放水路以南、旧南行徳町の全域を指して使われる。江戸時代には行徳塩田が設置され、水上交通の要所でもあった」という(ウィキペディア)。浦安はその行徳の隣で、山本周五郎の「青べか物語」の舞台にもなった所で、この浦安から行徳にかけて広大な湿地とよく発達した干潟がひろがり、雁や鴨、鷺、千鳥等の群れが空を暗くするほどだったという。
「蘆刈(芦刈り)・蘆刈女」は晩秋の季語で、「千鳥」は三冬の季語。いわゆる、季語が二つの「季重なり」の句が見られるが、「蘆刈女(晩秋)きりきり褞袍(どてら)(三冬)脱ぎにけり」・「行徳は千鳥(三冬)浦安はおでん(三冬)かな」などと、その「季重なり」を意識しての作句という雰囲気でなくもない。
それよりも、この「浦安・行徳」などは、水原秋桜子の、第一句集『葛飾』(昭和五年刊)や第五句集『蘆刈』(昭和十四年刊)などの吟行地でもあり、当時、秋桜子の「馬酔木」に「連作講座」などが掲載され、その秋桜子の「連作」などを意識してのものという印象も受ける。
この秋桜子らの「連作俳句」というのは、茅舎らの「ホトトギス」では敬遠されていたもので、また、茅舎自身、その「連作俳句」というものをどちらかというと否定的に解してしている記述も目にするが、やはり、当時の、秋桜子らの「連作俳句」に、多かれ少なかれ関心があり、その影響を受けていたということなのであろう。
茅舎の風景(その七)
日光山志
一
雪山を冠りつららの峡は裂け
大谷川たぎち逆立つつららかな
日の渡る天の岫(みね)にもつらら照り
青淵に岩根のつらら沈み垂り
雪山の底に方等般若落つ
雪山の谺金輪際を這ふ
白雲の如くに氷るきりぎしや
巌頭や兎の如き雪一握
二
この冬を黙さず華厳水豊か
わが心氷る華厳を慕ひ来ぬ
絶壁につららは淵の色をなす
紺青のつらら打ち落つ華厳かな
紺青のつららひねもす見れど飽かじ
瑠璃光の瑠璃よりあおきつららかな
このつらら華厳に打たれかく育ち
瀧壺へ雪蹴つてわれ足駄がけ
瀧壺のつらら八寒地獄之図
三
雪深く勝道上人斧ふりしか
雪の堂尊きこれの斧を蔵し
斧冴えて立木を作佛したまへり
斧は冴え立木はこれの観世音
雪の中膏(あぶら)の如き泉かな
雪の中金剛水を汲む乙女
スキーの娘中禅寺湖を眼に堪へ
四
神橋の下寒の水あおかつし
凧一つ上りて今朝の含満ヶ淵
杉並木雪山透きて有難し
雪山の麓のポスト尊くて
日光の娘等の晴着に雪さらさら
眠る山廟の極彩打守り
眠る山陽明門をひらきけり
冬山の廟の極彩不言(ものいわず)
※晩年、多くの俳句作品を改造社の「俳句研究」に寄せた。昭和十四年「俳句研究」第六巻第二号所載 (『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
『川端茅舎(石原八束)』が、「凄愴の気合いをこめた華厳の実相のすさまじい迫力は茅舎一代の作として清浄の位相に高く坐る」と絶賛する「日光山志」と題する五十句のうちの三十二句である。
これらの句は、茅舎の生涯に置いて、既に病床の身でありながら、最も華やいだ、亡くなる二年前の、昭和十四年(一九三九)の、その元旦の、「日光華厳の滝行(即日帰京)」でのものである。
この年、茅舎の第二句集『華厳』(五月刊)が刊行されるが、この「花鳥諷詠真骨頂漢」との、高浜虚子の「序」を有する『華厳』には、これら句のうちの、「ホトトギス」にも投句した、次の二句しか収録はされていない。
○ 大華厳瑠璃光つらら打のべし
○ 絶壁につららは淵の色をなす
茅舎没後、昭和二十一年(一九四六)九月に異母兄の龍子が刊行した『定本川端茅舎句集』(昭和二十一年刊)は、『華厳』と同様、全句が虚子選であるが、ここには、五十句のうちで、三十六句が入集している。
そもそも、虚子は、水原秋桜子らの「連作俳句」というのは否定的立場で、茅舎自身、「自句自解」などで、「連作のことは此処で一寸一口に論じられいが他の人達のことは暫く置いて、自分自身には自然発生的な場合にばかり肯定するやうな態度」(『現代俳句文学全集(四)川端茅舎集』)ということで、これらの作品群についても、「連作作品」とは銘は打ってはいないが、同時の作品で、秋桜子らが意図していた、「一句では表現できない内容を連作として効果を挙げる表現形式」とは別な、「日光山志五十句」として、やはり、「連作的大作」として、ひとまとまりの作品群として鑑賞むされるべきものなのであろう。
『定本川端茅舎句集』では、「『俳句研究』より」として、「日光山志三十六句」として、虚子は再選している(この編集は虚子・龍子の信任の厚い「ホトトギス」の有力俳人・深川正一郎がしており、氏の意向によるものなのかも知れない)。
このような「連作作品」の否定とか肯定とかは別に置いて、一群の大作作品は、やはり、ひとまとまりの一群として、句集などに置いては編纂されるべきものなのであろう。
ここに掲載したものは、『現代俳句文学全集(四)川端茅舎集』からのものであるが、この編纂も、深川正一郎が編集しており、それは「一月から十二月」に区分して、「句・評論・日記・俳諧詩・随筆」と、実に見応えのある、名編纂の書という思いがする。
茅舎の風景(その八)
菜殻火
六月十一日
雨の中菜殻の炎清浄と
筑紫野の菜殻の聖火見に来たり
雨細し草の葉細し花薊(あざみ)
蛍高し筑紫次郎は闇にひそみ
蚕豆(そらまめ)を干して由緒の亭ありぬ
六月十三日
渓流も秋月城趾栗の花
瀧壺に唐紅の蟹走る
巌頭に砥石を置いて瀧小さし
清流や落ちし青梅居静まり
六月十七日
瀬と淵とならびて磧涼しさよ
炎天に青淵風を送りけり
青淵に翡翠(かわせみ)一点かくれなし
淵涼し魚は水輪(みなわ)を抜きて飛ぶ
蝶の影淵に映れり鮎走る
白芙蓉烈日既に美しき
※青淵の上に御田の旱かな
※大旱(おおひでり)天智天皇の「秋の田」も
※炎天に青淵の風ふと立ちぬ
鮎走り藻は黒髪の如く濃く
六月十八日
※鐘楼に上りて菜殻火を見るも
※清浄と夕菜殻火も鐘の音も
※菜殻火の移れる牛の慈眼かな
※菜殻火は観世音寺を焼かざるや(※『白痴』では「菜殻火の襲へる観世音寺かな」)
※夏薊礎石渦巻くおそろしき
都府楼趾菜殻焼く灰降ることよ
夕焼けて嘆き傾く礎石あり
※菜殻焼く火柱負ひぬ牛車
菜殻焼く火柱立ちぬ榎寺
菜殻火や天拝山の松は折れ
菜殻燃ゆ天拝山の麓より
六月十五日
川茸にこれの翠微の皿涼し
川茸に添へし洗ひの命かな
六月二十日
神苑の四方より麦打つこだま
するすると筏あらはれ夕雲雀
ぎんなんの子がこぼれ来る露涼し
燎原の火か筑紫野の菜殻火か
烏蝶けはひは人とことならず
ぎんなんのみどり子落ちて露涼し
森涼し侘しき花の馥郁(ふくいく)と
わびしらの美男かづらの花は散り
日盛りの瀬を吸ふ淵の静かさよ
※アセチレン瓦斯(ガス)の手入れよ月見草
竹筏命涼しく乗せて来し
※鮎の瀬を淵へ筏は出て卍(まんじ)
つゆよりも小さき菊の蕾み初む
一斉に露凝る如く菊蕾む
笹粽ほどきほどきて相別れ
和蘭水仙筑後川辺を恋ひ慕ひ
※※茅舎生涯での一番長い旅であつた筑紫行の作品の凡てを小野房子氏に乞うて載せた。この中には、ホトトギス雑詠、句集「華厳」「俳句研究」等に載せたものも含まれてゐる。昭和十四年六月九日、福岡県朝倉郡杷木町志波、小野氏宅に着、秋月、恵蘇宿、香椎、太宰府、原鶴温泉、福岡を吟行、同月二十日博多を出発して帰京した。(『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
上記の※※印のものは、『定本川端茅舎句集』を編んだ「深川正一郎」のものである。その記述中の、「小野房子」は、茅舎を師と仰いで、昭和七年(一九三二)に、福岡県(現在の朝倉市)から茅舎の青露庵に尋ね、以降、茅舎が亡くなるまで、愛弟子として支えた女流俳人である。昭和十二年(一九三七)には、茅舎の指導で、句誌「鬼打木」を発行し、昭和三十四年(一九五九)に亡くなるまで、その「鬼打木句会」を主宰したという。
この深川正一郎と小野房子は、川端茅舎とは深い関係にあり、茅舎関連の文献資料というのは、この二人を除いては考えられないほどに、大きな存在の方でもある。このお二人について、それぞれの出身地の紹介が、次のアドレスでなされている。
「ふるさと人物史」(朝倉市)花楓日の行く所はなやかに 俳人 小野房子
http://www.city.asakura.lg.jp/magazine/jinbutsu_shi/jinbutsu_shi_20.html
「愛媛の偉人・賢人の紹介」(深川正一郎)
http://www.i-manabi.jp/syogai/jinbutu/html/089.htm
深川正一郎が編んだ、『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』では、上掲の「菜殻火」(句)の他に、「九州雑記」(昭和十四年「俳句研究」第六巻第九号所載)も併載して居り、この両者で、茅舎の、「昭和十四年六月九日、福岡県朝倉郡杷木町志波、小野氏宅に着、秋月、恵蘇宿、香椎、太宰府、原鶴温泉、福岡を吟行、同月二十日博多を出発して帰京した」の、その紀行の全貌は窺い知ることができる。
この、茅舎の「九州行」には、当時の「鬼打木」(小野房子主宰)の連衆が全面的に支えたものであった。これらの句や紀行文について、簡単な補注をして置きたい。
なお、茅舎亡き後、最晩年の虚子に、「曩(さき)に茅舎を失ひ今は朱鳥を得た」との「序」(第一句集『曼珠沙華』)を賜る、九州直方の俳人・野見山朱鳥(「菜殻火」主宰)も、茅舎・房子と関係が深い俳人であるが、朱鳥については、次のアドレスで紹介されている。
西日本シテイ銀行「ふるさと歴史シリーズ『博多に強くなろう』・野見山朱鳥」
http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/069/01.html
