日曜日, 1月 15, 2023

屠龍之技(酒井抱一句集)第一こがねのこま(1-9)

1-9 花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/1994

 季語=花(晩春)。【子季語】花房、花の輪、花片、花盛り、花の錦、徒花、花の陰、花影、花の奥、花の雲、花明り、花の姿、花の香、花の名残、花を惜しむ、花朧、花月夜、花の露、花の山、花の庭、花の門、花便り、春の花、春花、花笠、花の粧。【関連季語】桜、初花、花曇、花見、落花、残花、余花。

【解説】

花といえば桜。しかし、花と桜は同じ言葉ではない。桜といえば植物であることに重きがおかれるが、花といえば心に映るその華やかな姿に重心が移る。いわば肉眼で見たのが桜、心の目に映るのが花である。

【来歴】

『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【文学での言及】

あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我がおおきみかも 大伴家持『万葉集』

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ 紀友則『古今集』

年経れば よはひは老いぬしかはあれど花をし見れば 物思ひもなし 藤原良房『古今集』

花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに 小野小町『古今集』

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ 西行『続古今集』

【例句】

これはこれはとばかり花の吉野山 貞室「一本草」

なほ見たし花に明け行く神の顔  芭蕉「笈の小文」

花の雲鐘は上野か浅草か     芭蕉「続虚栗」(※其角編)

一昨日はあの山越えつ花盛り   去来「花摘」(※其角編)

肌のよき石にねむらん花の山   路通「いつを昔」(※其角編)

花に暮れて我家遠き野道かな   蕪村「蕪村句集」

花ちるやおもたき笈のうしろより 蕪村「蕪村句集」

 (其角の句)

 日々酔如泥

花持て市の礫にあづからん    (※「続虚栗」其角編)

(袖に来て物語せよ雀の子 其角)

  肴手折てびんにさす花 其角 (※「花摘」其角編)

 酒

(いざ汲ん年の酒屋のうはだまり 其角 )

その花にあるきながらの小盞 其角) (※「いつを昔」其角編)

 (一茶の「花」の句)

 http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

 上記アドレスの一茶の「花」の句は「2364件」が提示される。そのうち、「()・梅」の句は「1216件」、「()・桜」の句は「468件」、「()・桃」は「49件」がヒットする。さらに、別な視点の「()・江戸」の句は「25件」、「(花)・日本」は「8件」、「(花)・元日」の句は「4件」、「(花)・元旦」の句は「0件」、「(花)・正月」の句は「10」が提示される。

 その「(花)・正月」の句の「10件は、次のとおりである。

 1正月やよ所に咲ても梅の花(しょうがつや/よそにさいても/うめのはな)・新年/文化句帖

2正月()猫の塚にも梅の花(しょうがつや/ねこのつかにも/うめのはな)新年/文化句帖

3正月や村の小すみの梅の花(しょうがつや/むらのこすみの/うめのはな)新年/文化五六句記

4正月やゑたの玄関も梅の花(しょうがつや/えたのげんかんも/うめのはな)新年/七番日記

5正月や夜は夜とて梅の花 (しょうがつや/よるはよるとて/うめのはな)新年/発句鈔追加

6我~も目の正月ぞ夜の花 (われわれも/めのしょうがつぞ/よるのはな)/七番日記

7としよりの目()正月ぞさくら花 (としよりの/めのしょうがつぞ/さくらばな)/七番日記

8こちとらも目(の)正月ぞさくら花(こちとらも/めのしょうがつぞ/さくらばな)/八番日記

9としよりも目の正月やさくら花(としよりも/めのしょうがつや/さくらばな)/浅黄空他

10こちとらも目の正月ぞさくら花( こちとらも/めのしょうがつぞ/さくらばな)/だん袋

(連歌・連句上の「花」の句)

http://www.yamashina-mashiro.com/m/toshi/nyumon.htm

花の座の語として認められる語を「正花」という。連歌では「花」は桜と限定せず、賞美に値する花やかさの抽象概念を指す語。

▼正花として扱う語。

  春----花車、花衣、花筏、心の花など。

  夏----余花、若葉の花、花茣蓙、残る花など。

  秋----花火、花踊、花もみぢ、花相撲、花燈篭など。

  冬----帰り花、餅花など。

  雑----花婿、花嫁、花鰹、花莚、作り花、花塗、花かいらぎ、花形、燈火の花など。

▼花の字があるが非正花(似せものの花)とされ、正花として扱われない語。

  花野、湯の花、火花、浪の花、雪の花など。(花野については後年、窪田氏は「正花」にしたい、と主張)

