抱一句集『屠龍之技』序(その一)
抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0001_m.html
【「屠龍之技」の全体構成(上記「写本」の外題「軽挙観句藻」)
序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・四五歳
第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳
第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上
第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~
第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳
第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳
第六潮のおと (文化二)=抱一・四五歳
第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~
第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳
第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五九歳
跋一(春来窓六華)
跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・四六歳 】
『屠龍之技』の「序」(亀田鵬斎)
軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑、獨泣、獨喜、獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳(ノミ)。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹(俳)諧体ナル者は。唐詩ニ昉(ハジ)マル。而シテ和歌之ニ効(ナラ)フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。
文化九年壬申十月 江戸鵬斎興
抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0002_m.html
■抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
書写地不明] : [書写者不明], [書写年不明]1冊 ; 24cm
注記: 書名は序による ; 表紙の書名: 輕舉観句藻 ; 写本 ; 底本: 文化10年跋刊 ; 無辺無界 ; 巻末に「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮樓主人」と墨書あり
鴎E32:186 全頁
琳派の画家として知られる酒井抱一が、自身の句稿『軽挙観句藻』から抜萃して編んだ発句集である。写本であるが、本文は鴎外の筆ではなく、筆写者不明。本文には明らかな誤りが多数見られ、鴎外は他本を用いてそれらを訂正している。また、巻末に鴎外の筆で「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮楼主人」とあることから、この校訂作業の行われた時日が知られる。明治30年(1897)前後、鴎外は正岡子規と親しく交流していたが、そうしたなかで培われた俳諧への関心を示す資料だと言えよう。(出)
■亀田鵬斎(かめだほうさい);(宝暦2年9月15日(1752年10月21日) - 文政9年3月9日(1826年4月15日))、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。
父は萬右衛門といい、上野国邑楽郡富永村上五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町上五箇)の出身で日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭であった。母の秀は、鵬斎を生んで僅か9ヵ月後に歿した。
鵬斎は6歳にして三井親和より書の手ほどきを受け、町内の飯塚肥山について素読を習った。14歳の時、井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜き、金峨を驚嘆させている。この頃の同門 山本北山とは終生の友となる。23歳で私塾を開き経学や書などを教え、躋寿館においても教鞭を執った。赤坂日枝神社、駿河台、本所横川出村などに居を構え、享和元年(1801)50歳のとき下谷金杉に移り住んだ。妻佐慧との間に数人の子を生んだが皆早世し、亀田綾瀬のみ生存し、のちに儒学者・書家となる。亀田鴬谷(かめだおうこく)は孫にあたる。
鵬斎は豪放磊落(ごうほうらいらく)な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものだった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。
松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、酒に溺れ貧困に窮するも庶民から「金杉の酔先生」と親しまれた。塾を閉じ50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流する。
享和2年(1802)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。
文化5年、妻佐慧歿す。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがあった。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5両を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。
鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。
「鵬斎は越後がえりで字がくねり」 川柳
良寛より懐素(かいそ=唐の草書の大家)に大きく影響を受けた。
鵬斎は心根の優しい人柄でも知られ、浅間山大噴火(天明3年)による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたという。また赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てている。定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っている。
晩年、中風を病み半身不随となるが書と詩作を続けた。享年七十五。称福寺(台東区今戸2丁目5−4。浄土真宗本願寺派寺院)に葬られる。現在鵬斎が書いたとされる石碑が全国に70基以上確認できる。
