土曜日, 10月 20, 2012
曽良と『曽良旅日記』
曽良と『曽良旅日記』
河合曽良(かわいそら)とは謎の満ちた俳人である。その名は、芭蕉の『おくのほそ道』の随行者として、その俳人の名以上に知られている。
曽良は慶安二年(一六九四)に信濃国上諏訪(現長野県諏訪市上諏訪町)に生まれ、宝永七年(一七一〇)五月二十二日に壱岐国勝本(現長崎県壱岐郡勝本町)で病没した。時に六十二歳であった。 曽良と芭蕉との年齢差は僅かに五歳ということであり、芭蕉自身の記述においても両者の親密さの度合いを推量することができる。その『おくのほそ道』の「日光」の章で、曽良の「剃捨(そりすて)て黒髪山に衣替(ころもがへ)」の句を紹介しながら、芭蕉は、曽良について、次のように記述している。
「曽良は河合氏(かはひうぢ)にして惣五郎(そうごろう)と云へり。芭蕉の下葉(したは)に軒をならべて、予が薪水(しんすい)の労をたすく。このたび松しま・象潟(きさがた)の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且(かつ)は羈旅(きりよ)の難をいたはらんと、旅立(たびたつ)暁、髪を剃(そり)て墨染(すみぞめ)にさまをかえ(へ)、惣五を改(あらた)めて宗悟(そうご)とす。仍(よつ)て黒髪山の句有(あり)。衣替の二字力ありてきこゆ。」
芭蕉と曽良との出合いは、天和三年(一六八九)の、曽良三十五歳の時とされ、貞享二年(一六八五)、芭蕉庵の近くの、深川五間堀を本拠とし、芭蕉の日常生活に何くれと奔走したのであろう。 その貞享四年の秋の鹿島詣でにも、宗波(そうは)と共に芭蕉に随行している。
芭蕉が、奥の細道の長旅を始め、二度も曽良を随行者としているのは、曽良が、その神道・地理・国学・和歌などに造詣が深かったということも、その一因として上げられるであろう。曽良は、神道を吉川惟足(これたる)に学び、この吉川惟足門にいて、これらの造詣を深くしたと思われる。 曽良は、後の宝永六年(一七〇九)に、将軍の代替わりにともなって諸国を巡査使が派遣された際には、土屋喬直(たかなお)の用人として随員に加えられており、いわば、旅や地方の実情などに関して職業的にも精通した人であったということができるのかも知れない。
とにもかくにも、旅に生き旅に死んだ俳聖・芭蕉の、その不朽の名作『おくのほそ道』の、その旅の随行者として、曽良は、元禄二年(一六八九)・同四年次の『曽良旅日記』を、今に残しており、これは、当時の芭蕉の動静を記録したものとしても、いや、それ以上に、俳聖・芭蕉の全体像を把握する上からしても、大変に貴重なものであり、芭蕉と、その『おくのほそ道』が、その名を止めている限りにおいて、芭蕉の随行者としての、曽良の名も永遠に記録され続けることであろう。
〔俳人としての曽良〕
○ なつかしや奈良の隣の一時雨(伊賀の堺にて)
○ 浦風や巴をくづすむら鵆(ちどり)
○ 畳め(目)は我が手のあとぞ紙衾(かみぶすま)(題竹戸之衾)
○ 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす(松嶋一見の時、千鳥もかるや鶴の毛皮とよめりければ)
○ 破垣(やれがき)やわざと鹿子(かのこ)のかよひ道
○ 月鉾や兒(ちご)の額の薄粧(うすけはひ)
○ 終夜(よもすがら)秋風きくや裏の山(加賀の全昌寺に宿す)
○ いずくにかたふれ臥(ふす)とも萩の原
(元禄二年翁に供せられて、みちのくより三越路にかゝり行脚しけるに、かゞの国にていたはり侍りて、いせ まで先達(さきだち)けるとて)