○ 菜殻火=当時、「筑紫野の菜殻火」というのは有名であった。現在では、「菜種油」の精製そのものが下火であり、「筑紫野の菜殻火」といわず、全国的にも、この光景は見られなくなった。
○ 筑紫次郎=「板東太郎」が利根川。「筑紫次郎(二郎)」は筑後川。ちなみに「四国三郎」は吉野川。
○ 秋月城址=福岡県朝倉市野鳥にあった城。秋月陣屋ともいう。
○ 大旱天智天皇の「秋の田」も=「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」(百人一首・天智天皇)の「秋の田」を踏まえている。
○ 観世音寺=福岡県太宰府市にある天台宗の寺院。『続日本紀』(しょくにほんぎ)の記述によると、観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したものという。これらのことから、茅舎の「九州行」は亡母追善の意もあったかと推定しているものもある(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。
○ 都府楼址=大宰府政庁跡。かつては「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、九州を治める役所であった大宰府の政庁があった所。
○ 天拝山=福岡県筑紫野市にある標高二五八メートルの山。その名は、大宰府に流刑された菅原道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂し天を拝したという伝記に由来する。
○ 金比羅山=福岡県北九州市戸畑区金比羅町にある丘陵地。現在は中央公園になっている。
○ 恵蘇宿=天智天皇は斉明天皇御殯葬のあと御陵山下に木皮のついた丸木で忌み殿を建て十二日間喪に服されました「恵蘇八幡宮・木の丸殿」がある。「朝倉や木の丸殿に我居れば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」(新古今集・天智天皇)。
○ 香椎=香椎宮(かしいぐう)。福岡県福岡市東区にある神社。旧官幣大社。四柱の御神体である仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神を御祭神とする。今は仲哀・神功の二座をまつる。「香椎」の名は敷地内に香ばしい香りの「棺懸(かんかけ)の椎」が立っていた事に由来するという。
○ 原鶴温泉=福岡県朝倉市(旧国筑前国)にある温泉。
○ 句頭の※印は、茅舎の生前最後の第三句集『白痴』所収の句。『白痴』の冒頭の句は、「大旱(おおひでり)天智天皇の「秋の田」も」の句である。この冒頭の句は、百人一首(天智天皇)の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ」の「本歌取り」の句で、「ホトトギス」流の「客観写生」の句とは異質の世界のものという印象を受けるが、「九州行」の旅中吟の一句と解すると、この句も「客観写生」に基づく一句なのかも知れない。即ち、恵蘇宿には、「恵蘇八幡宮・木の丸殿」があって、「朝倉や木の丸殿に我居れば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ」(新古今集・天智天皇)と一緒に、天智天皇の百人一首の歌も、紹介板か何かで紹介されていて、その紹介されている歌を見ての一句と解せなくもない。
茅舎の風景(その九)
香取鹿島
一
菖蒲葺く庇の上の香取かな
菖蒲手に女車掌はうぶげ濃き
せんだんの咲く道行けば要石(かなめいし)
燕来ぬ伊能忠敬先生に
津の宮の鳥居に梅雨の鷗かな
船窓を掠めて鷭(ばん)のしぶきかな
潮急に植田は鏡より静か
蘆そよぐ夕潮植田すれすれに
水天に閃めく鯔(ぼら)か與田の浦
十薬の花映りつゝ十二橋
蛍火に象牙の如き杭ぜかな
蛍火の鋭き杭ぜ燃やしけり
蛍火に水晶の杭ぎつしりと
蛍火に幻の手を差し出しぬ
明滅のいずれ悲しき蛍かな
痛々しはたが電灯蛍火に
二
桟橋の先にも菖蒲葺き垂れし
踊子がさつき丸への投げテープ
大南風大船津とて上陸す
風薫る鹿島の杉は剣なす
杉美(うま)し鹿島は風のかをる宮
潮風も神寂び乍らかわる宮
夜も光る杉とて立たせ夏の日に
夏の日に立たせ給へる杉かぐはし
御手洗に涼しき昼の月幽か
逆落し来て神泉の傾きぬ
岩清水武甕槌(たけみかずち)を掬(むす)びけん
岩清水壽(いのちながし)と杓を添へ
滴りの何彼と醸(かも)す自ら
牛頭(ごず)没し葛の葉太く裏返り
馬鹿家鴨流れて早苗矢のごとし
飛燕鳴き水車踏み昂りぬ
鯉幟ポプラは雲を呼びにけり
※昭和十二年「俳句研究」第四巻第九号所載 (『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
茅舎の意欲的な大作が発表されている「俳句研究」(改造社)は、昭和九年三月創刊で、これは、これまでの俳壇ジャーナリズムの中心が、「ホトトギス」一辺倒であったのに対して、それを転換する大きな役割を担ったものであった。その背景には、「ホトトギス」の代表的な俳人であった水原秋桜子が、昭和六年に「ホトトギス」を離脱して、そして、その有力俳誌「馬酔木」の勃興なども上げられよう。
当時の、それぞれの俳句結社を問わず、代表的な俳人がこぞって、この「俳句研究」に、実作や評論を発表して、この期の俳壇の隆盛を大きくリードしていったことは特記して良いのであろう。
潁原退蔵の「芭蕉俳句新講」、荻原井泉水の「自由律俳句の道」そして秋桜子の「連作俳句論」などが掲載され、「定型・非定型・有季・無季・」などの超結社的な場で、「ホトトギス」に所属している茅舎は、終始、「草田男、蛇笏、誓子、秋桜子などとともに、ここを舞台に活躍した作家の一人である」(『川端茅舎(石原八束著)』)ということになろう。
掲出の茅舎の「香取鹿島」(三十三句)は、秋桜子の「川端茅舎論」(「俳句研究(昭和十二・十二)」)で、「全体として緊張を欠いたものである」との評を受けることとなる(『川端茅舎(石原八束著)』)。
秋桜子の評の「緊張を欠いている」ということは、秋桜子が進めている「連作俳句」がともすると「安易に作句する傾向になり易い」との警鐘の戒めと軌を一にするものであろう。また、後に、杉田久女らと共に「ホトトギス」を除名される、当時の花形俳人の一人の日野草城からは、「茅舎には匠気といったものがうかがえる」として、「この匠気を去ることが、一段と高い気韻を生動さすゆえんであろう」との評も甘受することとなる(「俳句研究(昭和十三・四)」)。
この草城の「匠気」というのは、なかなか意味深長な指摘なのだが、これを月並み俳句の「(宗)匠気」(江戸俳諧の流れを汲む旧派の月並み発句調・有情滑稽などの巧みな句)と理解すると、茅舎の気韻の高い、いわゆる「茅舎浄土」の世界と、もう一つの、茅舎の「有情滑稽(フモール)」の世界を暗示していて、誠に興味深い指摘なのである。
ともあれ、掲出の「香取鹿島」(三十三句)などは、「日光山誌」や「菜殻火」に比すると、「茅舎不調」時の精彩を欠いたものとの評がなされているが(『川端茅舎(石原八束著)』)、それはどうにも、茅舎の「有情滑稽(フモール)」の世界のものを一顧だにしない評のように思われることをここに記して置きたい。
なお、これらの句について、簡単な補注をして置きたい。
○ 香取=香取神宮。千葉県香取市香取にある神社である。式内社、下総国一宮で、旧社
格は官幣大社。日本全国に約四百社ある香取神社の総本社である。
○ 鹿島=鹿島神宮。茨城県鹿嶋市にある神社。式内社、常陸国一宮で、旧社格は官幣大
社である。日本全国に約六百社ある鹿島神社の総本社である。
○ 伊能忠敬=江戸時代の日本の商人・測量家。伊能忠敬の銅像が香取市・佐原公園にあ
る。
○ 津の宮=香取神宮の一の鳥居がある所。
○ 十二橋=水郷の中心地。加藤洲の水路に家と家を結ぶ一枚板の簡単な十二の橋(現在は十一橋が残っている)。
○ 武甕槌(たけみかずち)=鹿島神宮に祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。
○ 牛頭=牛頭天王(ごずてんのう)。本来はインド祇園精舎の守護神だが、わが国では祇園社(京都市東山区の八坂神社)に祭られ、素戔嗚尊(スサノオノミコト)に同一視されている。鹿島神宮に「悪路王」の面があり、それが「牛頭天王」とされている。
茅舎の風景(その十)
伊豆にて
反射炉を守りて薔薇を剪(き)り呉れし
白薔薇の散りし巌ある早瀬かな
ほととぎす山家も薔薇の垣を結ふ
紅薔薇に棕櫚蓑を脱ぎ捨ててあり
木下闇和歌女の墓にあらざりき
梅雨晴れし天城を指呼の墓訪ひぬ
宝鏡三昧谺して墓涼しけれ
茱萸(ぐみ)も上げ木苺も上げ山の墓
炭窯の卯の花腐し恐ろしき
梅雨雲に炭窯の火ぞ黄なりけり
竹の蝶又渓流にひるがへり
若竹に瀬音ひねもす吸はれけり
浴泉愁情
湯壺青葉光明皇后あれたまへ
湯壺青葉処女の太腹巌に触れ
温泉(ゆ)に沈み一寸法師明易き
夏の日の透き徹る温泉(ゆ)の巌根かな
渓流裸婦
黄鶺鴒(せきれい)瀬を渡り裸婦うしろむき
黄鶺鴒飛ぶ瀬を竹の皮走り
髪洗ふ裸婦に翠微の嵐めき
髪洗ふ裸婦に蝶々巌隠れ
青胡桃翳(かげ)せる巌に臥して裸婦
※昭和十三年「俳句研究」第五巻第八号所載 (『現代俳句文学全集四・川端茅舎集』)
昭和九年(一九三四)三月に創刊した「俳句研究」は、その九月に日野草城の「ミヤコホテル」連作を発表した。草城は大正十年(一九二一)に二十歳の若さで「ホトトギス」の巻頭を占め、同十三年(一九二四)に「ホトトギス」同人となっている、当時の花形俳人でもあった。
○ けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
○ 夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻(め)と居りぬ
○ 枕辺の春の灯(ともし)は妻(め)が消しぬ
○ をみなとはかかるものかも春の闇
○ バラ匂ふはじめての夜のしらみつつ
○ 妻(め)の額(ぬか)に春の曙はやかりき
○ うららかな朝のトーストはづかしく
○ 湯あがりの素顔したしく春の昼
○ 永き日や相触れし手は触れしまま
○ 失ひしものを憶(おも)へり花ぐもり
詩人室生犀星が「読売新聞」の文芸時評で、この連作を激賞し、俳壇内外から大きな波紋を投げかけ、肯定・否定の、いわゆる、「ミヤコホテル論争」が活発に展開された。
「ホトトギス」という同じ土俵で、草城と共に、「ホトトギス」の一時代を築いた、水原秋桜子は、「『ミヤコホテル』は傑作ではない。却って草城氏の欠点を暴露した悪作であると僕は信じている。草城氏の才気を僕は人一倍認めているつもりであるが、その才気がかう上滑りをしてはやりきれない」と批判し、また、当時の、「ホトトギス」の陣営で、中村草田男は、「ミヤコホテルとは、厚顔無恥なしかも片々として憫笑にも価しない代物に過ぎない。何と言う救うべからざるシャボン玉のような、はかなくもあわれなおっちょこちょいの姿であろう」と激しく非難し、草城もまた、草田男に対して、「瞋(いか)れるドンキホーテ」と題して反駁する。
この草城の「ミヤコホテル論争」は、「俳句は老人文学」という印象を払拭させ、封建的な俳句の壁を突き破るというセンセーショナルなできごとで、その後の俳壇の動向に大きな影響を与えたということでは特記して置く必要がある。
掲出の、茅舎の、「浴泉愁情」(四句)や「渓流裸婦」(五句)は、茅舎の数少ない、エロチシズム的な風俗的俳句として、これは、やはり、当時の、草城の「ミヤコホテル論争」などの影響下のものと理解すべきなのであろう。
「伊豆にて」(十二句)は、伊豆修善寺の、茅舎の異母兄・龍子が建立した川端家(系)の墓に行っての作であろう。この伊豆修善寺は、病弱の茅舎を献身的に支えたた、龍子の夏子夫人が殊に愛した土地とかで、夏子夫人の他界の後に、龍子はここに別荘を建て、ここは、川端家にとっては、第二の故郷とも言える所なのであろう。
これらの作は、茅舎が亡くなる三年前の作で、昭和十六年(一九四一)七月十七日に没した後、龍子は、茅舎をここに埋葬する。その墓域の一角に、「ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな」の茅舎の句碑がある。
(伊豆修善寺・茅舎の墓と句碑)
http://www.geocities.jp/seppa06/0406rohan/izu3.htm
茅舎の風景(その十一)
父の七年
寒月の岩は海より青かりき
寒凪の夜の濤一つ轟きぬ
大入道ありあり寒し指呼の漁火
漁火を見る我に蒲団の早敷かれ
お地蔵は笑み寒月の父の墓
明日は花立てますよ寒月の父よ
お天守が覗く朧の父の墓
昨日今日早朧にて父の墓
紀三井寺漁火の上なる春灯
蕩々と旅の朝寝や和歌の浦
十五夜の寒月沈む茶山かな
七周忌冬鳶の輪の浦曲かな
玉津島袴忘れし東風の禰宜
塩竃に春曙のお蝋かな
山は春枯蒼朮(そうじゅつ)の一面に
紅梅も大石楠花も瀧の前
(二月一日~二月四日)
※昭和十四年「俳句研究」第六巻第四号所載。『現代俳句文学全集四川端茅舎集』
昭和十四年(一九三九)、茅舎、四十三歳の年は、元旦に、「日光華厳の滝行」を決行して、二月号の「俳句研究」に大作「日光山志」(五十句)を発表するなど、その年明けから矢継ぎ早に活動した年でもあった。
その二月一日から四日にかけて、父の七回忌で、嫂の龍子の夏子夫人と一緒に和歌山に赴く。掲出のものは、その時のもので、これらの作品は、四月号の「俳句研究」に掲載される。「俳句研究」だけではなく、一月号「玉藻」に随筆「兎」を、三月「誹諧」(第三号)に俳諧詩「蕗の薹」などを発表するなど、この年は、茅舎の最も充実した年でもあった。
五月に、第二句集『華厳』を刊行して、虚子の「序」の「花鳥諷詠真骨頂漢」を賜り、秋桜子が去った後の「ホトトギス」の花形俳人として嘱望されることとなる。その六月は、茅舎にとって、一番長旅の「九州行」が、六月九日から二十日にかけて決行される。この時の作品は、十月号の「俳句研究」(八句)に発表され、未発表の句とあわせ、約五十句が、茅舎の門人の小野房子の手許に遺されている(次のアドレスの記述のとおり)。
http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/62103878.html
なお、この時の紀行文「九州雑記」は、九月号「俳句研究」に掲載され、また、十二月号の「ホトトギス」には、茅舎の俳論として知られている「狐に穴あり」を発表している。
この「狐に穴あり」は、十月号「若葉」に掲載された松沢椿山の「花鳥諷詠の悪玉・川端茅舎と生活諷詠(?)の善玉・中村草田男」などと名指しし、茅舎を「風流イデオロギー」と決めつけたことに対する反駁文で、「こうした公式論で評論されてはたまったものではない」と、茅舎にとっては珍しく「歯に衣着せぬ」ところの「花鳥諷詠」擁護論という趣のものである(『現代俳句文学全集四川端茅舎集』)。
さて、掲出の「父の七回忌」に関連して、茅舎の父は、俳号を寿山堂といい、茅舎に俳句への門戸を開いたのは、この父の寿山堂であった。茅舎の俳句の初出は、大正四年(一九一五)、十八歳の頃で、「ホトトギス」や「藻の花」などであり、久保田万太郎にも繋がる、大場白水郎の句会などにも父と共に出席している。
この頃の茅舎の俳句を父・寿山堂の影響として、「江戸派俳諧の低徊趣味」として決めつけているものも見かけるが(『川端茅舎(石原八束著)』)、それは、趣味的・遊戯的な、いわゆる「月並俳句」ということで、別な見方をすれば、「月並俳句」が本来的に有するところの、「洒落・風流・穿ち」などの世界のものということで、そういう俳句の本来的な骨法を、茅舎は、そのスタートの時点から有していたということも意味しよう。
茅舎は、しばしば、「露の茅舎」とか「比喩・オノマトペの茅舎」とかの代名詞を冠せられることがあるが、茅舎の俳句の世界は、大雑把に、次のように分けられるのかも知れない(掲出の句も敢えて、この二分類で区分けして見る)。
一 緊張感のある「重み」の世界 →(一)「露の茅舎」的世界・「茅舎浄土」の世界
(二)「花鳥諷詠真骨頂漢」的世界
○ 寒月の岩は海より青かりき
○ 寒凪の夜の濤一つ轟きぬ
○ 紀三井寺漁火の上なる春灯
○ 山は春枯蒼朮(そうじゅつ)の一面に
二 即興・安易的な「軽み」の世界→(一)「比喩・オノマトペの茅舎」的世界(口調
のものを含む) (二)「有情滑稽(フモール))」・「月並俳句」 的世界
○ 大入道ありあり寒し指呼の漁火
○ 漁火を見る我に蒲団の早敷かれ
○ お地蔵は笑み寒月の父の墓
○ 明日は花立てますよ寒月の父よ
○ お天守が覗く朧の父の墓
○ 昨日今日早朧にて父の墓
○ 蕩々と旅の朝寝や和歌の浦
○ 玉津島袴忘れし東風の禰宜
○ 塩竃に春曙のお蝋かな
○ 紅梅も大石楠花も瀧の前
こうして見てくると、茅舎は、「露の茅舎」などと、ともすると、「茅舎浄土」の世界などの世界がクローズアップされて喧伝されがちであるが、その作品の多くは、極めて、江戸俳諧の「月並俳句」的な、「有情滑稽(フモール)」の世界のものが多く、そして、こちらは、「匠気」(日野草城の指摘)というものが見え隠れしているなどと、大変に評判がよろしくないのである。
しかし、丁度、芭蕉の「不易流行」の、「不易」(千歳不易・重くれ)の句は、「不易」(千歳不易・重くれ)の句として、そして、「流行」(一時流行・軽み)の句は、「流行」(一時流行軽み)の句として、鑑賞されるべきものであって、これを、「不易」(千歳不易・重くれ)の観点で、「流行」(一時流行・軽み)の句を鑑賞して、例えば、第三句集『白痴』(「流行」(一時流行・軽み)的句が多い)について、「『川端茅舎句集』や『華厳』の素晴らしさに対して、『白痴』は余りにも駄句が多く、杜撰である」(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)などの評は、どうにも、素直に肯定できないのである。
むしろ、茅舎の、その満身創傷的な宿痾の境遇を考えると、この安らぎにも似た、「流行」(一時流行・軽み)の言語遊戯的な空間は、俳諧・俳句が本来的に有している「有情滑稽(フモール)」のものなのだと、何の衒いもなく、これを受容することこそ、最も肝要のことのように思えるのである。
茅舎の風景(その十二)
草餅供養
二月二十三日
母の忌の御空に春の雲動き
※母の忌の御空の春の雲仰ぎ
普門品よみをれば咳いでざりき
※春の雲眺めひねもす玻璃戸中
三月一日
※草餅や御母マリヤ観世音
※たらちねのつまめばゆがむ草の餅
※今年はやこの草餅をむざとたべ
三月十二日
※草餅のやはらかしとて涙ぐみ
草餅のすこし届きし志(こころざし)
三月十三日
※※鶯の機先高音す今朝高音す
※※ひんがしに鶯機先高音して
三月十五日
春月の輪を袈裟掛けや梵字松
春月の光輪負ひぬ梵字松
梵字松春月覗く葉越かな
三月二十二日
春燈下焼林檎ありふと不安
焼林檎余りに美味(びみ)で春の夜で
春の夜の了事なし了了事なし
三月二十九日
※※抱風子鶯団子買得たり
※※買得たり鶯団子一人前
※※一人前鶯団子唯三つぶ
※※唯三つぶ鶯団子箱の隅
※※しんねりと鶯団子三つぶかな
※※むつつりと鶯団子三つぶかな
※※皆(かい)懺悔鶯団子たひらげて
※※※昭和十六年「俳句研究」第八巻第六号所載。『現代俳句文学全集四川端茅舎集』
