木曜日, 10月 18, 2012
三好達治逍遙(その一~その六)
三好達治逍遙
(その一) 春の岬(一)
春の岬旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも (「春の岬」)
三好達治の第一詩集『測量船』の冒頭の詩「春の岬」の詩形は、『三好達治詩集(桑原武夫・大槻哲男選)・岩波文庫』も『三好達治詩集(河盛好蔵編)・新潮文庫』も、共に上記のものである。しかし、次のように、「春の岬」と「旅のをはりの鷗どり」の間に、一字のブランクを空けて解しているものもある。
春の岬 旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも (「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」所収「『測量船』、遅れて来た詩人のかたち(藤本寿彦稿)」)
ここで、「藤本寿彦稿」は、次のような記述をしている。
[そもそも、「春の岬」は若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染れずただよふ」の受容を抜きにしては考えられまい。牧水が詠った悲しみ「空の青」と「海のあを」のあわいの中で、だからこそよりいっそう自己存在性の色を受肉し続けねばならぬものを、三好は短歌と近代詩のはざまに立った表現者の心象として捉え直したのではなかったか。こうした近代詩歌に対する表現者、三好の位置取りが詩「春の岬」のモチーフであり、これが巻頭に据えられたのは遅れて来た詩人、三好にとって、近代詩なるものが決して自明のものではなく、常に疑念の下にあり、書くという行為の中で確認されるものだったからなのだ。そのことを、三好は「春の岬」と「旅のをはりの鷗どり」の間にブランクを入れ、三十一文字を二行に分かち書きすることで表している。さらには「春の岬」というタイトルを付することで――。これは近代のメディアの産物である活字の組み方を利用した視覚的な仕掛けである。もう一つの仕掛けし詩的風景の造形の中にある。三好は牧水の短歌に寄りかかる。あらかじめこの詩作の秘密を読者にバラしておいた上で、実は意外な仕掛けを懲らして、牧水の抒情を理知的な映像世界に作り替えてしまうのだ。これまた誰もが知っている芭蕉の句「行く春を近江の人と惜しみける」や「行く春や鳥啼き魚の目に泪」が呼び出され、牧水の詠った青春の憂いが解釈し直されるのだ。つまり「春の岬」という詩は、牧水の短歌と芭蕉の発句という異質な詩ジャンルをドッキングさせ、昭和のメタフィジックな言語空間を創造しようとしたものなのだ。]
一 「春の岬」と「旅のをはりの鷗どり」の間に一字のブランクを設けるべきなのかどうか、三好達治の短歌集『日まはり』に収載されているものなどと比較して見て行くと、ここはブランクを入れるべきもののようにも思われて来る。しかし、上記の河盛好蔵編のものは、三好達治の存命中に刊行されたものであり(三好と河盛のこの種の編集校正などのやりとりはシビアであったことは語り草となっており)、達治の第一詩集『測量船』の冒頭の詩「春の岬」は、一字のブランク無しと理解すべきなのであろう(それよりも、三好達治自筆の色紙(『三好達治集(現代日本文学大系六四・筑摩書房)』)で、一字空けのブランク無しの四行表示のものが見られる。これなどは、二行表示と共に四行表示もありという思いがする)。
春の岬旅の
をはりの鷗どり
浮きつつ遠く
なりにけるかも
(注一)福井県三国にある「春の岬詩碑」は、四行表示で、一字ブランクのものであり、この詩形が、「四行詩」を愛好した達治の最も「四行詩」らしい詩形と解したい。
春の岬 旅の
をはりの鷗どり
浮きつつ遠く
なりにけるかも
http://machiko-o.cocolog-nifty.com/photos/bungaku/ca3a1322.html
(注二)「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」所収「生きている風景――三好達治、詩と人と」(小島知加子稿)」)は、二行表示の一字ブランクの詩形である。
春の岬 旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
(注三)三好達治自筆の短冊(『三好達治の世界(小川和佑著)・潮新書』)では、二行表示のブランク無しの詩形である。
二 「春の岬」と「旅のをはりの鷗どり」の間に、一字空けのブランクを入れなくても、題名と二行に分かち書きしているだけで、これは、短歌ではなく短詩なのだという理解は十分に可能であろう。
三 この短詩の背景に、「芭蕉の句『行く春を近江の人と惜しみける』や『行く春や鳥啼き魚の目に泪』」が呼び出され」て来るという理解よりも、「春の岬旅のをわりの鷗どり」(「五七五」の長句)と「浮きつつ遠くなりにけるかも」(「七七」の短句)との付け合い、すなわち、連歌・俳諧(連句)の二句唱和(付け合い)という理解の方が、二行詩(二行形式の詩)の場合は、より馴染むのではなかろうか。いずれにしても、この短詩には、短歌そして連歌・俳諧(連句・発句)の、日本の伝統的な詩形式のようなものが、その背景になっているということは窺い知れる。
(その二) 春の岬(二)
三好達治の詩業を理解する上で、『『四季』派詩人の詩想と様式(米倉巌著・おうふう)』所収の「『測量船』の構想と文体」・「その造型意志と様式」は示唆に富んでいる。ここでは、「春の岬」の一行目は、一字空けのブランク有りの表示となっている。
