金曜日, 4月 20, 2007

其角とその周辺その七(六十六~七十一)


画像:森川許六

(謎解き・六十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十五番
   兄 許六
 人先に医師の袷や衣更
   弟 (其角)
 法躰も島の下着や衣更

 許六は、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kyoroku.htm

森川許六(もりかわ きょりく)
(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。 「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
うの花に芦毛の馬の夜明哉  (『炭俵』)
麥跡の田植や遲き螢とき  (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな  (『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな  (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる  (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉  (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳  (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな  (『續猿蓑』)
娵(よめ)入の門も過けり鉢たゝき  (『續猿蓑』)
腸(はらわた)をさぐりて見れば納豆汁  (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風  (『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉  (『續猿蓑』)

下記のアドレスでは、「蕉門十哲」について、下記(※)のとおりとしているが、これは、たとえ、晩年は芭蕉と袂を分かったが、「芭蕉七部集」のうちの、『冬の日』・『春の日』・『阿羅野』を編纂したといわれている「荷兮」を加えるべきなのではなかろうか。ということで、上記の「蕉門十哲」のうち、「維然」は「荷兮」と差し替えて理解したい。なお、路通・越人なども十哲候補の一人であろう。
 (蕉門十哲)
其角・嵐雪・杉風・去来・丈草・凡兆・許六・支考・野坡・荷兮

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/jittetsu.htm

※(蕉門十哲)諸説紛紛の蕉門の十哲であるが、実力からいって下記のようか????
其角・嵐雪・杉風・去来・丈草・凡兆・許六・支考・野坡・維然

上記のように、「蕉門十哲」を理解して、杉風(十一番)に次いで、この許六(十五番)が登場してくる。なお、去来(十六番)、十哲候補の、路通(二十五番)、越人(二十七番)は後に出てくる。『田中・前掲書』によれば、「野坡や孤屋を芭蕉に紹介したのは其角であろう。去来や許六も彼(其角)を介して芭蕉に入門している。曲翠も其角を介して芭蕉に入門したらしい。其角には、自分の勢力を拡大しようという気持ちはまったくなかったとみて間違いなかろう。彼にとって、自分の弟子はすべて芭蕉の弟子だったのである」(上記のネット記事では、許六が蕉門に入ったのは桃隣の紹介とあるが、その桃隣を支援しているのが其角であり「其角を介して芭蕉に入門」と解したい)と、蕉門十哲の主なメンバーは、其角を介して、芭蕉門に入り、後には、去来や許六は、芭蕉の側近となり、其角に対して、どちらかというと批判的傾向を強めていく(この傾向は、芭蕉没後に顕著になるが、そのことについては、去来のところで記述する)。ここでは、許六の『俳諧問答』(元禄十一年刊)の「俳諧自賛之論」の芭蕉と許六の問答について、『田中・前掲書』の意訳ものを次に掲げておきたい。
※『俳諧問答』所収「俳諧自賛之論」
芭蕉 君が俳諧を好きになったのは、俳諧を詠んでいると心が静かになり山林にこもるようになる、それが楽しいからではないか。
許六 その通りです。
芭蕉 私もその通りだ。だが其角の好みは違う。彼の俳諧は伊達(だて)風流であって、作為の働きが面白いというので俳諧が好きなのだ。そもそも俳諧が好きな理由が異なるから、君と其角の俳諧が異なるのだ。
許六 先生と其角の俳諧も異なりますが、一体、先生は其角に何を教え、其角は先生から何を学んだのでしょうか。
芭蕉 私の俳風は閑寂を好んで細い。其角の俳風は伊達を好んで細い。この「細い」(感性の細やかさ)というところが私の流儀で、これが私と其角の俳風の一致するところだ。

さて、掲出の許六の句、「人先に医師の袷や衣更」は、『芭蕉の門人』(堀切実著)によると、次のとおりの背景がある。

※翌(元禄)六年三月末、許六亭を訪れた芭蕉は、明日はちょうど四月一日の衣更えの日に当たるので、衣更えの句を詠んでみるように勧めた。許六は緊張して、三、四句を吟じてみたが、容易に師の意に叶わない。しかし、芭蕉の「仕損ずまいという気持ばかりでは、到底よい句は生まれるものではない。゛名人はあやふき所に遊ぶ ゛ものだ」という教えに、大いに悟るところがあって、直ちに、
  人先(ひとさき)に医師の袷や衣更え
と吟じ、師(芭蕉)の称賛を受けたのであった。衣更えの日、世間の人より一足先に、いちはやく綿入れを捨て袷を身に着けて、軽やかな足取りで歩いてゆく医者の姿が、軽妙にとらえられた句であった。