▼「虚の花」として正花に扱われる語。

  花の波、花の瀧、花の雪など。

▼花の字のない単なる「桜」は正花としない。

「鞍置馬」=鞍を置いた馬。くらうま。くらおき。※平家(13C前)七「鞍をき馬十疋ばかりおひ入れたり」(「精選版 日本国語大辞典」)

※「鞍」=馬具の総称。馬に乗る装置の皆具(かいぐ)をいう。その様式により、唐鞍(からくら)、移鞍(うつしぐら)、大和鞍(やまとぐら)、水干鞍(すいかんぐら)などの種類がある。鞍具(あんぐ・くらぐ)。(「精選版 日本国語大辞典」)

 


「鞍置馬=『鞍』の掲載図」(「精選版 日本国語大辞典」)

 ※ 花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり (「こがねのこま」1-9) 

句意(句意その一)=(爛漫と咲き誇る)「花」(桜)の「ひと木」(一木)が、(そこに繋いでとめて置いた)「鞍置馬を」、(あたかも、その乗り主の身分高い人を)「蔽(へい)」(隠ぺい=へい=覆い隠す=かく)し「けり」(「過去から現在まで継続的」且つ「詠嘆的」且つ「断定的」に覆い隠してきたことよ。)

  この括弧書きは、意訳するための修飾語で、これらの修飾語を何処まで、どういうかたちにするかというのは、こういう「花」の句になると、さぞかし、正岡子規の、「拙劣見るに堪えず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の讃あるに至っては金殿に反故張りの障子を見るが如く釣り合わぬ事甚し」(病牀六尺』)と、その真意を探索することを放棄するということになる。

 


 「桜図屏風・右翼」(メトロポリタン美術館)(「ウィキペディア」)(「脚注10」= Mary Griggs Burke Collection, Gift of the Mary and Jackson Burke Foundation, 2015

  この図は、抱一の「大塚時代 49歳から57歳 光琳学習と飛躍」として、「桜図屏風/紙本金地著色/六曲一双/メトロポリタン美術館」として紹介されている、その「右翼/六曲一双」のものである(上記の「ウィキペディア」)。

  花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり (「こがねのこま」1-9

  この句の上五の「花ひと木」は、上記の「桜図屏風・右翼」(メトロポリタン美術館)の、その子規のいう「金殿(金色の屋敷)」(抱一の「画」)の「桜のひとき図」とすると、その「反故張りの障子=銀泥の意味不明のもの」(抱一の句)を「見る如く」のような、「釣り合わぬ事甚し」と、そんな印象すら抱かせることになる。

 おそらく、この下部に描かれている「銀地墨画」は、下記のアドレス(「江戸の『金』と『銀』との空間」)で紹介した、鈴木其一の、次のようなものであったように思われる。

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-25

鈴木其一筆「芒野図屏風」二曲一隻 紙本銀地墨画 一四四・二×一六五cm 千葉市美術館蔵

  ここでは、これらの「桜図屏風」(メトロポリタン美術館)の「金(ゴールド)と銀(シルバー)との空間」の対比とか、それらを介在させての「絵画(「画無声詩」)と俳諧(「詩有声画」)との対比などは、この程度に止めて、「花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり」 (「こがねのこま」1-9)の、先の生(なま)のままの「句意」(その周辺)の鑑賞を、甚だ未成熟の仮説的な点が多々あるが、一歩進めることにしたい。

 ※「花ひと木鞍置馬を蔽(かく)しけり」 (「こがねのこま」1-9

「句意」(その周辺)

 この抱一の「花と鞍置馬」と取り合せの句は、抱一と関係の深い江戸の遊郭地「吉原」を背景にしている一句のように思われる。

吉原には、「廓の三雅木」として「逢初桜(あいぞめざくら)」・「駒止松」・「見返り柳」が知られている。そして、この「吉原(新吉原)」(浅草寺から北に約1キロ)への、江戸の中心地から行くルートは、「猪牙舟(ちょきぶね)で隅田川を北上→今戸橋の付近で下舟→日本堤から駕籠か徒歩」というのが、当時の通常のルートのようである(「吉原遊郭までの道のり」=下記アドレス「太田記念美術館」)。

 https://otakinen-museum.note.jp/n/naadbf3f2b985

 

