金曜日, 10月 19, 2012
茅舎復活(その一~その十)
(京都東福寺 正覚庵 茅舎句碑 「通天やしぐれやどりの俳諧師」)
茅舎復活(その一~その十)
その一)
俳人・川端茅舎が亡くなったのは、昭和十六年(一九四一)七月、享年、四十三歳であった。この亡くなる直前に、茅舎の謎にみちた遺言ともいえるような第三句集『白痴』が刊行された。
この句集は、その「後記」を見ると、「今度の句集は最近一・二年間のホトトギス以外の新聞・雑誌に発表した句を集めている」のとおり、これまでの、第一句集『川端茅舎句集』、第二句集『華厳』と違って、茅舎が所属していた「ホトトギス」に発表された句は除いてあるというのが、大きな特色ともなっている。
その目次は、「昭和十四年」・「昭和十五年」・「昭和十六年」の三章からなり、その「序」に、「新婚の清を祝福して贈る」として、「白痴茅舎」の「茅舎」に「白痴」の二字を冠しての俳号が記されている。そして、この「白痴」が、そのまま、この第三句集の句集名になっているのである。
この「白痴」というのは、茅舎にとって何に由来して、どんな意味合いが込められているのであろうか。どうにも、謎めいた不可思議な句集名と句集であるということを実感するのである。
この「白痴」という句集名に接して、第一感として、ドストエフスキーの長編小説『白痴』というのが思い起こされてくる。当時の茅舎が、このドストエフスキーの『白痴』を読んでいたのかどうか、それは知る由もない。これらのことについて、かつて、次のアドレスで、次のようなことを記したことがある。
http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/56474793.html
[ ○ 栗の花白痴四十の紺絣
茅舎が亡くなる昭和十六年に刊行された、茅舎の最後の第三句集『白痴』というのは、そこに集録されている句の良し悪しということは別にして、「題名・序・目次・後記・もう一度後記」と、そのどれを取っても、どうにも不可解な、不思議な句集だという思いを深くする。題名の『白痴』というのは、「昭和十五年」の「初夏の径(こみち)」と題する中の掲出の句に由来があるのだろう。そして、この句の「白痴」というのは茅舎自身を指していることは自明のところであろう。そして、この自分を「白痴」と称するのは、例えば、ドストエフスキーの小説『白痴』などが背景にあるものなのかどうか。ドストエフスキー全集というのは、大正期には翻訳されており、茅舎がドストエフスキーの『白痴』を目にしていた可能性は無くはない(この「白痴」という用語は、重度の知的障害の古い呼び方として、現在では、差別用語とされることがあるとのことである)。その小説の主人公は、「白痴」というニックネームで、あらゆることを真摯に受け止め、人を疑うことを知らないムイシュキン公爵であるが、ドストエフスキーが「完全に美しい人」として描くところの、このムイシュキン公爵を、自分自身の投影としている感じがしなくもない。しかし、この掲出句などを、取り立てて、ドストエフスキーの『白痴』と関係づけることは、ますます不可思議を倍加させるだけで、その背景の詮索を「あれかこれか」するのは避けて置いた方が無難なのかも知れない。しかし、この第三句集『白痴』の「序」が、「新婚の清(注・茅舎の異母兄の長男、茅舎の甥)を祝福して贈る 白痴茅舎」ということで、「風狂人茅舎」あるいは「大愚茅舎」というようなことを、「白痴茅舎」と洒落て(捩って)使用してのもの解して置きたい(このことについては先に触れた)。とした上で、あらためて、この掲出句の鑑賞をすると、例えば、後の、聖書に深い理解のある、平畑静塔の「ゴルゴタの曇りの如し栗の花」や、角川源義の「栗の花いまだ浄土の方知らず」(「(前略)栗といふ文字は西の木と書いて西方浄土に便あり(後略)」の前書きあり)など、聖書や「西方浄土」とも一脈通ずるところもあり、そういう背景などを、より深く掘り下げて鑑賞したい衝動にも駆られてくる(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』では、「この第三句集の『白痴』は、「『白痴』こそが茅舎の『補陀落浄土』に違いない。(中略) 茅舎は、第二次世界大戦が勃発し、身辺にまで戦争が迫って来た事で、最後の審判が近づいていると感じたのだ。だからこそ、茅舎は白痴になった。『白痴茅舎』とは、イエスの言う『幼な子』だったのだ」との大胆な謎解きと鑑賞をしている)。 ]
上記の鑑賞視点は、「アララギと茅舎」、特に、「茅舎・たかし・夜半・久女・左右」と、虚子の「花鳥諷詠」の絶頂期の頃の、「ホトトギス」派の面々の俳句を鳥瞰的に見てみたいという意向があった。
そういう観点からすると、間違いなく、茅舎の第一句集『川端茅舎句集』そして第二句集『華厳』は、その「ホトトギス」の誌面を飾り、その句集の隅々まで、「花鳥諷詠」の主唱者である高浜虚子が厳選し、その息がかかった、文字通り、「ホトトギス」俳人・川端茅舎の「晴れ」の公けの句集であったということがいえるであろう。
それに対して、この茅舎の第三句集『白痴』は、それらの高浜虚子との関連の世界とは別に、その編集も全て、当時の茅舎の身辺近くにあった鈴木抱風子が、「(ホトトギス)以外の句の方がスキだらけで親しい」(『白痴』・「後記」)と、いわば、茅舎の日常些事的な、特定の親しい人に対して編集されたような、「褻」(け)的な句集であるということもいえるのかもしれない。
それと同時に、茅舎の、これらの生涯にわたる句業というのを、あらためて見ていくと、この第三句集『白痴』の「序」に出てくる「白痴茅舎」の、その「白痴」も「茅舎」も、これは、まぎれもなく、「聖書」(とくに、「旧約聖書」)と深い関係があるということを、確信的に思えてきたのである。
今回は、この「晴(はれ)と褻(け)」の「褻」的な面と、この「聖書」との関連での、第三句集『白痴』の鑑賞ということにウェートを置いて、前回の「『茅舎浄土』の世界」から「茅舎復活」ということに視点を変えて、その鑑賞を進めて見たい。
茅舎復活(その二)
(『川端茅舎句集』・「序」)
茅舎句集が出るといふ話をきいた時分に、私は非常に嬉しく思つた。親しい俳友の句集が出るといふ事は誰の句集であつても喜ばしいことに思へるのであるけれども、わけても茅舎句集の出るといふことを聞いた時は最も喜びを感じたのである。それはどうしてであるかといふ事は時分でもはつきり判らない。
茅舎君は嘗ても言つたやうに、常にその病苦と闘つて居ながら少しもその病苦を人に訴へない人である。生きんが為の一念の力は、天柱地軸と共に、よく天を支へ地を支へ茅舎君の生命をも支へ得る測り知られぬ大きな力である。
茅舎君は真勇の人であると思ふ。自分の信ずるところによつて急がず騒がず行動してをる。
茅舎君は雲や露や石などに生命を見出すばかりではなく、鳶や蝸牛などにも人性を見出す人である。
露の句を巻頭にして爰に収録されてゐる句は悉く飛び散る露の真玉の相触れて鳴るやうな句許りである。
昭和九年九月十一日
ホトトギス発行所 高浜虚子
(『華厳』・「序」)
花鳥諷詠真骨頂漢 高浜虚子
(『白痴』・「序」)
新婚の清を祝福して贈る 白痴茅舎
茅舎の第一句集『川端茅舎句集』、第二句集『華厳』、そして、第三句集『白痴』の、それぞれの「序」である。これらの「序」を見比べて、第三句集『白痴』は、「新婚の清を祝福して贈る」と、茅舎の親近の内輪の人を主として対象としている、すなわち、第一句集『川端茅舎句集』並びに第二句集『華厳』が「晴(はれ)」的な句集とすると、「褻(け)」的な句集であるということが察知される。
この「序」に出てくる「清」については、「清」を父とする森谷香取(川端)さんの「川端茅舎・・・俳人川端茅舎と思い出の中の親族」(下記のアドレス)で、その写真なども掲載されている。この森谷さんのネット記事で、次のような興味のある記述がある。
http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html
[ 茅舎は若いころ俳句よりも絵画を志しあちらこちら放浪していた。その弟を称して兄龍子は「遊牧の民」と言っていて、それがあだ名となった。川端茅舎とは遊牧の民の意味である。モーゼが遊牧の民を記念する為ヨルダンの川端に茅舎をつくり、仮住まいの祝「結茅の節」を定めている。それ故川端と茅舎を続けなければ意味をなさないのだと、茅舎自身が記している。]
この「結茅の節」は、旧約聖書の『レビ記』に出てくる「結茅(かりほずまい)の節(いわい)」のことであって、本名の「川端信一(のぶかず)」の俳号の「茅舎」は、イエス・キリストが洗礼を受けた「ヨルダン川」の、その「川端」の、モーゼがつくった「茅舎」(粗末なテント)の意で、茅舎自身、その「遊牧の民」(神の僕の「羊飼い」)という意識があっての、すなわち、聖書を背景にしての「茅舎」であるということなのであろう。
さらに、「白痴茅舎」の「白痴」についても、森谷さんは、次のような関連することを記述している。
[ 茅舎のついの棲家となった池上本門寺裏の青露庵には、僅かに数える程度の弟子の中から鈴木抱風子(ほうふうし)がまめに来てくれた。他に顔を見るのは、世話をするために同居していた異母姉・秋子、気兼ねなくやってくる甥の清と往診の権田医師など少なかった。茅舎は妻も子もない上、全身病に冒された長い闘病生活の故から、周囲の者に我儘を通し続けるしかなかった。そして脊椎カリエスが頭に上ったという最晩年には、血族の中で清だけに恐怖と狂気を見せていた。]
この何ともいたましい「脊椎カリエスが頭に上ったという最晩年には、血族の中で清だけに恐怖と狂気を見せていた」という、この最晩年の茅舎の風姿は、まさに、虚子の師、そして、それはとりもなおさず、茅舎の師筋にあたる、「ホトトギス」の生みの親の,正岡子規の、その最晩年の風姿と合致するものであろう。
この、正岡子規と川端茅舎とを重ね合わせていくと、冒頭の、高浜虚子の「序」の、「茅舎君は真勇の人である」(『川端茅舎句集』)、そして、「花鳥諷詠真骨頂漢」(『華厳』)という言葉が、まざまざと迫ってくる。
そして、同時に、また、それが故に、この第三句集『白痴』の「序」は、茅舎が、その強さも、その弱さも、全てをさらけ出していた、最も、心を打ち明けていた、甥の「清」に献辞する、すなわち、「新婚の清を祝福して贈る」であり、そして、それはとりもなおさず、「白痴茅舎」という俳号なのであろう。