 これが、この許六の句の背景なのである。この芭蕉の称賛を受けた句を、其角は、「誹番匠」よろしく、「法躰も島の下着や衣更」と換骨奪胎をするのである。「医師」より「法躰」(俗体に対して、仏門に入り剃髪・染衣した姿。僧体)の方が面白い。さらに、「袷」よりも「島の下着」(この「島」は、例えば、英一蝶が流刑された八丈島などが連想されて、しかも、その「下着」となると、実にドラマチックですらある)の方が数倍面白い。其角の判詞に、「法躰と医師とのはれか(が)ましさは一色なれと(ど)も興ことにかはりあるゆへわさ(ざ)と一列にたてたり」と、「許六さん、どうせするなら、もっと大げさに」というところであろう。そもそも、許六は、その号の「許六」(きょりく)のとおり、六芸(りくげい)に秀でた風雅の現役の武士である。その六芸は、武門三代を誇る表芸の「鑓(やり)・剣・馬」の三術の他に裏芸の「書・画・俳」で、特に、「画」は、芭蕉をして「画はとつて予が師とし、風雅(俳諧)は教へて予が弟子となす」(「許六離別の詞」)と、芭蕉の師ともいうべき、その「画俳一致」の高い境地を、芭蕉は劇賞しているのである(堀切・前掲書)。「画」に秀でいるということは、「構成」に秀でているということで、その「構成」ということは、俳諧では、「取合わせ」ということで、許六は、ことのほか、この「取合わせ」を重視し、その「取合わせ」においては一家言持っている俳人であった。ここのところを、『堀切・前掲書』では、「取合わせはいわば一種の創造的モンタージュであり、そこには当然、作者の主体的な統一作用としての『とりはやし(結合)」が要求されるのである。一句は『金(こがね)を打延べたる』ごとき一まとまりの姿を得ることにもなる。『取合わせ』という方法自体は、茶道の道具の取合わせなど、さまざまなジャンルで使われるものだが、許六はこれを蕉風発句における句の案じ方――その発想法として定着させようとしたのであった」と記述している。更に続けて、「去来などはこれを、絵画の素養のある許六だけに説いたもので、芭蕉の門人の個性に応じた対機説法なのであり、句の案じ方としては一面的な教えに過ぎないとしているが、必ずしも的を得た反論になっていない。近代の大須賀乙字の『二句一章』の論や山口誓子のモンタージュ論なども、この骨法の流れを汲むものであろう。最近では、ドイツのボードマースホーフの『一対の極』の論など、国際的な俳句論にも、『取合わせ』の説が適用されているのである」と続けている。そして、問題はここからなのである。掲出の、其角と許六との二句を比較して、許六の「医師・袷・衣更」の「取合わせ」と、其角の「法躰・島の下着・衣更」との「取合わせ」とにおいて、格段に、其角の「取合わせ」の方が、秀逸であるという思いがするのである。と同時に、この二句を並列して鑑賞していくと、許六は「理論の人」であり、其角は「実作の人」という思いを深くするのである。すなわち、「誹番匠」(言葉の大工)という観点からは、業俳(プロ)の其角、遊俳(アマ)の許六との差は歴然としているという思いを深くするのである。

(謎解き・六十七)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十六番
   兄 去来
 浅茅生やまくり手下すむしの声
   弟 (其角)
 まくり手に松虫さか(が)す浅茅哉