「二代広重の『東都新吉原一覧』」のうち左下の遊郭の入り口部分をアップ図」

https://otakinen-museum.note.jp/n/naadbf3f2b985

  このアップ図の下部に「日本堤」と「「見返り柳」が描かれ、これを左に曲がると「衣紋阪」と「五十間道」、その入り口に神社の鳥居があって、「逢初桜(あいぞめざくら)」・「駒止松」が描かれている。

 ここで、次のアドレスの「江戸旧蹟を歩く(吉原の道)」の記事が、貴重な示唆を投げ掛けてくれる。

 http://hotyuweb.starfree.jp/yoshiwarahenomichi/yoshiwarahenomichi.html

 「○吉原への道

 馬が吉原通いに使われたのは元禄前後で、寛文元(1661)年に馬での登楼は禁止され、駕籠と舟が主となり馬は使われなくなりました。なお、駕籠で通うことは幕府により禁じられていましたが、守られていませんでした。」

 この「吉原への道」の記事から、元禄期の「其角・嵐雪」の時代には、「駕籠・徒歩」だけでなく、「馬での登楼」というのもよく見かけたものなのであろう。しかし、それが「抱一・一茶」の時代には、いわゆる、「寛政の改革」(「天明7年(1787年)- 寛政5年(1793年)」の「老中・松平定信」の断行した「幕政改革(倹約による幕府財政再建)」)により、厳禁になったような、そんなことを背景にしている一句と解すると、やや、この抱一の、この句の正体の一部が見えてくるような感じを抱くのである。

 これらのことを背景としての一句として鑑賞すると、次のような句意となる。

(句意その二)

 今を盛りに誇っている花の、その櫻花の一樹に、鞍を付けたままの馬が留め置かれている。その鞍を付けた馬を、その櫻花が、あたかも、一切を遮蔽(しゃへい)するかのように、覆い隠している。

 思えば、時の「寛政改革」とやらで、吉原への「馬の登楼」は禁止されて、こういう光景を見るのは久しいことであるよ。

  さらに、寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳時の「出家」と関連しての、抱一の境涯と関連させると、次のような「吉原」関連の句ではなく、当時の「酒井家」の「嫡流体制の確立と傍流の排除」に関連させての穿った見方も浮かんでくる。

 (句意その三)

 花が今爛漫と咲き誇っている。この櫻花の一樹は、「姫路藩十五万石酒井家」を象徴しているかのようであるが、その一樹の陰には、その名跡を継続して揺るぎないものとするために、傍流の一員として、本来の武門の一族としての地位から、本意ではない出家などを余儀無くされた者を、あたかも、覆い隠すように、遮蔽している。

  これらの抱一の「出家」に関連しての句一句、和歌一首が、『句藻』「椎の木陰」に書きつけられている。

    寛政九年丁巳十月十八日、花洛文如上人の、参向

   有りしおりから御弟子となりて頭剃おとし

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

いとふとてひとなとがめそうつせみの世にいとわれしこの身なりせば

  この「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」の句は、『屠龍之技』でも、「第四 椎の木陰」で、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺支(文?)如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」の前書で収載されている。

 これらからすると、下記アドレスの、これまでの理解の、「『屠龍之技』の全体構成」(参考一)の「第四椎の木かげ(寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳」収載の、抱一の「出家」関連としての句とする「句意その三」は、やはり、飛躍し過ぎということになろう。

 (参考一)

 https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-20

 【「屠龍之技」の全体構成(上記「写本」の外題「軽挙観句藻」)

 序(亀田鵬斎)(文化九=一八一二)=抱一・四五歳

第一こがねのこま(寛政二・三・四)=抱一・三〇歳~三二歳

第二かぢのおと (寛政二・三・四)=同上

第三みやこおどり(寛政五?~?)=抱一・三三歳?~

第四椎の木かげ (寛政八~十年)=抱一・三六~三八歳 

第五千づかのいね(享和三~文化二年)=抱一・四三~四五歳

第六潮のおと  (文化二)=抱一・四五歳 

第七かみきぬた (文化二~三)=抱一・四五歳~ 

第八花ぬふとり (文化七~八)=抱一・五〇~五一歳

第九うめの立枝 (文化八~九)=抱一・五一~五九歳

跋一(春来窓三)

跋二(太田南畝) (文化発酉=一八一三)=抱一・四六歳   】

 (参考二)

 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-20

 


酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵 六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・0㎝ 落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

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