○ 栗の花白痴四十の紺絣 (「昭和十五年」・「初夏の径」)
この亡くなる一年前の句の「白痴」こそ、当時の茅舎の自嘲を込めた自画像なのであろう。そして、それはまた、茅舎の全てを知り尽くしている、最も信頼する、甥の「清」への、黙契にも似た措辞なのではなかろうか。
とするならば、この「白痴茅舎」の、この「白痴」には、ドストエフスキーの『白痴』の、ドストエフスキーが「完全に美しい人」として描くところの、かの、「ムイシュキン公爵」という意識をも、言外に込めているいるということは、やや飛び過ぎているという感じがなくもない。ただ、結果的に、茅舎の全生涯とその句業の全てを鳥瞰したときに、はなはだ、ドストエフスキーが「完全に美しい人」として描いた、「白痴」(聖なる愚者)の「ムイシュキン公爵」と重ね合わさってくるということなのではなかろうか。
しかし、茅舎の、その生涯とその句業を鳥瞰するという作業においては、旧約・新約の「聖書」を抜きにしては、はなはだ、その全体像が見えてこないということは特記しておく必要があろう。
嘗て、 森谷香取さんの「川端茅舎・・・俳人川端茅舎と思い出の中の親族」のものに接した頃の、「茅舎の号」の由来については、次のとおりである。
http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/56486957.html
茅舎周辺追記(一)
茅舎の号の由来について、かって、次のように記した。
○茅舎の号の由来が、旧約聖書の『レビ記』にある「結茅(かりほずまい)の節(いわい)」
(神が民を「仮庵(かりいお)」に住まわせた事を思い出させるための祭)から採られているという見解(嶋田麻紀・松浦敬親著『川端茅舎』)には、それに賛意を表するだけのものは持ち合わせてはいない。(「茅舎浄土」の世界・その四)
今回、森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」のものを目にした。
http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html
○茅舎は若いころ俳句よりも絵画を志しあちらこちら放浪していた。その弟を称して兄龍子は「遊牧の民」と言っていて、それがあだ名となった。川端茅舎とは遊牧の民の意味である。モーゼが遊牧の民を記念する為ヨルダンの川端に茅舎をつくり、仮住まいの祝「結茅の節」を定めている。それ故川端と茅舎を続けなければ意味をなさないのだと、茅舎自身が記している。
これらのことから、やはり、茅舎の号の由来は、旧約聖書の『レビ記』にあることを追記しておきたい。茅舎の聖書を背景とした句と思われるものは下記のとおり。
○ 放屁虫(へひりむし)エホバは善しと観(み)たまへり (『川端茅舎句集』)
○ 亀甲の粒ぎつしりと黒葡萄 (同上)
○ 花杏受胎告知の翅音びび (昭和十四年「ホトトギス」)
○ 筑紫野の菜殻の聖火見に来たり (同上)
○ 窄(せま)き門額しろじろと母を恋ひ (『白痴』)
○ 夜もすがら汗の十字架背に描き (同上)
茅舎復活(その三)
(もう一度後記)
もちろん知音同志が最後の二章から句業の意味を発見せられる事に相違ない。だがもう一度誰哉行燈(たそやアンドウ)を許して欲しい。
鶯の機先は自分に珍しい程の歓喜を露はに示してゐる。抱風子の鶯団子は病床生活の自分に大きな時代の認識を深める窓の役目を果たして呉れた。
昭和十六年四月八日
川端茅舎
茅舎の最後の第三句集『白痴』は、「題名・序・目次(昭和十四年・昭和十五年・昭和十六年)・後記・もう一度後記」という構成で、掲出のものは、その「もう一度後記」の全文である。
この中の、「誰哉行燈(たそやアンドウ)」というのは、「とっさの日本語便利帳」(朝日新聞出版)によると次のとおりである。
http://kotobank.jp/word/%E8%AA%B0%E5%93%89%E8%A1%8C%E7%81%AF
[ 江戸時代に使用された行灯。「誰哉(たそや)」とは古語で「どなた」の意。江戸の夜は暗く、日がとっぷり暮れると通りすがりの人の顔も見分けられないほどで、「あなたはどなた」と尋ねなければならなかった。黄昏(たそがれ。誰そ彼は、の意)なども同じ仲間のことば。その薄暮に行灯の油に火を灯点したのが、誰哉行灯。]
また、「鶯の機先は自分に珍しい程の歓喜を露はに示してゐる」の「鶯の機先」というのは、「昭和十六年」の章の「鶯の機先」所収の句を指し、「抱風子の鶯団子は病床生活の自分に大きな時代の認識を深める窓の役目を果たして呉れた」の「抱風子の鶯団子」は、同じく、「昭和十六年」の章の「抱風子鶯団子」所収の句を指しているのであろう。これらの句を記述すると次のとおりである。
「昭和十六年・鶯の機先」
三月十二日朝篠浦一兵
少佐次男旭君陸軍幼年
学校入試合格通知飛来
鶯の機先高音す今朝高音す
ひんがしに鶯機先高音して
鶯の声のおほきくひんがしに
「昭和十六年・抱風子鶯団子」
三月廿九日午後三時
抱風子鶯団子持参先
週以来連続して夢枕
に現れたるそのもの
目前へ持参
抱風子鶯団子買得たり
買得たり鶯団子一人前
一人前鶯団子唯三つぶ
唯三つぶ鶯団子箱の隅
しんねりと鶯団子三つぶかな
むつつりと鶯団子三つぶかな
皆懺悔鶯団子たひらげて
茅舎が、その四十四年余の生涯を閉じたのは、昭和十六年(一九四一)の七月(十七日)であった。この年の十二月には「太平洋戦争」が勃発して、茅舎はその戦争を知らずに他界したことになる。
しかし、上記の「昭和十六年・鶯の機先」の前書きにある「三月十九日」当時は、その前年に締結されていた「日独伊三国同盟慶祝」のため、時の松岡洋右外相がソ連経由で「独伊」に出発した日でもある。そして、その四月には「日ソ不可侵条約」が締結され、まさに、「太平洋戦争」前夜という風潮であった。
そういう、当時の時代的風潮を背景にして、これらの句に接すると、「昭和十六年・鶯の機先」の三句は、その「太平洋戦争」前夜という緊張感が、これらの「鶯の機先を先するかのような高音」に見え隠れしているような雰囲気で無くもない。
そして、後者の「昭和十六年・抱風子鶯団子」の七句について、そういう未曽有の戦争前夜という世相の中にあって、「白痴茅舎」は、まさに、何することもあたわず、ただ、鶯団子が食いたいと、まるで、白痴か駄々子かのような日々の中にあるという、自嘲的に「遊び呆けている」という雰囲気で無くもない。
これらの句は、茅舎俳句の中にあっては、ほとんど「読み捨て」にされるような、わざわざ、第三句集『白痴』の後書きに記すような句ではなかろう。
この「昭和十六年・抱風子鶯団子」の七句の一句目(抱風子鶯団子買得たり)から四句目(唯三つぶ鶯団子箱の隅)までは「尻取り連句」の「言葉遊び」の句であるし、次の五句目(しんねりと鶯団子三つぶかな)と六句目(むつつりと鶯団子三つぶかな)は「対句」の、これまた「言葉遊び」の作句ということになろう。
そして、七句目(皆懺悔鶯団子たひらげて)の、この「懺悔」とは、何とも大げさな、どうにも、自嘲的な雰囲気が伝わってくるのである。これが、茅舎の第三句集『白痴』の最後の句なのだが、やはり、この句集は、その「もう一度後記」の「知音同志」向きの「褻(け)」的な句集という思いを深くするのである。
ここで、その「もう一度後記」の「誰哉行燈(たそやアンドウ)を許して欲しい」という、この「誰哉行燈(たそやアンドウ)」というのは、何を意味するのであろうか。
それは、「序」にある「白痴茅舎」の、この「白痴茅舎は何者なのか」ということについて、「知音同志の方は、この句集をお詠みになってお判りでしょうが、最後に、もう一度、『鶯の機先』と『抱風子鶯団子』とをお詠みいただいて、風雲急を告げるこの世相にあって、何のお役にも立てずに、鶯団子のことを夢見て、言葉遊びに興じているような一生だったということを、思い起こしてください」というような、そんなニュアンスなのではなかろうか。
さらに付け加えるならば、「昭和十六年・心身脱落抄」の、「心身脱落」ということと「白痴」ということとは同一の世界のものであって、そういう「心身脱落」の境地から、「魂が昇天して行く」ということも暗示しているのではなかろうか。
そして、最後に、「川端茅舎」(「聖なるヨルダン川の『川端』」の「モーゼが遊牧の民に建てた粗末なテントの『茅舎』に仮住まいしている一人の「遊牧の民」)と記して、「私もまた、聖なる羊飼いの愚者の一人として、もうすぐ神に召される」ということをも暗示しているのではなかろうか。
(追記一)
http://stonepillow.dee.cc/kurosaki_frame.cgi?40+18+7-3
「マタイ伝18章3節」のこと
まことに汝(なんぢ)らに告つぐ、もし汝(なんぢ)ら飜(ひるが)へりて幼兒(をさなご)の如ごとくならずば、天國(てんこく)に入(いる)を得(え)じ。
註解: 神の国における神と人との関係は、本質的に愛の関係である。神に愛されることが人間最大の幸福である。人間の地位や功績の大小は、天国における価値の大小ではない。弟子たちの心の中を見透し給えるイエスは彼らの倨倣(たかぶり)を誡めんとし給い、而してこれと同時に神の愛はかかる者に注がれずして幼児のごとき者に注がるることを示し給うた。「幼児のごとく」天真爛漫で、率直で、謙虚で、信頼の心に満ちている者にあらざれば天国に入ることすらできない。况(ま)して天国において大なる者となるがごときは思いもよらざる事柄である。天国において大ならんとせばこの幼児のごとく謙虚なる心にならなければならない。ゆえに弟子たちのごとく自らを高しとする者は翻って(方向を一転して)この幼児のごとくにならなければならない。ここにイエスは幼児に対する親の深き慈愛を例として、天の父が謙卑(へりくだ)る者に対する愛を表示し給うた。まことに幼児がその母に対する信愛の情と謙卑従順の態度ほど信者の神に対する態度の模範として適切なるはない。
(追記二)
「尻取り」のこと
http://kotobank.jp/word/%E5%B0%BB%E5%8F%96%E3%82%8A
しり‐とり【×尻取り】
1 前の人の言った語の最後の一音を取って、それで始まる新しい語を次々に言い続けていく言葉の遊び。「くり・りす・すみ…」など。
