3-1 山更(さら)にひび(日々)切る音や秋の風
【関連季語】 色なき風
【解説】
秋になって吹く風。立秋のころ吹く秋風は秋の訪れを知らせる風である。秋の進行とともに風の吹き方も変化し、初秋には残暑をともなって吹き、しだいに爽やかになり、晩秋には冷気をともなって蕭条と吹く。秋が五行説の金行にあたるので「金風」、また、秋の色が白にあたるので「白風」ともいう。
【来歴】 『世話盡』(明暦2年、1656年)に所出。
【文学での言及】
秋風に阿倍野靡く河傍の和草のにこよかにしも思ほゆるかも 大伴家持『万葉集』
秋風の寒き朝けを佐農の岡越ゆらむ君に衣借さましを 山部赤人『万葉集』
昨日こそ早苗とりしかいつのまに稲葉そよぎて秋風ぞ吹く よみ人しらず『古今集』
秋風の吹きにし日より音羽内峰のこずゑも色づきにけり 紀貫之『古今集』
初秋風涼しき夕べ解かむとて紐は結びし妹に逢はむため 犬伴家持『万葉集』
ふきいづるねどころ高く聞ゆなり初秋風はいざ手馴らさじ 小弐のめのと『後撰集』
月かげの初秋風と吹きゆけばこころづくしに物をこそ坦へ 円融院『新古今集』
わがせこが衣のすそを吹きかへし裏めづらしき秋の初風 よみ人しらず『古今集』
おしなべて物を思はぬ人にさへ心をつくる秋の初風 西行『新古今集』
【例句】
秋風の吹きわたりけり人の顔 鬼貫「江鮭子」
あかあかと日は難面も秋の風 芭蕉「奥の細道」
石山の石より白し秋の風 芭蕉「奥の細道」
終宵秋風聞くやうらの山 曾良「奥の細道」
秋風やしらきの弓に弦はらん 去来「曠野」
十団子も小粒になりぬ秋の風 許六「韻塞」
蔓草や蔓の先なる秋の風 太祇「太祇句選」
秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者 蕪村「蕪村句集」
子の皃に秋かぜ白し天瓜粉 召波「春泥句集」
https://www.zen-essay.com/entry/torinaite
その森から一羽のカラスが鳴き声を上げながら飛び立つ。
途端に静寂が破られて、辺りに鳴き声がこだまする。
カラスが次第に遠ざかるにつれて、鳴き声の余韻も散じるように空に消え入り、山は再び静けさを取り戻す。】
※「伐木丁々(ちょうちょう)」(前書)=「伐木」(樹木をきりたおすこと)、「丁々」(かん高い音が続いて響くさまを表す語)
水打し石なら木なら秋の風(みずうちし/いしならきなら/あきのかぜ) 文化句帖
秋の風宿なし烏吹かれけり(あきのかぜ/やどなしからす/ふかれけり) 七番日記
淋しさに飯をくふ也秋の風(さびしさに/めしをくうなり/あきのかぜ) 文政句帖
草花やいふもかたるも秋の風(さばなや/いうもかたるも/あきのかぜ) 七番日記
『伊勢物語(第8段 東下り・信濃)』(住吉如慶筆・愛宕通福書・東京国立博物館研究情報アーカイブ巻1-13・1-14)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048421
第8段東下り(信濃)(信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ)
第9段 東下り(八橋)(唐衣きつゝ馴にしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ)
同(宇津)(駿河なる宇津の山辺のうつゝにも夢にも人に逢はぬなりけり)
同(富士)(時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ)
同(隅田川)(名にしおはゞいざこと問は都鳥むわが思ふ人はありやなしやと)
信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ (『伊勢物語(第8段 東下り・信濃)』)
に煙(けぶり)の立つを見てよめる
903 信濃なる淺間の嶽に立つけぶりをちこち人(びと)の見やはとがめぬ(在原業平朝臣『新古今集』)
(信濃の国にある浅間山に立ちのぼる噴煙は、遠くの人も近くの人も、どうして目を見張ら
ないことであろうか、誰しも目を見張ることであろう。) 】
しかし、この冒頭の一句は、「隅田川」の景のものではない。
『伊勢物語(第9段 東下り・墨田川)』(住吉如慶筆・愛宕通福書・東京国立博物館研究情報アーカイブ巻1-15)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048428
そして、「第三 みやこどり」のタイトルは、寛政五年(一七九三)、抱一、三十三歳から寛政七年(一七九五)にかけてのものが収載されていて、『軽挙館句藻』では欠巻となっている。(『酒井抱一・井田太郎著(岩波新書)』)
