火曜日, 1月 24, 2006

尾崎放哉探索(その一~その二十)



尾崎放哉探索

(その一)

「南郷庵友の会」による「小豆島 尾崎放哉記念館」というホームページ(アドレスは下記)は、尾崎放哉の自由律俳句を知るうえで、「尾崎放哉未発表句」なども収録されており、一度は探索するに十分に価値がある。尾崎放哉が亡くなった、「南郷庵」(みなんごあん)に因んでの、「南郷庵友の会」なのであろうが、私事にわたって恐縮だが、亡くなった兄の俳号が、「南郷庵」(なんごうあん)で、亡くなった兄が、尾崎放哉の、この「南郷庵」
を意識していたことは、その遺されたものなどを整理して、容易に想像できるものであった。しかし、それは、より多く、(吾らの)出生地の字名が、「南郷屋」(みなみごや)であり、亡くなった母の隠居小屋を、その亡くなった兄が、「南郷庵」と命名して、そのことに由来していることが、その俳号の由来なのであった。亡くなった兄は、この「南郷庵」を自分の俳号とするとともに、その亡くなる五年前あたりから、「南郷庵通信」という、タブロイド版などの同人紙などを発行して、それが今になっては、亡き兄の最も貴重な形見となってしまった。そして、その、亡き兄の、その俳号(南郷庵)と、その同人紙(南郷庵通信)を、形のうえでは、弟である小生が引き継いだのだが、その俳号の方は、たまたま使わせていただいているが、その「南郷庵通信」の方は、ホームページ化はしたのであるが、このところ、まったく、放置したままで、どうにも、亡き兄の、小言が聞えてくるようでもある。今回、この「鑑賞広場」を利用させて頂いて、「尾崎放哉探索」ということで、この「小豆島 尾崎放哉記念館」に登載されているものなどを紹介しながら、尾崎放哉の句業などを見てみたいと、そして、それが、七年忌が近づいた亡き兄の供養にもなるかと、この正月に、そんなことを考えていた。
 それとあわせて、「定型・季語象徴論」ということも、このところ、ずうとまとわりついていて、その「定型律俳句」に対する「影」のような「自由律俳句」を見てみたいということも、この「尾崎放哉探索」の、もう一つの伏線でもある。そんなことで、とにもかくにも、どんなものになるのか、いまのところ、さっぱり検討がつきかねるのだが、そのスタートをすることとする。

「小豆島 尾崎放哉記念館」
http://www2.netwave.or.jp/~hosai/
「南郷庵通信」
http://nangouan.hp.infoseek.co.jp/

(その二)

一燈園時代 大正十二年十一月 ~ 十三年三月
 一燈園は、西田天香によって創設された修養団体であり、創設当時は京都東山鹿が谷にあったが、昭和の初めに現在の地山科に移された。放哉はすべてを捨てて裸一貫となり大正十二年十一月二十三日一燈園に身を投じた。
 激しい肉体労働を中心にした托鉢修行に耐えられずまもなく翌年三月頃知恩院搭頭常称院の寺男になる。漂泊の始まりである。左の建物は当時のまま移設されて現在の一燈園に保存されている。 (「尾崎放哉記念館」記事)

一燈園時代の作品

ホツリホツリ闇に浸りて帰り来る人々
牛の眼なつかしく堤の夕の行きずり
つくづく淋しい我が影よ動かして見る
ねそべって書いて居る手紙を鶏に覗かれる
皆働きに出てしまひ障子あけた侭の家
落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事
月夜戻りて長い手紙を書き出す
落ち葉掃き居る人の後ろの往来を知らず
流る風に押され行き海に出る
静かなるかげを動かし客に茶をつぐ
夕日の中へ力いっぱい馬を追ひかける
花あはただしさの古き橋かかれり
砂浜ヒョコリと人らしいもの出てくる
昼めし云ひに来て竹薮にわれを見透かす
山水ちろろ茶碗真白く洗ひ去る     (「尾崎放哉記念館」収載句)

 これらの掲出句で、「つくづく淋しい影よ動かして見る」などは放哉の例句としてよく引用されるものであろう。そして、「定型律俳句」(五七五の定型律)が俳句の本態であって、その本態の影のようなものが、「自由律俳句」と解する立場からすると、この句などは、どうしても、忘れ得ざる一句ということになる。
 ちなみに、上記のようなことを背景とすると、その一句の鑑賞は、「つくづく己の定型律の影のような自由律の句は淋しい己の心の投影のようでもある。己が動くとその淋しい影もさまざまな形をしめす」とでもなるのであろうか。このような鑑賞も、「俳句判じもの説」として、その「判じもの」のそれとして、それほどの曲解でもないように思われるのである。


(その三)

須磨時代 大正十三年六月 ~ 十四年三月 

常称院を追い出された放哉は、友人住田蓮車の尽力により須磨寺大師堂の堂守となる。かねて念願の「独居無言の生活」の場を得た放哉は、才能をいよいよ輝かし始める。師の井泉水が「放哉君の近作は注意すべきものがある」と褒めたのがこの頃である。
 須磨寺は西日本では名刹として知られ常に参拝者であふれている。井泉水筆による

こんなよい月を一人で見て寝る

の句碑が本堂に向かって左側大師堂との中程にある。放哉句以外に芭蕉、蕪村、一茶、子規、良寛の句碑もある。右の写真はこの大師堂の前で写された放浪時代唯一のものと言われている。
 いくばくかの静謐の生活を得た放哉もあまり長続きせず、又も寺の坊主たちの権力争いに巻き込まれ寺を追われる身となるのである。 (「尾崎放哉記念館」記事)

須磨時代の作品

一日物云はず蝶の影さす
雨の傘たてかけておみくじをひく
お地蔵様に灯をともす秋の花ばかり
たった一人になり切って夕空
高浪うちかへす砂浜に一人を投げ出す
宝物拝観五銭と大書している
何も忘れた気で夏帽をかぶって
潮満ち切ってなくはひぐらし
むっつり木槿が咲く夕べ他人の家にもどる
銅銭ばかりかぞへて夕べ事足りて居る
夕べひょいと出た一本足の雀よ
人をそしる心をすて豆の皮むく
仏にひまをもらって洗濯している
こんなよい月を一人で見て寝る
底がぬけた杓で水を呑もうとした
なんにもない机の引き出しをあけてみる
犬よちぎれるほど尾をふってくれる
尻からげして葱ぬいている
色鉛筆の青いいろをひっそりけづって居る
にくい顔思い出し石ころをける
漬物桶に塩振ふれと母は産んだか
大空のました帽子かぶらず
紙が字を吸い取らぬようになった
いつまでも忘れられたままで黒い蝙蝠傘
人殺しありし夜の水の流るるさま     (「尾崎放哉記念館」収載句)
 
 平畑静塔氏の「不実物語」(『俳人格』所収「朝顔の臨書」)に次のような定型論に関する示唆に富んだ記述がある。
「俳人は、歌手であって作曲家ではないと思う。曲譜はもはや定まり切った十七字型という万人共通のものしか与えられていない。その曲譜をどう工夫して上手に歌いこなすかに俳人の仕事がかかっているのである。」
 この「曲譜はもはや定まり切った十七型」ということは、ずばり、「俳句の本態というのは定まり切った十七字型」という、この「十七字型の詩型」こそ「俳句の本態」なのだということではなかろうか。すると、「十七字型ではない自由律俳句」をどのように解すべきなのか。この自由律俳句というのは、「定型律俳句」を実態とすると、その実態の影のようなもので、常に、その実態との関係で見え隠れするという理解である(そもそも、定型律俳句が前提となって、それとの関係で自由律俳句というものは誕生しているということを理解すれば足りる)。このことからすると、自由律俳句は、長い長律(長い影)と短い短律(短い影)とがあることは当然のこととなる。
 上記の放哉の掲出句では、極端な長律も、極端な短律も見られず、丁度。連句の「長句」
(五七五)と短句(七七)の辺りをうろうろしているという雰囲気である。

○ こんなよい 月を一人で 見て寝る  (五・七・五)
○ 尻からげして 葱ぬいている     (七・七)

 ここでも、「五七五」の「定型」と「七七」の「定型」の魔力のようなものを感じる。


(その四)

小浜常高寺時代 大正十五年四月 ~ 大正十四年七月

須磨寺を出た放哉は再び一燈園に舞い戻っていたが、縁有って福井県小浜常高寺の寺男になる。この寺は破産状態で末寺から排斥されていた住職は居候同然の身分であった。当然ここにも長居の出来なかった放哉はわずか二ヶ月あまりで京都に舞い戻るのである。大正十二年の関東大震災以後京都東山に寓居していた荻原井泉水の所に身を寄せた放哉は、かねて一燈園の同人を頼って遠く台湾に行くことを決意していた。しかし井泉水に堅く静止された放哉はもはや海の見える所で死にたいと願うばかりなのである。
 彼の願いに井泉水はかって遍路巡礼をしたことのある小豆島にいる「層雲」同人井上一二に適当な庵を探すことを依頼する。(「尾崎放哉記念館」記事)

小浜常高寺時代の作品

背を汽車通る草ひく顔をあげず
時計が動いている寺の荒れている
田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまった
浪音淋しく三味やめさせている
遠くへ返事して浅野味噌を擂っている
豆を煮つめる自分の一日だった
とかげの美しい色がある廃庭
母のない児の父であったよ
淋しいからだから爪がのび出す
一本のからかさを貸してしまった
小芋ころころはかりをよくしてくれる
蛙たくさんなかせ灯を消して寝る
釘箱の釘がみんな曲っている
お寺の灯遠くて淋しがられる
かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく
一人分の米白々と洗ひあげたる
頭をそって帰る青梅たくさん落ちてる
たまらなく笑いこける若い声よ
山寺灯されて見て通る
昼寝の足のうらが見えている訪なう
打ち水落ちつく馬の長い顔だ      (「尾崎放哉記念館」収載句)

 再び、平畑静塔氏の定型論を見ていくと、
「俳句の定型を誰が一番初めに創造したのかこれは不詳である。何百年か何千年の昔
から続いていることは確かで、その後何億の人間が、それを真似して唄って今日まで続けているのだ。誰もその定型をこわして別に独創の曲譜を完成した人はないではないか」(平畑・前掲書)と続く。
 まさに、同感である。尾崎放哉も、はたまた、種田山頭火も、その師の、荻原井泉水も、「自由律」という独創の曲譜を夢見てそれに挑んだのであろうが、その定型は微動だにするものではなかった。しかし、彼等の血みどろの所業は、その定型律という本態に、影があるということを明瞭にした。そして、振り返って、彼等の所業というのは、
その影の世界を執拗に追い求めたに過ぎないということを、上記の作品群が語っているように想われる。かく解すると、上記の作品群の、放哉の佳句とされている次の作品が、何と「痛々しく」見てとれることか。まさに、誇大妄想にとりつかれたドンキホーテ
のようにも思われてくるのである。

○ 淋しいからだから爪がのび出す

(その五)小豆島・南郷庵時代 大正十四年八月 ~ 大正十五年四月

小豆島・南郷庵時代 

日本人は放浪の詩人が好きである。ふと夢を枯れ野に駆け巡らしているかのようである。ここに改めて一人の放浪の俳人を紹介したい。ここ小豆島が易簀の地となった尾崎放哉である。
 大正時代に自由律の俳句雑誌が創刊された。荻原井泉水主催の「層雲」である。そして層雲から自由なる心の叫びを詠じた二人の俳人が輩出した。一人は種田山頭火であり、もう一人は尾崎放哉である。彼ら二人が在所定まらぬ放浪の身であったことは決して偶然とは思えない。しかし二人の間でその放浪のもつ意味は大いに違っている。山頭火は自ら求めて行乞放浪をし、放哉は傷ついた獣が安住の場所を求めるように各所を漂ったのである。そして最後の安住の地が、ここ小豆島第五十八番札所西光寺奥の院「南郷庵 みなんごあん」だったというわけである。

 これでもう外に動かないでも死なれる 放哉

 小豆島にはもう一つ二十四の瞳館という文学記念館がある。勿論、壷井栄の文学館である。栄の名作「二十四の瞳」は昭和三十年に映画化され大ヒット、この島を一躍全国的に有名にした。栄と夫であり詩人の壷井繁治、またプロレタリア文学作家の黒島伝二ら、小豆島から輩出した三人の文学者達は、山頭火、放哉と同時代の人達である。
 彼ら三人は島の西部、内海地区の出身である。壷井繁治はしばしば人から、同時期に三人もの作家が、この狭い地域から輩出した何か特別の文学的伝統でもあるのか、と質問されることがあったらしい。繁治は後に「わたしと小豆島」と題するエッセイで次のように書いている。 「ここに特別の理由や背景なぞないだろう。もしあるとすれば、思い当たることは、時代の波というものではなかったのか、激動の時代、旧社会に反抗する青年達がその時代の波涛に乗って、この狭く小さな島から文学の広大な世界に飛び出して行ったのだと思う。所詮郷土というものは若者をいれるにはあまりにも小さな容器であり、小豆島もその例外ではなかった」と。
 もしそうだとすれば時代の波が、この小さな島の青年達を大きな広い世界に押し出し、放哉をこの島のごく小さな世界に押し込めたのではなかったのか。壷井繁治が言うように、この島には文学的伝統も背景もない。しかし文化の匂いのする伝統は宗教的な所に確実に存在する。八十八箇所巡礼、お遍路さんの島である。
 折しも大正末期の激動の時代、アイデンティティを見失おうとした人達のある部分は、それを宗教の世界に求めていった。放哉や井泉水がそれである。
 放哉は一燈園で托鉢修行に身を投じたが、荻原井泉水は、関東大震災直後家族を相次いで失い、傷心の身の癒しを宗教に求めて行った。そのとき小豆島に来島「層雲」同人井上一二、西光寺住職杉本宥玄「玄々子」らと共に八十八箇所巡礼を行う。その仏縁から放哉は来島、井上杉本両人の世話を受けつつ、「南郷庵」でその生を終えたのは決して偶然の出来事ではない。 (「尾崎放哉記念館」記事)

 上記の「尾崎放哉記念館」の記事のうち、太字にした個所に注目していただきたい。プロレタリア詩人の坪井繁治の、「激動の時代、旧社会に反抗する青年達がその時代の波涛に乗って、この狭く小さな島から文学の広大な世界に飛び出して行ったのだと思う」の、この指摘は、いわゆる、当時の社会的風潮の「大正デモクラシー」の繁治流の表現なのであろう。この「大正デモクラシー」の波が、当時の全国津々浦々に蔓延していて、こと、俳句の世界においても、この激動の波に乗り、伝統的な「定型律俳句」に反旗を翻したのが、荻原井泉水らの「自由律俳句」ということになろうか。また、それは、「定型律俳句」そのもの世界においても、日野草城や平畑静塔らの「新興俳句」の誕生ということで、内部崩壊の現象も呈していたのであった。さらに、上記の「尾崎放哉記念館」の記事のうち、「アイデンティティを見失おうとした人達のある部分は、それを宗教の世界に求めていった。放哉や井泉水がそれである。 放哉は一燈園で托鉢修行に身を投じたが、荻原井泉水は、関東大震災直後家族を相次いで失い、傷心の身の癒しを宗教に求めて行った」との指摘は、井泉水や放哉の置かれた環境を端的に物語るものであろう。この個人的な境涯性と、そして、その当時の社会的風朝の「大正デモクラシー」こそ、「自由律俳句」の誕生の要因であったということは、井泉水や放哉、そして、山頭火のそれを理解することにおいて必須のことであろう。

(その六)

小豆島・南郷庵時代の作品(その一)

眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る
西瓜の青さごろごろとみて庵に入る
町の盆燈ろうたくさん見て船に乗る
島の小娘にお給仕されている
漬物石になりすましは墓のかけである
すばらしい乳房だ蚊が居る
足のうら洗へば白くなる
海が少し見える小さい窓一つもつ
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
井戸のほとりがぬれて居る夕風
自分をなくしてしまって探して居る
一日風ふく松よお遍路の鈴が来る
白々あけて来る生きていた
蜥蜴の切れた尾がはねている太陽
木槿一日うなづいて居て暮れた
道をおしえてくれる煙管から煙が出ている
朝靄豚が出て来る人が出て来る
迷って来たまんまの犬で居る
夕靄溜まらせて塩浜人居る
障子あけて置く海も暮れ来る
大晦日暮れた掛け取りも来てくれぬ
元日の灯の家内中の顔がある
風にふかれ信心申して居る
淋しい寝る本がない
雀等いちどきにいんでしまった
いれものがない両手でうける     (「尾崎放哉記念館」収載句)

 この末尾の「いれものがない両手でうける」の句は、放哉の傑作句の一句とされ、しばしば例句としてとり上げられる。しかし、それはあくまでも、定型律俳句のそれではなく、自由律俳句のそれとして、とり上げられ、鑑賞されるのが常であった(仁平勝著『俳句が文学になるとき』)。しかし、この句は、「いれものがない /  両手でうける」と、まさに、「七・七」の、連句の短句(七七句)、さらに言えば、川柳でその例を多く見る「十四字」の世界そのもののようにも思えるのである。そして、問題はここからなのである。この放哉の句は、それらの「七七句・十四字」の「定型律」の世界のそれではなく、すなわち、平畑静塔の言葉を借りてするならば、「十七字」あるいは「十四字」という、定型が本来有している「曲譜」に因らず、その「曲譜」を拒否して、「いれものがない」状態にしておいて、「両手でうける」と、「己の肉体」をあたかも、いわゆる「曲譜」・「いれもの」・「うつわ」・「型」として、そこに、あたかも、「定型」の「影」のような「不実の世界」を現出して、それを「パントマイム」のように、無言で演じきっているように思えるのである。これは、容易ならざることである。「己の肉体を責めに責め、極限状態にしなければ、この緊張状態は生まれてこない」。そして、井泉水、放哉、山頭火、はたまた、橋本夢道、さらに降って、住宅謙信らの、いわゆる「自由律俳句」の傑作句とされているものには、この「己の肉体を責めに責め、その極限状態のような、緊張関係の、張り詰めた」トーンというものを有している。これらのことからして、「定型律俳句」の「定型」という、いわゆる「魔法の壺」によらずして、それと同じような「俳句」という「世界」を「創造」・「創作」・「現出」・「作品化」しようとする、いわゆる「自由律俳句」に身を投じることは、それだけの覚悟と、それだけの犠牲を強いられるということは、よくよく心しておくべきことなのであろう。
(追伸  これらのことは、知人の言葉でするならば、「定型律俳句」は「盛りつける器」があるが、「自由律俳句」においては、「盛りつける器」がないということと軌を一にするであろう。)

(その七)

小豆島・南郷庵時代の作品(その二)

つきたての餅をもらって庵主であった
夜中の天井が落ちてこなんだ
お金ほしそうな顔して寒ン空
咳をしても一人
麦がすっかり蒔かれた庵のぐるり
ゆうべ底がぬけた柄杓で朝
庵の障子あけて小ざかな買ってる
とっぷり暮れて足を洗って居る
雀が背伸びして覗く庵だよ
これでもう外に動かないでも死なれる
いつも松風を屋根の上にいてねる
身近く夜更けのペンを置く
月夜の足が折れとる
墓のうらに廻る
夜釣りからあけてもどった小さい舟だ
枯れ枝ほきほき折るによし
貧乏して植木鉢並べている
仕事探して歩く町中歩く人ばかり
いつも机の下の一本足である
手の指のほねがやせ出したよ
肉がやせてくる太い骨である
やせたからだを窓に置きむせている
すっかり病人になって柳の糸が吹かれる
春の山のうしろから烟が出だした    (「尾崎放哉記念館」収載句)

 「自由律俳句」について、「言う(『言える』)詩形」、そして、「一行詩である」と解する
と、「自由律俳句」は、いわゆる、「俳句」ではなく、「詩」ということになり、その創作者
は、「俳人」ではなく、「詩人」ということになる。すなわち、尾崎放哉は、「詩人」ではあ
るが、「俳人」ではないということになる。しかし、尾崎放哉は、紛れもなく「俳人」であ
って、一般的に「詩人」といわれている人達とは一線を画していることは、自他共に認め
るところのものであろう。これらことについて、上記の放哉作品のうち、その傑作句とさ
れている、「咳をしても一人」を例えて、これは、「俳句」であり、決して、いわゆる、
「一行詩」ではないということを論証すると次のとおりとなる。
 この「咳をしても一人」という、たったの「九字(音字)」は、この作者の放哉が、「俳
句(十七音字)」という詩形は、何も、「言わない(『言えない』)詩形」であるということを
熟知していて、さらに、短いものを意識して用いることによって、「俳句」の本来的に有し
ている「象徴性」というものを最大限に引き出しているということが察知されるのである。
すなわち、尾崎放哉の、上記の作品群というのは、何も「言わない(『言えない』)詩形」
の、いわゆる、「俳句」の世界以外の何ものでもない。さらに、日野草城の言葉でするなら
ば、これらの作品群は、尾崎放哉の「本音のつぶやき」であり、その「本音のつぶやき」
が、象徴化され、その象徴化されることにより、普遍性を帯びてきて、その普遍性が、例
えば、上記の作品群のうちの、「咳をしても一人」でするならば、放哉の、この作品を作
るときの、「言葉で表現できないような孤独感・淋しさ」を、万言の重みをもって、こ
の「九字(音字)」に接する人達に語りかけてくるのである。これは、紛れもなく、「俳
句」の世界のものなのである。ただ、一般的な、いわゆる、「俳句」(十七音字の定型律)
と異質のところは、その定型の意識を前提として、その定型という「魔法の壺」を、そ
の俳句創作の曲譜とすることなく、いわば、「自己の肉体」を俳句創作の曲譜とするこ
とによって、全く、その出来上がったものは、定型という「魔法の壺」に因ったものと
同じようなものを現出しているという、この奇妙な、不可思議な、いわば、「自由律俳
句」という幻影のような世界を、これらの作品群に接する人に強烈に語り掛けてくると
いうことなのである。これらのことについて、俳句評論家の仁平勝は、もっと割り切っ
て、次のように表現している。
「自由律俳句のリズムは、これは定型のバリエーションとしてみれば、字余りというよりは破調の手法にあたる(井泉水の文章では「奇調」と呼ばれている)。ならば自由律俳句は、その破調という定型の手法とどう違うのか。それは後者が、ちょうど伸びたバネのようにまた五七五に戻っていくのにたいして、前者はけっして五七五の原型には戻らないということだ。つまり、自由律俳句とは、恒常化された破調にほかならない」(仁平・前掲書)。
 これを一歩進めて、先の知人のメモでするならば、「俳句には、定型律俳句と自由律俳句とがあり、さらに、定型律俳句には、表の『正調的俳句』と裏の『破調的俳句』とがあり、さらに、その表と裏との『正調的俳句と破調的俳句』 との「影」のような『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』とがあり、この『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』が、いわゆる、放哉らの『自由律俳句』と呼ばれるものである」ということにでもなるのであろうか。いずれにしろ、放哉の「自由律俳句」は、「言わない・言えない詩形」の「俳句」の範疇のものであって、「言う・言える詩形」の「一行詩」のものではないことは、上記の放哉の作品群からして明かなところであろう。
(追伸 井泉水・放哉らの「層雲」の自由律俳句は、「一行詩」であるとのニュアンスが強いとの指摘もあるが、仁平の前掲書によれば、より「俳句」のニュアンスに近いものとされている。知人のこれらに関するメモは、いわゆる「一句一章体」の説明で、このメモにある「二句一章体」が「俳句」の基本であるのに比して、「自由律俳句」はより多く一句一章体のものが多いということを言っているように思われる。そして、放哉の句は、「「咳をしても一人」のように、一句一章体のものが多い。さらに、この「一句一章体」・「二句一章体」は、芭蕉の言葉でするならば、「取合わせ」論であって、ここからしても、こと、放哉のそれは、「一行詩」ではなく、より「俳句」の世界のものであるということがいえよう。)

(その八) 尾崎放哉未発表句 (その一)

はじめに
 
ここに公表される放哉の句稿集は、一九九六年七月、鎌倉の荻原海一氏宅にて発見されたと言われるものである。放哉の句稿は散逸したものと思われていただけに、二七二一句に及ぶ句が書き綴られた句稿が発見されたことは、まさに驚くべきことであった。勿論、句稿と「層雲」発表句とは同一視することはできないけれども、井泉水の選に漏れた句の中にも新しい視点で注目すべきものもあるに違いないし、何より今後の放哉の研究に多くの示唆を与える点において、格段に貴重な資料ということができる。
 発見された当時、放哉研究家として長年の実績のある大阪府立高校教員の小山貴子氏が活宇化していたが、このたび当記念館が荻原家からこれを買い取った機会にすべてを掲載する。
小山氏による句稿の整理手順は以下の次第である。
(1)発見された時に綴じられていた束ごとに番号をつける。1から31まであるが、句稿の番号は、句稿中にある「層雲」掲載句をみて、その発表順に従い若い方から付けた。
(2)句稿の中には、井泉水によって、「層雲」掲載時に付けられた題名が記入されている。
(3)旧字体は新字体に直した。
(4)句稿の中には、井泉水への通信文がある。それもそのまま記した。

(「尾崎放哉記念館」記事)

 この貴重な「尾崎放哉未発表句」の全貌を、是非、今後の放哉探索の理解のためにも、一度は触れて欲しいということで、『尾崎放哉論』(岡屋昭雄著)との若干の照合をしつつ、以下、紹介をしておくこととする(この「尾崎放哉記念館」記事のなかには、記されていないが、☆印のものが、荻原井泉水が添削したものである)。なお、この「尾崎放哉未発表句」については、平成九年三月三十一日付けの「東京新聞」に報道されている。
 ここで、いわゆる、井泉水が添削を施していることが、『尾崎放哉論』(岡屋昭雄著)では、
興味があるとして、これを是とする、俳人・平井照敏、小説家・吉村昭(放哉を主人公にした小説『海は暮れきる』の作家)並びに放哉研究家・瓜生鉄二の考え方と、これを否とする放哉研究家・本田烈の考え方が紹介されているが、「自由律俳句」を「俳句」と解する立場からすれば、その添削(芭蕉の言葉でするならば斧正)は是とされるし、これを「一行詩」と解する立場からすると、その個人の独創性を重視することからして、これには否定的な見解をとることとなろう。そして、荻原井泉水が、尾崎放哉の句に大幅な手入れをしているというこの一事をもってしても、井泉水と放哉とが、己らの「自由律俳句」について、それを「俳句」と解していたことは明白であろう。(ここでも、「句会」などの「座」を媒体としての共同創作的な要素のある「俳句」と、完全に密室での個人的創作を要素とする「一行詩」とでは自ずからその差違が生じて来る。そして、この差違も、実は、「俳句」の正体は、「五七五という定型」が、その曲譜であり、俳人はその曲譜を歌いこなす歌手に過ぎないという、いわゆる、平畑静塔の「定型不実論」と大きく関係してくると思われるのである。しかし、ここでは、それらのことについては、触れないこととする。また、知人のメモにも、この「放哉未発表句」についてのものがあるが、ここでは、それらについも触れないこととする。また、「放哉未発表句」については、解説を加えないで、「句稿」毎に紹介するに止め、それらの紹介の後で、稿を改めて関連することなどを記述することとする。)

(その九) 尾崎放哉未発表句 (その二)

句稿(1)
※○小浜ニ来て
層雲雑吟 尾崎放哉
小浜のオ寺で

今日来たばかりの土地の犬となじみになってゐる
を世話になる寺をさがして歩くつヽじがまっ盛だ
竹の子竹になって覗きに来る窓である
朝から十銭置いてある留守の長火鉢
其の侭はだしになって庭の草ひきに下りる
和尚とたった二人で呑んで酔って来た
汽車通るま下た草ひく顔をあげず(註・原案)
☆ 背を汽車通る草ひく顔をあげず  
あかるいうちに風呂をもらいに行く海が光る
カンヂキはいて草ひくかげが一日ある
重たい漬物石をくらがりであげとる
僧の白足袋ばかり見て草ひき話す
今日来たばかりで草ひいて居る道をとはれる
石だんあがって行くたそがれの白足袋である
女枕をして兎二角寝てしまった
雑草に海光るお寺のやけ跡(註・原案)  
☆ 雑草に海光るやけ跡  
くらい戸棚をあければ煮豆が腐って居た
たきものたくさん割って心よきくたびれ
竹の子の皮をむいてしまってから淋しい
あたまをそって帰る青梅たくさん落ちてる
そったあたまが夜更けた枕で覚めて居る 放哉
脚気でふくれた足に指をつっこんで見る
手紙入れに行く海風落ちた夕方
たった一人分の米白々と洗ひあげたる(註・原案) 
☆ 一人分の米白白と洗ひあげたる  
草ひけばみゝず出て来る春日ゆるやか
青梅たくさん落ちて居るみどりのくらがり
石だん上る人あり草ひく旅人として
草をぬく泥手がかはく海風の光り(註・原案) 
☆ 草をぬく泥手がかはく海風光り
障子切り張りして守番している顔だ
火ばしを灰に突っこんでいんでしまった
だれも居らぬ部屋に電気がついた 放哉

