木曜日, 3月 22, 2007

其角とその周辺・二(十~二十)


画像:松尾芭蕉

(謎解き・十)

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)

二十三 この其角の難解句(謎句)の「鮫の髄」について、蘭氏から次のような情報が寄せられた。

「春の残雪の季節に山の中腹から麓にかけて見られる残雪の縞模様や残雪と谷や森が織りなすがほわほわした感じを形容したようですね。 其角は小諸あたりから残雪の浅間山や四阿山をながめたのでしょうか。疑問:鮫の骨は軟骨でそれ自体柔らかい。その中にさらに柔らかい骨髄が入っているのか。ふにゅふにゅ感を強調するため、もしも存在したらという言葉の洒落かも。」

この情報とあわせ、『其角俳句評釈』の著を持つ、河東碧梧桐の「『三千里』北海道(抄)」の
アドレスとその記事の一部が付せられていた。

http://www.kurikomanosato.jp/00x-10-42kh-sanzenri-17.htm

「倶知安で蝦夷富士の一点一画もまぎれない晴々としたのを仰ぐ。雪は中腹以上に残っておって、中腹以下は谷々にうねうねした鮫の髄を残しておる。」

上記で、この「残雪」は、「雪形」・「雪占」(ゆきうら)との別称があり、「山や野に消え残る雪の形によって、農作業の時期を測り、また、その年の豊凶を占う」もので、古来から、地方・地方で、いろいろな伝承が今に残されている。関西から関東(宇都宮)へ移住されて、精神科の医師で、俳句の実作と評論に大きな足跡を残した、平畑静塔氏に次の「雪占」の句がある。

○ みちばたに名は何といふ残雪か (静塔・『栃木集』・「日光」)

次のアドレスで、これらの「雪形」写真を見ることができる。

http://www.scenicbyway.jp/2004backnumber/special/back/200403/special_s2.html

 蘭氏の「鮫の髄」の「髄」関連の疑問は、「この髄は、脊髄で、その残雪が序々に消えていき、鮫(全体の形)→鮫の脊髄(一部溶けた形)→鮫の髄(さらに溶けた形)との洒落ともとれなくもない」。ただ、この「雪形」・「雪占」の句とすると、「千曲川春ゆく水や」というよりも「浅間山春めく峰や」のスタイルになると思うのだが、それらも、ひっくるめて(それらを「省略」の技法で省略して)のものともとれなくもない。

いずれにしろ、これらのところに、この謎句を解くヒントが隠されているように思われる。

さて、これまた、蘭氏より紹介のあった、『其角俳句と江戸の春』(半藤一利著)を手にして、「日本」に関する次の一句(その解説を含めて)が目に入ってきたのである。

○ 日本の風呂吹といへ比叡山 (其角)
※ とにかく何のことやらさっぱりの句である。(中略) 「大根」の名はどこから? これが、なんと、『日本書記』なんである。(中略) 句の比叡山とは、こりゃ、天台宗の総本山の延暦寺のことだよ、と思い当った。この寺院は昔は天台根本三千坊を豪語していた。この「台根」すなわちダイコンで、また、大根の千切り三千本と、其角は大いにシャレてつくったな、と判定した。当っているかどうか、保証できぬ。それにしても、意地悪く、下手に洒落た句であることよ。(半藤・前掲書)

ここで、またまた、蘭さん始め、『日本書記』・『古事記』に造詣のある狸さんなどの「俳諧ネット」のお知恵を拝借したいのである。

(謎解き・十一)

○ 日本の風呂吹といへ比叡山 (其角)

二十四 この半藤一利さんが、「とにかく何のことやらさっぱりの句である」と嘆いた句についての、
蘭氏の解は次のとおりである。

※「日本の」と大きく出たのは、比叡山が日本仏教の母山ということでしょう。
ネット記事【比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、また、日本仏教の母山でもあります。この比叡山は多くの名僧・高僧を輩出しました。浄土宗の法然上人、日蓮宗の日蓮上人、浄土真宗の親鸞聖人、曹洞宗の道元禅師、臨済宗の栄西禅師等々、後に日本仏教の各宗派をお開きになった開祖・宗祖が一度は比叡山に登り、その修行の中で悟りを開かれたことから、仏教の母山と呼ばれています。】
比叡山では、現在、秋の紅葉祭と除夜の鐘で、大根炊きをして参詣者にふるまっているようです。場所は例の天台根本中堂前。今でも多くの寺が大根炊をしており、母山の昔からの行事なのでしょう。

http://network.biwako-visitors.jp/event/event_3457_city101.html
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/yamanobe/02.html

風呂吹と大根炊は、厳密には料理として違うのでしょうが、大根を炊き、あつあつを食べることが共通しています。 其角はこの状態と寺に対する思いを句に仕立てたのでしょうか。
ほめている(比叡山は精進料理のチャンピオン、風呂吹大根も日本一だ)か、ちゃかして、けなしている(比叡山は日本仏教の母山というが、仏教界、僧侶の堕落はどうだ、幕府の手先となり葬式仏教に成り下がり、修行もしないで大根炊きばかりしているなら、日本
一の風呂吹きとでも改名したらどうだ)か、どちらかでしょうか。私は後者のような気がします。

汀女教の狸氏の情報は次のとおり。

※比叡山、日本仏教の母山ということで、そういえば親鸞上人も若き日修行され、その後山を降り、法然上人に師事、都を出て新潟から茨城へ・・・など読んだ記憶があります。
うちは浄土真宗なので、もっと親鸞上人のことを知りたかったからです。とはいえ、やはり汀女宗なので、「といへ」に反応してしまいました。

○ 延着といへ春暁の関門に    汀女

(自選自解汀女集より)「長旅の夜汽車、どこかで事故があって、私の列車はいつのまにか、相当に延着のまま下関に着いた。たとえ、それにしても、またそれゆえにこそ、いっそう今ここまで着き得たことがうれしいのであった。(中略)関門海峡を越えることは、九州生まれの私には、いつもながら特別の感情を持たせるようである。」

とあり、其角さんの句も、比叡山に到着したうれしさと感慨を詠んでいるのかなと、まず読んでみました。(たとえ、日本の風呂吹、それにしても風呂吹大根、またそれゆえにこそ、いっそう、比叡山、ああ比叡山に来たもんだ。)

この蘭・狸両氏の「大根」説と違う観点の解ありやと、ネット情報を検索したところ、「伊勢の風呂吹き」(蒸し風呂)に関するものが出てきた。

http://members.jcom.home.ne.jp/3111223201/mutama/mutama4/mutama4no03.htm#d3no12

○ 聲を直して戻る風呂吹 (武玉川四篇)
 
※『研究』では、「風呂吹」を「風呂吹き大根(あるいは蕪)」の意味に解釈しており、それでも意味が通じないことはないのですが、わたしは、この「風呂吹」は、本来の意味の、蒸し風呂で吹くことではないかと思います。『甲陽軍鑑』に、「風呂はいづれ國にも候へ共、伊勢風呂と申。子細は伊勢の國衆ほど、熱き風呂を好みて能く吹き申さるゝにつけて…」とあり、これは蒸し風呂で吹いて風を送り、熱い風で、吹かれた身体の部分を熱くすることです。

http://beth.nara-edu.ac.jp/NYOHITSU/ny01-035.htm

風邪の時などには、加湿器や蒸気吸入器で、ノドを潤し、温めますね。この句では、蒸し風呂で吹いて、ノドを十分に潤(うるお)すとともに温め、風邪の声か、寒声などで傷めた声を、治したのでしょう。

また、謡曲「楊貴妃」関連の次のものなども貴重な情報のようにも思われる。

http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/Nohpage/NohSenryu/Nohsen07Yokihi/NohSenryu07.html

○ やまとことばはおくびにも貴妃出さず (柳樽十九・2)
○ 日本にはかまいなさるなと貴妃はいひ (柳樽二十・25)
○ 三千の一は日本のまわしもの     (柳筥二・24)

ここで、「大根」説と「蒸し風呂」説との、どちらに、一票を投ずるかと、振り出しに戻って、この其角の句が集録されている原典にあたったところ、その原典の『五元集』の、簡単な校注などが施されている、『其角発句集』(坎窩久蔵校訂・文化十一年版)には、次のとおりの校注が施されていたのである。

※叡山の三千坊より思ひつきて、天台根本の台根を大根と見立て、三千本ともぢりたる作意也。

これは、全く、半藤一利さんと同じもので、半藤さんも、これにあやかったのだということで、どうやら、多数説は、この「風呂吹き」は「大根」のようである。しかし、『武玉川』などの「蒸し風呂」説も、まだまだ、捨てがたい。

(謎解き・十二)

○ 日本の風呂吹といへ比叡山           (『五元集』)
○ 日の本のふろ吹(ふき)といへ比叡山(ひえのやま)(『古典文学大系本』)

二十五 其角の謎句の一つ、「日本の風呂吹といへ比叡山」について、その「日本」と「風呂吹」とに目が行って、どうも、「比叡山」をおろそかにしていたきらいが無くもない。たまたま目にした、『古典文学大系八巻 蕉門名家句集(一)』によると「比叡山」(ひえいざん)ではなく(ひえのやま)とルビが付せられているのである。これだと、其角三百回忌の今日に相応しい、そして、「奇計・奇抜」な「其角」に相応しい、もう一つの鑑賞案が浮かんできたのである。この「比叡山」(ひえのやま)は、「比叡山」(ひえいざん)と「ひえのやま」(相撲取りの四股名などで相手を冷やかし気分で使っている。そして、「冷え症」、あるいは「身も心も寒さで冷えてしまった」人への語り掛けの措辞)が掛けられているのではないかと、そういう思いが去来したのである。これだと、この謎句の表面の句意などは次のとおりになる。
※ 冬の比叡山(ひえいざん)詣でで、身も心も冷え切った「比叡山」(ひえいやま)さんよ、どうぞ、「日本」仏教の母山の、この「延暦寺」の、「日の本」一の、熱々の「風呂吹」き「大根」を所望せよ。そして、身も心も温かくなさって下さい。

さらに、「はなやかな伊達を好み、鬼面人を驚かす巧みな技をもち、たった十七文字のなかにそれを見事に滑りこませる、さらに雑学に富み、伝統の和歌といわず、漢詩といわず、下世話な物語といわず、謡曲狂言といわず、古典文学といわず、手当たり次第に自家薬籠中のものとして句に織り込んでいる」(半藤・前掲書)、異才中の大異才、「晋其角」は、この句の背後に、謡曲「楊貴妃」を、こっそりと滑りこませているのではなかろうか。この唐土の絶世美女・楊貴妃は、「後宮佳麗三千人(後宮の佳麗三千人) 三千寵愛在一身(三千の寵一身に在り)」と玄宗皇帝を愛の虜にし、中国の歴史を大きく転換してしまった歴史上の大女傑である。そして、この楊貴妃は、日本において、謡曲「楊貴妃」の中で、日本名は、「熱田明神」として、一世を風靡するに至っているのである。江戸時代の其角研究家の「坎窩久蔵」は、其角の「日本の風呂吹といへ比叡山」の句を、「叡山の三千坊より思ひつきて、天台根本の台根を大根と見立て、三千本ともぢりたる作意也」と喝破したが、それを、さらに飛躍させて、「後宮佳麗三千人(後宮の佳麗三千人) 三千寵愛在一身(三千の寵一身に在り)」をも、この句は内包しているという解こそ、其角三百回忌の今日に相応しい、奇抜・奇計な解なのではなかろうか。その観点での背後の句意は次のとおりとなる。
※ 冬の比叡山(ひえいざん)詣でで、身も心も冷え切った「比叡山」(ひえいやま)さんよ、どうぞ、「日本」仏教の母山の、この「延暦寺」で、「中国」の「楊貴妃」の「日本」での化身の「熱田明神」の如きの絶世の美女を湯女にして、「日の本」一の、熱々の「風呂吹き」の「蒸し風呂」で、身を委ねなされ。そして、身も心も温かくなさって下さい。

どうにも、この「楊貴妃」関連の「風呂吹き」(蒸し風呂)の鑑賞こそ、何故か、吾らの愛する其角さんに、最も相応しいように思われるのだが、とにもかくにも、「日本の風呂吹といへ比叡山」の一つの鑑賞案として、その末端に忍びこませておきたい。

さて、これらの鑑賞の切っ掛けを与えてくれた、『古典文学大系八巻 蕉門名家句集(一)』
(安井小洒編 石川真弘・木村三四五校注)を含む全十六巻のデータベースが、この平成の御代になり、誕生したという。下記は、そのアドレスと、その紹介文である(このCD-ROM版をご使用されている方は、是非、ご一報を賜わりたいのである)。

http://imidas.shueisha.co.jp/haiku/

※『古典俳文学大系』全16巻は、芭蕉・蕪村・一茶のみならず、貞門、談林、蕉門から化政・天保期に至るまでの室町、江戸期の主要な撰集や俳論・俳文、書簡を網羅した画期的な企画である。当社より1970年から72年に刊行されて以来、いまなお、俳文学全体を俯瞰しうる基本的文献として、多くの研究者・愛好家に広く活用され、高い評価を得ている。
本企画は、この全16巻の書籍データと増補8集を1枚のCD-ROMに収めることにより、これらの優れた業績を21世紀に甦らせ、さらには、句・連句・作者・出典等のインデックスの作成とその検索システムを開発して、あらたなデータベースの構築を企図するものである。俳文学の表現研究のみならず、国語学の語彙研究、地域文化研究、また、俳句実作をも飛躍的に高める必須のツールとして、研究者・実作者・愛好家に長く愛用されよう。


(謎解き・十三)

○ 日本の風呂吹といへ比叡山  (其角)


二十六 この其角の句について、蘭氏から次のような情報が寄せられた。

※其角は江戸の出身と思っていたら近江だという記事をみて、ネットの地図で調べてみました。其角の父は堅田の出身で膳所藩の医師。堅田は琵琶湖の南。その南隣が平安時代からにぎわったという雄琴温泉。雄琴温泉は、東が琵琶湖の畔、比叡山の山麓で昔は男の遊び場だった。南隣は、比叡山坂本(明智光秀の坂本城があったところ)。風呂吹は、蒸し風呂を吹くこととして。これをふまえて、くだんの句を解釈すると、「比叡山の麓の雄琴温泉の繁盛ぶりを見ていると、あたかも比叡山が雄琴温泉の風呂吹きをしているように思えることよ。日の本の風呂吹きだ。」風呂はもともと寺僧との関係から出て来たようですね。ネット記事。【「風呂」という言葉はどこから来たのかというと、昔、僧侶が風呂屋者(ふろやもの)という人たちに石や土の室(むろ)を築かせ、ここに蒸風呂を作らせたことが始まりと言われます。】また【風呂屋者とは、風呂屋にいた遊女。ふろおんな。湯女ゆな。】ともあります。若い頃大阪に赴任したとき、最初の社内旅行が雄琴温泉でした。雄琴温泉に行くというとみんなにやつくのです。その理由は行ってわかりました。後者の意味の風呂屋者が商売をしそうな施設がきらきらとたくさんあって、うぶなわたくしは、恥ずかしかったです。信長が焼き討ちした頃とか、比叡山のすすんだ僧たちも通っていたのでしょうか。寺の風呂として。其角さんの句は、どうも男の遊び場の方にすぐ結びついてしまうようです。
※また、先の狸氏の解の添書きのような形で、「『日本の風呂吹』がやはり謎です。琵琶湖が風呂で、焼き討ちに遭ったり、なにかとトラブルな叡山を風呂釜吹きに見立てているのかいないのか、そんな感じをうけました。『大根』が日本書記をみるときの注目ポイントとなりました」。

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)

先のこの句の「鮫」についても、活字情報(大曲駒村編著『川柳大辞典』(上)・粕谷宏紀編『川柳大辞典』)で、次のようなものもある。

※鮫=柳沢吉保の室、お鮫の方。吉保は将軍綱吉の殊遇を受け、小姓組より寛永元年には大和郡山で十五万石に封せられた。更に一躍百万石の太守たらんとし、其の室お鮫の方をして種々にたくらまさせ、遂に甲斐、信濃で百万石を追って与ふるであろうとの墨付けを得るに至った。其の上、自分の子甲斐守は将軍の御胤なりと称し、改めて将軍の養子としょうとしたが、御台所並びに井伊、本多、榊原等諸氏の忠臣の為に陰謀は破られ、吉保は隠居謹慎を命ぜられ、本領だけは辛うじて安堵するを得たという俗説がある。
○ 鮫が出て百万石を丸で呑み(柳多留一〇八)
○ 鮫の煮こごり百出して召すところ(柳多留一四五)
○ 鮫すでに百万石ものむところ 

どうも、際限なく「謎は謎を呼ぶ」という雰囲気でもある。


(謎解き・十四)

○ うぐひすにこの芥子(からし)酢は涙かな (其角『五元集』)
○ 鶯の目はからし酢の涙かな (其角『芭蕉盥』)

二十七 其角の「赤穂浪士の初七日」に詠んだ句とされている。掲出の二句のうち、一般には一句目の『五元集』のもので知られている。その『五元集』には、次のような前書きがある。「故赤穂城主浅野少府ノ監長矩之旧臣大石内蔵之助等四十六人、同志異体ニシテ報(ムクユ)亡君之讐(カタキ)。今茲(ココニ)二月四日、官裁下リ令一時伏刃(ヤイパニフシテ)斉屍(カバネヲヒトシクセシム) 万世のさえづり黄舌をひるがへし、肺肝をつらぬく」(「漢文」の詠みは『古典文学大系本』)。そして、この句の後に、「富森春帆、大高子葉、神崎竹平、これらが名は焦尾琴にも残リ聞えける也」との添書きが付せられている。この添書きの「富森春帆」は「富森助右衛門」、「大高子葉」は「大高源吾」、そして、「神崎竹平」は「神崎与五郎」で、「焦尾琴にも残リ聞えける也」とは、其角選集の「焦尾琴にその句と名が記されている」、即ち、この三人は「其角門の俳人」であるということを付記しているのである。この三人の他に「萱野三平」(俳号・涓泉)も其角門の俳人である。先の、「千曲川春ゆく水や鮫の髄」の「鮫」に関連しての「柳沢吉保」も当時の幕政の中心人物である。下記のアドレスでの「忠臣蔵と元禄群像」(中江克己稿)のうち、其角と其角門の俳人に関連する人達を抜き書きすると次のとおりとなる。

http://www.namiki-shobo.co.jp/order10/tachiyomi/nonfict005.htm

徳川綱吉(性急な処断) 柳沢吉保(幕政の実権を握った側用人) 土屋主税(討入りの物音を聞いた隣家の主) 浅野内匠頭(悲劇のはじまり) 吉良上野介(斬りつけられた理由) 大石内蔵助 (昼行灯が咲かせた武士道の華) 富森助右衛門(大目付への討入り報告) 大高源五(「煤竹売り」の俳人) 神崎与五郎(「吾妻下り堪忍袋」) 萱野三平(悲しき自刃) 荻生徂徠(赤穂浪士の切腹) 室鳩巣(四十七士は「義士」)

さて、掲出の其角の句、「うぐひすにこの芥子(からし)酢は涙かな」は、『古今集』巻二の大伴黒主の作「春雨のふるは涙かさくら花ちるをおしまぬ人しなければ」を本歌取りしての、西山宗因の「からし酢にふるは泪か桜鯛」の句を本句取りししての一句という(半藤・前掲書)。「そこで、『うぐひすに』の句である。『蕉影余韻』(昭和五年)という文献によれば、浪士自刃の初七日に詠まれたものであるそうな。それにしても、『なみだ』で悼句であることはわかっても、あとは難解にすぎて、見当もつかない」(半藤・前掲書)と、匙を投げている。前書きの観点からすると、それほどの難解句とも思われないのだが、これは、謎句(難解句)の部類に入るのであろうか。別な句形のもの(掲出の『芭蕉盥』の句)もあるし、前書き、そして、添書きからして、難解句ではあるかも知れないが、決して、謎そのものを目的としているような「謎句」ではないであろう。この其角の句は、「赤穂浪士に切腹を命じた」、時の幕府に対する、其角の痛烈な批判の句といって差し支えなかろう。それは、上記のアドレスの「赤穂浪士たちは翌元禄十六年二月四日、切腹を命じられる。主君の仇討ちをしながらも、『天下の法に照らせば罪人』とされたのだ。そうした幕府の処断に、批判の声もあった。『忠孝の二字を羽虫が食いにけり 世を逆さまに裁く老中』、この狂歌は、その一例である」の、この狂歌のようなものと解したい。
(この掲出の其角の「うぐひすにこの芥子(からし)酢は涙かな」の句について、自由解やら感想やら、何なりと情報をお寄せいただきたいのである。)

(謎解き・十五)

○ 花の仇(あだ)月を重ねて雪で打ち (柳二七)
○ 花の仇雪で打ちたる本望さ     (柳五九)
○ 花の敵(かたき)を雪で打つ本望さ (柳二七)

二十八 ○「花」はいずれの句も、花(桜)が咲く月、つまり旧暦三月を意味する。三月のことを「花月」「花つ月」「花見月」ともいう。浅野内匠頭が江戸城で刃傷沙汰および切腹したのは元禄十四年三月十四日、すなわち花が咲く月であった。そのときの仇(敵)を、月を重ねた後に雪の日に討った。望みがかなって満足である。「花」(花月)と「雪」で、四季おりおりのよき眺め、風雅の趣きである「雪月花」が完成することになる。その点でも「本望」であった(北嶋広敏著『江戸川柳で見る忠臣蔵物語』)。
※この「謎句を解く」のスタート時点の「月花や日本にまはる舌の先」(『俳諧桃桜』)の「月花」も、この「花月」と同じく旧暦三月の意と解することもできよう。「花月」と「雪」とで、「雪月花」の「風雅が完成」して、「本望」を遂げたということも、謎解きの定石として理解しておく一つであろう。

○ 大手が二十四からめてが二十三 (柳二三)
○ 忠義にも表のかたは孝の数   (柳九一)
○ ねぼけたで四百七人ほどに見え (柳一一)

二十九 ○「表門組」は大石内蔵助が指揮し、原惣右衛門と間瀬久太夫が補佐した。堀部弥兵衛、大高源吾、武林唯七、間十次郎などが表門組に属し、その人数は二十四名であった。一方、二十三名で構成された裏門組は、大石主税が大将をつとめ、吉田忠左衛門と小野寺十内が補佐した。二句目は中国の「二十四孝」を反映させている。三句目の「四百七人」は、討ち入った赤穂浪士は、四十七人で、その「四」と「七」とを生かし、「四百七人」とすることで討ち入りを暗示している(北嶋・前掲書)。
※この数詞のトリックも「謎解き」の定石の一つであろう。

○ 一世(いっせ)二世(にせ)すてて三世(さんぜ)の仇を討ち(柳五〇)
○ 一世二世去つて夜討ちの本望さ (柳五〇)
○ 百四十一世重なる仇を討ち (柳九五)

三十 ○「子は一世、夫婦は二世、主従は三世」ということわざがある。親子の関係はこの世かぎりのもの、夫婦の関係は現世(現在)と来世(未来)にわたるもの。主従の関係は三世(過去・現在・未来)にわたるものという意味。赤穂浪士たちは一世(親子の縁)、二世(夫婦の縁)を捨てて、三世(主従関係)の仇討ちをした。二句目の「去る」には離縁するという意味があり、その意味も加味されているようである。一世二世を捨て(そして離縁し)、主の仇討ちができて本望である。なお、大石内蔵助は討ち入りに先立ち、妻と離縁している。四十七人で三世の仇を討った。だから四十七×三=百四十一世というわけである(北嶋・前掲書)。
※川柳の特質は「うがち」をその一つとしているといわれる。「うがち」とは、「あらゆる事象に穴をあけ、人が気づかないこと、見落としていることを拾いあげ、五七五・十七文字をもって、われわれの目の前に突き出して見せる。しかし、ありふれた『うがち』では人を感心させることはできない。えぐり出したものをそのまま見せたのでは読む人の心を動かすことはできない。穴をどうやってあけ、隠れた部分をどうやって見せるか、そこが決めてになる」(北嶋・前掲書)。其角の「謎句」は、上記に見てきた、掲出の柳人の凡なる「うがち」の域をはるかに超えて、非凡なる超弩級の「うがち」の世界と換言することもできよう。

(謎解き・十六)

○ なき跡もなお塩梅の芽独活かな  沾徳
○ 鶯にこのからし酢はなみだかな  其角
○ 枝葉まで名こりの霜の光りかな  沾洲
○ その骨の名は空にある雲雀かな  貞佐

三十一 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、元禄十五年十二月十四日、正確には翌十五日の未明(寅の刻)のことであった。そして、翌元禄十六年二月四日に、切腹を命じられる。掲出の四句については、先の奴氏の情報で、次のような添書きが付してある。
「翌年春(註・元禄十七年か?)の追悼会での発句以下四句。沾徳の句からするとこの日酒の肴に季節の和え物が出されていたのでしょうか。其角、沾徳の句には義士に対する思いがどこか酸っぱいものに感じられたのでしょう。なお其角の句はうぐいす、からしすと韻を踏んでいます。」
この添書きとともに、次のような文面で、赤穂浪士の討ち入り当日に、其角らは、忘年会をやっていて、その忘年会の席上で、その討ち入りを知ったとの記事とその記事の基になっているアドレスが紹介されていた。
「討ち入り当日の事は其角が秋田の知人に当てた手紙に詳しく載っています。これによると当夜は杉風、嵐雪と忘年会をやっていたようですね。文面から興奮覚めやらぬ思いが伺われます。」

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40013357&VOL_NUM=00000&KOMA=95&ITYPE=0

この記事は、明治四十一年に刊行された、元禄山人著『赤穂義士四十七士譚』(「第十六回大高源吾忠雄の事並に其角」)に紹介されているもので、実は、ここに紹介されている、「秋田の人梅津半右衛門」宛てに送った書面(日付・十二月二十日)は、実は、真っ赤な偽書ということなのである(半藤・前掲書)。確かに、この書面に出て来る、「我が雪と思へばかろし笠の上」は、元禄五年刊行の『雑談集』に出てくるもので、さらに、大高源吾の句とされている「日の恩やたちまちくだく厚氷」の句も其角の句ということである(半藤・前掲書)。次の大高源吾(書面では「子葉」)から沾徳宛ての書面(日付・十二月十五日)、さらには、その書面の次の「かくて其翌年の春交はりふかき人々合歓堂にて追悼ありその時の発句」として、紹介されている、上記の掲出の四句についても、その一同に会しての追悼句会でのものなのかどうか、はなはだ、あやふやの文面のようなのである。とにもかくにも、掲出句の作者、水間沾徳・宝井其角・桑岡貞佐・貴志沾州の四人は、芭蕉没後の江戸俳壇を牛耳った江戸座の大宗匠達で、赤穂浪士の代表的な俳人・大高子葉(源吾)と密接な俳人ではあったのであろう。なお、其角の「からし酢」に関連するかどうかはともかくとして、「卯月の筍、葉月の松茸、豆腐は四季の雪なりと、都心の物自慢に、了我さへ精進物の立がたになれば、東湖、仙水等とうなづきあひて」との前書きのある、次の一句があるとのことである(半藤・前掲書)

○ 初鰹江戸のからしは四季の汁 (子葉)


(謎解き・十七)

○ 大高の紙へ其角が別れの句(柳九五)
○ 煤払いのあした汚れた名を雪(そそ)ぎ(柳九五)
○ 竹売りの秀句子葉の名がしげり (柳一一四)
○ 宝舟夢のようだと其角言い (しげり柳)

