火曜日, 4月 04, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-67~4-71」

 4-67    (佐谷<>)水鳥は流るゝ春や橋の霜 

 

「佐屋驛渡口、『尾張名所図会』巻7海東・海西郡」(「ウィキペディア」)

≪佐屋宿(さやじゅく)は、佐屋街道の宿場である。現在の愛知県愛西市佐屋町に存在した。佐屋街道最大の宿場であり、佐屋宿から東海道桑名宿までは川船による三里の渡しで結ばれていた。また、ここから津島神社の参拝道が分岐していた。(中略)

 三里の渡しは、佐屋川、木曽川、加路戸川、鰻江川、揖斐川の順に川を下って桑名宿へ向かう渡船であった。(中略)

 1604年(元禄4年)、松尾芭蕉は江戸から伊賀への帰郷の中、 佐屋の門人であった素覧亭に逗留した折『水鶏(くいな)鳴くと人のいへばや佐屋泊』の句を詠んだ。同席した俳人が芭蕉を偲び、水鶏塚がその地に現在も建立されている。≫(「ウィキペディア」)

 (句意周辺「参考句」)

水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り  芭蕉「笈日記」

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kuina.htm

 ≪元禄7525日夜、芭蕉51歳。最後の帰省の折、佐屋の陰士山田氏の屋敷で露川・素覧と三吟半歌仙を巻いた折の作品。佐屋は愛知県海部郡佐屋町。旧東海道では、名古屋の熱田宮から海上七里を船で桑名に渡るのが普通であったが、もう一つ佐屋まで行って、木曽川の川舟に乗って桑名へ行くというルートもあった。芭蕉最後の旅では、このルートが選択された。 なお、『曾良宛書簡』にこの句を読んだ芭蕉最後の旅の報告記事がある。

 水鶏が啼くのでその声を聴いていったらどうですかとすすめたのは佐屋の山田庄右衛門であろう。一句は、その庄右衛門への挨拶吟である。初案は、「水鶏鳴くといへばや佐屋の波枕」であった。改案後も意味に相違は無い。≫

 (句意「その周辺」)

  抱一の、この京都滞在は、「十一月十八日京着(木屋町にて)」から「十二月二日都を立て吾妻におもむく」まで、僅かに十二日前後の滞在で、「等覚院殿御一代記」には、次のように記されている。

 一 同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居       (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」)

 この上記の「十二月三日京地御発駕」の後に続く一句が、京都から尾張までの句はすべて省略して、この「尾張・佐屋宿」での、「水鳥は流るゝ春や橋の霜」の句ということになる。この「水鳥」は、芭蕉翁の「最後の帰省の折」の、「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り」の、その「水鶏」を意識しているということは、それほど飛躍した視点ではなかろう。

 (句意)

 嘗て、芭蕉翁が、その最後の旅路の「笈の紀行」の「尾張・佐屋宿」で、「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り」との一句を遺している。その句に唱和して、「水鳥は流るゝ春や橋の霜」と、「翁も吾も、この水鳥(水鶏)」で、翁は東国から西国へと、吾は西国から東国へと、「流るゝ春や」(師走の「冬」から睦月の「春」へと)、その流れを、「橋の霜」(この師走の「佐屋宿」の「橋の上」)で、凝視している。

 (蛇足)

 芭蕉翁の、その「尾張・佐屋宿」での「水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り」は、「東国(仮の宿)から西国(故郷)への佐屋泊り」の一句で、抱一の、それに唱和しての「水鳥は流るゝ春や橋の霜」は、「西国(仮の宿)から東国(故郷)への」一句ということになる。 

  

4-68   (江尻)置炬燵浪の関もり寝て語れ

歌川広重『東海道五十三次・江尻』(「ウィキペディア」)

≪江尻宿は、東海道五十三次の18番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区(旧清水市)の中心部にあたる。≫(「ウィキペディア」)

 (句意「その周辺」)

 この句には、「江尻の駅寺尾与右衛門が許にて」の「前書」と、「光廣卿の倭哥によりてなり」の「後書」とが付してある。

 「軽挙館句藻」では、「江尻の宿寺尾与右衛門が許に泊る/光廣卿の御歌を染筆せられたる屏風あり/歌烏丸との/

 霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守

         それは松これは亭主

 置炬燵浪の関もり寝て語れ 」と、「烏丸光廣」の「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の一首が記されており、その「本歌取り」の一句ということになる。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-22

 (再掲)

 (その七)俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印)

 

俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 右隻 十七世紀後半 六曲一双

各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

 

俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 左隻 十七世紀後半 六曲一双

各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

 【 金地に緑青(ろくしょう)の濃淡たけで表された、山の細道と蔦の葉。上部の賛をあらかじめ計算に入れた横長の画面構成には、宗達画・光悦書の和歌巻を思わせるところがある。そしてさらにこの屏風には心憎い仕掛けがある。右隻と左隻を入れ替えても、このように画面がつながって、また別な構図が現れるのだ。空のように見えていた右隻の右上部分は、山の斜面に変貌する。どこまで行っても終わることのない迷路のようだ。自由に立て回すことのできた屏風という形式ならではの発想だが、それを実に巧みに利用している。 】(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)

(参考)烏丸光広(からすやまみつひろ) 

没年:寛永15.7.13(1638.8.22) 生年:天正7(1579)

 安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議、同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め、歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』 (伊東正子)出典 「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について」)

 (句意)

 江尻宿(静岡市清水区)の本陣「寺尾与右衛門」宅に一泊した。そこに、烏丸光廣卿が「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の和歌を染筆した屏風を見て深い感銘を覚えた。その光廣卿の一首は、歌枕の「三保の松原」の「松」が、これも、歌枕の「清見潟」の「関守」というもので、その一首に唱和して、この「清見潟」の「関守」は、「三保の松原」の「松」に匹敵する、この「江尻宿の本陣」の主人「寺尾与右衛門」その人だと、「置き炬燵」を共にして、その「寝物語り」を、もっともっと聞きたいという、挨拶句を呈することにした。

 

4-69    (三保の明神・松原)いつ迄も夢は覚めるな霜の舟

 

「東海名所改正道中記 三保の松原 江尻 静岡迄二り廿七丁」木版画 / 明治 / 日本/歌川広重(三代目)/郵政博物館蔵 (「文化遺産オンライン」)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/240543

 

(句意「その周辺」)

