金曜日, 5月 18, 2007
其角とその周辺(その九・八十一~九十)
画像:井原西鶴
(謎解き九)
(謎解き・八十一)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十番
兄 春澄
草刈や牛より落ておみなえし
弟 (其角)
牛にのる娵御(ヨメゴ)落すな女郎花
この兄の句の作者、春澄(はるずみ)は京都の俳人である。承応二(一六五三)~正徳五(一七一五)。青木氏。別号、印雪子・素心子・春隈・貞悟・甫羅楼。延宝六年には江戸で芭蕉らと交流し『江戸十歌仙』を刊行。宝永(一七〇四~一一)ごろ、貞徳嫡伝四世貞悟を歳旦帖を刊行している(『俳文学大辞典』)など。其角との接点は、貞享元年(一六八四)の上京の時で、この年に、二十四歳の其角は春澄らの京都の俳人と座を同じくして、『蠧(しみ)集』という俳諧撰集が京都で刊行される。この『蠧集』所収の世吉(よよし・四十四句形式の連句)に其角・春澄の名が、その連衆の名の中に見ることができる(田中・前掲書)。この『蠧集』の書名の由来は、「句を干(ほし)て世間の蠧(しみ)を払ひけり」の、その世吉の発句によるとのことであり、当時の最先端の信徳らの「京都五歌仙」ともいえるものであるという(田中・前掲書)。その「田中・前掲書」によれば、この年(貞享元年)に、芭蕉を迎えた荷兮らの名古屋の俳人が『冬の日』(芭蕉七部集の第一集)を刊行し、この『冬の日』の副題が「尾張五歌仙」で、それは『蠧集』の「京都五歌仙」を意識してのものであるという。そして、其角が、その「京都五歌仙」に、芭蕉が、その「尾張五歌仙」に、江戸からの旅中に参加しているということは、やはり特記すべきことなのであろう。
さて、この春澄の句は、其角の「判詞」(自注)に、「京流布の一作」(京の俳人達に流布した一作)とあり、評判の一作であったのであろう。句意は、「草刈りの男が、美しい女性の名を冠している女郎花を見て牛より落ちてしまった」と、「判判詞」(自注)にある「遍照の馬を引かえて」の、「名にめでておれる許ぞおみなえし我おちにきと人にかたるな」(「さがのにて、むまよりおちてよめる」の詞書あり。『古今和歌集(巻第四・秋)』・「僧正遍照」)が背景にあるという(夏見知章他編著『句兄弟上・注解』)。それに対して、其角のこの弟の句は、その「馬より落ちた」ところの遍照の本歌取りの世界とは全然関係なく、それを本歌取りした春澄の「牛より落ちた」句を本句取りしての、「牛にのる娵御(ヨメゴ)落すな女郎花」と、「パロディ」の「パロディ」と、二重にも三重にもした換骨奪胎の一句なのである。さらに、この「判詞」(自注)には、「是等は俳諧の推原(原=モトヲ推ス)也」とあり、ここは、『去来抄』ならず、『三冊子』「白さうし」の次の一節と関係しているようなのである。
○名にめでゝ(て)お(を)れるばかりぞ女郎花
我落(おち)にきと人にかたるな
この哥僧正遍照、さが野の落馬の時よめる也。俳諧の手本なり。詞いやしからず、心ざれたるを上句とし、詞いやしう、心のざれざるを下の句とする也。
これらのところを、『去来抄』でするならば、次のアドレスの、『去来抄』「修行」(「俳諧の基」)などが関係してくるのであろう。
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#a
(「修行」二)
2、魯町曰(ろちゃういはく)、俳諧の基(もとゐ)とはいかに。去来曰、詞に言ひ難し。凡(およそ)吟詠する物品(しな)あり、歌は基也(もとゐなり)。其内(そのうち)に品有(しなあ)り、はいかいも其一也(そのひとつなり)。其品々(そのしなじな)をわかち知らるる時は、俳諧連歌は如斯物也(かくのごときものなり)と自(おのづか)ら知らるべし。それを不知(しらざる)宗匠達、俳諧をするとて、詩やら歌やら旋頭(せどう)・混本(こんぽん)やら知れぬ事を云へり。是等(これら)は俳諧に逢ひて、俳諧連歌といふ事を忘れたり。はいかいを以(もつ)て文を書(かか)ば俳諧文也、歌を詠(よま)ば俳諧歌也、身に行はば俳諧の人也、只徒(ただいたづ)ラに見(ケン)を高うし古(いにし)へを破り、人に違(たが)うを手柄貌(てがらがほ)に仇言(あだごと)いひちらしたるいと見苦し。かく計(ばか)り器量自慢あらば、俳諧連歌の名目(みゃうもく)をからず、俳諧鉄砲(てっぱう)となりとも乱声(らんじゃう)と成りとも、一家の風を立(たて)らるべき事也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,61~62)
「俳諧の基(もとゐ)とは何か」というのは難しい質問で、今日で言えば、ロックとは何かというようなものだ。ロックとは何かといっても、エレキギターなどを用いたバンドでエイトビートのリズムを持つ音楽、などというのは何の説明にもなっていない。アイドルグループの演奏するその手の歌謡曲はいくらでもあるし、演歌だってエイトビートで演奏されることはある。また、ロックだってシックスティーンビートの曲もあれば八六拍子の曲もあるし、もっと複雑な変拍子の曲もある。エレキを使わずにアンプラグドで演奏されることもあれば、バンド形態を取らないDJのサンプリングによるヒップホップも広義のロックに入る。結局はロックスピリッツを持ったものがロックだということになる。
俳諧もそれと同じで、俳諧スピリッツを持つものが俳諧だといっていいだろう。俳諧スピリッツがあれば、歌を詠んでも俳諧歌であり、文章を書けば俳文、絵を描けば俳画となる。いわば、平和を愛し、命を尊重し、花鳥風月を楽しみ、風雅の世界に遊ぶことで、日常の生存競争のぎすぎすした雰囲気を和らげようとする心があれば、句を詠まずとも俳諧だといっていいだろう。
人間は生き物である以上、過酷な生存競争からは逃れられないため、生きようという意志が強ければ強いほど、生きるということに真剣になればなるほど、結局は生存競争を激化させ、人生を過酷で殺伐としたものにする。これを防ぐのが「遊び」の役割で、原始的な社会にも歌や踊りがあり、祭りがあるように、「遊ぶ」ということは人類が日々を万人の万人に対する殺伐とした闘争状態から開放する唯一の手段でもあった。ただし、一人だけが遊んでいれば、その人は結局生存競争の敗者になってしまうし、一社会集団だけが遊んでいれば、遊ばない他の集団に負けてしまう。そこで「遊び」は実は軍縮と同じで、みんなで一斉にやらなければ意味がない。つまり遊びが社会的に価値のある行為であることを、みんなが等しく認めなければ、遊びの文化というのは廃れてゆくことになる。その共通の価値観は、かつては宗教的なものに支えられていたが、それが江戸時代の大衆文化の中で、宗教的権威から独立したのが俳諧スピリッツだと言っていいだろう。連歌(れんが)で神祇(じんぎ)・釈教(しゃっきょう)やあるいは述懐(しゅっかい)が重要だったのは、連歌の遊びの精神が中世の顕密(けんみつ)仏教とそれと習合した神祇信仰の権威と結びついていたからであり、神祇・釈教などのテーマが廃れたのは江戸時代の俳諧がそうした宗教的権威の衰退と、都市の文化の独立を反映しているからだといっていいだろう。
今日でもロックは宗教だという人がいるが、その意味では俳諧も宗教だといえるかもしれない。それは教団も教義もない、大衆の自発的な宗教であり、いわば、単に勝つことだけを願うのではなく、人生をより豊かで楽しいものにしようという自発的な生存競争の軍縮運動であり、それはおそらく、すべての大衆芸術の精神に共通するものだろう。それゆえに俳諧の精神は不易であり、俳諧が廃れても、今日ではロックなどのポップカルチャーにその精神は引き継がれている。
俳諧は近代の「俳句」と違って、本来発句だけでなく、付け句を含む俳諧連歌を指す。その意味で、漢詩や和歌や旋頭歌などとは区別される。ただし、それは狭義の俳諧であって、俳諧の心を持って漢詩を作れば、それは俳諧詩であり、俳諧の心で和歌を作れば、俳諧歌となる。逆に言えば、漢詩や和歌は俳諧の心がないから漢詩・和歌であり、何が違うかというと、それらももちろん最初は庶民のものだったのだが、結局は政治的に支配の道具として利用されてきた歴史があり、純粋な大衆の偽らざる心情の表現ではない。それゆえ、和歌や漢詩を引き合いに出して、もっともらしい理窟をつけている宗匠たちは、本当の意味での俳諧をわかっていないといってよい。その意味では、何やら西洋流の哲学を持ち込んで、わけのわからない理屈をこねて俳句とはかくあるべし、詩とはかくあるべしなどと言っている近代の文学者も同罪といえよう。
「只徒(ただいたづ)ラに見(ケン)を高うし古(いにし)へを破り、人に違(たが)うを手柄貌(てがらがほ)に仇言(あだごと)いひちらしたるいと見苦し。」
この言葉は今日の結社とかで文学をやっている人間に、そのまま当てはまるから面白い。結局文学には権力の文学と大衆の文学の二つしかないのだろうか。
(謎解き・八十二)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十一番
兄 来山
早乙女やよごれぬものは声ばかり
弟 (其角)
さをとめや汚れぬ顔は朝ばかり
小西来山(一六五四~一七一六)については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。
http://www.kusuri-doshomachi.gr.jp/hito/hito8.html
○大坂を代表する談林派の俳人。
淡路町の薬種商 小西六左衛門家に生まれる。(承応3年) 七つの頃から、談林派の西山宗因門下 前川由平に書画俳諧を学び、 その後、宗因の直弟子となる。 家業を弟に譲り、18歳で俳諧点者となった。 初号を満平と号し、後に来山・湛翁と改号、上島鬼貫らとともに、大坂での談林派の興隆に大きな功績を残した。