2 前の詩歌や文句の終わりの言葉を、次の句の頭に置いて次々に言い続けていく文字つなぎの遊び。「お正月は宝船、宝船には七福神、神功皇后武の内、内田は剣菱七つ梅、梅松桜の菅原で…」など。
(追記三)
「対句」のこと
http://kotobank.jp/word/%E5%AF%BE%E5%8F%A5
中国の詩文の修辞法。2句が同字数で,語順がひとしく,各語がなんらかの対応関係をもつもの。古代からあり,六朝の駢文(べんぶん)に駆使され,以後は詩に多用された。ことに律詩では8句中,3句と4句,5句と6句はそれぞれ対句になる規則がある。
http://toto.cocolog-nifty.com/kokugo/2007/05/post_4c6d.html
雪 三好達治
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。
この対句法で、もう1つ井上ひさしの「なのだソング」・・・。
雄々しくネコは生きるのだ
尾をふるのはもうやめなのだ
失敗おそれてならぬのだ
尻尾を振ってはならぬのだ
女々しくあってはならぬのだ
お目目を高く上げるのだ
凛とネコは暮らすのだ
リンとなる鈴は外すのだ
獅子を手本に進むのだ
シッシと追われちゃならぬのだ
(以下略)
茅舎復活(その四)
「昭和十六年・心身脱落抄」
寒夜喀血みちたる玉壺大切に
寒夜喀血あふれし玉壺あやまたじ
咳かすかすか喀血とくとくと
そと咳くも且つ脱落す身の組織
冬晴を我が肺は早吸ひ兼ねつ
冬晴をまじまじ呼吸困難子
冬晴を肩身にかけてすひをりしか
冬晴をすひたきかなや精一杯
「昭和十六年」の「心身脱落抄」所収の八句である。茅舎の数多い傑作句と比すると見劣りする感じで無くもない。しかし、当時の茅舎の置かれた状況を理解するには、まことに、印象強烈な句ではある。
茅舎略年譜(『川端茅舎(蝸牛俳句文庫)』)によると、「昭和四年(一九二三九) 三二歳。春頃から特に病弱となる。十二月二十日、岸田劉生が満州旅行の帰途、山口県徳山で急死。三十八歳」とある。森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」には、次とおり記されている。
http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html
[ 45歳を待たずして没した茅舎はその晩年の15年近くをありとあらゆる病魔との闘いに明け暮れた。龍子が言うには茅舎の病歴たるや所謂病気の問屋といった状態で、彼を永く治療にあたられた病院長は「茅舎君のかからないのは産婦人科だけだ」と苦笑されたのだそうだ。]
これらのことは、掲出のこの八句を見ただけでも、その茅舎の病魔との闘いは凄まじいものであったことは容易に想像することができる。しかし、この八句の題名となっている「心身脱落抄」の「心身脱落」とは、道元の『正法眼蔵』に出てくる禅語でもある。
この「心身脱落」について、「今日の禅語」(下記アドレス)で、次のように説かれている。
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/06.htm
[ ここで言う脱落は生存競争から落後するとか抜け落ちるという一般的解釈ではなく、解脱と同じ意味で、一切のしがらみから脱して心身共にさっぱりした境地を言う。一切を放下し、何の執着もない自由無碍の精神状態である。
この語は道元禅師が留学僧として宋の天童山・如浄禅師のもとでの修行していたとき、道元自らの悟りの機縁となった言葉である。師の如浄禅師はもともと「心塵脱落」として説かれていたものを道元禅師は自らの悟りの境地から「身心脱落」とされたものらしい。心塵脱落は煩悩(心塵)からの解脱であったが、道元は単に心の煩悩だけでなく身体の煩悩共に解脱しなければならないとした。
心塵が是か、身心が是かは定かではないが道元が自ら著わした「正法眼蔵」に如浄禅師は
「参禅は心身脱落なり 焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん・・懺悔の法を修して身心を清浄にする)、看経(かんぎん・・お経を唱える)を用いず、只管(しかん・・ひたすら)に打座するのみ」と示し、さらに「身心脱落とは坐禅なり。只管に坐禅するとき五欲煩悩が除かれる」
と説かれたと記している。つまり禅の修行は焼香も礼拝も念仏も懺悔(さんげ)も読経も不用である。只ひたすら座禅することが身心の脱落に通じることなのだ。焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん)、看経(かんぎん)を用いずといわれたからといって、参禅修行においてそれらの行為をすべて排除するということではもちろんない。
それらは悟りにおいての直接的手段とするものではないからである。だが、不用であっても不要では決してない。禅者は日常生活、すなわち行住座臥著衣喫飯そのものが、仏作仏行であり、座禅であり、仏法そのものであると言われていることからでもわかる。
即ち「身心脱落」とは身も心も一切の執着を離れて、自由で清々しい境地への解脱である。道元は「仏道をならうことは自己をならうなり、自己をならうとは自己を忘れることなりと云い、自己への執着を離れ萬法に証せられることだといっている。つまり自己の身心とか、他人の身心とかの相対的執着を離れたところに身心の脱落があるとしたのである。
ここに道元の悟りの風光は「ただわが身も心もはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたより行はれて、これにしたがいゆくとき、ちからもいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ仏となる」と云う言葉が端的に物語っている。さらに悟りの境地にとどまることはまた禅の本旨ではない。即ち身心脱落のところに安住せず、その悟りの境地を広く一般大衆へ、いわゆる衆生済度へ向けての利他の行が求められる。それは身心脱落の悟りから、さらにそれをも脱落をさせたところが「脱落身心」でなければならないのである。]
茅舎の第三句集『白痴』の「昭和十六年・心身脱落抄」の「心身脱落」は、この道元の「心身脱落」の世界と同じくするものと解して差し支えないであろう。すなわち、長い病魔との闘いを経て、この八句を得た最晩年においては、「身も心も一切の執着を離れて、自由で清々しい境地への解脱」した、道元の唱えた「心身脱落」の境地に至ったということなのではなかろうか。
そして、この句集の題名にもなっている「白痴」ということも、道元の「仏道をならうことは自己をならうなり、自己をならうとは自己を忘れることなり」の「自己を忘れる」と、これまた、同一の世界なのではなかろうか。
ここまでくると、この句集の最後の一句の、「皆懺悔鶯団子たひらげて」の、この「懺悔」も、聖書における「懺悔」というよりも、道元の「参禅は心身脱落なり 焼香、礼拝、念仏、修懺(しゅうさん・・懺悔の法を修して身心を清浄にする)、看経(かんぎん・・お経を唱える)を用いず、只管(しかん・・ひたすら)に打座するのみ」の「懺悔の法」などにより近いものなのではなかろうか。
茅舎は、その略年譜によると、「明治四十二年(一九〇九) 十二歳。三月、有隣代用小学校を卒業。四月、小石川区の私立独逸協会中学に入学。聖書に親しむ」のとおり、若いときから、聖書の世界に親しんでいたが、その洗礼を受けたわけでもなく、それらの聖書以外の世界を排斥するということではなく、この道元の禅の世界や広く宗教全般についての探究心とその帰依が厚かったという思いを深くする。
いずれにしろ、「白痴茅舎」こと、川端茅舎は、道元の「心身脱落」の悟りから、さらには、その悟りをも脱落した「脱落心身」の境地に至り、今に語り伝えられている「茅舎浄土」の世界へと飛び立っていたことは間違いないであろう。
茅舎復活(その五)
「昭和十六年・二水夫人土筆摘図」
日天子寒のつくしのかなしさに
寒のつくしたづねて九十九谷かな
寒の野のつくしをかほどつまれたり
寒の野につくしつみますえんすがた
蜂の子の如くに寒のつくづくし
約束の寒の土筆を煮てください
寒のつくし法悦は舌頭に乗り
寒のつくしたうべて風雅菩薩かな
「二水夫人土筆摘図」の「二水夫人」とは、茅舎が俳句の指導をしていた「あおきり句会」(第一生命相互保険会社)の会長をしていた藤原二水の夫人を指している。二水夫人と茅舎の異母兄の川端竜子の夏子夫人とは親しい関係にあり、「茅舎略年譜」には、次のとおりの記述が見られる。
[ 昭和九年(一九三四) 三七歳。五月、竜子の妻夏子の紹介で、第一生命相互保険会社の「あおきり句会」の指導を始める。十月、処女句集『川端茅舎句集』を玉藻社より刊行。]
茅舎と異母兄の日本画家として著名な竜子(龍子)との当時の関係は、森谷香取さんの「川端茅舎――俳人川端茅舎と思い出の中の親族」に詳しい(現在は下記のアドレスでその一部分しか目にすることはできないが、竜子関係のネット記事などでもその一端が紹介されているものが多い)。
http://www.ne.jp/asahi/inlet/jomonjin/bousha_04.html
そして、これらを見ていくと、茅舎と竜子の実父(寿山堂)とその長兄にあたる竜子との葛藤(竜子の実父に対する嫌悪感など)は深刻なものがあり、そういう葛藤の中で、晩年の茅舎と寿山堂とは、竜子の完全な庇護下にあって、病床にある茅舎にとって、その兄嫁(夏子)や甥(清)、そして、この二水夫人などが、真の理解者であったのであろう。
この掲出の八句の中で、特に、六句目の、「約束の寒の土筆を煮て下さい」は、茅舎の傑作句の一つとして、今に詠み継がれている。この句についての、山本健吉の評(『現代俳句』)は次のとおりである。
[ 「二水夫人土筆摘図」と前書した「寒の野につくしつみますおんすがた」と続き、さらにもう一句「寒のつくしたうべて風雅菩薩かな」が続いている。「食事は野菜が好き」という茅舎は、ほんの小鳥の餌(え)ほどの少量で足りたらしい。とは言え美食家でなかったわけではない。寒の土筆とは贅沢な注文だ。お弟子の二水夫人の約束が忘れられなかったのであろう。食べ得ては「風雅菩薩」と打ち興じている。童心である。ただ注文の「寒の土筆」だけが、凝りに凝っている。このような食物をねだる茅舎の身体は玲瓏たる透明体のような気がする。彼は九州旅行中原鶴温泉で珍しい川茸を食べ「それを食うと身体が八面玲瓏と、透明になるような感じのするものであった」と言っている。この句棒のように一本調子だが、「約束の、寒の土筆を、煮て下さい」と呼吸切(いきぎ)れしながら、微(かす)かな声になって行くようで、読みながら思わず惹き込まれて行くような気持ちになる。いっさいの俳句らしい技巧を捨てて、病者の小さな、だが切ない執念だけが玲瓏と一句に凝ったという感じがする。 ]