茅舎の母・ゆきが亡くなったのは、昭和三年(一九二八)二月で、その四月に、父・寿山堂と一緒に、異母兄の龍子が建ててくれた青露庵(大田区桐里町)に移住する。その父が亡くなったのは、昭和八年(一九三三)八月、茅舎、三十六歳の時であった。その翌年(昭和九年)が母の七回忌で、父の七回忌は、昭和十四年(一九三九)の二月、この二月に、和歌山の両親の墓参に、異母兄の龍子の夏子夫人と共に赴く。
茅舎が、第一句集『川端茅舎句集』を刊行したのは、昭和九年(一九三四)で、その末尾の章は、「初盆」(四句)となっており、茅舎の句は三句、そして、最末尾の一句が、父・寿山堂の、「鶯やいろはしるべの奥の院」である。このことは、茅舎の第一句集『川端茅舎句集』は、亡き父に捧げたものと解せなくもない。
そして、その第二句集『華厳』は、昭和十四年(一九三九)に刊行され、こちらの最末尾の句は、「春の土に落とせしせんべ母は食べ」で、第一句集『川端茅舎句集』のそれと比して見ると、こちらは、亡き母に捧げたものという雰囲気でなくもない。
茅舎の異母兄・龍子の母は、茅舎の父に見捨てられたような環境で、龍子が逆境に育ったのに比して、茅舎は龍子の母を見捨てたも同然の、その両親の庇護下で、いわば、その両親の愛情を一身に受けて育った。そして、結果的には、茅舎も茅舎の父も、その逆境に追いやった、その龍子の庇護下で、その生涯を終わるという、何とも皮肉な顛末に至るのだが、それはそれとして、茅舎の両親への思いというのは、色々な有為曲折はあるが、終始、誠に情愛の深いものがあった。
掲出の「草餅供養」の、これらの句からも、亡き母への、茅舎の追慕の念がひしひしと伝わってくる。これらの句のうち、※印の付してある句は、茅舎亡き後刊行された、『定本川端茅舎句集』に収録されているもので、茅舎が生前に、「ホトトギス」や「俳句研究」などに発表していた句である。また、※※印の句は、茅舎の亡くなる年に刊行された、第三句集『白痴』に収録されているものである。
これらの句は、句日記のように、期日を付して、このような形で発表したのは、※※※印のように、茅舎が亡くなる昭和十六年(一九四一)の六月号「俳句研究」で、これを見届けて、そして、第三句集『白痴』の刊行を俟って(「奥付」は六月で亡くなる三日前に茅舎の手許に届いた)、七月十七日に、茅舎は永眠する。
掲出の、三月二十九日の七句については、『白痴』では、「抱風子鶯団子」と題して、「三月廿九日午後三時抱風子鶯団子持参先週以来連続して夢枕に現はれたるそのもの目前へ持参」との前書きが付せられている。この「抱風子」とは、茅舎の愛弟子で、この『白痴』を茅舎と一緒になって編集した方である。また、この「鶯団子」は、上野公園の「鶯亭」の鶯団子で、当時は、物質が欠乏していて、一人一人前(三つぶ)しか売らなかったという(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)。
そして、これらの七句のうち、前の四句は、「尻取り」の要領で、「買得たり→一人前→唯三つぶ」と、言葉遊戯のものである。続く、二句も、「しんねりと」と「むつつりと」との「対句」の要領での、これまた、言葉遊戯のものなのである。
これらの『白痴』所収の句から、『白痴』という句集は、大変に評判が悪く、その第二句集『華厳』で、「花鳥諷詠真骨頂漢」の「序」を草した虚子すら、「あれは(注・『白痴』)茅舎のために採らない。刊行されなかつた方がよかつたのではないか」と言われたという(『現代俳句文学全集(二)松本たかし集』)。
事実、茅舎自身、その「後記」で、「今度の句集(注・『白痴』)は、最近一・二年間のホトトギス以外の新聞・雑誌に発表した句を集めてある。自分が句集を編む時にはホトトギス雑詠以外の句を省略する心算だけれども抱風子(注・鈴木抱風子)君にはそれ以外の句がスキだらけで親しいといつて呉れるのである。真実さういう気持も嬉しくなり今度の句集はあつさり抱風子君に任せることが出来た。さうして『抱風子君の句集』の発行を待つばかりゆゑ本当に楽しく感ぜられる」と記して、『白痴』は、「抱風子君の句集」(抱風子が好みの「非ホトトギス」風の「スキだらけで親しい」句を収録した句集)で、これまでの句集とは異なるということを明言しているのである。
しかし、この「後記」に続いて、「もう一度後記」で、「もちろん知音同志が最後の二章から句集の意味を発見せられる事に相違ない。だがもう一度誰哉行燈(たそやアンドウ)を許して欲しい」(この「最後の二章」というのは、掲出の「三月十三日」(二句)と「三月二十九日」(七句)を指し、「誰哉行燈を許して欲しい」というのは、「事実は、抱風子が編集したのではなく、茅舎自身が編集した」ということを暗示している)と記して、「鶯の機先は自分に珍しい程の歓喜を露はに示してゐる。抱風子の鶯団子は病床生活の自分に大きい時代の認識を深める窓の役目を果して呉れた」との、遺言のように謎めいたことを結びの言葉としているのである。
この遺言のような謎めいたことに関して、聖書の関連で、「鶯の機先・大きい時代の認識」ということについて、「最後の審判の日が近づいている」と解し、「神の復活と再生」とのニュアンスに近いものとして解しているものもあるが「(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)、これは、茅舎が生涯に亘って探求し続けた「華厳教」の「懺悔解(ざんげげ)」の、「一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」に関するものと理解をいたしたい。
茅舎は、昭和十一年五月号の「あをぎり」に、「三毒雑記」という評論を発表し、そこで、「新しい詩を探ねて僕はチルチルのやうに青い鳥を求め乍ら遍歴した。さうしてやうよく新しい詩も青い鳥も矢張自分の脚下にあつたことを発見したのだつた」と記して、「全く真実の態度のみによつて何事の在しますかは知らぬ魂の故郷に作者は直参する」と述べている(『現代俳句文学全集四川端茅舎集』)。
この「三毒」は、「貪(とん)瞋(じん)癡(ち)」のことで、この三毒もまた、「華厳教」の「懺悔解」に由来があるものなのである。
http://anjyuji.net/zangemon.html
懺悔偈(さんげげ)
偈文(げもん)
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かうゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいそしょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
(偈文訳)
我れ昔(むかし)より造る所のもろもろの悪業(あくごう)は
皆無始(むし)の貪瞋癡(とんじんち)に由(よ)る、
身語意(しんごい)より生ずる所なり、
一切我今(いっさいわれいま)、みな懺悔(さんげ)したてまつる
(現代語訳)
私が昔から作ってきた色々な悪い業は、
遠い過去から積み上げてきた、貪瞋癡すなわち三毒によるものです。
それは、体で行った・話した・思ったという三業から生まれたのです。
私は今、それら全てを懺悔します
掲出の「草餅供養」の最末尾の、「皆(かい)懺悔鶯団子たひらげて」の句の背景には、この「懺悔解」の「懺悔」が潜んでいて、この「懺悔」は、「懺悔によって罪業が消滅するのでなく、唯一心に懺悔礼拝しそれによって湧き起る純粋無垢な無我の心を得ることが大切である」と、この「純粋無垢の無我の心」こそ、「詩・俳句」の原点なのだということを、茅舎は暗示しているように思えるのである。
茅舎の俳論の「三毒雑記」には、次の茅舎の句が、その「純粋無垢の無我の心」の例示として掲げられている。
○ 立春の雪白無垢の藁屋かな
この「純粋無垢の無我の心」というのは、芭蕉の「俳諧は三尺の童にさせよ」(三冊子)と同じ世界のものであろうし、そして、茅舎の『白痴』の「白痴茅舎」の、その「白痴」に通ずるもののように思われるのである。
茅舎の風景(その十三)
多摩
蛍火に多摩の横山眉引ける
蛍火に真菰は髪の濃ゆさかな
多摩の月妙(たえ)にも蛍火を点じ
月清み蛍火は濃き水に離々
月光に蛍雫のごとくなり
月澄みていよいよ清き蛍かな
月涼し多摩は水滴一沫に
雷奔(はし)り椎大樹蝉蕭然と
白桔梗稲妻の尾のみだれざる
煌々と青雷ふるふ芒かな
※昭和十三年「俳句研究」第五巻第十号所載。『現代俳句文学全集四川端茅舎集』
昭和十三年(一九三八)の「俳句研究」には、五月号に「俳壇近代鑑賞」、八月号に「伊豆にて二十一句」、九月号に「俳人の手帳」を発表し、掲出の「多摩(十句)」は、十月号に掲載されている。
多摩の横山というのは、万葉集の「赤駒を山野(やまの)に放し捕りかにて多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ」(二十巻―四四一七)と、古来からの歌枕の地である。
場所的には、武蔵国の国府のあった府中から観て「多摩郡(多麻郡・多磨郡)にある横<当時、東西を『横』、南北を『縦』と呼んでいた>に長い山」の意で、中世に興った武蔵七党の一つである「横山党」、江戸時代の八王子横山宿、旧南多摩郡横山村、武蔵横山駅などの名称の由来ともなっている。
水原秋桜子の第三句集『秋苑』(昭和十年刊)にも、「多摩の横山」として、次の句が収載されている。
○ 鮎釣が家路をいそぐと越ゆる山
○ 壺にして深山の朴の花ひらく
○ 萬尺の夏山にむかひ径つづけり
茅舎は、「あおぎり」句会の吟行で、しばしば、秋桜子が吟行している土地に出掛けている。茅舎の掲出の句も、秋桜子の連作と吟行の句などが背景にある雰囲気のものである。
