水曜日, 5月 23, 2007

其角の『句兄弟・上』一(一~十一)


画像:各務支考


其角の『句兄弟・上』

芭蕉が没した元禄七年(一六九四)に成った、其角の『句兄弟』(上・中・下)の、其角の序(句兄弟序)の全文は次のとおりである。

(参考文献)
一 『句兄弟・上』夏見知章・大谷恵子・山尾規子・関野あや子編著
二 「句兄弟」(『蕉門俳諧集二』・古典俳文学大系七)今栄蔵校注

(句兄弟序)
○点ハ転ナリ、転ハ反なりと註せしによりて案ズルに、句ごとの類作、新古混雑して、ひとりことごとくには、諳(ソラン)じがたし。然るを一句のはしりにて聞(きき)なし、作者深厚の吟慮を放狂して、一転の付墨をあやまる事、自陀(他)の悔(くやみ)且暮にあり。さればむかし今の高芳の秀逸なる句品、三十九人を手あひにして、お(を)かしくつくりやはらげ、おほやけの歌のさま、才ある詩の式にまかせて、私に反転の一躰をたてゝ、物めかしく註解を加へ侍る也。此(この)後俳諧の転換、その流俗に随ひ侍らば、一向壁に馬なる句躰なりとも、聊(いささか)の逃(にげ)道を工夫して等類の難をのがれぬべし。尤(もっとも)、古式のゆるしごとくに、貴人・少人・女子・辺鄙の作に於(おい)ては、切字ひとつの違(ちがひ)にして当座の逸興ならしめんは、祝蛇(原文は魚扁)が侫(ねい)なかるべし。此(この)道の譬喩方便なれば、諸作一智也、諸句兄弟也、とちなめるまゝ遠慮なく書の名とし侍る。
元禄七甲戌稔(年)寿星初五  晋 其角
(参考)一 「点ハ転ナリ、転ハ反なり」=点は点化の意で漢詩作法から来た語。点化は古人の詩句を換骨奪胎して自句を成す法で、転・反というも等しい。当時俳人にも読まれた明の梁公済著『氷川(ひょうせん)詩式』に作句法の一として「点化句法」が見えるが、其角は元禄七年刊『其便』に「点化句法」と表示する発句を出しており、漢詩法に学んだ作句法を試みていることが分かる(今・前掲書)。『俳文学大辞典』では「反転の法」の項目での説明あり。また、『去来抄』では、「打ち返し」の用例も見る。
二 おほやけの歌のさま=歌道における本歌取りのこと。『細川幽斎聞書全集』巻之一には「本歌可取様之事」として、次の六法がある。
①常に取る本歌の詞にあらぬ物にとりなしてといへり
②本歌の心をとりて風をかへたる
③本歌に贈答したる躰
④本歌の心になりかへりてしかも本歌をへつらはずして新しき心を読める躰
⑤詞一つをとりたる歌
⑥本歌二首を以て読める躰
三 壁に馬なる=諺「壁に馬を乗りかけたよう」。物事を出し抜けにやること、また無理無体にやることのたとえ。
四 祝蛇(原文は魚扁)=中国春秋時代、衛の人。『論語』に出てくる。後世、弁舌の巧みな者をたとえていう。
五 元禄七甲戌稔(年)寿星初五=元禄七甲戌年八月五日

(句合せ一)

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一番
   兄 貞室
 これはこれはとばかり花の吉野山
   弟 晋子(其角)
 これはこれはとばかり散るも桜哉

(兄句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりの花一色の吉野山であることよ。
(弟句の句意)これは、これは、まことに驚くばかりに落花の桜も美しいことであるよ。
(判詞の要点)兄句の「これはこれとばかり」をそのままに、それに唱和するようなスタイルで、「花の吉野山」を「散るも桜哉」と反転せている。それも、単に、「咲いた桜」に対して「散る桜」と反転させただけではなく、「これは、これはと驚くばかりに激しく散る桜の美しさ」も、花(桜)の「(物の)本性」(『徒然草』第百三十七段の「花の前後」の心に通ずる)で、その心をもって反転させたところに、ここでの弟句の句作りの要諦がある。
(参考)安原貞室(やすはらていしつ:1610年(慶長15年) - 1673年3月25日(延宝元年2月7日))は、江戸時代前期の俳人で、貞門七俳人の一人。名は正明(まさあきら)、通称は鎰屋(かぎや)彦左衛門、別号は腐俳子(ふはいし)・一嚢軒(いちのうけん)。京都の紙商。1625年(寛永2年)、松永貞徳に師事して俳諧を学び、42歳で点業を許された。貞門派では松江重頼と双璧をなす。貞室の「俳諧之註」を重頼が非難したが、重頼の「毛吹草」を貞室が「氷室守」で論破している。自分だけが貞門の正統派でその後継者であると主張するなど、同門、他門としばしば衝突した。作風は、貞門派の域を出たものもあり、蕉門から高い評価を受けている。句集は「玉海集」など。


(句合せ二)

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二番
   兄 拾穂軒
 地主からは木の間の花の都かな
   弟 (其角)
 京中へ地主のさくら飛(ぶ)胡蝶

(兄句の句意)京の清水の地主神社の木の間から華やかな花の京が見える。
(弟句の句意)京中へ清水の地主神社の桜の花びらがあたかも胡蝶のように飛んで行く。
(判詞の要点)兄句の「木の間」という語で「たてふさがりて」の趣なので、弟句では、「飛花の蝶に似たる」の発想で、反転させたのである。この種のものは作例を多く見るが、特に、「京中へ」としたところに工夫がある。「飛花の蝶に似たる」は、王雅の「晴景」(『三体詩』巻一所収)による。
(参考)北村 季吟(きたむら きぎん、1625年1月19日(寛永元年12月11日) - 1705年8月4日(宝永2年6月15日))は、江戸時代前期の歌人、俳人、和学者。名は静厚、通称は久助、別号は慮庵・呂庵・七松子・拾穂軒・湖月亭。(経歴) 出身は近江国野洲郡北村。祖父の宗竜、父の宗円を継いで医学を修めた。はじめ俳人安原貞室に、ついで松永貞徳について俳諧を学び、「山之井」の刊行で貞門派俳諧の新鋭といわれた。飛鳥井雅章・清水谷実業(しみずだにさねなり)に和歌、歌学を学んだことで、「土佐日記抄」、「伊勢物語拾穂抄」、「源氏物語湖月抄」などの注釈書をあらわし、1689年(元禄2年)には歌学方として幕府に仕えた。以後、北村家が幕府歌学方を世襲した。俳諧は貞門派の域を出なかったが、「新続犬筑波集」、「続連珠」、「季吟十会集」の撰集、式目書「埋木(うもれぎ)」、句集「いなご」は特筆される。山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出している。

(句合せ三)

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三番
   兄 素堂
 又これより青葉一見となりにけり
   弟 (其角)
 亦是より木屋一見のつゝし(じ)哉

(兄句の句意)花が落花して、また、これからは「青葉一見」の季節になったことよ。
(弟句の句意)「植木屋一見」の花の季節から、また、これからは「つつじ」の季節になったことよ。
(判詞の要点)兄句・弟句とも春の名残を惜しむことにおいては同じであるが、兄句の「青葉」を「木屋」に、「となりにけり」を「つゝし(じ)かな」と変転させることによって、句の表面の字面も句意も随分と様変わりしている。特に、この「下五の云かへにて」で、両句は「強弱の躰をわかつもの」となっている。両句の背景には、賈島「暁賦」詩中の「遊子行残月」(『和漢朗詠集』所収)がある。
(参考)山口素堂(やまぐち そどう、寛永19年(1642年) - 享保元年8月15日(1716年9月30日))は、江戸時代前期の俳人・治水家。本名は信章。通称勘兵衛。[経歴] 生れは甲斐国で、家業は甲府魚町の酒造家。20歳頃で家業の酒造業を弟に譲り、江戸に出て漢学を林鵞峰に学んだ。俳諧は1668年(寛文8年)に刊行された「伊勢踊」に句が入集しているのが初見。1674年(延宝2年)京都で北村季吟と会吟し、翌1675年(延宝3年)江戸で初めて松尾芭蕉と一座し以後互いに親しく交流した。晩年には「とくとくの句合」を撰している。また、治水にも優れ、1696年(元禄9年)には甲府代官櫻井政能に濁川の治水について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いている。

(句合せ四)

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四番
   兄 粛山
 祐成が袖引(き)のばせむら千鳥
   弟 (其角)
 むらちどり其(の)夜ハ寒し虎が許

(兄句の句意)群千鳥が鳴いている。群千鳥よ、どうか、曽我兄弟の祐成が仇討ちに出掛けていこうとしているが、その袖を強く引いて引き留めて欲しい。
(弟句の句意)群千鳥が鳴いている。、曽我兄弟の祐成が仇討ちに出掛けて行った日も、虎御前とともにあって、その夜は厳しい寒さであったことだろう。
(判詞の要点)両句とも、曽我十郎祐成と祐成と契った遊女の虎御前のことについて詠んだものである。「是は各句合意の躰也。兄の句に寒しといふ字のふくみて聞え侍れば、こなたの句、弟なるべし」。判詞中の「冬の夜の川風寒みのうたにて追反せし也」は、紀貫之の「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒みちどり鳴くなり」(『拾遺集』)を踏まえている。
(参考)「粛山(しゅくざん)」については、この其角の『句兄弟』の、「上巻が三十九番の発句合(わせ)、判詞、其角。中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める。下巻は元禄七年秋から冬にかけて東海道・畿内の旅をした其角・岩翁・亀翁らの紀行句、諸家発句を健・新・清など六格に分類したものを収める」(『俳文学大辞典』)の、「中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める」の「粛山」であろう。『句兄弟(上)』の其角の判詞には、「さすか(が)に高名の士なりけれハ(ば)」とあり、この粛山とは、松平隠岐守の重臣・久松粛山のことであろう。


(句合せ五)

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五番
   兄 信徳
 雨の日や門提(げ)て行(く)かきつばた
   弟 (其角)
 簾まけ雨に提(げ)来(る)杜若

(兄句の句意)雨が激しい。その雨の中を客人が門から色鮮やかな杜若を提げて出て行く。
(弟句の句意)簾を巻き上げよ。雨の中を客人が杜若を提げて我が家にやって来る。
(判詞の要点)両句は、表面的には「雨の日に提て行く杜若」と「雨の日に提て来る杜若」と「往と来との」の反転であるが、弟句は上五の「簾まけ」によって、雨に濡れた杜若の雫の様子や杜若の色や香なども詠み込んでいる。この「簾まけ」には、『枕草子』(第二百八十二段)の「香炉峯の雪は簾を撥げて看る」(『白氏文集』)の一節が連想されてくる。
(参考)伊藤信徳(いとう しんとく)(~元禄十一年没)京都新町通り竹屋町の商人。助左衛門。若かった時分、山口素堂とも親交があつかった。貞門俳諧から談林俳諧に進み、『江戸三吟』は、この芭蕉・素堂・信徳の三人による。梨柿園・竹犬子は別号。享年66歳。この『江戸三吟』は、京の信徳が延宝五年(一六七七)の冬から翌年の春にかけて江戸滞在中に、桃青(芭蕉)・信章(素堂)と興行した三吟百韻三巻を収める。「三人の技量が伯仲し、軽快で才気あふれる諧謔のリズムに乗って展開しており、江戸談林や京の高政一派に見られるような難解奇矯の句は少なく、当時の第一線の作品となっている」(『俳文学大辞典)。

(句合せ六)

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六番
   兄 曲水
 三弦やよしのの山を佐月雨
   弟 (其角)
 三味線や寝衣(ネマキ)にくるむ五月雨

(兄句の句意)外は五月雨、三味線の練習曲の「吉野山」を弾いて、閑を紛らしている。
(弟句の句意)外は五月雨、三味線を弾いて気を紛らわしている。いっそ、寝間着に身をくるんで寝てしまおうか。
(判詞の要点)兄句は、五月雨の軒の雫の「ぽちぽち」という音と、三味線の「ほちほち」という音とを重ね合わしててる。弟句では、「寝衣(ネマキ)」という語によって、閨怨の意を含ませ、五月雨の「ぽちぽち」と三味線の「ほちほち」との他に、閨怨の想いの「ぼちぼち」とを重ね合わしている。兄句が「倦む」句とするならば、弟句は「忍ぶ」句であり、両句が等類でないことは明瞭である。
(参考)一 菅沼曲水(曲翠)(すがぬま きょくすい)。本名菅沼外記定常。膳所藩重臣。晩年奸臣を切って自らも自害して果てる。『幻住庵の記』の幻住庵は曲水の叔父菅沼修理定知の草庵。曲水は、近江蕉門の重鎮でもあり、膳所における芭蕉の経済的支援をした。高橋喜兵衛(怒誰)は弟。
二 兄句の曲水の句については『葛の松原』(支考著)にその評が出る。
二 「謎解き・五十七」では、弟句の句意で、「寝衣(ネマキ)にくるむ」は、「三味線をくるむ」に重点において滑稽句のように解したが、ここは、判詞にある「閨怨」の意をとって、「寝間着に身をくるんで寝てしまう」の意に解することにする。

(句合わせ七)

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※(謎解き・五十八)http://yahantei.blogspot.com/2007/04/blog-post.html

七番
   兄 (不詳)
 禅寺の華に心や浮蔵主
   弟 (其角)
 客数寄や心を花にうき蔵主

(兄句の句意)禅寺にも花が咲き、禅坊主の心にも花が咲き、浮かれていることよ。
(弟句の句意)禅寺に花見客を招き、禅坊主も一緒になって心も華やぎ、浮かれていることよ。
(判詞の要点)兄句は戯れ句仕立ての句であるが、禅の心を悟る坊主が主題となっており、どこか重い、聞きながしにはできないような趣がある。それを弟句では、まさに、当座の句にふさわしく、即興的な「得興の専」の句に変転している。
(参考)一 これまでの、貞室→拾穂軒(季吟)→素堂→粛山→信徳→曲水(曲翠)と、ここに来て、作者名が空白(不詳、其角か)で、続いて、八番が露沾、九番が岩翁、十番がまた空白(不詳、其角か)となっていく。これらの順序なども何か意図があるのかも知れないが、これまでのものを振り返って見て、いわゆる、発句合わせ(句合わせ)の、兄・弟との両句の優劣を競うという趣向よりも、兄の句の主題・言葉を使って、いかに、弟の句を「誹番匠」(言葉の大工)よろしく、換骨奪胎するか、その腕の冴えを見せるという趣向が濃厚のように思われるのである。この掲出の二句でも、「華(花)・心・浮蔵主(うき蔵主)」は同じで、違うのは、上五の「禅寺」(兄)と「客数寄」(弟)との違いということになる。それだけで、この兄の句と弟の句は、まるで別世界のものとなってくる。この兄の句は、「禅寺にも花が咲き、経蔵を管理する老僧の心も華やいでいる」という対して、弟の句は、「数寄者を招き、禅寺の経蔵管理の老僧まもで、数寄者と一緒になって、この庭の花を心から愛でている」とでもなるのであろうか。兄の句は、中七の「華に心や」切り、下五の「浮(き)坊主」と、この判詞にある「古来は下へしたしむ五文字を今さら只ありに云流したれは(ば)」というのを、弟の句では、上五の「客数寄や」切りにして、「心を花にうき坊主」と「心を花にうき」と「うき坊主」と「うき」を掛詞として、「花見る庭の乱舞によせたり」という世界を現出しているということなのであろう。これらは、今にいう「添削」(主に作者以外の人が言葉を加えたり、削ったりして句を改めること)・「推敲」(作者自身による修正)の問題なのであろうか。これらに関して、芭蕉書簡の「点削」は、「評点を加え、添削するの意」で使われているとのことであるが(『俳文学大辞典』)、この其角の『句兄弟』のこれらのものは、この「点削」の要領に近いものを感ずるが、その「点削」そのものではなく、いわば、その兄の句の「主題・言葉」を使用して、また、別の句を作句するという、いわゆる、「反転の法」(ある句の語句の一部や発想を転じて、新たな趣意の句を詠ずる句法、もと漢詩の手法から想を得て、其角が『句兄弟』で等類を免れるために実践した法)の具体例というようなことなのであろうか(「反転の法」の説明は『俳文学大辞典』による)。この「反転の法」というのは、例えば、掲出の二句についていえば、兄の句を「反転の法」により、新しい別の弟の句を作句するということで、この兄の句と弟の句とは、「兄弟句」の関係にあるという理解でよいのかも知れない。なお、「等類」というのは、「先行の作品に作為や表現が類似していること」をいう。そして、「連歌では、心敬などは別にして、むしろこれに寛容な傾向が強いが、新しみを重んじる俳諧では、『毛吹草』以下とりわけ批判の対象となり、『去来抄』などに見られるように、蕉門では特に厳密な吟味がなされた」とされ、「去来は先行の句に発想を借り、案じ変えたものを同巣(どうそう)」といい、「近現代俳句では『類句』とも呼ばれる」(『俳文学大辞典』)。この「兄弟句」と「等類(句)」との一線というのは、はなはだその区別の判断は難しいであろうが、其角は、「漢詩の点化句法(『詩人玉屑』などに所出)をもとに」にしての「反転の法」により「等類」とは似て非なるものという考え方なのであろう。そもそも、連歌・俳諧というのは、「座の文学」であり、「連想の文学」であり、一句独立した俳句(発句)として、「独創性」を重んじるか「挨拶性」を重んじるか、その兼ね合いから個々に判断されるべきものなのであろうが、こういう其角の「反転の法」のような作句法も、これらの『句兄弟』の具体例を見ていくと、確かに、誰しもが、この種の、「推敲」なり「添削」を、無意識のうちに、それも日常茶飯事にやっているということを痛感する。と同時に、「兄弟句」と「等類」(「類句」)とは違う世界のものという感も大にする。また、この「反転の法」というのは、この句合わせの一番などに見られる「云下しを反転せしものなり」、そして、それは「句を盗む癖とは等類をのか(が)るゝ違有」ということで、この一番の解説での「換骨」(古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる)と同趣旨のものと解したい。そして、それは、其角の代表的な撰集『いつを昔』の前題名として予定されていた「誹番匠」(言葉の大工)という用語に繋がり、そして、それは横文字でいうと、「レトリック」(①修辞学。美辞学。②文章表現の技法・技巧。修辞。)という用語が、そのニュアンスに近いものであろう。その意味では、其角というのは、「レトリック」と「テクニシャン」(技巧家)の合成語ともいうべき「レトリシャン」(修辞家)の最たる者という思いがする。いや、もっと「マジック」の「マジシャン」ということで、「言葉の魔術師」とでもいうべきネームを呈したいような思いを深くするのである(謎解き・五十八)。
二 兄句の作者が空白で、其角の句と解して、句意・参考一を記したが、判詞に「毛吹時代の老僧」とあり、「貞門時代の老僧」の作なのかも知れない。(句合せ十)の兄句作者も空欄なのであるが、これも、判詞の「棹頭(チョウズ)の秀作」から、「長頭丸(松永貞徳)の秀作」と解せなくもない(其角が貞徳派の作者名も伏したとも取れなくもない)。

(句合せ八)

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八番
   兄 露沾
 蔭惜(し)き師走の菊の齢かな
   弟 (其角)
 秋にあへ師走の菊も麦畑

(兄句の句意)その姿かたちも捨てがたい師走の頃の盛りを過ぎた菊は、丁度、老齢の自分の姿を見るようだ。
(弟句の句意)師走の頃の盛りを過ぎた菊も、次の麦秋の頃を経て、はまた再び秋を向かえ、その美しい姿を見せることでしょう。
(判詞の要点)兄句の中七は最高の評点を付けるべきでしょう。そして、霜雪にうたれて枯れ果てた菊を愛しみながら、その菊に自分自身を重ね合わせているのである。弟句は、菊が萌え出る夏の麦秋を経て、秋には再び美しい花を咲かすでしょうと、次の盛りを期待する句へと、反転させているのである。
(参考)一 内藤露沾(ないとう ろせん)(~享保18年(1738)9月14日、享年79歳)
磐城の平藩7万石城主内藤右京大夫義泰(風虎)の次男義英、その後政栄。28歳の時お家騒動で家老の讒言によっておとしめられ、麻布六本木の別邸で風流によって自らを慰めながら、部屋住みのままに生涯を終えた。宗因門下のなかなかの才能で一流を起こした。芭蕉が『笈の小文』の旅に出るにあたって、「時は冬吉野をこめん旅のつと」と餞した。この句も、餞別吟としてなかなかの出来栄えである。号は傍池堂・遊園堂。西山宗因門弟。後に江戸俳壇を仕切った沾徳は露沾の弟子。蕉門中最も身分の高い人であった。
二 「謎解き・五十九」では、作者、露沾を見落としてしまった。また、弟句の「秋にあへ」は、「秋に敢へ」(耐え)との句意にしたが、ここでは「秋に会へ」(向かえ)との句意にした。
三 さて、「言葉の魔術師・其角」の「反転の法」による「兄弟句」の二句である。この中七の「師走の菊」が、其角の判詞の「中七字珍重(もてはや)すへ(べ)し」ということで、この中七字は、「師走の菊の」(兄)の「の」と「師走の菊も」(弟)の「も」との一字違いだけである。この中七を活かして、いわゆる「反転の法」によって、それぞれ別世界を創出するというのが、「誹番匠」の其角師匠の腕の冴えの見せ場なのである。
まず、兄の句を見ていくと、「蔭惜(し)き師走の菊の齢かな」と、いわゆる「一物仕立」の「発句はただ金を打ちのべたる様に作すべし」(『旅寝論』)なのに対して、弟の句は、「秋にあへ師走の菊も麦畑」と「師走の菊」と「麦畑」の、いわゆる「取合せ」の「発句は畢竟取合せ物とおもひ侍るべし。二ツ取合せて、よくとりはやすを上手と云(いう)」と、そのスタイルを変えて、いわゆる「反転の法」によって、換骨奪胎を試みているのである。そして、其角は、この換骨奪胎を「句を盗む癖とは等類をのか(が)るゝ違有」と「句を盗むところの等類」を「逃るる」もので、これは「等類」ではなく、いわば「兄弟句」であるとするのである。弟の句の「秋にあへ」は「秋に会え」(秋を向かえ)と解して、判詞で言う「霜雪の潤むにおくるゝ対をいはゝ(ば)わつ(づ)かに萌出し麦の秋後の菊をよそになしけん姿」の句に変転した、「誹番匠」の其角師匠の腕の冴えは、只々脱帽せざるを得ないという思いを深くするのである(謎解き・五十九)。

(句合せ九)

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九番
   兄 岩翁
 達磨忌や朝日に僧の影法師
   弟 (其角)
 達磨忌や自剃にさくる水鏡

(兄句の句意)達磨忌の朝、朝日の中で忙しそうに動き廻る僧の影すら、慌ただしい。
(弟句の句意)達磨忌の朝、身を清めるために頭を自剃りしていると、水鏡に写る自分の
影すらじっとしている。
(判詞の要点)俳句ヲ論ズルコトハ禅ヲ論ズルガ如シ。この二句では、兄句の「日の影」と弟句の「水の影」で、特にその違いはない。ただ、空房ニ独リ孑(ケツ)の、似ているようで似ていない、その影(兄句では慌ただしく、弟句でじっとしている、その影の違い)を句にしただけである。ここでは、兄句、弟句の、優劣や等類について論ずるものではない。
(参考)一 多賀谷岩翁(たがや がんおう)(~享保7年(1722)6月8日)
 江戸の人。通称は、長左衛門。亀翁はその息子で、ともに其角の門弟で芭蕉にとってはいわば孫弟子にあたる。なお、『元禄の奇才 宝井其角』(田中善信著)では、次のとおり記述されている。「『続虚栗』に岩翁(がんおう)が初めて一句入集する。彼は多賀谷長左衛門と称する幕府御用を勤める桶屋であったという。其角は元禄四年(一六九一)の大山・江ノ島・鎌倉の小旅行で岩翁親子(子は亀翁)と同行し、元禄七年の関西旅行でも岩翁親子と同行している。岩翁は『桃青門弟独吟二十歌仙』のメンバーの一人だが、一時俳諧から離れていたらしい。『続虚栗』以後は其角派の一員として活躍するが、其角のパトロンの一人であったと思われる」。
二 判詞の「空房独了(ケツ)」は「空房独孑」で、「孑」は孤立の意味(『今・前掲書』)。
三 『夏見・前掲書』では、「空房独孑」のところを、「一人で静かな部屋にいるときの、自分と自分の影のように、似ているようで似ていない、似ていないようで似ている、そして最後には、どちらが影で、どちらが本物の自分であるのかわからなくなってしまう、そういう奥行きの深い、哲学的な意味合いを持つものである。だからみれらの日の影と水の影を詠んだ二句は、題材は同じであるが、簡単に優劣や等類を論ずることはできないのである」としている。分かり難い箇所だが、上記の(判詞の要点)のように解する。