(追記一) 川端茅舎と龍子
「二水夫人土筆摘図」という題名については、日本画の題名のようでもある。川端茅舎は、家族の希望で、当初、医者の道を志していたが、受験に失敗して、画家志望となり、藤島武二絵画研究所、そして、岸田劉生に師事して、洋画家になることを目指していた。
茅舎の異母兄の龍子は、いわずと知れた、日本画の大家である。龍子は。当初、洋画家を目指していたが、アメリカ留学中に日本画に転向した。
茅舎は最後まで、洋画家になることを夢見ていたというが、兄の龍子が日本画ならば、自分は西洋画という思いもあったのかも知れない。しかし、この「二水夫人土筆摘図」の題名に見られるように、茅舎は、表面的には、極めて、日本画的な、あるいは、仏教的なニュアンスの雰囲気を有しているのであるが、その内実は、西洋画的な、極めて、聖書的なニュアンスが強い世界に関心が強かったという思いを深くする。と同時に、この川端龍子と茅舎という兄弟は、それぞれ目指す道は異なったが、「東洋的な感性と西洋的な感性とを見事に開花させて、それぞれの世界で、それぞれに一時代を画した」というを思いを深くする。
(追記二) 川端龍子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E9%BE%8D%E5%AD%90
川端 龍子(かわばた りゅうし、1885年(明治18年)6月6日 - 1966年(昭和41年)4月10日)は、大正 - 昭和期の日本画家。激しく流れる水の流れとほとばしる波しぶきによる龍子の描いた水は、巨大なエネルギーで観る者を圧倒した。昭和の動乱期、画壇を飛び出し、独自の芸術を切り開いた日本画家である。けたはずれの大画面、龍子は躍動する水の世界を描き続けた。その水は画家の心を写すかのように時代と共に色や形を変えていった。
本名は昇太郎。1885年(明治18年)和歌山県和歌山市に生まれ。幼少の頃、空に舞う色とりどりの鯉のぼりを見て、風にゆらめく圧倒的な鯉の躍動感に心引かれた龍子は、職人の下に通いつめると、その描き方を何度も真似をした。自分もこんな絵を描けるようになりたいとこのとき思ったのが、画家龍子の原点であった。10歳の頃に家族とともに東京へ移転した。弟は俳人の川端茅舎(ぼうしゃ)であり、龍子自身も「ホトトギス」同人の俳人でもあった。
画家としての龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていた。1913年(大正2年)に渡米し、西洋画を学び、それで身を立てようと思っていた。しかし、憧れの地アメリカで待っていたのは厳しい現実であった。日本人が描いた西洋画など誰も見向きもしない。西洋画への道に行き詰まりを感じていた。失意の中、立ち寄ったボストン美術館にて鎌倉期の絵巻の名作「平治物語絵巻」を見て感動したことが、日本画転向のきっかけで帰国後、日本画に転向した。1915年(大正4年)、平福百穂(ひゃくすい)らと「珊瑚会」を結成。同年、院展(再興日本美術院展)に初入選し、独学で日本画を習得した龍子は、4年という早さで1917年(大正6年)に近代日本画の巨匠横山大観率いる日本美術院同人となる。そして1921年(大正10年)に発表された作品『火生』は日本神話の英雄「ヤマトタケル」を描いた。赤い体を包むのは黄金の炎、命を宿したかのような動き、若き画家の野望がみなぎる、激しさに満ちた作品である。しかし、この絵が物議をかもした。当時の日本画壇では、故人が小さな空間で絵を鑑賞する「床の間芸術」と呼ばれるようなものが主流であった。繊細で優美な作品が持てはやされていた。龍子の激しい色使いと筆致は、粗暴で鑑賞に耐えないといわれた。
その後、1928年(昭和3年)には院展同人を辞し、翌1929年(昭和4年)には、「床の間芸術」と一線を画した「会場芸術」としての日本画を主張して「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ。壮大な水の世界で、縦 2 メートル、横 8 メートルの大画面、鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト、激しくぶつかり合う水と水、波しぶきの動きの『鳴門』を描き、当時の常識をくつがえす型破りな作品であった。その後も大作主義を標榜し、大画面の豪放な屏風画を得意とし、大正 - 昭和戦前の日本画壇においては異色の存在であった。
1931年(昭和6年)朝日文化賞受賞、1935年(昭和10年)帝国美術院会員、1937年(昭和12年)帝国芸術院会員、1941年(昭和16年)会員を辞任。
(以下・略)
(追記三) 川端茅舎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8D
川端 茅舎(かわばた ぼうしゃ、1897年8月17日 - 1941年7月17日)は、東京都日本橋蛎殻町出身の日本の俳人、画家。日本画家である川端龍子とは異母兄弟。本名は川端信一(かわばた のぶかず)。別号、遊牧の民・俵屋春光。
高浜虚子に師事し、虚子に『花鳥諷詠真骨頂漢』とまで言わしめたホトトギス・写生派の俳人。仏教用語を駆使したり、凛然とし朗々たる独特な句風は、茅舎の句を『茅舎浄土』と呼ばしめる。
1897年、東京都日本橋区蛎殻町で生まれた茅舎は、腹違いの兄である龍子とともに育てられる。父信吉は紀州藩の下級武士、母は信吉の弟が経営する病院の看護婦。父は弟の病院で手伝いとして働いていたが、その後煙草の小売商を始める。父は「寿山堂」という雅号を自分で持つほど、俳句や日本画や写経を好むような風流人であったと、ホトトギスの中で茅舎は述べている。そのことから、茅舎と龍子の兄弟が進むべき道に大きく父親が影響したと考えられている。
6歳になった茅舎は、1903年私立有隣代用小学校へ入れられる。無事小学校を卒業した茅舎は、1909年、獨逸学協会学校(のちの獨協中学校)へ入学。叔父と母が病院に勤める関係者であったことから、周囲から(特に父から)将来は医者になることを期待されていた。その後、第一高等学校理乙を受験するも失敗。そのころには画家として独立していた兄・龍子の後を追うように、次第に茅舎自身も画家を志すようになる。藤島武二絵画研究所で絵画の勉強を始める。
また17歳頃から、自らの俳号を「茅舎」と名乗り始め、父とともに句作するようになる。俳句雑誌『キララ』(後の『雲母』)に度々投句する。(武者小路実篤の「新しき村」の第二種会員になり、白樺派の思想に触れた茅舎は次第に西洋思想に感化されていく。それが契機で、絵画の分野で明確に西洋絵画を志すようになり、その後洋画家岸田劉生に画を師事する。京都の東福寺の正覚庵に籠もり、絵や句の制作に勤しみ、同時に仏道に参じる。自身が描いた静物画が春陽会に入選するほど絵画の腕を上げる。
しかし虚子門や脊椎カリエスや結核といった肺患に身体が蝕まれていき、師と尊崇していた劉生も死去してしまったこともあり、俳諧の道へ本格的に専念するようになる。投句を続けていた『キララ』から『ホトトギス』に専念的に投句をし始め、雑詠の巻頭を飾るまでになる。その後、高浜虚子の愛弟子となり、俳句の実力が認められ、1934年に『ホトトギス』の同人となる。また後に「あをぎり句会」の選者となる
1941年、肺患の悪化により44歳の若さで死去。現在は、龍子や他の家族とともに伊豆の修善寺に埋葬されている。
西洋的な感性と東洋的な感性で紡ぎ出された写生的な句は、花鳥諷詠を唱えた虚子に「花鳥諷詠真骨頂漢」と評価されるほどであった
茅舎復活(その六の一)
「昭和十六年・春月」
春月の国常立命(くにとこたちのみこと)来し
春月の眼胴(めどう)うるほひ雪景色
春水の底の蠢動又蠢動
春水の中の虫螻蛄皆可愛
まつ青(さを)に鐘は響きぬ梅の花
「昭和十六年・二水夫人土筆摘図」の次の章が「房子金柑」で、その後に「春月」となり、上記の五句が収載されている。この五句とも、これが茅舎の句かと首を傾げたくなるような、いわば、駄句とも思えるような句で、何故、茅舎は、このような句をここに収載したのかと、どうにも首を傾げたくなるのである。
と同時に、一句目の「国常立命(くにとこたちのみこと)」、二句目の「眼胴(めどう)」、三句目の「蠢動(しゅんどう)」、四句目の「虫螻蛄(けら)」、そして、五句目の「まつ青(さを)」と、どうにも、それぞれの句の中で、これらの語句が異常な響きを有しているように思えてくるのである。
特に、一句目の「国常立命(くにとこたちのみこと)」とは、『古事記』や『日本書記』に出てくる天地開闢に関係する神様の一人で、川端茅舎の「茅舎」(モーゼが遊牧の民に建てた粗末なテントの意の「茅舎」。そして、この「茅舎」の前号の一つに「遊牧の民」を使用していた)と関連させると、丁度、『旧約聖書』の「出エジプト」に出てくる「モーゼ(モーセ)」というイメージでなくもない。
このように解すると、この一句目の句意は明瞭となってくる。「春月を仰ぎ見ていると、遊牧の民である吾の主の『モーゼ』が迎えに来てくれるような思いがする」と、いずれにしろ、「死が真近に迫っている」ことを暗示している句という雰囲気のものであろう。
次の二句目の「眼胴(めどう)」というのは、五体(頭・胴・手・足・心)の、その「眼と胴体」の意なのではなかろうか。句意は、「春月を見ていると、あたかも、その春月と一体となるような錯覚をして、眼も胴体もぼんやりと潤うような感覚で、まるで、雪景色の中を彷徨っているような思いがしてくる」と、これまた、「春月へ昇天していく」というような句意になるのであろうか。
そして、この一句目と二句目が「春月」の「天」に関係するものに比して、次の三句目と四句目とは、「春水の底・中」という「地」に関係するもので、何やら、『古事記』・『日本書記』、そして、『旧約聖書』の「天地開闢」と関連させているという雰囲気でなくもない。