三十二 一句目は、両国橋で其角と源吾とが出合い、其角が、「年の瀬や水の流れも人の身も」と詠み、源吾が「あした待たるるその宝船」と応答した場面の句。二句目の煤払いの句は、煤竹売りに変装していた源吾が、その翌日討ち入りを果たして汚名を返上したとの句。三句目も、竹売りの源吾が「宝船の句」で、その号の「子葉」を繁らせたというもの。四句目は、源吾の「宝船の句」と関連させ、赤穂浪士の討ち入りの成功が「夢のようだ」と其角をして言わしめたもの。しかし、これらは、いずれも、虚構の作り話に基づくもののようなのである(北嶋・前掲書)。なお、上記の一句目・二句目が集録されている『柳樽九十五篇』は、一茶が没した文政十年(一八二七)刊行で、「仮名手本忠臣蔵」の特集号となっている。
三十三 上記の其角と源吾とが登場する歌舞伎は、「松浦の太鼓」で、次のアドレスなどで詳しい(その一部を抜粋しておきたい。その抜粋中、「発句」と「挙句」の説明が、「連句」の定石の説明でないのが、これまた、虚構の作り話めいていて面白い)。

http://kairos.web.infoseek.co.jp/kabuki33.htm

○赤穂浪士の一人で、師走のすす払いの笹売りに身をやつす大高源吾(中村橋之助・成駒屋)は茶の湯や俳句をたしなむ風流人、両国橋のたもとで久々に俳諧の師匠の宝井其角(坂東弥十郎・大和屋)に出会います。其角は縁台を持ち出して世間話をし、源吾があまりにみすぼらしい格好をしているので、松浦の殿様から頂いた紋付を着せてあげます。そして別れる時源吾に、「年の瀬や水の流れと人の身は」と発句(ほっく)します。その心はと云うと、源吾は「あしたまたるるその宝船」と挙句(あげく)して去ります。其角は源吾が討ち入りを断念したのだと読みました。しかし源吾は、本当は明日討入りのため、吉良邸の周りを探索に来ていたのでした。
○翌日の夜、吉良邸に隣接する肥前平戸藩の松浦鎮信(中村勘三郎・中村屋)の屋敷で句会が催され、和やかに進んでいたのですが、其角の口利きで松浦家の屋敷に奉公に上がっていた源吾の妹お縫(おぬい=中村勘太郎・中村屋)がお茶を立てているのを見た殿様は機嫌が悪くなってしまいます。さらに追い討ちを駆ける様に其角が昨日源吾に会った話しをし、赤穂浪士も見下げたものだと嘆きます。鎮信は軍学者の山鹿素行(やまがそこう)の下で同門だった赤穂の大石内蔵助が、松浦邸隣家の吉良上野介をいつまでも討たないことに腹を立て、そんな腰抜けどもに連なる者を屋敷に置いておくわけにはいかないと云います。其角はお縫いを伴って帰ることにし、ふと、昨日の源吾の挙句を口にします。それを耳にした殿様は二人を呼び止め、突然「わかった」と膝を打ちます。けげんな顔をする其角。とその時、太鼓の音が聞こえてきます。特徴のある打ち方(山鹿流)に気が付いた殿様は大喜びです。そこへ家来がやって来て赤穂浪士が吉良邸に討ち入ったことを知らせます。それでこそ赤穂浪士だ、武士道は地に落ちていないと喜び、帰りかける二人を呼び戻して詫び、火事装束の用意と馬を用意しろと叫ぶのでした。
○ここは松浦藩の玄関先、赤穂浪士の助太刀をすると馬で飛び出さんばかりの殿様を家臣が押しとどめていると、討ち入りの装束をした大高源吾が現れ挙句の意味を理解してくれた事を喜び、そして吉良義央の首を討ち取り、本懐を遂げた経過報告をします。其角が源吾に時世の句を所望すると「山を抜く力も折れて松の雪」と詠み、風流人として生涯を締めくくる覚悟に殿様・松浦鎮信は感じ入るのでした。

(謎解き・十八)

○ 泉岳寺他宗もみんな引き受ける (柳一九)
○ いろはにほへどちりぬるは泉岳寺 (柳九五)

三十三 一句目は、泉岳寺は曹洞宗のお寺であるが、いろいろな宗派の赤穂浪士たちを一括埋葬しているの句。二句目は泉岳寺に葬られた「いろは四十七士」の句。この泉岳寺について、奴氏からのメッセージに次のような添書きがあった。
「『類柑子』は其角の手になるものですか? 行尊の墓参りの帰りに泉岳寺に寄ったことが出ていますね。」 
『類柑子』は、宝永四年(一七〇七)に刊行された、沾洲・秋色・青流(空)編による、其角の遺稿集である。柴田宵曲著『蕉門の人々』(「其角」)に、次のような『類柑子』(「松の塵」)の、其角の遺稿文が収められている。
「文月十三日、上行寺の盆にまふでてかへるさに、いさらごの坂をくだり、泉岳寺の門をさしのぞかれたるに、名高き人々の新盆にあへるとおもふより、子葉、春帆、竹平等の俤、まのあたり来りむかへるやうに覚えて、そぞろに心頭にかかれば、花水とりてとおもへど、墓所参詣をゆるさず、草の丈ケおほひかくしてかずかずならびたるも、それとだに見えねば、心にこめたる事を手向草になして、亡霊聖霊、ゆゆしき修羅道のくるしみを忘れよとたはぶれ侍り。」
この其角の一文により、赤穂四十七士の新盆の元禄十六年当時の泉岳寺が、「墓所参詣を許さず、草の丈でその墓所が見えない」という、時の幕府の赤穂四十七士への姿勢を如実に見ることができる。彼等は時の幕府に楯突いた、いわゆる、犯罪者であるという、この事実である。そういう厳しい情勢の中で、其角は敢然と挑戦しているのである。

三十四 この『類柑子』に出てくる「上行寺」は、其角の菩提寺なのだが、永井荷風の『断腸亭日乗』(昭和三十一年十一月二十九日)に、「(前略)其車にて白金上行寺及高野山某寺に至り写真撮影。(後略)」とあり、『日和下駄』には、「日本榎高野山の向側なる上行寺は、其角の墓ある故に人の知る処である。私は本堂に立つてゐる崖の上から摺鉢の底のやうなこの上行寺の墓地全体を覗き見る有様をば、其角の墓諸共に忘れがたく思つてゐる」(「崖」)とある。江戸・東京と連なる大きな文芸史の一角を占める、永井荷風が、その江戸・東京の文芸史の元祖のような、宝井其角と深いつながりがあるのである。そして、荷風が愛して止まなかった、この上行寺付近は、開発のラッシユで、「寺は神奈川県伊勢原市に移転し、一緒に其角の墓も江戸を離れてしまったという」(半藤・前掲書)。
この伊勢原市に移転した「上行寺」が、次のアドレスの、「其角三百回文学忌 ホームページ」というサイトで、「上行寺」・「其角墓」・「其角木像」などをつぶさに見ることができるのである。この管理人の二上貴夫氏は次のように記している。

○このサイトを制作・管理している、二上貴夫(フタカミキフウ)です。或る年の暮れでしたか、神田の古書店を歩いていて見つけた勝峯晋風編『其角全集』を読み、はじめて日本に固有の文芸「俳諧」がある事を知りました。「俳諧」を知るには実作しか無いと思い、それで平成元年頃より、俳句・連句を作り川柳も読み始めました。
それまで、石原吉郎の詩を読んで詩を書いた事はあったのですが、俳句・連句の文体と詩の文体とはかなりちがいますね、それに暫く戸惑いながらの実作でした。そこまでして「俳諧」の実作に打ち込んだのは、「其角には何か在る」と思ったからですが、其角全集を読めるようになるには、発句連句を作るという体験から入るほか無いと思ったからです。
そうこうして、六年ほど前、神奈川県の秦野へ移り住みましたところ、其角の墓が在る上行寺は車で15分の近くだと知りました。奇縁を感じました。それで、ご住職にお話をうかがうと、墓は無縁仏になっておりお寺で草取りをしているとの事で、其角三百回忌をする者もいないらしいとのこと。本当にダレもいないのだと思うと信じ難い気持ちがこみ上げて、これは故人への敬意としてどんなにささやかなものでも三百回忌の追善をしようと思いました。

http://kikaku.boo.jp/tuizen.html

(謎解き・十九)

○ 夕立や田をみめぐりの神ならば (其角『五元集』)
○ 三巡(めぐ)りの日向ぼこしに出たりけり (一茶『七番日記』)

三十五 其角のこの句には、「牛島三めぐりの神前に雨乞ひするものにかはりて」との前書きがあり、さらに、添書きに「翌日雨ふる」とある。「三囲(めぐり)」神社の「みめぐり」と「見巡(めぐり)り」の「みめぐり」と「恵(めぐ)み(の夕立)」の「めぐみ」とを掛け、さらに、「折句」スタイルで、上五文字の頭の「ゆ」、中七文字の「た」、下五文字の「か」で、「ゆたか(豊か)」の語を折り込んで、夕立の「豊か」と豊作の「豊か」を祈願した、どうにも、「言葉遊戯」の句というよりも、「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」「そらみつ大和の國は……言靈の幸ふ國と語り繼ぎ言ひ繼がひけり」(『万葉集』)の、「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」の「言挙げの呪術師」のような趣なのである。そして、其角のこの呪術は験を表わして、「翌日雨降る」と相成り、俳諧師・宝井其角の名は江戸中に広まったというのである。その其角去って、およそ百年後の、一茶が、大の其角ファンなのであるが、その其角を偲んで、隅田堤の下の、この三囲稲荷神社に赴いたところ、「雨ではなく日向の真っ盛り」の、それであったというのが、掲出の一茶の句である。一茶には、もう一つ、「十五夜や田を三巡りの神の雨」(文化二年)との「三巡り」の句があるというのだが(半藤一利著『一茶俳句と遊ぶ』・『其角俳句と江戸の春』)、由緒のある「古典俳文学大系本十五巻」(集英社)の『一茶集』(丸山一彦他校注)には、掲出の句は収載されているが、こちらのものは収載されていない。
さて、その其角去って、三百年、一茶去って、約二百年後の、平成十九年(二〇〇七)の「三囲稲荷神社」周辺の蘭氏のレポートは下記のとおりである。

○ 隅田川は、あいかわらずゆうゆうと流れていた。都鳥がいっぱい流れに身を任せて浮かんでいる。

  行水の何にとどまる海苔の味    其角
  隅田川とはにたゆたへ冬鴎     春蘭

駒形橋を渡って川岸を北上する。日陰で北風がよけいに身にしみる。言問橋の通りを横切って川と平行の道を北に進む。三囲稲荷神社の鳥居が見えて来た。こここそ、この旅を思いつく発端となった其角の雨乞いの句が詠まれた所だ。句碑と説明が社殿の真ん前にあった。

  遊ふた地や田を見めぐりの神ならば 其角

ただちに夕立が降ったという説と翌日という説があるが、其角の『五元集』には「翌日雨ふる」と後書がある。

  みめぐりの社ぐるりと冬木風    春蘭

其角は門人と吉原に行く途中だったという。其角の住いは茅場町、そこから猪牙舟に乗って隅田川をさかのぼり、丁度対岸の山谷堀に進路を変えるところが三囲神社あたりで、参詣のために一度舟を降りたのだろう。山谷堀に入り込む舟が込み合っていて一時休憩の場でもあったのだろうか。トイレ休憩を詠んだ川柳もあるがおげれつなので書かない。雨乞いしたあと、其角はまた舟に乗って山谷堀に入り、吉原に向かったであろう。私もその後を追う。今は言問橋がある。川にぷかぷか浮かんでいる都鳥を間近に見て、その大きさに改めて驚いた。君たちはあひるか。

  其の後をいざ言問とはん都鳥    春蘭

言問橋を渡って隅田公園をちょっと北上すると待乳山聖天に出る。ここは、その昔、山谷堀、吉原への目印となっていたという。山谷堀はすっかり埋め立てられ(暗渠?)長い公園となっている。桜の木が植えられており、ところどころに老人が朝から座ってひなたぼっこをしている。どういう訳か男性としか合わない。 

以下、文章は省略して、歌・句のみ記しておきたい。

(土手の伊勢屋)

  臨休の貼紙まえに侘び立てば
      土手の伊勢屋にあたる北風  春蘭

(吉原大門)

  闇の夜は吉原ばかり月夜哉     其角
  鯛は花江戸に生まれてけふの月    同
  呼び込みの声はやさしく金瓶梅   春蘭
  太夫とはマイフェアレディと心得よ  同
  冬日影苦界浄土の夢があと      同 

(吉原神社&吉原弁財天)

  白菊のはなにひきなくおく露は
     なき人しのぶなみだなりけり 智栄 

  この廓や月雪花も三菩薩      黒澤槭翠?

  日本では観音菩薩は女郎なり    春蘭
  寒影や花のよし原なごりの碑     同
  紅楼は夢か弁天寒を裂く       同

(鷲神社・大音寺)

  梅が香や乞食の家ものぞかるる   其角

(飛不動・寿永寺・日黄不動尊・浄閑寺)  

  寒風に匂ふ紫煙や無縁塚      春蘭

(三ノ輪商店街)

  十五から酒をのみ出てけふの月   其角
  白菜に一本付けておかめ蕎麦    春蘭

(都電荒川線)
  
  北風や道路に負ける荒川線     春蘭
  春隣都電でのぼる飛鳥山       同
  早稲田まで揺られてさめる寒の酒   同 

 
(謎解き・二十)

○ 立馬(たつうま)の曰(いわく)は猿の華心(其角『五元集』)

三十六 この掲出句には、「意馬心猿の解」という前書きがある。この「意馬心猿」は、「仏 。妄念や煩悩(ぼんのう)が激しく、心の乱れが抑えられないのを、奔馬や野猿が騒ぐのを抑えがたいさまにたとえた語」(『大辞林』)との仏教用語である。そして、この「解」には「解釈」と「分解」との二義があるという(今泉準一『其角と芭蕉と』)。この「分解」の意に解すると、この掲出句は、「意馬心猿」の「意」が分解されて、「立つ馬の」の「立」と、「曰くは」の「曰」と、「猿の心」の「心」の三つに分解して、一句の中に、「立(裁)ち入れ」(詠み込まれ)られているとともに、さらに、「馬・心・猿」の三字をも「立(裁)ち入」(詠み込まれ)られているのである。このようなある語(ある字)を一句の中に入れて詠むのを、和歌では「隠題(かくしだい)」、俳諧では、「立(裁)ち入れ」と呼ばれている(今泉・前掲書)。この句もまた、これらの「言葉遊戯」の句を超越して、「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」の「言挙げの呪術」のような趣なのである。すなわち、この前書きの「解」を「解釈」としてとらえて、この句の表面的な解釈は「馬が突然立ち上がるのは、それはそれなりに、曰く(意味)があって、それは、いわば、猿のさかりのついた浮気心と同じようなものだ」ということになる。そして、その背後には、「その猿の本能的な華(花)心が、種族の維持につながり」、そのことは強いては、「動物の生命現象の根底に存在するものだ」と、「言挙げの呪術師」の宝井其角は、「人間とて同じことであって、『意馬心猿』に徹し、極端な『戒律主義』に走ることは、まかりならない」ということを、この句に託しているのだという(今泉・前掲書)。其角の「謎句」の実態というのは、こういう、「言葉のレトリック(修字法・美辞麗句)」という世界を超越して、「言挙げの呪術」(神や精霊などの超自然的力や神秘的な力に働きかけ、種々の願望をかなえようとする行為、および信念。まじない・魔法・魔術など)の世界に近いもののように思われてくるのである。
(ここで、「歌仙」の三十六句の「挙句」という感じなのであるが、さらに、「続けられる」ところまで、続行することとする。)

○ けさたんとのめや菖(あやめ)の富田酒(とんだざけ)(其角『五元集拾遺』)

三十七 「今朝はたんと(十分に)呑めや菖蒲の(五月五日の端午の節句に万病を治す菖蒲酒の)富田酒(薬効に「富んだ」富田名産の「富田酒」を)」と、「十五から酒を呑み出てけふの月」の句をものにした酒好きの其角にふさわしい上戸の気持のよく現れた句であろう(今泉・前掲書)。「富田酒」に「富田名産の酒」と「菖蒲の薬効に富んだ酒」を掛けているが、其角にしては、それほど難解句というほどでもなかろう。ところが、この句は、「廻文」(「かいもん」又は「かいぶん」とも読む)との前書きがあり、いわゆる、「和歌・俳諧などで、上から読んでも下から逆に読んでも同じ音になるように作ってある文句。『たけやぶやけた』の類」の「廻文」形式の句なのである。どうにも、江戸の俳諧師の大立者・宝井其角というのは、変幻自在で、なかなか、その尻尾がつかめないのである。

○ 乾ヤ 兌 坎 震 離ス 艮 坤 巽  (其角『五元集拾遺』)

三十九 前書きに「格枝亭柱がくしに」とあり、添書きに「空や秋水ゆりはなす山おろしと御よみ候へ。下の字自然にまいり候こそ弥三五郎にて候」とある。「乾(けん)ヤ 兌(だ)  坎(かん) 震(しん) 離(り)ス 艮(ごん) 坤(こん) 巽(そん)」は、これは、『易教』の「八卦」なのだという。これを『易教』で読むと、「乾(天=空)ヤ 兌(秋) 坎(水) 震 離ス 艮(山) 坤(地) 巽(風)」となり、「空や秋水ゆりはなす山おろし」となり、「下の字自然にまいり候こそ弥三五郎(注・からくり人形の名)にて候」で、「艮(山) 坤(地) 巽(風)」は、「山おろし」と読んで欲しいということなのだそうである(今泉・前掲書)。前書きにある「格枝(其角の晩年の弟子)亭」・「柱がくし(柱の飾り)に」ということで、弟子の「格枝亭」の柱に飾りとして掛ける短冊のようなものに、『易教』の八卦の文字を組み合わせて、「易教文字」の発句という趣なのであろう。たしかに、こういうものを柱に掛けておくと、何かしら、空間芸術の趣がしてきて、これまた、「言挙げの呪術」的なスペースに思えてくる。しかし、これを、其角の発句集(俳句集)の『五元集拾遺』に集録すべきものなのかどうか、はなはだ、首を傾げたくなってくるのである。こういうことが、「其角の句は謎句が多い。難解句だらけだ。其角の句は幻術的で、衒学的だ」と、其角在世当時から、さまざまな風評を巻き起こす、その要因の一つになっているのであろう。

木曜日, 2月 08, 2007

其角とその周辺・一(一~九)


画像:蕪村筆「俳人群会図」

(謎解き・その一)

○ わが庵は月と花との間なり (古川柳)

一 「月と花」とは、俳諧(連句)の二大季題で、「月の定座」・「花の定座」として特別扱いを受けている。歌仙でいえば、「二花三月」で、「花」は裏の十一句目、名残の裏の五句目で、引き上げることはあっても、こぼすことはない。また、「月」は、表の五句目、裏の七句目、名残の表の十一句目で、引き上げることもこぼすことも自在である。この表の五句目の「月」の句と裏の十一句目の「花」の句の後に、「恋」の句を、そして、裏の十一句目の「花」の句と、名残の表の十一句目の「月」の句の間に、「恋」の句を登場させるのが、定石となっている。この、「俳諧」の「月・花」の「定座」ということを背景にしての、発句(俳句)や付句(川柳)は、数多くの例句を見ることができる。

二 俳句も川柳も、その母胎は「俳諧」(連句)ということを前提として、今日の「川柳」は、柄井川柳の登場以後の、いわゆる、『柳多留』等に収録されている「古川柳」が、その宝庫であることは、言をまたない。この「古川柳」での、「月・花」の句に、次のようなものがある。

○ つきはなのじようざ五丁の徳場なり (『柳多留』十二篇)
○ 月花を明りで見るは仲の町(『柳多留』四三篇)
○ 月花はいけん雪には追だされ(『柳多留』四四篇)
○ 月花はおやじ小言の定座也(『柳多留』十九篇)

三 これらの「古川柳」に見られる「月・花」との、「月」とは、「吉原における月の紋日」、
「花」とは、「仲の町の夜桜」と解されている(『川柳大辞典』)。

四 以上を前提として、冒頭の、「わが庵は月と花との間なり」の句意は、「私の庵は、吉原の月の紋日に代表される吉原と、その夜桜を代表する仲の町の間にあります」(そして、この句の背景には、私の順番の「恋」の句の場面の、その住処(箇所)は、月の定座と花の定座との間に挿まれております)ということにでもなるのであろうか。

○ 月花もなくて酒のむひとり哉 (芭蕉)

五 『曠野』(『泊船集』・『蕉翁句集』)に、「酒のみ居たる人の絵に」と前書きのある、芭蕉の発句(俳句)である。この句について、「いわゆる風流を愛する人は、月が美しいといっては酒を飲み、花が咲いたといっては酒を飲むが、この画中の人物はそんな通俗的な風流を避けて、ただひとり酒を飲んでいることだ。季語はなく、無季の句」として、さらに、
「『月花』は秋の月と春の花のことであるが、俳諧では大切にされている。風雅道のことにも用いる。『月花』とすれば『雑』の句となる」(井本農一・掘信夫注解『松尾芭蕉集』・「新編日本古典文学全集」小学館)としている。

六 ところが、『曠野集』(巻之一)には、「花 三十句」として、この芭蕉の句が、その二十九句目に、花の句として登場しているのである。そして、「○絵 この絵は現存不明。句から想像される所は、背景など一切なくて、うちくつろいで酒盃を挙げる人物一人がぽつんと描かれていたのだろう。○月花 季の扱いとしては春の句になる。▽人間がひとり酒を飲んでいる。見る所、月を楽しむというのでもなく、花をめでてというのでもないようだ。これはもう風流の域を超えた人物なのかもしれない。だが、なお風流の世界にとどまる自分たちとしては、月につけ花につけ楽しむ酒で、ようやく落ち着くような気持がするのである。この方のほうが立派ですね。季語『花』」(白石悌三・上野洋三校注『芭蕉七部集』・「新日本古典文学大系」岩波書店)との校注が施されているのである。芭蕉自身、この句は、この『曠野集』(巻之一)の「花 三十句」の一句として、「花」(春)の句として理解していることは、ほぼ間違いないところのものであろう。

○ 月花の初(はじめ)は琵琶の木どり哉 (釣雪)

七 さて、この句は、『曠野集』(巻之二)に、「歳旦」としてまとめられているものの一句である。「▽おおざっぱに琵琶の形に成形した用材。さらに細工を施し装飾を加えて、あの美しい楽器がうまれる。年頭にこのようなものを見ると、これからの風雅の数々が予想されて心楽しいことだ。季語『月花の初』」(白石悌三・上野洋三校注・前掲書)として、この句は、「春」の「花」の句ではなく、「月花の初」の「歳旦」(新年)の句ということになのである。

○ 月花や日本にまはる舌の先 (畔石)

八 さて、この掲出句は、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)が、元文四年(一七三九年・巴人六十四歳、蕪村二十四歳)に、宋阿の師、其角(宝永四年二月二十九日没)・嵐雪(宝永四年十月十三日没)の両師の三十三回忌にあたり手向けた追善集『俳諧 桃桜』所収の発句(俳句)の一句である。この掲出句の「月花や」の「月・花」は、上記(一・二・三・四・五・六・七)に鑑みて、いわゆる、「川柳」的な、「月(吉原)」・「花(仲の町)」との、当時の世相史的なことにおいて鑑賞すべきものなのか、それとも、其角・嵐雪の師である芭蕉の発句のように、「秋の月」・「春の花」の両方を意味する「雑」の句として鑑賞すへきものなのか、はたまた、それを、俳諧的な「花の座」(「花」は春)・「月の座」(「秋」の月だけではなく、四季の「月」が可)として、「花」の句にウエートを置いたものと理解すべきものなのか、それとも、「月花の初」の句として、「新年句会」(歳旦句会)のものとして鑑賞すべきものなのかどうか、はなはだ、困惑するのである。

九 芭蕉→其角・嵐雪→巴人・蕪村→(一茶)・(川柳)→俳句革新・川柳革新・・・という俳諧史の流れにおいて、確かに、「其角・嵐雪→巴人・蕪村」の時代においては、いわゆる、「比喩俳諧」として、「表面的な世界」と「その背後の世界」との、二方向でのアプローチが必須のような世界でもあった。このような時代史的な背景の上にたって、上記の、「月花や日本にまはる舌の先」を鑑賞すると、「表面的な世界」の鑑賞としては、上記の芭蕉時代のような鑑賞(上記の五・六・七)とあわせ、上記の川柳時代のような鑑賞(一・二・三・四)とが、その背景にあるということなのであろうか。

十 と解しても、これらは、「月・花」の「上五」に関してであって、句そのものの、「月花や日本にまはる舌の先」の、その「中七」の「日本」も、「下五」の「舌の先」も、どうにも、これは、作者以外には、理解不能のような、そんなものなのであろうか。何故か、この、夜半亭宋阿門の、京都在住の、名も知らぬ「畔石」という俳人が、「この句の謎を解いて下さい」と、そんな「催促」を、強いているような、そんな錯覚すら覚えるのである。というわけで、この句の表面的な理解は、「月花の初」の句と解して、「今年初めての月・花の連句興行において、さぞかし、日本中、到る所で、この『座』におけるように、花とか月とかの、風雅とやらの『言葉のやりとり』が、それぞれ『連衆』の『舌の先』で、展開されるであろう」とでも解しておきたい。そして、その背後の意味においては、「月の吉原と、花の仲町の、その『月と花』には、『日本堤』を通っていかなければならず、その『日本堤』に行く口実を、言葉巧みに『舌の先』で述べている」というようにも、解しておきたい。

○ わが庵は月と花との間なり     (古川柳)
● 天の原ふりさけみればかすがなる
       三笠の山に出でし月かも (阿部仲麻呂)
● 我庵は都のたつみしかぞすむ
       世を宇治山と人はいふなり (喜撰法師)
● 花の色はうつりにけりないたづらに
       我身世にふるながめせしまに (小野小町)

十一 振り出しに戻って、冒頭の「わが庵は月と花との間なり」(古川柳)は、あにはからんや、百人一首の、阿部仲麻呂の「天の原ふりさけみればかすがなる三笠の山に出でし月かも」の「月」と小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに」の「花」との間に挟まれている、喜撰法師の「我庵は都のたつみしかぞすむ世を宇治山と人はいふなり」の、その「わが庵」という解もあるようなのである(池田弥三郎『百人一首』)。ここまでくると、川柳なり、俳句なるものの一句を鑑賞するということは、その句意を「あれかこれか」と解釈するというようなことではなく、その一句に秘められた「謎」のようなものを、いわば、作者の「こころ」(当の本人さえ把握困難のような「こころ」)のようなものを、「あれかこれか」と「謎解き」をするようなものかと思えてきたのである。

十二 と解すると、これはまた、「俳諧(連句・俳句・川柳)は、楽しみ」(「老後の御楽(タノシミ)ニ可被成候」)という、「芭蕉語録」(芭蕉書簡)が、その本態なのであろうか。確かに、これ以上の「知的遊戯」(「知人の語録」)は、他にないのかも知れない。されば、歌仙興行でいけば、十二句目の、「恋」の句も終わり、「月の定座」ということで、この「謎解き」は、しばし、中断して、またの「楽しみ」といたしたい。

(謎解き・その二)