談林派は、それまでの松永貞徳による貞門派の古風で詩情に乏しい俳風を脱し、軽妙洒脱な清新さを持つ句風で一世を風靡した。有名な句として次のようなものがある。
『門松や冥土の旅の一里塚』
『お奉行の名さへ覚えず年暮れぬ』
『時雨るるや時雨れぬ中の一心寺』
しかし来山の作品は、談林派の洒脱な一面とともに、自然のありさまを繊細な感覚でとらえ松尾芭蕉に通じる次のような蕉風に近い句もある。
『行水も日まぜになりぬ虫の声』
『白魚やさながら動く水の音』
黄檗の南岳悦山(黄檗七世)に参禅し、大坂三郷外の今宮に「十萬堂」という庵を建てて、風月を友に酒を愛し、飄々とした人生を送った。※「十萬堂」は昭和20年戦災により焼失。現在、石碑が建てられている。享保元年10月、63歳で死去。一心寺に供養墓と句碑が建立されている。また今宮戎神社の隣の海泉寺には来山夫婦の墓がある。
さて、この来山の句については、「鶯はゐなかの谷の巣なれども訛びたる音をば鳴かぬなりけり」(西行『山家集』)の本歌取りの句という。その來山の句を本句取りにしての、其角の弟の句は、「今朝だにも夜をこめてとれ芹河や竹田の早苗節立ちにけり」(『続古今和歌集』第三・夏歌)を本歌取りしてのものに一変したというのである。これらのことに関して、その「判詞」(自注)に、「兄 うぐひすは田舎のたにのすなれどもだびたる声はなかぬなりけり」、「弟 今朝だにも夜をこめてとれ芹川や竹田の早苗ふしだちにけり」と、その「本歌取り」の「本歌」を紹介しているのである。句意は、兄の句は、「早乙女の汚れぬものは声だけで、後は泥んこである」ということで、弟の句は、「早乙女の顔は、朝だけは汚れていないが、後は泥んこである」ということなのであろう。この二句を比較しただけでは、これは、兄弟句というよりも、弟の句は兄の句の類想句という誹りは免れないであろう。しかし、これは、本歌取りの句であって、その本歌は、兄の句と弟の句とでは、全然別なのだと開き直られると、これも兄弟句と解しても差し支えないのかとも思えてくる。要は、其角流にするならば、その換骨奪胎も、「類想句の誹りを受けない」だけの、理論武装をして作句しなさいということなのかも知れない。そのことと併せ、『去来抄』の「類想のいましめ」関連の、次のアドレスに出てくるようなことについて、十分に配慮して作句しなさいということなのであろう。その紹介のアドレスだけを、下記に記しておきたい。
『去来抄』「先師評八」(類想のいましめ・その一)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g
『去来抄』「先師評十」(類想のいましめ・その二)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#i
『去来抄』「先師評十六」(類想のいましめ・その三)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#o
『去来抄』「同門評十二」(等類と同巣・その一)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#k
『去来抄』「同門評三十五」(等類と同巣・その二)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#hh
『去来抄』「同門評二十四」(等類をめぐって・その一)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#w
『去来抄』「同門評二十八」(等類をめぐって・その二)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#aa
(謎解き・八十三)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十二番
兄 柴雫
傘持は大根ねらふ子日哉
弟 (其角)
傘持はつくばひ馴し菜摘哉
この兄の句の作者、柴雫(さいか)関連で、『田中・前掲書』には、次のとおりの記述が見られる。
○芭蕉の門人である鳴海の知足の日記の貞享五年九月十七日の条に、「江戸其角御こし。晩に荷兮方に参られ候」(森川昭『千代倉日記抄一三』)、「俳文芸四四」)と記されている。この日の夜、其角は荷兮の家に泊まった。この後美濃国関の素牛(後の維然)、伊勢国久居の柴雫(さいか)を訪れ、十月二日には膳所の水楼において曲水(曲翠)らと風交を楽しんだ(『いつを昔』)。右の足跡から分かるようにこの時の旅では其角は、芭蕉が切り開いたいわば蕉門ルートをたどっている。柴雫と芭蕉の関係は不明だが、柴雫は『いつを昔』(元禄三)に入集した後、其角派の主要俳人として活躍しており、其角門人の独吟歌仙を集めた『末若葉(うらわかば)』(元禄十)の作者の一人である。おそらく元禄初年頃からは一時江戸に住んだのであろう。
さて、この柴雫の兄の句は、「傘持」と「子(ね)の日」の句で、その判詞(自注)を見ると、「若菜つむ大宮人のかりころもひもゆふぐれの色やみゆらむ」(『順徳院御集』)の本歌取りの滑稽化であるという(『夏見・前掲書)。それに対して、其角の弟の句は、和歌のもつ雅の風情を残しがら、兄の句の「傘持たる丁(ヨボロ)のさま」を、「ねらふ」から「つくばひ馴し」と言いかえることによって、新しい情感を表現しているという(『夏見・前掲書)。「つくばひ馴し」というのは「しゃがみ馴れしている」という意で、兄の句の「大根ねらふ」の俗語よりも雅語(和歌の持つ雅の風情を有している語)だと、其角はするのだが、この二句を並記して鑑賞すると、やはり、この「つくばひ馴し」が、どうにも、「作り過ぎ」(いじくり過ぎ)という感がしないでもないのである。そして、其角の洒落風の意味不明の謎句には、この『句兄弟』にあるような「判詞」(自注)が施されていないので、其角の謎句として有名な、「まんぢう(ぢゆう)で人を尋ねよ山ざくら」の句に関して、去来が指摘している、「我一人合点したる句也」ということで、要注意のものとして、其角を理解をする上では心しなければならないことのように思えるのである。この其角の謎句関連については、次のアドレスの、『去来抄』(「同門評」三十)ものが参考となる。
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#cc
(「同門評」三十)
30、 まんぢうで人を尋ねよ山ざくら 其角(きかく)
許六曰(きょりくいはく)、是(これ)ハなぞといふ句也(くなり)。去来曰、是ハなぞにもせよ、謂不応(いひおほせず)と云(いふ)句也。たとへバ灯燈(ちゃうちん)で人を尋よといへるハ直(ぢき)に灯燈もてたづねよ也。是ハ饅頭(まんぢゅう)をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂(いへ)る事を、我一人合点(われひとりがてん)したる句也。むかし聞句(ききく)といふ物あり。それハ句の切様(きりやう)、或(あるい)ハてにはのあやを以(もつ)て聞(きこ)ゆる句也。此(この)句ハ其類(そのたぐひ)にもあらず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,41~42)
謎めいたものというのは不思議と人を惹きつける力がある。わかりやすい文章というのは、「ああなるほど」で終わってしまうが、意味がよくわからない文章というのはかえって「何だろう」とついつい考えてしまい、結果的に長く心に留まることがある。夥しい数のクイズ番組、パズルゲーム、推理小説、人は結局いつでも何か適度に頭を働かすことを楽しみ、そしてそれが解けたときには、ちょうど苦労して山頂に立ったような快感を覚える。それゆえに、言ったとおりの意味しかない句より、多少謎めいた句のほうが好まれるのだろう。
ある意味で、最も成功した謎句は、あの古池の句かもしれない。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
句自体の意味は明瞭だが、果たして古池に飛び込んだ蛙に何の意味があるのだろうかと考え始めると、簡単に答が出るものではない。明治31(1898)年に正岡子規は『古池の句の弁』の中で、「古池の句の意義は一句の表面に現われたるだけの意義にして、復他に意義なる者なし」と言い切ったが、それでも何か別の解釈を探そうという情熱に水射すことにはならない。むしろ謎句というのは「意味がない」と言い切ったから謎がなくなるというものではなく、意味がないといっても本当に何の意味のないということを証明することが困難なため、やはり謎が謎を呼ぶことになる。
謎句には大きく分けて二種類考えられる。一つは作者の頭の中に一つの明確な答が想定されているもの。もう一つは作者自身も答を知らないもの。前者はいわばクイズのようなもので、読者がある一定の答を導いたなら、そこで謎は解消する。去来が「むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。」というのも、これに含まれる。しかし、後者の場合は永遠の謎となる。少なくとも、その謎を解こうという情熱を持ったものが一人もいなくなるまでは謎である。(これとは別に歴史的に本来の読み方が失われ、謎になってしまった作品というのもあり、たとえば額田王の「莫囂圓隣之・・・」の歌や『日本書紀』の童歌などはいまだに謎だが、これは謎になることを意図して作られたかどうかがわからないので除外する。)
シュールレアリズムの自動記述による詩は後者の典型だろう。アンドレ・ブルトンの「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」のような詩句は、何か答があるわけではなく、その奇抜なイメージそのものに価値がある。去来が、