この三句目の句意は、「『天地』の「天」から「地」へと視点を変えると、そこには「春水の底」が「蠢動又蠢動」しているような錯覚に陥ると、これまた、「春水の底に沈潜していく」との、「死への誘い」という雰囲気の句なのではなかろうか。
そして、この四句目の「虫螻蛄」の「虫」(秋の季語)も「螻蛄」(「螻蛄」は夏の季語、「螻蛄鳴く」は秋の季語)も、俳句では多く見かける季語なのだ、ここでは、「春水」の春の句で、この「虫螻蛄」は、「春の虫・螻蛄達」との意に解したい(そして、茅舎の師の高浜虚子の「虫螻蛄と侮られつつ生を享(う)く」などの句もその背景にあめようにも思われる)。その上で、この句もまた、「吾が生はこの春水の中のミクロの化身の虫螻蛄達の生と同じようなもので、誠に、この虫螻蛄達が愛惜しくてならない」と、そして、儚い虫螻蛄達の生命に思いを馳せながら、これまた、「死への誘い」を詠じているのように思えるのである。
さて、この「春水」の章の最後の「まつ青(さを)に鐘は響きぬ梅の花」の句、この「梅の花」は、茅舎の絶句ともいうべき、「朴散華即ちしれぬ行方かな」と重ね合わせると、どうしても、「白い梅の花」がイメージとして浮かんでくる。
「まつ青(さを)に鐘は響きぬ」の「青」と、「白い梅の花」の、この「青と白」との心象風景的な交響は、やはり、「茅舎が茅舎浄土に召されて行く」、そのような響きを有していることを実感する。
そして、ここに至って、かの与謝蕪村の絶句の、「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」を想起せざるを得ないのである。即ち、この茅舎の梅の句は、「朴散華即ちしれぬ行方かな」と対になっていて、茅舎の絶句と解して差し支えないのではなかろうか。
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茅舎復活(その六の二)
(追記一) 茅舎の絶句
○ 朴散華即ちしれぬ行方かな (昭和十六年)
[ 茅舎が病臥する窓前に朴の木があり、臨終(七月十七日)に近いその夏も、「我が魂のごとく朴咲き病よし」「天が下朴の花咲く下に臥す」「朴の花白き心印青天に」「朴の花猶青雲の志」「父が待ちし我が待ちし朴咲きにけり」(『定本川端茅舎句集』)などと吟じている。茅舎の霊前に、高浜虚子は「示寂すといふ言葉あり朴散華」との弔句を寄せている。 ]
(『新編俳句の解釈と鑑賞事典』所収「川端茅舎(補説・山下一海稿)」)
ここにも、「朴の花白き心印青天に」「朴の花猶青雲の志」と、「青」と「白」との交響がある。これはまた、画人・川端茅舎の心眼ともいえるものなのではなかろうか。
(追記二) 茅舎の「梅の花」
○ カアさんといひてみており梅の花 (昭和八年)
[ 昭和八年(一九三三)「ホトトギス」三月号。前書に、「一月十七日朝より父は突然ほとんど言語普通、去年虚子先生の我に賜ひし紅梅一鉢いま父の枕頭に置く」とある。寿山堂(註・茅舎の父の号)が脳溢血で倒れたのだ。「カアさん」と言ったのは寿山堂で、それは妻の「ゆき」の事であろう。迎えに来てくれたのか、と。ゆきの命日は二月二十三日。]
(『蝸牛俳句文庫 川端茅舎』)
茅舎の絶句の一つとも解せられる、「まつ青(さを)に鐘は響きぬ梅の花」には、この茅舎の父が亡くなった時の句が脳裏にあったのかも知れない。そして、「父や母が迎えに来て呉れたのか」という思いが去来していたのかも知れない。この父が亡くなった時の、父の枕頭に茅舎が置いたのは、茅舎の師の虚子より頂いた紅梅であるが、これは茅舎への見舞の鑑賞用のもので、「まつ青(さを)に鐘は響きぬ梅の花」の、茅舎が幻影の中に垣間見る「梅の花」は、「朴散華即ちしれぬ行方かな」の「白い朴の花」と同じく「白い梅の花」と解したい。
(追記三)茅舎第三句集『白痴』の謎(仮説)
茅舎が、その生前に刊行した最後の第三句集『白痴』は、その題名も、そして、そこに収載されている句の多くが不可思議な謎めいたもので占められている。そして、その「序」に記した「白痴茅舎」の「白痴」とは、良寛の「大愚 良寛」の「大愚」と同意義のようなものと解しているのだが、もっと大胆な仮説を提示するならば、「『白』に執り憑かれた『痴れ者』」の意もあるような思いを深くしている。茅舎の「白」のイメージの代表的な句を列挙して置きたい。
○ 白日(はくじつ)に蓮の香渡る広野かな (昭和五年)
○ 白露に阿吽(あうん)の旭さしにけり (同上)
○ 白露に金銀の蝿とびにけり (同上)
○ 白露をはじきとばせる小指かな (同上)
○ 新涼や白きてのひらあしのうら (同上)
○ 白露の鏡のごとき御空かな (昭和六年)
○ 白雪を冠(かむ)れる石のかわきをり (『川端茅舎句集』)
○ 真白な風に玉解く芭蕉かな (同上)
○ どくだみの真昼の闇に白十字 (『華厳』)
○ 栗の花白痴四十の紺絣 (『白痴』)
○ 白露やうしろむきなる月見草 (同上)
○ 白日の下に卒塔婆を折焚きぬ (『華厳』以後「ホトトギス」)
○ 白牡丹われ縁側に居眠りす (同上)
○ 白芙蓉暁けの明星らんらんと (同上)
○ 朴の花白き心印青天に (同上)
(追記四)『華厳』『白痴』に関連して「敵性語」など
川端茅舎の第二句集『華厳』は、「大華厳瑠璃光つらら打(うち)のべし」などの「日光・華厳の滝」に由来するものなのであろうが、その背景として、仏教の「華厳経」の「華厳」にも由来があることは言を俟たないであろう。茅舎の傑作句というのは、この「華厳」のような、仏教用語を駆使したものが多い。
○ 金剛の露ひとつぶや石の上(昭和六年) → 「金剛」
○ 氷る夜の文殊に燭をたてまつる(『川端茅舎句集』)→ 「文殊」
○ ぜんまいののの字ばかりの寂光土(『華厳』) → 「寂光」
○ 蕗の薹雪遍照と落窪む(『白痴』) → 「遍照」
○ 寒のつくしたうべて風雅菩薩かな(同上) → 「菩薩」
○ 朴散華即ちしれぬ行方かな(昭和十六年) → 「散華」
これらのことと関係してのことなのか、しばしば、茅舎の「プロフイール」で、次のように「仏教的な求道精神を基底に」とか、とかく仏教との関連で記述されているものを多く目にする。
http://uraaozora.jpn.org/haikawa.html
[ 川端茅舎 【かわばた ぼうしゃ】
明治30年8月17日~昭和16年7月17日。仏教的な求道精神を基底に、写生によって対象を深く凝視する、格調高く緊張した調べをもった句を作った。]
しかし、茅舎は決して、仏教に帰依したわけではなく、その年譜などをたどっていくと、仏教の「仏典」よりも、より多く、キリスト教の「聖書」の世界に、足を踏み入れていたという思いを深くする。しかし、茅舎は、決して、クリスチャンでもなんでもない。
これらのことに関連して、茅舎の第三句集『白痴』が刊行された、昭和十六年前後の時代風潮というのは、いわゆる、「太平洋戦争」突入前夜という趣で、その前年の昭和十五年は、「皇紀二千六百年」記念祝典があり、外来語が氾濫する欧米崇拝的な風潮を改め、日本語・日本文化を大切にしようとの趣旨の、いわゆる、英米語(外国語)を「敵性語」として「外来語」を排斥する風潮下にあった。
こういうことと関係することなのかどうか、茅舎の第三句集『白痴』の冒頭の句は、「大旱天智天皇の『秋の田』も」(青淵)と、「天智天皇」の句で始まる。そして、その句集の後半になると、「春月の国常立命(くにとこたちのみこと)来し」(春月)と、この「国常立命(くにとこたちのみこと)」というような、どうにも、茅舎俳句とは馴染みのないよう用語も出てくる。
これらのことから、大胆な仮説をすると、茅舎という作者は、内面的には、より多く「西洋的・キリスト教的」な世界に軸足を置きながら、外面的には、「東洋的(日本的)・仏教的」な世界に軸足を置いていたような装いを凝らしていたということも、やや穿った見方であるが可能なのかも知れない。これらを裏付けるものの一つとして、茅舎は、異母兄の川端龍子の「日本画」に比して、終始、「西洋画」を志していたということも、参考になることなのかも知れない。
http://www.google.co.jp/imglanding?q=%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8E&imgurl=http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/6e/177ed3279ede2cd798e871906061f43e.jpg&imgrefurl=http://blog.goo.ne.jp/ttetsuo_2005/m/200705/1&usg=__hz2eFz0ipQoy9j5olEqGl10UAY0=&h=379&w=335&sz=56&hl=ja&itbs=1&tbnid=kH060AYkIaOMKM:&tbnh=123&tbnw=109&prev=/images%3Fq%3D%25E5%25B7%259D%25E7%25AB%25AF%25E8%258C%2585%25E8%2588%258E%26hl%3Dja%26sa%3DN%26gbv%3D2%26ndsp%3D20%26tbs%3Disch:1&sa=N&gbv=2&ndsp=20&tbs=isch:1&start=11#tbnid=kH060AYkIaOMKM&start=15
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茅舎復活(その七)
[ 昭和十四年 青淵
大旱(ひでり)天智天皇の「秋の田」も
炎天に青淵の風ふと立ちぬ
青淵の上に御田(おんた)の旱かな
青淵に翡翠一点かくれなし
大旱の淵は瀬を吸ひ止まざりき
鮎の瀬を淵へ筏は出て卍 ]
茅舎の第三句集『白痴』は、上記の「昭和十四年 青淵」の章から始まる。その最初の、「大旱(ひでり)天智天皇の『秋の田』も」の句、この何とも奇妙な「天智天皇」の句は、これが、高浜虚子より「花鳥諷詠真骨頂漢」と、その「序」を賜った、川端茅舎の句かと、どうにも、首を傾げてしまうのである。
当初、この昭和十四年の時代風潮である、「皇国史観」的な、復古調の「天智天皇」の句かと、そして、この『白痴』の後半に出てくる、「春月の国常立命(くにとこたちのみこと)来し」(「春月」)の、「国常立命(くにとこたちのみこと)」と対になっているような句かと理解していたのだが、これは、どうやら、百人一首の冒頭の「天智天皇」の歌に関係している句のようなのである。