一句目の「蛍火に多摩の横山眉引ける」の「眉引ける」は、「多摩の横山」が眉を引いたような山から、別称「眉引き山」とも言われ、そのことを踏まえてのものであろう。
それに続く、二句目の「真菰は髪の濃ゆさかな」、九句目の「稲妻の尾のみだれざる」、そして、十句目の「青雷ふるふ芒かな」と、これらの擬人化的な用例は、茅舎がしばしば用いるものの一つの特徴であろう。こういう用例は、茅舎の先輩格の秋桜子などには見られず、こういう用例などをして、「匠気」(日野草城)の句風などと指摘される所以になっているのであろう。
一句目から七句目などの蛍火などの句から、多摩丘陵地を流れる多摩川の景であろう。多摩川もまた、「多摩川に曝す調布(てづくり)さらさらに何そこの児のここだ愛しき」(『万葉集』十四巻―三三七三)と歌枕の地である。秋桜子などは、しばしば、万葉調といわれる用語や調べを駆使したが、掲出の三句目の「妙(たえ)にも蛍火を点じ」の「妙(たえ)」
(不思議なまでに優れていること)などは、万葉用語であろうか。
なお、これらの句が掲載された「俳句研究」十月号の前の九月号に掲載されている「俳人の手帳」などを見ると、「龍子とその家族(茅舎の甥にあたる清・崇)」・「龍子の制作中のこと」・「中村草田男・山口誓子・新興俳句のことなど」・「燈火管制・蒲田羽田のことなど」・「キブスベット」・「火野葦平の『麦と兵隊』」などの記述が見られ、当時の茅舎を知る上で興味が尽きないものがある。
また、茅舎の秋桜子とのやりとりについては、「俳句叢談」(昭和十四年「俳句研究」第四巻第九号)、素十のことについては、「素十先生」(昭和七年「玉藻」二月号)などでの茅舎の記述がある。
茅舎の風景(その十四)
七月甘露
七月一日
でで蟲ら鋪道横ぎり牛乳来る
花馬鈴薯鼠のごとく雀ゐて
靄の視界電柱二本青トマト
茄子もぐけはひは靄の不可視界
七月四日
露の中露りんりんと日に光り
露涼し太陽の面まだ平ら
夏の日にしろくなりゆくわが面皮
七月五日
月見草旦(あした)の露のみどりなる
黄の上に緑の露や月見草
七月七日
夜もすがら汗の十字架背に描き
三時打つ烏羽玉の汗りんりんと
汗の身の露の身の程冷えにけり
七月十一日
起き出でて露芭蕉葉に額をつけぬ
露の掌に血の美しや蚊は空し
露の蚊の声を憎まずして殺す
七月十三日
迎へ火や蜩近き雲割れて
影法師孤(ひとり)の門火焚きにけり
合歓は散り門火は細き炎かな
門火消えひとりのかげも消えにける
七月十六日
大露の露の響ける中に立つ
七月二十日
芭蕉葉の露集りぬ青蛙
七月二十三日
青蛙はためく芭蕉ふみわけて
百合の香の月光の森コロの森
夏の夜の梟に吠ゆ犬弊私的里(ヒステリ)
七月三十一日
蠅を打つ神より弱き爾(なんじ)かな
兜蟲み空を兜捧げ飛び
※句集『白痴』より。『現代俳句文学全集四川端茅舎集』
「七月甘露」の「甘露」は、季語では、「氷水・氷密・みぞれ・すい(甘露水の略)」など、「氷水」の別称である。そもそもは、印度神話に出てくる「不死の霊薬」に由来があり、「苦悩を癒し、長寿を得、ときには、死者をも蘇らせる最高の滋味」とされている。
掲出の「七月甘露」と題する句の中には、夏の季語の「氷水」の別称の「甘露水」の句は一句もない。むしろ、秋の季語の「露」の句が多く、その「露」を「甘露」と見なしているような雰囲気でなくもない。
これらの句のうちで、圧巻は、七月七日(三句)のものであろう。この七月七日の句は、『白痴』では、次の五句が収載されているが、その五句のうちの三句を、『現代俳句文学全集四川端茅舎集』(深川正一郎編)では抜粋したのであろう。
○ 汗たぎちながれ絶対安静に
○ 夜もすがら汗の十字架背に描き
○ 三時打つ烏羽玉の汗りんりんと
○ 汗微塵身は冷静の憤(いきどおり)
○ 汗の身の露の身の程冷えにけり
この二句目について、「長病みの床擦れ、しかも彼は脊髄カリエス患者だ。激しく痛む背中に、深夜の寝汗が縦横に流れる。その描き出す十字が、そのまま十字架の苦患だ。苦悩そのままに吐き出したような作品」(『現代俳句(山本健吉著)』)との鑑賞がある。
「苦悩をそのままに吐き出したような作品」、茅舎の数多い病床の句の中で、これほどの、茅舎の生の吐露の句というのは、全く珍しいと言って良かろう。ここは、掲出の三句ではなく、『白痴』所収の五句で、そして、これは、さながら一連の作品のように、連作として鑑賞されるべきものなのではなかろうか。
上記の五句の、主題ともいうべき「汗」は、いわゆる、季語の、「汗ばむ・汗みどろ」とかの夏の季語とは別世界のものであろう。病苦で「熱にうなされている」という、そういう極限状態を示すようなものと理解したい。
一句目の「たぎち」とは、「湯気がたぎる」という用例のそれである。二句目の「夜もすがら」とは、「一晩中」。三句目の「烏羽玉(うばたま)」は「射干玉(ぬばたま・むばたま)」と同義で「闇」などにかかる枕詞。四句目の「汗微塵」の「微塵」は、仏教用語で「非常に微細のもの」の用例。五句目の「露の身」とは「露の命のようにはかない身の上」というのが本来の用例。このように見てくると、これらの句を作句している茅舎の姿がありありと浮かんで来る。まさに、四句目の「憤(いきどおり)」の、茅舎の絶叫ともいえるものであろう。
こういう句について、「言葉が生である」とか「説明的」とか、あまつさえ、「力余って足を出した駄作」(『川端茅舎(石原八束著)』)とかと評する世界のものではなかろう。茅舎にとって、「句を作ることは生きることなのである」。「生きている、その一瞬、一瞬の、その吐露のような句」、「それらの句について、一句、一句を、佳句とか駄句とかと論じるのは、どうにも無鉄砲という誹りを免れない」という思いがするのである。
と同時に、掲出の句日記のように、期日を入れての、その一連の句を見て行くと、「一句では現し得ない主題」、あるいは、「一句では現し得ない時間の経過」などが、明瞭に伝わって来て、水原秋桜子などが唱え、実践した、「連作俳句」というものを、もう一度、再評価すべきなのではなかろうか、という思いに駆られるのである。
茅舎の第一句集『川端茅舎句集』というのは、「四季別」・「季題(季語)別」の編纂で、その第二句集『華厳』は、作句年次の「編年別」のスタイルであった。そして、掲出の「七月甘露」などが掲載されている、第三句集『白痴』は、「編年別」と「四季別」とを折衷して、さらに、「群作」(同一主題での多作。一つの表題の下での作品群)、「連作」(一句では現し得ない主題を多作でするもの。ある主題の下に期日を入れての一群の「群作」・「連作」的なもの)などを織り交ぜてのものである。
さらに、その巻頭の一句は、「大旱(おおひでり)天智天皇の『秋の田』も」と、天智天皇作の「百人一首」の本歌取りの句とか、巻末の章の、「抱風子鶯団子買得たり→買得たり鶯団子一人前→一人前鶯団子唯三つぶ→唯三つぶ鶯団子箱の隅」など、「尻取り」要領の言葉遊戯の作句とかで、これらのことも相俟って、従来の「俳句観」、従来の「句集観」などからすると、どうにも、茅舎の、この『白痴』に託した、刊行意図などが理解されずに、「あれは(注・『白痴』)茅舎のために採らない。刊行されなかつた方がよかつたのではないか」と、茅舎の師の高浜虚子の言(『現代俳句文学全集(二)松本たかし集』)などが、一般的な評価のようなのである。
翻って、茅舎は、その第一句集『川端茅舎句集』で、「露の茅舎」と、前人未踏の「露」の世界を現出させた。そして、その第二句集の『華厳』で、「花鳥諷詠真骨頂漢」(虚子の「序」)と、当時の俳壇の一つの頂上を極めた。それに続く、その第三句集の『白痴』は、「茅舎の病気はそれだけ重く、本当に白痴に近い状態になっていたのだろう」(『川端茅舎(嶋田麻紀・松浦敬親編著)』)と仮説を立てられるほどに、悪評紛々たるもので、その悪評紛々たるものを遺して、それを亡くなる三日前に手にして、そのまま、茅舎は永眠したのである。
しかし、この茅舎の遺言の集ともいえる、この第三句集『白痴』は、その「もう一度後記」の「誰哉行燈(たそやアンドウ)」の行灯のように、「茅舎その人」の全貌を浮き彫りにして呉れる。
そして、その全貌とは、芭蕉遺録の、「きのふの我に飽くべし」(『俳諧無門関』)、そして、「胸中一物なきを貴しとし、無能無知を至れりとす」(「移芭蕉詞)ということなのではなかろうか。
(追記)掲出の句の中の、「百合の香の月光の森コロの森」は、画業を目ざして、最後の最後まで、茅舎の脳裏を駆け巡っていたものなのであろう。
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茅舎の風景(その十五)
露蟲饗宴
八月八日
白露やうしろむきなる月見草
今朝秋の露なき芭蕉憂しと見し
入歯にもけさ秋水のしみわたり
八月十四日
露の葛風一面に丘を越え
あな白し露葛の葉のうらがへり
八月十六日
かたつむり露の葛の葉食ひ穿ち
八月十七日
白芙蓉暁けの明星らんらんと
八重葎白露綿のごときかな
白鷺の十羽渡れる暁月夜
白鷺の渡れる月の空は暁け
八月二十一日
心頭の蝉みんみんといさぎよし
八月二十五日
夜な夜なの招きに蟲の饗宴に
八月二十三日
月の面のきずかくれなし露の空
まつ蒼に朴立てりけり露の空
一と筋に露の空ゆく鐘の声
九月一日
曼珠沙華今朝出頭す二寸かな
九月三日
三日はや一尺五寸曼珠沙華
みんみんや鼻のつまりし涙声
また微熱つくつく法師もう黙れ
滅茶苦茶におしいつくつく法師かな
昏昏として長昼寝秋風裡
秋風やさゝらの棕櫚の蠅叩
九月四日
何ゆゑにひらく扇ぞ秋風裡
珍重の扇開くや秋風裡
九月十二日
野分して芭蕉は窓を平手打ち
九月十五日
眼を射しは遠くの露の玉一つ
九月十七日
友が呼ぶ殺到し来る秋風裡
秋風裡我が小さき荷友が持ち