雪の日に兎(うさぎ)の皮の髭(ひげ)つくれ 芭蕉
の句で、「機関(からくり)を踏破(ふみやぶり)てしるべし。」というのも、この句の謎は解けないし、解くべきでもないということなのだろう。
これに対し、去来は、其角の「まんぢうで」の句は、作者の頭の中に一つの答があったことを確信している。ただ、それがわからないのは、設問が不十分で読者が一つの回答に至ることができないためで、言い応せぬ句だという。去来によれば「饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよ」というのが真意だというが、この説で誰もが「なるほど!謎が解けた!」と思うなら問題はないのだが、これもまた一つの解釈にすぎないということになれば、かえって謎は深まってしまう。去来は暗号解読のように一つの謎を解いたわけではない。一つの説を提示したにすぎない。
この句に一つのトリックがあるとすれば、それは「提灯で・・・」の場合、どういう場面ならそういう言葉が発せられるか、容易に想像ができるが、これを「まんじゅうで・・・」としてしまうと、その状況が誰も即座に浮かんでこない。そのため、読者はどういう場面であればこういう言葉が発せられるのか、あれこれ思案する。花の下で誰もが酒を飲んでドンチャン騒ぎしている中で、まんじゅうを目印に下戸の誰かさんを探してこいということなのか、あるいは酒を断った僧でありながら花を好む隠逸の士、つまり西行法師を探せということなのか。いろいろ想像をふくらましてゆく中で、残念ながら去来の解はそれほど面白い想像ではない。
言葉というのは人の記憶を刺激し、忘れていた何かを思い出させる力がある。それとは逆に、記憶を想起できない言葉というのは、何か未知の想像を引き起こす。其角ほどの人なら、言葉のこうした性質にはある程度気付いていただろうし、その意味では、この句は謎句であり、答のないタイプの謎句である可能性はある。
去来はこれを言い応せぬ句だというが、其角の句の場合、作者の意図が伝わらないというよりは、作者の意図を離れて様々な想像が膨らむ。去来自身も認める言い応せぬ句、
兄弟の顔見る闇(やみ)や時鳥(ほととぎす) 去来
の句では、この「兄弟」が仇討直前の曾我兄弟だということがわかりにくく、それが伝わらなければ単にどこかの兄弟が、「今ホトトギスが鳴かなかったか?」「うん、鳴いた。」というだけの句になる。これに対し、其角の句は作者の意図が何だったにせよ、それ以上の解釈を生み出す可能性がある。
其角がこうしたトリックを使うのは、この句だけではない。
あれ聞けと時雨(しぐれ)来る夜の鐘の声 其角
この「あれ」が何なのかについては諸説あり、近江三井寺の鐘とも、浅草寺の鐘とも言うし、時雨を聞けとの鐘の声とする説もあるが、基本的にはこの「あれ」はどうにでも取れる。特にこの句が撰集『猿蓑』で
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉
あれ聞けと時雨(しぐれ)来る夜の鐘の声 其角
と並んだ場合、蓑笠着た猿の断腸の叫びを聞けという意味にも取れてしまう。
芭蕉の古池の句は、当時の人ならばむしろ何か心の底にある原体験みたいなものを想起させたであろう。「古池」は荒れ果てた廃村か没落した旧家の連想を誘い、いわば廃墟をイメージさせる。蛙の水音は、豊作を暗示させる蛙の鳴き声にくらべると侘しげで、春なのにそれを喜べない、何が深い事情を感じさせる。まして「水音」はかつては入水の連想を誘う言葉でもあった。こうしたイメージが重なり合うことで、当時としては「何だかわからないけど涙があふれてきた」という反応を引き起こしたことが想像できる。しかし、其角の場合、あえて記憶を喚起させないことで、読者にイメージをふくらまさせることを知っていた。
去来の「言い応せぬ句」の説はこうした其角の独特な発想に気付かないか、故意に矮小化しようとしての発想だろう。
(謎解き・八十四)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十三番
兄 尺草
須磨の山句に力なしかんこ鳥
弟 (其角)
すまの山うしろに何を諫鼓鳥
この尺草(せきそう)については、『田中・前掲書』では、次のように記述されている。
○元禄七年九月六日、其角は、岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁の五人と共に関西旅行に出発した。尺草・松翁については素性は不明だが、尺草は元禄四年(一六九一)の江ノ島・鎌倉旅行でも其角・岩翁父子と同行している。
この元禄七年(一六九四)は、其角の三十四歳の時で、この年の十月十二日に、芭蕉が亡くなる。享年五十一歳であった。芭蕉の死後其角はしばらく京にとどまり芭蕉の追善集『枯尾華』を編集する。十月十八日には義仲寺において、其角の「なきがらを笠に隠すや枯尾花」を発句として追善の百韻が興行された。その連衆は、大津・膳所・京都・大阪・伊賀などから参じた面々(其角だけが江戸)、全部で四十三人を数える。翌十一月十二日には、芭蕉の死を知って急遽上京した嵐雪・桃隣を迎えて、京都の丸山量阿弥亭で芭蕉追善の百韻が興行された。この時の連衆は二十一人で、名古屋の荷兮の名も見られる。また、芭蕉の死の直前まで其角と関西旅行をしていたメンバーの岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁も参加している。
さて、この兄句の尺草の「須磨の山句に力なしかんこ鳥」の句は、その関西旅行の際のものなのかも知れない。そして、其角のこの判詞に、「発句の馴熟(熟練している)はしらるべき也」とされているが、この中七の「句に力なし」(句に充分に言い表すことが出来ない)が、『去来抄』の言葉でするならば、「我一人合点したる句也」という趣でなくもない。その原因は、「須磨の山、(その風情の余り)、句に力なし、かんこ鳥(そのかすかな声が何とも心に惹かれる)」という一句の中で、上五の「須磨の山」と中七の「句に力なし」とが飛躍し過ぎていて、その間に醸し出される「(その風情の余り)」という省略が働いているのかどうかが微妙であるということにあろう。其角は、ここに「馴熟」していると見てとるが、去来などは、それは「一人合点したる」ものと受け取るのではなかろうか。ここらへんのところを、其角の弟句では、「すまの山うしろに何を諫鼓鳥」ということで、その「すまの山」の「(その風情の余り)」を、「うしろに何を」と、いわば、兄句の「一人合点したる」ものの、その「謎解き」をしているという趣であろう。この二句では、兄句の「句に力なし」という人事句的な感慨の「句作り」に比して、弟句では「うしろに何を」と叙景句な感慨の「句作り」で、異質の世界のものという思いを深くする。これらは、類想句というよりも兄弟句という雰囲気に解せられる。これらの「一句いまだ謂うおほせず」(表現の不足)に関連して、前回の、其角の「まんぢうで人を尋ねよ山ざくら」の謎句関連のものとは別に、次のアドレスの『去来抄』(「先師評」三十三)が参考となる。
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#ff
(「先師評」三十三)
33、兄弟のかほ見るやミや時鳥(ほととぎす) 去来
去来曰、是句ハ五月廿八日夜、曾我兄弟の互に貌見合(かほみあはせ)ける比(ころ)、時鳥(ほととぎす)などもうちなきかんかしと、源氏の村雨(むらさめ)の軒端(のきば)にたたずび給ひしを、紫式部が思ひやりたるおもむきをかりて、一句を作れり。先師曰、曾我との原の事とハききながら、一句いまだ謂(いひ)おほせず。其角(きかく)が評も同前(どうぜん)なりと、深川より評有(あり)。許六(きょりく)曰、此(この)句ハ心余りて詞(ことば)たらず。去来曰、心余りて詞不足(ことばたらず)といハんハはばかり有。ただ謂不応也(いひおほせざるなり)。丈草(ぢゃうさう)曰、今の作者ハさかしくかけ廻(まは)りぬれバ、是等(これら)ハ合点(がつてん)の内成(うちなる)べしと、共に笑ひけり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,23~24)
曾我兄弟の仇討ちは赤穂浪士、荒木又右衛門(あらきまたえもん)と並んで三大仇討(あだうち)と呼ばれている。曾我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)と曾我五郎時宗(そがのごろうときむね)の兄弟が、父の仇、工藤祐経(くどうすけつね)を建久4(1193)年5月28日、富士野の巻狩りの夜に殺害した事件は、『吾妻鏡(あづまかがみ)』にも記された史実で、その物語は後に遊行巫女(ゆぎょうみこ)によって口承され、様々な女性芸能者によって『曾我物語』へと完成されていった。女性によって語り継がれた物語だけに、母や二人の女房など、残された女たちの悲しみに焦点が当てられていて、必ずしも忠義を賞賛する物語ではない。
仇討は中国では唐の時代に既に禁止されていたもので、韓国でも早い時期から禁止されていた。たとえ殺人犯といえども法の裁きを受けるべきで、個人的に勝手に犯人を殺害することが犯罪であるのは言うまでもない。『曾我物語』でも、十郎は仇討後、新田忠経(にったのただつね)に斬られて討ち死にし、五郎は捕らえられて源頼朝(みなもとのよりとも)の前に引き出され、打ち首になった。
去来の句は芭蕉の存命中の句だし、まだ赤穂浪士の討ち入りは先のことだったが、寛永11(1634)年に伊賀の鍵屋の辻で起きた荒木又右衛門の仇討は知っていただろう。芭蕉の生まれる十年前の事件だった。去来は一体どういう情を込めて曾我兄弟を詠んだのだろうか。「源氏の村雨(むらさめ)の軒端(のきば)にたたずび給ひしを、紫式部が思ひやりたるおもむきをかりて」というのは『源氏物語』「幻」の紫の上の一回忌に次第に出家を決意してゆく場面のことだろう。昔のことを思い起こし、自分のつたなさに嘆き、折から時鳥の声が微かに聞こえたのを受けて、
亡(な)き人を偲(しの)ぶる宵(よひ)の村雨(むらさめ)に
濡れてや来(き)つる山ほととぎす
と詠んだその情を踏まえるなら、いよいよ討ち入りという時に曽我の兄弟が顔を見合わせているときに、折から聞こえてきた時鳥の声に、死んだ父のことがいろいろ思い出され、人生のはかなさとこの世の無常を感じたということなのだろうか。
多分、芭蕉や其角が「言い応せず」、つまり描ききれていないと感じたのは、その情が仇討に対してどう作用したのかということではなかったか。本来の風雅の精神からすれば、戦や仇討などの殺人や殺生は肯定すべきものではない。その意味では、この句は時鳥の霊妙な声に死後の世界を思い、仇討が煩悩と知りつつも憎しみに勝てず、あの世での永遠の地獄を受け入れることを覚悟するといったものだったのだろう。これは「猪のねに行くかたや明の月」にも言えることだが、言おうとしていることはわかるのだが、下五を「時鳥」というありきたりな題材で無難に収めてしまったため、今ひとつ感情が平凡に流れてしまっていて、悲痛な感じが伝わらなかったのだろう。
許六は「心余りて詞(ことば)たらず」というが、この言葉は在原業平(ありはらのなりひら)の歌などを評するときに用いられる言葉で、中世にあっては、むしろ言葉足らないことが深い余韻を与え、幽玄の心を生み出すとして肯定的に捉えられていた。そのことを考えるなら不適切で、去来自ら言うように「はばかり有。ただ謂い応せず也(ただ言い応せていないだけだ)」という所だろう。
丈草の評は好意的で、近頃の他門の作者はいかにも利口そうに説教臭い句を作っているから、言い足りないくらいが良いという。「合点」というのは職人言葉で「がってん承知の介」なんてイメージがあるが、本来は俳諧用語で良い句の上に点を打つことを言う。
(謎解き・八十五)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十四番
兄 西鶴
鯛は花は見ぬ里もありけふの月
弟 (其角)
鯛は花は江戸に生れてけふの月
この三十四番、そして、西鶴については先に触れた(第四十三・下記のアドレスなど)。
http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_6496.html
其角は西鶴に二度会っている。年譜史的には以下のとおりとなる。
貞享元年(一六八四)二四歳 二月、上京の旅に出立。京都で季吟・湖春父子、去来や自悦らと対面。大阪の西鶴を訪問し、矢数俳諧の興行に立ち会う。信徳・千春らと『蠧(しみ)集』を作成。秋の末に出立。この冬、嵐雪と破笠が彼の家に同居。
元禄元年(一六八八)二八歳 九月、堅田への旅に出立。途中、名古屋の荷兮などを訪ね、十月中に堅田着。京都で信徳・如泉・野水らと百韻興行(『新三百韻』)。西鶴訪問後、京都で去来・凡兆と対面。十二月下旬に江戸着。伊勢町に移住。
元禄六年(一六九四)三三歳 八月十日、西鶴没(享年五十二歳)。八月二十九日、父東順没。
元禄七年(一六九四)三四歳 九月、上方行脚に出立。同行者は岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁の五人。十月十一日、大阪で病床の芭蕉を見舞う。翌日十二日、芭蕉没(享年五十一歳)。芭蕉追善集『枯尾華』を編集。冬、江戸に戻る。『句兄弟』成る。
ここで、この兄句そして弟句の句意並びにその判詞(自注)などの要点を、『夏見・前掲書』を参考にしてすると次のとおりとなる。
兄句(西鶴)「鯛は花は見ぬ里もありけふの月」
鯛を食べられない里、そして、桜の花を見られない里もあるでしょうが、この仲秋の名月だけは何処でも誰でも均しく楽しむことができるでしょう。
弟句(其角)「 鯛は花は江戸に生れてけふの月」
鯛も、桜の花も、そして、お月さまも、江戸の新鮮な鯛と、江戸の上野の桜の花と、江戸吉原は言うに及ばず江戸の何処でもその仲秋の名月をと、江戸に生まれてこそ、これらを真に堪能できるとことでしょう。
判詞(自注)兄句は桜の花を見ることもない里に心を寄せて、遠く二千里の外の里人の心に通じ一句として仕立ているさまは特に類がない。そこで、弟句は、中七字だけを、その力を変えて、「栄啓期の楽」(『列子』にある「一楽」=人間として生まれてきたこと、「二楽」=男に生まれてきたこと、「三楽」=九十歳まで生きたいこと、の「三楽」)に寄せて作句したのである。そうすることによって、難波の浦に生まれ、住吉の月を美しいと眺め、すぐ目の前の海の新鮮な魚を釣らせて、その情景を作品に残しながら、時の流れを嘆じ、今の世に感じ入り、古を懐かしんで、「末二年浮世の月を見過ぎたり(西鶴)」(五十年も永い人生を送り、さらに、二年も永い仲秋の名月を眺めることができて、もう何も思い残すことはない)と辞世の句を詠んだ、その故人(西鶴)が、折にふれて、なつかしく思いだされてくるのです。
ここの西鶴の句を兄句としての、其角の弟句は、兄弟句というよりも、西鶴の句に唱和しての、挨拶句という趣である。こういう句は、それぞれが、単独で鑑賞されるべきものではなくて、両句を並列して、いわば、二句唱和の長句の付け合いという趣で鑑賞されるべきもののように思われる。いずれにしろ、この西鶴の兄句は、いかにも、談林俳諧の一方の雄であった西鶴らしい、その代表作といっても差し支えない一句であるし、それに唱和しての、この其角の弟句もまた、いかにも、洒落風江戸座の頂点を極めた其角らしい、其角の代表作の一つにしても差し支えないような一句と理解をしたい。
なお、『去来抄』の芭蕉の西鶴関連ものは、次のアドレスのものが参考となる。
『去来抄』「故実」(十六)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo3.html#o
また、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で、下記のアドレスにより、「西鶴俳句集」・「西鶴連句集」も目にすることができる。
http://kindai.ndl.go.jp/BIToc.php
「西鶴と生玉」については、次のアドレスの大阪府立中之島図書館のものが詳しい。
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/20_saika.html
(謎解き・八十六)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十五番
兄 宇白
ほとゝぎす一番鶏のうたひけり
弟 (其角)
それよりして夜明烏や蜀魂
兄句の作者、宇白については未詳である。次のアドレスの志田野坡門の俳人・桑野萬李の継子に「宇白」とあるが、参考までに掲載しておきたい。
http://www.tt.rim.or.jp/~kuwano/page003.html#福岡桑野氏
徳川中期の俳人として、福岡藩士、桑野萬李(1678-1756)(名は好濟、字は多橘、
初め鹽田氏、通称太吉、辞世「とろりとろり柴のほまれや後の月」)があり、公務六十年、
家禄を嗣子の宇白に譲った後、七十を越えてから句を詠んだ。句集「田植諷」「柴のほま
れ」「後の月」がある。志太(しだ)野坡(やば)(1662~1740)の門弟(「日本人名大事
典」)。
また、次のアドレスの「和歌・芭蕉句・近代詩年表」の掲載記事の中に、宇白編『柴のほまれ』という書名を見る。
http://www.interq.or.jp/www1/ipsenon/p/shi1946.txt
兄句(宇白)「ほとゝぎす一番鶏のうたひけり」
夏の夜明けに、ほととぎすが一声し、そして一番鶏が時を告げた。
弟句(其角)「それよりして夜明烏や蜀魂」
蜀の帝の魂が化したといわれるほととぎすが鳴き、それよりして夜が明けるという。そのほととぎすのように夜明け烏が鳴いている。
判詞(自注)
兄の句は、夏の短夜を恨んで、古今和歌集の「夏のよのふすかとすればほととぎすなく一こゑにあくるしののめ」(紀貫之)の風情に連なるものがある。この形は、ほととぎすの伝統的な手法を離れていないけれども、ほととぎすという題は、縦題(和歌の題)、横題(俳諧の題)と分けて、縦題として賞翫されるべきものであるから、横題の俳諧から作句するのは筋が違ってくる。夏の風物詩として感じ入る心を詠むにも、縦題のやさしい風情が見えるように詠むべきものであろう。
ほととぎす鳴くなく飛ぶぞいそがほし 芭蕉
若鳥やあやなき音にも時鳥 其角
この句のスタイルは、横題の俳諧から深く思い入れをしてのものである。もし、これらの作句法をよく会得しようとする人は、縦題・横題が入り混じっているにしても、それぞれの句法に背いてするべきものではない。縦題は、花・時鳥・月・雪・柳・桜の、その折々の風情に感興を催して詠まれるもので、詩歌・俳諧共に用いられるところの本題である。横題は、万歳・藪入りのいかにも春らしい事から始まって、炬燵・餅つき・煤払い・鬼うつ豆など数々ある俳諧題を指していうのであるから、縦の題としては、古詩・古歌の本意を取り、連歌の法式・諸例を守って、風雅心のこもった文章の力を借り、技巧に頼った我流の詞を用いることなく、一句の風流を第一に考えてなされるるべきである。横の題にあっては、蜀の帝の魂がほととぎすになったという理知的なものでも、いかにも自分の思うことを自由に表現すべきなのである。一つひとつを例にとっての具体的な説明は難しい。縦題であると心得て、本歌を作為なくとって、ほととぎすの発句を作ったなどと、丁度こじつけたような考え方をするのは残念である。句の心に、縦題、横題があるということを知って貰うために、ほんの少し考えを述べたままである。自分から人の師になろうとするものではない。先達を師として、それを模範として、自分を磨こうとするものである。
この其角の判詞(自注)は、なかなかその真意の把握が難しいところであるが、季題の「縦題」(和歌・連歌・俳諧を通じて用いられる題)と「横題」(俳諧のみに用いられる通俗・卑近な題)とに関しての基本的なものとされている(『総合芭蕉事典』)。次のアドレスの「縦題・横題」についても、上記の其角の『句兄弟』のそれを中心にして論述されている。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku3-1.htm
この「縦題・横題」に関して、一言でいえば、「縦題は和歌・連歌以来の伝統的季題、横題は俗諺、人事を中心に俳諧が新しく加えた季題のことで、其角は、縦題は伝統的本意をふまえて未公認の詩語を配することを避け、逆に横題は洒落自在に俳諧の特性を発揮して詠むべし」ということになろう。しかし、上記の其角の判詞(自注)を子細に見ていくと、「縦題だからとしても、単に、和歌・連歌以来の伝統的・形式的な考え方だけに頼ることなく、その縦題を、句の心として、先達を師とし、模範としながら、その縦題に新しい息吹を注ぐように、それを磨き上げていかなければならない」ということを、この兄句(宇白)と弟句(其角)との「ほととぎす」という「縦題」の句をとおして、其角は伝達したかったように思えるのである。ここらへんのところは、やや、視点は異なるが、次のアドレスのものが参考となる。
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/hatabow/tateyokokigo.html
こういうふうに、「縦題・横題」に関連して、「縦題のような伝統的な古い季題を据えて作句するときには、単に、その伝統的な本意やその形式を固守するということではなく、そこに、いわば、『古い革袋に新しい酒を盛り込む』ような心をもって作句すべし」というのが、其角の基本的な考え方であると理解すると、後の、巴人・蕪村・几董らの「夜半亭俳諧」の中心に、上記の其角の弟句の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」の、この発句を見据えての、夜半亭三世となる几董らが編んだ『あけ烏』(安永二年刊)の意図が見えてくる。この『あけ烏』の巻頭の発句は、「ほととぎす古き夜明けのけしき哉」(几董)で、それは、其角の、この『兄弟句』の、ここの弟句の、「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」が背景にある一句で、それらを全て見て取った、其角門の夜半亭一世巴人に続く、夜半亭二世となった蕪村の強い意向であったという(その序)。すなわち、巴人・蕪村・几董と続く夜半亭俳諧は、ここの弟句の、この其角の「それよりして夜明烏や蜀魂(ほととぎす)」を中心に据えてのものということを、ここで特記しておきたいのである。
なお、『去来抄』では、「縦題・横題」に直接触れたものはないが、次のものなどが参考となる。
『去来抄』「故実」(十四)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo3.html#m
『去来抄』「故実」(十五)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo3.html#n
この「縦題・横題」については、去来ならず、許六が、その『宇陀法師』で問題にしている。
○題に竪(たて)横の差別有(ある)べし。近年、大根引のたぐひを、菊、紅葉一列に書(かき)ならべ出(いだ)する。覚束(おぼつか)なき事也。
そして、許六の高弟の孟遠が『秘蘊(ひうん)集』で次のように記述する。
○題に竪横といふことあり。先づ、月・雪・花・時鳥・鷹・鶯・鹿・紅葉の類、みなみな竪題なり。是(こ)れ、本(もと)、歌の題なればなり。歌・連歌にせぬ題は、みな俳諧の題なり。踊・角力・ゑびす講の類、是をば横とはいうなり。近年、世上みだりに題ならぬものを句作り、芭蕉流の発句とていたす人あり。是れ以ての外の事なり。惣じて、題は、翁の時荒増(あらまし)極りあり。
もう一人、蕉門の中で毛並みの良い東本願寺第十四世琢如(たくにょ)の子として生まれた浪化は『俳諧秘文抄』で次のように記している。
○題の竪横といふ事、縦は竪也。昔より和歌に用ひ来れる花取風月の定りたるを言也。横といふは麺棒、櫂小木の俗を言(いふ)。此(この)故に花鳥風月を俗語にもてなし、疵を付る事なかれと也。横は格別にして、洒落を存分に任(まか)すべしとぞ。
この浪化の「竪題・横題」の考え方は、それは、其角の『句兄弟』の、この三十五番の句合せの「判詞」(自注)に因っていることは明瞭なところであろう。其角は、「縦題・横題」の用例であるが、許六・浪化が、「竪題・横題」の用例で、今では、例えば、『芭蕉歳時記・竪題季語はかく味わうべし』(復本一郎著)など、「竪題・横題」の用例の方が一般的なのかも知れない。そして、この浪化の言葉として、支考の『東西夜話』(元禄十五)の中に、
「武(江戸)の其角の俳諧は、この頃の『焦尾琴』『三上吟』を見るに、おほく唐人の寝言にして、世の人のしるべき句は十句の中の一、二には過ぎじ」との指摘を載せているのである。
これらのことに関して、『田中・前掲書』では次のような興味ある記述をしている。
○「唐人の寝言」とは言い得て妙だが、東本願寺第十四世琢如(たくにょ)の子として生まれた浪化が、こんな品のない言葉を使うとは考えられないから、これは支考の批評であろう。支考はまた、『晋子が門葉の耳なれたる人は、掌中の中の玉を見るよりなをあきらかにしたりたれど、それは一時の流行のみにして、千載の後は国のはんじ物なり』(『東西夜話』)とも述べている。「はんじ物」とは謎の意である。唐人の寝言のような訳の分からない句でも、其角の門人の中には、掌中の玉を見るよりなお明らかに理解することができる人がいたのである。しかし三百年後の我々には、其角晩年の句はまさに判じ物であって簡単に理解できる句はほとんどない(意味が分かっても作意が分からない句も多い)。
この支考の、其角を評しての、「唐人の寝言」・「判じもの」というのは、これまた、「俳魔」・「佯死」のポーズの支考らしく、まさに、言い得て妙である。
(謎解き・八十七)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十六番
兄 望一
風まつはきのふをきりの一葉哉
弟 (其角)
井の柳きのふを桐の一葉哉
この兄句の作者、杉木望一(『俳家奇人談』では杉田望一)については、次のアドレスで下記の一句とその簡単な紹介がある。
http://park11.wakwak.com/~hokui40/diyhaiku/koten.html
○ ほこ長し天が下照姫はじめ 杉木望一(すぎきもいち)
[意味]イザナギ・イザナミ二神の国生み神話を姫始めに見立て、何と長い矛だろうの意。
[解説]望一(1586~1643)は初期伊勢俳壇の重鎮。盲人で勾当の位を得た。句は、天が下-下照姫(和歌の始祖)-姫始め という掛詞から成る。「ほこ長し」は天の逆鉾、謡曲「逆鉾」に「昔、イザナギイザナミの尊、御矛をさしおろし給ひ、(略)矛のしたたり凝り固って国となれり」とあるが、これを猥雑な意に解し「姫始め」に接続した。姫始めは新年初めて夫婦が交わる事、春の女神の姫始めである。
この望一の兄句は、その判詞(自注)によると、その中七の「きのふをきり」が、「桐」と「限りの『きり』」との「云かけ」(掛け詞)で、これが、「結局幽玄におもひて取合たる五文字也」と、連歌的な作句であるというのである。それを、「風まちしきのふの桐の一葉哉」の換骨奪胎では、その望一の原句の連歌的な作句スタイルそのままなので、「井の柳きのふを桐の一葉哉」とすることによって、すなわち、「きのふの」の「の」を、「きのふは」の「は」の一字違いにすることによって、句意そのものは変わらないものとなるのだが、ここは、その「は」を「を」のままにして、兄弟句の仕立てにしたというのである。いささか、其角が自分の芸の細かさを強調している感じでなくもないが、『夏見・前掲書』では、
次のとおり解説している。
○兄句は、空の風で秋を知り、微妙な幽玄の秋の風情を情感でとらえ、それを桐の一葉が散ってゆく姿に表現し、弟句では、空の桐が昨日は散り、今日は地上の水辺の柳が散りゆく姿に秋を見る、その風景の中に、昨日から今日へと段階的に日常的な秋の訪れを感ずるところに、洒落風、一種の理知といえるものがある。
こういう其角の換骨奪胎の具体例を見ていくと、芭蕉や鬼貫の俳諧が、「誠の俳諧」・「心の俳諧」とするならば、其角の俳諧は、より「言葉の俳諧」・「知の俳諧」の世界のものという思いを深くする。そもそも、この兄句の作者、望一は、頓知(機に敏に働く知恵)・地口(口合・語呂合わせなど洒落風に別な見立てをするなど)に長けた俳人とされているが、其角こそ、この頓知と地口とに長けた俳人であったということはできるであろう。そして、この頓知や地口の俳諧を一つの特徴とする俳諧を「貞門俳諧」とし、そのアンチ「貞門俳諧」こそが芭蕉らの「蕉風俳諧」とするならば、其角は、その「蕉風俳諧」に身を置きながら、新しい洗練された頓知や地口による「新貞門俳諧」ともいうべき世界をも視野に入れていた俳人であったという思いを深くする。そして、それだけではなく、さらに、「談林俳諧」の「ぬけ(省略)風」(ある詞もしくは心を表面に出さず余意によってそれを知らせる手法)も加わり、それが、其角俳諧、強いては、洒落俳諧の、「唐人の寝言」・「判じもの」的俳諧といわしめている、その原因の一つのように思われるのである。