ここで、その天智天皇の歌の解説などを、下記のアドレスのネット記事から掲載をしておきたい。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/001.html
[ 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
(あきのたの かりほのいほの とまをあらみ わかころもては つゆにぬれつつ)
【歌意】秋、稲を刈り取る季節――、田のわきの仮小屋に宿っていると、屋根の苫は目が粗いから、私の袖ときたら、しとしとと落ちて来る夜露に濡れとおしだよ。
【語釈】◇かりほの庵 仮庵の庵。同語を重ねて言ったもの。「刈り穂」と掛詞か。「一説に、刈り穂の庵。一説には、かりいほのいほ。(中略)かりいほのいほ、よろしかるべきにや。いにしへの哥は同事をかさねよむ事みちの義也」(宗祇抄)。仮庵とは田のそばに臨時に建てた小屋。物忌みのために籠ったり、農具を納めたり、夜間宿泊して田が荒らされないよう見張ったりした。◇苫 小屋の屋根などを覆うために草を編んだもの。◇あらみ (目が)粗いので。《み》は形容詞の語幹について原因・理由などをあらわす接続助詞(または接尾語)。「…を…み」の形は万葉集に多く見られる。◇衣手 衣の手の部分。袖のこと。◇露にぬれつつ 露に濡れながら。《つつ》は動作の反復・継起・継続などの意をあらわす接続助詞。和歌では末尾に置かれることが多く、断定を避けて詠嘆を籠めるはたらきをしたり、余情をかもす効果をもったりする場合もある。
【出典】後撰集巻六(秋中)「題しらず 天智天皇御製」
【原歌?】万葉集巻十「詠露」作者不明記
秋田苅る借廬(かりほ)を作り吾が居れば衣手寒し露ぞ置きにける
【主な他出文献】「古来風躰抄」、「定家八代抄」、「秀歌大躰」、「近代秀歌(自筆本)」、「詠歌大概」、「八代集秀逸」、「別本八代集秀逸」(後鳥羽院・家隆・定家撰)、「新時代不同歌合」
【作者・配列】 百人一首巻頭歌。公任の「三十六人撰」、具平親王の「三十人撰」、後鳥羽院の「時代不同歌合」など、上代歌人を含めた歌仙秀歌撰においては、常に巻頭を飾るのは柿本人麿であった。前例を破って、歌聖の前に二人の天皇の御製を置いたことに、定家が百人一首に籠めた思いを知るべきであろう。それは、和歌史における皇室の重みということである。
二首目の持統天皇は天智天皇の子であり、したがって巻頭二首は、末尾二首――父子の関係にある後鳥羽院・順徳院――と照応している。
天智天皇は奈良時代末期の光仁天皇以後連綿と続く皇統の祖として仰がれた。定家と同時代の慈円は、「コノ御門孝養ノ御心フカクシテ、御母斉明天皇ウセタマイテノチ、七年マデ御即位シタマハズ。御子大友皇子ヲ太政大臣トス。又諸国ノ百姓ヲ定メ民ノカマドヲシルス」(愚管抄)と、人格面・政治面ともに評価している。
天智天皇御製と伝わる歌は、万葉集に四首。勅撰集では後撰集・新古今集に各一首のほか、計五首入集している。 ]
この天智天皇の歌に接すると、茅舎の「大旱(ひでり)天智天皇の『秋の田』も」の句も、そして、他の五句の句意なども、おもむろにそのベールを上げてくれるように思えてくるのである。
さて、茅舎の、この句の「秋の田」は、天智天皇の歌の「秋の田」に対応する。天智天皇の歌では、「露にぬれつつ」なのに対して、茅舎の句では、「大旱(ひでり)」で「濡れるどころか干ばつで困っている」ということなのであろう。
ここで、天智天皇の歌の、「かりほの庵」(仮庵の庵)が、なんと、川端茅舎の「茅舎」(旧約聖書の『レビ記』に出てくる『結茅(かりほずまい)の節(いわい)』のことであって、本名の『川端信一(のぶかず)」の俳号の『茅舎』は、イエス・キリストが洗礼を受けた『ヨルダン川』の、その「川端」の、モーゼがつくった『茅舎』(粗末なテント)の意で、茅舎自身、その『遊牧の民』(神の僕の『羊飼い』)という意識があっての、すなわち、聖書を背景にしての『茅舎』である)と、見事に一致するのである。
とすると、この句は、昭和十四当時の、茅舎自身の自画像の句ということになる。すなわち、「天智天皇の『秋の田』の『かりほの庵』は露に濡れているが、その「かりほの庵」の「茅舎」という号を持つ私は、病苦で『大旱』の状態である」というようなことが、その背景をなしているように思われるのである。
そして、この章の章名になっている「青淵」というのは、「かりほの庵」(茅舎)の号の上の、その姓の、「川端」(「ヨルダン川」の川端)と関係する「青淵」のように思えてくるのである。
と理解すると、この章の他の二句目から六句目の五句にある「青淵・淵・瀬」という意味合いが見えてくる。そして、六句目の、「鮎の瀬を淵へ筏は出て卍」の「卍」(「卍(まんじ=万字」は、仏書に用いられる万の字で、仏・菩薩の胸・手・足等に現れた吉祥万徳「幸福と功徳」を示すとされ、日本では仏教や寺院の標識・記号に用られている)の、その「仏の功徳」、そして、それは同時に、茅舎自身に、「死」が迫っているようなことを暗示しているのではなかろうか。
とにもかくにも、茅舎の第三句集『白痴』というのは、高浜虚子に選を仰ぎ、「ホトトギスの『花鳥諷詠真骨頂漢』の茅舎」の句集ともいうべき、第一句集『川端茅舎句集』並びに第二句集『華厳』とは一味も二味も違っていて、いわば、これらの句集が「晴(はれ)の句集」とすると、ほとんど、これが日常の、有りのままの、そして、いわば、「遊び半分」のような、自分と自分をよく知る知音同志への、「褻(け)の句集」とでもいうべきもののように思えるのである。
そして、その冒頭の「青淵」というのも、「川端茅舎」の、その「川端」との含みをもたせ、そして、その号の「茅舎」と深い関わりのあることを暗示させる、百人一首の冒頭の、天智天皇の歌の、「本歌取り」の句を、その冒頭に持ってきたという、どうにも、この『白痴』という句集が、謎めいた句集で、その謎解きを、この句集に接するものに、強いているような、実に、不可思議な句集であることは、この冒頭の章と、その冒頭の句に接するだけで、十分に頷けるところであろう。
http://www.google.co.jp/imglanding?q=%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%80%80%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96&imgurl=http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/008/029/83/N000/000/001/123097192756616325138.JPG&imgrefurl=http://banyahaiku.at.webry.info/200901/article_3.html&usg=__uI4H0OWQd09r8IzqUf7hKm8L7hU=&h=2057&w=1475&sz=1048&hl=ja&itbs=1&tbnid=jfoGldJdRYoduM:&tbnh=150&tbnw=108&prev=/images%3Fq%3D%25E5%25A4%25A9%25E6%2599%25BA%25E5%25A4%25A9%25E7%259A%2587%25E3%2580%2580%25E7%2599%25BE%25E4%25BA%25BA%25E4%25B8%2580%25E9%25A6%2596%26hl%3Dja%26sa%3DG%26gbv%3D2%26tbs%3Disch:1&sa=G&gbv=2&tbs=isch:1&start=0#tbnid=jfoGldJdRYoduM&start=4
茅舎復活(その八)
[ 昭和十四年 菜殻の炎
鐘楼に上りて菜殻火を見るも
清浄と夕菜殻火も鐘の音も
菜殻火の襲へる観世音寺かな
菜殻火の映れる牛の慈眼かな
菜殻焼く火柱負ひぬ牛車
夏薊礎石渦巻くおそろしき
アセチレン瓦斯の手入れよ月見草 ]
『白痴』の「青淵」の次の章が「菜殻の炎」で、上記の七句が収載されている。茅舎は、昭和十四年六月に、九州の小野房子を訪ねて、筑紫に一カ月ほど滞在する。この掲出句は、その折りのものであろう。この他にも、「ホトトギス」に投句したものもあり、「ホトトギス」(同年九月号)に掲載された句に、次のような句がある。
○ 燎原の火か筑紫野の菜殻火か
○ 筑紫野の菜殻の聖火見にきたり
○ 菜殻火は観世音寺を焼かざるや
○ 都賦楼趾菜殻焼く灰降ることよ
ここで、「青淵」の章の次に、この「菜殻の炎」を持ってきたのか、その
ヒントは『白痴』所収では三句目、そして、上記の「ホトトギス」掲載のも
のの三句目の「観世音寺」にあるようなのである。
この「観世音寺」こそ、天智天皇が、筑紫で崩じた母の斉明天皇のために発願建立した寺なのである。『白痴』の冒頭の章の冒頭の句は、「大旱(ひでり)天智天皇の『秋の田』も」の「天智天皇」であり、そして、その章に続く、「菜殻の炎」は、その天智天皇が亡き母のために発願建立した寺で、ここで、「青淵」の「天智天皇」と、続く「菜殻の炎」の「観世音寺」とが、一線上に結びついてくるのである。
すなわち、「青淵」の章の六句が、「川端茅舎」の「姓と号」とに関連するものとするとならば、この「菜殻の炎」の章の七句は、亡き母に捧げる「供養の炎」とも解せられるものなのではなかろうか。
こういうことを背景として、上記の『白痴』の七句、そして、「ホトトギス」掲載の句を見ていくと、茅舎の、この「筑紫野吟行」の句が鮮やかに、これらの句に接するものに、力強く訴えくるものが感知されるのである。
ここで、ネット記事のもので、「筑紫朝倉の俳人・小野房子」と「観世音寺」のものを掲載しておきたい。
http://www.city.asakura.lg.jp/magazine/jinbutsu_shi/jinbutsu_shi_20.html
[ 「筑紫朝倉の俳人・小野房子」
◆花楓日の行く所はなやかに 俳人 小野房子
小野房子は明治31年9月21日、東京府北多摩郡田無町に坂谷伊之助・とく夫妻の次女として生まれました。田無町は武蔵野台地のほぼ中央にあり、江戸時代は青梅街道の宿場町でした。武蔵野の林が広がり富士山がながめられる、美しくのどかな風土に育ちましたが、七歳の時、母・とくが亡くなりました。