○ 目には青葉山時鳥初鰹      (山口素堂)
○ 目には青葉切りで句のなき京の夏(柳多留二八篇)
○ 目と耳はいいが口には銭がいり (柳多留三十篇)
○ 目と山と耳と口との名句也  (柳多留三十六篇) 
○ 目には雪手には青葉の年の暮れ (出目金)
○ 目には目を足には足を罪と罰  (兔)

十三 とにかく、「柳多留」の「名も無き」・「川柳子」たちは、芭蕉であれ素堂であれ、どんなものでも、見事に料理してしまう。「目には青葉、耳には時鳥の鳴き声、口には旬の初鰹」と、「まさに、初夏の風情」を見事に、十七字化する。しかし、こんどは、「目・耳・口」から「手」の句も登場した。「手」があるならば、「足」もあるだろうと、「罪と罰」の一句、これも、久々の快心作という趣なのである。

○ 目には青葉山時鳥初鰹      (山口素堂)

十四 とした上で、この掲出の名句は、「目には青葉・(耳には)山時鳥・(口には)初鰹」と「六・七・五」の詠みと、その詠みに伴う、鑑賞の仕方が一般的だが、これは、「目には青葉山・(耳には)時鳥・(口には)初鰹」と、詠みは、ともかくとして、句意は、「青葉」ではなく、「青葉山」と理解すべきなのではなかろうか。

○ わが庵は月と花との間なり (古川柳)
○ 月花や日本にまはる舌の先 (「俳諧桃桜」・畦石)

十五 奴さんの謎句は、「わが庵は月と花との間なり」であった。兔の数年越しの謎句は、「月花や日本にまはる舌の先」であった。そして、偶然に、この謎句同士が一緒になって、これらの謎句の「月花」関連については、イメージが鮮明になりつつある。しかし、依然として、兔の謎句の「日本」と「舌の先」とは、藪の中である。インターネットの情報を駆使していくと、相当の所までは、その謎解きの核心に迫られる思いがするのだが、この面での「楽しみ」も格別である。

(謎解き・その三)

   空道和尚いかなるか
是汝が俳諧と問はれ
しに即答
○ 庭前に白く咲いたる椿哉   (鬼貫)
   馬上吟
○ 道のべの木槿は馬にくはれけり(芭蕉)
○ 煮売り屋の柱は馬にくはれけり(川柳子)

十六 俳句(発句)に前書きがあるがものがあるが。川柳(付句)にはほとんど前書きのあるものを目にしない。鬼貫の句について、「第一句は詞書によって見ると、所謂、柳は緑花は紅といふやうな、禅の悟りめいた事を表はしたものと見る」(潁原退蔵著『俳諧評釈上』)と「詞書」(ことばがき)の用例をしていてる。だが、芭蕉の句については、「紀行(註・『野ざらし紀行』)には、『馬上吟』と前書がついている」(潁原・前掲書)と「前書」(まえがき)の用例をしている。そして、この芭蕉の句について、「自分の乗つてゐる馬が、馬子が一寸立止まつてゐる間か何かに、路傍の木槿をばくりと一口食つてしまつた眼前の即景を、そのまま句にしたのである。これは『出る杭はうたれる』といふ教訓的の寓意があるやうに解するのは誤つてゐる。ある説に芭蕉の禅の師である仏頂和尚が、芭蕉に俳諧の如き綺語を弄することを戒められた所、芭蕉は『俳諧は只今日目前の事にて候』といつて此の句を即吟した。すると和尚は『善哉々々俳諧もかかる深意あるものにこそ』と感じて、以後は芭蕉の俳諧を制しなかつたと伝へてゐる。これは恐らく実説ではあるまいが、少くとも此の句の真意を領した逸話として面白い。この句には確かに一種禅味を帯びたところがある」としている。さらに、掲出の鬼貫の句と比較して、「(註・鬼貫の句)の如く、芸術的感激の希薄な結果、ひとりよがりの理屈やいや味に陥るものが多い。然るに此の句(註・芭蕉の句)は流石に禅理を説き示そうなどといいふいや味は全くなく、ただ眼前の即景を淡々と描き去つてゐる。箇中の妙味はそこにある。素堂(註・山口素堂)はすでにこの紀行の序に『山路来ての菫、道ばたの木槿こそ此の吟行の秀逸たるべけれ』と評し、許六(註・森川許六)は『歴代滑稽伝』の中に、談林を見破つてはじめて正風体を見届け、躬恒(註・凡河内躬恒)・貫之(註・紀貫之)の本情を探つた句だと称賛してゐる」(潁原・前掲書)。
 ことほどさように、この芭蕉の句が、「躬恒(註・凡河内躬恒)・貫之(註・紀貫之)の本情を探つた句だと称賛してゐる」とまでされているのである。これは一にかかって、掲出の鬼貫の「詞書」(前書き)が、長々と禅味臭いのに対して、芭蕉のそれは「馬上吟」といかにも何の衒いもないような俳諧的なそれに因るところが大と思われるのである。それが故かどうか、川柳子たちは、この芭蕉の句に対して、掲出句のように、「馬は道のべの木槿なんかを食わず、煮売り屋の柱を食ったんじゃないか」と痛烈に風刺の句を今に残しているのである。

(謎解き・その四)

笠は長途の雨にほころび、 紙衣はとまり
とまりのあらしにもめたり。侘つくしたる
わび人、我さへあはれにおぼえける。むか
し狂歌の才士、此国にたどりし事を、
不図おもひ出て申侍る。
○ 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉    芭蕉

十七 「前書(まえがき) 和歌・連俳用語。『詞書』(ことばがき)とも。和歌や連歌・俳諧の発句の前に置かれ、主としてその成立事情を記した文章。一般に和歌では『詞書』、俳諧では『前書』と呼ぶ場合が多いが、その逆の例もあり明確な区別はない。和歌や発句が贈答・挨拶など作品成立の当座性との関わりが深いため、それを散文で補うことが必要とされた。元来は実用的な記録を目的としたものであるが、在原業平の長文の詞書は歌物語との関わりで注目され、また歌学書では『詞書にゆずる格』が詠歌の一体とされている。俳諧においても、多く発句の趣向を明らかにするために、成立事情などを記した断り書きにすぎないが、長文の和文脈で綴られたものや漢詩文を用いたもの、謡曲調をそのまま引用したものなど様々なバリエーションがある。特に蕉門では、一種のレトリックとして前書による表現の可能性に着目し、これを説明書きとは区別して『発句の光を掲ぐる前書』(『宇多法師』)と呼び、『前書並びに文章等蕉門の手柄あり』(『旅寝論』)と自負していた」(『俳文学大辞典』)。なるほど、掲出の、『冬の日』の冒頭の歌仙の、その前書き付きの、芭蕉の発句などを見ると、「レトリック」(修辞法)重視の蕉門の姿勢が見えてくる。この芭蕉の句の「前書き」と発句に出てくる、「狂歌」と「狂句」という用例で、この「狂句」
は、「俳諧の中国風の言葉」だそうだが(上野洋三他・前掲書)、後に、「川柳」と同意義に用いられており、ここも、「発句」(俳句)そのものではなく、「狂句」(川柳)の方にウェートを置いて鑑賞した方が、より、このときの芭蕉の姿勢に近いのではなかろうか。

(謎解き・その五)

○ 待ちかねて  月代(さかやき)妻に剃らせけり
○ 夜も寝ずに  かるたに痩する松の内
○ 顔出して   大黒舞の昼休み
○ 空寝入(り)   して追ひにくき顔の蠅
○ どこやらが  女房の留守は拍子抜(け)
○ もも尻に   なつて異見を聞く我が子

十八『奈良土産』(元禄七---一六九四刊)所収の「笠附け」である。「笠附け」は、五文字で出題し、その五文字に、十二字で付句をするのである。別名、「烏帽子附け」・「冠附け」・「五文字附け」・「かしら附け」など。雲鼓の『西国船』((元禄十五---一七〇二刊)に、「一句一句の頓作、心の機(はたらき)、詞の軽口あたらしきを賞翫して」とある(渡辺信一郎著『江戸文学の粋・短詩型文学・前句附け』)。『奈良土産』が刊行された元禄七年には、芭蕉が五十一歳の生涯を閉じた。『西国船』が刊行された元禄十五年には、「幕府、俳諧の笠附けを禁止」とある。いかに、この種の「前句附け」が爆発的に流行していたかが察知される。(ここで、半歌仙が終わり、名残の表へと続いていく)。

(謎解き・その六)

○ 真 はたごやの  一間は橋をこえて行(く)
○ 草 はたごやで  親の内ほど起(こ)さるる
○ 真 寒声(かんせい)の  足まで潮が満って来る
○ 草 寒声の        外のものじゃと追出され

十九 これも「笠附け」であるが、伊勢地方のそれは「伊勢冠句」として特に名高い。一日に一題を出し、翌日に入選作を発表する形式で、毎日数千句も投句されたという(渡辺・前掲書)。掲出のものも、「伊勢冠句」の一つで、ここに、掲載されている「真」は俳諧のそれで、「草」は今でいう川柳の「雑俳」とのことである(渡辺・前掲書)。この頃になると、五文字の笠題の字数は流動化してくるという(『俳文学大辞典』)。この掲出句は、享保十二年(一七二七)の「五柳」点(選)のものである。この享保十二年には、「伊勢一句立が流行。幕末に及ぶ」と俳諧史の年譜にあるが(『俳文学大辞典』)、この「伊勢一句立」と「伊勢冠句」は同意義と解して差し支えなかろう。

(謎解き・その七)

○ 行水 の 肌は奈良にもさらし兼ね
○ 行水 を 夕立が来てうめていく
○ 行水 の 始末も京が美しい

二〇 これも伊勢冠句で、おおむね川柳点的な作風が多い(渡辺・前掲書)。行水は信仰的な潔斎の意味もあって、当時は必ずしも夏の季題ではなかったが、次第に市井の風物詩として夏の「季題」として定着してくる。しかし、「行水」は「ぎょうずい」の詠みなのか、それとも「ゆくみず」の詠みなのか、なかなか判然としない場合が多い。先の『俳諧桃桜』の発句の部の冒頭の句の「月花や日本にまはる舌の先」(畔石)の次に、「行水の枯木に花の深みどり」(南岫)という句が続く。また、其角追悼句集にふさわしく、「行水の雑談集や花かたみ」(潭考)などの句も見られる。そして、其角の次の句を背景とした次の句も登場する。

○ 行水や何にとどまる海苔の味 (其角『早舟の記』)
○ 行水やともに消えゆく海苔の味(巴井『俳諧桃桜』)

この其角の『早舟の記』は、次のアドレスで見ることができる。

http://kikaku.boo.jp/haibun.html

ところが、この「俳諧ネット」でも、次のような「海苔」の句が登場したのである。

○ 目算は味付け海苔を敷き詰めて(狸『俳諧ネット』) 

この「海苔」の句は、次のような解説が施されていた。
「自分は形勢判断で地を数えるときに、三かける四の十二目の面積を一枚として、一、二、三、四、五と数えています。五枚で六十目、六枚で七十二目といった感じです。十二目のサイズが海苔サイズに近いと思い、いい加減な句でしたが、十二目単位でぺたぺたと数えてみると、速く、また模様の大きさなどがたちどころに分かり、大雑把に形勢がつかめますので、足りなければがんばり、余裕なら、ヨセてしまう、といった方針がたてられるので、上手の石もいなせるようになるのではと思われます」。この句も、この解説と一諸でないと理解困難な謎句の範疇に入るものであろう。

さて、この謎句的な句の範疇に入ると思われる、上記の「其角」・「巴井」、さらには、「南岫」・「潭考」の句について、「これは、このように解せるのではないか」という情報があったら、是非、その情報をお寄せいただきたい(こういうものは、どれが正解などということではなく、「こういう解もある。こういう考えもできる」ということが、これらの謎句の背景のようである)。       

(謎解き・その八)

○ 行水や何にとどまる海苔の味 (其角『早舟の記』)
(蘭解読・「行く水は何にもとどまらないように見えて、海苔の味に大きな影響を与える。海苔の味としてとどまる」という意か。)
○ 行水やともに消えゆく海苔の味(巴井『俳諧桃桜』)
(蘭解読・其角の句の本句取りで、「最近の海苔は昔ほどうまくなくなった。やはり行く水のせいか」という意か。)

二一 掲出の謎句の一つの解読が、「活字」の世界と「ネット」の世界の両方に精通している蘭氏には、常人が「年」単位のものは「月」単位、「月」単位のものは「日」単位、そして、「日」単位のものは「分」単位で、把握できるようなのである。しかし、まだまだ、「連歌・連句・俳諧・俳句・川柳」の分野においては、ネットの世界のデータは少なく、蘭氏の、これまで培った活字の世界のデータが、その背後にあるのであろう。ネット世界のデータの一つとして、先に紹介した、下記のアドレスの其角の「早舟の記」(其角三百回忌記念シンポジュウム)の一番末尾の「早舟の記解説へ」というところをチェックすると、二上貴夫氏のレジュメ(其角資料)が出てくる。

http://kikaku.boo.jp/haibun.html

この二上貴夫氏のレジュメを見ていくと、掲出の其角の「行水や何にとどまる海苔の味」について、「『行く水や』の発句は、鴨長明『方丈記』の『ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある、人と栖と、又かくのごとし』を引いている。世の無常を嘆いているよりも、今々に発生し留まる海苔の味を噛みしめるべきであろうと言うわけだ」が、その背景にあるとし、「伝統的無常観と其角流あはれの始まり」について、実に、興味のある見解を示しているのである。それ以上に、次の二上氏の指摘は、誠に同感と、そして、その卓見を基礎に置かなければならないことを痛感したのである。

※今のこの現在とは、「何にとゝまる海苔の味」と其角が感じ取った途中途中の《モノ》であり発生の《トキ》であり、その瞬間瞬間の充実した《ミ》であって、それが無常の味である。「一瞬の櫓をおさへて生路を勘破ス」これが其角の感じた無常(あはれ)であり、其角の俳味であった。決して時間が止まるような永遠や無境界や陶酔と言った悟りの境地などではなく、ありのままの正覚現象である。しかし、この其角流のあはれを判定し得る者は、同時代にもそれ以降にも、冨永半次郎(1883-1965)が現れるまで居なかった。冨永氏の著書は、戦前昭和19年に中央公論社より『剣道に於ける道』を出したのみで、アカデミズムにもジャーナリズムにも無縁であったため、一般には全く知られていない。其角三百回忌記念シンポジウムに当たって、かつて冨永氏の勉強会に出席されて学ばれたという小谷幸雄氏より、「生中心の人間学-冨永半次郎の其角論」と題した講義をいただいた次第である(二上貴夫稿「早舟の記・解説」)。

※※この「アカデミズムにもジャーナリズムにも無縁」の世界にこそ、今後の「ネット」世界の一つの重要な羅針盤があるように思えるのである。

(謎解き・九)

◯ 月花ヲ医ス閑素幽栖の野巫の子有(『桃青門弟独吟二十歌仙』)

二十二 この「謎句を解く」のスタートは、「生角」(「ナマカク」とも「キカク」とも詠む)の別号を持つ奴氏の「わが庵は月と花との間なり」の問題提起を切っ掛けとしてであった。たまたま、「俳諧桃桜」で、「月花や日本にまはる舌の先」(畔石)を、どのように鑑賞すべきかということとあわせ、同じような関心を持っている同胞が身近にいたという親しみをこめてのメッセージのようなものであった。この「月花や日本にまはる舌の先」に関心を持った当時には、「月花」に関する手掛かりになるような目ぼしいデータは集まらなかったのだが、このところ、この「月花」に関するデータが自然と向こうから飛び込んでくるのには、どうにも、「目を白黒」する思いなのである。そして、「謎句」の元祖のような、其角さんが、昨年(二〇〇六年)で、丁度、その三百回忌にあたり、このネットで、江戸博物館で行われた、その三百回忌のシンポジュウムの「早船の記」のレジュメ(二上貴夫稿)を目にして、「生角」さんと同じ位に、その元祖の、「其角」さんに関心を持ち始めたというのが、現在の心境でもある。掲出の句は、その「其角」さんの「月花」の句で、芭蕉が、「芭蕉」の号よりも「桃青」の号を多く使用していた当時の、いわゆる「虚栗」(みなしぐり)時代の「漢詩文・破調」の一句といえよう。この句の解説(二上貴夫稿)は次のとおりである。

※其角の父・竹下東順は医をもって本多某候に仕え、歌・俳諧は由良正春門であり、東順は長子其角に医師としての素養と当代最高の教養をつけさせようとしたようだ。しかし其角は、結局は医師にはならず「月花ヲ医ス」俳諧師の道を選んだ。

このことと、先の奴氏の「其角」の号の由来の次のメッセージをダブらせると、「俳諧師・其角」という像の一端が浮かんでくる。

※「易経 其角(そのつの)を晋(すす)む維用(これもって)邑を伐ときはあやふけれども吉咎なし貞なれば吝なり / 角はかしらの上にあるものなり / すすむに先だつものなり / 剛(つよき)のいたりとす / このコウは晋(すすむ)の卦の上にあるがゆえに進に極(すぐる)ときはさはがしくいそぐのあやまちありとす / 又剛に極るがゆえに猛くしてものをそこなふのあやまちありとす」。

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)

この掲出の句は、「其角」の号の由来をメッセージしてくれたところの奴氏が、「どうにもわからない」という謎句である。こういう句を発句として、これに脇句を付けるとしたら、
どのようなものになるのか。俳諧(連句)は、前句を鑑賞して、その鑑賞の上に立って、付句を考案するから、「謎句」であろうが、何であろうが、たとえ、それが、「美しい誤解」と喧伝されようが、一定の、意思決定をしなければならない。

○ 千曲川春ゆく水や鮫の髄 (其角)
   鰆東風吹く江戸の紋様 (兎)

火曜日, 1月 09, 2007

回想の蕪村(六・六十六~七十)



回想の蕪村六

(六十六~七十)

 これまで、『夜半楽』の三部作、「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」のうち、異色の俳詩といわれている「「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」を見てきた。ここで、『夜半楽』の巻軸の句(巻物の軸に近い部分。すなわち一巻の末尾。巻中の最も優れた句)の「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)に触れることにする。『蕪村全集(一)』(講談社)の句意等は次のとおりである。

○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声

季語=うぐひす(春)。「あな憂」と掛ける。語釈 ○春もやゝ=下に「闌(た)け」を利かせる。○むかし声=老いた声。句意=春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ。すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって。老鶯の声に託し、蕉風全盛の今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、一四八八(註・次の句)との照応を完成させた。 

○ 祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師

季語=歳旦(春)。歳旦開きに作る句。語釈 ○祇園会=京都八坂神社の祭礼。六月七日から七日間。鉾の上での鉦・笛・太鼓の囃しが名物。○秋風=秋風楽。雅楽曲の一。○音律=雅楽の音の調子。○さび・しをり=蕉門亜流の遵法する俳諧理念。○春興盛席=華やかな初春の俳席。○吾妻の人の口質=江戸座の亡師巴人の詠みぶり。したり皃=得意げな表情。「歳旦をしたり」と掛ける。句意=こんな古くさい掛け詞を織り込んだ歳旦句を、さもうまくやったとばかり得意顔をしている俳諧師よ、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとの抱負を裏返した、自嘲的自画像。

(六十七)

『蕪村全集(一)』(発句)は、尾形仂氏が担当したので、上記の句意等の解説は、尾形仂氏のものと理解して差し支えなかろう。ここで、『蕪村の世界』(尾形仂著)の解説などを見ていくことにする。
○「春もやゝ」の句は、『夜半楽』の総巻軸として、「春もようやく深まった今日このごろ、なんていやらしい鶯よ、すっかりふけこんだ古臭い声でさえずって」と、老鶯の声にかこつけ、蕉風花ざかりの今、時代遅れの江戸座的詠風をひけらかしている老年の自分を自嘲的に詠むことで、巻頭の「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」との照応を完成したもの。その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである(『蕪村の世界』)。
※蕪村の安永六年の春興帖・『夜半楽』が極めて構成的に編集されていることについては、これまで見てきたところであり、その意味で、「巻頭の『歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師』との照応を完成したもの」という指摘は十分に首肯できる。しかし、その他に、蕪村の脳裏には、蕪村の初撰集の『宇都宮歳旦帖』の軸句に登場する「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の鶯(そして、この鶯は、蕪村のその後の「歳旦帖・春興帖」には陰に陽に登場する)、その鶯との照応もあったことであろう(このことについては、前にも触れたが、ここでも、それらのことについて下記に再掲をしておきたい)。さらに、「その巻頭・巻軸の照応を通して、蕉門亜流全盛の俳壇を、俳諧本来の笑いの回復をもって一新しようとする抱負を逆説的に利かせたのである」という指摘については、これはより多く、「蕉門亜流全盛の俳壇」というよりも、これまでの自分を含めての「夜半亭一門俳諧」についての、安永六年の年頭に当たっての新たなスタート点の確認というような意味合いを有していることも付記しておきたい。
※ これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである(「回想の蕪村」四十一・再掲)。

(六十八)

○ かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春(『明和辛卯春』・巻頭句)
○ 鶯の粗々がましき初音かな(同上・軸句)
○ 出る杭を打うとしたりや柳哉(同上)

 蕪村が五十五歳で夜半亭二世を継いだ翌年の明和八年(一七七一)の、襲号を記念して編んだ春興帖の巻頭句と軸句(二句)である。そして、それから六年後の安永七年(一七七七)の春興帖の巻頭句と軸句は次のとおりである。

○ 歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師(『夜半楽』・巻頭句)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(同上・軸句)

『蕪村の世界』(尾形仂著)では、この『明和辛卯春』と『夜半楽』とを視野に入れながら、上記の『夜半楽』所収の巻頭句と軸句との鑑賞を試み(上記六十六・六十七)、さらに、上記の『明和辛卯春』の軸句の一つの「鶯の粗々がましき初音かな」について、次のように鑑賞している。

○初音の鶯がまだホウホケキョウと正しく鳴くことができず、お粗末さまといった鳴き声だという、一見初鶯に優しい愛情を寄せたと取れる句の裏面からは、新参の宗匠として初の歳旦帖を出しは出したが、いかにも不十分な出来でお見苦しい次第だという、謙遜の挨拶の寓意が伝わってくる。
 
 そして、もう一つの軸句の「出る杭を打うとしたりや柳哉」について、次のような鑑賞文を続けている。

○そうなれば、この句もまた、単なる嘱目ではなく、「打(うた)うと」とする主体は京
俳壇の古参宗匠たち、「柳」に自身を擬した新参宗匠としての挨拶の句、ということになってくる。生意気にしゃしゃり出た邪魔者、エィ、頭をたたいてやれ、というところかも知れませんが、どっこい、私は今芽吹こうとしている柳、大きくなっても、”風の柳”で、けっして皆様方にさからったり邪魔になったりしませんので、何分にもお手柔らかに、どなた様もよろしく、といった具合に。その卑下の挨拶の裏には、むろん、旧套一新、新しい一歩を踏み出そうとの意を寓した巻頭吟(註・「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや明の春」の句)に応ずる、これから芽吹こうとする者の決意が隠されている。あえて「打(うた)うとしたりや」という民謡調の俗語表現を採ったのも、「かづらきの帋(かみ)子脱(ぬが)ばや」という巻頭吟のおどけた身ぶりに応じ、そうした寓意を笑いに紛らわせようがたるではなかったか。

 蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」は、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調・構成を帯び、そこに収載されている「巻頭句」や「軸句」も、それぞれがそれぞれに呼応し、同じような色調と寓意とを秘めているということであろうか。かく解することによって、安永六年の春興帖『夜半楽』とそこに収載されている二大俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」、そして、その最後を飾る総巻軸句の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」に、蕪村が託した創意というのが見えてくる。

(六十九)

○ 古庭に鶯啼きぬ日もすがら (『宇都宮歳旦帖』軸句・寛保四年)
○  鶯の粗々がましき初音かな (『明和辛卯春』軸句・明和八年) 
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声 (『夜半楽』軸句・安永六年)
○ 冬鶯むかし王維が垣根哉(『から檜葉』臨終三句の第一句・天明三年)
○ うぐひすや何ごそつかす藪の中(『から檜葉』臨終三句の第二句・天明三年)
○ しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(『から檜葉』臨終三句の絶吟・天明三年)


 蕪村が、蕪村の号をはじめて名乗ったのは、寛保四年(二十九歳)の『宇都宮歳旦帖』の鶯の句であった。そして、蕪村が、名実共に夜半亭俳諧の総帥として夜半亭二世となり、その翌年の明和八年(五十六歳)の『明和辛卯春』に夜半亭と署名したのも、鶯の句であり、そして、安永六年(六十二歳)に、異色の俳詩二編(「春風馬堤曲」・「澱河歌」)とともに、老鶯児と題しての一句も、鶯の句であった。それから六年の後の天明三年(六十八歳)の臨終三句のうちの二句が鶯の句であり、その二句の鶯の句の後に、「初春」との題をおくように命じての「しら梅に」(白むめの)の句が、その絶吟となったのである。その絶吟を後世に伝えたのが、夜半亭三世・高井几董の『から檜葉』であり、その几董の「夜半翁終焉記」には、その臨終三句について、次のように記している。

○此三句を生涯語の限りとし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。(此の三句を生涯の作品の最後として、眠るように臨終を迎え、めでたい往生をとげられたのであった。)

 こうしたものを見ていくときに、これらの鶯は蕪村その人の分身であり、その分身である鶯が、そのエポック、エポックに、蕪村その人の映像として、これらの句に接する者に語りかけてくるように思えるのである。そして、『夜半楽』所収の「老鶯児」と題する鶯の句も、単に、自嘲的自画像(尾形仂著『蕪村の世界』)という理解から、何故か、「老懶(ろうらん)」の「老いていことのもの憂さ」というようなものを語りかけているように思えてならないのである。そして、それは、その前年(安永五年)の「老懐」と題する次の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)

 さらには、その一年前(安永四年)の次の「老懶」の一句と交響しているように思えてならないのである。

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(『続明烏』・『新虚栗』)

(七十)

○ うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね(安永四年・『続明烏』・『新虚栗』)
○ 去年より又さびしいぞ秋の暮(安永五年正名宛・短冊)
○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声(安永六年『夜半楽』軸句)


 安永四年の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのものであることは言をまたないであろう。芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。安永五年の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでない中にあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」も、所詮、「憂い・老懶」が増すばかりと、その最後に持ってきたのではなかろうか。

月曜日, 11月 20, 2006

回想の蕪村(五・五十一~六十五)



回想の蕪村五・五十~六十五

(五十)

安永六年(一七七七)の春興帖『夜半楽』は、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)の三部作をもって、あたかも一篇の連作詩篇を構成するかのごとき体裁をとっている。その三部作の「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、ともすると、その「春風馬堤曲」の従属的な作品と解されがちであるが、これまた、「春風馬堤曲」と同じく、実に多くの謎を秘めている興味の尽きない、これまた、異色の俳詩である。
この異色の俳詩「澱河歌」は、その初案と思われる、「澱河曲」と題するものと「澱河歌」と題するものとの二つの「扇面自画賛」が今に残されているのである。その二つの「扇面自画賛」は次のとおりである(『蕪村全集六』)。

「澱河曲」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 一七・八×五〇・八センチ
  款 右澱河歌曲 蕪村
  印 東成(白文方印)
  賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願並枕長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去ること
    すみやか也
    妾は水上の柳のことし
影 水に沈て
したかふことあたはす