○ 向(むき)の能(よ)き宿も月見る契(ちぎり)かな
○ むつかしき拍手も見えず里神楽
○ 大峯やよしのゝ奥の花の果
(はなも奥有(あり)とや、よしの深く吟じ入(いり)て)
○ 春の夜はたれか初瀬の堂籠(ごもり)
○ 涼しさや此庵をさへ住捨(すみすて)し(明年夏尋旧庵)
芭蕉俳諧の最高峰を示すものとして名高い『猿蓑』(凡兆・去来編)に入集されている曽良の十三句である。この『猿蓑』には三八二句の俳句(発句)が入集されているが、その入集の多い順でいくと、凡兆(四一句)、芭蕉(四〇句)、去来・其角(二五句)、尚白(一四句)、史邦(一三句)、丈草・羽紅・曽良(一二句)の順で、江戸在住の蕉門では、其角に次ぎ、嵐雪・杉風(五句)より上位を占めている。
この当時、俳人としての曽良の絶頂期であったのだろう。この『猿蓑』は元禄三年から四月にかけて編纂されたもので、正に、芭蕉と曽良との『おくのほそ道』の旅(元禄二年)の、その直ぐ後に刊行されたものである。いや、それ以上に、この『猿蓑』が編纂されていた頃、曽良も京におり、この『猿蓑』の編纂の一躍を担っていたとも思われる記事と当時の芭蕉の状況などが、その『曽良旅日記』(「曽良元禄四年近畿巡遊日記」)に記されている。
○廿六日(元禄四年旧暦五月)、雨天、集ノ義取立(トリタテ)深更(シンコフ)ニ及(オヨブ)。○八日未明(元禄四年旧暦六月)、翁(芭蕉)病気甚シ、吐瀉有(アリ)、終日不慥。昼時北野へ行テ、長者町ヘ帰テ、又、小川ヘ行テ宿。
○九日(天晴)、今日叡山ヘ行クベキノ所翁(芭蕉)病気故止(ヤム)。夜前、乙州来テ宿ス。丈草来テ同道、凉ヲ見テ中村ニ宿ス。
この記事に関連して、芭蕉が湖南の幻住庵に入ったのは、元禄三年の四月初旬であり、当時の曽良が芭蕉に宛てた同年九月二十六日付け書簡などによると、曽良は芭蕉の病状を深く憂え、ことあれば江戸の深川庵に帰るよう催促しており、その芭蕉を迎えるための頃の曽良の記録とも受け取れるのである。
芭蕉も、この曽良の江戸への帰庵の催促に応じたのか、その元禄四年七月の『猿蓑』の刊行を見て後、その年の九月に義仲寺無名庵を発って帰東の途に着いている。そして、芭蕉が、支考と桃隣との同道にて江戸に帰着したのは、その年の十月のことであった。
これらのことを見ていくと、当時の曽良は、江戸の蕉門の実質的な芭蕉の代役という感じで、その連句・発句の両面において、当時の芭蕉の俳境を、身近かにあって一番吸収した俳人であったということがいえそうである。
しかし、曽良の俳諧(連句・発句)におけるその句作の全貌というのは、蕉門十哲といわれる他の俳人に比して、極めて少なく(百三・四十句)、その句作りの表現趣向においても理知的傾向が強いともいわれ、蕉門十哲としての曽良の名を見出すことはできない。
ともあれ、俳人としての曽良は、芭蕉俳諧の最高峰の二つの、『猿蓑』と『おくのほそ道』の、両方にその名を止め、芭蕉の名と共に、その影のごとくにして、その俳諧史上その名を止める俳人であることは疑う余地のないところであろう。
〔『曽良旅日記』〕
『曽良旅日記』は、『曽良随行日記』ともいわれ、元禄二年(一六八九)と同四年との旅の日記的な曽良の自筆メモというのが、その内容である。そして、それは、次の六部より構成されている。
① 「延喜式神名帳抄録」
『おくのほそ道』の旅で芭蕉に随行するに際して、予め通過予定の土地の神社名を、『延喜式』神名帳から書き抜いたものである。
② 「歌枕覚書」(「奥の細道名勝備忘録」)