春の岬 旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも (「春の岬」)
そして、その中で、「金子光晴・安東次男『現代詩入門――詩を作る人に――』(青木新書 一九四四・四)」の安東次男の見解を下記のとおり引用している。
[問題は、この詩のことば「つつ」にかかわる。この詩は、見られるとおり、六・七・五・七・七の律を以て構成され、形式上からは、最初の五のところが六になっているだけで、まず典型的な短歌形式である。にもかかわらず、わたしは、かなり以前から、この詩が質的に短歌とどこやらちがったものを含んでいることを考えてきた。(中略)わたしの意識は、いろいろなことを通過したあげく、この「つつ」という表現にこだわっていったのである。]
[普通に短歌の発想からすれば、日本の歌人は、ここを「つつ」とは書くまい。「ゐて」と書くところであろう。そして、三好は、和漢の詩歌にかなり造詣を持った人であるから、三好がこの詩を作ったときも、発想的には一応「ゐて」という表現が自然に出てきたのではないかと思う。あるいは、詩人三好の歌人と異なるところのものからして「つつ」と出てきたのかもしれぬが、その場合も、必ずや推敲の過程において「ゐて」ということばが頭に浮かんだにちがいない。(中略)三好は、意識的に、あるいは半ば無意識的に、この「ゐて」を叙情詩の格調を破るものとしてつよく排除したのであろうと思う。]
[「ゐて」がなぜ短歌的かというと、日本の短歌には、ことに近代的短歌には、切字的効果による連想の作用、飛躍ということは見られるとしても、ことばとしての論理的な混乱、そこから来る一種のミスティケイション(ごまかし)の操作というものはごく自然に排除される。(中略)ところが、この三好の「つつ」には、そういう、短歌に見られぬ手の込んだ操作が入っている。つまり、「春の岬」から「浮きつつ」までは、ごく自然に一情景として読者のなかに入ってくるのであるが、こと「遠くになりにけるかも」となるとそうはゆかぬ。このあいだには、読者の意識のなかで一つの切換操作が行われなければ、素直についてゆけない溝がある。「なりにけるかも」と強く詠嘆しているのであるから、相当距離が遠くなったものであろうが、前の情景における鷗どりが、三好の位置からどれほどの距離にいるのかは知らぬが、たとえ近かろうと遠かろうと、その鷗どりが波間あるいは空気中にただよいながらはっきりと遠ざかってゆくということは、それが目に見えるということは、これはありえないことである。(中略)「遠」ざかったのは、三好の心象面の変化であって、現実には三好の位置も、鷗どりの位置も元の場合と大した変化はなかったのだということになる。というのが、かなり理のあるわたしの推定である。つまり、この詩は、「春の岬」から「鷗どり」までが写生的情景であり、「遠くになりにけるかも」が三好の心象面で鷗に転身したもう一人の三好の感慨なのだ。それをつなぐ役割をしているのが「浮きつつ」なのである。]
一 詩人で、連歌・俳諧(連句・俳句)に通暁している安東次男の「春の岬」論の一端である。その安東説の、「春の岬」から「鷗どり」までは、「写生的情景」で、「遠くなりにけるかも」は、「三好の心象面で鷗に転身したもう一人の三好の感慨」、そして、「浮きつつ」が、この「写生的情景」と「三好の心象風景」とを結びつけているという理解は、なかなか込み入っているが、「そういうものかも知れない」という思いがして来る。しかし、これは、一行表示ではなく、二行表示であり、その二行表示の、一行目と二行目とが、明確に「切れ」ている(そして、この詩はこの明確な「切れ」を表示するために二行表示をしている)ということを等閑視しているように思える。
二 「連句モンタージュ」説で行くと、「一行目」が一場面(ワンカット)、そして、「二行目」が次の一場面(ワンカット)ということになる。そして、次に、どのような場面が来るかは、この詩に接する人に委ねているということになろう。
三 安東説では、この詩を、「六・七・五・七・七」の「典型的な短歌形式」としているが、ここでも、この詩が、二行表示であることを等閑視している。「六・七・五」(長句)と「七・七」(短句)の、「短歌」形式というよりも、「連歌・連句」形式と見る方が、この二行表示の場合は自然なのではなかろうか。
四 安東説他一般的には、一行目の「旅のをはりの鷗どり」の「鷗」に、作者三好達治を投影して、例えば、「三好が二七歳の春、伊豆湯ヶ島に療養中の梶井基次郎を見舞った帰途、下田をへて沼津への海路中」、そして、「それは文字どおりその小旅行の終りであったかも知れぬ。(中略)その歌うべき歌が、どういう歌であるか、それは彼の詩人としての成熟にまたねばならないとしても、まさに半生の旅の終わりから、彼の新しい旅がはじまることを、彼は知っていたにちがいない」(『評伝三好達治(中村稔著)』)という理解まで発展していく。しかし、この「鷗どり」は、決して、三好達治一人だけのイメージではない。「旅のをはりの鷗どり」の、「旅のをはり」とは、「梶井基次郎その人の死」と理解することも、また、「旅のをはりの鷗どり」を、梶井基次郎単独だけでなく、「亡くなった数多(あまた)の同胞(はらから)」と複数に解することも、そのイメージの拡がりは無限のように思われる。
