第一 こがねのこま
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/ogai/document/15dd5a92-e055-4dcb-a302-1ed3adc3716f#?c=0&m=0&s=0&cv=2&xywh=-995%2C-177%2C7335%2C4375
1-1 うぐひすは鳴ともかたし腰瓦
鶯の谷より出づる声なくは春来ることをたれかしらまし 大江千里『古今集』
鶯や餅に糞する縁のさき 芭蕉「葛の松原」
鶯の啼やちいさき口明て 蕪村「蕪村句集」
鶯の静かに啼くや朝の雨 成美「いかにいかに」
腰瓦(こし‐がわら)=長屋や土蔵、塀などの外壁の腰板の部分に瓦を張ったもの。※雑俳・川柳評万句合‐安永九(1780)梅二「たべる程近所であるとこしかわら」。
(追記) 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔交遊編〕
http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/oota/ootananpo/nanpo-kouyuu/kobetu/nanpo-kouyuu-sakaihouitu.html
【酒井抱一】(さかい ほういつ)(屠龍)(とりゅう)
「上元、屠竜公子の館に宴す 金馬門前白日開 上元春色満楼台 若令飛蓋遊西苑 天下誰当八斗才」 南畝集7/漢詩番号1400/ ③484/ 天明8年/1788/01/15
※ 太田南畝は、大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を讃えて七言絶句の漢詩を詠んでいる(『南畝集』七)。その書き出しには「金馬門(きんばもん)白日開」とあり、中国漢代の末央宮(びおうきゅう)の門を気取って、江戸城の大手門をペダントリーに「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語から「こがねのこま」としていたようだ。(『酒井抱一 大江戸にあそぶ美の文人(玉蟲敏子著)』「日本史リブレット54」p10)
「秋日、屠竜公子に過る 居竜公子在江皐 百尺楼頭臥自高 晩命漁人聊下網 得魚新欲酌醇醒」南畝集9/漢詩番号1750/④93/寛政3年/1791/09/
「屠竜公子の席上、妬婦夜貴船の嗣に祈るの図に題す
香羅骨結両同心 海誓山盟契濶深 溝水応須無断絶 谷風何事変晴陰 伐柯斧使良媒失 積羽舟随旧怨沈 苦向叢嗣将告訴 松杉夜色気蕭森」南畝集9/漢詩番号1890 /④138/寛政3年/1791/
「宝刀歌
君不見宝刀勝昆吾 万物之炭造化炉 金躍冶中声将発 鋳成千載気象孤 王環鉄鞘千金質 精光直射扶桑日 干将莫邪何足誇 太平時節未出室 屠竜公子学屠竜 技成三年竜未逢 蔵匝以比天子剣 笑他突鬢頭如蓬 神物有意何処帰 一夕奪之忽西飛 奪之真人号白水 白水所佩天下稀」南畝集9/漢詩番号1888/④137/寛政5年/1793/09/
鶯村君の松の画は金川宿羽根沢といふ楼の庭にある松なり
かな川の松の青木の台の物洲浜にたてる鶴の羽根沢」放歌集/②177/ 文化9年/1812/01/
春日、抱一君を尋ぬ 狂風処々起清芬 不是探梅偶訪君 幽谷孤鴬求友人 片時閑話洗塵氛」
「席上、画に題す 一枝白雪含春色 数朶黄金発歳蘭 莫道吏情誇老健 唯将酒力敵余寒」
南畝集19/漢詩番号3972-3/⑤341 /文化12年/1815/02/
「卯月十二日、鶯邨上人のやどりに晋子のかける光陰の道行といふものをみて
光陰の道行はやきかくれ家は鴬村も山ほとゝぎす
所からちかき山屋の若楓岡べのまくづかゝるもてなし
夕ぐれに山の根ぎしをいでくればいそぐ四つ手に帰る案茀(アンポツ)」紅梅集/②338/文化15年/1818/04/12
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