亀田 鵬斎は、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ。 鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興。字は国南、公龍、穉龍、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。 ウィキペディア
足立区立郷土博物館所蔵 一行書「酔い飽きて高眠するは真の事業なり」。
「詩書屏風」 亀田鵬斎書 東京国立博物館展示 個人蔵
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■ 柳家さん生の噺、「亀田鵬斎」(かめだほうさい) 原題「鵬斎とおでんや」より
下谷金杉の裏長屋に生んでいた亀田鵬斎という方がいました。書家であったが、名人気質があって気にいらないと書を書かないし、気にいれば金額のことなど無視して書いた。
孫が行方不明になって大騒ぎをしています。
「御免下さいまし。ごめんください。こちらが亀田鵬斎さん宅でしょうか」、「はい、はい、手前です」、「私はおでん燗酒を商っている平次と申しますが、お宅のお孫さんではありませんか。屋台に寝ています」、「婆さんや、疲れたんだろうから、そっと寝かせてあげなさい。かどわかしでは無いかと大騒ぎしてました」、「吉原田んぼで仕込みしていましたら、子供がワァ~っと泣きじゃくっていたのが、あの子です。色々聞いたら亀田鵬斎とだけ分かって、聞きながらやっとここが分かりました」、「孫が見付かった身祝いに何か差し上げたいが・・・。この生活では・・・」、「そんな事は良いんです」、「そうはいきません」、「子供が泣いていたから連れてきただけ。この汚い家に何も無いのは分かります」、「壊れかかった屋台はお前さんの物か」、「壊れ掛かったとは怒りますよ。これで仕事をしているんです」。
考えたあげく、屋台の看板になる小障子を外し奥に持って行ってしまった。しばらくして小障子を抱えてきて、行灯に火を入れて小障子をはめ込んだ。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。「先生が書いたの。看板屋?貰って良いの」、「お持ち下さい」。
平次がいつものように吉原田んぼで仕事をしていると、五十年配の大店の旦那然とした御客が来た。「いらっしゃい。何を・・・」、「寒くなったので、熱燗を一本。吉原を久しぶりに冷やかしてきたんだ。冷えたときには熱燗で身体の中から温めるのが一番。クゥ~、クゥ~、クゥ~、ファ~。・・・チョッと聞くが、お前さんの名前は平次さんかぃ」、「どうして判るんですか」、「ここに書いてある。鵬斎として落款が押してある。これは亀田鵬斎かぃ」、「そうですよ」、「知っているのかぃ」、「知っています」、「私は屋台で酒は飲んだことが無いんだ。この字は、『飲みなさいッ』という字だ。ここに鵬斎の書が有るなんて・・・、目の保養をさせて貰いました」、御客は1両を置いてお釣りも取らず、小障子を持って行ってしまった。
「こんにちは。私は、おでん燗酒は売っていますが、小障子は売っていません。この1両は先生の物ですからお渡しします」、「アレはお前さんにやった物だ。1両はお前さんの物だ」、お互いに譲り合って、話は先に進まない。「では、この1両は預かっておく。新しい小障子を持って来なさい」。同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書いて落款が押してあった。
半月ほどたった晩に若い武士が店にやって来た。「亀田鵬斎が書いた看板を掲げた店が有ると聞いたが・・・」、「これが亀田鵬斎が書いた看板なんです」、「そうか。ここに5両置く。小障子は貰っていく」、「チョッと、小障子持って行っちゃいけません」。
「先生、小障子持って行かれました。5両は貴方の物ですから、ここに置きます。おでんも食べず、燗酒も飲まず5両置いて小障子を持って行っちゃったんです」、「分かった。5両は預かっておく。小障子を持って来なさい」。前回と同じように、『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』と書かれ落款が押してあった。
「殿お呼びですか」、「見て見ろ、経治屋に軸装にして貰った。『おでん 燗酒 平次殿 鵬斎』、良い書だろう。他には無いぞ。酒の支度をしろ。鵬斎が言っている。飲めと」。
「お客さまです」、「黒田か、こっちに入れ。良いだろう、この書」、「我が殿が2000両用意しているから、譲って貰えと言っています」、「バカモン。この書は他には無いんだ。譲れん」。
この黒田がお屋敷に帰ってこの話をすると、「この屋台は必ず何処かに出ているはずだ。探せッ」。
「鵬斎書の小障子がはめてある屋台が見付かりました」。若侍を集めて、この屋台の周りを取り囲み、号令一下屋台を引っ張って持って行ってしまった。25両の金を置いて行った。
「御免下さいまし」、「どうした?」、「25両で屋台をやられました」、「平次さん、歳は幾つになる。五十か。屋台では身体がキツいであろう。店を持たぬか?足して31両有る」、「その金は借りるので、少しずつ返していきます。そうですね。生まれが四谷ですから、四谷で豆腐屋でも始めましょう」、「店が出来たら、わしが『豆腐屋 平次』と書いてあげよう」、
「それには及びません。それでは家が無くなっちゃう」。
■下谷金杉(したやかなすぎ);近くに有る金杉村とは違って、旧日光街道(現金杉通り)に面した下谷金杉上町と下谷金杉下町が有ります。現在の言問通り交差点・根岸一丁目辺りから北側の三ノ輪交差点辺りまでの街道に沿った細長い町です。
下谷金杉辺りから吉原田んぼまでは東に約1km位です。
鵬斎の金杉時代は里俗に中村というところに住んだ。今もある御行松跡の不動堂の北側で、現台東区根岸四丁目14あたり。昭和三十年代まで中根岸の内だった。
港区に有る、旧浜離宮恩賜庭園の南側を流れる古川(上部に首都高環状線が走る)に架かり、国道15号線(旧東海道)を渡す”金杉橋”とは違います。
■四谷(よつや);四谷見附の有った、五街道の甲州街道があった新宿の手前の街。現在の新宿区と千代田区の区境にある、四ツ谷駅がその地です。千代田区側には番町と麹町が有りますが、四谷は新宿区側で甲州街道に沿った細長い街になって居ます。
当時は、四ツ谷伊賀町、四ツ谷忍町、四ツ谷御箪笥町、四ツ谷北伊賀町、四ツ谷坂町、四ツ谷塩町、四ツ谷伝馬町、四ツ谷仲町等がありました。
■吉原田んぼ(よしわらたんぼ);ここで平次さんのおでん屋が仕込みと店を出していました。遊郭吉原を取り巻く一帯に有った田んぼ地(台東区浅草3~6丁目と同千束1~3丁目の一部)。その南側が浅草寺。遊郭吉原に行くのに、蔵前の方から近道を行くと、浅草寺の境内を縦に突っ切り、浅草田んぼを行けば、その先に吉原の明かりが見えた。落語「唐茄子屋政談」に出てくる勘当された若旦那が、初めて唐茄子を担ぎなが売り歩き、気が付くとこの吉原田んぼに出て、吉原を遠くに見ながらつぶやく場面があります。若旦那の述懐が何ともほろ苦く遊びの世界と現実の世界のギャップをまざまざと見ることが出来ます。
吉原と浅草寺の間だの土地を田町と言った。明治14年頃浅草田んぼが埋め立てられて、約2万1千坪が平地となり、その一部が田町という町名になった。安易な町名の付け方ですが、現在この地名はありません。田町とは江戸に(東京にも)同名の町名が他にも有りますが、落語の世界では断りを入れない限り、ここの”田町”が舞台です
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