雑吟  尾崎放哉

かまどが気持よく燃える春朝
時計が呼吸する音を忘れて居た
豆腐屋朝をならし来るよい男だ
爪の土を堀ってから寝てしまう
時計が動いて居る寺の荒れてゐること(註・原案)  
☆ 時計が動いて居る寺の荒れてゐる  
万年筆がもたるゝ漬物臭い手である
和尚茶畑に居て返事するなり
あたへられたるわが机とていとしく
いつからか笑ったことの無い顔をもって居る
洗いものしてしまって自分のからだとなる
木の下掃きつゞけるよいお天気となる
下手な張りやうの侭で障子がかわいてしまった
のびたあごひげなでてのみなつかしみ居る
月夜となってしまった遂に来ぬ人
松葉数えて児等が遊べる術(すべ)を知らず
乞食に話しかける心ある草もゆ(註・原案)  
☆ 乞食に話しかける我となって草もゆ  
血豆をつぶす松の葉を得物とす(註・原案)
☆ 血豆をつぶさう松の葉がある    
考え事をしてゐろ田にしが歩いて居る
風が落ちたまゝの駅であるたんぼの中
朝の青空のその底見せきれず 放哉
寒い顔して会釈し合った
林檎の真ッ赤な皮が切れ/\にむかれた
さっきから晩の烏がないて居る草ひくうしろ
舟の灯を数えてから寺の門をしめる
雪の戸をあけてしめた女の顔
蟻を見付けた大地に顔触れさせて居る
妻が留守の朝からの小雨よろし
障子に針がさしてあるさびた針
障子のひくい穴から可愛いゝ眼を見せる
児の対手をして絵本を面白がってる 放哉
お山の晴れを松葉かき居り声あげんとす
米とぎ居るやあかつきの浪音
たくましい手できざみが上手にまるめられる
たった一軒の町の本屋で寄られる
くるわの中の赤いポストの昼である
和尚が留守の豆をいってるはぢける
するどい風の中で別れようとする
銃音がしてせっせと草をぬいて居る
どんどん泣いてしまった児の顔
晴れて行く傘で肩に乗せられる 放哉
窓に迫り来ろ雑草の勢を見る
大根ぶらさげて橋を渡り切る一人
新緑の山となり山の道となり
ポストに落としたわが手紙の音ばかり
急いで行く径の筍が出て居る
鏡の底のわが顔ひげのばしたり
草花一つ置き夫婦のみの夜更けたる
地図を見て居る小さい島々ある
鶏小舎鶏居らず春なり
たった一つ去年の炭団が残って居る 放哉
怪しからず凍てる夜となり炭団火にして参らす
去年の炭団がいつまでも一つごろ/\して居る
夕ベ煙らして居る家のなかから泣くよ赤ん坊
赤ン坊動いて居る一と間切りの住居
雑踏のなかでなんにも用の無い自分であった
家をたてること話し雑草やかれる
みんな泣いて居る人等にランプが一つ
病人の蜜柑をみんなたべてしまった
めし粒が堅くなって襟に付いて居った
淋しさ足らず求め足らず 放哉
層雲雑吟 尾崎放哉生
樋のこわれをなほし水だらけになってゐる
海いっぱいに尻を向け石だんの草をひいてる
田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまった
猫が斜に出て行った庫裡の昼すぎである
あす朝の茶の芽をつむ約束をして和尚と寝てしまった
フトつばくろを見し朝の一日家を出ず
畳のその焼け焦げの古びたるさへ
麦わら帽のかげの下一日草ひく
きせるがつまってしまったよい天気の一人である
毎朝ごみ捨てに来て若い藪の風に立つ
縁に腰かけて番茶呑む一人眺めらる
ひょいとさげた土瓶がかるかった
若葉にむっとしてお寺をさがして居る
冷え切ったを茶をのんで別れよう
蚤がとんで見えなくなった古い畳だ
夕陽の庫裡は茶潰をすゝる音ばかり
へりが無い畳の淋しさが広がる
あすの米洗いあげて居る月の障子となる
頭をそって出る小さい町の海風
花火をあげて海に沿ふて小さい町ある 放哉
雑吟 尾崎放哉
ひねもすゼこやら水音がして山寺なりけり
すゝけた障子にわがかげうつる夜となる
山ふところの水遠くひく太い青竹
庫裡の大きな柱に古い五寸釘が打ってある
土瓶がことこと音さして一人よ
どろぼう猫の眼と睨みあってる自分であった
番傘ひらいては干す新緑の寺のしゞま
雨があがったらしい児等が遊んで居る声が近い
魚釣り見て居ろわれに寄りそう人ある
寝ころぶ一人には高い天井がある 5/21
層雲雑吟 尾崎放哉
筍筍いそいで竹になってしまった
大きな古足袋もらってはきなれて居る
白い衣物ばかりたゝんで居る夜である
小さい茶椀で何杯も清水を呑む
かん詰の缶を捨てる早春の藪
留守番をして地震にふられて居る
焼け跡己に芽ぐまぬ木とて無く
落ちそうな大岩の下で清水絶えず
木の芽かゞやきあつい茶を出される
雪ふるにまかせ赤い灯に集ってゐる
歯みがき粉こぼし朝の木の芽の道
バケツがころがって泣く夕風
力いっぱいの二た葉持ちあげたり
夜通し水走る宿で夢を見てゐる
手を振り足を振り朝は新らしい空気
澄み切った空で眼が覚め出す
青梅木の下す鼻値見え来る
白たゝけた爪の色を眼の前にしてゐる
かまどの暗い口に火をつけてやる
静な朝の雀をさがす一つ居る 放哉
せんべい布団にくるまって居る剃り立ての頭である
腹の臍に湯をかけて一人夜中の温泉である(註・原案)   
☆ 臍に湯をかけて一人夜中の温泉である 
針の小さい光る穴に糸を通す
窓から女の白い手が切手を渡してくれた
病人らしう見て居る庭の雑草
浪音淋しく三味やめさせて居る
豆を水にふくらませて置く春ひと夜
姉妹仲よく針山をかれる 放哉

(「尾崎放哉記念館」収載句)

「障子あけて置く海も暮れ切る」は尾崎放哉の代表句。ところが、この句、原作は「すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く」だった。これはだらっとして潔さを欠く。添削したのは放哉が師事した荻原井泉水。
 この「放哉全集」第一巻には、井泉水に送られた放哉句二千七百余りが収録されている。私たちが知っていた放哉句は、その句稿から井泉水が選んで発表した一部の作品だった。しかも、井泉水はしばしば大胆な添削をしていた。
 というわけで、この全集によって放哉像が変わるだろう。有名な「咳をしても一人」「月夜の葦が折れとる」などの孤独感の強い句は、実は放哉の一面。井泉水の選句や添削を通して、つまり、井泉水との共作において、放哉は自己を他者に開こうとしていた。
 句稿ではさきの障子の句の後に、「沢庵のまつ黄な色を一本さげてきた」がある。井泉水は採らなかったが、とても人懐っこい風景だ。

 朝日新聞平成13年12月16日付「日曜書評欄」より「坪内稔典・書評」

(その十) 尾崎放哉未発表句 (その三)

句稿(2)
※○村の呉服屋
層雲雑吟 尾崎放哉

古い汽車の時間表を見て居た二人であった
石のぬく味を雑草に残して去る
蜘妹が巣をつくってる間に水を打ってしまった
はぢめての道の寒夜足になじまず
橋に来てしまって忘れたものがあった
土瓶のどっかにひゞがあるらしい
お寺にすっこんでそれから死んでしまった
豆ばかりたべて腹くだしをして居る
古椅子ひっぱり出して来て痩せこけた腰を下ろす
きせるのらをを代へるだけの用で出て行く
烏がひょいひょいとんで春の日暮れず
一文菓子屋の晩の小さい灯がともる
かぎりなく蟻が出てくる蟻の穴音なく(註・原案)
☆ かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく
ネクタイが鏡のなかで結ばれる
いつしか曇る陽の草ひくかげが消えた
古くなった石塔新らしい石塔
木の梅を売る双手を組む
人にだまされてばかり円い夕月ある
いち早く朝を出てしまった船である
水引がたんとたまった浅い箱で 放哉
れいめいの味噌すり鉢がをどること
すりこ木すり鉢にそへて庫裡の朝ある
遠くへ返事して朝の味噌をすって居る
汐干の貝が台所でぶつぶつ云ってる
ほんの一ちょうしで真ッ赤になってるよ
熱のある手を其侭妻に渡す
ころころころがって来た仁丹をたべてしまった
あごひげをそる四角な鏡である
わが歳をかぞえて見る歳になって居た
木の芽を盗みに来る窓で叱らねばならぬ 放哉
柿若葉の頃の二階を人に貸してる
かまどちょろ/\赤い舌出し明けそむ
朝のかまどの前に白いあぐらをくんでる
地震の号外をたゝき付けてとんで行った
読んだ手紙もくべて飯が煮えたった
火消壷の暗に片手をつっこむ
猫に覗かれる朝の女気なし
豆腐をバケツに浮かべて庫裡の夕となる
大がまで煮て居る筍うらの筍
青梅ふみつぶして行く新らしい下駄
かまどが真ッ黒な日あけてるだけの庫裡 放哉
冷酒の酔のまはるをぢっと待って居る
いつもうたって居る竹藪の中の家
吹けど音せぬ尺八の穴が並んで居る
竹藪ほったらかして障子が釘付けにしてある
米をはかる時竹藪の夕陽
あるお茶の葉をむす湯気の中の坊主頭である
老ひくちて居る耳の底の雷鳴
手作りの吹き竹で火を吹けばをこるは(註・原案) 
☆ 手作りの吹き竹で火が起きてくる  
茶わんのかけを気にして話しして居る
冷え切った番茶の出がらしで話さう 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

二十一歳の冬に三度目の肺結核の発症をみて、末期患者となった。絶対安静の身で、私は初めて尾崎放哉の句にふれた。一句一句が私の内部に深く食い入り、死の追った間の中でかすかにゆらぐ光明も見た。死んだ折には、放哉の句集を棺におさめて欲しいと弟に頼んだ。幸いにも実験に近い手術によって死をまぬがれたが、その後も放哉の句は、私と共にある。死とはなにか生とはなにかという問いがそれらの句にあって、私は放哉を主人公とした「海も暮れきる」という小説も書いた。(吉村昭・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)

(その十一) 尾崎放哉未発表句 (その四)

句稿(3)
雑吟 尾崎放哉
竹切る音の人が顔を見せない
遊びつかれた児に寝る灯がある
椿の墓道を毎朝掃くことがうれしい
釜の尻光らして春陽に居る
寺はがらんとして今日の落つる陽ある
車屋貧乏くさい自分を見て通った
自分の母が死んで居たことを思ひ出した
白い小犬がどこ迄も一疋ついてくる
たぎる陽の釜のふたをとってやる
犬がもどって来ない夕あかりに立つ 放哉
今朝の花のどの枝を切らう
暮れ切った坊主頭で居る
戻りは傘をかついで帰る橋であった
焼け跡一本の松の木に背をもたせる
蔵の横の残雪に痛む眼ある
時計がなりやむ遠くの時計がなり出す
月が出て居る障子あけんとす
菊の鉢買って来て客とはなして居る
傘をくる/\まはして考え事してゐた
好きな花の椿に絶えず咲かれて住む 放哉
いちにち山椒煮る特佃の香にしみ込んで居る
貧乏徳利をどかりと畳に置く
寺の名大きく書いた傘ばりばり開いて出る
妻を風呂に入れて焚いてやる
雨を光らして提灯ぶらさげて出る
バラの垣が無雑作に咲き出した
桜が葉になって小供が又ふえた
咲き切った桜かな郊外に住む
花の雨つゞきのわらじが乾かぬ
山吹ホキと析れて白い 放哉
朝寝すごして早春の昼めしをたべとる
古本の町の埃をばたばたはたいてゐる
たった一つ残ってゐる紙鳶に青空ある
うしろから襖をしめてもらう泥手である
うす陽一日くもらせて庭石ある
日曜日の一庭を歩いてゐる蔓草
小さい布団で児がふか/\と寝てゐる
埃が立たぬ程の雨の女客ある
笑ふ時の前歯がはえて来たは
から車大きな音させて春夕べ 放哉
処女の手のひらのやうな柿若葉の下に立ってる
蟻にかまれたあとを思い出してはかいてゐる
筍堀った穴にふっくり朝の陽がある
筍堀りに主人の尻について行く
眼の前筍が出てゐる下駄をなほして居る
ごみ捨場に行く道が雑草でいっぱいになった
障子張りかへて若葉に押されてゐる
はでな浴衣きて番茶をほうじてゐる
妻の下駄ひっかけて肴屋の肴見に出る
漬物桶の石がぎっしり押して居る 放哉
お寺はひっそりして国旗出してゐる
みどりの下かげの若い人等の話し
お寺の青梅落ちる頃を児等は知ってゐる
ボタンが落ちた侭でシヤツを着てゐる
わが行く手の提灯一つ来るさま
いっぱいつまってゐる汽車に乗りこんでしまった
水の輪ひろがる山の池の出来事
空っ風の日の児等はどっかへとんで行ってしまった
泥手で金勘定をしてゐる風の中
梅も咲いて居る小さい流れありけり 放哉
(注)「思ひ出してゐる」↓「恩ひ出した」
(「尾崎放哉記念館」収載句)

放哉は、会社づとめに失敗し、病いにもとりつかれて、社会から完全に脱落した、いわゆる東大出エリートだが、その自由律俳句や書簡などによって、息のつまるような失意と諦め、抑えきれない我執とのあいだをうろつく、孤独の有り態を承知することができる。今回発見された二千余句によっても、その態さらに如実のはず。(金子兜太・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)


(その十二) 尾崎放哉未発表句 (その五)

句稿(4)
層雲雑吟  尾崎放哉

芭蕉の広い葉であふがれて居る蒼空
のびた爪切れば可愛いゝわがゆびである
暗がり砂糖をなめたわが舌のよろこび
犬が一生懸命にひく車に見とれる
干した茶を仕舞ふ黒雲に追っかけられる
百姓らしい顔が庫裡の戸をあけた
ごはんを黒焦にして恐縮して居る
味噌汁がたぶづく朝の腹をかゝヘ込んでる
朝のごはんの大根一本をろしてしまった
洗いものがまだ一つ残って居ったは
晩をひっそり杓子を洗ふいろいろな杓子
眼鏡かけなれて青葉
ほったらかしてある池で蛙児となる
板の間をふく朝の尻そばだてたり
漬物くさい手で(一字不明)句を書いて
そろはぬ火ばしの侭で六月になった
今日切りのわが茶椀に別れようとする
書きよい筆でいつも手にとられる
古下駄洗って居るお寺はたれも来ぬ
針箱を片付けてから話す 放哉
暦が留守の畳にほり出してあるきりだ
暦をあけて梅雨の入りを知った顔である
空家の前で長い立話しをして居た
児等が大きくなって別荘守がぼけとる
釘箱の釘がみんな曲って居る
水のつめたさに荷が下ろされて居る
夫婦でくしやめして笑った
二人の親しみの長火鉢があるきり
青梅酢っぱい顔して落ちとる
道でもないところを歩いて居るすみれ 放哉
和尚の不自由な足が夜中の廊下で起きとる
一茎の草ひく蟻の城くづれたり
ひねもす草ひく晩の豆腐屋の声を身の廻りにして居る
草ひくことの毎日のお陽さんである
鳶ひょろひょろ草ひくばかり
一日歩きつゞける着葉ばかりの山道
そっとためいきして若葉に暮れて居る
かたい机でうたゝ寝して居った
提灯と出逢って居る知った人である
蟻にたばこの煙りをふきつける 放哉
かくれたり見えたり山の一つ灯が消えてしまった
送って来てくれた提灯の灯にわかれる
わが眼の前を通る猫の足音無し
お寺の灯遠くて淋しがられる
昼寝起きの妻が留守にして居る
豆を煮つめる一日くつくつ煮つめる(註・原案)
☆ 豆を煮つめる自分の一日だった  
こんな山ふところで耕して居る
二階から下りて来てひるめしにする
火事があった横丁を風呂屋に行く
鍋ずみが洗っても洗ってもとれぬ朝である 放哉
桜の実がにがいこと東京が遠い
煙管をぽんとはたいてよい知恵を出す
顔の紐をゆるめて留守番をしてゐる
淋しい池に来てごはん粒を投げてやる
葉になった桜の下でたばこを吸はう
すねの毛を吹く風を感じ草原
蛙大きな腹を見せ月夜の後ろある
いり豆手づかみにしてこぼれる
蛙を釣って歩るくとぼけた顔だ
花活けかへた日の午后の客あり 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

放浪の俳人尾崎放哉。ホトトギス、国民新聞等で素晴しい俳句を発表し、東大を出て若くして保険会社本社課長となり乍ら飲酒癖で追社。再起もことごとく失敗、一燈園での奉仕の生活に心の救いを求めても徹し切れず、寺男を転々として孤独と貧苦と病苦に苛まれて死んだ放哉。その中で詠われた、極限の淋しさは、我執と素直さと弱さを同居させた一個の知性の魂の叫ぴであるが故に現代人の胸に突き刺さる。稲畑汀子・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)

(その十三) 尾崎放哉未発表句 (その六)

句稿(5)
層雲雑吟 尾崎放哉

久々海へ出て見る風吹くばかり
半鐘ならされた事無き村のこの海
障子がしめてある海があれて居る
海がよく凪いで居る村の呉服屋
高下駄傘さして豆腐買ひに行くなり
よい月をほり出して村は寝て居る
池水しわよせて京に来て居る
マッチの棒を消す事をしてみる海風
さんざん雨にふられてなじみになってゐる 放哉
筍すくすくのび行く我が窓である
障子の穴から小さい筍盗人を叱る
餅を焼いて居る夜更の変な男である
古釘にいつからぶらさげてあろものを知らず
蜘蛛がすうと下りて来た朝を眼の前にす
銅像に悪口ついて行ってしまったは(註・原案)
☆ 銅像に悪口ついて行ってしまった   
探し物に来て倉の中で読んで居る
雨のあくる日の柔らかな草をひいて居る
たもとから独楽出して児に廻して見せる
今日も一羽雀が砂あびて居るよ草ひく 放哉
とんぼが羽ふせる大地の静かさふせる
きちんと座って居る朝の竹四五本ある
蛙ころころとなく火の用心をして寝る
破れうちはをはだかの斜にかまへる
所在不明の手紙がこっそり戻って来て居る

只今居る常高等といふオ寺は妙心寺派の禅寺で中々立派なものです(非常に荒廃して居ますが)淀君の末の妹(京極家ニ嫁して)が建立されたもの、問題にならぬ程あれはてゝ居るけれど庭は実に見事なものです淀君の妹といへば美人であったろうと思います、---一人庭の草ムシリをしながら次の九句をつくって見ました 放哉

一と処つヽじが白う咲いて廃庭
廃庭大きな蛙小さな蛙
蛙がとんだりはねたりして池の夜昼
とかげの美くしい色がある廃庭
廃亭に休らうわれは大昔しの人
昔しの朝の風吹かせ一木一石
女がたてた大きなお寺だ
廃庭雑草の侭の数奇を尽す
ホキと折る木の枝よい匂ひがする
○以上、九句廃庭吟御叱正下さりませ

青梅憂然と落ちて見せる
青梅かぢって酒屋の御用きゝが来る
青梅白い歯に喰ひこまれる
節穴さし来る光り尊し
梅雨入りのからかさに竹の葉さはらせる
小供を抱いてお客と話してゐる
児の笑顔を抱いて向けて見せる
折れ釘も叩きこんで箱をつくってしまった
佛のお菓子をもらう小供心である
赤いお盆をまんまろくふいて居る 放哉
蛙たくさんないて居る夜の男と女
蛙たくさんなかせ灯を消して寝る
小鳥よくなれて居て首をかしげる
鳥寵下ろす二の腕の春だ
なつかしさうな鶯遠くへ逃げてはなく
下手くそな鶯よ山路急ぐとせず
雪国の長い家のひさしに逗留してゐる
はるか海を見下ろし茶屋の婆つんぼであった
もるがまヽにつかって居る一つの土瓶
豆のやうな火を堀り出し寒夜もどって居る 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

捨てても捨てても、なお捨てきれぬ思いが句となってこぼれおちる。五七五の韻律や季語の約東ごとをおのずからはみだし、食い破る。これが表現というものであれば……わたしも生きていける。そう思った二十代のわたしにとって、放哉は生きるよすがだった。 極限の短詩型、ことばのミニマル・アート。日本語が放哉を持ったことを、わたしは誇りたい。(上野千鶴子・「放哉全集(筑摩書房)」推薦の言葉)

(その十四) 尾崎放哉未発表句 (その七)

句稿(6)
層雲雑吟  尾崎放哉

葉桜の暗夜となり蛍なりけり
木槿の垣に沿ふて行く先生の家がある
桜葉になってしまってまだあき家である
葉桜の下で遊びくたびれて居る
木槿の垣から小大がころがり出す
木槿壇の上を豆腐屋の顔が行くよ
木槿の葉のかげで包丁といでいる
松山松のみどり春日ならざるなし
燃えさしに水かける晩の白い煙り
すくすく松のみどりの朝の庭掃く
竹の葉がふる窓で字を習ってゐる
底になった炭俵の腹に手を突っ込む
豆腐屋の美くしい娘が早起きしてゐる
田舎の床屋で立派なひげをはやしてゐる
少しの酒が徳利ふればなる
久し振りに英語の字引の重たさ手にする
池で米とぐかきつばたは紫
池一つ置いて静かなあけくれ
お池のなかの黒ン坊のゐもり
縄が障子にぶつかる元気がよい 放哉
寺に来て居て青葉の大降りとなる
サッとかげる陽ある躑躅まっ盛り
物干で一日躍って居る浴衣
汐ぶくむ夕風に乳房垂れたり
砂山下りて海へ行く人消えたる
芹の水濁らかすもの居て澄み来る(註・原案)  
☆ 芹の水濁らすもの居て澄み来る
桜咲き切って青空風呼ぶさま
青葉日かげの石段高々とある
桜ひとかたまりに咲き落ちて池水
軒の口ガ手をのばす夕月 放哉
借金とりを返して青梅かぢって居る
落葉ふんで来る音が大であった
四角にかり込まれた躑躅がホツ/\花出す
池の朝がはぢまる水すましである
ぱく/\返事をして豆がいれる
落葉どっさり沈めて澄み切った池だ
煙草のけむりが電線にひっかゝる野良は天気
煙草のけむりがひっかゝる高い鼻である
小米花数限りなく白うて
池の冷めたさにごらす米のとぎ水 放哉
土塀に突っかい棒をしてオルガンひいてゐる学校
児にヨジユームを塗ってやる朝の空気だ
黒い衣ものきて後ろ姿を知らずに居た
夜の枕があたまにくっ付いて来る
今朝はどの金魚が死んで居るだらう
話しが間遠になって町の灯を見る
言ふ事があまり多くてだまって居る
小さな人形に小さいかげがある
鯖を一本持って来て竹を切っていんだ
話しずきの方丈にとっつかまって居る 放哉
梅雨暗れの七輪ばたばたあふいで居る
筍くるくるむいてはだかにしてやる
芙莫の小さい提灯が赤うなって来た
石油かんを叩いてへこましてしまった
茶の出がらしが冷えてゐる土瓶である
茶椀の欠けたのが気になってゐる朝である
墨すり流しつヽ思はるること
消し炭手づかみにしてもって来る
たばこを買ってしまって一銭しか残らぬ
山吹真ッ黄な蛇をかくしてゐる 放哉
口笛吹かるゝ四十男妻なし
うつろの心に眼が二つあいてゐる
花火があがる音のたび聞いてゐる
天幕がたゝまれて馬がひかれて行った
一日曇ってゐる手習ひしてゐる
破れたまんまの障子で夏になってゐる
夜がらすに蹄かれても一人
淋しいからだから爪がのび出す
電燈が次の部屋にもって行かれた
重たいこうこ石をあげる朝であった 放哉
髪を切ってしまった人の笑顔である
蛙が手足を張り切て死んでゐる
肉のすき間から風邪をひいてしまった
裸の人等のなかの風呂からあがってくる
屋根草風ある田舎に来てゐる
障子のなかに居る人を知ってゐる
赤ン坊火がついたやうに泣く裏に暮れとる
寝そべってゐる白い足のうらである
板の間光らせて冷へた茶を呑んでゐる
苔がはえて居る墓の字をよまんとす 放哉
襖あけひろげ牡丹生けられたる
たくさんの墓のなか花たててある墓
牡丹あかるくて読まるゝ手紙
山の茂りの人声下りて来る
人を乗せて来た戸板でさっさといんでしまった
米粒一粒もたいなく若葉に居る
汽車でとんで来たばかりの顔である
痛い足をさすりさすり今日もくれて来た
女房大きな腹をしてがぶがぶ番茶を呑んで
物を乞はれて居ろわれは乞食
放哉何くれとなく母の手助けをして女の子である
なぜか一人居る小供見て涙ぐまるる
他人同志が二人で寝起きしてゐる
貧乏ばかりして歳頃となってゐる
わが歳を児のゆびが数へて見せる
橋までついて来た児がいんでしまった
母の無い児の父であったよ
牛乳コトコト煮て妻に病まれてゐる
卵子たくさんこわしてあいそしてくれる
今朝も町はづれの橋に来てみる 放哉
裸ン坊がとんで出る漁師町の児等の昼
波音になれて住む若い夫婦である
渚消されずにある小さい児の足跡
小さい橋に来て荒れとる海が見える(註・原案) 
☆ 小さい橋に来て荒れる海が見える
一本松とて海真ッ平らなり
海の旭日ををがんで二階から下りる
えぼし岩目がけて朝の釣舟をやる
ひとひらの舟に乗る深い海である
島に人柱ばせて海は波打つ
手からこぼれる砂の朝日 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

第一巻 句集
定型俳句時代 自由律俳句時代 句稿1 句稿2
 放哉は生前に句集を持つことはなかった。没後すぐ、荻原非泉水によって句集『大空』が編まれ、広く愛唱される放哉はほとんどこれによる。
 然るにこの全集を編むための調査の結果、新聞や雑誌への投稿句が多数確認された。それは大正三年ころまでの定型句でも、以後の自由律の句についても同様である。埋もれていた句が新たに見出されるということは、放哉の句を全面的に読むことはできなかったということである。この巻では、すべての放哉句を、初出の句形で発表順に掲載する。さらに、残存する膨大な句稿も併録する。井泉水主宰の『層雲』ヘの句稿として井泉水宛に送ったもので、これまでにその一部が幾人かの手にあり、存在は知られていたが、一九九六年七月、二七二一句にのぼる句稿が荻原家からまとまった形で発見された。
 全句と句稿を併せ、放哉『句集』としたこの一巻は、多くの読者に瞠目して迎え容れられるに違いない。「放哉全集(筑摩書房)」

(その十五) 尾崎放哉未発表句 (その八)

