火曜日, 4月 24, 2007

其角とその周辺(その八・七十二~八十)


画像:杉山杉風

謎解き八

(謎解き・七十二)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十一番
   兄 彫棠
 つたなさや牛といはれて相撲取
   弟 (其角)
 上手ほと(ど)名も優美なりすまひ取

判詞(自注)に、「句の裏へかけたり。これもすまふの一手たるべし。牛といふ字にかけて、上手も立ならぶべくや」とある。

下記のアドレスの「愛媛の偉人・賢人の紹介」の「松平定直」の記事の中に「彫棠」の名が見られる。この彫棠は其角派の主要俳人の一人で、この彫棠を通して、この定直(俳号・三嘯)やその重臣・粛山などとの接点が生まれたように解せられる(『田中・前掲書』)。

http://joho.ehime-iinet.or.jp/syogai/jinbutu/html/081.htm

(松平定直)
俳人。松山第4代藩主。江戸(現東京都)の今治藩邸に生まれる。度重なる天災の災害復旧と財政の立て直しのため、潅漑土木に藩費を投入し農業生産の安定化を図るとともに、定免制を復活させ、地坪制を遂行し、経済を安定させた。また、積極的に儒学の興隆を図ることで、松山を中心とする地方文化の発展を促した。自ら、和歌・俳諧をたしなみ、特に其角や嵐雪など江戸俳人の指導を受け、句作に興ずることが多かったことから、藩士の中から粛山・(青地)彫棠のような俳人が現れ、俳諧をたしなむ藩風を生んだ。

ここで、『去来抄』「修行」の下記のアドレスでの「同巣・同竈」のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#t

(「修行」二十三)

23、去来曰(きょらいいはく)、蕉門に同巣・同竈(どうさう)といふ事あり、是(これ)は前吟の鋳型に入て作りたる句の意に又入(またいり)て作(さく)する句也(くなり)。譬(たと)へば竿(さを)が長くて物につかゆるといふを、刀の小尻(こじり)が障子にさはる、或(あるい)は杖が短かくて地にとどかぬといふを・・・と吟じかゆる也(なり)、同じ巣の句は手柄なし。されど兄より生れ増(まし)たらんは、また手柄也(てがら)。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,69)

 パクリというのはいつの時代にもあるもので、それも、そのまんまではすぐにばれるから、たいていは一部分を微妙に変えて作る。音楽の世界では、コード進行を同じにしてメロディーを変えるだとかいうのはよくあるし、それを更にテンポを変えたり、リズムを変えたりすると、まったく別の曲のように聞こえる。ブルーハーツの「人に優しく」の、ドシラソミレドという下がってゆくメロディーを「木更津キャッツアイのテーマ」ではドシラソラシドという途中から上がってゆくメロディーにしているが、これはもちろん、ドラマの中でパクリの曲を作る場面で用いられている。だが、ヒット曲の中にも結構この手のものは多い。日本代表のサポーターソングにも採用されたボニーMの「ジンギスカン」はレレミミファーミレファファミレー、ドドドレミーレドミミレドー、レーレーレーレードーシーラードーミーーーうっ!はっ!だが、これをファファミミレーラーファファミレーーー、ミミレレドーソーミミレドー、レーレーレーレードーシーラードーミーーーうっ!はっ!とすると・・・♂。ただ、作曲の場合、この程度は認められている。
 和歌では、

 都をば霞とともにたちしかど
    秋風そ吹くしらかはのせき
                   能因法師
 都にはまだ青葉にてみしかども
    紅葉ちりしくしらかはのせき
                   前右京権大夫頼政

の類似がよく知られている。これなどは、蕉門でいう同竈(どうそう)(同巣(どうそう))と言っていいだろう。旅路の長さを季節の経過で表す発想は、いろいろなバリエーションで使うことが出来る。ただ、現代だと地球の裏側でも一日で行けるので、それほど長く旅することというのがあまりなく、かえって難しい。
 『去来抄』同門評12では、

 桐(きり)の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆(ぼんちょう)
 樫(かし)の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

の類似が指摘されているが、この場合、言葉の続き具合が似ているだけで、前者は風もないのにちってゆく霧の葉を呼んだもので、発想としては、

 ひさかたの光のどけき春の日に
    しづこころなく花のちるらん
                    紀友則(きのとものり)

に近い。これに対して、芭蕉の句は三井秋風(みついしゅうふう)の別荘を尋ね、秋風の時代に流されない姿を比喩として呼んだものだから、発想は全く違う。
 同竈の句と言うのは、去来の説明によれば、「竿(さを)が長くて物につっかえる」というのを、「刀の小尻(こじり)が障子にぶつかる」としたり、また逆に「杖が短かくて地にとどかない」に代えるような、発想の類似なので、これを今でいうと、こういうことだろう。

 万緑の中や吾子(あこ)の歯生(は)えそむる   草田男(くさたお)

これをパクるとすれば、万緑のような、いかにも命の生き生きと輝くようなものに、子供などの成長と重ね合わせる発想をパクるのがいいだろう。たとえば、

 吾子立てり今盛りなる八重桜

何てのはどうだろうか。何も人間の赤ちゃんでなくてもいい。

 猫の仔の五匹生れて山笑う

何てのはどうだろうか。これを逆に命の衰退と老化というふうに組み合わせてはどうだろうか。だがこれだと、

 がっくりとぬけ初(そ)むる歯や秋の風   杉風(さんぷう)

になってしまう。してみると、草田男の句は杉風の句をひっくり返しただけの同竈(どうそう)の句なのだろうか。これを、

 秋風の中やわれの歯抜けそむる

とでもすれば完璧だろう。
 結局人間の発想なんてものは限られているし、本当のところ同竈なんてものはそう気にする必要はない。最後の去来の言葉が本音だろう。「されど兄より生れ増(まし)たらんは、また手柄也(てがらなり)。」要するに句が良ければそれでいい。


(謎解き・七十三)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十二番
   兄 宗因
 人さらにげにや六月ほとゝぎす
   弟 (其角)
 蕣(あさがほ)に鳴(なく)や六月ほとゝぎす

宗因の句の「六月」は老の象徴。其角の判詞(自注)に「あさがほのはかなき折にふれて、卯花・橘の香のめづらしき初声のいつしかに聞(きき)ふるされて、老となりぬるを取合(とりあわせ)て、老―愁の深思をとぶらひぬ」とある。談林派の宗因の風姿に対して蕉門の其角という風姿である。このように二句を並記し、鑑賞すると、両者の作風の違いが歴然としてくる。

宗因については、下記のアドレスの下記の紹介記事のほか、ネット関連でもその紹介記事は多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%AE%97%E5%9B%A0

西山宗因(にしやまそういん、慶長10年(1605年) - 天和2年3月28日(1682年5月5日))は、江戸時代前期の俳人・連歌師。本名は西山豊一。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。通称次郎作。俳号は一幽と称し、宗因は連歌名。生れは肥後国熊本。談林派の祖。
15歳頃から肥後国八代城代加藤正方に仕えた。正方の影響で連歌を知り京都へ遊学した。里村昌琢(しょうたく)に師事して本格的に連歌を学んだが、1632年(寛永9年)主家の改易で浪人となる。1647年(正保4年)大阪天満宮連歌所の宗匠となり、全国に多くの門人を持つようになった。一方では、俳諧に関する活動も行い、延宝年間頃に談林派俳諧の第一人者とされた。俳諧連歌ははじめ関西を中心に流行し、次第に全国へ波及し、松尾芭蕉の蕉風俳諧の基礎を築いたが、宗因は晩年連歌に戻った。

ここで、『去来抄』「修行」の下記のアドレスでの「宗因は此道の中興開山也」(不易流行関連)のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#h

(「修行」九)

9、魯町曰(ろちゃういはく)、不易流行の句は古説にや、先師の発明にや。去来曰、不易流行は万事にわたる也(なり)。しかれども俳諧の先達是(せんだつこれ)をいふ人なし。長頭丸已来(ちゃうづまるいらい)手をこむる一体久しく流行し、角樽(つのだる)やかたぶけ飲(のま)ふ丑(うし)の年、花に水あけてさかせよ天龍寺、と云迄(いふまで)吟じたり。世の人俳諧は如此(かくのごとき)ものとのみ心得つめれば、其風(そのふう)を変ずる事をしらず。宗因(そういん)師一度(ひとたび)そのこりかたまりたるを打破(うちやぶ)り給(たま)ひ、新風を天下に流行し侍れど、いまだ此教(このをしへ)なし。しかりしより此(この)かた、都鄙(とひ)の宗匠たち古風を不用(もちひず)、一旦流々(いったんりうりう)を起せりといへども、又其風(またそのふう)を長く己が物として、時々変ずべき道を知らず。先師はじめて俳諧の本体を見付(みつけ)、不易の句を立(たて)、又(また)風は時々変(へん)ある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。しかれども先師常に曰、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳の涎(よだれ)をねぶるべし。宗因は此(この)道の中興開山也(かいざんなり)といへり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,64~65)

 不易流行の発想自体は古くから東アジアの風土に根ざしたもので、たとえば『易経』にはこういう一節がある。

 「天地の道は、恒久にして已(や)まざるなり。…略…日月は天を得て能(よ)く久(ひさ)しく照らし、四時は変化して能く久しく成(な)し、聖人はその道に久しく天下化成す。その恒(つね)とするところを観(み)て天地万物の情見るべし。(天地之道、恒久而不已也。…略…日月得天能久照、四時変化能久成、聖人久於其道而天下化成。観其所恒而天地万物之情可見矣。)」『易経』「雷風恒」

 古代中国の文明は天地を生きたものとして捉え、絶えず変化する自然現象の中に変らない普遍的な道を求めた。それは西洋的な科学法則のようなものではなく、むしろ天地が情を持つものとして捉え、それを共感的に認識しようとした。季節(四時)の変化を生きとし生けるものの生命の循環に重ね合わし、春に生命の生じるのを喜び、秋に死ぬのを悲しむ。それは、芭蕉のみならず東アジアの詩の根底に常にある考え方だった。
 この考え方は、やがて朱子学によって理と気の二元論へと集大成された。変化してやまない日々の現象は「気」であり、その根底にある天地の道は「理」と呼ばれた。『中庸』に「誠は天の道なり」とあるように、「理」は同時に「誠」でもある。特に幕府が国教とした林羅山の朱子学は「誠」を重視するものだった。土芳編の『三冊子』の、

 「師の風雅に萬代不易有。一時の変化あり。この二ッに究り、其本一也。その一といふは風雅の誠也。」

もそうした朱子学思想による。
 芭蕉自身は「誠」という朱子学的な言葉より、老荘的な「造化(ぞうくゎ)」という言葉のほうを好んだのかもしれない。『笈の小文』の次の一文は、数少ない芭蕉自身が語る不易流行説といえよう。

 「西行の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道(そのくゎんだう)する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうくゎ)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄(いてき)を出(いで、鳥獣を離れて、造化(ぞうくゎ)にしたがひ造化(ぞうくゎ)にかへれとなり。」『笈の小文』

 芭蕉の不易流行説は『易経』や朱子学の説のような、変化してやまぬ自然の流行に対して、その根底にある命の普遍性を説くだけでなく、様々な芸術の時代による風体や様式の変化にも拡大するところに大きな特徴がある。この考え方は『詩経』の変風変雅の思想との接合によるものだろう。西行、宗祇、雪舟、利休に貫通するものは、四時の変化に貫通するものとも一つである。

 「詩は志すところのものである。心にあるのを志といい、言葉にして発すれば詩になる。感情が心の中を動き、言葉となって形を表わす。言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。感情は声によって発せられ、声は文章となる。これを音という。良く治まった世の中の音は安らかで楽しい。その政策が平和だからだ。乱世の音は怨みがこもって怒っている。その政策が民衆から乖離しているからだ。亡国の音は悲しくて思い詰めた調子だ。それは民衆が困窮しているからだ。故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。…略…為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。国史はこれら政治の得失を明らかにし、人倫の廃れるのを傷み、刑政の過酷を哀れみ、情性を吟詠し、以てそれを風刺し、世の事々の変化に通じ、その旧俗を懐かしむのである。
 (詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。情動於中、而形於言。言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。情發於聲、聲成文。謂之音、治世之音、安以楽。其政和。乱世之音、怨以怒。其政乖。亡国之音、哀以思。其民困。故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。…略…上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。国史明乎得失之迹、傷人倫之廃、哀刑政之苛、吟詠情性、以風其上、達於事変、而懐其旧俗者也。)」『詩経』「大序」

 変化するのは天地だけでなく、人の心も変化する。そのため、時代によって詩の作風は変ってくる。芭蕉は、こうした詩風の変化のなかにも不易のものを読み取ろうとした。その根底には儒教・仏教・老荘・神道もその根底は一つという当時の一般的な考え方があり、また実際に旅をし、いろいろな地方独自の文化に接しながらも人間は皆同じだという確信があったのだろう。直接的には、貞徳門の古めかしい俳諧に対し、宗因が現代的な風俗をリアルに描きだす新しい俳諧(談林俳諧)を開いたことに、まだ江戸に出てきたばかりの芭蕉がすっかり感化された、その時の経験によるもので、旅に生き旅に死んだ一所不住の生き方も宗因の影響である可能性が大きい。
 去来が、「不易流行は万事にわたる也」と言うのは、それが朱子学に基づく天地の本質であるからであり、ただそれを俳諧に応用したのは芭蕉が初めてだと言う。松永貞徳(長頭丸)が起こした俳諧も、複雑な言葉遊びを駆使した「手をこめた」スタイルで一世を風靡したが、世の人はただ俳諧というのはこういうものだと思うだけで、俳諧が時代とともに変わるということを知らなかった。宗因は庶民の生活をリアルに描き出して、またひとしきり流行を生み出したが、宗因にも不易流行の教えはなく、宗因の後継者達はやはり俳諧はこういうものだとばかりに、自分の一度習得した風体を後生大事に守るだけだった。芭蕉が始めて風体は時代とともに変わることを見抜き、一つのスタイルを確立してもそれに安住することなく、常により新しい風体を追い求める必要があることを悟ったという。
 これは今日でも多くのアーチストに当てはまることだろう。ひとたび功なり名を成し遂げると、人間はついつい守りに入る。もっとも、結局人間は年とともに頭が固くなるため、本当のところ単に生理的に変化について行けなくなってしまうだけなのかもしれない。頭が固くなるのは凡人に限ったことではなく、アインシュタインのような天才でさえも結局最後まで量子力学を認めることができなかった。ピカソもキュービズムの時代までは新しかったが、それ以降は急速に保守的になった。年取っても時代の変化に対応できるというのは、個々の努力を超えた資質によるのかもしれない。去来もまた、惟然の風にはついて行けなかったし、結局生涯芭蕉の風を守るだけで、自ら新風を起こすこともなかった。去来に限らず、その後の江戸の俳諧師たちは、蕪村・一茶を含めても、本当の意味での新風を起こすことはできず、次の新風は正岡子規の写生俳句の登場を待たなくてはならなかったと言ってもいいのかもしれない。
 皮肉なことに不易流行を説いた芭蕉の風はあまりにも完成度が高く、誰も越えられなかったがために、結果的に世人はみな俳諧とはこのようなものだと思い、芭蕉の後に新風を起こせなくなってしまったのだ。そして、正岡子規が近代俳句を起こすと、今度は「俳句」と言うのは写生に始まり写生に終わるものだと思い、いまだにそれを越えられなくなっている。

(謎解き・七十四)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十三番
   兄 東順
 夏しらぬ雪やしろりと不二の山
   弟 (其角)
 雪に入(る)月やしろりと不二の山

 判詞(自注)の「亡父三十年前句なり。風俗うつらざれども、古徳をしたふ心よりして、あながち句論に及ばず」のとおり、其角の父、竹下東順の句が兄の句である。『続俳人奇人談(中巻)』に東順について次のとおりの記述がある。

竹下東順
 竹下東順は江州の人、其角が父なり。若かりしより、医術をまなびつねの産とせしが、ほどなく本田候より俸禄を得て、妻子を養ふ。やうやく老いに垂(なんな)んとする頃、官路をいとひて市居に替へたり。俳事をたのしんで机をさらず、筆をはなさざる事十年あまり、その口吟櫃(ひつ)にみてりとかや。
  白魚や漁翁が歯にはあひながら
  年寄もまぎれぬものや年の暮
 蕉翁評して云く、この人江の堅田に生れて、武の江戸に終りをとる、かならず太隠は朝市の人なるべしと。

 『田中・前掲書』によれば、「竹下という姓が現れるのは『其角伝』が最初だと思うが、ここには竹内という異説も紹介されている。竹下・竹内のいずれも根拠不明だが、なぜか竹下説が定説となった。かりに竹下が正しいとしても、東順は妻の実家の姓を名乗ったのだから、彼の姓を竹下とするのは間違いである。今日流布する俳諧関係の文献はすべて竹下東順と記すが、榎下(「えのもと」ではなく「えのした」の読み)東順と記すべきであろう」としている。ここでは、こういう説もあるということにとどめたい。さらに、「元禄六年(一六九三)八月二十九日に父の東順が没した。其角が編集した父の追善集『萩の露』(元禄六)に『七十三歳の老医』と記されているが、芭蕉の『東順伝』(『句兄弟』)に『七十歳ふたとせ(七十二歳)』とあり、『類柑子』(宝永四)の『松の塵』に其角自身が『亡父東順七十二』と記しているから、東順の享年は七十二歳であろう。この年其角は三十三歳である」の記述もある。いずれにしろ、其角の父、東順は芭蕉に親しい俳人の一人であり、俳人・其角の生涯というのは、この東順が大きく影響していたということは確かなところであろう。この『句兄弟』に、亡き父の東順の句をもってきたのも、その判詞(自注)の「予(其角)は親(東順)にわかれて薬箱より此句を出すべしとはしらざりしに、思ひの外の追善也」と、亡き父・東順への追善という思いもあろう。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「類想のいましめ」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」十)

10、 面梶(おもかじ)よ明石(あかし)のとまり時鳥(ほととぎす)    野水(やすゐ)
 猿ミの撰の時、去来曰、此(この)句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集(につしふ)すべからず。先師曰、明石(あかし)の時鳥(ほととぎす)といへるもよし。来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主(くぬし)の手柄(てがら)なし。先師曰、句の働(はたらき)におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄(とりえ)に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。終(つい)に是(これ)をのぞき侍る。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,14)

 芭蕉の

 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす  芭蕉

の句は、『奥の細道』の文脈だと那須野で妖狐玉藻(ようこたまも)の伝説で名高い殺生石(せっしょうせき)を見に行く際の句だ。

 「是(これ)より殺生石(せっしゃうせき)に行(ゆく)。館代(くゎんだい)より馬にて送らる。此口付(このくちつき)のおのこ、『短冊(たんざく)得させよ』と乞。やさしき事を望侍(のぞみはべ)るものかなと、

 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす」

「やさしき」という言葉は本来両義的な言葉で、「やさしき」は「恥(やさ)し」から来た言葉で、良いにつけても悪いにつけても「恥ずかしくなるような」という感覚を表わす。一般的に此句は良いほうの意味にとって、こんな田舎のやまがつの類のような馬子でも俳諧をたしなむのかと感激して、一句したためたという意味に解されている。そのため、句自体は状況と切り離されて、独立したものとして読まれている。しかし、それでは「馬牽むけよ」という命令口調が生きてこない。この句は明かに馬子に向かって語りかけられている。もちろん芭蕉には、こんな田舎の馬子までが自分のことを 知っててくれて、発句の揮毫(きごう)を求めていることに感激するとともに、こんな所でいきなり気恥ずかしい、でも満更でもない、そういう両面を含めて「こんなところで短冊とはまた困ったことを言う人だ。それならせめて郭公の声がする所まで横道に入って連れて行ってくれ」と詠んだのではなかったか。
 これに類する句がもう一つ『奥の細道』の中にある。それは加賀の全昌寺(ぜんしょうじ)の場面だ。

 「けふは越前(ゑちぜん)の国へと、心早卒(さうそつ)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども紙硯(かみすずり)をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追来(おひきた)る。折節庭中(をりふしていちゅう)の柳散れば、

 庭掃(はき)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳」

この句も芭蕉が自ら庭を掃いて出たというふうに解されているが、それでは前後との文脈がわからなくなる。この句も那須野の句と同様に考えるべきだろう。確かに、お寺に一夜泊めてもらった以上、その庭を掃除して出て行くのは礼儀だろう。しかし、寺の子坊主に揮毫をせがまれたというのであれば、この句はこういう句となる。「ああ、庭を掃いて出て行かなくてはならないな、庭に柳が散っているぞ。庭掃きは本当は私の仕事だが、揮毫をしてくれというなら君たち、私の代わりに庭を掃いておいてくれないか。」
 しかし、問題なのは、『去来抄』のエピソードは『猿蓑』の撰の時のものであり、当時はまだ『奥の細道』そのものが書かれていなかった。だから、去来はこの句を前書きも何もなしでただ単に

 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす  芭蕉

という句として理解していた。ひょっとしたら旅のエピソードとして何か聞いていたかも知れないが、ここでは句の作られた状況は問題になっていない。野水も果たして芭蕉のこの句を知っていて

 面梶(おもかじ)よ明石(あかし)のとまり時鳥(ほととぎす)    野水

の句を読んだのかどうかも定かではない。偶然の一致ではないかと思われる。
 去来の立場からすれば、同じ趣向の句であるとすれば師である芭蕉の句を優先させるのは人情として当然のことだろう。それゆえ「去来曰、此(この)句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集(につしふ)すべからず。」となる。それに対して芭蕉の方は冷静だ。「先師曰、明石(あかし)の時鳥(ほととぎす)といへるもよし。」明石の時鳥というのもまた一興ではないか。これに対し去来は「来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主(くぬし)の手柄(てがら)なし。」明石の時鳥なんて聞いたこともない。ただ馬と舟を入れ替えただけのパクリだ。こんな句を入集させるわけにはいかない、と強情に突っぱねる。仕方なく芭蕉はこう言う。「先師曰、句の働(はたらき)におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄(とりえ)に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。」句をとってみただけではどちらが優れているとも言い難い。あとは野水が明石の時鳥をどんな特別な意味をもって聞いていたかだ。「撰者の心なるべし」と言った以上、最後は去来自身の判断となる。「終(つい)に是(これ)をのぞき侍る。」
 これが果たして芭蕉の意図に沿うものだったのかどうかは定かでない。芭蕉からすれば、確かに「野を横に…」の句は旅の一つの思い出であり、愛着がある。だからこそ、野水の句にも何か事情があるのではないかと思うのは当然だろう。外見の類似だけ見て、単なる子弟愛という次元で事が処理されることは望まなかったに違いない。

(謎解き・七十五)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十四番
   兄 仙化
 つくづくと書図のうさぎや冬の月
   弟 (其角)
 つくづくと壁のうさぎや冬籠

 仙化(仙花とも)については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/senka.htm

(仙化)
江戸の人。『蛙合』の編者。『あら野』、『虚栗』、『続虚栗』などに入句している。
(仙花の代表作)
一葉散(ちる)音かしましきばかり也 (『あら野』)
起起(おきおき)の心うごかすかきつばた (『猿蓑』)
おぼろ月まだはなされぬ頭巾かな (『炭俵』)
氣相よき青葉の麥の嵐かな (『炭俵』)
みをのやは首の骨こそ甲(かぶと)なれ (『炭俵』)
螢みし雨の夕や水葵 (『炭俵』)
一枝はすげなき竹のわかば哉 (『炭俵』)
三尺の鯉はねる見ゆ春の池 (『續猿蓑』)

この仙化は素性不明の人物だが、『蛙合』(貞享三)の編者として知られている。なお、『田中・前掲書』によれば、「仙花と仙化を同一人と断定してよいかどうか問題である。少なくとも仙化が仙花と改号した形跡はなく、本書では別人と考えておきたい」とされている(ここでは、同一人物として『炭俵』(仙花)所収の句もあげてにおくこととする)。

「判詞」(自注)には、「かけり(働き)過ぎたる作為」にて「本意をうしなふ興」にならないようにとの指摘も見られる。

ここで、『去来抄』「同門評」の下記のアドレスでの「本意の把握」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#j

(「同門評」十一」)

11、 鶯の身を逆(さかさま)にはつね哉(かな)   其角(きかく)
   鶯の岩にすがりて初音哉(はつねかな)     素行(そかう)
 去来曰、角が句ハ春煖(しゅんだん)の乱鶯(らんあう)也。幼鶯(ようあう)に身を逆(さかさま)にする曲(きょく)なし。初の字心得がたし。行(かう)が句ハ鳴鶯(めいあう)の姿にあらず。岩にすがるハ、或(あるい)ハ物におそはれて飛(とび)かかりたる姿、或餌(あるいはゑ)ひろふ時、又ハここよりかしこへ飛(とび)うつらんと、伝(つた)ひ道にしたるさま也。凡(およそ)物を作するに、本性(ほんじゃう)をしるべし。しらざる時ハ珍物新詞に魂を奪ハれて、外の事になれり。魂を奪るるは其物に着する故(ゆゑ)也。是(これ)を本意(ほい)を失ふと云(いふ)。角が巧者すら時に取(とつ)て過有(あやまちあり)。初学の人慎(つつし)むべし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,33~34)

 句の姿は重要だし、誰もが「ある、ある。」というようなものや、「いかにもありそうな」というのは、句にリアリティーを与える。しかし、誇張しすぎると、いかにも作りっぽくなってしまう。
 ベタな漫画に「遅刻ー!」と言いながらパンをくわえて走る人がいたりするが、実際にこんな人を見た人がいるだろうか。TVアニメの「サザエさん」の主題歌に「お魚くわえたどら猫」という歌があるが、本当に裸足で猫を追っかけている主婦を見たなら感動ものだろう。
 鶯の初音だから、何か不慣れで、通常とは違う突飛なことをやりそうだ、という雰囲気はわかる。しかし、

 鶯の身を逆(さかさま)にはつね哉     其角

はいかにも大げさで、やはり去来に、これは春も爛漫で乱れ鳴く鶯ではあっても初音ではない、と突っ込まれてしまった。

 鶯の岩にすがりて初音(はつね)哉    素行

も同様、実際にそんな岩場の危なっかしいところで恋鳴きはしない。
 これらは鶯の初音という、初春の目出度い心を表現したものではなく、むしろ何か目新しい趣向を求めるあまりに、現実離れし、本来の目出度い情を逸してしまっている。俳諧は新味を命とするが、目新しさばかりを求めると、かえって荒唐無稽になってしまう。


(謎解き・七十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十五番
   兄 僧 路通
 大仏うしろに花の盛かな
   弟 (其角)
 大仏膝うづむらむ花の雪

「判詞」(自注)に、「東叡山の遊吟也」とあり、上野の森の「東叡山」(寛永寺)での作である。当時、東叡山付近に「上野大仏」があり、そのネット関連のものは、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.enjoytokyo.jp/OD003Detail.html?SPOT_ID=l_00004780

寛永八年(一六三一)当時越後の国、村上城主堀丹後守藤原直寄公がかつて自分の屋敷地として幕府から割当られたこの高台に土をもって釈迦如来の大仏像を創建し、戦乱にたおれた敵味方将兵の冥福を祈った。その後尊像は政保四年(一六四七)の地震で破損したが、明暦、万治(一六五五~六十)の頃、木食僧浄雲師が江戸市中を歓進し浄財と古い刀剣や古鏡を集め青銅の大仏を造立した。元禄十一年(一六九八)東叡山輪王寺第三世公弁法親王の命で、従来の露仏に仏殿が建立された。また堂内には地蔵、弥勒のニ菩藩も安置された。天保十ニ年(一八四一)葛西に遭い、天保十四年四月、末孫堀丹波守藤原直央公が大仏を新鋳し、また仏殿も再建された。慶応四年(一八六八)彰義隊の事変にも大仏は安泰であったが、公園の設置により仏殿が撤去されて露仏となった。大正十二年、関東大震災のとき仏頭が落ちたので寛永寺に移され、仏体は再建計画のために解体して保管中、昭和十五年秋、第二次世界大戦に献納を余儀なくされた。

路通については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/rotsu.htm

八十村氏。露通とも。近江大津の人。三井寺に生まれ、古典や仏典に精通していた。蕉門の奇人。放浪行脚の乞食僧侶で詩人。後に還俗。元禄2年の秋『奥の細道』 では、最初同行者として芭蕉は路通を予定したのだが、なぜか曾良に変えられた。こうして同道できなかった路通ではあったが、かれは敦賀で芭蕉を出迎え て大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年1月3日まで京・大坂での生活を共にする。路通は、素行が悪く、芭蕉の著作権に係る問題を出来し、勘気を蒙ったことがある。元禄3年、陸奥に旅立つ路通に、芭蕉は「草枕まことの華見しても来よ」と説教入りの餞の句を詠んだりしてもいる。 貞亨2年春に入門。貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと見られている。『俳諧勧進帳』、『芭蕉翁行状記』がある。
(路通の代表作)
我まゝをいはする花のあるじ哉 (『あら野』)
はつ雪や先(まず)草履にて隣まで (『あら野』)
元朝や何となけれど遅ざくら (『あら野』)
水仙の見る間を春に得たりけり (『あら野』)
ころもがへや白きは物に手のつかず (『あら野』)
鴨の巣の見えたりあるはかくれたり (『あら野』)
芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ (『あら野』)
蜘(くも)の巣の是も散行(ちりゆく)秋のいほ (『あら野』)
きゆる時は氷もきえてはしる也 (『あら野』)
いねいねと人にいはれつ年の暮 (『猿蓑』)
鳥共も寝入てゐるか余吾の海 (『猿蓑』)
芭蕉葉は何になれとや秋の風 (『猿蓑』)
つみすてゝ蹈付(ふみつけ)がたき若な哉 (『猿蓑』)
彼岸まへさむさも一夜二夜哉 (『猿蓑』)

この路通の『俳諧勧進帳』(元禄四年刊)の「跋」は其角が草し、その文体は歌舞伎の台詞調に倣ったもので、いかにも洒落闊達な其角の面目躍如たるものである。

○俳諧の面目、何と何とさとらん。なにとなにと悟らん。はいかいの面目は、まがりなりにもやつておけ。一句勧進の功徳は、むねのうちの煩悩を舌の先にはらつて、即心即仏としるべし。句作のよしあしは、まがりなりにもやつておけ。げにもさうよ、やよ、げにもさうよの。

 この其角「跋」の「まがりなりにやつておけ」というのは「適当にやつておけ」ということで、形を整えるのは二の次で、即興性こそ俳諧の面目だということなのであろう。ここのところを、『田中・前掲書』では、「其角のいう作為とは、即興的な言い回しの中で言葉を効果的に用いることだと考えてよい。考えたすえの洒落が面白くないように、其角の句の多くは当意即妙に作られたことに面白さがある。其角晩年の俳風が後に洒落風と呼ばれた理由の一つは、彼が即興性を重んじたからであろう。即興性は洒落のもっとも重要な要素である」と指摘している。この「まがりなりにもやつておけ」ということは、例えば、この其角の『句兄弟』の換骨奪胎の具体例でも、まさに、其角の当意即妙な即興的なものと理解すべきなのであろう。

ここで、『去来抄』「修行」の下記のアドレスでの「しほり、細み」」(路通の句関連など)のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#ss

(「修行」四十六)

46、野明曰(やめいいはく)、句(く)のしほり、細(ほそ)みとは、とはいかなるものにや。去来曰(きょらいいはく)、句(く)のしほりは憐(あはれ)なる句(く)にあらず。細(ほそ)みは便(たよ)りなき句(く)に非(あら)ず。そのしほりは句(く)の姿(すがた)に有(あ)り。細(ほそ)みは句意(くい)に有(あ)り。是又證句(これまたしょうく)をあげて弁(べん)ず。
  鳥(とり)どもも寐入(ねいっ)て居(ゐ)るか余吾(よご)の海(うみ)   路通(ろつう)
先師曰(せんしいはく)、此句(このく)細(ほそ)み有(あり)と評(ひょう)し給(たま)ひし也(なり)。
  十団子(とうだご)も小粒(こつぶ)になりぬ秋(あき)の風(かぜ)   許六(きょりく)
先師曰(せんしいはく)、此句(このく)しほり有(あり)と評(ひょう)し給(たま)ひしと也(なり)。惣(そう)じて句(く)の寂(さ)ビ・位(くらゐ)・細(ほそ)み・しほりの事(こと)は、言語筆頭(げんごひっとう)に応(しる)しがたし。只(ただ)先師(せんし)の評有(ひょうあ)る句(く)を上(あ)げて語(かた)り侍(はべ)るのみ。他(ほか)はおしてしらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78~79)

 「しおり」は花などの「しおれる」から来た言葉で、花がしぼみ、散ってゆく哀れを連想させる。ただ、ここでも「さび」と同様、哀れな心を詠むのではなく、あくまで「句の姿」だという。つまり、哀れを感じさせる具体的な情景が描かれて初めて、「しおり」と言うことができる。

 十団子(とうだご)も小粒(こつぶ)になりぬ秋(あき)の風(かぜ)   許六(きょりく)

許六(きょりく)のこの句は、収穫直前の立秋の頃になると、米価が高騰し、街道の名物の十団子(とうだご)も小粒になる所に、秋風の物悲しさと世間の世知辛さを重ね合わせた句だが、句の「しおり」は「秋風」の情にではなく、「小粒な十団子」の姿にある。
 これに対し「細み」は句意にある。姿にではない。

 鳥(とり)どもも寐入(ねいっ)て居(ゐ)るか余吾(よご)の海(うみ)   路通(ろつう)

の句は、「鳥が寝ている」という姿が詠まれているわけではない。静かでただ波の音だけが聞こえてくる海の寂しげな景色に、鳥も寝てしまったのかと鳥のことを気遣う、その繊細な心遣いが「細み」だと言っていいだろう。
 そして、最後に去来は、「さび・位・細み・しおり」というのは、あくまで感覚的なもので、理屈で単純に説明できるものではないということを心に留めることで終っている。

(謎解き・七十七)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十六番
   兄 蟻道
 弥兵衛とハしれど哀や鉢叩
   弟 (其角)
 伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき

この兄の句の作者、蟻道とは、『俳文学大辞典』などでも目にすることができない。しかし、『去来抄』の「先師評(十六)」で、「伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)」との文言があり、「伊丹の俳人」であることが分かる。ここのところを次のアドレスのものでは下記のとおり紹介されている。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」十六)

16、 月雪や鉢(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)
 去来曰、猿ミの撰ノ比(ころ)伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)と云有(いふあり)。越が句入集(につしふ)いかが侍らん。先師曰、月雪といへるあたり一句働(はたらき)見へて、しかも風姿有(あり)。ただしれど憐やといひくだせるとハ各別也。されど共に鉢扣(はちたたき)の俗体を以(もつ)て趣向を立(たて)、俗名(ぞくみゃう)を以て句をかざり侍れば、尤(もっとも)遠慮有(あり)なんと也(なり)。

 鉢叩き(鉢扣)とは京都市中を陰暦の11月13日から大晦日まで、空也念仏を唱えながら托鉢して歩く修行僧だが、六波羅蜜寺や空也堂付近に形成された散所に住み、身分としては士農工商の下の非人の身分にあった。芭蕉も元禄2(1689)年の12月24日(旧暦)に、この鉢叩きを見ようと去来亭を訪れたが、風雨が強く、いくら待っても来ないので、去来が

 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢扣(はちたたき)    去来

と詠んだことが、去来の『鉢扣ノ辞』に描かれている。
 その鉢叩きも普段は杖の先の茶筅を挿し、茶筅やササラ竹などの竹細工を製造販売して生活していた。僧の格好をしているものもいたが、萌黄に鷹の羽に紋のついた衣を着ていることが多かったことから、越人はそのきりっとした茶筅売りの姿と空也念仏を唱える哀れな修行僧の姿との落差を面白く思い、

 月雪や鉢(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)    越人

と詠んだのだろう。しかし、同じことを考える人は他にもいて、『猿蓑』の撰のとき既に伊丹の上島鬼貫(うえしまおにつら)の一派の句に

 弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)

というのがあり、いわばネタがかぶってしまったわけだ。
 『月雪や』という上五は雪の夜の鉢叩きの姿が目の前にいるかのようで、その点では『哀れや』という言葉と違い、まさに『風姿有』というところだろう。正岡子規は蕪村を絵画的で芭蕉は地図的だと言ったが、芭蕉は決してその姿が眼前にあるかのような姿ある句を好まなかったわけではない。ただ、芭蕉の場合、それを最低限の言葉で表現しようとするところが『地図的』だといことなのだろう。その点では、「月雪や」の越人の上五は芭蕉の好むところなのだろう。
 結局、芭蕉は越人の句の「月雪や」の上五に風情があって、単に「憐れや」ですませてしまっている伊丹の句よりは優れていることを認めたものの、基本的に鉢たたきの俗体の面白さを甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名で表現するやり方は一緒なので、『猿蓑』には載せないほうがいいと判断した。 さて、先の『鉢扣ノ辞』だが、結局その日はあきらめて寝たのだけど、夜明けになって風雨も収まり鉢叩きの声を聞くこともできた。このときのことを後に芭蕉は

 長嘯(ちゃうしょう)の墓もめぐるか鉢叩き    芭蕉

と詠んだという。 長嘯は豊臣秀吉の正室ねねの甥にあたる木下勝俊のことで、古今伝授を受けている細川幽斎に和歌を学び、関が原の合戦以降は京都東山に隠棲していた。その長嘯の歌に

 鉢叩き暁方(あかつきがた)の一声は
    冬の夜さへも鳴く郭公(ほととぎす)

というのがあり、芭蕉もその歌を思い起こしたのだろう。

さて、其角の『句兄弟』の「蟻道」とは、このネット関連の解説の記事では、「伊丹の上島鬼貫(うえしまおにつら)の一派」の俳人ということになる。それを一歩進めて、『去来抄評釈』(岡本明著)の「註」を見てみると、「摂津伊丹の俳人森本蟻道」とある。そして、この『去来抄』の、ここのところは、「類想のいましめ」というところで、越人の句の「月雪や鉢(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)」について、「芭蕉は(この)越人の句の『月雪や』の上五に風情があって、単に『憐れや』ですませてしまっている伊丹の句(蟻道の句)よりは優れていることを認めたものの、基本的に鉢たたきの俗体の面白さを甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名で表現するやり方は一緒なので、『猿蓑』には載せないほうがいいと判断した」というのである。其角は、こういう『猿蓑』の選をめぐっての芭蕉や去来の遣り取りを十分に承知しながら、その上で、「伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき」と、「甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名」の表現を避けて、「伊勢島」(「伊勢島節」のことで、「古浄瑠璃の一派。江戸初期、寛永(1624~1644)の末頃に江戸から京都に上った伊勢島宮内が語ったもの」)という固有名詞での換骨奪胎では、「類想」の句にはならないであろうというのが、其角の、この『句兄弟』での、一つの提示案なのである。この『句兄弟』が刊行されたのは、芭蕉没後の元禄七年(一六九四)であるが、その『句兄弟』の中巻には、芭蕉の「東順伝」を掲載するなどしており、それらのことを併せ考えると、その上巻の「句合わせ」(発句合わせ)の、その何らかの草案は、生前の芭蕉も目を通しているのではなかろうか。というのは、其角の、この『句兄弟』(上巻=句合わせ、中巻=東順伝など、下巻=諸家発句など)は、其角の唯一人の師の芭蕉に閲することを目的としてのもの、そして、其角の唯一人の示唆を請う師の芭蕉への問い掛けだったのではなかろうという思いなのである。即ち、蕉門の実質的なリーダーである其角にとって、去来も越人も蟻道も、彼らの考えや作風などについてそれほど眼中にはおいていなかってであろう。唯一人、其角の終生の師であり続けた芭蕉が、これらの一つの提示案について、どのような感慨を抱くものなのであろうか・・・、その一点に其角は集中していたのではなかろうか。しかし、これらの其角の問い掛けや提示案についての、芭蕉の感慨というのは何一つ形に遺されることもなく、芭蕉はこの世を去ってしまったのである。何故か、『去来抄』にも出てくる、其角のこの鉢叩きの句合わせを見て、つくづくとそのような思いに囚われたのである。というのは、上記のネット記事にもある通り、この『去来抄』に記述したもののほかに、去来は、別文の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)を今に遺しているのである。

○師走も二十四日(元禄二年十月二十四日)、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞かむと、例の翁(芭蕉翁)のわたりましける(落柿舎においでになった)。(以下略。関連の句のみ「校注」などにより抜粋。)
 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢叩   (去来)
 米やらぬわが家はづかし鉢敲き (季吟の長子・湖春)
おもしろやたゝかぬ時のはちたゝき (曲翠)
鉢叩月雪に名は甚之丞 (越人・ここではこの句形で収載されている)
ことごとく寝覚めはやらじ鉢たゝき (其角・「去年の冬」の作)
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き (芭蕉)

『去来抄』(「先師評」十六)はこの時のものであり、そして、『句兄弟』(「句合せ」二十五番)は、これに関連したものであった。さらに、この「鉢叩き」関連のものは、芭蕉没(元禄七年十月十二日)後の、霜月(十一月)十三日、嵐雪・桃隣が落柿舎に訪れたときの句が『となみ山』(浪化撰)に今に遺されているのである。

千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき (其角)
今少(すこし)年寄見たし鉢たゝき (嵐雪)
ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき (桃隣)
旅人の馳走に嬉しはちたゝき (去来)

これらのことに思いを馳せた時、其角・嵐雪・去来を始め蕉門の面々にとっては、「鉢叩き」関連のものは、師の芭蕉につながる因縁の深い忘れ得ざるものということになろう。そして、其角が『句兄弟』にそれを、そして、去来が『去来抄』などにそれを記述していることは、師の芭蕉との関連でこれらのことを記述しているということは、想像に難くないところのものであろう。すなわち、去来の『去来抄』が、師の芭蕉に捧げたものであるとするならば、其角の、この『句兄弟』も、師の芭蕉に捧げたものではなかろうかという思いも、それほど的を外してはいないと思えるのである。

(謎解き・七十八)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十七番
   兄 越人
 ちる時の心安さよ罌粟(けし)の花
   弟 (其角)
 ちり際は風もたのまずけしの花

 この二十七番の前の二十六番(兄 蟻道)が、『去来抄』に出てくる「鉢叩き」のもので、それは越人の「月雪や鉢たたき名は甚之亟」関連ものであることから、ここで、いよいよその主役でもある越人その人の登場ということになる。この「判詞」(自注)には、「中七字に風俗を立たるは荷兮越人等が好む所の手癖なり」とあり、其角としては、尾張蕉門を代表する俳人として、「荷兮・越人」の二人の名をあげ、それらの尾張蕉門の俳風の特徴の一つとして、この越人の句の中七の「心安さよ」という作為的な擬人化の見立てがそれであると指摘しているのであろう。それに続く、「是は別ル僧といふ前書有ゆへ一句のたより手くせながらも面白し」とあり、この「別僧」(ソウニワカル)の前書きを付して、『猿蓑』には入集になっている一句なのである。そして、この句は更に『去来抄』の「同門評」(前書きの効用)にも収載されているものなのである。その『去来抄』のものは、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#n

(「同門評」十五)

15、ちる時の心やすさよけしのはな   越人(ゑつじん)
 其角(きかく)・許六共曰(きょりくともにいはく)、此(この)句ハ謂不応故(いひおほせざるゆえ)に別僧(そうにわかる)と前書(まえがき)あり。去来曰、けし一体の句として謂応(いひおほ)セたり。餞別(せんべつ)となして猶見(なほけん)あり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35)

 咲く花を悦び散る花を悲しむのは風雅の基本であり、生命に共感するというのはそういうことだ。生まれてくるのは目出度く、死ぬのは悲しい。それと同じだ。ただ、人はいつかは必ず死なねばならぬ運命ゆえに、散りぎわは安らかであるにこしたことはない。古くから桜の散りぎわの潔さは日本人にとって心に刻み込まれてきたものだった。(最近では「遺伝子に刻み込まれてきた」という言い方をする人が多いが、あまりいい比喩とはいえない。)「ちる時の」の句はその意味では散りぎわの潔さを感じさせる句ではある。
 しかし、この句が路通(ろつう)との別れの句だったという事情がわかると、話はややこしくなる。路通については「先師評」の3の「行く春を」の句のところで述べたが、破門された門人で、そのため『猿蓑』では名を出さずに「別僧(僧に別る)」という前書きをつけて掲載されていた。おそらくそのとき、選者の一人であった去来は、そんな前書きは要らない。芥子の花の句で十分だと主張したのだろう。去来はこの句が路通との別れの句だという暗示すら嫌ったのだろうか。路通と去来の間に何かよほどのことがあったのだろう。
 ただ、純粋に芥子の花の句としてしまうと、本来花が散るのは悲しいはずなのになんで「心安さよ」なのか、いくら潔いといっても落花は悲しいはずではないかと、疑問が残ってしまう。そこが「謂い応せぬ」所なのだろう。この状は、花そのものを詠んだ句ではなく、芥子の花が散るように潔く去っていった、と餞別句にした方が分りやすいのは確かだ。
 ところで、この路通だが、岡田喜秋(おかだきしゅう)の『旅人・曾良と芭蕉』(1991、河出書房新社)によれば、正徳元(1711)年に並河誠所と関祖衡の二人が書いた『伊香保道記』に、榛名神社で、昔芭蕉と旅したという仙人のような老人に会ったとあり、これが路通ではないかといっている。路通は蕉門を破門された後も諸国を放浪し、元文3(1738)年89歳まで生きたといわれている。(もっとも蕉門の一員ではなくなったというだけで、蕉門の興行に参加することはあった。)

 ここのところは、「前書きの効用」とか「謂不応(いひおほせざる)」(表現の不足)などのところなのであるが、それだけではなく、この句の背景が、路通への餞別吟であり、路通嫌いの去来と、路通をかばっている其角などとが、その背景にあり、極めて興味の尽きないところなのである。上記のネット記事に出てくる、「先師評」の三の「行く春を」のところも掲載をしておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#b

(「先師評」三)

3、 行春(ゆくはる)を近江(あふみ)の人とおしみけり   芭蕉
 先師曰(いはく)、尚白(しゃうはく)が難に近江は丹波にも、行春ハ行歳(ゆくとし)にも有べしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧(もうろう)として春をおしむに便(たより)有べし。殊(こと)に今日(こんにち)の上に侍るト申(まうす)。先師曰、しかり、古人も此国(このくに)に春を愛する事、おさおさ都におとらざる物を。去来曰、此一言(このひとこと)心に徹す。行歳近江(ゆくとしあふみ)にゐ給(たま)はば、いかでか此感(このかん)ましまさん。行春丹波(ゆくはるたんば)にゐまさば本(もと)より此情(このじゃう)うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成哉(まことなるかな)ト申(まうす)。先師曰、汝ハ去来共(とも)に風雅をかたるべきもの也と、殊更(ことさら)に悦(よろこび)給ひけり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,11)

 この段は芭蕉に「行春を」の句のことを聞かれ、うまく答えられたことを去来が少々自慢気に語る場面だ。芭蕉が「尚白がこの句のことを近江を丹波にかえて『行春を丹波の人とおしみけり』にしたり、行春を行歳にかえて『行歳を近江の人とおしみけり』『行歳を丹波の人とおしみけり』にしても同じではないかとい言うのだが去来はどう思うか?」と尋ねる。これに対し去来は近江の国の春は琵琶湖の湖水が春の霞に朦朧として特別味わいがある、だから近江を丹波にかえたり行春を行歳にかえたりはできない、と答える。芭蕉は「その通りだ。昔の風流人たちも近江の春は都の春に劣らぬものとして愛した」と答える。
 去来は多分感覚的に近江の春だとその景色が浮かんでくるが、丹波の春だとか、丹波の歳の暮だとかいわれても、景色が浮かんでこないということが言いたかったのだろう。これに対し芭蕉は「古人」が愛した風景だからだという。これは実際は同じことを言っている。古人が愛し、古くから歌に名高いからこそ去来も近江の春と言われたとき、その風景が思い浮かぶのではないか。丹波の春だとか近江の歳末だとかいわれても、一般の人にはどういう風景なのか、他の地方の春と何が違うのかピンと来ない。景色が思い浮かぶかどうかは、古くから歌や物語に名高いかと密接に関係がある。いわゆる「本意本情(ほいほんじょう)」というのはそういうことだと去来は悟ったのだろう。
 近江といえば滋賀辛崎が古くから歌枕として名高い。辛崎はかつて天智天皇が造営した大津京があり、その跡形もなく消え去った都を詠んだ、柿本人麿(かきのもとのひとまろの「近江荒都歌」は有名だ。

 さざなみの志賀の辛崎さきくあれど
    大宮人の船待ちかねつ
                   柿本人麿(かきのもとのひとまろ)
 さざなみの国つ御神(みかみ)のうらさびて
    荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
                   高市古人(たけちのふるひと)

それは壬申の乱で敗北した天智天皇の御霊を鎮める歌だったのだろう。後々、このはかなく消えた幻の都は、ぱっと咲いてぱっと散る桜のイメージと重なり、桜の名所として歌に詠まれるようになった。『千載集』の

 さざなみや志賀の都は荒れにしを
    昔ながらの山桜かな

の歌は、『平家物語』で平忠度(ただのり)が都落ちする際に俊成卿(しゅんぜいのきょう)に託したエピソードでも有名で、消えた志賀の都のイメージは、平家の滅亡のイメージにも重なる。さらに、滋賀辛崎の三井寺(みいでら)は一本松が有名で、謡曲『三井寺』では、愛児と生き別れた母親が、夢に三井寺に来れば我が子に逢えるというお告げを聞いてやって来て、感動の再開を果たす。そんなながい歴史への思いから、芭蕉も先の「辛崎の松は花より朧にて」の句を詠んでいる。花も朧だが、この悠久の歴史の流れからすれば常緑の松も春の霞の中で朧なはかない存在に見える。
 そんな特別な思い入れを尚白は理解しなかったが去来は理解したということで、去来は芭蕉に「共に風雅をかたるべきもの也」とまで言われ信頼されたわけだが、ここにはいろいろな人間ドラマがかいま見られる。
 この句は元禄3(1690)年の3月の終り頃、まさに「行春」の季節柄、路通(ろつう)との別れのさいに詠まれたものだ。路通は乞食僧となって行脚していたころ、ちょうど『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉とこの近江の国で出会い、