秋風に石垣高し素十庵
秋風や城のごとくに素十庵
露時雨物見の松となづけられ
秋風や稚子大声に待つ門に
好きといふ露のトマトをもてなされ
茄子汁の香に久闊の何も彼も
大根蒔き蕎麦蒔く法医学教授
蕎麦の花医科大学の庭にして
九月十八日
師ゐますごとき秋風砂丘ゆく
秋風に我が肺は篳篥(ひちりき)の如く
秋風に砂丘に杖を突刺し立つ
秋風にわれは制多迦(セイタカ)童子かな
※句集『白痴』より。『現代俳句文学全集四川端茅舎集』
茅舎の第三句集『白痴』というのは、書名の『白痴』も不可思議だが、その内容も、また、編纂スタイルも不可思議な点が多々ある。掲出の「露虫饗宴」は、昭和十五年の部の中の一つなのだが、その前章の「七月甘露」から、句日記風に期日(八月八日~九月十八日)が付せられている。
『現代俳句文学全集四川端茅舎集(深川正一郎編)』の「年譜」では、「昭和十五年九月十六日 出発、新潟へ、病躯を新潟医大に受診したいためであつた。中田みづほ、高野素十が迎えた。十九日帰京した」とある。
この茅舎の新潟行については、素十の茅舎の思い出の記などもあり、かなり知られているのだが、『茅舎に学んだ人々(鈴木抱風子編著)』の中に、この新潟行の前後一週間の茅舎日記も紹介されており、この時の茅舎の動向などは詳細に知ることができる(なお、『現代俳句文学全集四川端茅舎集(深川正一郎編)』に記されている「茅舎日記」の原本は抱風子が持っているとの記述もある)。
また、抱風子は、そこで、「このたびの新潟行の真の目的は、病躯を新潟医大の諸先生(皆ホトトギス派の錚々たる俳人達)に検診して貰って、自分の余命を知ることであった。それゆえ兄龍子画伯には内緒の新潟行であった」と記している。
それに続けて、「先生(注・茅舎)は平素、医者は方便として嘘も許されるが、俳人は如何なる場合でも、嘘は言わないと信じていた。ホトトギス雑詠の巻頭を争う俳人先生達だから、俳人として諸先生に賭けたものと思う。その結果は、週末の日記に『風邪心地で終日臥床』が二日も続いたように、先生には、悲しい諦観が残った」と誠に興味の惹かれる一節を遺している。
掲出の句の中で、九月十七日(十句)のものは、「友・法医学教授」等、全て素十などに関するものであろう。それに続く、九月十八日(四句)のうちで、一句目の「師ゐますごとき秋風砂丘ゆく」の「師」は、茅舎の絵画の師であった、亡き岸田劉生を偲んでのものであろう。茅舎は、最後の最後まで、洋画家になる夢を持ち続けた。
茅舎は亡くなる少し前に、「朴の花猶青雲の志(こころざし)」という句を遺している。この茅舎の句について、素十は、「猶といふ字がまことに淋しい」と記している。また、素十の奥様が、「もう一度絵が描きたい」と茅舎が絵葉書の中で吐露していることを、書き留めている。しかし、茅舎のその夢は潰えたのである。
四句目の、「秋風にわれは制多迦(セイタカ)童子かな」の、「制多迦(セイタカ)童子」とは、「不動明王の脇侍(きょうじ)で矜羯羅(コンガラ)童子と対になる。不動八大童子のひとり。性悪をあらわすものとされ,像はおこった紅蓮(ぐれん)の顔につくられる」と言う。
茅舎は、新潟の日本海の砂丘の上で、その秋風の中に、「我が肺は篳篥(ひちりき)の如く」と苦しみながら、「猶青雲の志」を持って、「紅蓮(ぐれん)の怒りの顔の制多迦(セイタカ)童子」の風姿で対峙したのであろう。
茅舎は、この新潟行を最後に、もう二度と遠出をすることはなく、青露庵で、最後の時を迎えることとなる。
茅舎の風景(その十六)
月光採集
九月二十六日
月は表に月光は机下に来ぬ
よよよよと月の光は机下に来ぬ
月光は燈下の手くらがりに来し
手くらがり青きは月の光ゆゑ
九月二十七日
身をほそめとぶ帰燕あり月の空
十月三十一日
夕空の土星に秋刀魚焼く匂ひ
十一月三日
うすきうすき有明月に鵙高音
東天の紅消え行きて鵙曇り
十一月十日
金環のほそくて月のつゆけくて
ほそほそと月の慈眼のありあけて
白露や月の金環かく細り
月の輪の金色澄める露時雨
十一月十五日
青芭蕉露盛上げて捧ぐ而已(のみ)
十一月二十日
懐手して躓(つまず)き老あはれ
純粋に木の葉ふる音空は瑠璃
朴落葉して洞然と御空かな
十一月二十五日
冬瓜を矢鱈に重ね小屋は破れ
冬瓜の面目もなく重ねられ
月読のひかりのどけき大根かな
練馬野の月大胆に真つ白に
月の空澄みて大根の葉には靄
畑大根皆肩出して月浴びぬ
満月に金炎え立ちし銀杏かな
南蔵院月の円相杉隠れ
※句集『白痴』より。『現代俳句文学全集四川端茅舎集』
茅舎の第三句集『白痴』は昭和十四年から始まる。掲出の「月光採取」と題する句(二十四句)は、句日記のように期日が付せられている。これらを見て行くと、茅舎の、この年の九月から十一月にかけての動向の一端が浮かび上がって来る。
一番最後の、十一月二十五日のものは、その八句目の「南蔵円月の円相杉隠れ」から、練馬(現・練馬区中村一丁目)の「南蔵院」周辺での作というのが了知される。南蔵院は、山号が瑠璃光山、医王寺。ご本尊薬師如来。真言宗豊山派の古刹である。近くにある良弁塚の石碑によると、延文三年(一三五七)に良弁僧都が中興した。江戸時代中期の鐘楼門が練馬区の文化財に指定されている。
「畑大根皆肩出して月浴びぬ」の「皆肩出して」とは、練馬大根の特質をとらえていて、実景そのものなであろう。茅舎のこれらの吟行というのは、月とか蛍とか夜の吟行のものを見掛けるのだが、『茅舎浄土巡礼(岩下鱧著)』などによると、午後に出掛けて、帰りは夜になるというのがしばしばだったとの記述があり、吟行句会の翌日は、茅舎は大抵、「草疲れ休み終日」と、その日記に記されるのが通例だったという。
この十一月二十五日のものも、わざわざ、練馬に月見に吟行したのではなく、たまたま、練馬の南蔵院吟行の折りの、その帰途での夜の作という雰囲気でなくもない。
「月読のひかりのどけき大根かな」の「月読」(ツキヨミ・ツクヨミ)は、月の異名で、古事記・日本書紀などの神話に由来のある古語である。また、「南蔵院月の円相杉隠れ」の「円相」は、茅舎がしばしば用いるもので、禅僧などが好んで描く「一円相」(図形の丸を一筆で描いたもの、「円相図」などとも呼ばれる。悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされるが、その解釈は見る人に任される。また、円窓と書いて「己の心をうつす窓」という意味で用いられることもある)の禅語のそれであろう。
九月二十六日から十一月二十日までの句は、茅舎の青露庵での日常詠で、その青露庵で見聞するものを作句して、ここでは、それらのうちの、主として月に関する句を抜粋したということなのであろう。
十一月十五日の、「青芭蕉露盛上げて捧ぐ而已(のみ)」の、この「而己(のみ)」の「論語」的用例も、『現代俳句(第二巻)』(昭和十五年五月河出書房刊)の中の「春水光輪」(茅舎遍)の「自序」(「小人閑居図」)で、茅舎は次のように使っている。
鶏鳴きて起き孳々(しし)として
善を為す者は舜(しゅん・聖人のこと)の徒なり
鶏鳴きて起き孳々として
利を為す者は蹠(せき・盗人のこと)の徒なり
我は
善を為す舜の徒にも非ず
我は
利を為す蹠の徒にも非ず
鶏鳴きて起き孳々として
たゞ庭前の露を見る而已(のみ)
たゞ庭前の露を見る而已
茅舎の風景(その十七)
微熱の掌
死相ふとつらつら椿手鏡に
沈丁や死相あらはれ死相きえ
蛙聞く永久に微熱の手之心(たなごころ)
蛙聞く微熱の髪膚夜気に触れ
初蛙きりころ遠く近くかな
初蛙ころゝ梟ほろゝかな
初蛙夜半とてゆすらうめのかげ
初蛙夜半更けしゆゑの気安さや
草庵の野菜サラダよ初蛙
胡瓜もみ蛙の匂ひしてあはれ
(五月五日夜半星一つ白牡丹散る)
※昭和十三年「俳句研究」第五巻第六号所載。
茅舎の昭和十三年の年譜には、「『ホトトギス』七稿、『俳句研究』八稿、『誹諧』に俳諧詩その他数稿を発表す。概ね病臥。六月九日、修善寺行、十日、墓参り、十一日、帰京」とある(『現代俳句文学全集四川端茅舎集』)。もう、この頃は、「概ね病臥」と、常時、病床生活を余儀なくされていたのであろう。
茅舎の病気は、茅舎の母・ゆきが亡くなった、昭和三年(一九二八)の頃から始まり、丁度、この年から、異母兄・龍子の建てて呉れた青露庵(当時の大森区桐里町)に父と共に移り住む。そして、身辺にあって、茅舎や茅舎の父の面倒を見たのが、龍子夫人の夏子や、龍子の妹(茅舎の異母姉)の秋子のお二人で、特に、秋子が中心になって、その看病などに当たったのであろう。
茅舎の病気というのは、肺結核、脊椎カリエス、心臓性喘息、そして、痔瘻などで、その病床生活は、脊椎カリエスのため、ギブスベッドでの生活と不自由のものだったという。鈴木抱風子の『茅舎に学んだ人々』所収の「天寿」によると、茅舎は、自分の病を「業病」と言い、その「業病による業死」を最も恐れて、最後の最後まで、「枯木の朽ちるが如く天寿を全うしたい」というのが口癖で、そして、その天寿を全うせんとする努力をいろいろと実践し続けたという。
その茅舎が実践したという一例の「自の魂(こん)」という抱風子の記述を見ると、どうにもいたましいものである。「自の魂(こん)」というのは、「当時全紙大の新聞広告」で販売されていた健康器具で、真空管などによる「超音波快癒器」と銘を打ったもので、抱風子は、茅舎の次のような言を記している。
「(前略)効き目はとにかく、人の勧めるものは、して置きたいのだ。人事を尽くさなければ、死んでも死にきれないからね。(中略)カリエスは今は活動していないが、肺病と心臓性喘息が活動していることと、病人で無人だから自動車代は出すから、事務員に毎日きて取付け、取外しをして貰いたいということを交渉してくれないか」。