句稿(7)
層雲雑吟 尾崎放哉
※○足のうら

妻楊枝噛んでは捨てるなん本でもある
だんだん風が強くなって来て泊る気になって居る
煙草の煙りにごまかされて出て来た顔である
この蟹めと蟹に呼びかけて見る
かはいや小さくても赤い蟹の親ゆび
松かさぼんやりして居る庵にたゝき付けられる
雨のあくる日がよく晴れ松かさからりと落ちる
火が消えて居る火鉢をかきまはしてほり出す
呼び返して見たが話しも無い
海を前に広げて朝から小便ばかりして居る
あらしが一本の柳をもみくちやにする夜明けの橋(註・原案)
☆ あらしが一本の柳に夜明けの橋       
あらしの部屋にはランプが一つ灯いて居る
みんな寝込んで居る家並の上に赤い雲を流し嵐はぢまる
あらしの中のばんめしにする母と子
あらしのあとの馬鹿がさかなうりに来る
あらしのなかの虫一つなく一つなきけり
あらしの晩で椎拾ふ相談が出来た
あらしのあとの小さい鶏頭起してありく
風が落ちた神主の顔に夜があけて居る
よい凪の月無きかゝる夜島島生れし
波にかくれる島にて舟虫はひけり 放哉
芒がどんどんのびて行く島のお天気つゞき
雨の日は遠くから燈台見て居る
ゆっくり歩いても燈台に来てしまった
旅人若く島の芒穂に出でず
風がどこに行ってしまったか海
波のうねりのだんまって居る力
島々皆白波の詞を抱き
白波打ちかへし渚秋なりけり
ひょいと呑んだ茶椀の茶が冷たかった
朝のあついお茶をついで呑む 放哉
いつの間に風が落ちたか暮れとる
石油の匂ひが好きな女であった
水平線をはなれ切った白雲
石炭酸の匂ひがする裏町ぬける
砂山砂から顔出して石塔
道しるべ横さまに打ち込まいでもよさそう
小鳥飼ふ事が上手でだまりこんでゐる
うたが自慢でおばゞ酒をほしがる
朝皃の蔓のさきの命ふるはす
風の藤棚の下ベンチが無い
緋鯉がにじんだ侭で暮れる 放哉
大きな鯉も居る藤も垂れて居る
雨蛙がぴったり手に吸ひ付いた朝風
なぜか逢ひともない人の顔だが
鳶だんだん大きな輪をかいて高いぞ
針箱しまって晩のにぎやかさにかゝる
ボケの花が一番すきな木瓜の花
数えて居るうちに鳩の数がまぎれて来る
そうめん煮すぎて団子にしても喰へる
づいぶん強い風であった柘榴が落ちない
庭下駄庭石にくっ付いて居る 放哉
もう汽車に乗ったかな土瓶がからっぽだ
焼米ゆびからこぼれる音を拾ふ
小包の紐をたんねんにほどいてたばねる
庭石格好よく据えてあすのことにする
風が落ちたやうだ小供の泣く声
ハンケチ洗って干す秋陽となり
蝉がちっとも晴かぬやうになった大松一本
歯みがき粉がこぼれて留守にして居る
墓へ行った足音が今戻って来る
藤棚洩れる秋陽を机の前にす 放哉
海辺の畑の垣とても無く夾竹桃真ッ盛り
石が火になって炭とをこって居る
血を吸ひ足った蚊がころりと死んでしまった
田を植えて行く村の時者さんが通られる
こんな町中の三角の水田であった
(槌か大久保新田、辺りの記憶)
鎌を光らして朝の山にはいる
口をあけないでしまった柘榴だ
洗濯竿にはわがさるまたが一つ
足のうら洗へば白くなる
すら/\書ける手紙で二三本書く 放哉
涼しさ担ひ来し荷を下ろす
石山虫なく陽かげり
石山雨をふるだけふらせて居る
青梅落として居る留守らしい
ざるから尾頭ぴんと出して秋風
自分をなくしてしまって探して居る
帯のうしろに団扇をさしてお婆よく歩く
三味線の稽古して御詠歌をしへて居る
帽子にとまった蛍を知らない
蛍籠の蛍の匂ひ 放哉
河原の蛍が光る部屋に案内される
昼の蛍の襟が赤い兵隊さん
蛍すいすい橋は風ある
叱られた児の眼に蛍がとんで見せる
そんな遠方までとんでもよいか池の蛍
夜更かしてもどる蛍がよく光ること
どうせ濡れてしまったざんざんふりの草の蛍(註・原案)
☆ どうせ濡れてしまった夜空の草の蛍    
風よ高々忘れたような蛍
光らぬやうになった蛍寵吊るして居る
光ること忘れて死んでしまった蛍 放哉(註・原案)
☆ 蛍光らない堅くなってゐる        
人一人焼いた煙突がぼかんとしてる夕空
はやり風邪で死ぬ人を焼く煙突がいそがしい
大松一本雀に与へ庵ある
大松によりかかる蟻の音全く無し
根も葉も無い話しで田舎の夜が更ける
月の出がをそいからの庵にもどる
への手動かすきりの烏が遠くなってしまった
雨の烏がたまって居て無精者で
蚤とり粉たくさんまいてくしやみして居た
堤へあがる海への道消えたり 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

第二巻 書簡集
 放哉の書きつづった書簡について、これは一級の文学であるといち早く喝破したのが井泉水であり、没後、間をおかず『層雲』誌上で書簡の提供を呼びかけ発表した。書簡文学の系譜に連なる雄峰と言えるものであろう。俳人放哉はまた一面、手紙の人でもあった。就中、小豆島へ渡ってからは、独居無言と言いつつ、おびただしい書簡を発し、返書を求めた。多いときは一日に三通も同一人に書き送ったりしている。閉ざされた空間に小さく小さく穿たれた、世界への窓のようなものであった。「放哉全集(筑摩書房)」

(その十六) 尾崎放哉未発表句 (その九)

句稿(8)
層雲雑吟 尾崎放哉

海が少し見へる小さい窓一つもち事たる(註・原案)
☆ 海が少し見へる小さい窓一つもつ   
わが顔があった小さい鏡を買うてもどって来る(註・原案)
☆ わが顔があった小さい鏡買うてもどる   
こゝから浪者きこえぬほどの海の青さの
畳がえしてもらった其の日から庵の主人で居る
わが庵とし鶏頭がたくさん赤うなって居る
すさまじく蚊がなく夜の痩せたからだが一つ
久し振りに島の朝の木魚叩いて居りけり
人の親切に泣かされ今夜から一人で寝る
井戸水汲みに行くまっ昼西瓜がごろごろ寝てゐる
日が暮れゝば寝てしまうくせの窓一つ残し
わが手わが足の泥を洗ひ今日の終り
七輪あふいで居れば飯が出来汁が出来
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
どっと山風に消えたちょろ/\風呂の火
藁をたいた土の匂ひをふと嗅いで寝る
ほりかけの石塔の奥で晩酌やって居る
小さい窓から茶がらをこぼす新月
どうせ一人の夕べ出て行くかんなくづの帽子
新らしい石塔がたった夜のわれは寝るとす 放哉
をさな心のランプを灯し島の海風
島の墓にはお盆の夕空流れ
晩のかげがうつる項となる二枚の障子
四五人静かにはたらき塩浜くれる
四五本ほちほちくゆらし蚊とり線香
夜更けの麦粉が畳にこぼれた
壁土が落ちること昼の虫なく
炭をもらった夜の火鉢土瓶たぎらす
色々思はるゝ蚊帳のなか虫等と居る
今朝は松の青い葉がたくさんある掃く 放哉
いつも松風を屋根の上にをいて寝る
海辺はをなじなりはひの家々晩の煙りをあげ
洗濯竿をじゃまにして立話して居る
夜中ひやひや起こされて居る窓の海風
船がはいったぞと知らしてゐる窓一つ暮れとる
蚤とぶ朝の畳の裸一貫
店の灯が美くしくてしゃぼん買ひにはいる
松かさも火にして豆が煮えた
屋根の上から見えてゐる山も島の山かな
女の笑ひ声もして盆の墓原 放哉
こんなところに打ってある釘を考えて居る
島人の訛りになれて木槿白き夜の
無暗に打ってある釘をぬく小さな住居とし
大声あげて呼ぶ野良はひろびろ
茄子をもいで来たあんまにもんでもらう
ひとばんでしぼんでしまった白い木槿
御佛の灯を消して一人蚊帳にはいる
みんなで汲まれる井戸の水がうまくて真夏
井戸のほとりがぬれて居る夕風
西瓜がつけてある井戸水深々汲み去る 放哉
葬式のかねがなる昼月出て居り
さゝったとげを一人でぬかねばならぬ
麦粉を鼠がねらう夜が長いぞ
わかれてから風邪薬をかって寝にもどる
なん本もマツチの棒を消やし海風に話す(註・原案)
☆ なん本もマッチの棒を消し海風に話す
新らしい釘を打って夏帽をかける
松の葉風無くて淋しい朝よ
山に登れば淋しい村がみんな見える
もらった新芋がある葱があるたべ尽くされず
横顔そっくりの顔がちがって居った 放哉
蚊帳の吊り手の朝風に用なくて居る
腰をろす石をさがす暮れちかく
待って居る手紙が来ぬ炎天がつゞく
夜更けの舟をろす月にひそかなる
漕ぎもどす舟の月夜はなれず
お茶を香むわが茶碗が一つ
よびとめられた晩の道茄子もいでもらう
片眼の女がうりに来る島のくだもの
ボラがたくさん釣れるこの頃の丸い月夜
まっくらなわが庵の中に吸はれる 放哉
夕べもどって来る庵の障子があいて居った
荷萄の種子を吐いて居るランプの下
梅干を大事にしてお粥をたべとる
人来る声してみんな墓場へまがる
土のほこりの窓低き鶏頭
半分よんだ本がなか/\読み切れぬ
畳はく風の針が光って見せる
庭をはいてしまってから海を見てゐる
半紙が二三枚とんで居る庵であった
昼の蚊御佛を礼讃し刺すよ 放哉
白足袋がよくかはいて暮れてしまった
天井のふし穴が一日わたしを覗いて居る
般若心経となへ去る朝の第一燈
海風たんとたもとに入れ晩を遊びに出る児等
恋を啼く虫等のなかでかゞまって寝る
かりそめのたなを吊って乗せるものがたんとある
障子の穴が大きうなって朝晩涼しうて居る
裏山にあがって朝の舟を見てこよう
土瓶の欠けた口に笑はれて居る
麦粉を口いっぱいに頬ばっても一人 放哉
燃えさしに水をかけて泣かせてしまった
東京へ手紙かきあげて島の夜にだかれて寝る
石塔ほる前の家の女がめくらであった
一銭置いてお茶をみんな呑まれてしまった
妻楊子買って来て一本もたいなく抜く
今ばん芋を煮ようか茄子を煮ようかとのみ
京の女を思ひ出す鏡見て居る
扇子を大事にし大事にし蝿を叩く
お経よむ気にもなれず米とぐ日ある
お光りに佛てらされ給ふ朝は 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

第三巻 短篇・随想・日記ほか
短欧・短篇・簡想・日記アルバム影印
回想(尾崎並子・沢芳街1森田美恵子・荻原井泉水他)書簡(放哉あて他)
年譜 文献目録 俳句索引
 鳥取県立第一中学校の校友会誌『鳥城』掲載の短歌、随想や、第一高等学校の校友会雑誌に書いた「俺の記」、これまで埋もれていた同誌「非同色」などの小文、草稿「夜汽車」「無量寿仏」、「層雲」に寄せた、小豆島生活の一端を描く「入庵雑記」、簡単な日録ながら最晩年の姿をいきいきと紡佛させる「入庵食記」などを収録。他に参考資料と俳句索引、年譜などを収める。「放哉全集(筑摩書房)」

(その十七) 尾崎放哉未発表句 (その十)

句稿(9)
層雲雑吟 尾崎放哉

雨の椿に下駄辷らしてたずねて来た (註・原案)  
☆ 雨と椿に下駄辻らしてたづねて来た
何かもの足らぬ晩の蛙がなかぬことであつた
(此島米ヲ産セズ故、水田ナシ)
わが髪の美くしさもてあまして居る(註・原案) 
☆ 髪の美くしさもてあまして居る
浴衣きて来た儘で島の秋となっとる
バケツー杯の月光を汲み込んで置く
閾の溝に秋の襖をはめる
いつも淋しい村が見える入江の向ふ
障子の穴をさがして煙草の煙りが出て行つた
夏帽新らしくて初秋の風
鶏のぬけ毛がとんで来ても秋
藁ぐまにもたれて落ち込んでしまった
波打際に来てゆっくり歩きつゞける
しとしとふる雨の石に字がほってある
淋しくなれば木の葉が躍って見せる
叱ればすぐ泣く児だと云つて泣かせて居る
窓いっぱいの旭日さしこむ眼の前蝿交る事
今朝、五時頃ノ実景デ、ナンダカ馬鹿二サレテ居ル様ナ気ガシマシタ、彼等、第一義諦ヲ知ル筈トデモ云ヒタイ様ナ気持デ、彼等八実二堂々タルモノデス、旭日直射シ来レバ彼等ハ即歓呼ヲ挙ゲテ交ル、
秋風吹断一頭慮(?)
旭暉眼前蒼蝿交
マゾイ偈デスカ、マダ死ネソヲニモアリマセンカ

あく迄満月をむさぼり風邪をひきけり
さあ今日はどこへ行って遊ばう雀等の朝
はちけそうな白いゆびで水蜜桃がむかれる
石のまんなかがほられ水をたゝえる
山ふところの風邪の饒舌
花がいろいろ咲いてみんな売られる花(註・原案)
☆ 花がいろいろ咲いてみんな売られる   
青空の下梨子瓜一つもぐ
塩のからいに驚いて塩をなめて居る
はく程もない朝々の松の葉ばかり
盆芝居の太鼓が遠くで鳴る間がぬけて居てよし 放哉
落葉生きてるやうにとび廻って見せる
枝をはなるゝや落葉行方も知らず
たまさか来るお遍路の笠が見送らるゝ秋は
追憶の夕ベ庭先き蟹がはって見せる
今日はも一つお地蔵さまをこさえねばならぬと石ほる
障子の破れから昼のランブがのぞくも風景
なれてしまへば障子の破れから景色が見える
荒壁ほろほろわが夜の底に落ちる
秋風の石が子を産む話し
投げ出されたやうな西瓜が太って行く 放哉
忘れた頃を木槿又咲く島のよい日和
いつも泣いて居る女の絵が気になる壁の新聞(註・原案)
☆ 壁の新聞の女はいつも泣いて居る  
鴨居とて無暗に釘打ってあるがいとほし
此の釘打った人の力の執念を抜く
われにも乏しき米の首がやせこけた雀よ
下手になく朝もよろし島の鶏
海風に筒抜けられて居るいつも一人
海風至らぬくまもなく一本の大黒往
たまたま窓から顔出せば山羊が居りけり
海風べうべうと町までの夜道 放哉
朝から曇れる日の白木槿に話しかける
うらの畑にはいつて盆花切ってもらう
アイスクリーンを売って歩く島の昼は開けた
うっかり気が付かずに居た火鉢に模様があった
お盆の年寄が休む処とし庵の海風
盆休み雨となりぬ島の小さい家々(註・原案)
☆ 盆休み雨となりた島の小さい家々
島から出たくも無いと云って年とって居る
お盆の墓原灯をつらね淋しやひとかたまり
死ぬ事を忘れ月の舟漕いで居る
朝ばん牛乳を呑んでやせこけて居る 放哉
山々背中にあすの天気をさしあげて居る
ビクともしない大松一本と残暑にはいる
全く虫等の夜中となりをぢぎして出る
稲妻しきりにする窓焼米かぢる音のみ
蚊帳のなか稲妻を感じ死ぬだけが残ってゐる
屋根瓦すべり落ちんとし年へたるさま
アノ婆さんがまだ生きて居たお盆の墓道
島ではぢめての蛇を見て唾吐いてしまった
女手でなんとも出来ない丸い漬物石
早起の島人に芝草をのゝき喜び 放哉
白い両手をついて晩の用をきゝに来て居る
やゝはなれてよくなく蝉が居る朝を高い木
焼米ほつりほつり水呑むわが歯強かりけり
壁にかさねた足の毛を風がゆさふつて居る
すね小僧より下にしか毛が無い秋風
今日は浪音きこえる小窓はなれず
風邪を引いてお経あげずに居ればしんかん
ろうそく立てた跡がいくつも机に出来た
風音ばかりのなかの水汲む
よい墨をもらって朝からうれしい 放哉
すっかりお盆の用意が出来た墓原海へ見せとる
鼠にジャガ芋をたべられて寝て居た
蚊帳の吊り手が一本短かくて辛抱してゐる
白木槿二つ咲きいつも二つ咲き
今日一日は七輪に火をせなんだまヽ
山のやうに芝草刈って山に寝てゐる
草履をはたいてもはたいても浜砂が出る
魚釣りに行く約束をしたが金がなかった
島人みんな寝てしまひ淋しい月だ
窓からさす月となり顔一つもち出す 放哉
友にもらって来た歯磨粉が中々つきない
島の土となりてお盆に参られて居る
小さい船下りて島に来てしまった
茄子を水に清けて置く月夜であった
墓近くなる盆花うろ家家
萩かな桔梗かな美くしくなった盆のわが庵
まっくらな戸に口をあけて秋山の家である
海人の視子が呼びかはし晩になっとる
草履が一つきちんと暮れとる切りだ
犬が逃げて行くかげがチラと晩だ 放哉
(「尾崎放哉記念館」収載句)

尾崎放哉 明治十八年ー大正十五年 鳥取生まれ
 放哉は一高・東大とエリートコースをたどり、保険会社の要職にもつくが、世に入れられず酒に溺れ退職に追い込まれる。以後漂泊の旅を続け、大正十二年京都の一燈園で托鉢生活に入る。その後京都、須磨、小浜の寺々の寺男となり転々とする間、膨大な俳句を詠み才能を見事に開花させていった。
 小豆島へは大正十四年八月に来島、西光寺奥の院南郷庵「みなんごあん」の庵主となる在庵わずか八カ月の間病苦に苛まれながらも三千句に近い俳句を作り翌年四月孤独のまま生涯を終えた。
 亨年四十二歳 戒名は大空放哉居士 墓は庵近くの共同墓地の中にある。記念館は平成六年に当時の南郷庵を復元したものである。(「尾崎放哉記念館」の年譜)

(その十八)

○ すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く
☆ 障子あけて置く海も暮れ切る
○ 自分ばかりの道の冬の石橋
☆ 自分が通ったゞけの冬ざれの石橋
○ 光ることを忘れて死んでしまった蛍
☆ 蛍光らない堅くなってゐる
○ 夕空見てから晩めしにする
☆ 夕空見てから夜食の箸とる
○ 大晦日と暮れた掛取も来てくれぬ
☆ 掛取も来てくれぬ大晦日も独り

 上記の○印の句が放哉の原案。そして、☆印の句がその放哉の句に井泉水が手直しをした句。これらの放哉の原案の句とそれに井泉水が手直した句とを比較すると、いかに、井泉水の手直しが凄かったということが一目瞭然となってくる。ここで、井泉水の添削の特徴としての、「動詞のくり返しによる」独特の構造のものが顕著になってくる。その顕著な一例として、放哉原案では、「すっかり暮れ切るまで庵の障子あけて置く」の一句一章体のスタイルが、井泉水は、「障子あけて置く / 海も暮れ切る」と、前半句と後半句の二句一章体に手直しをするのである。放哉原案は作者の作意が見え見えで、どうにも饒舌で間の抜けている印象であるが、井泉水の手直しの、前半句の「置く」と後半句の「切る」との二重構造が、絶妙の間(ま)を生み出している。すなわち、「前半句の『置く』を文法的に終止形と考えれば、後半句との間に意味の切れ目ができるが、これを連体形と考えるなら、前半句は後半句の『海』の修飾語になり、そのあいまいさからくる宙吊り状態が、この文体ではきわめて効果的に機能している」(仁平・前掲書)ということになる。ここで、関連する事柄を、仁平・前掲書により、その中心となることを付記しておきたい。
「俳句の言葉は、もともと散文的な文法には従わない。それは切れ切れの言葉であるといっていい。その切れの言葉に、一句としての秩序を与えるのが、すなわち五七五という定型律である。その定型律を拒否することで、俳句の言葉は秩序を失い、いわば宙吊りになる。(中略) 放哉は、この宙吊りされた言葉の不安定な緊張感に、俳句としての新鮮な手応えを感じているようだ」(「いつ迄も忘れられた儘で黒い蝙蝠傘」に関連して)。
「自由律俳句というのは、文字通り自由に書くことなら、一句は『ころりと横になって今日が終わって居る』と書かれてもいい。しかし放哉が欲したのは、定型からの自由ではなく、定型にたいして不安定な緊張感であった。『横になって』と書けば、言葉が安定してしまう。そのことを放哉は避けている。いや、たんに言葉の問題ではなく、『ころりと横になる』行為そのものを安定させたくないのだ。そして、放哉が手応えを感じている自由律の不安定さは、しがない寺男として暮らす毎日の現実にたいする、自身の気持ちの不安定さであるのかもしれない。自由律俳句を書くことは、定型を選択しながら、つねにその定型から不安定な位置を保とうとすることだ。つまり自由律俳句と自由詩とでは、『自由』というモチーフが最初から違っている。自由律俳句の前提には、定型の意識がある」(「ころりと横になる今日が終わっている」に関連して)。
 そして、これらの「自由律俳句の不安定」というについて、放哉以上に、そのことに意を用いて、放哉のこれらの句を放哉の他の多くの作品のなかから選句して、その句の中核となっているものを見事に察知して、そして、放哉の原句以上に、「自由律俳句の不安定」な作品に仕上げているのは、他ならず、放哉の師の井泉水であるということは、上記の掲出句を見ていけば明らかなところであろう。しかし、ここで、「俳句の本態の曲譜は、五七五という定型そのものにあり、俳人はその曲譜を歌いこなす歌手に過ぎない」(平畑静塔の「定型不実」論)という、たびたび、この放哉探索で話題にしていることを想起していただきたい。このことは、さらに、別な言葉でするならば、「俳句というものは、純粋に個人の表現と見なしたり、あるいは、個人の表現に価値を置くべきものではないのかもしれない」(坪内稔典『柿喰ふ子規の俳句作法』所収「定型の力」)とのニュアンスに近いものということになろう。これらのことを前提として、上記の掲出句の「歌手(作者)」は、ことごとく、尾崎放哉その人であり、手直しをした井泉水は「振り付け師(選句者)」ということになろうか。この意味で、尾崎放哉は優れた自由律俳句の俳人の一人であったが、同時に、その放哉の優れた素質を見抜き、その素質を見事に開花させたところの、その師の荻原井泉水は、定型律俳句の大立者・高浜虚子に匹敵する位の、凄腕での自由律俳句での「振り付け師(選句者)」であったということは、特筆しておくべきことであろう。

(その十九)

○ きれ凧の糸かかりけり梅の枝 (中学時代・定型の句)
○ 元日や餅二日餅三日餅    (大学時代・破調の「句またがり」の句)
○ 寝そべつて草の青さに物云ふ (須磨時代・破調の「字足らず」の句)
○ 銅像に悪口ついて行つてしまつた (小浜時代・破調の「字余り」の句)
○ 小さな人形に小さいかげがある  (「未発表句」・井泉水の言う奇調の句)

「字余りの句なるものは古来沢山にあり、又さほどの音調を害さないものであるから、自分等は何も十七字といふ字数に縛られるには当らない。(中略) 斯様に音数を観察してみると、将来には是迄の五七五といふ様式は廃れるやうになつて、五七五及び其の字余り、若くは今言ふ奇調の或るものが正調として流行するやうになるかも知れぬ。然し余り長い句法は面白くないからやはり十七八の所に落着くのであらう。なにしろ充分変化する余地はある。而して十七字といふものは変化を容るるに決して狭いものではないのである」
(荻原井泉水「新たに句作する人々と共に」)。
 
 この井泉水の指摘などを引用しながら、俳句評論家の仁平勝は、先(その七)に触れたように次のような持論を展開する。

「自由律俳句のリズムは、これは定型のバリエーションとしてみれば、字余りというよりは破調の手法にあたる(井泉水の文章では「奇調」と呼ばれている)。ならば自由律俳句は、その破調という定型の手法とどう違うのか。それは後者が、ちょうど伸びたバネのようにまた五七五に戻っていくのにたいして、前者はけっして五七五の原型には戻らないということだ。つまり、自由律俳句とは、恒常化された破調にほかならない」(仁平・前掲書)。
 
 そして、これを一歩進めて、次のような指摘をしたのであった。

「俳句には、定型律俳句と自由律俳句とがあり、さらに、定型律俳句には、表の『正調的俳句』(定型句)と裏の『破調的俳句』(破調句)とがあり、さらに、その表と裏との『正調的俳句と破調的俳句』 との「影」のような『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』(奇調句)とがあり、この『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』(奇調句)が、いわゆる、放哉らの『自由律俳句』と呼ばれるものである」(その七)。

 ここで、それらの、それぞれの例句をあげると上記の掲出句などがそれに当るであろう。そして、これらの例句に見られるとおり、放哉の句の態様(定型・非定型・リズム)というの
は多種多様であり、一口に、「自由律俳句」とか「一行詩」などとかに区分けをするということは、これまた、レッテル貼りの感じがしなくもないのである。それ以上に、俳人・放哉を、「息のつまるような失意と諦め、抑えきれない我執とのあいだをうろつく、孤独の有り態を承知することができる」(金子兜太)や「その中で詠われた極限の淋しさは、我執と素直さと弱さを同居させた一個の知性の魂の叫ぴであるが故に現代人の胸に突き刺さる」(稲畑汀子)などの指摘も、放哉の一面を拡大視してのもののようにも思われる。これらのことに関して、坪内稔典の「有名な『咳をしても一人』『月夜の葦が折れとる』などの孤独感の強い句は、実は放哉の一面。井泉水の選句や添削を通して、つまり、井泉水との共作において、放哉は自己を他者に開こうとしていた。句稿ではさきの障子の句の後に、『沢庵のまつ黄な色を一本さげてきた』がある。井泉水は採らなかったが、とても人懐っこい風景だ」(「その九」の朝日新聞の書評)などは、今後、さらに掘り下げていく必要が必須であろう。
 さしずめ、上記の「元日や餅二日餅三日餅」の句などは、放哉の定型観や滑稽観などを知る上では、もっともっと注目して然るべきもののように思われる。この句を、尾崎放哉ら以上に、アンチ「定型」ということで、「多行式俳句」のスタイルを確立した高柳重信などのスタイルを借用すると次のようになるであろう。

○ 元日や
  餅
  二日
  餅
  三日
  餅

 つくづく、放哉のこの句の面白さなどに脱帽する。

(その二十)

○ 小さな人形に小さいかげがある  (放哉「未発表句」より)

 今回の放哉の「未発表句」のなかで、この掲出句がとりたてて佳句ということではない。ただ、この句が、「俳句とは小さい人形なものであって、その小さな人形にも小さな影をもっている」と、そんなことを、放哉が無意識のちに察知しているように思えたのである。
 放哉の師にあたる荻原井泉水は、正岡子規そして河東碧梧桐に連なる俳人で、その子規の言葉に次のようなものがある。

「世の人あるいは俳句を以て器小なりとす。実に十七字、八字の天地に俯仰する者なればこれを小説、長編の韻文等に比して器の小なる論を俟(ま)たず。されど器の小なるを以てこれを捨てよといふ人あるに至つてはその意を得ざるなり。ここに宝石を納るべきささやかなる函を持つ人あり。その人に向つて『汝何ぞ此の如き小き器を持つて満足する。その小き函を捨てよ。その代りに大なる倉庫を起つべし。巨万の財産は大ななる倉庫に非ざれば納(い)れがたし』と言はんに誰かその愚を笑はざらん。(中略) 俳句の趣味はその簡単なる処にあり。簡単を捨てて複雑に就けよといふ者は終にその簡単の趣味を解せざるの言のみ。落語家曰く大は小を兼ぬるといへども杓子は耳掻の代りを為さずと」(『松蘿玉液』明治二九年)。

 これらの「俳句は小さな器」ということは、「俳句の簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」などとさまざまに指摘されるところである。そして、この「俳句の簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」こそ、俳句の最大の特徴であり、これをどう最大限にその効果を発揮させせるかどうかが、ここに俳人の力量が問われる所以があるよに思われるのである。それともう一つ、その「俳句の簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」は、それらを補うものとして、古来からの「和歌・連歌・俳諧・俳句」の、その歴史が延々と築きあげらてきたところの「伝承的美意識」としての「季題・季語」を、いわば、「象徴語」(シンボル的な核となる言葉)として活用してきたということに思いを新たにするということなのである。すなわち、翻って、「俳句という小さな器」それ自体が、その「簡便性・脆弱性・片言性・未完結性」が故に、「季題・季語」と同じように、「象徴的なレトッリク(修辞法)」ということで、意識・無意識の如何を問わず、俳人達は活用し、そして、実践してきたのではなかろうかということなのである。この「象徴的なレトッリク(修辞法)」こそ「定型の魔力」の本態なのではなかろうかという思いが拭いされないのである。
 そして、荻原井泉水・尾崎放哉らは、この「象徴語」としての「季語・季題」、そして、
「象徴的なレトッリク(修辞法)」としての「定型」からの「自由」(解放)を目指して、「自由律俳句」の世界に足を踏み入れたのであるが、それは実に、「象徴語」としての「季語・季題」、そして、「象徴的なレトッリク(修辞法)」としての「定型」が、上記の放哉の掲出句でいうならば、「小さな人形」ということになるし、その「小さな影」が「自由律俳句」という思いにとらわれたのである。また、そう理解をして、彼等の「自由律俳句」をしたいという思いにとらわれたのである。
 されば、この長い「尾崎放哉探索」の冒頭に戻って、平畑静塔の「俳人格説」・「定型不実論」を一歩進めて、俳句における「定型・季語象徴論」という考え方を、ここに提示して、平畑静塔が、己の「俳人格説」・「定型不実論」を、へりくだって、「珍説」との語でカムフラージュがしていることに鑑み(『俳人格説』所収「優季論」)、それに倣って、ここでも、その「珍説」の語を以て、カムフラージュをし、それを、この長い「尾崎放哉探索」の結びにもってきたいのである。