「延喜式神名帳抄録」と同じく、通過予定の各地の歌枕を列挙したもので、その資料は『類字名所和歌集』と『楢山拾葉(ならやましゆうよう)』に拠るとされ、さらに、現地踏査で得たものを、後で行間余白などに書き込んでいる。
③ 「元禄二年日記」(「奥羽の旅日記」・「曽良奥の細道随行日記」)
元禄二年三月二十日から同年十一月十三日までの旅に関する日記。芭蕉の『おくのほそ道』の旅の基本的な記録で、芭蕉の不朽の名作『おくのほそ道』を理解する上において必須の資料といえる。
④ 「元禄四年日記」(「近畿巡遊日記」・「曽良元禄四年近畿巡遊日記」) 元禄四年三月四日から七月二十五日までの旅に関する日記。『猿蓑』編纂時の芭蕉やその周辺の蕉門の俳人の動静と俳人曽良を理解する上で貴重な資料といえる。
⑤ 「俳諧書留」(「奥の細道俳諧書留」)
『おくのほそ道』の旅で各地で作られた自(曽良)他(芭蕉等)の発句・連句・文章などを日記とは別に記録したもので、各作品の初案形などを知る上で必須の資料といえる。
⑥ 「雑録」(「弓道覚書・貞室逸話などの種々の雑録」)
『おくのほそ道』の旅で山中温泉で聞いた貞室逸話や二度の旅日記に関連する人名・住所録・古歌などが記録されている。
これらの、『曽良旅日記』が現存することは江戸時代においても一部には知られていたが、その全貌が明らかにされたのは、昭和十八年七月の、山本安三郎(俳号・六丁子)編『曽良奥の細道随行日記・附元禄四年日記』(小川書房)によってであった。さらに、杉浦正一郎校注『芭蕉おくのほそ道・附曽良随行日記』(岩波文庫)によって、広く一般の人にも流布され、それが、現在の、萩原恭男校注『芭蕉おくのほそ道・付曽良旅日記』((岩波文庫)や潁原退蔵・尾形仂訳注『新訂おくのほそ道・附曽良随行日記』(角川日本古典文庫)によって引き継がれているのである。
なお、この『曽良旅日記』の原本は、潁原退蔵・尾形仂訳注『新訂おくのほそ道』によると、「古美術の収集をもって聞こえた斎藤幾太氏が明治年間に大阪で入手したもので、戦後斎藤浩介氏より杉浦正一郎博士に譲られ、--、現在は天理図書館綿屋文庫蔵に帰している」ということである。
これらのことに関して、山本安三郎編『曽良奥の細道随行日記』の「はしがき」には次のように記述されている。
「嘗(かつ)て某家に年久しく伝へられたる古名流俳家の墨蹟文書等を愛蔵せらるゝを仄聞(そくぶん)してゐた私は、昭和十三年夏同家に於ける蔵品一部の曝凉(ばくりやう)に際し、友人佐藤十雨君の紹介にて拝覧する機会を得た。--、別けても私の瞳の底に強く灼(や)きつけられた一品があつた。それは河合曽良が松尾芭蕉に随従して、奥羽北越の行脚即ち奥の細道の行脚の『旅日記』であつた。 如斯(かくのごとき)日記が今日まで完全に残されてあつたことは私の思ひもつかぬ驚異であつた。奥の細道行脚の日より約二百五十年間、芭蕉研究に於ける汗牛充棟(かんぎうじゆうたう)も啻(ただ)ならざる文書記録等にも、未だ嘗て顕(あら)はれたことの無い史料である--。」
そして、同書の「序」(志田義秀)では、「これによつて学会の蒙(かうむ)る裨益(ひえき)は蓋(けだ)し大なるものがあろう」とあり、これによって、新たな『おくのほそ道』探査が始まったともいえるであろう。
その山本安三郎編『曽良奥の細道随行日記』の内容は、「曽良奥の細道随行日記」・「奥の細道俳諧書留」・「奥の細道名勝備忘録」・「延喜式神名帳抄録」・「曽良元禄四年近畿巡遊日記」・「奥の細道随行日記異同比較考え」・「奥の細道天候と旅宿一覧表」の七部構成となっている。
しかし、本書そのものの入手が一般的には困難になってきたと共に、その著の「本書を読まるゝ方へ」にあるとおり、「仮名遣ひの相違、片仮名平仮名混用、当字誤字、脱字、抹消、書直し其他に由る難読の箇所も随處にみられ」、その校注のみでの理解は相当に困難といえるであろう。
そして、この山本安三郎編の『曽良奥の細道随行日記』に継ぐものとして、前述の、杉浦正一郎校注の「曽良随行日記」(岩波文庫『芭蕉おくのほそ道』所収)が昭和三十二年に刊行され、これが、山本安三郎編の『曽良奥の細道随行日記』にとって代わり、今日の基本的な参考文献といえるものであろう。しかし、これも、その刊行からほぼ四十年という時の経過からして、その校注などに改訂を要する部分も目につくようになり、この著も、前記の萩原恭男校注『芭蕉おくのほそ道・付曽良旅日記』や潁原退蔵・尾形仂訳注『新訂おくのほそ道・附曽良随行日記』などを併用しないと、なかなかその理解は困難を伴うものと思われるのである。
ともあれ、芭蕉の不朽の名作『おくのほそ道』の、より良き理解のために、この『曽良旅日記』の果たす役割は大なるものがあり、この意味において、もっともっと、この『曽良旅日記』関連の参考文献が多くなり、その芭蕉の『おくのほそ道』と同程度に、それらの整備充実こそ真に望まれるものと思われるのである。
更には、この『曽良旅日記』そのものだけではなく、その抄録ともいわれている、その他の諸本の踏査についても切に望まれるものと思えるのである。
〔『曽良旅日記』の抄録などの諸本〕
昭和十八年七月の山本安三郎(俳号・六丁子)編『曽良奥の細道随行日記・附元禄四年日記』(小川書房)の刊行によって、その全貌が明らかにされたところの、この『曽良旅日記』は、この抄録とも思われる諸本が、『詳考奥の細道(阿部喜三郎著)』に紹介されている。それらの諸本とその要旨は次のとおりである。
① 人見本・小山田本
下野新聞(昭和二六・六・一七)等に、「那須に伝わる曽良日記の人見本」の記事が出て、古川清彦説(「連歌俳諧研究一」)の紹介が現れた。それによると人見本とは那須湯本温泉神社の神職で旅館和泉屋を経営する人見義男蔵の一本、小山田本とは那須郡黒羽町の小山田モト子蔵の一本で、内容はともに(少しの異同はあるが)、「巳三月廿日 深川出船千住上ル廿六日迄逗留」とある冒頭から五月「十七日 尾花沢清風泊」とあるまでの随行日記の抄録である。
人見本は、その付記によると、嘉永五年(一八五二)に人見家の先祖が写したもの、小山田本には「此日記高久村覚左衛門が家に曽良正筆あり写之」とある。小山田本は旧黒羽藩郡奉行で歌人であった小山田栄重(号・稲所)の筆録した『前岡雑記』第七篇中に収められおり、郷土史家・人見伝蔵説によると、稲所が天保の中頃から弘化の初めにかけて(一八四四)の頃の郡奉行の在職中に、高久家から借覧したものであろうということである。
現在、高久家には伝存するものはないが、古川説は、これらの二本は別々に高久家から伝写されたものであろうということである。この基になっている高久家本については、松本義一説(「連歌俳諧研究七・八合併号)は、芭蕉の真蹟類を多く蔵した高久家としては、曽良筆のものもあった可能性があるとてされるが、久保忠夫説(連歌俳諧研究一四)は、「そのもとの本は曽良自筆とは考えられない」とする。この久保説によると、人見本は小山田本の写しで、更に、後述の『青かげ』・『御正伝記」を加え、これらの四本が基づいたものは一つであったろうと推測している。そして、出立時の「廿六日迄逗留」や仙台の所での「法運寺」の誤読などから、「そのもとの本は曽良自筆とは考えられない」とするのであるが、阿部喜三郎説(前掲書)は、「久保説は推測説ではあるが、ほぼ首肯できる。ただし、前記の松本・古川・人見説も可能であって、この間の事情はまだ十分には確定しがたい」としている。