五 と解して来ると、二行目の「浮きつつ遠くなりにけるかも」も、決して、これは安東説のように「三好の心象面で鷗に転身したもう一人の三好の感慨」というものではなく、この二行目もまた、一行目と同じく、全くの「写生的情景」と理解すべきなのではなかろうか。即ち、一行目も「写生的情景」、そして、二行目も「写生的情景」という理解に他ならない。
六 そして、一行目の、「春の岬」と「旅のをはりの鷗どり」の間には、鑑賞上は、一字のブランクがあると理解し、ここで断切があり、それに対比して、二行目の「浮きつつ」の「つつ」は、現在進行形のような詩形と理解すべきなのではなかろうか。即ち、一行目の、「春の岬」で一場面、そして、「旅のをはりの鷗どり」で一場面、ここで、大きく場面が変わり、「浮きつつ」「遠くなりにけるかも」と、ここには、断切はなく、「浮きつつ、次第、次第に、遠くなり」、そして、「消えていくようだ」という情景である。
七 春の岬 旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
ここで重ねて触れると、この二行の短詩は、「春の岬」の次の「ブランク」(空白)と、二行目の「浮きつつ」の「つつ」が対応している。そして、この一行目の「ブランク」(空白)は、「段切・切れ・休止・間」があり、二行目の「つつ」は、その正反対の「継続・進行形」の「繰り返しが行われている」ことを示す措辞であるという理解である。しかし、『『四季』派詩人の詩想と様式(米倉巌著・おうふう)』所収の「『測量船』の構想と文体」・「その造型意志と様式」では、この一行目の「ブランク」(空白)については、何ら触れられていない。ここは、安東説の「つつ」の紹介と併せ、この「ブランク」(空白)についても触れるべきところのものではなかろうか。
八 「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」所収「『測量船』、遅れて来た詩人のかたち(藤本寿彦稿)」で、「彼(注・三好達治)はさりげなく『春の岬』と『旅のをはりの鷗どり』の間にブランクを設けた(没後刊行の筑摩書房刊『三好達治全集』のテクストではブランクがない)。短歌のようでいて、詩「春の岬」はもはや短歌ではない。そして牧水の青春抒情が溢れる世界でもない。というのも、「春の岬」という詩的風景において、第一行の構成要素は、一字分のブランクを設定した三好の意識の介入によって、引き裂かれていくからだ」と綴っている。
九 この「藤本寿彦稿」の、「第一行の構成要素は、一字分のブランクを設定した三好の意識の介入によって、引き裂かれていくからだ」ということは、さらに、「第二行の構成要素の、『つつ』によって、これまた、短歌的世界と訣別して詩的世界へ飛翔せんとするところの、詩人三好達治の絶妙な仕掛けでもある」ということを、付記して置きたいのである。
十 さらに、しばしば、三好達治の詩の世界は、「声に出して愛唱される音楽性に富んだもの」という音律重視の聴覚的な詩と理解されるのが一般的であるが、それと同程度に、日本の伝統的な和歌(連歌・短歌)や俳諧(連句・俳句)、漢詩、そして、西洋の四行詩(カトレン)などの「和・漢・洋」を自在にこなして、さまざまな言語空間的実験を試みている視覚的な詩の世界でもあるということも、これまた付記して置きたいのである。
(その三) 春の岬(その三)
『春の岬』序詩
わが古きまづしきうたのたぐひここにとり集へてひと巻のふみをばなしつ、
名づけて春の岬といふ、ふみのはじめに感をしるして序を添へよとは人の命
ずるところなり、あな蛇足をしひたまふものかな、よしやつたなかるともわ
がうたのかずかずうちかへしわが感をのべたるものを、とてその夜わびしら
に卒然とおのれつぶやけるつぶやき、
わが若き
十とせあまりのとしつきの
いつしかにはやすぎゆきて
あとこそなけれ
そこばくのうたはのこりつ
そのなかばいまここにあり
ながき夜
燈火のもとにつどへて
二つ三つ手にとりあげて
ひるがへし見ればつたなし
よみかへすさへやものうし
宿かりのかつてやどりし
貝なりとこの貝がらの
童べさび
うづわの底をさしのぞけ
あるはただ小さき闇のみ
磯の香のもしやふとだに
わが鼻の頭かすめて
あればあれうれしからまし
なくもまたせんなしなどと
考へてひとりなだめて
茶をすすり煙草ふかしつ
はたうつうつと
かなしびのたへがたかりし
すぎし日をおもひかへしつ
(かのひとも老ひたまひけむ)
山川のうつくしかりし
国々のさまをしのびつ
(銭もなき旅もせしかな)
読む人よあはれと思へ
わがうたはそれらのかたみ
おほかたは精進うせて
おのれにはあぢきなけれど
ただたのむ
いささかのまことに陳べし
遠き日の思出はあれ
春の岬
春の岬旅のをはりの鷗どり浮
きつつ遠くなりにけるかも
一 昭和十四年(一九三九)に合本詩集『春の岬』(創元社)が刊行された。上記のものは、その「序詩」と、続く第一句集「測量船」の冒頭の詩「春の岬」である。この「序詩」には、前書き(詞書き)が五行、そして、序詩が三十六行である。この三十六行(句)というのは、いわゆる、俳諧(連句)の代表的な形式の「歌仙」(表六句・裏十二句・名残の表十二句・名残の裏十二句・計三十六句)と同じなのである。これは、偶然なのであろうか。
おそらく、三好達治は、芭蕉・蕪村・一茶らが得意とした「歌仙」の句数と同じにしようという意識があったように感知される。