(句合せ十)

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十番
   兄 (不詳)
 干瓜や汐のひか(が)たの捨小舟
   弟 (其角)
 ほし瓜やうつふけて干す蜑小舟

(兄句の句意)汐の干潟に捨て小舟があり、その捨て小舟に「捨て小舟」の異称のある白瓜の漬け物が干してある。
(弟句の句意)蜑小舟に白瓜の漬け物俯けて干してある。汐が満ちても濡れないように。
(判詞の要点)兄の句は「干瓜」と干瓜の異称のある「捨て小舟」の句として優れた言い回しの句なので、換骨奪胎しても、等類の非難を逃れるのは至難のことだが、兄句の「汐のひがた」を「ふつふけて干す」と反転させて、兄句の「汐」を、弟句では干し瓜に使う「塩」と働きを別にしているので、等類と非難されることはないだろう。
(参考)一 兄句の作者のところは空白で、其角の作とも思われるが、『夏見・前掲書』では、判詞の「棹頭の秀作にして」の「棹頭」を「チョウズ」と読んで、松永貞徳の号の「長頭丸」の宛字に解している。(謎解き・六十一)では、其角の作と解したが、ここでは、貞徳の作と解することとする。
二 松永貞徳(まつなが ていとく)1571年(元亀2年)~ 1654年1月3日(承応2年11月15日))は、江戸時代前期の俳人・歌人・歌学者。父は松永永種。松永久秀の孫とも言われる。子は朱子学者の松永尺五。名は勝熊、別号は長頭丸・逍遊(しょうゆう)など。出身は京都。連歌師、里村紹巴(さとむらじょうは)から連歌を、九条稙通、細川幽斎に和歌・歌学を学ぶ。俳諧は連歌・和歌への入門段階にあると考え、俗語・漢語などの俳言(はいごん)を用いるべきと主張した。貞徳の俳風は言語遊戯の域を脱しないが、貞門派俳諧の祖として一大流派をなし、多くの逸材を輩出した。

金曜日, 5月 18, 2007

其角とその周辺(その九・八十一~九十)


画像:井原西鶴

(謎解き九)

(謎解き・八十一)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十番
   兄 春澄
 草刈や牛より落ておみなえし
   弟 (其角)
 牛にのる娵御(ヨメゴ)落すな女郎花

 この兄の句の作者、春澄(はるずみ)は京都の俳人である。承応二(一六五三)~正徳五(一七一五)。青木氏。別号、印雪子・素心子・春隈・貞悟・甫羅楼。延宝六年には江戸で芭蕉らと交流し『江戸十歌仙』を刊行。宝永(一七〇四~一一)ごろ、貞徳嫡伝四世貞悟を歳旦帖を刊行している(『俳文学大辞典』)など。其角との接点は、貞享元年(一六八四)の上京の時で、この年に、二十四歳の其角は春澄らの京都の俳人と座を同じくして、『蠧(しみ)集』という俳諧撰集が京都で刊行される。この『蠧集』所収の世吉(よよし・四十四句形式の連句)に其角・春澄の名が、その連衆の名の中に見ることができる(田中・前掲書)。この『蠧集』の書名の由来は、「句を干(ほし)て世間の蠧(しみ)を払ひけり」の、その世吉の発句によるとのことであり、当時の最先端の信徳らの「京都五歌仙」ともいえるものであるという(田中・前掲書)。その「田中・前掲書」によれば、この年(貞享元年)に、芭蕉を迎えた荷兮らの名古屋の俳人が『冬の日』(芭蕉七部集の第一集)を刊行し、この『冬の日』の副題が「尾張五歌仙」で、それは『蠧集』の「京都五歌仙」を意識してのものであるという。そして、其角が、その「京都五歌仙」に、芭蕉が、その「尾張五歌仙」に、江戸からの旅中に参加しているということは、やはり特記すべきことなのであろう。
さて、この春澄の句は、其角の「判詞」(自注)に、「京流布の一作」(京の俳人達に流布した一作)とあり、評判の一作であったのであろう。句意は、「草刈りの男が、美しい女性の名を冠している女郎花を見て牛より落ちてしまった」と、「判判詞」(自注)にある「遍照の馬を引かえて」の、「名にめでておれる許ぞおみなえし我おちにきと人にかたるな」(「さがのにて、むまよりおちてよめる」の詞書あり。『古今和歌集(巻第四・秋)』・「僧正遍照」)が背景にあるという(夏見知章他編著『句兄弟上・注解』)。それに対して、其角のこの弟の句は、その「馬より落ちた」ところの遍照の本歌取りの世界とは全然関係なく、それを本歌取りした春澄の「牛より落ちた」句を本句取りしての、「牛にのる娵御(ヨメゴ)落すな女郎花」と、「パロディ」の「パロディ」と、二重にも三重にもした換骨奪胎の一句なのである。さらに、この「判詞」(自注)には、「是等は俳諧の推原(原=モトヲ推ス)也」とあり、ここは、『去来抄』ならず、『三冊子』「白さうし」の次の一節と関係しているようなのである。
○名にめでゝ(て)お(を)れるばかりぞ女郎花
            我落(おち)にきと人にかたるな
 この哥僧正遍照、さが野の落馬の時よめる也。俳諧の手本なり。詞いやしからず、心ざれたるを上句とし、詞いやしう、心のざれざるを下の句とする也。

 これらのところを、『去来抄』でするならば、次のアドレスの、『去来抄』「修行」(「俳諧の基」)などが関係してくるのであろう。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#a

(「修行」二)

2、魯町曰(ろちゃういはく)、俳諧の基(もとゐ)とはいかに。去来曰、詞に言ひ難し。凡(およそ)吟詠する物品(しな)あり、歌は基也(もとゐなり)。其内(そのうち)に品有(しなあ)り、はいかいも其一也(そのひとつなり)。其品々(そのしなじな)をわかち知らるる時は、俳諧連歌は如斯物也(かくのごときものなり)と自(おのづか)ら知らるべし。それを不知(しらざる)宗匠達、俳諧をするとて、詩やら歌やら旋頭(せどう)・混本(こんぽん)やら知れぬ事を云へり。是等(これら)は俳諧に逢ひて、俳諧連歌といふ事を忘れたり。はいかいを以(もつ)て文を書(かか)ば俳諧文也、歌を詠(よま)ば俳諧歌也、身に行はば俳諧の人也、只徒(ただいたづ)ラに見(ケン)を高うし古(いにし)へを破り、人に違(たが)うを手柄貌(てがらがほ)に仇言(あだごと)いひちらしたるいと見苦し。かく計(ばか)り器量自慢あらば、俳諧連歌の名目(みゃうもく)をからず、俳諧鉄砲(てっぱう)となりとも乱声(らんじゃう)と成りとも、一家の風を立(たて)らるべき事也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,61~62)

 「俳諧の基(もとゐ)とは何か」というのは難しい質問で、今日で言えば、ロックとは何かというようなものだ。ロックとは何かといっても、エレキギターなどを用いたバンドでエイトビートのリズムを持つ音楽、などというのは何の説明にもなっていない。アイドルグループの演奏するその手の歌謡曲はいくらでもあるし、演歌だってエイトビートで演奏されることはある。また、ロックだってシックスティーンビートの曲もあれば八六拍子の曲もあるし、もっと複雑な変拍子の曲もある。エレキを使わずにアンプラグドで演奏されることもあれば、バンド形態を取らないDJのサンプリングによるヒップホップも広義のロックに入る。結局はロックスピリッツを持ったものがロックだということになる。
 俳諧もそれと同じで、俳諧スピリッツを持つものが俳諧だといっていいだろう。俳諧スピリッツがあれば、歌を詠んでも俳諧歌であり、文章を書けば俳文、絵を描けば俳画となる。いわば、平和を愛し、命を尊重し、花鳥風月を楽しみ、風雅の世界に遊ぶことで、日常の生存競争のぎすぎすした雰囲気を和らげようとする心があれば、句を詠まずとも俳諧だといっていいだろう。
 人間は生き物である以上、過酷な生存競争からは逃れられないため、生きようという意志が強ければ強いほど、生きるということに真剣になればなるほど、結局は生存競争を激化させ、人生を過酷で殺伐としたものにする。これを防ぐのが「遊び」の役割で、原始的な社会にも歌や踊りがあり、祭りがあるように、「遊ぶ」ということは人類が日々を万人の万人に対する殺伐とした闘争状態から開放する唯一の手段でもあった。ただし、一人だけが遊んでいれば、その人は結局生存競争の敗者になってしまうし、一社会集団だけが遊んでいれば、遊ばない他の集団に負けてしまう。そこで「遊び」は実は軍縮と同じで、みんなで一斉にやらなければ意味がない。つまり遊びが社会的に価値のある行為であることを、みんなが等しく認めなければ、遊びの文化というのは廃れてゆくことになる。その共通の価値観は、かつては宗教的なものに支えられていたが、それが江戸時代の大衆文化の中で、宗教的権威から独立したのが俳諧スピリッツだと言っていいだろう。連歌(れんが)で神祇(じんぎ)・釈教(しゃっきょう)やあるいは述懐(しゅっかい)が重要だったのは、連歌の遊びの精神が中世の顕密(けんみつ)仏教とそれと習合した神祇信仰の権威と結びついていたからであり、神祇・釈教などのテーマが廃れたのは江戸時代の俳諧がそうした宗教的権威の衰退と、都市の文化の独立を反映しているからだといっていいだろう。
 今日でもロックは宗教だという人がいるが、その意味では俳諧も宗教だといえるかもしれない。それは教団も教義もない、大衆の自発的な宗教であり、いわば、単に勝つことだけを願うのではなく、人生をより豊かで楽しいものにしようという自発的な生存競争の軍縮運動であり、それはおそらく、すべての大衆芸術の精神に共通するものだろう。それゆえに俳諧の精神は不易であり、俳諧が廃れても、今日ではロックなどのポップカルチャーにその精神は引き継がれている。
 俳諧は近代の「俳句」と違って、本来発句だけでなく、付け句を含む俳諧連歌を指す。その意味で、漢詩や和歌や旋頭歌などとは区別される。ただし、それは狭義の俳諧であって、俳諧の心を持って漢詩を作れば、それは俳諧詩であり、俳諧の心で和歌を作れば、俳諧歌となる。逆に言えば、漢詩や和歌は俳諧の心がないから漢詩・和歌であり、何が違うかというと、それらももちろん最初は庶民のものだったのだが、結局は政治的に支配の道具として利用されてきた歴史があり、純粋な大衆の偽らざる心情の表現ではない。それゆえ、和歌や漢詩を引き合いに出して、もっともらしい理窟をつけている宗匠たちは、本当の意味での俳諧をわかっていないといってよい。その意味では、何やら西洋流の哲学を持ち込んで、わけのわからない理屈をこねて俳句とはかくあるべし、詩とはかくあるべしなどと言っている近代の文学者も同罪といえよう。
 「只徒(ただいたづ)ラに見(ケン)を高うし古(いにし)へを破り、人に違(たが)うを手柄貌(てがらがほ)に仇言(あだごと)いひちらしたるいと見苦し。」
この言葉は今日の結社とかで文学をやっている人間に、そのまま当てはまるから面白い。結局文学には権力の文学と大衆の文学の二つしかないのだろうか。


(謎解き・八十二)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十一番
   兄 来山
 早乙女やよごれぬものは声ばかり
   弟 (其角)
 さをとめや汚れぬ顔は朝ばかり

 小西来山(一六五四~一七一六)については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.kusuri-doshomachi.gr.jp/hito/hito8.html

○大坂を代表する談林派の俳人。
 淡路町の薬種商 小西六左衛門家に生まれる。(承応3年) 七つの頃から、談林派の西山宗因門下 前川由平に書画俳諧を学び、 その後、宗因の直弟子となる。 家業を弟に譲り、18歳で俳諧点者となった。 初号を満平と号し、後に来山・湛翁と改号、上島鬼貫らとともに、大坂での談林派の興隆に大きな功績を残した。
 談林派は、それまでの松永貞徳による貞門派の古風で詩情に乏しい俳風を脱し、軽妙洒脱な清新さを持つ句風で一世を風靡した。有名な句として次のようなものがある。

  『門松や冥土の旅の一里塚』
  『お奉行の名さへ覚えず年暮れぬ』
  『時雨るるや時雨れぬ中の一心寺』

 しかし来山の作品は、談林派の洒脱な一面とともに、自然のありさまを繊細な感覚でとらえ松尾芭蕉に通じる次のような蕉風に近い句もある。

   『行水も日まぜになりぬ虫の声』
   『白魚やさながら動く水の音』

 黄檗の南岳悦山(黄檗七世)に参禅し、大坂三郷外の今宮に「十萬堂」という庵を建てて、風月を友に酒を愛し、飄々とした人生を送った。※「十萬堂」は昭和20年戦災により焼失。現在、石碑が建てられている。享保元年10月、63歳で死去。一心寺に供養墓と句碑が建立されている。また今宮戎神社の隣の海泉寺には来山夫婦の墓がある。

 さて、この来山の句については、「鶯はゐなかの谷の巣なれども訛びたる音をば鳴かぬなりけり」(西行『山家集』)の本歌取りの句という。その來山の句を本句取りにしての、其角の弟の句は、「今朝だにも夜をこめてとれ芹河や竹田の早苗節立ちにけり」(『続古今和歌集』第三・夏歌)を本歌取りしてのものに一変したというのである。これらのことに関して、その「判詞」(自注)に、「兄 うぐひすは田舎のたにのすなれどもだびたる声はなかぬなりけり」、「弟 今朝だにも夜をこめてとれ芹川や竹田の早苗ふしだちにけり」と、その「本歌取り」の「本歌」を紹介しているのである。句意は、兄の句は、「早乙女の汚れぬものは声だけで、後は泥んこである」ということで、弟の句は、「早乙女の顔は、朝だけは汚れていないが、後は泥んこである」ということなのであろう。この二句を比較しただけでは、これは、兄弟句というよりも、弟の句は兄の句の類想句という誹りは免れないであろう。しかし、これは、本歌取りの句であって、その本歌は、兄の句と弟の句とでは、全然別なのだと開き直られると、これも兄弟句と解しても差し支えないのかとも思えてくる。要は、其角流にするならば、その換骨奪胎も、「類想句の誹りを受けない」だけの、理論武装をして作句しなさいということなのかも知れない。そのことと併せ、『去来抄』の「類想のいましめ」関連の、次のアドレスに出てくるようなことについて、十分に配慮して作句しなさいということなのであろう。その紹介のアドレスだけを、下記に記しておきたい。

『去来抄』「先師評八」(類想のいましめ・その一)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

『去来抄』「先師評十」(類想のいましめ・その二)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#i

『去来抄』「先師評十六」(類想のいましめ・その三)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#o

『去来抄』「同門評十二」(等類と同巣・その一)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#k

『去来抄』「同門評三十五」(等類と同巣・その二)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#hh

『去来抄』「同門評二十四」(等類をめぐって・その一)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#w

『去来抄』「同門評二十八」(等類をめぐって・その二)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#aa

(謎解き・八十三)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十二番
   兄 柴雫
 傘持は大根ねらふ子日哉
   弟 (其角)
 傘持はつくばひ馴し菜摘哉

 この兄の句の作者、柴雫(さいか)関連で、『田中・前掲書』には、次のとおりの記述が見られる。

○芭蕉の門人である鳴海の知足の日記の貞享五年九月十七日の条に、「江戸其角御こし。晩に荷兮方に参られ候」(森川昭『千代倉日記抄一三』)、「俳文芸四四」)と記されている。この日の夜、其角は荷兮の家に泊まった。この後美濃国関の素牛(後の維然)、伊勢国久居の柴雫(さいか)を訪れ、十月二日には膳所の水楼において曲水(曲翠)らと風交を楽しんだ(『いつを昔』)。右の足跡から分かるようにこの時の旅では其角は、芭蕉が切り開いたいわば蕉門ルートをたどっている。柴雫と芭蕉の関係は不明だが、柴雫は『いつを昔』(元禄三)に入集した後、其角派の主要俳人として活躍しており、其角門人の独吟歌仙を集めた『末若葉(うらわかば)』(元禄十)の作者の一人である。おそらく元禄初年頃からは一時江戸に住んだのであろう。

 さて、この柴雫の兄の句は、「傘持」と「子(ね)の日」の句で、その判詞(自注)を見ると、「若菜つむ大宮人のかりころもひもゆふぐれの色やみゆらむ」(『順徳院御集』)の本歌取りの滑稽化であるという(『夏見・前掲書)。それに対して、其角の弟の句は、和歌のもつ雅の風情を残しがら、兄の句の「傘持たる丁(ヨボロ)のさま」を、「ねらふ」から「つくばひ馴し」と言いかえることによって、新しい情感を表現しているという(『夏見・前掲書)。「つくばひ馴し」というのは「しゃがみ馴れしている」という意で、兄の句の「大根ねらふ」の俗語よりも雅語(和歌の持つ雅の風情を有している語)だと、其角はするのだが、この二句を並記して鑑賞すると、やはり、この「つくばひ馴し」が、どうにも、「作り過ぎ」(いじくり過ぎ)という感がしないでもないのである。そして、其角の洒落風の意味不明の謎句には、この『句兄弟』にあるような「判詞」(自注)が施されていないので、其角の謎句として有名な、「まんぢう(ぢゆう)で人を尋ねよ山ざくら」の句に関して、去来が指摘している、「我一人合点したる句也」ということで、要注意のものとして、其角を理解をする上では心しなければならないことのように思えるのである。この其角の謎句関連については、次のアドレスの、『去来抄』(「同門評」三十)ものが参考となる。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#cc

(「同門評」三十)

30、 まんぢうで人を尋ねよ山ざくら     其角(きかく)
 許六曰(きょりくいはく)、是(これ)ハなぞといふ句也(くなり)。去来曰、是ハなぞにもせよ、謂不応(いひおほせず)と云(いふ)句也。たとへバ灯燈(ちゃうちん)で人を尋よといへるハ直(ぢき)に灯燈もてたづねよ也。是ハ饅頭(まんぢゅう)をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂(いへ)る事を、我一人合点(われひとりがてん)したる句也。むかし聞句(ききく)といふ物あり。それハ句の切様(きりやう)、或(あるい)ハてにはのあやを以(もつ)て聞(きこ)ゆる句也。此(この)句ハ其類(そのたぐひ)にもあらず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,41~42)

 
 謎めいたものというのは不思議と人を惹きつける力がある。わかりやすい文章というのは、「ああなるほど」で終わってしまうが、意味がよくわからない文章というのはかえって「何だろう」とついつい考えてしまい、結果的に長く心に留まることがある。夥しい数のクイズ番組、パズルゲーム、推理小説、人は結局いつでも何か適度に頭を働かすことを楽しみ、そしてそれが解けたときには、ちょうど苦労して山頂に立ったような快感を覚える。それゆえに、言ったとおりの意味しかない句より、多少謎めいた句のほうが好まれるのだろう。
 ある意味で、最も成功した謎句は、あの古池の句かもしれない。

 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉

 句自体の意味は明瞭だが、果たして古池に飛び込んだ蛙に何の意味があるのだろうかと考え始めると、簡単に答が出るものではない。明治31(1898)年に正岡子規は『古池の句の弁』の中で、「古池の句の意義は一句の表面に現われたるだけの意義にして、復他に意義なる者なし」と言い切ったが、それでも何か別の解釈を探そうという情熱に水射すことにはならない。むしろ謎句というのは「意味がない」と言い切ったから謎がなくなるというものではなく、意味がないといっても本当に何の意味のないということを証明することが困難なため、やはり謎が謎を呼ぶことになる。
 謎句には大きく分けて二種類考えられる。一つは作者の頭の中に一つの明確な答が想定されているもの。もう一つは作者自身も答を知らないもの。前者はいわばクイズのようなもので、読者がある一定の答を導いたなら、そこで謎は解消する。去来が「むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。」というのも、これに含まれる。しかし、後者の場合は永遠の謎となる。少なくとも、その謎を解こうという情熱を持ったものが一人もいなくなるまでは謎である。(これとは別に歴史的に本来の読み方が失われ、謎になってしまった作品というのもあり、たとえば額田王の「莫囂圓隣之・・・」の歌や『日本書紀』の童歌などはいまだに謎だが、これは謎になることを意図して作られたかどうかがわからないので除外する。)
 シュールレアリズムの自動記述による詩は後者の典型だろう。アンドレ・ブルトンの「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」のような詩句は、何か答があるわけではなく、その奇抜なイメージそのものに価値がある。去来が、

 雪の日に兎(うさぎ)の皮の髭(ひげ)つくれ   芭蕉

の句で、「機関(からくり)を踏破(ふみやぶり)てしるべし。」というのも、この句の謎は解けないし、解くべきでもないということなのだろう。
 これに対し、去来は、其角の「まんぢうで」の句は、作者の頭の中に一つの答があったことを確信している。ただ、それがわからないのは、設問が不十分で読者が一つの回答に至ることができないためで、言い応せぬ句だという。去来によれば「饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよ」というのが真意だというが、この説で誰もが「なるほど!謎が解けた!」と思うなら問題はないのだが、これもまた一つの解釈にすぎないということになれば、かえって謎は深まってしまう。去来は暗号解読のように一つの謎を解いたわけではない。一つの説を提示したにすぎない。
 この句に一つのトリックがあるとすれば、それは「提灯で・・・」の場合、どういう場面ならそういう言葉が発せられるか、容易に想像ができるが、これを「まんじゅうで・・・」としてしまうと、その状況が誰も即座に浮かんでこない。そのため、読者はどういう場面であればこういう言葉が発せられるのか、あれこれ思案する。花の下で誰もが酒を飲んでドンチャン騒ぎしている中で、まんじゅうを目印に下戸の誰かさんを探してこいということなのか、あるいは酒を断った僧でありながら花を好む隠逸の士、つまり西行法師を探せということなのか。いろいろ想像をふくらましてゆく中で、残念ながら去来の解はそれほど面白い想像ではない。
 言葉というのは人の記憶を刺激し、忘れていた何かを思い出させる力がある。それとは逆に、記憶を想起できない言葉というのは、何か未知の想像を引き起こす。其角ほどの人なら、言葉のこうした性質にはある程度気付いていただろうし、その意味では、この句は謎句であり、答のないタイプの謎句である可能性はある。
 去来はこれを言い応せぬ句だというが、其角の句の場合、作者の意図が伝わらないというよりは、作者の意図を離れて様々な想像が膨らむ。去来自身も認める言い応せぬ句、

 兄弟の顔見る闇(やみ)や時鳥(ほととぎす)    去来

の句では、この「兄弟」が仇討直前の曾我兄弟だということがわかりにくく、それが伝わらなければ単にどこかの兄弟が、「今ホトトギスが鳴かなかったか?」「うん、鳴いた。」というだけの句になる。これに対し、其角の句は作者の意図が何だったにせよ、それ以上の解釈を生み出す可能性がある。
 其角がこうしたトリックを使うのは、この句だけではない。

 あれ聞けと時雨(しぐれ)来る夜の鐘の声    其角

 この「あれ」が何なのかについては諸説あり、近江三井寺の鐘とも、浅草寺の鐘とも言うし、時雨を聞けとの鐘の声とする説もあるが、基本的にはこの「あれ」はどうにでも取れる。特にこの句が撰集『猿蓑』で

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也     芭蕉
 あれ聞けと時雨(しぐれ)来る夜の鐘の声    其角