「澱河歌」自画賛
  紙本淡彩 扇面 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
  款 夜半翁蕪村
  印 趙 大居(白文方印)
  賛 澱河歌 夏
    若たけやはしもとの遊
    女ありやなし
    澱河歌 春
    春水浮梅花南流菟合澱
    錦纜君勿解急瀬舟如電
    菟水合澱水交流如一身
    船中願同寝長為浪花人
    君は江頭の梅のことし
    花 水に浮て去事すみ
    やか也
    妾は岸傍の柳のことし
影 水に沈てしたかふ
ことあたはす

(五十一)

 ここで、もう一度、『夜半楽』所収の「澱河歌」を再掲して置きたい。

  澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず


(五十二)

 先に紹介した、「澱河曲」自画賛は、昭和四十三年十月、羽黒山における第二十回俳文学会全国大会を記念して酒田市の本間美術館で開催された「芭蕉と蕪村と一茶展」で、出品されたので、尾形仂著『座の文学』所収の「蕪村」(「澱河歌」の周辺)において、次のように紹介されている。
「この扇面自画賛は、戦前の蕪村関係の諸画集はもとより、戦後催された日本経済新聞社主催の蕪村展(昭和三二)、逸翁美術館の蕪村特別展(昭和三八)、同蕪村総合展(昭和四一)、東京国立博物館の日本文人画展(昭和四〇)、毎日新聞社主催の蕪村展(昭和四一)等の目録にも載っていない珍品として、当時の参会者の注目を引いたので、その図柄を記憶にとどめている人も多かろう。今では森本哲郎氏の『詩人与謝蕪村の世界』(昭和四五)の口絵にカラーで収められて、ひろく一般にも知られている。画は、右手に持った扇子で顔を隠しつつ立ち去り行く遊客と、それをうらめしげに見送る遊女を描く。遊女は「奥の細道」の画巻や屏風に見える市振の遊女と筆意も同じこうがい髷で、元禄袖のうちかけをはおり、右袖で口もとをおおっている。遊客は五分月代(さかやき)の額ぎわを角(すみ)に抜き、髪に元結(もとゆい)を巻きたてた、いわゆる丹前風に頭を結い、羽織のかげからはことごとしい太刀の柄をのぞかせている。この名古屋山三まがいの顔つきは、蕪村の俳画にはめずらしいが、男女いずれも江戸初期の擬古的風姿による戯画で、当代風俗のスケッチではない。女に後を向けた遊客の背中の丸みは、例の「時雨三老像」中の月渓像の艶冶(えんや)を思わせ、その淡彩を施した洒脱な描線は、安永五年八月十一日付几董宛書簡にみずから「はいかい物之草画、凡(およそ)海内に並ぶ者覚無之候(おぼえこれなくそうろう)」と誇示する蕪村俳画をうかがわしむるに十分である。」
 そして、これに続けて、先に紹介した、蕪村真蹟の賛を紹介している。この「澱河曲」画賛は、紛れもなく蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」の一異文と解して差し支えないものであろう。

(五十三)

 蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」のミステリーなのは、昭和四十三年十月に新しく世に公表された、その初案とも思われる、扇面に描かれた「澱河曲」自画賛(上記のとおり)の他に、もう一つの、「澱河歌」自画賛(扇面)が出現したということなのである(尾形仂著『蕪村の世界』)。これが、上記で、その全容を紹介したところの「澱河歌」自画賛である。ここでは、「澱河曲」画賛の男女の図柄ではなく、「中央やや右寄りに舟をさす船頭の姿を描き、舟の後部は画面左下にさし出た近景の柳の葉蔭に隠れて見えない」(尾形・前掲書)と、船頭と柳の図柄なのである。そして、和詩の部分の「『江頭』の措辞は初稿の『澱河曲』に一致し、『岸傍』の措辞は『夜半楽』「澱河曲」のいずれとも一致しない。漢詩句が『夜半楽』と一致していることからいって、全体としては「澱河曲」から『夜半楽』所収の定稿に移る中間過程に位置するものといえようか」とし、「注目されるのは、詩題に『澱河歌 春』と見え、さらに画面右の空白部に『澱河歌 夏』として、『若たけや / はしもとの遊女 / ありやなし』の句が配されていることである。「若たけや」の句は『続明烏』(安永五)所収。もと安永四年五月二十一日、几董庵での月並句会の兼題『若竹』によって成った作か。『蕪村遺芳』その他所収の自画賛で名高い。橋本は現京都府八幡市内。当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多いが、右の自画賛の画面(註・『蕪村遺芳』)は風にそよぐ竹林の奥に二、三の矛屋を描いたもので、現実の遊所のスケッチとは違う。蕪村が竹林の奥に幻視したものは『撰集抄』に見える『江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか』で、橋本の遊女への追憶は『新花摘』に『ほとゝぎす哥よむ遊女聞ゆなる』の追悼の句を捧げた亡母への慕情と遠くつながっていた。竹林の風景は、蕪村にとって、郷里毛馬のなつかしい思い出への通路であったといえる。扇面自画賛(註・「澱河歌」自画賛)か描かれた扁舟は、今、京の春を見返りつつ、橋本より毛馬へと棹さし下そうとしているところだろうか。となれば蕪村は、伏見での送別の場で「澱河曲」(註・「澱河曲」自画賛)が成った後、これを推敲して『夜半楽』に収めるまでのどの時点でか、『澱河歌』の題のもとに、郷愁のモチーフにもとづく淀川の四季の連作詩篇の作成を企画していたことになる。はたして秋・冬の画面には、どんな作が配されていたのか(あるいは配そうとしていたのか)。蕪村の句集をひもときながら、それらをあれこれと思いめぐらしてみることは、私ども後世の読者に託された夜半の楽しみといってもいいだろう」(尾形・前掲書)と続けている。これらの、『座の文学』・『蕪村の世界』所収の「澱河歌」周辺のことなどについて、そのミステリーの部分を、さらに紹介をしていきたい。

(五十四)

○ 送友人帰浪華(友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル)
  今夜到伏水 明朝直帰郷(今夜伏水(フシミ)ニ到ル。明朝直チニ郷ニ帰ラン。)
  舟中作何夢 惜別断我腸(舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス。別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ。)

 上記は、几董の『丙申之句帖』(へいしんのくじょう)の中のもので、これらについて、
尾形仂氏は『座の文学』で詳細に論じ、そして、その後の『座の文学』で再度論じて、こ
の几董の漢詩の「送友人帰浪華」の「友人」は、上田秋成(無腸)その人であると特定し
ている。ここのところを、『座の文学』(「学術文庫版付記」)で、氏は次のように記してい
る。

○ 本稿執筆の時点では、「澱河曲」を贈った相手を特定するにいたらなかったが、その後
『丙申之句帖』の記載順序や暦日などを再検討した結果によれば、これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される(拙著『蕪村の世界』参照)。

 ここのところを『蕪村の世界』で見ていくと次のとおりである。


○蕪村の題詞の「伏見百花楼ニ遊ビテ」(註・「澱河曲」画賛の「遊伏見百花楼」)と几董の起句の「今夜伏水(フシミ)ニ到ル」、同じく「浪花ニ帰ル人ヲ送ル」(註・「澱河曲」画賛の「送帰浪花人」)と几董の詩題の「友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル」、蕪村の詩句の「舟中願ハクハ枕ヲ並ベ」と几董の転句の「舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス」、蕪村の和句の「影水に沈てしたがふことあたはず」と几董の結句の「別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ」といった、字句・内容の類似を見れば、両者を同じ時、同じ人を送っての作と断定して、ほぼ、間違いないであろう。そういえば、几董が三月十日の紫狐庵会の「梨花」の兼題に対して、「春の恨(うらみ)梅速くして梨花遅し」(『月並発句帖』)と詠んでいるのも、蕪村の「花水に浮て去ことすみやか也」の詩句の余響を受けたものと解されないではない。両者は、はたして、いつ、だれを送っての作であるのか。(『蕪村の世界』)

(五十五)

○几董の詩は『丙申之句帖』の「上巳」と前書する発句三句と、「三月十日紫狐庵会」と前書する発句三句との間に、「春夜」と題する次の七言古詩とともに記されている。
茅舎寂寥無客来(茅舎寂寥客来無シ)
孤燈不挑夢初回(孤燈挑ゲズ夢初メテ回ル)
読書倦去出窓外(読書倦ミ去リ窓外ニ出ヅレバ)
半月朧朧鐘磬催(半月朧朧鐘磬催ス)
(中略) 「半月」は陰暦七・八・九日または二十一・二十二・二十三日の月をいうが(『滑稽雑談』)、詩の内容と月出時間に照らせば、ここは前者(前者の上弦の場合、月は真夜中過ぎまで空に残るが、下弦の場合、月出は真夜中過ぎになる)。ただし、この年、前年の十二月に閏があったため、三月七日は陰暦の四月二十四日に当たり、もはや「半月朧朧」の空を仰ぐことはできなかったはずだ。歳時記では「朧月」は仲春とするものが多く、(中略)
「春夜」の詩につづく伏見における送別の詩は、「二月十四日菴中会」(句帖でそれ以前の句稿はすべて抹消してある)に先立つ、二月十日前後の作ということになる。ちなみに、「几董句稿」によれば、几董は安永三年には二月十三日(陽暦三月二十四日)、安永六年には二月十四日(陽暦三月二十三日)に伏見の観梅に出掛けており、伏見送別の詩が二月十日(陽暦三月三十日)ごろに成ったとすれば、「春水ニ梅花浮カビ」という蕪村の詩の景況にピッタリ合う(『蕪村の世界』)

(五十六)

○ここで思い合わされるのは、二月十二日付で几董に宛てた書簡に次のように見えることである。
(前略)
美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候
ん(う)め咲やどれがんめやらむめじ(ぢ゛)ややら
んめ咲て帯買ふ室の遊女かな
(下略)
 南賀の梅の刷り物の出句依頼に対して七言絶句(中略)を作って贈ったことを報じているのは、几董の送別の詩を意識してのことではないか。(中略) 「春夜」の詩との関係からおおよそに割り出した二月十日という想定は、この書簡の日付けから見ても間違っていなかった(『蕪村の世界』)。

(五十七)

○もう一つ、この書簡の巻末に添えた「うめ咲や」の句は、几董編の『蕪村句集』には次のような形で収められている。

あらむつかしの仮名遣ひやな。字儀に害あら
ずんば、アヽまヽよ。
  梅咲ぬどれがむめやらうめじ(ぢ)ややら

 この年、安永五年正月、本居宣長は京都の銭屋利兵衛ほかから『字音仮名用格』を刊行し、その中で”ン”音を “む”と書くべきことを主張した。日本の古代には”ン”という音がなかったというこの宣長の説に対しては、上田秋成が反駁して、宣長との間に書簡の往復を重ね、宣長の『呵刈葭』後篇(写本)に収める論争に発展する。『蕪村句集』の詞書を参看すれば、「どれがむめやらうめじ(ぢ)ややら」の句は、一面満開の梅の花に対する理屈を越えた無条件の賛美を、この両者の論争に対する揶揄の形で表現したるものと見ることができるだろう。ところで、蕪村・几董はみの春、大阪からもと加島(今の西淀川区内)の住人秋成(俳号、無腸)を迎え、面話をとげている。(中略) 秋成の上京に関して、『丙申之句帖』では、二月十八日の記事と二十日が定例の紫狐庵会の発句との中間に、「香島(加島)の隠士無腸をとゞめて夜もすがら風談あるは題を探る」としてその折の自句三句を録しているが、(中略)十八日の時点では秋成はすでに大阪に戻っていた。「一昨夜の楼酒」「からうた一章」「うめ咲や」の句、という脈絡をたどってくれば、二月十日、伏見百花楼で、蕪村・几董が「澱河曲」と五言古詩を競作して「浪華ヘ帰ル」を送った相手は、もしかしたらその秋成ではなかったか(『蕪村の世界』)。

(五十八)

○花柳の巷に出入し「浮浪子(のらもの)」と交わる狂蕩の青年期の体験を持つ一方、和漢の学に詳しく、蕪村からは「奇異のくせ者」(『也哉抄』序)、几董からは「詩をよくし(中略)無双の才子」(東皐宛書簡)と評されるとともに、蕪村の死に際しては「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』)と悼んだ秋成ならば、艶冶の趣を帯びた和漢混交の詩篇や五言古詩を贈る相手として、いかにもふさわしい。逆に言えば、送別の相手が秋成だったからこそ、その座の雰囲気の中から、それら異端の作が生み出されたのだ、といえる。(中略)もし送別の相手がはたして秋成だったとすれば、蕪村が扇面に配するに、ことごとしい太刀をたばさんだ、五部月代の丹前風遊冶郎の絵をもってしたことは、「妓ニ代ハリテ」という設定とともに、自分も相手も虚構化し現実の送別の宴席を歌舞伎舞台の一場面へと転化させたものとして、その俳諧的趣向の奔放さには瞠目せざるを得ない。いずれにしても、こうした「澱河曲」が「澱河歌」の前身であり、かつそれが、安永五年二月十日、几董とともに伏見の妓楼で浪花へ帰る友人を送る宴席での即興として成ったものであることが確認される以上、これを娘くのの婚家や蕪村自身の秘められた情事と絡め、もしくは安永六年に成った「馬堤曲」創造の余勢の中から生まれた作として読もうとする従来の鑑賞は、大きな変更を迫られざるを得ないであろう(『蕪村の世界』)。
※蕪村の異色の俳詩「澱河歌」の前身に当たる扇面に描かれた「澱河曲」は、浪花に帰る上田秋成(俳号・無腸)に送る送別の宴席のものであったとする尾形仂氏の論拠を見てきた。もし、それが秋成のものであったとするならば、秋成の蕪村追悼の一句(「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』))と重ね合わせて、間違いなく秋成は蕪村の一面(「かな書の詩人」)を正鵠に見抜いていたという思いを深くする。それ以上に、安永六年の春興帖『夜半楽』に収載されている「澱河歌」は、その前身に当たる二葉の扇面の自画賛(「澱河曲」・「澱河歌」)が今に残されていることに鑑みて、蕪村の「春風馬堤曲」に続く、「淀川」幻想詩ともいうべき、蕪村の「淀川」への「かな書の詩」であるという思いを更に深くするのである。

(五十九)

○「澱河歌」の成立については、もう一つ触れておかなければならぬ周辺的事実がある。それは、この前後、几董の句帖の中に、前記二作のほかにもなお漢詩の作の記載が見えることである。すなわち春の部の末尾には「於東山下詩会 鴨河惜春」の詩、四月「金福寺 題残照亭」の詩が録されているが、これは例年にないことであった。(中略)それとともに、二月二十日の紫狐庵会の出句の次に、次のような詩題発句が録されているりも、また見落とせない。(註・「題草廬先生四時歌」を略)。「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。
※蕪村は、画・俳二道を極めた特異の俳諧師でもあった。その画はいわゆる南画(中国画)で、いわゆる漢詩と不可分の関係にあり、自ずから、蕪村の俳諧もまた、その「離俗の則」の要諦の「詩(漢詩)を語るべし」を俟つまでもなく、漢詩と密接不可分の関係にあることは言を俟たない。そして、その「詩(漢詩)を語るべし」は、蕪村が最も信頼をおいていた夜半亭門の逸足の春泥社召波に向かって言われた蕪村語録であり、その召波が当時の京都の詩(漢詩)壇の雄であった滝公美(号・草廬)の逸足であり、更に、その草廬が蕪村が私淑して止まなかった荻生徂徠と関係があったということは、蕪村、そして、その一門の夜半亭俳諧というもの見ていくうえで、どうしても避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。そして、そのことは、蕪村の『夜半楽』、そして、そこに収載されている、和漢混合の異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」を鑑賞するうえで、これまた避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。

(六十)

○試みに、几董の跡を追って『艸廬集』初篇をひもとけば、その巻之二「七言古詩」の中に、次のような一篇が見出される。(中略) 「生駒山人」(註・漢詩の中に出てくる「生駒山人ガ舟ニ泛ンデ南ニ帰ルヲ送ル」の「生駒山人」)は、日下世傑(中略)の号、草廬の友人で生駒山の近くに住んでいた。『艸廬集』の右の詩を巻之二「七言古詩」九首中に収めたのは、『唐詩選』巻之二「七言古詩」三十二首中に岑参(しんじん)の詩(詩は省略)を収めるものを襲ったものにほかならない。そして蕪村が「送帰浪花人」詩に「澱河曲」ないし「澱河歌」と名づけたものは、草廬の「澱水歌送生駒山人泛舟南帰」(註・「澱」は異体字で、「ヨドカハ」とのルビがある)のひそみにならったものではなかろうか。「歌」「曲」ともに楽府に発する古詩の一体である。もと民謡に始まり、楽曲を伴う詩として創作された。唐代に至って文人の手により読式詩として擬作されるようになっても、謡われる詩としての心持ちは離れなかったらしく、長短句において著しい発達をとげたという。「澱水歌」(「澱」は異体字)もまた、五言・七言を長短錯雑して用いている。蕪村が「澱河曲」に、五言古詩二章(註・「春水浮梅花南流菟合澱  錦纜君勿解急瀬舟如電」・「菟水合澱水交流如一身 船中願並枕長為浪花人」)につづけ、第三章に五言・六言の詩句を訓読した形の和詩(註・「君は江頭の梅のことし 花 水に浮て去ること すみやか也」・「妾は水上の柳のことし 影 水に沈て したかふことあたはす」)を配したのは、楽府題詩における長短句を下敷にしながら、その新しい変奏を試みたものと見ることができるだろう。心持ちとしては、淀川沿岸の人々の間で謡われた民謡の曲によった、宴席の唄のつもりだったといっていい(『蕪村の世界』)。
○これらの尾形仂氏の一連の考察を見て、『唐詩選』の岑参の漢詩、その漢詩に基づく草廬の漢詩などが、蕪村・几董らの夜半亭一門の面々に影響を与え、その影響下にあって、蕪村の「澱河歌」が誕生したということが、理解されてくる。さらに、尾形仂氏の、これらの考察の前身ともいうべき『座の文学』所収の「『澱河歌』の周辺」の、「『澱河歌』という作品は、いわれるごとく詩人の”晩年の春情”という”ひとり心”の詩であるよりも、より多く、几董らとの漢詩熱の交響という、連衆心の所産として鑑賞されなければならぬことになるだろう」という指摘は、蕪村の「澱河歌」鑑賞上の必須のものであるという思いを深くする。

(六十一)

 先に(「五十六」で)、二月十二日付け几董宛て蕪村書簡(尾形仂氏は『座の文学』で「本書簡の染筆年次は安永五年」としている)中の下記の蕪村作の漢詩に関わることにについて紹介した。

○美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候

 この漢詩の前に、次のような一節がある。

○今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ、李白を客とし、杜子美をさそひて、からうた一章、一作仕候。又、おかしく存候ゆへ、申遣し候。 

 この書簡の「今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ」というのは、「今朝いろいろと発句を作ろうとしていたが、どうしても目新しいものが浮かばず、ついつい考えを変え」というような意である。次の「李白」は「白髪三千丈」などで名高い「詩仙」と仰がれている中国盛唐の詩人、「杜子美」は、「国破山河在」などで名高い「詩聖」と仰がれている中国盛唐の詩人「杜甫」のこと。そして、蕪村は、これらの漢詩を「からうた」と称しているのである。当時、夜半亭一門においては、蕪村・几董を始め、俳諧だけではなく、この「からうた」作りにも相当な関心があったということであろう。そして、蕪村にとっては、『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」も、はやまた、「澱河歌」も、ほんの余興の「からうた」の変形の和漢混合のお遊びという趣であったのかも知れない。

(六十二)

○蕪村は右の書簡(註・安永五(?)年二月十二日付け几董宛て書簡)で自作を披露するに、「李白を客とし、杜子美をさそひて」と言って、あたかも擬古派の詩人のごとき口吻を弄じている。一つには、蕪村に句をあつらえた南雅(註・上記の書簡に出てくる人物)の師の三宅嘯山を意識するところからきたものであろう。(中略) 嘯山の『俳諧古選』(宝暦一三)における評語が、擬古派の聖典とされる『唐詩選』や『滄浪詩話』から出ていることについては、田中道雄氏の指摘(昭和四五・一〇、俳文学会研究発表)がある。そしてまた、李・杜を宗とすることは、徂徠・南郭の流れを汲みながら、その明詩模倣をしりぞけ、盛唐の詩を絶対視した龍公美(りゅうこうび)の立場とも相通ずるものであった(『座の文学』)。 
※この龍公美とは、先に紹介したところの「草廬先生」こと、幽蘭社の龍公美その人である。先に紹介したところを下記に再掲しておくこととする。
○「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。

(六十三)

○だが、蕪村の披露する梅花の詩(註・上記書簡中の漢詩)は、かならずしも李・杜の風潮とは似ない。その艶冶の体は、むしろ白楽天を宗とした公安派の詩風を思わせる。おそらくはきちんと梳(くしけず)り整えた鬢(びん)を意味する「斂鬢(れんびん)」の語は『杜甫索引』『李白索引』『佩文韻府』のたぐいにも見出だすことができない。そうした典拠をもたない造語を自由にまじえて用いているところも、反擬古派的といえるだろう。この年、洛東金福寺境内に芭蕉庵を再興する際の発企者樋口道立は、反擬古派の先駆者清田儋叟(せいたたんそう)の甥であり、江村北海の第二子である。蕪村はみずからものした「魂帰来賦(こんきらいふ)」の末に、芭蕉庵再興のおり儋叟の撰文の一節を添えている。(中略) 高邁と磊落とを標榜する蕪村の立場は自在であった。そうした姿勢は、一方で、もはら蕉翁の風韻を慕いながら、世に跋扈する当世蕉門の徒の「しさいらしき句作り」を排斥し、暁台に対しては「拙老はいかいは敢(あへ)て蕉翁之語風を直ちに擬候にも無之、只心の適するに随(したがひ)、きのふにけふは風調も違ひ候を相楽み」とうそぶき、『夜半楽』序に「蕉門のさびしをりは可避春興盛席」と謳(うた)った、俳諧における自在の姿勢とも共通する(『座の文学』)。
※先に、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)について見てきたが、そこで、安永六年の『夜半楽』が編纂された頃の、几董の春興帖『初懐紙』との関連について触れた。それらと、今回の尾形仂氏の『座の文学』・『蕪村の世界』とを照合しながら見ていくと、まさに、蕪村の『夜半楽』そして、その異色の俳詩といわれている「春風馬堤曲」・「澱河歌」は、まぎれもなく、尾形仂氏の上記で指摘する「俳諧における自在の姿勢」を強く訴えていることを痛感するのである。ここでも、再確認の意味合いも兼ねて、田中道雄氏の次の論稿を再掲しておきたい。
○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容」)。

(六十四)

○ひとしく「俗を離れて俗を用ゆ」る工夫を求めて漢詩熱の交響を楽しみながら、この点(註・俳諧の自在に対する姿勢)がおそらく几董と蕪村とを大きく分かつゆえんだろう。几董があくまでも草廬にならって唐詩の高邁につこうとするのに対して、蕪村はそれを意識に入れながら、あえて艶冶の体を採って磊落の調に遊ぼうとする。伏見百花楼での「澱河曲」の擬作は、あたかも連句の席で連衆に和しつつ相手を言いまかしはぐらかそうとする付合の呼吸にも似た、目に見えない火花を伝えている。几董が「別レヲ惜しシンデ我ガ腸を断ツ」と、唐詩硫の悲哀を表に立ててきまじめに惜別の情を吐露しているのに対して、「妓ニ代ハリテ」という設定を施し、「妾は水上の柳のごとし。影水に沈みてしたがふことあたはず」という纏綿たる妓女の恋情に託して自己の思いを述べたところに、蕪村の俳諧的趣向がある。(中略) 几董が「今夜伏水に到ル、明朝直グニ郷ニ帰ラン」と直叙したところを、(中略) 「錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ」と艶冶の色を点ずる。「菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ」とは、すなわち、劉廷芝「公子行」の「与君(君ト)相向(相向カッテ)転(ウタタ)相親(相親シミ)、与君(君ト)双棲(双ビ棲ンデ)共一身(一身を共ニセン)」(『唐詩選』二)や曹子建「七哀詩」の「願(願ハクハ)為西南風(西南ノ風ト為リテ)、長逝(長ク逝キテ)入君懐(君ガ懐ニ入ラン)」(『文選』五)などの詩句を下敷きにしながら、几董の「舟中何ノ夢ヲカ作ス」の「夢」をもどいて散曲ふうに展開してみせたものにほかならない(『座の文学』)。

※ここで、「春風馬堤曲」・「澱河歌」が収められている『夜半楽』の目録と、その歌仙の主立った俳人を再掲すると次のとおりである。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村 表    ※(発句) 
脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)    月居      ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓       ※(第三) 
十日の月の出(いで)おはしけり      鉄僧      ※(月)
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  裏    ※(花)
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白      ※(月) 
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 名残の表 ※(月)
花の頃三秀院に浪花人          几董 名残の裏 ※(花)
都を友に住(すみ)よしの春        大魯      ※(挙句) 

 この歌仙でも一目瞭然のごとく、夜半亭二世・蕪村が発句、そして、歌仙一巻中最右翼の役とされている、名残の裏の花(匂いの花)は、夜半亭三世を継承されていることが約束されている几董と、この二人が夜半亭俳諧の主宰・副主宰の関係にある。そして、主宰者たる蕪村が副主宰者たる几董に、蕪村が持っている全てのものを、後継者の几董に伝授しようと、そういう蕪村の意気込みというものを、上記の尾形仂氏の指摘により、まざまざと再確認を強いられるような思いがするのである。ここでも、上記の歌仙にかかわる蕪村と几董との関連などのことについて、下記に再掲をしておきたい。

○ この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである
(十九・再掲)。

(六十五)

○「澱河曲」の題名は、蕪村の「懐旧のやるかたなきよりうめき出た」「親里迄の道行」十八首が、これも楽府の名題である「大堤曲」になぞらえて「春風馬堤曲」と名づけられたとき、文字の重複をいとって「澱河歌」と改められ、詞書の「代妓」の文言は、「代女述意」と敷衍されて「馬堤曲」の前文に組み入れられる。それと同時に、「春水梅花浮」(春水ニ梅花浮カビ)を「春水浮梅花」(春水梅花ヲ浮カベ)と改めて、承句の「南流シテ」と主語の統一をはかり、「並枕」(枕ヲ並ベ)の措辞の和臭をきらって「同寝」(寝ヲトモニシ)と改めるとともに「江頭の梅」「水上の柳」の対句を「水上の梅」「江頭の柳」と置き換えるなどの推敲も施された。「代妓」の文言を削っても、連衆たちはその艶冶の体から「馬堤曲」の「代女述意」を「澱河歌」にもかけて読むであろう。また、「送帰浪花人」の詞書を省いても、「澱水歌」の存在を知る同好の人々は、これを送別の擬作と受け取るであろう。「澱河歌」は、説かれるごとく、そのまま「馬堤曲」の反歌とはならない(『座の文学』)。
※尾形仂氏の謎解きであるが、蕪村の「澱河歌」を創作するときの背景として、その謎解きが真実味を帯びてくる。趣向の人・蕪村ならば、これらのことは当然にあり得るという趣でなくもない。とするならば、「『澱河歌』は、説かれるごとく、そのまま『馬堤曲』の反歌とはならない」という指摘についても、「あたかも、この『澱河歌』を、『馬堤曲』の反歌のような趣向をも、蕪村は意識している」と推理することも可能であろう。
○ただし、蕪村は挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である。ここでも蕪村が、「さればこの日の俳諧はわかわかしき吾妻の人の口質(くちつき)にならはんとて」と前書する新春初会の歌仙を巻頭に据え、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列した『夜半楽』のコンテクストを通じて、「澱河歌」の上に、伏見百花楼の宴席の場におけるとはまた若干異なった色合いを加えようとしているのを閑却することはできぬだろう。「妓」「女」の「意」の上に重ねられた老蕪村の郷愁の情を中心とする鑑賞がそこから生まれる。私はそうした鑑賞を否定しようとは思わない(『座の文学』)。
※蕪村の『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」がいろいろに鑑賞されてきたのは、一に、蕪村の「挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である」ということに大きく起因している。そして、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の、この配列は、「春風馬堤曲 十八首」の反歌として「澱河歌 三首」、そして、「澱河歌 三首」の反歌として「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列しるように思えるのである。と解すると、「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の持つ比重というのは増してくる。