 去来は、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kyorai.htm

向井去来(むかい きょらい)(慶安4年(1651)~宝永元年(1704.9.10)
肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生。生年の月日は不祥。本名向井平次郎。父は当代切っての医学者で、後に京に上って宮中儒医として名声を博す。去来も、父の後を継いで医者を志す。 兄元端も宮中の儒医を勤める。去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に仲立ちする人があって去来と其角がまず出会い、その其角の紹介で始まったとされている。篤実とか温厚とか、去来にまつわる評価は高いが、「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名されたように京都のみならず西日本の蕉門を束ねた実績は、単に温厚篤実だけではない卓抜たる人心収攬の技量も併せ持ったと考えるべきであろう。後世に知的な人という印象を残す。嵯峨野に落柿舎を持ち、芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆。『去来抄』は芭蕉研究の最高の書。
(去来の代表作)
※※一畦(ひとあぜ)はしばし鳴きやむ蛙哉(『蛙合』)
何事ぞ花みる人の長刀(ながかたな)(『あら野』)
名月や海もおもはず山も見ず (『あら野』)
月雪のためにもしたし門の松 (『あら野』)
鶯の鳴(なく)や餌(え)ひろふ片手にも (『あら野』)
うごくとも見えで畑うつ麓かな (『あら野』)
いくすべり骨おる岸のかはづ哉 (『あら野』)
あそぶともゆくともしらぬ燕かな (『あら野』)
筍の時よりしるし弓の竹 (『あら野』)
涼しさよ白雨(ゆふだち)ながら入日影 (『あら野』)
秋風やしらきの弓に弦(つる)はらん (『あら野』)
湖(みずうみ)の水まさりけり五月雨 (『あら野』)
榾の火に親子足さす侘(わび)ね哉 (『あら野』)
手のうへにかなしく消(きゆ)る螢かな (『あら野』)
ねられずやかたへひえゆく北おろし (『あら野』)
※鴨鳴くや弓矢を捨てて十余年(『いつを昔』)
※露(つゆ)烟(けぶり)此の世の外の身請け哉(『続虚栗』)
※いなづまやどの傾城とかり枕 (『梟日記』)
※※箒こせまねてもみせん鉢叩き (『いつを昔』)
※※一昨日(おととひ)はあの山越へつ花盛り (『花摘』)
※※花守や白きかしらを突あはせ(『蘆獅子集』・『炭俵』)
振舞や下座になをる去年(こぞ)の雛 (『猿蓑』)
あら礒やはしり馴たる友鵆(ちどり) (『猿蓑』)
※※尾頭のこゝろもとなき海鼠哉 (『猿蓑』)
ひつかけて行や吹雪のてしまござ (『猿蓑』)
うす壁の一重は何かとしの宿 (『猿蓑』)
くれて行(ゆく)年のまうけや伊勢くまの (『猿蓑』)
心なき代官殿やほとゝぎす (『猿蓑』)
たけの子や畠(はたけ)隣(となり)に悪太郎 (『猿蓑』)
つゞくりもはてなし坂や五月雨 (『猿蓑』)
百姓も麥に取(とり)つく茶摘哥(うた) (『猿蓑』)
螢火や吹とばされて鳰のやみ (『猿蓑』)
夕ぐれや屼(はげ)並びたる雲のみね (『猿蓑』)
はつ露や猪の臥(ふす)芝の起(おき)あがり (『猿蓑』)
みやこにも住まじりけり相撲取 (『猿蓑』)
君が手もまじる成べしはな薄 (『猿蓑』)
月見せん伏見の城の捨郭(すてぐるわ) (『猿蓑』)
かゝる夜の月も見にけり野邊送 (『猿蓑』)
一戸(いちのへ)や衣もやぶるゝこまむかへ (『猿蓑』)
柿ぬしや梢はちかきあらし山 (『猿蓑』)
梅が香や山路獵入ル犬のまね (『猿蓑』)
ひとり寝も能(よき)宿とらん初子日(はつねのび) (『猿蓑』)
鉢たゝきこぬよとなれば朧かな (『猿蓑』)
うき友にかまれてねこの空ながめ (『猿蓑』)
振舞や下座になをる去年の雛 (『猿蓑』)
知人にあはじあはじと花見かな (『猿蓑』)
鳶の羽も刷(かいつくろひ)ぬはつしぐれ (『猿蓑』)
鶏もばらばら時か水鶏なく (『猿蓑』)
春や祝ふ丹波の鹿も帰とて (『炭俵』)
朧月一足づゝもわかれかな (『炭俵』)
うのはなの絶間たゝかん闇(やみ)の門(かど) (『炭俵』)
すヾしさや浮洲のうへのざこくらべ (『炭俵』)
名月や掾(縁)取まはす黍(きび)の虚(から) (『炭俵』)
芦のほに箸うつかたや客の膳 (『炭俵』)
瀧壺もひしげと雉のほろゝ哉 (『續猿蓑』)
のぼり帆の淡路はなれぬ汐干哉 (『續猿蓑』)
萬歳や左右にひらひて松の陰 (『續猿蓑』)
立ありく人にまぎれてすヾみかな (『續猿蓑』)
寐道具のかたかたやうき魂祭 (『續猿蓑』)
凉しくも野山にみつる念仏哉 (『續猿蓑』)