この「第三 みやこどり」の背景には、この頃、抱一は、日本橋蛎殻町の酒井家中屋敷から、墨田川東岸の「本所番場」の屋敷(下屋敷=別邸=国元からの荷を揚げるため主に水辺につくられた蔵屋敷)に移住している。
これは、「おそらく同年十一月に行われた藩主忠道の婚礼に関連する動きだろう」とし、「墨田川の東岸(下屋敷)と西岸(中屋敷)とを行き来するこの時期の句集名にまことに相応しい」としている。(『酒井抱一・玉蟲敏子著・日本史リーフレット54』 )
すなわち、この「第三 みやこどり」に託した、当時の抱一の心境には、『伊勢物語』の都落ちして、「名にしおはゞいざこと問は都鳥むわが思ふ人はありやなしやと」と、一所不在の、第一線から身を退き、遷住生活を余儀なくされて、「艶(やさ)隠者」としての生活の途を選んだ、当時の、抱一の心境が、ここに託されているように思われるのである。
そして、この前書の「伐木丁々(ちょうちょう)」は、その詫び住まいの「茶掛け」(「掛け軸・軸」=「「茶禅一味」)に関連しての一句として鑑賞したい。
句意は、「この茶掛けの『伐木丁々(ちょうちょう)』は、この茶席の、日々、伐木する谺(こだま)に和して、日々、秋風が増して来る気配を象徴している。そして、それは、『山更(さらに)に、昨日より今日と、より深々と、心に沁み亘ってくることか』というような感慨の一句と解したい。
なお、抱一が、文政六年(一八二三)、六十三歳の時に刊行した『乾山遺墨』周辺のことについて、下記のアドレスなどから再掲をして置きたい。
(参考) 「 習静堂の艶(やさ)隠者(光琳と乾山)」と抱一周辺
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02
落款=華洛紫翠深省八十一歳画 逃禅印
箱の内側には桐材の素地に直接「蛇籠に千鳥図」を描き、裏面に「薄図」を描いている。「薄図」に「華洛紫翠深省八十一歳画」という落款があるので、乾山が没する寛保三年(一七四三)の作とわかる。図様にいずれも宗達が金銀泥下絵で試みて以来この流派の愛好した意匠だが、乾山はそれを様式化した線で図案風に描いた。図案風といっても、墨と金泥と緑青の入り乱れた薄の葉の間に、白と赤の尾花が散見する「薄図」は、老乾山の堂々とした落款をことほぐとともに、来世を待つ老乾山の夢を象徴して美しく寂しく揺れている。乾山の霊魂は「蛇籠に千鳥図」の千鳥のように、現世の荒波から身をさけて、はるか彼岸へ飛んでゆくのであろう。この図はそのような想像を抱かせるだけのものをもっている。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説117・118」)
意を得す光琳乾山一双の名家にして
世に知る處なりある年洛の妙顕寺
中本行院に光琳の墓有るを聞其跡
を尋るに墓石倒虧(キ)予いさゝか作をこし
て題字をなし其しるし迄に建其
頃乾山の墓碑をも尋るに其處を知
ものなし年を重京師の人に問と雖
さらにしらす此年十月不計して古筆
了伴か茶席に招れて其話を聞く
深省か墳墓予棲草菴のかたわら叡麓
の善養寺に有とゆふ日を侍すして行見
にそのことの如し塵を拂水をそゝき香
花をなし禮拝して草菴に帰その
遺墨を写しし置るを文庫のうちより
撰出して一小冊となし緒方流の餘光
をあらはし追福の心をなさんとす干時
文政六年発未十月乾山歳八十一没
てより此年又八十有一年なるも
又奇なり
於叡麓雨華葊抱一採筆
(『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』所収「乾山と琳派―抱一が『乾山遺墨』に込めるもの―(岡野智子稿)」)
↓
江戸博本『乾山遺墨』跋文翻刻
↓
翻刻は『酒井抱一 江戸情緒の精華』(大和文華館 二〇一四)所収の宮崎もも氏翻刻(国立国会図書館本)を参照しつつ行った。 】
(書名は題簽による/文政6年刊の覆刻/一部色刷/和装/印記:梅原書屋/雲英末雄旧蔵)
「乾山遺墨 / 乾山 [画] ; 抱一 [編]」(ページ16/18)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0575/bunko31_e0575_p0016.jpg
「乾山遺墨 / 乾山 [画] ; 抱一 [編]」(ページ17/18)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0575/bunko31_e0575_p0017.jpg
(メモ) 「文政六年発未十月」、文政六年(一八二三)、抱一、六十三歳の時である。この年(四月)に、「太田南畝」が没している。『軽挙館句藻』は「やぶどり」(第十六巻)が開始されている。この年か翌年に、この『乾山遺墨』は刊行されている。(『酒井抱一・井田太郎著(岩波新書)』)
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