日曜日, 1月 08, 2006

日野草城「諸人旦暮の詩」(その一~その十)



日野草城・「諸人旦暮の詩」

(その一)

「神戸新聞」(平成十七年十二月十日)に日野草城が創刊した俳誌 「青玄」が五十六年の幕を閉じるという次のような記事を目にした。

「尼崎市に拠点を置く青玄俳句会(伊丹三樹彦主幹)は九日までに、俳句雑誌『青玄』を、今月下旬に発行する第六百七号で終刊とすることを決めた。『俳句現代派』を掲げ、大胆な表記改革を推進してきた五十六年の歴史に幕を閉じる。同誌は一九四九年に新興俳句運動の旗手、日野草城が創刊。五六年の草城没後は伊丹主幹が継承し、『無季・現代語・分かち書き』などを提唱した。全国に同人・会員約千人を持ち、毎月千五百部を発行している。
 今年の夏に体調を崩した伊丹主幹が『直接指導するのが困難』と終刊を決意。緊急の会合で議決された。会員らが新雑誌を立ち上げる計画もあるが、「青玄」の名は使わないという。同主幹の妻、伊丹公子さんが十一月に主幹から受け継いだ『神戸新聞文芸』欄の選者は、公子さんが引き続き担当する。(平松正子) 俳人の山田弘子さんの話 『青玄』は、草城の詩型を継ぐ日本を代表する現代俳句誌。終刊は残念だが、一日も早く伊丹さんが回復し、再び俳壇に目を配ってくださるよう切に願っている。」
 
 折りも折り、古俳諧にも造詣が深く、自らも俳句実作を実践している復本一郎氏が、「俳句を変えた男」の副題を付した『日野草城』(平成十七年六月二十日刊)を公刊した。そこで、「臥床後の草城の俳句理念」として、「諸人旦暮の詩」(もろびとあけくれのうた)を紹介していた。これらの、晩年の日野草城の俳句理念や俳句実作などを中心として見ていきたい。
 復本一郎氏は、草城の「「諸人旦暮の詩」の理念に添った句として、草城の第六句集『旦暮』の次の六句を紹介している。

○ 冬ざれて枯野へつづく妻の手か
○ 炎天に黒き喪章の蝶とべり
○ 木々の濡れ肌におぼゆる端居かな
○ 煮ざかなに立秋の箸なまぐさき
○ 仰臥して四肢を炎暑に抑えらる
○ 薔薇色のあくびを一つ烏猫

(その二)

 日野草城が「俳句は諸人旦暮の詩である」について、「関西アララギ」(昭和二十九年三月号)で、次のような解説をしている(復本一郎著・前掲書)。

「私は俳句はもろびとあけくれのうた(諸人旦暮の詩)であると考えてゐます。日常生活の中に見出されるよろこびや悲しみを誰かに聴いてもらひたくて口に出たものが俳句だと思ひます。私は俳句の本質を『本音のつぶやき』だと言つたことがあります。尤もこれは文学以前の心の動きを説明した言葉で、『本音のつぶやき』でさへあればすべて文学であり得るとは考へません。しかし文学とは全然縁のないものとは決して考へません。」

この「もろびとあけくれのうた(諸人旦暮の詩)」の草城自身の解説に、復本一郎氏は次のような感慨を付け加えている。

「ここには、フィクション、ノンフィクションを問わず、かっての作品至上主義を掲げていた草城の姿を見ることができない。俳句を『本音のつぶやき』だなどと言う草城を、誰が想像できたであろうか。そのような考え方の対蹠的なところに位置していたのが草城であり、草城の作品であったのである。草城がこう呟いた瞬間、まさに山本健吉が指摘していたように、『人生の午後』以前の俳句世界は『「人生の午後」に至るまでの長い廻り道であった』ということになってしまうのである。」

とした上で、復本一郎氏は、「俳句を変えた男」・日野草城の処女句集『花氷』(昭和二年刊)の作品群を、晩年の草城の作品群よりも高く評価しているのである。そして、それらの作品について『花氷』二千余句のうち、厳選に厳選を重ねて、次の十句を紹介している。

○ 春の夜やレモンに触るゝ鼻の先
○ 物種を握れば生命(いのち)ひしめける
○ ところてん煙の如く沈み居(を)り
○ 小百足(こむかで)を搏(う)つたる朱(あけ)り枕かな
○ 女将(おかみ)の歯一つ抜けゐて秋涼し
○ 朝寒や歯磨匂ふ妻の口
○ 船の名の月に読まるゝ港かな
○ 静けさや白猫渉(わた)る月の庭
○ 鶏頭や花の端(は)焦げて花盛り
○ 夕風やへらへら笑ふしびとばな

(その三)

○ 春の夜やレモンに触るゝ鼻の先
○ 物種を握れば生命(いのち)ひしめける
○ ところてん煙の如く沈み居(を)り
○ 小百足(こむかで)を搏(う)つたる朱(あけ)り枕かな
○ 女将(おかみ)の歯一つ抜けゐて秋涼し
○ 朝寒や歯磨匂ふ妻の口
○ 船の名の月に読まるゝ港かな
○ 静けさや白猫渉(わた)る月の庭
○ 鶏頭や花の端(は)焦げて花盛り
○ 夕風やへらへら笑ふしびとばな

 これらの句についての復本一郎氏の賛辞は次のとおりである。
「十句、ことごとくが、いずれも日常、目にし得る素材、あるいは対象である。それが、草城によって限りなく美的世界へと変身を遂げているのである。繊細な感受性をも含めて、草城が、いかに詩的な資質に恵まれていたか、ということである。それゆえに、子規の『写生』の世界、あるいは、虚子の『花鳥諷詠』の世界を突き抜けて、唯美の世界に到達し得たのである。そして、そこに、草城は、従来の俳句世界では、誰も詠み得なかったエロティシズムの世界を構築し得たのである」。
さらに続けて、「俳句のエロティシズムは、草城によって確立された。俳句がエロティシズムを詠み得る文芸の器(うつわ)であることを、草城が出現するまでは、誰一人として気付かなかった。誰一人として積極的に詠もうとしなかった。せいぜいいわゆる『相聞の句』を詠むのが精一杯であった。俳句が一変したのである。この一点において、草城を最大級に評価したい」(復本・前掲書)という。
復本一郎氏は、日野草城を「俳句を変えた男」として、上記のとおり、ただ一点「従来の俳句の世界では、誰も詠み得なかったエロティシズムの世界を構築し得た」ということで、草城が晩年に到達し得た、いわゆる「もろびとあけくれのうた(諸人旦暮の詩)」という俳句理念とそれに基づく晩年の第六句集『旦暮』・第七句集『人生の午後』の俳句の世界以上に評価をしているのである。
しかし、ここは、復本一郎氏が紹介している、草城の奥様の晏子氏の、次のような発言を是といたしたい。
「句としては、昔は人の目を惹くだけの、表面ばつとしていても心持の浅い句が多く、秋桜子先生や誓子先生の御句の方がしつとりとしてゐて好ましく思つてゐました。然(しか)し、病臥以来の主人の句には、昔と違つた落着きが出て来たように思います。ひいき目かも知れませんが、
  肌かはく日となりぬ夏長かりし
 最近出版した句集『旦暮』に載つてゐるこの句など、好きです」(「俳句研究」・昭和二十五年十一月号)。

(その四)

○ 春暁やくもりて白き寝起肌
○ 春の夜や足りぞかせて横坐り
○ 春の灯や女は持たぬのどぼとけ
○ 潮干狩脛(はぎ)のふくらに刎泥(はね)上げて
○ 南風や化粧に洩れし耳の下
○ しみじみと汗にぬれたるほくろかな
○ 菖蒲湯や黒髪濡れて湯気の中
○ 蚊帳の裾うなじを伸べてくゞりけり
○ 山蟻に這はるゝ足のあえかなる
○ 秋風や子無き乳房に堅(かた)く着る
○ 唇の紅さ枯野を粛殺す
○ 白々と女沈める柚子湯かな
○ のぼせたる頬美しや置巨燵
○ 酔へる眼も年増盛りや玉子酒

 これらの掲出句は、復本一郎氏が厳選した『花氷』の中のエロティシズムに溢れる十五句である。そして、復本氏は、「このような俳句世界は、草城が俳壇に登場すまでは、なかったのである」と断言する。ここで、草城自身の自らの語るエロティシズム観というものを見ておくこととする。

「既に何人かの評家によつて指摘された通り、私ほど女人に関する作品を多く製作発表した俳句作家は少ないであらう。私の女人に対する関心の程度は、俳壇に在つては、注目に値するものであるらしい。その結果、私が(俳句を離れて、一個の男性そのものとして)女人に対して異常なる嗜好を持つものゝ如くに考えてゐる人々が在るやうであるが、これは人間としての私についての認識の不足を示すのみならず、従来の俳壇並びにその成員たちの詩眼の偏狭を証拠立てる一つの有力な事実である。私が女人に感心を持ち過ぐる(私は決してさうは思はないが)といふ彼等の非難は、とりもなほさず、彼等は余りにも女人に関心を持たな過ぎるといふ私の非難となつて返されるであらう。女人及び女人を中心とする広汎にして肥沃なる詩野を、芭蕉以来の俳句作家は殆ど全然といつてもよい位閉却してゐた。これは実に不思議なことがらである。私にとつては謎のやうにしか考へられないことがらである」(復本一郎・前掲書、「旗艦」昭和十年三月号)。

 時に、草城三十五歳。草城は「ホトトギス」には所属していたが、その一月に主宰誌「旗艦」を創刊して、上記のとおり、芭蕉もまた芭蕉以来の誰一人として為し得なかった「俳句に女人を、そのエロティシズムの世界」を導入する第一先達者としての矜持と自覚とを草城自身明確に意識して、それを世に問うているのである。この三年後に、草城自身の次のような記述がある。

「官能俳句の価値の問題であるが、芸術化の正否によつてそれが決定されることは今更の言を須(もち)ひない。いくらリアリスィックに実感がこめられ迫力を備へてゐようとも、結局挑発に了(をは)るやうな作品は否定されねばならぬ。また、如何にさりげなく暗示的に言ひ廻されてあつても、ヴェールの蔭から卑しひ笑ひがもれてゐるやうな作品は、是又(これまた)否定されねばならぬ。兎角卑陋に見られ勝ちの素材に拠つても而(しか)も詩の香気を放たしめ気稟(きひん)を感ぜしめる底のものでなくてはならぬ。ここに官能俳句のむつかしさがある。官能俳句は素材の実感性により一概に斥(しりぞ)けらるる懼(おそ)れがあると共に、同じその実感性の故に没批判に受容される危険がある。いずれも文芸として正しくなく、悦ばしくないことである。作家も鑑賞者も共に厳重に戒慎すべきところである」(復本・前掲書、「広場」昭和十三年五月号)。

 復本氏は、上記の草城のエロティシズム俳句(兎角卑陋に見られ勝ちの素材に拠つても而(しか)も詩の香気を放たしめ気稟(きひん)を感ぜしめる底のものでなくてはならぬ)とポルノグラフィー俳句(「扇情的俳句」、復本氏の「艶笑俳句」)とを峻別して、草城のエロティシズム俳句を高く評価しているのである。

(その五)

○ 春の灯や女は持たぬのどぼとけ

 この掲出句について、復本一郎氏は「四S」(水原秋桜子・高野素十・阿波野青畝・山口誓子)の命名者の山口青邨氏の興味ある記述を紹介している(復本・前掲書)。

「私のところにただ一枚の草城君の短冊がある。(中略)『春灯や女はもたぬ咽喉仏』といふ句である。まだ若い字で、うまくない。然(しか)し俳句はなかなかませてゐて、官能的だ。まだ妻もめとらない二十代といふのにもう女の姿態などを描かうとしてゐる。女の袖首などをじつと眺めてゐる、男と違ふ女の肉体に何物かを発見しようといふ好奇心をもやしてゐる」(「俳句」日野草城追悼特輯号、昭和三一年五月号)。
 さらに、ここで、青邨氏は次のようにも記しているという(復本・前掲書)。
「後の批評家は青邨が四Sといふことを言つたが、何故草城を逸したか、何故草城を加へて五Sにしなかつたかと言つた。勿論、私の頭の中には草城があつた。その才能を認めて居た。然(しか)しあまりにも才気ばしつて居て、青畝や誓子のやうに無条件に入れることは出来なかつた。少なくともその当時の私の気持はさうだつた。それに四Sといふことを言つたのは東から二人、西から二人を挙げようとしたので、西から三人とるわけには行かなかつた。かと言つて、東西三人づゝとつて、六Sといふのも面白くなかつた。草城君は他の三君に比して決して遜色のある人ではなかつた」(「俳句」・前掲書)。

 青邨氏が「四S」を唱えたのは、昭和三年のことで、「ホトトギス」誌上で活字化されたのは、翌四年の一月号である。そして、冒頭の掲出句が収載されている草城の処女句集『花氷』の刊行は、昭和二年のことで、青邨氏の当時の草城の俳句姿勢に対する、「妻もめとらない二十代といふのにもう女の姿態などを描かうとしてゐる。女の袖首などをじつと眺めてゐる、男と違ふ女の肉体に何物かを発見しようといふ好奇心をもやしてゐる」と「あまりにも才気ばしつて居て」という指摘は実に鋭いし、そして、それはとりもなおさず、当時の草城の俳句姿勢を見事に喝破しているといっても差し支えなかろう。
 すなわち、当時の草城の俳句創作の基本的な姿勢は、「フィクション・ノンフィクション」の区別からすると、「フィクション」による、虚構の作品ということになる。そして、この創作姿勢は、昭和九年四月号の「俳句研究」に発表された、いわゆる「ミヤコ・ホテル」の一連の連作作品となって、草城の「ホトトギス」同人除名の遠因とも連なっているのである。

(その六)

○ けふよりの妻(め)と来て泊(は)つる宵の春
○ 夜半の春なほ処女(おとめ)なる妻(め)と居りぬ
○ 枕辺の春の灯(ともし)は妻(め)が消しぬ
○ をみなとはかゝるものかも春の闇
○ 薔薇にほふはじめての夜のしらみつゝ
○ 麗らかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく
○ 湯あがりの素顔したしく春の昼
○ 永き日や相触れし手はふれしまゝ
○ 失ひしものを憶(おも)へり花曇

 草城は早熟の天才肌の才人で、その才能を誰よりも見抜いていた一人として、高浜虚子氏があげられるであろう。草城は大正十年の二十一歳のときに「ホトトギス」の巻頭を占め、同十三年に同誌課題句選者に推され、昭和四年(二十九歳)に「ホトトギス」同人に推挙されている。そして、掲出にあげた問題の「ミヤコ・ホテル」の連作を発表したのが、昭和九年(三十四歳)、その翌年(昭和十年)に、主宰誌「旗艦」を創刊して、リベラリズムの新興俳句に取組むこととなる。そして、その翌年(昭和十一年)、直接的には、このリベラリズムの無季俳句などを容認している「旗艦」の創刊などが理由となり、「ホトトギス」同人を除名されることとなる。この「ホトトギス」同人除名と草城の「ミヤコ・ホテル」の連作とは直接的には関係ないとされているが(復本・前掲書)、やはり遠因にはなっていると思われる(復本氏は、「天才虚子は、エロティシズム俳句は『花鳥諷詠』俳句の概念を一変してしまう危険性を察知して」、それが直接の除名の原因にあげている。そして、「無季俳句」の唱道が除名原因とする山本健吉氏の指摘には否定的見解をとっている)。
 何はともあれ、草城のこれらの「ミヤコ・ホテル」の連作は、当時の俳壇内外に大きな波紋を投げかけた。そして、これらの草城の連作を最も激賞した人は、詩人・室生犀星氏で、「『ミヤコホテル』の正味は、今日に於て明瞭に俳句精神が老年者の遊び文学でなかったことを意味する」(「読売新聞」文芸時評)との賛辞を呈している。そして、何よりも面白いことは、後日、次のような誕生秘話が伝えられるように、草城は、これらの連作作品を、「フィクション・ノンフィクション」の、「フィクション」を主体として書き上げたということなのである。 
「晩年の草城はこの作品(註・「ミヤコ・ホテル」の連作)のことが雑誌に載つたりすると『またか』といつた(嫌な)表情をされた由。わたしには、『あれはバスの中で考えがまとまつて、出勤簿に印を捺す前急いで紙に書いたんだ』と言はれたことがあつた。つまり草城出勤途次の作なのである」(復本・前掲書、「俳句研究」昭和三一年六月号の五十嵐研三解説)。
 もし、これらの草城の連作作品が、この誕生秘話のように、「草城出勤途次の作なのである」としたら、草城という俳人は、容易ならざる俳人であったということは言を挨たないところであろう。

(その七)

○ 鼠捕り置きたれば闇いきいきと
○ 高熱の鶏青空に漂へり
○ 山羊の乳くれたる人の前にて飲む
○ ひとの手を握り来し花束を受く
○ 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く

 昭和二十八年(草城、五十四歳)に刊行された『人生の午後』所収の、山口誓子氏が高く評価している無季の五句である。誓子氏は「有季定型」俳句を固守して、新興俳句に関心を有しながらも、無季俳句とは一定の距離を保っていた。その誓子氏が、草城が没した昭和三十一年二月二日付け「大坂新聞」に次のような草城への賛辞を呈している。
「草城氏の業績は、一つは現代俳句の源流をなしたということ、もう一つは無季の俳句を勇敢に作ったことだと私は思っている。殊に無季の俳句は、私自身未だかって手を染めぬ世界であるから一層その感を深くする。(中略)自ら(筆者注・誓子自身)を『怯懦(きょうだ)なる歴史派』と呼んだ。『歴史派』という言葉に意味があった。有季の俳句は、日本の伝統、日本人の長い間の生活の歴史が借り積って築き上げたものだと私は信じていた。これは理論ではない。生活の歴史である。日本人としてその歴史を重んずる限り有季の俳句はないがしろに出来ぬ、無季の俳句は新しい分野の開拓である」(復本・前掲書)。
 そして、誓子氏は、この掲出の五句目の句については、「俳句研究」(昭和三十八年十・十一月合併号)において次のような鑑賞文を寄せている。
「それは見える眼の眼鏡の玉と見えぬ眼の眼鏡の玉との衝撃だ。つまり見える眼と見えぬ眼との、完全と不完全との衝撃だ。見える眼鏡の玉はもとより拭いて曇りを去ったが、見えぬ方の眼鏡の玉も同じようにした。そのことから私は強い火花を感じとる。それは人間の肉体の不完全から由来するのだ。その不完全が完全と衝撃したからだ。とにかく、そういう衝撃があるからして、私はこの句が俳句的な構造を持っていると言ったのだ。そうしてそういう意味で私は、この季の無い俳句をよしとしたのだ(復本・前掲書)。
 これらの誓子氏の鑑賞視点について、復本一郎氏は、「芭蕉の『取合せ』論の流れを汲む『二物衝撃』論を視座に据えていたが、私(復本一郎)は、俳句史を専攻する立場から、誓子とは別に、『切れ』、そして芭蕉の目指した『新しみ』と『人を感動いたさせ候句』(浪化宛去来書簡)ということを選句の基準とした」(復本・前掲書)として、草城の無季俳句について、誓子氏とは別な視点での、その選句と鑑賞をしている。
 いずれにしても、草城は、そのデビュー当時から、それまで誰も手を染めなかった「エロティシズム」の世界とその世界の開拓の次に当時の「新興俳句」の旗手として全く未開拓の「無季俳句」に果敢に挑戦して、それぞれのその二分野において、「俳句革新の先駆者」(復本一郎氏の命名)であったということは、間違いないところであろう。そして、つくづく、復本一郎氏の視点からすると、芭蕉の「新しみ」を目指した俳人であったということを実感する。

(その八)

○ 冬ざれて枯野へつづく妻の手か
○ 炎天に黒き喪章の蝶とべり
○ 木々の濡れ肌におぼゆる端居かな
○ 煮ざかなに立秋の箸なまぐさき
○ 仰臥して四肢を炎暑に抑へらる
○ 薔薇色のあくびを一つ烏猫

 草城の第六句集『旦暮』よりの復本一郎氏の選句の五句である。この『旦暮』には、草城の、昭和二十年、二十一年、二十二年の作品が収められており、昭和二十四年に刊行された。草城のこの句集の前の句集は、昭和十三年に刊行された、主として、いわゆる「新興俳句」の作品群が収録されている第四句集『轉轍手』である。この第四句集から、いきなり第六句集に飛ぶのは、第五句集の草稿が、大平洋戦争末期の空襲によって焼失してしまったためであると指摘されている(復本・前掲書)。そして、この昭和十三年から終戦に至るまで、いわゆる「俳句弾圧事件」により、草城もまた俳壇より身を退いて、俳人・日野草城の創作活動は見ることができない(「俳句弾圧事件」と草城との関係は復本・前掲書に詳しい)。
 そして、復本一郎氏は、この草城の第六句集『旦暮』について次のような感想文を記述している。
「病が、病臥が、草城の俳句観に変更をもたらしたのである。病に至るまでの草城は、俳句の最前線を独歩していた。気概をもって独歩していた。それには、草城の豊かな才とともに、強靱な精神力を必要とした。いかなる批判にも耐えて、新天地を開拓せんとする強靱な精神力である。しかし、病は、病臥は、草城に心の平安を強いたのである。自足を強いたのである。これを悟りと言ってしまっていいのであろうか。草城にとっては、やはり無念であったと思う。病にさえならなければ、病臥さえしなければ、の思いにしばしば悩まされたことと思う。が、その中で、皮肉にも、草城の心に平安をもたらしたものは、俳句を作るという行為そのものだったのである。『新興』(『新しみ』)への関心が薄れるなかで、俳句を作るという、そのことへの関心は、臥床の日々を重ねるごとに大きくなっていったのではないかと思われる。その草城に与えられた啓示が、『俳句は諸人(もろびと)旦暮(あけくれ)の詩(うた)である』だったのである」(復本・前掲書)。
 ここにおいて、草城の俳句は完成の域に到達したということであろう。すなわち、「才の人・草城が、その才の赴くままに、より創作性の強い句を、自力的に志向していた」時を経て、「その才に頼ることなく、諸人の一人として、日常の旦け暮れに、日々の生きていることの証を綴るように、他力的に詠いあげる詩」に、そういう境地に至ったということであろう。

(その九)

○ 寒の闇煩悩とろりとろりと燃ゆ
○ 古妻のぐつすり睡(ね)たる足の裏
○ 高熱の鶴青空に漂へり
○ 春の蚊を孤閨の妻が打ちし音
○ 夏の闇高熱のわれ発光す
○ 手鏡にあふれんばかり夏のひげ
○ 裸婦の図を見てをりいのちおとろへし
○ 春の雨五慾の妻が祈念せり
○ 見えぬ眼の方の眼鏡の玉を拭く

 草城の最後の句集である第七句集『人生の午後』よりの復本一郎氏の選句の十句である。
これらの草城の『人生の午後』の句について、復本一郎氏は二様の次のような記述を残している。
「研ぎ澄まされた感性、そして洗練された言葉が紡ぎ出す『諸人(もろびと)旦暮(あけくれ)の詩(うた)』としての美の競演。さすが草城である。人々は、これらの作品に、病草城の実像を重ね合わせて、賛辞を惜しまなかった。事実、これらの佳句に、先に掲げた『旦暮』の佳句を加えれば、草城は、俳句史上に十分残り得るであろう。十分どころか、燦然として輝くと言っても、過言でもないかもしれない」。そして、これらの指摘に前後して、「山本健吉は、『人生の午後』を『才人草城が到達した至境』として評価しているが、草城は、その評価に甘んじてよいのであろうか。私は、先に述べたように、『人生の午後』の俳句世界を否定するものではない。評価することにも、やぶさかではない。が、『人生の午後』は、草城が病むことによって、病臥することによって、たまたまもたらされた俳句世界であったのである。その世界を評価するために『花氷』一巻を『廻り道』とすることには、何としても与(くみ)することができない。草城のために」(以上、復本・前掲書)。
 この復本一郎氏の、俳句に「エロティシズム」の世界(『花氷』・『青芝』・『昨日の花』の世界)や「無季」の俳句の可能性を探求し(『轉轍手』の世界)、俳句革新を遂げた「新しみ」の旗手としての俳人・日野草城に焦点を当て、ともすれば、晩年の「俳句は諸人旦暮の詩」とする世界を、病・草城、病臥の俳人・草城がたまたまもたらされた世界として、それを評価しながらも、より多く前者にウェートを置く姿勢は、「草城の草城らしさ」を強調する余り、山本健吉が指摘した「才人草城が到達した至境」としての晩年の「諸人旦暮の詩」を過小に評価することにもなりかねない。それと同時に、晩年の「俳句は諸人旦暮の詩」とする世界は、「病・草城、病臥の俳人・日野草城がたまたまもたらされた世界」ではなくして、「病・草城、病臥の俳人・日野草城なるが故に、到達し得た、まさに、それに到達することを運命付けられた至境の世界」と解すべきではなかろうか。その意味において、草城自身が述べている、次の言葉に注目したい。
「健康でありつづけてゐたら或は命の終るまで取り落したままで忘れてしまつたであらう
人間の重要な半分を、病気といふ一応不幸な動機によつて恵まれたわけです」(『眠れぬ夜のために』所収「俳句と病気と神と」、昭和二五年刊)。

(その十)

○ 淡雪や昼を灯して鏡店(みせ)    (『花氷』)
○ 日盛りの土に寂しやおのが影      同上
○ 風邪の子の枕辺にゐてものがたり    同上
○ わぎもこのはだのつめたき土用かな  (『青芝』)
○ うつしゑのうすきあばたや漱石忌    同上
○ きぬずれの音のしるけし冬座敷    (『昨日の花』)
○ 袖ぐちのあやなる鼓初かな       同上
○ かいつぶりさびしくなればくゝりけり  同上
○ 群れて待つ青春の眉鬱々と      (『轉轍手』)
○ クロイツェル・ソナタ西日が燬けてゐる 同上
○ 子のグリコ一つもらうて炎天下     同上
○ 春の夜の闇さへ重く病みにけり    (『旦暮』)
○ 桃史も亦日本軍閥に殺されたり     同上
○ 万緑に泰山木の花二つ         同上
○ ながながと骨が臥(ね)てゐる油照  (『人生の午後』) 「自照」との前書き
○ 妻の手の堅くなりゆくばかりなり    同上   「偕老二十年」との前書き
○ 仰臥して仰臥漫録の著者を弔ふ     同上  「子規五十年忌」との前書き
○ 秋の蠅口のほとりにとまりけり    (『銀』)
○ 仰向けの口中へ屠蘇たらさるる     同上   「おらが春」との前書き
○ 妻子を担ふ片眼片肺枯手足       同上   「草城頑張れ」との前書き

 日野草城の第一句集『草城句集(花氷)』から第七句集『人生の午後』とその遺句集『銀』からの二十句選である(これまでの掲出句は原則として除外)。こうして、その日野草城の全貌を垣間見たとき、つくづくと、「俳句革新」を遂げた「病床六尺」の人、正岡子規が連想されてくる。そして、いみじくも、日野草城も、その後半生は「病床六尺」の身となりながら、正岡子規が、それまでの連句の発句を、名実ともに、「連句」を切り捨て、「俳句」一色に塗りつぶすという「俳句革新」を遂げたと同じように、「俳句に創作性」を、そして、「エロティシズム」という「エロス」の世界を俳句に導入し、さらに、「有季俳句」とあわせ「無季俳句」の可能性を探求して、復本一郎氏をして、「俳句を変えた男」としいわしめた、いわゆる、子規のそれを一歩進めた、すなわち、「俳句革新」を遂行した俳人ということで、その名は、子規とともに、日本俳壇史上、その名をとどめることであろう。
 そして、この「俳句革新」を成し遂げた、子規と草城との両名が、どちらかというと、芭蕉よりも蕪村の世界に、より多く足を踏み入れていたということは、興味のそそられるところである。また、その草城の晩年の俳句観の「諸人(もろびと)旦暮(あけくれ)の詩(うた)」という境地と、その作品群は、その「エロス」や「無季」の俳句とあわせ、草城の創刊した「青玄」は廃刊となっても、今後も語り継がれていくことであろう。