この「自の魂(こん)」を試し続けて、最後には、「『僕(注・茅舎)のような重病人には、『自の魂』は駄目だった。茅舎自の魂に迷いけりだった』と言って自嘲的に微笑された。私(注・抱風子)は応対の言葉が無かった。この翌日十七日、先生(注・茅舎)はご逝去された」。
「死相ふとつらつら椿手鏡に」「沈丁や死相あらはれ死相きえ」・・・、「死相」とは、「死の近いことを思わせる顔つき。死を示している人相」のこと。もう、この頃から、茅舎は、死を意識していたのであろうか。
茅舎の、これらの俳句は、石田波郷らが唱えた「境涯俳句」の世界のものであろう。
「俳句は境涯を詠ふものである。境涯とは何も悲劇的情緒の世界や隠遁の道ではない。又哀別離苦の詠嘆でもない。すでにある文学的劇的なものではなくて、日常の現実生活に徹しなくてはならない」(「鶴」昭和十七年七月)。
茅舎は、水原秋桜子との往復書簡などで、秋桜子門下の、石田波郷や加藤楸邨の俳句を高く評価していた(『現代俳句全集四川端茅舎集』「俳句叢談」)。これらの作家は、戦後の日本俳壇を大きくリードして行くのだが、戦前の、茅舎らの時代においても、茅舎らと、結社を問わない、山本健吉らが携わっていた「俳句研究」で、それぞれが、それぞれの世界を模索し続けていたのであろう。
茅舎には、「茅舎」の他に、若いときに使っていた「遊牧の民」とか「俵屋春光」とかの俳号がある。「茅舎」や「遊牧の民」の号の由来は、「モーゼが遊牧の民を記念するために、ヨルダンの川端に茅舎を作つた」ことに由来があると、茅舎自身が述べている(『俳句研究』昭和十一年三月号)。「俵屋春光」の「俵屋」は、茅舎の父方の実家の屋号ということで、唯一つ、「春光」というのが、どうにも不明なのだが、この掲出の括弧書きの「五月五日夜半星一つ白牡丹散る」というのが気にかかる。もとより、「俵屋春光」は、茅舎の大正時代の「雲母」に投句していた頃のもので、掲出の句とは年代的に開きがあるのだが、「夜半星一つ白牡丹散る」というと、「牡丹の蕪村・夜半叟蕪村・謝春星」の蕪村の一門の「春光」(几董=春夜楼、月渓=呉春、召波=春泥舎など)という雰囲気でなくもない。これまた、もとより、茅舎と蕪村とを結びつけるのは強引なきらいがあるが、それでもなお、掲出の、この括弧書きは気にかかるのである。
茅舎の風景(その十八)
咳
※大木の中咳きながら抜けて行く
※咳きながらポストへ今日も林行く
※五重の塔の下に来りて咳き入りぬ
※わが咳や塔の五重をとびこゆる
※咳き込めば響き渡れる伽藍かな
※寒林を咳へうへうとかけめぐる
※咳き込めば我火の玉のごとくなり
※咳止めば我ぬけがらのごとくなり
※※咳き込めば谺返しや杉襖
※※火の玉の如くに咳きて隠れ栖む
※※咳我をはなれて森をかけめぐる
※※我が咳に伽藍の扇垂木撥ね
※※昇天の龍の如くに咳く時に
※※龍の如く咳飛び去りて我悲し
※※咳き込めば夜半の松籟又乱れ
※※咳止んでわれ洞然とありにけり
※※※寒夜喀血《(かくけつ)みちたる玉壺大切に
※※※寒夜喀血あふれし玉壺あやまたじ
※※※咳かすかかすか喀血とくとくと
※※※そと咳くも且つ脱落す身の組織
※※※冬晴を我が肺は早吸ひ兼ねつ
※※※冬晴をまじまじ呼吸困難子
※※※冬晴を肩身にかけてすひをりしか
※※※冬晴をすひたきかなや精一杯
○咳暑し四十なれども好々爺
○咳暑し茅舎小便又漏らす
(注)※印は『白痴』「謦咳抄」所収の句。※※印は『定本川端茅舎句集』「ホトトギス雑詠より・昭和十四年~同十六年」所収の句。この※印と※※印の句を例句として、『現代俳句文学全集四川端茅舎集』』では、「『華厳』以降の句が多い。病苦と闘ひつつも精進、これらの句は茅舎の病床のメモにつぎつぎと記された」との注がなされている。※※※印は『白痴』「心身脱落抄」所収、○印は「あをきり」所収の句で、これらも『現代俳句文学全集四川端茅舎集』所収の句に追加して置きたい。
茅舎の第三句集『白痴』「謦咳抄」所収の句は、次のとおりである。
そと殺す謦咳の程虔(つつま)しく
わが咳くも谺ばかりの気安さよ
※大木の中咳きながら抜けて行く
※咳きながらポストへ今日も林行く
※五重の塔の下に来りて咳き入りぬ
※わが咳や塔の五重をとびこゆる
※咳き込めば響き渡れる伽藍かな
※寒林を咳へうへうとかけめぐる
※咳き込めば我火の玉のごとくなり
※咳止めば我ぬけがらのごとくなり
『現代俳句文学全集四川端茅舎集』(深川正一郎編)で、※印の前の二句を省いたのは、病苦の惨憺たる「咳」の句ではないということなのだろうか。「謦咳抄」は昭和十五年の部で、昭和十六年の「心身脱落抄」の「咳」の句は、「謦咳抄」のそれよりも、さらに、凄まじくなってくる。
※※※寒夜喀血《(かくけつ)みちたる玉壺大切に
※※※寒夜喀血あふれし玉壺あやまたじ
※※※咳かすかかすか喀血とくとくと
※※※そと咳くも且つ脱落す身の組織
※※※冬晴を我が肺は早吸ひ兼ねつ
※※※冬晴をまじまじ呼吸困難子
※※※冬晴を肩身にかけてすひをりしか
※※※冬晴をすひたきかなや精一杯
これらの句の中には、「咳」の一字はないものもあるが、これらも「咳」の句の中に入れて良かろう。これらの「咳」の句の他に、「ホトトギス」に投句して、虚子選のものがあり、それらの句が、次のものである。
※※咳き込めば谺返しや杉襖
※※火の玉の如くに咳きて隠れ栖む
※※咳我をはなれて森をかけめぐる
※※我が咳に伽藍の扇垂木撥ね
※※昇天の龍の如くに咳く時に
※※龍の如く咳飛び去りて我悲し
※※咳き込めば夜半の松籟又乱れ
※※咳止んでわれ洞然とありにけり
茅舎には、これらの「咳」の句の他にも、句日記などに、もっと沢山の句を書き留めていたことだろう。そして、茅舎が主宰した「あをきり」句会(月刊機関誌同名「あおきり」、『定本川端茅舎句集』などでは「あをぎり」となっている)に発表した、次の二句は、
やはり、特記して置く必要があるだろう。
○咳暑し四十なれども好々爺
○咳暑し茅舎小便又漏らす
これらの「あをきり」に発表した句は、『白痴』の実質的な編集者でもある鈴木抱風子が、茅舎の口述を筆記したものとのことである(『茅舎浄土巡礼(岩下鱧著)』)。この抱風子について、「抱風子・鈴木弘道は岐阜県恵那の産。性誠実朴質。みずから『性来口は重く田舎者の私が処世の道をこの一聯に置いて来た』として、『人之清者百神 気之清者百実』を引用し、『清即ち真実は百神百実』、ただ誠心以て茅舎に尽くし来ただけた」と記している(岩下鱧・前掲書)。
茅舎没後、「あをきり」句会の連衆の、鈴木抱風子と岩下鱧は、『川端茅舎・尋常風信覚え書』(昭和六十三年刊)を刊行する。さらに、鈴木抱風子は、『茅舎に学んだ人々』(平成十一年刊)、岩下鱧は、『茅舎浄土巡礼―わたしの川端茅舎句がたり―』(平成四年刊)を刊行する。これらの書によって、茅舎は再び復活した。
なお、『岩下鱧・前掲書』によれば、上掲の「※咳きながらポストへ今日も林行く」の、この「ポスト」について、茅舎が「東京朝日新聞」に寄せた次のような随筆を紹介している。それによると、このポストは、池上本門寺の正面の大門の前にあり、茅舎の青露庵は、丁度、本門寺裏の峠の頂上にあり、その峠を、本門寺境内を通り抜けながら、降りきった所に位置する。このポストまでの往復というのは、これは相当に難儀のことであったろう。
○本門寺の正面の広い石段は九十六段で、大門の前のポストまで僕はそれを毎日上下する。もう此頃はそれに紅葉が散り初めてゐる。上り乍ら仰ぐと鳩が一羽よちよち一段々々人間のやうに下りて来る。首を左右に振つて紅葉のやうな爪先で一段々々よちよちと下りてくる」(「東京朝日新聞」昭和十三年十二月十一日「小題・箒」)。
茅舎の風景(その十九)
房子金柑
金柑百顆煮て玲瓏となりにけり
日に透きし金柑の金茶の煙
金柑の二三顆皿に箸を添へ
金柑は咳の妙薬とて甘く
二水夫人土筆摘図(五句)
日天子寒のつくしのかなしさに
寒のつくしたづねて九十九谷かな
寒の野のつくしをかほどつまれたり
蜂の子の如くに寒のつくづくし
約束の寒の土筆を煮て下さい
鵯(二句)
鵯(ひよどり)や紅玉紫玉食みこぼし
鵯(ひよ)谺高杉の穂をさかおとし
春信(四句)
蕗の薹小さき壺の緑かな
蕗の薹雪ふかければ青磁かな
蕗の薹息づく孔よ白雪に
蕗の薹雪遍照(へんじょう)と落窪む
寒堂(四句)
寒堂に光顔巍巍(ぎぎ)とおはします
大寒の下品下生のおんみこれ
あかあかと木魚は寒きいきを吹き
枯芝に九品浄土(くほんじょうど)のみぢんたつ
塵土(五句)
ひと行くと躍り鞭打つ枯木影
笹よりも杉苗細し寒落暉
寒梢の日の相既に沈沈と
久しい晴天続きの裏日本に二月二日
午後から雨が降つて夜八時頃雪と変
わつた。帝都では昨年の十二月二十
六日雨量二・二ミリ降つた以来足掛
け二年・三十八日目
雪置きぬ塵土三十八日目
四月一日
木蓮に瓦は銀の波を寄せ
※昭和十六年、茅舎永眠の前月、六月三十日に第三句集『白痴』が出版された。序文に「新婚の川端清を祝福して贈る。白痴茅舎」とあり、昭和十四年より昭和十六年の作品をタイトルを附して発表した。昭和十六年度の作品。『現代俳句文学全集四川端茅舎集』
『現代俳句文学全集四川端茅舎集』(深川正一郎編)は、月別に編纂しており、年度などにおいては、第三句集『白痴』と必ずしも一致していない。掲出の「房子金柑」以下のものは、『白痴』の順序で行くと下記のとおりとなる。
昭和十五年
鵯(二句、『寒雀』四句から「鵯の句」二句抜粋)→春信(四句)→寒堂(四句)→塵土(五句、「塵土」』七句から五句抜粋)
昭和十六年
二水夫人土筆摘図(五句、「二水夫人土筆摘図」八句から五句抜粋)→房子金柑(四句)