 この句には、「十日の夜小舟にとりのり清水の湊をこへ、三穂の明神を遥拝して、絶景言葉につくされず」との前書がある。

 

喜多川歌麿「三保の松原道中」(太田記念美術館蔵)・・・美人画の第一人者、歌麿が描いた錦絵。南畝の狂歌仲間のために作られた。

http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2008_ootanampo

(句意)

 十二月十日、江尻宿から小舟で清水港を後にして、三保の明神を遥拝し、かねて、狂歌・俳諧の仲間と話題にしていた「三保の松原道中」を決行した。その絶景は、「言葉では尽くされず」、これぞ、「嗚呼、三保の明神・松原や」と、「いつ迄も夢は覚めるな霜の舟」と吟じたのである。

 

4-70    (江戸)鯛の名もとし白河の旅寝哉

 https://japanknowledge.com/articles/koten/shoutai_27.html

 (句意「その周辺」)

 この句には、「十二月十四日江都にかへり」の前書がある。この」鯛の名もとし白河の旅寝哉」の「鯛の名もとし」の「とし」は「寿(ことぶき)」で、「江戸に帰着『祝いの席』上での『鯛の料理』の『寿(とし)』の意であろう。そして、「白河の旅寝」は、世阿弥の夢幻能「融」の、下記の「融の大臣の亡霊の舞」の「ここにも名に立つ白河」の、その旅路を回想している雰囲気である。

 http://insite-r.co.jp/Noh/shunkoukai/2019/tooru/tooru_notice.html

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%8D

≪ 融の大臣の亡霊の舞

 融の大臣の亡霊は、昔を思い出しながら、舞を舞う。

 シテ〽千重(ちえ)振るや、雪を廻らす雲の袖

地謡〽さすや桂の枝々に

シテ〽光を花と散らすよそほひ

地謡〽ここにも名に立つ白河の波の

シテ〽あら面白や曲水(きょくすい)の盃

地謡〽受けたり受けたり遊舞(いうぶ)の袖


[融]舞いながら何度も振る袖、そして幾重にも降り積む雪。

――袖をさすと、さし交わす桂の枝々に

[融]月の光が花のように散らされる風情。

――ここ都にも陸奥の白河と同じ有名な白川があり、その波が

[融]ああ趣深い、曲水の宴の盃。

[融]盃を受け、遊舞の袖が月の光を受ける。    ≫ (「ウィキペディア」)

 (句意)

 十二月十四日、江戸に帰ってきた。この「出家得度答礼の花洛の細道(旅路)」は、十一月四日に江戸を立って、自称、「関西蜚遯人(ひとんじん)(西国を飛んで遁げ帰ってきた男)と自己卑下しつつ、とにもかくにも、帰国祝いの「寿(ことぶき・とし)」の「鯛(たい)」料理に舌鼓みをうちつつ、この「関西蜚遯人(ひとんじん)」の、真冬の「花洛の細道」の、「白河の旅寝」のような出来事を走馬灯のように思い起こしている。

 

4-71    (江戸) ゆくとしを鶴の歩みや佐谷廻り

 

抱一画集『鶯邨画譜』所収「双鶴図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 

(「句意」周辺)

 この句にも、「十二月十四日江都にかへり」の前書が掛かる二句目の句ということになる。「ゆくとし」は「行く年」(師走の「暮」、「仲冬」の句)、「鶴の歩み」は、下記の「4-11 夕立や静()に歩行筏さし(抱一)」と「日の春をさすがに鶴の歩ミ哉(其角)」周辺、さらに、「(参考) 『日の春を(百韻)(貞享三丙寅年正月)」などを背景にしている。そして、「佐谷廻り」は、「4-67    (佐谷<>)水鳥は流るゝ春や橋の霜」周辺のことを背景にしているものと解したい。

 (句意)

 十二月十四日、江戸に帰ってきて、もう、師走の暮れと慌ただしい。されど、其角宗匠の「日の春をさすがに鶴の歩ミ哉」の、その発句と、その「百韻」興行を思い起こしながら、「ゆくとしを鶴の歩みや」と、「ゆったり、静かに、とついつ、とついつ」、「関西蜚遯人(ひとんじん)(西国を飛んで遁げ帰ってきた男)の、その「佐谷廻り」(「出家得度答礼の花洛の細道(旅路))を反芻しつつ、新しい「日の春」を迎えることにしょう。

 https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-11.html

(再掲)

 4-11 夕立や静()に歩行筏さし (第四 椎の木かげ(4-11)

 「句意」(その周辺)

  この句は、抱一の趣向に趣向を凝らした一句である。この句にも、前書の「十鳥千句独吟」が掛かっているようなのだが、肝心の「十鳥」の「鳥」が「ヌケ(ヌキ・抜け・抜句)」(俳諧で、ある語を句の表面に出さないで、余意においてそれをとききかせる句作りの手法。また、その句)の、いわゆる「抜句」の雰囲気なのである。

 さらに、前書の「十鳥千句独吟」の「十鳥」は、この句の前の十句(「4-1」~「4-10」)で、「鶯・雉・燕・杜鵑・翡翠・雁・鵲(山雀)・木菟・鴛鴦・蒼鷹」で、これらを発句として、「十百韻」(千句)が巻かれていると解しても差し支えなかろう。

 とすると、「ヌケ」の手法が「余意を利かせる」手法とすると、これは、「正式(しょうしき・せいしき)俳諧」(「十百韻」)成就後の、その余勢の余章的な「余興(興を添える)俳諧」との範疇に入る、そのような一句(発句)のような雰囲気を有している。

 そして、ずばり、この句は、次の其角の句の、「反転化・捩り・見立て・抜け」などの一句と解したい。

 「日の春をさすがに鶴の歩みかな(其角)」=(「丙寅初懐紙」)季語=日の春(新年)の「鶴」を「夕立」(夏)の「鶴」の句に反転化(「反転・捩り・見立て・抜け」)しているか?

