金曜日, 10月 19, 2012

芭蕉の蛙の句(古池吟)


芭蕉の蛙の句(古池吟)

○ 古池や蛙(かわず)飛(とび)こむ水のをと

 この芭蕉の蛙の句は、芭蕉開眼の一句としてつとによく知られるところである。この句を芭蕉開眼の一句としたのは、蕉門随一の理論化・支考(しこう)であった。「天和のはじめならん武江の深川に隠遁して、『古池や蛙飛込む水の音』と云へる幽玄の一句に自己の眼を開きて、是より俳諧の一道は弘まりけるとぞ」(『葛の松原』)。

 この芭蕉開眼の一句は、芭蕉が甲子吟行から帰った翌春の、貞享三年(一六八六)に刊行された『蛙合(かわずあわせ)』(仙化編)に収録されたのであった。『蛙合』は、江戸蕉門をあげての「蛙」題による二十番句合(くあわせ)で、芭蕉七部集のうち蕉風第一の句集として名高い『冬の日』に続く刊行である。この『蛙合』の巻頭の左右の句が、芭蕉と仙化(せんか)の次の句である。

左  古池や蛙飛こむ水のをと      芭蕉

右  いたいけに蛙つくばふ浮葉かな   仙化

 芭蕉の蛙の句は「聞く」にその作意があるのに比して、仙化のそれは「見る」にその作意があり、好一対をなしているのである。仙化の句が「蛙」と「浮葉」の常套的な取り合わせに比して、芭蕉のそれは、「古池」と「蛙」との組み合せの句というよりも、「古池や」の「名も無き古びた池」に「自然の輪廻のような冬眠から覚めた蛙の水に飛び込む音」を配置して、「宇宙の永遠なる時」あるいは「自然の輪廻」というようなものを現出しているのである。ここに、芭蕉のこの句の「新しみ」がある。仙化の作句の眼が、「いたいけ」な、小さな「生き物」に注がれているのに比して、その「いたいけな小さな生き物」の、その自然の輪廻を、宇宙の弛まざる流れの中の一瞬として捉え、そして、それを見事に、十七音字の小さな器の中に盛り込んだのである。

 古池や蛙とびこむ水の音          芭蕉

  葦(*)の若葉にかか(*)る蜘蛛の巣     其角

 芭蕉の「蛙」の発句に、其角が脇句をつけたものが、芭蕉の『更科紀行』の旅に随行した越人(えつじん)の『不猫蛇(ふみょうじゃ)』に収録されている。其角は、芭蕉のこの蛙の句に接したとき、その上五を「古池や」ではなく「山吹や」との上五を進言したことが、支考によって記録されている(『葛の松原』)。この支考の記録によると、芭蕉が即興したのは、中七・下五の「蛙飛びこむ水の音」で、この上五の「古池や」は、その中七・下五の後(其角の進言などを聞いた後)での、芭蕉の推敲を重ねての上五であったとのことである。ここでは、和歌などで題材とされている、其角の進言の「山吹」と「蛙」との取り合わせでは、何の新しみもないのである。其角は、またまだ、「和歌優美」の世界に安住して、芭蕉の「俳諧自由」という世界の境地には至らなかったということであろう。そして、その其角が、芭蕉の発句の蛙の句に、「蜘蛛の巣」という奇抜な付けをしたのも、その後の其角の俳風を暗示するようでもある。

 歌軍(いくさ)文武二道の蛙かな      貞室 

 貞門俳諧においては、「歌」(和歌)の「文」の「蛙」だけではなく、「武」の「蛙」(蛙合戦)の発見があった。

  雨の蛙声高(こわだか)になるも哀れなり  素堂


 芭蕉の句友の素堂の『蛙合』での句である。ここにも「雨の蛙」の発見はあったが、その雨の中で「鳴く蛙」の範疇から抜け出でてはいない。

 うき時に蟇(ひき)の遠音も雨夜哉     曽良

 曽良の『蛙合』での句である。和歌で詠まれる「河鹿=蛙」ではなく、「蟇蛙」と特定の蛙に着目しているけれども、それでも、「雨の夜に鳴く蛙」の句なのである。

  ここかしこ蛙鳴く江の星の数       其角

 其角の『蛙合』での句である。この下五の「星の数」とは大げさな、そして、華麗な、其角流の比喩なのである。そして、ここでも「ここかしこに鳴く蛙」が、そのモチーフなのである。