 これらの蕉門関連の俳諧撰集に入集されている去来の句を見ていくと、そこには、ぽっかりと去来像が浮かび上がってくる。まず、「鴨鳴くや弓矢を捨てて十余年」(※)などは、其角の『いつを昔』の一句であるが、武人去来のイメージが浮かび上がってくる。しかし、武人一本槍ではなく、親しい友が心を通わせていた遊女の死に寄せて、「露(つゆ)烟(けぶり)此の世の外の身請け哉」(※)など遊里通いに明け暮れた洒落者像もまた去来の一面なのである。生涯正妻をもたなかった去来の唯一の女性・可南女(かなじょ)の前身も遊女であった(この可南女の『続猿蓑集』の句に「ぎぼうしの傍(はた)に経よむいとゞかな」など)。「いなづまやどの傾城とかり枕」(※)の句など洒落者・其角と相通ずるものがあろう。これまた、『いつを昔』の一句であるが、「箒こせまねてもみせん鉢叩き」(※※)と剽軽(ひょうきん)な像もまた、去来の一面であろう。この句は鉢叩きの真似事をして師の芭蕉を慰めるものであった。芭蕉の開眼の一句「古池や蛙飛び込む水の音」が入集されている『蛙合』の一句は、季下の「蓑うりが去年(こぞ)より見たる蛙哉」と番(つが)わされての、勝ちの一句で、その「一畦(ひとあぜ)はしばし鳴きやむ蛙哉」(※※)は、「作為濃(こま)やかなり」の評を得て、芭蕉書簡でも称賛を受けたものである。『蘆獅子集』の、「花守や白きかしらを突あはせ」(※※)の句は、芭蕉より「さび色よくあらはれ、悦び候ふ」(『去来抄』)と激賞され、『猿蓑』の「尾頭のこゝろもとなき海鼠哉」(※※)の、この洒脱なユーモラスの世界もまた、去来の一面なのである。其角の『花摘』入集の句、「一昨日(おととひ)はあの山越へつ花盛り」(※※)ついて、「芭蕉が『此の句は今はとる人も有るまじ。猶二、三年はやかるべし』(『旅寝論』)と、その時代に先駆けた新しみを評価し、吉野行脚の折にはこの句を口ずさみながら歩いたものだと報じて絶賛したというエピソードも伝わるように、その詩才は決して凡庸だったわけではない。一昨日あの山を越えたときとは違い、今は爛漫たる桜花が雲のように白くたなびいているという、吉野の山々を眺望した浪漫的な句風は、いかにも軽やかである」(『堀切・前掲書』)。このように、これらの代表作について一句、一句見ていくと、さまざまな去来のイメージというものが蘇ってくるが、全体として、『あら野』(荷兮編)・『猿蓑』(去来・凡兆編)・『炭俵』(野坡他編)・『続猿蓑』(沾圃編か支考編か)と、芭蕉の生涯の足跡と去来の足跡とは何と一致することか。芭蕉の俳諧の軌跡が、即、去来の俳諧の軌跡と言って決して過言ではなかろう。そのように去来の全体像をつかんで、一口に去来の俳風というのは、『田中・前掲書』の、次のような「花は三つ実は七つ」ということに要約できるのかも知れない。

※『俳諧問答』「同門評判」の中で、許六は去来の俳風について「花実をいはゞ、花は三つにして実は七つ也」とか「不易の句は多けれども、流行の句は少なし。たとへば衣冠束帯の正しき人、遊女町に立てるがごとし」と評している。支考も同様に「誠にこの人よ、風雅は武門より出づれば、かたき所にやはらみありて」(「落柿舎先生挽歌」)と述べており、芭蕉はそうした作風の傾向を抑えて、去来に対し常に「句に念を入るべからず」(『旅寝論』)と諭していたという。確かに「花」よりも「実」を重んずる去来の俳風は、とかく観念的になりがちな面があったのである。

 この「「花は三つ実は七つ」という観点から、掲出の『兄弟句』の十九番の去来の句、「浅茅生やまくり手下すむしの声」、そのの「まくり手下す」とは、いかにも「実は七つ」の武門出の去来らしい思いがする。これに対して、其角は、「まくり手に松虫さか(が)す浅茅哉」と、こちらは、「花は七つ実は三つ」という趣である。其角の判詞には、「野辺までも尋て聞し虫のねのあさち(浅茅)か(が)庭にうらめしきかな」(寂蓮)が、これらの句の背景にあるという。まさに、其角は定家卿の風姿である。