二 そこで、歌仙形式の「表六句・裏十二句・名残の表十二句・名残の裏十二句」に四つの場面(四折)に区切って、そこに、一行を入れて表示したものが、掲出の序詩(三十六行)である。そして、この区切ったものを、一連(六行)・二連(十二行)・三連(十二行)・四連(六行)として、意味などを考えて詠んで行くと、どうやら、その四連構成という理解は決して飛躍したものではないように思われるのである。
三 次に、「春の岬」と題する二行のもの(「春の岬旅のをはりの鷗どり浮/きつつ遠くなりにけるかも」)は、これは、まさしく、「六・七・五・七・七」の短歌を二行に句分けしたものと思われるのである。そして、この二行の句分けは、現在、目にすることのできるものと違っているということに気がついて来る(現在のものは、「春の岬旅のをはりの鷗どり/浮きつつ遠くなりにけるかも」である)。さらに、この「春の岬」の一行目は、「春の岬 旅のをはりの鷗どり」と「春の岬」の次に一字ブランクをするのが、詩碑(福井県三国の「春の岬」詩碑)として刻まれており、この詩の鑑賞は、この一字ブランクのもので鑑賞されるのが一般的となっている(「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」所収の諸論攷はこの詩形によっている)。しかし、掲出の「春の岬」と題する、二行の「六・七・五・七・七」の、その一行目の最後の「浮(う)」は、これは短歌そのもので、単に、その短歌に「春の岬」との「詩」らしき題名を付けたのに過ぎないとすると、まして、一行目の「春の岬」の次に一字のブランクを置くなどというのは、考えられないのではなかろうか。
四 それよりも、掲出のように、「前書(詞書)」・「序詩」、そして、「春の岬」という二行詩(短歌形式)を合体させると、『万葉集』などに見られる、「長歌」(「前書・詞書」・「序詩」がこれに当たる)と「反歌」(二行詩の「春の岬」がこれに当たる)との形式のようにも思えてくるのである。実際には、「前書(詞書)」・「序詩」の次に、「目次」・「中表紙(「測量船」)と続き、その次に、「春の岬」(二行の短歌形式の詩)が続くので、「長歌」と「反歌」という印象は薄らぐが、この合本詩集の題名に、第一詩集の詩集名の『測量船』ではなく、その詩集の冒頭の「春の岬」を持って来て、そして、それに長文の「序詩」を付すると、少なくとも、この合本詩集『春の岬』を編集・刊行した当時の達治の胸中には、『万葉集』などの「長歌」と「反歌」という意識は働いたのではなかろうかという思いを深くするのである。
五 昭和十四年(一九三九)に刊行された合本詩集『春の岬』(創元社)は、詩集としては空前のベストセラーとなり、刊行以来版を重ね、二十万部を超えたという「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」所収「生きている風景――三好達治、詩と人と」(小島知加子稿)」)。そして、「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」所収の「凜とした詩語の音楽(三好達治を再評価する)・中村稔と大岡信の対談記録」の中で、「『春の岬』がものすごいベストセラーになってしまったから、その反動でもう読まなくてもよいと顧みられなくなってしまった」(大岡信の発言)とまでの、三好達治にとっては、絶頂期の決定的な詩集ともいえるものなのであろう。
六 ところが、三好達治にとっては、絶頂期の決定的な詩集の題名となっている、その『春の岬』の、その由来ともなっている、第一詩集『測量船』の冒頭の二行詩の「春の岬」は、例えば、大岡信と中野重治が編者になっている『三好達治 日本詩人全集二一(新潮社)』では、掲載されていず、逆に、「『霾(つちけむり・ばい)拾遺」として「『春の岬』序詩」の方が掲載されているという、どうにも、その『測量船』中の「春の岬」や、合本詩集『春の岬』というのは、謎めいたものを秘めている雰囲気なのである。
七 そもそも、第一詩集『測量船』中の「春の岬」という二行詩(短歌形式)は、「三好が二七歳の春、伊豆湯ヶ島に療養中の梶井基次郎を見舞った帰途、下田をへて沼津への海路中」との作とされ(『評伝三好達治(中村稔著)』など)、そして、合本詩集『春の岬』所収の多くの四行詩というのは、「昭和七年(一九三二) 三十二歳 三月二日 喀血。東京女子医大付属病院へ入院。入院中に梶井基次郎逝去。追悼詩「友を喪ふ(四章)」を「文芸春秋」五月号に発表。(後略)」(『三好達治 日本詩人全集二一(新潮社)』所収「年譜)と、達治の無二の親友・梶井基次郎の逝去前後のものが多く、この第一詩集『測量船』中の「春の岬」、そして、合本『春の岬』というのは、三好達治が梶井基次郎に捧げたも追悼詩篇とも理解すべきものであろう。
八 それが故に、その合本詩集『春の岬』のその「序詩」が活きて来る。
わが若き
十とせあまりのとしつきの
いつしかにはやすぎゆきて
あとこそなけれ
そこばくのうたはのこりつ
そのなかばいまここにあり
九 昭和十四年(一九三九)七月に、三好達治の合本詩集『春の岬』(創元社)が刊行された。そして、その十一月には、梶井基次郎作品集『城のある町にて』(創元社)が刊行され、三好達治は、その編集に当たった。
十 三好達治の梶井基次郎への追悼詩「友を喪ふ(四章)」は次のとおりである(これはフランスの詩人が愛した「四行詩(カトラン)」である)。
友を喪(うしな)ふ (四章)
首途
真夜中に 格納庫を出た飛行船は
ひとしきり咳をして 薔薇の花ほど血を吐いて
梶井君 君はそのまま昇天した
友よ ああ暫くのお別れだ------ おつつけ僕から尋ねよう!