水曜日, 12月 14, 2005

森澄雄小論・・・花眼のひと澄雄・・・



森 澄雄小論・・・花眼のひと澄雄・・・

  澄雄の第二句集『花眼』(昭和二十九~四十二年)は、つとに名声を博した句集である。そこで、澄雄は、“花眼”とは、中国語で“酔眼または老眼”の意であるが、“年齢の豊膩(ほうじ)と孤独の中に 自然の美しさとともに 人生の妖しい彩りの美しさが見えてくる眼”でもあるとし、この句集で、“人間は生きている時間のうちに 何を見、何を喜び、何を悲しんできたのか、いわば人間の生の時間を見つめようとした”と記している。
  澄雄の俳句は、一見すると、非常に平明で、かつ淡く、流れるような美しい調べをもっているが、その底流にあるのは、非常に洞察力に優れた、味わいの深い、哲学的な、人間の根源にかかわることを、その主題としている、ということに気付いてくる。
  そして、その底流に流れているものは、けして、表面には出てこない。それは、やさやさしく、さりげなく、その対象物のタト形のみを、一句に仕立てているように詠み取れるのである。 ところが、その澄雄の俳句を、自分の言葉で翻訳して見ようと試みると、これは大変なことで、底の深い、したたかな強靭性をそなえた、ある意味で形而上学的なことを内容としている、ということを思い知るのである。
  澄雄は、その第一句集『雪櫟』(昭和十五~二十年)のあとがきで、“その問俳壇では俳句における社会性の論議が喧しかったが、黙穀して、自らの生活に執した”と記している。昭和二十八年の、中村草田男の『銀河依然』の践文によってひきおこされた、この戦後の大事件ともいえる“社会性俳句論争”に関して、この毅然たる態度は、澄雄の真骨頂を示すものとして、その俳句を理解する上においても、重要なことを含んでいると、特筆に値するものと思われる。 かつて、澄雄は、“語りうる悲しみから語りえざる悲しみ”ということを語っている。これらのことについて、“花眼の眼を持つ澄雄”を、その俳句とその俳論から、澄雄の、その根底にあるものを、探ってみたい。

     俳句における抒情性(その一)

 澄雄に 「抒情と造型」という俳論がある。その中で、「自然を題材にしょうが、日常的現実を詠もうが、社会的現実を詠もうが、そこにはきびしい詩精神の働きが要求される。抒情の造型もおそらくそのうちにあろう」と、澄雄は言っている。
 俳人は、一般に抒情(特に短歌的な抒情)というのを、排斥する、排斥したい、と常に考えているところがある。澄雄の「短歌と俳句との間——『戦後新鋭百人集』を読んで」という俳論は、めんめんと、このことを主題にし、このことを論じている。
 しかし、短歌にしろ、俳句にしろ、一番の根底にあるものは、抒情そのものではないかと、常々、思っており、この抒情を、みそもくそも、切り捨てるという風潮に 何か悲しい気持ちすら抱くものの一人である。そして、澄雄が、排斥してやまない、“しめっぽい精神的風土、としての“`抒情的なもの”、それすらも、何故、許容することができないのかと、大変にいぶかしむものの一人である。いや、それだけではなく、澄雄の俳句というのは、抒情そのものではないのかと、澄雄には、奇異に思われるかもしれないが、そう感じられてならないのである。
 そして、それは、澄雄のいう、“詩精神”の原型として、抒情があると、理解するからにほかならない。そして、その“詩精神の原型としての抒情”が、詠嘆的になろうが、懐旧的になろうが、メローディアスな流露になろうが、それは、“俳句における抒情性、ということおいて、本質的なことがらではない、そのように理解したいのである。要は、その抒情の発露が、鍛練につみかされた、“詩精神”に裏打ちされたものであるかどうか、この一点にこそ、俳句創作上の`“`真の抒情”の存否を問う、という方向で理解をしたいのである。この意味において、わたしは、澄雄の多くの作品に、この、鍛練に裏打ちされたところの、“詩精神の原型としての抒情”をその根底としていると理解をしたいのである。

○  冬の日の海に没る音をきかんとす

 澄雄の、処女句集「雪櫟」の冒頭の句である。実に美しい句である.実に気品のある句である。実に静謐な句である。実にメローディアスな句である。真に格調の高い句である。
 そして、こういう作品は、それが、短詩であれ、短歌であれ、はたまた、俳句であれ、永遠に 一個の文学作品として、語りつがれていく、そういう生命力を持っている、と、そういうことを、教えてくれている、と、理解したいのである。
 そして、このような“生命力”を、この句に与えたものは、まさしく、鍛錬に裏打ちされたところの澄雄の“詩精神の原型としての抒情”にほかならないと、理解したいのである。
 そして、これは、まさしく、澄雄の俳句なのである。短歌でもなければ、短詩でもない、まぎれもなく、澄雄の俳句なのである。そして、それは、澄准は、詩を作ろうとしているのではなく、短歌を作ろうとしているのでもなく、まさしく、俳句を作ろうとしている、俳句という、永い伝統に裏打ちされた、俳句というジャンルで、澄雄の.“詩精神の原型としての抒情”を詠いあげているのである。
 その作品が、短詩であるのか、短歌であるのか、川柳であるのかは、それぞれの、そのジャンルの、永い間に蓄積されているところ、“きまり”なり、“精神”なり、“型”なり、それらに対する作者の意識の度合いと、それを受け止める、詠み感受性の度合いによって、伝達される、そういうものと、理解したいのである。
 この澄雄の作品は、五七五という定型、“冬の日”という季語、そして、芭蕉以来の俳句精神というものが宿っている。

○ 暑き日を海にいれたり最上川   芭蕉『奥の細道』(泊船集)

 この芭蕉の精神が、澄雄の句に 色濃く宿っている。そして、その芭蕉の世界の中で、澄雄は創作している。そして、その詩精神が、詠む人の心を強く打つ。そして、この詩精神の根底にあるのは、“物に傾き、物とともに揺らぐ、蕉風的な抒情の詩精神にほかならない”と、理解したいのである。

     俳句における抒情性(その二)

澄雄に「格調と伝統・・・あるいは憂愁と含差」という俳論がある。ここで澄雄は、現代の俳句を創作する人達には「物に傾き、物とともに揺らぐ浸透性が足りない」と指摘している。
  この「物に傾く.物とともに揺らぐ」とは、“人間として、いいようのない、喜びとか、悲しみとか、おかしさとか、はずかしさとか”といった心の動きが、一木一草にいたるまで、痛いように 手にとるように 共感的に伝わってきて、いてもたってもいられないような、そういう心情に近いものを指しているように思われる。それは、“驚き”にも似た、名状しがたき、心の動きともいえるものなのかもしれない。
  そして、この名状しがたき。心の動きともいえるものは、実は“詩精神の原型としての抒情”と一体となっていて、それは、密接不可分のものといえるものではなかろうか。このような意味で、短詩型文学の一ジャンルである俳句にあっても、最も、根底にあり、最も重要なファクターは、この“詩精神の原型としての抒情” そのものであると指摘することは、飛躍した指摘になるのであろうか。
  それは、決して飛躍した指摘ではなかろう。それが正しい見方であると確信する。そして、その見方は、澄雄が嫌うところの、あまりにも、ぎらぎらしすぎる“主観的情感や情緒そのものの抒情”とは、近いところにはあるが、それとは、異質な、澄雄のいうところの、“人間の尾(ぴ)てい骨”のような、その不可思議な、名状しがたき、人間の心の奥底の襞から発信するところの抒情であり、澄雄の抒情観の一面を、強調しているにすぎないといいたいのである。
  そして、澄雄の俳句の中に 非常に 洗練された形での、この“俳句における抒情”の一典型を見るのである。それは、“淡白な、押し殺した、自己陶酔の稀薄な、(比較的乾いた、
どちらかというと、男性的な)、そして、感情をあらわに述べず、物に即して感情を語らしめるような抒情”と、言葉をかえていうことが出来るのかもしれない。

○ かんがへのまとまらぬゆゑ雪をまつ              
○ ちちろ虫師に母ゐます健やかに
○ 紅梅に牛つながれて泪ぐむ
○ 力抜けゆく枯草にふる雪みれば
○ 家に時計なければ雪はとめどもなし
○ 除夜の妻白鳥のごと湯浴みおり
○ 犬吠えて峡は雪山すぐ応ふ    

 澄雄の、処女句集『雪櫟』からのいくつかの句である。ひとつの“澄雄節”が、ここにある。そして、これが、まさしく 澄雄の俳句なのである。俳句という、永い伝統に裏打ちされた、俳句というジャンルで、澄雄は、嘘偽らざる“詩精神の原型としての抒情”を詠いあげている。
  そして、この詩精神の根底にあるのは、“`物に傾き、物とともに揺らぐ蕉風的な(澄雄の)抒情精神にほかならない。” 
“かんがえのまとまらぬ”’ことと、どうして、“雪をまつ”が結合するのか。、どうして、“紅梅につながれて”、“牛が泪ぐむのか”。どうして“時計がないこと”と“とめどもなく降る雪”とが結びつくのか、これは、澄堆の、最も根底に位置する‘`詩精神の原型としての抒情”がなせる技なのであろう。“ちちろ虫”に “師や母の健やか”を願う心の動き、‘`枯れ草に降る雪“ を見て、自己の虚脱感を感じる心の襞、“除夜の妻'’と“`白鳥”、“犬の遠吠”と‘峡は雪山“との連想、ここに 澄雄の、最も根底に位置する“詩精神の原型としての抒情”が存在するのであろう。

       俳句における抒情性(その三)

澄雄の「格調と伝統・・・あるいは憂愁と含差」という俳論の中で、飯田蛇笏に関しての次のような記述がある。

○ 地雲してこずゑにとほく春鶫 (蛇笏)

・・・蛇笏句集をひもとけば、これほどの句はいくらでも見つかろう。だが、これらの句にも、「渓流をへだててやや嶮しくそそりたってゐる後山に、朝な夕な、濃いにせよ淡いにせよあいたい(注・原文漢字)する雲霧を眺めて、少しも 美しいとはおもはないけれども、眤(じ)つと眺めてゐると、何かものがなしく、むせび泣きたいやうな気持になって、われとわが身のありかたをこよなく愛しまうととするのである」という、その憂愁をいだいて、自らと家郷の風物にちかぢかと息をよせていろ、そうする者のみが発見できる美しさがある。・・・
そして、澄雄は、見事な批評をする。“・・・孤独という抽象的な言葉には、もはや蛇笏のいう憂愁という言葉のもつ沈痛な心の地色はない。・・・また、蛇笏のここにいう憂愁とは、家郷山盧(ろ)に青春の一切の希望を埋めたという過去への痛恨でももはやないであろう。まして、たんなる現実生活の憂愁でもない。いってみれば晩年とともに深まる、生それ自体の、いいようのない憂愁、そうしたずっしりとした重みでそれは響いてくる。さらにそれを作家としての面に極限していえば、その憂愁の根にひそむものは、「吾れ王言其出でずして死せんか。哀しい哉」という嘆きではなかったか。”
澄雄は、続けていう。“・・・人は他人(ひと〉の憂愁には容易に気づかぬ.僕もまた作家としても名声すでに確立し、その簡勁菅古くかんけいそうこ)の格調をもつ幾多のこ  の作家の作品を読みながら、迂潤(うかつ)にもその憂愁を推し測ったことは無かった。だがひるがえって己にその憂愁があったか。なるほど、僕らは憂愁という言葉をほとんど使わなくなった。憂愁という言葉の与える語感のなかに、ぼくらは一種の甘さをかぐせいもあろう。また憂愁という言葉には明治の自然主義文学 ― それ自体一種のロンチシズムを伴う ― を経過した、いかにもこの作家らしいにおいをかがないわけではない。・・・”
ながながと、澄雄の、飯田蛇笏に対する、思いいれの強い文章を引用したが、ここにいう、蛇笏の“何かものがなしく、むせび泣きたいやうな気持、― われとわが身のありかたをこよなく愛しまうとする〈気持)― ”それは、まさしく、‘`詩精神の原型としての抒情”そのものではないのか。‘`晩年とともに深まる、生それ自体の、いいようのない憂愁”とは、それは、まさしく、“澄雄のいうところの、人間の尾〈ぴ)てい骨のような、その不可思議な、名状しがたき、人間の心のひだから発信するところの抒情”そのものではないのか。“だがひるがえって己にその憂愁があったか。なるほど、僕らは憂愁という言葉をほとんど使わなくなった。憂愁という言葉の与える語感のな
かに、ぼくらは一種の甘さをかぐせいもあろう”という、この憂愁は、まさしく、“抒情”という言葉に置き換えられる、そういうものではなかろうか。

○  手をたれて春鳥をきく山の上
○  曼珠沙華みな山に消え夜の雨
○  年われを過ぎつつしばしとどまれり
○  山越えてみを雲ゆくや西行忌,
○  紀の国の黒き夜けさは鷹を見き
○  しぐれつつ我を過ぎおりわれのこゑ
○  さきがけのまぼろしの朴一つ咲く
○  白をもて一つ年とる浮鴎

 これらの澄雄の句は、いずれも、その第三句集「浮鴎」に収められている。見事な佳句である。見事な“澄雄節”である。これらの句には、まさしく、澄雄自身のいうところの“「何かものがなしく、むせび泣きたいやうな気持になって、われとわが身のありかたをこよなく愛しまうととするのである」という、その憂愁をいだいて、自らと家郷の風物にちかぢかと息をよせている、そうする者のみが発見できる美しさがある。”

      語りえざる悲しみ

 澄雄の「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)という俳論の副題は、「語りえざる悲しみ」とある。
ここで、澄雄は、「現代俳句は、作品も評論も.語りうるものを、あまりにあからさまに語りすぎるということだ。なぜ、自ら、『我を拊でて語り能わざる』ものに堪えようとしないのか。読者もまた、論理の筋を追って一つの概念に達するより、文学が人間を根底とするものなら、語ろうとして語りがたい作家の精神の表情を見ようとしないのか」という。
かって、澄雄は、「格調と伝統 一 あるいは憂愁と含羞」という俳論の中で、飯田蛇笏に関して、「・・・また、蛇笏のここにいう憂愁とは、家郷山廬(ろ)に青春の一切の希望を埋めたという過去への痛恨でももはやないであろう。まして、たんなる現実生活の憂愁でもない。いってみれば晩年とともに深まる、生それ自体の、いいようのない憂愁、そうしたずっしりとした重みでそれは響いてくる。さらにそれを作家としての面に極限していえば、その憂愁の根にひそむものは、『吾れ王言其出でずして死せんか。哀しい哉』という嘆きではなかったか」という。
この尭臣の「懐悲」という漢詩の一節の「我を拊でて語り能わざる」ということと、孔子の「大戴冠礼記(だたいちいき)」の巻頭王言篇にあるという「吾れ王言其出でずして死せんか。哀しい哉」という、この二つの言葉は、およそ、俳句といわず、すべての創作するもの(ここでは、正確ではないが、『詩人』という言葉で置き換えておく)の、もっとも大切なことをいっていると、これ以上の言葉はなかろうと、ただ、ただ、澄雄の眼識に恐れいるばかりなのである。
およそ、詩人にとって、その果てしない戦いは、ここでいう「王言」、すなわち、澄雄のいうところの「`生涯におけるもっとも重要な言葉」の模索といってよいのであろう。
そして、その模索は、その挑戦は、語ろうとして語りがたい「我を拊でて語り能わざる」という混沌とした世界の内に存するであろう。この混沌としたカオスの中で、詩人は「王言」を模索しつづける。それは、悲しき定めといえようか。それは、かなしき性といえようか。それは、悲しき職業といえようか。
 ひるがえって、蛇笏の憂愁・・・、単なる現実生活の憂愁からほど遠い、・・・、晩年とともに深まる、生それ自体の、いいようのない憂愁、そうしたずっしりとした重みの憂愁の、それが形をなしたるもの、それは、いわば、そのときどきの「王言」の定立といえるものではなかろうか。
 そして、それでもなお、憂愁はその影を大きくして、詩人の心をかきたてる。それは、語ろうとして語りがたい「我を拊でて語り能わざる」という、人間の悲しい性が、そうさせるのであろうか。

○ 蜀葵(たちあおい)人の世を過ぎしごとく過ぐ

 澄雄の第二句集『花眼』の中の澄雄の代表作の一つである。この句に関して、平井照敏の詩がある。

「澄雄の見た花が 紅であれ白であれ紫であれ 雨期をのみ盛りとする花がひとつの翳りであったことはまちがいはない 澄雄の翳りがこの翳りにとけこんで そしてはなれはなれて澄雄がどのように変貌していったか ぼくはただこの蜀葵の変貌を通じて 翳りの国の澄雄の貌を感じとるほかはない その貌はぼくらにありありと見える だがどうしてもことばにならない」

 「だがどうしてもことばにならない」、・・・、この平井照敏の呟き、この呟きこそ、澄雄の「語りうる悲しみから語りえざる悲しみ」に対しての呟きであり、その澄雄のいう「我を拊でて語り能わざる」ものへの問い掛けでもあろう。そして、それはまた、その「吾れ王言其出でずして死せんか。哀しい哉」という、澄雄の、その「王言」の定立に寄せる、平井照敏の呟きでもあろう。

    鞘(さや)のごときもの

 澄雄の「「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)という俳論の中に、安藤一郎の「鞘(さや)
のごときもの」という詩と楸邨のその詩に関する感想並びにその詩に関しての芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」との感想とが記述されている。

      鞘(さや)のごときもの   安藤一郎
 ・・・・                                    
      ぼくたちの存在を確証して
      そこから  脱出する勇気と
      そこまで到達する安らぎの
      両方を  ともどもに与えてくれる
      信仰も 母国語も
      いっしょになっている
      鞘のごときものは
      ついに  ぼくたちには無縁なのであろうか
       「鞘のごときもの」について  加藤轍邨・・・・

 私はとにかくこの詩を読みながら、芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句が思いだされ、もう一度その世界をふりかえってみたくてしょうがなくなったのであった。
 それは何故だったろう。恐らく、この「鞘のごときもの」のような収結へと、脱出へとの同時にはたらく力関係を通して芭蕉の「夢は枯野をかけめぐる」の世界が呼びかえされたためではないかと思う。
 この芭蕉の不安のめざめてくる力関係は、こう言いなおしてもよいのではなかろうか。一つは人生のかたわらにほっと息をぬいた安心の場と、あくまで人生の真中で汗にまみれようとするけわしさとの相剋であると。「かけめぐる」には、究極の安定を求める、かぎりない不安定が、声調に滲み出しているような感がある。
 私はつくづく思う。俳人の最大の不幸の一つは、固定したできあいの「鞘」が用意されていることではないか。それは感受の仕方にも、詩としての外型にもそこへすっぽりはまりこんで、ぬくぬくとしていられる「鞘」である。・・・・
 俳句の「定型」も、・・・・ 「鞘のごときもの」として、無限に追いもとめられなければならない。「鞘のごときもの」は逃げ場ではない。「鞘のごときものは、ついにぼくたちには無縁なのであろうか」という安藤さんの嘆声に似た呟きは、私には、安藤さんがどうしてもあきらめないで、無限に求め、執していく、「不易」の場のように聞きとめられるのだが。

 澄雄は、師・楸邨のこの感慨に、これ以上「いうべき言葉を知らず」とし、重ねて、「『ぼくたちの存在を確証して、そこから陀出する勇気とそこまで到達する安らぎの、両方ともどもに与えてくれる』もの、あらゆる矛盾をふくみながら、あるひそやかにして切実な願い、― いわばこの詩自体にあるもの、『鞘のごときもの』あるいは『鞘のごときもの』への渇望は、俳句にならないものか」と、しみじみと述懐している。

○ 声出さねば胡桃になるぞ霜夜にて   楸邨

  楸邨先生より墨筆長文の書簡を頂く。末尾に
  「声出さねば胡桃になるぞ霜夜にて」の一句
  あり
○ 胡桃割つてみつみつの声霜夜にて   澄雄


      華やぎと蕭条たる孤独

 澄雄は、「病中花眼妄想」という俳論の中で、執鋤に 芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」について、追い求め続ける。それは、凄まじいものである。
そこで、楸邨の「『鞘のごときもの』について」で論究されている芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」(「蕭条たる枯野」観)についての感慨をも、切り捨てようとしている。それは、澄雄の「無限に求め、執していく『不易』の姿」を見る思いで、読むものに戸惑いすら与える。まさに「花眼妄想」という感じすら抱かせるものである。

澄雄は、能勢朝次、加藤楸邨、岡崎義恵、高橋庄次、山本健吉、安藤次男らの、芭蕉の、この「蕭条たる枯野」観について言及する。さらに 古典の、其角の『枯尾花』、支考の『笈日記』、蕪村の『夢中吟』らについても、深く考究する。そして、次のような澄雄独自の「蕭条たる枯野」観を樹立する。

「 芭蕉は己の悲寥の孤独をかみしめながら、一瞬はるばるとしたもののはなやぎを見ていなかったか。このはるばるとしたもののはなやぎによって、この一句の悲寥の思いはいよいよ深まると言ってよい。「旅に病んで」も、 いはぱそうした-句ではなかったか。「旅に病ん」だ心もとなさと、末期の自覚のなかに「夢は枯野を駈けめぐる伝その夢と幻覚の蕩揺のなかにあわただしった己の苦闘の生涯もかけめぐる。だが、いまは素直によしとして、『夢』も『枯野』も、あるはるばるとしたはなやぎとして芭蕉の目にうつる。・・・『夢心』と座五に置いて改革を試みた芭蕉の心のくばりにも、たんに作品としての安定をはかるほかに なにかこのはるかなはなやぎの思いが動いていたのではないか。そう読んで、詠みみ終わった芭蕉の平安な呼吸が僕にはきこえる。これは、病中花眼の、あえない希求的妄想であろうか。」

 澄雄の俳句が、一見して、みずみずしい、唯美的な匂いすら、ひとに感じさせるのは、この「はなやぎ」ということを、その俳句の底流に秘めているからではなかろうか。「このはるばるとしたもののはなやざによって、この一句の悲寥の思いはいよいよ深まると言ってよい」という、この「華やぎと蕭条たる孤独」ということは、実は、澄雄の俳句の特色といってもよいのではなかろうか。
そして、俳句を創作するものにとって、この「華やぎと蕭条たる孤独」ということは、もっともっと意識すべきことがらではなかろうか。

○ 七輪あふぐ女の尻を枯野に向け       (雪櫟)
○ 目ひらきて夢は枯野を阿修羅神       (花眼)
○ 年の夜の夢に入りたる山の雨        (浮鴎)
○ 旅は日を急がぬごとく山法師        (鯉素)
○ 赤らみてもう安心(あんじん)の青木の実(満方)
○ 発心の紅さしそめし青木の実      〈空艪)

昭和二十八年刊行の『雪櫟』から、昭和五十八年刊行の『空艪』まで、澄雄の、詩人の魂の根底にあり続けたもの、それは、「華やぎと蕭条たる孤独」ではなかったのか。澄雄は、けして、声を大にして、それを言はない。それは.人間の「憂愁と含羞」ということに対して、心底、「創作するものの〈詩人の〉最も根源的なもの」と感じとっているからにほからない。

 澄雄の俳句は、平明で、淡白で、唯美的で、何の変哲もない、メローディアス的な句と理解されがちであるが、とうして、どうして、底の深い、したたかな、形而上学的な(時間や空間といったことをも内容としている)俳譜性をも漂わしている、大変に個性的な、したたかな強靭性をかねそなえた、現代俳句の一典型といえる、そういうものと、私には思われてならない。


      花眼三部作・・・ほろびゆくものを見据える・・・

 澄雄には、「『花眼』について」(昭和三八・二)、「病中花眼妄想」(昭和三八・七、八)そして「花眼独断」(昭和三九・四)という花眼三部作の俳論がある。
 そして、昭和四十四年に刊行された、その第二句集『花眼』(昭和二十九~四十二)は、現俳壇の重鎮と目される著者の創作者としての境地を確立した句集として、澄雄にとっては特筆されるべき句集といってもよいであろう。
 澄雄の「花眼」とは、中国語の「華眼〈ホワエン〉」から由来し、「酔眼または老眼」の意であり、「年齢の豊膩(ほうじ)と孤独の中に、自然の美しさとともに、人生の妖しい彩りの美しさが見えてくる眼」でもあるとしている。
 この句集で、澄雄は、「人間は生きている時間のうちに、何を見、何を喜び、何を悲しんできたのか、いはぱ人間の生の時間を見つめようとした」と記している。
 澄雄の俳句は、一見すると、非常に平明で、かつ淡く、流れるような美しい調べをもっているが、その底流にあるのは、非常に洞察力に優れた、味わいの深い、哲学的な、形而上学的な(時間と空間などを内容としている)、人間の根源にかかわることを、その主題としている、ということに気付いてくる。
 そして、その底流に流れているものは、けして、表面には出てこない。それは、やざやさしく、さりげなく、その対象物の外形のみを、俳句にしていると読み取れるのであるが、それは、語ろうとして語りがたい、人間の言いようのない「憂愁と含差」ということを、創作者(詩人)の根源的なものと感じとっているからにほかならない。

○  父死ぬか百日紅も古びたり   (『花眼』― 優曇華 ― )
○  優曇華や父死なば手紙もう書けず( 〃  ―  〃  ― )
○  父死後のむらさきの木橦何の意ぞ ( 〃 ―  〃  ― )
○  父死後や面影も死に桃咲くか  ( 〃 ―  花杏  ― )
○  桐咲くや父死後のわが遠目癖  ( 〃 ― 〃 ― )
○  青天の辛夷や墓のにおひする  〈 〃 ― 綿雪 ― )
○  朴の花父母の写真の父は死にき ( 〃 ― 薔薇の季 ― )
○  父の遺影ありてくつろぐ若葉の夜( 〃 ―  〃   ―  )

 かって、澄雄は、「昭和三十年代後半、自ら花眼(老眼)の年齢に達するとともに 三十八年父の死に際会した。戦場で多くの戦友の死に直面したが、身近に人間の死という実感で立ち会ったのは初めてであった。その意味で、人生にとっても、従って私の俳句に対する考え方の上でも影響するところ、まことに大きかった」と述べてる。
 続けて、「この期間、・・・人間は生きている間に 何を見、何を喜び、何を悲しんできたのか、いはば人間の生の時間を見つめようとしたからであった。その思いを、俳句の単なる技術論ではなく、俳句と人生の関わりとして書いたのが、花眼を冠する幾篇かの随想的評論である。それらは、たとえば『花眼について』では悼亡詩、『病中花眼妄想』は、芭蕉の死、そして『花眼独断」では父の死を、というふうに死に関するものが多いが、花眼の意図したものは、死をそこにおいて、むしろ、生のよろしさであった」と言っている。

「花眼の意図したものは、死をそこにおいて、むしろ、生のよろしさであった」・・・、「生の賛歌は、死という厳粛なことと対比して、はじめて、それが浮き彫りにされる」・・・、これが、花眼三部作をとおして、澄雄が.揮身の力をこめて、主張したかったものではなかろうか。

「華やぎと蕭条たる孤独」・・・、この両極端にあるものの、その融合、・・・、それと同じように、「ほろびゆくものを見据えて、そこに生の賛歌を発見する」・・・、これが、花眼三部作をとおして、澄雄が、探求し続けたものではなかろうか。


      漂泊の魂 ・・・ 旅人の賦 ・・・

○ 水飲んで湖国の寒さひろがりぬ  ( 浮鴎 ・・・湖国 ・・・ 昭和四七 )
○ 秋の淡海かすみ誰にもたよりせず (    〃  〃      〃    )
○ 雁の数渡りて空に水尾もなし (     〃  〃     〃    )
○ たまのをの花を消したる湖のいろ(   〃  〃      〃   )
○ 稲秋の星を低くし湖の国    (   〃   〃     〃    )
○ 湖に陽のひかりをつめて冬に入る (    〃  〃      〃    )
○ 白をもて一つ年とる浮鴎    〈    〃  〃     〃    )

「子規の近代は、芭蕉のもっていた無常も造化も切り捨てたが、それはそれとしていいとしても、現代俳句は未だそれに代わる大きな思想も哲学ももちえていないのではないか。ことに戦後の俳句は自我の定着という方向にその新しさと鋭さを増したが、この『行春を近江の人とおしみける』の芭蕉のおおらかで豊かな呼吸を失ってきたこともまた事実であろう。
ぼくは度重なる近江の旅の間、この行く春を惜しんだ芭蕉の一句を放さず持ち歩き、また『去来抄』の『湖水朦朧として春を惜しむ便有ぺし』の-句を呪文のように胸につぶやいていた。いはば、この芭蕉がもつ、やさしくしかもはるかなものをかかえこんだその豊かなを呼吸を、もう一度自分の作品の呼吸として呼び込んでみたかったからだ。」