これらのことについて、この兄弟句を具体例として見ていくならば、そもそも望一の、この兄句も、「判じもの」的ニュアンスの濃いものといえるであろう。それは、「風まつは」、それは、「きのう」まで枝にあった、その「桐」の一葉で、今日は、今日の風を受けて、その「きのふ」の限りの、その「桐」の一葉が、今日、只今、地面に落ちていきますよ、ということで、「ぬけ」や「掛け」の手法で、何か曰くありげの一句に仕立てているということになる。そして、其角の場合には、それを「ぬけ」の手法だけで、「水辺の柳が」、そして、「今日は散っています」というのを「ぬけ」にしていて、その後に、「昨日は桐の一葉が散っていました」ということを持ってくることによって、「今日は柳」、「昨日は桐」が散っていたということを表現しているということになる。このような、「ぬけ」、さらには、「比喩・見立て」(ある事物を喩えたり、見立てたりする表現)の奇抜さ・新鮮さこそ、其角らの「洒落風俳諧」の基本にあるということを知っておく必要があろう。
そして、芭蕉はその晩年に、こういう其角の作為的な洒落風俳諧に、危惧の念を抱いていたことを、同じく、支考の『十論為弁抄』の次のような記述の中に見出すことができる。
○一とせ伊賀の西麓庵におはして、続猿蓑の撰集ありしに、武域の人々より発句をおくれり、其中に其角も三四章ありて、秋風ノ辞を裁入たる句に
白雲に鳥の遠さよ飛(ぶ)は雁
といふを、我も人も感吟して、これらの手づまの及がたき事をいへば、故翁は例のほめながら、晋子が此ほどの俳諧をきけば、玉振金声の作をもとめて天下の人を驚さむとす、是より五年の変化をはからず、二作かさねば平話を失ひ、三作をかさねば俳諧はつきて、其時は自己を失ふべし。
この芭蕉の危惧に関して、『芭蕉山脈』所収「同門評判(其角)」(石川八朗稿)では次のように記述している。
○「白雲に」の句は、下五「数は雁」として、『末若葉』に収める。支考は「秋風辞」をあげるが、『五元集』の旨原説牛門書入といわれるものに、『古今和歌集』巻四秋之上部の、
白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月
によるとしている。いすれにしても、古詩古歌によって発想した作意が、「数は雁」といった表現方法とともに、あまりにあぶない技巧のからまわりとして感じられ、芭蕉に危惧の念をいだかしめたのであろうか。支考は、右の文章に続けて、其角の、
いざ宵や竜眼肉のから衣
幟たつ長者の夢や黒牡丹
をあげて、作者の破綻をいい、『東西夜話』では、其角の『三上吟』『焦尾琴』の作風について、「たとへば、九重の塔に登りてあとの階子をはずしたる如し、みる人其筋を知らず」と、発想をたどることのできない難解さを指摘する。
元禄七年(一六九四)十一月十二日に、芭蕉は五十一年の生涯を閉じた。時に、其角は三十四歳であった。この芭蕉が亡くなった時に、其角の、この『句兄弟』は成った。しかし、この『句兄弟』は、一番見て欲しかった、師の芭蕉に、その全貌を見て貰うことは出来なかった。もし、師の芭蕉が生存していて、其角の俳諧手法の裏表の全てを網羅した、この『句兄弟』を見ることができたら、其角の、この『句兄弟』に続く、次の適切な目標設定とその示唆を与えることも可能であったろうが、そういうことは、夢のまた夢で、其角俳諧の先行きの懸念すらさえ、其角に正しく伝達されないままに、芭蕉はこの世を去ってしまったのである。それが故に、芭蕉没後の、元禄七年から宝永四年までの十二年という歳月は、いたずらに、その洒落風俳諧は、芭蕉が懸念したように、「二作かさねば平話を失ひ、三作をかさねば俳諧はつきて、其時は自己を失ふべし」という有様であったということは、結果的には、これまた、「言い得て妙であった」という思いを深くする。
なお、支考に連なる「獅子門美濃派俳句資料館」について、下記のアドレスで見ることができる。
http://homepage1.nifty.com/nagaragawagarou/minohashiryoukan.htm
(謎解き・八十八)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十七番
兄 僧 吟市
丸合羽はらはぬ雪や不二の山
弟 (其角)
青漆を雪の裾野や丸合羽
兄句の作者の「僧吟市」については、『俳文学大辞典』には収載されていない。次のアドレスの「松尾芭蕉の総合年譜と遺書」の延宝三年(一六七五)中にその名を見ることができる。
http://www.bashouan.com/psBashou_nenpu.htm
東下中の西山宗因を歓迎する画(大徳院の住職)邸興行百韻俳諧に一座。連衆は、宗因、画、高野幽山(松江重頼門弟)、桃青(芭蕉)、山口信章(素堂)、木也、久津見吟市、少才、小西似春、又吟。この百韻俳諧で初めて「桃青」と号す。以下に芭蕉の全付句を記す。
○写本「談林俳諧」より。
いと涼しき大徳成けり法の水 宗因
軒端を宗と因む蓮池 画
反橋のけしきに扇ひらき来て 幽山
石壇よりも夕日こぼるゝ 桃青
(中略)
座頭もまよふ恋路なるらし 宗因
そひへたりおもひ積て加茂の山 桃青
(中略)
時を得たり法印法橋其外も 信章
新筆なれどあたひいくばく 桃青
(中略)
口舌事手をさらさらとおしもんで 吟市
しら紙ひたす涙也けり 桃青
(後略)
兄句(僧吟市)「丸合羽はらはぬ雪や不二の山」
袖なしの丸合羽恰好の富士山、雪を払えたくても袖なしで、雪のままであることよ。
弟句(其角)「青漆を雪の裾野や丸合羽」
夏の青漆の裾野も、今や雪一色の裾野になって、丸合羽の恰好のようであることよ。
判詞(自注)
古い貞門・談林の時代には、「丸合羽雪打はらふ袖もなし」といふ形によって、この中七字が、兄句ではよく働いている。そこで、この中七字の働きに注目して、弟句では、上からの意味と、下からの意味とが、手をつめたような句・形とでもいうような、また、漢詩の「続腰の格」とでもいうような句・形での詠みぶりでしょうか。
この「続腰の格」というのは、漢詩作法書の『氷川詩式』(梁橋氏著)で、杜甫の「春望」を例にして記述されているものとのことである。この『氷川詩式』には、この『兄弟句』の「序」に見られる、「点ハ転ナリ、転ハ反ナリ」の「点化句法」(「点化古人詩句法」)が記述されているとのことである(『夏見・前掲書』)。この『氷川詩式』については、次のアドレスなどで、その図書を知ることができる。
http://www.city.nishio.aichi.jp/kaforuda/40iwase/kikaku/11konna2/konna2.html
『夏見・前掲書』では、この兄弟句について、次のとおり記述している。
○兄句は全山雪でおおわれたような、丸合羽を着た白一色の富士の山。弟句は「青漆を雪の裾野」つまり夏の緑の裾野であったが、冬になると雪の裾野となった、として現在の情景の中に季節の移り変わりと心象風景の拡がりを見出すことができる。兄句は単線構造で詠まれていが、弟句は続腰の格すなわち複線構造となっていて、そこに両句の相違がある。
『去来抄』では、これらについて直接言及したものは見出せないが、関連があるように思えるものには、次のようなところである。
『去来抄』「修行」(二十) ここは「物の本性」のところであるが、杜甫の「春望」の例が出て来る。
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#s
『去来抄』「修行」(十八) ここは「他流と蕉門」のところであるが、蕉門の俳諧は作り事を嫌うとし、この点からすると其角のそれは蕉門俳諧というよりも、ここの他流の趣でなくもない。
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#q
『去来抄』「修行」(十九) ここは「句の巧拙」のところであるが、蕉門の俳諧は理屈を嫌うが、其角の俳諧はこの理屈の巧みさを歓迎している趣でなくもない。
(謎解き・八十九)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十八番
兄 轍士
風かほれはしりの下の石畳
弟 (其角)
冷酒やはしりの下の石だゝみ
兄句の作者、轍士については、『俳文学大辞典』に収載されている。
○室賀氏。? ~ 宝永四年(一七〇七)。西鶴や団水と親交あり。また、芭蕉を深く尊敬した。元禄四年、『おくの細道』の旅に倣い東北地方を歴訪。以後各地を旅し、その成果を次々に撰集として出版した。また匿名で、俳家を遊女として見立てた評判記『花見車』を刊行、その暴露的内容で話題になり、団水より反駁される(『鳴弦之書』)。この団水の『鳴弦之書』
は、次のアドレスに紹介されている。
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2002/038.html
元禄十五年(一七〇二)に刊行された『花見車』の其角に関する記事は次のとおりである。時に、其角は四十二歳で、この年に「赤穂浪士吉良邸討ち入り」があった。
○松尾屋の内にて第一の太夫なり。琴・三味線・小歌でも、とりしめてならはんした事はなけれども、生れついて器用な所があって、小袖のもよう・髪つきまでもつくり出だせるほどの事にいやなはなし。国々にていも、こひわたるはこの君なり。花に嵐、月には雲のくるしみあるうき世のならひ、酒が過ぎると気ずいにならんとして、団十郎が出る、裸でかけ廻らんした事もあり、それゆへ、なじみのよい客もみなのがれたり。されど今はまた、すさまじい大々臣がかからんして、さびしからず。
☆「松尾屋」は芭蕉門。「太夫」は「上の点師」(最高位の俳諧師)。「琴」は漢文、「三味線」は和歌、「小歌」は仏学、禅のこと。「とりしめて」は「とりたてて」の意。「小袖」・「髪つき」は遊女の風俗のことで、ここは其角の句の華麗さの喩えか。「酒が過ぎると気ずいにならん」は酒が過ぎると羽目を外すの意。「団十郎が出る」は暴れまわるの意。「なじみのよい客」はパトロンや門弟のこと。「すさまじい大々臣」は大名クラスのパトロンのこと。伊予藩松山藩主松平定直(俳号・三嘯)を指しているか。
兄句(轍士)「風かほれはしりの下の石畳」
爽やかな風よ吹け。流しの下の石畳に涼しさを運べ。かの詩(蘇東坡)にあるように。
弟句(其角)「冷酒やはしりの下の石だゝみ」
冷や酒を飲みながら、流しの下の石畳を眺め、詩興(白楽天)に耽っている。
判詞(自注) 兄句は、蘇東坡の「薫風自南来 殿閣生微涼」が背景にあり、弟句は「林間暖酒焼紅葉 石上題詩掃緑苔」が背景にあり、この兄弟句ではその素材や背景を異にしている。
この両句を並列して鑑賞して見ると、旧知の間柄の轍士の句に其角が挨拶をしているような趣である。轍士は蕉門の俳人ではないが、芭蕉没後の追悼の百韻などに参加しており、其角とは昵懇の俳人であったのであろう。その轍士の其角観が、「琴・三味線・小歌でも、とりしめてならはんした事はなけれども、生れついて器用な所があって」と、「琴」(漢詩)・「三味線」(和歌)と何につけても其角は造詣が深く、轍士が、蘇東坡なら、ここは、白楽天でいこうという感じである。それよりも、轍士は、其角の日常を、「酒が過ぎると気ずいにならんとして、団十郎が出る、裸でかけ廻らんした事もあり」と、その酒浸りの生活を懸念しているのだが、それに対して、「轍士さん、『風かほれ』などと風雅ぶらないで、ここは『冷や酒や』と、生のままにいきましょうや」という雰囲気である。
『田中・前掲書』には、其角の酒癖の悪い例として、『其角一周忌』(宝永五年)に掲げられた淡々(前号は謂北)の「懐旧」という文章の一節が紹介されている。
○(前略)予花の句付けんに、面前花粧(めんぜんけしょう)を抜きたる句を付くれば、例の沈酔、一声猛にして、「その句よこしまあり。邪意一曲、誰をたぶらかしをのれを立てんや。佞(ねい)のうたふ曲は聖国なし」とて、かくのごとくとがとがしくうち叫び、二十三句請け取りたまはず。
ここに出てくる「淡々」は、後に、京・大坂で一大の俳諧師となる松木淡々で、晩年の芭蕉の直弟子の一人ともされている俳人である。其角は、この淡々や支考のように若手の自信家に対しては、若き日の自分の影を見るような思いからもあろうか、「鼻持ちならぬ」という態度で接したのであろう。「面前花粧を抜きたる句」とは、花という言葉を使わずに花の句になるように作意してのもので、この淡々の賢しらぶりに、其角は激怒したのであろう。其角とすれば、「花の句は連句の最も大切にされるもので、その花の句を新人の淡々風情が、面前花粧の句とは、何たることか」という思いであろう。「例の沈酔、一声猛にして」とは、其角の風貌そのものであろう。こうして、晩年の其角の周囲からは、旧知の俳人が一人去り、二人去りして、「去る者は追わず」の其角としては、「月には雲のくるしみあるうき世のならひ」で、艱難辛苦の日々でもあったのであろう。
『去来抄』関連では、漢詩に限定したものというより、「古事・古歌」・「俳諧の文章」などに関して、次のアドレスのものなどが参考となる。
『去来抄』「故実」十四(古事・古歌)
『去来抄』「故実」十五(古事・古歌)
『去来抄』「故実」十六(俳諧の文章)
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo3.html#m
(謎解き・九十)
※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html
三十九番
兄 晋子(其角)
声かれて猿の歯白し岑の月
弟 芭蕉
塩鯛の歯茎も寒し魚の店
兄句(其角)「声かれて猿の歯白し岑の月」
声も枯れ果て、歯を白々と見せている猿。峰には皓々と月が輝いている。
弟句(芭蕉)「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」
塩鯛の歯茎も寒々として、何とも寒々とした魚屋の店頭であることよ。
判詞(自注)
兄句は、「冬の月」というべきところを、「山猿叫ンデ山月落」として、巴峡の猿に寄せ、「岑の月」としたのである。「衣ヲ沾(ウル)ホス声」と作りし詩の余情とも言うべきであろうか。此の句感心のよしにて、師の弟句では、塩鯛の歯のむき出したるところを、巴峡の猿に劣らず、冷(すさま)じさがあると感じられたのでしょう。「衰零」の形にたとえて、「老いの果て」・「年の暮れ」とも置かられるべきを五文字を「魚の店」と置かれたのは、その他は推して知るべしでしょう。此の弟句は、兄句の猿の歯としたことに合わせられて作られたものではありません。只、傍らの人が、海士の歯の白いのはどうかとか、猫の歯の冷じいのはどうかとか、そんな、似ているようで似ていないところの単なる思いつきのものでは、発句にはなり得ない、そんな作意をもかすかに感じますので、私の句を兄句として先にし、師の句を弟句として後にし、その換骨奪胎の技法を具体例で示し、分かっていただこうとしたまでであります。師のお考えもそのように承っておりますので、ここでは、これまでのような自評を用いないで、換骨奪胎の反転の法(点化句法)をそのままに述べる次第です。この後、反転して、「猫の歯白し」「蜑の歯いやし」などとされても、発句の一体をよく心得ているであろう人には、等類の難は決してあってはならないのです。一句の骨を心得て、あいまいな句風を拒否し、意味・風雅ともに皆これ自己を磨きあげて、発句一つの主になろうと心掛ける人は、尤も、この兄弟句の区別を知るべきでしょう。
其角の『句兄弟』は、この三十九番の句合わせをもって終わる。ここでは、これまでの句合わせと異なり、自分(其角)の句を、兄句として先にし、師の芭蕉の句を弟句として後に持ってきている。ここのところは、判詞(自注)に、「此句感心のよしにて、塩鯛の歯のむき出たるも、冷じくやおもひよせられけん」とあり、其角は、師の芭蕉が、自句の「声かれて猿の歯白し岑の月」の句を認められて、師は、師の換骨奪胎の手法により、「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」の句を得たのであろうとされているのである。これは、意専(猿雖)宛て芭蕉書簡(元禄五年十二月三日付け)に、芭蕉自身がこの両句を載せていることからしての、其角の理解なのであろう。
○意専(猿雖)宛て芭蕉書簡(元禄五年十二月三日付け)
(前略)
声かれて猿の歯白し峰の月 キ角
只今愚庵に承り候
鶏や榾焚く夜の火のあかり 珍碩
塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚(店) 愚句
取紛候間早筆。卓袋参り候はゞ御かたり可被下候。さても人にまぎらされ、こゝろ隙無御座候。以上
極月三日 ばせを
意専 様
さらに、『三冊子』「あかさうし」(土芳著)には次のように記されている。
○ 塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚
此句、師のいわく「心遣はずと句になるもの、自賛にたらず」と也。「鎌倉を生(いき)て出(いで)けん初鰹」といふこそ、心のほね折、人の知らぬ所也。又いはく「猿のは(歯)白し峯の月」といふは其角也。塩鯛の歯ぐきは我(わが)老吟也。下を「魚の棚」とたゞ言(いひ)たるも自句也といへり。
もとより、芭蕉の「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」の句は、其角の「声かれて猿の歯白し岑の月」の句を、あたかも、この其角の『句兄弟』所収の他の句合わせにあるように、いわゆる、「反転の法」により換骨奪胎して作句したものではないが、芭蕉の意識のどこかには、この其角の句があったことは確かなところであろう。そして、上記の当時の書簡や『三冊子』の記述のニュアンスは、かっての、『虚栗』所収の其角の「草の戸に我は蓼(たで)食ふ蛍哉」に和して、これに巧みに唱和しながら、暗に其角に諭したかたちで詠んだ次の句より以上には、意識はしていないであろう。
和角蓼蛍句
○ あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉
この芭蕉の句の意は、「其角よ、あなたは、『草の戸』の世外の徒としての俳諧師として生きながら、また、『蓼食う虫(も好きずき)』の諺のように、世人が振り向かないような俳諧に身を挺しながら、夜になると、その『蓼』を求めて飛び交い且つ食らう『蛍』のように『酒色』に耽っているということだが、自分(芭蕉)は、朝は早く起き、そして、朝顔を眺めながら、もくもくと飯を食っている、ただの男に過ぎない。其角よ、ここは、少しは自省して、不惑の自分とまではいかないが、『草の戸』で、その『蓼食う虫』の真骨頂の佳き俳諧を見せて欲しいものだ」ということにでもなるであろう。そもそも、其角の「草の戸に我は蓼食う蛍哉」の句は、男に捨てられて傷心のままに貴船神社に参詣した和泉式部が、御手洗川(貴船川)に蛍の飛び交うさまを見て詠んだ古歌「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)とぞ見る」(『後拾遺集』)に基づく謡曲『鉄輪(かなわ)』の一節「我は貴船の河瀬の蛍」を背景にしてのものともいう(『堀切・前掲書』)。とすれば、其角の句は、これらの「古歌」・「謡曲」のみならず、「草の戸」・「蓼食う虫」の比喩と、それこそ、支考のいう、「何やらかやらあつめ」た作意の「人をおどろかす発句」(『十論為弁抄』)ということになろう。そして、『句兄弟』の句合わせの最後を飾る自句の「声かれて猿の歯白し岑の月」も謝観の「巴峡秋深し、五夜の哀猿月に叫ぶ」(『和漢朗詠集』「清賦」)などを背景として、「其角が猿の歯は、例の詩をたずね歌をさがして、枯てといふ字に断腸の情をつくし、峯の月に寂寞の姿を写し、何やらかやらあつめぬれば、人をおどろかす発句となれり」(『十論為弁抄』)の、いわゆる「手づま」(手先の技・手品・幻術)の一句なのである。それに対して、この弟句の芭蕉の「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」は、「心遣はずと句になるもの、自賛にたらず」(何の作意もせずに心に浮かんだものを句にしただけで、自賛するほどのものではない)と、いわゆる「手づま」否定の一句なのである。また、其角は「猿の歯白し峯の月」など「人をおどろかす発句」であるけれども、自分(芭蕉)は、普通に見掛ける「塩鯛の歯ぐき」で、それも、ただ店先の「魚の棚とたゞ言(いひ)たるも自句也」と、いわゆる「奇計・奇抜・洒落」風の句の否定の一句なのである。すなわち、「軽み」(日常のものを素材とし、しかも不作為で句にする)志向の芭蕉の、「洒落」(非日常的なものを素材とし、しかも作意で句にする)志向の其角への警鐘の一句なのでもある。そのことを其角は十分に承知しながら、この芭蕉の句の下五の「魚の店」は、その判詞(自注)で、「活語の妙」といい、「幽深玄遠に達する」と絶賛をしているのである。そして、其角が、この『句兄弟』の三十九の句合わせをとおして展開している、「反転の法」(点化句法)という換骨奪胎の手法は、この芭蕉のような、「活語の妙」・「幽深玄遠に達する」まで「錬磨」して、「発句一つのぬし」(一句あるいは一語の表現に、いかに独自の風を打ち出し、句主になる)という、その「句の主」になる、その「独自の作風」を目指すことなのだということを、其角は喝破して、其角は、そのことを繰り返し、この『句兄弟』の句合わせの「判詞」(自注)で述べているということであろう。
そもそも、この其角の『句兄弟』(上)の三十九の句合わせの全てについて見てみたいと思ったのは、次のアドレス(「謎句を解く」五十一)の下記(○・☆印)とおりのことが、その発端であった。
http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html
○国立国会図書館のデジタルライブラリに其角の『句兄弟』が掲載されているということとあわせ、次のような貴重なデータの紹介があった(下記、☆印)。こころのところを、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎著)では、「『予が句先にして、師の句弟と分け、その換骨をさとし侍る』と解説した。ここには、作意が働いた其角の伊達と、閑寂をよしとする芭蕉の差がよく示されている。これより、蕉門は分裂に分裂を重ねることになる。その引きがねをひいたのは、まぎれもなく其角である。其角は芭蕉の『軽み』など屁とも思っていなかった。かくして、芭蕉没後、蕉門は四分五裂をくりかえすことになる」として、これを、その著の結びとしている。以下、これらのこととあわせ、其角の『句兄弟』を見ていくことにする。
☆其角は『句兄弟』の最後に三十九番目の句として、自分と芭蕉の句を並べ、自分を兄、芭蕉を弟としている。『句兄弟』が刊行されたのは芭蕉が亡くなった元禄七年。これをもって其角はあえて蕉門の分裂の引き金を引いたのだとする論者もいるようだ。この二句に関しては、『句兄弟』に其角の評、『三冊子』に芭蕉の評、『十論為弁抄』に支考の評が載っている。其角の評の後段の意味がよくわからないが、両者の俳諧観の違いがここに尽きているのかも知れない。支考は両者の本質を見抜いているようだ。
※『句兄弟』三十九番
兄 晋子
聲かれて猿の歯白し峯の月
弟 芭蕉
塩鯛の歯茎も寒し魚の店
(or 塩鯛の歯茎は寒し魚の棚)
●其角『句兄弟』 其角の評
※原文:是こそ冬の月といふべきに山猿叫んで山月落と作りなせる物すごき巴峡の猿によせて峯の月と申したるなり。沽衣聲と作りし詩の余情ともいふべくや。此の句(芭蕉が)感心のよしにて塩鯛の歯むき出したるの冷しくや思ひよせられけん。衰零の形にたとへなして、老の果、年の暮とも置かれぬべき五文字を、魚の店と置かれたるに活語の妙をしれり。其幽深玄遠に達せる所、余はなぞらへてしるべし。
此の句は猿の歯と申せしに合せられたるにはあらず。只かたはらに侍る人海士の歯の白きはいかに猫の歯冷しくてなどと似て似ぬ思ひよりの発句には成まじき事。ともに作意をかすめ侍るゆへ予が句先にして師の句弟を分(わかつ)。其換骨をさとし侍る師説もさのごとく聞こえ侍るゆへ自評を用ひずして句法をのぶ。此の後反転して猫の歯白し蜑の歯いやしなどと侍るとも発句の一躰備へたらん人には等類の難ゆめゆめあるべからず。一句の骨を得て甘き味を好まず意味風雅ともに皆をのれが錬磨なれば発句一つのぬしにならん人は尤も兄弟のわかちをしるべし。
※換骨:古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる。
●土芳『三冊子』 芭蕉の評
※原文:塩鯛の歯ぐきも寒し魚の棚
此の句、師いはく。思ひ出すと句に成るもの自賛にたらずと也。鎌倉を生きて出けん初鰹 といふこそ、心の骨折、人のしらぬ所也。又いはく、猿の歯白し峯の月 といふは其角也。塩鯛の歯ぐきは我老吟也。下を魚の棚とただ言いたるも自句也といへり。
※解釈:この句について師(芭蕉)は、その情景を思い出すと自然に句になるような作品は苦心したのではないから自賛に値しないと言った。鎌倉を生きて出けん初鰹(葛の松原)という句を詠んだときの自分の心中の苦心はいかばかりであったことか、それは人の知らないところだ。聲かれて猿の歯白し峯の月 という句は其角作だ(が同様であろう)。塩鯛の歯ぐきの句は自分の老吟である。下を魚の棚とただ平凡に言った点も(鎌倉の句や其角の句とは違い)自分流の句であると言った。
●支考『十論為弁抄』 支考の評
※原文:されば其角の猿の歯は、例の詩をたづね、歌をさがして、枯れてといふ字に断腸の情をつくし、峯の月に寂寞の姿を写し、何やらかやらあつめぬれば、人をおどろかす発句となれり。祖翁の塩鯛は、塩鯛のみにして、俳諧する人もせぬ人も女子も童部(わらんべ)もいふべけれど、たとひ十知の上手とても及ばぬ所は下の五文字なり。ここに初心と名人との、口にいふ所はおなじなれど。意にしる所の千里なるを信ずべし。
今いふ其角も、我輩も、たとへ塩鯛の歯ぐきを案ずるとも魚の棚を行き過ぎて、塩鯛のさびに木具の香をよせ、梅の花の風情をむすびて、甚深微妙の嫁入りをたくむべし。祖翁は、其日、其時に神々の荒の吹つくしてさざゐも見えず、干あがりたる魚の棚のさびしさをいへり。誠に其の頃の作者達の手づまに金玉をならす中より、童部もすべき魚の棚をいひて、夏爐冬扇のさびをたのしめるは、優遊自然の道人にして、一道建立の元祖ならざらんや。
※参考文献
(1) 『句兄弟』in 珍書百種. 第1巻 / 宮崎三昧編,春陽堂, 明27.8
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
(2)『三冊子』、連歌論集俳論集 日本古典文学大系 岩波書店
(3)『三冊子』、日本名著全集 芭蕉全集
長い道程であったが、其角の、この『句兄弟』(上)の、これらの句合わせは、その『句兄弟』(上・中・下)の、いわば、序章にあたるものであろう。そして、その序章の結びとして、其角の句(兄句=先句)と師の芭蕉の句(弟句=後句)を並列して、「師の芭蕉のような、『活語の妙』・『幽深玄遠に達する』まで『錬磨』して、『発句一つのぬし』(一句あるいは一語の表現に、いかに独自の風を打ち出し、句主になる)という、その『句の主』になる、その『独自の作風』を目指すことなのだ」ということを、その結語としたかったのであろう。ここのところを、其角の原文で示すと、次のとおりとなる。
○発句の一躰備へたらん人には、等類の難ゆめゆめあるべからず。一句の骨を得て甘き味を好まず、意味風雅ともに皆おのれが錬磨なれば、発句一つの主にならん人は、尤も、兄弟のわかちを知るべし。
この『句兄弟』(上)を序章として、『句兄弟』(中)に、芭蕉の「東順伝」と『雑談集』よりの歌仙などを掲載する。その後、『句兄弟』(下)として、「随縁紀行」という形で、この『句兄弟』が成った元禄七年(一六九四)の三回目の上方紀行(同行者は岩翁・亀翁・横几・尺草・松翁の五人)時の発句などを掲載する。この「随縁紀行」の最後には、「十月十一日、芭蕉翁、難波に逗留のよし聞えければ、人々にもれて彼(かの)旅宅に尋(たづね)まい(ゐ)るゆへ(ゑ)、吟行半(なか)バに止む」との、芭蕉が没する前日の記事を掲載して終わっている。そして、これらの後で、其角は、「句兄弟追考六格」(「氷川詩式」巻三「句法」の「建句・新句・偉句・麗句・豪句」の分類)として、新しい発句の分類を提示しているのである。その「豪句」の筆頭の句に、次の芭蕉の句を掲げる。
○ 六月や峯に雲置(おく)あらし山 芭蕉
この芭蕉の句は、芭蕉が没する年であり、そして、この『句兄弟』が成った、元禄七年の六月(改作の最終案は十月九日)の作で、『三冊子』(「あかさうし」)に、「この句、落柿舎の句也。『嵐置嵐山』といふ句作、骨折たる処といへり」とある。すなわち、其角は、この句に、芭蕉の、『錬磨』の、『発句一つのぬし』を見てとったのであろう。この『句兄弟』(上・中・下)は、亡き父への追善の書であったとともに、亡き師の芭蕉に捧げるものであったのであろう。ここに、其角の、芭蕉とともにあった二十年間(延宝二年~元禄七年)の総決算ともいうべき、その偉業の全てを見て取れるような思いを深くする。
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