 さて、芭蕉亡き後、その芭蕉の俳風を慕い、中興俳諧の担い手となった蕪村は、これまた、芭蕉の「飛び込む蛙」ではなく、「鳴く蛙」から一歩も出ていないのである。

  日は日くれよ夜は夜明けよと鳴く蛙(かわず)    蕪村

 そもそも、芭蕉没後二十余年後の、享保元年(一七一六)に誕生した蕪村の俳諧の師匠は、其角の弟子の早野巴人(一六七六~一七四二)であり、蕪村はいわば芭蕉のひ孫の弟子のような位置にあたるのである。この蕪村が、二十七歳の頃、始めて編んだ『宇都宮歳旦帖』で、終生の号となる「蕪村」という号を使った句は、次の「鶯」の句で、この鶯の句は、芭蕉の開眼の一句の、「古池吟」の「蛙」の句を念頭においていることは明白のところなのである。すなわち、芭蕉大先生が、「蛙」の句で、「一瞬の水の音」の句なら、私(蕪村)は、「鶯」の句で、「ひねもすの鳴き声」の句にしようという趣なのである。すなわち、ここから出発した蕪村の俳諧というのは、芭蕉と違って、高踏的・耽美的傾向を有しているが、その根っ子のところは、蕉風俳諧という大きな流れの中に位置するといってもよいであろう。ともあれ、蕪村の俳諧の出発点は、芭蕉の開眼の一句の「蛙」の句を念頭においての、次の「鶯」の句なのである。

  古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら      蕪村

 さて、その蕪村よりさらに半世紀遅れて誕生した一茶もまた「蛙」の句を多くものにしている。そして、蕪村の「蛙」は、「かわず」の読みなのであるが、一茶に至って、その雅語の「かわず」は、俗語調の「かへ(え)る」という読みのものが幾つか登場するのである。

 痩(やせ)蛙(かへる)まけるな一茶是(これ)に有(あり)   一茶

 ゆ(い)うぜんとして山を見る蛙(かへる)哉         一茶

 これらの一茶の句が、芭蕉や蕪村のそれと比して、より上位に位置するとか、異次元のものとか、見栄えがするとかということではない。一茶の蛙は一茶の分身なのである。北信濃の柏原の農民の子としての一茶にとっては、和歌・連歌に出てくる「蛙」(かはず)ではなく、小動物の「蛙」(かへ(え)る)そのものが、その句材なのである。

 そして、面白いことには、アメリカの優れた詩人の一人であるロバート=ブライは、その詩集『海と蜜蜂の巣』(一九七一)の中で、一茶の句(十編)を訳して、その巻末のノートで、「一茶は世界で最も偉大な蛙の詩人」という評を呈していることなのである。

 すなわち、芭蕉開眼の、そして、それは、蕉風俳諧の礎となった、「古池吟」の「蛙」(かわず)の句よりも、西洋人にとっては、擬人化の一茶の分身の「蛙」(かへ(え)る)の方が、より多く理解できるし、そして、共感もできるということなのであろう。

 とまれ、芭蕉の、この「古池吟」の「蛙」の句は、この句が誕生した貞享三年(一六八六)から三百余年を経た今日、もう一度、「俳諧」という原点に立ち戻り再吟味することが、必ずや、現代俳句にも大きな稔りをもたらしてくれるような、そんな思いがしているのである。

(この稿は、白石悌三稿「蛙」(有斐閣選書『俳句のすすめ』、佐藤和夫稿「欧米に紹介された俳句」(旺文社『俳句の解釈と鑑賞事典』などを参照した。なお、*印の字は原本は異体字など。)

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