 これは、澄雄の、昭和五十年の「芭蕉の近江」の一節である。澄雄は、昭和四十四年に、第二句集『花眼』を刊行して以来、「`昨年句集『花眼』を出して『花眼』の仕事に一段落をつけた。以後句は一向に出来ぬ。人間の死につながる生の時間を意識した花眼の暗い空洞をそこに措いて、新しくたたらを踏むように潤達に山河の空間にでてみたい思いもあるが、いましばらく口をつぐんで、自らの予望を秋空流れる白雲にのせてながめておきたい」と、しみじみと独白している。
 そして、それまでの、「『「華やぎと蕭条たる孤独」・・・、この両極端にあるものの、その融合、・・・、それと同じように、『ほろびゆくものを見据えて、そこに生の賛歌を発見する』というような、人間の生々流転という、生きざま、死にざまというような意識、あるいは、無限の時間というような主題」を脱却して、それを育む、「その生の空間、その風土というようなこと、その自然の豊饒さということ、一木一草ということ、その雪月花の在り様というようなこと、その人間の在り様の空間のひろがり・・・」などに、澄雄の目は向いていくのである。
ここに、澄雄は、芭蕉の近江を、心の故郷と定め.ここに 漂泊の魂を、さまよえる旅人の賦を詠うことになる。すなわち、第三句集『浮鴎』の誕生である。

「『秋の淡海かすみ誰にもたよりせず』、四十七年作.この夏、ソ連中央アジアのシルクロードの町を歩く旅をしたが、その旅の一夜、静かな床上の心に『行春を近江の人とおしみける』の一節が思い浮かび、深々と胸を打った。打ったのは、日本の詩歌の伝統をつつみ、写実を超えてて、琵琶湖をかかえる近江の風土と人間をつつむ、そのはるかな大きな呼吸であろう。以来、この芭蕉の近江にひかれて、何回なく淡海(琵琶湖)への旅を重ねているが、これはソ連から帰って直後の作。
・・・ 堅田から大津に出て、はじめて義仲寺に詣で義仲と芭蕉の墓に線香を供えて、あるしんとした心の静まりを覚えながら、その帰りあの小さな電車の吊革を握ってゆられている時、ふうっと、胸から咳きがのぼるように、この一句が浮かんで、やや心の飢えを終息させる思いが在った。・・・ 」

 これは、澄雄の自解である。
 澄雄の俳句には、いいようのない漂泊感がただよっているのだが、それは、無限に求め、執していく、「不易」の澄雄の姿勢に由来すると理解できこととあわせ、近江の人、芭蕉を、心の故郷と定めていることに、より多く由来しているからと理解することも、甚だ容易なことであろう。


       俳句における虚と実

俳句といわず、一般に詩歌を創作するうえにおいて、真実あるいは事実ということと嘘あるいは虚構ということとの関連について、一度は検討しておくべき課題なのかもしれない。
澄雄の初期の俳論「石田波郷論一批評と戯作」の中で、「`芭蕉は『虚に居て実を行うべし。実に居て虚を行うべからず』とはっきり心得ていたのだ。 一本の所伝によれば『実に居て虚にあそぶことはかたし』とあるが、これは 僕を信じさせるに足りぬ」との記述がある。
また、山本健吉の「虚構の衰退」の「・・・本人が生の希望を棄てなかった時、俳句は死を覚悟している。実生活より作品の方がいっそう真実を貫いている。生活は俳句に追いつかないのです」との、俳人で健吉の妻の石橋秀野に関する記述がある。
澄雄は、この俳論をとおして何を訴えたかったのであろうか.この解答は「去来抄」の次の一筋にあるような気がする。

「  行く春を近江の人と惜しみけり 

  先師曰く、尚白が難に 『近江』は『丹波』にも、『行く春』は『行く歳』にもふるべし、と言へり。汝いかが聞きはべるや。去来曰く、尚白が難当たらず。湖水朦朧として、春を惜しむにたよりあるべし。殊に今日の上にはべる、と申す。先師曰く、しかり。古人もこの国に春を愛すること、をさをさ都に劣らざるものを。去来曰く、この一言、心に徹す。行く歳.近江 にゐたまはぱ、いかでこの感ましまさん。行く春、丹波にいまさば、もとよりこの情浮かぶまじ。風光の人を感動せしむること.真なるかな、と申す。 先師曰く、汝は去来、ともに風雅を語るべきものなり。とことさらに悦びたまひけり。 」

この芭蕉と去来との解は、さまざまにいわれるけれども、澄雄の「石田波郷論・・・批評と戯作」の問題意識で考えると、次のようなことがいえるのではなかろうか。

(一)それぞれの土地の風光にはそれぞれの固有の生命というものがあり、その「風光の真」、それをとらえることが、創作者にとって一番肝要なことである。
(二)そして、研ぎすまされた心をもって、物の本情に肉薄する。そして、本当の本情いうものに到達したならば、それは普遍性を帯びてくる。
(三)創作する上において、真実と虚構とは、表裏一体をなすものであり、生活する上での事実の背後に その事実にあらざる、その意味で虚構の、真の真実(本情.本然)が存在し、それを把握することが、創作者の任務である。
(四)その真の真実に根ざした作品は、普遍性と同時に 事実としては見ることのできない、その虚構としての、生命を持つようになり、その創作者を離れて、永遠に生きながられることになる。

 こんなことを、その「石田波郷論・・・批評と戯作」で澄雄は言いたかったのではなかろうか。さらにつけ加えるならば、昭和二十三年の「石田波郷論・・・批評と戯作」から十六年後の昭和三十九年の「花眼独断」での次の記述があげられるのではなかろうか。

「 芭蕉が『奥の細道』の冒頭に「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり、船の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を柄とす」と書き、船頭や馬方をあげたのは、単に旅の理念・・・虚・・・を書く文飾としてあげたのではない。彼らの代表とする庶民の実人生のなかに 詩人がつねに反省せねばならぬ重い現実の根があるからだ。そこからしか幻は生まぬ。 」

 このように 澄雄の問題意識といのは、一貫して、俳句の本質にかかわる深い洞察の上に、構築されているということを、痛いほどに思いしらされるのである。

○ 空也忌の木を伐る虚空抜けにけり  〈 鯉素 )


      俳句における季語

俳壇おいて、「有季論」と「無季論」との論争というのも、よく目にするもの一つである。澄雄の俳句は、伝統的な、有季の定型を重んずる俳句と位置づけられるのであろう。しかし、澄雄の俳句は、これらの、有季とか、定型を重んずるとか、というようなことは、澄雄の意識には、「とりたてて論争する必要もない」と感じとっていると理解できるのである。
澄雄の関心事は、澄雄自身言っているように「人間は生きている時間のうちに 何を見、何を喜び、何を悲しんできたのか」という、いわば、「人間の生死にかかる時間」とか「その人間の生死にかかる空間」とか、あるいは、「人生とは何か」とか「おのれにとって俳句とは何か」とか、深く、人間の根源にかかわること、その本質論や、形而上学的な命題などが、より多くその関心事なのだと受け取れるのである。
 したがって、その季語に対する認識も、独特のもがある。澄雄に 「季語・・・村野四郎・金子兜太両氏の論から・・・」と「日本人の季節感」という俳論がある。この二つの俳論から、澄雄の季語観について見ていくことにする。

「  こがらしやゆくもかへるも犀の角   楸邨

・・・前衛俳句が多く独創的な個的な場から、言葉の実質の上に現代詩風の象徴性を求めるのに対して、この『こがらしや』の表出は.初めからその独創的な視点を放棄し、目を俳譜共通の『あそび』の地点に解放している。季語の約束がもつ『虚』と、そのあそびの空間に 切実な楸邨のかなしびがのり、犀の無心の滑稽と一句の諧謔がひろがるといってよい。虚実皮膜のあいだの、これはひろやかな現代の風狂であろう。だが、このあそびも風狂の姿勢も前衛・伝統を問わず現代作家にとって、もはやたいへん危険な思想であろう。が、俳句がその独自の性格を失って、単なる現代詩の一片に近づくことを僕はひどく惧れるのである。(『季語・・・村野四郎・金子兜太両氏の論から・・・』) 」

「・・・山本健吉氏は、本稿と同じような『日本文学と季節感』の末尾の結論を次のように書く。『 歴史の進展が、少をくともわれわれの生活の表層においては、急激に、破壊的に行われている時代においては_人々の季節感は鈍磨してくるのは当然である。季節感に依存している現代俳句の存在が危うくなって来たのは、当然であろう。かって、暦日の循環だけがあって、歴史がなかった時代には、われわれの時間観念とは季節盛に外ならなかったが、今日のように、歴史の進展の激しく意識される時代には、時間観念は歴史意識のなかにあって季節感にはない。文学における季節感は、もはや今日の文学では、第一義的意味を失ってしまったのである。』
 私もそれを否定しない。俳句もまた季節感のみを弟一義とする文学ではなかったし、ない。だが、一人の作家の、ある『花眼』の年齢のなかで人生とともに、自然も季節もいよいよ深く美しいものになってきたとすれば、それはまた別の話である。(『 日本人の季筋感』) 」

 この「俳句がその独自の性格を失って、単なる現代詩の一片に近づくことを僕はひどく惧れるのである」という澄雄の指摘は、澄雄が、季語を大切にしたい、というように受け取って差し支えなかろう。
この「一人の作家の、ある『花眼』の年齢のなかで人生とともに、自然も季節もいよいよ深く美しいものになってきたとすれば、それはまた別の話である」という、この指摘は、彼は、季語の持つ季節感あるいは風土の質感といったものを大事に扱いたい、と独白しているように受け取って差し支えないであろう。
 澄雄は、「その人間の生死にかかる空間、即ち、風土や自然や宇宙」に限り無い関心をよせている。それは、固有の意味で、「純粋俳句」あるいは「諷詠・風景俳句」という範囑に 彼の俳句は位置づけられるのかもしれない。
 その彼が、それらの範疇の根源に位置するといえる季語を等閑視するはずがない。彼は、虚実皮膜のあいだに 季語を位置づける。彼は、「花眼」の人生とのかかわりにおいて季語を大切にしたいと念じる。しかし、彼は、断固として、杓子定規の形式的な季語重視の、いわゆる「なまくら有季俳句」は、本質的に受けつけることが出来ないという、そういう立場であろう。


   俳句の定型・リズム考(その一)

○ 炎天より 僧ひとり乗り 岐阜羽島
  entenyori souhitprinori gifuhashima  (六・七・五)

① 炎天や 僧ひとり乗り 岐阜羽島
  entenya souhitorinori gifuhashima (五・七・五)

② 炎天に  僧ひとり乗り  岐阜羽島
  entenni souhitorinori gifuhashima (五・七・五)

③ 僧ひとり 炎天に乗り   岐阜羽島
  souhitori entennori gifuhashima (五・七・五)

 この掲出句は、澄雄の第四句集『鯉素』の「六・七・五」の字余りの一句である。「五・七・五」の定型のリズムのものもさまざまに考えられる(①・②・③)。何故、澄雄はそれらのリズム考の中で、わざわざ「六・七・五」の字余りの破調の句にしたのであろうか。
 澄雄は、「俳句の定型」あるいは「俳句とリズム」ということに関して、まとまった論稿というものはものにしていない。しかし、その「「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)という俳論の中で、安藤一郎の「鞘(さや)のごときもの」という詩とその詩に関連しての芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」との感想の記述があり、そこで、「俳句の定型」ということに関連して、次のような澄雄の師の加藤楸邨の言葉を引用している。

「私はつくづく思う。俳人の最大の不幸の一つは、固定したできあいの『鞘』が用意されていることではないか。それは感受の仕方にも、詩としての外型にもそこへすっぽりはまりこんで、ぬくぬくとしていられる『鞘』である。」
「俳句の『定型』も、・・・・ 『鞘のごときもの』として、無限に追いもとめられなければならない。『鞘のごときもの』は逃げ場ではない。『鞘のごときものは、ついにぼくたちには無縁なのであろうか』という安藤さんの嘆声に似た呟きは、私には、安藤さんがどうしてもあきらめないで、無限に求め、執していく、『不易』の場のように聞きとめられるのだが。」
(加藤楸邨「鞘のごときもの」)

 この加藤楸邨の「鞘のごときもの」の「鞘」こそ、楸邨もそして澄雄も胸中に抱いている「俳句の定型」(そして「俳句のリズム」)観ともいえるものではなかろうか。これに関して、俳句実作者であると同時に、屈指の俳句評論家でもある平畑静塔は、「不実物語」という俳論の中で、要約すると次のような論理を展開している。

「俳句とは、自然や季節に対する挨拶といってよいが、十七字の俳句の定型こそが、挨拶の本義にかなう型であり、この定型は、実でない不実をその本体とする。その不実である定型をもって、いかに、実であるところの自然や季節を、それらとの挨拶を表現するか、それが俳句作家の仕事である。言葉をかえてするならば、俳人は歌手(または作詞家兼歌手)であり、曲譜は十七字型そのものである。この曲譜の不実が何故か人間の心をとらえて離さない。この曲譜をどう工夫して歌いこなすか、これが俳人の責務である。」
(平畑静塔「不実物語」)

 加藤楸邨・安藤一郎の「定型という鞘のごときもの」といい、平畑静塔の「定型の不実」といい、定型という摩訶不思議なものの実態に迫ろうとしているのだが、澄雄硫に換言するならば、「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)とでもなるのであろうか。それは、「俳句というのは、五・七・五の十七音字の定型そのものであり、その不実の定型のリズムが、その実である俳句の対象となるものの実態を探り当て、それを実としてではなく、不実の形で、虚構そのものとして、語り伝えてくれる」とでもなるのであろうか。
 冒頭の掲出句で、このことについて換言するならば、澄雄の眼に映ずる実としての「炎天」・「一人の僧」・「岐阜羽島」は、不実としての「俳句という十七音字の定型」(ときにその定型の破調)という不可思議なリズムによって、「宇宙の不可思議な空間という永遠性や、象徴性の世界」へと、この句に接する者を誘ってくれるとでもなるのであろうか。そして、また、堂々巡りになるが、どうも、「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)ということであり、その実感が、その定型の持つ不可思議さ、その定型の持つリズムの魔神(デーモン)が、澄雄をして、この「炎天より・ 僧ひとり乗り・ 岐阜羽島」(六・七・五)とを口伝させたという理解である。
 これらのことを、芭蕉語録ですると、「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」ということであり、そして、静塔流にいえば、澄雄という俳人は、その曲譜の十七字型の不実を知り尽くした、天性的なリズム感を持った一流の歌手(詠み手)ということになる。


   俳句の定型・リズム考(その二)

○ 日ざす 落葉松  昃る  落葉松  雪を敷き   (雪櫟)
  hizasu karamatsu kageru karamatsu yukiwoshiki
三   四     三   四      五     十九字 
○ ヒメジョオンが  さびしくなりぬ   白河越え    (花眼)
  himejyonga sabishikunarinu shirakawakoe
  六          七        六      十九字
○ ねむたくて  まぶしくて   欅     芽吹前     (花眼)
  nemutakute mabushikute keyaki mebukimae
五      五     三      五       十八字
○ 秋の  淡海  かすみ  誰にも     たよりせず    (浮鴎)
  akino oumi kasumi darenimo tayorisezu
三   三   三    四 五       十八字  
○ おんだ祭   をとこ  をみなは    昔より (鯉素)
  ondamatsuri  otoko ominawa mukashiyori
   六      三     四       五       十八字
○ よきこゑに   ささやきゐたり     古女かな      (游方)
  yokikoeni sasayakiitari   gomamekana
五        七           五       十七字
○ 法然寺   より  春の山       春の海       (空艪)
  hounenji yori harunoyama harunoumi
五     二   五          五       十七字

 澄雄の独立した俳論の中で、「俳句の音楽性」・「俳句のリズム」あるいは「俳句の定型」については、直接的には言及していないが、その実作の面においては、上記のとおりさまざまなリズムを持った破調の句などに遭遇する。澄雄は加藤楸邨を師とする「寒雷」系の俳人であるが、こと、その定型感覚によるメローディアス的な情緒的リズムの句作りにおいては、最右翼の俳人といってもよいであろう。そして、それは、芥川龍之介をして「嘆かひの俳諧師」ともまで称せられた昭和俳壇の異才・久保田万太郎、そして、「俳句は切字なり」と喝破して、俳句が本来有していた格調あるリズムを現代俳句に再現して、森澄雄をして、「石田波郷論」を書かしめ、「波郷俳句は彼の情感の頂点で発止(はっし)と打ち出される。まさに発止であって、その間いわゆる抒情という曖昧な要素をさしはさむ余裕はない」昭和俳壇の寵児・石田波郷との、両者の申し子のような存在とも位置づけられるであろう。
 即ち、一見、澄雄の定型観・リズム感というのは、極めて、万太郎的なメローディアス的な情緒的「澄雄節」のような装いをしているのだが、その内容は、澄雄をして、その石田波郷俳句を、「抒情という曖昧な要素をさしはさむ余裕がない」とて゜もいわしめるような、澄雄俳句それ自身が、「非抒情・非メローディアス」的な、その装いとはまるで異質なものを主題にし、その定型という器とそれに盛られた内容とが、いわゆる、「俳句における虚実論」と相俟って、その定型の不実さを突き抜けて、実の遙か後方の「実の本然」ともいうべきものを、澄雄俳句に接する者に察知させるような、極めて、装いとその中身とがアンバランスな、そんな本姓を兼ね備えているように思えるのである。
 さらに、その装いと中身とがアンバランスということと相俟って、澄雄俳句は久保田万太郎の「余情俳句」という世界をも排斥し、さらに、石田波郷が意識して駆使していた「切字の効果」の「余響」的な世界をも排斥して、独特の、いわば、静塔流にいえば、「定型という不実」に焦点を当て、「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)という胸中の不可思議さを模索しつつ、その胸中のものに一番適したものを探り当てるように、いわば、芭蕉語録の、「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」という下での作句とう趣なのである。



   虚空燦々・・・とらわれないこころ・・・

○ 大年の法然院に笹子ゐる  (鯉素)

 この掲出句については、澄雄の次のような自解がある。
「昭和五十一年作。法然は、源信・明恵・親鸞・道元とあげてみて、中でも僕のもっとも好きな名僧。たとえば『諸人伝説の詞』に伝える
  現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。
  ひじりで申されずは妻(め)をまうけて申すべし。
  妻をまうけて申されずばひじにて申すべし。
  住所にて申されずば流行して申すべし。
  流行して申されずば家に居て申すべし。
という法然の言葉は、早く青年の日から心に沁みたが、また乱世、貧しい庶民たちの素朴で切実な問いに答えた『一百四十五箇条問答』の中の、
  『にら、き(葱)、ひる、しゝをくひて香うせ候はずとも、つねに念仏は申候べきやらん』
   答『念仏はなにもさはらぬ事にて候』
  『月のはばかりの時、経よみ候はいかが』
   答『くるしみあるべしと見えず候』
といった法然の言葉(答)は、いっそう法然の言いようのないやさしさとしていまの世苦
に丈けたおのれの心にしみる。
 句は歳末、寒気のきびしい一日、田平龍胆子の案内で、哲学の途を歩き法然院に詣でた
折りの作。大年のこととて参詣人はなく、ひっさりと静まり澄んで、庭に寒椿が咲き、木
立のどこかに笹鳴らしいこえがきこえた。句の簡素な仕立てが、自ら法然にちなんで気に
入っている。他に法然忌の句として『行春の旅にゐたれば法然忌』。」

 また、『鯉素』の「あとがき」に次のように記している。
「集名『鯉素』は『鯉魚尺素』の略で手紙の謂。前二句集(『花眼』・『浮鴎』)が時間と空
間を主題にしたのに対し、所詮人間の分別、人間の案ずる時空を超えれば虚空燦々ではな
いか、と考えた。併せて古典俳諧がもっていた自在と『俳』の回帰を。」

 澄雄は、これらの自解でいっているように、時間と空間というような形而上学的な主題
が、常につきまとい、それを無限に求め、執していくという「不易」の姿勢が、澄雄の澄
雄らしいところともいえるであろう。そして、それらの人間の生死にかかる、その時の流
れと、その場としての空間を、執拗に追い求め、そして、いま、その半世紀をふりかえり、
澄雄は、「所詮人間の分別、人間の案ずる時空を超えれば虚空燦々ではないか」ということ
に到達する。そして、同時に、「法然の言いようのないやさしさ」、一切のことを、そのあ
りのままに認め、受け入れようとする、人間の分別とか情とか知恵とか理屈とか、そうい
う人間の性を、そのまま受容し、しかも、それらに「とらわれないこころ」の存在という
ものに到達する。
 なににも「とらわれないこころ」、自由無碍の心、自由自在の心、この「こころ」は、古
典俳諧がもっていた自在性と「俳」の「こころ」に相通じているということに、澄雄は気
づいてくる。しかし、もはや、その「とらわれないこころ」を、無限に、執拗に追い求め
続けはしない。それは、法然のように一切を認容しようとするのだ。そして、その姿が、「句
の簡素な仕立てが、自ら法然にちなんで気に入っている」という、この言葉をして、澄雄
は表現しているのであろう。
「所詮人間の分別、人間の案ずる時空を超えれば虚空燦々ではないか」」という、この澄
雄の述懐は、何かしら、私達に希望を抱かせる。そして、澄雄の均斉のとれた、どちらかというと耽美主義的な抒情的な装いは、何時しか、その「澄雄節」と相俟って、法然のような「こころのやさしさ」となって、その句に接する者に安らぎのようなものを沈殿させてくれるような思いがするのである。

○ ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに (『鯉素』・昭和四八年)
○ 比良の雪春はけぶりてきておりぬ  (『鯉素』・昭和四九年)
○ まぶたよりこころのとどく春の嶺  (『鯉素』・昭和五〇年)
○ ふり出して雪ふりしきる山つばき  (『鯉素』・昭和五一年)


   「俳」への回帰・・・軽みについて・・・

 澄雄は、第四句集『鯉素』の「あとがき」で、「集名『鯉素』は『鯉魚尺素』の略で手紙の謂。前二句集(『花眼』・『浮鴎』)が時間と空間を主題にしたのに対し、所詮人間の分別、人間の案ずる時空を超えれば虚空燦々ではないか、と考えた。併せて古典俳諧がもっていた自在と『俳』の回帰を」をと記した。続く、第五句集『游方』の「あとがき」で、次の「明恵伝」(西行の弟子喜海の著)の次の一節を引用している。

「紅紅たなびけば虚空いろどるに似たり。白日かがやけば虚空明らかなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず。又いろどれるにあらず。我も又此の虚空の如くなる心の上において、種々の風情をいろどると雖も更に蹤跡なし。」

 澄雄は、「虚空」といい、「虚空燦々」といい、「然れども虚空は本明かなるものにあらず。又いろどれるにあらず」、それは「虚空の如くなる心」の在りようなのだと、微妙な己の関心事の推移を手を替え品を替え克明に記している。そして、第六句集『空艪』で、「『また湊へ舟が入るやろう から艪の音が ころりかりと』(閑吟集)の小歌があるが、から艪は唐艪、つまり唐風の長い艪の説もあるが、いずれにしても湊の遊女が男を待つはかないつぶやきのやうな歌。わが句には空艪がいい」と記している。
 もはや、澄雄は、銀河系宇宙のはるか彼方の「虚空」のさらなる彼方へと心は移っている。そして、それは、もはや「主題のない、主題のないことが主題」のような、何とも不可思議な「游方」の世界である。この「游方」の世界は、無限に執していく世界ではなく、それは、とりたてて意味のない「軽み」の世界であり、「俳」の世界といってもよいであろう。それには、「ころりからりと空艪」で行くのが一番似合うというのである。今までの、全ての、知的なもの、観念的なものと訣別して、軽々とした、何にもとらわれない、自由自在の、天衣無縫な、自然流ともいうべき姿勢が、何よりも要求される世界なのであろう。

○ あるときはこの世かるしと木槿咲く (『游方』・昭和五二年)
○ こほるこほると白鳥の夜のこゑ   (『游方』・昭和五三年)
○ 亀鳴くといへるこころをのぞきゐる (『游方』・昭和五四年)
○ 野遊びと世は異ならず白遍路    (『空艪』・昭和五五年)
○ めつむりてひらきておなじ春の闇  (『空艪』・昭和五六年)
○ 水もまた山落つる白秋あらた    (『空艪』・昭和五七年)

澄雄の目指している世界とは・・・・。「意味づけもなく、意味づける意識もなく、おかしみでもなく、悲しみでもなく、勿論、象徴の世界でもない。風狂や、風雅の世界でもない。思想でも哲学でもなく、文学という大それたものでもない。滑稽でもなく、風刺でもなく、日常性でもない。それは言葉ですることができない」。それは「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)の世界なのであろう。「軽く、ふわふわとして、どこにでも飛んでいけるような、無重力の世界」、そういう魂の浮いているような世界なのであろう。それはまた、「生命の証」、次から次へと、次の世代に引き継がれていく、人間の無窮の営みにも似た世界なのであろう。


  花眼遊想・・・手ばなしでうたう世界・・・

 澄雄は、昭和六十一年(六十七歳)、第七句集『四遠』を刊行する。第六句集『空艪』(昭和五十八年刊行)から、この『四遠』を刊行するまでに、病気療養などを強いられるが、その第一句集『雪櫟』(昭和二十九年刊行)からして、三十余年の歳月が経過している。その第一句集の中の「松」は、昭和十五年十月の作から収載されている。それからすると実に四十五年余の年月を経ていることとなる。

○ 旅にをるおもひに折るや女郎花   (『四遠』)
○ おのれいまおのれのなかに草紅葉  (『四遠』)
○ わが生や風呂吹に身の温もりし   (『四遠』)
○ はるかまで旅してゐたり昼寝覚   (『四遠』)
○ 寝てより落葉月夜を知つてをり   (『四遠』)

 澄雄の言葉に、「手ばなしでうたう世界」というものを目にする。これについての、まとまった俳論はないが、「句が自然に出てくる。浮かんでくる。無心に口ずさむ。作ろうと意識せず、躊躇することなく、自然に語りかけ、それが句となる」というようなことになるのであろうか。「手ばなし」ということは、「頭ではなく、手が、耳が、口が、華が、それらの五感が、言葉となり、句を生んでいく」、これが、澄雄のいう、「手ばなしでうたう世界」の意味するところのものであろか。
 それはまた、「俳句遊想」といおうか、「花眼遊想」とでもいおうか、自由自在に、自然や宇宙の本情や本然に出入りして、それは、あたかも、法然の説話のように、「億年の時空に存在する生の証」を綴る・・・、そういう遊想の中の自己をみつめる、そういう姿勢を、澄雄はいおうとしているのではなかろうか。

「考えてみますと人生というものは若いときは先がまだ豊かにあって、それが若さの豊かさだと思いますが、また年をとって六十なり七十歳になると、先が短くなるけれども、後ろは六十、七十年生きてきたという豊かさがあるんです。二十歳の人は先にありそれが豊かさだといっても、それは確かな豊かさじゃない。三十で死ぬか四十で死ぬかわからないからです。その点では、皆さんが、六十年、七十年生きてきたということはこれはもう確かなことなんです。そして、その確かさこそが大変な宝だと思うんです。その宝を生かして俳句を詠んでほしい。みんな宝物をもっているんです。人生の経験がそれだけ豊かだし、先が短いだけに物を深く、しかもしみじみと感じることができる。」(「杉」昭和六三・三)

 澄雄は、実に半世紀にもわたり、「俳諧は写生の芸ではなく、人生の芸だ」として、文字どおり、それを実践し、さらに、精進を重ねている。しかし、澄雄の先人の俳人達で、このような実践や精進を重ねてきた者は、澄雄以外にも数多く目にすることができる。澄雄のそれらの先達者と相違する点は、法然の「億年の時空に存在する吾が生の証」を、「たんたんと、平明に、豊に、美しく、力を抜いて」、それは、「ぎらぎと、いどむように、はげしく、自我むきだし」の世界とはまるで異質の、澄雄の言葉でするならば、「手ばなしでうたう世界」を、その生涯をとおして実践し、いまなお、その実践をし続けているという、この一点であろう。

 この澄雄の、終始、大変な理解者でもあった、俳句評論家の山本健吉が、平成の時代を見ることなく、昭和六十三年五月七日に永眠する。澄雄は次の追悼句を捧げる。この「失ひし」は、澄雄の「手ばなしでうたう世界」の絶唱でもあろう。

○ 桐の花あきらかに師を失ひし   

金曜日, 12月 09, 2005

金子兜太の俳句(その一~その十五)



金子兜太の俳句(その一)

○ 粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に     句集『金子兜大句集』
 
 「海程」創刊同人で「朱夏」主宰の酒井弘司著『金子兜太の一〇〇句を読む』での、掲出句の解説は次の通りである。

「初出は、「俳句」昭和三十五年十月号。『海程』と題して発表した一○○句より。風頭山の凧(はた)揚げは、長崎ならではの名物といわれているが、ここで凧揚げをしたあと、山を下ったとき成った句。この句について兜太は、次のように書いている。