水曜日, 10月 18, 2006

三橋鷹女の俳句(一~十)



三橋鷹女の句(その一)


三橋鷹女のことについてインターネットでどのように紹介されているか調べていたら、
簡潔にして要を得たものとして、次のように紹介されていたのものに出会った。


http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/M/mitsuhashitakajo.html


このホームページは「文学者掃苔録」というタイトルのものの中のもので、各県別に心
に残る文学者の物故者の紹介のものであり、是非一見に値するものであり、その永い間の
取り組みの労につくづくと頭の下がる思いをしたのである。このことに思いをあらたにし
て、「三橋鷹女の句(鑑賞)」の冒頭に、そのまま掲載することにした(なお、算用数字な
どは、これまでのものと統一するため和数字などに置き換えた)。


http://www.jah.ne.jp/~viento/soutairoku.html


三橋たか子(一八九九~一九七二・明治三二年~-昭和四七年)
昭和四七年四月七日歿 七二歳 (善福院佳詠鷹大姉) 千葉県成田市田町・白髪庵墓地
一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十
の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれ
てゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に
赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数を
かぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の
剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の
為に/「生きて 書け----」と心を励ます


(羊歯地獄自序)
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり (向日葵)
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 (魚の鰭)
白露や死んでゆく日も帯締めて
老いながら椿となって踊りけり (白骨)
墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み (羊歯地獄)


ここに、紹介されている、鷹女の第四句集『羊歯地獄』のその「自序」に始めて接した
ときの驚きを今でも鮮明に覚えている。そして、この「「生きて 書け----」ということ
が、どんなに支えとなったことであろうか。ここに紹介されている鷹女の六句も、現代女
流俳人として群れを抜く鷹女の一端を紹介するものとして、忘れ得ざる句として、どれほ
ど口ずさんだことであることか。やはり、この六句を冒頭にもってきたい。(なお、上記
の六句目は「墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み」と一字空白の原文のものに訂正させてい
ただいた。)

三橋鷹女の句(その二)

○ しんじつは醜男にありて九月来る
○ 九月来る醜男のこゑの澄みとほり
○ 九月来る醜男の庭に咲く芙蓉
○ 九月来る醜男のかたへ明く広く
○ 九月来る醜男が吾にうつくしい

これらの鷹女の句は、昭和十一年の「俳句研究(十月号)」(山本健吉編集)誌上の「ひ
るがほと醜男」という連作のもののうちの五句である(中村苑子稿「三橋鷹女私論」)。昭
和十一年(一九三六)というと、鷹女、三十八歳のときで、俳誌 「紺」の創刊に加わり、
女流俳句欄の選句を担当と、その年譜にある(『三橋鷹女全集(二)』)。その年譜によれば、
昭和九年(一九三四)に、「思いを残しながら、夫・剣三と共に『鹿火屋』を退会。剣三が
同人として在籍する小野蕪子主宰の『鶏頭陣』に出句。この頃より東鷹女と改名」とある。
鷹女が短歌より俳句に転向したのは、同年譜によれば、大正十五年(一九二六)、二十八
歳のときで、その頃の俳号は、東文恵。そして、東文恵で本格的に俳句に打ち込んだのは、
昭和四年(一九二九)、鷹女、三十一歳のときの、原石鼎主宰の「鹿火屋」に入会した以後
ということになるのであろうか。鷹女は終生、自分の主宰誌を持たなかったし、鷹女の名
を不動のものにした、その第四句集『羊歯地獄』(「その一」でその「自序」を紹介)は、
昭和三十六年(一九六一)、六十三歳のときで、それは、多行式俳句に先鞭をつけた高柳重
信らが中心となっていた「俳句評論社」から刊行されたものであった。すなわち、三橋鷹
女が、今日の鷹女俳句というものを決定づけたものは、富沢赤黄男や高柳重信らの、いわ
ゆる前衛俳句とも称せられる仲間とともにあるように思えるのであるが、しかし、その年
譜を辿ってみると、やはり、その師筋は、「鹿火屋」の原石鼎や原コウ子にあるといっても
よいのかもしれない。
そして、掲出の醜男の句は、その「鹿火屋」を退会した直後のころの作句なのである。
これらの句のいくつかについては、鷹女の第一句集『向日葵』にも収載されている。しか
し、この第一句集『向日葵』の鷹女の傑作句は、次の句がその筆頭にあげられるであろう。

○ 日本の我はをみなや明治節

この句は、「風ふね」(昭和四年~九年)という章にあるもののなかのもので、まさに、
鷹女の「鹿火屋」時代のものなのである。この「鹿火屋」時代の傑作句が、鷹女の原点と
もいえるものなのではなかろうか。それにしても、冒頭の掲出の醜男の五句は、何とも痛
烈な、何とも直裁的な、それでいて、何とも俳諧的なことと、まずもって度肝も抜かれる
思いがするのである。


三橋鷹女の句(その三)

○ 焼山に大きな手を挙げ男の子吾子
○ 子の真顔焼山に佇ち国原を
○ 焼山に瞳かがやき言(こと)いひき
○ 焼山の陽はまぶしかり母と子に
○ 木瓜赤く焼山に陽のかぎろはず

「吾子府立第四中を了ふ」との前書きのある五句である。三橋鷹女の第一句集『向日葵』
は、「花笠」(大正十三年~昭和三年・十句)、「風ふね」(昭和四年~九年・三十四句)、「い
そぎんちゃく」(昭和十年~十一年・五十八句)、「蛾」(昭和十二年~十三年・百九句)、
「ひまわり」(昭和十四年~十五年・百二十九句)の、所収句数は三百四十句からなる。そ
して、掲出の五句は、その「ひまわり」所収の句である。
これらの鷹女の句は、鷹女のその当時の「女として、妻として、母として」のその境涯
を詠った、いわゆる「境涯詠」の句といっても良かろう。そして、鷹女というと、例えば、
同じ『向日葵』所収の句でも、次のような句が鷹女の句として取り上げられ、そして、掲
出のような境涯詠を取り上げることは皆無に均しいのである。

○ 夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり(「いそぎんちゃく」)
○ カンナ緋に黄に愛憎の文字をちらす(同上)
○ 初嵐して人の機嫌はとれませぬ(同上)
○ つはぶきはだんまりの花嫌ひな花(同上)
○ 詩に痩せて二月の渚をゆくはわたし(「蛾」)

これらの句に見られる強烈な「自我」の固執とその「自我」を貫き通そうとする壮絶な
緊張感、そして、その根底に流れる「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)こそ、終生、鷹女
の俳句の根底を貫き通したものに違いない。しかし、その「ナルシシズム」より以上に、
鷹女は、明治・大正、そして、昭和を生き抜いた、その時代の、その「時代の申し子」の
ような鷹女の一面を度外視しては、鷹女の、その「ナルシシズム」という一面のみ浮き彫
りにされて、その全体像が見えてこないような懸念がしてならないのである。三橋鷹女の
句の、その原点にあるのは、鷹女自身が句にしている、次の句こそ、鷹女の、そして、鷹
女の俳句の全てを物語るもののように思えるのである。

○ 日本の我はをみなや明治節(「風ふね」)


三橋鷹女の句(その四)

鷹女の第二句集『魚の鰭(ひれ)』とは不思議な句集である。第一句集の『向日葵』と同じ
年代に作句されたものを、その『向日葵』に収載しなかった句を、次の三期に分けて、そ
れを逆年別に編纂した、いわば、第一句集『向日葵』が姉とすれば、この第二句集『魚の
鰭』は妹のような、そんな関係にある句集といえる。
「菊」 二二七句 昭和一四年~一五年
「幻影」 一八四句 昭和一一年~一三年
「春雷」 二〇八句 昭和 三年~一〇年

○ 棕櫚の髭苅る陽春の夫婦かな 「春雷」

この仲睦まじい夫婦は、俳人・謙三と俳人・鷹女の姿であろう。このお二人は鴛鴦の俳
人仲間といっても差し支えないのであろう。鷹女は多くのことを夫・謙三から学びとり、
そして、終生、夫・謙三は鷹女の才能を高く評価していたのであろう。そして、この掲出
句のユーモアに溢れた句が、ナルシシズムの権化のような鷹女その人の句であるというこ
とは特記すべきことと思われるのである。

○ この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 「幻影」

この「幻影」所収の句は、鷹女の傑作句としてしばしばとりあげられるものである。そ
して、鷹女の傑作句の多くが、その第一句集『向日葵』に収載されていることに鑑みて、
この句が、第二句集『魚の鰭』に収載されているのは、当時、多くの俳人が試みた「連作
俳句」(水原秋桜子らの提唱の一句一句視点を変えての連作的作句)の「幻影」と題する句の
中の一句であることが、その理由の一つに上げられるのであろう。この句が連作句の一つ
として、その直前の句は「薄紅葉恋人ならば烏帽子で来(こ)」という王朝風のものであり、
それが掲出句のような、鷹女「その人の自我」への集中へと昇華するのである。この昇華
こそ、その後の鷹女俳句を決定づけるものであった。

○ 秋風や水より淡き魚のひれ 「菊」
○ 秋風の水面をゆくは魚の鰭か 「菊」

これらの句は、その第二句集の「魚の鰭」の由来ともなっている、当時の鷹女の自信作
でもあるのであろう。鷹女俳句の直情的な作風とともに、もう一つの独特の色彩感覚と象
徴的把握の作風は、これらの掲出句から感知することは容易であるし、晩年になると、こ
の独特の色彩感覚と象徴的把握の作風が、独特の鷹女的言語空間を産み出すこととなるの
である。


三橋鷹女の句(その五)


○ 子を恋へり夏夜獣のごとく醒め (敗戦 三句)
  夏浪か子等哭く声か聴え来る
  花南瓜黄濃しかんばせ蔽うて哭く

○ ひとり子の生死も知らず凍て睡る (夫 剣三、患者診療中突然多量の吐血して卒倒し
                        重体となる。病名胃潰瘍)

○ 胼割れの指に孤独の血が滲む(一週間後再び危篤に陥る)
○ 藷粥や一家といへども唯二人(二三ヶ月を経て稍愁眉をひらく)
○ 焼け凍てて摘むべき草もあらざりき(一月は子の誕生日なれば、七草にちなみせめて雑
                       草など摘みて粥を祝はんとせしも・・・)


○ あはれ我が凍て枯れしこゑがもの云へり(昭和二十一年二月四日吾子奇跡的に生還)


これらの句は、鷹女の第三句集『白骨』に収載されている句のうちの「敗戦」から「吾子
生還」までの八句を収載されているままに掲出したものである。これらの句が収載されて
いる第三句集『白骨』には「前書き」が付与されている句が多く、さながら、鷹女の日々
の記録を見るような思いがする。そして、俳句にはこのような日々の心の記録をとどめ置
くという一面をも有している。ここには、俳人・鷹女というよりも、一生活者・鷹女の嘘
偽らざる日常の諷詠が収載されているといって差し支えないものであろう。
この鷹女の第三句集『白骨』には、実に、昭和十六年(四十三歳)から昭和二十六年(五十
三歳)までの句が収載されていて、この間、鷹女はどの結社にも属さず、その後記には、「詠
ひ詠ひながら、その後十年の歳月を過去とした今も尚、しみじみとさびしい心が私を詠は
しめている。ひたすらに詠ひ重ね、しづかに詠ひ終るであらう日の我が身の在りかたをひ
そかに思ふ」と記している。

○ 白露や死んでゆく日も帯しめて (昭和二五年)
○ 死にがたし生き耐へがたし晩夏光 (昭和二六年)
○ 白骨の手足が戦ぐ落葉季 (同上)
○ かなしびの満ちて風船舞ひあがる (同上)

鷹女の俳句は、その第一句集『向日葵』において殆ど完成の域にあったが、この第三句
集『白骨』を得て、一種異様な幻想的な「生と死、そして、老い」の世界が主たるモチー
フとなってくるのである。

三橋鷹女の句(その六)

一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である/四十代に入って初めてこの事を識った/五十
の坂を登りながら気付いたことは/剥脱した鱗の跡が 新しい鱗の茅生えによって補はれ
てゐる事であった/だが然し 六十歳のこの期に及んでは/失せた鱗の跡はもはや永遠に
赤禿の儘である/今ここに その見苦しい傷痕を眺め/わが躯を蔽ふ残り少ない鱗の数を
かぞへながら/独り 呟く……/一句を書くことは一 片の鱗の剥脱である/一片の鱗の
剥脱は 生きていることの証だと思ふ/一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の
為に/「生きて 書け----」と心を励ます(羊歯地獄自序)

三橋鷹女の第四句集『羊歯地獄』は、多行式俳句のスタイルに先鞭をつけた高柳重信ら
が関係する「俳句研究社」から昭和三十六年に刊行された。鷹女は戦前に原石鼎らの俳誌
「鹿火屋」などに所属したことがあるが、戦後は、全くの無所属で、それでいて、女流俳
人の四T(中村汀女・星野立子・橋本多佳子、そして、鷹女)の一人として、その名を不動
のものにしていた。そして、その鷹女の俳句を高く評価して、そして、富沢赤黄男主宰の
「薔薇」に勧誘したその人が、前衛俳句の先端を行く高柳重信らであったということは、
重信らの眼識の確かさとともに、第三句集『白骨』以後の新しい鷹女俳句の誕生のために
も、素晴らしい僥倖であったということを思わざるを得ない。

○ 羊歯地獄 掌地獄 共に飢ゑ (昭和三十五年)
○ 青焔の あすは紅焔の夜啼き羊歯 (同上)
○ 拷問の谿底煮ゆる 谷間羊歯 (同上)
○ 噴煙や しはがれ羊歯を腰に巻き (同上)
○ あばら組む幽かなひびき 羊歯地獄 (同上)

これらの『羊歯地獄』の「羊歯」は鷹女にとって何を意味するのであろうか・・・・。
この「羊歯」は、鷹女が昭和二十八年(五十五歳)のときに参加した、高柳重信らが師と仰ぐ、
富沢赤黄男主宰の「薔薇」の、その「薔薇」に対する新たなる鷹女の詩的挑戦の象徴とし
ての「羊歯」ではなかろうか。既に、五十五歳という年齢で、そして、女流俳人として四
Tの一人として、揺るぎないものを確立しながら、それらの過去の全てと訣別して、己の
新しい俳句創造のために、赤黄男・重信らに対して新しい挑戦をいどんだ鷹女の、激しい
までの「ナルシシズム」を、これらの掲出の句から詠みとることはできないであろうか。
そして、その上で、冒頭の『羊歯地獄』の鷹女の「自序」を目にするとき、鷹女が何を考
え、何に挑戦しようとしていたかが、明瞭に語りかけてくるのである。


三橋鷹女の句(その七)

               

                   註=『ぶな=原題漢字』は記号表記になって表示されるので、
                  「平仮名」表記と記号表記が混在している。

三橋鷹女の第五句集『橅』は亡くなる二年前の昭和四十五年に「俳句研究社」から刊行
された。鷹女の句集はいずれも独特の編集をされて刊行されるのが常であるが、この最晩
年の最後の句集『橅』は「追悼篇」(九八句)と「自愛篇」(一三一句)とからなる。

○ 老翁や泪たまれば啼きにけり (追悼篇)
○ 田螺鳴く一村低く旗垂らし (同上)

「”自虐”をもつて生き抜くことの苦悩の底から、しあわせを掴みとりながら長い歳月を費し
て来た私の過去であった・・・。」( 序)
「追悼篇」は三橋鷹女自身への、自分に捧げる追悼の句以外のなにものでもない。生き
ながらにして、自分自身に追悼句を捧げる鷹女とは、これまた鷹女自身の業のように棲み
ついている「ナルシシズム」(自己愛・自己陶酔)と、その裏返しである「自虐」への追悼(鎮
魂)以外のなにものでもない。

○ ひれ伏して湖水を蒼くあおくせり (自愛篇)
○ 花菜より花菜へ闇の闇ぐるま (同上)

「これからの私は、”自愛”を専らに生きながらへることの容易からざる思ひにこころを砕き
ながら、日月の流れにながれ添うて、どのやうなところに流れ着くことであらうか・・・。」
夫で俳人の三橋剣三は妻であり俳人の三橋鷹女に「七十にして己れの欲するところに従
えども矩を踰えず」(孔子)の言葉を呈している。鷹女のいわれる「自愛」とはこの「矩を踰
えず」ということであったろう。そして、それは、「自然・他者への挑戦ではなく、自然・
他者への帰依」のような、そんな意味合いも込められていよう。
この最後の最晩年の第五句集は、夫で俳人の三橋剣三と永い交友関係(しかし、生前の初
対面は『橅』発刊の一年前)にあった俳人・永田耕衣に捧げられたものなのかもしれない。
「豪雪が歇んだあとの橅の梢から、雫がとめどもなく落ち続ける・・・。
止んだ、と思ふと、またおもひ出した様にぽとりぽとりと落ち続ける・・・。
その雫の一粒一粒を拾ひ集めて一書と成し、『橅』と名付けまた。」( 後記)

三橋鷹女は、この句集刊行の二年後の昭和四十七年四月七日に七十四歳で永眠した。


三橋鷹女の句(その八)

○ 鳴き急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ (羊歯地獄)
○ 生と死といづれか一つ額の花 (同上)
○ いまは老い蟇は祠をあとにせり (ぶな=原題は漢字)
○ 大寒の死漁を招く髪洗ひ (同上)
○ 椿落つむかしむかしの川ながれ (同上)
○ 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (ぶな以後)
○ たそがれは常に水色死処ばかり (同上)
○ をちこちに死者のこゑする蕗のたう (同上)
○ 夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠 (同上)
○ 枯木山枯木を折れば骨の匂ひ (同上)


「白露や死んでゆく日も帯しめて」(『白骨』)を作句したのは昭和二十五年の鷹女・五十
二歳のときであった。この句の死の幻影には、「老いながら椿となつて踊りけり」(『白骨』・
昭和二五年)の、「日本の我はをみなや明治節」(『向日葵』・昭和九年頃)の「明治生まれの
華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念が波打っている。しかし、掲出の句の冒頭の「鳴き
急ぐは死に急ぐこと樹の蝉よ」(昭和二十七年)の死の幻影は「生きとして生けるものの」の
切ないまでの諦観が迫ってくる。「生と死といずれか一つ額の花」(昭和二十七年)にも「は
ぎすすき地に栖むものらの哭き悲しむ」の「地に栖むものの」の慟哭が響いてくる。「いま
は老い蟇は祠をあとにせり」(追悼篇)・「大寒の死漁を招く髪洗ひ」(自愛篇)・「椿落つむか
しむかしの川ながれ」(自愛篇)には、「明治生まれの華やぎの”をみな”」の切ないまでの情念
も、「生きとして生けるものの」の切ないまでの諦観も、さらには、「地に栖むものの」の
慟哭の響きも、もはや影を潜め、「超現実の幻想の世界」への安らぎにも似た俳人・鷹女の
遊泳の姿影が見えてくるのである。そして、その鷹女の遊泳は、「藤垂れてこの世のものの
老婆佇つ」(十三章)・「たそがれは常に水色死処ばかり」(十三章)・「をちこちに死者のこゑ
する蕗のたう」(花盛り)・「夜は夜の八ツ手の手鞠死者の手鞠」(遺作二十三章)・「枯木山枯
木を折れば骨の匂ひ」(遺作二十三章)と、もはや前人未踏の「鷹女の詩魂」の世界へと誘っ
てくれるのである。

そして、これらの鷹女の一句一句を見ていくときに、あの『羊歯地獄』の「自序」の「生
きて、書け・・・」という言葉が、谺(こだま)のように響いてくるのである。


三橋鷹女の句(その九)

○ 夏藤やをんなは老ゆる日の下に (昭和一二~一三)
○ 椿落ち椿落ち心老いゆくか (昭和二一~二二)
○ 百日紅何年後は老婆たち (昭和二三)
○ 梅雨めきて薔薇を視るとき老いめきて (昭和二四)
○ 仙人掌に跼まれば老ぐんぐんと (昭和二五)
○ 女老いて七夕竹に結ぶうた (同上)
○ 老境や四葩を写す水の底 (同上)
○ 老いながら椿となって踊りけり (同上)
○ 菫野に来て老い恥をさらしけり (昭和二六)
○ 菜の花やこの身このまま老ゆるべく (同上)
○ セル軽く俳諧われを老いしめし (同上)
○ 鴨翔たばわれ白髪の媼とならむ (昭和二八)
○ 老婆切株となる枯原にて (昭和三三)
○ 老婆の祭典 紅茸に魚糞を盛り (昭和三五)
○ いまは老い蟇は祠をあとにせり (追悼編)
○ 老鶯や泪たまれば啼きにけり (同上)
○ 老後とや荒海にして鯛泳ぐ (自愛篇)
○ 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ (十三章)

三橋鷹女の終生のテーマは「生(エロス)と死(タナトス)」とその狭間における「”をみな”
としてのナルシシズム」であった。そして、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴
的な「老い」もまた、鷹女の終生にわたって追い求めたものであった。その「老い」の語
を鷹女の作品の中から始めて見るのは、掲出の第一句の四十歳前後のことであった。そし
て、掲出の第三句の五十歳以後、俄然、この「老い」の語が、「女の香のわが香をきいてゐ
る涅槃」(昭和一二~一三)の「”をみな”としてのナルシシズム」の反動的な裏返しとしての
テーマとして、鷹女の眼前に踊り出てくるのである。そして、掲出の最後の句、「藤垂れて
この世のものの老婆佇つ」は、昭和四十六年、鷹女が亡くなる一年前の、七十三歳のとき
のものであった。この句の「この世のもの」とは、これまたその反動的な裏返しの「あの
世のもの」というイメージが去来してくる。


○ 夏藤やをんなは老ゆる日の下に
○ 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ


この掲出の第一句と最後の句との間には、三十年という永い歳月が横たわっている。そ
れはさながら、「”をみな”の一生」という言葉に置き換えても差し支えないであろう。そし
て、この二つの句を並列して鑑賞するとはに、鷹女の象徴的な第四句集『羊歯地獄』の次
の一句が去来して来るのである。


○ 墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股はさみ (昭和三五年)

「墜ちてゆく 墜ちてゆく 炎ゆる夕日」を両股で挟み止めようとする、六十二歳にな
んなんとする鷹女の、その「”をみな”としてのナルシシズム」の象徴的な所作が眼前に迫っ
てくるのである。こういう鷹女の句に接するとき、つくづくと、鷹女のその強烈な詩魂と
いうものに圧倒される思いがするのである。


三橋鷹女の句(その十)

三橋鷹女は生前に五つの句集を編んだ。『向日葵』・『魚の鰭』・『白骨』(はっこつ)・『羊歯
地獄』、そして、『ぶな=原題は漢字』である。これらの句集に収載されている句の他に、
最晩年の句の未収録の作品六十六句が、「ぶな以後」として、『三橋鷹女全集(第一巻)』に収
載されている。

○ 寝みだれて豊葦原は雪の中(十三章)

「豊葦原」は「豊葦原瑞穂国」の「日本国の美称」である。鷹女はその豊葦原の雪の中
の中を寝みだれの姿で彷徨しているのである。


○ 棘の木を植ゑ西方は花盛り(花盛り)

「西方」は「西方浄土」の「阿弥陀仏の浄土」である。鷹女はその阿弥陀仏の浄土の花
盛りの中を彷徨しているのである。


○ 曼珠沙華うしろ向いても曼珠沙華(十五章)

「曼珠沙華」は梵語で「赤い花」の意で、「死人花」とも「天蓋花」との別称を持つ花で
ある。鷹女はその赤い赤い曼珠沙華の咲き満つる野の中を彷徨しているのである。


○ 千の虫鳴く一匹の狂ひ鳴き(遺作二十三章)

この「遺作二十三章」(二十三句の意)は、鷹女の没後、病臥していた枕の下から発見され
たものという(中村苑子稿「解題」)。この「千の虫鳴く一匹の狂い鳴き」の「一匹の狂い鳴
く」、その一匹の虫は、鷹女の自画像であろう。


○ 寒満月にこぶしひらく赤ん坊(遺作二十三章)

「遺作二十三章」の最後を飾る一句である。「こぶし(拳)をひらく赤ん坊」・・・、鷹女の
まいた種は今や芽となり、その芽はまた新しい芽となり、決して絶ゆることはないであろ
う。


(註) これらの鑑賞は『三橋鷹女全集(立風書房刊行)』(第一巻・第二巻)に因った。これら
の鑑賞をすすめながら、三橋鷹女の前にも、そして、三橋鷹女亡き後の今後も、この鷹女
を超ゆる俳人(女流俳人に限定することなく)に遭遇することは至難のことかもしれないと
いう印象すら抱いたのである。なお、上記の『ぶな=原題は漢字』の漢字表記のものは、
記号で表示されいるものもある。

回想の蕪村(四・四十一~四十九)



回想の蕪村(四)

(四十一)

 蕪村の『夜半楽』の「春風馬堤曲」の冒頭に、下記のとおり、「謝蕪邨」との署名が見られる。

※春風馬堤曲
             謝蕪邨

  余一日問耆老於故園。渡澱水
  過 馬堤。偶逢女帰省郷者。先
  後行数里。相顧語。容姿嬋娟。
  癡情可憐。因製歌曲十八首。
  代女述意。題曰春風馬堤曲。
 (余一日(いちじつ)耆老(きらう)ヲ故園ニ問フ。澱水(でんすい)ヲ渡リ
  馬堤ヲ過グ。偶(たまたま)女(じよ)ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
  後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟(せんけん)トシテ
  癡情(ちじやう)憐(あはれ)ムベシ。因リテ歌曲十八首ヲ製シ、
  女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。)