と並んだ場合、蓑笠着た猿の断腸の叫びを聞けという意味にも取れてしまう。
 芭蕉の古池の句は、当時の人ならばむしろ何か心の底にある原体験みたいなものを想起させたであろう。「古池」は荒れ果てた廃村か没落した旧家の連想を誘い、いわば廃墟をイメージさせる。蛙の水音は、豊作を暗示させる蛙の鳴き声にくらべると侘しげで、春なのにそれを喜べない、何が深い事情を感じさせる。まして「水音」はかつては入水の連想を誘う言葉でもあった。こうしたイメージが重なり合うことで、当時としては「何だかわからないけど涙があふれてきた」という反応を引き起こしたことが想像できる。しかし、其角の場合、あえて記憶を喚起させないことで、読者にイメージをふくらまさせることを知っていた。
 去来の「言い応せぬ句」の説はこうした其角の独特な発想に気付かないか、故意に矮小化しようとしての発想だろう。


(謎解き・八十四)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十三番
   兄 尺草
 須磨の山句に力なしかんこ鳥
   弟 (其角)
 すまの山うしろに何を諫鼓鳥

 この尺草(せきそう)については、『田中・前掲書』では、次のように記述されている。

○元禄七年九月六日、其角は、岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁の五人と共に関西旅行に出発した。尺草・松翁については素性は不明だが、尺草は元禄四年(一六九一)の江ノ島・鎌倉旅行でも其角・岩翁父子と同行している。

 この元禄七年(一六九四)は、其角の三十四歳の時で、この年の十月十二日に、芭蕉が亡くなる。享年五十一歳であった。芭蕉の死後其角はしばらく京にとどまり芭蕉の追善集『枯尾華』を編集する。十月十八日には義仲寺において、其角の「なきがらを笠に隠すや枯尾花」を発句として追善の百韻が興行された。その連衆は、大津・膳所・京都・大阪・伊賀などから参じた面々(其角だけが江戸)、全部で四十三人を数える。翌十一月十二日には、芭蕉の死を知って急遽上京した嵐雪・桃隣を迎えて、京都の丸山量阿弥亭で芭蕉追善の百韻が興行された。この時の連衆は二十一人で、名古屋の荷兮の名も見られる。また、芭蕉の死の直前まで其角と関西旅行をしていたメンバーの岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁も参加している。
 さて、この兄句の尺草の「須磨の山句に力なしかんこ鳥」の句は、その関西旅行の際のものなのかも知れない。そして、其角のこの判詞に、「発句の馴熟(熟練している)はしらるべき也」とされているが、この中七の「句に力なし」(句に充分に言い表すことが出来ない)が、『去来抄』の言葉でするならば、「我一人合点したる句也」という趣でなくもない。その原因は、「須磨の山、(その風情の余り)、句に力なし、かんこ鳥(そのかすかな声が何とも心に惹かれる)」という一句の中で、上五の「須磨の山」と中七の「句に力なし」とが飛躍し過ぎていて、その間に醸し出される「(その風情の余り)」という省略が働いているのかどうかが微妙であるということにあろう。其角は、ここに「馴熟」していると見てとるが、去来などは、それは「一人合点したる」ものと受け取るのではなかろうか。ここらへんのところを、其角の弟句では、「すまの山うしろに何を諫鼓鳥」ということで、その「すまの山」の「(その風情の余り)」を、「うしろに何を」と、いわば、兄句の「一人合点したる」ものの、その「謎解き」をしているという趣であろう。この二句では、兄句の「句に力なし」という人事句的な感慨の「句作り」に比して、弟句では「うしろに何を」と叙景句な感慨の「句作り」で、異質の世界のものという思いを深くする。これらは、類想句というよりも兄弟句という雰囲気に解せられる。これらの「一句いまだ謂うおほせず」(表現の不足)に関連して、前回の、其角の「まんぢうで人を尋ねよ山ざくら」の謎句関連のものとは別に、次のアドレスの『去来抄』(「先師評」三十三)が参考となる。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#ff

(「先師評」三十三)

33、兄弟のかほ見るやミや時鳥(ほととぎす)   去来
 去来曰、是句ハ五月廿八日夜、曾我兄弟の互に貌見合(かほみあはせ)ける比(ころ)、時鳥(ほととぎす)などもうちなきかんかしと、源氏の村雨(むらさめ)の軒端(のきば)にたたずび給ひしを、紫式部が思ひやりたるおもむきをかりて、一句を作れり。先師曰、曾我との原の事とハききながら、一句いまだ謂(いひ)おほせず。其角(きかく)が評も同前(どうぜん)なりと、深川より評有(あり)。許六(きょりく)曰、此(この)句ハ心余りて詞(ことば)たらず。去来曰、心余りて詞不足(ことばたらず)といハんハはばかり有。ただ謂不応也(いひおほせざるなり)。丈草(ぢゃうさう)曰、今の作者ハさかしくかけ廻(まは)りぬれバ、是等(これら)ハ合点(がつてん)の内成(うちなる)べしと、共に笑ひけり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,23~24)

 曾我兄弟の仇討ちは赤穂浪士、荒木又右衛門(あらきまたえもん)と並んで三大仇討(あだうち)と呼ばれている。曾我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)と曾我五郎時宗(そがのごろうときむね)の兄弟が、父の仇、工藤祐経(くどうすけつね)を建久4(1193)年5月28日、富士野の巻狩りの夜に殺害した事件は、『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも記された史実で、その物語は後に遊行巫女(ゆぎょうみこ)によって口承され、様々な女性芸能者によって『曾我物語』へと完成されていった。女性によって語り継がれた物語だけに、母や二人の女房など、残された女たちの悲しみに焦点が当てられていて、必ずしも忠義を賞賛する物語ではない。
 仇討は中国では唐の時代に既に禁止されていたもので、韓国でも早い時期から禁止されていた。たとえ殺人犯といえども法の裁きを受けるべきで、個人的に勝手に犯人を殺害することが犯罪であるのは言うまでもない。『曾我物語』でも、十郎は仇討後、新田忠経(にったのただつね)に斬られて討ち死にし、五郎は捕らえられて源頼朝(みなもとのよりとも)の前に引き出され、打ち首になった。
 去来の句は芭蕉の存命中の句だし、まだ赤穂浪士の討ち入りは先のことだったが、寛永11(1634)年に伊賀の鍵屋の辻で起きた荒木又右衛門の仇討は知っていただろう。芭蕉の生まれる十年前の事件だった。去来は一体どういう情を込めて曾我兄弟を詠んだのだろうか。「源氏の村雨(むらさめ)の軒端(のきば)にたたずび給ひしを、紫式部が思ひやりたるおもむきをかりて」というのは『源氏物語』「幻」の紫の上の一回忌に次第に出家を決意してゆく場面のことだろう。昔のことを思い起こし、自分のつたなさに嘆き、折から時鳥の声が微かに聞こえたのを受けて、

 亡(な)き人を偲(しの)ぶる宵(よひ)の村雨(むらさめ)に
    濡れてや来(き)つる山ほととぎす

と詠んだその情を踏まえるなら、いよいよ討ち入りという時に曽我の兄弟が顔を見合わせているときに、折から聞こえてきた時鳥の声に、死んだ父のことがいろいろ思い出され、人生のはかなさとこの世の無常を感じたということなのだろうか。
 多分、芭蕉や其角が「言い応せず」、つまり描ききれていないと感じたのは、その情が仇討に対してどう作用したのかということではなかったか。本来の風雅の精神からすれば、戦や仇討などの殺人や殺生は肯定すべきものではない。その意味では、この句は時鳥の霊妙な声に死後の世界を思い、仇討が煩悩と知りつつも憎しみに勝てず、あの世での永遠の地獄を受け入れることを覚悟するといったものだったのだろう。これは「猪のねに行くかたや明の月」にも言えることだが、言おうとしていることはわかるのだが、下五を「時鳥」というありきたりな題材で無難に収めてしまったため、今ひとつ感情が平凡に流れてしまっていて、悲痛な感じが伝わらなかったのだろう。
 許六は「心余りて詞(ことば)たらず」というが、この言葉は在原業平(ありはらのなりひら)の歌などを評するときに用いられる言葉で、中世にあっては、むしろ言葉足らないことが深い余韻を与え、幽玄の心を生み出すとして肯定的に捉えられていた。そのことを考えるなら不適切で、去来自ら言うように「はばかり有。ただ謂い応せず也(ただ言い応せていないだけだ)」という所だろう。
 丈草の評は好意的で、近頃の他門の作者はいかにも利口そうに説教臭い句を作っているから、言い足りないくらいが良いという。「合点」というのは職人言葉で「がってん承知の介」なんてイメージがあるが、本来は俳諧用語で良い句の上に点を打つことを言う。


(謎解き・八十五)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十四番
   兄 西鶴
 鯛は花は見ぬ里もありけふの月
   弟 (其角)
 鯛は花は江戸に生れてけふの月

 この三十四番、そして、西鶴については先に触れた(第四十三・下記のアドレスなど)。

http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_6496.html

 其角は西鶴に二度会っている。年譜史的には以下のとおりとなる。

貞享元年(一六八四)二四歳 二月、上京の旅に出立。京都で季吟・湖春父子、去来や自悦らと対面。大阪の西鶴を訪問し、矢数俳諧の興行に立ち会う。信徳・千春らと『蠧(しみ)集』を作成。秋の末に出立。この冬、嵐雪と破笠が彼の家に同居。
元禄元年(一六八八)二八歳 九月、堅田への旅に出立。途中、名古屋の荷兮などを訪ね、十月中に堅田着。京都で信徳・如泉・野水らと百韻興行(『新三百韻』)。西鶴訪問後、京都で去来・凡兆と対面。十二月下旬に江戸着。伊勢町に移住。
元禄六年(一六九四)三三歳 八月十日、西鶴没(享年五十二歳)。八月二十九日、父東順没。
元禄七年(一六九四)三四歳 九月、上方行脚に出立。同行者は岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁の五人。十月十一日、大阪で病床の芭蕉を見舞う。翌日十二日、芭蕉没(享年五十一歳)。芭蕉追善集『枯尾華』を編集。冬、江戸に戻る。『句兄弟』成る。

 ここで、この兄句そして弟句の句意並びにその判詞(自注)などの要点を、『夏見・前掲書』を参考にしてすると次のとおりとなる。

兄句(西鶴)「鯛は花は見ぬ里もありけふの月」
 鯛を食べられない里、そして、桜の花を見られない里もあるでしょうが、この仲秋の名月だけは何処でも誰でも均しく楽しむことができるでしょう。
弟句(其角)「 鯛は花は江戸に生れてけふの月」
 鯛も、桜の花も、そして、お月さまも、江戸の新鮮な鯛と、江戸の上野の桜の花と、江戸吉原は言うに及ばず江戸の何処でもその仲秋の名月をと、江戸に生まれてこそ、これらを真に堪能できるとことでしょう。
判詞(自注)兄句は桜の花を見ることもない里に心を寄せて、遠く二千里の外の里人の心に通じ一句として仕立ているさまは特に類がない。そこで、弟句は、中七字だけを、その力を変えて、「栄啓期の楽」(『列子』にある「一楽」=人間として生まれてきたこと、「二楽」=男に生まれてきたこと、「三楽」=九十歳まで生きたいこと、の「三楽」)に寄せて作句したのである。そうすることによって、難波の浦に生まれ、住吉の月を美しいと眺め、すぐ目の前の海の新鮮な魚を釣らせて、その情景を作品に残しながら、時の流れを嘆じ、今の世に感じ入り、古を懐かしんで、「末二年浮世の月を見過ぎたり(西鶴)」(五十年も永い人生を送り、さらに、二年も永い仲秋の名月を眺めることができて、もう何も思い残すことはない)と辞世の句を詠んだ、その故人(西鶴)が、折にふれて、なつかしく思いだされてくるのです。

 ここの西鶴の句を兄句としての、其角の弟句は、兄弟句というよりも、西鶴の句に唱和しての、挨拶句という趣である。こういう句は、それぞれが、単独で鑑賞されるべきものではなくて、両句を並列して、いわば、二句唱和の長句の付け合いという趣で鑑賞されるべきもののように思われる。いずれにしろ、この西鶴の兄句は、いかにも、談林俳諧の一方の雄であった西鶴らしい、その代表作といっても差し支えない一句であるし、それに唱和しての、この其角の弟句もまた、いかにも、洒落風江戸座の頂点を極めた其角らしい、其角の代表作の一つにしても差し支えないような一句と理解をしたい。

なお、『去来抄』の芭蕉の西鶴関連ものは、次のアドレスのものが参考となる。

『去来抄』「故実」(十六)

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo3.html#o

また、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で、下記のアドレスにより、「西鶴俳句集」・「西鶴連句集」も目にすることができる。

http://kindai.ndl.go.jp/BIToc.php

「西鶴と生玉」については、次のアドレスの大阪府立中之島図書館のものが詳しい。

http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/20_saika.html

(謎解き・八十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十五番
   兄 宇白
 ほとゝぎす一番鶏のうたひけり
   弟 (其角)
 それよりして夜明烏や蜀魂

 兄句の作者、宇白については未詳である。次のアドレスの志田野坡門の俳人・桑野萬李の継子に「宇白」とあるが、参考までに掲載しておきたい。

http://www.tt.rim.or.jp/~kuwano/page003.html#福岡桑野氏

徳川中期の俳人として、福岡藩士、桑野萬李(1678-1756)(名は好濟、字は多橘、
初め鹽田氏、通称太吉、辞世「とろりとろり柴のほまれや後の月」)があり、公務六十年、
家禄を嗣子の宇白に譲った後、七十を越えてから句を詠んだ。句集「田植諷」「柴のほま
れ」「後の月」がある。志太(しだ)野坡(やば)(1662~1740)の門弟(「日本人名大事
典」)。

また、次のアドレスの「和歌・芭蕉句・近代詩年表」の掲載記事の中に、宇白編『柴のほまれ』という書名を見る。

http://www.interq.or.jp/www1/ipsenon/p/shi1946.txt

兄句(宇白)「ほとゝぎす一番鶏のうたひけり」
 夏の夜明けに、ほととぎすが一声し、そして一番鶏が時を告げた。
弟句(其角)「それよりして夜明烏や蜀魂」
 蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。
判詞(自注)
 兄の句は、夏の短夜を恨んで、古今和歌集の「夏のよのふすかとすればほととぎすなく一こゑにあくるしののめ」(紀貫之)の風情に連なるものがある。この形は、ほととぎすの伝統的な手法を離れていないけれども、ほととぎすという題は、縦題(和歌の題)、横題(俳諧の題)と分けて、縦題として賞翫されるべきものであるから、横題の俳諧から作句するのは筋が違ってくる。夏の風物詩として感じ入る心を詠むにも、縦題のやさしい風情が見えるように詠むべきものであろう。
  ほととぎす鳴くなく飛ぶぞいそがほし   芭蕉
  若鳥やあやなき音にも時鳥        其角
この句のスタイルは、横題の俳諧から深く思い入れをしてのものである。もし、これらの作句法をよく会得しようとする人は、縦題・横題が入り混じっているにしても、それぞれの句法に背いてするべきものではない。縦題は、花・時鳥・月・雪・柳・桜の、その折々の風情に感興を催して詠まれるもので、詩歌・俳諧共に用いられるところの本題である。横題は、万歳・藪入りのいかにも春らしい事から始まって、炬燵・餅つき・煤払い・鬼うつ豆など数々ある俳諧題を指していうのであるから、縦の題としては、古詩・古歌の本意を取り、連歌の法式・諸例を守って、風雅心のこもった文章の力を借り、技巧に頼った我流の詞を用いることなく、一句の風流を第一に考えてなされるるべきである。横の題にあっては、蜀の帝の魂がほととぎすになったという理知的なものでも、いかにも自分の思うことを自由に表現すべきなのである。一つひとつを例にとっての具体的な説明は難しい。縦題であると心得て、本歌を作為なくとって、ほととぎすの発句を作ったなどと、丁度こじつけたような考え方をするのは残念である。句の心に、縦題、横題があるということを知って貰うために、ほんの少し考えを述べたままである。自分から人の師になろうとするものではない。先達を師として、それを模範として、自分を磨こうとするものである。

 この其角の判詞(自注)は、なかなかその真意の把握が難しいところであるが、季題の「縦題」(和歌・連歌・俳諧を通じて用いられる題)と「横題」(俳諧のみに用いられる通俗・卑近な題)とに関しての基本的なものとされている(『総合芭蕉事典』)。次のアドレスの「縦題・横題」についても、上記の其角の『句兄弟』のそれを中心にして論述されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku3-1.htm

この「縦題・横題」に関して、一言でいえば、「縦題は和歌・連歌以来の伝統的季題、横題は俗諺、人事を中心に俳諧が新しく加えた季題のことで、其角は、縦題は伝統的本意をふまえて未公認の詩語を配することを避け、逆に横題は洒落自在に俳諧の特性を発揮して詠むべし」ということになろう。しかし、上記の其角の判詞(自注)を子細に見ていくと、「縦題だからとしても、単に、和歌・連歌以来の伝統的・形式的な考え方だけに頼ることなく、その縦題を、句の心として、先達を師とし、模範としながら、その縦題に新しい息吹を注ぐように、それを磨き上げていかなければならない」ということを、この兄句(宇白)と弟句(其角)との「ほととぎす」という「縦題」の句をとおして、其角は伝達したかったように思えるのである。ここらへんのところは、やや、視点は異なるが、次のアドレスのものが参考となる。

http://www.hat.hi-ho.ne.jp/hatabow/tateyokokigo.html

 こういうふうに、「縦題・横題」に関連して、「縦題のような伝統的な古い季題を据えて作句するときには、単に、その伝統的な本意やその形式を固守するということではなく、そこに、いわば、『古い革袋に新しい酒を盛り込む』ような心をもって作句すべし」というのが、其角の基本的な考え方であると理解すると、後の、巴人・蕪村・几董らの「夜半亭俳諧」の中心に、上記の其角の弟句の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」の、この発句を見据えての、夜半亭三世となる几董らが編んだ『あけ烏』(安永二年刊)の意図が見えてくる。この『あけ烏』の巻頭の発句は、「ほととぎす古き夜明けのけしき哉」(几董)で、それは、其角の、この『兄弟句』の、ここの弟句の、「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」が背景にある一句で、それらを全て見て取った、其角門の夜半亭一世巴人に続く、夜半亭二世となった蕪村の強い意向であったという(その序)。すなわち、巴人・蕪村・几董と続く夜半亭俳諧は、ここの弟句の、この其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」を中心に据えてのものということを、ここで特記しておきたいのである。

 なお、『去来抄』では、「縦題・横題」に直接触れたものはないが、次のものなどが参考となる。

『去来抄』「故実」(十四)

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo3.html#m

『去来抄』「故実」(十五)

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo3.html#n

 この「縦題・横題」については、去来ならず、許六が、その『宇陀法師』で問題にしている。

○題に竪(たて)横の差別有(ある)べし。近年、大根引のたぐひを、菊、紅葉一列に書(かき)ならべ出(いだ)する。覚束(おぼつか)なき事也。

そして、許六の高弟の孟遠が『秘蘊(ひうん)集』で次のように記述する。
○題に竪横といふことあり。先づ、月・雪・花・時鳥・鷹・鶯・鹿・紅葉の類、みなみな竪題なり。是(こ)れ、本(もと)、歌の題なればなり。歌・連歌にせぬ題は、みな俳諧の題なり。踊・角力・ゑびす講の類、是をば横とはいうなり。近年、世上みだりに題ならぬものを句作り、芭蕉流の発句とていたす人あり。是れ以ての外の事なり。惣じて、題は、翁の時荒増(あらまし)極りあり。

もう一人、蕉門の中で毛並みの良い東本願寺第十四世琢如(たくにょ)の子として生まれた浪化は『俳諧秘文抄』で次のように記している。

○題の竪横といふ事、縦は竪也。昔より和歌に用ひ来れる花取風月の定りたるを言也。横といふは麺棒、櫂小木の俗を言(いふ)。此(この)故に花鳥風月を俗語にもてなし、疵を付る事なかれと也。横は格別にして、洒落を存分に任(まか)すべしとぞ。

この浪化の「竪題・横題」の考え方は、それは、其角の『句兄弟』の、この三十五番の句合せの「判詞」(自注)に因っていることは明瞭なところであろう。其角は、「縦題・横題」の用例であるが、許六・浪化が、「竪題・横題」の用例で、今では、例えば、『芭蕉歳時記・竪題季語はかく味わうべし』(復本一郎著)など、「竪題・横題」の用例の方が一般的なのかも知れない。そして、この浪化の言葉として、支考の『東西夜話』(元禄十五)の中に、
「武(江戸)の其角の俳諧は、この頃の『焦尾琴』『三上吟』を見るに、おほく唐人の寝言にして、世の人のしるべき句は十句の中の一、二には過ぎじ」との指摘を載せているのである。

これらのことに関して、『田中・前掲書』では次のような興味ある記述をしている。

○「唐人の寝言」とは言い得て妙だが、東本願寺第十四世琢如(たくにょ)の子として生まれた浪化が、こんな品のない言葉を使うとは考えられないから、これは支考の批評であろう。支考はまた、『晋子が門葉の耳なれたる人は、掌中の中の玉を見るよりなをあきらかにしたりたれど、それは一時の流行のみにして、千載の後は国のはんじ物なり』(『東西夜話』)とも述べている。「はんじ物」とは謎の意である。唐人の寝言のような訳の分からない句でも、其角の門人の中には、掌中の玉を見るよりなお明らかに理解することができる人がいたのである。しかし三百年後の我々には、其角晩年の句はまさに判じ物であって簡単に理解できる句はほとんどない(意味が分かっても作意が分からない句も多い)。

この支考の、其角を評しての、「唐人の寝言」・「判じもの」というのは、これまた、「俳魔」・「佯死」のポーズの支考らしく、まさに、言い得て妙である。


(謎解き・八十七)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十六番
   兄 望一
 風まつはきのふをきりの一葉哉
   弟 (其角)
 井の柳きのふを桐の一葉哉

 この兄句の作者、杉木望一(『俳家奇人談』では杉田望一)については、次のアドレスで下記の一句とその簡単な紹介がある。

http://park11.wakwak.com/~hokui40/diyhaiku/koten.html

○ ほこ長し天が下照姫はじめ     杉木望一(すぎきもいち)

[意味]イザナギ・イザナミ二神の国生み神話を姫始めに見立て、何と長い矛だろうの意。
[解説]望一(1586~1643)は初期伊勢俳壇の重鎮。盲人で勾当の位を得た。句は、天が下-下照姫(和歌の始祖)-姫始め という掛詞から成る。「ほこ長し」は天の逆鉾、謡曲「逆鉾」に「昔、イザナギイザナミの尊、御矛をさしおろし給ひ、(略)矛のしたたり凝り固って国となれり」とあるが、これを猥雑な意に解し「姫始め」に接続した。姫始めは新年初めて夫婦が交わる事、春の女神の姫始めである。

 この望一の兄句は、その判詞(自注)によると、その中七の「きのふをきり」が、「桐」と「限りの『きり』」との「云かけ」(掛け詞)で、これが、「結局幽玄におもひて取合たる五文字也」と、連歌的な作句であるというのである。それを、「風まちしきのふの桐の一葉哉」の換骨奪胎では、その望一の原句の連歌的な作句スタイルそのままなので、「井の柳きのふを桐の一葉哉」とすることによって、すなわち、「きのふの」の「の」を、「きのふは」の「は」の一字違いにすることによって、句意そのものは変わらないものとなるのだが、ここは、その「は」を「を」のままにして、兄弟句の仕立てにしたというのである。いささか、其角が自分の芸の細かさを強調している感じでなくもないが、『夏見・前掲書』では、
次のとおり解説している。

○兄句は、空の風で秋を知り、微妙な幽玄の秋の風情を情感でとらえ、それを桐の一葉が散ってゆく姿に表現し、弟句では、空の桐が昨日は散り、今日は地上の水辺の柳が散りゆく姿に秋を見る、その風景の中に、昨日から今日へと段階的に日常的な秋の訪れを感ずるところに、洒落風、一種の理知といえるものがある。