 山をゆっくりと下りてゆくうち、ふと、この山麓に、れいの製粉所のおやじがいるのではないか、と思いはじめた。まったく突然そう思いはじめたのだが、その連想は、おそらく、山を下りるリズミカルな歩調と、山の陽に焼けた爽快な野生の気分とから織り出されたものにちがいない。(略)すぐ俳句ができた。何故、そのおやじが泣くことになってしまったのか分らない。ただあの楽天的で元気のよいおやじは、実は泣いているのだ、という逆説的な気持がぼくのなかにあったことは事実だろう。(「俳句誕生」「俳句」昭和三六年九月号)

文中の「れいの製粉所」というのは、勤め先からの帰途、よく見かける一軒の製粉工場。煤けた電燈と鈍く響く機械の音。通勤途上でよく見る製粉所の情景が、凧揚げのあと山を下る心地よいリズム感のなかで咄瑳に呼び覚まされたのだろう。前掲の「俳句誕生」では、〔いつか郷里の秩父の町を思いだす〕とも書いていた。」

 この掲出句について、五島資質氏の「金子兜太小論」の中で、小西甚一氏と原子公平氏との相対立する以下のような二つの評を紹介している。

「この句が作られた当時、小西甚一は、『わからなさ』にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の『わからなさ』であり、そのわからない理由は、現代詩における『独り合点』の技法が俳句に持ち込まれたからだと批評した。つまり小西氏の批判はまさに〈粉屋が哭く〉の句における自我中心的一面に向けられていた。一方、原子公平は、〈粉屋が哭く〉の句の魅力は異質な運動感覚の同化作用にあるとし、他者にも共有可能な詩的感覚の存在を認めている。つまり、小西説における自我とは個別的自我であり、それはあくまで小西氏という個別的自我から見た金子氏の個別的自我に過ぎない。それはまさに主客二元論的見解である。一方、原子説による自我とは間主体的自我であり、それは原子氏という間主体的自我から見た金子氏の間主体的自我なのである。ここに、二つの相交わらない自我論的テクストを垣間みることができる。もっともそれぞれの論説はそれぞれのテクストにおいて間違ってはいない。しかし、あくまで私の独断ではあるが、自我の深化という意味ではどうしても後者の立場を支持しなければならない。」

http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html

 この五島資質氏の「金子兜太小論」はどうにも解り難いのであるが、兜太俳句の中核となっている「造形俳句」(作品を創造する過程において、対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造形しょうとするもの)について論じていて、小西甚一氏のように、「創り手の他者」(他者の個別的自我)と「読み手の自分」(自己の個別的自我)との主客二元論的な鑑賞以外に、「創り手の他者」(他者の間主体的自我)と「読み手の自分」(自己の間主体的自我)との主客一元論的な鑑賞こそが、この掲出句の鑑賞のような場合は必要となってくるということようなのである。
 これらの是非論はともかくとして、とにもかくにも、金子兜太の「前衛俳句」なり「造形俳句」というのは、小西甚一氏の評のように、「良い句にならない『わからなさ』」ということを痛感するとともに、絵画における抽象画に接したときのような、創作人・金子兜太の心象風景のようなものが、混沌としたままに、この句を創作したときの、その創作人のイメージそのものが、伝達されてくるようにも思えるのである。これは、一種の共感的なイメージなり伝達であって、それが共感なり共有されない関係下にあっては、どうにも、小西甚一氏のように、「良い句にならない『わからなさ』」のみの相互に拒絶感のみが主張し合っていって、それは交差することなく、ますます距離感を大きくしてしまうような、そんなことを実感するのである。

金子兜太の俳句(その二)

○ 彎曲し火傷し爆心地のマラソ ン     句集『金子兜太句集』

酒井弘司著『金子兜太の一〇〇句を読む』での、掲出句の解説は次の通りである。

「 初出は、「風」昭和三十三年四月号。年譜では、[一 月、長崎支店に転勤。隈治人に会う。原爆被災の浦上天守堂に近い山里の行舎に住む。『彎曲し火傷し爆心地のマラソン』を得。真土、山里小学校に転校。皆子雀を育てる。稲佐山の夕景、グビロヶ丘、原爆忌俳句大会。春、飯田龍太来、晩夏沢木夫妻、太郎、西垣脩、小田保来。『短歌長崎』主宰小山誉美に会う。五島列島、雲仙、唐津、佐世保、門司、 野母半島にゆく〕とある。兜太三十九歳。三十五年四月まで、二年半にわたる長崎での生活で あった。
長崎の行舎に住むようになってからは、時間を見つけては爆心地周辺を歩き、いたるところに被爆の傷あとが残っているのを見聞してつくったのが『彎曲し』の句。
兜太はこの句について、次のように書いている。
                 ‐
  ある晩、なんとなく国語辞典を繰っていた私は、ふと『彎曲』という文字に気付いて、眼が離れなくなった。しばらく見つめているうちに、さらに、『火傷』ということばが出てきた のである。そして、その二つのことばを背負うように、長距離ランナーの映像があらわれて、その人は、いまこの地帯で生活している人々と重なった。しかし、次の瞬間、その肉体は『彎曲し』そして『火傷』をあらわにしたのだった。
   (「定型と人間」『わたしの俳句入門』昭和五二年 有斐閣・刊)

『造型』の方法が鮮明な句である。『創る自分』の意識活動が活発に行われ、イメージの重層 が見られる。 それは『彎曲し火傷し爆心地の』と、原爆投下の地という強烈なイメージとリズムを重層さ せることにより、爆心地としての長崎の惨状を浮かびあがらせ、そこに『マラソン』を配することで、時間を現在へと引き寄せ、長崎の街をマラソンランナーが体を曲げて、喘ぎながら力 走していくイメージを二重写しさせている。
そして、このマラソンランナーのイメージは、また原爆投下の惨状へと遡行し、時代を経ても消えない精神の傷痕に訴えてくる。『彎曲し火傷し』に、なまなましい現実性と飛躍したイ メージが重なっている。『火傷し』は、『かしようし』と読む。」

 この掲出句に対する上記の酒井弘司氏の解説は、兜太の「造形俳句」の説明としては解り易い。そして、この兜太の掲出句は、兜太の「造形俳句」の代表作とされている。
例えば、ネットの世界で、この掲出句は、芭蕉の「古池や」の句に匹敵するような、兜太の最高傑作と絶賛しているのに出合う。

「最高である。俳句の歴史を通じて、これほどの句は他にない。俳句とか文学とかのジャンルを超えて人間の精神史に屹立した作品とさえ言える。
 芭蕉には多分これに匹敵する句がある。例えば『古池や・・・』である。しかしそれはまったくジャンルが違うと言ってもいい。芭蕉は言わば出家者として世界を眺めた人物であり、兜太は世界に飛び込んでいる状態に世界に同化した状態に身を置いている人物だからである。だから芭蕉の句は世界を眺めているニュアンスの強い句であり、兜太の句は世界そのものであると言える。つまり芭蕉に於ては自己と世界のわずかな分離感があるが、兜太に於ては自己がすなわち世界なのである。
 そしてこの句の大きさは、原爆という人類のもっとも愚かで悲惨な事実を見つめる、いや見つめるというよりは我が身に同化させるという事から立ち上げている点である。だからこの句は地獄をも含んでいる。地獄をも含んでいながら美しく、しかも恍惚感さえある。三昧の状態とも言える。
 この句に表明されている事実を把握することは人間にとって大きな希望でありまた力となる。この句に表明されている事は世界の一元的な把握だからである。地獄も天国も含めて世界は一であるという把握だからである。」

http://aea.to/tota/TOTA.171.html

 ここまで、この掲出句の創作者(金子兜太)とこの句の鑑賞者(田中空音)とが、相互に共感し、交響し、そして、その世界を共有しあう現実を目の当たりにすると、金子兜太の世界というのは、これは、小西甚一氏のように、「良い句にならない種類の『わからなさ』」と決めつけて、それを一顧だにしないという姿勢は、どうにも頑なにも思えてくるのである。

金子兜太の俳句(その三)

○ 銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく     句集『金子兜大句集』

 この「造型俳句」論に基づいた最初の成果となもいわれている掲出句についても、酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』を見てみたい。
「 初出は、「俳句」昭和三十一年七月号。
前頁の「朝はじまる」の句と一緒に発表された(註: 「朝はじまる海へ突込む鴎の死」の句)。この句について兜太は、「俳句の造型について(續)」(「俳句」昭和五年3月号)で、制作過程を次のように書いている。

 前日、尾道から帰ってきました。尾道では向島にある水族館をみましたが、烏賊が青白い光を体内に発光しつ、泳いでいる様子が至極印象的でした。朝、潮風と日焼でやゝ粘々した皮膚に健康感を覚えながら銀行へ出勤します。(略)店内は天井は高いのですが壁が多いため薄暗く、一人一人の前の蛍光燈がつけられ、その光に依存します。静かに、朝のきれいな空気のなかで、しかも薄暗いなかで、みなやゝ背をまるめ (規程集など・・・筆者註) 読んでいます。深海に蛍光を発しつゝたゝずまう烏賊のような状態・・・僕はそう結論します。(略)僕は座席に座って、これは俳句にしないといけないと思いはじめました。                  
(略) 新聞を読んでいるふりをしてその感覚の吟味に収りかゝりました。僕の「創る自分」が活動を開始したわけです。(略)暗い朝の店内の人達は、一人一人がわびしく蛍光を抱き、しかし魚族特有の生々した肢体で、イメージのなかに定着したのでした。これでよし、と僕は田慣ました。銀行員等・・・の「等」も従って必然の言葉なのです。群としての銀行員が大切なのでした。
 この句は、兜太が唱えた「造型俳句」論に基づいた最初の成果となった句である。
 造型論の目指すところは、従来の方法はいずれも対象と自己との直接結としての素朴な方法であるとみなし、これに対し「造型」は、作品を創造する過程において、対象と自己との中間に「創る自分」を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しようというものであった。
 また、〔感覚を通して自分の環境(社会といってもよい)と客観的存在としての自分との両方に接触しつゝ、意識に堆積されてくるもの〕を「現実」として尊重し、これを表現するのが現代俳句の新しい在り方とした。」

これらの金子兜太の「造形俳句」というのは、畢竟、「造型論の目指すところは、従来の方法はいずれも対象と自己との直接結としての素朴な方法であるとみなし、これに対し『造型』は、作品を創造する過程において、対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しようというもの」ということになろう。しかし、「この対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しよう」とする姿勢は、多行式俳句を樹立した高柳重信などの姿勢と相通じるものであり、必ずしも、兜太の独壇場ということではなかろう。兜太もこのことを意識しているのかどうか、重信らの姿勢を「想像力による造形」とし、兜太らのそれを「現実からの造形」と大雑把に分類しているようなのである(高柳重信「『「薔薇」俳壇閑談』)。そして、さらに、兜太と重信の共通項は、比喩(特に、暗喩=メタファ)によるイメージ化ということなのである。このことは、こと、兜太・重信の俳句に限定することなく、前衛俳句の多くが、それによっており、そのことを中心に据えて鑑賞すれば、小西甚一氏のように、「良い句にならない種類の『わからなさ』」と決めつけなくて、より、彼等が意図したものが接近してくるように思われるのである。
さしずめ、掲出句などは、烏賊の暗喩の句(「ごとく」の直喩の句というよりも内実は暗喩の句)で、小西甚一氏の「良い句にならない種類の『わからなさ』」の句ではなく、斬新な、批判精神の旺盛な、シニカルの句として、拒絶するのではなく、大いに、これを歓迎したいという衝動にかられてくるのである。

金子兜太(その四)

○ 霧の村石を投(ほ)うらぱ父母散らん  句集『蜿蜿』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、「海程」昭和三十七年六月・第2号。 兜太は、故郷の秩父での幼年時代を回想して、次のように書いている。
                  
 昭和元年、国神村から、荒川(隅田河=ママ)の上流を越えて、皆野村の小学校に入学した。皆 野には父の親や妹たちがいたが、対岸の国神村にひとまづ開業(診療所・・・筆者註)したのである。私は、山の迫った谷川の橋を渡って、一人で通学した。小学校まで、優に五粁はある。(略)そんなことが数ケ月つづいたあと、皆野の祖父母の家に預けられ、翌年、町制が敷かれてから間もなく、父は皆野のその家を改造して、そこに開業した。いま思うと、長い道を通ったときの川の音や山の近く暗い影が実に鮮明に私の感情の中に刻まれているのを知る。
 (「俳句以前・・・中学の頃まで」扉句研究」昭和四二年六月号)

 つづけて、中学時代になってのことも、〔祖母と叔母たちが集まると何となく矢が母に向う、その〈家〉のもつ生理が気に入らなかった。(略)〈家〉というものを暗く感じだした〕とも書いていた。「霧の村」の句。兜大の生い育った秩父は、山峡なので秋になると霧が深い。文字通りの霧の村の出現といってよいだろう。兜太にとっては、今も胸中で生き続けている原郷の風景である。
 この句に込められた作者の思いは、故郷への愛憎である。山国を出ることなく暮らす老いた父母には、憐れみをもった眼差しで「石を投(ほ)うらば」と書く。石を投げたら飛び散ってしまうほどなのに、というのだ。また老いた父母の背後には、山峡の人々の貌も見えてくる。父祖の霊を含めての故郷への愛憎が、この句には込められている。それは長子として家業を継がず上京した作者にとって、血に繋がる父母への断ちがたい思いと、古い因習によってしか日常生活が動かない村落共同体への反発という、両面の愛憎といえよう。
 だから、この句は、一度故郷を出た者でなくては書けない句でもある。そこには、故郷への母胎憧慢への思いと、故郷を撃つ形姿とが二重写しに見え隠れしている。  .
 ちょうど、第一次産業の解体が進みはじめた時期の作。」

 この掲出句などは、「前衛俳句」とか「造形俳句」のレッテルを貼らなくて、「霧」・「村」・
「石を投(ほ)うる」・「父母散らん」と、この用例の駆使で、酒井弘司氏の解説を待つまでもなく、「故郷への母胎憧慢への思いと、故郷を撃つ形姿とが二重写し」との兜太の作意がダイレクトにイメージ化されてくる。兜太らを巻き込んだ「社会性俳句」の残滓の「第一次産業の解体が進みはじめた時期の作」ということは、あえて触れる必要もなかろう。そして、兜太のこの傾向の句は、例えば、「朝顔や百たび訪はば母死なむ」(永田耕衣)や、「霧の夜父が出てゆき何か起こる」(安田安正)などの、「造形俳句」というフイールドを離れて、兜太が狙っている作句の傾向と軌跡を一にする佳句を多く目にすることができる。ともすると、兜太は「論」の人であり、その「論」に固執する余り、例えば、芭蕉の「不易・流行」の「不易」などを度外視する傾向が見られるのであるが、この掲出句などは、そういう「俳諧・俳句」が本来有しているものを見事に抉りだしている一句のように思われる。こういう句は、小西甚一氏の「良い句にならない種類の『わからなさ』」とは無縁の、兜太の本来的な(そして、それは晩年の兜太の句に濃厚となってくる古典との共有の世界でもある)、もう一つの世界のもののように思われる。
追記 これらのことは、兜太のこの句集『蜿蜿』の後書からも察知される。 
 ・・・この句集を編みおわって、私は〈一人の連句〉ということを思った。〈最短定型のイメージ〉を追い、それの豊かな〈形象〉を求めて、むしろ一句一句の独立に執心して作句してきたわけだが、一冊にまとめてみると、あたかも、連句の席に会した人たちが激しく付け合ったように、私は、自分ひとりのなかで、自分の句に向って、ときに反発し、ときに響和しながら、気合いをもって相対し、相関わりつつ、次々と句を作りだしていたことを知るのである。

金子兜太(その五)

○ 霧に白鳥白鳥に霧というべき か    句集『旅次抄録』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、「俳句研究」昭和五十年一月号。「山湖一連」と題して発表した二十句より。
 この句が発表された前年の年譜では、〔九月三十日、日本銀行を定年退職。感想を求められ、「衆の詩」(朝日新聞)を書く〕と記している。兜大の誕生日は、九月二十三日。この年、五十五歳。「衆の詩・・・〈日常〉を見なおす」(「朝日新聞」昭和四十九年九月六日夕刊)では、

 日常を、とくに即物的日常を離さずに、俳句の内質として重視しようとする私の姿勢を刺激した事情がいくつかあった。その一つは、私自身も含めての前衛的営為の成果と反省(成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)である(略)。それらの事情のなかで、〈衆の詩〉としての俳句の特性をおもわないわけにはゆかなかった。 遍歴のあと「軽み」にいたった芭蕉晩年の思案の態をおもい、「荒凡夫」一茶の日常詠がもつ存在感の妙味にひかれたのも、そのためである。

 と書いた。季語と十七音定型の見直しなども含め、この頃より古典と競い立つ気概のもとに小林一茶、種田山頭火などの評論の発表も多くなった時期である。
  この一句、九州の九重高原での作。いちめん霧に覆われた山の湖。その霧の中に白鳥がいて、白く立ち込めた霧に一瞬まぎれてしまいそうでもある。この風景、白鳥をより美しくきわだたせるために霧が集まってきたとも受けとれる。
 眼前の光景を「霧に白鳥」と捉え、一呼吸おいて「白鳥に霧というべきか」と書く。霧が流れ、光が流れ、刻の流れる白一色の静澁な山湖。白鳥と霧に感応している兜太の至福の時間が見えてくる。定年退職で解放されたことにもよろうか、作品にも自在さが窺える。

    山 越 え の 悲 鳴 ひ と す じ 白 鳥 に
    白鳥二ついや三ついるもぐらない                    」

この酒井弘司氏の解説で、金子兜太自身が自らが記している、「前衛的営為の成果と反省(成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)」の、その「反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)」ということは、金子兜太の句業の変遷を辿る上で、一つのエポックとして位置づけられるものであろう。さらに、「季語と十七音定型の見直しなども含め、この頃より古典と競い立つ気概のもとに小林一茶、種田山頭火などの評論の発表も多くなった時期である」ということも、兜太俳句を知る上で是非承知しておくべきことであろう。
 ともすると、金子兜太の句業は、兜太自身の言葉ですると、これらの「衆の詩」としての句業以前の、「前衛的営為の成果と反省」のその「成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ」に因るところの、兜太前半(大雑把に五十五歳以前)の句業が過大に一人歩きしているきらいがなくもないのである。

金子兜太(その六)

○ 暗 黒 や 関 東 平 野 に 火 事 一 つ     句集「暗緑地誌」

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり(後半一部略)。

「初出は、「海程」昭和四十四年二・三月合併号。
 熊谷に居を移してからの兜太は、日銀本店まで電車で通勤をする生活に変わったが、それは、関東平野の一端に居をかまえ、関東平野を電車で通勤するという生活でもあった。通勤電車速度は、兜大の句づくりのリズムと合っていたのか、『俺の俳句は、通勤電車とトイレの中なんだ』といった話を、ときに耳にしたことがある。句帳は使わず、メモ用紙に句を書いていた。この句について、兜太は、次のように書いている。

(略)こういうまったく想像の句を多作している。これは、関東平野を走る、真昼間の列車のなかでとびだしてきたものだが、(略)この、現実に向って想像力がのびのびとはたら  く時間に、私は自分自身の〈自然〉を感受することが多い。
          (「自作ノート」『現代俳句全集二』昭和五二年立風書房・刊)

 ここで、「想像の句」と書いているが、単なる想像の句と受け取ってしまってはいけないだろう。四季を通して、体内に蓄積してきた関東平野の夜景が、瞬時、句のかたちとなっ再化されたのである。なによりも、この句、上句を「暗黒や」と大きく切って、下旬を「火事一つ」と体言で終止する。具体的な言葉で直裁に書いているところが効果的。
 関東平野は、兜大の故郷・秩父にも隣接するが、その広大な関東平野に、深く厚い夜の闇がたち込めている。その闇の彼方の一角に、夜空をこがして燃える火事。広大な暗黒世界のに一つ火事を発見することで、関東平野の空間的なひろがりと、闇のぶ厚さの質感を、あざやかに捉えている。」

 金子兜太が傾倒した俳人は、加藤楸邨と中村草田男の二人であった。兜太自身の言葉ですれば、「楸邨氏を人間および句の師と考え、草田男氏を句の師と考えている」(「楸邨俳句の『人間』」「寒雷」昭和五三年三月)とし、兜太の「寒雷」の楸邨選のものには、この掲出句の「上五や切り」のものを目にすることができる。

 葭切りや屋根に男が立ち上がる(「寒雷」昭和一七年一〇月)
 リルケ忌や摩(さ)するに温き山羊の肌(同上)

 兜太の俳句のスタートは、まさしく、これらの人間探求派(草田男・楸邨・石田波郷)のそれを一つの目標として、そして、それを止揚せんとする兜太の試みが、兜太の前半生(五十五歳)の句業だったように思われる。なかでも、石田波郷の「草田男の散文化傾向に対する韻文化の強調」ということには、兜太は「旧き因習を引きずっている」ものとして、それには見向きみせず、逆に、草田男俳句の傾向を是認し、「表現要求をむきだしにして散文化していく俳句の非韻文性の俳諧」の道を選んだのであった(「人間探求派の功罪」『俳句の本質』)。そして、その傾向は、昭和四十二年(兜太・四十八歳)の「埼玉県熊谷市に転居。初めて自分の家をもつ。以降、定住漂泊の地と定める」(酒井・前掲書の「年譜」)の頃を一つの区切りとして、この掲出句に見られるように、古典への再接近とあわせ、「俳句の韻文性」をも受容する「何ものにもとらわれない」という姿勢への転回というものも垣間見ることができるのである。そして、草田男俳句が晩年になればなるほど、「ひとりごころ」の世界に沈殿していくのに対して、兜太俳句は、兜太自身の言葉でするならば、「ふたりごころ」の世界へと脱皮していくように思われるのである。さらに、この掲出句の上五の「暗黒や」については、兜太が好きな作家としてあげている「金子光晴・野間宏・中島敦」の、兜太と同じような強烈な戦争体験を経験し、それを主要なテーマとした野間宏の「真空地帯」などと同じような問題意識のものとして理解したい。ということで、例えば、田中空音氏の次のような鑑賞は是としない。

「意味の上から言えば、『暗黒』『火事』などという負の要素が書かれているのだが、私の受ける感じは、むしろ安らぎにも似た空間である。生暖かい皮膚感覚をともなった安らぎのある空間、たとえば子宮の中のような。そしてこの空間にはエネルギーが内在している。そんな感じがするのである。」

http://aea.to/tota/TOTA.251.html

金子兜太の俳句(その七)

○  人 体 冷 え て 東 北 白 い 花 盛 り   句集『蜿蜿』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「 初出は、「海程」昭和四十二年八月号。 前頁の「鹿のかたちの」の句と一緒に発表された。青森へ旅したときの句。五月四日、十三湖から弘前を経て、秋田へ向かう途中での作。津軽は花の真っ盛りの季節。兜太には東北を旅しての作品に佳句が多いが、霊気や生命力をもらう土地なのであろうか。
上句の「人体冷えて」という捉え方から、冷えぴえとした体感を通して、東北の初夏の風土のもつ美感が清例に捉えられている。 また、明治以降、使われるようになった「東北」という固有名詞を、兜太は意識して効果的に使っている。この「東北」という言葉には、日本の中心からみて奥地を意味する「道奥(みちのく)国」と呼ばれた、大化改新(六四五年) の時代からの言葉の伝統も、潜んでいることを承知しておき たい。 青森の五月は、関東地方よりも一足遅く、待っていたように作から初夏の花が、いっせいに開花する。「白い花盛り」からは、桜、辛夷、白木蓮、コデマリ、林檎、梨の花を思うが、ある一つの花でなく、これら一連の白い花を次々に眼にしたという理解のほうが、このの句には似つかわしい。長く厳しい冬を耐えて開花した花の白さが、肉体の冷えを通して冷えぴえしたものとして体感されているのである。また、「人体」という詩語になりにくい言葉をうまく生かした。
  兜太は、句集『蜿蜿』の後記で、

(略)眼前に岩があり、その岩の肉体の温さと等温のように自分の肉体が、ここに息づいていることに気付く。青空が自分の体内の細胞一つ一つに冷たくしみ込んでいることも知る。 突然、遠い時代の祖先が、髭むしやで草原を走る。神楽歌がとびこむ。
 だから、たとえば〈自然〉と言っても、こうした、自分の肉体で承知した自然しか信用しなくなる。眼でみ、耳で聞き、鼻でかぐだけの自然では十分ではない。    ’

 と書いていた。じかに体感し、肉体を通して確かに承知したもの。兜大の自然観を、ここに見ておいてよいであろう。
  句集『蜿蜿』の時代に入って、表現も平明化してきている。」

 この掲出句は、兜太の第四句集の『蜿蜿』の末尾を飾る句で、「東北・津軽にて 七句」のうちの一句である。兜太俳句といえば、それは、伝統的な花鳥諷詠的な俳句に対して、
前衛的な社会性俳句・造形俳句とのレッテルのもとに呼称され、そして、鑑賞されるのが常であった。その特徴は、「季語を十二分に尊重しつつ、それを約束とせず、最短定型(十七音)に立ちつつ、それが弾力的活用を図り、ともすると、思想性や社会性と無縁の閉鎖的な『個我』のみに終始することなく、進んで、思想性や社会性との関連で、現実というものを見据え、諷詠的描写的傾向の俳句を排して、探求的象徴的傾向の主体的・造形的傾向の俳句」(角川・『現代俳句辞典』の関係項目)を目指すものというようなことが、大雑把な表現方法ですればそのような言葉で置き換えることも可能なのかも知れない。しかし、そういう「論のための論」による鑑賞ではなく、現に、掲出句のような兜太俳句の鑑賞において、まず何よりも、兜太の、「東北という風土」に対する思い入れ、そして、この句を作句した当時の兜太の関心事の「定住漂泊」という観点から、これらの句は鑑賞されるべきものと理解をしたいのである。そういう観点から、兜太の「眼前に岩があり、その岩の肉体の温さと等温のように自分の肉体が、ここに息づいていることに気付く。青空が自分の体内の細胞一つ一つに冷たくしみ込んでいることも知る。 突然、遠い時代の祖先が、髭むしやで草原を走る。神楽歌がとびこむ」という、この句の背景が、この句に接する人に、ダイナミックに語りかけてくるのである。兜太は、極めて、兜太を巡る「定住漂泊」の様々の「土地・地誌・地霊・風土」の、いわば、「神楽歌」のようなものを探りあてることにおいては、稀にみる俳人の一人であるということは、その兜太の句集を繙いていくと、つくづくと実感するのである。

金子兜太の俳句(その八)

○ わが湖(うみ)あり日蔭真暗な虎があり   句集『金子兜太句集』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり(後半一部略)。

「初出は、「俳句」昭和三十六年二月号。「虎」と題して発表した八句より。
 この年は兜太にとって多事の年であった。総合俳句誌「俳句」一月号から六回にわたり、〈造型俳句〉論の総決算ともいうべき「造型俳句六章」を連載。『金子兜太句集』を風発行所より上梓。といった意欲的な取り組みを示す一方、兜大も選考委員をつとめた現代俳句協会賞の選考が揉め、協会が分裂。十二月に俳人協会が発足した。その渦中で、中村草田男と朝日新聞紙上で二回にわたって論争をした。この句について、兜太は次のように書いている。
   
長崎から東京に移って、どこかの山湖に出かけたときの句。初夏。湖は厚い緑で囲まれ、
その日蔭に虎をひそませることは容易だった。想像のなかで、湖は自分の領域となり、虎は待機の姿勢を充実させて、黒黒と伏せていた。
 待機といっても、次の行動への野心といったものではない。私の場合、社会的行動はすでに頓挫していて、もっぱら自分いちにんに執し、その〈主体の表現〉を俳句にもとめていた。方法を〈造型〉と名付けて書いているうちに、いつのまにか「前衛」というものになっていて「啓蒙家」といわれ、(略)私にとって、〈自由〉こそすべてで、自ら〈自由人〉たらんとして俳句をいじりまわしていたのに、なかなかツポにはまった渾名がもらえなかったようである。(「自作ソート」「現代俳句全集二』昭和五二年 立風書房・刊)」

