金曜日, 1月 20, 2023

第二 かぢのおと(2-1)

 2-1 星一ツ残して落(おつ)る花火かな

 季語=花火(初秋)

 https://kigosai.sub.jp/001/archives/2199

 【子季語】 煙火、揚花火、仕掛花火、打上花火、遠花火、花火舟、金魚花火、花火大会

【関連季語】 手花火

【解説】

種々の火薬を組み合わせ、夜空に高く打ち上げて爆発の際の光の色や音を楽しむもの。もともとは、秋祭りの奉納として打ち上げられた。日本一の四尺花火が打ち上げられる新潟県小千谷市の片貝地区では、子供の誕生や入学就職記念、追善供養など、生活の節目節目に、住民が花火を奉納する。

【来歴】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。

【例句】

一雨が花火間もなき光かな   其角「五元集」

もの焚て花火に遠きかゝり舟  蕪村「落日庵句集」

舟々や花火の夜にも花火売   一茶「一茶句帖」

 


「名所江戸百景 両国花火」(歌川広重(初代)画 安政5年(1858)刊)

https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5536

【 両国の花火を描いた有名な作品です。今でも隅田川の花火大会は多くの人に楽しまれていますが、江戸の人々も夜空に浮かび上がる光の芸術を心待ちにしていました。絵には「ポカ物」と呼ばれる花火の大輪が描かれていますが、江戸時代は花火の技術が発展した時代でもあり、江戸だけでなく、現在の長野県や愛知県などでも花火が作られ、打ち上げられていました。 】

 


https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/hiroshige179/

【花火が開いた瞬間を広重はとらえ、独特な表現で描いています。幅を広めにぼかした「拭き下げぼかし」、摺師の腕の見せどころです。】

 (其角の「花火」の句)

   舟興

 壱両が花火間もなき光哉 (其角『五元集』)

    2-1 星一ツ残して落(おつ)る花火かな

 「句意」(その周辺)

 抱一は、寛政二年(一七九〇)の頃、その「梶の音」の序文に「筥崎舟守(はこざきのふなもり)」と署名しており、蠣殻町の、箱崎川に面した酒井家の中屋敷に転居していて、その中屋敷の主人の意を込めての、当時の抱一の号の一つである。

 その「梶の音」の、『屠龍之技(第二 かぢのおと)』では、その冒頭の一句ということになる。

 この箱崎川に面した酒井家の中屋敷は、墨田川と直結しており、其角の「舟興」との前書を有する「壱両が花火間もなき光哉 (其角『五元集』)」などの、「両国の花火大会」などが背景にある句のような雰囲気である。

 句意は、「隅田川の屋形船で、江戸の納涼の一大イベントである両国花火大会に興じている。今、そのクライマックスの打ち上げ花火が上がり、夜空一面に満天の星が輝いたと思うと、一瞬にして、闇夜となり、今や、中天には星一つが、なにごとも無かったように輝いている。」

(参考一)  「酒井家中屋敷周辺」


 「酒井家中屋敷周辺」(国立国会図書館 デジタルコレクション『〔江戸切絵図〕. 日本橋北神田浜町絵図』, doi:10.11501/1286645)

http://codh.rois.ac.jp/edo-maps/owariya/03/1850/3-275.html.ja

(参考二) 「江戸の花火」

 https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/4246738/

【 江戸両国で、毎年花火があがるようになったのは、享保181733)年から。この年の528日、隅田川の川開きに合わせて打ち上げられたのが最初だ。享保16年は旱ばつによって米は不作。翌享保17年は、イナゴの大量発生で西日本は大飢饉。江戸ではコレラが流行して多数の死者を出した。そのため、両国の料理茶屋が幕府に願い出て、「川施餓鬼」(「施餓鬼[せがき]」とは、死者の霊に飲食物を施すこと)を行い、慰霊のために花火を打ち上げた。以降、隅田川の川開きに花火が定着した。  

花火は、仕込みに手間がかかり冬の間から取りかかって時間をかけて作られる。当然高価になる。一発の相場は一両。一両が一瞬のうちに消えるさまを松尾芭蕉の弟子其角はこう詠んでいる。

   「壱両が花火間もなき光かな」

  だから花火のスポンサーになるには、相当な金が必要だったが、「残るものにはお金をかけず、消えてしまうものにはお金をかける」のが江戸っ子の心意気。こんな狂歌もある。

  「ここに来て金はおしまじ両国の 橋のつめには火をともせとも」

   (「橋の詰(つめ)」と「「爪(つめ)に火をともす」をかけている」)

  一瞬の光の美しさにお金をつぎ込む江戸っ子の精神は、実利主義一点張りの上方の人々には理解できなかった。実際、淀川や鴨川で花火が打ち上げられたのは、明治も中期以降のことだった。

  ところで、江戸時代の花火は、今の花火と比較すると極めて地味。色は、金色、オレンジ色、赤色しかなかった。上がり方も、派手な大輪を描く花火ではなく、シュルシュルと放物線を描いて落ちていく「流星」という花火が主流。花火が円形に開くのは明治71874)年以降、色が多様になるのは明治201887)年以降になってから。玉も小さく、幕末近くなってやっと四寸玉ができた程度。現在でも、四寸玉だと、上がる高さは160m、開いたときの直径は130m500mまで上がり、直径480mまで開く二尺玉とは華やかさの点では比べ物にならない。だから、そもそも江戸っ子のの美的感覚は今とは異なっていたのだと思う。

   糸柳のように名残惜しく枝垂れる姿が、粋好みと映ったようだ。そもそも江戸っ子は花火を、目で見て楽しんだだけではない。打ち上げの音と火薬の匂いも同時に味わった。通ともなると、花火に背を向けて、悠然と酒を飲みながら、音や振動で「今のは大きかったな」などと言い、さらには火薬の匂いも「甘い」「辛い」と嗅ぎ分けたそうである。江戸っ子の豊かな感性。何でも大きければいい、多ければいいというものじゃない。物事の多様な側面を五感をフル動員して十全に味わえるようになりたいものだ。

 (広重「東都名所 両国花火」) 広重ほど多くの花火を描いた浮世絵師はいない。花火の開き方も実に多様に描いている。   】

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