 こういう其角の換骨奪胎の具体例を見ていくと、芭蕉や鬼貫の俳諧が、「誠の俳諧」・「心の俳諧」とするならば、其角の俳諧は、より「言葉の俳諧」・「知の俳諧」の世界のものという思いを深くする。そもそも、この兄句の作者、望一は、頓知(機に敏に働く知恵)・地口(口合・語呂合わせなど洒落風に別な見立てをするなど)に長けた俳人とされているが、其角こそ、この頓知と地口とに長けた俳人であったということはできるであろう。そして、この頓知や地口の俳諧を一つの特徴とする俳諧を「貞門俳諧」とし、そのアンチ「貞門俳諧」こそが芭蕉らの「蕉風俳諧」とするならば、其角は、その「蕉風俳諧」に身を置きながら、新しい洗練された頓知や地口による「新貞門俳諧」ともいうべき世界をも視野に入れていた俳人であったという思いを深くする。そして、それだけではなく、さらに、「談林俳諧」の「ぬけ(省略)風」(ある詞もしくは心を表面に出さず余意によってそれを知らせる手法)も加わり、それが、其角俳諧、強いては、洒落俳諧の、「唐人の寝言」・「判じもの」的俳諧といわしめている、その原因の一つのように思われるのである。

 これらのことについて、この兄弟句を具体例として見ていくならば、そもそも望一の、この兄句も、「判じもの」的ニュアンスの濃いものといえるであろう。それは、「風まつは」、それは、「きのう」まで枝にあった、その「桐」の一葉で、今日は、今日の風を受けて、その「きのふ」の限りの、その「桐」の一葉が、今日、只今、地面に落ちていきますよ、ということで、「ぬけ」や「掛け」の手法で、何か曰くありげの一句に仕立てているということになる。そして、其角の場合には、それを「ぬけ」の手法だけで、「水辺の柳が」、そして、「今日は散っています」というのを「ぬけ」にしていて、その後に、「昨日は桐の一葉が散っていました」ということを持ってくることによって、「今日は柳」、「昨日は桐」が散っていたということを表現しているということになる。このような、「ぬけ」、さらには、「比喩・見立て」(ある事物を喩えたり、見立てたりする表現)の奇抜さ・新鮮さこそ、其角らの「洒落風俳諧」の基本にあるということを知っておく必要があろう。

 そして、芭蕉はその晩年に、こういう其角の作為的な洒落風俳諧に、危惧の念を抱いていたことを、同じく、支考の『十論為弁抄』の次のような記述の中に見出すことができる。

○一とせ伊賀の西麓庵におはして、続猿蓑の撰集ありしに、武域の人々より発句をおくれり、其中に其角も三四章ありて、秋風ノ辞を裁入たる句に
    白雲に鳥の遠さよ飛(ぶ)は雁
といふを、我も人も感吟して、これらの手づまの及がたき事をいへば、故翁は例のほめながら、晋子が此ほどの俳諧をきけば、玉振金声の作をもとめて天下の人を驚さむとす、是より五年の変化をはからず、二作かさねば平話を失ひ、三作をかさねば俳諧はつきて、其時は自己を失ふべし。

この芭蕉の危惧に関して、『芭蕉山脈』所収「同門評判(其角)」(石川八朗稿)では次のように記述している。

○「白雲に」の句は、下五「数は雁」として、『末若葉』に収める。支考は「秋風辞」をあげるが、『五元集』の旨原説牛門書入といわれるものに、『古今和歌集』巻四秋之上部の、
    白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月
によるとしている。いすれにしても、古詩古歌によって発想した作意が、「数は雁」といった表現方法とともに、あまりにあぶない技巧のからまわりとして感じられ、芭蕉に危惧の念をいだかしめたのであろうか。支考は、右の文章に続けて、其角の、
    いざ宵や竜眼肉のから衣
    幟たつ長者の夢や黒牡丹
をあげて、作者の破綻をいい、『東西夜話』では、其角の『三上吟』『焦尾琴』の作風について、「たとへば、九重の塔に登りてあとの階子をはずしたる如し、みる人其筋を知らず」と、発想をたどることのできない難解さを指摘する。

 元禄七年(一六九四)十一月十二日に、芭蕉は五十一年の生涯を閉じた。時に、其角は三十四歳であった。この芭蕉が亡くなった時に、其角の、この『句兄弟』は成った。しかし、この『句兄弟』は、一番見て欲しかった、師の芭蕉に、その全貌を見て貰うことは出来なかった。もし、師の芭蕉が生存していて、其角の俳諧手法の裏表の全てを網羅した、この『句兄弟』を見ることができたら、其角の、この『句兄弟』に続く、次の適切な目標設定とその示唆を与えることも可能であったろうが、そういうことは、夢のまた夢で、其角俳諧の先行きの懸念すらさえ、其角に正しく伝達されないままに、芭蕉はこの世を去ってしまったのである。それが故に、芭蕉没後の、元禄七年から宝永四年までの十二年という歳月は、いたずらに、その洒落風俳諧は、芭蕉が懸念したように、「二作かさねば平話を失ひ、三作をかさねば俳諧はつきて、其時は自己を失ふべし」という有様であったということは、結果的には、これまた、「言い得て妙であった」という思いを深くする。

なお、支考に連なる「獅子門美濃派俳句資料館」について、下記のアドレスで見ることができる。

http://homepage1.nifty.com/nagaragawagarou/minohashiryoukan.htm

(謎解き・八十八)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十七番
   兄 僧 吟市
 丸合羽はらはぬ雪や不二の山
   弟 (其角)
 青漆を雪の裾野や丸合羽

兄句の作者の「僧吟市」については、『俳文学大辞典』には収載されていない。次のアドレスの「松尾芭蕉の総合年譜と遺書」の延宝三年(一六七五)中にその名を見ることができる。

http://www.bashouan.com/psBashou_nenpu.htm

東下中の西山宗因を歓迎する画(大徳院の住職)邸興行百韻俳諧に一座。連衆は、宗因、画、高野幽山(松江重頼門弟)、桃青(芭蕉)、山口信章(素堂)、木也、久津見吟市、少才、小西似春、又吟。この百韻俳諧で初めて「桃青」と号す。以下に芭蕉の全付句を記す。

○写本「談林俳諧」より。
いと涼しき大徳成けり法の水    宗因
軒端を宗と因む蓮池        画
反橋のけしきに扇ひらき来て    幽山
石壇よりも夕日こぼるゝ      桃青
(中略)
座頭もまよふ恋路なるらし     宗因
そひへたりおもひ積て加茂の山   桃青
(中略)
時を得たり法印法橋其外も     信章
新筆なれどあたひいくばく     桃青
(中略)
口舌事手をさらさらとおしもんで  吟市
しら紙ひたす涙也けり       桃青
(後略)

兄句(僧吟市)「丸合羽はらはぬ雪や不二の山」
 袖なしの丸合羽恰好の富士山、雪を払えたくても袖なしで、雪のままであることよ。
弟句(其角)「青漆を雪の裾野や丸合羽」
 夏の青漆の裾野も、今や雪一色の裾野になって、丸合羽の恰好のようであることよ。
判詞(自注)
 古い貞門・談林の時代には、「丸合羽雪打はらふ袖もなし」といふ形によって、この中七字が、兄句ではよく働いている。そこで、この中七字の働きに注目して、弟句では、上からの意味と、下からの意味とが、手をつめたような句・形とでもいうような、また、漢詩の「続腰の格」とでもいうような句・形での詠みぶりでしょうか。

 この「続腰の格」というのは、漢詩作法書の『氷川詩式』(梁橋氏著)で、杜甫の「春望」を例にして記述されているものとのことである。この『氷川詩式』には、この『兄弟句』の「序」に見られる、「点ハ転ナリ、転ハ反ナリ」の「点化句法」(「点化古人詩句法」)が記述されているとのことである(『夏見・前掲書』)。この『氷川詩式』については、次のアドレスなどで、その図書を知ることができる。

http://www.city.nishio.aichi.jp/kaforuda/40iwase/kikaku/11konna2/konna2.html

 『夏見・前掲書』では、この兄弟句について、次のとおり記述している。
○兄句は全山雪でおおわれたような、丸合羽を着た白一色の富士の山。弟句は「青漆を雪の裾野」つまり夏の緑の裾野であったが、冬になると雪の裾野となった、として現在の情景の中に季節の移り変わりと心象風景の拡がりを見出すことができる。兄句は単線構造で詠まれていが、弟句は続腰の格すなわち複線構造となっていて、そこに両句の相違がある。

 『去来抄』では、これらについて直接言及したものは見出せないが、関連があるように思えるものには、次のようなところである。

『去来抄』「修行」(二十) ここは「物の本性」のところであるが、杜甫の「春望」の例が出て来る。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#s

『去来抄』「修行」(十八) ここは「他流と蕉門」のところであるが、蕉門の俳諧は作り事を嫌うとし、この点からすると其角のそれは蕉門俳諧というよりも、ここの他流の趣でなくもない。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#q

『去来抄』「修行」(十九) ここは「句の巧拙」のところであるが、蕉門の俳諧は理屈を嫌うが、其角の俳諧はこの理屈の巧みさを歓迎している趣でなくもない。

(謎解き・八十九)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十八番
   兄 轍士
 風かほれはしりの下の石畳
   弟 (其角)
 冷酒やはしりの下の石だゝみ

 兄句の作者、轍士については、『俳文学大辞典』に収載されている。
○室賀氏。? ~ 宝永四年(一七〇七)。西鶴や団水と親交あり。また、芭蕉を深く尊敬した。元禄四年、『おくの細道』の旅に倣い東北地方を歴訪。以後各地を旅し、その成果を次々に撰集として出版した。また匿名で、俳家を遊女として見立てた評判記『花見車』を刊行、その暴露的内容で話題になり、団水より反駁される(『鳴弦之書』)。この団水の『鳴弦之書』
は、次のアドレスに紹介されている。

http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2002/038.html

 元禄十五年(一七〇二)に刊行された『花見車』の其角に関する記事は次のとおりである。時に、其角は四十二歳で、この年に「赤穂浪士吉良邸討ち入り」があった。
○松尾屋の内にて第一の太夫なり。琴・三味線・小歌でも、とりしめてならはんした事はなけれども、生れついて器用な所があって、小袖のもよう・髪つきまでもつくり出だせるほどの事にいやなはなし。国々にていも、こひわたるはこの君なり。花に嵐、月には雲のくるしみあるうき世のならひ、酒が過ぎると気ずいにならんとして、団十郎が出る、裸でかけ廻らんした事もあり、それゆへ、なじみのよい客もみなのがれたり。されど今はまた、すさまじい大々臣がかからんして、さびしからず。

☆「松尾屋」は芭蕉門。「太夫」は「上の点師」(最高位の俳諧師)。「琴」は漢文、「三味線」は和歌、「小歌」は仏学、禅のこと。「とりしめて」は「とりたてて」の意。「小袖」・「髪つき」は遊女の風俗のことで、ここは其角の句の華麗さの喩えか。「酒が過ぎると気ずいにならん」は酒が過ぎると羽目を外すの意。「団十郎が出る」は暴れまわるの意。「なじみのよい客」はパトロンや門弟のこと。「すさまじい大々臣」は大名クラスのパトロンのこと。伊予藩松山藩主松平定直(俳号・三嘯)を指しているか。

兄句(轍士)「風かほれはしりの下の石畳」
 爽やかな風よ吹け。流しの下の石畳に涼しさを運べ。かの詩(蘇東坡)にあるように。
弟句(其角)「冷酒やはしりの下の石だゝみ」
 冷や酒を飲みながら、流しの下の石畳を眺め、詩興(白楽天)に耽っている。
判詞(自注) 兄句は、蘇東坡の「薫風自南来 殿閣生微涼」が背景にあり、弟句は「林間暖酒焼紅葉 石上題詩掃緑苔」が背景にあり、この兄弟句ではその素材や背景を異にしている。

 この両句を並列して鑑賞して見ると、旧知の間柄の轍士の句に其角が挨拶をしているような趣である。轍士は蕉門の俳人ではないが、芭蕉没後の追悼の百韻などに参加しており、其角とは昵懇の俳人であったのであろう。その轍士の其角観が、「琴・三味線・小歌でも、とりしめてならはんした事はなけれども、生れついて器用な所があって」と、「琴」(漢詩)・「三味線」(和歌)と何につけても其角は造詣が深く、轍士が、蘇東坡なら、ここは、白楽天でいこうという感じである。それよりも、轍士は、其角の日常を、「酒が過ぎると気ずいにならんとして、団十郎が出る、裸でかけ廻らんした事もあり」と、その酒浸りの生活を懸念しているのだが、それに対して、「轍士さん、『風かほれ』などと風雅ぶらないで、ここは『冷や酒や』と、生のままにいきましょうや」という雰囲気である。

 『田中・前掲書』には、其角の酒癖の悪い例として、『其角一周忌』(宝永五年)に掲げられた淡々(前号は謂北)の「懐旧」という文章の一節が紹介されている。
○(前略)予花の句付けんに、面前花粧(めんぜんけしょう)を抜きたる句を付くれば、例の沈酔、一声猛にして、「その句よこしまあり。邪意一曲、誰をたぶらかしをのれを立てんや。佞(ねい)のうたふ曲は聖国なし」とて、かくのごとくとがとがしくうち叫び、二十三句請け取りたまはず。

 ここに出てくる「淡々」は、後に、京・大坂で一大の俳諧師となる松木淡々で、晩年の芭蕉の直弟子の一人ともされている俳人である。其角は、この淡々や支考のように若手の自信家に対しては、若き日の自分の影を見るような思いからもあろうか、「鼻持ちならぬ」という態度で接したのであろう。「面前花粧を抜きたる句」とは、花という言葉を使わずに花の句になるように作意してのもので、この淡々の賢しらぶりに、其角は激怒したのであろう。其角とすれば、「花の句は連句の最も大切にされるもので、その花の句を新人の淡々風情が、面前花粧の句とは、何たることか」という思いであろう。「例の沈酔、一声猛にして」とは、其角の風貌そのものであろう。こうして、晩年の其角の周囲からは、旧知の俳人が一人去り、二人去りして、「去る者は追わず」の其角としては、「月には雲のくるしみあるうき世のならひ」で、艱難辛苦の日々でもあったのであろう。

 『去来抄』関連では、漢詩に限定したものというより、「古事・古歌」・「俳諧の文章」などに関して、次のアドレスのものなどが参考となる。

『去来抄』「故実」十四(古事・古歌)
『去来抄』「故実」十五(古事・古歌)
『去来抄』「故実」十六(俳諧の文章)

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo3.html#m

(謎解き・九十)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

三十九番
   兄 晋子(其角)
 声かれて猿の歯白し岑の月
   弟 芭蕉
 塩鯛の歯茎も寒し魚の店

兄句(其角)「声かれて猿の歯白し岑の月」
 声も枯れ果て、歯を白々と見せている猿。峰には皓々と月が輝いている。
弟句(芭蕉)「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」
 塩鯛の歯茎も寒々として、何とも寒々とした魚屋の店頭であることよ。
判詞(自注)
 兄句は、「冬の月」というべきところを、「山猿叫ンデ山月落」として、巴峡の猿に寄せ、「岑の月」としたのである。「衣ヲ沾(ウル)ホス声」と作りし詩の余情とも言うべきであろうか。此の句感心のよしにて、師の弟句では、塩鯛の歯のむき出したるところを、巴峡の猿に劣らず、冷(すさま)じさがあると感じられたのでしょう。「衰零」の形にたとえて、「老いの果て」・「年の暮れ」とも置かられるべきを五文字を「魚の店」と置かれたのは、その他は推して知るべしでしょう。此の弟句は、兄句の猿の歯としたことに合わせられて作られたものではありません。只、傍らの人が、海士の歯の白いのはどうかとか、猫の歯の冷じいのはどうかとか、そんな、似ているようで似ていないところの単なる思いつきのものでは、発句にはなり得ない、そんな作意をもかすかに感じますので、私の句を兄句として先にし、師の句を弟句として後にし、その換骨奪胎の技法を具体例で示し、分かっていただこうとしたまでであります。師のお考えもそのように承っておりますので、ここでは、これまでのような自評を用いないで、換骨奪胎の反転の法(点化句法)をそのままに述べる次第です。この後、反転して、「猫の歯白し」「蜑の歯いやし」などとされても、発句の一体をよく心得ているであろう人には、等類の難は決してあってはならないのです。一句の骨を心得て、あいまいな句風を拒否し、意味・風雅ともに皆これ自己を磨きあげて、発句一つの主になろうと心掛ける人は、尤も、この兄弟句の区別を知るべきでしょう。

 其角の『句兄弟』は、この三十九番の句合わせをもって終わる。ここでは、これまでの句合わせと異なり、自分(其角)の句を、兄句として先にし、師の芭蕉の句を弟句として後に持ってきている。ここのところは、判詞(自注)に、「此句感心のよしにて、塩鯛の歯のむき出たるも、冷じくやおもひよせられけん」とあり、其角は、師の芭蕉が、自句の「声かれて猿の歯白し岑の月」の句を認められて、師は、師の換骨奪胎の手法により、「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」の句を得たのであろうとされているのである。これは、意専(猿雖)宛て芭蕉書簡(元禄五年十二月三日付け)に、芭蕉自身がこの両句を載せていることからしての、其角の理解なのであろう。

○意専(猿雖)宛て芭蕉書簡(元禄五年十二月三日付け)
(前略)
  声かれて猿の歯白し峰の月    キ角
      只今愚庵に承り候
  鶏や榾焚く夜の火のあかり    珍碩
  塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚(店) 愚句
 取紛候間早筆。卓袋参り候はゞ御かたり可被下候。さても人にまぎらされ、こゝろ隙無御座候。以上
 極月三日   ばせを 
意専 様

 さらに、『三冊子』「あかさうし」(土芳著)には次のように記されている。

○ 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚
 此句、師のいわく「心遣はずと句になるもの、自賛にたらず」と也。「鎌倉を生(いき)て出(いで)けん初鰹」といふこそ、心のほね折、人の知らぬ所也。又いはく「猿のは(歯)白し峯の月」といふは其角也。塩鯛の歯ぐきは我(わが)老吟也。下を「魚の棚」とたゞ言(いひ)たるも自句也といへり。

 もとより、芭蕉の「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」の句は、其角の「声かれて猿の歯白し岑の月」の句を、あたかも、この其角の『句兄弟』所収の他の句合わせにあるように、いわゆる、「反転の法」により換骨奪胎して作句したものではないが、芭蕉の意識のどこかには、この其角の句があったことは確かなところであろう。そして、上記の当時の書簡や『三冊子』の記述のニュアンスは、かっての、『虚栗』所収の其角の「草の戸に我は蓼(たで)食ふ蛍哉」に和して、これに巧みに唱和しながら、暗に其角に諭したかたちで詠んだ次の句より以上には、意識はしていないであろう。

    和角蓼蛍句
○ あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉

 この芭蕉の句の意は、「其角よ、あなたは、『草の戸』の世外の徒としての俳諧師として生きながら、また、『蓼食う虫(も好きずき)』の諺のように、世人が振り向かないような俳諧に身を挺しながら、夜になると、その『蓼』を求めて飛び交い且つ食らう『蛍』のように『酒色』に耽っているということだが、自分(芭蕉)は、朝は早く起き、そして、朝顔を眺めながら、もくもくと飯を食っている、ただの男に過ぎない。其角よ、ここは、少しは自省して、不惑の自分とまではいかないが、『草の戸』で、その『蓼食う虫』の真骨頂の佳き俳諧を見せて欲しいものだ」ということにでもなるであろう。そもそも、其角の「草の戸に我は蓼食う蛍哉」の句は、男に捨てられて傷心のままに貴船神社に参詣した和泉式部が、御手洗川(貴船川)に蛍の飛び交うさまを見て詠んだ古歌「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)とぞ見る」(『後拾遺集』)に基づく謡曲『鉄輪(かなわ)』の一節「我は貴船の河瀬の蛍」を背景にしてのものともいう(『堀切・前掲書』)。とすれば、其角の句は、これらの「古歌」・「謡曲」のみならず、「草の戸」・「蓼食う虫」の比喩と、それこそ、支考のいう、「何やらかやらあつめ」た作意の「人をおどろかす発句」(『十論為弁抄』)ということになろう。そして、『句兄弟』の句合わせの最後を飾る自句の「声かれて猿の歯白し岑の月」も謝観の「巴峡秋深し、五夜の哀猿月に叫ぶ」(『和漢朗詠集』「清賦」)などを背景として、「其角が猿の歯は、例の詩をたずね歌をさがして、枯てといふ字に断腸の情をつくし、峯の月に寂寞の姿を写し、何やらかやらあつめぬれば、人をおどろかす発句となれり」(『十論為弁抄』)の、いわゆる「手づま」(手先の技・手品・幻術)の一句なのである。それに対して、この弟句の芭蕉の「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」は、「心遣はずと句になるもの、自賛にたらず」(何の作意もせずに心に浮かんだものを句にしただけで、自賛するほどのものではない)と、いわゆる「手づま」否定の一句なのである。また、其角は「猿の歯白し峯の月」など「人をおどろかす発句」であるけれども、自分(芭蕉)は、普通に見掛ける「塩鯛の歯ぐき」で、それも、ただ店先の「魚の棚とたゞ言(いひ)たるも自句也」と、いわゆる「奇計・奇抜・洒落」風の句の否定の一句なのである。すなわち、「軽み」(日常のものを素材とし、しかも不作為で句にする)志向の芭蕉の、「洒落」(非日常的なものを素材とし、しかも作意で句にする)志向の其角への警鐘の一句なのでもある。そのことを其角は十分に承知しながら、この芭蕉の句の下五の「魚の店」は、その判詞(自注)で、「活語の妙」といい、「幽深玄遠に達する」と絶賛をしているのである。そして、其角が、この『句兄弟』の三十九の句合わせをとおして展開している、「反転の法」(点化句法)という換骨奪胎の手法は、この芭蕉のような、「活語の妙」・「幽深玄遠に達する」まで「錬磨」して、「発句一つのぬし」(一句あるいは一語の表現に、いかに独自の風を打ち出し、句主になる)という、その「句の主」になる、その「独自の作風」を目指すことなのだということを、其角は喝破して、其角は、そのことを繰り返し、この『句兄弟』の句合わせの「判詞」(自注)で述べているということであろう。