 そして、『夜半楽』の奥書に、「門人 宰鳥校」との署名が見られる。この署名に関して、先に、次のことについて紹介した。

※『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。

 これらのことについては、寛保四年(一七四四)の蕪村の初撰集『宇都宮歳旦帖』の「渓霜蕪村輯」の署名でするならば、この安永六年(一七七七)の蕪村の春興帖の『夜半楽』の署名は「夜半亭蕪村輯」とでもなるところのものであろう。それを何故、「門人 宰鳥校」としたのか、確かに、上記のとおり、「夜半亭宋阿門人」という理解も一つの理解であろう。
しかし、「門人 宰鳥校」の「校」が気にかかるのである。「校」とは「校合」(写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合せること)とか「校訂」(古書などの本文を、他の伝本と比べ合せ、手を入れて正すこと)とかのの意味合いのものであろう。「門人 宰鳥撰」とか「門人 宰鳥輯」の、「編集」を意味する「撰」とか「輯」とかとは、やはり一線を画してのものなのであろう。それを遜っての表現ととれなくもないが、この『夜半楽』には、夜半亭一世・宋阿(巴人)の名はどこにも見られず、唐突に、この奥書に来て、この序文の「吾妻の人」を宋阿その人と理解して、「宋阿門人」と理解するには、やや、無理があるようにも思えるのである。ここは、『夜半楽』所収の異色の三部作の「春風馬堤曲」(署名・謝蕪邨)・「澱河歌」(署名なし)・「老鶯児」(署名なし)の、その「謝蕪邨」(この「引き道具」の狂言の座元・作者である「与謝蕪村」を中国名風に擬したもの)を受けて、「吾妻の人」風に「洒落風」に、「(謝蕪邨)門人 宰鳥校」と、蕪村自身が号を使い分けしながら、いわば、一人二役をしてのものと理解をしたいのである。 そもそも、蕪村の若き日の号の「宰町」(巴人門に入門した頃の「夜半亭」のあった「日本橋石町」の「町」を主宰する)を「宰鳥」(「宰鳥」から「蕪村」の改号の転機となった『宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の「鶯」の句に関連しての「鳥・鶯」を主宰する)へと改号したことは、当時の居所の「日本橋石町」から師巴人に連なる其角・嵐雪の師の芭蕉が句材として余りその成功例を見ないところの「鳥・鶯」への関心事の移動のようにも思えるのである。それと同時に、この安永六年の『夜半楽』の巻軸の句に相当する「老鶯児」の理解には、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句と、同一線上のものと理解をしたいのである。そして、そう解することによって、始めて、この『夜半楽』の「老鶯児」の句の意味と、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の、この三句の意味合いが鮮明になってくると、そのように理解をしたいのである。

(四十二)

 そもそも、この『夜半楽』は安永六年(一七七七)の夜半亭二世・与謝蕪村の「春興帖」
である。それが故に、その他の蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見てきた。しかし、それだけでは足りず、より正しい理解のためには、当時の俳壇における「歳旦帖」・「春興帖」との関連で見ていく必要があろう。このような見地での基調な文献として、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収の幾多の論稿がある。ここで、それらのことについて、その要点となるようなことについて、紹介をしておきたい。

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その一)

○ここで蕪村一門の春帖と呼ぶ時、その対象には、蕪村編のもの(『明和辛卯春』『安永三年蕪村春興帖』『安永四年夜半亭歳旦』『夜半楽』『花鳥篇』)、几董編のもの(安永五年『初懐紙』、安永九年『初懐紙』、安永十年『初懐紙』、『壬寅初懐紙』『初卯初懐紙』『甲辰初懐紙』、天明五年『初懐紙』、天明六年『初懐紙』、天明七年『初懐紙』、寛政元年『初懐紙』)、呂蛤編のもの(寛政三年『はつすゞり』他)、紫暁編のもの(寛政五年『あけぼの草子』他)などと、多くの俳書が含まれることになろう。さらに説明を加えるなら、蕪村編の春帖には、この他にも寛保四年(一七四四)に宇都宮で刊行した歳旦帖があるし、また伝存は不明ながら、『紫狐庵聯句集』には「明和辛卯春」「安永発巳」と題した三ツ物や春興歌仙が記録されており、空白の二年の刊行についても刊行が察せられる。また几董編の春帖についても、天明七年の『初懐紙』で几董が、「としどしかはらぬ初懐紙をもよほす事、かぞふれば十余リ五とせになりぬ。其いとぐちより繰返し見れば……」と回顧して、発巳(安永二年)から丁未(天明七年)に至る各年の巻頭発句を列挙するように、今日未確認の『初懐紙』が、安永二・三・四・六・七・八の各年にも刊行されたことが知られる。しかしここでは、伝存の有無にかかわらずその多くを措き、時を蕪村在世中の一時期に絞り、主として『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』の二書をとりあげる。
※ここに紹介されている明和八年(一七七一)に刊行した蕪村編の『明和辛卯春』については先に触れた。この春興帖は、明和七年に亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が、その襲号の披露を兼ねて、広く夜半亭一門の俳諧を世に問うたもので、夜半亭二世・蕪村の代表的な春興帖である。そして、夜半亭二世・蕪村に継いで夜半亭三世となる几董が、蕪村存命中に、安永六年の『夜半楽』刊行一年前に刊行した春興帖が、安永五年『初懐紙』で、この両者の春興帖としての比較検討が、この「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」の骨子なのである。

(四十三)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その二)

○まず『明和辛卯春』から検討を始めよう。(中略) 現存の弧本は原表紙を欠き、書名は内題「明和辛卯春 / 歳旦」による仮称である。横本一冊。表紙の他にも欠損の丁が多いが、元来は本文全十四丁であった。一見して気付くのは、蕪村板下による書体の風格と匡郭および各行を画する罫の緑色の鮮やかさ(今は退色しているが)である。相俟って壮麗の感を与える。次にその内容をつくと、まず一丁目表は先の内題に続いて、蕪村・召波・子曳による三ツ物一組、一丁目裏は同じ三人による三ツ物二組を収める。(中略) 今これを仮に三ツ物三組形式と呼ぶことにする。この三ツ物三組に続く二丁目以下は、同門あるいは他門の歳旦・歳暮の発句を主とし、その発句群に交えて都合二巻の歌仙が収録されている。すなわち、三丁目裏から始まる「鳥遠く……」の一巻、十二丁目裏から始まる「風鳥の……」の一巻で、巻頭と巻尾の近くに配するが、決して巻頭でも巻尾でもない。(後略)
※この蕪村の『明和辛卯春』は「都市系歳旦帖」(其角・巴人に連なる江戸座などの都市系蕉門の流れによる春興帖)に属するとされるのだが(後述)、ここで、注目すべきことがらは、この春興帖に収録されている二巻の歌仙が、共に、「鳥」を句材としての発句ということなのである。その発句・脇・第三を例示すると次のとおりである。
(春興)
発句 鳥遠く日に日に高し春の水        子曳
脇   人やすみれの一すじ(ぢ)の道     蕪村
第三 紅毛の珍陀葡萄酒ぬるみ来て       太祗
(春興可仙)
発句 風鳥の喰ラひこぼすや梅の風       蕪村
脇   名もなき虫の光る陽炎         田福
第三 明キのかたわするゝ斗(ばかり)春たけて 斗文
 さらに、蕪村は、この『明和辛卯春』で立机を宣言するかのように「夜半亭」の号で次の「鶯」の句を公示している。
(洛東の大悲閣にのぼる)
    鶯を雀歟(か)と見しそれも春    夜半亭
(春興追加)
    鶯の粗相がましき初音かな      夜半亭 
 これらのことは、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の「三ツ物」七組で始まり、その卷軸の蕪村の号の初出の「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」とこの『明和辛卯春』の六年後に刊行する『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と同一線上にあることを、蕪村は明確に公示していると思われるのである。

(四十四)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その三)

○続いて、安永五年(一七七六)『初懐紙』(略)に目を移してみよう。まず半紙本(一冊)という判型が『明和辛卯春』に対照的で、薄茶色の表紙の披いても十七丁の本文には匡郭や罫を見ず、版面の著しい相違にまた驚くのである。同様なことは内容にもあって、巻頭は勿論、書中どこにも三ツ物を見出すことはできない。すなわち、この書の巻頭には一丁分の序があり、続いて端作備わる歌仙(後半を略した半歌仙)を掲げる。端作は「安永五丙申春正月十一日於春夜楼興行」と記し、歌仙は几董の発句に始まり、脇以下を連衆が一句ずつ詠んで一巡するもの。そして歌仙の後には「各詠」と標題されて、連衆の各人一句を列ねた一群の発句が配置されている。言うまでもなく、これは由緒正しい俳諧興行の開式に則るものなのである。各詠発句の後には「其引」と標題した蕪村等(右歌仙に欠座)の発句が並ぶが、『明和辛卯春』では、この「其引」の発句は三ツ物三組の直後に並んでいた。このことから察しても、几董が、正式興行の歌仙と各詠発句を巻頭に配し、これを三ツ物三組に代えたことは疑えないだろう。(中略) このように『明和辛卯春』と安永五年『初懐紙』を比較してみると、俳書の性格において、両書がきわめて鋭い対照を示すことに気付かざるを得ない。すなわち、それは①判型、②匡郭と罫の有無、③巻頭形式(三ツ物三組と正式俳諧興行)、④句の性格(歳旦・歳暮句と春・冬句)、⑤連句の扱い(重視の程度)の五点において、著しく異なっているのである。(後略)
※この「一『明和辛卯春』と『初懐紙』との隔たり」の後、「二 都市系歳旦帖の性格」(略)・「三 都市系俳壇風の『明和辛卯春』」(略)と続き、続く、「四 地方系蕉門色の『初懐紙』」として、次のような記述が見られる。「(前略)また歳旦帖は、長い伝統に培われて、特定俳系の特色を明瞭に示すので、編者の帰属意識をとらえるのに好都合と考えたからである。その検討り結果は右の通りであったが、ここで私は、都市系の性格を帯びた『明和辛卯春』形式の歳旦帖が安永五年(一七七六)以降刊行されず、蕪村によって全く放棄されてしまった事実を、きわめて重く見るのである」(田中・前掲書)。そして、この都市系俳壇風形式の歳旦帖に代わって、蕪村が次に編纂したものこそ、安永六年(一七七七)の『夜半楽』に他ならない。こういう、蕪村の歳旦帖・春興帖の変遷を背景として、その『夜半楽』の次の「序」を見ていくと、「形式的には従前の都市系俳壇風の春興帖形式と当時の一般的な地方蕉門色の春帖形式とを混交させながら、内容的には、より都市系俳壇風に、より自由自在に異色の俳詩などを織り交ぜ、特色ある春興帖を意図している」ということが言えよう。
※※『夜半楽』(序)
祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。



(四十五)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その四)

○ここでようやく『初懐紙』の内容的性格に言及する段階に至った。私は先に、その編纂形式の斬新さを指摘したが、内容的性格はそれ以上に際だってユニークであった。都市系・地方系を問わず、従来の春帖に全く例を見ぬものであった。その特色というのは、集中どこにも歳旦句・歳暮句を収めぬことである。「聖節」「東君」等の題は勿論、「歳旦」「歳暮」の題も見出せぬことはすでに述べたが、題のみならず、元朝を賀し家の春を言祝ぐ類の発句を見ず、年頭の祝意は、わずかに「あらたまのとし立かへる……」という序文に託されるにすぎない。同様に、歳末の生活感情をとらえる句も見当たらぬのである。これに代わるものは、
    早春
 うぐひすや梢ほのめくあらし山    几董
 鶯に終日遠し畑の人         蕪村
といった、春の訪れを喜び春の自然を讃えるみずみずしい情感であり、またそれを表現する句であって、これが『初懐紙』の基調をなす。歳暮句に代わって「冬」の句は少々あるが、『初懐紙』も後年ほどその数を減じ、後には春句のみで編まれる年も出る。つまり『初懐紙』はもっぱら春を詠む俳書として、それも人事の春ではなく自然の春を詠む俳書として登場したのであり、特に早春の初々しい感情が重視される。(後略)
※この几董編の『初懐紙』は、蕪村編の『夜半楽』刊行一年前に刊行されたものである。この『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その『むかしを今』は、夜半亭二世蕪村と夜半亭三世となる几董との二巻の歌仙を収めている。それは、宋阿の句を発句とする脇起こし歌仙で、その発句・脇・三十五句目(挙句前の花の句)を例示すると次の通りである。

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      行人少(まれ)にところてん見世(みせ) 蕪村
三十五  宋阿仏匂ひのこりて花の雲          几董

発句   啼(なき)ながら川越す蝉の日影哉      宋阿居士
脇      蚋(ぶと)に香たく艸(くさ)の上風   几董
三十五  雲に花普化(ふけ)玄峯に宋阿居士      蕪村

 この蕪村の三十五句目の「普化」は其角、そして、「玄峯」は嵐雪のことである。すなわち、蕪村も几董も、其角・嵐雪、そして宋阿に連なる都市系蕉門に属しているという公示でもある。この二人はその都市系蕉門の中心的俳人の其角崇拝では人後に落ちなかった。蕪村は、其角の『花摘』に倣い『新花摘』を刊行し、几董は、其角の『雑談集』に倣い『新雑談集』を刊行し、其角の「晋子」の号に模して「晋明」の号をも称している。しかし、几董の春帖(歳旦帖・春興帖)の『初懐紙』には、其角・嵐雪・宋阿、そして、蕪村のそれとは違った編纂スタイルをとっているのである。それも、一重に、歳旦帖・春興帖の時代史的な変遷であるとともに、都市系俳壇と地方系俳壇との融合、そして、それがまた、蕪村らの「蕉風復興運動」の文学史的意義であったのだという(田中・前掲書・「蕉風復興運動の二潮流」)。このような大きな流れを背景にして、始めて、蕪村の「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」(『春泥句集』序)という意義が鮮明となってくる。ともあれ、蕪村在世中の安永五年の、夜半亭三世となる几董の『初懐紙』の中において、上記の「早春」と題する「鶯」の句を、蕪村と几董とが肩を並べて作句していることが、蕪村の初撰集・初歳旦帖の『寛保四年宇都宮歳旦帖』の巻軸の句の、その蕪村の号を初めて使用したところの「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の句と、それ以後の、歳旦帖・春興帖を編むときに、必ず登場してくるところの「鳥・鶯」の句、そして、安永六年の『夜半楽』の「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の句と、さらには、蕪村の絶吟の、「冬鶯むかし王維が垣根哉」・「うぐひすや何こそつかす藪の霜」・「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」の句と、またしても交差してくるのである。

(四十六)

「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」(その五)

○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、

  歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村
   脇は何者節の飯帒(はんたい)      月居
  第三はたゞうち霞みうち霞み        月渓

をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである。
※これまでに、いろいろな角度から蕪村の異色の俳詩を包含している『夜半楽』を見てきたが、上記の、「安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである」という指摘には、全く同感である。そして、それが故に、この『夜半楽』の、巻頭の「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」との揚言や、巻尾のおどけた調子の「門人宰鳥校」の署名も、「江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである」として、十分に頷けるところのものである。また、「春風馬堤曲」の太祗の句の引用も、「江戸俳壇で育った蕪村」を象徴するようなものとして、これまた、蕪村の真意が見えてくるような思いがするのである。その「春風馬堤曲」に続く、「澱河歌」もまた、それらの「若き日の蕪村」(わかわかしき吾妻の人)に連なる「官能的な華やぎのエロス」の「仮名書きの詩」(俳詩)として、それに続く、「老鶯児」の発句の背景と思える「老懶(ろうらん)」(老いのもの憂さ)の前提となる世界のものとして、これまた、十分に首肯できるところのものである。さらに、些事に目を通せば、上記の「春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)」の発句(蕪村)に続く脇(月居)・第三(月渓)の「月居・月渓」が、三十五句目(挙句前の花の句)の几董、挙句の大魯に比して、その、ともすると「地方系蕉門風」の「几董・大魯」に続く、その次を担う夜半亭門の若き俊秀たちであることに注目すると、これまた、蕪村の真意というのが伝わってくる思いがするのである。上記の、「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容(田中道雄稿)」において、ただ一つ不満なことは、この『夜半楽』の卷軸の句と思われる「老鶯児」と題する「春もやゝあなうぐひすよむかし声」について言及していないことなのだが、これは項を改めて触れていくことにしたい。
  
 
(四十七)

「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』(田中道雄稿)」

 『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収には「郊外散策の流行」と題する論稿があり、「蕪村の『春風馬堤曲』」という項立ての中に次のような記述がある。

○(前略)蕪村は郊行詩の盛行現象に応じながら、しかもそれを独自の形態で表現した。それこそ俳諧詩「春風馬堤曲」であった。「春風馬堤曲」の郊行詩的性格を、まず伝統的概念から確かめとどうなるか。ある人物が郊外(馬堤)を通行し、その人物が風景を受容して行く過程が描かれる。まずこれが確かめられよう。ただし人物は、詞書中のみ作者、ということになるが、道が細くて曲がることが多い。これは「路(みち)三叉(さんさ)中に捷径(せふけい)あり」「道漸(やうや)くくだれり」から察せられる。詩を詠むことがある、これは詞書中での作者の行為として出る。風景として天象・地勢・植物・家畜家禽・構築物・人はいずれも含まれよう。続いて、安永天明期郊行詩の条件を満たし得るものか。第一の作風の新しさの一として、田園描写の精細があった。「蒲公(たんぽぽ)茎短(みじかう)して乳(ちち)をあませり」の観察は秀抜、「呼雛籬外鶏……」に見る鳥類の母性活写は、「野雉一声覷(うかが)ヘドモ不見(みえず)、菜花深キ処雛ヲ引テ行ク」(『六如庵詩鈔』五五)、「野鳥雛ヲ将(ひきゐ)テ巧に沙ニ浴ス」(『北海詩鈔』三六二)に通うものがあろう。二の田園風景における人為的素材や人はどうか。茶店、老婆、客の行動、猫や鶏など豊に含まれる。三の自然に向かって昂揚する感情は、三、四首目、少女の水辺行動に喜びが溢れよう。第二の素材・用語面での新しさはどうか。一の歩行については、詞書に「先後行数理」、本文では「渓流石点々 踏石撮香芹」と若々しい跳躍姿で描かれる。二の飲食は、茶店の客の「酒銭擲三緡」がそれを暗示しよう。この客もまた野懸け、つまり郊行の人なのである。三の日は「黄昏」がこれに代わる。第三、第四を措いて第五に移ると、冒頭の「浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらがは)」は都市から郊外への方向性を明示し、作の前半は、都市あるいは世事からの解放の喜びを含む。そして馬堤は「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」と、二項的把握に立って離郷を嘆く場ともなる。このように見て来ると、本作は、安永天明期郊行詩の条件をもほとんど具備していることになる。なお、『詩語砕金』の「春日郊行」項には「傍堤ツツミニツイテ」とあり、安永中と覚しき百池・几董の三ツ物に「馬堤吟行」の題を見る。本作の郊行詩的性格は、蕪村自らの意図によるのである。(中略) それにしても、郊行詩が詩人たちに清新な感情で迎えられる潮流、”郊外”という新しい場の成立、このことを抜きにして果たしてこの作品は成ったろうか。春日郊行の俳諧は、蕪村の「春風馬堤曲」に極まるのである。
※上記の「郊行詩的性格を伝統的概念から確かめる」の「伝統的概念」というのは、明代の作詩辞典の『円機活法』を指している。その伝統的な「郊行詩」の概念は、一「ある人物(通常作者)の郊行通行という行動を基本に据え」、二「場である郊外は、平野または村落から成り、道は細く曲がることが多い」、三「通行手段は、徒歩・馬・輿」、四「風景は、自然的素材としての天象、人為的素材としての農地・作物・家畜家禽・構築物など」となり、この作詩辞典の『円機活法』や詩語集の『詩語砕金』の「春日郊行」などが、蕪村の「春風馬堤曲」に大きく影響しているというのである。これまで、この「回想の蕪村」のスタートの時点において、「春風馬堤曲の源流」(潁原退蔵稿)を見てきたが、それに、この天明・安永期の「郊外散策の流行」・「郊行詩の盛行」ということを付記する必要があるということなのであろう。すなわち、唐突に、蕪村の異色の俳詩「春風馬堤曲」は誕生したのではなく、当時の漢詩の流行、そして、その影響下における俳諧の流行を背景にして、生まれるべくして、生まれてきた、換言するならば、「春日郊行の俳諧は、蕪村の『春風馬堤曲』に極まるのである」ということなのであろう。
なお、『円機活法』については、下記のアドレスなどが参考となる。

http://sousyu.hp.infoseek.co.jp/ks700/ks700.html


(四十八)

「祇園南海の詩論・影写説」・「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」(田中道雄稿)

 若き日の蕪村が、日本文人画の祖ともいわれている漢詩人・祇園南海に傾倒したことについては、先に触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 この祇園南海の詩論・影写説が、少なからず、蕪村の作句などに多くの影響を与えているのではないかとする論稿がある(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著))。以下、簡単にそれらについて要約して紹介をしておきたい。

○(祇園)南海の影写説が一般に拡まるのは、その没後に刊行された『明詩俚評』によってであった。(中略) 捉え難い情趣(作者主体の考える美的価値)を読者に伝えるため、捉え易い景気・客体の客観的描写を創作の方法として選んだことになる。つまり情趣構成法を示したのである。作品の内なる情趣構成法を示したのである。(中略) ここで著者(註・南海)は、「表」「裏」の対義語を用い、「表」で詠物や叙景を試みる一方、「裏」に寓意を込める作例を示す。また「裏」は、色々の深い意味や感情つまり「余情」を含む部分があると言う。従って詩の解釈は「表バカリ解」して「裏ハ推シテ知ベ」きものであり、反対に「裏」の意を解すると「余情」を失うことになる。この解釈法は創作法にも応用され、詩の創作は心を凝らしてまず「表バカリ作ル」こととなる。(「祇園南海の詩論・影写説」)
○『加佐里那止』(註・白雄の姿情説が説かれている明和八年刊行の著書)の論は、これまで見て来た影写説に極めてよく対応する。「姿」を「表」に「情」を「裏」に置き換えれば、そのまま影写説の理論構造に近づく 影写説は本来姿先情後論に近い理論構造を持ち、それ故に鳥酔らに迎えられたのであろう。ところが『寂栞』(註・白雄の姿情説が説かれている文化九年刊行の著書)は、情先姿後論は論外であり、姿先情後論をも明確に否定する。姿と情を、天・地の如く同列一対に見る。それを「物の姿」と「己の心」とを相対立させる形で置く。ここで注目すべきは、「物の」「己が」という修飾限定の語を伴う点であろう。対象(物)と主体(己)との位相の違いが、ここで明瞭に示される。位相が異なれば、先後は意味を失う。この二極分解を促したのは、おそらくは対象の描写にかかわる意識の発達、主体の表出にかかわる意識の発達だったと思われる。中でも、主体の「情」が相対的に強まったのではなかろうか。そして得られたのが、(「鳥酔系俳論への影響」・「姿先情後論から姿情並立論へ」)
○蕪村こそ、その主客対立の構造を、先駆的かつもっとも鋭く作品に示した人だった。(中略) 蕪村の影写説の影響を思わせるものは、次の二書簡がある。
  鮒ずしや彦根の城に雲かゝる
(中略) (安永六年五月十七日付大魯宛)
  水にちりて花なくなりぬ岸の梅
(中略) (安永六年二月二日付何来宛)
(中略) 蕪村の発想の二重構造は、次の書簡も裏付けてくれる。
  山吹や井手を流るゝ鉋屑
(中略) (天明三年八月十四日付嘯風・一兄宛)
この句、裏に加久夜長帯刀(かくやたちはきのをさ)の能因見参の故事を含みつつ、表は景気として鑑賞すると言う。しかもこの二重鑑賞法は詩の解釈に見るものと言う。やはり影写説に学ぶものと推定できよう。(「中興諸家の場合、ことに蕪村の遠近法」)
※これらの論稿は〔「我」の情の承認-二元的な主客の生成-〕の中のものなのであるが、中興諸家の多くの俳人が、祇園南海の「影写説」の影響を受けていて、その「影写説」が、「姿先情後論から姿情並立論へ」と向かい、そして、その「我」の情の優位が確立し、「情を「己」の側、姿を「物」の側に分けるという、二元的把握の成立だったのである。それは従来の姿―情という関係の内容を、物―己という関係に組み替えるものであった」というのである。そして、蕪村もまた、この「影写説」の影響や主我意識の発達の中で、「風景を一望するため自己の位置を一点に定め、対象に一定の「隔り」を置くという、いわゆる「遠近法」を自家薬籠中のものにしていたというのである。そして、この遠近法が「遠」の詩情の問題に深く関わり、それが、蕪村の浪漫精神に連なっているというのが、この論稿の骨子であった。ともあれ、蕪村の発句の鑑賞や、俳詩「春風馬堤曲」の鑑賞にあっては、この祇園南海の「影写説」などを常に念頭に置く必要があるように思えるのである。


(四十九)

「蕪村の手法の特性 -“ 趣向の料としての実情”― 」(田中道雄稿)

○「蕪村発句の新しい解釈」
(前略)新たな理解は、清登典子氏の、「梅ちるや螺鈿こぼるゝ卓の上」 の解釈にも見られる。(中略) 単なる嘱目句ではなく、古典(註・『徒然草』八十二段)によって奥行きを与えた、趣向ある叙景句なのである。
○「かくされた出典の存在」
(前略)表面上一応の解釈はつくのに、検討を加えると、背景をなす古典の存在が明らかになる、ということであった。それはあたかも、それぞれが映像を持つ二つの透明スクリーンを隔て置き、手前から眺め観る趣きである。つまり二重写し、この出典の発見によって句解も多少変るが、より重要なのは、古典場面の付加によって、一句に新たな情が加わることである。(中略)蕪村が祇園南海の詩論”影写説”を受容していた、という事実に基づく、(中略)表は景気句として味わい、裏では故事を察して味わうという、二重鑑賞の実例を示していた。先の私解三例(省略)は、この鑑賞理論に沿ってみたのであった。
○「景の重層化の意図」(省略)
○「皆川淇園の思想との類似」
蕪村の発句制作において”景の重層化”とも呼ぶべき手法があることを指摘した。蕪村はこれを方法として充分に自覚し、利用にはある意図が存したと考えられる。(中略)私見(註・田中道雄)では、前節(註・「景の重層化の意図」)に見る発句の手法は、その発想が、当時京都の儒学界に新風を起こした、皆川淇園の思想に相似ており、或いは関連を持つかと思われる。蕪村は、この淇園の思想を逸早く受ける立場にあり、恐らく何がしかの影響を受けていよう。(後略)
○「趣向と情との拮抗関係」
(前略)蕪村は、趣向を第一に置き、これに情を付随させる方法、別な言い方をすれば、情がより現れる形での趣向中心主義を採った、と考えられる。これまでの句解例(省略)によれば、第二節(「かくされた出典の存在」)の古典を用いる方法が、何よりもそのことを物語る。裏に典拠を持つというのは、伝統的な趣向の方法であり、これらの句は、そこに基盤を置いて成立している。従って作品の価値は、何よりもこの趣向の面白さにあり、その間ににじみ出る情が評価されるのも、あくまでも趣向に伴っての出現、と理解されていたと思われる。(後略)
○「『春風馬堤曲』の方法」
(前略)当作品の魅力の中心は、浪花から故園に至る少女の道行にある。勿論この少女の設定が、当作の趣向の要である。しかも、この趣向は、それが二重の筋で利くことになる。その一は、第三章(註・「郊外散策の流行・蕪村の『春風馬堤曲』)にも述べたように、当時流行した春日郊行あるいは春日帰家と題する漢詩を念頭に置き、文人好みの郊外という舞台を、文人に代わって藪入りの少女に歩ませる、という趣向である。(中略)その二は、帰郷の少女を望郷の作者の分身として歩ませる、という趣向である。(中略)この二重の意味での趣向は、作者の情を盛り込む上でも、きわめて効果的であった。(中略)こうした本作の趣向の巧みは、その末尾にも現れる。末尾では、道行を終えた少女が漸く生家に近づくが、その場面は突如打ち切られ、代って作者が再登場する。そしてあろうことか、他者の作品を加えて一篇を結ぶ。(中略)当代詩壇では望郷詩が多作され、中には「夢帰故郷」(註・夢ニ故郷ニ帰ル)の題の下、夢中の場面がリアルに描かれることもあった。本作は、蕪村による「夢帰故郷」の詩と見倣し得る。(中略)確かに本作の情は、作者に内発したものであった。しかし作者は、この個人の情の文芸的表現を自ら求めながら、一方、自らの美意識に立ってそのあらわな表現を抑制した。その矛盾を自解に「うめき出たる実情」と滲ませるものの、老練さすがに心得て、「狂言の座元」の如く全体を統制し、実情を趣向に隠し込める形で処理したのである。(後略)
○「”趣向の料としての実情”」(省略)
○「結び」(省略)
※「蕪村の手法の特性」ということでの著者(田中道雄)の論稿を要約すると上記のとおりとなる(句例の解説などを全て省略し、充分にその意図を伝達できないきらいがあるが、その骨格となっているものは、上記のとおりである)。ここで、蕪村は、きわめて「趣向」を重視した画・俳の二道の達人であったということと、「詩を語るべし。子、もとより詩を能くす。他にもとむべからず」(『春泥句集』序)の、漢詩を「かな書き」でしたところの、まぎれもなく、「かな書きの詩人」であったという思いである。この意味において、蕪村をよく知る上田秋成の、蕪村の追悼句ともいうべき、「かな書(がき)の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』所収の難華・無腸の署名の句)という思いをあらためて反芻するのである。そして、その異色の俳詩「春風馬堤曲」こそ、蕪村の手法が全て網羅されている、蕪村ならではの「かな書き」の詩ということになろう。と同時に、この安永六年(一七七七)の『夜半楽』に収録されている俳詩の、「春風馬堤曲」並びに「澱河歌」は、服部南郭の「影写説」並びに皆川淇園の「景の重層化」の、いわゆる当代の漢詩の詩論の影響下での、蕪村独自の世界の展開といえよう。そして、それは、蕪村のこれらの俳詩の創作の中心となる「写意」ともいうべき「情」を、その「裏」に閉じこめての、華麗なまでにも「表」の「趣向」を現出した、いわば、「趣向詩」とでもいうべき装いを施しているということなのである。この意味において、その「表」の「趣向」よりも、「裏」の蕪村の内なる「情」を綴った、蕪村のもう一つの俳詩、「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)とは、一線を画すべきものとの理解をも付記しておきたいのである。

火曜日, 9月 19, 2006

回想の蕪村(二十七~四十)



回想の蕪村

(二十七)

 ここで、蕪村の代表的な「歳旦帖」・「春興帖」とこの安永六年(一七七七)の「春興帖」・『夜半楽』とを対比して見ていくこととする。まず、蕪村の初歳旦帖『寛保四年宇都宮歳旦帖』との関連を見てみたい。

『寛保四年宇都宮歳旦帖』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○仮綴本一冊。表題に「寛保四甲子歳旦歳暮吟」とある。寛保四年、蕪村二十九歳の春、野州宇都宮の佐藤露鳩一派と提携して編んだ歳旦帖。蕪村自身の撰集としては最初のものであり、板下も蕪村であろう。集中に旧号「宰鳥」と共に、蕪村の号が初めて使用されている点に注目すべきであろう。

 この「集中に旧号『宰鳥』と共に、蕪村の号が初めて使用されている点に注目すべきであろう」の、蕪村の号を初めて使用した、この歳旦帖の巻軸の句は次のとおりである。

○ 古庭に鶯啼きぬ日もすがら

 この鶯の句に対応するように、蕪村、六十二歳の『夜半楽』には、「老鶯児」とわざわざ題を起こして、次の一句をまさに巻軸の句(最も中核となる句)として配置しているのである。

○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声

 蕪村が、「歳旦帖」・「春興帖」を編むときに、若き日の、蕪村、二十九歳の春に編んだ、
初歳旦帖『寛保四年宇都宮歳旦帖』が常に脳裏にあったことは想像に難くない。さらに、その初歳旦帖の表題には、「渓霜蕪村輯」の初使用の号の「蕪村」の編集であることを明記しているが、『夜半樂』の奥付けにも、「門人 宰鳥校」とあり、この「宰鳥」は、宇都宮歳旦帖を編んだ頃の号で、江戸に出てきた頃の号の「宰町」の次の号であり、蕪村はしばしば、前号などを併記するという傾向が見られることも注目すべであろう。

(二十八)

 明和七年(一七七〇)三月、蕪村、五十七歳のとき、夜半亭一世の跡を継いで、夜半亭二世を襲名する。六月から九月まで三菓社句会を開き、十月に、夜半亭社中句会に改める。翌、明和八年春に、夜半亭歳旦帖『明和辛卯春』を刊行する。

『明和辛卯春』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○横本一冊。明和七年三月、亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が翌八年春に編んだ春興帖で、板下も蕪村自筆。前年の襲号の披露を兼ね、夜半亭一門の実力を広く世に示そうとした上梓したもの。版元は京都橘仙堂。蕪村・召波・子曳の三つ物に始まり、一派の歌仙二巻、および諸家の旦暮吟を収める。蕪村門としては、召波・子曳・几董・馬南(大魯)・鉄僧・晋才・鳥西・自笑・雨遠・斗文・呑獅・田福らのほかに、貝錦・徳羽らの福原社中、鷺喬・鶴英らの伏水社中が名を列ねている。また歌仙には、一門にまじり、大祗や竹護(嵐山)が加わっていることも注目を引く。そのほか、存義・買明・楼川・百万・田女らの旧知の江戸俳人も句を寄せ、さらに浪花の銀獅・鯉長、江戸の梅幸・雷子・慶子らの俳優連が華やかな彩りを添えている点も蕪村らしい。

 この『明和辛卯春』は、蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」のうちで質・量的に最も充実したものであろう。『宇都宮歳旦帖』と同じく、「歳旦三つ物」で始まり、「歳旦」・「歳暮」・「春興」等の句のほかに、子曳・蕪村・大祗・几董・馬南(大魯)による歌仙と蕪村・田福・斗文・自笑・大祗・鳥西・鉄僧・羅雲・貫山の歌仙の二巻を収載している。これらの当時の夜半亭一門の俳人の中で、後の『夜半楽』には、大祗・召波は既に亡くなって、その名は見られない。蕪村は、この『明和辛卯春』では、歌仙・三つ物では「蕪村」の号で、俳句(地発句)には「夜半亭」の号と、ここでも二つの号を使いわけしている。ここでも、蕪村の鶯の句が登場してくる。

○ 鶯を雀歟(か)と見しそれも春     (春興)
○ 鶯の粗相(そそう)がましき初音かな  (春興追加)

(二十九)

 安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のとき、その六月に、宋阿三十三回忌追善法要を営み、追善集『むかしを今』を編纂・刊行した。そこで、「されば今我門にしめすところは、阿叟(あそう)の磊落なる語勢にならはず、もはら蕉翁のさび・しほ(を)りしたひ」(だから今、私が門下に教え示すのは、師の宋阿の大らかな語調を模範とせず、もっぱら芭蕉の侘び・撓(しほ)りを慕い)と記している。そして、この「蕉翁のさび・しほ(を)りしたひ」は、その三年後の『夜半楽』においては、「蕉門のさびしほりは 春興ノ席ヲ避クベシ」と、再び「阿叟(あそう)の磊落なる語勢」と自由闊達さへと転換している。この背後には、明和八年(一七七一)に相次いで没した、大祗・召波への思い入れやその悲しみにともすると埋没しそうな境地からの転換なども見え隠れしている。

『安永三年春帖』解題(雲英末雄稿・抜粋)
○小本一冊。蕪村編。安永甲午(三年)春。橘仙堂版。後補表紙があるが、題簽や墨書による書名はない。内題に「安永甲午歳旦」とあり、安永三年の歳旦三つ物を巻頭におく蕪村の春興帖である。板下も蕪村の自筆。(中略) 蕪村自身も巻頭の歳旦三つ物の他、宰町・蕪村両号を用いて発句六句を入集している。また、自笑・我則・月渓らの門下の人々の発句に合わせて蕪村が俳画を十六点描いており、蕪村の俳画資料として、質的な面でも、量的な面でもきわめて重要なものである。

 この『安永三年春帖』には、蕪村の鶯の句は見られないが、この巻末に下記の蕪村の句が三句続き、その末尾を飾っている句は、鶯を含めての鳥の句と解して差し支えなかろう。

○ 日は日くれよ夜は夜あけよと啼(なく)蛙
○ つゝじ野やあらぬところに麦畠
○ 鳥飢(うゑ)て花踏(ふみ)こぼす山ざくら

(三十)

 安永三年(一七七四)に次いで、安永四年の『安永四年春帖』も今に残されている。

『安永三年春帖』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○小本一冊。蕪村編。橘仙堂版。表紙に仮題「安永俳句集」と墨書するが、内題に「安永乙未歳旦」とあり、安永四年の蕪村の春興帖である。板下も蕪村自筆。蕪村の俳画を豊富に収録した『安永三年春帖』に比較すると、挿絵はわずか一点で物足りないが、内容的には紙数も出句者もふえて、さらに充実したものになっている。但馬出石社中、入佐麓社中、淀社中など、各地に蕪村社中が形成され、これに几董の春夜楼社中、大魯の芦陰舎社中らが加わり、賑やかな顔ぶれである。歳旦三つ物に始まり、一門社友の旦暮吟の春興句を集め、巻末に一門の歌仙一巻を収める。集中には旧知の江戸俳人のほか、大雅堂の作が見え、また二柳・旧国・蓼太・樗良・暁台ら中興諸名家も句を寄せ、巻軸には蕪村の春興十一句を列記してあるのも注目に値する。

 この『安永三年春帖』に句を寄せていた大雅堂(池大雅)は、翌安永五年に没する。なお、巻軸の蕪村の春興十一句は次のとおりである。その中には鶯の句も見られる。

○ 梅折(をり)て皺手にかこつかほ(を)り哉
○ 鳥さしを尻目に藪の梅咲(さき)ぬ
○ 紅梅や比丘より劣る比丘尼寺
○ 陽炎や名もしらぬ虫の白き飛(とぶ)
○ 留守守(もり)て鶯遠く聞(きく)日かな
○ 捨(すて)やらで柳さしけり雨のひま
○ ぬなわ(は)生ふ池のみかさや春の雨
○ 春月や印金堂の木の間より
○ 雉子打(うち)てもどる家路の日は高し
○ 木瓜の陰に皃(かほ)類(たぐ)ひ住(すむ)きゞす哉
○ 帆虱のふどしに流さむ春の海(註・長文の前書き省略)

(三十一)

 さて、安永六年(一七七七)の春興帖『夜半楽』について二つの解題を示しておきたい。

『夜半楽』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○俳諧撰集。半紙本一冊。蕪村編の春興帖。京都、橘仙堂。書名は蕪村が継承した夜半亭による。奥付には安永六年正月とあり、蕪村が夜半亭宋阿の門にあったときの旧号を用い「宰鳥」と記している。新年早々の発刊を企画したようだが、実際の刊行は安永六年二月下旬になってのことであったらしい。半葉九行割の罫引料紙使用。板下は蕪村自筆。まず、前書き付きの蕪村発句「歳旦をしたり皃(かほ)なる俳諧師」による正月初会の一順歌仙一巻を掲げ、次に、道立・維駒・月居・月渓・百池・大魯・几董ら、蕪村門の高足による春興雑題四十三句を収めている。さらに蕪村作の「春風馬堤曲」十八章、「澱河歌」三章、「老鶯児」一章(句)の三部作がある。高雅洒脱な体裁、蕪村門のみによるという統一感、蕪村作の特異な新体の詩篇を収めていることなどが特色である。

 この『夜半楽』は大別すると、「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)」と「春風馬堤曲(十八首)・澱河歌(三首)・老鶯児(一首)」の二部構成から成っている。歳旦帖・春興帖的には、「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・老鶯児(一首)」の構成で、「春風馬堤曲(十八首)・澱河歌(三首))という特異な新体の詩篇が、次の「老鶯児」の前書き的な序章的な構成との理解もできよう。そういう意味で、この解題にあるとおり、「春風馬堤曲」十八章、「澱河歌」三章そして「老鶯児」一章(句)は三部作の構成と理解すべきなのであろう。

(三十二)

「夜半楽」の三部作について(清水孝之稿)
○安永六年(一七七七)蕪村六十二歳の春興帖として橘仙堂から刊行された『夜半楽』は、編集も板下も蕪村一人の手に成った小冊子(半紙本一冊)である。標題は河東節(かとうぶし)の正本『夜半楽』(享保十年刊)から由来したものと思われる。目録に「歌仙一巻・春興雑題四十三首(社中の発句)・春風馬堤ノ曲十八首・澱河ノ歌三首・老鶯児一首」とあり、『夜半楽』のすべてである。「安永丁酉初会」の巻頭歌仙の序は、和漢句四行を並べ、「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質にならはんとて」と宣言し、三部作最後に「老鶯児」と題した「春もやゝあなうぐひすよむかし声」という懐旧句を置き「門人宰鳥校」と署名した。「宰町」に続く若き日の蕪村の旧号である。青春回想のロマンチシズムから、故園への郷愁の俳詩「春風馬堤ノ曲」と「澱河ノ歌」が成ったもののようだ。前年の暮一人娘を結婚させ作者は、その安心感と空虚感とから「容姿嬋娟(せんけん)。痴情可憐」き藪入り娘を造型したものに違いない。「浪花を出(いで)てより親里迄の道行(みちゆき)にて、…… 実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候」(二月廿三日付書簡)と自ら制作の動機を解説した。彼は日本の詩人としての誇りを持って和漢諸体の詩形をないまぜ、親友の大祗の発句まで活用するという離れ業をみせて、空前絶後の連作叙事詩を創作し、またその郷愁を一篇の詩情に託した。それらは決して漢詩の模倣や追随ではなく、海彼(かいひ)国の影響を超えた、見事な日本文学史上の達成であった。

 この解題の、「標題は河東節(かとうぶし)の正本『夜半楽』(享保十年刊)から由来したものと思われる」という指摘は、この『夜半楽』の序文の「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」ということとも符合し、また、当時の浄瑠璃(江戸浄瑠璃の「河東節」など)の隆盛などから見て、これだけが全てではないとしても、おそらく、蕪村の脳裏にあったことは、これまた想像に難くない。なお、浄瑠璃一般及び河東節については、次のアドレスに紹介されている。

浄瑠璃一般

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83

河東節

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9D%B1%E7%AF%80


(三十三)

 古来、蕪村の『夜半楽』について、その契機となっている由来などについて、さまざまな解が試みられているが、この『夜半楽』が、その序文(「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」)並びに蕪村前の旧号「宰鳥」をその奥付けに記載していることは、かっての関東出遊時代の若き日を回想をして、この安永六年(一七七七)の春興帖を編んだことだけは間違いない。そして、この関東出遊時代に、それまでの宰町の号を宰鳥の号に改号し、その宰鳥名の発句と参加した歌仙二巻が収載されているものが、蕪村の師の宋阿(早野巴人)が、元文四年(一七三九)に、其角(宝永四年二月二十九日没)並びに嵐雪(宝永四年十月十三日没)両師の三十三回忌にあたり手向けた追善集『俳諧 桃桜(上・下)』である。この『俳諧 桃桜』については、「若き日の蕪村」ということで、先に、触れたところである。
 ここで、その『俳諧 桃桜』に収載されている宰鳥名の発句と参加した歌仙二巻の関連するところを抜粋してみると次のとおりである。

(発句) 
摺鉢のみそみめぐりや寺の霜

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_06.html

元文四年(一七三九) 二十四歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
   不二を見て通る人あり年の市
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の版下は宰鳥という)に次の発句が見える。
   摺鉢のみそみめぐりや寺の霜
「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙に、宋阿・雪尾・少我らと、更に百太興行の歌仙にも、宋阿。百太・故一・訥子らと一座する。

(歌仙・「染る間の」巻)

発句 染(そむ)る間の椿はおそし霜時雨         雪雄
脇    汐引〈く〉形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)  宰鳥
第三 稽古矢の十三歳をかしらにて            宋阿 

 元文四年(一七七五)に巻かれた歌仙「染る間の」の発句・脇・第三の抜粋である。この脇句の作者、宰鳥は、宰町こと蕪村の別号である。宰町を宰鳥と改号したのか、それとも、宰町と宰鳥とを併用していたのかどうかは定かではないが、この元文四年以降になると、宰鳥の号が使われ出してくる。この歌仙には、「宋阿興行」という前書きがあり、宋阿が中心になって、その捌きなどをやられたことは明らかなところである。「客、発句、亭主、脇」で、興行の亭主格の宋阿が、脇句を詠むのが、俳諧(連句)興行の定石であるが、その脇句を、若干、二十三歳の、蕪村こと宰鳥が担当しているということは、名実ともに、師の宋阿に代わるだけの力量を有していたということであろう。この歌仙は、宋阿編の「俳諧桃桜」の右巻(下巻)に収録されており、こと、俳諧(連句)の連衆の一人として、蕪村(宰鳥)が登場する初出にあたるものである。この雪雄の発句は、「芭蕉七回忌」との前書きのある、嵐雪の「霜時雨それも昔や坐興庵」を踏まえてのものであろう。坐興庵とは、嵐雪が芭蕉門に入門した頃の、芭蕉の桃青時代の庵号でもあった。それらを踏まえて、其角・嵐雪の三十三回忌の追悼句集「俳諧桃桜」の右巻(嵐雪追悼編)の歌仙の一つの、雪尾の発句なのである。その発句に対して、若き日の蕪村(宰鳥)は、「汐引(く)形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)」と、蕪村開眼の一句の「柳散清涸石処々(ヤナギチリ シミズカレ イシトコロドコロ)」に通ずる脇句を付ける。そして、夜半亭一門の主宰者・宋阿が、蕪村の荒涼たる叙景句を、「稽古矢の十三歳をかしらにて」と、元服前後の稽古矢に励んでいる人事句をもって、応えているのである。こういう歌仙の応酬の中に、当時の若き日の蕪村の姿というのが彷彿としてくるのである。

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_114941283079793798.html

(歌仙「枯てだに」の巻) 省略

(三十四)

 蕪村の『夜半楽』は、蕪村が二十四歳の頃の宰鳥時代の『俳諧 桃桜』(宋阿撰集)とも深いつながりがあると思われるのだが、これらのことに関して、「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿『蕪村全集七』所収「月報五」)を以下分節してその全文を紹介しておきたい。

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その一

○かって夏の季語「河骨(こうほね)」の例句を探していて、嵐雪に、「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」(『玄峰集』)という句があることに気がついた。一句は、宝永四年(一七〇七)、その春に没した其角を悼んだもので、『類柑子』所収の「追悼乃句聯」に初出。この句に接した時、蕪村が安永六年(一七七七)の春興帖に『夜半楽』と名付けるにあたって、この句がヒントになったのではないかと、ふと思った。はたしてそれは思い付きに過ぎないのであろうか。蕪村の『夜半楽』という書名について、尾形仂氏は「夜半が夜半亭を意味していることはいうまでもない」とした上で、「春風馬堤曲」「澱河歌」など、本来楽曲であった中国の楽府題詩に擬した作品を含むことから、「春をことほぐ夜半亭の楽曲の意」とし、さらに「ひそかなる夜半の楽しみといった意味」をこめたものと、その意味を明からにしておられる(『蕪村の世界』)。『夜半楽』の内容に即した解釈として、まことに懇切な解といってよかろう。だが、蕪村は「夜半楽」ということばを何から得たのかという問題になると、まだ検討の余地が残っているように思われるのである。

 この嵐雪の「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」の句が、嵐雪の其角追悼句とするならば、先に紹介した、其角・嵐雪三十三回忌追善集『俳諧 桃桜』と深いかかわりのあるの一句ということになる。そして、その『俳諧 桃桜』こそ、 蕪村が宰鳥時代に、師の宋阿に同行して、其角・嵐雪に連なる各地(結城・高崎・松井田・下館・関宿など)の夜半亭宋阿一門の俳人たちと歌仙興行をした記念すべき撰集であった(その下巻は宰鳥の板下といわれている)。当然、其角・嵐雪三十三回忌追善集を編むため、その撰集者の夜半亭一世の宋阿とその助手役のような宰鳥こと蕪村は、この嵐雪の句を熟知していたことであろう。蕪村が宰鳥の名で、この『俳諧 桃桜』に収めている発句の、「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」の句の「みそみ」(三十三)が、其角・嵐雪の三十三回忌を意識してのものであることは言をまたない。そして、この句こそ、現に残されている「宰鳥」の号での初出の作なのである。そして、繰り返すことになるが、『夜半楽』の奥付けには、蕪村は、「門人 宰鳥校」と記しているのである。これらのことからして、『夜半楽』の書名の由来の一つとして、嵐雪の其角追悼の句の、「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」があったのではないかということについては賛意を表したい。

(三十五)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その二

○ところで、「夜半楽」ということばは、蕪村以前から存在した。清水孝之氏は『夜半楽』の書名の由来として、享保十年(一七二五)に刊行された同名の河東節正本集の存在を挙げておられるが(新潮日本古典集成『与謝蕪村集』など)、地歌にも「夜半楽」という曲があり、その曲名は上方歌の伝本曲一覧『歌系図』(天明二年刊)にも記されている。さらに古くは雅楽の曲名として知られた。その名は謡曲の詞章にも『天鼓』『梅枝(うめがえ)』などに見えていて、たとえその楽の音を実際に聞いたことはなかったにしても、近世の知識人にとって耳遠いことばではなかったと思われる。嵐雪の「川骨や」の句もまた、謡曲『経政』の「手向けの琵琶を調ぶれば、時しも頃は夜半楽」の一曲によったものとみてよく、一句の意は、夜中、旧友の死を悼み夜半楽の曲を奏ででいると、撥音もしめりがち、萼片が花弁を包み込むようにヒッソリと咲いている河骨の花の姿も、その撥音に応じてまるで悲しみに凋んでいるように見える、といったところであろうか。

 この嵐雪の「『川骨や』の句もまた、謡曲『経政』の『手向けの琵琶を調ぶれば、時しも頃は夜半楽』の一曲によったものとみてよく」の指摘を、「蕪村の『夜半楽』もまた、謡曲『経政』の『手向けの琵琶を調ぶれば、時しも頃は夜半楽』の一曲によったものとみてよく」と、そっくり置き換えても差し支えないような雰囲気である。嵐雪が旧友・其角を失ったように、蕪村にとっても、この『夜半楽』を起草する当時にあっては、俳諧の無二の旧友、大祗・召波、そして、絵画のよきライバルであった大雅までも失っているのである。それらの意気消沈するような日々にあって、これではならじと、安永六年(一七七七)年の年頭に当たっての春興帖の『夜半楽』のその序章のような形で、次の、「祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは 不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず) 蕉門のさびしをりは 
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし) さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」を置き、そして、異色の俳詩「春風馬堤曲」の末尾に、「君不見(みずや)古人太祗が句  薮入の寝るやひとりの親の側」の、太祗の句で結んでいるのである。とにもかくにも、嵐雪の「夜半楽」の句は、謡曲「経政」の「夜半楽」などを介して、蕪村の「夜半楽」にも大きな影を投げかけていると解して差し支えなかろう。
(追伸)星春乃さんが、能楽「難波梅」や雅楽「春鶯囀」との関連で、蕪村の『夜半楽』の構成を考察しているが、それは一つの卓見であろう。そして、単に、「難波梅」や「春鶯囀」だけではなく、さらに、『天鼓』・『梅枝(うめがえ)』・『経政』などの広範囲において考察れさると、一つの大きな参考データとなってこよう(但し、蕪村の『夜半楽』の構成を、これらの能楽・雅楽の世界に当て嵌めてみるという視点よりも、その逆に、「能楽・雅楽を前提として、蕪村の『夜半楽』の世界の一つの鑑賞を試みる」という、いわば自由解的な柔軟な視点が必要になってくるように思われる)。

(三十六)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その三

○そうした「夜半楽」の流れをたどってみると、何も『夜半楽』の書名と嵐雪の句とを結びつけるまでもあるまいと考えることもできる。だが、嵐雪、そして其角は蕪村の師宋阿(巴人)が師事した俳人、宋阿は嵐雪(玄峰居士)の三十三回忌追善の独吟歌仙で、「玄峰居士にほひのこりて花の雲」の名残の花の句を手向け、蕪村はそれを受けて、安永三年の宋阿三十三回忌追善に、「花の雲三たびかさねて雲の峯」の追悼句を詠んでいるが、それらの句のもとになったのは、嵐雪の其角追悼句、「晋化(ふけ)去りぬ匂ひのこりて花の雲」であった(蕪村「宋阿三十三回忌追悼句文」など)。むろん、この句も「川骨や」の句同様、『類柑子』所収の「追悼乃句聯」中に収まる。してみると、先の思い付きもまんざら捨てたものでねないような気がしてくる。ちなみに、「川骨や」の句のすぐ前には、「樒売(うり)あなうの花の食を見る」という句が見える。「あな憂」と「卯の花」との秀句。それは、『夜半楽』の秀句、「春もややあなうぐひすよむかし声」の「あな憂」と「うぐひす」との秀句を思わないでもない。

 若き日の二十四歳頃の蕪村の、「宰鳥」がこの世に登場するのは、その師・宋阿(巴人)が編んだ、其角・嵐雪三十三回忌追善集の『俳諧 桃桜』においてであった。それは、元文四年(一七三九)のことであった。そして、回想のときを迎えた五十九歳の蕪村が、その『俳諧 桃桜』を編んだ師の、その宋阿(巴人)の三十三回忌追善集『むかしを今』を刊行したのは、安永三年(一七七四)のことであった。そして、その三年後の安永七年に、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」そして発句の「老鶯児」の三部作を含む夜半亭一門の春興帖『夜半楽』が誕生するのである。これらは、全て、一つの延長線上のものであるという理解は極めて自然のことであろう。(なお、「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)では、安永三年の宋阿三十三回忌追善『むかしを今』収載の蕪村の句を、「花の雲三たびかさねて雲の峯」としているが、「花の雲三重(みへ)に襲(かさ)ねて雲の峯」の句形がより適しよう。また、この『むかしを今』については、別稿で見ていくこととする)。

(三十七)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その四

○それはともかく、一方は追悼の句、一方はめでたい春興帖の題名、両者はどれほどつながりがあるというのか、句意も『夜半楽』の内容とさほど関連があるように見えないが、その点についてはどうかと問いかけられると、いささか心もとない。むろん、蕪村は嵐雪の「川骨や」の句から「夜半楽」ということばを思い付いたまでのこと、「夜半楽」の内容とは関わらないといえば、それですむ。しかし、私にはどうもそれだけではないような気がしてならないのである。『夜半楽』に懐旧の情が著しいことは、しばしば説かれるところだが、その懐旧は、幼年時代のみならず、関東を漂泊した青春時代をも含むものでもあろう。『夜半楽』巻頭の歌仙の前書には、「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」と記されている。この「吾妻の人」を安東次男氏『与謝蕪村』や本全集第四巻一六五ページの頭注に従い「亡師巴人」とみなすならば、そこに当時流行した似非芭蕉流の俳諧への批判とともに、亡師巴人への追慕の念を読み取ることもできるはず。その追慕の思いを、ともに亡師ゆかりの、其角を追悼した嵐雪の句のことばで応じたところに、俳諧師らしい工夫があったといえなくもない。 