房子は母の実家がある東京市日本橋に移り、祖母の手で武家の娘同様、厳格に育てられました。女学校を卒業後、娘時代の房子の様子は詳しく分かりません。ただ、「神田の本屋街に行けば房子が居る」といわれるほど本が好きでした。後に夫となる小野直世との出会いも本屋らしく、文学談義に話が弾んだのでしょうか。直世は神官の資格を得るため上京し、勉学に励む学生でした。やがて2人に愛が芽生え東京で結婚、長男・英世を授かりました。
直世は省線や逓信省に勤め、家族の生活を支えていましたが、神職が使命との自覚にめざめ、家族と共に帰郷することにしました。大正12年、関東大震災の直前でした。
●志波宝満宮へ
直世の実家は朝倉郡志波村宮原(現在の朝倉市杷木志波)で、志波台地が筑後川に洗われ暖地系樹木が繁茂する景勝地です。直世と家族は、無事に志波宝満宮の実家に戻りましたが、父・正雄(宮司)の決定で、親戚先の蜷城村深見家に預けられました。直世夫婦は、同村の美奈宜神社で、宮司家の仕来たりを見習うことになったのです。
大正13年3月、長男・英世の小学校入学がせまり、直世家族は実家に復して、直世は志波村役場の戸籍係に勤めました。
●「ホトトギス」を愛読
房子が志波の暮らしに慣れたころ、東京から俳句雑誌「ホトトギス」が送られて来るようになりました。送り主は、俳句好きの弟・鐘三郎でしょうか。東京のころと違って、満足に本を読む機会がない房子は、何度も読み返し、やがて自分でも句を作るようになりました。また、「だれか良き師を」との願望が強くなり、「ホトトギス」に掲載される代表的な俳人の作品に注目する日々が続きました。
●俳句の師・川端茅舎
房子が俳句の師と心に決めたのは、川端茅舎でした。昭和7年10月、上京して大森区桐里町(現在の大田区)の茅舎邸を訪ねました。初対面の茅舎に、じかに弟子入りの願いはしにくく、「お句に出ている露のお庭を拝見出来ましょうか」と来意を告げたところ、茅舎は丁重に案内し、庭や俳句のことを語ってくれました。
志波に帰り早速、出来た句を添えて弟子入りを願い出ました。茅舎からは「心よく承知する」との温かい返事が届きました。遠く隔てた師と弟子は手紙の往復で研鑽を積みました。いわば通信教育ですが、茅舎の指導は独特で、房子が提出した句稿には○と●とー線が振られたのみ、添削指導はありません。よく考えて努力しなさいというものでした。「ホトトギス」昭和7年12月号雑詠に、初入選句が載りました。
「たずね来ぬ紫苑の露はいまだしも」
●句誌「鬼打木」の発行
房子は、少数の友人と「黄心樹」という句誌を出していたらしく、これを母体として昭和12年7月から、茅舎指導のもと房子主宰による句誌「鬼打木」を発行することが決まりました。発行予告を地方新聞等に掲載、また、知人を通して勧誘に努めたところ、予想以上の購読申し込みがあり、房子は大喜びでした。茅舎は初号のでき上がりを「鬼打木は序も雑詠も気持ちよく出来ました。表紙の色も気持ちいいです」と房子への便りでねぎらいました。
●茅舎、朝倉の旅以降
茅舎は病身を押してでも筑紫路・朝倉への旅に出ようと決意しました。房子や鬼打木会員の句の指導をし、併せて菜殻火を見たいと思ったからです。菜殻火とは、種を採った後の菜殻を田畑で燃す火のことで、戦後まで見られた梅雨前の風物詩でした。昭和14年6月9日、茅舎は博多駅に下車、房子とその句友の上野嘉太櫨、北川葛人、平田四郊の出迎えを受け、甘木駅では緒方無元夫妻や鬼打木会員の盛大な歓迎に感激しました。
茅舎は同月19日まで宝満宮に滞在。その間、甘木公園での歓迎句会、秋月吟行、太宰府菜殻火吟行など、気を張って成し遂げました。茅舎の菜殻火を詠んだ作品に「筑紫野の菜殻の聖火見に来たり」や「燎原の火か筑紫野の菜殻火か」など一連の秀句があります。帰京の日、茅舎は小野家との別れに際して、「笹粽ほどきほどきて相別れ」と詠み、房子もまた、惜別の思いを次の一句に託しました。
「笹ちまき巻きつゝ思ひはるかなる」
朝倉の旅前後は小康を保っていた茅舎も、昭和15年1月以降は咳のため呼吸困難になり、喀血、頭痛に苦しみました。房子は3月と5月に師の病気見舞いに上京、翌16年4月にも茅舎邸を訪ね、病が篤いことを悟りました。そして7月17日、茅舎は44歳の生涯を閉じました。同年11月、房子は茅舎の写真を抱いて宮崎市青島に一泊の旅をしました。「この次は青島に」と漏らしていた茅舎の望みをかなえました。
茅舎句碑の建設は鬼打木会員にも諮っていましたが時局が厳しく、着手しがたい状況にありました。宝満宮境内には「筑紫野の菜殻の聖火見に来たり」の句碑があります。建碑者は房子と弟子の熊本晴穂で、終戦前後密かに建てられたものでしょう。昭和21年11月、高濱虚子はここに立ち、愛弟子・茅舎をしのびました。
●戦後の房子と鬼打木
戦後の窮乏の時期も、房子は鬼打木句会を続けました。句誌「鬼打木」も孔版(ガリ版)印刷ながら、不定期刊行で発行されています。原紙切りから製本までを、復員したての矢野竹坊と丸山輝生が担当しました。
昭和27年には杷木町公民館報が発行を開始。房子は編集委員となり俳壇欄を担当するとともに、エッセイや評論も寄稿しました。房子に公民館活動という新境地が開け始めたころです。
昭和31年8月、房子は伊豆市修善寺に行き、ようやく亡き師・茅舎の墓参りを果しました。
「修善寺のおくれし盆に参りけり」
房子は昭和33年4月、がんの手術を受けましたが、翌34年1月に再発。6月12日、死去しました。行年62歳でした。
昭和38年、鬼打木の中堅手島知加之、矢野竹坊、丸山輝生、渡辺紫朗と諸氏が房子の句碑建設を発起。ゆかりの人々の協力を得て、これも宝満宮境内鬼打木の樹の下に建碑されました。
「花楓日の行く所はなやかに」
もう1つの房子句碑が、房子を師とも姉とも慕った伊藤白蝶の邸内(杷木星丸)に建てられています。
「白きすみれほろりとしたる目に清し」
昭和58年秋の建立で、除幕の神事は房子の長男・英世が行い、祝詞奏上中あざやかな黄蝶が飛来し去り難く舞っていたと、語り草になりました。白きすみれの句は、俳人房子の人柄をよく伝えています。情にもろく無欲で、かつ、温かい俳人でした。
昭和59年、次女・池田みちゑは房子の詠んだ2千句から秀句を選び、遺句集「しのび草」(私家版)を編み、亡き母を追慕しました。 ]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E4%B8%96%E9%9F%B3%E5%AF%BA
[ 観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院。山号を清水山と称する(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に名付けたもの)。本尊は阿弥陀如来(金堂本尊)と聖観音(講堂本尊)、開基は天智天皇である。九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。東大寺、下野薬師寺とともに「天下三戒壇」のひとつとされ、平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。]
茅舎復活(その九)
[ 昭和十四年 つゆ
嘶けば歯白き露の馬悲し
日に炎えて露に噎びぬ猛り鵙
露燦と雀は鵙に身を挺し
蟷螂の面上に唾はきかけし
露時雨蟷螂尻をどかと据ゑ ]
『白痴』は、「青淵」・「菜殻の炎」に続いて「つゆ」の章が続く。その章名は平仮名の「つゆ」なのであるが、そこに収載されている五句うちの四句は、漢字の「露」の表記で、残りの一句は「露」の句というよりも「蟷螂」の句である。
そもそも、川端茅舎は「露の茅舎」といわれるほどに、多数の「露」の傑作句を生み、茅舎が最も愛した句材でもあった。
茅舎の処女句集『川端茅舎句集』(昭和八年)は四季別に編纂され、その冒頭に秋の部を据えて、「露」の句が二十六句続く(その二十六句は下記のとおり。※印は「二倍送り記号」を平仮名で表記。※※印は代表的な傑作句)。
一 露径深う世を待つ弥勒尊
二 夜店はや露の西国立志編
三 露散るや提灯の字のこんばんは
四 巌隠れ露の湯壺に小提灯
五 夜泣する伏屋は露の堤影
六 親不知はえたる露の身そらかな
七 白露に阿吽の旭さしにけり ※※
八 白露に金銀の蠅とびにけり
九 露の玉百千万も葎かな
一〇 ひろびろと露曼陀羅の芭蕉かな ※
一一 白露をはじきとばせる小指かな
一二 白露に乞食煙草ふかしけり
一三 桔梗の露きびきびとありにけり ※
一四 桔梗の七宝の露欠けにけり
一五 白露に鏡のごとき御空かな
一六 金剛の露ひとつぶや石の上 ※※
一七 一聯の露りんりんと糸芒 ※
一八 露の玉蟻たぢたぢとなりにけり ※
一九 就中百姓に露凝ることよ
二〇 白露の漣立ちぬ日天子
二一 玉芒みだれて露を凝らしけり
二二 玉芒ぎざぎざの露ながれけり ※
二三 白露に薄薔薇色の土竜の掌
二四 白露が眩ゆき土竜可愛らし
二五 日輪に露の土竜は掌を合せ
二六 露の玉ころがり土竜ひつこんだり
これらの二十六句を見ても、平仮名の「つゆ」の表記はなく、全て、漢字の「露」の表記なのである。茅舎は、その最後の句集『白痴』において、「露」の句が収載されている、その章名を、何故に、平仮名の「つゆ」としたのであろうか、これは、どうにも、謎そのもので、どうにも、これは推測というよりも妄想する他は術がないようにも思われてくる。
その妄想の類なのであるが、第一章の章名の「青淵」は、川端茅舎の、その「姓と号」とに関連するものであり(「その七」で触れた)、第二章の章名「菜殻の炎」が、茅舎の「亡母に捧げる供養の炎」と解することも可能であるならば(「その八」で触れた)、この第三章の「つゆ」は、亡き母の名「ゆき」をイメージしての「つゆ」なのではなかろうか、そんな思いがするのである。
茅舎の年譜などを見ると、茅舎の父(川端信吉、俳号・寿山堂)は、「昇太郎(後の川端龍子)、秋子の二子を得るが、故あって家を出る」とあり、「明治二十八年上京し、親戚の経営する日本橋病院に勤め、塚畑ゆきを知る」とあり、この「ゆき」が茅舎の母である。
さらに、「昭和三年(一九二八) 三一歳。二月二十三日、母ゆき心臓病で死亡。六十二歳。(中略) 四月、大森区桐里町二七三番地に龍子の建ててくれた家(後の青露庵)に、父の寿山堂と共に移る」とあり、日本画家として大成した川端龍子は、龍子の実母と家族を見捨てたところの、その実父とその家族(ゆき・茅舎・妹=他家の養女となっている)との葛藤は凄まじいものがあったことは容易に窺い知れるところである。
そういう中にあって、川端家の長子の龍子が、最終的には、自分を見捨てたところの、その実父と異母弟に当たる茅舎を引き取って、その面倒まで見るということであり、異母兄弟同士の、龍子と茅舎との関係というのは、これまた、第三者には容易に窺い知れないものがあることであろう。
そういうことを背景にして、掲出の『白痴』・「つゆ」所収の五句を見ると、その「蟷螂」とか「鵙」のイメージは、茅舎の異母兄の龍子という雰囲気でなくもない。そして、その「雀」のイメージは茅舎その人で、そして、「露」は、茅舎の亡き母「ゆき」のイメージが彷彿としてくるのである。
もとより、句の鑑賞において、このように「あれかこれか」と、その背景などを詮索することは無用のことではあるが、茅舎の、何とも異様な謎にみちた句集『白痴』に接すると(そして、その「序」・「後記」・「もう一度後記」などを見ていくと)、これらの茅舎の実父・実母を巡る、その異常な境涯というものの足がかりなくしては、どうにも、この茅舎の『白痴』という句集の一句・一句の鑑賞にはならないような、そんなジレンマに陥るのである。
ここで、もう一度、その「序」・「後記」・「もう一度後記」のポイントとなることを再掲をして置きたい。
「序」・・・「新婚の清を祝福して贈る 白痴茅舎」(この「序」については、「その二」で触れた)。
http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/61443262.html
「後記」・「もう一度後記」・・・「もちろん知音同志が最後の二章から句業の意味を発見せられる事に相違ない。だがもう一度誰哉行燈(たそやアンドウ)を許して欲しい」(この「後記」・「もう一度後記」については、「その三」で触れた)。
http://blogs.yahoo.co.jp/seisei14/61448159.html)
この「序」に出てくる「清」とは、川端龍子の長男で、当時の茅舎の身辺にあって、茅舎が何もかも気を許しあったところの同胞ともいうべき肉親の方で、この句集はその方に捧げるという体裁をとっており、この『白痴』という句集は、第一義的に、それらの肉親・知音同士を意識してのものといえる。
その意味で、その第一句集『川端茅舎句集』、その第二句集『華厳』が、晴れ着的な公の「晴(ハレ)」の句集とすると、普段着的な私的な「褻(ケ)」の句集と解せられるものであろう。
そして、その「後記」では、この『白痴』の編集などは全て弟子の鈴木抱風子がやったこととしながら、その「もう一度後記」で「誰哉行燈(たそやアンドウ)を許して欲しい」と明記して、「実は、この編集の全ては、何を隠そう、私こと、川端茅舎が、何もかもやったもの」ということを匂わせているように思えるのである。
これらのことを背景として、この『白痴』の句の一句一句を鑑賞していくと、「結婚して、出征していく、川端家の嫡男・長子の、茅舎の甥っ子の、「清」あての、「『新婚の清を祝福して贈る』」ところの、「二度と生きながらえて会えるかどうかが分からない」という、茅舎の、その当時の、遺言にも似たような、そして、同時に、「何もかも伝達しておきたい」というような、そのような響きが全体を覆っているように思えるのである。
○ 大旱天智天皇の「秋の田」も (第一章「青淵」の冒頭の句)
百人一首の天智天皇の「秋の田」には「仮庵」(茅舎)があり、それは「青淵」(川端)の下にある。すなわち、この冒頭の句には、「川端茅舎」という謎を押し隠している。
○ 菜殻火の襲へる観世音寺かな (第二章「菜殻の火」の三句目の句)
この「観世音寺」とは、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したものであり、この「菜殻の火」には、川端茅舎の、亡き母への「鎮魂の炎」という謎が押し隠されている。
○ 嘶けば歯白き露の馬悲し (第三章「つゆ」の冒頭の句)
この「露の馬」は、「露に濡れた馬」とともに、「露のようにはかない馬」の意もあろう。茅舎の実母「ゆき」は、芸妓屋をしており、茅舎はそれを毛嫌いして、それに由来する葛藤とそれに伴う青春彷徨があった。それらを回顧しての、「亡き母『ゆき』」への、これまた、鎮魂の句、そして、それは、同時に、この章名の「つゆ」という平仮名表記に、亡き母の名の「ゆき」を、押し隠している・・・、どうにも、妄想の類かも知れないが、そんな思いが彷彿としてくるのである。
ともあれ、山本健吉は、川端茅舎の句境を、「微笑を堪えた有情滑稽(フモール)」の境地に至ったと指摘しているとのことだが(『俳句講座八』所収「川端茅舎(香西照雄稿)」)
、この茅舎の最後の第三句集『白痴』には、俳諧が本来的に有しているところの「笑いと謎」の、その「謎」のベールに包まれていることを、ひしひしと実感するのである。
茅舎復活(その十)
[ 昭和十四年 菊
有明の月下に菊の輝きし
菊日和シヤベルは砂利を掻鳴す
菊日和道を放射に環状に
銀翼の光飛び来ぬ菊日和
銀翼に鵯の谺や菊日和 ]
「川端茅舎は三十五歳の時、日記を全部整理焼却している。また、少年期の思い出などを除いては、自分の過去をあらわに書いていない。つまり彼には人に語りたくない境遇や傷痕多き青春彷徨があったのだ」という(『俳句講座八』所収「川端茅舎(香西照雄稿)」)。
茅舎の三十五歳の時とは、昭和七年(一九三一)に当たり、この年の十一月に、「脊椎カリエスのため昭和医専付属病院に入院。翌年二月退院」とあり、この翌年(昭和八年)の八月四日に、「父寿山堂死亡。七十九歳」とある(『蝸牛俳句文庫 川端茅舎』所収「川端茅舎略年譜」)。
茅舎の父の寿山堂は、「漢詩・俳諧・日本画・書道を能くし、仏教にも造詣があった」という(香西・前掲書)。この父の寿山堂の手ほどきで、茅舎は俳句の世界に入り、そして、この寿山堂と共に、異母兄の川端龍子の庇護を受けて、そして、その庇護下にあって、その父の死を迎えることとなる。
また、その「略年譜」に出てくる茅舎が入院したところの「昭和医専付属病院」は、「ホトトギス」の兄弟子にあたる水原秋桜子が関係している病院でもあった。
この秋桜子が、「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表して、「ホトトギス」を離脱したのは、昭和六年(一九三一)のことで、秋桜子の率いる「馬酔木」派と虚子の率いる「ホトトギス」派とは、深刻な対立関係にあったが、茅舎は、「ホトトギス」派ではあるが、秋桜子との関係も悪くはなく、むしろ、そういう対立関係とは無縁の世界に身を置いていたともいえるであろう。
「昭和十五年(一九四〇) 四三歳。一月以降に病状悪化。九月、高野素十を新潟に訪ねる。新潟から山口の伊藤無門への葉書に、『月下の無花果』を描く。素十の妻にも絵への思いを語る」(「略年譜)と、秋桜子の「ホトトギス」離脱の原因となった、虚子が秋桜子を排斥して、荷担したところの高野素十とも、茅舎は昵懇で、この「略年譜」にある「新潟行き」とは、素十が関係する「新潟大学」の付属病院に入院したことと軌を一にするものであろう。
このように、茅舎は、「ホトトギス」門の、秋桜子、素十、そして、その「ホトトギス」の中にあって、いろいろと物議を引き起こすところの中村草田男とも昵懇で、その生涯というのは、その生い立ちなどと深く関係して、他と軋轢を起こすようなこととは、意識・無意識とを問わず、本質的に無縁の世界に身を置き、そういう軋轢などとは一定の距離を置いていたというように思われるのである。
さて、掲出の「菊」との章名の下の、これらの五句にも、何か謎が隠されているのだろうか・・・、「菜殻の火」(昭和十四年・第二章)・「ゆき」(昭和十四年・第三章)が、茅舎の実母に関連するものと理解が出来るなら、それに続く、この「菊」の章名とこの五句についても、茅舎の父・母などの肉親などに関係するような雰囲気の句ではある。
○ 鶯やいろはしるべの奥の院 寿山堂
この茅舎の父の寿山堂の句は、茅舎が、昭和九年(一九三四)に刊行した処女句集『川端茅舎句集』の最末尾に収載されているものである。この句の「しるべ・導・標」は、「道を案内すること・また、その人。助け導くこと」などの意で、茅舎にとって、この寿山堂の句は、「俳句の『いろは』の手ほどきをしてくれた方は、他ならず、父の寿山堂である」というよう意図があるようにも思える。
この句からして、茅舎の処女句集の『川端茅舎句集』は、亡き父・寿山堂に捧げたものとも理解することができよう。そして、この句からして、茅舎にとって、父・寿山堂は、「鶯」というイメージがその底辺に横たわっているように思えるのである。すなわち、掲出の章名の「菊」とこの五句の菊の句は、父をイメージしたものとは思えないのである。
とすると、生まれて間もなく養女に出されたところの実の妹「ハル(晴子)」が、これらの句の背後にイメージされているのであろうか。
茅舎の「略年譜」には、次のようなことが記されている。
[昭和三年(一九二八) 三一歳。二月二十三日、母ゆき心臓病で死亡。六十二歳。臨終に妹のハル(晴子)が駆けつけたが、母娘の名乗りは出来なかった。
昭和五年(一九三〇) 三三歳。病弱失意の画業なし。六月十八日、妹晴子。〈白露に阿吽の旭さしにけり〉などの五句が「ホトトギス」十一月号で巻頭。この年で他の俳誌への投句をやめ、「ホトトギス」一辺倒となる。]
茅舎は、昭和三年(一九二八)に母を亡くし、昭和五年(一九三〇)に妹を亡くし、そして、昭和八年(一九三三)に父を亡くして、その上、脊椎カリエスという不治の病で、自分自身、遠からず、亡き父・母・妹と同じようになるということを予感していたのではなかろうか。すなわち、茅舎の最期の句集『白痴』の刊行は、昭和十六年(一九四一)の七月(「もう一度後記」の日付は昭和十六年四月八日)で、その月の十七日に永眠した。
このようなことを背景にして、この章名の「菊」とその五句を見ていくと、五句中の四句の「菊日和」というイメージが、茅舎の実妹の「ハル(晴子)」と重なってくるのである。
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