 其角の造語による「日の春」(新年) 抱一の「夕立」(三夏)反転

其角の「さすがに」 → 抱一の「静かに」(捩り)

其角の「鶴」 → 抱一の「筏さし(筏士)」(見立て)

其角の「歩み」→ 抱一の「歩行」の造語的詠み(あゆむ)→捩り

  句意は、「猛烈な夕立が襲ってきた。その中を、少しも慌てず、静かに、筏士が、筏の上を歩みながら、筏を漕いでいる。それは、まるで、私淑する其角師匠の『日の春をさすがに鶴の歩みかな』のような風情である。」

 

「日の春をさすがに鶴の歩ミ哉(其角)」周辺 → (下記「参考」のアドレス)

  ≪『初懐紙評注』には、「元朝の日花やかにさし出て、長閑に幽玄なる気色を、鶴の歩にかけて云つらね侍る。祝言外に顕る。流石にといふ手には感多し。」とある。

「日の春」は「春の日」だが、ここでは春の初日のこと。元日の太陽がゆっくりと昇ってゆくさまを鶴の歩みに喩え、そこに長閑でいて厳かな、身の引き締まった気分にさせてくれる。

 日の春を鶴の歩みに喩えるだけなら連歌だが、そこに「さすがに」のひとことを加えることで、卑俗で日々喧騒の中に暮らす庶民である我々も「さすがに」鶴の歩みになる、ということで、鶴の歩みは元日の太陽だけでなく、人もまたゆったりとした気分になり鶴の歩みになるというのが言外に示されている。季語は「春」で春、天象。「鶴」は鳥類。≫

 

「佐谷廻り」周辺

4-67    (佐谷<>)水鳥は流るゝ春や橋の霜 (第四 椎の木かげ(4-67)

(再掲)

≪ 水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊り  芭蕉「笈日記」

 https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kuina.htm

 元禄7525日夜、芭蕉51歳。最後の帰省の折、佐屋の陰士山田氏の屋敷で露川・素覧と三吟半歌仙を巻いた折の作品。佐屋は愛知県海部郡佐屋町。旧東海道では、名古屋の熱田宮から海上七里を船で桑名に渡るのが普通であったが、もう一つ佐屋まで行って、木曽川の川舟に乗って桑名へ行くというルートもあった。芭蕉最後の旅では、このルートが選択された。なお、『曾良宛書簡』にこの句を読んだ芭蕉最後の旅の報告記事がある。

 水鶏が啼くのでその声を聴いていったらどうですかとすすめたのは佐屋の山田庄右衛門であろう。一句は、その庄右衛門への挨拶吟である。初案は、「水鶏鳴くといへばや佐屋の波枕」であった。  ≫

 

(参考)

https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%95%89%E9%96%80%E4%BF%B3%E8%AB%A7%E9%9B%86-%E4%B8%8A/%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%98%A5%E3%82%92-%E3%81%AE%E5%B7%BB/

 「日の春を(百韻)(貞享三丙寅年正月)