展墓
梶井君 今僕はかうして窓から眺めてゐる 病院の庭に
山羊の親仔が鳴いてゐる 新緑の梢が飛びすぎる
その樹立の向うに 籠の雲雀が歌つてゐる
僕は考へる ここを退院したなら 君の墓に詣らうと
路上
巻いた楽譜を手にもつて 君は丘から降りてきた 歌ひながら
村から僕は帰つてきた 洋杖(ステッキ)を振りながら
------ ある雲は夕焼のして春の畠
それはそのまま 思ひ出のやうなひと時を 遠くに富士が見えてゐた
服喪
啼ききながら鴉がすぎる いま春の日の真昼どき
僕の心は喪服を着て、窓に凭れる 友よ
友よ 空に消えた鴉の声 木の間を歩む少女らの
日向に光る黒髪の 悲しや 美しや あはれ命あるこのひと時を 僕は見る
(その四) 春の岬(その四)
「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」所収の「海なるものへの回帰(城戸朱里稿)」は、三好達治の二行詩の「春の岬」などをあげながら、鮎川信夫の三好達治批判の幾つかについて紹介している。
春の岬旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも (「春の岬」)
[鮎川信夫はこの作品に対して鷗が浮いていようがいまいが関係ないと違和感を語ったというが、処女詩集が「旅のをはり」から語り起される異様さには留意すべきだろう。旅の終わりにあって、海の波間に浮く白い鷗。なるほど、清冽な心象である。]
[彼が逃げこむ古くさい韻律と語感と雅語の世界、短歌的抒情によってしなびた山川草木のそよぎ、擬音的な海のひびき、――彼の指先の言葉のうやつり糸によって敏感に反応する自然はつくりものの世界である。そして詩は、愚鈍な読者や楽天的な詩人が何といおうともつくり物の世界なのである。その点で彼を非難することは出来ない。ただ彼が「逃避幻想」の世界に隠者のように住みこんで、一種の風格をつくるとき(これはある程度読者の責任である)、私は彼の反思想性と「なつかしい日本」を書いた彼の感じ方に、吐き気を催すのである。](鮎川信夫稿「三好達治――逃避幻想の詩人」)
この「三好達治――逃避幻想の詩人(鮎川信夫稿)」は、「現代詩読本三好達治」(思潮社刊)にも掲載されているものだが、それによると、その初出は「現代詩(一九四七・一〇)」とあり、この鮎川信夫の三好達治批判は、昭和二十二年(一九四七)のことで、未だ、三好達治は、福井県の三国に流寓していた当時である。勿論、当時、四十七歳の三好達治は、この戦後詩壇をリードして行く鮎川信夫の三好達治批判は目にしていることであろう。
これらのことについて、「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」所収の「現代詩の終焉へ向けて――三好達治(清水昶稿)」は、次のとおり記述している。
[戦後の達治の悲劇は長くつづいた。それは生涯的といってもいい。まず鮎川信夫らを領袖とする「荒地」グループの登場である。彼らは徹底的に達治の「短歌的抒情」を打ちのめした。さらに長谷川龍生、黒田喜夫らの左翼「列島」グループの登場は、達治にとって致命的だったといえる。いわく「文学者の戦争責任]。しかし、それはある種の態度に時代がもたらした不可避的な悲劇ではなかったか。世にはあいかわらず「短歌的抒情」すなわち「天皇制」という図式がある。それを了としたところで天皇制は、すでに内部から崩壊している。だから現在、短歌を書くひとびとは相当、困難な局面にぶっかっているに相違ない。]
[東大仏文出身である達治を指して吉本隆明は言っている。「大学においてフランス文学を修得し、フランス文学を日本に移植し、また、モダニズム文学の一旗手であった詩人の『西欧』認識の危機における、かけ値なしの一頂点であったことを、わたしたちは決して忘れてはならない。日本の恒常民の感性的秩序・自然観・現実観を、批判的にえぐり出すことを怠って習得されたいかなる西欧的認識も、西欧的文学方法も、ついにあぶくにすぎないこと――これが『四季』派の抒情詩が与える最大の教訓の一つであることをわたくしたちは承認しなければならない」と。]
この吉本隆明の三好達治批判は、「『四季』派の本質――三好達治を中心に」(「現代詩読本三好達治・思潮社刊」所収)のもので(その初出は、「文学(一九五八・四)」)、三好達治が、五十八歳のときのものである。
そこで、吉本隆明が例に出して抄出している、三好達治の戦争詩は次のものである。
かしこ香港島上に
東海の猛鷲飛びかひ
巨弾雨ふり
重砲炸裂し
万物浄化の猛火連日かの病竈(びょうそう)を焼き
はらひて
今その奸悪と譎詐(けっさ)と驕慢との一世紀
理不尽の後に
あああの図々しき禾賊(かぞく)どもの隠れ家は
ああかの死太く厚顔ましき侵略搾取の
足溜りは
見よかしこに彼らの白旗を
ああげに彼らの罪悪の一切合財の根城
のうへ 竿頭高く
つひに彼らの悲鳴を
永く彼らの忘れはてたる一片の良心を
担げ示せるなり (「昨夜香港落つ」より抄出)
これらの、三好達治の戦時中の戦争詩によって、戦後、三好達治は、次の世代の鮎川信夫や吉本隆明らによって、まさに、日本詩壇から閉め出されたといっても過言でなかろう。