 そもそも、去来が芭蕉門に入ったのは、貞享元年(一六八四)の夏から秋にかけて京阪地方を遊吟した、当時二十四歳の其角との出会いがその切っ掛けであった。時に、去来、三十四歳、芭蕉、四十一歳であった。去来はそれまで和歌に親しんでおり(「去来先生行状」)、其角への紹介は、京洛から江戸へ移住してきた和田蚊足(ぶんそく)によるものだとされている(『堀切・前掲書』)。爾来、去来と其角とは親しい関係にあり、元禄三年(一六九〇)の、其角の編んだ『いつを昔』の「序」を去来が草し、翌元禄四年の、去来・凡兆が編んだ『猿蓑』の「序」を其角が草した(『猿蓑』「序」は第三十七、『いつを昔』「序」は第四十六で前述した)。この去来の『いつを昔』の「序」の「誹諧に力なき輩(ともがら)、この集へうちへかたく入るべからざるものなり」は、「去来の名を借りたのは其角の趣向であって、去来の預かり知らぬところであった」ともいわれている(『田中・前掲書)。この「序」ほど、其角の俳風をストレートに語りかけているものは他に例を見ないであろう。そして、この二人が、芭蕉没後、相互に齟齬を来すこととなる。ここのところを、『田中・前掲書』は次のとおり記述している。

※芭蕉が没して四年、師の教えが次第に忘れられてゆくことを憂いた去来は、師の教えに帰ることを訴えて其角に書簡を送った。其角は『末若葉』の跋文に、この書簡を掲げた。ただしそのまま掲げたわけではなく、部分的に原文の文句を生かしているが、全面的に書き直し(書き直したというより改竄)、分量も原文の役半分に縮めている。其角に送った去来書簡の原文は風国編『菊の香』(元禄十)に収録されているので、其角の改竄の実態が分かる。(中略)去来書簡の原文には、さらに次のような文言も見える。
  退いておもふに、其角子は力の行く事あたはざる者にあらず。かつ、才丸・一晶が輩のごとく、己が管見に息づきて道をかぎり、師を捨つるたぐひにあらず。
この文章で去来がいおうとしたことを簡単にまとめれば、其角は師の教えを実行する力は十分にあり、また彼は才丸(才麿)や一晶のように狭い世界に閉じこもって、師を捨てるような人物ではない。(中略) 其角にとってこの忠言は大きなお世話であったと思う。そして、去来書簡の原文にあった「暫く流行のおなじからざるも、又相はげむの便りなるべし」という芭蕉の言葉を、其角は「ともに風雅の神(しん)をしらば、晋(其角)が風興をとる事可なり」と改竄した。このように改竄することによって、其角は自分の立場を明言したといってよい。ここで、彼がいおうとしているのは、風雅の精神さえ忘れなければ、芭蕉流の俳諧を取るもよし、其角流の俳諧を取るもよし、ということである。芭蕉の後を追うことのみに固執している其角の批判が、この一文にこめられている。『俳諧問答』(元禄一一)において、許六は、去来の書簡に答えなかった其角を批判して、「生得(うまれつき)物にくるしめる志なく、人の辱しめをしらず。故に返答の詞なく」と述べているが、去来の書簡を改竄して『末若葉』に掲げたことが、去来に対する其角の返答だったのである。(後略)。

 年齢的には上の、去来も許六も、こと蕉門の実質的にリーダーである其角には、為す術を知らなかったということであろう。まして、年齢が下の支考などは、其角は眼中になかったことであろう。其角は終生芭蕉に対する敬慕は失わなかった。また、終生芭蕉に叩き込まれた「風雅の精神」を堅持した。其角は終生「翁の心を得て」いたことも事実であろう。しかし、其角は「先師(芭蕉)ノ枯澹(あっさりしている中に深いおもむきのあること)ヲ以テ範トセズ」、「翁(芭蕉)ノ心ヲ得テ、翁ノ跡ヲ踏マザル者」(其角編『三上吟』「跋」)であったのである。其角在世中は、蕉門はまだその体裁を保っていた。しかし、其角没(宝永四年)後は、蕉門のそれぞれは、それぞれに、芭蕉の「風雅の精神」を矜持しながら、それぞれ己の俳諧へと邁進していったのである。


(謎解き・六十八)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十七番
   兄 介我
 海棠の花ハ満(ち)たり夜の月
   弟 (其角)
 海棠の花のうつゝやおぼろ月

介我については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kaiga.htm

佐保介我/普舩(さほ かいが/ふせん)
(~享保3年(1718)6月18日、享年67歳)
大和の人だが江戸に在住。通称は孫四郎。天和期に蕉門に入ったらしい。『猿蓑』・『いつを昔』などに入句。
(介我の代表作)
海棠のはなは滿たり夜の月  (『猿蓑』)
金柑はまだ盛なり桃の花  (『續猿蓑』)