 これまでに、蕪村の主だった歳旦帖や春興帖について見てきた。そこには、それぞれ特有の工夫を施しているのだが、例えば、『安永三年春帖』においては、蕪村の俳画が十六点も収載されており、さらに、『安永四年春帖』においては、蕪村の初撰集として名高い『寛保四年宇都宮歳旦帖』と同じ体裁で、「三つ物」と「東君」(歳旦の季題)などから始まり、その巻軸には蕪村の春興十一句(『寛保四年宇都宮歳旦帖』では初出の「蕪村」の号でする「鶯」の一句)を列記しているのである。これらを詳細に見ていくと、これらの歳旦帖や春興帖を編むときには、必ず、蕪村は往年のそれらとの比較検討をして、しかる後に、その年度の新しい新基軸を打ち出しているということが伺えるのである。例えば、『安永三年春帖』の春興帖には、蕪村の初出の号とされている「宰町」の号をもっての発句が見られ、それは、この『夜半楽』においては、その「宰町」の次の号の「宰鳥」の号が、その奥書において見られるなど、幾多の類似志向が見られるのである。そして、先にも触れたところであるが、この安永三年(一七七二四)には、宋阿(夜半亭巴人)の三十三回忌追善集『むかしを今』が刊行され、それは、まさに、蕪村の「関東を漂泊した青春時代」を回想してのものであり、それはとりもなおさず、其角・嵐雪・巴人と連なる夜半亭俳諧の足跡を踏まえるものであった。ここでも、繰り返すこととなるが、この『夜半楽』を編むに当たって、蕪村は、「関東を漂泊した青春時代」の数々の回想の「其角・嵐雪・巴人」に連なる俳諧作品などの足跡というものを辿り、例えば、嵐雪の「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」(『類柑子』・『玄峰集』所収)の句などは、この「夜半楽」という用例だけではなく、この「撥」などの用例も、大きく、その『夜半楽』に影響を及ぼしているように思えるのである。

(三十八)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その五

○さらに憶測を重ねれば、当時の蕪村は「川骨や撥に凋(しぼ)める」の思いとも無縁ではなかった。既に太祗・召波らの盟友を失い、とりわけ前年の暮には一人娘を嫁がせたばかりである。身辺にしのびよる寂寥、空虚感。『夜半楽』という書名に嵐雪の其角追悼句を重ねあわせてみると、そうした蕪村の心境がより一層浮かび上がって来るように思えるのだが、はたしてどうであろうか。
 
 蕪村が夜半亭二世となったのが明和七年(一七七〇)、五十五歳のときのであった。そして、その翌年の明和八年八月五日に、蕪村の無二の盟友にして、夜半亭門の有力指導者であった、炭太祗が世を去る。その翌年に刊行された『太祗句選』の序で、蕪村は太祗について次のように記している。

※仏を拝むにもほ句し、神にぬかづくにも発句せり、されば祗が句集の草稿を打ちかさね見るに、あなおびただし、人の彳(たたず)める肩ばかりくらべおぼゆ。
(訳)太祗は仏様を拝むに際しても発句を作り、神前にぬかずくに際しても発句を作りました。ですから、太祗の句集を重ねてみますと、大変な分量で、人の立っている肩ほどの高さにも達するありさまでした。

 そして、その太祗に続き、夜半亭門で蕪村が最も信頼を置いていた、黒柳召波が十二月七日に没する。召波の七回忌に際して刊行された召波句集『春泥句集』に、蕪村は長い序文を寄せているが、その中で召波の臨終について蕪村は次のように記している。

※をしむべし、一旦病にふして起つことあたはず、形容日々にかじけ、湯薬ほどこすべからず、預(あらかじ)め終焉の期をさし、余を招きて手を握りて曰く、恨らくは叟とともに流行を同じくせざることを、と言ひ終りて、涙潸然(さんぜん)として泉下に帰きしぬ。余三たび泣きて曰く、我が俳諧西せり、我が俳諧西せり。
(訳)惜しいことに一旦病に伏して、もう起つことができませんでした。姿は日毎に痩せ衰え、薬ももうほどこしようがありませんでした。召波は予め死期を悟ったのでしょうか、私(蕪村)を招いて、手を握り次のように言いました。「残念なことには、あなたとともに俳風を変えることもできずに、それが心残りです」と言い終わりて、涙をさめざめと流しながら、亡くなってしまいました。私は一度・二度・三度と亡き伏して、召波に言いました。「私の俳諧はあなたとともに滅んでしまった。私の俳諧は滅んでしまった」と。

 太祗・召波に続き、『夜半楽』を刊行する一年前の、安永五年四月十三日に、絵画の面で、蕪村と共に、南画の双璧ともいわれた、池大雅が没する。さらに、その年の暮れの十二月には、一人娘の結婚と、その結婚も間もなく破綻するという兆候の中にあって、当時の蕪村の「身辺にしのびよる寂寥、空虚感」というのは、如何ばかりであったことか。「『夜半楽』という書名に嵐雪の其角追悼句を重ねあわせてみると、そうした蕪村の心境がより一層浮かび上がって来る」という指摘は、容易に想像のできるところのものであろう。

(三十九)

 『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その「序」を分節して紹介しておきたい。

『むかしを今』・「序」(その一)

○亡師宋阿の翁は業を雪中庵にうけて、百里・琴風が輩と鼎のごとくそばたち、ともに新意をふるひ、作家の聞(きこ)えめでたく、当時のひとゆすりて三子の風調に化しけるとぞ。おのおの流行の魁首にして、尋常のくはだて望むべきはにはあらざめり。師やむかし、武江の石町(こくちやう)なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎(やど)りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老(おい)の寝ざめのうき中にも、予とゝもにはいかい(俳諧)をかたりて、世のうへのさかごとなどまじらへきこゆれば、耳をつぶしておろかなるさまに見えおはして、いといと高き翁にてぞありける。
(訳)亡き師の宋阿先生はその俳諧を嵐雪に教わり。百里・琴風と共に三本の鼎の如き存在でした。ともに新風を振るい、当時の俳諧師として名を馳せ、多くの俳人たちがその三人の俳風を基調といたしました。おのおの当時の俳風の主のような存在で、一寸やそっとではその三人の域には近づけないようなありさまでした。宋阿先生は、昔、江戸の石町の鐘楼が高くそびえている傍に、みすぼらしい住まいを構えて、市中で閑静な暮らしを楽しんでいました。寒い霜夜の鐘の音に驚いて、老人の寝覚めの憂き思いのときなどには、私(蕪村)とともによく俳諧のことなどについて語り合いをしました。その中でうっかり世間の小賢しい話などをまじえて話をいたしますと、先生は耳を塞いで、愚かなる様を見せて、そういう話に耳もかさず、大変に高潔な先生でありました。
 
 先に「若き日の蕪村」において、蕪村が江戸の日本橋石町の鐘楼の宋阿の夜半亭に居た頃について触れた。そのアドレスとそころのところを再掲しておきたい。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_22.html

※寛保三年(一七四三)の宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に当時江戸に居た蕪村は「東武 
宰鳥」の号で、「我泪古くはあれど泉かな」の句を寄せる。その前書きに、「宋阿の翁、このとし比(ごろ)、予が孤独なるを拾ひたすけて、枯乳の慈恵のふかゝりも(以下、略)」と記しているが、「枯乳の慈恵」とは、乳を枯らすほどの愛情を受けたということであろうから、この記述が江戸での流寓時代のことなのかどうか、その「予が孤独なるを拾ひたすけて」と重ね合わせると、宋阿の享保十二年(一七二七)から元文二年(一七三七)までの京都滞在中の早い時期に、宋阿と蕪村との出会いがあったとしても、決しておかしいということでもなかろう。まして、蕪村が十五歳の頃、元服して家督を相続し、そして、享保十七年(一七三二)の十七歳の頃、大飢饉に遭遇し、故郷を棄てざるを得ないような環境の激変に遭遇したと仮定すると、この方がその後の宋阿と蕪村との関係からしてより自然のようにも思われるのである。尾形仂氏は、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下ったんじゃないかと考えることさえできるんじゃないかと思っているのですが」(「国文学解釈と鑑賞」昭和五三・三)との随分と回りくどい対談記録(森本哲郎氏との「蕪村・その人と芸術」)を残しているのだが、少なくとも、宋阿が江戸に再帰した元文二年に、その宋阿の所にいきなり入門するという従来の多くの考え方よりも、より自然のように思われるのである。一歩譲って、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下った」ということまでは言及せずに、「宋阿の京都滞在中に面識があったのではないか」ということについては、あながち、無理な推測ではなかろう。このことは、蕪村が、宝暦元年(一七五一)に、十年余に及ぶ関東での生活に見切りをつけ、京都に再帰することとも符合し、その再帰がごく自然なことに照らしても、そのような推測を十分に許容するものと思えるのである。これらのことに関して、上述の尾形仂氏と森本哲郎氏との対談において、尾形仂氏の「蕪村の京都時代ということの推測」について、「しかしそれはありうることじゃないですか。というのは、彼は関東から京都へ行くわけですが、入洛してすぐに居を定めている。むろん、はしめは間借りだったようですけれども、京都には知人もいたらしいし土地カンもあったように思えます」と応じ、この両者とも、「蕪村は生まれ故郷の大阪を離れ、京都に住んでいたことがあり、少なくとも、巴人の十年に及ぶ京都滞在中に蕪村は巴人と面識があった」という認識は持っているいるように受け取れるのである。

(四十)

『むかしを今』・「序」(その二)

○ある夜危坐して予にしめして曰(いはく)、夫(それ)俳諧のみちや、かならず師の句法に泥(なづ)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有(ある)べしとぞ。予此(一)棒下に頓悟して、やゝはひかい(俳諧)の自在をしれり。されば今我門にしめすところは、阿叟の磊落なる語勢にならはず、もはら蕉翁のさび・しほ(を)りをしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ。是(これ)外虚に背(そむき)て内実に応ずる也。これを俳諧禅と云ひ、伝心の法といふ。わきまへざる人は、師の道にそむける罪おそろしなど沙汰し聞(きこ)ゆ。しかあるに、今此(この)ふた巻の可(歌)仙は、かのさび・しほ(を)りをはなれ、ひたすら阿叟の口質に倣(なら)ひ、これを霊位に奉(たてまつり)て、みそ三(み)めぐりの遠きを追ひ、強い(しひ)て師のいまそかりける時の看をなすとてふことを、門下の人々とゝもに申(まほし)ほどきぬ
(訳)ある夜、先生(宋阿)はあらたまって正座し、私(蕪村)に次のような教えを示されました。「そもそも俳諧の道は、絶対に師の作風にこだわってはならないものである。そのときどきで変化し、前後とはくっきりと違ったものでなければならない」ということでした。私はこの一つの教えのもとに、はっと目を開かれる思いがいたしまして、それによって「俳諧自在」という境地を悟りました。だから今、私が自分の門下のひとに教え示すものは、私の師の宋阿の大らかな語調にならわず、もっぱら、芭蕉の寂び、撓(しをり)を慕って、俳諧を芭蕉の時代に帰したいということでした。これは、外面では自分の直接の師に背くように思われますが、内面では、真実、師の教えに従っているということなのです。これは俳諧禅と言ってもよく、また、以心伝心の法と言ってもよいでしょう。これらのことを理解しない人は、私のことを、師の道に背いていて、その罪は重いなどと、言い触らしています。そんなこともありまして、今回の、この歌仙二巻においては、芭蕉の寂び、撓(しをり)を離れ、一途に、先生の語調に倣いまして、それを霊前に捧げたいと思います。先生の三十三回忌の遠き日のことを慕い、強いては、先生が御在世の時のことに思いを新たにしまして、ここに先生の礼に尽くすことを、門下の人々とともに弁明することとしたのです。
 
 ここで、『夜半楽』の冒頭の序文を、もう一度再掲してみたい。

※祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。

 これらのことからして、安永三年(一七七四)の巴人三十三回忌の『むかしを今』(序)と安永六年(一七七七)の夜半亭春興帖の『夜半楽』(序)とは、実は全く同一線上のものといつてもよかろう。そして、この『夜半楽』を刊行したときが、蕪村、六十二歳のときで、いみじくも、それは、元文三年(一七三八)の『夜半亭歳旦帖』を編んだ巴人(このとき、巴人、六十二歳、蕪村は宰町の号で、二十三歳)と同じ年齢と一致するのである。これらのことから、「『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。確かに、そういう理解もできるかも知れないが(そういうことが言外にあるかも知れないが)、ここでは、文面通りに、「若々しき吾妻(東国)の人の口質」(関東出遊時代の若々しき東国人に帰り、その時の作風で)という理解にとどめておきたい。

回想の蕪村(十八~二十六)



(一八)

 『夜半楽』は、安永六年(一七七七)、蕪村六十二歳の春に刊行した春興帖である。春興帖は、歳旦・歳暮の吟に限らず、当年の新春初会の作を中心に春季の句を集めて知友間に贈答するものである。『夜半楽』の「夜半」が夜半亭を意味していることはいうまでもないであろう。すなわち、『夜半楽』とは、夜半亭一門の春を言祝ぐ楽曲ということになろう。その構成は次のとおりとなる。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

 この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

 はじめの四行は序詩のような形をとり、「京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい」というようなことであろう。それに続けて、「だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている」というのである。

(一九)

安永丁酉春 初会

歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村  オ ※(発句) 
 脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)   月居  ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓   ※(第三)  
 艤(ふなよそほひ)のとかくしつゝも   自笑  
こゝかしこ旅に新酒を試(こころみ)て   百池  
 十日の月の出(いで)おはしけり     鉄僧  ※(月)
纏頭(かづけもの)給ふぬきでの身の白き  田福  ウ 
 廊下の翠簾(みす)や夢のうきはし    斗文  
目ふたぎて聖の尿(くそ)を覆(おほふ)らん  子曳  
 紀の川上にくちなはのきぬ        集馬  
うの花に萩の若枝(わかえ)もうちそよぎ  三貫  
門(かど)をたゝけば隣家に声す     帯川  
着つゝなれて犬もとがめぬ裘(かはごろも) 致郷  
 貢(みつぎ)の使(つかひ)白雲に入(いる)  士恭  
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  ※(花)
 藪うぐひすの啼(なか)で来にけり    晋才  
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白  ※(月)  
 三本の傘は婿の定紋(ぢやうもん)    舎六   
初がつをあはや大磯けはひ坂       我即  ナオ 
 淡き薬に身をたのみたる        故郷   
暮まだき燭(しよく)の光をかこつらし   嬰夫   
 竹をめぐれば行尽(ゆきつく)す道     舎員
新田に不思儀や水の涌出(ゆしゆつ)して   菊尹
 儒医(じゆい)時に記す孝子の伝(つたへ) 賀瑞
かりそめの小くらのはかま二十年     呑獅
 往来(ゆきき)まれなる関をもりつゝ   呑周
餅買(かふ)て猿も栖(すみか)に帰るらん   柳女
 錫(しやく)と ゞまれば鉢が飛出る    延年
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 ※(月)
 金山ちかき霜の白浪          樵風
つくづくと見れば真壁の平四郎      東瓦 ナウ
 酒屋に腰を掛川の宿(しゆく)      左雀
空高く怒れる蜂の飛去(しびさり)て    乙総
 岡部の畠けふもうつ見ゆ        霞夫
花の頃三秀院に浪花人          几董 ※(花)
 都を友に住(すみ)よしの春       大魯  ※(挙句)  

 この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである。

(二十)

春興
うぐひすにうかれ烏のうき世哉         道立
汀より月を動かす蛙(かはづ)かな         正白
もろこしの一里も遠き霞かな           田福
寝んとしては寝ずも居るや春の雨         維駒

墨の香や此(この)梅の奥誰が家       浪花 霞東
春風や縄手過(すぎ)行(ゆく)傀儡師     ゝ  志慶

あたゝかい筈の彼岸の頭巾かな         月居
剰(あまつさへ)松に隣れる柳かな         集馬
雪霜の古兵(ふるつはもの)よ梅の花       自笑

寺に寝て起(おき)おき梅の匂(にほひ)かな  浪花 正名

春雨や隣つからの小豆飯          ゝ 銀獅

遠里に人声こもるかすみかな        ゝ 延年

彳(たたず)めば誰か袖引やみの梅   但出石 乙総
うぐひすや声引(ひき)のばす舌の先    ゝ 霞夫

神風の春かぜさそふ夜明かな          呑獅
蝶々や衛士の箒にとまりけり          呑周
凧引(ひく)や夕がすみたつ処々        声々
うぐひすや茶臼の傍にしゆろ箒         徳野
鶯や折よく簀戸(すど)の明はなし       文革
うぐひすに枕かへすや朝まだき         舞閣
黄鳥(うぐひす)や樹々も色吹(ふく) 真葛原 管鳥
芹喰(くひ)に鶴のをり来る野川哉       春爾

里や春梅の夕と 成(なり)にけり   敏馬浦 士川
夕凪や柳が下の二日月          ゝ  佳則

植木屋の連翹更に黄なる哉           斗文
路斜(ななめ)野ずゑの寺や夕霞        菊尹
梅さくや陶(すゑもの)つくる老が業      舎員
青柳や野ごしの壁の見へがくれ         嬰夫
畠ある屋しき買(かひ)たり梅の花       子曳
二日聞(きき)てうぐひすに今は遠ざかる    柳女
日数経てやゝ痩梅の花咲(さき)ぬ       賀瑞
 一株の梅うつし植てあらたに春を迎ふ 
けさ梅の白きに春を見付(つけ)たり      鉄僧

深屮(くさ)の梅の月夜や竹の闇        月渓
連翹の花ちるや蘭の葉がくれに         晋才

たへず匂ふ梅又もとの香にあらず        旧国

舟遅きおぼろ月也江の南            九湖
比枝下りて西坂本の梅の花           亀郷
培(つちかひ)し樹々の雫や春の雨       万容
梅咲て何やらものをわすれけり         白砧

草臥(くたびれ)てもどる山路の雉子の声  伊丹 東瓦
 尾刕(びしう)の客舎にて
茶売去(さり)て酒売来たり梅の花       百池
黄昏や梅がゝを待(まつ)窗(まど)の人    大魯
白梅や吹(ふか)れ馴(なれ)たる朝嵐     几董   

 夜半亭一門の四十三人の春興の句である。前年の安永五年(一七七六)に、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵を再興して、「写経社会」を結成している。この写経社会の中心人物の道立の句を冒頭にして、その締め括りは、大魯・几董という夜半亭門の双璧の二人の句をもってきている。ここに登場する四十三人衆は夜半亭俳諧の頂点を極めた当時の豪華メンバーと解して差し支えなかろう。この後に、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)と続くのである。

(二十一)

 次に続く「春風馬堤曲」については、年次不明二月二十三日付けの柳女・賀瑞宛て蕪村書簡で、この詩を書いた消息を今に残している。

さてもさむき春にて御座候。いかゞ御暮被成候や、御ゆかしき奉存候。しかれば春興小冊漸出板に付、早速御めにかけ申候。外へも乍御面倒早々御達被下度候。延引に及候故、片時はやく御届可被下候。

(訳)さてさて寒い春でございます。いかがお過ごしでございましょうか、お尋ねをする次第です。さて、春興帖小冊、ようやく出版の運びとなりましたので、早速お目にかける次第です。外の方々へもご面倒をおかけしますが早々にお渡しを頂きたく存じます。延引になっておりましたので、片ときも早くお届け頂ければと存じます。

 この柳女・賀瑞は伏見の蕪村門人で、先の歌仙や春興の句にその名が出てくる。そしてこの「春興小冊」こそ、『夜半楽』にほかならない。そして、この『夜半楽』の実際の発行日は二月二十日過ぎで、予定よりも遅れての出版であることが了知されるのである。この年の一月晦日(三十日)付け霞夫宛ての書簡もあり、そこでは、「春帖近日出し早々相下可申候」との文面もあり、蕪村は予定より遅れての出版を気にしていたのであろう。この霞夫宛ての書簡は、「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」に関連するもので、当時六十歳を超えた蕪村にとっては、親しい太祗や召波、さらには、絵画のよきライバルであった池大雅を失って、ことのほか老残の思いにかられていたということも察知されるのである。また、それらの親しい人の別れとともに、その前年に、一人娘を嫁がせたみことなどの淋しさをかこっていた書簡なども今に残されているのである。

(二十二)

一 春風馬堤曲 馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也。
余、幼童之時、春日清和の日ニハ、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。其中ニハ、田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢(はやり)粧(すがた)に倣(なら)ひ、髪すたちも妓家(ぎか)の風情をまなび、□伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥(はぢ)いやしむもの有(あり)。されども、流石(さすが)故園ノ情に不堪(たへず)、偶(たまたま)親里に帰省するあだ者成(なる)べし。浪花を出てより親里迄の道行にて、引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情ニて候。
(訳)一 春風馬堤曲 馬堤は毛馬堤です。すなわち、私の故郷です。私が幼童の頃、春日清和の日には、必ず友達とこの堤に登って遊んだものです。水上には上下に往来する船があり、堤には往来する旅人がありました。その中には、田舎娘で、浪花に奉公に出て、健気にも浪花の流行の風姿を真似て、髪かたちも妓楼の風情そのもので、また、繁太夫節の心中物の浮名を羨んだりして、故郷の田舎くさい兄弟を恥じて蔑む者もおりました。けれども、さすがに望郷の念にかられてのことなのか、故郷に帰省する粋な女性でありましょうか、そんな女性にたまたま遭遇したのです。この春風馬堤曲はそんな浪花を出て故郷に帰る迄の道行を述べたものでして、引き道具の狂言、座元夜半亭とお笑いください。実を言えば、これは愚老の懐旧の念のやるかたなき心の奥底から呻き出たところの実情なのです。

 この書簡で、「馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」と、蕪村の故園(故郷)は毛馬村であることを蕪村自身はっきりと記録に残しているのである。蕪村の出生地について、摂津の天王寺村とか丹後の与謝とかもいわれているが、この書簡からして摂津国東成郡毛馬村と解して差し支えなかろう。そして、このことは、初期の絵画の「浪華長堤四明」とも一致し、蕪村の胸中には、この「春風馬堤曲」の長堤が常に存在していたということは特記しておく必要があろう。さらに、書簡中の「□伝しげ太夫」の「□」は虫食いで、ここを「正」の「正伝」としたり「阿」として「阿伝」(尾形仂)としたり解されているが、「しげ太夫」は、豊後節の「繁太夫節」であることは異論がなかろう。その繁太夫節は「おさん・茂兵衛 道行」とか心中物を得意として(尾形・前掲書)、それらが背景になっていると解したい。そういう背景にあって、「引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候」と、すなわち、「回り舞台の狂言の座元(興行主)こそ夜半亭蕪村」と、「春風馬堤曲」の真相を蕪村自身がはっきりと記録に残していることも、これまた、特記しておく必要があろう。

(二十三)

 さて、この「春風馬堤曲」について、『蕪村の手紙』(村松友次著)の「春風馬堤曲源流考」(補説三)で、次のように記述している。

※「春風馬堤曲」は「北風老仙をいたむ」と共に日本文学史上特筆すべき異色の名作である。このような斬新な詩形の創出はまさに蕪村の天才によるところであるが、全く無から生じたのではなかろう。それではこれに先行するものが何であったか。すでに「北寿老仙をいたむの項(註・補説一)で触れたが、潁原退蔵は支考に源を発する仮名詩の流れを考え、蕪村の青年時代、江戸俳人の間に流行していた小唄、端唄に類したような一種の韻文の存在を指摘する(註・この潁原退蔵の「春風馬堤曲源流考」については先に全文紹介している)。しかし一見類似しているようであるが、読者の心を打つ詩情の直截さ純粋さにおいて蕪村の作は江戸俳人の諸作とは全く異質と言ってよいほどすぐれている。これらの作よりももっと近い影響をもつ文学作品はなかったか。清水孝之は服部南郭の『朝来詞(ちょうらいし)』(いたこことば)と、荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)を指摘する(鑑賞日本古典文学『蕪村・一茶』および、新潮日本古典集成『与謝蕪村集』)。

 この荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)の影響(蕪村の「春風馬堤曲」などへの影響)はやはり注目すべきものの一つであろう。

(二十四)

江南楽八首。代内作(江南楽八首。内に代りて作る)

成長して江南に在り 江北に住することを愛せず
家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る
陽春二月の時 桃李(とうり)花参差(しんし)
言(こと)を寄す諸姉妹 悪風をして吹(ふ)か遣(しむ)ること莫(なか)れ
郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す
阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん
野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り
憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを
橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る
情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず
人は言ふ江南薄しと 江南信に自ら楽し
桑を采(とり)て蚕糸を作(な)す 羅綺儂(わ)が着るに任す
郎と水程を計るに 三月定て家に到らん
庭中の赤芍薬 爛漫として斉(ひとし)く花を作(なさ)ん
江南道理長し 荊襄(けいじやう)何れの処にか在る
郎が昨夜の語を聞くに 五月瀟湘(せうしやう)に去(さら)ん

 この徐禎卿の「江南楽八首代内作」について、荻生徂徠は次のように解説をしているという(村松・前掲書)。

江南楽……曲ノ名。西曲ニ江陵楽、寿陽楽有リ。後人之ニ擬シテ設ク。
代内…… 其ノ妻ヲ謂フ。
 八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル。

(二十五)

 この荻生徂徠の、徐禎卿の「江南楽八首代内作」についての解説の、「八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」ということは、まさに、蕪村の「春風馬堤曲」の「十八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」と置き換えても差し支えないほど、「春風馬堤曲」の本質を言い当てている指摘といえよう。
また、
「江南楽」の「代内作」(内に代りて作る)は、「春風馬堤曲」の「代女述意」(女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ)に、
「江南楽」の「家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る」は、
「春風馬堤曲」の「梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家」に、
「江南楽」の「郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す」・「阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん」は、
「春風馬堤曲」の「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩」・「慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり」・「矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)」・「戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を待(まつ)春又春」に、
「江南楽」の「野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り」・「憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを」は、
「春風馬堤曲」の「雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ」・「雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四」に、
「江南楽」の「橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る」・「情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず」は、
「春風馬堤曲」の「春情まなび得たり浪花風流(ぶり)」・「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」に、
「江南楽」の「江南道理長し」は、
「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」に、
等々、それぞれの「内容」・「語句」・「気分」などの上で多くの類似点を見出すことができるのである(村松・前掲書)。
 さらに、荻生徂徠の『絶句解』では、この「江南楽」に続いて、「隴頭流水ノ歌」(子を失った女の心を作者が代わって詠んだ……代内作……)の詩が続き、これは、「春風馬堤曲」の後に「澱河歌」を続けている蕪村のそれと、まさに、その配列を同じくしているという(松村前掲書)。また、徂徠の『絶句解』に見られる「衛河八絶」(王世貞作)は、服部南郭の『潮来詞』に影響を及ぼし、その南郭の『潮来詞』が、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているだけではなく(清水・前掲書)、この「衛河八絶」は、ストレートとに、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているという見方もある(村松・前掲書)。いずれにしろ、蕪村が、『夜半楽』、そして、その「春風馬堤曲」・「澱河歌」を創作した背後には、荻生徂徠の『絶句解』が、常に、蕪村の座右にあったことだけは想像に難くない(村松・前掲書)。

(二十六)

 蕪村が荻生徂徠に傾倒したことについては、先に、「若き日の蕪村」で触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 それは、蕪村が二十歳前後で江戸に出てくる以前の青少年の頃から、そして、この「春風馬堤曲」を執筆する六十歳過ぎての老年期に到るまで、終始、蕪村に大きな影響を与え続けたということは容易に想像できるところのものである。その影響の最たるものは、先に触れた、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」の、次のようなことであった。

○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

 この「古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握する」という徂徠の姿勢を、蕪村ほど生涯にわたって実践し続けた俳人にして画人は殆ど希有であるといっても過言ではなかろう。そして、この「春風馬堤曲」そのものが、その徂徠の『絶句解』所収の「自分も古典(「江南楽八首」(徐禎卿作)など)の言葉で書き、考え、そして、その精神を把握した」、その結果の類い希なる異色の俳詩という創造の世界にほかならない。