しかし、三好達治と同世代の、そして、生涯にわたって達治の良き理解者であった、河上徹太郎は、「それにしても、彼のように一生詩嚢が痩せなかった詩人は、考えてみると世界でも珍しいのではなかろうか?」(「現代詩読本三好達治・思潮社刊」所収「三好達治の追憶――はにかみ屋としての反面」)と言い、そして、桑原武夫は、「君が、日本にかつて存しなかった、あるいは意図のみあって実際の美しい作品の存しなかった、われらの詩、みんな詩の領域において先駆者になることを希望したい」(「「現代詩読本三好達治・思潮社刊」所収「三好達治君への手紙――『測量船』から『砂の砦』まで)と更なる大成を希求していた。
そして、三好達治は、河上徹太郎が指摘するように、生涯にわたって、その「詩嚢」は衰えることなく、そして、桑原武夫の希求に応えて、戦後、隠遁者のように一歩身を引きながら、不死鳥のように、『測量船』から『砂の砦』に続いて、『駱駝の瘤にまたがつて』(創元社・昭和二十七年刊)、そして、『百たびののち』(筑摩書房・昭和三十七年刊)を世に問うのである。
その全てのスタートは、まさに、掲出の、この二行詩の「春の岬」を出発点としているということは、これまた、過言ではなかろう。
(追記一)「反三好達治」の急先鋒であった、鮎川信夫、そして、吉本隆明の、次の世代の、
城戸朱里と清水昶が、「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」(思潮社刊)で、それぞれ別個の視点から、偶然にも次のような「三好達治新発見」を提示していることは、誠に興味が惹かれるところである。
[先ごろ、来日したフランスの詩人、イヴ・ボヌフォアはその講演で俳句における世界への直接性を指摘し、西欧的伝統では到達しえないその詩的権能を讃えたが、われわれが、そういった伝統的に詩歌の遺産というものを、近年、詩界でも流行している連句などといった趣味的な出来事を超えて真に意識化しようとしたとき、三好達治という存在はそり危険性も含めて、われわれにある方向を教えている。そして、それこそが、私が最初に語った、三好達治の詩が持つ重要性の意味するところであるのだが。](「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」(思潮社刊)所収「海なるものへの回帰(城戸朱里稿)」)
[達治は随筆集『夜沈々』のなかの「俳句の抒情性」で次のように書いている。「俳句は和歌という一つの詩歌の伝統が爛熟した後に於て初めて生れ出た」「季節の詩歌季題の詩歌であって、それは抒情詩でありながら、抒情詩の第一の主題、恋愛を、殆ど拒絶しているといってもいい」。そして、さらに「雑感」という文章の中でいう。「(眼前即時詩境を生命とする俳句が)理外の理ともいうべき不可思議作用があって、かくまで人の心を強くうつのはどういうわけだろうか。私はかねがね疑問に考えるところである。「私に於て、俳諧俳句に接する興味は、右の一点を頂点としている」。]
[達治が虚子に接近して俳句の世界に瞠目したのは、そこに、鍛えぬかれた言葉を発見したからである。五・七・五、十七文字の極小の文学の中に壮大な風景を発見した達治の詩は、その根底から揺さぶりをかけられた。だから、こうも言っている。「一篇の詩の価値はそれの一語、一語が如何にそれを置き代わろうとする他の語を排撃したか、その排撃の回数によって、その回数が多いことによって高まる」と。]
[まず言葉ありき、と思う。と同時に音声ありき、とも思う。言葉の韻律の問題である。達治ほどに韻律にちからを注ぎ、実作した現代俳人は少ない。いるにはいるが、彼らの詩は面白くもなんともないのである。おそらく戦後詩人の中で韻律と思想を同時に実作しえたのは谷川雁ひとりぐらいかもしれない。鮎川信夫ら「荒地」グループは、詩に論理と思想を輸入することによって詩人を「歌を忘れたカナリア]にしてしまった。心優しい西条八十のように「唄を忘れたカナリア」を、背戸の小藪に捨てることも柳の鞭でぶつこともならず、かといって象牙の船に銀の櫂をつけてあげるほど詩の出版社サイドは金の持ち合わせがない。つまり、それは、どうしょうもない不幸な境遇に詩人たちは置き去りにされていることの自覚すら現在の詩人にはない、ということを意味している。]
[俳句は一瞬のうちに黙読し暗唱出来る。そして口ずさむことが可能だ。余談になるけれども明智光秀の句に見られる「いまは時あめの下ふる五月哉」のように本能寺焼き討ちの前日、千利休の句会で自分の胸中を、それとなく暗示することができる。これは一種の暗号でありメッセージでもあった。]
[とまれ、再び新体詩や達治の旧かな旧漢字の世界へもどれ、といっても、それは無理だ。だが、現代詩を再構築する道は、どうやら達治が模索した俳句の世界に、まだ、火種がのこっているような気がする。](「現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」(思潮社刊)所収「現代詩の終焉へ向けて――三好達治(清水昶稿)」)
(追記二)現代詩手帖(2000/10)生誕百年三好達治新発見」(思潮社刊)所収「現代詩の終焉へ向けて――三好達治(清水昶稿)」の中で、[不思議に「0」と「1」の波動が、俳句の「五・七・五」の韻律に反応するからである。もう一つの理由は俳句が応答形式に適しているため、お互いのメッセージのやりとりが自在であるからだろう。短歌や詩も試みたが駄目であった]とも記している。その「0」と「1」の試行は、インターネット「清水哲男の増殖する俳句歳時記」で、そこでの俳号は、「清水甲斐」とのことである。