「轍士」が匿名で論評した『花見車』では、「こうし」(格子)の格付け(太夫に次ぐ)で次のように記述されている。

晋(其角)さまについていさんしたゆえ、手跡(筆跡)までよう似せさんす。

其角の直弟子の一人である。蕪村の師の早野巴人に近い俳人で、蕪村の俳詩「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)の「北寿老仙」こと、早見晋我(結城の俳人)の師筋にあたるともいわれている。

さて、『兄弟句』の十七番の、介我の句(兄)は、『猿蓑』入集の句で、これを以てするに、其角は、「海棠の花のうつゝやおぼろ月」と、この「うつゝや」が何とも其角らしい。その判詞には、「(介我の句が)一句のこはごはしき所あれば自句にとがめて優艶に句のふり分(わけ)たり。趣向もふりも一つなれども、みちたり夜のと云(いえ)る所を、うつゝや朧と返して吟ずる時は、霞や煙、花や雲と立のびたる境に分別すべし」とある。


(謎解き・六十九)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十八番
   兄 (其角)
 花ひとつたもとにすか(が)る童かな
   弟 (其角)
 花ひとつ袂に御乳の手出し哉

其角の判詞(自注)には、「たもとゝいふ詞のやすらかなる所」に着眼して、「花ひとつたもと(袂)に」をそれをそのままにして、句またがりの「すか(が)る童かな」を「御乳の手出し哉」で、かくも一変させる、まさに、「誹番匠」其角の「反転の法」である。この「反転の法」は、後に、しばしば蕪村門で試みられたところのものであるという(『俳文学大辞典』)。ちなみに、伝蕪村筆とすわれる『続俳家奇人談』(天保三年)の「書賛物」に記載されている「蕉門十哲」の俳人は「其角・嵐雪・去来・丈草・杉風・野坡・越人・支考・北枝・許六」である。ちなみに、「荷兮」の名が見られるのは、『風俗文選通釈』(安政五年)と数は少ない。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「荷兮の凩の句」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」六)

6、 凩(こがらし)に二日(ふつか)の月のふきちるか   荷兮(かけい)
   凩(こがらし)の地にもおとさぬしぐれ哉   去来
 去来曰、二日の月といひ、吹ちるかと働たるあたり、予が句に遥か勝(まさ)れりと覚(おぼ)ゆ。先師曰、兮(けい)が句は二日の月といふ物にて作せり。其名目(そのみゃうもく)をのぞけばさせることなし。汝が句ハ何を以(もっ)て作(さく)したるとも見えず。全体の好句也。ただ地迄(ちまで)とかぎりたる迄(まで)の字いやしとて、直(なほ)したまひけり。初は地迄(ちまで)おとさぬ也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,12~13)

 夕暮れのようやく陽の沈んだ空にうっすらと針のようにとがった月を見たとき、これが二日の月かと思ったが、あとでカレンダーを見ると旧暦の3日だったということがある。果たして二日の月というのは本当に見えるのだろうか。見えないからこそ「吹き散るか」なのだろう。
 「か」も「かな」も今日の関東の言葉ではどちらも疑問の意味しかない。だから「吹き散るか」と言われると「吹き散るか?」の意味に聞こえてしまう。しかし、かつては「か」も「かな」も詠嘆の意味で用いられていた。もっとも純粋な詠嘆というよりは多少想像を含んだ「!?」のニュアンスが込められている。

 ほろほろと山吹散るか滝の音   芭蕉

の「か」も「かな」と同様に詠嘆の意味だ。この用法は今日でも関西のほうでは「が」や「がな」という濁った形で残っている。「二日の月が吹き散るがな」「山吹が散るがな」「そうでんがな」「そうやが」の「が」「がな」だ。
 荷兮の句はその意味では、あるはずのない月を木枯らしで吹き散ったことにしたもので、月が吹っ飛んだという奇抜な発送、突拍子もない想像の面白さが生命の句だ。
 去来の句も、木枯らしに時雨の雨が吹っ飛んで地面に落ちない、という実際にはありえない想像を交えた句だが、月が吹っ飛ぶほどの想像力の飛躍はない。その差から、荷兮の句は世間にもてはやされて、「木枯らしの荷兮」の名までもらったが、去来の句はさしたる話題にもならなかったのだろう。去来自身、荷兮の句の勝れていることは認めていた。それに対し、芭蕉は去来をなぐさめて言ったのだろう。
 芭蕉の評「兮(けい)が句は二日の月といふ物にて作せり。其名目(そのみゃうもく)をのぞけばさせることなし。」というのは、要するに木枯らしそのものより二日の月が吹っ飛ぶという奇抜な空想のほうに重点が移り、「木枯らし」のもつ伝統的な情(本意本情)を必ずしも的確に捉えていないということなのだろう。それに比べれば、去来の句のほうは地味だが、風に砕け散ってゆく冷たい雨粒に、冬の厳しい寒さが感じられ、蓑笠でも時雨を防ぎ切れない旅人の哀れさも感じられる。人目を引くような言葉の鋭さはないが、これが良いにつけ悪いにつけ去来の句の持ち味なのだろう。「汝が句は何を以て作したるとも見えず。全体の好句也。」という芭蕉の評価は適切だ。