初表

日の春をさすがに鶴の歩ミ哉  其角

  砌(みぎり)に高き去年の桐の実 文鱗

 雪村が柳見にゆく棹さして   枳風

  酒の幌(トバリ)に入(いり)あひの月 コ斎

 秋の山手束(タツカ)の弓の鳥売(うら)ん芳重

  炭竃こねて冬のこしらへ   杉風

里々の麦ほのかなるむら緑   仙花

  我のる駒に雨おほひせよ   李下

初裏

 朝まだき三嶋を拝む道なれば  挙白

  念仏にくるふ僧いづくより  朱絃

 あさましく連歌の興をさます覧 蚊足

  敵(かたき)よせ来るむら松の声 ちり

 有明の梨打烏帽子着たりける  芭蕉

  うき世の露を宴の見おさめ  筆

 にくまれし宿の木槿(むくげ)の散たびに 文鱗

  後(のち)住む女きぬたうちうち    其角

 山ふかみ乳をのむ猿の声悲し  コ斎

  命を甲斐の筏ともみよ    枳風

 法(のり)の土我剃リ髪を埋ミ置(おか)ん 杉風

  はづかしの記をとづる草の戸 芳重

 さく日より車かぞゆる花の陰  李下

  橋は小雨をもゆるかげろふ  仙花

ニ表

 残る雪のこる案山子のめづらしく 朱絃

  しづかに酔(よう)て蝶をとる歌 挙白

 殿守がねぶたがりつるあさぼらけ ちり

   はげたる眉をかくすきぬぎぬ 芭蕉

 罌子咲(さき)て情(なさけ)に見ゆる宿なれや 枳風

   はわけの風よ矢箆切(ヤノキリ)に入(いる)コ斎

 かかれとて下手のかけたる狐わな 其角

   あられ月夜のくもる傘    文鱗

 石の戸樋(とひ)鞍馬の坊に音すみて 挙白

   われ三代の刀うつ鍛冶    李下

 永禄は金(こがね)乏しく松の風  仙花

   近江の田植美濃に耻(はづ)らん 朱絃

 とく起て聞(きき)(カチ)にせん時鳥 芳重

   船に茶の湯の浦あはれ也   其角

二裏

 つくしまで人の娘をめしつれて  李下

   弥勒の堂におもひうちふし  枳風

 待(まつ)かひの鐘は墜(オチ)たる草の上 はせを

   友よぶ蟾(ヒキ)の物うきの声    仙花

 雨さへぞいやしかりける鄙(ひな)ぐもり コ斎

   門は魚ほす磯ぎはの寺    挙白

 理不尽に物くふ武者等()六七騎  芳重

   あら野の牧の御召(ヲメシ)を撰ミに 其角

 鵙の一声夕日を月にあらためて  文鱗

   糺(ただす)の飴屋秋さむきなり 李下

 電(いなづま)の木の間を花のこころせば 挙白

   つれなきひじり野に笈をとく 枳風

 人あまた年とる物をかつぎ行(ゆき)   揚水

   さかもりいさむ金山(かなやま)がはら 朱絃

三表

 此(この)国の武仙を名ある絵にかかせ  其角

   京に汲(くま)する醒井(さめかゐ)の水 コ斎

 玉川やをのをの六ツの所みて   芭蕉

   江湖(かうこ)江湖に年よりにけり   仙花

 卯花(うのはな)の皆精(シラゲ)にもよめるかな 芳重

   竹うごかせば雀かたよる   揚水

 南むく葛屋の畑の霜消(きえ)て   不卜

   親と碁をうつ昼のつれづれ  文鱗

 餅作る奈良の広葉を打合セ    枳風

   贅(ニエ)に買(かは)るる秋の心は はせを

 鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ  朱絃

   にくき男の鼾(いびき)すむ月  不卜

 苫(とま)の雨袂七里をぬらす覧(らん) 李下

   生駒河内の冬の川づら    揚水

三裏

 水(みづ)車米つく音はあらしにて 其角

   梅はさかりの院(ゐん)々を閉(とづ) 千春

 二月(きさらぎ)の蓬莱人もすさめずや  コ斎

   姉待(まつ)牛のおそき日の影    芳重

 胸あはぬ越の縮(チヂミ)をおりかねて  芭蕉

   おもひあらはに菅(すげ)の刈さし  枳風

 菱のはをしがらみふせてたかべ嶋 文鱗

   木魚きこゆる山陰(かげ)にしも   李下

 囚(メシウド)をやがて休むる朝月夜   コ斎

   萩さし出す長がつれあひ   不卜

 問(とひ)し時露と禿(かむろ)に名を付て 千春

   心なからん世は蝉のから   朱絃

 三度(みたび)ふむよし野の桜芳野山 仙化

   あるじは春か草の崩れ屋()  李下

名表

 傾城を忘れぬきのふけふことし  文鱗

   経よみ習ふ声のうつくし   芳重

 竹深き笋(たかうな)折に駕籠かりて 挙白

   梅まだ苦キ匂ひなりけり   コ斎

 村雨に石の灯(ともしび)ふき消ぬ 峡水

   鮑(あはび)とる夜の沖も静に 仙化

 伊勢を乗ル月に朝日の有がたき  不卜

   欅よりきて橋造る秋     李下

 信長の治(おさま)れる代や聞ゆらん 揚水

   居士(こじ)とよばるるから国の児(ちご) 文鱗

 紅(くれなゐ)に牡丹十里の香を分(わけて  千春

   雲すむ谷に出る湯をきく   峡水

 岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨(すて)  其角

   笑へや三井の若法師ども   コ斎

名裏

 逢ぬ恋よしなきやつに返歌して  仙化

   管弦をさます宵は泣(なか)るる   芳重

 足引の廬山(ろざん)に泊るさびしさよ  揚水

   千声(ちごゑ)となふる観音の御名(みな) 其角

 舟いくつ涼みながらの川伝い   枳風

   をなごにまじる松の白鷺   峡水

 寝筵(むしろ)の七府(ななふ)に契る花匂へ  不卜

   連衆くははる春ぞ久しき   挙白

      参考;『校本芭蕉全集』第三巻(小宮豐隆監修、1963、角川書店) 

木曜日, 3月 30, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-63~4-66」

 4-63  (洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

 

「花洛名勝図会東山之部. 1-4 / 木村明啓 編 ; 松川安信,四方義休,楳川重寛 図画」所収「巻一・縄手通/大和橋」→「大和大路三条と四条との間にあり。是、白河の流、賀茂川に入る所なり。大和大路にかくるを以て大和橋といふ。石を以て造る橋なり」→ A

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i13/i13_00528/index.html

 

「都名所之内/四条橋より縄手通大和橋を望 (都名所之内)(長谷川貞信初代画/綿屋喜兵衛版/中判横絵 紙面17・4×23・5センチ位) → B

https://dl.ndl.go.jp/pid/1304796/1/1

 (句意周辺「参考句」)

 布団着て寝たる姿や東山   (嵐雪『枕屏風』)

(『俳家奇人談(竹内玄玄一)』の中で「譬喩(ひゆ)の句難し。この什温厚和平、じつに平安の景なるかな」との評がある嵐雪の代表句)

 嵐雪にふとん着せたり雪の宿  (蕪村『蕪村句稿』) 天明二年(一七八二) 六十七歳

嵐雪にふとん着せたり夜半の雪 (蕪村『夜半叟句集』) 同上 

 東山の梺に住どころ卜したる一音法師に申遣ス

嵐雪とふとん引合ふ詫寝哉   (蕪村『蕪村句集』) 安永四年(一七七五) 六十歳

 (句意周辺)

 この句の前に、「十一月十八日京着、木屋町にて」の前書がある。新暦では一月の、真冬の、まさに、「布団着て寝て見る山や東山」の光景であろう。「木屋町」は「高瀬川沿いの二条・五条間の地域」で、料理屋や旅籠、酒屋などが軒を連ねている(A図・B)。イメージとしては、抱一一行は、「縄手通/大和橋」(B)の旅籠で草鞋を脱いで、丁度、「四条橋より縄手通大和橋を望む」(A)の、雪の東山を見ているような光景としてとらえたい。

 (句意)

 嵐雪師匠の「布団着て寝たる姿や東山」を、蕪村先達の「嵐雪とふとん引合ふ詫寝哉」のような吾ら一行は、まさに、「嵐と雪」の後のような寒さの中で、「布団着て寝て見る山や東山」と、これに付け加える感慨の言葉はありません。

 

4-64  (洛・清水寺) 春待や柳も瀧も御手の糸

 

松村呉春筆「三十六歌仙」下絵図巻子(部分抜粋図)/ 天明7(1787)呉春35歳の作品/紙本彩色/松村景文先生家蔵

https://yushukoharu.com/1597/

北村季吟「地主からは木の間の花の都かな」

服部嵐雪「蒲団着て寝たる姿や東山」

(メモ)「清水寺」は俗称で、正しくは「音羽山北観音寺」。蕪村の後継者の一人で、蕪村没後、応挙門の一人として「円山四条派」の画人として名をとどめている呉春作。下絵図であるが、賛書きの二句は、「季吟と嵐雪」の句。季吟の句は、「清水寺唯一の句碑」で、この「地主」とは、本堂の北側の「地主神社」(縁結びの神社)で、そこに、「一本の木に八重一重の花が咲く珍しい桜」があり、その傍らに、この季吟の句碑があるという(『新撰/俳枕5/近畿)

(「季語」周辺)

花の都(はなのみやこ)/ 晩春

https://kigosai.sub.jp/001/archives/16574#:~:text=%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%83%BD%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%82%84%E3%81%93%EF%BC%89%20%E6%99%A9%E6%98%A5%20%E2%80%93%20%E5%AD%A3%E8%AA%9E%E3%81%A8%E6%AD%B3%E6%99%82%E8%A8%98

【子季語】花洛

【解説】都の栄華繁栄を褒め称える言葉で、都の華美なるをいう。東京はもちろんのこと、京都や奈良にもそうした風情がある。

【例句】

地主からは木の間の花の都かな 季吟「花千句」

傘さして駕舁く花の都かな   蓼太「発句類聚」

 

歌川広重 京都名所之内 清水 横大判錦絵 天保5(1834)頃 山口県立萩美術館・浦上記念館

https://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/collection/2017/04/

≪「京都名所之内」は四季折々の京都名所の風景を描いた10枚揃いのシリーズです。このシリーズは『都名所図会(みやこめいしょずえ)(版本、安永9年刊)や『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)(版本、寛政11年刊)をもとに描かれていることが指摘されており、この作品も『都林泉名勝図会』のなかに類似する挿絵が見出せます。 見ごろを迎えた桜に囲まれる音羽山清水寺と、料亭からそれを眺める客たちの様子が対角線をなすようにして描かれています。≫

 句意(その周辺)

 この句の「滝」は「音羽の滝」として、「清水寺」の名所の一つとなっている。この「柳」は、その寺伝の、「行叡は延鎮に『我、観音の威神力を念じ、千手真言を唱えながら汝を長く待っていた。ここは観音の霊場であり、またこの柳は七仏出世の昔より繁茂する楊柳である。汝、この木で千手観音を刻み、堂舎を建立せよ。汝にこの庵を与え、我これより東国を済度せん』」(下記アドレス)と紹介されている「柳」(楊柳)を指しているのであろう。

https://blog.goshuin.net/1825_01_133/

 

句意

 「清水寺に参りて」(前書)、その「春を待っ」ている「音羽の滝」、そして、その寺の沿革に記されている「柳(楊柳))」等々、これらはすべて、「音羽山北観音寺」の、その「観世音菩薩」の「御手の糸(しるし)」なのだということを実感した。

 

4-65  (洛・戸奈瀬) 山の名はあらしに六の花見哉

歌川広重/「六十余州名勝図会」/「嵐山 渡月橋」

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hiroshige-60yosyu/02.html

≪『 六十余州名所図会 』は、浮世絵師 一立齋廣重( 歌川広重 一世)(寛政9年(1797年) - 安政596日(18581012日))が日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作です。/1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけての広重晩年の作で、五畿七道の68か国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69作に、目録1枚を加えた全70枚からなります。/目録には「大日本六十余州名勝図会」と記されています。/ここでの原画は国立国会図書館によります。≫

 句意(その周辺)

 鵜飼舟下す戸無瀬の水馴(みなれ)棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)

となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)

あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「うけらが花」)

築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)

 戸奈瀬の雪を

山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

 

 「藤原(九条)良経」は、抱一の出家に際し、その猶子となった「九条家二代当主」、そして、「藤原定家」は、その「藤原(九条)良経」に仕えた「九条家・家司」で、「藤原俊成」の「御子左家」を不動にした「日本の代表的な歌道の宗匠」の一人である(「ウィキペディア)

 続く、「橘(加藤)千蔭」は、抱一の「酒井家」と深いかかわりのある「国学者・歌人・書家」で、抱一は、千蔭が亡くなった文化五年(一八〇八)に、次の前書を付して追悼句(五句)を、その「屠龍之技・第七かみきぬた」に遺している。

 

 橘千蔭身まかりける。断琴の友なりければ

から錦やまとにも見ぬ鳥の跡

吾畫(かけ)る菊に讃なしかた月見

山茶花や根岸尋(たづね)る革文筥(ふばこ)

しぐるゝ鷲の羽影や冬の海

きぬぎぬのふくら雀や袖頭巾

 この「花洛の細道」のハイライトの一句ということになる。「花洛」(「花の都」=晩春の「季語」)に対応しての、「六(むつ)の花」(「雪」の異名=晩冬の「季語」)の句ということになる。

 句意

 待望久しい「山の名」も「あらし」の「嵐山」を訪れ、その「大堰川(大井川)・渡月橋・戸奈瀬の滝」は、今や「六つの花」()に覆われ、これぞ、「花洛(花の都)」の「華見(「六つの花」見)」かと、その風情を満喫している。

 (参考)  橘千蔭(たちばなのちかげ)/享保二十~文化五(1735-1808)/号:芳宜園(はぎぞの)・朮園(うけらぞの)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tikage.html

  江戸八丁堀の生まれ。父は幕府与力にして歌人であった加藤枝直。橘は本姓。俗称常太郎・要人(かなめ)、のち又左衛門。少年期より賀茂真淵に入門し国学を学ぶ。父の後を継いで江戸町奉行の与力となり、三十歳にして吟味役を勤める。天明八年(1788)五十四歳で致仕し、以後は学芸に専念した。寛政十二年(1800)、『万葉集略解』を十年がかりで完成。書簡で本居宣長に疑問点を問い質し、その意見を多く取り入れた、万葉全首の注釈書である。文化九年(1812)に全巻刊行が成った同書は万葉入門書として広く読まれ、万葉享受史・研究史上に重きをなす(例えば良寛は同書によって万葉集に親しんだらしい)。

歌人としては真淵門のいわゆる「江戸派」に属し、流麗な古今調を基盤としつつ、万葉風の大らかさを尊び、かつ新古今風の洗練・優婉も志向する歌風である。同派では村田春海と並び称され、多くの門弟を抱えた。享和二年(1802)、自撰家集『うけらが花』を刊行。橘八衢(やちまた)の名で狂歌も作る。書家としても一家をなしたが、特に仮名書にすぐれ、手本帖などを数多く出版した。絵も能くし、浮世絵師東洲斎写楽の正体を千蔭とする説もある程である。文化五年九月二日、死去。七十四歳。墓は東京都墨田区両国の回向院にある。

 

4-66  (洛・朱雀野) 島原のさらばさらばや霜の声

『歌川広重・京都名所之内』嶋原出口之柳 = 天保五年・1834年頃 =(国立国会図書館所蔵)

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/kyotomeisyonouchi.html#group1-7

http://sakuwa.com/si20ima.html

 「さらば垣」=京都、島原遊郭の総門の前にある垣。遊女が客を送って来て別れをいう所なのでいう。※俳諧・七柏集(1781)芙蓉園興行「朝朝のともすれば憂さらば垣〈蓼太〉 袖擕錦衾香〈芙蓉〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

「さらば」=別れの挨拶(あいさつ)に用いる語。さようなら。(「精選版 日本国語大辞典」)

「さらばさらば」=中世後期では「さらばさらば」と重ねた言い方が多く見え、さらに近世中期には「さらばの鳥」のような名詞的用法が生じ、打ち解けた間柄で用いる町人言葉「おさらば」もあらわれた。近世後期になると「さようならば」から生じた「さようなら」が一般化したが、近代以降は文語的な表現として「さらば」が用いられている。(「精選版 日本国語大辞典」)

 「霜の声」=霜のおりた時のしんしんとした感じ。冬の季語。 田舎之句合「金蔵(かねぐら)のおのれとうなる也霜の声」(其角) 《広辞苑・第六版》/あるはずもない音、声が聞こえたように思えることがあります。 霜は空気中の水蒸気が凍りつき、細かな氷の粒となったもの。 氷点下まで冷やされた水蒸気が地表や地表に近い草の葉に触れて結晶化した 氷が霜の正体です。

http://koyomi8.com/doc/mlko/201212090.html

「粟食の焦て匂ふや霜の声〈晉子〉 是嘘妄也。〈略〉其短尺を何かたよりか得て、附会して伝書の証に、偽言ものにして正しからぬ事なり」〔南史何遠伝〕→「虚妄」=「事実でないこと。うそ。いつわり。きょぼう。」(「精選版 日本国語大辞典」)

 「芭蕉の霜の句」

葛の葉のおもてなりけり今朝の霜  芭蕉「雑談集」

ありがたやいたゞいて踏はしの霜  芭蕉「芭蕉句選」

霜枯に咲くは辛気の花野哉     芭蕉「続山の井」

霜を着て風を敷寝の捨子哉     芭蕉「六百番俳諧発句合」

霜をふんでちんば引まで送りけり  芭蕉「茶のさうし」

火を焚て今宵は屋根の霜消さん   芭蕉「はせを翁略伝」

薬呑むさらでも霜の枕かな     芭蕉「如行集」

さればこそあれたきまゝの霜の宿  芭蕉「笈日記」

かりて寝む案山子の袖や夜半の霜  芭蕉「其木がらし」

夜すがらや竹こほらするけさのしも 芭蕉「真蹟画賛」

 

句意(その周辺)

 旧暦の「(十一月十八日京着、木屋町にて) 布団着て寝て見る山や東山」から、「(十二月二日都を立て吾妻におもむく、鈴鹿の山中) 晴た雪又ふる鷲羽風かな」と、この句は、抱一一行の「京都滞在」の最後の日の一句で、十一月末日から十二月初日の頃の句ということになろう。

 句意

 この「洛の旅路(花洛の細道)」の目的地・「京の都」の最終日、「島原」の「さらば垣」に「さらば」(「おさらば」)する時がきた。その「大門・見返り柳・さらば垣」を振り返り見ると、しんしんと霜の降りたような「霜の声」が聴こえてくる。

 蛇足

 この下五の「霜の声」に何かしら仕掛けがほどこされている雰囲気である。この後に、「(佐谷<>)水鳥は流るゝ春や橋の霜」と「(三保の松原・明神)いつ迄も夢は覚めるな霜の舟」とが続く。この仕掛けを詠み解くのには、上記の「芭蕉の霜の句」(殊に、芭蕉の愛弟子・杜国の流刑後の隠棲地を訪れた「さればこそあれたきまゝの霜の宿」)と「其角の霜の句」の「金蔵(かねぐら)のおのれとうなる也霜の声」(「田舎之句合」)などが参考になるのかも知れない。

 

(抱一の「花洛の細道(その六)」周辺)

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

「≪「軽挙館句藻」

 霜月四日、其爪・古檪・紫霓・雁々・晩器などうち連て花洛の旅におもむく ≫」

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形

(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二

(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな

(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子

(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

「≪「軽挙館句藻」

(三河国八橋)        紫のゆかりもにくし蕪大根

(尾州千代倉:翁の笈を見て)  此軒を鳥も教へつ霜の原

(石山寺・幻住庵:其爪の剃頭) 椎の霜個ゝの庵主の三代目  ≫ 」

  十一月十八日京着、木屋町にて

(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

(洛・清水寺) 春待や柳も瀧も御手の糸

(洛・戸奈瀬) 山の名はあらしに六の花見哉

(洛・朱雀野) 島原のさらばさらばや霜の声

「≪「軽挙館句藻」

  十二月二日都を立て吾妻におもむく

(鈴鹿の山中) 晴た雪又ふる鷲羽風かな

(池鯉鮒の宿) 鳴雁ももらさし宿の大根汁   ≫ 」

(佐谷川)   水鳥は流るゝ春や橋の霜 

(江尻)    置炬燵浪の関もり寝て語れ

(三保の松原・明神) いつ迄も夢は覚めるな霜の舟

  十二月十四日江都にかへりて

(江戸)    鯛の名もとし白河の旅寝哉

()     ゆくとしを鶴の歩みや佐谷廻り

 (メモ) 京都滞在は、「十一月十八日京着(木屋町にて)」から「十二月二日都を立て吾妻におもむく」まで、僅かに十二日前後の滞在で、その間に、「西本願寺への得度答礼の挨拶」(「痔疾」を理由に抱一・本人は赴かず=『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、その他「猶子となった九条家」やら「京都所司代などの関係者」などの挨拶、そして、何よりも、「京都御住居被成候」の、その京都移住などをご破算にすることなどについて、「等覚院殿御一代記」には、次のように記されている。

 一 同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居       (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」) 

日曜日, 3月 26, 2023

「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-61~4-62」

 4-61  あとからも旅僧は来(きた)り十団子

 

歌川広重 行書版『東海道五十三次之内 岡部 宇津の山之図』(「ウィキペディア」)

≪するがなる/うつのやまべの/うつゝにも/夢にも人に/あはぬなりけり──『伊勢物語』九段「東下り」)

(歌意= 駿河国にある宇津の山あたりに来てみると、その「うつ」という名のように、「うつつ〈現実〉」でも夢の中でも貴女に逢わないことだなあ。(それは貴女が私のことを思って下さらないからなのでしょう。)  ≫

 季語=「あとからも旅僧は来(きた)り十団子」、これは、「うつの谷峠」の前書を加味しても、季語なしの「雑」の句ということになる。しかし、前句の「降霰玉まく葛の枯葉かな」や、この「霜月・師走の洛の旅路」からすると、「冬」の句として、例えば、下記のアドレスで紹介されている、「十団子も小粒になりぬ秋の風/許六(『韻塞』」)に唱和しての、「十団子と秋の風」から「十団子と冬の風(木枯らし)」への「変転」しての一句として鑑賞することも、この句の狙いなのかも知れない。

 http://www.basho.jp/senjin/s1506-1/index.html

 十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)

 ≪「宇津の山を過」と前書きがある。

句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」

 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。

 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

 句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

(蛇足)

 抱一は、後年、「宇津の山図』(「勢物語東下り」)関連の作例を、下記のアドレスのものなど多く遺している。

酒井抱一筆『宇津の山図』/絹本著色/軸装・1/110.0 cm × 41.0 cm/19世紀(江戸時代後期)作の大和絵/山種美術館蔵

≪『伊勢物語』第9段「東下り」で、東国(鄙)へ向かう主人公(在原業平と目される人物)の一行が駿河国に差し掛かり、蔦の細道を通って宇津山の峠を越えようとしていたところ、平安京へ向かう旧知の修行者にばったり出逢い、主人公が京に残してきた恋しい女への和歌を託す場面(山中で主人公が歌を詠んでいる場面)を描いている。抱一ら琳派の作品には『伊勢物語』を題材としたものが多い。≫(「ウィキペディア」)

左上(今回の其一筆「東下り図(双幅)」) 右上(前回の抱一筆「不二山図(三幅対)」と

『光琳百図』所収「東下り」) 左下(前回の抱一の「伊勢物語東下り・牡丹菊図(三幅対)」)

右下(前回の抱一の「宇津山図・桜町中納言・東下り(三幅対)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-06

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-01

  この歌枕の「宇津山」でも、九条良経の、次の一首がある。(「ウィキペディア」)

 「うつの山/うつつかなしき/道絶えて/夢に都の/人は忘れず ──九条良経自撰の私家集『秋篠月清集』(元久元年〈1204年〉、鎌倉時代初期に成立)」

 これは、「水無瀬恋十五首歌合羇中の恋」での、「後鳥羽院()と九条良経()」との「歌合」が、その初出のようである。

 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utaawase/minase15_7.html

 三十三番

   左 勝           親定(後鳥羽院)

君ももしながめやすらん旅衣朝たつ月をそらにまがへて

【通釈】あなたももしや(旅先で)眺めているだろうか。旅衣を着て出発する朝、有明の月が、空の色にまぎれるほどうっすらと現れているのを

【本歌】源氏物語「花宴」

世に知らぬ心地こそすれ有明の月のゆくへを空にまがへて

    右            左大臣(九条良経)

うつの山うつつかなしき道たえて夢に都の人はわすれず

【通釈】宇津の山を越える峠道――道は細くなり、やがて繁みのうちに途絶えてしまう。現実はそのように悲しく、都で待つ人との間は断絶してしまっているけれども、夢ではあの人を忘れずに見るのだ。

【本歌】「伊勢物語」第九段

駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

  九条良経(九条家二代当主)は、抱一にとって、その出家に際して「九条家の猶子」となって、西本願寺の「得度」を得ている以上、今回の「出家答礼の上洛」は、当然に、「九条家」への答礼も含まれていることであろう。

 そして、この「九条良経」を前書にしての一句(4-51 月の鹿ともしの弓や遁()来て)については、下記のアドレスで紹介した。そこで、抱一が、良経の歌と、芭蕉との句に準拠しているような、次の「例歌・例句」を紹介した。そこに、「うつ(宇津・鬱・鬱っ)」の項を追加して置きたい。

 https://yahantei.blogspot.com/

 「鹿」

たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯()のへにかへるさを鹿の声(良経「新古444」)

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」

 「月」

ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(良経「新古422」)

武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」

 「たへぬ」

のちも憂ししのぶにたへぬ身とならばそのけぶりをも雲にかすめよ(良経「月清集」)

俤や姨ひとりなく月の友        芭蕉「更科紀行」

 「うつ(宇津・鬱・鬱っ)

駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり(良経「月清集」)

憂き人の旅にも習へ木曽の蝿  芭蕉「韻塞」

旅人の心にも似よ椎の花    芭蕉「続猿蓑(許六が木曽路に赴く時)

十團子も小つぶになりぬ秋の風 許六「続猿蓑」

大名の寐間にもねたる夜寒哉  許六「続猿蓑」

 

4-62  あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

 季語=「あとになる潮のおとや松のかぜ」(「屠龍之技」の句形)では、「雑」の句。「あとになる潮のおとや松寒し」(「軽挙館句藻」の句形)では、「寒し」(三冬)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2753

【子季語】寒さ、寒気、寒威、寒冷、寒九

【解説】体感で寒く感じること、と同時に感覚的に寒く感じることもいう。心理的に身がすくむような場合にも用いる。

【例句】

ごを焼て手拭あぶる寒さ哉  芭蕉「笈日記」

寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき 芭蕉「真蹟自画賛」

袖の色よごれて寒しこいねずみ 芭蕉「蕉翁句集」

人々をしぐれよ宿は寒くとも  芭蕉「蕉翁全伝」

塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店   芭蕉「薦獅子集」

 

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 []/ 早稲田大学図書館 (Waseda University Library)/巻之3(p63/84)/「遠湖・堀江村・舘山寺」(A)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0205/bunko30_e0205_0003/bunko30_e0205_0003_p0063.jpg

東海道名所図会/巻之3(p63/84)/部分拡大図/「観音堂・大穴・舘山寺山寺・のぞき松」

(B)

https://superchurchill.ie-yasu.com/kanzanji/meishozue.html

 

「のぞき松」(C)/ (B)の右端(部分拡大図)

≪その「のぞき松」ですが、なんともふしぎな描かれ方をされています。下の湖面にむかって枝が下がっていて、水に浸かっている感じ? 巨松が折れたのか、こういう生え方の松なのかは分かりません。この枝の間から向こうの風景が覗けたのでしょうか。どちらにせよ、現在ではその跡すら残っていませんが、『東海道 名所図会』から40年後(天保5年・1834)に書かれた『遠淡海地志』には「覗の松は海へ這ふこと十余丈、下枝水中にては兎も波を走ることるありさま、四季折々の風景、こゝに止まりぬ」と書かれています。≫

 

(参考)「東海道名所図会」(「ウィキペディア」)