 いざともに穂麦喰(ほむぎくら)らはん草枕   芭蕉

の句を送られ、行く末が期待されていた。『奥の細道』の旅でも敦賀まで出迎えに行き、病気の曾良に代わって共に旅をした。しかし、根っからの旅人で自由奔放な路通は、他の門人からもそのわがままさが嫌われ、俳諧の腕のほうも進歩がなく、結局破門されてしまった。おそらく急に蕉門の高弟として俳諧にスターになったため、誇大妄想に取り憑かれすっかり舞い上がってしまい、自分を見失ってしまったのだろう。

 草枕まことの華見(はなみ)しても来よ   芭蕉

もう一度苦労して旅をし、今の虚飾に満ちた華を捨て、本当の華を見つけなさい。それが芭蕉の最後の言葉だった。そして、

 行春を近江の人とおしみけり   芭蕉

の句もその時のものだった。この直後、芭蕉は滋賀国分山の幻住庵に入り隠棲生活を始める。
 近江には許六、李由、尚白といった新たな門人がいた。路通の過ぎ去った春を惜しんだ「近江の人」の中には、芭蕉のその時の頭の中には「尚白」の名もあったのだろう。その尚白が「近江は丹波にかえてもいいし、行春は行く歳にもかわる」なんて言ったのは、何とも皮肉なことだ。翌元禄4年秋には自撰句集『忘梅』の千那の序文をめぐって芭蕉と対立し、結局芭蕉の門を去っていった。大勢の人が芭蕉を慕って入門してくるが、その多くはやがて俳諧の方向性の違いから芭蕉のもとを離れて行く。特に、芭蕉は日々新しい俳諧を模索し、古い俳諧を否定してゆく中で、それについてゆけなくなった門人が脱落してゆく。そんなことを何度も繰り返して来た。最も、弟子の側からすれば、青春を芭蕉とともに過ごし、一世を風靡した作風には思い入れがあり、歳をとってもかつて芭蕉とともに時代をリードしたあの輝かしい日々の記憶を失いたくない、という気持ちだったのだろう。今日でいえば、ビートルズが青春だった世代が今のヒップホップについてゆけない、というようなものかもしれない。しかし、芭蕉は時代が変わると手のひらを返したようにもうあれは古い、これからはこれだ、という風に新しいものを求めてゆく。「『猿蓑』なんてもう過去のものだ。これからはもっと軽い句が流行る。」そう言われたとき、古い門人たちがついてこれなかった理由もわかる。
 其角、嵐雪、荷兮、路通、尚白、他にもたくさん去っていった門人たち、そんな中で数少ない芭蕉のもとに残った弟子の一人、去来に芭蕉が本当に言いたかったのは、近江の湖水朦朧の風景の中に去っていった弟子たちの姿を見て欲しいという思いが実はあったのではなかったか。

なお、『去来抄』には、越人に関係するものとして、「先師評」五(心の風雅)、「先師評」十一(落つきと重み)、「先師評」十六(類想のいましめ)などで収載されている。また、次のアドレスに下記のとおりそのプロフィールが紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/etsujin.htm

越人(明暦2年(1656)~没年不詳)
本名越智十蔵。『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮。『更科紀行』に同行し、そのまま江戸まで同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場する。芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある通り、実に好感を持っていた。『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜国を尋ねた時にも越人が同行し、かつ馬上で酔っ払ったことがある。
(越人の代表作)
霧晴れて桟橋(かけはし)は目もふさがれず  (『更科紀行採録』)
更科や三夜(みよ)さの月見雲もなし  (『更科紀行採録』)
山吹のあぶなき岨(そま)のくづれ哉  (『春の日』)
みかへれば白壁いやし夕がすみ  (『春の日』)
花にうづもれて夢より直(すぐ)に死んかな  (『春の日』)
藤の花たゞうつぶいて別(わかれ)哉  (『春の日』)
かつこ鳥板屋の背戸(せと)の一里塚  (『春の日』)
夕がほに雑水あつき藁屋哉  (『春の日』)
六月の汗ぬぐひ居る臺(うてな)かな  (『春の日』)
玉まつり桂にむかふ夕かな  (『春の日』)
山寺に米つくほどの月夜哉  (『春の日』)
行燈の煤けぞ寒き雪のくれ  (『春の日』)
下々(げげ)の下(げ)の客といはれん花の宿  (『あら野』)
おもしろや理窟はなしに花の雲  (『あら野』)
蝋燭のひかりにくしやほとゝぎす  (『あら野』)
雨の月どこともなしの薄あかり  (『あら野』)
名月は夜明るきはもなかりけり  (『あら野』)
はつ雪を見てから顔を洗けり  (『あら野』)
はつ春のめでたき名なり賢魚ゝ(かつおいお)  (『あら野』)
初夢や濱名の橋の今のさま  (『あら野』)
若菜つむ跡は木を割(わる)畑哉  (『あら野』)
むめの花もの氣にいらぬけしき哉  (『あら野』)
何事もなしと過行(すぎゆく)柳哉  (『あら野』)
つばきまで折そへらるゝさくらかな  (『あら野』)
あかつきをむつかしさうに鳴蛙  (『あら野』)
なら漬に親よぶ浦の汐干哉  (『あら野』)
柿の木のいたり過たる若葉哉  (『あら野』)
聲あらば鮎も鳴らん鵜飼舟  (『あら野』)
撫子や蒔繪書人(かくひと)をうらむらん  (『あら野』)
釣鐘草(つりがねそう)後に付たる名なるべし  (『あら野』)
ちからなや麻刈あとの秋の風  (『あら野』)
山路のきく野菊とも又ちがひけり  (『あら野』)
かげろふの抱(だき)つけばわがころも哉  (『あら野』)
はる風に帯ゆるみたる寐貌(ねがお)哉  (『あら野』)
もの數寄やむかしの春の儘ならん  (『あら野』)
花ながら植かへらるゝ牡丹かな  (『あら野』)
よの木にもまぎれぬ冬の柳哉  (『あら野』)
一方は梅さく桃の継木かな  (『あら野』)
から(殻)ながら師走の市にうるさヾい  (『あら野』)
七夕よ物かすこともなきむかし  (『あら野』)
夕月や杖に水(みず)なぶる角田川  (『あら野』)
天龍でたゝかれたまへ雪の暮  (『あら野』)
落ばかく身はつぶね共ならばやな  (『あら野』)
行年や親にしらがをかくしけり  (『あら野』)
妻の名のあらばけし給へ神送り  (『あら野』)
散(ちる)花の間はむかしばなし哉  (『あら野』)
ほろほろと落るなみだやへびの玉  (『あら野』)
たふとさの涙や直に氷るらん  (『あら野』)
何とやらおがめば寒し梅の花  (『あら野』)
君が代やみがくことなき玉つばき  (『あら野』)
月に柄をさしたらばよき團(うちわ)哉  (『あら野』)
雁がねもしづかに聞ばからびずや  (『あら野』)
うらやましおもひ切(きる)時猫の恋  (『猿蓑』)
稗の穂の馬逃(にが)したる気色哉  (『猿蓑』)
ちやのはなやほるゝ人なき霊聖女(れいしょうじょ)  (『猿蓑』)
※ちるときの心やすさよ米嚢花(けしのはな)  (『猿蓑』)
君が代や筑摩(つくま)祭も鍋一ツ  (『猿蓑』)
啼やいとヾ塩にほこりのたまる迄  (『猿蓑』)
稲づまや浮世をめぐる鈴鹿山  (『續猿蓑』)

これらの越人の代表作(※は『句兄弟』収載の句)を見ていくと、『更級紀行』での芭蕉との同行、芭蕉七部集の『春の日』・『あら野』・『猿蓑』などの入集状況などから見て、尾張蕉門のリーダー格であった荷兮よりも越人の方が、いわゆる「蕉門十哲」の一人として相応しいのかも知れない。ちなみに、この『猿蓑』に前後しての『ひさご』(珍碩編・元禄三年刊)の「序」は越人が草している。


(謎解き・七十九)

※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html二十八番

   兄 玄札
 泥坊の中を出(いず)るや蓮葉者
   弟 (其角)
 泥坊の影さへ水の蓮(はちす)かな

 この玄札は未詳の俳人だが、芭蕉七部集の『あら野』に出てくる尾張の俳人・玄察(げんさつ)であろうか。尾張の俳人・越人の次ということでそんな感じでなくもない。その『あら野』に収載されている句は次のとおりである。

  石釣(つり)でつぼみたる梅折(おり)しける (『あら野』)
  絵馬(えうま)見る人の後(うしろ)のさくら哉 (『あら野』)
  ほとゝぎす神楽の中を通りけり (『あら野』)

 この「蓮葉者」については、その判詞(自注)に、「はすはもの、蓮葉笠をかづきたる姿のみぐるしく、目立たるより云るか」とあり、「蓮葉女」(浮気で軽薄な女)のような意であろうか。「泥坊」も「放蕩者」の意があり、文字通り、「泥水」とが掛けられているものと解したい。兄(玄札)の句の意は、「この蓮葉者(浮気で軽薄な人)は、この泥水の中の蓮のように放蕩者の中から抜け出した」のような意か。弟(其角)の句の方は、「その放蕩者の影は、この泥水の中で、その影は定かではなく、その清らかな蓮のような風情である」と、兄の句と同じような句意なのであろう。『古今和歌集(三)』の「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(僧正遍昭)の「泥水の中に育ちながらその濁りに染まらない蓮の花の清らかさ」が背景にある句なのであろう。いずれにしても、両句とも分かり難い句である。その判詞(自註)の「泥坊といふ五文字の今とて用られるべきこそ」の「泥坊」の用例の面白さに着眼してのものなのであろう。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「尿糞の卑近な用例」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#kk

(「先師評」三十八)

38、 でつちが荷(にな)ふ水こぼしけり   凡兆(ぼんてう)
 初(はじめ)は糞(こえ)なり。凡兆曰、尿糞(ねうふん)の事申(まうす)べきか。先師曰、嫌(きらふ)べからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に改(あらた)ム。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,25)

 芭蕉にも

 蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと
 鶯の餅に糞する縁の先

という句があるように、糞尿を詠んではいけないなんて決まりはない。『荘子』にも「道はし尿にあり」という言葉があるように、この宇宙の真理というのはあらゆるところに宿るのだから、糞尿といえども軽んずることはできない。しかし、単に笑いを取るための、いわゆる「下ネタ」として糞尿を持ち出すとなると、やはりそればっかり何句もあると俳諧の品も落ちるだろう。
 百韻のなかでは元来ネタの重複を避けるため、別にネタのきれい汚いに関係なく、一座一句物という百韻に一回しか使えない言葉があった。若菜、山吹、つつじ、カキツバタなどが『応安新式(おうあんしんしき)』に記されている。俳諧の場合、俗語で作るため、雅語の連歌に比べて語彙も豊富で、はるかにネタは重複しにくい。
 だから、芭蕉が「百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」が果たして下ネタだから嫌っていったのかどうかはわからない。ただ、凡兆の句の場合、別にひっくり返したのが肥桶でなくても、水をこぼしただけでも面白いから、あえて糞(こえ)にこだわることはなかっただろう。糞でなくては意味が通らないような句なら、変える必要はあるまい。

(謎解き・八十)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十九番
   兄 女 秋色
 舟梁(ばり)の露はもろねのなみだ哉
   弟 (其角)
 船ばりを枕の露や閨(ねや)の外

 この兄の句の作者・秋色(しゅうしき)は、其角没後、其角の点印を譲られた其角門の第一人者の女流俳諧師であり、青流(後の祇空)らとともに其角の遺稿集『類柑子』(宝永四年刊)を刊行した(また、其角一周忌追善集『斎非時(ときひじ)』・七回忌追善集『石などり』も刊行した)。享保十年(一七二五)に五十七歳で没したという『名人忌辰録』(関根只誠編)の記事が正しいとするならば、元禄三年(一六九〇)に刊行された『いつを昔』(其角編)の時には、二十二歳と、天才・亀翁(十四歳)とともに、当時の其角門の若手の一角を担っていた。この秋色関連のネット記事は下記のアドレスのものが面白い。

http://www.o-sakaya.com/syuusiki1.htm

 さて、この秋色の「舟梁(ばり)の露はもろねのなみだ哉」の句は、「舟梁(和船の両舷側間に渡した太い間仕切りの材)の露は共寝を思いつつ待っているひとの涙である」というようなことであろう。それに対して、其角の「船ばりを枕の露や閨(ねや)の外」は、中七の「や切り」にして、典型的な二句一章のスタイルで、「船ばりを枕にして涙しているひとよ、閨の外であなたを恋しく思っている」というようなことであろうか。判詞(自註)の「枕のつゆもさしむかひたる泪ぞかしとこたへし也。返しとある哥の筋なるべし」と、兄の句への「返し句」の意なのであろう。この二句の背景は、下記の『去来抄』「和歌優美関連」などのような雰囲気である。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」二十三)

23、 猪(ゐのしし)のねに行(ゆく)かたや明(あけ)の月   去来
 此句(このく)を窺(うかが)ふ時、先師暫(しばら)く吟(ぎんじ)て兎角(とかく)をのたまハず。予思ひ誤(あやま)るハ、先師といへども帰り待(まつ)よご引(ひき)ころの気色(けしき)しり給はずやと、しかじかのよしを申(まうす)。先師曰、そのおもしろき処(ところ)ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿(いるしか)の跡吹(あとふき)おくる荻の上風(うはかぜ)とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄(まで)かけり作(さく)したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄(てがら)なかるべし。一句おもしろけれバ暫く案じぬれど、兎角詮(とかくせん)なかるべしと也。其後(そののち)おもふに、此句ハ、時鳥(ほととぎす)鳴つるかたといへる後京極の和歌の同案にて、弥ゝ(いよいよ)手柄なき句也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)

 平安時代の恋は夜に女の元へと男が通い、明け方には帰ってゆく。そのため、明け方は切ない別れを連想させる。

 明けぬとて野べより山へ入(いる)鹿の
    跡吹(あとふき)おくる萩の下風
           源左衛門督通光(みなもとのさえもんのかみみちみつ)

は鹿もまた秋には恋の季節を迎え、妻訪う鹿の夜に悲しげに鳴く風情に共感したものだ。
 去来の句はそれを鹿ではなく猪にして、「夜興引(よごひき)」つまり犬を使った夜の猟の句にして新味を出そうとしたのだろう。これによって明けの月の情はむしろ

    罪のむくいもさもあらばあれ
 月のこる狩場の雪の朝ぼらけ  救済(きゅうせい)法師

に近くなる。狩りで獲物を必死に追っていた人が、雪の夜明けのこの世のものとも思えぬような美しい気色に、ふと狩られる動物の気持ちがわかったような気がして殺生(せっしょう)の罪のことを気にかけるといったものだが、去来の句はその情に近い。
 去来はたぶんにこの句に相当の自信を持っていたのだろう。だから、芭蕉がこの句をしばらく吟じてみて良い返事がなかったので、最初は明け方の「夜興引」の情がわからないのかと思って説明したところ、むしろ「俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄(てがら)なかるべし。一句おもしろけれバ暫く案じぬれど、兎角詮(とかくせん)なかるべしと也」という、つまり俳諧にふさわしい新しさ、面白さに欠ける、という返事だった。要するに、今の言葉でいえばベタだということだ。
 それでも去来はすぐには納得しなかったのだろう。後になってこれは

 時鳥なきつる方を眺むれば
    ただ有明の月ぞ残れる
             藤原実定

の等類だということで納得した。
 しかし、芭蕉がこの句に物足りなさを感じたのは、自身に

 明けぼのや白魚(しらうお)白きこと一寸
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟(うぶね)哉

といった、同様の殺生の罪に目覚める句があったからではなかったか。狩が終わって猪がねぐらに帰ってゆく、その生命の脈動に共鳴したまではいい。そこに「明けの月」という古来より言い古された言葉を使ったことが面白くなかったのではなかったか。それが結局ベタということになってしまったのだろう。
 ところで、この最近よく使われるベタという業界言葉だが、これはおそらく俳諧で付きすぎることを嫌うところから来た言葉だろう。つまりベタッとついているベタ付けというところから派生した言葉だろう。
 しかし、狩場に明けの月は当時としては付きすぎだったにせよ、今日見れば狩場そのものが我々の日常から遠のいてしまったため、むしろ「猪の」の句はかえって新鮮な感じもする。少なくとも私はそんなに悪い句には見えないし、平凡には見えない。むしろ去来の傑作のひとつに数えてもいいように見える。

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