 そもそも、この其角の『句兄弟』(上)の三十九の句合わせの全てについて見てみたいと思ったのは、次のアドレス(「謎句を解く」五十一)の下記(○・☆印)とおりのことが、その発端であった。

http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html

○国立国会図書館のデジタルライブラリに其角の『句兄弟』が掲載されているということとあわせ、次のような貴重なデータの紹介があった(下記、☆印)。こころのところを、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、「『予が句先にして、師の句弟と分け、その換骨をさとし侍る』と解説した。ここには、作意が働いた其角の伊達と、閑寂をよしとする芭蕉の差がよく示されている。これより、蕉門は分裂に分裂を重ねることになる。その引きがねをひいたのは、まぎれもなく其角である。其角は芭蕉の『軽み』など屁とも思っていなかった。かくして、芭蕉没後、蕉門は四分五裂をくりかえすことになる」として、これを、その著の結びとしている。以下、これらのこととあわせ、其角の『句兄弟』を見ていくことにする。
☆其角は『句兄弟』の最後に三十九番目の句として、自分と芭蕉の句を並べ、自分を兄、芭蕉を弟としている。『句兄弟』が刊行されたのは芭蕉が亡くなった元禄七年。これをもって其角はあえて蕉門の分裂の引き金を引いたのだとする論者もいるようだ。この二句に関しては、『句兄弟』に其角の評、『三冊子』に芭蕉の評、『十論為弁抄』に支考の評が載っている。其角の評の後段の意味がよくわからないが、両者の俳諧観の違いがここに尽きているのかも知れない。支考は両者の本質を見抜いているようだ。
※『句兄弟』三十九番
   兄 晋子
 聲かれて猿の歯白し峯の月
   弟 芭蕉
 塩鯛の歯茎も寒し魚の店
  (or 塩鯛の歯茎は寒し魚の棚)
●其角『句兄弟』 其角の評
※原文:是こそ冬の月といふべきに山猿叫んで山月落と作りなせる物すごき巴峡の猿によせて峯の月と申したるなり。沽衣聲と作りし詩の余情ともいふべくや。此の句(芭蕉が)感心のよしにて塩鯛の歯むき出したるの冷しくや思ひよせられけん。衰零の形にたとへなして、老の果、年の暮とも置かれぬべき五文字を、魚の店と置かれたるに活語の妙をしれり。其幽深玄遠に達せる所、余はなぞらへてしるべし。
 此の句は猿の歯と申せしに合せられたるにはあらず。只かたはらに侍る人海士の歯の白きはいかに猫の歯冷しくてなどと似て似ぬ思ひよりの発句には成まじき事。ともに作意をかすめ侍るゆへ予が句先にして師の句弟を分(わかつ)。其換骨をさとし侍る師説もさのごとく聞こえ侍るゆへ自評を用ひずして句法をのぶ。此の後反転して猫の歯白し蜑の歯いやしなどと侍るとも発句の一躰備へたらん人には等類の難ゆめゆめあるべからず。一句の骨を得て甘き味を好まず意味風雅ともに皆をのれが錬磨なれば発句一つのぬしにならん人は尤も兄弟のわかちをしるべし。
※換骨:古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる。
●土芳『三冊子』 芭蕉の評
※原文:塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚
此の句、師いはく。思ひ出すと句に成るもの自賛にたらずと也。鎌倉を生きて出けん初鰹 といふこそ、心の骨折、人のしらぬ所也。又いはく、猿の歯白し峯の月 といふは其角也。塩鯛の歯ぐきは我老吟也。下を魚の棚とただ言いたるも自句也といへり。
※解釈:この句について師(芭蕉)は、その情景を思い出すと自然に句になるような作品は苦心したのではないから自賛に値しないと言った。鎌倉を生きて出けん初鰹(葛の松原)という句を詠んだときの自分の心中の苦心はいかばかりであったことか、それは人の知らないところだ。聲かれて猿の歯白し峯の月 という句は其角作だ(が同様であろう)。塩鯛の歯ぐきの句は自分の老吟である。下を魚の棚とただ平凡に言った点も(鎌倉の句や其角の句とは違い)自分流の句であると言った。
●支考『十論為弁抄』 支考の評
※原文:されば其角の猿の歯は、例の詩をたづね、歌をさがして、枯れてといふ字に断腸の情をつくし、峯の月に寂寞の姿を写し、何やらかやらあつめぬれば、人をおどろかす発句となれり。祖翁の塩鯛は、塩鯛のみにして、俳諧する人もせぬ人も女子も童部(わらんべ)もいふべけれど、たとひ十知の上手とても及ばぬ所は下の五文字なり。ここに初心と名人との、口にいふ所はおなじなれど。意にしる所の千里なるを信ずべし。
 今いふ其角も、我輩も、たとへ塩鯛の歯ぐきを案ずるとも魚の棚を行き過ぎて、塩鯛のさびに木具の香をよせ、梅の花の風情をむすびて、甚深微妙の嫁入りをたくむべし。祖翁は、其日、其時に神々の荒の吹つくしてさざゐも見えず、干あがりたる魚の棚のさびしさをいへり。誠に其の頃の作者達の手づまに金玉をならす中より、童部もすべき魚の棚をいひて、夏爐冬扇のさびをたのしめるは、優遊自然の道人にして、一道建立の元祖ならざらんや。
※参考文献
(1) 『句兄弟』in 珍書百種. 第1巻 / 宮崎三昧編,春陽堂, 明27.8
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
(2)『三冊子』、連歌論集俳論集 日本古典文学大系 岩波書店
(3)『三冊子』、日本名著全集 芭蕉全集

 長い道程であったが、其角の、この『句兄弟』(上)の、これらの句合わせは、その『句兄弟』(上・中・下)の、いわば、序章にあたるものであろう。そして、その序章の結びとして、其角の句(兄句=先句)と師の芭蕉の句(弟句=後句)を並列して、「師の芭蕉のような、『活語の妙』・『幽深玄遠に達する』まで『錬磨』して、『発句一つのぬし』(一句あるいは一語の表現に、いかに独自の風を打ち出し、句主になる)という、その『句の主』になる、その『独自の作風』を目指すことなのだ」ということを、その結語としたかったのであろう。ここのところを、其角の原文で示すと、次のとおりとなる。

○発句の一躰備へたらん人には、等類の難ゆめゆめあるべからず。一句の骨を得て甘き味を好まず、意味風雅ともに皆おのれが錬磨なれば、発句一つの主にならん人は、尤も、兄弟のわかちを知るべし。

 この『句兄弟』(上)を序章として、『句兄弟』(中)に、芭蕉の「東順伝」と『雑談集』よりの歌仙などを掲載する。その後、『句兄弟』(下)として、「随縁紀行」という形で、この『句兄弟』が成った元禄七年(一六九四)の三回目の上方紀行(同行者は岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁の五人)時の発句などを掲載する。この「随縁紀行」の最後には、「十月十一日、芭蕉翁、難波に逗留のよし聞えければ、人々にもれて彼(かの)旅宅に尋(たづね)まい(ゐ)るゆへ(ゑ)、吟行半(なか)バに止む」との、芭蕉が没する前日の記事を掲載して終わっている。そして、これらの後で、其角は、「句兄弟追考六格」(「氷川詩式」巻三「句法」の「建句・新句・偉句・麗句・豪句」の分類)として、新しい発句の分類を提示しているのである。その「豪句」の筆頭の句に、次の芭蕉の句を掲げる。

○ 六月や峯に雲置(おく)あらし山   芭蕉

 この芭蕉の句は、芭蕉が没する年であり、そして、この『句兄弟』が成った、元禄七年の六月(改作の最終案は十月九日)の作で、『三冊子』(「あかさうし」)に、「この句、落柿舎の句也。『嵐置嵐山』といふ句作、骨折たる処といへり」とある。すなわち、其角は、この句に、芭蕉の、『錬磨』の、『発句一つのぬし』を見てとったのであろう。この『句兄弟』(上・中・下)は、亡き父への追善の書であったとともに、亡き師の芭蕉に捧げるものであったのであろう。ここに、其角の、芭蕉とともにあった二十年間(延宝二年~元禄七年)の総決算ともいうべき、その偉業の全てを見て取れるような思いを深くする。

火曜日, 4月 24, 2007

其角とその周辺(その八・七十二~八十)


画像:杉山杉風

謎解き八

(謎解き・七十二)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十一番
   兄 彫棠
 つたなさや牛といはれて相撲取
   弟 (其角)
 上手ほと(ど)名も優美なりすまひ取

判詞(自注)に、「句の裏へかけたり。これもすまふの一手たるべし。牛といふ字にかけて、上手も立ならぶべくや」とある。

下記のアドレスの「愛媛の偉人・賢人の紹介」の「松平定直」の記事の中に「彫棠」の名が見られる。この彫棠は其角派の主要俳人の一人で、この彫棠を通して、この定直(俳号・三嘯)やその重臣・粛山などとの接点が生まれたように解せられる(『田中・前掲書』)。

http://joho.ehime-iinet.or.jp/syogai/jinbutu/html/081.htm

(松平定直)
俳人。松山第4代藩主。江戸(現東京都)の今治藩邸に生まれる。度重なる天災の災害復旧と財政の立て直しのため、潅漑土木に藩費を投入し農業生産の安定化を図るとともに、定免制を復活させ、地坪制を遂行し、経済を安定させた。また、積極的に儒学の興隆を図ることで、松山を中心とする地方文化の発展を促した。自ら、和歌・俳諧をたしなみ、特に其角や嵐雪など江戸俳人の指導を受け、句作に興ずることが多かったことから、藩士の中から粛山・(青地)彫棠のような俳人が現れ、俳諧をたしなむ藩風を生んだ。

ここで、『去来抄』「修行」の下記のアドレスでの「同巣・同竈」のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#t

(「修行」二十三)

23、去来曰(きょらいいはく)、蕉門に同巣・同竈(どうさう)といふ事あり、是(これ)は前吟の鋳型に入て作りたる句の意に又入(またいり)て作(さく)する句也(くなり)。譬(たと)へば竿(さを)が長くて物につかゆるといふを、刀の小尻(こじり)が障子にさはる、或(あるい)は杖が短かくて地にとどかぬといふを・・・と吟じかゆる也(なり)、同じ巣の句は手柄なし。されど兄より生れ増(まし)たらんは、また手柄也(てがら)。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,69)

 パクリというのはいつの時代にもあるもので、それも、そのまんまではすぐにばれるから、たいていは一部分を微妙に変えて作る。音楽の世界では、コード進行を同じにしてメロディーを変えるだとかいうのはよくあるし、それを更にテンポを変えたり、リズムを変えたりすると、まったく別の曲のように聞こえる。ブルーハーツの「人に優しく」の、ドシラソミレドという下がってゆくメロディーを「木更津キャッツアイのテーマ」ではドシラソラシドという途中から上がってゆくメロディーにしているが、これはもちろん、ドラマの中でパクリの曲を作る場面で用いられている。だが、ヒット曲の中にも結構この手のものは多い。日本代表のサポーターソングにも採用されたボニーMの「ジンギスカン」はレレミミファーミレファファミレー、ドドドレミーレドミミレドー、レーレーレーレードーシーラードーミーーーうっ!はっ!だが、これをファファミミレーラーファファミレーーー、ミミレレドーソーミミレドー、レーレーレーレードーシーラードーミーーーうっ!はっ!とすると・・・♂。ただ、作曲の場合、この程度は認められている。
 和歌では、

 都をば霞とともにたちしかど
    秋風そ吹くしらかはのせき
                   能因法師
 都にはまだ青葉にてみしかども
    紅葉ちりしくしらかはのせき
                   前右京権大夫頼政

の類似がよく知られている。これなどは、蕉門でいう同竈(どうそう)(同巣(どうそう))と言っていいだろう。旅路の長さを季節の経過で表す発想は、いろいろなバリエーションで使うことが出来る。ただ、現代だと地球の裏側でも一日で行けるので、それほど長く旅することというのがあまりなく、かえって難しい。
 『去来抄』同門評12では、

 桐(きり)の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆(ぼんちょう)
 樫(かし)の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

の類似が指摘されているが、この場合、言葉の続き具合が似ているだけで、前者は風もないのにちってゆく霧の葉を呼んだもので、発想としては、

 ひさかたの光のどけき春の日に
    しづこころなく花のちるらん
                    紀友則(きのとものり)

に近い。これに対して、芭蕉の句は三井秋風(みついしゅうふう)の別荘を尋ね、秋風の時代に流されない姿を比喩として呼んだものだから、発想は全く違う。
 同竈の句と言うのは、去来の説明によれば、「竿(さを)が長くて物につっかえる」というのを、「刀の小尻(こじり)が障子にぶつかる」としたり、また逆に「杖が短かくて地にとどかない」に代えるような、発想の類似なので、これを今でいうと、こういうことだろう。

 万緑の中や吾子(あこ)の歯生(は)えそむる   草田男(くさたお)

これをパクるとすれば、万緑のような、いかにも命の生き生きと輝くようなものに、子供などの成長と重ね合わせる発想をパクるのがいいだろう。たとえば、

 吾子立てり今盛りなる八重桜

何てのはどうだろうか。何も人間の赤ちゃんでなくてもいい。

 猫の仔の五匹生れて山笑う

何てのはどうだろうか。これを逆に命の衰退と老化というふうに組み合わせてはどうだろうか。だがこれだと、

 がっくりとぬけ初(そ)むる歯や秋の風   杉風(さんぷう)

になってしまう。してみると、草田男の句は杉風の句をひっくり返しただけの同竈(どうそう)の句なのだろうか。これを、

 秋風の中やわれの歯抜けそむる

とでもすれば完璧だろう。
 結局人間の発想なんてものは限られているし、本当のところ同竈なんてものはそう気にする必要はない。最後の去来の言葉が本音だろう。「されど兄より生れ増(まし)たらんは、また手柄也(てがらなり)。」要するに句が良ければそれでいい。


(謎解き・七十三)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十二番
   兄 宗因
 人さらにげにや六月ほとゝぎす
   弟 (其角)
 蕣(あさがほ)に鳴(なく)や六月ほとゝぎす

宗因の句の「六月」は老の象徴。其角の判詞(自注)に「あさがほのはかなき折にふれて、卯花・橘の香のめづらしき初声のいつしかに聞(きき)ふるされて、老となりぬるを取合(とりあわせ)て、老―愁の深思をとぶらひぬ」とある。談林派の宗因の風姿に対して蕉門の其角という風姿である。このように二句を並記し、鑑賞すると、両者の作風の違いが歴然としてくる。

宗因については、下記のアドレスの下記の紹介記事のほか、ネット関連でもその紹介記事は多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%AE%97%E5%9B%A0

西山宗因(にしやまそういん、慶長10年(1605年) - 天和2年3月28日(1682年5月5日))は、江戸時代前期の俳人・連歌師。本名は西山豊一。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。通称次郎作。俳号は一幽と称し、宗因は連歌名。生れは肥後国熊本。談林派の祖。
15歳頃から肥後国八代城代加藤正方に仕えた。正方の影響で連歌を知り京都へ遊学した。里村昌琢(しょうたく)に師事して本格的に連歌を学んだが、1632年(寛永9年)主家の改易で浪人となる。1647年(正保4年)大阪天満宮連歌所の宗匠となり、全国に多くの門人を持つようになった。一方では、俳諧に関する活動も行い、延宝年間頃に談林派俳諧の第一人者とされた。俳諧連歌ははじめ関西を中心に流行し、次第に全国へ波及し、松尾芭蕉の蕉風俳諧の基礎を築いたが、宗因は晩年連歌に戻った。

ここで、『去来抄』「修行」の下記のアドレスでの「宗因は此道の中興開山也」(不易流行関連)のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#h

(「修行」九)

9、魯町曰(ろちゃういはく)、不易流行の句は古説にや、先師の発明にや。去来曰、不易流行は万事にわたる也(なり)。しかれども俳諧の先達是(せんだつこれ)をいふ人なし。長頭丸已来(ちゃうづまるいらい)手をこむる一体久しく流行し、角樽(つのだる)やかたぶけ飲(のま)ふ丑(うし)の年、花に水あけてさかせよ天龍寺、と云迄(いふまで)吟じたり。世の人俳諧は如此(かくのごとき)ものとのみ心得つめれば、其風(そのふう)を変ずる事をしらず。宗因(そういん)師一度(ひとたび)そのこりかたまりたるを打破(うちやぶ)り給(たま)ひ、新風を天下に流行し侍れど、いまだ此教(このをしへ)なし。しかりしより此(この)かた、都鄙(とひ)の宗匠たち古風を不用(もちひず)、一旦流々(いったんりうりう)を起せりといへども、又其風(またそのふう)を長く己が物として、時々変ずべき道を知らず。先師はじめて俳諧の本体を見付(みつけ)、不易の句を立(たて)、又(また)風は時々変(へん)ある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。しかれども先師常に曰、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳の涎(よだれ)をねぶるべし。宗因は此(この)道の中興開山也(かいざんなり)といへり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,64~65)

 不易流行の発想自体は古くから東アジアの風土に根ざしたもので、たとえば『易経』にはこういう一節がある。

 「天地の道は、恒久にして已(や)まざるなり。…略…日月は天を得て能(よ)く久(ひさ)しく照らし、四時は変化して能く久しく成(な)し、聖人はその道に久しく天下化成す。その恒(つね)とするところを観(み)て天地万物の情見るべし。(天地之道、恒久而不已也。…略…日月得天能久照、四時変化能久成、聖人久於其道而天下化成。観其所恒而天地万物之情可見矣。)」『易経』「雷風恒」

 古代中国の文明は天地を生きたものとして捉え、絶えず変化する自然現象の中に変らない普遍的な道を求めた。それは西洋的な科学法則のようなものではなく、むしろ天地が情を持つものとして捉え、それを共感的に認識しようとした。季節(四時)の変化を生きとし生けるものの生命の循環に重ね合わし、春に生命の生じるのを喜び、秋に死ぬのを悲しむ。それは、芭蕉のみならず東アジアの詩の根底に常にある考え方だった。
 この考え方は、やがて朱子学によって理と気の二元論へと集大成された。変化してやまない日々の現象は「気」であり、その根底にある天地の道は「理」と呼ばれた。『中庸』に「誠は天の道なり」とあるように、「理」は同時に「誠」でもある。特に幕府が国教とした林羅山の朱子学は「誠」を重視するものだった。土芳編の『三冊子』の、

 「師の風雅に萬代不易有。一時の変化あり。この二ッに究り、其本一也。その一といふは風雅の誠也。」

もそうした朱子学思想による。
 芭蕉自身は「誠」という朱子学的な言葉より、老荘的な「造化(ぞうくゎ)」という言葉のほうを好んだのかもしれない。『笈の小文』の次の一文は、数少ない芭蕉自身が語る不易流行説といえよう。

 「西行の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道(そのくゎんだう)する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうくゎ)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄(いてき)を出(いで、鳥獣を離れて、造化(ぞうくゎ)にしたがひ造化(ぞうくゎ)にかへれとなり。」『笈の小文』

 芭蕉の不易流行説は『易経』や朱子学の説のような、変化してやまぬ自然の流行に対して、その根底にある命の普遍性を説くだけでなく、様々な芸術の時代による風体や様式の変化にも拡大するところに大きな特徴がある。この考え方は『詩経』の変風変雅の思想との接合によるものだろう。西行、宗祇、雪舟、利休に貫通するものは、四時の変化に貫通するものとも一つである。

 「詩は志すところのものである。心にあるのを志といい、言葉にして発すれば詩になる。感情が心の中を動き、言葉となって形を表わす。言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。感情は声によって発せられ、声は文章となる。これを音という。良く治まった世の中の音は安らかで楽しい。その政策が平和だからだ。乱世の音は怨みがこもって怒っている。その政策が民衆から乖離しているからだ。亡国の音は悲しくて思い詰めた調子だ。それは民衆が困窮しているからだ。故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。…略…為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。国史はこれら政治の得失を明らかにし、人倫の廃れるのを傷み、刑政の過酷を哀れみ、情性を吟詠し、以てそれを風刺し、世の事々の変化に通じ、その旧俗を懐かしむのである。
 (詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。情動於中、而形於言。言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。情發於聲、聲成文。謂之音、治世之音、安以楽。其政和。乱世之音、怨以怒。其政乖。亡国之音、哀以思。其民困。故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。…略…上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。国史明乎得失之迹、傷人倫之廃、哀刑政之苛、吟詠情性、以風其上、達於事変、而懐其旧俗者也。)」『詩経』「大序」

 変化するのは天地だけでなく、人の心も変化する。そのため、時代によって詩の作風は変ってくる。芭蕉は、こうした詩風の変化のなかにも不易のものを読み取ろうとした。その根底には儒教・仏教・老荘・神道もその根底は一つという当時の一般的な考え方があり、また実際に旅をし、いろいろな地方独自の文化に接しながらも人間は皆同じだという確信があったのだろう。直接的には、貞徳門の古めかしい俳諧に対し、宗因が現代的な風俗をリアルに描きだす新しい俳諧(談林俳諧)を開いたことに、まだ江戸に出てきたばかりの芭蕉がすっかり感化された、その時の経験によるもので、旅に生き旅に死んだ一所不住の生き方も宗因の影響である可能性が大きい。
 去来が、「不易流行は万事にわたる也」と言うのは、それが朱子学に基づく天地の本質であるからであり、ただそれを俳諧に応用したのは芭蕉が初めてだと言う。松永貞徳(長頭丸)が起こした俳諧も、複雑な言葉遊びを駆使した「手をこめた」スタイルで一世を風靡したが、世の人はただ俳諧というのはこういうものだと思うだけで、俳諧が時代とともに変わるということを知らなかった。宗因は庶民の生活をリアルに描き出して、またひとしきり流行を生み出したが、宗因にも不易流行の教えはなく、宗因の後継者達はやはり俳諧はこういうものだとばかりに、自分の一度習得した風体を後生大事に守るだけだった。芭蕉が始めて風体は時代とともに変わることを見抜き、一つのスタイルを確立してもそれに安住することなく、常により新しい風体を追い求める必要があることを悟ったという。
 これは今日でも多くのアーチストに当てはまることだろう。ひとたび功なり名を成し遂げると、人間はついつい守りに入る。もっとも、結局人間は年とともに頭が固くなるため、本当のところ単に生理的に変化について行けなくなってしまうだけなのかもしれない。頭が固くなるのは凡人に限ったことではなく、アインシュタインのような天才でさえも結局最後まで量子力学を認めることができなかった。ピカソもキュービズムの時代までは新しかったが、それ以降は急速に保守的になった。年取っても時代の変化に対応できるというのは、個々の努力を超えた資質によるのかもしれない。去来もまた、惟然の風にはついて行けなかったし、結局生涯芭蕉の風を守るだけで、自ら新風を起こすこともなかった。去来に限らず、その後の江戸の俳諧師たちは、蕪村・一茶を含めても、本当の意味での新風を起こすことはできず、次の新風は正岡子規の写生俳句の登場を待たなくてはならなかったと言ってもいいのかもしれない。
 皮肉なことに不易流行を説いた芭蕉の風はあまりにも完成度が高く、誰も越えられなかったがために、結果的に世人はみな俳諧とはこのようなものだと思い、芭蕉の後に新風を起こせなくなってしまったのだ。そして、正岡子規が近代俳句を起こすと、今度は「俳句」と言うのは写生に始まり写生に終わるものだと思い、いまだにそれを越えられなくなっている。

(謎解き・七十四)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十三番
   兄 東順
 夏しらぬ雪やしろりと不二の山
   弟 (其角)
 雪に入(る)月やしろりと不二の山

 判詞(自注)の「亡父三十年前句なり。風俗うつらざれども、古徳をしたふ心よりして、あながち句論に及ばず」のとおり、其角の父、竹下東順の句が兄の句である。『続俳人奇人談(中巻)』に東順について次のとおりの記述がある。

竹下東順
 竹下東順は江州の人、其角が父なり。若かりしより、医術をまなびつねの産とせしが、ほどなく本田候より俸禄を得て、妻子を養ふ。やうやく老いに垂(なんな)んとする頃、官路をいとひて市居に替へたり。俳事をたのしんで机をさらず、筆をはなさざる事十年あまり、その口吟櫃(ひつ)にみてりとかや。
  白魚や漁翁が歯にはあひながら
  年寄もまぎれぬものや年の暮
 蕉翁評して云く、この人江の堅田に生れて、武の江戸に終りをとる、かならず太隠は朝市の人なるべしと。

 『田中・前掲書』によれば、「竹下という姓が現れるのは『其角伝』が最初だと思うが、ここには竹内という異説も紹介されている。竹下・竹内のいずれも根拠不明だが、なぜか竹下説が定説となった。かりに竹下が正しいとしても、東順は妻の実家の姓を名乗ったのだから、彼の姓を竹下とするのは間違いである。今日流布する俳諧関係の文献はすべて竹下東順と記すが、榎下(「えのもと」ではなく「えのした」の読み)東順と記すべきであろう」としている。ここでは、こういう説もあるということにとどめたい。さらに、「元禄六年(一六九三)八月二十九日に父の東順が没した。其角が編集した父の追善集『萩の露』(元禄六)に『七十三歳の老医』と記されているが、芭蕉の『東順伝』(『句兄弟』)に『七十歳ふたとせ(七十二歳)』とあり、『類柑子』(宝永四)の『松の塵』に其角自身が『亡父東順七十二』と記しているから、東順の享年は七十二歳であろう。この年其角は三十三歳である」の記述もある。いずれにしろ、其角の父、東順は芭蕉に親しい俳人の一人であり、俳人・其角の生涯というのは、この東順が大きく影響していたということは確かなところであろう。この『句兄弟』に、亡き父の東順の句をもってきたのも、その判詞(自注)の「予(其角)は親(東順)にわかれて薬箱より此句を出すべしとはしらざりしに、思ひの外の追善也」と、亡き父・東順への追善という思いもあろう。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「類想のいましめ」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」十)

10、 面梶(おもかじ)よ明石(あかし)のとまり時鳥(ほととぎす)    野水(やすゐ)
 猿ミの撰の時、去来曰、此(この)句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集(につしふ)すべからず。先師曰、明石(あかし)の時鳥(ほととぎす)といへるもよし。来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主(くぬし)の手柄(てがら)なし。先師曰、句の働(はたらき)におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄(とりえ)に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。終(つい)に是(これ)をのぞき侍る。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,14)

 芭蕉の

 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす  芭蕉

の句は、『奥の細道』の文脈だと那須野で妖狐玉藻(ようこたまも)の伝説で名高い殺生石(せっしょうせき)を見に行く際の句だ。

 「是(これ)より殺生石(せっしゃうせき)に行(ゆく)。館代(くゎんだい)より馬にて送らる。此口付(このくちつき)のおのこ、『短冊(たんざく)得させよ』と乞。やさしき事を望侍(のぞみはべ)るものかなと、

 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす」

「やさしき」という言葉は本来両義的な言葉で、「やさしき」は「恥(やさ)し」から来た言葉で、良いにつけても悪いにつけても「恥ずかしくなるような」という感覚を表わす。一般的に此句は良いほうの意味にとって、こんな田舎のやまがつの類のような馬子でも俳諧をたしなむのかと感激して、一句したためたという意味に解されている。そのため、句自体は状況と切り離されて、独立したものとして読まれている。しかし、それでは「馬牽むけよ」という命令口調が生きてこない。この句は明かに馬子に向かって語りかけられている。もちろん芭蕉には、こんな田舎の馬子までが自分のことを 知っててくれて、発句の揮毫(きごう)を求めていることに感激するとともに、こんな所でいきなり気恥ずかしい、でも満更でもない、そういう両面を含めて「こんなところで短冊とはまた困ったことを言う人だ。それならせめて郭公の声がする所まで横道に入って連れて行ってくれ」と詠んだのではなかったか。
 これに類する句がもう一つ『奥の細道』の中にある。それは加賀の全昌寺(ぜんしょうじ)の場面だ。

 「けふは越前(ゑちぜん)の国へと、心早卒(さうそつ)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども紙硯(かみすずり)をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追来(おひきた)る。折節庭中(をりふしていちゅう)の柳散れば、

 庭掃(はき)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳」

この句も芭蕉が自ら庭を掃いて出たというふうに解されているが、それでは前後との文脈がわからなくなる。この句も那須野の句と同様に考えるべきだろう。確かに、お寺に一夜泊めてもらった以上、その庭を掃除して出て行くのは礼儀だろう。しかし、寺の子坊主に揮毫をせがまれたというのであれば、この句はこういう句となる。「ああ、庭を掃いて出て行かなくてはならないな、庭に柳が散っているぞ。庭掃きは本当は私の仕事だが、揮毫をしてくれというなら君たち、私の代わりに庭を掃いておいてくれないか。」
 しかし、問題なのは、『去来抄』のエピソードは『猿蓑』の撰の時のものであり、当時はまだ『奥の細道』そのものが書かれていなかった。だから、去来はこの句を前書きも何もなしでただ単に

 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす  芭蕉

という句として理解していた。ひょっとしたら旅のエピソードとして何か聞いていたかも知れないが、ここでは句の作られた状況は問題になっていない。野水も果たして芭蕉のこの句を知っていて

 面梶(おもかじ)よ明石(あかし)のとまり時鳥(ほととぎす)    野水

の句を読んだのかどうかも定かではない。偶然の一致ではないかと思われる。
 去来の立場からすれば、同じ趣向の句であるとすれば師である芭蕉の句を優先させるのは人情として当然のことだろう。それゆえ「去来曰、此(この)句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集(につしふ)すべからず。」となる。それに対して芭蕉の方は冷静だ。「先師曰、明石(あかし)の時鳥(ほととぎす)といへるもよし。」明石の時鳥というのもまた一興ではないか。これに対し去来は「来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主(くぬし)の手柄(てがら)なし。」明石の時鳥なんて聞いたこともない。ただ馬と舟を入れ替えただけのパクリだ。こんな句を入集させるわけにはいかない、と強情に突っぱねる。仕方なく芭蕉はこう言う。「先師曰、句の働(はたらき)におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄(とりえ)に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。」句をとってみただけではどちらが優れているとも言い難い。あとは野水が明石の時鳥をどんな特別な意味をもって聞いていたかだ。「撰者の心なるべし」と言った以上、最後は去来自身の判断となる。「終(つい)に是(これ)をのぞき侍る。」
 これが果たして芭蕉の意図に沿うものだったのかどうかは定かでない。芭蕉からすれば、確かに「野を横に…」の句は旅の一つの思い出であり、愛着がある。だからこそ、野水の句にも何か事情があるのではないかと思うのは当然だろう。外見の類似だけ見て、単なる子弟愛という次元で事が処理されることは望まなかったに違いない。

(謎解き・七十五)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十四番
   兄 仙化
 つくづくと書図のうさぎや冬の月
   弟 (其角)
 つくづくと壁のうさぎや冬籠

 仙化(仙花とも)については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/senka.htm

(仙化)
江戸の人。『蛙合』の編者。『あら野』、『虚栗』、『続虚栗』などに入句している。
(仙花の代表作)
一葉散(ちる)音かしましきばかり也 (『あら野』)
起起(おきおき)の心うごかすかきつばた (『猿蓑』)
おぼろ月まだはなされぬ頭巾かな (『炭俵』)
氣相よき青葉の麥の嵐かな (『炭俵』)
みをのやは首の骨こそ甲(かぶと)なれ (『炭俵』)
螢みし雨の夕や水葵 (『炭俵』)
一枝はすげなき竹のわかば哉 (『炭俵』)
三尺の鯉はねる見ゆ春の池 (『續猿蓑』)

この仙化は素性不明の人物だが、『蛙合』(貞享三)の編者として知られている。なお、『田中・前掲書』によれば、「仙花と仙化を同一人と断定してよいかどうか問題である。少なくとも仙化が仙花と改号した形跡はなく、本書では別人と考えておきたい」とされている(ここでは、同一人物として『炭俵』(仙花)所収の句もあげてにおくこととする)。

「判詞」(自注)には、「かけり(働き)過ぎたる作為」にて「本意をうしなふ興」にならないようにとの指摘も見られる。

ここで、『去来抄』「同門評」の下記のアドレスでの「本意の把握」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#j

(「同門評」十一」)

11、 鶯の身を逆(さかさま)にはつね哉(かな)   其角(きかく)
   鶯の岩にすがりて初音哉(はつねかな)     素行(そかう)
 去来曰、角が句ハ春煖(しゅんだん)の乱鶯(らんあう)也。幼鶯(ようあう)に身を逆(さかさま)にする曲(きょく)なし。初の字心得がたし。行(かう)が句ハ鳴鶯(めいあう)の姿にあらず。岩にすがるハ、或(あるい)ハ物におそはれて飛(とび)かかりたる姿、或餌(あるいはゑ)ひろふ時、又ハここよりかしこへ飛(とび)うつらんと、伝(つた)ひ道にしたるさま也。凡(およそ)物を作するに、本性(ほんじゃう)をしるべし。しらざる時ハ珍物新詞に魂を奪ハれて、外の事になれり。魂を奪るるは其物に着する故(ゆゑ)也。是(これ)を本意(ほい)を失ふと云(いふ)。角が巧者すら時に取(とつ)て過有(あやまちあり)。初学の人慎(つつし)むべし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,33~34)

 句の姿は重要だし、誰もが「ある、ある。」というようなものや、「いかにもありそうな」というのは、句にリアリティーを与える。しかし、誇張しすぎると、いかにも作りっぽくなってしまう。
 ベタな漫画に「遅刻ー!」と言いながらパンをくわえて走る人がいたりするが、実際にこんな人を見た人がいるだろうか。TVアニメの「サザエさん」の主題歌に「お魚くわえたどら猫」という歌があるが、本当に裸足で猫を追っかけている主婦を見たなら感動ものだろう。
 鶯の初音だから、何か不慣れで、通常とは違う突飛なことをやりそうだ、という雰囲気はわかる。しかし、

 鶯の身を逆(さかさま)にはつね哉     其角

はいかにも大げさで、やはり去来に、これは春も爛漫で乱れ鳴く鶯ではあっても初音ではない、と突っ込まれてしまった。

 鶯の岩にすがりて初音(はつね)哉    素行

も同様、実際にそんな岩場の危なっかしいところで恋鳴きはしない。
 これらは鶯の初音という、初春の目出度い心を表現したものではなく、むしろ何か目新しい趣向を求めるあまりに、現実離れし、本来の目出度い情を逸してしまっている。俳諧は新味を命とするが、目新しさばかりを求めると、かえって荒唐無稽になってしまう。


(謎解き・七十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十五番
   兄 僧 路通
 大仏うしろに花の盛かな
   弟 (其角)
 大仏膝うづむらむ花の雪

「判詞」(自注)に、「東叡山の遊吟也」とあり、上野の森の「東叡山」(寛永寺)での作である。当時、東叡山付近に「上野大仏」があり、そのネット関連のものは、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.enjoytokyo.jp/OD003Detail.html?SPOT_ID=l_00004780

寛永八年(一六三一)当時越後の国、村上城主堀丹後守藤原直寄公がかつて自分の屋敷地として幕府から割当られたこの高台に土をもって釈迦如来の大仏像を創建し、戦乱にたおれた敵味方将兵の冥福を祈った。その後尊像は政保四年(一六四七)の地震で破損したが、明暦、万治(一六五五~六十)の頃、木食僧浄雲師が江戸市中を歓進し浄財と古い刀剣や古鏡を集め青銅の大仏を造立した。元禄十一年(一六九八)東叡山輪王寺第三世公弁法親王の命で、従来の露仏に仏殿が建立された。また堂内には地蔵、弥勒のニ菩藩も安置された。天保十ニ年(一八四一)葛西に遭い、天保十四年四月、末孫堀丹波守藤原直央公が大仏を新鋳し、また仏殿も再建された。慶応四年(一八六八)彰義隊の事変にも大仏は安泰であったが、公園の設置により仏殿が撤去されて露仏となった。大正十二年、関東大震災のとき仏頭が落ちたので寛永寺に移され、仏体は再建計画のために解体して保管中、昭和十五年秋、第二次世界大戦に献納を余儀なくされた。

路通については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/rotsu.htm

八十村氏。露通とも。近江大津の人。三井寺に生まれ、古典や仏典に精通していた。蕉門の奇人。放浪行脚の乞食僧侶で詩人。後に還俗。元禄2年の秋『奥の細道』 では、最初同行者として芭蕉は路通を予定したのだが、なぜか曾良に変えられた。こうして同道できなかった路通ではあったが、かれは敦賀で芭蕉を出迎え て大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年1月3日まで京・大坂での生活を共にする。路通は、素行が悪く、芭蕉の著作権に係る問題を出来し、勘気を蒙ったことがある。元禄3年、陸奥に旅立つ路通に、芭蕉は「草枕まことの華見しても来よ」と説教入りの餞の句を詠んだりしてもいる。 貞亨2年春に入門。貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと見られている。『俳諧勧進帳』、『芭蕉翁行状記』がある。
(路通の代表作)
我まゝをいはする花のあるじ哉 (『あら野』)
はつ雪や先(まず)草履にて隣まで (『あら野』)
元朝や何となけれど遅ざくら (『あら野』)
水仙の見る間を春に得たりけり (『あら野』)
ころもがへや白きは物に手のつかず (『あら野』)
鴨の巣の見えたりあるはかくれたり (『あら野』)
芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ (『あら野』)
蜘(くも)の巣の是も散行(ちりゆく)秋のいほ (『あら野』)
きゆる時は氷もきえてはしる也 (『あら野』)
いねいねと人にいはれつ年の暮 (『猿蓑』)
鳥共も寝入てゐるか余吾の海 (『猿蓑』)
芭蕉葉は何になれとや秋の風 (『猿蓑』)
つみすてゝ蹈付(ふみつけ)がたき若な哉 (『猿蓑』)
彼岸まへさむさも一夜二夜哉 (『猿蓑』)

この路通の『俳諧勧進帳』(元禄四年刊)の「跋」は其角が草し、その文体は歌舞伎の台詞調に倣ったもので、いかにも洒落闊達な其角の面目躍如たるものである。

○俳諧の面目、何と何とさとらん。なにとなにと悟らん。はいかいの面目は、まがりなりにもやつておけ。一句勧進の功徳は、むねのうちの煩悩を舌の先にはらつて、即心即仏としるべし。句作のよしあしは、まがりなりにもやつておけ。げにもさうよ、やよ、げにもさうよの。

 この其角「跋」の「まがりなりにやつておけ」というのは「適当にやつておけ」ということで、形を整えるのは二の次で、即興性こそ俳諧の面目だということなのであろう。ここのところを、『田中・前掲書』では、「其角のいう作為とは、即興的な言い回しの中で言葉を効果的に用いることだと考えてよい。考えたすえの洒落が面白くないように、其角の句の多くは当意即妙に作られたことに面白さがある。其角晩年の俳風が後に洒落風と呼ばれた理由の一つは、彼が即興性を重んじたからであろう。即興性は洒落のもっとも重要な要素である」と指摘している。この「まがりなりにもやつておけ」ということは、例えば、この其角の『句兄弟』の換骨奪胎の具体例でも、まさに、其角の当意即妙な即興的なものと理解すべきなのであろう。

ここで、『去来抄』「修行」の下記のアドレスでの「しほり、細み」」(路通の句関連など)のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#ss

(「修行」四十六)

46、野明曰(やめいいはく)、句(く)のしほり、細(ほそ)みとは、とはいかなるものにや。去来曰(きょらいいはく)、句(く)のしほりは憐(あはれ)なる句(く)にあらず。細(ほそ)みは便(たよ)りなき句(く)に非(あら)ず。そのしほりは句(く)の姿(すがた)に有(あ)り。細(ほそ)みは句意(くい)に有(あ)り。是又證句(これまたしょうく)をあげて弁(べん)ず。
  鳥(とり)どもも寐入(ねいっ)て居(ゐ)るか余吾(よご)の海(うみ)   路通(ろつう)
先師曰(せんしいはく)、此句(このく)細(ほそ)み有(あり)と評(ひょう)し給(たま)ひし也(なり)。
  十団子(とうだご)も小粒(こつぶ)になりぬ秋(あき)の風(かぜ)   許六(きょりく)
先師曰(せんしいはく)、此句(このく)しほり有(あり)と評(ひょう)し給(たま)ひしと也(なり)。惣(そう)じて句(く)の寂(さ)ビ・位(くらゐ)・細(ほそ)み・しほりの事(こと)は、言語筆頭(げんごひっとう)に応(しる)しがたし。只(ただ)先師(せんし)の評有(ひょうあ)る句(く)を上(あ)げて語(かた)り侍(はべ)るのみ。他(ほか)はおしてしらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78~79)

 「しおり」は花などの「しおれる」から来た言葉で、花がしぼみ、散ってゆく哀れを連想させる。ただ、ここでも「さび」と同様、哀れな心を詠むのではなく、あくまで「句の姿」だという。つまり、哀れを感じさせる具体的な情景が描かれて初めて、「しおり」と言うことができる。

 十団子(とうだご)も小粒(こつぶ)になりぬ秋(あき)の風(かぜ)   許六(きょりく)

許六(きょりく)のこの句は、収穫直前の立秋の頃になると、米価が高騰し、街道の名物の十団子(とうだご)も小粒になる所に、秋風の物悲しさと世間の世知辛さを重ね合わせた句だが、句の「しおり」は「秋風」の情にではなく、「小粒な十団子」の姿にある。
 これに対し「細み」は句意にある。姿にではない。

 鳥(とり)どもも寐入(ねいっ)て居(ゐ)るか余吾(よご)の海(うみ)   路通(ろつう)

の句は、「鳥が寝ている」という姿が詠まれているわけではない。静かでただ波の音だけが聞こえてくる海の寂しげな景色に、鳥も寝てしまったのかと鳥のことを気遣う、その繊細な心遣いが「細み」だと言っていいだろう。
 そして、最後に去来は、「さび・位・細み・しおり」というのは、あくまで感覚的なもので、理屈で単純に説明できるものではないということを心に留めることで終っている。

(謎解き・七十七)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十六番
   兄 蟻道
 弥兵衛とハしれど哀や鉢叩
   弟 (其角)
 伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき

この兄の句の作者、蟻道とは、『俳文学大辞典』などでも目にすることができない。しかし、『去来抄』の「先師評(十六)」で、「伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)」との文言があり、「伊丹の俳人」であることが分かる。ここのところを次のアドレスのものでは下記のとおり紹介されている。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」十六)

16、 月雪や鉢(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)
 去来曰、猿ミの撰ノ比(ころ)伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)と云有(いふあり)。越が句入集(につしふ)いかが侍らん。先師曰、月雪といへるあたり一句働(はたらき)見へて、しかも風姿有(あり)。ただしれど憐やといひくだせるとハ各別也。されど共に鉢扣(はちたたき)の俗体を以(もつ)て趣向を立(たて)、俗名(ぞくみゃう)を以て句をかざり侍れば、尤(もっとも)遠慮有(あり)なんと也(なり)。

 鉢叩き(鉢扣)とは京都市中を陰暦の11月13日から大晦日まで、空也念仏を唱えながら托鉢して歩く修行僧だが、六波羅蜜寺や空也堂付近に形成された散所に住み、身分としては士農工商の下の非人の身分にあった。芭蕉も元禄2(1689)年の12月24日(旧暦)に、この鉢叩きを見ようと去来亭を訪れたが、風雨が強く、いくら待っても来ないので、去来が

 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢扣(はちたたき)    去来

と詠んだことが、去来の『鉢扣ノ辞』に描かれている。
 その鉢叩きも普段は杖の先の茶筅を挿し、茶筅やササラ竹などの竹細工を製造販売して生活していた。僧の格好をしているものもいたが、萌黄に鷹の羽に紋のついた衣を着ていることが多かったことから、越人はそのきりっとした茶筅売りの姿と空也念仏を唱える哀れな修行僧の姿との落差を面白く思い、

 月雪や鉢(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)    越人

と詠んだのだろう。しかし、同じことを考える人は他にもいて、『猿蓑』の撰のとき既に伊丹の上島鬼貫(うえしまおにつら)の一派の句に

 弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)

というのがあり、いわばネタがかぶってしまったわけだ。
 『月雪や』という上五は雪の夜の鉢叩きの姿が目の前にいるかのようで、その点では『哀れや』という言葉と違い、まさに『風姿有』というところだろう。正岡子規は蕪村を絵画的で芭蕉は地図的だと言ったが、芭蕉は決してその姿が眼前にあるかのような姿ある句を好まなかったわけではない。ただ、芭蕉の場合、それを最低限の言葉で表現しようとするところが『地図的』だといことなのだろう。その点では、「月雪や」の越人の上五は芭蕉の好むところなのだろう。
 結局、芭蕉は越人の句の「月雪や」の上五に風情があって、単に「憐れや」ですませてしまっている伊丹の句よりは優れていることを認めたものの、基本的に鉢たたきの俗体の面白さを甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名で表現するやり方は一緒なので、『猿蓑』には載せないほうがいいと判断した。 さて、先の『鉢扣ノ辞』だが、結局その日はあきらめて寝たのだけど、夜明けになって風雨も収まり鉢叩きの声を聞くこともできた。このときのことを後に芭蕉は

 長嘯(ちゃうしょう)の墓もめぐるか鉢叩き    芭蕉

と詠んだという。 長嘯は豊臣秀吉の正室ねねの甥にあたる木下勝俊のことで、古今伝授を受けている細川幽斎に和歌を学び、関が原の合戦以降は京都東山に隠棲していた。その長嘯の歌に

 鉢叩き暁方(あかつきがた)の一声は
    冬の夜さへも鳴く郭公(ほととぎす)

というのがあり、芭蕉もその歌を思い起こしたのだろう。

さて、其角の『句兄弟』の「蟻道」とは、このネット関連の解説の記事では、「伊丹の上島鬼貫(うえしまおにつら)の一派」の俳人ということになる。それを一歩進めて、『去来抄評釈』(岡本明著)の「註」を見てみると、「摂津伊丹の俳人森本蟻道」とある。そして、この『去来抄』の、ここのところは、「類想のいましめ」というところで、越人の句の「月雪や鉢(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)」について、「芭蕉は(この)越人の句の『月雪や』の上五に風情があって、単に『憐れや』ですませてしまっている伊丹の句(蟻道の句)よりは優れていることを認めたものの、基本的に鉢たたきの俗体の面白さを甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名で表現するやり方は一緒なので、『猿蓑』には載せないほうがいいと判断した」というのである。其角は、こういう『猿蓑』の選をめぐっての芭蕉や去来の遣り取りを十分に承知しながら、その上で、「伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき」と、「甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名」の表現を避けて、「伊勢島」(「伊勢島節」のことで、「古浄瑠璃の一派。江戸初期、寛永(1624~1644)の末頃に江戸から京都に上った伊勢島宮内が語ったもの」)という固有名詞での換骨奪胎では、「類想」の句にはならないであろうというのが、其角の、この『句兄弟』での、一つの提示案なのである。この『句兄弟』が刊行されたのは、芭蕉没後の元禄七年(一六九四)であるが、その『句兄弟』の中巻には、芭蕉の「東順伝」を掲載するなどしており、それらのことを併せ考えると、その上巻の「句合わせ」(発句合わせ)の、その何らかの草案は、生前の芭蕉も目を通しているのではなかろうか。というのは、其角の、この『句兄弟』(上巻=句合わせ、中巻=東順伝など、下巻=諸家発句など)は、其角の唯一人の師の芭蕉に閲することを目的としてのもの、そして、其角の唯一人の示唆を請う師の芭蕉への問い掛けだったのではなかろうという思いなのである。即ち、蕉門の実質的なリーダーである其角にとって、去来も越人も蟻道も、彼らの考えや作風などについてそれほど眼中にはおいていなかってであろう。唯一人、其角の終生の師であり続けた芭蕉が、これらの一つの提示案について、どのような感慨を抱くものなのであろうか・・・、その一点に其角は集中していたのではなかろうか。しかし、これらの其角の問い掛けや提示案についての、芭蕉の感慨というのは何一つ形に遺されることもなく、芭蕉はこの世を去ってしまったのである。何故か、『去来抄』にも出てくる、其角のこの鉢叩きの句合わせを見て、つくづくとそのような思いに囚われたのである。というのは、上記のネット記事にもある通り、この『去来抄』に記述したもののほかに、去来は、別文の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)を今に遺しているのである。

○師走も二十四日(元禄二年十月二十四日)、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞かむと、例の翁(芭蕉翁)のわたりましける(落柿舎においでになった)。(以下略。関連の句のみ「校注」などにより抜粋。)
 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢叩   (去来)
 米やらぬわが家はづかし鉢敲き (季吟の長子・湖春)
おもしろやたゝかぬ時のはちたゝき (曲翠)
鉢叩月雪に名は甚之丞 (越人・ここではこの句形で収載されている)
ことごとく寝覚めはやらじ鉢たゝき (其角・「去年の冬」の作)
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き (芭蕉)

『去来抄』(「先師評」十六)はこの時のものであり、そして、『句兄弟』(「句合せ」二十五番)は、これに関連したものであった。さらに、この「鉢叩き」関連のものは、芭蕉没(元禄七年十月十二日)後の、霜月(十一月)十三日、嵐雪・桃隣が落柿舎に訪れたときの句が『となみ山』(浪化撰)に今に遺されているのである。

千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき (其角)
今少(すこし)年寄見たし鉢たゝき (嵐雪)
ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき (桃隣)
旅人の馳走に嬉しはちたゝき (去来)

これらのことに思いを馳せた時、其角・嵐雪・去来を始め蕉門の面々にとっては、「鉢叩き」関連のものは、師の芭蕉につながる因縁の深い忘れ得ざるものということになろう。そして、其角が『句兄弟』にそれを、そして、去来が『去来抄』などにそれを記述していることは、師の芭蕉との関連でこれらのことを記述しているということは、想像に難くないところのものであろう。すなわち、去来の『去来抄』が、師の芭蕉に捧げたものであるとするならば、其角の、この『句兄弟』も、師の芭蕉に捧げたものではなかろうかという思いも、それほど的を外してはいないと思えるのである。

(謎解き・七十八)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十七番
   兄 越人
 ちる時の心安さよ罌粟(けし)の花
   弟 (其角)
 ちり際は風もたのまずけしの花

 この二十七番の前の二十六番(兄 蟻道)が、『去来抄』に出てくる「鉢叩き」のもので、それは越人の「月雪や鉢たたき名は甚之亟」関連ものであることから、ここで、いよいよその主役でもある越人その人の登場ということになる。この「判詞」(自注)には、「中七字に風俗を立たるは荷兮越人等が好む所の手癖なり」とあり、其角としては、尾張蕉門を代表する俳人として、「荷兮・越人」の二人の名をあげ、それらの尾張蕉門の俳風の特徴の一つとして、この越人の句の中七の「心安さよ」という作為的な擬人化の見立てがそれであると指摘しているのであろう。それに続く、「是は別ル僧といふ前書有ゆへ一句のたより手くせながらも面白し」とあり、この「別僧」(ソウニワカル)の前書きを付して、『猿蓑』には入集になっている一句なのである。そして、この句は更に『去来抄』の「同門評」(前書きの効用)にも収載されているものなのである。その『去来抄』のものは、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#n

(「同門評」十五)

15、ちる時の心やすさよけしのはな   越人(ゑつじん)
 其角(きかく)・許六共曰(きょりくともにいはく)、此(この)句ハ謂不応故(いひおほせざるゆえ)に別僧(そうにわかる)と前書(まえがき)あり。去来曰、けし一体の句として謂応(いひおほ)セたり。餞別(せんべつ)となして猶見(なほけん)あり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35)

 咲く花を悦び散る花を悲しむのは風雅の基本であり、生命に共感するというのはそういうことだ。生まれてくるのは目出度く、死ぬのは悲しい。それと同じだ。ただ、人はいつかは必ず死なねばならぬ運命ゆえに、散りぎわは安らかであるにこしたことはない。古くから桜の散りぎわの潔さは日本人にとって心に刻み込まれてきたものだった。(最近では「遺伝子に刻み込まれてきた」という言い方をする人が多いが、あまりいい比喩とはいえない。)「ちる時の」の句はその意味では散りぎわの潔さを感じさせる句ではある。
 しかし、この句が路通(ろつう)との別れの句だったという事情がわかると、話はややこしくなる。路通については「先師評」の3の「行く春を」の句のところで述べたが、破門された門人で、そのため『猿蓑』では名を出さずに「別僧(僧に別る)」という前書きをつけて掲載されていた。おそらくそのとき、選者の一人であった去来は、そんな前書きは要らない。芥子の花の句で十分だと主張したのだろう。去来はこの句が路通との別れの句だという暗示すら嫌ったのだろうか。路通と去来の間に何かよほどのことがあったのだろう。
 ただ、純粋に芥子の花の句としてしまうと、本来花が散るのは悲しいはずなのになんで「心安さよ」なのか、いくら潔いといっても落花は悲しいはずではないかと、疑問が残ってしまう。そこが「謂い応せぬ」所なのだろう。この状は、花そのものを詠んだ句ではなく、芥子の花が散るように潔く去っていった、と餞別句にした方が分りやすいのは確かだ。
 ところで、この路通だが、岡田喜秋(おかだきしゅう)の『旅人・曾良と芭蕉』(1991、河出書房新社)によれば、正徳元(1711)年に並河誠所と関祖衡の二人が書いた『伊香保道記』に、榛名神社で、昔芭蕉と旅したという仙人のような老人に会ったとあり、これが路通ではないかといっている。路通は蕉門を破門された後も諸国を放浪し、元文3(1738)年89歳まで生きたといわれている。(もっとも蕉門の一員ではなくなったというだけで、蕉門の興行に参加することはあった。)

 ここのところは、「前書きの効用」とか「謂不応(いひおほせざる)」(表現の不足)などのところなのであるが、それだけではなく、この句の背景が、路通への餞別吟であり、路通嫌いの去来と、路通をかばっている其角などとが、その背景にあり、極めて興味の尽きないところなのである。上記のネット記事に出てくる、「先師評」の三の「行く春を」のところも掲載をしておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#b

(「先師評」三)

3、 行春(ゆくはる)を近江(あふみ)の人とおしみけり   芭蕉
 先師曰(いはく)、尚白(しゃうはく)が難に近江は丹波にも、行春ハ行歳(ゆくとし)にも有べしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧(もうろう)として春をおしむに便(たより)有べし。殊(こと)に今日(こんにち)の上に侍るト申(まうす)。先師曰、しかり、古人も此国(このくに)に春を愛する事、おさおさ都におとらざる物を。去来曰、此一言(このひとこと)心に徹す。行歳近江(ゆくとしあふみ)にゐ給(たま)はば、いかでか此感(このかん)ましまさん。行春丹波(ゆくはるたんば)にゐまさば本(もと)より此情(このじゃう)うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成哉(まことなるかな)ト申(まうす)。先師曰、汝ハ去来共(とも)に風雅をかたるべきもの也と、殊更(ことさら)に悦(よろこび)給ひけり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,11)

 この段は芭蕉に「行春を」の句のことを聞かれ、うまく答えられたことを去来が少々自慢気に語る場面だ。芭蕉が「尚白がこの句のことを近江を丹波にかえて『行春を丹波の人とおしみけり』にしたり、行春を行歳にかえて『行歳を近江の人とおしみけり』『行歳を丹波の人とおしみけり』にしても同じではないかとい言うのだが去来はどう思うか?」と尋ねる。これに対し去来は近江の国の春は琵琶湖の湖水が春の霞に朦朧として特別味わいがある、だから近江を丹波にかえたり行春を行歳にかえたりはできない、と答える。芭蕉は「その通りだ。昔の風流人たちも近江の春は都の春に劣らぬものとして愛した」と答える。
 去来は多分感覚的に近江の春だとその景色が浮かんでくるが、丹波の春だとか、丹波の歳の暮だとかいわれても、景色が浮かんでこないということが言いたかったのだろう。これに対し芭蕉は「古人」が愛した風景だからだという。これは実際は同じことを言っている。古人が愛し、古くから歌に名高いからこそ去来も近江の春と言われたとき、その風景が思い浮かぶのではないか。丹波の春だとか近江の歳末だとかいわれても、一般の人にはどういう風景なのか、他の地方の春と何が違うのかピンと来ない。景色が思い浮かぶかどうかは、古くから歌や物語に名高いかと密接に関係がある。いわゆる「本意本情(ほいほんじょう)」というのはそういうことだと去来は悟ったのだろう。
 近江といえば滋賀辛崎が古くから歌枕として名高い。辛崎はかつて天智天皇が造営した大津京があり、その跡形もなく消え去った都を詠んだ、柿本人麿(かきのもとのひとまろの「近江荒都歌」は有名だ。

 さざなみの志賀の辛崎さきくあれど
    大宮人の船待ちかねつ
                   柿本人麿(かきのもとのひとまろ)
 さざなみの国つ御神(みかみ)のうらさびて
    荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
                   高市古人(たけちのふるひと)

それは壬申の乱で敗北した天智天皇の御霊を鎮める歌だったのだろう。後々、このはかなく消えた幻の都は、ぱっと咲いてぱっと散る桜のイメージと重なり、桜の名所として歌に詠まれるようになった。『千載集』の

 さざなみや志賀の都は荒れにしを
    昔ながらの山桜かな

の歌は、『平家物語』で平忠度(ただのり)が都落ちする際に俊成卿(しゅんぜいのきょう)に託したエピソードでも有名で、消えた志賀の都のイメージは、平家の滅亡のイメージにも重なる。さらに、滋賀辛崎の三井寺(みいでら)は一本松が有名で、謡曲『三井寺』では、愛児と生き別れた母親が、夢に三井寺に来れば我が子に逢えるというお告げを聞いてやって来て、感動の再開を果たす。そんなながい歴史への思いから、芭蕉も先の「辛崎の松は花より朧にて」の句を詠んでいる。花も朧だが、この悠久の歴史の流れからすれば常緑の松も春の霞の中で朧なはかない存在に見える。
 そんな特別な思い入れを尚白は理解しなかったが去来は理解したということで、去来は芭蕉に「共に風雅をかたるべきもの也」とまで言われ信頼されたわけだが、ここにはいろいろな人間ドラマがかいま見られる。
 この句は元禄3(1690)年の3月の終り頃、まさに「行春」の季節柄、路通(ろつう)との別れのさいに詠まれたものだ。路通は乞食僧となって行脚していたころ、ちょうど『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉とこの近江の国で出会い、

 いざともに穂麦喰(ほむぎくら)らはん草枕   芭蕉

の句を送られ、行く末が期待されていた。『奥の細道』の旅でも敦賀まで出迎えに行き、病気の曾良に代わって共に旅をした。しかし、根っからの旅人で自由奔放な路通は、他の門人からもそのわがままさが嫌われ、俳諧の腕のほうも進歩がなく、結局破門されてしまった。おそらく急に蕉門の高弟として俳諧にスターになったため、誇大妄想に取り憑かれすっかり舞い上がってしまい、自分を見失ってしまったのだろう。

 草枕まことの華見(はなみ)しても来よ   芭蕉

もう一度苦労して旅をし、今の虚飾に満ちた華を捨て、本当の華を見つけなさい。それが芭蕉の最後の言葉だった。そして、

 行春を近江の人とおしみけり   芭蕉

の句もその時のものだった。この直後、芭蕉は滋賀国分山の幻住庵に入り隠棲生活を始める。
 近江には許六、李由、尚白といった新たな門人がいた。路通の過ぎ去った春を惜しんだ「近江の人」の中には、芭蕉のその時の頭の中には「尚白」の名もあったのだろう。その尚白が「近江は丹波にかえてもいいし、行春は行く歳にもかわる」なんて言ったのは、何とも皮肉なことだ。翌元禄4年秋には自撰句集『忘梅』の千那の序文をめぐって芭蕉と対立し、結局芭蕉の門を去っていった。大勢の人が芭蕉を慕って入門してくるが、その多くはやがて俳諧の方向性の違いから芭蕉のもとを離れて行く。特に、芭蕉は日々新しい俳諧を模索し、古い俳諧を否定してゆく中で、それについてゆけなくなった門人が脱落してゆく。そんなことを何度も繰り返して来た。最も、弟子の側からすれば、青春を芭蕉とともに過ごし、一世を風靡した作風には思い入れがあり、歳をとってもかつて芭蕉とともに時代をリードしたあの輝かしい日々の記憶を失いたくない、という気持ちだったのだろう。今日でいえば、ビートルズが青春だった世代が今のヒップホップについてゆけない、というようなものかもしれない。しかし、芭蕉は時代が変わると手のひらを返したようにもうあれは古い、これからはこれだ、という風に新しいものを求めてゆく。「『猿蓑』なんてもう過去のものだ。これからはもっと軽い句が流行る。」そう言われたとき、古い門人たちがついてこれなかった理由もわかる。
 其角、嵐雪、荷兮、路通、尚白、他にもたくさん去っていった門人たち、そんな中で数少ない芭蕉のもとに残った弟子の一人、去来に芭蕉が本当に言いたかったのは、近江の湖水朦朧の風景の中に去っていった弟子たちの姿を見て欲しいという思いが実はあったのではなかったか。

なお、『去来抄』には、越人に関係するものとして、「先師評」五(心の風雅)、「先師評」十一(落つきと重み)、「先師評」十六(類想のいましめ)などで収載されている。また、次のアドレスに下記のとおりそのプロフィールが紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/etsujin.htm

越人(明暦2年(1656)~没年不詳)
本名越智十蔵。『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮。『更科紀行』に同行し、そのまま江戸まで同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場する。芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある通り、実に好感を持っていた。『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜国を尋ねた時にも越人が同行し、かつ馬上で酔っ払ったことがある。
(越人の代表作)
霧晴れて桟橋(かけはし)は目もふさがれず  (『更科紀行採録』)
更科や三夜(みよ)さの月見雲もなし  (『更科紀行採録』)
山吹のあぶなき岨(そま)のくづれ哉  (『春の日』)
みかへれば白壁いやし夕がすみ  (『春の日』)
花にうづもれて夢より直(すぐ)に死んかな  (『春の日』)
藤の花たゞうつぶいて別(わかれ)哉  (『春の日』)
かつこ鳥板屋の背戸(せと)の一里塚  (『春の日』)
夕がほに雑水あつき藁屋哉  (『春の日』)
六月の汗ぬぐひ居る臺(うてな)かな  (『春の日』)
玉まつり桂にむかふ夕かな  (『春の日』)
山寺に米つくほどの月夜哉  (『春の日』)
行燈の煤けぞ寒き雪のくれ  (『春の日』)
下々(げげ)の下(げ)の客といはれん花の宿  (『あら野』)
おもしろや理窟はなしに花の雲  (『あら野』)
蝋燭のひかりにくしやほとゝぎす  (『あら野』)
雨の月どこともなしの薄あかり  (『あら野』)
名月は夜明るきはもなかりけり  (『あら野』)
はつ雪を見てから顔を洗けり  (『あら野』)
はつ春のめでたき名なり賢魚ゝ(かつおいお)  (『あら野』)
初夢や濱名の橋の今のさま  (『あら野』)
若菜つむ跡は木を割(わる)畑哉  (『あら野』)
むめの花もの氣にいらぬけしき哉  (『あら野』)
何事もなしと過行(すぎゆく)柳哉  (『あら野』)
つばきまで折そへらるゝさくらかな  (『あら野』)
あかつきをむつかしさうに鳴蛙  (『あら野』)
なら漬に親よぶ浦の汐干哉  (『あら野』)
柿の木のいたり過たる若葉哉  (『あら野』)
聲あらば鮎も鳴らん鵜飼舟  (『あら野』)
撫子や蒔繪書人(かくひと)をうらむらん  (『あら野』)
釣鐘草(つりがねそう)後に付たる名なるべし  (『あら野』)
ちからなや麻刈あとの秋の風  (『あら野』)
山路のきく野菊とも又ちがひけり  (『あら野』)
かげろふの抱(だき)つけばわがころも哉  (『あら野』)
はる風に帯ゆるみたる寐貌(ねがお)哉  (『あら野』)
もの數寄やむかしの春の儘ならん  (『あら野』)
花ながら植かへらるゝ牡丹かな  (『あら野』)
よの木にもまぎれぬ冬の柳哉  (『あら野』)
一方は梅さく桃の継木かな  (『あら野』)
から(殻)ながら師走の市にうるさヾい  (『あら野』)
七夕よ物かすこともなきむかし  (『あら野』)
夕月や杖に水(みず)なぶる角田川  (『あら野』)
天龍でたゝかれたまへ雪の暮  (『あら野』)
落ばかく身はつぶね共ならばやな  (『あら野』)
行年や親にしらがをかくしけり  (『あら野』)
妻の名のあらばけし給へ神送り  (『あら野』)
散(ちる)花の間はむかしばなし哉  (『あら野』)
ほろほろと落るなみだやへびの玉  (『あら野』)
たふとさの涙や直に氷るらん  (『あら野』)
何とやらおがめば寒し梅の花  (『あら野』)
君が代やみがくことなき玉つばき  (『あら野』)
月に柄をさしたらばよき團(うちわ)哉  (『あら野』)
雁がねもしづかに聞ばからびずや  (『あら野』)
うらやましおもひ切(きる)時猫の恋  (『猿蓑』)
稗の穂の馬逃(にが)したる気色哉  (『猿蓑』)
ちやのはなやほるゝ人なき霊聖女(れいしょうじょ)  (『猿蓑』)
※ちるときの心やすさよ米嚢花(けしのはな)  (『猿蓑』)
君が代や筑摩(つくま)祭も鍋一ツ  (『猿蓑』)
啼やいとヾ塩にほこりのたまる迄  (『猿蓑』)
稲づまや浮世をめぐる鈴鹿山  (『續猿蓑』)

これらの越人の代表作(※は『句兄弟』収載の句)を見ていくと、『更級紀行』での芭蕉との同行、芭蕉七部集の『春の日』・『あら野』・『猿蓑』などの入集状況などから見て、尾張蕉門のリーダー格であった荷兮よりも越人の方が、いわゆる「蕉門十哲」の一人として相応しいのかも知れない。ちなみに、この『猿蓑』に前後しての『ひさご』(珍碩編・元禄三年刊)の「序」は越人が草している。


(謎解き・七十九)

※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html二十八番

   兄 玄札
 泥坊の中を出(いず)るや蓮葉者
   弟 (其角)
 泥坊の影さへ水の蓮(はちす)かな

 この玄札は未詳の俳人だが、芭蕉七部集の『あら野』に出てくる尾張の俳人・玄察(げんさつ)であろうか。尾張の俳人・越人の次ということでそんな感じでなくもない。その『あら野』に収載されている句は次のとおりである。

  石釣(つり)でつぼみたる梅折(おり)しける (『あら野』)
  絵馬(えうま)見る人の後(うしろ)のさくら哉 (『あら野』)
  ほとゝぎす神楽の中を通りけり (『あら野』)

 この「蓮葉者」については、その判詞(自注)に、「はすはもの、蓮葉笠をかづきたる姿のみぐるしく、目立たるより云るか」とあり、「蓮葉女」(浮気で軽薄な女)のような意であろうか。「泥坊」も「放蕩者」の意があり、文字通り、「泥水」とが掛けられているものと解したい。兄(玄札)の句の意は、「この蓮葉者(浮気で軽薄な人)は、この泥水の中の蓮のように放蕩者の中から抜け出した」のような意か。弟(其角)の句の方は、「その放蕩者の影は、この泥水の中で、その影は定かではなく、その清らかな蓮のような風情である」と、兄の句と同じような句意なのであろう。『古今和歌集(三)』の「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(僧正遍昭)の「泥水の中に育ちながらその濁りに染まらない蓮の花の清らかさ」が背景にある句なのであろう。いずれにしても、両句とも分かり難い句である。その判詞(自註)の「泥坊といふ五文字の今とて用られるべきこそ」の「泥坊」の用例の面白さに着眼してのものなのであろう。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「尿糞の卑近な用例」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#kk

(「先師評」三十八)

38、 でつちが荷(にな)ふ水こぼしけり   凡兆(ぼんてう)
 初(はじめ)は糞(こえ)なり。凡兆曰、尿糞(ねうふん)の事申(まうす)べきか。先師曰、嫌(きらふ)べからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に改(あらた)ム。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,25)

 芭蕉にも

 蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと
 鶯の餅に糞する縁の先

という句があるように、糞尿を詠んではいけないなんて決まりはない。『荘子』にも「道はし尿にあり」という言葉があるように、この宇宙の真理というのはあらゆるところに宿るのだから、糞尿といえども軽んずることはできない。しかし、単に笑いを取るための、いわゆる「下ネタ」として糞尿を持ち出すとなると、やはりそればっかり何句もあると俳諧の品も落ちるだろう。
 百韻のなかでは元来ネタの重複を避けるため、別にネタのきれい汚いに関係なく、一座一句物という百韻に一回しか使えない言葉があった。若菜、山吹、つつじ、カキツバタなどが『応安新式(おうあんしんしき)』に記されている。俳諧の場合、俗語で作るため、雅語の連歌に比べて語彙も豊富で、はるかにネタは重複しにくい。
 だから、芭蕉が「百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」が果たして下ネタだから嫌っていったのかどうかはわからない。ただ、凡兆の句の場合、別にひっくり返したのが肥桶でなくても、水をこぼしただけでも面白いから、あえて糞(こえ)にこだわることはなかっただろう。糞でなくては意味が通らないような句なら、変える必要はあるまい。

(謎解き・八十)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十九番
   兄 女 秋色
 舟梁(ばり)の露はもろねのなみだ哉
   弟 (其角)
 船ばりを枕の露や閨(ねや)の外

 この兄の句の作者・秋色(しゅうしき)は、其角没後、其角の点印を譲られた其角門の第一人者の女流俳諧師であり、青流(後の祇空)らとともに其角の遺稿集『類柑子』(宝永四年刊)を刊行した(また、其角一周忌追善集『斎非時(ときひじ)』・七回忌追善集『石などり』も刊行した)。享保十年(一七二五)に五十七歳で没したという『名人忌辰録』(関根只誠編)の記事が正しいとするならば、元禄三年(一六九〇)に刊行された『いつを昔』(其角編)の時には、二十二歳と、天才・亀翁(十四歳)とともに、当時の其角門の若手の一角を担っていた。この秋色関連のネット記事は下記のアドレスのものが面白い。

http://www.o-sakaya.com/syuusiki1.htm

 さて、この秋色の「舟梁(ばり)の露はもろねのなみだ哉」の句は、「舟梁(和船の両舷側間に渡した太い間仕切りの材)の露は共寝を思いつつ待っているひとの涙である」というようなことであろう。それに対して、其角の「船ばりを枕の露や閨(ねや)の外」は、中七の「や切り」にして、典型的な二句一章のスタイルで、「船ばりを枕にして涙しているひとよ、閨の外であなたを恋しく思っている」というようなことであろうか。判詞(自註)の「枕のつゆもさしむかひたる泪ぞかしとこたへし也。返しとある哥の筋なるべし」と、兄の句への「返し句」の意なのであろう。この二句の背景は、下記の『去来抄』「和歌優美関連」などのような雰囲気である。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」二十三)

23、 猪(ゐのしし)のねに行(ゆく)かたや明(あけ)の月   去来
 此句(このく)を窺(うかが)ふ時、先師暫(しばら)く吟(ぎんじ)て兎角(とかく)をのたまハず。予思ひ誤(あやま)るハ、先師といへども帰り待(まつ)よご引(ひき)ころの気色(けしき)しり給はずやと、しかじかのよしを申(まうす)。先師曰、そのおもしろき処(ところ)ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿(いるしか)の跡吹(あとふき)おくる荻の上風(うはかぜ)とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄(まで)かけり作(さく)したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄(てがら)なかるべし。一句おもしろけれバ暫く案じぬれど、兎角詮(とかくせん)なかるべしと也。其後(そののち)おもふに、此句ハ、時鳥(ほととぎす)鳴つるかたといへる後京極の和歌の同案にて、弥ゝ(いよいよ)手柄なき句也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)

 平安時代の恋は夜に女の元へと男が通い、明け方には帰ってゆく。そのため、明け方は切ない別れを連想させる。

 明けぬとて野べより山へ入(いる)鹿の
    跡吹(あとふき)おくる萩の下風
           源左衛門督通光(みなもとのさえもんのかみみちみつ)

は鹿もまた秋には恋の季節を迎え、妻訪う鹿の夜に悲しげに鳴く風情に共感したものだ。
 去来の句はそれを鹿ではなく猪にして、「夜興引(よごひき)」つまり犬を使った夜の猟の句にして新味を出そうとしたのだろう。これによって明けの月の情はむしろ

    罪のむくいもさもあらばあれ
 月のこる狩場の雪の朝ぼらけ  救済(きゅうせい)法師

に近くなる。狩りで獲物を必死に追っていた人が、雪の夜明けのこの世のものとも思えぬような美しい気色に、ふと狩られる動物の気持ちがわかったような気がして殺生(せっしょう)の罪のことを気にかけるといったものだが、去来の句はその情に近い。
 去来はたぶんにこの句に相当の自信を持っていたのだろう。だから、芭蕉がこの句をしばらく吟じてみて良い返事がなかったので、最初は明け方の「夜興引」の情がわからないのかと思って説明したところ、むしろ「俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄(てがら)なかるべし。一句おもしろけれバ暫く案じぬれど、兎角詮(とかくせん)なかるべしと也」という、つまり俳諧にふさわしい新しさ、面白さに欠ける、という返事だった。要するに、今の言葉でいえばベタだということだ。
 それでも去来はすぐには納得しなかったのだろう。後になってこれは

 時鳥なきつる方を眺むれば
    ただ有明の月ぞ残れる
             藤原実定

の等類だということで納得した。
 しかし、芭蕉がこの句に物足りなさを感じたのは、自身に

 明けぼのや白魚(しらうお)白きこと一寸
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟(うぶね)哉

といった、同様の殺生の罪に目覚める句があったからではなかったか。狩が終わって猪がねぐらに帰ってゆく、その生命の脈動に共鳴したまではいい。そこに「明けの月」という古来より言い古された言葉を使ったことが面白くなかったのではなかったか。それが結局ベタということになってしまったのだろう。
 ところで、この最近よく使われるベタという業界言葉だが、これはおそらく俳諧で付きすぎることを嫌うところから来た言葉だろう。つまりベタッとついているベタ付けというところから派生した言葉だろう。
 しかし、狩場に明けの月は当時としては付きすぎだったにせよ、今日見れば狩場そのものが我々の日常から遠のいてしまったため、むしろ「猪の」の句はかえって新鮮な感じもする。少なくとも私はそんなに悪い句には見えないし、平凡には見えない。むしろ去来の傑作のひとつに数えてもいいように見える。

月曜日, 4月 23, 2007

柳ちりの巻 (延享・寛延年中、一七四四~一七五〇)



柳ちりの巻 (延享・寛延年中、一七四四~一七五〇)
                                                  
 宝暦二年(一七五二)、その前の年に京へ帰っていた蕪村は、三十七歳であった。この年の七月に、蕪村の関東時代の実質的な後見者であり、同じ巴人門の先輩に当たる結城の砂岡雁宕そして関宿の箱島阿誰(あすい)が編集した『反古衾(ほごぶすま)』が刊行された。この『反古衾』は、その「襖・冬の季語」の表題が示すとおり、歌仙の立句を含めて、冬の発句ばかり集めた撰集である。                       

 その撰集者の雁宕と阿誰は、関東における夜半亭巴人門の中心的人物で、蕪村の先輩筋に当たる俳人ということになるが、巴人没後は、江戸座俳人グループとの交流を深めていった。そして、この『反古衾』は、その江戸座俳人の有力者・馬場存義(李井・りせい)が、序を、小原旨原(百万・ひゃくまん)が跋を担当した。そして、若き蕪村は、釈として登場する。                                    
 ちなみに、山下一海氏によれば、蕪村の俳諧の生涯を、次の六つの時期に分けている。          

① 元文二年(二十二歳) 江戸日本橋本石町の夜半亭宋阿(巴人)門の入門。         
② 寛保二年(二十七歳) 六月六日、師・宋阿の没。                         
③ 寛保四年(二十九歳) 春、下野宇都宮にあって『歳旦帖』編纂。                
④ 寛延四年(三十六歳) 秋、江戸を離れ京へ。                           
⑤ 明和三年(五十一歳) 六月二日、寺村鉄僧の大来堂において三菓社発句会発表。    
⑥ 明和七年(五十五歳) 夜半亭二世継承                               

 この区分において、蕪村の関東出遊時代とは、①から④までの、約十四年の歳月ということになる。この間の寛延三年(一七四三)、蕪村、二十八歳の時に、下野の芦野の歌枕で有名な遊行柳を詠じた開眼の一句、「柳ちり清水かれ石ところどころ」が誕生する。この句は晩年の自撰句集に至るまで愛着を持ち続けた自信作でもあった。そして、この開眼の一句の初出が、実に、雁宕と阿誰の撰集の『反古衾』(蕪村・二句、李井・十四句、百百・十三句・阿誰七句の四吟)の発句として収められている。                           

一 柳ちり清水かれ石ところどころ(☆)           蕪村                       

発句、「清水かれ」で冬の句と思われるが、蕪村は「蕪村自筆句稿貼交屏風」等で、秋の部に収載しており、「柳ちり」(秋)を季語として意識していたと思われ、ここは「柳ちり」で秋の句。  
〔句意〕西行が、芭蕉が訪ねた、この下野の遊行柳も、今は、柳は散り、清水は涸れ、石がごろごろしているばかりだ。                                                                                                  

( 柳ちり清水かれ石ところどころ(☆) )                                
二 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月             李井                                                                   

脇句、「月」で秋。月の定座は五句目だが、ここに引き上げている。発句が、「山高ク月小ニシテ水落チテ石出ル」(蘇東坡・『後赤壁賦』)をベースにしており、このことを受けてか、李井も、「詩に吼る月」と漢詩的な付けである。                                      
〔句意〕その寒々とした光景の中を、馬に乗り、月に向かって、漢詩を吟じて行きます。                                                               

( 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月 )                                 
三 茶坊主を貰ふて帰る追出(おひだ)シに       百万                                                                   

第三、雑の句(心は、前句を受け秋の季)。「追出シ」とは、芝居などの終わりなどに、その打ち出す太鼓の合図のことらしい。第三は、転じの妙というが、一気に場面転換という感じである。 
〔句意〕芝居も追い出しの太鼓の合図だ。芝居小屋の茶坊主と一緒に、家にでも帰り、芝居の話の続きなどをしよう。                                                                                                   

( 茶坊主を貰ふて帰る追出(おひだ)シに )                               四 ざらりざらり(☆)と納屋のこのしろ(☆)          村                                                                   

オ・四句目、雑の句。一順して蕪村の付けである。前句に対する、その状況の時宣の付けであろう。 原本には、「このしろ」は「〓」の漢字が用いられている。                    
〔句意〕芝居小屋から、ざらり、ざらりと、鮗(このしろ)のようにくっついて芝居見物の人達が出てきます。                                                     

( ざらりざらり(☆)と納屋のこのしろ(☆) )                           
五 大汐に足駄とられし庭の面                 井                                                                   

オ・五句目、雑の句。月の定座だが、二句目に引き上げられている。「ざらりざらりと」からの大潮の連想であろうか。                                             
〔句意〕ざらりざらりと大潮が、庭まで来て、下駄を取られて、どうにも困りました。                                                               

( 大汐に足駄とられし庭の面 )                                     
六 枕かいって起す邯鄲(かんたん)              万                                                                   

オ・折端、雑の句。先ほど、李井の漢詩的な脇に対して、その漢詩のニュアンスにそっぽを向いた百万が、ここは、「邯鄲の夢・蘆生の夢」などの古事を基にして句にしている。          
〔句意〕庭先で、大潮に下駄を取られたように、ふっと、枕をかえったら、丁度、夢で人生の栄枯盛衰の無情さを知った邯鄲の夢のような思いに囚われて眠れませんでした。                                                                      

( 枕かいって起す邯鄲(かんたん) )                                
七 余所(よそ)へ出ぬ土用の中も冬に似て           万                                                                   

ウ・折立、「土用」で夏。前句の邯鄲の夢のような思いに囚われたことからの連想であろうか。 〔句意〕なに、邯鄲の夢に囚われた--、それは、この暑い土用の暑さの中を、まるで、冬籠りのように、一歩も外に出ないから、そんなことに囚われるのだよ。                                                                               

( 余所(よそ)へ出ぬ土用の中も冬に似て )                             
 八 陳皮(ちんぴ)一味に薬研(やげん)ごしごし(☆)     井                                                                   

ウ・二句目、その人の姿情などを説明している其人の付けであろう。「陳皮」とは、蜜柑の皮などを乾かして作る薬用品。「薬研」とは、薬種を細かな粉末にする道具のこと。            
〔句意〕冬籠りのように、まるで、土用籠りをしている人は、それは、陳皮などを、汗をふきふき、薬研で  ゴシゴシ粉末にしている様のようですね。                                                                                    

( 陳皮(ちんぴ)一味に薬研(やげん)ごしごし(☆))                        
九 墨の手で拭(のご)ふ涙の手習ひ子             井                                                                   

ウ・三句目、雑の句。蕪村が抜けて李井と百万との両吟による進行なのだが、李井の,この句、前句とは、似ても似つかない、ほのぼのとした句に仕立てている。                   
〔句意〕薬研でゴシゴシしている様ね--、それは、手習い子が、墨の付いた手で、ゴシゴシ、涙を吹いている様にも思われますね。                                                                                            

( 墨の手で拭(のご)ふ涙の手習ひ子 )                                
 一〇 死ンだ雀を竹に埋(うめ)けり               万                                                                   

ウ・四句目、雑の句。抒情的な句に抒情的な付けである。                        〔句意〕その手習い子の腕白小僧は、死んだ雀を、やさしく、竹の根元に埋めてやりました。                                                        

( 死ンだ雀を竹に埋(うめ)けり )                                 
一一 萩すゝきひしこ(☆)の培(こえ)に色ぞよき        万                                                                   

ウ・五句目、「萩薄」で秋。「ひしこ」は背黒鰯の子供で、肥料の材料。原本は「異体字」の漢字。   〔句意〕竹の根元に、雀を埋めて肥やしになったように、ここの萩と薄は、ひしこの肥やしで、実に色が鮮やかです。                                                                                                   

( 萩すゝきひしこ(☆)の培(こえ)に色ぞよき )                            
一二 休意とついて楽らく(☆)の秋                井                                                                   

ウ・六句目、「秋」で秋。萩と薄からの連想の付けであろうか。「休意」とは、心を安んじること。 
〔句意〕萩と薄の風情のある所で、心を安んじて、安楽の秋を堪能しております。                                                      

( 休意とついて楽らく(☆)の秋 )                                 
一三 釜の坐にやつを隠して後の月                井                                                                   

ウ・七句目、「後の月」で秋。月の定座は次句であるが、一句引き上げている。恋の呼び出しの句とも。
〔注・「釜の坐」は京都三条通新町西入の町名で「かまんざ」との頭注がある。〕     
〔句意〕陰暦九月十三日の後の月の、安楽の秋を堪能なさっている方は、京都の釜の坐の別宅に、大事な人を。  

 ( 釜の坐にやつを隠して後の月 )                                    一四 酒で嗽(すすぐ)も床のたのしみ               万                 

ウ・八句目、雑の恋の句。月の定座は、前句に引き上げられている。                
〔句意〕その大事なお方と月見の後、お二人で酒を使って口を嗽ぎながら、お床でお楽しみになるのでしょう。

( 酒で嗽(すすぐ)も床のたのしみ )                                
一五 三途(さんず)川たばこに酔ふて渡る也           万                                                                   
ウ・九句目、雑の句。恋句は二句続けるとすれば、ここは、恋句か。                 

〔句意〕どうも、楽しみ過ぎて、三途の川を、煙草に酔って、ふらふら渡るような有り様でした。                                                          

( 三途(さんず)川たばこに酔ふて渡る也 )                               
一六 花には去らぬ毛氈の蛇                     井                                                                   

ウ・十句目、「花」で春。花の定座は次句だが、ここに引き上げている。                〔句意〕三途の川を、煙草に酔って渡るとは、それは、丁度、花見の席の赤い毛氈の所を、ここが良いと、そこを一歩も退かない蛇のようですね。                                                                                    

( 花には去らぬ毛氈の蛇 )     
一七 山吹に莚(むしろ)下ゲたる厠(かはや)の戸        井                                                                   

ウ・十一句目、「山吹」で春。花の定座だが、前句に引き上げられている。               〔句意〕その図々しい蛇に比べて、この山中の貧しい家の厠には、人目をはばかるように筵が下げられている。その脇の山吹が美しい。                                                                                           

( 山吹に莚(むしろ)下ゲたる厠(かはや)の戸 )                            
一八 つれづれ(☆)読(よみ)の笠も幾春             万                                                                   

ウ・折端、「春」で春。「つれづれ読」は、徒然草の講釈師の類であろうか。              〔句意〕その山中のあばら屋の、徒然草の講釈師の笠も古ぼけて、みるからに年輪を感じさせる。そして、また、幾度目かの春が来た。 

( つれづれ(☆)読(よみ)の笠も幾春 )                              
一九 橋守が人形売(うる)も古風なり                井                                                                   

ナオ・折立、雑の句。隠栖者から橋守の連想か。                           
〔句意〕その山中のあばら屋の徒然草の講釈師とどこか趣が似かよっているのだが、橋守をしながら人形を売っている人もいる。そして、それらの姿は、何やら古風で、何やら風情がある。                                                            

( 橋守が人形売(うる)も古風なり )                                  
二〇 振らする後へふらぬ大名                  阿誰                                                                   

ナオ・二句目、雑の句。ここで、阿誰が加わり、三吟となる。阿誰の最初の句、なかなか、意味の取り辛い句である。橋を大名行列が通っていくということからの其場の付けであろうか。    
〔句意〕その橋を、賑やかに、槍を振りながら行く大名がいるかと思えば、静かに、槍など振らず通り過ぎる大名もいる。それぞれ十人十色だ。                                   

( 振らする後へふらぬ大名 )     
二一 清水(きよみづ)も十日の上野ことさらに          万                                                                  

ナオ・三句目、雑の句。「清水」は、上野寛永寺の清水堂のこと。                   〔句意〕大名行列の賑わいといえば、この十日の花の盛りの頃は、上野寛永寺の清水堂の辺りも、非常な賑わいになりますね、                                                                                               

( 清水(きよみづ)も十日の上野ことさらに )                              
二二 唐縮緬のすみ染の尼                      井                                                                 

ナオ・四句目、雑の句。前句の「ことさらに」などの言葉のあやによる起情の付けと思われる。 〔句意〕花の盛りに終わりがあるように、その人も、唐縮緬などを着て華やかな時もあったが、今では、すみ染めの尼の姿になってしまいました。                                  

( 唐縮緬のすみ染の尼 )                                      
二三 松風と共に経る世のゆがみ形(な)リ             誰                                                                 

ナオ・五句目、雑の句。前句の人の姿情を見定め付ける其人の付けか。              〔句意〕その尼の人は、浜の松風を聞きながら、日々の暮らしをするまでに、生活が一変してしまいました。                                                   

( 松風と共に経る世のゆがみ形(な)リ )                              
 二四 面ンをかぶって掛乞(かけごひ)に逢ふ          万                                                                 

ナオ・六句目、雑の句。「掛乞」は、借金取りのこと。                        
〔句意〕その日暮らしの貧乏暮らしで、外に出ましたら、生憎と借金取りに出会っちゃいまして、思わず、面を被って、その場をしのぎました。                                                                                        

( 面ンをかぶって掛乞(かけごひ)に逢ふ )                             
二五 酒毒とてなかがひ(☆)ほどに出来にけり          井                                                                 

ナオ・七句目、雑の句。前句の「面ンをかぶって」からの連想であろう。原本には「なかがひ」は「異体字」の漢字。                                  
〔句意〕面を被ったのは、借金逃れではなく、酒の毒で、大きなおできが出来て、それで、面を被ったのでしょう。                                                                                                    

( 酒毒とてなかがひ(☆)ほどに出来にけり )                              
二六 眠るうなゐに神おはします                  誰                                                                 

ナオ・八句目、雑の句。「うなゐ」は、髪をうないにした幼子のこと。前句の人物に別人をもってくる向付であろう。                                              
〔句意〕親父は、酒毒でどうしょもないが、その幼子は、髪をゆないにしていて、すやすやと眠っていて、まるで、神様が側にいるようです。                                                                                         

( 眠るうなゐに神おはします )                                   
二七 夕蝉に土間で糸とる藁庇(わらびさし)           万                                                                 

ナオ・九句目、「夕蝉」で夏。親父、幼子ときて、その母親を出す向付か。               〔句意〕親父は酒毒、その幼子は神様のように眠っている。そして、その母親は、貧しい藁庇の家で、一心不乱に、糸を紡いでいます。どこからか夕蝉の声がします。                                                                           

( 夕蝉に土間で糸とる藁庇(わらびさし) )                               
二八 泣せて恋をしたる説教                    井                                                                 

ナオ・十句目、雑の恋の句。その母親の姿情を見定める其人の付けであろう。「説教」は中世に流行した説教節との類と思われる。
〔句意〕中世に流行した説教節にもあるではありませんか、「ホロリと泣かせて恋をした」とね-、あの糸を紡いでいる人は、あの酒毒の男の口説きにあって、ほろりとさせられて、それでいい仲になったのですよ。

( 泣せて恋をしたる説教 )                                     
二九 月影をよぎ(☆)ともおもふ仇まくら               誰                                                                 

ナオ・十一句目、「月影」で秋。月の定座での恋の句。原本の「よぎ」は、「異体字」の漢字。       〔句意〕その恋し合った二人は、月の美しい夜、その月影を夜着として、かりそめの一夜を過ごしたのです。                                                   

( 月影をよぎ(☆)ともおもふ仇まくら )                                
三〇 鎧のうへに米を背負フ露                   誰                                                                 

ナオ・折端、「露」で秋。これも、現在の境涯を句にしている時宣の付けであろう。          〔句意〕今では、その二人は、落武者が、鎧の上に米を背負って、荒野の露に濡れながら歩いているさまに似ています。                                                                                                   

( 鎧のうへに米を背負フ露 )                                    
三一 道閉(とづ)る戎境(えびすざかひ)の岩もみぢ      万                                                                 

ナウ・折立、「岩もみぢ」で秋。前句の落武者からの連想であろう。                  〔句意〕その落武者達の行手には、それは、人の住まわぬような辺境で、岩紅葉が幾重にも重なり、完全に道を閉ざしているのでした。                                                                                           

( 道閉(とづ)る戎境(えびすざかひ)の岩もみぢ )                           
三二 笹折敷(をりしき)て坐禅する僧               井                                                                 

ナウ・二句目、雑の句。落武者に対して座禅する僧をもって付ける向付であろう。         〔句意〕その苦難の落武者達と同じように、こちらの座禅僧も、これまた、笹を折り、それを敷いて、その上 の大変な苦行であります。                                                                                           

( 笹折敷(をりしき)て坐禅する僧 )                                
三三 剃刀に反古(ほうご)の文字の錆付(つき)て        誰                                                                 

ナウ・三句目、雑の句。ここは、関連するもので軽くあしらっている会釈の付けか。        
〔句意〕その座禅僧の痛ましい姿は、それは、剃刀に錆びたまま付いている反古紙の文字のように、もう、どうにもならない状況です。                                                                                           

( 剃刀に反古(ほうご)の文字の錆付(つき)て )                            
三四 波も俗なる湯屋の彫物                    万                                                                 

ナウ・四句目、雑の句。これも前句と同じように、会釈の付けと思われる。               〔句意〕その、どうしょうもない姿は、風呂屋の、あの俗ぽい、松とか波の彫り物と同じで、これは様になりませんね。                                                                                                   

( 波も俗なる湯屋の彫物 )                                     
三五 芝居見む花に云(いひ)し雨のひま             井                                                                 

ナウ・五句目、花の定座で、「花」で春。どうも、終盤にきて、其人付け、会釈の付けとかに終始したきらいもあり、その反省もこめ、遁句的な、最後の花の句とも解せられる。            
〔句意〕どうも、湿っぽい話ばかりで、雨もやみました。どうです--、花見と洒落て、その道筋で、芝居でも見物して、派手に、これまでの憂さでも晴らしませんか。                                                                           

( 芝居見む花に云(いひ)し雨のひま )                            
三六 小鮎を詰(つめ)てぬぐふ重箱                 誰

ナウ・挙句、「小鮎」で春。前句の句勢にぴったりの、拍子付けの挙句と解したい。
〔句意〕そうだ。そうだ。花見と、芝居見物と・・・、それは素晴らしい。さてと、小鮎を重箱に入れてね・・・、あれ、小鮎の出汁が・・・、それを拭ってと・・・、芝居よりも、花よりも、酒と小鮎と・・・、花より団子だね。

蕪村の連句(序)



 
  蕪村の連句(序)                                    

 俳諧史上三大俳人といわれる芭蕉・蕪村・一茶の俳句(発句)の数は、井本農吉著の『芭蕉とその方法』(「連句の変化とその考察」)によれば、芭蕉・約一千句、蕪村・約二千八百五十句、そして、一茶は、実に、約一万八千句という。そして、これが連句(俳諧)になると、芭蕉・約三百八十巻、蕪村・約百十二巻、そして、一茶二百五十巻となる。続けて、同著によれば、「大雑把であり伝存の限りのことだが、連句に対して発句の比重の高まる大勢は察せられる」としている。                                

 芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、明治に入り、正岡子規の俳句革新によって、俳諧(連句)が葬り去られる以前において、俳諧(連句)から俳句(発句)へという道筋は、ほぼはっきりとしていたということであろうか。

 これらのことに関して、丸山一彦氏は、「蕪村を契機として、それ以後になると兼題(けんだい)・席題( せきだい)による発句の会が盛んとなり、連句の制作というのはむしろ敬遠される傾向にあり、一茶の連句になると、芭蕉や蕪村のそれと比べて付味も粗雑で作品としても整っていない」との指摘もしている(丸山一彦・「一茶集・連句編」・『完訳日本の古典 蕪村・一茶集』所収)。          

 ということは、俳諧(連句)というものは、芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、それは、蕪村までで、それ以降のものは、芭蕉の俳諧(連句)鑑賞ほどに、その鑑賞に耐えるものは、ほとんど存在しないということがいえるのであろうか。                    

 それにしても、これら三人の俳句(発句)に関する鑑賞・解説の類はほぼ完備されつつあるのに比して、こと連句(俳諧)のそれになると、これは、芭蕉を除いて甚だ未開拓の分野といわざるを得ないのである。蕪村の連句(俳諧)のそれにしても、その全体像を明らかにし、それに、やや詳細な校注を加えたものは、昭和五十年代の、大谷篤蔵・岡田利兵衛・島居清校注・『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)においてであった。そして、個人で、これらの鑑賞・解説の類の、ほぼ全容にわたって挑戦したものは、わずかに、これも、昭和五十年代の、野村一三著『蕪村連句全注釈』を数える以外に、それを例を見ない。                    

 そして、『蕪村集 一茶集』(暉峻康隆校注・完訳日本の古典58)の「蕪村 連句編」などで、芭蕉とは異質の、高踏的な文人趣味の、いわゆる蕪村調の連句(俳諧)の幾つかについて、それをかいま見るだけで、この文献の少なさが、逆に、無性に、蕪村一派のそれを見たいという衝動にかられてくる。            

 と同時に、これらの蕪村の連句(俳諧)の文献に接してみると、必ずや、昭和の初期の頃刊行された、潁原退蔵編著・『改定 蕪村全集』につきあたる。この著書の、この分野に与えた影響は、それは想像以上に大きなものがある。しかし、その原著に直接接するということも、その刊行以来、半世紀以上が立つ今日において、これもまた、はなはだ困難な状況にあるということも認めざるを得ない。                    

 また、蕪村一派の俳諧(連句)といわず、その一派の俳句(発句)の魅力にとりつかれると、どうしても、これまた、その発句に対すると同程度の連句の世界をかいま見たいという衝動にかられてくるのである。そして、夜半亭二世を継ぐ与謝蕪村は、夜半亭一世宋阿(早野巴人)そして夜半亭三世を継ぐ高井几菫とその周辺の俳人達には、実に、興味を駆り立てる群像が林立しているのである。                      

 いや、それだけではなく、蕪村の連句(俳諧)を知るということは、これは、芭蕉の連句(俳諧)が、どのように変遷していったのかか、さらにはまた、連句(俳諧)が省みられなくなった今日において、その連句(俳諧)の再生ということは可能なのであろうか等の問題点について、何かしら解答が、その中にあるような予感がしてならないのである。                                 
このような観点から、そしてまた、「芭蕉に帰れ」と中興俳諧の中心人物となった蕪村とその周辺の俳人達の群像はどうであったのか、そんなことを問題意識にしながら、蕪村の連句(俳諧)の概括を試みることとする。 この蕪村の連句(俳諧)の概括するに当たっては、その全体像の百十二巻のうちの五十六巻について頭注等を施している、この分野の唯一の古典たる潁原退蔵編著の『改定 蕪村全集(昭和八年改定増補版)』をその中心に据え、その私解的鑑賞を試みることとする。                

 (参考文献)                                           
① 『改定 蕪村全集』・潁原退蔵編著・更生閣・昭和八年改定増補版                ② 『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)・大谷篤蔵・岡田利兵衛・鳥居清校注・集英社・昭和五〇     
③ 『蕪村連句全注釈』・野村一三著・笠間書院・昭和五〇
④ 『蕪村集 一茶集』(完訳日本の古典58)「蕪村 連句編」・暉峻康隆校注・小学館・昭和五八    
⑤ 『座の文芸 蕪村連句』・暉峻康隆監修・小学館・昭和五三                    
⑥ 『此ほとり 一夜四歌仙評釈』・中村幸彦著・角川書店・昭和五五                                
 (補注)                                             
① 参考文献の校注等については、右の文献等から適宜取捨選択をしており、必ずしも、統一はされていない。 また、⑤の『此ほとり 一夜四歌仙評釈・中村幸彦著』など、詳細な解説がなされているものは、極力、その 著書からの引用するように心がけている。                              
② 特殊文字等の幾つかについて、平仮名を使用している。その箇所については、☆印を付している。