② 青かげ
須賀川の雨考編の俳書で、文化十一年(一八一四)の頃の刊行である。この中に「むかし翁行脚の頃、泊々の日記といふものをもたる人ありて、写しこしぬ。今細ミちと校合するに、多くたがはず。筆者しれがたけれど、おほやう曽良がおぼえ書とみゆ。其書のうち少々左にうつし出す」として、随行日記の四月廿一日(白河)から五月九日(松島)までの記事(中略も含む)の抄録を載せている。
③ 芭蕉桃青翁御正伝記
天堂一叟の自筆稿本(天理図書館蔵)五巻(四冊)の巻一の終部に、出発より五月十七日(尾花沢・鈴木清風宅)までの随行日記の抄録が掲載されている。この抄録は、『詳考奥の細道(阿部喜三郎著)』によれば、筆者の付加したものが多いとの評価を受けている。
④ 奥の細道下露抄
筆者未詳の稿本の一冊(天理図書館蔵)で、冒頭から立石寺の句までの注釈が掲載されているが、その中に、尾花沢までの随行日記の抄録が引用されているという。『詳考奥の細道(阿部喜三郎著)』によると、この抄録は、前述の小山田本に最も近いものとされている。
⑤ 句安奇禹度(句商人)
大阪堂島の竹齋が細道の旅を志して、文化五年の冬から翌年にかけて旅をし、旅中の収得を集めて文化七年(一八一〇)に刊行した俳書で、この中で「今信州上諏訪久保嶋氏にて写す」とあり、随行日記の原本にある表紙見返しの仙台略図と九八丁表の「元禄二年七月廿日書之」の一行を透写しているという(杉浦正一郎校注『芭蕉おくのほそ道』)。
これらの、『曽良旅日記』の抄録などの諸本のうち、その「人見本・小山田本」(一部は「芭蕉桃青翁御正伝記」)について、『曽良随行日記』(岩波文庫『芭蕉おくのほそ道』所収)と併せ、『詳考奥の細道(阿部喜三郎著)』により、掲載しておくこととする。
『曽良旅日記』などに関する参考文献(本稿で参考とした文献は※印)
〔影印〕『芭蕉紀行文集』(天理図書館善本叢書一〇・八木書店・昭和四七)
〔翻刻〕※『曽良奥の細道随行日記 附元禄四年日記』(山本安三郎編・小川書房・昭和一八)
〔参考翻刻〕※『芭蕉おくのほそ道 附曽良随行日記』(杉浦正一郎校注・岩波文庫・昭和三二)
※『芭蕉おくのほそ道 付曽良旅日記』(萩原恭男校注・岩波文庫・昭和五四)
※『新訂おくのほそ道・附曽良随行日記』(潁原退蔵・尾形仂訳注・角川文庫・昭和四二)
「曽良随行日記」(『校本芭蕉全集六』・井本農一校注・角川書店・昭和三七)
〔参考資料〕「杉浦博士未翻刻・曽良日記」(『近世文芸資料と考証一』・中西啓執筆・昭和三七)
「曽良自筆『奥の細道随行日記』解説」(『芭蕉研究』・杉浦正一郎執筆・昭和三三)
「旅日記の曽良」(『芭蕉論』・上野洋三執筆・昭和六二)
『蕉門曽良の足跡』(今井黙天著・信濃民友社・昭和二八)
『河合曽良追善集収録』(今井邦治著・信濃民友社・昭和三四)
「河合曽良」(『信濃路の俳人たち』・藤岡筑邨執筆・信濃毎日新聞社・昭和五〇)
※「河合曽良」(『俳人評伝下(俳句講座三)』・久富哲雄執筆・明治書院・昭和三四)
※「随行日記〔連接資料〕等」(『『詳考奥の細道(増訂版)』・阿部喜三郎著・久富哲雄補訂・日栄社・昭和五四)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