(謎解き・七十)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十九番
   兄 亀翁
 寝た人を跡から起(き) て衾かな
   弟 (其角)
 酒くさき蒲団剥(ぎ)けり霜の声

この亀翁については、先に触れた(第六十)。ここで、再掲しておきたい。

『田中・前掲書』では、亀翁について次のとおり記述している。
(再掲)
※亀翁は岩翁の息子で、元禄三年は十四歳であった(『俳諧勧進牒』)。元禄六年刊行の『流川集』(露川編)に彼の元服を祝う支考と其角の句があるから、元禄五年に元服したのであろう。年は若かったが『いつを昔』以後其角派の一員として活躍し、元禄七年には父の岩翁や横几(おうき)・尺草(せきそう)・松翁(しょうおう)らと其角の供をして関西旅行に出かけている。『猿蓑』(元禄四)に三句、『俳諧勧進牒』(同)に五十一句入集しており、将来を嘱望されていた若手の一人であったと思われるが、どういうわけかこの関西旅行以後は俳壇から姿を消す。楠元六男氏の「芭蕉俳文『亀子が良才』の成立をめぐって」(「連歌俳諧研究」五四)によると、元禄七年以後の亀翁の作は、『有磯海・となみ山』(元禄八)に発句一、『洗朱』(元禄一一)に付句一があるだけである。
次のアドレスのネット記事は次のとおりである。

http://apricot.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kioh.htm

多賀谷亀翁(たがや きおう)(生年不詳)
江戸の人。多賀谷岩翁の息子。通称万右衛門。天才のほまれ高く、14歳のときの句が猿蓑に入集するという天才振りを発揮した。
(亀翁の代表作)
茶湯とてつめたき日にも稽古哉(猿蓑)
春風にぬぎもさだめぬ羽織哉(猿蓑)
出がはりや櫃にあまれるござのたけ(猿蓑)

其角が芭蕉門に入門したのも、十四歳の頃とされているが、この亀翁も十四歳で、『猿蓑』に入集するという、「天才・亀翁」の名も冠せられている早熟の俳人である。介我と同じく、其角の直弟子で、其角の『いつを昔』には、この亀翁に大きなページを割いている。其角は、この亀翁に、自分のデビュー当時のことを重ね合わせながら、芭蕉が其角に大きな期待を寄せていたように、その将来を嘱望していたことであろう。しかし、この『句兄弟』が刊行された元禄七年(一六九四)以降には、その名を見ないという。その元禄七年は、芭蕉が没した年でもあった。その意味では、天才・亀翁は、天才・芭蕉と共に、日本俳壇史から、消え去ったという趣でなくもない。亀翁の、「寝た人を跡から起(き) て衾かな」の句に対して、酒好きの其角は、「酒くさき蒲団剥(ぎ)けり霜の声」とは、これまた、其角らしい換骨奪胎である。この「霜の声」の季語の活用も其角好みであろう。

ここで、『去来抄』「同門評」の下記のアドレスでの「少年の句」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#m

(「同門評」一四)

14、 嵐山(あらしやま)猿のつらうつ栗のいが   小五郎(こごらう)
    花ちりて二日おられぬ野原哉(かな)
 正秀曰(まさひでいはく)、嵐山ハ少年の句にして、しかも風情あり。落花ハわる功の入たる処見えて、少年の句と謂がたし。去来曰、二日おられぬといへるあたり、他流の悦ぶ処にして、蕉門の大ひに嫌ふ事也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35)