(その五)春の岬(その五)
『三好達治随筆集(中野孝次編・岩波文庫)』を見て行くと、その随筆集の最初の頃に、「春の岬」というのがある。これは、三好達治の第一詩集『測量船』の冒頭の二行詩「春の岬」とは、全然関係ないのかも知れない。
その内容というのは、ある漁村で、二人の子供が、目白を「囮(おとり)」をつかって取っている場面にぶつかり、「うさんくさいおじさん」が、その目白取りの、その随筆では「くさむらの学校」の仲間入りををする機会が許されるというようなものである。
その最後のところは、次のとおりである。
[枝移りをしながらチーチーと鳴き交わしている目白の声、そのかすかな澄んだ声が天地を領しているように思われた。くさめがでても悪かろう。私はそんな心配をしていると、そのとき、弾かれたように、不意に子供たちは駆けだした。私はほっとしてそこにしばらくとり残された。そのときになって、林の向こうのすぐ近くから海の音が聞こえてきた。]
この最後の文章の最後のところの、「林の向こうのすぐ近くから海の音が聞こえてきた」の、それは、「海が見えた」のではなく、「海の音が聞こえてきた」というのが、いかにも三好達治らしい。三好達治という詩人は、何時も「見えた」ではなく「聞こえたきた」という、この音の世界こそ、詩人・三好達治のスタートから、その生涯にわたって、その原点に存在していたもののように思えるのである。
春の岬旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも (「春の岬」
この「春の岬」と題する二行詩も、決して、「浮きつつ遠く」視界から消えて行くだけではなく、「段々と音も消えていく」という聴覚的なものを含まれているように思えるのである。
三好達治が愛唱して止まなかったという室生犀星にも「かもめ」の詩がある。その犀星の鷗は「ぴょろとなく」という。
かもめかもめ
去りゆくかもめ
かくもさみしく口ずさみ
渚はてなくつたひゆく
かもめかもめ
入日のかなたにぬれそぼち
ぴょろとなくはかもめどり
あはれみやこをのがれきて
海のなぎさをつたひゆく (室生犀星「かもめ」)
三好達治の二行詩の「春の岬」というと、伊豆湯ヶ島で療養していた梶井基次郎が浮かんで来るが、そして、三好達治の随筆に出てくる「春の岬」もまた、その伊豆あたりの光景のようにも思われるが、それと共に、達治の二行詩の「春の岬」には、この室生犀星の「かもめ」のイメージも思い浮かんで来る。
室生犀星は、石川県の金沢の生まれであるが、三好達治が一時住んでいた福井県の三国の「みくに新聞」に勤めていたともいう。その三国に三好達治の詩碑があり、それは「春の岬」が刻まれている。そして、それは、日本海ではなく、太平洋に面した伊豆あたりの「春の岬」の詩というイメージがつきまとうが、これまた、日本海の「春の岬」と解しても、室生犀星の、この「かもめ」という詩とあわせ、それは決して違和感を感じさせるものでもなかろう。
『三好達治随筆集(中野孝次編・岩波文庫)』には、「日本海の一角」というものもあるが、こちらは「鷗」ならず「鴉」である。
[鴉は智慧者である。鴉は二百年も生きるそうだから、いろいろな経験をなめしたたか者一群の間にいて、彼らのやり方で後輩どもを統率していることであろう。彼らの啼声に複雑なトーンの変化があるところを見ると、彼らの心理にも相当な複雑性がかくされているに違いない。]
またしても、「彼らの啼声に複雑なトーンの変化がある」と、音の世界なのである。そして、この「日本海の一角」に続いて、「魂の遍歴」という随筆が続いている。そこに、次のような一節がある。
[私の性分は、一辺倒に感傷的なように自覚します。年来、時に随って書き散らした詩歌の類は、ことごとく胸裡の哀傷を吐露することに終始しました。評者に思想性の欠如を指摘されることがしばしばであります。その通りでありましょう。拝承はしながらも、しかしながら私には、自らを改訂のしようがありません。センチメンタリズムを外にして、詩なんぞあるものかい、と往年のダダイスト辻潤さんはいわれました。辻さんのように闊達に、上機嫌にそういい放つことを私はなおいささか憚りますが、詩歌における思想性は、大雅の絵画における空想、あの創造力の発揮のようなふうにでなければ、もともと意味ないことと信じます。むつかしいことをたやすげに注文するのが、批評家の特権のようであります。思想という名の職業を、操作しながらであります。芸術における思想性、有用性を、とり急いで着用したくありません。]
これは、まさしく、戦後の、三好達治を罵倒した、鮎川信夫や吉本隆明らに向けられたものであろう。と同時に、三好達治は、鮎川信夫や吉本隆明らに対して、その随筆の「日本海の一角」の「鴉」のようなイメージを抱いていたのではなかろうか。
「首の桶」(鮎川信夫)
鴉が二声ないて
夜の底がひびわれたとおもったら
河原にほの白く浮かんでいる
男の首が二つ
一つはおれだが
もう一つは誰だろう?
美少年に見おぼえはない
唇は笑っているようでもある
(鴉どものくびを
ナイフで刎ねた
報いがこれだ!)
さらさらと水がながれ
砂利が一粒ずつ光りはじめた
夜明けは近い
せめて桶にでも入れておいてくれよ
おれはいいが
もう一つが可哀そうだ
その六 春の岬(その六)
春の岬旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも (「春の岬」)
「三好君の詩について――文語調の抒情(西脇順三郎稿)」(「現代詩読本三好達治・思潮社刊」所収))の中で、次のように述べている。
[一九三〇年に『測量船』を出した。その序みたいになっている「春の岬」という漢詩の断片のような短い詩がついている。これは万葉的な感嘆詞「かも」がついている。測量船のシンボルとして面白い。非常に新しい詩のこなしである。この測量船は自由ほんぽうな組み合わせで、あらゆるスタイルをもっている「メランジ」であるところにこの詩集の新しい味がひそんでいる。]
この「メランジ」というのは、「フランス語のmelangeは混合の意味」であろうか。西脇順三郎は、三好達治の「春の岬」を、「漢詩の断片のような短い詩」に、「万葉的な感嘆詞『かも』がついている。測量船のシンボルとして面白い。非常に新しい詩のこなしである」と指摘している。これも一つの見方なのであろう。
[よく考えてみると三好君の詩は一般には言葉の音調の詩人の作と思われているが、どうも俳句のようにイメジから出発しているようにも思われる。「南窗集」「閒花集」「山果集」などは勿論かた通り四行短歌であって、みんな俳句的イメジの世界として鑑賞すべきであろうが、ただ本当の俳句や短歌でないからよみにくい気がする。けれども当時とすればなにか新しい感じを与える一つのこころみであったに違いない。おそらく他の詩人に影響を与えたと思われる。]
「イメジ」は「イメージ」(心の中に思い浮かべる姿や情景。 心象。形象。イマージュ)のこと。「俳句的イメジの世界」というのは、「一つ一つの言葉の論理的な意味合いよりも、その一語一語の余情や余韻のようなイメージで表現するような世界」というようなことであろうか。この「三好君の詩は一般には言葉の音調の詩人の作と思われているが、どうも俳句のようにイメジから出発しているようにも思われる」とは、よく三好達治の世界の本質を突いていると思われる。
春の岬旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
この三好達治の二行詩は、短歌的な装いはしているが、その実は、短歌的な情念の世界ではなく、「飛躍と断絶の省略の空間」ともいう非情念的な俳句的なイメージの世界というのが、この二行詩の全てのように思えるのである。
即ち、この「鷗どり」は、この作者の三好達治その人の投影かというと、決してそうではない。極言すれば、どうにでも取れる極めて曖昧模糊としたファジー(fuzzy)なものなのだということなのである。
戦後、三好達治の詩を痛罵した鮎川信夫や吉本隆明らの、次の世代の詩人・清水昶は、達治の詩について、「三好達治には思想なんてものはなかった。あったのは庶民的な気分であり、その気分も日本語の中に閉じることであった」(「三好達治について――日本的な気分(清水昶稿)」(「現代詩読本三好達治・思潮社刊」所収))と喝破している。
この清水昶が喝破する「庶民的な気分」、これこそ、西脇順三郎が指摘する「俳句的イメージ」の世界であり、また、清水昶の「日本語の中に閉じることであった」ということは、即、「俳句という極めて日本語的な空間の中に閉じることであった」と置き換えても良かろう。
この清水昶の喝破は、昭和五十四年(一九七九)になされたものであるが、その二十一年後の、平成十二年(二〇〇〇年)に、「現代詩の終焉へ向けて――三好達治」(「現代詩手帖――生誕百年三好達治新発見」所収)の中で、三好達治の俳句を評価し、「現代詩を再構築する道は、どうやら達治が模索した俳句の世界に、まだ、火種がのこっているような気がする」と指摘していることには、「快哉!」という思いを深くする。
春の岬旅のをはりの鷗どり
浮きつつ遠くなりにけるかも
この三好達治の二行詩などについて、鮎川信夫は、「彼が逃げこむ古くさい韻律と語感と雅語の世界、短歌的抒情によってしなびた山川草木のそよぎ、擬音的な海のひびき、――彼の指先の言葉のうやつり糸によって敏感に反応する自然はつくりものの世界である」(「現代詩手帖――生誕百年三好達治新発見」所収「三好達治――逃避幻想の詩人鮎川信夫稿」)というが、何も、そう目くじらを立てるべき筋合いものでもないのである。
それは全く、清水昶の言葉をするならば、「気分」の世界であって、しかも、「その気分も日本語の中に閉じることであった」という、鮎川信夫が師と仰ぐ西脇順三郎の言葉をすると、何とも、「俳句的イメジ(イメージ)の世界」のものだということなのである。
「気分的な世界」には、「気分的な鑑賞」以外に鑑賞のしようもないし、「俳句的イメジ(イメージ)の世界」には、「俳句的イメジ(イメージ)としての鑑賞」以外に、これまた、鑑賞のしようがないのである。
それを自分の世界でもって鑑賞しようとすれば、それは拒絶反応以外に何ものももたらさないし、「曖昧模糊としたファジー(fuzzy)なもの」を、いくら論理を働かして、非ファジーにして見てみようとしても、それは土台無理のことであろう。
即ち、「春の岬」が何処の岬なのかなどという詮索は無用だし、「旅のをはりの鷗どり」が、作者自身なのかどうかなども、全くの詮索は無用なのであろう。「浮きつつ」の「つつ」も、「なりにけるかも」の「かも」も、これまた、全く、「気分」でこういう措辞が使われているだけであって、殊更ここに焦点を当てて鑑賞する必要もないのであろう。
とすると、宇野浩二が、「『気のきいた文句』である。しかし、それだけでは、------」と、「はじめて読んだ時のやうな感銘が殆どなくなってしまつた」(「現代詩手帖――生誕百年三好達治新発見」所収「気のきいた文句――二十五年前の感銘(宇野浩二稿)」)と、その読み手のその時々の「気分」によって、千変万化するようなものなのではなかろうか。
さしずめ、鮎川信夫や吉本隆明らは、戦前の三好達治のデビューの頃は、おそらく、三好達治の詩に感銘し、それが、戦時中の戦争礼賛の詩を目の当たりにして、戦後、嫌悪の嫌悪にかられて、その全詩業が、「吐き気を催す」ほどに相成ったということなのであろう。
だからと言って、「『四季』派の詩人たちが、太平洋戦争の実体を、日常生活感性の範囲でしかとらえられなかったのは、詩の方法において、かれらが社会に対する認識と、自然に対する認識とを区別できなかったこととふかくつながっている」「現代詩手帖――生誕百年三好達治新発見」所収「四季派の本質――三好達治を中心に(吉本隆明稿)」)というのは、どうにも、「反四季派」の「為にする議論」のためのアジ文のようにも思えるのである。
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