「房子金柑」の「房子」は、筑紫野の女流俳人・小野房子で、房子は、昭和七年(一九三二)に、茅舎の青露庵を訪ね、茅舎門に入った、茅舎の愛弟子である。昭和十四年(一九三九)には、茅舎は九州の房子を訪ね、茅舎は、この時の作品「菜殻の炎」(八句)を「俳句研究」(十月号)に発表する。房子は茅舎の指導を得て、「鬼打木」を発行し、この「鬼打木」の連衆が、茅舎の九州行を支えた。茅舎と房子との交流は深く、茅舎の日記には、しばしば房子に関する記述が見られる。房子は茅舎逝去の時九州から上京し、茅舎の遺品などを持ち返る。その遺品の中には、「筑紫遊章五十句」や「茅舎日記」などがあり、後に、野見山朱鳥が、「現代俳句」(昭和二十四・十)で、その一端を紹介することになる(『川端茅舎(石原八束著)』)。
「房子金柑」の四句については、房子が茅舎に送った咳の薬でもある金柑に関する句である。房子共々、茅舎の側近の愛弟子の鈴木抱風子も、その『茅舎に学んだ人々』の中で、「金柑」と題して、「抱風子君面白い発明をしたよ。カルケットとカルケットとの間に、似た金柑を挟んで食べてごらん。金柑の味と香りが、カルケットによくマッチして、しゃれた味になる。僕のこの頃のオヤツなんだ」という、茅舎と金柑にまつわる思い出を綴っている。
「二水夫人土筆摘図」の「二水夫人」とは、茅舎が主宰した「あをきり俳句会」の代表者の藤原二水氏の奥様のことである。「あをきり俳句会」というのは、昭和九年(一九三四)に「第一生命保険相互会社」の有志で発足したもので、二水と抱風子との二人が中心になっている。『抱風子・前掲書』では、「出合い」「藤原二水氏」の二章を割いて、「あをきり俳句会」や「藤原二水氏」について、詳細に述べられている。
二水夫人と茅舎の異母兄・龍子夫人とは昵懇の間柄で、二水夫人は、茅舎の身辺にあって、茅舎を支援し続けた方である。この五句の中で、「約束の寒の土筆を煮て下さい」は、茅舎の傑作句の一つで、『現代俳句(山本健吉著)』の鑑賞(抜粋)は次のとおりである。
「この句棒のような一本調子だが、『約束の、寒の土筆を、煮て下さい』と呼吸切れ(いきぎれ)しながら、微かな微かな声になって行くようで、読みながら思わず惹き込まれて行くような気持になる。いっさいの俳句らしい技巧を棄てて、病者の小さな、だが切ない執念だけが玲瓏と一句に凝ったという感じがする。」
「春信(四句)」の、この「春信」は、「春の訪れを告げる証し」のような意味であろうか。茅舎が「雲母」に投句していた若い頃に、「俵屋春光」の号を使用していたが、その「春光」とどことなく似通っている雰囲気を有している。
「寒堂(四句)」については、世田谷の「九品仏浄真寺」(東京都世田谷区奥沢)での作である。この頃の茅舎は、近辺以外はめったに外出をしなかったであろうから、当時の茅舎を知る上で貴重な句と思われる。このうちの「枯芝に九品浄土(くほんじょうど)のみぢんたつ」について、「浄土こそ自分の俳句世界の最高のテーマと考えつづけてきた茅舎は、晩年に近い昭和十五年の冬、衰弱した身をかばい乍ら、一日この寺に杖をひいたのである。三つの棟に各三体の阿弥陀仏の並んだその庭の枯芝には、しずかな冬日がみなぎり、その日ざしの中に白く光るような微塵がたっているというのである。微塵をも照らし出さないではおかない澄んだ透明な世界、その冬日ざしの清らかな情景を、杖にすがってうっとりと眺めやる茅舎の姿がここにある」との鑑賞がなされている(『川端茅舎(石原八束著)』)。
最後の「塵土」(五句)の「塵土」については、「浄土」(本来的には仏教用語で、「清浄で清涼な世界」を指す。茅舎の「浄土」とは、茅舎が創り上げた「理想郷的な清浄な美的世界」で、「微塵をも照らし出さないではおかない澄んだ透明な世界」である)と対になる世界で、仏教用語では「穢土」(煩悩のある世界。現世)で、茅舎は、「穢土」の用語は使わず、「塵土」(茅舎の「塵土」は肺結核や心臓喘息を引き起こすような、塵・埃にまみれた世界)という用語で対にしているのであろう。
この塵と埃にまみれた現実の世界は、「雪置きぬ塵土三十八日目」の前書きにあるとおり、「久しい晴天続きの裏日本に二月二日午後から雨が降つて夜八時頃雪と変わつた。帝都では昨年の十二月二十六日雨量二・二ミリ降つた以来足掛け二年・三十八日目」と、何の変わり映えもなく、自然の摂理のまま、季節は変わって行くのである。
そして、四月一日には、「木蓮に瓦は銀の波を寄せ」と、この「木蓮」は「白木蓮」なのかも知れない。やがて、その白木蓮の季節も終わり、茅舎が最も愛した「朴の花」の白い花の季節になって行くのであろう。
それにしても、この「塵土」の、「雪置きぬ塵土三十八日目」の、この長々とした天気予報的な前書きは、「昭和十五年二月二日」の、現実の世界そのままである。誠に、「茅舎浄土」と対比される「茅舎塵土」の、茅舎の独白という雰囲気を醸し出していて、誠に興味が惹かれるのである。
茅舎の風景(その二十)
朴散華
我が魂のごとく朴咲き病よし
天が下朴の花咲く下に臥す
朴の花白き心印青天に
朴の花猶青雲の志
父が待ちし我が待ちし朴咲きにけり
朴の花眺めて名菓淡雪あり
朴散華即ちしれぬ行方かな
陶然と雷聞きて未だ生きて
夏痩せて腕は鉄棒より重し
石枕して我蝉か泣き時雨
※茅舎の旧居はそのままに保存され、この朴も十七年を経ていよいよ成長、毎年純白の花をかかげてゐる。高浜虚子は十七回忌に「俳諧の其後のこと朴散華」の句を霊前に供えた。本稿の朴の花の句は昭和十六年最晩年の句、後の三句は永眠一日前の夜、ホトトギス雑詠に投じ、虚子選最後のものとして掲載された。茅舎辞世の句ともいうべき作。『現代俳句文学全集四川端茅舎集』
掲出のものは、『現代俳句文学全集四川端茅舎集』のもので、昭和三十二年(一九五七)刊行である。当時は、「茅舎の旧居はそのままに保存され、この朴も十七年を経ていよいよ成長、毎年純白の花をかかげてゐる」ということだが、現在では、「青露庵」と「玉芒ぎざぎざの露流れけり」の句碑のみを残して、跡形もない。
掲出の十句については、一句目から四句目は、「ホトトギス」(昭和十六年七月号)、五句目から七句目は、「同」(昭和十六年八月号)、そして、八句目から十句目は、「同」(昭和十六年九月号)に掲載されたもので、これらの句は全て、茅舎没後に刊行された『定本川端茅舎句集』(深川正一郎編)に収録されている。
茅舎が絶命したのは、昭和十六年七月十七日であるが、その二日前の十五日の夜、深川正一郎から、掲出の五句目から七句目の句が、まだ未刊の「ホトトギス」八月号雑詠の巻頭になったことを聞かされて、茅舎は大変に喜んだという。そして、その十六日の夜に、茅舎は、八句目から十句目のものを清記して投句したまま、その翌日に亡くなった。これらの三句は、「故川端茅舎」の名で、「ホトトギス」九月号の巻頭を飾ったのである。
茅舎の辞世の句というと、これらの十句のうちの、七句目と十句目の、「両句は一ヶ月ほど間をおいて作られたわけであるけれども、両句とも辞世の句と見ていいだろう」(『川端茅舎(石原八束著)』)とというのが一般的である。これらの二句について、『現代俳句(山本健吉著)』の鑑賞(抜粋)を次に掲げて置きたい。
○ 朴散華即ちしれぬ行方かな
(前略)茅舎が死んだのは、昭和十六年七月十七日だが、その夏も朴の木は花をもたらした。「我が魂のごとく朴咲き病よし」と詠い、彼は朴の花に己れが離魂の姿を見ることもあったのだ。「天が下朴の花咲く下に臥す」と朴の下に臥床の安らかさを詠っている。「朴の花猶青雲の志」と朴の下でなお若々しいかなしい希望を燃やすこともできたのである。その朴の散華は、がっくりとした感じで、茅舎の生への希望を断ち切ってしまうのである。散華とは仏教の法会に行う儀式だが、戦時中戦死者によくこの言葉が使われた。朴の大弁の落花にいかにもふさわしい言葉であり、さらにいっそう花落ちての茅舎の気の衰えを表現し得ている。朴の花に浄土の諸仏の来迎の姿を見ていたのであろうか。だが、あんなにもはっきりと位置を占めた存在であった大輪の花が散華して、あとに残るのは大きなうつろの空間である。昨日までは在ったがゆえの空虚である。「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」(蕪村)。「行方知らずも」とは万葉以来詩人の詠嘆をなしている。行方が知れぬとは、わが魂の行方が知れぬことだ。朴の花が現出させていた荘厳なイメージが崩壊して、茅舎だけが陶然と、魂抜けのように取り残されるのだ。
○ 石枕して我蝉か泣き時雨
(前略)茅舎はここでは手放しで慟哭しながら、わが泣く声に蝉時雨を聴き取っている。庭には蝉時雨がしていたのか、それはこの句の場合どうでもよい。現実世界のことであったも、単なる意識界のことであっても、あるいはまた天上界のことであっても、「心頭の蝉みんみんといさぎよし」ともかって詠っているのだ。石枕にぴったりつけた耳のあたりに、ジーンとそれは響いてくる。蝉の声は石に滲み入る性質がある。細道の旅で立石寺の蝉をきいた芭蕉が、鋭い感覚でそれはすでに発見していることである。石枕はこの句では、たった一つの具象的な物質であり、この世のものである。石枕が蝉の声を吸い込んでゆく。さらにまた枕した茅舎の耳が、自然の声か魂の嗚咽か、やがてそれは微かに微かになって、幻ともうつつともわからぬ一すじの音声と化して、余韻を残しながら、虚空に消えていってしまう。これは勝手な私の妄想だろうか。とまれこの句が茅舎一代の絶唱であることは間違いない。付記(省略)。
[茅舎の亡くなる二日前に、まだ未刊の「ホトトギス」(昭和十六年八月号)の巻頭になったこと知らされた、その「ホトトギス」への投句原稿。「鎌倉虚子立子記念館蔵」)]
http://blog.goo.ne.jp/npo_suien05/e/ccfde35e631f958afe3501ee246e2730
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