 『東海道名所図会』(とうかいどうめいしょずえ)は江戸時代後期に刊行された名所図会。寛政9年(1797年)に66冊が刊行された。

 京都三条大橋から江戸日本橋までの東海道沿いの名所旧跡や宿場の様子、特産物などに加えて歴史や伝説などを描いたもので、一部には東海道を離れて三河国の鳳来寺や遠江国の秋葉権現社なども含まれる。

 著者は秋里籬島。序文は中山愛親が書き[3]、円山応挙、土佐光貞、竹原春泉斎、北尾政美、栗杖亭鬼卵など約30人の絵師が200点を越える挿絵を担当。1910年(明治43年)には吉川弘文館から復刻されている。

句意(その周辺)=この句には、「汐見の観世音に参り」との前書がある。「東海道五十三次」の「白須賀宿」の「汐見坂図」(歌川広重画)」などの、その近郊の、『東海道名所図会』では、「遠州にて風景第一の勝地なり」と記されている「舘山寺(かんざんじ)(A)付近などでの一句であろう。その「観世音」というのは、上記の「観音堂」(B)に祀られて「観世音」と思われるが、その「観世音」のことではなく、「松のかぜ」(「屠龍之技」)、そして、「松寒し」(「軽挙館句藻)と、これは、どうやら、『遠淡海地志』のは「覗の松は海へ這ふこと十余丈」の「のぞき松」(C)の一句のようである。

 句意(「屠龍之技」の句形)=汐見坂・舘山寺の「のぞきの松」は、「海へ這ふこと十余丈」(『遠淡海地志』)と、まことに、奇抜・奇形な松の雄姿で、その松風の音と後から追いかけるような潮の音とが、絶妙な調べを奏でている。

句意(「軽挙館句藻」の句形)=汐見坂・舘山寺の「のぞきの松」は、まことに、海を覗き見するような、奇抜・奇形な松の雄姿で、そこに、寒々とした松風の音と、それを追いかけるような潮の音とが、一層、寂寥感を感じさせる。

 蛇足=この上五の「あとになる」というのが、前句の「あとからも」と並列させると、何かしら仕掛けがあるような雰囲気である。そして、この二句からは、「出家して、いよいよ、東国から西国への一歩」という感慨と、これまでの「江戸の生活と別離することに、後ろ髪が引かれる」ような、抱一の「寂寥感」のような感慨とが伝わってくる。

(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子

(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

  

(抱一の「花洛の細道(その五)」周辺)

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形

(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二

(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな

(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子

(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

 「≪「軽挙館句藻」

(三河国八橋)        紫のゆかりもにくし蕪大根

(尾州千代倉:翁の笈を見て)  此軒を鳥も教へつ霜の原

(石山寺・幻住庵:其爪の剃髪) 椎の霜個ゝの庵主の三代目  ≫

(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

 「屠龍之技」では、「(汐見坂)あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)」の後、「軽挙館句藻」には記述されている、「(三河国八橋)(尾州千代倉)(石山寺)」の句などは飛ばして、最終地点・京都の「(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山」となっている。

 しかし、この句の前の、「(石山寺・幻住庵:其爪の剃髪) 椎の霜個ゝの庵主の三代目」の句は、今回の、この「花洛(鹹く)の細道」では、欠かせない一句であろう。  

 この句には、「みなみな翁の旧跡おたづぬるに、キ爪が幻住庵の清水にかしら剃(そり)こぼちけるをうらやみて」(『軽挙館句藻』所収「椎の木蔭」)との前書がある(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

 「幻住庵」とは、元禄三年(一六九〇)に、芭蕉が一時閑居した旧跡で、ここで、抱一の同行者の一人の「キ爪・其爪(きづめ・きそう)」が剃髪して、「三代目庵主」(初代=芭蕉?、二代=曲水?)と成ったという、抱一の句なのであるが、『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』では、「後醍醐天皇(抱一)の忠臣・万里小路藤房(其爪)」と見立てているほどの、この「花洛(鹹く)の細道」の「抱一側近」ということになろう。

 ということは、抱一が、この「花洛(鹹く)の細道」の京都で、「西本願寺」の「等覚院文詮暉真」の出家生活に入るなら、「キ爪・其爪(きづめ・きそう)」は、芭蕉が四か月滞在したといわれている「幻住庵」の「三代目庵主」になって、「等覚院文詮暉真」(抱一)をサポートしたいということが、この句の背景にあるのかも知れない。

 ここで、この「花洛(鹹く)の細道」の同行している「俳諧連衆(仲間)」の、「其爪(きづめ・きそう)・雁々(がんがん・がんどう)・晩器(ばんき)・古檪(これき)・紫霓(しげい)」については、大雑把には、次の「(参考一) 『江戸続八百韻(百韻八巻)』と『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆」ということになろう。そして、それらは、「柳澤米翁と酒井抱一」(参考二)との「俳諧連衆(仲間)」ということになろう。

 (参考一)『江戸続八百韻(百韻八巻)(「墨陽庭柏子・屠龍・抱一」序、「跋」=柳澤米翁の息子=保光=月邨所)並びに『あめひと日(歌仙五巻)(「晋子堂大虎」編)の連衆

 ※大虎(千秋館)=寛政十一年に還暦・狂言作者・初代並木五瓶の後援者。『江戸続八百韻(百韻八巻)』の連衆。『あめひと日(歌仙五巻)(「晋子堂大虎」編)の編者。

※素兄(清談林)=佐藤晩得(秋田藩江戸留守居役)の息子。『江戸続八百韻(百韻八巻)』と『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆。

※雁々(繍虎堂)=酒井家の家臣荒木某。『江戸続八百韻(百韻八巻)』と『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆。

※其爪(きづめ・きそう)=江戸時代の俗曲の一種河東節の名門三世十寸見(ますみ)蘭州と同11112日(1828226日))は、2代目蘭洲の門弟の2代目山彦蘭爾が後に2代目蘭州の養子となり、1792年に3代目襲名。後に俳諧で千束其爪を名乗る。寛政4(1792)の『月花帖』(柳澤米翁の俳号「月村」を佐藤晩得に渡号記念集)には、蘭尓(2代目山彦蘭爾?)の号で入集している。『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆。

 (参考二) 「柳沢米翁」と「酒井抱一」周辺

 「柳沢信鴻」(柳沢米翁」)(「ウィキペディア」)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E4%BF%A1%E9%B4%BB

 「酒井抱一」(「ウィキペディア」)

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%8A%B1%E4%B8%80

 「米翁と抱一」

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25