 上記の酒井司氏の解説では、「兜大も選考委員をつとめた現代俳句協会賞の選考が揉め、協会が分裂。十二月に俳人協会が発足した。その渦中で、中村草田男と朝日新聞紙上で二回にわたって論争をした」との簡単な紹介に止めているが、中村草田男の年譜においては、次のように記されている。「昭和三十五年 五月 現代俳句協会幹事長となる」。「昭和三十六年 現代俳句協会の幹事長の職を辞す。十一月、同志と俳人協会を発足させ、初代会長となる」。この背後には、草田男と兜太の両氏における、目指す俳句観の決定的な対立があり、草田男は兜太の「造型俳句」を、「造型俳句といわれているものなど、十七音の短形式が、暗示の伝達性を十分に発揮することができなくて、徒に難解となってしまって、このままいけば、俳句大衆との連結が絶たれてしまう」(、「潮流の分析と方向をさぐる」(『中村草田男全集第一四巻』所収の座談会記事)として、それが故に、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」と、兜太を「敵」とみなすようになるのである。兜太は草田男によって認められていった俳人といってもよく(中村草田男指導の「成層圏」から本格的にスタートとした)
、そして、草田男を俳句の師として、直接・間接を問わず、兜太は草田男を目指して、共に、現代俳句の牽引車として活動してきたのであるが、この昭和三十六年の「現代俳句協会」の分裂にともない、もはや、両者は歩むべき道を異なにしたのである。そして、草田男が、兜太を敵として、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」との句を残しているように、兜太もまた、当時の心境を、この掲出句の「わが湖(うみ)あり日蔭真暗な虎があり」のように、一匹の「虎」に喩えているのである。この「虎」は、まさしく、当時の兜太その人の自画像と理解したい。そして、この虎の背後には、兜太が好きな作家としてあげている「金子光晴・野間宏・中島敦」の中島敦の『山月記』などの「虎」のイメージが横たわっているようにも思えるのである。

金子兜太の俳句(その九)

○  梅咲いて庭中に青鮫が来ている  句集『遊牧集』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「 初出は、「海程」昭和五十三年四月号。
第七冊目の句集『遊牧集」では、雰頭の「青鮫抄」に収録されているが、青鮫を素材にした 作品は、他に二句ある。

     霧の夢寝青鮫の精魂が刺さる
     青鮫がひるがえる腹見せる生家

  三句のうち、最初に置かれているのは「霧の夢寝」の句。二番目が「梅咲いて」。最後に「青鮫が」の句。作者が並べた順に読んでいくと、青鮫の着想は、夢の中で得たものとも思えるし、 梅の咲いている庭は生家とも思える。
「梅咲いて」の句は、白梅の花が咲き、早春の光が淡い陰影をつくっている庭の中を、精悍で檸猛な青鮫が、何匹も悠々と泳ぎまわっているというイメージが湧く。このような光景は現 実にはありえないが、この句、生々しく新鮮なリアリティがある。早春の明るい日差しの中の 梅の白い花と、その日差しの中をゆらめく青鮫の背のかげりのある青さとが、微妙な陰影をかもだしている。
 ここで書かれた世界は超現実的な世界である。にもかかわらず、リアリティをもちえたのは、〈実〉に重心をおいて書くという兜大の作句法に負うところが大きい。「梅咲いて」の句は、そ の一つの成果と見てよいだろう。
この句が発表された「海程」の「熊猫荘寸景」で、兜太は、

 「虚実皮膜の間」というときの実の面が私たちの目標で虚の世界はあくまでも従ということである。◆虚の世界を十分に知り大いに活用はするがそれは実の表現のための手段ということ。◆現俳壇にはこびる虚の第一義化とは全く反対の立場を確認することでもある。

と書いていたが、ちょうどこの時期、俳壇では〈軽み〉が言われるようになった時期でもあり、危機感をもっての発言というように受けとめておいてよい。」

 この酒井弘司氏の解説のうち、兜太の「現俳壇にはこびる虚の第一義化とは全く反対の立場を確認することでもある」及び「ちょうどこの時期、俳壇では〈軽み〉が言われるようになった時期でもあり、危機感をもっての発言」については、兜太と同じ「寒雷」の出身で、兜太と同じ年代の、そして、兜太を無視し続けていたといっても過言でない評論家・山本健吉に激賞され続けていた、「杉」主宰の森澄雄へに対する兜太の痛烈な批評的主張と解して差し支えなかろう。同じ、加藤楸邨門において、金子兜太と森澄雄とでは、両極端のような立場で、そして、当時の俳壇においては、山本健吉を始め、多くの先達的な方々は、森澄雄の立場を是として、ともすると、兜太はアウトローのような立場を余儀なくされていたといっても、これまた差し支えなかろう。このアウトロー的立場の兜太を理解するとき、兜太が好きな作家として上げている「金子光晴・野間宏・中島敦」の、詩人・金子光晴が想起されてくる。反骨、反戦、抵抗、放浪、風狂…。そんなさまざまな言葉を冠せられた詩人・金子光晴には、日中戦争が始まった年に、全体主義的な社会を鋭く風刺した詩集『鮫』を世に出している。兜太もまた反骨、反戦、抵抗、漂泊、風狂のリベラリスであることは、詩人・金子光晴に勝るとも劣らないであろう。そして、その金子光晴の傑作詩集『鮫』は、兜太にとってどんなに刺激的なものであったかは想像に難くない。兜太は、金子光晴が死亡したとき(昭和五十年六月三十日)、次の二句を句集『旅次抄録』に残している。

  緑悦の虚無老い声の疳高に
  突出の鬼色曼珠沙華朽ちて

 兜太には、この掲出句以前にも「鮫」の句はあるが、それらをひっくるめて、兜太の「鮫」の句の背景には、兜太が愛して止まなかった詩人・金子光晴のイメージ、なかでも、その傑作詩集『鮫』のイメージが横たわっているように思えるのである。いや、兜太にその意識がなかったとしても、その金子光晴の、そして、その「鮫」のイメージで、掲出句の「鮫」の句を鑑賞したいのである。


金子兜太の俳句(その十)

○  冬 眠 の 蝮 の ほ か は 寝 息 な し 句集『皆之』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「 初出は、「俳句研究」昭和六十一年一月号。
「雨に養蚕」と題して発表した五十句より。他の作品には、

     日 本 海 秋 は 星 座 の 唾(つば) が 降 る
     雨 に 養 蚕 鮎 錆 び て 叔 父 た ち
     禿頭や尖(と)んがり山や紅葉四五分

がある。-句目の「日本海」の句は若狭での作。産土の地、秩父の山峡への思いには、切々
としたものが窺える・兜太、六十七歳。なによりも兜大の句でよいところは斬新なところ。
「冬眠の」の一旬。冬眠の蝮(まむし)に寝息があるわけがないが、こういわれると、なにやら聞こえてくるような錯覚につつまれるから不思議である。妙なリアリティをもった句。暖かなに俗性を、鋭い感性感覚で包みこんでいる。
兜太は自解で次のように書いている。

冬の山はじつに静かだ。葉の落ちた木木(きぎ)のあいだに射しこむ陽の光もし-んとしている。 その根を埋めるように積もった落葉も、人や獣が来て踏まないかぎり音を立てることはない。常緑樹も、襄震と篭と沈黙している.ときに罵声あるの。・・・そんな、山中で蛇たちも冬眠にはいり鎮まっている。しかし、アクの強い、それこそ存在感十分のマムシだけは、その 寝息が聞こえてくるような気がするのだ。いや、たしかに聞こえる。
    (『兜太のつれづれ歳時記』平成四年 創拓社・刊)

蝮は、蛇の仲間でも、華麗な紋様があり存在感がある。クサリヘビ科の毒ヘビ。全長六十センチ内外。樹木は葉を落とし、静まりかえった山麓の唇一間。冬眠中の動物は、ほかにもたくさんいるだろうが、寝息が聞こえてくるのは蝮だけ.「蝮のほかは寝息なし」・・・この一見、豪放磊落な蝮は、兜大の自画像のようにも見えてくるから不思議である。」

 この掲出句の背景は、この解説で十分であろう。しかし、この句に接していたら、金子兜太にとっては、「俳句の師であったり、後にはその師から敵とも見なされていた」中村草田男の次の句とその前書きが思い起こされてきた。

 蝮の如く永生きしたし風陣々  草田男(昭和四十四年)

この草田男の前書きには、「文部省関係の官公立学校職員の文芸修業誌『文芸広場』二百号に達せるを以て、委員等記念の寄せ書きをなせるその最後尾、即興的に次の一句を誌す。石川桂郎氏二十四年以前戯れに、当時の吾が新妻に対ひて、『貴女の御亭主は蝮の性(さが)と宣(のたまい)りたる一言耳底に遺れるがゆゑなり』」。 金子兜太が、掲出句の蝮に遭遇したときに、草田男のこの句は意識下になかったであろうが、されど、この兜太の掲出句の「蝮」を、草田男その人の比喩と理解しての鑑賞もまた「楽しからずや」という思いが去来するのである。

金子兜太の俳句(その十一)

○ 猪 が き て 空 気 を 食 べ る 春 の 峠  句集『遊牧集』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
                      
「昭和五十五年の作。
 句集『遊牧集』の作品は、昭和五十二年の早春から五十六年春までの四年間の作品から一七四句を抄出したもの。兜大五十代後半から六十一歳にかけての作品。旅吟の多い兜太句集のなかで、常住の日常での作を中心に選んでいる。居住する熊谷と故郷の秩父での作が多い。この句集とともにあった四年間は、兜太にとって作句上でも大事な時期であった。朝日カルチャーセンターで俳句講義を始めるなど、多くの草の根俳人との接触を通して、俳句を大衆消費社会の文化として押し出していった。
 また、一茶への考えを成熟させ、評論『ある庶民考』(昭和五二年)、評伝『小林一茶・・・漂鳥の俳人』(昭和五五年)なども発表した。
 『遊牧集」のあとがきでは、

 一茶から教えられて、自分なりに輪郭を掴むことのできたく情(ふたりどころ)〉の世界
を、完全に自分のものにしようと努めてもきた。そのせいか、〈心(ひとりどころ)〉を突っぱって生きてきた私は、〈情〉へのおもいをふかめることによって、なんともいえぬこころのひろがりが感じられはじめているのである。

 と書いていた。この〈情(ふたりどころ)〉は、外(自然と人間)に向かってひらいてゆくこころの世界である。

『猪がきて』の句。『猪』は、この句では『しし』と読む。山国に春が訪れる頃になると、
 山の動物たちも活動をはじめるが、冬のあいだ、民家の近くまで来て畑を荒らしていた猪も、峠にもどって、春の澄んだ空気をおいしそうに吸いこむ。中句で『食べる』と置いたところ、いかにも木の芽がふくらみはじめた山々を見まわし、春の仕事で忙しくなった集落のあたりを見下ろして、空気を吸っている情景が見える。〈情 重たりどころ)〉の読み取れる句。そこには、アニミズム的交感がみられるという言いかたもできよう。アニミズムは、自然界のすべての事物を生命あるものとし、そこには精霊あるいは霊魂が宿っていると見る。『空気を食べる』猪に、春の峠の精霊を感じ、そのさわやかな春の大気に兜太自らも接し、自身も『空気を食べ』ているのだ。」

 この「猪」は、「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」(昭和十七年作)の傑作句をものにしている、兜太自身の言葉ですると、「山影情念ということばで、山国住民の内ふかく蟠(わだかま)る、暗鬱で粘着的な実態」(「秩父困民党」『思想史を歩く 上』)の、古代の「知々夫国」(秩父)で生を享けた、兜太その人のイメージであろう。上記の酒井弘司氏の解説での、兜太自身の『遊牧集』の「あとがき」の、「一茶から教えられて、自分なりに輪郭を掴むことのできたく情(ふたりどころ)〉の世界を、完全に自分のものにしようと努めてもきた。そのせいか、〈心(ひとりどころ)〉を突っぱって生きてきた私は、〈情〉へのおもいをふかめることによって、なんともいえぬこころのひろがりが感じられはじめているのである」という、兜太俳句の転回点を見事に表出している一句として、これほど、後半生の兜太の俳句の傾向を分かり易く伝えるものはない。そして、それは、実に、酒井弘司氏も指摘するごとく、「アニミズム的交感」のもとでの「自然界のすべての事物を生命あるものとし、そこには精霊あるいは霊魂が宿っている」とする、いわば、兜太が到達した新しい「アニミズム俳句」の世界のものといってよいであろう。

金子兜太の俳句(その十二)

○ 河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく    句集『狡竜』
                 
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、『俳句とエッセイ』昭和四十八年八月号。
『河の歯』と題して発表した三十句より。
 この一句・〈かわ〉は川ではなく『河』。野川の類ではなく、山地に源を発し、平地を悠然と流れている河である。その大河の流れ、生きもののような波を、『歯』という楡で捉えた。白く波打つ『歯』の河は、絶えることなく『朝から晩まで』河口を目指して流れてゆく。この句の構成は、『河の歯ゆく』と『朝から晩まで』の二群の言葉から出来あがっているが、上旬の『河の歯ゆく』を下旬でもリフレインさせることによって、リズムのある円環的な読みを可能にした。
 兜大の作品は、どちらかといえば言葉が多いが、この句は簡潔に書かれていて、読者に種々のことを想起させてくれる。
 この句に触れて、兜太は、次のように書いている。

 冬の北海道に数日の旅をして、この日は、札幌市内のレストランで遅い昼食をとっていた。一人旅の気やすさもあって、窓のむこうをながれる豊平川の川面をながめながら、ゆっくりと食べていた。(略)その河面には荒れ気味の無数の河波が立っていた。ときどき白い波がしらがのぞき、それがつぎつぎに重なってながれてゆく。河波を河の歯だとおもう。
            (『中年からの俳句人生塾』平成十六年 海竜社・刊)

 良い俳句は、どこかしら生死(しょうじ)をはらんでいるが、兜大の俳句は〈生〉を強烈にうたいあげているところに特徴がある。この句も単純化された表現のなかから、自然の交響するいのちを感得することができよう。
 句集『狡童』は、単独の句集としては未刊であるが、『金子兜太全句集』に収められたもの。                                 
 句集名の『狡童』(こうどう)は、中国最古の詩集『詩經國風』のなかの「鄭風」(ていふう)に出てくる詩句。昭和四十七年の終わり頃から四十九年十月までの兜太五十代前半の作品一八七句を収録。旅吟が多い(全句集には、未刊句集『生長』と『狡童』を収録。それ以外は、『少年』から『早春展墓」までの五冊を収めている)。」

 兜太のこの掲出句には「季語」はない。「季語」はないけれども、その土地の「地魂」のようなもの、「霊魂」(アニマ)のようなものを訴えてくる。この句は、句集『狡童』の中では「北海道 四句」の前書きのある句の一句で、この句の前には、同時作の次のような句が収載されている。

  冷雨に濡れる百頭の歯を剥く牛馬
  雪の町少女集まり仮面作る
  状況原野屋上庭園ら向き蟹折る

 これらの掲出句を見るとき、兜太は作句するときに、いわゆる『歳時記』の「冷雨」・「雪」・「蟹」とかの「言葉で書かれたもの」は排斥して、「実景とその実景よりのイメージ」のみで一句を創り上げていることであろう。そして、その「実景とその実景よりのイメージ」が、見事に、その土地の「地魂」のようなもの、「霊魂」のようなものを探り当てているのである。そして、これらの「アニミズム」(事物には霊魂(アニマ)など霊的なものが遍在し、諸現象はその働きによるとする世界観)というのは、兜太等が排斥した『歳時記』の「季語」の根底に流れているものといってもよく、その意味では、『歳時記』の抽象的な「季語」は排斥しているけれども、その抽象的な「季語」の中核に存在している、「事物の霊魂(アニマ)」には、極めて、鋭敏な俳人であり、逆説的にいえば、兜太は、「兜太の眼に映る真の季語」を中核に据えて作句しているといっても過言ではなかろう。これらのことについて、兜太は次のようにいっている。
「私の句作りは、景を見、その景にからまるように自分の想像力をひろげてゆく。そこにできてくるイメージを追ってゆくのである。ただ、最近では、表現行為が形だけにならないように、情の熱さを注ぎこむ努力をしている。(略)それといま一つ。イメージのなまなましさを保つために、日常からの汲みあげに努めている」(「情の熱さ」「寒雷」昭和五〇年三月号)。

金子兜太の俳句(その十三)

○ 潮 か ぶ る 家 に 耳 冴 え 海 の 始め   句集『蜿蜿』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
                                
「初出は、「海程」昭和三十七年四月・創刊号。
 創刊号に発表された五句の巻頭に置かれた作品。俳誌「海程」に賭ける思いが、ひしひしと 伝わってくる句である。兜太四十三歳。同時に発表された四句は、次のような作品であった。

    魚群のごと虚栄の家族ひらめき合う
    だれも口美し晩夏のジャズ 一 団
    違い一つの窓黒い背が日暮れ耐える
      (富沢赤黄男の死)
    知己等地の弾痕となる湖の死者
                      1
 「潮かぶる」の句。「海程」という俳句同人集団を旗揚げする決意が、海辺の家に託されて、ひしひしと伝わってくる。下句を「海の始」としているが、数年にわたって神戸・長崎という海辺の街に住んだことや、「海程」という俳誌名のことも念頭に置いての一句といえよう。昭和三十四年には、高浜虚子が逝去。三十六年には、現代俳句協会の分裂、俳人協会の誕生とつづいたが、その翌年の「海程」創刊であった。
 代表同人の兜太は「創刊のことば」で、現代俳句の拠点づくりへの抱負を語っている。
 
 現代ただいまのわれわれの感情や思想を、自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで(略)、また約束(季語・季題)というものに拘泥したくない(略)。自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい。」
 
 創刊同人は三十名。芦田淑、丼倉宏、大井雅人、小田保、金子兜太、河本泰、隈治人、小山清峯、境三郎、上月章、酒井弘司、佐藤豹一郎、島田輝子、鷲見流一、 谷口視哉、津田鉄夫、 出沢珊太郎、仲上隆夫、八反田宏、林田紀音夫、藤原七兎、堀葦男、前川弘明、益田清、嶺伸六、柳原天風子、山口雅風子、山崎あきら、山中葛子、米沢和人。  
 創刊号の裏表紙には、五十音順で住所録が掲載されている。」

 兜太が俳誌 「海程」を創刊したのは、昭和三十七年であった。その前年に、兜太が師と仰いだ中村草田男が、現代俳句協会の会長を辞し、俳人協会を立ち上げ、ここに、兜太と草田男とは袂を分かつこととなる。この現代俳句協会の分裂が、兜太らをして、この俳誌 「海程」の創刊へと踏み切らせた直接の原因とも解せられる。以後、草田男は兜太を公然と「敵」と見倣し、草田男は自分が主宰する「萬緑」のみにその活動を絞り、いわゆる、俳壇活動からは身を退くこととなる。また、兜太は兜太で、まっしぐらに己が信ずる道を往くこととなる。兜太のもう一人の師の加藤楸邨が、この現代俳句協会分裂の際のときの身の処し方は、また、実に楸邨らしいそれであった。「私(楸邨)自身が私自身の身を置く現代俳句協会を否定することとなり、その幹事会(現代俳句協会)の中にいる私の最も信頼する多年の後進(兜太を指している)を否定することとなる。これは立場上不合理であり、情に於ても耐えがたいことである」(「寒雷」昭和三七年三月号)として、草田男らとは行を共にしなかったのである(俳人協会の会長は草田男が就き、楸邨はその幹事に推されていたが、楸邨は俳人協会には加わらなかった)。こういう兜太を巡る背景なども加味して、掲出句やこの掲出句の酒井弘司氏の解説を見ていくと、実にリアルに訴えかけてくるものがある。そして、兜太らの、いわゆる、前衛俳句の拠点と見倣されていた、その俳誌 「海程」は、上記のとおり、「約束(季語・季題)というものに拘泥したくない(略)。自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい」との、伝統的・因習的な「季語・季題」との訣別する世界でもあった。そして、それは、兜太のその後の「アニミズム俳句」の世界への先鞭をつけるものでもあった。

金子兜太の俳句(その十四)

○ 父亡くして一茶百五十一回忌の蕎麦食う   句集『遊牧集』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
                      
「初出は、『海程』昭和五十三年一月号。
 初出では、『父亡くて一茶百五十一回忌の蕎麦食う』と発表されていた。同号では、次の句も掲載されている。

  父 死 ん で 熟 柿 漬え て 朝 ぼ ら け

 父、金子伊昔紅(いせきこう)(本名・元春)は昭和五十二年九且三十日死去。八十八歳であった。俳句は大正十一年頃から「ホトトギス」に投句。昭和初期から「馬酔木」に拠り、のち同人・自らも昭和十四年には『若鮎』(のち『若あゆ』)を創刊、没時まで主宰した。また、『秩父音頭』の復興のためにも尽力した。
 兜太俳句に言及するとき、父、伊昔紅のことをぬきに考えることはできない・少年の日、
父・皆野町の生家で、開業医の父を中心に俳句仲間が集まって句会を開くのを目の前にしていたが、その当時のことを兜太は、次のように書いている。
 『馬酔木』と『若鮎』はいつも誰かの膝にあり、あるいは炬燵の上に置いてあったから、
これは読めた。同人紹介とか随筆、幾人かの同人の作品ぐらいしか読まないが新鮮で甘美な上昇気流を感じていた。私が、こうした雰囲気をまづ俳句に知ったことは、その後に大きく影響している。俳句がくすんでもいず、ぢぢい臭くもなく、観念的で佶屈なものでもないものとして私に印象付けられたわけなのである。
 秋桜子や篠田悌二郎といった人を覚えている。秋桜子が、秋陽の深く当る縁側に一人腰を下して、じっと庭をみていた事がある。障子越しに、私はその横顔を眺めていたものだ。波郷も白絣できた。
        (「俳句以前・・・中学の頃まで」「俳句研究」昭和四二年六月号」)

 父、伊昔紅の亡くなった直後、信州・柏原の小林一茶百五十一回忌俳句大会に出て、霧の深くかかった上質の蕎麦を食べながら、看取った父のことを思い、兜太は柏原の一茶堂の天井板に、この句を残している。父を彼岸に送った心情が切々と伝わってくる一句。」

 金子兜太が師として仰いだ二人の俳人の、その一人の加藤楸邨が「芭蕉の申し子」のような俳人であるとすれば、もう一人の中村草田男は「郷土を同じくする正岡子規により再発見された蕪村の句業を再点検した」俳人であったともいえるであろう(正岡子規・中村草田男編『俳句の出発』など)。そして、兜太は、この師らの「芭蕉・蕪村」ではなく、兜太の言葉でするならば、「人間まるだし」の俳人・一茶に深く傾倒したのであった。そして、兜太は、自分の俳句を「アニミズム俳句」のものとの言葉は呈していないのであるが、一茶に関して、「一茶の句には、談林風の戯(ざ)れもむろん多いが、しかしかなりの句のイロニーのしぶとさと、フモールの豊かさを支えるものは、煩悩具足の叙情である。アニミズムの天真さがあり、生理的感応のふるえるような柔らかさがある。いかにも庶民らしい、ユーモラスで、皮肉っぽくて辛辣で、しかも純真な世界がひらけている」(「露をはらってあらわれる一茶俳諧」『俳句の本質』)との、「アニミズムの天真さ」という言葉を一茶に捧げているのである。兜太は「詩としての俳諧の庶民らしい実現」(「衆の詩」)ということを目指して、その実現を目指した俳人が一茶であるとして、その一茶の俳諧を高く評価した。そして、兜太の後半生の俳句は、この一茶の「衆の詩」、そして、その「アニミズムの天真さ」を、その前半生の「社会性俳句」や「造形俳句」の信条より以上に、その作句の中核に据えてきたということもいえるであろう。そして、それは、前半生の「ひとりごころ」の俳諧(俳句)から、後半生のそれは「ふたりごころ」の俳諧(俳句)への脱皮をも意味しているともとれるのである。掲出句の兜太の句は、「馬酔木」系の俳人であった父親への追悼句ではあるが、同時に、一茶への追慕・追悼の句でもある。ここで、もう一度、兜太が「荒凡夫」・一茶に捧げた「衆の詩」(「朝日新聞」昭和四十九年九月六日夕刊)についての一文を、酒井弘司氏の著書より再掲しておきたい。
「日常を、とくに即物的日常を離さずに、俳句の内質として重視しようとする私の姿勢を刺激した事情がいくつかあった。その一つは、私自身も含めての前衛的営為の成果と反省(成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)である(略)。それらの事情のなかで、〈衆の詩〉としての俳句の特性をおもわないわけにはゆかなかった。 遍歴のあと「軽み」にいたった芭蕉晩年の思案の態をおもい、「荒凡夫」一茶の日常詠がもつ存在感の妙味にひかれたのも、そのためである。」

金子兜太の俳句(その十五)

○ 酒止めようかどの本能と遊ぼうか    句集『両神』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、「海程」平成元年十一月号。
 句集『両神』では、「痛風抄(六句)」として収録している。他の句には、

   梔子や痛風の足切り捨てようか
   痛 風 は 青 梅 雨 に 棲 む 悪 党 な り
   滝澤馬琴も痛風と聞き微笑む夏
   朝ひぐらし痛風も癒えしかなかな

 がある・四句を順に読んでいくと、梅雨に入るまえは大変だった痛風も、梅雨が終わり盛夏を迎えるころには痛みも消え、鯛の声に耳を傾ける余裕も生まれてきた推移を読み取ることができる。『酒止めようか』の句は、『朝ひぐらし』の前に置かれている。
五十代後半の兜太は、『酒の功徳』という文章で次のように書いている。

酒といえば日本酒で、それ以外はピンとこない。すこし間をおいて、ああ、これも酒だなとおもうていどである。そのくせ、ここ数年常用の酒は、ウイスキーかビールなのだから矛盾しているわけだが、これは健康上の要請で止むをえない。
  しかし、機会さえあれば日本酒をとおもう気持はかわらないから、酒どころにゆけば、ここの酒は特別だからと自分にいいきかせて、それをいただくことにしている。
                 『俳童愚話』昭和五一年 北洋社・刊)

  六十代に入ってから、兜大のことばに従えば『急につけがまわってきて』、歯槽膿漏に腰痛、 痛風には四回悩まされるという災難に見舞われ、好きな酒と牛肉をやめて養生、七十歳を過ぎて回復したが、さて、『酒欲』と食欲を制限して、もう自分をよろこばせてくれる欲がない。どんな欲で自分を元気づけようかという思いが、この一句から感得できる。
  そうはいっても、どこかにこの句、余裕が感じられるのは、家族と、俳句、その俳句に連なる連衆に恵まれていることによろう。俳句と遊ぶ極上の楽しみが兜太にはある。」

 金子兜太は、これまでに、十四冊(未完句集二冊を含む)の句集を世に出している。その収録句数は、三千九百十一句で、兜太をよく知る、「海程」創刊同人・現「朱夏」主宰の酒井弘司氏が、百句を選び、『金子兜太の一〇〇句を読む』(飯塚書店)を、平成十六年に刊行したのであった。これまでに、兜太を論じたものとしては、『金子兜太論』(牧びでを著・永田書房)、『金子兜太』(安西篤著・海程新社)そして『鴎の海・・・兜太百句抄』(大岡頌司著・端渓社)の三冊に過ぎないということである(酒井・前掲書)。これらのことに関連するのかどうか、兜太俳句というのは、その俳誌 「海程」に関連する、いわゆる、前衛俳句と称せられる俳人達では高く評価され、そして、その前衛俳句以外の俳人達の中では、例えば、外国でも活躍している名うて国文学史の碩学者であり、連歌・俳諧・俳句にも造詣が深く、そして、兜太と同じく「寒雷」で兜太を熟知している、小西甚一氏にすら「良い句にならない種類の『わからなさ』」との酷評すら受容しているというありさまなのである(小西甚一著『俳句の世界―-発生から現代まで―』)。しかし、その前半生の「社会性俳句」・「造詣俳句」と呼称せられていた、兜太の言葉でするならば、「ひとりごころ」によるものはともかくとして、その後半生の「ふたりごころ」の俳諧・俳句を意識したころのものは、この掲出句のように、まさに「俳諧自在の境地」に至ったといえるであろう。これらのことについて、先に見てきた、兜太の一茶への賛辞の言葉を一部借用するならば、「兜太の句には、一茶的な『荒凡夫』としてのイロニーと、フモール(真のユーモア)に充ち満ちており、その底流に流れている叙情と、季語・季題の底流に流れているアニミズムを把握する鋭敏な感覚と、さらには、天然自然と一体となって交流できる天真さがある。と同時に、『衆の詩』として、常に、雅と俗の、日常の『俗』の現実を直視する姿勢は、まさに、その前半生の創造する人としての主体性に裏打ちされたもので、やはり『俳諧自在の境地に至った、そして今なお前衛俳人たり続けるようとしている真のリベラリストの名に恥じない俳人』というような、やや、褒め過ぎの嫌いもなくもないが、小西甚一氏らの酷評に敢て異を唱えて、酒井弘司氏の兜太鑑賞の続きのようなエールの兜太礼賛といたしたい。