 「嵐山」の句は上五の「嵐山」と下七五の「栗のいが」が羅列された感じで稚拙な感じがするし、栗のいがが猿の面を打つという趣向も絵が浮かんで面白いし無邪気な感じがするが、想像力は豊かでも、それほどリアリティーはない。そういう点では子供の考えそうな、ということになるのだろう。
 「花ちりて」の句は、花が散ってしまった殺風景な野原には二日といられないという意味なのだろうが、花というのは散る様も風情があり、散った後の名残を惜しみ、花は散っても心の花は散らないというところに風流の心がある。花が散ったからもう用はないというのはいかにも非情で無風流な感じだ。
 この二句は浪化(ろうか)編の『有磯海(ありそうみ)』の句で、どちらも子供の句だという。前者は野明息十一歳とあり、後者は嵯峨農十二歳市とあり、句風の違いは親の教え方の違いか。去来は「他流の悦ぶ処にして、蕉門の大ひに嫌ふ事也」とはいうものの、浪化も一応北陸蕉門の中心人物で、なぜこのような句を採ったのかはわからない。子供ならこの程度でいいかというところか。


(謎解き・七十一)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十番
   兄 赤右衛門 妻
 嚔にさへ笑ハゝ(バ)いかにほとゝき(ぎ)す
   弟 (其角)
 さもこそハ木兎(みみずく)笑へほとゝき(ぎ)す

 この「赤右衛門 妻」は未詳である。其角の「判詞」(自注)に、「此の句はをのが年待酔の名高き程にひびきて人口にあるゆへ、更に類句の聞こえもなく一人一句にとどまり侍る」(濁点等を施す。以下、同じ)とあり、当時は、よく知られた句の一つであったのだろう。「鶯の花ふみちらす細脛を大長刀にかけてともよめりければ、是等は難躰の一つにたてて、かの妻に笑へるを見しと答しを興なり」と、その換骨奪胎の種明かしをしている。そもそも、この『句兄弟』は、其角が、当時余りにも露骨な類想句を目にしての、その「類想を逃るる」ための、換骨奪胎の具体例を示すために、編まれたものであった。こういう、当時のよく知られた句を素材にして、全然異質の世界へと反転させる、その腕の冴えは見事だという思いと、「これ見よがし」の自慢気な其角の風姿が見え見えという思いも深くする。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「類想のいましめ」のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」八)

8、 清瀧(きよたき)や浪(なみ)にちりなき夏の月
 先師難波(なには)の病床に予を召て曰、頃日園女(このごろそのじょ)が方にて、しら菊の目にたてて見る塵(ちり)もなしと作す。過し比(ころ)ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初(はじめ)の草稿野明(やめい)がかたに有べし。取(とり)てやぶるべしと也(なり)。然(しか)れどもはや集々(しふしふ)にもれ出(いで)侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,13)

 元禄7(1694)年5月11日、芭蕉は故郷伊賀へと旅立ち、これが最後の旅となる。伊賀を中心にして伊勢、京都、彦根などの旧来の門人の所を回った芭蕉は、6月15日頃、京都落柿舎に滞在し、この「清瀧や」の句を詠んだ。その後9月8日に芭蕉は伊賀から大阪へと向かう。この旅は西国・九州への旅立ちとされてきたが、直接的には大阪での酒堂・之道との不仲を仲裁に行くという動機もあり、事情は定かではない。いずれにせよ、10月12日大阪で芭蕉は帰らぬ人となった。
 奈良を過ぎたあたりから既に芭蕉の病状は悪化し、大阪にたどり着くのもやっとのことだった。大阪で、芭蕉は病気を押して俳諧興行を重ね、9月27日の園女(そのめ(そのじょとも言う)亭での興行の発句として、

 白菊の目に立てて見る塵(ちり)もなし  芭蕉

の句を詠む。白菊は晩秋の季題であるとともに美人にも例えられる。園女が果たして美人だったかどうかはともかくとして、そんな気にすることはないじゃないか、白菊ということにしておいてあげて、という句だ。座を盛り上げるための有りがちな冗談とも取れるが、芭蕉も男だから、何か惹かれるものがあったのかもしれない。この興行は大勢でにぎやかに楽しんだ芭蕉の最後の興行だった。
 何となく病床で死期を悟った芭蕉は、このときの発句が「清瀧や」の句に似ていることが気にかかったのは当然のことだった。自分の最期を飾る大切な思い出の句が等類というのはいただけない。各務支考(かがみしこう)の『芭蕉翁追善之日記』によれば、芭蕉は「その句、園女が白菊の塵にまぎらはし。是も亡き跡の妄執と思へば、なし替え侍る。」と支考に語ったという。10月9日のことだった。
 そのときの改作が

 清滝や波に散り込む青松葉  芭蕉

で、前日に詠んだあの有名な

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

の句とともに芭蕉の絶筆となった。

0 件のコメント: