水曜日, 6月 28, 2006

住宅顕信の自由律

住宅顕信の自由律(その一)

自由律俳句について、先の、橋本夢道に続き、尾崎放哉とも種田山頭火とも思っていたが、その放哉に心酔して、昭和六十二年(一九八七)に満二十五歳という若さで夭逝した住宅(すみたく)顕信(けんしん)の自由律俳句が何故か心に過ぎった。顕信は若い世代の方々を中心として根強いファンがおり、それらのことについて『住宅顕信読本』(中央公論新社)での、心に残った「顕信評」のようなものの紹介を兼ねながら、「自由律俳句」と「顕信俳句」というものを見ていきたいということである。

「欠落と過剰」(文芸評論家・仁平勝)

○ ずぶぬれて犬ころ
「顕信の代表作のひとつである。まずはこの句を読みながら、自由律俳句の本質とはなにかという問いを提出してみたい。そしてわたしの用意している答えは、すなわち欠落感である」。

 仁平氏はこの前提として、「自由律とは、定型にとらわれない自由のリズムではない。それなら俳句ではなくて、一行の自由詩になってしまう。自由律俳句とは、定型を前提とした上で、そこから自由になろうとすることだ」と指摘している。このことを極端に押し進めと、「自由律俳句の作家は極めて定型律俳句に関心があり過ぎて、それが故に、その他の定型律俳句の約束の季語とか切字以上に、定型律そのもののリズムを解体しょうとする俳人たち」ということにもなりそうである。そして、このような動きは、単に、自由律俳句の作家だけではなく、例えば、高柳重信らの「多行式俳句」の作家たちによっても試行されたものでもあった。しかし、「多行式俳句」においては、「俳句における切れ」ということをスタイル的に「あれかこれか」したが、自由律俳句においては、それらの「俳句における切れ」ということには無関心で、如何に、「定型律のリズム感」を、仁平氏の言葉ですると「欠落感的なリズム」にするかということに関心が向いていたように思えるのである。その意味で、住宅顕信の生き様そのものが、この「欠落感」と同居し、そして、この「欠落感」こそが、顕信俳句に接する人に、「己の欠落感」というようなものを感知させるように思えるのである。

○ 水滴のひとつひとつが笑つている顔だ
「こんどはこういう句を前にして、ふたたび自由律俳句の本質とはなにかという問いを考えてみる。するともうひとつの答えとして、それは過剰感であるといってみたくなる」。

 仁平氏は「先の欠落感がメダルの表側とすれば、過剰感はその裏側であり、作者によって放りなげられたメダルは、二通りの着地をするわけだ」との面白い指摘をしている。定型律を解体するには、短くするか(短律)、長くするか(長律)の二通りしかなく、そして、それは、メタルの表と後ろとの関係であって、その本体は「欠落感」・「過剰感」の「定型を解体するという心」なのであろう。そして、その「アンチ定型の心」というのは、多かれ少なかれ誰しもが有しているものであり、自由律俳人、そして、自由律俳人・住宅顕信は、自分の生涯と、その分身の自由律俳句に、その「アンチ定型の心」をもって、描きに描いたという思いがするのである。

○ お茶をついでもらう私がいっぱいになる
「一句のなかに『お茶をついでもらう』と『私がいっぱいになる』という二つの文が並列しているように見えるが、『お茶をついでもらう』という前の文は、同時に『私』を省略していて、いわば複文の構造が背後に隠れている。欠落感と過剰感とが同居したような文体といっていい」。

 自由律俳句のスタイルは、上記の短律と長律以外に、その短律と長律とが複合したスタイルもあるというのである。そして、それはより多くスタイルの問題なのであるが、定型律俳句の二句一章体の俳句の「二物衝撃」のような余韻を醸し出しているというのであろう。しかし、これらの仁平氏の自由律俳句の三つの解題の根底は、「アンチ定型の心」ということであり、住宅顕信の「心の動き」を最も的確に表現できるものは、「アンチ定型の心」を充たす、いわゆる「自由律俳句」以外になかったということがいえるのかも知れない。



住宅顕信の自由律(その二)

「俳句よりも俳句的」(俳人・岸本尚毅)

○ ずぶぬれて犬ころ
「わずか九音の作品だ。黙読すると心の中で『ず・ぶ・ぬ・れ・て・い・ぬ・こ・ろ』という声がする。それは顕信の声でも、読み手自身の声でもない」。

 岸本氏は、仁平勝氏が「欠落と過剰」で問題にしていることを、聴覚的な音声(黙読を含めて)という視点から論じている。そして、「内言語」(外に、音声や文字となって現れない言語)のことに触れ、文語は「響き」を感じさせ、口語は「声」を感じさせるのに、住宅顕信の句は、口語体の句でありながら響きを感じさせるというのである。

○ 鬼とは私のことか豆がまかれる
「この句を黙読するとき、読み手は声にならぬ声で、『鬼とは私のことか・・・』と心の中でつぶやく。そのつぶやきは顕信の声でも読み手自身の声でもない。俳句を黙読するときに脳裏に響く声は、誰の声でもなく、言葉そのものの響きだ」。

 かって、平畑静塔氏は「俳人というのは歌手のようなもので、いかに、五・七・五の定型をうまく歌いこなすかというようなものだ」との俳論を公表したやに記憶している(『俳人格』)。このことに関連させると、自由律俳人の多くは、アンチ定型で、岸本氏のいわれる「俳句(五・七・五)よりも俳句的(アンチ定型)」な、レトッリック的な言葉の響きをその中心に据えており、その限りにおいては上記の岸本氏の指摘には共感するものが多い。これらのことに関連して、岸本氏は、仁平氏の「欠落」としての自由律俳句の「短さ」・「沈黙」の点を強調するが、それは「短さ」・「沈黙」の自由律の「欠落」のもののみならず、自由律の「過剰」という面での「アンチ定型」の作品の表現においても均しく言えることであろう。という条件付きで、次の岸本氏の顕信俳句の指摘は素直に首肯することができるのである。 

「季語も定型も持たない自由律俳句は俳句ではないという人もいる。しかし、定義の問題はさておき、顕信の作品は『短さ』に徹したという点では、俳句よりもさらに俳句的だ。もし俳句でないとすれば、俳句よりもさらに研ぎ澄まされた何か、というべきだろう」。

 この岸本氏の「俳句よりもさらに研ぎ澄まされた何か」ということは、夏石番矢氏のいう「裸の表現」と相通じているのかも知れない。

住宅顕信の自由律(その三)

「俳句と悲劇」(作家・小林恭二)

○ 「一人死亡」というデジタルの冷たい表示
「現代の死をきっちりと言いとめた佳吟だと思う。この句から強く感じられるのは、死を一個の事象として冷静にみつめている気分である。もしこの句を担当医が見たら眉をひそめただろう。まるで舞台裏をみすかされたような気分になって」。

 定型律俳句と自由律俳句との如何を問わず、俳人というのは、その創作の対象物の特性を冷酷なまでに凝視し、驚くべきほどその特性というものを浮き彫りにさせる。自由律俳人・住宅顕信も紛れもなくその俳人の俳眼というものをギラつかせていた。

○ レントゲンに淋しい胸のうちのぞかれた
○ 若さとはこんな淋しい春なのか
○ 心電図淋しい音立てている胸がある
「『捨てられた人形』として自分を客観視した顕信は、ここで自分の内側を覗く作業を開始する。そしてどうにもならない『淋しさ』を覚えている心を発見する」。

 この小林氏の指摘は、「主客の一体化」(歌人・穂村弘)という視点での自由律俳人・住宅顕信俳句の解剖であろう。

○ 電話口に来てバイバイが言える子になった
○ 父と子でありさびしい星を見ている
○ かあちゃんが言えて母のない子よ
「自分の淋しさをてらうことなく詠めるようになった顕信は、ほぼ同時に子供のことも詠めるようになった。発病、離婚、俳句、闘病、子育て、一時にそんなめくるめく経験をしていた顕信にとって、それまで子はさして大きな要素ではなかったのではないか」。

 自由律俳人・住宅顕信の生涯というものは、他の著名な自由律俳人の尾崎放哉や種田山頭火に比しても、その短い生涯であったということにおいては、より以上に過酷なものであったということはいえるのかも知れない。その短い生涯において、「己の世界だけではなく、己の分身の己の子の世界」を、その自由律の俳句の創作の場で活かすことができたということは、大きな僥倖であったようにも思われる。

○ 春風の重い扉だ
「いわゆる俳句的技巧がまったく使われておらず、吐息のようにも聞える」。

 この指摘は、「俳句よりも俳句的」(俳人・岸本尚毅)に近い。

○ 氷枕に支えられている天井がある
○ 朝はブラインドの影にしばられていた
○ 窓の冷たい朝月にふれてみる
「この頃は病状が小康状態だったのだろうか。病気の切迫感というより、むしろ俳句としての完成度が目につく」。

 この指摘は、「国境を越える裸の表現」(俳人・夏石番矢)に近い。

○ 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「『未完成』の最後に置かれた句である。時系列順に編集されているなら、絶詠ということになる。迂闊に名句だとか佳吟だとか言えない不気味な雰囲気がある」。

 この指摘の思いは、「住宅顕信との出合い」(俳人・黒田杏子)と同じものであろう。


住宅顕信の自由律(その四)

「住宅顕信との出合い」(俳人・黒田杏子)

○ 面会謝絶の戸を開けて冬がやってくる
○ 点滴と白い月とがぶらさがっている夜
○ 一つの墓を光らせ墓山夕やけ
○ 退院がのびた日の昼月が窓をのぞく
○ 念仏の口が愚痴をゆうてた
○ 赤ん坊の寝顔へそっと戸をしめる(長男初節句)
○ 合掌するその子が蚊をうつ
○ 脈を計っただけの平安な朝です
○ 影もそまつな食事している
○ 消灯の放送があってそれからの月が明るい
○ 秋が来たことをまず聴診器の冷たさ
○ 月、静かに氷枕の氷がくずれる
○ 淋しい犬の犬らしく尾をふる
○ 地をはっても生きていたいみのむし
○ そこを曲がれば月を背に帰るばかり
○ 朝から待っている雲がその顔になる
○ 捨てられた人形がみせたからくり
○ 背中丸めてねむる明日の夢つつんでおく
○ 年の瀬の足二本洗ってもらう
○ 電話口に来てバイバイが言える子になった
○ 春風の重い扉だ
○ かあちゃんが言えて母のない子よ
○ 抱きあげてやれない子の高さに坐る
○ 月が冷たい音落とした
○ ずぶぬれの犬ころ
「住宅顕信との出合いは句集『未完成』でした。広告を見て、版元に直接電話して送ってもらい、一気に読んで合掌しました。・・・・ (上記の)二十五句は『俳句と出合う』で紹介した顕信の作品です」。

 住宅顕信が亡くなったのは、昭和六十二年(一九八七)二月七日、数え歳で二十六歳という夭逝であった。その翌年に、住宅顕信句集『未完成』が刊行され、このときに、俳人・黒田杏子氏と遭遇しているのである。黒田杏子氏が、小学館発行の「本の窓」の「こんにちは俳句」(後に『俳句と出合う』)の八十八名のひとりに、ほとんど無名に近かった住宅顕信を取り上げ、そこで紹介した顕信俳句が上記の二十五句である。それは名うての目利きの黒田杏子氏の目にとまった二十五句であるが、顕信俳句の佳句、二十五句といっても差し支えなかろう。


住宅顕信の自由律(その五)

「国境を越える裸の表現」(俳人・夏石番矢)

○ 影もそまつな食事をしている
○ 思い出の雲がその顔になる
○ 水滴のひとつが笑っている顔だ
○ すぶぬれて犬ころ
「住宅顕信の句の虚飾のなさに動かされて、推奨する文章などをいくつか書いた。とくに最後の句は、なんどもなんども代表作として推薦した。当時、自由律俳句は過去のものだが、住宅顕信は認めてやる、こういう反応を多くの俳人はしていた。いや現在でもそうかもしれない。そして、一時期は住宅顕信に言及していた俳人も、そのうちに住宅顕信をすっかり忘れてしまった。ブランシュというフランス俳人から、住宅顕信の名が出たとき、意外な氣がしたのは、こういう日本の俳句事情があったせいもあるだろう」。

 黒田杏子氏が、小学館発行の「本の窓」の「こんにちは俳句」に住宅顕信を紹介していたころ、住宅顕信の年譜(一九八八年)を見ると、「夏石番矢、長谷川櫂、岸本尚毅、大屋達治、小沢実などの注目を集める」とある。さらに、一九九三年(平成五)に「吉備路文学館にて 夏石番矢『魂の俳句』と村上護『青春俳句は可能か』の講演も」とあり、その翌年の年譜に「見目誠とパトリック・ブランシュ共訳の仏訳住宅顕信句集『未完成』が完成」とあり、上記の夏石番矢氏の一文に出てくる、「ブランシュという俳人」とは、この年譜に出てくるパトリック・ブランシュ氏のことであろう。

○ 洗面器の中のゆがんだ顔すくいあげる
「ついせんだって目の手術をするため一週間入院した。入院は、病気を治療するだけではなく、裸の自分を見つめさせる機会でもあることを、そのさい知った。まして住宅顕信の場合は、生きて退院することの望めない入院である。健康な若者であったころは、社会通念や雑念で見えなくなっていた自分や他者の裸の姿が痛いほどよく見えただろう。このような裸の真実をとらえた自由律俳句が、日本でも海外でも愛されるのは、当然すぎるほど当然なのである」。

 夏石番矢氏は、上記の文章に続いて、「住宅顕信を通して、俳句は裸の真実をとらえるのに適した世界的なジャンルとして成長してゆくのが見えてくるのは、とてもうれしいことだ」と結んでいる。この「裸の真実」、そして、「国境を越える裸の表現」という夏石番矢氏の洞察には、もろ手をあげて賛同いたしたい。

 
住宅顕信の自由律(その六)

「主客の一体化」(歌人・穂村弘)

○ 歩きたい廊下に爽やかな夏の陽がさす
○ 許されたシャワーが朝の虹となる
○ おなべはあたたかい我が家の箸でいただく
○ 四角い僕の夜空にも星が満ちてくる
「これらの句においては『廊下』『シャワー』『おなべ』『夜空』といった日常的な対象が強い憧れ喜びの感情と共に詠まれている」。

 これらの句について、歌人・種村弘氏は「言葉そのものが真に詩的な普遍性をもつところには至っていない」と続ける。

○ 初夏を大きくバッタがとんだ
○ 春夏の重い扉だ
○ お茶をついでもらう私がいっぱいになる
「これらの句には、作品背景の特殊性を直接に想像させる言葉は全く含まれていない。読者はこれらを病者の作品とは思わず、単なる日常詠として受け取ることになる。・・・・ いずれの場合も『バッタ』や『扉』や『湯のみ』などの表現対象と『私』がひとつになることで、自分自身の生命感が表現されているわけである」。

 これらの句について、種村氏は、「『ここでは”大きく””重い””いっぱいに”などのありふれた語が不思議な鮮烈さをもって読み手の胸に迫ってくる』と指摘している。

○ 盃にうれしい顔があふれる
「ここでは主客は完全に一体化している、現実に『あふれた』ものは『うれしい顔』ではなく酒であろう。・・・・・ 代表句『ずぶぬれて犬ころ』や『捨てられた人形がみせたからくり』などを、表現対象と『私』との一体化が最も端的に示された例とみることも可能だと思う」。

 これらの「主客一体化」の句として、種村氏は、住宅顕信の代表句、「ずぶぬれて犬ころ」や「捨てられた人形がみせたからくり」などもあげている。

住宅顕信の自由律(その七)

「雨の俳人」(イラストレーター・安西水丸)

○ たいくつな病室の窓に雨をいただく
○ 雨音にめざめてより降りつづく雨
○ 降りはじめた雨の心音
○ 朝をおくらせて窓に降る雨
○ 坐ることができて昼の雨となる
○ 夜の窓に肌寒い雨の曲線
○ 早い雨音の秋が来た病室
○ 牛乳が届かない雨の朝のけだるさ
○ 降れば冷たい春が来るという雨
○ 今日も静かに生きて冬の雨の日の選曲
○ うすぐらい独りの病室の雨音となる
○ 降れば一日雨を見ている窓がある
○ ポストが口あけている雨の往来
○ 梅雨が冷たいストレッチャーに横たわる
○ 淋しさきしませて雨あがりのブランコ
「こうした雨の句を見ていると、たまらなく淋しさがこみ上げてくる。すべての句にじくじくと冷たい雨が降っているようにおもえるのだ。病室」で乳飲み児を育てて、こんな淋しい句を詠んでいたのかとおもうと、たまらくやるせない」。

 続けて、イラストレーター・安西永丸氏は、「確かに放哉にしても山頭火にしても、かれの句に流れているものは、寂寞とした空気だ。それは俳句ではないが、日本の詩人、萩原朔太郎や中原中也、それに立原道造などにも通じるものがある」と続ける。この「寂寞とした空気だ」という指摘は、先の黒田杏子氏の「放哉の句を支えるほんものの孤心、底知れない沈黙の深さ」などと相通じているものなのであろう。

 
住宅顕信の自由律(その八)

「顕信さんの俳句が見せてくれたもの」(映画監督・石井聡互)

○ 若さとはこんな淋しい春なのか
「顕信さんの句、そのほとんどが、一読させていただいただけで、いたたまれなく、痛切、哀切です」。
 この「淋しさ」こそ、住宅顕信の主たるモチーフであった。

○ かあちゃんが言えて母のない子よ
「そのなんともやりきれない人生の宿命の悲惨さに、私は涙を禁じ得ません」。
 住宅顕信の、「句の中に『淋しい』が張りついている」(作家・長嶋有「『淋しい』という人」)。 

○ 病んで遠い日のせみの声
「病院での孤独な入院闘病生活。日々進行する不治の病。生と死を濃密に見つめる視線と研ぎ澄まされた夜」。
 それは、同時に、「過酷な宿命と人生故に彼の句が力あるのではなく、それと正面から向き合って格闘し、その向こうにある真実の震えの確かな定着をめざし続けた、彼の意志の気高さがすばらしいのです」と石井氏は続ける。

○ 何もないポケットに手がある
「極端に短い瞬間言葉表現である」。
 これまた、石井氏の「顕信さんに残された時間がないこと、その中で、なんとか自分の創作の極みまで高めたいことの覚悟と焦りなのでしょう」という指摘も鋭い。

○ 鬼とは私のことか豆がまかれる
○ 自殺願望、メラメラと燃える火がある
「顕信さんは、寄せてくる過敏な絶望と孤独に押しつぶされることなく、一人の俳人として、最後まで、創作を極めようと神経を研ぎ澄ませていきます」。

○ 深い夜の底に落とした蚊がなく
「宇宙が真空で、絶対孤独の暗闇、『無』に包まれていて、私たちはその『死』の世界では生きられないけれど、そこは同時に、我々の命の大もとが生まれたエネルギーの粒子や波動が眠り、凝縮されている故郷で、いつかは必ず、全員が、独りで、そこに還ってゆかなければなりません」。

○夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「病院での闘病生活の深い夜に沈殿し、『修羅』と『悲』との葛藤にじっと耐え、それを凝縮した果ての、鋭利な極限の集中には、闇の中に胎動し、やがて躍動する命の光の粒子の生成変化、命の大もとの震えが、はっきりと感じられていたのだと思います」。

○両手に星をつかみたい子のバンザイ
「過酷な宿命と人生故に彼の句が力あるのではなく、それと正面から向き合って格闘し、その向こうにある真実の震えの確かな定着をめざし続けた、彼の意志の気高さがすばらしいのです」。
 と同時に、「言葉を宝石に変える者。それが詩人だとすれば、住宅顕信は、宝石の輝きを自分の生命で刻磨した詩人であった」(コピーライター・真木準「明るい住宅」)。


住宅顕信の自由律(その九)

「夭逝詩人としての顕信」(日本放哉学会々員・見目誠)

○ 病んで遠い日のせみ声
○ 水滴のひとつひとつが笑っている顔だ
○ とんぼ、薄い羽の夏を病んでいる
○ 月明り、青い咳する
○ 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「顕信は、二八一個のすぐれた辞世を残すためにのみ短期間、地球上に滞在した熾天使のひとりであった」。
 この見目誠氏はフランス人のパトリック・ブランシュ氏と共訳で住宅顕信の『未完成』を完成した方である。見目氏は続けて、「芭蕉は弟子から句を詠むときの心構えを問われた際、『平生即チ辞世なり』(実に辞世を詠んでいるつもりである)と答えたという。みの世を生きたのはわずか二六ヶ年にもむ満たず、実質的な句作期間としては二年半ほどの時間しかあたえられなかった顕信は、否が応でも芭蕉のこの言葉を実践したことになる」。



「『海市』での顕信」(俳人・藤本一幸)

○ 焼け跡のにごり水流れる
○ 立ちあがればよろめく星空
○ 春風の重い扉だ
○ 一人の灯をあかあかと点けている
○ 月明り、青い咳する
○ 風ひたひたと走り去る人の廊下
○ 月が冷たい音落とした
○ 水音、冬が来ている
○ ずぶぬれて犬ころ
○ 夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
「感情表現の直截的リズムを重視する自由律俳句の特徴として、言葉のもつインパクトの強烈さと肌で感じる臨場感は、到底定型俳句の及ぶところではない。特に彼の作品は、定型よりもさらに短い『短律』という句法を基調にしているにもかかわらず、切迫した感情が何の不自由さもなく、わずかの音に収まり、それがかえって意味の重さを強める効果を生んでいる」。
 昭和六十年に自由律俳句誌「海市(かいし)」を創刊した藤本義一氏を抜きにしても今日の住宅顕信は語れないであろう。藤本氏は「詩歌の本質的な役目は、とりもなおさず人間に生の喜びを与えるということに尽きる。これまで住宅顕信の記録をずっと追いかけてきた者として、無名の彼が注目され出したことに人一倍の感慨がある。少ない句数ながら命を賭けて生まれた作品は、緩みきった現代の短詩型の世界に一つの衝撃を与えると同時に、同じような病気で苦悩する若者たちに一つの希望を与えるに違いない」と続ける。


住宅顕信の自由律(その十)

「顕信は生きつづける」(岡山大学教授・池畑秀一)

 住宅顕信を語る際に、藤本義一氏の「海市」の仲間の一人の池畑秀一氏をも抜きにしては、今日の住宅顕信は存在しないということになろう。そして、この二人の出逢いとうのも誠に数奇なものという印象を持たざるを得ない。あまつさえ、次のような住宅顕信句碑建立に、池畑秀一氏は奔走するのである。

○ 水滴のひとつひとつが笑っている顔だ
「平成三年十二月、詩人の吉備路文学館山本遺太郎館長を委員長とする『住宅顕信句碑建設委員会』が結成された。俳句の関係者ばかりでなく、多くの方々の署名活動や募金活動により、七回忌の平成五年二月七日、句碑は岡山市京橋西詰旭川緑地に建立された」。

 また、「海市」の井上敏雄氏も住宅顕信にとっては忘れ得ざる俳人の一人であろう。その井上氏の「顕信さんとのご縁」によると、生前にはこのお二人はお逢いする機会もなかったとのことであるが、井上氏が顕信さんのお墓参りにでかけた昭和六十二年四月二十六日に、住宅顕信のお墓の敷地内に、顕信さんの句碑が建立され、それは「病む視線低くつばめが飛ぶ」というものである。このように、陰に陽に、昭和三十六年から昭和六十二年という短い生涯を駆け抜けていた自由律俳人・住宅顕信を見守り続けていた方々のことも、顕信その人以上に心しておくべきこしなのかも知れない。

(住宅顕信年譜)
この年譜は次のアドレスによった。

http://www.city.okayama.okayama.jp/hishokouhou/tokyo/news/14fy/sumitaku/cyuuoukouron/k-sumitaku.htm1961

(昭和36)年3月21日 岡山県岡山市に生まれる。本名・春美。
小学生の頃は、マンガを描く事が好きで、漫画家になりたいと思っていた。
中学卒業後、下田学園調理師学校入学。同時に岡山会館に勤務。5歳年上の女性と知り合い、その後8ヶ月ほど同棲。この頃から詩、宗教書、哲学書に親しむ。
1980(昭和55)年、岡山市役所で清掃の仕事に従事する傍ら、仏教書を熱心に読み、友人と連日のように宗教の話をする。
1982(昭和57)年、9月から中央仏教学院の通信教育を受講。翌年4月修了。
1983(昭和58)年、7月。京都西本願寺で出家得度。浄土真宗本願寺派の僧侶となる。10月、結婚。自宅の一部を改装し無量寿庵という仏間をつくる。
1984(昭和59)年、2月。急性骨髄性白血病のため岡山市民病院に入院。6月、岡山市役所を休職。長男春樹誕生。妻の実家の希望で離婚。長男は住宅家が引き取り、病室での育児が始まった。この頃より熱心に句作にはげみ、自由律の俳句を耽読。特に尾崎放哉には心酔し、「尾崎放哉全集」を徹底的に読み込む。
1985(昭和60)年、句集「試作帳」を自費出版。自由律俳句誌「海市」に参加。
1986(昭和61)年、「海市」に発表した俳句が反響を呼ぶ。病状悪化。
1987(昭和62)年2月7日、死去。享年25歳。
1988(昭和63)年、弥生書房より住宅顕信句集「未完成」出版。
1989(平成元)年、「俳句とエッセイ」10月号で「住宅顕信の世界」を特集。
1993(平成5)年、岡山市内に句碑「水滴のひとつひとつが笑っている顔だ」建立。
2002(平成14)年、「ちびまるこちゃんの俳句教室」に「ずぶぬれて犬ころ」収録。

蕪村の自賛句(その二・十五~二十二)



蕪村の自賛句(その十五)

五二 水にちりて花なくなりぬ岸の梅 

本間本所収。この句は最高点の印の長点句。安永六年(一七七七)、蕪村、六十二歳のときの作。「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」(霞夫書簡)、「水に散ッて花なくなりぬ岸の梅」(『夜半叟句集』)との句形がある。この霞夫宛の書簡には、「此句、うち見ニはおもしろからぬ様ニ候。梅と云(いふ)ニ落花いたさぬはなく候。されども、樹下ニ落花のちり舗(しき)たる光景は、いまだ春色も過行かざる心地せられ候。恋々の情之有候。しかるに、此江頭の梅は、水ニ臨ミ、花が一片ちれば、其まゝ流水に奪(うばひ)て、流れ去り去りて、一片の落花も木の下ニハ見ぬ、扨も他の梅と替(かは)りて、あわ(は)れ成(なる)有さま、すごすごと江頭ニ立(たて)るたゝずまゐ(ひ)、とくと御尋思候へば、うまみ出候」との記載が見られる。蕪村がこの句を自分の句のうちで最高の作としているのは、「此江頭の梅は、水ニ臨ミ、花が一片ちれば、其まゝ流水に奪(うばひ)て、流れ去り去りて、一片の落花も木の下ニハ見ぬ」という、この着眼点がこの句の新味で、それに着眼したことに蕪村自身が満足の意を表しているのである。句意は「岸辺の梅は、地上に散り敷いて名残りを惜しませるよすがとてなく、水上に落ちるそばから流水に奪われたちまち流れ去ってしまう。後には老樹が寂しく残るばかり。『行くものはかくのごときか』と、花を伴って去った非常な時間を思う老蕪村の孤独な心境の表白」(『蕪村全集(一)』)。蕪村は、老成の画・俳二道を極めたものとして、この「行くものはかくのごときか」ということに大きな関心事があった。そして、一見して平凡なこの掲出句には、その老いていくものの老愁というものを託していることを、この「水にちりて」の上五から汲んで欲しいというのであろう。いかにも、蕪村らしい着眼点ではあるが、なかなかそこまで汲み取って鑑賞するのは至難の業のようにも思われる。

蕪村の自賛句(その十六)

六六 大門のおもき扉や春の暮

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。天明元年(一七八一)、蕪村、六十六歳のときの作。「大門」の詠みは、『蕪村自筆句帖』では「だいもん」で、『蕪村全集(一)』では「おほもん」であるが、次の「おもき扉や」と呼応しての後者の詠みとしたい。この句は几董編の『蕪村句集』には収載されてはいない。句意は「春日もようやく暮れて、夕闇の中に寺の総門の大きな扉を閉ざすギィーッという鈍い音が吸い込まれてゆく。重さの感覚と春愁との調和」(『蕪村全集(一)』)。その句意の頭注に「春深遊寺客 花落閉門僧」(『詩人玉屑巻二〇』)に典拠があるとの関連記載が見られる。しかし、その漢詩文の典拠の背景は必須のものではなく、蕪村の絵画的な句の一つとして、そのイメージは鮮明に伝わってくる。蕪村がこの句を長点句としている理由は、その漢詩文の典拠に基づくものではなく、「大門のおもき扉」と「春の暮」との取り合わせの妙のように思われる。それは、「重さの感覚と春愁との調和」というよりも、「重さの聴覚的な音の世界から春愁の視覚的な映像の世界への誘い」というようなことを蕪村は感じとっているのではなかろうか。そう解することによって、この「大門のおもき扉や」の「中七や切り」の余情が活きてくるものと解したい。


蕪村の自賛句(その十七)

八五 祇(ぎ)や鑑(かん)や花に香炷(たか)ん草むしろ

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。安永八年(一七七九)、蕪村、六十四歳のときの作。この句には「や鑑や髭に落花を捻りけり」という異形のものもある。は飯尾宗祇、鑑は山崎宗鑑で、共に、連歌・俳諧の始祖とも仰がれている人物である。「香炷かん」・「髭に落花」は、宗祇が髭に香を炷き込めた逸話(扶桑隠逸伝)に由来するものであろう。掲出の句意は「いにしえの先達、宗祇、宗鑑は香り高い風雅の足跡を残した。今の世の宗祇・宗鑑とも呼ぶべき諸子よ、私たちも花下に俳筵を繰り広げその遺薫を継ごう」(『蕪村全集(一)』)。いかにも高踏主義の文人好みの蕪村らしい句ではあるが、こういう句を、蕪村自身が、「これが私の俳諧(俳句)です」と後世に伝えようとして、自賛句の最高点の長点印を付けていることに、いささか戸惑いすら感じる。これが、当時の蕪村の一面の「晴れ」の世界であるとしたら、同年の作の「洟(はな)たれて独(ひとり)碁をうつ夜寒かな」の偽らざる「褻(け)」の日常諷詠の世界に、より多くの親近感を覚えるのである。そして、蕪村が密かに句集を編まんとして、そのうちの自信作と思っていた作品というのは、この掲出の句のような、特定の、そして、上辺だけの「晴れ」の世界のものが多いということも心すべきことなのかもしれない。


蕪村の自賛句(その十八)

一五二 飢鳥(うゑどり)の花踏みこぼす山ざくら

本間本所収。この句も最高点の印の長点句。安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のときの作。この年には「なの花や月は東に日は西に」という夙に蕪村の句として世に知られている句がつくられているが、この有名な句には何らの点印も施されていない。しかし、几董編の『蕪村句集』には収載されており、そして、この掲出の花の句は『蕪村句集』には収載されていない。夜半亭二世・蕪村と夜半亭三世・几董とでは、やはり、それぞれの好みがあり、それらが反映された結果のことなのであろうか。掲出の句意は「人里離れた山桜の樹上に、餌に飢えた鳥が群がって荒々しく花を踏みこぼし、時ならぬ落花の景を現出している」(『蕪村全集(一)』)。この句の「飢鳥の」という蕪村の視線は鋭いし、全体的に画人・蕪村の句という雰囲気を有している。この年には「ゆく春やおもたき琵琶の抱心(だきごころ)」や、関東遊歴時代の思い出に連なる「ゆく春やむらさきさむる筑波山」
(結城の城址にこの句の句碑がある)など名句が多い。掲出の句もそれらの名句のうちの一つにあげられるものであろう。

蕪村の自賛句(その一九)

一六三 なのはなや魔爺(まや)を下れば日のくるゝ

本間本所収。最高点の長点句。安永二年(一七七三)、蕪村、五十八歳のときの作。この句は几董編の『蕪村句集』には収載されていない。この句は「菜の花や摩耶を下れば暮(くれ)かゝる」との句形のものもある。「摩耶」は六甲連邦の一つの摩耶山のこと。その山上に釈迦の母・摩耶夫人を祀る天上寺がある。句意は「摩耶山を参詣して山を下ってくると、春の日もようやく暮れかかり、摂津平野を埋めた一面の菜の花も、先刻までの明るい黄色から黄昏へと次第に変わってゆく」(『蕪村全集(一)』)。この句と同時の作に「菜の花や油乏しき小家がち」がある。この句の方が掲出の句よりも名の知られた句なのであるが、そこには何らの印も付されていない。この掲出句の眼目は、摩耶山と摂津平野を埋め尽くした
一面の菜の花との取り合わせの妙にあるのであろう。余り蕪村の佳句としては取り上げられていない句であるが、いかにも、摂津平野の淀川べりに生まれた蕪村の、その郷愁のようなものと、画人・蕪村の視点のようなものが感知される一句である。

蕪村の自賛句(その二〇)

一七〇 ゆくはるや同車の君のさゝめごと

本間本所収。最高点の長点句。安永九年(一八〇七)、蕪村、六十五歳のときの作。この句も几董編の『蕪村句集』には収載されていない。蕪村の王朝趣味の一句として名高い。「同車の君」は貴族の牛車に同乗する女性。「ささめごと」はひそひそ話のこと。句意は「晩春の都大路を、女性の同乗した牛車が静かに行く。牛車の中で身を寄せた佳人が、尽きることなき睦言をささやき続けている。暮春の情と車中のささめ言との照応」(『蕪村全集(一)』)。
蕪村俳諧の一面の特色として、実生活とはまったく関係のない古典趣味・貴族趣味・王朝趣味・空想的虚構趣味のものが顕著な句があげられる、この句もそうした類のものであろう。そして、こういう句は芭蕉などには見ることができず、蕪村の独壇場という趣すらある。そして、蕪村自身、こういう句を得意としていて、また、好みの世界のものであったのであろう。そういう意味では、蕪村自身が、この句に長点印を付したことは十分に頷けるところのものである。


蕪村の自賛句(その二一)

一七一 春おしむ座主の聯句に召されけり

本間本所収。平点より上で長点よりした珍重の印のある句。前句(その二〇)と同時の頃の作。「座主」とは一山の寺務を総理する者。また、比叡山の天台座主の専称のこと。この句は「春ををしむ座主の聯句や花のもと」という句形のものもある。句意は「天台座主の催された惜春の連句の会に連衆として召された。その光栄はもとより、近江・山城の春景を眼下にした眺望はいかにも春を惜しむにふさわしく、詩情そぞろなるものがある」(『蕪村全集(一)』)。蕪村が実際に天台座主の興行の連句会に召されたのかどうかは不明。この句は蕪村か亡くなる一年前の作なのであるが、蕪村は晩成の人で、この年には夜半亭三世となる几董との文音による両吟歌仙に取り組むなど、画・俳二道にわたって絶頂期にあり、その二道においてその名をとどろかさせたいた頃で、実際にこういうことがあったのかもしれない。しかし、前句(その二〇)の「同車の君のささめごと」といい、この掲出句の「座主の連句」といい、いかにも、蕪村の世界のものという印象とともに、やはり、蕪村は江戸時代の京都を中心にして活躍した人という印象を深くする。 


蕪村の自賛句(その二二)

一九八 海棠や白粉(おしろい)に紅をあやまてる

本間本所収。長点句。安永四年(一七七五)、蕪村六十歳のときの作。海棠は「睡れる花」という異名を持つ。この異名は楊貴妃の故事に由来があるとされている。この句も海棠を見ての嘱目的な句ではなく、その楊貴妃の故事を背景としての見立ての作句といえる。句意は「うつむきがちに桜よりも濃くほんのりと紅を含んだ海棠の花。酒に酔った楊貴妃のしどけない寝起きの化粧のように、白粉と誤って紅をは刷いたのか」(『蕪村全集(一)』)。
蕪村の時代はともかくとして、海棠を見て楊貴妃の故事に結びつけて作句するということは、現代においてはほとんどなさなれないことであろう。掲出句の視点の「酒に酔った楊貴妃のしどけない寝起きの化粧のように、白粉と誤って紅をは刷いたのか」ということになると、どちらかというと滑稽句に近いものになる。そして、その滑稽味を蕪村は佳としているのであろうが、同時の頃の作の「遅き日のつもりて遠きむかし哉」に比すると、後者に軍配をあげざるを得ないのである。そして、几董編の『蕪村句集』には掲出句は収載されていないが、後者の句は収載されていて、夜半亭二世・蕪村と夜半亭三世・蕪村との選句姿勢の違いなども感知されるのである。

蕪村の自賛句(その一・一~十四)



蕪村の自賛句(その一)

蕪村は生前に一冊の句集も出していない。蕪村没後、夜半亭二世・蕪村の後を継ぐ夜半亭三世・几董によて『蕪村句集』が刊行され、その巻末奥付けに「夜半翁発句集後編 近刻」との予告が書肆の手により掲げられていたが、几董自身によるそれは几董の逝去により実現することがなかった。これらの、蕪村自身の自選による「蕪村全集」の全貌の復元を試みようとしたものが、昭和四十九年に刊行された『蕪村自筆句帖』(尾形仂編著)である。それらの復元は、本間美術館蔵「蕪村自筆句稿貼交屏風」(略称、本間本)、諸家所蔵の蕪村自筆句帖断簡」(略称、断簡)、武田憲治郎氏旧蔵の「蕪村自筆句帖貼交屏風断簡」(略称、武田本)などを翻刻して進められた。
この復元された『蕪村自筆句帖』(尾形仂編著)の総句数は九百七十九句で、さらに、蕪村自身の手による「合点印」も復元されており、その合点印は几董の『点印論』も併せ紹介されていて、平点(一点)、珍重(一点半)、長点(二点)との区別であるという。そして、その句数は九十四句という。これらの九十四句は、蕪村の自選句のうちの蕪村自身による「自賛句・自信句」ともいえるものであろうと、尾形・前掲書には記載されている。これらの「自賛句・自信句」を尾形・前掲書によってその鑑賞を試みてみたい。
なお、句番号は、尾形・前掲書による。

三九 みの虫の古巣に沿ふて梅二輪

「本間本」所収。長点句とも珍重句とも取れる句。安永五年作。季語は、梅(春)。『蕪村全集(一)』の句意は、「蓑虫の古巣がぶら下がる同じ枝のすぐわきに、見れば梅花が二輪咲きそめた。春の到来を、昨秋来ぶら下がる蓑虫の古巣で強調する」。蓑虫は秋の季語だが、『蕪村全集(一)』では、この句の季語は梅の句として、尾形・前掲書でも「春の部」に収載されている。蓑虫は格好の俳材で、蕪村にも蓑虫の句は多い。芭蕉の句に「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」など。また、山口素道の「声おぼつかなまて、かつ無能なるを哀れぶ」(蓑虫説)などもある。蕪村にも、こうした格好の俳材の「みの虫」のその「古巣」と「咲きそめる梅二輪」とを対比して、その取り合わせで、この句を自賛句の一つにしているように思われる。

蕪村の自賛句(その二)

八八五 みの虫のぶらと世にふる時雨哉

「断簡」所収。「本間本」と「断簡」・「武田本」では「合点印」の相違があるが、尾形・前掲書によれば珍重句。ちなみに、前句(三九)は『蕪村全集(一)』では、珍重句の合点印が注意書きに記載されているが、尾形・前掲書では長点句の合点印のようにも思われる。
明和八年の作。季語は「時雨」。この句は兼題「時雨」(高徳院)の句。「世にふるもさらに時雨の宿りかな」(宗祇)、「世にふるもさらに宗祇の宿りかな」(芭蕉)の本句取りの句。現代俳句では類想句というのは極端に排斥する傾向にあるが、俳諧の発句においては、このような本句取りの句は盛んに用いられた技法の一つで、蕪村としても、兼題「時雨」での関連での本句取りの句として、この句を好句としていることは想像するに難くない。同年作の「六一九 みのむしの得たりかしこし初しぐれ」(本間本)には合点印はない。そして、この句も「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」の本句取りの句とも解せられる。これらのことからしても、いかに、蕪村が作句する時に芭蕉の句を常に意識していたかということも想像するに難くない。なお、掲出の句には、「ことば書(がき)有(あり)」との前書きがあるが、蕪村の小刷物に「感遇(偶)ことば書略す 夜行」との前書きのある「化そうな傘さす寺の時雨哉」との関連の注意書きが『蕪村全集(一)』に記載されている。『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「蓑虫は無為無能、細い糸にぶらりとぶら下がって疎懶に世を送り、降りかかる時雨にも平気な顔だ。無常観や風狂・漂泊の象徴とされてきた時雨の詩情に疎懶の楽しみを加えたもの。実はこの年、俳友大祇・鶴英を失った無常の思いの中で老懶の境地に居直った、蕪村自身の自画像」。この句意の「老懶の境地に居直った」というよりは、「老懶の境地の感偶」程度と解したい。なお、「世にふる」の「ふる」は「経る」と「降る」とが掛けられている。

蕪村の自賛句(その三)

八八七 古傘の婆娑(ばさ)と月夜の時雨哉

「断簡」所収。珍重句。季語は「時雨」(冬)。明和八年の作。この句は「古傘の婆娑としぐるゝ月夜哉」の句形で、安永六年に几董宛ての書簡に次のような記載が見られる。「月婆娑と申事は、冬夜の月光などの木々も荒蕪したる有さまニ用ひる候字也。秋の月に不用(もちひず)、冬の月ニ用ひ候字也と、南郭先生被申候キ(まうされさうらひき)。それ故遣ひ申事。ばさと云(いふ)響き、古傘に取合(とりあわせ)よろしき歟(か)と存(ぞんじ)候。何ニもせよ、人のせぬ所ニて候」。この書簡からして、掲出の句は安永六年の句形に改められているのかも知れない。『蕪村全集(一)』では、両方の句形(九六一・一九二〇)で収載している。いずれにしろ、明和八年から安永六年の六年の歳月を経ても、この句に執着していることからも、蕪村の自賛句の一つと蕪村自身が考えていたことは明らかなことであろう。そして、その自賛句の一つとした理由が、上記の几董宛ての書簡ではっきりと蕪村が指摘しているのである。即ち、「ばさと云(いふ)響き、古傘に取合(とりあわせ)よろしき歟(か)と存(ぞんじ)候。何ニもせよ、人のせぬ所ニて候」と、「取り合わせ」と「新味」との妙がこの句にはあるというのである。このことからこの句を蕪村は自賛句としているのであろう。『蕪村全集(一)』の掲出の句意は次の通り。「冬月が寒林を照らす荒涼の景に、突如として時雨が走ってきた。バサッと開いた古傘が月光に翻り、傘打つ音またバサッと鳴って、荒涼の感ここに極まる」。

蕪村の自賛句(その四)

八八三 音なせそたゝくは僧よふくと汁

「断簡」所収。珍重句。明和八年作。季語は「ふくと汁」(季語)。「ふくと汁」は「河豚汁」のこと。『蕪村全集(一)』・尾形・前掲書のいずれにおいも「ふぐと汁」と濁点は打たれていないが、濁点を付けて詠んでもさしつかえないものと解する。この河豚汁には、芭蕉の世によく知られた、「あら何ともなや昨日は過ぎて河豚汁」の句がある。この掲出の句も芭蕉のその句が背景にあろう。それだけではなく、中七の「たゝくは僧よ」は、「僧敲月下門」(賈島)の漢詩がその背景にあろう。『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「シイッ、物音を立てるな、門をたたいているのは、あのやかましい和尚だよきっと。せっかくの河豚汁の最中に殺生戒を振りかざされては、たまらんからな」。この句意にも見られる、この滑稽味の面白さを、蕪村は注目しているのであろう。蕪村の友人の三宅嘯山の『俳諧新選』にも収載されている句である。 

(追記その一) 上記の三九「みの虫の古巣に沿ふて梅二輪」・八八七「古傘の婆娑(ばさ)と月夜の時雨哉」・八八三「音なせそたゝくは僧よふくと汁」は几董の『蕪村句集』に収載されている句で、このうち、「八八七・八八三」の句については、尾形・前掲書においては
句上に「珍重句」の印があり、句下に「平点印」があるが、この句下の「平点印」は『蕪村句集』に収載されている句の印であろうとされている(尾形・前掲書)。そして、「三九」
については、句下のこの「平点印」はなく、句上に付したもののようでもあり、そのことからすると、「三九」は「長点句」ではなく、『蕪村全集(一)』の注意書きにある「珍重句」と解すべきものと思われる。また、上記の八八五「みの虫のぶらと世にふる時雨哉」の句が句下に「平点印」がなく、即ち、几董の『蕪村全集』には収載されていないことは特記しておく必要があるように思われる。

(追記その二) 六五五「ふく汁の我活(い)キて居る寝覚(ねざめ)哉」・七二六「鰒汁の宿赤々と灯しけり」(本間本)は、几董の『蕪村全集』には収載されているが、句上・句下にもその収載の印の「平点印」はない。

蕪村の自賛句(その五)

六六七 ふく汁や五侯の家のもどり足

「本間本」所収。安永四年作。珍重句。季語は「ふく汁」(冬)。『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「ふぐ汁を馳走になっての帰り道。まるで五候の邸に招かれての珍味の饗宴にあずかったのごとく、腹も満ち足り酔歩まんさくとして定まらない」。そして、「五候 漢の成帝の時、同日に諸侯に封ぜられた皇太后王氏の一族五人をいう。五候、客の歓心を得んと競って珍膳を供した(西京雑記巻二)」との頭注が施されている。そして、この句は、蕪村没後に、蕪村の跡を継ぐ几董の『蕪村全集』には収録されていないで、河東碧梧桐の『蕪村十一部集』(昭和四年刊行)に収載されているところの『蕪村遺稿』に収録されている句なのである。即ち、几董が多分に蕪村自身が句集を編纂するとしたらとそれとなく準備をしていたと推測される、いわゆる、蕪村自選集ともいうべき『蕪村自筆句帖』を、蕪村没後に目にした時には、蕪村自身の自賛句の合点印の付いているこの句に、几董の目は留まらなかったということなのである。さらに付け加えるならば、几董は蕪村が自賛句としているこの句をそれほどのものとは考えていなかったとも思われるのである。そして、同時の頃の作とされている、「冬ごもり壁をこころの山に倚(よる)」などの句を、その『蕪村全集』に収録しているのである。掲出句とこの「冬ごもり」の二句を比較して、蕪村は「ふく汁」からの漢書の「五候」への連想ということを評価しているのに対して、几董は、「冬ごもり」の句の背景の「冬ごもりまた寄り添はんこの柱」(曠野)の芭蕉の句への連想などをより評価している、その差異のようにも思われるのである。そして、現在、これらの二句を比較して、蕪村の自賛句の掲出の句よりも、几董の『蕪村全集』に入っている蕪村自身の平点句の方が、より馴染み深いということを指摘しておきたいのである。そして、明治に入って「俳句革新」を成し遂げた正岡子規は、几董の『蕪村全集』の蕪村の句を高く評価して、この掲出の句の収載されている『蕪村遺稿』は知らずして亡くなってしまったのである。これらのことから、知らず知らずのうちに、几董や子規好みの蕪村の句を、現代人は多くの関心をもって、もう一面の、この「ふく汁と五候の取り合わせ」に「してやったり」と得意がっている蕪村のもう一面の姿というのを亡失しがちであるということは注意する必要があるということを特記しておきたいのである。

蕪村の自賛句(その六)

一 ほうらいの山まつりせむ老(おい)の春

 「本間本所収」。安永四年(六十歳)作。平点句(『蕪村自筆句帖(筑摩書房刊))』 の解説の部には平点句の印がないが影印の部にはその合点印が読み取れ、『蕪村全集(一)』・『蕪村句集(岩波文庫)』でも合点句としている)。季語は「老の春」。几董の『蕪村句集』収録の、その冒頭の一句である。句意は「めでたく春を迎え歳(よわい)を一つ重ねたが、蓬莱飾りの蓬莱山を華やかにお祭りして、わが老いの春を祝いたい。人の生死を司る神として道家が祭る泰山府君の祭事に擬し、長寿の意をこめた」(『蕪村全集(一)』)。ここにおいても、「蓬莱」・「山まつり」と蕪村の南画の主題のようなものがこの句の眼目となっており、現代俳句という観点から鑑賞すると、やはり、蕪村の時代の南画家の元旦の句のような印象を受ける。ただ一つ、この句が蕪村の六十歳の還暦の元旦の句で、そういう観点から鑑賞すると、このときのこの句を作句している蕪村の姿が見えてくる。しかし、同年作の「海手より日は照(てり)つけて山ざくら」(合点印無し)の句の方が、現代人の好みであろう。しかし、こういう、何らの技巧が施されていない句については、蕪村自身は自賛句とは考えていないのである。やはり、これらの句に接すると江戸時代の蕪村との距離は大きいという感を深くするのである。

蕪村の自賛句(その七)

六 春をしむ人の榎(えのき)にかくれけり

「本間本」所収。明和六年(五十四歳)作。平点句。季語は「春をしむ」。この句は几董の『蕪村句集』には収載されていない。句意は「行く春を惜しんで郊行を楽しむ人の姿が、夏の木すなわち榎に隠れて見えなくなった。もう半分夏の世界の人となったらしい」(『蕪村全集(一)』)。この句意からも明瞭のように、蕪村がこの句を自賛句としているのは、「榎」が「夏」の「木」という「文字遊び」をしながら、「春」から「夏」へと移行する頃の「惜春」を主題にして、しかも、その榎に「人がかくれけり」と「おかしみ」の世界へ誘っているところにある。やはり、この句も単純な写生だけの句ではなく、当時の俳諧の、その豊穣な「笑い」の系譜に属するということに注目する必要があろう。

蕪村の自賛句(その八)

一九六 海手より日は照(てり)つけて山ざくら

「本間本」所収。安永四年(蕪村六十歳)の作。季語「山ざくら」。この句について、同年作の「一 ほうらいの山まつりせむ老(おい)の春」のところで「合点印」のない無点句として紹介したが、それは『蕪村全集(一)』(講談社)・『蕪村俳句集』(岩波文庫)のいずれにおいても、「合点印」が記載されていなかったということによる。ところが、『蕪村自筆句帖』(筑摩書房)の「影印」・「翻印」の両者においても「平点句」の表示がなされ、これはあきらかに『蕪村全集(一)』(講談社)・『蕪村俳句集』(岩波文庫)の記載漏れで、平点句と理解すべきである(それ故、「蕪村の自賛句その六」のその箇所はここで訂正)。
『蕪村全集(一)』の句意は次の通り。「海に面した山腹に山桜が満開だ。海上の朝日が光の束を投げ掛けるように、強烈に照らしている。海・山を一望にした大観の中で、山桜の最も美しいありようをとらえた」。この句意で十分であろうが、中村草田男は「蕪村は含蓄・余情・余韻などを一切考慮せず、青年のごとく単純に光の歓喜に酔っているいるのである。(中略)俳句は蕪村に至って初めて『青春』を持ったと言うことができる」(『蕪村集』)と指摘している。この草田男をして「俳句が初めて『青春』を持った」という、その「青春」に満ち溢れたこの句を、蕪村は晩年の六十歳のときに作句しているのである。そして、蕪村の絵画の絶頂期を迎える「謝寅」の号の時代はその三年後の、安政七年の頃からなのである。すなわち、いかに、蕪村が「画・俳二道」において晩成の人であったということが、この一事を取っても理解できるところであろう。この句に接すると、「馬酔木」の三羽烏の一人といわれた高屋窓秋の「ちるさくら海青ければ海へちる」が想起されてくる。蕪村のこの掲出の句は、蕪村自身の「平点句」ではあるが、蕪村の傑作句の一つとして、これからも詠み継がれていく一句と理解であろう。

蕪村の自賛句(その九)

一五六 三椀の雑煮かゆるや長者ぶり

「本間本」所収。『蕪村俳句集』(岩波文庫)では合点印のある句。平点句(「本間本」の写真版には合点印があるが、『蕪村自筆句帳』の解説文には合点印がない。『蕪村全集(一)』にも合点印の記載がない。転記漏れと思われる)。季語は「雑煮」(新年)。几董の『蕪村句集』にも採られている。安永元年(一七七二)、五十七歳のときの句。「貧しくとも、こうして達者な家族たちとともに新年を祝い、ちょっとした長者を気取って雑煮を三杯もお代わりすることよ。貧しいながら満ち足りた思い」が『蕪村全集(一)』の句意であるが、この「三椀」は「三杯もお代わりする」というよりも、「三重ねの椀で雑煮を食べる」という意味も込められていて、その「三椀」と「長者」との取り合わせの面白さに、蕪村はこの句に平点印を付したように思われる。蕪村の俳諧の師匠の早野巴人の句に「耕さず織らず雑煮の三笠山」というのがあり、この三笠山というのが「三重ね山」とを掛けていて、その巴人の句などが、この句の背景にあると理解したいのである。すなわち、この句も、蕪村の句の特質の、景気(叙景)・不用意(無作為)・高邁洒落(離俗)の、その洒落をより多く利かせている句と理解したいのである。


蕪村の自賛句(その十)

一二三 七(なな)くさやはかまの紐の片結び

「本間本」所収の句。平点句。但し、『蕪村自筆句帖』の写真版には平点印が付されているが、その解説文においては付されていない(記載洩れと思われる)。季語は「七くさ」(新年)。安永五年(一七七六)、六十一歳のときの句。几董の『蕪村句集』には「人日」(正月七日のこと)との前書きがあり、題詠の句と思われる。句意は「日ごろ袴など縁遠い年男が七草を打つのは儀式だからと袴姿でかしこまったものの、その紐は無造作な片結びになっている」(『蕪村全集(一)』)。この「人日」の句は蕪村の師の早野巴人などにも見られ、そして、内容的にも、その巴人や、巴人の師にあたる其角流の江戸座的な機智的な笑いを狙っての句作りで、現代俳人には決して好意的には見られない句でもあろう。そして、この江戸座の流れの俳人は「俳力」(俳諧本来の笑い)ということを重視しており、この句も
その範疇に入るものであろう。

蕪村の自賛句(その十一)

一○五 青柳や芹生(せりふ)の里の芹の中

「本間本」所収の句。平点句。安永六年(一七七七)、六十二歳のときの句。季語は「青柳」(春)。「芹」も春の季語だが、主たる季語の働きは「青柳」。「芹生の里」は洛北大原西方寂光院付近の古称で歌枕。西行の「大原は芹生を雪の道に開けてよもには人も通はざりけり」(山家集)を背景にしての一句。そして、地名の「芹生」と七草の一つの「芹」との言葉遊びも意識していることであろう。句意は「雪深く寂しい芹生の里にも、春ともなれば芹の群生する中に青柳が美しい翠色を見せている」(『蕪村全集(一)』)。この句もまた、この句の背景となっている西行の歌や芹生の地名と植物の芹との連想などの、いわゆる古典的な俳諧本来の手法を駆使してのもので、子規以降の俳人達は決して蕪村の代表句とは見なしてはいない。そして、蕪村やその俳諧の師の早野巴人などは、この掲出句に見られるように「季重なり」ということを厭わずに作句している例を多く見かける。


蕪村の自賛句(その十二)

四〇   鴈(かり)行(ゆき)て門田(かどた)も遠くおもはるゝ
一二七  鴈立(たち)て驚破(ソヨヤ)田にしの戸を閉(とづ)ル

 「本間本」所収の句。この一二七の句については平点よりも上、長点よりも下の、「珍重の印」の珍重句。四〇の句は『蕪村自筆句帖』の写真版を見ては平点句のように思われる(『蕪村全集(その一)』)では珍重句の印が校注にある)。この二句とも几董編の『蕪村全集』に収載されている。四〇の句意は「今まで門前の田で餌をあさる雁の姿に親しんできたのに、春になって北へ飛び去ると、門田も寂しく心に遠い眺めになった」(『蕪村全集(その一)』)。一二七の句意は「田面の雁が北へ帰る。その羽音にビックリした田螺はスワ異変発生とばかり慌てて殻を閉じる」(『蕪村全集(その一)』)。この「驚破(ソヨヤ)」は白楽天の「驚破霓裳羽衣曲」(長恨歌)に由来があるという。それよりもなによりも、四〇の「帰雁」の句というよりも、この一二七の句は「田にし」の句なのである。そして、現代の俳句愛好者がこの二句を並列して鑑賞した場合、前者の「帰雁」の句の方を良しとする人の方が多いのではなかろうか。しかし、蕪村の時代においては、この滑稽句の一二七の「田にし」の句の方が歓迎されたのかも知れない。この二句とも安永五年(一七七六)の六十一歳の時の作である。この一二七の句に関連して、其角の句に、「鉦カンカン驚破郭公草の戸に」(五元集)があり、蕪村は、芭蕉・其角・巴人の江戸座の流れの俳人であったことを痛感すると共に、やはり、江戸時代の享保・安永時代の俳人であったことを痛感する。

蕪村の自賛句(その十三)

九八 夜桃林を出(いで)て暁嵯峨の桜人

 「本間本」所収。珍重句。この句には「暁台伏水・嵯峨に遊べるに伴ひて」との前書きがある。この句も安永五年、蕪村六十一歳の時のものである。几董編の『蕪村全集』にも収載されている。そして、この句もまた現代俳句では余り歓迎されない「言葉遊び」的な技巧が隠されているのである。この「夜」は自分自身の号の「夜半亭」、そして、「暁」は尾張の俳人で蕪村一派と親交のあった、蕪村と並び称せられる中興俳壇の雄・加藤暁台のの号の「暁」を意味しているのである。しかも、「夜」と朝の「暁」をも意味していて、こういう句作りは、蕪村の俳諧の師の早野巴人も得意とするものであった。こういう技巧に技巧を凝らした挨拶句が、当時の俳人が競って作句したものなのであろう。句意は「昨日は遅くまで伏見の桃林に遊び、夜、桃林を出て、今日は早朝から嵯峨の桜花の下の人となっている」(『蕪村全集(一)』)と、どうにも、その句意を知って、こういう句を蕪村の数ある名句と称せられるものは度外視して、ことさらに自選句のうちの自賛句の印を伏している蕪村を思うと、今まで抱いて「郷愁の詩人・与謝蕪村」というようなイメージとかけ離れてくる印象は拭えないのである。

蕪村の自賛句(その十四)

五〇 花の香や嵯峨の燈火きゆる時

 本間本所収。珍重句。安永六年、蕪村六十二歳のときの作。この句意は「夜桜見物の人も去って嵯峨の燈火が消えるころ、かすかな花の香が漂って来て、花の精に触れる思いがする」(『蕪村全集(一)』)。この句に出会ってやっと蕪村らしい句にひさびさにお目にかかったという思いである。これまで、蕪村が自分自身の手による自選句のうちで、さらに、長点・珍重・平点の、いわゆる点印を句頭に施したものは、技巧的な背後にその句に接する人に何かしらの謎解きを強いるような知的な作句姿勢というものが見て取れるものがほとんどであった。しかし、この句にはそういう他者に「句の巧みさや、人を驚かせるような作為的な操作」などを強いるものではなく、自分自身の「その時の感情や心の動き」を一句に託するという、作句するときの最もメインとするものを、この句に接する人に素直に語りかけてくるからに他ならない。この句については、蕪村自身愛着を持っていた一句のようで、「扇面自画賛」や几董宛の書簡なども残されている。そして、この句については、「華の香や夜半過行(すぎゆく)嵯峨の町」の別案の句もあり、相当に推敲を施した句であることも了知されるのである。

蕪村の「謝寅」時代の句(その一)



蕪村の「謝寅」時代」の句(その一・一~十一)

(その一)

○ 痩脛(やせはぎ)や病より立つ鶴寒し

 蕪村は画俳二道を行く老成の人であった。その絵画の絶頂期は、「謝寅(しゃいん)」の号を用いる安政七年(一七七八)の六十三歳以降というのが、誰しもが認めるところのものであろう。その「謝寅」の号を始めて用いたのは、その年の七月の「山水図」に、「戊戌秋七月写於夜半亭 謝寅」と記したのが最初であろう。そして、掲出の句は、その年の十一月十三日に没した、蕪村門の異才・吉分大魯(たいろ)に宛てた、「大魯が病の復常をいのる」の前書きのある一句である。句意は、「病にめげず立ち上がるその鶴のその痩せ細ろいた脛、その痩せ細ろいだ脛ですくっと立つ鶴の何と寒々とした光景であることか」でもなるのであろうか。快癒を祈っての鶴の最後の踏ん張りを期待する句なのであろうが、それ以上に、病に臥す痩せ細ろいだ大魯の姿が眼前に浮かんでくる一句である。そして、蕪村よりも十歳前後若いその異才の開花が期待された大魯は没した。その大魯の死に前後して、蕪村は「謝寅」の号をもって、この句の鶴のように「寒風の中にすくっと最後の花を咲かせる」、その時を迎えたのである。

(その二)

○ 泣(なき)に来て花に隠るゝ思ひかな

 『蕪村全集(一)」(講談社)に次のとおりの「左注」がある。
[『華の旅』(寛政六)に「清夫亡人のひめ置(おき)し反故の中に此(この)一順あり。芦陰舎(大魯)今年十七回忌の折からなれば爰(ここ)にしるす」と編者夏雄の前書。大魯(安永七年十一月十三日没)の追悼吟。この年の作か。]

この「清夫亡人」の「夫」は「未亡人」の「未」の誤植なのであろうか。また、「この年の作か」として、この句を安永七年作としているが、「花」の季語から、「翌春(推定)」(『蕪村事典(桜楓社)』)とする理解の方が素直であろう。いずれにしろ、蕪村の「謝寅」時代の大魯追悼吟ということになる。句意は、「大魯追悼の泣きに来て、折からの花に隠れて思い切り泣きたい心境をいかんともしがたい」ということであろう。思えば、大魯の没した安永七年の三月に、蕪村は几董を伴って、当時、兵庫県に居を移していた大魯を見舞っているのである。蕪村はどれほどこの蕪村門では異端視されたこの大魯の才能を高くかっていたことであろうか。この大魯追悼吟の「花」には、大魯が没したこの年の、大魯と一緒に見たであろう「花」が見え隠れしている。

(その三)

○ 狐啼(ない)てなの花寒き夕べ哉

 安永八年(一七七九)の作。季語は「なの花」(春)。蕪村には「菜の花」の傑作句が多い。「なの花や月は東に日は西に」・「菜の花や遠山鳥の尾上まで」・「なの花や昼一しきり海の音」・「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」・・・、どれも蕪村の句らしい印象鮮明な句である。しかし、この掲出句は、印象鮮明の句というよりも、何故か、蕪村の謎の生い立ちを暗示するような、「寒々とした不気味な菜の花畑」を連想させる。それは一にかかって、上五の「狐啼て」にある。これは蕪村の生まれた頃の、蕪村の脳裏に焼き付いている実景なのではなかろうか。蕪村の若い頃の句の「菜の花や和泉河内の小商ひ」の、その「和泉河内」の「菜の花」畑に通ずるような雰囲気なのである。そして、蕪村は、「菜の花や油乏しき小家がち」とも詠う。家々の灯りの元になる「菜種油」を産出する「菜の花畑」・・・、その菜の花畑の傍らで、狐がコンコンと啼いている風景・・・、それを六十四歳となった蕪村は、その蕪村の原風景を回想している違いない。

(その四)

○ 松島で古人となる歟(か)年の暮

 蕪村の亡くなる前年(天明二年)の謝寅時代の句である。
「世人が俗塵の中で悪戦苦闘する年の暮れに、風流のメッカ松島で故人となるのは、何ともうらやましい」(『蕪村全集一』)というのが、通説的な解である。この通説的な解の背景は、この句は、「松島で死ぬ人もあり冬籠」の別案と、比較的、この句の制作された背景が明らかになっていることと大きく関係している(「青荷」充て書簡)。しかし、そういう背景を抜きにして、この句単独の素直の解は、次のような解にもなるだろう。「この年の暮れに、風流のメッカ・松島で死ぬことができたら、どんなに素晴らしいことであるか」。
 とするならば、蕪村が、自分の死を予感しての、あるいは、蕪村が、自分の死を覚悟しての作のようにも理解できる。この句は、「西むきにいほりをたてゝ冬ごもり」と同一時の
作ともされている。即ち、「冬籠もり」の題詠の一つというのが、その背景である。この「西むきに」というのは、「西方浄土へ向かって」ということであり、この同一時の句の背景からしても、掲出の句が、蕪村の「死への願望、死への期待」の句という理解は、これらの句の背景として、理解しておく必要があるのかも知れない。
 蕪村の絵画は、その晩年の「謝寅(しゃいん)」の号を用いた頃から「本当の蕪村」が誕生したといわれている。そして、そのことは、こと俳諧(俳句)に限ってはどうかということになると、必ずしも、当てはまらないけれども、当然のこととして、「生と死」を必然的に意識しての、創作活動ということになると、その晩年の「謝寅」時代の、画・俳二道の創作活動を注ししていきたいとという衝動にかられてくるのである。そして、蕪村の句としては余り話題とされていない、この掲出の句も、蕪村の晩年の「謝寅時代」の一つの句として、そして、蕪村の、「生と死」とを扱った句の一つとして理解しておく必要があるのかも知れない。

(その五)

○ 松島で死ぬ人もあり冬籠(ふゆごもり)

 この蕪村(六十七歳の時の作)の句は、「松島で古人となる歟(か)年の暮」と同一時の作とされている。『蕪村全集一』の解によれば、「風流行脚の途次、松島で死の本懐をとげる人もある。そんなうらやましい人のことを心に思いながら、自分はぐうたらと火燵行脚の冬ごもりを極め込んでいる」とある。蕪村には「冬籠り」の句が実に多い。 蕪村は若い時の関東放浪の旅を経験して以来、その後は、仕事で讃岐への遠出があるくらいで、ずうと、京都の地で、それこそ、「冬籠り」のような人生に終始した。蕪村が「籠り居の詩人」と呼ばれるのも、そんなことが原因の一つであろう。しかし、若い関東放浪の時代に、足を伸ばして、芭蕉の「奥の細道」の行脚を決行して、この松島での一句が残されている。その蕪村(二十八歳の時)の句は「松島の月見る人やうつせ貝」というもので、この「うつせ貝」は和歌で用いられる「むなし」に掛かる枕詞で、技巧的な句作りである。、その句意は、「松島の月を句にしようとしても、余りにも絶景で、ただむなしく眺めるだけだ」とでもなるのであろうか。そして、蕪村は、死ぬ前年の、ある句会で、「冬籠り」という題を得て、掲出の句を作句したのであろう。そして、その六十七歳の晩年の蕪村に、かって、若い時に決行した奥羽行脚やその途次での松島行脚のことが、きっと、その脳裏にあったに違いない。そして、できることなら、その風流のメッカの、かって訪れたことのある「松島で死の本懐をとげたい」と願ったことであろう。蕪村は京都の街の片隅で、ひっそりと、その小さな家から一歩も出ず、「籠り居」の中で、画・俳二道の創作に終始した。その蕪村の姿を如実に表わしている「冬籠り」の一句がある。

  冬ごもり妻にも子にもかくれん坊

(その六)

○ 菜の花や鯨もよらず海くれぬ

 安永七年(一七七八)の作。蕪村六十三歳。『蕪村全集一」の解は次のとおり。
「見渡せば残照に黄金色に映える一面の菜の花の海。沖には鯨が近づくといった異変も起こらず、海面は平穏に暮れてゆく。壮大な菜の花の大観。」
 蕪村には「菜の花」の句が多いが、この掲出句のように「菜の花と海」との取り合わせの句は、安永三年の作にもある。

○ 菜の花や昼しときり海の音

 そして、この句は蕪村の代表句の「菜の花や月は東に日は西に」と同時の作とされているのである。この作は大阪平野の菜種栽培地帯での大観の作とされている(前掲書)。
 とすると、冒頭の「菜の花や鯨もよらず海くれぬ」についても、蕪村は実際には、「海」は見ていずに、かっての「菜の花や月は東に日は西に」、そして、「菜の花や昼しときり海の音」との延長線上での、大阪平野の菜種栽培地帯に想いを馳せての作のように思われるのである。すなわち、「菜の花の一面の菜畑」を「海」ととらえて、そして、「鯨」とか「海の音」とかは、その「菜の花の一面の菜畑」がいかに大観であることかの効果的な、蕪村のレトリック的なものと思われるのである。そして、この何処までも海のように続く、大阪平野の菜の花の海は、蕪村の生まれた原風景の一つなのであろう。そして、その蕪村の原風景は、何時しか「鯨や海の音」を伴いながら、美しく蕪村の心に定着し、美化していったのではなかろうか。

(その七)

○ 草の戸に消(きえ)なで露の命かな

 天明三年(一七八三)の作。蕪村六十八歳。この年に蕪村は亡くなる。季語は露(秋)。草の戸は粗末な住いのこと。「草」と「露」と「消」とが縁語の技巧的な句作りである。句意は「粗末な草のような庵で余命いくばくもない露のような命をかろうじて保っている日々だ。」晩年の蕪村の姿を詠出しているような句だ。

(その八)

○ 我門(かど)や松はふた木を三(みつ)の朝

 蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の元旦の句である。「三(みつ)の朝」というのは、年・月・日の始めの意味での「元旦」と「見つ」とを掛けている用語のようである。元旦の句というのはこういう技巧的な句が多いのであろう。「松はふた木」は、芭蕉の『おくのほそ道』の「桜より松は二木を三月越し」の「武隈の松」(宮城県の歌枕)をイメージしているのであろう。句意は、「元旦に我が家の門に武隈の松のような二股の見事な松を確かに見たことだ。(それは幻影なのであろうか)。」とでもなるのであろうか。そして、この句は芭蕉の「桜より松は二木を三月越し」を完全に意識して作句していることが見てとれるということなのである。そして、この句の「ふた木の松を見た」という蕪村の幻影は、「そのふた木の松を句にした芭蕉翁」の幻影を見たということなのではなかろうか。蕪村の作句の背景には常に芭蕉の幻影が見え隠れしているのである

(その九)

○ 春水や四条五条の橋の下

 天明元年(一七八一)の六十六歳の作。蕪村の句には「探題」の句が多い。句会などで籤のようにして、その日の自分の作る題を引いて、そして作句する。この句もそんなものの一つらしい。「春風や四条五条の橋の上」(都枝折)などの「もじり」の句なのであろ
う。「風が上なら、水は下」なとどと、また、謡曲の「四条五条の橋の上、老若男女・・・」(熊野)などを口ずさみながら、すらすらと句にする。今なら、さしずめ、「類想句あり」などのひんしゅくをかう部類のものなのであろう。しかし、本来、俳句というものは、西洋的な個人の独創力・創造力とかにウエートをおくものではなく、この句のような、即興的な機知の応酬などにウエートをおいているものなのであろう。そして、こういう即興的な機知の応酬なども、今では、どこかに置き去りにされてしまった。

(その十)

○ 烈々と雪に秋葉の焚火かな

 この蕪村の句は安永六年、蕪村、六十二歳ときの句。蕪村の最高の画号の「謝寅」が始まるのは翌年の頃なのであるが、この安永六年の蕪村の俳壇活動は一つのピークのようにも思われる。この掲出の句は、そのピーク時の蕪村の傑作句として例示したのではない。この句の「秋葉」が、「静岡県の秋葉の火祭りとして名高い」、その「秋葉」の句であるということからの引用である。蕪村は「秋葉の火祭り」は見たことがないであろう。蕪村はその若い頃の放浪の時代を経て、そして、それ以後は、殆ど、京都の市井に「篭り人」のように隠棲して過ごしたのであった。これは、蕪村の観念の作なのであろう。しかし、この句に接する人に、眼前に「雪の秋葉山の焚火」を明瞭に映し出すという、そういう作句能力を持っていた俳人という思いを強くするのである。そして、それは、画人・蕪村を見るような錯覚すら覚えるのである。  

(その十一)

○ 不動描く琢磨が庭のぼたんかな

 安永六年の作。この句もまた画人・蕪村(謝寅)の句そのものであろう。琢磨(たくま)とは平安から鎌倉にかけての絵仏師の一派の名である。その不動明王を描いて得意な琢磨の流れをくむ絵仏師の庭に、その不動明王に対峙するような見事な牡丹が咲いているというのである。こういう句は画人・蕪村(謝寅)の独壇場であろう。

月曜日, 6月 26, 2006

秋元不死男の「瘤」の句



秋元不死男の「瘤」の句(その一)

○ 降る雪に胸飾られて捕へらる
○ 捕へられ傘もささずよ眼に入る雪

秋元不死男の第二句集『瘤』は昭和二十五年に「作品社」より刊行された。この「作品社」は、「作品俳句叢書」と名づけて数冊の句集を刊行する予定であったが、石田波郷の『惜命』とこの『瘤』の二冊のみ刊行して、中途で破産してしまったという。この不死男の『瘤』には、総数三六六句が収録されていて、そのうちの一七二句が、不死男自身の「俳句弾圧事件」に関与しての獄中句であるという。掲出の句は、その『瘤』の冒頭の句で、「昭和十六年二月四日未明、俳句事件にて検挙され、横浜山手警察署に留置される。二句」との前書きのある二句である。『俳人・秋元不死男』(庄内健吉著)によると、著者(秋元不死男)所蔵の句集には、次のようなメモが記されているという。

※ 子供---八歳   ※ 粉雪  ※ 二重廻し(黒)
※ 雪が飛びついて次々と胸のところだけにとまる
※ 両脇に刑事
※ 無抵抗なわたしは下目づかいに飾られた雪をみた

掲出の二句、この秋元不死男自身のこのメモ書きだけで十分であろう。庄内健吉の前掲書には「粉雪の降りしきる未明、二人の刑事に踏み込まれて、目を覚ました子供を見ながら、夫人の着せかける二重廻しを着て外にでる」との解説とともに、表現が淡々としていて、受身の切迫感が希薄なのは、不死男の性質に由来するというよりは、「根本は『回想』という時間の経過が感情を沈潜させたためであると思う」との記載が見られる。しかし、この掲出の二句の、この淡々とした表現こそが、これらの句に接する者に、この時の不死男の「どうにもやりきれない」、その心境をひしひしと語りかけてくるように思われる。


秋元不死男の『瘤』の句(その二)

○ 寝(い)ねて不良の肩のやさしく牢霙(みぞ)る
○ 冬シャツ抱へ悲運の妻が会ひにくる
○ 虱背をのぼりてをれば牢しづか
○ 酷寒日日手記いそぐ指爪とがる
○ 水洟や貧につながる手記一綴(ひととじ)
○ 特高と屋上に浮き春惜む

 これらの六句には、「翌日(注:昭和十六年二四日に検挙され横浜山手警察留置されたその翌日のこと)、芝高輪警察署に移り、以来十ケ月余をここに暮す 六句」との前書きがある。不死男のこの『瘤』では、警察署の「留置場」を「牢」、そして拘置所を「獄」と使い分けしている。そして、不死男は二年の拘束期間のうち、この高輪警察署に十ケ月、東京拘置所に十四ケ月とのことである(庄中・前掲書)。

この一句目の不死男のメモは次の通り。

※ 高輪  ※ 多いときは三畳に十数人寝た。  
※ コンクリートの床の上に、うすべりが一枚、その上に虱のついた毛布をしゐて寝た。  
※ 前科の不良、やさしい人間だった。  
※ いろいろな犯罪者がきた。  
※ 霙ふる寒い夜は体温であたためっこをした。  

 この四句目・五句目のメモは次の通り。

※ 手記を書かされた。数項目に亘る。  
※ 特高室に出て(火気のない)かじかむ手、水洟をすすりながら書いた。  
※ 生い立ちから現在までの生活環境。  
※ 父の死。夜店。

 これらの句から、高輪警察署での生活環境とその取調べの状況とが浮き彫りにされてくる。その取調べは、「自らが共産主義者であったことを認め、それを手記の形でまとめさせられる」のである。不死男は、新興俳句誌「土上」(島田青峰主宰)の関係者として検挙される。当時の筆名は「土上」では「秋元平線」、その他の俳壇においては「東(ひがし)京三」の二つの筆名を使い分けしていた。そして、「東京三」は、英語読みにすると「京三東」(きょうさんとう)となるなどとも指摘もされるが、不死男は「プロレタリア俳句」・「新興俳句」には携わり、その運動上での創作活動ではあったが、決して、他の検挙者の多くがそうであったように、非合法活動の共産主義の活動家ではなかったということは、本人自身が認めているところなのである。上記のメモの「手記を書かされる。数項目に亘る」ということは、自分自身の「でっちあげの手記」を特高の用意した「項目」に従って、似非の手記を綴っていくのである。そして、その手記を書きながら、つくづくと「父の死ゆ夜店のことなど貧しい生活の日々だけが鮮明に思い出されてくる」というのであろう。

 この不死男の第二句集『瘤』は、「新興俳句・新興川柳弾圧事件」に関連して、不死男自身残したメモとあわせ、忘れ得ざる句集の一つといえるものであろう。


秋元不死男の『瘤』の句(その三)


○ 牢出ても帰るにあらず街路樹枯る
○ 獄へゆく道やつまづく冬の石
○ 凍つる地が蹠(あうら)たばしる獄いづこ

 これらの三句については、次のような前書きが付せられている。「起訴決定、昭和十六年十二月十六日刑事と同行、東京拘置所へ移さる。地上をあゆむ十ケ月ぶりなり 三句」。この一週間前の昭和十六年十二月八日、それは太平洋戦争が勃発した「真珠湾攻撃」があった日なのである。即ち、掲出の句はあの痛ましい戦争の開戦直後の句ということになる。不死男の年譜によれば、不惑の歳の四十歳の時であった。不死男が俳句に手を染めたのは、大正九年(十九歳)の頃とされているが、島田青峰主宰の「土上」に「プロレタリア俳句の理解」を投稿して、俳句に専心したのは、昭和五年(二十九歳)、そして、第一句集『街』を刊行したのが、昭和十五年(三十九歳)のことであった。そして、この昭和十五年に、いわゆる「俳句弾圧事件」があり、その二月に「平畑静塔・井上白文地・中村三山・仁智栄坊・波止影夫」らが検挙、続いて、五月に「石橋辰之助・渡辺白泉・三谷昭」、八月に「西東三鬼」が検挙され、翌昭和十六年の二月に「栗林一石路・橋本夢道・島田青峰・東京三(秋元不死男)・藤田初巳」らが検挙されたのである。この「俳句弾圧事件」は別名「新興俳句弾圧事件」ともいわれ、いわゆる、昭和初期に発生した「俳句近代化運動」の弾圧を意味して、これらの一斉検挙により、その運動は終息を迎えるのである(それは鶴彬らの「新興川柳弾圧事件」と軌を一にするものであった)。さて、掲出の三句のうちの一句目の「つまづく冬の石」、二句目の「街路樹枯る」、三句目の「蹠たばしる」と、いずれも回想句としても、当時の高輪警察署の「留置場」(牢)から東京拘置所(獄)へと移行される、その時の情景をまざまざと見る思いがする。そして、こういう一面を十七音字という世界最小の詩型の「俳句」(そして「川柳」)が持っているいるということを、まざまざと見る思いがするのである。


秋元不死男の『瘤』の句(その四)

○ 手を垂れし影がわれ見る壁寒し

この句については秋元不死男自身のメモ書きがある(庄中・前掲書)。

※ 独房内である。 ※ きたばかりのときである。
※ こんなに動かない影はなかった。
※ おのれというものに見られているというより、秋元不死男にみられている。

後年(昭和二十九年)、不死男は「俳句もの説」という、「もの」(即物性)に執着する詩が俳句であり、「こと」(物語り性)に執着する、いわゆる説明的な俳句を排斥する立場を強調することとなる。この「俳句もの説」は、さらに、「俳句は沈黙の文学、説明しない文学」という立場となってくる。この不死男の第二句集『瘤』は「俳句弾圧事件」の回想句ということを内容としており、前書きがある句が多く、「こと」的な鑑賞がしやすい句が多いが、例えば、この掲出句を一句だけ抽出して、上記のメモ書きなどを度外視して鑑賞してみると、不死男の「俳句もの説」の「もの」そのもののみの提示だけで、その「もの」の象徴性ということを中心に据えての句作りということを暗示しているように思われる。即ち、「俳句もの説」の根底には、上記のメモの「おのれというものに見られているというより、秋元不死男にみられている」の表現が示唆しているように、「創作者としの自分」を消し去り、「もの」(素材・モチーフ)のみを提示して、その「もの」をして語らしめるという本質なり、手法が垣間見られるのである。「おのれ(実の秋元不二雄)というものに見られているというより、秋元不死男(虚の創作者・俳人の秋元不死男)にみられている」として、その出来上がった作品(俳句)は、「手を垂れし影がわれ(影を映した人)見る壁寒し」と、全て「もの」のみの提示で、一切の「こと」的な表現を排除して、そこに、この句に接する人に、その「こと」的な鑑賞を全て委ねるというものなのである。この「俳句もの説」的な俳句観・俳句手法というのは、秋元不死男がその第一句集『街』以来、終生、持ち続けたものの一つで、このことを鑑賞視点に据えて、秋元不死男の句は特に見ていく必要があると思われるのである。


秋元不死男の『瘤』の句(その五)

○ 染料の虎色にじむ冬の河

秋元不死男の第二句集『瘤』所収の句であるが、獄中の句ではなく、獄中を出て、戦後の昭和二十三年の作である。この年に山口誓子が主宰する「天狼」の創刊に加わり、それまでの「東京三」を「秋元不死男」に改める。この掲出の句は「天狼」(第二号)に掲出されている六句のうちの一句で、後年の不死男の「俳句もの説」に関連がある句として注目をされている句である(庄中・前掲書)。その「庄中・前掲書」によると、「俳句もの説」とは次の二点に要約されるという。

一 作品のなかに読者を説得するかたちの言葉を持ちこまず、「もの」を提出することによって作者の感情なり思想なりを「不言のうちに感得させる」。

二 そのためには、必然的に「もの」の選択が作品の生命を左右する。換言するならば、提出された「もの」は、万人、あるいは数百人の人達に共通するイメージを含んでいなければならない。

そして、庄中健吉氏は、「掲句には第一項の作者の感情を現す言葉はない。あるものは、褐色の染料が流れている冬の河だけである。次に第二項についていえば、敗戦後の工業が四苦八苦していた時代の冬の夕暮れの気分が十分に味わえる言葉選びがなされていることがわかる」として、「俳句もの説」の一典型の句としているのである。この「俳句もの説」に比して、石田波郷は「俳句は私小説である」として「境涯俳句」を標榜しているのであるが、現代俳句は、この「俳句もの説」と「境涯俳句」との二つの潮流の狭間にあるように思われ、そして、「境涯俳句」よりもより多く「俳句もの説」に重点が置かれているように思われる。いずれにしろ、秋元不死男は、実作の人であったと同時に、その出発点から理論の人であったということと、この「俳句もの説」は極めて実作上においても鑑賞上においても貴重な示唆を含んでいるということを、特に指摘しておきたいのである。

秋元不死男の『瘤』の句(その六)

○ 青き足袋穿いて囚徒に数へらる

この句の前書きに「囚徒番号七七七の木札を襟につける」とある。この句にも作者のその時の感情などをあらわす言葉は用いられていない。ただ、事実だけが提示されている。

○ 外人歌ふ鉄窓に金(きん)の冬斜陽

この句の前書きは「外人あまた拘置さる。たまたま賛美歌うたふ声階下より聞えくれば」とある。当時の拘置所著などには敵性国人として多くの外国人がその自由を奪われていたのであろう。この句もまた事実の提示だけである。そして、「金(きん)の冬斜陽」と推敲を施された特有の言葉が用いられている。

○ 友らいづこ獄窓ひとつづつ寒し

「古家榧夫、藤田初巳、細谷源二、栗林一石路、橋本夢道、横山林二、神代藤平ら同じ獄裡にあり」との前書きがある。この俳句弾圧事件で、東京の警視庁の逮捕組の俳人のそれぞれ起訴された者はこの拘置所のどこかの房に入れられていたのであろう。そして、この獄中の句で、ただ一つ感情をあらわす「寒し」という言葉は何句かに用いられている。極めて、「こと」(物語り性・境涯性の強い)を内容とする獄中という特殊な作句環境においても、極力、その「こと」に関連しての感情的な言葉は排斥して、「もの」(事実)のみを提示して、作者の感情なり思想なりを「不言のうちに感得させる」ということに意を用いていたかということが、これらの句を通しても了知されるのである。それにしても、「寒し」の一語は、橋本夢道の句に「動けば、寒い」という世界最小ともいうべき獄中の句があるが、冬の拘置所というのは想像を絶するような寒さであったのであろう。この「寒し」というのは、ここにおいては「不言」の「寒さ」というのが、より適切なのかも知れない。

秋元不死男の『瘤』の句(その七)

○ 編笠を脱ぐや秋風髪の間に

※ 一回数分の運動がある。※ 扇形の運動場に出て、そこをかけめぐる。
※ どこへ行くにも編笠をかむる。
※ 編笠を脱ぐと髪の毛が総立ちになって、秋風にふれるよろこびでざわつくのを感じた。

 この掲出句の秋元不死男のメモである。不死男の第二句集『瘤』は不死男の「獄中」時代を回想しての句が多く収録されているということを背景にして、この句に接すると不死男自身のこれらのメモで全てを言い尽くしているように思われる。しかし、この掲出句について、それらの背景を抜きにしても、このメモの「編笠を脱ぐと髪の毛が総立ちになって、秋風にふれるよろこびでざわつくのを感じた」という、その不死男の「大自然の秋風に接する喜び」の感慨が直に伝わってくる。そして、それは、例えば、自由律作家の山頭火の、「まつたく雲がない笠を脱ぎ」の、その爽やかな秋風の想いと全く同じものという印象を受けるのである。そして、それらの想いというのは、大自然によって喚起されてくる人間の生の感動ということに換言してもよいであろう。そういう大自然と接する自由すら、獄中時代の不死男らには許されていなかったということは、不死男のこの第二句集の題名の『瘤』の、その「瘤」が心の髄までしこりとなって、決して忘れはしないという、そういう不死男の決意表明とすら思えてくるのである。

秋元不死男の『瘤』の句(その八)

○ 歳月の獄忘れめや冬木の瘤

秋元不死男の第二句集『瘤』の獄中句関係のは、詳細に見ていくと三部に分かれる。その一は「昭和十六年、俳句事件にて二年有余を留置場と拘置所に送る 三十七句」、その二は「予審終結して保護出所の日きたる 三句」、そして、その三は「二年ぶりに向へにきたる妻とわが家へ帰る 二十六句」と、合計にして六十六句となる。(これらの「前書き」のような記載は『現代俳句集(秋元不死男句集)』筑摩書房のものである)。その六十六句目の、獄中関係の最後の句がこの句である。その第二句集の『瘤』の「後書き」には「わたしのうけた傷痕などは、まだ『瘤』程度のものにすぎない。だが、たとへ瘤であったにせよ、その瘤の痛さと、瘤をこしらへた相手の手は、終生忘れることはできない」と記されるているという(『秋元不死男集』朝日文庫)。その「後書き」によると、この句集『瘤』は、戦後より昭和二十四年までの句を収録して、「いわゆる俳句事件に関係ある句と、然らざるものとに二分」して、前者の「牢と獄中句の大部分は、あとで作った回想句であるが」、「若干その場で作ったものもある」として、「これは獄中で求めた紙石版に句を書きつけ、記憶しておいたのであった」との記載が見られる。いずれにしろ、この掲出句は、不死男の第二句集『瘤』の題名に由来のある句として、不死男の代表句の一つにも数えられるものであるが、この「後書き」の不死男の、「たとへ瘤であったにせよ、その瘤の痛さと、瘤をこしらへた相手の手は、終生忘れることはできない」という記載は、戦後、六十年を迎えようとしている今日においても、なおも、忘れてはならない、昭和の「俳諧師」とまでいわれている秋元不死男の遺言とでも解すべきものであろう。


秋元不死男の『瘤』の句(その九)

○ 獄を出て触れし枯木と聖き妻
○ 獄出て着る二重廻(とんび)に街の灯が飛びつく
○ 獄門を出て北風に背を押さる
○ 北風沁む獄出て泪片目より
○ 北風や獄出て道路縦横に
○ 寒灯の街にわが影獄を出づ

 これらの句には「昭和十八年二月十日夜、迎えにきたる妻とわが家に帰る七句」との前書きがある。そして、この出獄関連の句のあと、わが家に着いてからの、この第二句集『瘤』の傑作中の傑作句の次の句が誕生する。

○ 二年(ふたとせ)や獄出て湯豆腐肩ゆする

 この「二年(ふたとせ)や」の「上五や切り」に不死男のこの二年の全ての思いが凝縮している。ここに典型的な俳句の「切れ字」の凄さを見ることができる。ここに不死男の万感の思いが、たったの三字・五音で全て言い尽くされている。それにもまして、「湯豆腐肩ゆする」の、この不死男の把握は、その後の不死男俳句の全てを暗示するような、凝視の果ての、具象的な「もの」が、あたかも、作者の「写心中物」(心ノ中ノ物ヲ写ス)(良寛の漢詩の一節)となって、語りかけてくるのである。これは、古俳諧・古俳句での「見立て」の一種なのであろうが、そういう技法をこの句は超逸して、「湯豆腐」が不死男であり、その不死男が「肩ゆする」のである。この句と次の句が、この第二句集の傑作中の傑作句と指摘する俳人が多い。

○ 独房に釦(ぼたん)おとして秋終る


秋元不死男の『瘤』の句(その十)

○ カチカチと義足の歩幅八・一五
○ 鳥わたるこきこきこきと缶切れば
○ へろへろとワンタンすするクリスマス

 オノマトペ(擬声語・擬態語など)の不死男といわれるように、不死男のオノマトペは絶妙である、「カチカチと」の「カチカチ」の義足のオノマトペ、そして、それが、「八月十五日」の終戦記念日と結びついて、忘れ得ざる句の一つである。二句目の「こきこきこきと缶切れば」の「こきこきこき」は余りにも名を馳せた不死男のオノマトペである。この句については、不死男の自解がある。「その頃、横浜の根岸に棲んでいた。駐留軍が前の海を埋めて飛行場をこしらえた。風景が一変すると私の身の上も一変した。俳句事件で負うた戦前の罪名は無くなり、つき纏うていた黒い影も消えた。たまたま入手した缶詰を切っていると、渡り鳥が窓の向こうの海からやってきた。この句、初めて賞めてくれたのが神戸にいた三鬼だった。以来私を『こきこき亭京三』と呼んだりした。(私が東京三の筆名を捨てたのは、それから間もなくだった。)天下晴れて俳句が作れるようになった私たちは、東西に別れて懸命に俳句を作った。敗戦のまだ生なましい風景の中で、私は解放された明るさを噛みしめながら、渡り鳥を見上げ、こきこきこきと缶を切った。」 この句は不死男の筆頭の句にあげる人が多い。次の「へろへろとワンタン」の「へろへろ」のオノマトペ、やはり、飯田龍太が「昭和の俳諧師」と名づけた秋元不死男の雄姿が見えてくる。

寺山修司の俳句



寺山修司の俳句(その一)

 昭和五十八年(一九三五)に生まれ、昭和五十八年(一九八三)にその四十七年の短い生涯を閉じた寺山修司については、「歌人・劇作家。青森県生まれ。早大中退。歌人として出発、劇団『天井桟敷(さじき)』を設立、前衛演劇活動を展開。歌集『空には本』『血と麦』、劇作『青森県のせむし男』など」(『大辞林』)と、「歌人として出発」というのが一般的な紹介である。しかし、この寺山修司こそ、そのスタートの原点は「俳句」にあり、そして、昭和俳壇の巨匠たちによって、その才能を見出され、多いに嘱望された、いわば、「俳句の申し子」のような存在であった。それらの昭和俳壇の巨匠たちの俳人・修司のデビュー当時の「俳句選評」などを見ていきながら、「寺山修司の俳句の世界」というものをフォローしてみたい(参考文献『寺山修司俳句全集』・あんず堂)。

○ 便所より青空見えて啄木忌
    (「螢雪時代」昭和二十八年十一月号・俳句二席入選・中村草田男選)
(選後評)二席の寺山君。この作者は種々の専門俳誌にも句を投じていて、非常に器用である。感覚にもフレッシュなところがある。ただ器用貧乏という言葉もあるように、器用にまかせて多作して、肝腎の素質を擦りへらしてしまってはいけない。この句には確かに、困窮の庶民生活中にありながら常に希望と解放の時期を求めつづけた啄木に通う気分が備わっている。ただ、それが、観念的にその気分に匹敵する構成素材をさがしあてているような、やや機械的なところがある。

 この昭和二十八年に中村草田男選となった掲出の句は、修司の『誰か故郷を思わざる』(芳賀書店)によると「中学一年の時の作」と明言しているが、掲出の『寺山修司全句集』によると、県立青森高校に入学した十五歳の頃の作品のようである。それにしても、この中学から高校にかけて、これらの句を作句して、そして、昭和俳壇の巨匠・中村草田男の「選後評」を受けているということは、寺山修司が実に早熟な稀に見る才能の持主であったということを実感するのである。そして、上記の草田男の「器用にまかせて多作して、肝腎の素質を擦りへらしてしまってはいけない」という指摘は、その後の修司の多彩な活動の展開とその多彩な活動によりその持てるものを全てを燃焼し尽くしてしまったと思われるその短い生涯を暗示しているようで、印象深いものがある。


寺山修司の俳句(その二)

○ 母と別れしあとも祭の笛通る
○ べつの蝉鳴きつぎの母の嘘小さし
  (「氷海」昭和二十七年九月号・秋元不死男選)

 掲出の二句は括弧書きのとおり秋元不死男主宰の俳誌 「氷海」での巻頭を飾ったうちの
二句である。不死男氏といえば、戦前は新興俳句の旗手として、そして、戦後においては、「俳句もの説」を提示して、山口誓子主宰の「天狼」とあわせ、その東京句会を母胎とした「氷海」を主宰し、鷹羽狩行・上田五千石らの幾多の俊秀を輩出していった。それらの潮流は現に今なお脈々として流れていて、その影響力というのは実に大きい。そして、寺山修司は、次の秋元不死男氏の「選後雑感」のとおり、高校二年生のときに、その俳誌 「氷海」の巻頭を飾ったというのであるから、そのまま、俳句オンリーの道を精進していたならば、狩行・五千石氏らの俳句の世界以上のものを現出したかも知れないということは、決して過言ではなかろう。寺山修司は、それだけの早熟で、そして、稀に見る逸材であったということは、この掲出の二句からだけでも、容易に肯定できるところのものであろう。

「秋元不死男の(選後雑感)」 巻頭に寺山修司君を推した。同君は前号でも触れたが、青森高校の二年生。もちろん俳句を始めて、そう長くはないにちがいない。しかしつくる俳句は洵にうまく、成熟した感のあるには常々驚いている。少し成人の感なきにしもあらずだが、やはりうまい俳句はうまいので何とも いたし難い。八句の中では先の句が青年らしい純情と哀愁があって好もしい。齢を重ねた人の子心でないことは一読瞭らかである。前句には、青年の恋情がある。恋情というのは、異性に心ひかれることだが、それは青年らしい純心なそれである。母を恋うという言葉のなかにある、女性への佗しい感傷的な感情である。それは少年になく、二十歳を越えた人にない。母親のなかに恋人を感じる、その気持がこの句に出ている。後の句は、母のいう嘘を嘘と解するようになった、これも青年の一面に成熟してくる批判的な眼でつくられている。そこが面白い。しかし、それていてこの句には母親の相(すがた)がよく出ている。まだ子供だと思って、本気で嘘を云う、それが子供に「小さし」と思われることを知らない。そういう可憐で善良な母親が出ている。「べつの蝉鳴きつぎ」は作者の感情を象徴しながら、それが具象のなかで生かされている。旨いと云わざるを得ない。(「氷海」昭和二十七年九月号)

 この秋元不死男氏の「つくる俳句は洵にうまく、成熟した感のあるには常々驚いている。少し成人の感なきにしもあらずだが、やはりうまい俳句はうまいので何ともいたし難い」
というのは、寺山修司の俳句の全てに言えることで、また、それが故に、修司は、その「うまさ」の領域から脱出することができず、自ら俳句の世界から身を引く結果をもたらしたようにも思えるのである。

寺山修司の俳句(その三)

○ もしジャズが止めば凧ばかりの夜
        (「氷海」昭和二十七年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)寺山君のジャズの句は、これはいかにも青年らしい感傷を詠った句であるが、ジャズよりも凧に心情を走らせている作者の姿が、巧みに表現されている。眼前に聞えているのは凧でなくジャズであるにも拘らず、句のなかからは凧の音が高く、はっきりと聞えてくる。そういう巧みさをもっている。

○ ちゝはゝの墓寄りそひぬ合歓のなか
      (「青森よみうり文芸」昭和二十七年一月度入賞俳句・秀逸・秋元不死男選)
(評)合歓の葉は日暮れると合掌して眠る。その中に父母の墓が寄りそって建っている。父母への追想の情がしっとりと詠われた。

○ 船去って鱈場の雨の粗く降る
       (「青森よみうり文芸」昭和二十七年二月度入賞俳句・秀逸・秋元不死男選)
(評)船が去った。作者の意識は折り返したように屈折して「雨の粗く降る」と詠った。この感覚の屈折がいい。

掲出の三句についての選句雑感(評)は、昭和二十七年の「氷海」・「青森よみうり文芸」の秋元不死男氏のものである。このとき寺山修司は高校二年で、俳人・寺山修司の誕生には、「氷海」主宰の秋元不死男氏を抜きにしては語れないであろう。そして、掲出の句に見られる青春時代の屈折した感情や父母への追想の情念というのは、俳人・秋元不死男氏のスタート時点にも色濃く宿していた。言葉を換えてするならば、不死男はこれらの修司の句を見て、さながら、自分自身の在りし日々のことを重ね合わせていたようにもとれるのである。すなわち、不死男氏の昭和十二年作のものに、「父病むこと久しくして死せり。一家いよいよ貧しければ、時折夜店行商に赴く。わが十四歳の時なり」の前書きのある次の句などが掲出の修司の句と重ね合わせってくるのである。

○ 寒(さむ)や母地のアセチレン風に欷(な)き  秋元不死男
○ 水洟の同じ背丈の母と歩めり        同上

寺山修司の俳句(その四)

○ 紅蟹がかくれ岩間に足あまる
(「七曜」昭和二十七年五月号・橋本多佳予選)
(鑑賞)岩の間にかくれた紅蟹が足をかくし余している。少年はおろかな蟹に手を近づけてゆく。「足あまる」はユーモラスであるし、あわれである。この作者は若い。この他の一一句も夫れ夫れに 面白い。 初めて見る作者であるがこれだけで力をぬかず精進してほしい。

○ 初蝶の翅ゆるめしがとゞまらず
       (「七曜」昭和二十七年八月号・橋本多佳子選)
(鑑賞)初蝶の翅はちらちらといつもせわしい。その翅がふとゆるやかになったように感じた。おや止るのかと見ていると、そうでもなく蝶はそのまゝ国飛びつゞけていった。初蝶に向った作者の愛情の眼が、心の喜びとはずみを伝へている。「翅ゆるめしがとゞまらず」は作者の心の響でもある。

 これらの二句は、橋本多佳子主宰の俳誌 「七曜」における多佳子選とその選評のものである。俳誌 「七曜」は昭和二十三年に、山口誓子主宰の俳誌 「天狼」の姉妹誌として創刊された。その「七曜」の指針は、「見る、よく視る、深く観る」、「自由な発想、純粋な思考、たくましい表現」とか(「俳句」・昭和五二臨時増刊)。寺山修司は高校二年のときに、秋元不死男の「氷海」のみならず、橋本多佳子氏の「七曜」にも投句していて、そして、「天狼」系の女流俳人として名高い多佳子主宰に、「初めて見る作者であるがこれだけで力をぬかず精進してほしい」とその才能を見抜かれているのである。秋元不死男選のものが、秋元不死男流に「俳句はうまくなくてはならない」という選の作品のものに比して、この橋本多佳子選のものは、多佳子流の「見る、よく視る、深く観る」という観点からの作品傾向が察知されるのである。そして、もし、寺山修司がこの面での精進を怠らなかったならば、二十代にして俳句の世界から身を退くということもなかったのではなかろうかという思いがするのである。

寺山修司の俳句(その五)

○ 風の菊神父は帽を脱ぎ通る
        (「七曜」昭和二十八年一月号・橋本多佳子選)
(鑑償)風の中の神父と菊の花群である。神父の帽子は、黒く柔らかくそしてやゝつば広いものと思う。風に飛ぶことを倶れて神父は頭に手をやり帽子をつかみとり、やゝ前かがみに菊の群れ咲く前を過ぎた。これだけの一つの風景に過ぎないのだが、風というものに対する神父の心と動作が実によく 描かれた。 高校二年という作者に私は期待する。尚このグループと思われる高校生の投句はみな上手である。 青森の遠い地で如何に勉強しているのであろうか、是非つづけてほしいと祈っている。

○ 山鳩啼く祈りわれより母ながき
         (「七曜」昭和二十八年三月号・七曜集より・橋本多佳子評)

(観賞)  額づいて祈る母と子がいる。母と並んで祈っていた頭をあげると母はなお祈りつゞけて額づいて いるのであった。山鳩のこえはこの二人を包む様にほうほうと啼いている。作者は何か心をうたれてなおも母のうなじに眼を落している。若い美しい句である。

 ここで、寺山修司の、昭和二十六年から二十八年の年譜を見てみると次のとおりである。

昭和二十六年(十五歳)   青森県立青森高校に入学。学校新聞、文学部に参加。「青校新聞」に詩「黒猫」、「東奥日報」に短歌「母逝く」などを発表。「暖鳥」句会に出席する。

昭和二十七年(十六歳)  青森県高校文学部会議を組織。詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。全国の十代の俳句誌「牧羊神」を創刊、編集。これを通じ中村草田男、西東三鬼、山口誓子らの知遇を得る。自薦句集「べにがに」制作。「東奥日報」「よみうり文芸」「学燈」「蛍雪時代」「氷海」「七曜」等に投稿。

昭和二十八年(十七歳)全国学生俳句会議を組織し、俳句大会を主催。中村草田男『銀河依然』、ラディゲ『火の頬』を愛読。自薦句集「浪漫飛行」制作。大映母物映画を好んで見る。

 掲出の一句目の橋本多佳子氏の「観賞」の「尚このグループと思われる高校生の投句はみな上手である。 青森の遠い地で如何に勉強しているのであろうか、是非つづけてほしいと祈っている」の、「このグループ」というのは、「青森県高校文学部会議」のメンバー(京武久美・近藤昭一・塩谷律子など)を指しているのであろう。即ち、寺山修司だけではなく、その修司をして俳句に熱中させた好敵手ともいえる京武久美らとの切磋琢磨が、「青森という遠い地」で開花して、それが、「全国学生俳句会議」へと発展していくのである。掲出二句目の多佳子の「観賞」の「若い美しい句である」というのは、寺山修司俳句のみならず、修司を取り巻く「青森高校文学部会議」、そして、「全国学生俳句会議」のメンバーの俳句にも均しく言えることであろう。

寺山修司の俳句(その六)

○ 古書売りし日は海へ行く軒燕                     
(「氷海」昭和二十八年五月号・秋元不死男選)
(選後雑感) この感傷は大人の感傷ではない。やはり高等学校の生徒である。修司君の感傷だ。青春の感傷であって、いかにも杼情的な作品である。だから軽いというわけではないので、こういう 句はそれをその本来の味いて感じとればよい。批評の重点を「重さ」とか「強さ」におけば、おのずから鑑賞や、味い方から外れて、他のことをいうことになる。わたしはこの句に、学生の哀愁を見つけ、学生の生活感情の一面にふれて、作者の共感に通うものを見つけて満足するのである。

○ 耕すや遠くのラジオは尋ねびと
(「青森よみうり文芸」昭和二十八年・中島斌雄選)
(評)耕す耳に風にのってきこえるラジオ。それはまだ戦の記憶をかきたてる「尋ねびと」である。十七音の中に色々の思いがこもっている。

○ 麦の芽に日当るに類ふ父が欲し
    (「青森よみうり文芸」昭和二十八年九月度入賞俳句・秀逸・中村草田男選)
(評)たとえ作者に父親があったとしてもこの抒情は通用する。「完全なる父性」の希求の声である。しかもごく特殊な心理的な句のようであって、視覚的な実感が、具体性を十分に一句に付与している。無言で何気なく質実であたたかい ・・・麦の芽に日当る景はまさに「父性の具現」である。

○ 口開けて虹見る煙突工の友よ
(「青森よみうり文芸」昭和二十八年・加藤楸邨選)
(評)よい素質。実感をどこまでも大切にすることをのぞむ。

寺山修司の高校三年のときの、今なお、日本俳壇史上にその名を留めている、秋元不死男・中島斌雄・中村草田男・加藤楸邨氏の各選とその評である。秋元不死男氏の「氷海」のモットーは「誰も作ったことのない俳句、古いものにあったかっての新しさを再発見して再生して新しい俳句を作る」とか。その視点からの「学生の哀愁を見つけ、学生の生活感情の一面にふれて、作者の共感に通うものを見つけて満足するのである」とは、いかにも不死男氏らしい評である。中島斌雄評の「十七音の中に色々の思いがこもっている」も、「常に自己の生活のただ中に生まれる真実の感動でなければならない」とする斌雄氏の俳句観からの評という思いがする。中村草田男氏の評の「父性の具現」との評も、「満緑」のモットーの「『芸』としての要素と『文学』としての要素から成り立つ俳句」の、そのニュアンスからのものという思いを深くする。そして、「寒雷」(「俳句の中に人間を活かす」が楸邨主宰のモットーとか)の加藤楸邨氏の「よい素質。実感をどこまでも大切にすることをのぞむ」との評は、そのものずばりで、いかにも、楸邨氏らしい評である。しかし、二十代前の高校在学中に、これらの名だたる俳人から、選句され、そして、その評を受けているということは、つくづく「寺山修司恐るべし」という感を深くする。



寺山修司の俳句(その七)

○ 菊売車いづこへ押すも母貧し
○ 煙突の見ゆる日向に足袋乾けり
(「学燈」昭和二十八年十一月号・石田波郷選)

(選者の言葉)「菊売車」の句、原句では「花売車」であった。作者のいいたいことは「花売車」で出ているし、季節などに関わりのないことである。然し「菊売車」にすると「花売車」でいえたことはそのまま出ている上に、爽かな季節感が一句を観念情感の世界にとどめないで、眼前に母の働く町をあきらかに展開する。そういう俳句としての重要なはたらきを示すのである。そういうことがわからなかったり、必要と感じないというのでは俳句のようなものはその人には無用なのである。「煙突の」の句は、この「日向」に生活的な実感があるが、新しみはない。こういう構図で見せるような句は、実感だけでなく、構図そのものに新味が必要だ。「煙突の見える場所」という小説や映画の題名が作用しているとしたら・・・などという憶測はしないでおく。作者を信用することは大切だからである。

○ ラグビーの頬傷ほてる海見ては
  (「学燈」昭和三十年一月号・石田波郷選)

(選者の言葉)寺山修司君は、この欄のベテラン。捉えるべきものを捉え、表現もたしかだ。うまみが露出するところが句をいくらかあまくしているようだ。

昭和二十八年と同三十年の「学燈」における、石田波郷選とその評である。この石田波郷評は鋭い。「『原句では『花売車』であった。作者のいいたいことは『花売車』で出ているし、季節などに関わりのないことである。然し『菊売車』にすると『花売車』でいえたことはそのまま出ている上に、爽かな季節感が一句を観念情感の世界にとどめないで、眼前に母の働く町をあきらかに展開する。そういう俳句としての重要なはたらきを示すのである。そういうことがわからなかったり、必要と感じないというのでは俳句のようなものはその人には無用なのである』。「捉えるべきものを捉え、表現もたしかだ。うまみが露出するところが句をいくらかあまくしているようだ」。石田波郷氏は、中村草田男・加藤楸邨両氏と共に「人間探求派」の一人と目され、昭和俳壇の頂点を極めて俳人であった。そして、波郷氏も、寺山修司と同じように、早熟な稀にみる才能の持主であった。「秋の暮業火となりて秬(きび)は燃ゆ」以下の句で、弱冠十九歳の若さで、水原秋桜子主宰の「馬酔木」の巻頭を飾ったのであった。波郷氏が主宰した「鶴」の信条は「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」(昭和二一・三月「鶴」復刊)であるが、波郷氏は、修司俳句が「生活実感・季語・切字」の「生活実感・季語」の曖昧さを鋭く指摘して、秋元不死男流の「うまい俳句」や俗受けするような「安易な言葉の選択(“煙突の見える場所”という小説や映画の題名が作用している」というようなニュアンス)」では、限界があるということを見抜いていたのであろう。

寺山修司の俳句(その八)

○ 丈を越す穂麦の中の母へ行かむ
○ 氷柱風色噂が母に似て来しより
  (「暖鳥」昭和二十八年十二月号・’一十八年度暖鳥集総評・成田千空評)

柔軟な若々しい感性が強み。しかし、ときおり露わにする先達のすさまじい模倣が気になる。唯、この人の場合その模倣の仕方に独特の敏感さと手離しのイメージがあって捨て難い。捨てがたいがやはり気になる。これが創作や詩の場合だと、思いきり広い世界にイメージを展開出来るが、俳句という短詩型ではどうしても細工の跡が目立つのである。しかしこの人の稟質を思うと、俳句に新しいイマジネーションの世界を拓く萌芽にならぬとも限らぬので、当否はしばらく保留したい気持である。作者のいちばん素直な感情の表白は母の句であろう。

○ 夜濯ぎの母へ山吹流れつけよ
   (「七曜」昭和二十九年一月号・一旬鑑賞・渡辺ゆき子評)
  七曜集の数多い秀句の中から敢えて若く美しいこの一句をぬきました。作者は夜濯ぎに出た母恋しく、闇にも紛れず咲く山吹の辺に佇ちました。その一花を摘もうとすればほろほろと流れに散り浮ぶ花びら。作者の投じた山吹も共に夜の清流に乗りました。作者の願望と愛情を托された山吹は、作者と母との距離を沈むこともなく流れてゆくことでしょう。素直な表現はかえって私の心を静かにしかも強く縛ちました。 私はこの作者程母の句を沢山作られる方を他に知りません。母の句は易しい様でむずかしいと申します。しかしこの方はすべて若く新鮮な感覚で母を詠んで居られます。
  
山鳩啼く祈りわれより母ながき
   麦広らいづこに母の憩ひしあと

この汚れぬ詩情を尊びたいと思います。

昭和二十八年の「暖鳥」の成田千空選句評と昭和二十九年の「七曜」の渡辺ゆき子選句評である。このお二人が共通して指摘している、「寺山修司の母をモチーフとした佳句」は、寺山修司俳句の一つの特徴でもある。

  蜩(ひぐらし)の道のなかばに母と逢ふ  (昭和二六)
  母恋し田舎の薔薇と飛行機音      (昭和二七)
  短日の影のラクガキ母欲しや      (昭和二八)
  母来るべし鉄路に菫咲くまでは     (昭和二九)

 これらの寺山修司の十代のときに書かれた母恋い句は、後に、二十年代の最後のとき(昭和四十年)の第三歌集『田園に死す』において、次のとおりの短歌作品として結実してくる。

  大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ(昭和四十年『田園に死す』)
  地平線揺るる視野なり子守唄うたへる母の背にありし日以後(同上)
  売られたる夜の冬田へ一人来て埋めゆく母の真赤な櫛を(同上)

この『田園を死す』の「跋」で、寺山修司は次のような一文を記す。
「これは、私の『記録』である。自分の原体験を、立ちどまって反芻してみることで、私が一体どこから来て、どこへ行こうとしているのかを考えてみることは意味のないことではなかったと思う。もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかも知れない。」
 この「憎むほど故郷を愛していたのかも知れない」の、この「故郷」の原型こそ、寺山修司の十代の母恋い句の、その母の意味するものなのであろう。

寺山修司の俳句(その九)

○ 自動車の輪の下郷土や溝清水
  (「螢雪時代」昭和二十八年九月号・俳句一席入選・中村草田男選)
(選後評)一席の寺山修司君。全部の作品、粒がそろっていたが、この作品には私がかなり筆を入れた。原作は「車輪の下はすぐに郷里や…」であったが、それでは汽車の場合と区別がつかないし、仮りに作者が汽車中にあるものとすると、「溝清水」との連関がピッタリしなくなる。意を汲んで・・・斯く改めたのである。我身をのせてる自動車は既に故郷の地域に入っている。パウンドが快くひびいてくるにつけて・・・車輪の下は故郷の土なのだ.その土ももう間もなく自分は久振りで直接に踏むことができるのだ。・・・という喜びの気持が湧いてきた。窓から外を見ると、すぐ傍を、幅広い溝をみたして清水が走っている、これ亦、勿論「故郷在り」の感を強めたのである。巧みな句である。

○ 大揚羽教師ひとりのときは優し
   (「螢雪時代」昭和二十九年一月号・俳句二席入選・中村草田男選)
(選後評)一席の寺山君。やさしいけれども、大きく物々しい揚羽蝶を点出して、逆に生徒にとって何といっても一種物々しい存在である教師がやさしく感じられたケィスをひきたてている。技巧が程よく実感と終結している。

○ タンポポ踏む啄木祭のビラはるべく
      (「埼玉よみうり文芸」昭和二十九年・三谷昭選)
(評) 啄木にちなんだ催しのビラを、野中の電柱にはっている情景。足もとのタンポポのひなびた姿と、啄木に寄せる青年の思慕の思いとが適切に結ばれている。

 寺山修司の昭和二十九年のネット記事で見てみると次のとおりである。

昭和二十九年(十八歳)
「早稲田大学教育学部国語国文科に入学。埼玉県川口市の叔父、坂本豊治宅に下宿。シュペングラーの『西欧の没落』に心酔する。夏休みに奈良へ旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる。北園克衛の「VOU」および短歌同人誌「荒野」に参加。「チエホフ祭」で第二回短歌研究新人賞。しかし俳句からの模倣問題が取り上げられ、歌壇は非難で騒然となる。母はつは立川基地に住込みメイドの職を得る。修司、混合性腎臓炎のため立川市の河野病院に入院。」 

http://blog.goo.ne.jp/monkee666/e/4ec212bf08e02ba2c5d563a1cde05b35

 寺山修司は、この年に高校を卒業して、大学進学のため、埼玉県川口市に移り住んだのであろう。その前年の九月と、高校卒業前の一月の中村草田男の選句評が、上記の「蛍雪時代」の「戦後評」である。そして、「埼玉よみうり文芸」の三谷昭選のものは、川口市に移り住んだ当時のものであろう。三谷昭氏もまた、山口誓子主宰の「天狼」系の、西東三鬼氏に連なる俳人である。このように見てくると、寺山修司は、山口誓子・橋本多佳子・秋元不死男・西東三鬼・平畑静塔・三谷昭各氏と、現代俳句の一大潮流をなしていた「天狼」の多くのの有力俳人の知己を、既に、二十代にして得ていたということになる。このことは、上記の年譜の、「夏休みに奈良へ旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる」という記事からも明らかなところであろう。これらの俳人と共に、当時の現代俳句の指導者たる地位を占めていた、中村草田男氏が、寺山修司俳句を温かく見守っていたということなのであろう。

寺山修司の俳句(その十)

○ もしジャズが止めば凧ばかりの夜
        (「氷海」昭和二十七年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)寺山君のジャズの句は、これはいかにも青年らしい感傷を詠った句であるが、ジャズ よりも凧に心情を走らせている作者の姿が、巧みに表現されている。眼前に聞えているのは凧でな くジャズであるにも拘らず、句のなかからは凧の音が高く、はっきりと聞えてくる。そういう巧み さをもっている

○ 教師とみる階段の窓雁かへる
         (「氷海」昭和二十八年十一月号・秋元不死男選)
(選後雑感)作者は学生である。学生と教師の間をつなぐものは、要するに「学」の需給である。味気ないといえば味気ない関係である。冷たい関係といえば冷たい関係である。 しかし、この句では教師と学生の関係は「学」の代りに「詩」でむすばれている。教師と帰る雁をともにみたということは、友達や恋人とみたことではない。教師とみたという心持のなかには、やはり一種の緊張感がある。その上、雁をともにみたという二人の人間の上には、既に師弟の関係は成立していない。学の需給関係はないのだ。それがわたしには面白いのである。

○ 桃太る夜は怒りを詩にこめて
       (「氷海」昭和二十九年七月号・秋元不死男選)
(選後雑感)「桃太る」は「桃実る」である。夜になると、何ということなしに怒るじぷんを感じる。白昼は忙しく、目まぐるしいので、怒ることも忘れている、と解釈する必要はなかろう。何ということなく夜になると怒りを感じるのである。そういうとき桃をふと考える。すでに桃はあらゆる樹に熟している。それは「実る」というより、ふてぶてしく「太る」という感じであると、作者 は思ったのである。それは心中怒りを感じているからだ。何に対する怒りであるか、それは鑑賞者がじぶん勝手に鑑賞するしかない。

 寺山修司の、昭和二十七から昭和二十九年の、秋元不死男主宰の「氷海」での不死男選となった一句選である。修司は当時の俳壇の本流とも化していた、人間探求派の、中村草田男・加藤楸邨・石田波郷の三人の選は勿論、「ホトトギス」の高浜虚子主宰をして、「辺境に鉾を進める征虜大将軍」(『凍港』序)と言わしめた、近代俳句を現代俳句へと大きく舵をとっていった山口誓子とその主宰する「天狼」の主要俳人の選とその嘱望を得ていたのであった。そして、なかでも、後年、「俳句もの説」(「俳句」昭和四〇・三)で、日本俳壇に大きな影響を与えた、「氷海」の秋元不死男主宰の寺山修司への惚れ込みようはずば抜けていたということであろう。そして、この「氷海」からは、鷹羽狩行・上田五千石が育っていって、もし、俳人・寺山修司がその一角に位置していたならば、現在の日本俳壇も大きく様変わりをしていたことであろう。さて、この掲出句の三句目が、その「氷海」で公表された四ヶ月後の、その十一月に、修司は「第二回短歌研究新人賞特薦」の「チェホフ祭」を受賞して、俳句と訣別して、歌人・寺山修司の道を歩むこととなる。そして、この受賞作は、修司俳句の「本句取り」の短歌で、そのことと、秋元不死男氏始め上述の俳人らの俳句の剽窃などのことで肯定・否定のうちに物議騒然となった話題作でもあった。そして、寺山修司が自家薬籠中にもしていた、これらの「本句取り」の技法というのは、俳句の源流をなす古俳諧の主要な技法でもあったのだ。そのこと一事をとっても、寺山修司という、劇作・歌作などまれに見るマルチニストは、俳句からスタートとして、本質的には、俳句の申し子的な存在であったような思いがする。惜しむらくは、神は、寺山修司をして、その彼の本来の道を全うさせず、その生を奪ったということであろう。

○ 鳥わたるこきこきこきと罐切れば (秋元不死男)
○ わが下宿北へゆく雁今日見ゆるコキコキコキと罐詰切れば (寺山修司)

日曜日, 6月 25, 2006

上田五千石の『田園』

上田五千石の『田園』(その一)

○ はじまりし三十路の迷路木の実降る
○ 新しき道のさびしき麦の秋
○ 漢籍を曝して父の在るごとし
○ 秋の雲立志伝みな家を捨つ
○ 渡り鳥みるみるわれの小さくなり

上田五千石の処女句集『田園』の「序」において、その師の秋元不死男は掲出の五句について次のように記している。「三十歳を迎えて迷路いよいよ始まると思う心懐のなかに、木の実が幽かな音を立てて降っているという第一句、新しい道のできた明るいよろこびの裏には、さびしさがひそむとみる第二句、外光に曝す漢籍は厳しくも慈しみぶかい父のようだと感じた第四句、大空へ消えてゆく遙かなる渡り鳥の群をみると、佇立さながらの人間の小ささが嘆かれるという第五句、いえば著者の謙虚な人間像が思惟の深みのなかで再現されているのである」。この五千石の処女句集『田園』は昭和四十三年(一九六八)、著者三十五歳のときに刊行された。秋本不死男はさらに「句集『田園』は著者が二十歳から俳句をはじめ、以来休むことなく作りつづけて今日に至るまでの、およそ十五年間の句業を収めた第一句集。書名『田園』は陶淵明の『帰去来辞』にある次の一句、 田園将蕪胡不帰  田園将に蕪(あ)れんとするに胡(な)んぞ帰らざる  からとったという。淵明のことは措くとして、察するに著者のばあい、『田園』とは”心のふるさと”を象徴しているもののようである」と記し、続けて、「さびしさに引きだされ、やがて静かさに深まってゆく句づくりが、もし俳句固有の詩法だと仮定すれば、五千石俳句はその詩法を身につけている」とも記している。この「さびしさに引きだされ、やがて静かさに深まってゆく句づくり」とは、隠岐に流刑された後鳥羽上皇への芭蕉の思い、即ち、「実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」(許六離別の詞)とも、「俳諧といふに三あるべし。華月の風流は風雅の躰也。をかしきは俳諧の名にして、淋しきは風雅の実(実)なり」(続五論)の「淋しきは風雅の実なり」とも、そして、それが、ここで秋本不死男のいう「俳句固有の詩法」のように思われるのである。そのように理解してくると、五千石俳句が目指していたものが、これらの掲出の五句から明瞭に浮かびあがってくる。それは、「迷路」であり、「さびしき」であり、「曝して」であり、「捨つ」であり、そして、「渡り鳥みるみるわれの小さくなり」の「みるみる」という、「実(まこと)」に接しての「心の驚き」と、そして、それが「悲しびをそふる」ものとして一句を成してくるということなのであろう。これらの五句に、その後の五千石俳句の全貌が凝縮されているように思われる。

上田五千石の『田園』(その二)

○ 渡り鳥みるみるわれの小さくなり
 
上田五千石の処女句集『田園』は、「冬薔薇・虎落笛・青胡桃・柚子湯・蝋の花・渡り鳥」の五章からなる。さらに、この章名のもとに、それぞれの句(一句、二句単位、五句単位が一つ)に題名(季題を中心としてのキィワード的題名)が付せられている。この掲出の句は、その五章にあたる「渡り鳥」の中のもので、この一句に「渡り鳥」の題名が付せられている。上田五千石は、この句集の「後記」で「二十歳にして秋元不死男先生の門に入り、既に十有五年を数える。本句集は、その間の所産より二百十余を抽いた。ほぼ、制作順に編んだが、初期詩篇として一括する意味で年次を付することをしなかった。私の句業はこの集以後に始まると、ひそかに決意しているからである」と記している。とすると、この掲出句は、この句集の一番最後の章に収載されており、年次的に後期の頃の作品に該当して、しかも、その章名に由来がある句とも思われ、五千石自身、この掲出句の句については、この処女句集『田園』の中の代表句とひそかに自負していたともとれるのである。この句については、五千石自身の次のような自解がある。
「『渡り鳥』が『みるみる』うちに『小さくな』って秋空のかなたへ遠ざかって行ったのが事実であります。しかし、それをみつめて立っている自分が『みるみる小さくな』っていくように感じられたのは真実であります。そのとき、『渡り鳥』につき放たれたような一種のめまいのようなショックをうけたのを覚えています。逆説的な表現をとったので、人には理解されなかったと思っていましたが、いまでは私の代表作の一つとして数えられています。」
これはネットで紹介されていた「自作を語る」の中の自解の一節なのであるが、ここで注目したいことは、五千石は、「事実」と「真実」とを厳密に使い分けしているということなのである。
即ち、五千石は「渡り鳥が秋空のかなたへだんだんと遠ざかって行く」(事実)のを見て、「それをみつめている自分が『みるみる小さくな』っていくように感じられた」(真実)、その「事実」と「真実」とを巧みに「二物衝撃」(師の秋元不死男が最も意を用いたもの)させ、「われの小さくなり」と「逆接的な表現」で、この一句を構成しているのである。ということは、上田五千石の俳句信条とされている「眼前直覚」(五千石の主宰誌「畦」創刊時の主張)というのは、単なる眼前の「事実」(もの)と「真実」(まこと)とを描写することではなく、創る主体としての「われ」ということが「事実」や「真実」以上に重視されていると思われるのである。いずれにしろ、この掲出の句は、上田五千石俳句の代表作の一つで、この掲出句に見られる、知的操作の技巧的な句作りということは、上田五千石俳句を知る上でのキィワードであるとともに、何時も、心しておく必要があると思われるのである。
(追伸)上記の上田五千石の「自作を語る」が紹介されていたネットのアドレスは次のとおり。このネットの上田五千石鑑賞は、斉藤茂吉との関連が主であって、五千石俳句の一面しか語っていないということは付記しておく必要があろう。

http://www.ne.jp/asahi/mizugamehp/mizugame/mg/kotoba/kotoba-c.htm

上田五千石の『田園』(その三)

○ 万緑の中や吾子の歯生え初むる   中村草田男
○ 万緑やわが掌に釘の痕もなし    山口誓子
○ 万緑や死は一弾を以て足る     五千石

 掲出の一句目の草田男の句は、「万緑」の語を新季語として現代俳句の中に導き入れ、定着させたものとして夙に名高い。そして山口誓子の二句目は、「万緑と掌の釘痕という映像の対比の斬新さにおいて、季語『万緑』になまなましい生命力の表象としての印象を与えることに成功している」との評がある(大岡信)。そして、三句目の五千石の句も「万緑」と「死と一弾を以て足る」の対比の斬新さにおいて、誓子のそれを遙かに凌駕して、五千石の初期の句業の傑作句として名高い。この句には「万緑」ではなく「一弾」との題名が付せられている。この題名からして、五千石俳句の特徴の一つである「男の美学」(ダンディズム)を感じさせる一句である。この句に接すると中世のダンディスト歌人の西行の「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ」が想起されてくる。五千石の師の秋元不死男は五千石をして「上田五千石は不羈で、きっぱり決断する男だ」と、その『田園』の「序」で指摘している。それを是とするが故に、次の坪内稔典の非ダンディズム的な鑑賞は是としない。
「新緑は強いエネルギーを発散している。だから、そのエネルギーにたじたじになる場合がある。ふと死たくなったりするのだ。新緑の頃のそのような気分をしばらく前までは五月病と呼んだが、今はこの言葉、あまり使われなくなった。五月病的なものがなくなったのではなく、もしかしたら、広く拡散、蔓延したため、とりたてて五月病という必要がなくなったのだろうか。ともあれ、今日の句は新緑の頃の気分をとらえた傑作だ。 五千石の句は句集『田園』(1968年)にある。作者35歳の句集だが、実に秀作が多い。宗田安正は出たばかりの文庫版句集『上田五千石句集』(芸林書房)の解説において、鷹羽狩行の『誕生』、寺山修司句集とともに『田園』は<近代俳句史に於ける三大青春句集>だと評している。ややオーバーな評言だが、たしかに優れた青春句集であることだけは間違いがない。(坪内稔典) 」

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub02_0503.html

上田五千石の『田園』(その四)

○ みちのくの性根を据ゑし寒さかな  五千石
○ もがり笛風の又三郎やあーい    五千石
○ すいすいと電線よろこび野へ蝌蚪へ   不死男
○ 二百十日過ぎぬ五千石やあーい     鉄之助
○ 野分立つ又三郎やあーい五千石やあーい  晴生


掲出の一句目と二句目は、五千石の『田園』の第二章にあたる「虎落笛」の中の「もがり笛」との題名のある二句である。これまた、章名の由来となっている句で、特に、この二句目の句は、五千石の「オノマトペ」(擬態語・擬声語等)の句として名高い。「やあーい」というのは「呼びかけ語」で擬態語・擬声語ではないが、五千石自身は、この章名・題名の「虎落笛」の「オノマトペ」のような意味合いも込めて使用しているのであろう。五千石の師の秋元不死男は「オノマトペの不死男」と呼ばれたほどの、オノマトペを縦横無尽に駆使した俳人であった。この掲出の三句目の不死男の句の「すいすい」(原文では二倍送り記号で表示されている)が、不死男の「虎落笛」のオノマトペで、虎落笛とは、寒風の吹くとき、電線や竿に当って鳴る音(丁度冬天のだっだ子がもがるような音)である。この二句目の五千石の句は、一見無造作な、宮沢賢治の「風の又三郎」を軽く十七音字の中に組み込んだだけの句のように思われるかも知れないが、実は、「虎落笛」という冬の代表的な季語の本意を実に的確にとらえていて、「もがる」(「我をはる」・「だだをこねる」の方言的用語)という本意の一つからの、陸奥(みちのく)の厳しい寒風(一句目)と、それを象徴するような「風の又三郎」への連想からの、ある意味では、思慮に思慮を重ねた、巧みに効果を計算しての技術的な句作りでもある。これらの五千石の句作りに対して、その師の不死男は、その『田園』の「序」で、「いわゆる芸の面からいえば、言葉の選良も鋭いし、技巧もあり、腰のはいり方も確かで文句はないが、才あるゆえの演出がうるさく感じられる作が少々ある」との、鋭い指摘をしている。この不死男の指摘は、それを是としても、その「才あるゆえの演出のうるさ」さが、また、何とも小気味良いという面も、五千石俳句の面白さのように思われる。この平成俳壇を担う逸材の一人といわれていた上田五千石は、平成九年九月二日に、享年六十三歳という「これから」というときに、突然他界してしまった。掲出の四句目は、松崎鉄之助の追悼句で、その五句目は、その突然の逝去の新聞報道を接したときの拙作である。この句を作句した状況のことを今でも鮮明に思いだすことができる。そして、五千石のこの「もがり笛風の又三郎やあーい」の句は、突然、口をついで出てくるような、それだけのインバクトを有しているということを、しみじみと実感しているのである。 





上田五千石の『田園』(その五)

○ 返すことなくはるかへと稲穂波   (狩行)
○ わが而立握り拳を鷲も持つ     (狩行)
○ 秋の蛇去れり一行詩のごとく    (五千石)

 掲出の一句目は、秋元不死男の主宰する「氷海」の五千石と共にその双璧ともいわれていた鷹羽狩行の五千石追悼の句である。この追悼句について、ネットで次のような紹介がなされている。
「上田五千石の突然の訃報は稲穂の実る列島を風のように駆け抜け、余波は容易に静まらなかった。余波とは名残のこと。うち返さない波など、この世にはない。だが、波に例えた五千石は戻らない。句の半信半疑の面持ちが死の事情を語っている。黄金の稲穂は丹精の賜物、採り入れ直前の実り、故人が置き去りにした俳句作品そのもの、遺品である。この句は十七音の五千石観となっている。秋元不死男門下の逸材として人々は二人の物語をさまざまに創作してきたが、このような灌頂の巻を誰が予想したか。後ろから一陣の風となって吹き抜け、帰らぬ人となるという運命に茫然とし、次にとるべき行動も思案もなく見送っている姿である。」

http://members.jcom.home.ne.jp/ohta.kahori/sb/sb1209.htm

 掲出の二句目は、その狩行の処女句集『誕生』(昭和四十年刊行)の末尾を飾る作品である。この句について、秋元不死男はその「跋」において、「句集”誕生”はこの句を以て終わっている。三十四歳の作だが、而立の感慨を今もなお日々新たに噛みしめている著者である」とし、「さて、狩行は自分を鷲にたとえて、握り拳を見せつつ、第一句集”誕生”の幕をおろした」との記載をしている。この鷹羽狩行は五千石以上に、その将来を嘱望された俳人で、不死男の「跋」によると、「昭和二十一年の十五歳」のときに俳句の道に入り、昭和二十三年の山口誓子主宰の「天狼」創刊のときに「遠星集」(山口誓子選)に投句して、入選を果たしているという。秋元不死男主宰の「氷海」に同人として参加したのは、昭和二十九年で、山口誓子と秋元不死男という二大巨人の秘蔵っ子のような俳人なのである。
 さて、掲出の三句目は、上田五千石の第一句集『田園』(昭和四十三年)の末尾を飾る作品である。五千石が作句を始めたのは、昭和二十二年の十四歳のとき、そして、「氷海」の同人となったのは、昭和三十一年(二十三歳)で、昭和五年生まれの狩行と昭和八年生まれの五千石とは、年齢的にもその句業の面からも、狩行がやや先輩格ということになる。しかし、この二人は、昭和三十二年に「氷海新人会」を結成して、爾来、平成九年九月の五千石他界の日まで、陰に陽に、切磋琢磨する関係にあったということは、上記の狩行の五千石追悼の句の紹介記事からも明らかなところであろう。そして、ここで強調しておきたいことは、ただ一つ、後世に名を留めるような作品・作家になる必須条件の一つとして、「常に切磋琢磨しあえるような環境下にあることが極めて重要なことである」という、この一点なのである。すなわち、狩行の今日あるのは、五千石を抜きにしては語れないし、そして、五千石がその死後もますますその名を高めているのは、狩行との切磋琢磨の、その結果でもあるといえなくもないのである。そして、掲出の句のように、鷹羽狩行が、天を舞う「鷲」であるとするならば、上田五千石は、地を這う「蛇」に例えることも、これまた、二人の関係を如実に示すことのように思われるのである。


上田五千石の『田園』(その六)

○ 青嵐渡るや鹿嶋五千石    (五千石・十四歳のときの作)
○ 杖振つて亡き父来るか月の道 (五千石『田園』・「虎落笛」・「月の道」)
○ 端居して亡き父います蚊遣香 (同上)
○ 父といふしづけさにゐて胡桃割る(五千石『田園』・「柚湯」・「木の実」)
○ 漢籍を曝して父の在るごとし (五千石『田園』・「蝋の花」・「曝書」)
○ 蝉しぐれ中に一すぢ嘆きのこゑ (同上)

 上田五千石の俳号は、五千石が十四歳のときの中学校の文芸誌「若鮎」に、掲出の一句目を発表したことによる、彼の父親の命名という(上田五千石・年譜)。五千石の父親も俳人で、子規の門弟の内藤鳴雪門で仏教界(法相宗東京出張所長)の人で、五千石が十五歳のときに他界している。掲出の二句目・三句目は、五千石の三十歳以前のその父親を回想しての句であろう。五千石はこの父親の五十九歳にときに誕生して、この掲出の一句目を作り、そして、「五千石」との俳号をその父親より頂戴して、その翌年にその父親を失うという環境からして、この父親の影響を強く受けていることは、これらの二句からも容易に想像できるところのものである。それだけではなく、この父親の死を早くに経験したことなどによる「無常観」のようなものがその後の作句上の根底にあることも想像に難くない。彼自身、自分自身の句の根底に流れているものは「無常観」のようなものだとの感想も漏らしている(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが俳句を語る」)。そして、掲出の四句目は、五千石が二十七歳で結婚して、一子を授かった三十歳の頃の作句で、この掲出句の「父」は自分自身のことなのであるが、やはり、この「父」にも、自分自身の父親と対比しての「父という存在」ということが主題となっており、さらに、この句の「胡桃」は、その父親の死とイメージが重なる生家の空襲による焼失(昭和二十年・五千石、十二歳)とその前後の信州(松本市)の疎開などの思い出などを象徴するものでもある。そして、この掲出の五句目・六句目の句は、五千石が、この処女句集『田園』を刊行する、昭和四十三年(三十五歳)とこの掲出の四句目が作句される年(昭和三十八年、三十歳)の間に作句されたもので、この二句を得て、五千石は始めて、十五歳のときに永別した父の自縛の世界から解放されたような思いと、同時に、男親としての父という存在の「実(まこと)ありて、しかも悲しびをそふる」(芭蕉の「許六離別の詞」)ものを見てとったように思えるのである。こういう意味合いにおいて、五千石が、この処女句集『田園』の「後記」において、「かかる形で私の青春を録し得たことは幸いであった」というのは、確かな真率の声であり、かかる観点からの『田園』鑑賞ということが望まれるのかも知れない。


上田五千石の『田園』(その七)

○ 朝焼や聖(サンタ)マリヤの鐘かすか (山口誓子『凍港(昭和七年刊)』)
○ クリスマス地に来ちゝはゝ舟を漕ぐ (秋元不死男『街(昭和十五年刊)』)
○ 一段に子の書ある書架クリスマス  (鷹羽狩行『誕生(昭和四十年刊)』)
○ 新しく家族となりて聖菓切る    (上田五千石『田園(昭和四十三年刊))

 上田五千石の処女句集『田園』は全て山口誓子選との記述がある(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが俳句を語る」)。しかし、その『句集』を見た限りにおいては、その「序」は秋元不死男が記述しており、「山口誓子」の四字は出てこない。それに比して、鷹羽狩行の処女句集『誕生』は、その「序」は山口誓子で、「跋」が秋元不死男と、山口誓子が前面に出てくる。その山口誓子の「序」は「『鷹羽狩行』は私の附けた筆名である。『たかはしゆきを』を『たかは』と切り、『しゆ』と切り、『きを』をくつつけた。『狩行』は一寸読みにくいが『しゆうぎよう』と読む。『かりゆき』と読んではいけない。こんどの句集の『誕生』も私が附けた」という切り出しで始まる。思わず、「即物象徴の写生構成論」の創始者の無味乾燥の権化のような山口誓子にしては、「たかはしゆきを」(鷹羽狩行の本名)をもじって、「たかは・しゆきを(しゆうぎよう)」とはと、誓子にもこういう一面があるのかと驚くような気の入れようなのである。その秋元不死男の「跋」を見ても、「誓子先生と私が俳句の師匠ということになる。しかし、彼の手筋は誓子流で、誓子の影響がつよい」と断言している。さらに、狩行と五千石の師匠といわれている秋元不死男にして「誓子先生」と、不死男自身、戦後は山口誓子を師と仰いでいたという図式が浮かび上がってくる。そして、鷹羽狩行は、秋元不死男の影響も受けているが、より多く、山口誓子の影響を強く受け、上田五千石は、山口誓子の影響も受けているが、より多く、秋元不死男の影響を強く受けているという図式になろう。そして、その図式において、こと、五千石の処女句集『田園』は、秋元不死男の「俳句”もの”説」もさることながら、全て、山口誓子選の、山口誓子の「即物象徴の写生構成論」の影響下にある作品群であるということができよう。掲出の四句は、それぞれの処女句集の刊行年度順に、「聖マリヤ」・「クリスマス」関連の一句を抽出したものである。そして、一句目の誓子の句は、「聖」を「サンタ」とルビを振って読ませ、無季のような句作りで、いかにも、高浜虚子が誓子をして、「辺境に鉾を進める」「征虜大将軍」
の新天地を開拓する趣があるし、二句目の不死男の句も不死男の初期の傑作句でもある。それらに比して、狩行の三句目も、五千石の四句目も、こと、この抽出句においては、「曾て西東三鬼が狩行の俳句を評して”優等生俳句”といつたことがある」(秋元不死男の『誕生』の「跋」)という趣である。これらは、これらの句の背景となっている時代史的な緊迫感というものと何らかの関係を有しているようにも思える。いずれにしろ、この四者は密接不可分の関係にあり、その四者の流れは、上記の、それぞれの処女句集の刊行年度のような時代史的な流れと一致するということはいえるであろう。


上田五千石の『田園』(その八)

○ 万緑やわが詩の一字誤植して  (鷹羽狩行『誕生』・昭和二十九年)
○ 万緑や死は一弾を以て足る   (上田五千石『田園』・昭和三十三年)
○ 虎落笛こぼるるばかり星乾き  (鷹羽狩行『誕生』・昭和二十六年)
○ もがり笛風の又三郎やあーい  (上田五千石『田園』・昭和三十四年)

 上田五千石の年譜によると、昭和四十三年(一九六八)に処女句集『田園』を刊行して、その翌年、「第八回俳人協会賞。第八回静岡県文化奨励賞」を受賞している。そして、昭和四十八年(一九七三、五千石・四十歳)に、「八月『畦の会』の会報として小冊子『畦』を刊行、これをもって五千石主宰『畦』の創刊としている」との記載が見られる。この五千石の主宰誌「畦」について、「畦」編集長であった本宮鼎三は次のように記述している(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが師、わが結社」)。「なぜ、私達の会合を『畦』としたか・・・。二つの理由がある。その一つは、この『畦』句会結成の二年前の昭和四十四年、処女句集『田園』により、五千石は第八回俳人協会賞を受賞した。(中略) 句会名の『畦』は『田園』の作家五千石の連衆が畦伝いで集まろう、という『田園』にちなんだ命名である。『畦』としたその第二の理由は簡単である。それは、第三土曜日に『畦』句会を必ず行ったからである。これは今でもこの原型が『畦』富士句会に継続されている。『畦』に『土』の字が三つ、ゆえに第三土曜日。『畦』の字の偏をよく見ていただきたい。『田』の中に、土が一つ隠れているのである。これは単なる洒落ではない。俳諧の滑稽に通じるものであると解していただきたいのである」。こういう「洒落ではない、俳諧の滑稽に通ずる」ことは、俳人たちの日常茶飯事に行うところである。とにもかくにも、上田五千石の句業というのは、その処女句集『田園』を抜きにしては語れないということは厳然たる事実である。さて、その上で、掲出句の、鷹羽狩行と五千石の、「万緑や」の句と「虎落笛」の句とのそれぞれを見ていただきたい。これらの二句抽出の両者の両句の対比だけでも、五千石は兄弟子でもある狩行を常に念頭において、相互に切磋琢磨していたということが、おぼろげながらに見えてくるようなのである。そして、狩行の句は五千石の句に比して、秋元不死男が狩行俳句の特質として、「誓子の選は極めて厳しく、曖昧さをゆるさず、弛緩をゆるさず、ごまかしをゆるさない。何を措いてもしつかりとゆるぎなく、明晰に表現されることが大事だとされる。従つて誓子の選で鍛えられた狩行の作品には曖昧さや、朦朧さがない。実にはつきりとしている。これが狩行俳句の大きな特質である」(秋元不死男の『誕生』の「跋」)と指摘しているごとく、極めて明晰な表現スタイルをとっているということなのである。しかし、その逆に、その明晰性という点では、五千石俳句は狩行俳句に一歩譲るとして、上記の本宮鼎三の「洒落ではない、俳諧の滑稽に通ずる」ような「洒落味・滑稽味」という点では、狩行俳句よりも五千石俳句の方が一歩先んじているように思えるのである。

上田五千石の『田園』(その九)

○ 万緑や死は一弾を以て足る    (昭和三十三年)
○ もがり笛風の又三郎やあーい   (昭和三十四年)
○ 遠浅の水清ければ桜貝      (昭和三十八年)
○ 新しき道のさびしき麦の秋    (昭和三十八年)
○ あけぼのや泰山木は蝋の花    (昭和三十八年)
○ 流水のかくれもあへずいなびかり (昭和三十九年)
○ 渡り鳥みるみるわれの小さくなり (昭和四十年)
○ 水鏡してあぢさゐのけふの色   (昭和四十二年)
○ 水透きて河鹿のこゑの筋も見ゆ  (昭和四十二年)

「畦」編集長であった本宮鼎三の、上田五千石処女句集『田園』の代表作として抽出されている九句である(『上田五千石(春陽堂)』所収「わが師、わが結社」)。その創作された年次が記載されていて、これを参考にして、その『田園』所収の他の句について鑑賞していくと、その『田園』の全貌というのが見えてくる。さらに、本宮鼎三は五千石の俳論について次のような五千石語録をもって明らかにしている。
「花を見て、あゝ美しい、あゝきれいというのが、俳句とすべきは、あゝであって、美しい、きれいに、及ぶべきではない。『もの』に出合っての嘆声の至純を尊ぶ俳句は、嘆声を発せしめた『もの』の有り様を写生すれば足りるのである」(昭和五十四年四月号「畦」)。
「常識を破り、予定観念をくつがえして、現実の中に超現実を見ることは、初めての新しい世界の開示です。これが『詩』というものです。俳句はこの『詩』を端的に瞬間的に十七音に成就させるものです。したがって、この短詩型の時制は常に『いま』であり、空間は『ここ』であり、主体は『われ』であります」(昭和六十一年五月号)。
 これらの上田五千石の俳論は、山口誓子の「即物具象の写生構成」および「外淡内慈」の作風と、秋元不死男の「俳句〈もの〉説」を土台にして、五千石がさらに築いた持論で、これが「畦」の作句信条の「眼前直覚」論であって、この「眼前直覚」の「われ」「いま」「ここ」と、出合った「もの」を、「鋭く・素早く・その瞬間性が句作に不可欠である」として、「俳句この、野生とエレガンス(優雅)の合成物」とも本宮鼎三は記している。まさに、これらの、「われ」「いま」「ここ」という観点から、掲出の九句を鑑賞していくと、この三点が浮き彫りになってくるし、さらに、「野生(ワイルドネス)とエレガンス(優雅)の合成物」的な把握と、それより派生してくる「男の美学」(ダンディズム)という、五千石俳句の特徴が浮き彫りになってくる。これらの五千石俳句の全ては、この処女句集『田園』所収の句に渦巻いているのである。

上田五千石の『田園』(その十)

青胡桃しなのの空のかたさかな(『田園』) 長野県上伊那郡辰野町小野 しだれ栗自生地
柚子湯出て慈母観音の如く立つ(『田園』) 静岡県清水市上原174-2 十七夜山千手寺   
手斧始もとより尺の富士ひのき      同 富士市白糸 林業地              
みどり新たに椎の兄楠の弟        同  同 入山瀬 浅間神社境内          
庭中の名だたる竹も竹の秋        同  同 浅間本町 仁藤壷天氏宅庭内      
遠浅の水清ければ桜貝(『田園』)     同  同 岩本 岩本山公園内
萬緑や死は一弾を以て足る(『田園』)   同  同 岩本 岩本山公園内
渡り鳥みるみるわれの小さくなり(『田園』)同  同 岩本 岩本山公園内     
もがり笛風の又三郎やあーい (『田園』) 同  同 岩本 岩本山公園内
手斧始もとより尺の富士ひのき      同  同 蓼原 「もくもくタウン富士」     
おもかげのいつがいつまで冬あたたか   同  同 上横割 石川氏宅庭内       
こえにせず母呼びてみる秋の暮      同  同     瑞林寺墓地          
山開きたる雪中にこころざす       同 富士宮市山宮中船道 富士登山道       
時頼の墓へ磴積む落椿          同 田方郡伊豆長岡町長岡1150 最明寺境内   

http://www.yin.or.jp/user/sakaguch/036.TXT

 上記のアドレスによると、上記の十四句について、右に記載した所に句碑があるという。その十四句のうち、処女句集『田園』(昭和四十三年刊)所収の句については、上記に記載したとおり六句ということになる。その他の句については、処女句集『田園』以外の句集に収載されているものなのであろう。
ちなみに、『上田五千石(春陽堂)』(平成四年刊)によると、第二句集『森林』(昭和五十三年刊)、第三句集『風景』(昭和五十七年刊)、第四句集『琥珀』(平成四年刊)そして『上田五千石集(自註現代俳句シリーズ)』が著作一覧として掲載されている。また、評論集としては『俳句塾・・眼前直覚への二十一章・・』(邑書林)などが紹介されている。この他に、遺句集『天路』(平成十年刊)及び『上田五千石全句集』(平成十三年刊)も刊行されている。この『田園』鑑賞については、
『増補 現代俳句大系 第十三巻』所収の「田園」を参考としている。とにもかくにも、上田五千石については、未だ他界して、五年足らずという短い年月であり、その紹介などについては、今後の、上田五千石周辺の方達によってなされていくことになるのであろう。
最後に、『上田五千石(春陽堂)』により、処女句集『田園』以外の句集のものの幾つかについて紹介をしておきたい。

○ 竹の声唱々として寒明くべし     (『森林』)
○ 開けたてのならぬ北窓ひらきけり   ( 同 )
○ しぐれ忌を山にあそべば鷹の翳    ( 同 )
○ かくてはや露の茅舎の齢こゆ     ( 同 )
○ 冬の菊暮色に流れあるごとし     ( 同 )
○ 句つくりははなればなれに冬木の芽  (『風景』)
○ 詩に痩するおもひのもづくすすりけり ( 同 )
○ 文才をいささかたのむ懐炉かな    ( 同 )
○ 光りては水の尖れる我鬼忌かな    ( 同 )
○ 悴みて読みつぐものにヨブ記あり   ( 同 )
○ 白扇のゆゑの翳りをひろげたり    (『琥珀』)
○ まぼろしの花湧く花のさかりかな   ( 同 )
○ 筆買ひに行く一駅の白雨かな     ( 同 )
○ あたたかき雪がふるふる兎の目    ( 同 )
○ さびしさやはりまも奥の花の月    ( 同 )

高柳重信の多行式俳句



高柳重信の多行式俳句

(その一)

○ 身をそらす虹の (ミヲソラスニジノ)
  絶巓      (ゼッテン) 
          (・・・・) 
  処刑台     (ショケイダイ)

 高柳重信の『蕗子』所収の代表作の一つである。
これらの重信が創案した表記スタイルは、「多行式俳句・
多行形式俳句・多行俳句」などと呼ばれ、一行式の俳句
と区別されて呼ばれている。しかも、この掲出句のよう
に、三行目が空白というのも、しばしば目にする。そも
そも、これらの重信の句は、横書きに馴染むものなのか
どうかも定かではない。しかし、一行式の俳句について
も、便宜上、このパソコンの世界では横書きで表記して
いるので、重信の多行式俳句についても、横書きで表示
することとする。さらに、重信の俳句については、自分
で、詠みのルビをふったものもあるが、この句について
はそのルビはふられていない。右に表示した片仮名の詠
みは、私の詠みである。重信がこのような表記スタイル
の句を公表したのは、年譜によると昭和二十二年のこと
である。その前年の昭和二十一年には、桑原武夫の「第
二芸術論」が公表され、それらの影響下にあった当時の、
重信の独自の表記スタイルの創案なのである。重信は何
故このような表記スタイルをとったのか・・・、重信は
数多くの俳論を公表しているので、重信自身、これらに
ついて何処かで触れられているのかも知れない。しかし、
重信の俳論を詳細に検討をしていないので、ここでは私
の推論を掲げておくこととする。それは、「重信は一行
式俳句の詠みの『切れ』の曖昧さを嫌って、その『切れ』
の厳格さから、このような多行式のスタイルを取った」
と思われるのである。即ち、「一行目(切る・間)、二
行目(切る・間)、三行目(空白・切れ字)、四行目(切
る・切れ字)」の、一行式俳句でいけば「身をそらす虹の/
絶巓//・・・/処刑台//」の二句一章体の、厳密な表記ス
タイルと思われるのである。そして、この句の背景は、
「重信は虹を見ている。その虹の半円形の絶巓に目が行
った。そしたら、その絶巓から、何故かしらないけど、
地上の処刑台が連想された」というのであろう。とにも
かくにも、これが重信の多行式俳句なのである。

(その二)

○ 月下の宿帳
  先客の名はリラダン伯爵

 『蕗子』所収の高柳重信の二行表記の句である。重信についてGoogleで
検索していたら、『蝸牛文庫』で、夏石番矢の高柳重信のものが紹介され
ていた。この句については、次の通りである。

<句集『蕗子』。「リラダン伯爵」は、フランスの反俗高踏派オーギュスト
・ヴィリエ・ド・リラダン。月下の旅にたどり着いた旅館で記帳を求められ
た「宿帳」には、このフランスの作家の名が。異次元の精神世界の探求者の
先人として、作者はこの作家を指名した。昭和二十二年発表作。>

この夏石番矢の評でひっかかるのは、「異次元の精神世界の探求者の先人
として、作者はこの作家を指名した」というところ。そもそも、この『蕗
子』には、全体にかかる前書きのようなものがあって、そこに「タダ コノ
マボ ロシノモニフクサン  ヴィリエ・ド・リラダン伯爵」とあり、さら
に、これらの句が収められている題名のような形で、「逃鼠の歌」とあり、
この「逃鼠者の先人として、作者はこの作家を指名した」のではなかろうか。

 前回の「身をそらす虹の/絶巓/ /処刑台」の句についての評は次の通り
であった。

<句集『蕗子』(昭25年)。この句集は、方法的な多行表記俳句の金字塔。
「虹」は通常、夏の季語だが、この一句では季を超越。「身をそらす虹の/
絶巓」は、精神的かつ性的エクスタシーの頂点の形象化。喜悦の極みには、
悲哀が、破滅が来る。「処刑台」はその象徴。(超季:注・「超季」は季語
が一句に入っていても特定の季に限定されない作品。)>

 この評では、「精神的かつ性的エクスタシーの頂点の形象化」というのは、
番矢の見方。ここは、やはり「逃鼠者としての作者の形象化」と理解したい。

 そして、重信は、虹を上昇する左の方から上の半円形の頂点の方に目を移
し、そして、下降する下の右の方に移るときに、ストーン(空白)と、処刑
台を連想したと解したい。そして、それは、「逃鼠者としての創作人の投影」
と理解したい。

追伸:砧井さん、いろいろ情報をお寄せ下さい。在野人さん、「海の上に虹が
かかっていて、その海と虹の空間に、処刑台がある風景などは、モチーフに
なりませんか・・・」。

(その三)

○ 船焼き捨てし
  船長は
  
  泳ぐかな

 この句についても、夏石番矢さんの短評がある。

<句集『蕗子』。ジョルジュ・ガボリの詩「海景」(堀口大学訳詩集
『月下の一群』)に想を得た作。ガボリの恋の詩が、悲壮な男「船長」
の俳句に変化。無秩序な戦後の世相も反映。「船長」は、三島由紀夫の
小説『金閣寺』(昭31年)の放火僧にも通じる。3行目の空白は、放
火後の意識の空白。(無季)>

 この句の背景は上記のようなことなのかも知れない。しかし、これまた
夏石番矢さんの一つの見方に過ぎない。そして、またまた、この句の収載
されている章名(題名)ともいうべき「子守歌」というのは黙殺されてい
る。この「子守歌」に収載されている句は、滑稽味のする句が多い。例え
ば、この掲出句の前の句は、次のような「冷凍魚」の句である。即ち、子
供の頃聞かせられた「子守歌」のような、そんな主題のものが多いのであ
る。

○ 冷凍魚
  おもはずも跳ね
  ひび割れたり

 とするならば、ここも、「子に語りつぐような」、そんな感じの、次の
ような鑑賞をしたいのである。

「船を焼き捨ててしまった。(乗客も乗組員も皆脱出させて・・・)、   
 船長は、(後は海に投身自殺するのだろうか?)
 ・・・・・・・・(あれ、あれ、あれ、なんと)
 泳ぎだしたではないか!」

 これなら、実に、「談林俳諧」顔負けの痛烈な「諧謔」的な句ということ
になる(それが故に、高柳重信は、この句に「かな」という切れ字を用いてい
る)。

(その四)

○ 夏痩せや私小説めく二日酔
○ 人恋ひてかなしきときを昼寝かな
○ 業平忌赤き布団がほされけり

 高柳重信の、多行形式の句の以前の句が収録されて
いる『前略十年』所収の「や・かな・けり」の切字の
ある句である。重信の年譜を見ると、重信は七歳の、
実弟の死亡に接して、「六つで死んでいまも押入で泣
く弟」という句を作ったという。重信の父が、俳号・
黄卯木で「春蘭」(大場白水郎主宰)で名をなした人
というから、そういう環境で育ったのであろう。ちな
みに、この『前略十年』の冒頭の一句の「高々と煙突
立てリ春の空」は、十三歳の時の作品である。もう、
この頃、当時の俳壇で脚光を浴びていた、山口誓子・
日野草城の俳句に共感して、俳号を、草城の旧号の「
翠峰」を用いていたというから、驚かされるばかりで
ある。上記の「夏痩せや」の句では、「私小説めく」、
「人恋ひて」の句では「昼寝かな」、そして、「業平
忌」では「赤き布団」と、いずれも、その作句視点は
明瞭で、鑑賞者に好感を持たれるものであろう。こう
いう句作りを、「前略十年」とやってきて、これらの
「五七五の定型・有季・切字」の世界を脱却して、新
しい俳句の世界を作ろうと、重信は「多行形式俳句」
を創案する。この「多行形式俳句」は、この掲出句の
「や・かな・けり」の「切字」との葛藤の末のものと
いうことを、まず最初に理解して、それを一つの鑑賞
視点としながら、難解といわれる重信俳句を味読する
のが肝要と思われる。

(その五)

○ 中州にて
  叢芦そよぎ
  そよぎの闇の
  残り香そよぎ

 高柳重信の『蒙塵』所収の多行式俳句の一句である。この句集にも、
「題名」のようなものが付せられている。この句のそれは「二十六字
歌」とある。この「二十六字歌」とは、いわゆる、俳句の「十七字歌」
に対しての「二十六字歌」ということであろう。この掲出の句は「五・
七・七・七」のリズムなのである。そして、第二行・第三行・第四行
に「そよぎ」がリフレィンされていて、この風の「そよぎ」がこの句
のキィワードとなっている。無季の切字なしの句。重信のこれらの多
行式の俳句は、「十七字定型・有季・切字」の伝統的な一行式俳句の、
その「慣れ・繰り返し・形式化」の反動として生まれたものであった。
それは、その意味では、種田山頭火や尾崎放哉や橋本夢道らの「自由
律俳句」と軌を一にするものであろう。しかし、重信のそれは、一行
式の自由律俳句を、「切字の働きの効果」から多行式と、全く、それ
らの句に接する者に、一種の異様なスタイルを提示したのであった。
さらに、重信は、自由律の俳句の、その内在律という自由放縦な「短
律・長律」について、この掲出句のように、「五・七・七・七」のス
タイルも提示したのであった。これは重信の「七と五の韻律論」の一
つの実験であろう。この実験は、一行式の自由律俳句では、例えば、
「中州にて叢芦そよぎそよぎの闇の残り香そよぎ」では、実験のしよ
うのないような、重信の多行式俳句で、始めて実験可能のような、そ
んなことも内包するものであろう。これらの重信の実験は今では見向
きもされないような風潮なのである。さらに、重信らの多行式俳句と
山頭火らの自由律俳句とを一つの土俵の上で考察することも皆無のよ
うな風潮なのである。それらと共に、何の疑いも持たずに、後生大事
に、「十七字定型・有季・切字」の世界に埋没している、その傍観的
な風潮の中にあって、やはり、重信のこれらの実験というのは、もう
一度、再評価すべきなのではなかろうか・・・、そんな思いがするの
である。

(その六)

○ 泣癖の
  わが幼年の背を揺すり
  激しく尿る
  若き叔母上

 高柳重信の『蒙塵』所収の「三十一字歌」と題する中の一句
である。「五・十二・七・七」のリズムである。このリズムは、
「五・七・五・七・七」の短歌のそれを意識したものであろう。
これが俳句なのであろうか? どうにも疑問符がついてしまうの
である。ただ一つ、重信は「定型破壊者」ではなく、極めて、
「定型擁護者」と言い得るのではなかろうか。この意味におい
て、自由律俳人の「自由律」と正反対の、いわば「外在律」に
因って立つところ作家ということなのである。それと、もう一
つ、この『蒙塵』という句(多行式)集の制作意図があって、
それは「王・王妃・伯爵・道化・兵士達のドラマ」仕立ての中
での、その場面・場面の描写というような位置づけで、これら
の句がちりばめられているようなのである(高橋龍稿「俳句と
いう偽書」)。すなわち、俳諧論の「虚実論」の「虚(ドラマ)
の虚の句(多行式)」ということなのである。これらのことに
ついて、高橋龍さんは次のとおり続ける。「今日、正あるいは
真とされるものは、十八世紀末の啓蒙主義、十九世紀以降の科
学主義がもたらした大いなる錯覚にすぎない。正と偽は、同一
舞台に背中合わせに飾られた第一場と第二場の大道具のごとき
もので、『正』という第一場を暗転させるのが詩人の仕事であ
る。高柳さんはいちはやく第二場『偽』の住人となり、さらに
奈落に下り立って懸命に舞台を廻そうとした人であった。それ
を念うと、子規以降のいわゆる伝統俳人の営みは、折角の『偽
書』を『正書』に仕立て直そうとするはかない努力であったよ
うな気がしてならない」。その意味するところのものは十全で
はないけれども、要する、「高柳重信の多行式俳句の世界は、
日常の世界から発生するのではなく、その異次元の『偽』の世
界であり、『虚』の世界のもの」という理解のように思われる。
そして、高橋龍さんがいわれる「子規以降の伝統俳人の営み」
は「実(現実の世界)に居て虚(詩の世界)にあそぶ」という
営みであって、高柳重信の世界は、「虚(非現実の世界)に居
て虚(詩の世界)にあそぶ」、その営みであったということを、
高橋龍さんは指摘したかったのではなかろうか。とにもかくに
も、高柳重信の多行式俳句の理解については、これらの「新し
い定型の重視」と「新しい俳諧観(虚に居て虚にあそぶ)」と
の、この二方向から見定める必要があるように思われるのであ
る。

(その七)

  ●●○●
  ●○●●○
  ★?
  ○●●
  ー○○●

「句集『伯爵領』。この句集末尾の作品。どう解釈するかは読者の自由。相撲
の星取り表にも近いが、異様なマーク「★?」や「ー」もある。異次元の夜空
の略図だろうか。宇宙人の言語だろうか。人を食った謎がここにはある。俳諧
精神のなせるわざか。(無季)」

 上記の「●○★?ー」の記号のみ表示のものが、高柳重信の、重信の句集
『伯爵領』の最後を飾る一句である。そして、上記の括弧書きは、夏石番矢
さんの解説文である。この句(?)について、実兄の詩に携わっていた、故江
連博(俳句関係のペンネームは藤島敏)は、次のように解読(?)した。

死死生死
 死生死死  
 エロス?
 生死死
 ー死死生

 この「エロスとタナトス」を暗示するようでもあるが、これまた、これら
の句(?)が収められているところの、その題(章)名らしき「領内古謡」の
ことを考えると、ここは、単純に、次のように口ずさむのがよいのかも知れ
ない。

 黒黒白黒
 黒白黒黒
 星(わからない)
 白黒黒
 (そうだ)黒黒白

 とした上で、私の「高柳重信」の「解読フィルター」の「虚実(論)」で
この句(?)を鑑賞したい。

 虚虚実虚
 虚実虚虚
 句?
実虚虚
 -虚虚実

(その八)

愚者の戯言一編(作者:莵玖波昇成)

 陽をよけて
     嘲笑う時計
 押し潰されて
     まだ朱い花

高柳重信の「時計」の句に次のようなものがある。

 時計をとめろ
 この
   あの
     止らぬ
 時計の暮色

この重信の「時計」の句の夏石晩矢さんの短い鑑賞文は
次のとおり。

「句集『蕗子』。人間には、時間の進行がたまらなく嫌なときがある。
この句は、「時計」自体に集約的にあらわれる夕暮の薄暗さが、死
の暗示に満ちていると訴えかける。『この/あの/止らぬ」には、あ
わてふためきのリズムが感じられる。だが、時間は停止しない。一
行表記で昭和二十三年に発表。初出形「時計がとまらぬ暮色』」。

「かっての昔、蟻の字が白いページに適当に配列された『蟻』と称
する詩を見た (読むというより見る)記憶がある。不可思議な詩であ
った。」

この掲出のものは、上記の「愚者の戯言」に関連してのもの。そして、
高柳重信の主要な俳論の一つに、「『書き』つつ『見る』」というものが
あり、この重信の発見は、重信の多行式俳句を鑑賞する上で、忘れ
てはならないものの一つである。これらのことに関連しては、上記の
夏石晩矢さんや「愚者の戯言」の関連のもので十分であろう。

さて、「愚者の戯言」は次のように続ける。

「高柳重信は詩想の記号表現に活路を見いだそうとした。それは詩人
がいつか辿 りつく大いなる罠である。彼はこの表現を最後にすべきでは
なく、これを出発点 にして詩想の樹海を切り開くべきであった」。

重信は、上記の「時計」の句のような、「『書き』つつ『見る』」の、スタイル
重視のものから、「言霊」・「地霊」というような、「詩想の樹海」へと、その
歩を進める。それらの句は、『山海集』・『日本海軍』に収録されている。


(その九)

一夜       ヒトヨ
二夜と      フタヨト
三笠やさしき  ミカサヤサシキ
魂しづめ    タマシヅメ 

夜をこめて    ヨヲコメテ
哭く        ナク
言霊の      コトダマノ
金剛よ      コンゴウヨ

まして      マシテ
大和は     ヤマトハ 
真昼を闇と   マヒルヲヤミト
野史に言ふ  ヤシニイフ


 高柳重信の句集『日本海軍』所収の三句である。
「三笠」・「金剛」・「大和」と、日本海軍を代表する艦船である。
「三笠」は日露戦争で活躍し、「天気晴朗ナレドモ、浪高シ」を
発した艦船。「金剛」は昭和十九年の末に台湾沖で撃沈され
た。「大和」は世界最強の艦船で終戦直前に坊の岬で撃沈さ
れた。重信の句集『日本海軍』は、幾多の数奇な運命に翻弄
された艦船の名が一句に封印されているという、不思議な句
集である。その一句一句は、その艦船とその艦船と運命を共
にした人々の「魂しづめ」・「言霊」・「野史」の「呪文」のようで
もある。ここにおいては、重信は多行式のスタイルを活かしな
がら、それに縛られることなく、縦横無尽に駆使しながら、一つ
の、重信固有の、鎮魂歌を樹立したのである。ともすると、多行
式の、そのスタイルに囚われがちであった、そして、その結果、
自己にのみ解読可能のような「詩想の記号表現化」の世界から
脱出して、「魂しづめ」・「言霊」・「野史」の「呪文」のような「鎮魂
歌」の世界、すなわち、新しい「詩想の樹海」へ踏み入ったように
思われるのである。

(その十)

アウトローの俳人・橋本夢道から、これまた、アウトローの俳人と目される
高柳重信のその異端の句の幾つかを見てきた。しかし、今、脳裏を去来
するのは、果たして、彼らはアウトローの俳人であったのかという、そうい
うレッテルではなく、中身そのものへの問い掛けである。この問い掛けの、
おぼろげなる自問自答の「自答」は、ここではしばらくパスすることとしたい。

  目醒め     メザメ
  がちなる    ガチナル
  わが盡忠は  ワガジンチュウハ
  俳句かな    ハイクカナ 

高柳重信の『山海集』所収の一句である。この句も「日本軍歌集」という題名
の中の一句で、あたかも「軍歌」のように口ずさめばよいのかもしれない。
そして、確かに、高柳重信は、「俳句に盡忠した」、その生涯であったというこ
とを実感する。そして、つくづく思うことは、この重信ほどの覚悟をもって、「俳
句に盡忠した」人は・・・? またしても、この自問自答である。

高柳重信は、もう一つのペンネームによる句集の、『山川蝉夫句集』を残して
いる。こちらの句集に収録されている句は、「これならわかる」と皮肉にも歓迎
の挨拶を頂戴した句という。重信は、これらの句につては、「思いついたときの、
即吟のもの」との記載を残している。そして、ここで、上記の自問自答の自答の
ヒントのことであるが、「これらの即吟は、『俳句に盡忠した』、その結果の一つ
の証し」であったということを、ここに記載しておきたい。『山川蝉夫句集』の、
それぞれの題名の中の一句を抽出しておきたい。

「春」   蛙田や帰りそびれし肝試し
「夏」   五七五七と長歌は長し青葉木菟
「秋」   月明の山のかたちの秋の声
「冬」   まぼろしの白き船ゆく牡丹雪
「雑」   友よ我は片腕すでに鬼となりぬ
「補遺」  逝く我に嫌嫌嫌の芒原

金曜日, 6月 23, 2006

虚子の実像と虚像(その十六~その二十)




虚子の実像と虚像(その十六)

○ 苔寺の苔をついばむ小鳥かな  虚子

 たまたま「江戸俳諧を読む(飯田龍太・大岡信・尾形仂「座談会」)」(「文学」昭和五十五・三月号)を見ていたら、掲出の句に遭遇した。飯田さんの発言で、「苔寺へ行きましたら、『苔寺の苔をついばむ小鳥かな』と書いてある、びっくりするような大きな屏風があるんですよ。それで『虚子』とあるでしょう。とたんに、貫禄がつきましてね、見事だなと。」
 これらのところは、「無名か署名か」というところで、またまた、飯田さんの発言で、「作品の醍醐味は風化するほど楽しいという感じを持っているのです。たとえば高浜虚子の場合、戦前の悪評はひどいものですからね。ところが戦後だんだん評価が高まってくるわけでしょう。つまりそれにともなう俗世間的な要素が、だんだん時間とともに風化していくと、結局あとに浮かび上がってくるものは作品だけだという感じ。俳句のかなり大事な要素じゃないか」ということで、「俳句は、五七五だけの、経歴とか署名なしに、一句で立っている」のが大事という過程で、その後に、この掲出の句と上段の発言となり、「署名はなくて良し」、この掲出句のように、「署名があればさらに楽しい」というような展開となる。
 これらの座談会の発言を見ていて、「虚子ほど悪評と好評とが相半ばする俳人はいない」ということと、「虚子の句ほど佳句なのか駄句なのか見分けがつかない」ということを実感させられたのであった。これらのことが、この虚子のタイトルの「虚子の実像と虚像」との背景の一端ともなっている。
 さて、掲出の一句は、「季語は苔、『かな』の切れ字、一句一章体のリズム重視の定型感、
平明な表現、苔寺への挨拶句(存問性)、その場に臨んでの即興性、デッサン力のある写生」と虚子俳句の全てが網羅されているといっても過言ではなかろう。しかし、この句は、さきほどの飯田龍太さんのいわれる「一句で立っている」かどうかというと、とたんに首を傾げたくなるのである。上記の座談会の見巧者のお三方も、この句はどちらかというと虚子の駄句の方に入るというニュアンスのそれであった。そこで、大岡信さんが、「この句はお遊びですね。コの語呂合わせをまず楽しんだんだろうという気がしますね」との発言をなされたのである。その大岡さんの発言の、「苔寺」の「コ」、「苔をついばむ」の「コ」、
そして「小鳥かな」の「コ」と、実に、虚子らの「ホトトギス」の俳人達が拒否して止まない、いわゆる「知巧的」な「言葉遊び」の句作りがその背景に隠されていたのである。そして、しばしば、虚子その人はいろいろの試行をしていて、それを一切どちらかというと寡黙でカムフラージュしているのである。それと同時に、虚子その人は、余り「佳句とか駄句とか」の視点の世界とは無縁のところに自分を置いていたのかもしれない。というよりも、「佳句でもない駄句でもない普通の中庸な句」というのを標榜し、それを「ホトトギス」の俳句の信条にしていたようにも思われるのである。
 この掲出句も、その「佳句でも駄句でもない普通の中庸な句」と当初思ったのだが、先ほどの大岡さんの「知巧的」な「言葉遊び」の句という指摘で、やはり、高浜虚子という俳人は、苔寺に、この掲出句を、己が虚子の署名のもとに、今に遺しているその一端を思い知ったのである。

虚子の実像と虚像(その十七)

○ 年を以て巨人としたり歩み去る (大正二年)
○ 草を摘む子の野を渡る巨人かな (大正十四年)

 掲出の一句目の「年の歩みを巨人の歩みと感じている発想」に比して、二句目の巨人は「この巨人は例えば、ガリバーに出てくる巨人のようなもので、この句の巨人より」、一句目の巨人の方が、「空想味が濃い」という鑑賞がある(清崎敏郎・前掲書)。
 この「空想」を「観念または心像」と理解すると、確かに、二句目の巨人よりも一句目の巨人の方が、意外感のある着想で、「空想味が濃い」ということになるのかもしれない。
しかし、一句目の巨人は、「年」を「巨人」と擬人化したもので、二句目の巨人は文字とおり「巨人」(大男)のことで、その「巨人」(大男)が「草を摘む子の野を渡る」と結合して(取り合わせになると)、一句目の擬人化の句よりも、何か、スィフトの「ガリバー旅行記」を見ているような錯覚に誘われ、こちらの方がより「空想味が濃い」句のようにも鑑賞できるのである。そして、この両句の巨人とも、いわゆる、古俳諧でいうところの「見立て」(対象を他のものになぞらえて表現すること)のそれといえるであろう。この「見立て」は談林俳諧などで顕著に見られる俳諧(付合)の技法の一つであるが、虚子の句には、この見立ての応用による句作りをしばしば目にすることができる。
 そして、この「見立て」の応用は、しばしば、「寓意」(他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすこと)性を帯びてくる。例えば、この二句とも、当時の、虚子の俳壇復帰、そして、碧梧桐らの新傾向俳句に対する伝統俳句固守への確固たる挑戦と併せ鑑賞すると、その頭領たる虚子その人の像が浮かび上がってくる。しばしば、虚子の句は、極端過ぎるほど平明であるが故に、その平明さが逆に深読みを誘発して、往々にして、「寓意性」を帯びてくるということは、実に、不可思議なことでもある。それと併せ、虚子その人の「寡黙性」と相俟って、ますます、その「寓意性」が「巨人化」して来るという印象なのである。ここにも、今日の「虚子の実像と虚像」とを増幅させている大きな要因が見え隠れしている。
(付記)この掲出句の「巨人」をゴヤの傑作絵画の「巨人」の比喩と理解できなくもない。しかし、おそらく、虚子はそういう意識は全くないであろう。しかし、そういう比喩を誘う何かを、これらの句が醸し出しているというのが、上記の「見立て」・「寓意性」の虚子俳句の一つの特徴なようなものと結びついてくるという思いがするのである。
 なお、このゴヤの「巨人」については、次のアドレスで紹介されている。

http://fulesuko.com/contents7.html

※「フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス」の「巨人」と題された作品。一八〇八年~一二年のもの。巨人はどこへ向かっているのだろう? 対ナポレオンとの戦争中に描かれたのだが、いろいろな解釈があるみたいです。この巨人はナポレオンである、運命の力である、ナポレオン軍に抵抗せよという鼓舞である、文学の作品に基づいて描かれたなどなど。


虚子の実像と虚像(その十八)

○ 一人の強者唯出よ秋の風 (大正三年)
○ 秋風や最善の力唯尽す  (大正三年)

 句集『五百句』に「以上二句。九月六日、虚子庵例会」との留め書きがある句である。この両句も、先に紹介した、「春風や闘志いだきて丘に立つ」や「年を以て巨人としたり歩み去る」などの句が思い起こされてくる。掲出の二句は、いずれも「秋風」の句で、虚子の俳壇復帰の背景のある「春風や闘志いだきて丘に立つ」の「春風」と表裏一体を為すような句作りである。そもそも「春風」にしても「秋風」にしても、古来から親しまれている連歌・俳諧に通ずる古典的な季語・季題といえるものであろうが、それに取り合わせるものとして、当時の、虚子の胸中に去来していた、最も卑近な、最も世俗的ともいうべき、「碧梧桐らの新傾向俳句に対する守旧派宣言」を持ってきたというのが、これまた、どうにも虚子らしいという思いがする。そして、これらの句の背景については、虚子の俳壇復帰と「ホトトギス」の経営の立て直し(夏目漱石の朝日新聞入社などによる「ホトトギス」読者の減少など)などに直面し、あまつさえ、健康状態なども思わしくなく、虚子にとっては一つの苦難の局面であった。その「ホトトギス」の雑詠欄の復活なども、旧子規門にあって、比較的虚子に親しい、松瀬青々や青木月斗などに協力を求めて断れるなど、何もかも独力でやらなければならないような環境下にあったようである(松井利彦著『大正の俳人たち』)。当時の虚子の次のような「自恃」への思いの記述がある。
「私は今も尚ほ自己の力を信じます。私のする事は私自身に於て絶対的価値を有するのでありまして、何人も此をどうする事も出来ないのであります。けれども私は又斯ういふ事をも信じ無ければならぬといひます。世の中は大きな一つの力、其は私の力でも何人の力でもどうすることも出来ぬ偉大な一つの力があります。他人と対立し時には私は私に取つて絶対の信仰でもあり偉力でもありますが、一旦自他を離れて考へると、其処には唯一つの大きな力でもどうすることも出来ぬ偉大な一つの力があります。他人と対立した時には私は私に取つて絶対の信仰でもあり偉力でもありますが、一旦自他を離れて考へると、其処には唯一の大きな力がある許りでもあります」(「私の近況」、「ホトトギス」大二・三)。
 一句を鑑賞するということは、何もその句の背景などをあれこれと斟酌する必要はないのであろうが、当時のこれらの句が収載されていた「ホトトギス」掲載の虚子のものなどを併せて読みながら鑑賞すると、「俳句は季題趣味の世界」と律していると思われる虚子の世界というのは、あにはからんや、「ストレートな感情表現と季の言葉との重層関係において自己の心の消息を伝達するもの」という確固とした信念を内に秘めているということを思い知るのである。

虚子の実像と虚像(その十九)

○ 鎌倉を驚かしたる余寒あり (大正三年)

 『高浜虚子』(清崎敏郎著)の鑑賞文は次のとおりである。
※大正三年。二月一日、虚子庵(鎌倉・大町)での例会の出句である。鎌倉というところは、寒さが強くない温暖の地である。が、春になって、もう大分暖かになった時分だのに、不意に又寒さが襲ってきた。鎌倉の住人である我、人共に、その寒さに驚いたことであった。作者自身、「鎌倉に住んで居る人を驚かしたのでありますが、それを『鎌倉を驚かし』といったところが俳諧的である」と自解しているが、こういう風に省略して、敢て舌足らずな言い方をしたところに・・・一種の擬人法・・・、この句の技巧もあれば、俳諧的な面白みもある。鎌倉移住は、始めは家族ぐるみ避寒の積りで一冬を過すということであったが、やがて、その地に定住することになった。それは、古蹟殊にお寺の沢山あることなどが、愛着深かった京都に似ているところであり、又、京都とは違った、淡彩で素朴な趣が・・・当時は・・・捨てがたからであった。
 
 この晩年の虚子門の清崎敏郎氏の鑑賞は、いかにも「ホトトギス」流の無味乾燥なそれであって、一向に心に訴えてくるものが希薄のように思われる。それに比して、「ホトトギス」門ではない、能村登四郎氏の次の鑑賞(「俳句研究」平成元年三月号)は素直に訴えてくるものがある。
    
※鎌倉は虚子が永く住んだので故郷の松山以上に愛着をもっていた土地であろう。海を抱き後は山に囲まれた鎌倉は、冬暖かく夏涼しい土地である。その暖かいはずの鎌倉に立春も過ぎたというのに突然底冷えのする寒さが襲ってきたのである。この句は虚子が四十一歳の時で別に寒さにこたえるような年齢ではないから、とにかくよほどの寒さだったのだろうと思う。この鎌倉を他の土地の名と置き換えてても全く感じが出ない。鎌倉という土地に歴史的な重みがあり、「いざ鎌倉」とか「鎌倉方」といえばすぐ鎌倉幕府を思い出させるので、どこか物々しさを感じさせる。それを充分意識の上に置いての虚子の悪戯ごころが見えてくる。

 この「虚子の悪戯ごころ」というのが、この句のポイントであろう。そして、この「虚子の悪戯ごころ」ということに、虚子の「ホトトギス」の面々は余り気がついてない風潮のようなのである。

虚子の実像と虚像(その二十)

○ 此松の下に佇めば露の我  (大正六年)

 『高浜虚子』(清崎敏郎著)の鑑賞文は次のとおりである。
※大正六年。この句には、「十月十五日・・・兄の法事を済ませた翌日・・・風早柳原(松山在)に向ふ。雨。川一つ隔てたる西ノ下は余が一歳より八歳迄郷居せし地なり。空空しく大川の堤の大師堂のみ存す。其橋の傍に老松あり」という傍書がある。幼時郷居した風早村松ノ下の家のほとりには、一株の老松があって、子供の自分には、よく其松の下に遊びに行ったものである。今度三十数年経って来てみると、その松は依然として鬱然と聳え立っている。今、こうしてこの老松の下に佇んでいると、そぞろに幼時が思い出されて、回旧の情にとざされるのである。「露の我」というのは、露けさに包まれて立っている自分という位のことで、歌のように露からすぐに涙が連想されるというような用語例は俳句にはない。だが、この下五に、回旧の情にとざされている作者の心持が抒情的にのべられていることは言うを俟つまい。
 
 この掲出句については、この鑑賞文を読みながら、芭蕉の貞享四年(一六八七7)の『笈の小文』の旅で故郷に帰って詠んだ「古里や臍のをに泣〈く〉としのくれ」や、芭蕉が亡くなる元禄七年(一六九四)の最後の旅で詠んだ「家はみな杖に白髪の墓参り」(『続猿蓑』所収)などの句が思い起こされてくる。事実、この句が作られた翌年の大正七年に、虚子は『進むべき俳句の道』と『俳句はかく解しかく味う』を刊行し、この後書において、「要するに俳句は即ち芭蕉の文学であるといって差し支えない」とし、その最後を飾る言葉として、「『芭蕉の文学』である俳句の解釈はこれを以て終りとする」と明確に断言しているのである。即ち、虚子の師の子規は、この芭蕉を否定し、蕪村再発見をその因って立つ地盤にしたが、当時の碧梧桐らの「新傾向の俳句」に対して、「守旧派」のもとに、その師の子規の名実共に正しい後継者と自負する虚子が、師の子規が再発見した蕪村ではなく、今日、一つの常識とも化している「俳句は即ち芭蕉の文学である」と断定した、その虚子の眼力というのは、これは並大抵のものではないということを実感する。そして、この掲出句なども、「俳句は即ち芭蕉の文学である」の延長線上のものであろう。そういう大きな俳句観に立ってこの句に接すると、虚子の胸中には、上記の鑑賞文に見られる「『露の我』というのは、露けさに包まれて立っている自分という位のことで、歌のように露からすぐに涙が連想されるというような用語例は俳句にはない」などの生やさしいものではなかろう。「露からすぐに涙を連想して」、それは大いに結構である。「俳句というのは、和歌・連歌・俳諧に通ずる伝統的なもので、その伝統に裏打ちされた季語というのは、俳句の金科玉条のものである」という意識は、虚子の不動のものであったろう。そういう虚子の意識を目の当たりにするとき、やはり。当時の碧梧桐らの新傾向の俳句がこの虚子の不動の姿勢に圧倒されてしまうであろうことは、この掲出句などに接して、つくづく実感するのである。

虚子の実像と虚像(その十一~その十五)




虚子の実像と虚像(十一)

 ここで、虚子の第一句集ともいうべき『五百句』の鑑賞を少し離れて、ネット記事などを中心して、子規・漱石・碧梧桐・虚子などの関連について見ていくことにする。
次のアドレスの「俳句雑学ホーム」に、「子規の明治二十九年の俳句界に見る虚子と碧梧桐」と題してのものがある。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku1.htm


○子規の評論に「明治二十九年の俳句界」がある。内容は、明治二十八年頃から俳句がようやく文壇および世間の注意を惹き始め、新聞雑誌がしきりに俳句を載せ始めた事。また、俳句自体についても前年に比して著しく進化し変化してきた事を指摘している。
その中で子規一門の作家論を述べているのだが、特に有名なのが虚子と碧梧桐の作風について述べた部分である。その冒頭で「明治二十九年の特色として見るべきものの中に虚子の時間的俳句なる者あり。」と指摘し、

  しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く
  窓の灯にしたひよりつ払う下駄の雪
  盗んだる案山子の笠に雨急なり
  住まばやと思ふ廃寺に月を見つ

の虚子の句を挙げている。これは芭蕉の述べた「飛花落葉」の一瞬を捉えるのではなく、長い時間にわたる出来事を詠もうとする行き方である。また、「虚子が成したる特色の一つとして見るべきはこの外に人事を詠じたる事なり。」とも指摘し、

  屠蘇臭くして酒に若(し)かざる憤り
  老後の子賢にして筆始めかな
  年の暮の盗人に孝なるがあり

などを挙げ虚子の時間的俳句は蕪村の「御手討の夫婦なりしを更衣」や「打ちはたす梵論つれ立ちて夏野かな」の二句に影響されたと説く。最後に虚子の句全般的特色を、人事を詠むにも複雑な人事または新奇な主観を現そうとし、天然を詠ずるにも複雑さにおいて新奇を出そうとする、と説明している。

一方の碧梧桐については、「碧梧桐の特色とすべき所は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし

  赤い椿白い椿と落ちにけり
  乳あらはに女房の単衣襟浅き
  白足袋にいと薄き紺のゆかりかな
  炉開いて灰つめたく火の消えんとす

などを挙げている。これらについては「其句を誦する者をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしむるを謂ふ。故に其人を感ぜしむる処、恰も写生的絵画の小幅を見ると略々同じ。同じく十七文字の俳句なり、而して特に其印象をして明瞭ならしめんとせば、其詠ずる事物は純客観にして且つ客観中小景を択ばざるべからず。」として印象明瞭の句が碧梧桐の特長と述べている。

以上のことを見てくると、子規の提唱した写生においては、碧梧桐の行き方に進展が見られる。虚子の「新奇」については、碧梧桐も「ほととぎす3号」に「所謂新調」との題で、虚子論を展開している。「所謂新調は虚子之を創め、子規子之を公にせり。」と新調の創始者を虚子であるとし、その新調を鳴雪は危ぶんでおり、自分もまた「新調の放縦自在なる、是れ或いは人を誤まるの原因ならざるか。」と危惧する旨を言い、更に新調の矛盾を指摘し新調を模倣する事を戒めている。
そのことについては、志田義秀氏が「虚子氏とても子規の薫陶に育ったものである以上、客観的な静澄な境地をも詠じてはいるが、それは氏本来のものではない。碧梧桐氏の写実的なるに対して氏はどこまでも理想的であった。碧梧桐氏が端的に鋭敏な感覚を働かせるに対して、氏は瞑想的であり、低徊的である。従って其の好尚は、主観的な複雑な人事とか時間的な事物とか、いわば小説的な内容に向かっていた。」と述べている。
しかしである。碧梧桐と言えば、後々、「新傾向俳句」を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら「旧守派」を唱え、「新傾向俳句」に対して伝統俳句を守りつつ、「客観写生」「花鳥諷詠」を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである。

参考  清崎敏郎・川崎展宏著「虚子物語」有斐閣ブックス
山口誓子・松井利彦・他著「高浜虚子研究」右文書院

※この最後の「碧梧桐と言えば、後々、『新傾向俳句』を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら『旧守派』を唱え、『新傾向俳句』に対して伝統俳句を守りつつ、『客観写生』『花鳥諷詠』を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである」ということについては特記して置く必要があろう。

虚子の実像と虚像(十二)

明治三十八年、虚子三十二歳のとき、「ホトトギス」に、「俳諧スボタ経」(発表時の表記)というものを掲載した。これらのことについて、次のアドレスで次のとおり紹介されていた。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm#俳諧ズボタ経

○高浜虚子は明治三十八年九月号の「ホトトギス」誌上に、「俳諧須菩提(スボダ)経」なる文章を掲げた。かなり人を食った俳句の勧めである。内容は俳句を作る人にはいろいろな差があり、天分豊かな人と、天分を恵まれない人とには作る句にも大きな差があるが、ひとたび俳句に志した人には、まったく俳句を作らない人と比べて、救われる人と、救われない人との差があり、俳句を作る功徳はそこにあると言った意味の事を戯文的な筆で説き、最後に「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ。」と結んでいる。これは碧梧桐の「日本俳句」には秀才を集めた観があるのに対し、天分なき大衆を相手に俳句を説こうとした虚子の指導者としての意思があった。これは碧梧桐にない寛容であった。
参考     村山故郷著「明治俳壇史」

※この「俳諧須菩提(スボダ)経」というのは、終世、虚子が持ち続けた俳句信条ともいうべきものであろう。このタイトルの「須菩提(スボダ)」(しゅぼだい)というのは、釈迦の十大弟子の一人で、それが「俳句の世界」の中心に鎮座する「俳諧仏」の「長広舌」を筆録するという形をとっている。後の、虚子の小説「続俳諧師」(明治四十二年)の中に「俳諧ホケ経」というのが出て来るが、それは「俳諧須菩提(ズボダ)経」の形を変えたものである。そこで、「俳諧を信ずる人は上手であろうが下手であろうが、唯之にすがればよい」
というのが、その要約的なことである。「古人の句に三嘆し、朝暮工夫して古人の境まで到達する、これ俳句道に入ったもの。自分はできなくても古人の句の味がわかり、四時の循環に趣味を悟るみの、これ俳句道に入ったもの。句作はしないが評釈によって一句二句合点のいくのも俳句道」というのが、「俳諧須菩提(スボダ)経」の最後の場面である。すなわち、「俳句の功得は無量である。仏の手にすがって、『や・かな』の門をくぐればよい。上手下手は差別の側、平等の側に立って俳句の功徳を歓喜し愛楽せよ。その後に差別の側に立って、勇猛精進せよ。難行苦行せよ。悟れずとも進まずとも、この一道に繋がれよ。天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ」というのが、虚子の俳句信条ということになる。

虚子の実像と虚像(十三)

 子規がその後継者として考えていた人は虚子その人である。しかし、虚子は子規のその申し出を断った。子規の没後、子規が選をしていた「日本」新聞の俳句欄は碧梧桐が継ぐ。虚子は「ホトトギス」の経営にあたり、その関心事はもっぱら小説の方にあった。虚子が「ホトトギス」に雑詠を復活して俳壇に復帰するのは明治四十五年のことである。その背景には、碧梧桐らの新傾向俳句が、非定型、季語の否定の傾向を帯び、これでは子規が進めていた俳句革新は横道に逸れるということ察知して、これではならじと「守旧派」の旗印のもとに、子規の遺業を継ぐという道筋を辿る。これらの前提となる、明治二十八年の死期の迫った子規が虚子に後継者の申し出をする、いわゆる「道灌山山事件」について、
次のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

○俳句史などには「道灌山事件」などと呼ばれているが、事件というほどの物ではない。道灌山事件とは明治二十八年十二月九日(推定)道灌山の茶店で子規が虚子に俳句上の仕事の後継者になる事を頼み、虚子がこれを拒絶したという出来事である。
 ことはそれ以前の、子規が日清戦争の従軍記者としての帰途、船中にて喀血した子規は須磨保養院において療養をしていた。その時、短命を悟った子規は虚子に後事を託したいと思ったという。その当時、虚子は子規の看護のため須磨に滞在していたのだ。
明治二十八年七月二十五日(推定)、須磨保養院での夕食の時の事、明朝ここを発って帰京するという虚子に対して
「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸いに自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。(中略)其処でお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。」(子規居士と余)と子規は打ち明ける。
この子規の頼みに対して、虚子は荷が重く、多少迷惑に感じながらも、「やれる事ならやってみよう。」と返答したという。併し子規は虚子の言葉と態度から「虚子もやや決心せしが如く」と感じたらしく、五百木瓢亭宛の書簡に書いている。
 そして明治二十八年十二月九日、東京に戻っていた子規から虚子宛に手紙が届く。虚子は根岸の子規庵へ行ってみたところ、子規は少し話したい事がある。家よりは外のほうが良かろう、という事で二人は日暮里駅に近い道灌山にあった婆(ばば)の茶店に行くことになった。
 その時子規は「死はますます近づきぬ文学はようやく佳境に入りぬ」とたたみ掛け、我が文学の相続者は子以外にないのだ。その上は学問せよ、野心、名誉心を持てと膝詰め談判したという。しかし虚子は
「人が野心名誉心を目的にして学問修行等をするもそれを悪しとは思わず。然れども自分は野心名誉心を起こすことを好まず」
と子規の申し出を断ったという。数日後に虚子は子規宛に手紙を書き、きっちりと虚子の態度を表明している。
「愚考するところによれば、よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず、我乍ら残念に存じ候へど、この点に在っては終に見棄てられざるを得ざるものとせん方なくも明め申候。」
 これに対して子規は瓢亭あての書簡に
「最早小生の事業は小生一代の者に相成候」「非風去り、碧梧去り、虚子亦去る」と嘆いたという。
 道灌山事件の事は直ぐには世間に知らされず、かなり後に虚子が碧梧桐に打ち明けて話し、子規の死後、瓢亭の子規書簡が公表されてから一般に知られるようになったそうである。
参考  清崎敏郎・川崎展宏「虚子物語」有斐閣ブックス
宮坂静生著「正岡子規・死生観を見据えて」明治書院


虚子の実像と虚像(十四)

○ 霜降れば霜を盾とす法(のり)の城 (大正二年一月十九日)
○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (同年二月十日)

 この二句については、次のアドレスでそれぞれ次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

(掲出の一句目)

大正二年一月十九日鎌倉虚子庵句会の作。碧梧桐らの新傾向派に対する虚子の旧守の姿勢を現している。「法の城」「とは「法城」の事。仏語で仏法のことを言う。人々が心のよりどころとするので城にたとえるのである。霜が降れば、霜のような心もとないものでも、それを恃みに厳しく仏法(伝統俳句)を守る。と言うのが句意。
虚子はこの句を得た感想を
「余はこの一句を得て初めて今日の運座も為甲斐があったやうに感じたのであった。時雨の句を作る時からだんだんと熱し来た余の感情が初めて形を供へてこの句を為したように感じたのであった。」
と述べている。このことは五・七・五の定型を破壊しなくても、季節感を希薄にしなくても、自分の感情と俳句を重ね合わせることが出来る実感をもてたと言う事で、「今日の運座の為甲斐があった。」と述べたのだと思う。そして
「寺!それは全体どういふものであらう。俗世の衆生を済度するために法輪を転ずる所、祖師の法燈を護る所。足が一度山門をくぐると其の処はもう何人の犯す事も許されぬ別個の天地である。」
「かかる法域によって浮世に対している僧徒のことを思うと、それがこの頃の余の心持にぴったりと合って一種の感激を覚えるのでる。法の城!法の城!彼等は人の世に法の城を築いて、其の処に冷たき寒き彼等の生を護っているのである。彼等は何によって其の城を守るのであらう。曰く、風が吹けば風を楯とし、雨が降れば雨を楯とし、落ち葉がすれば落ち葉を楯とし、花が咲けば花を楯として。」
と言う、現在の心境である、俳句を守る、俳句を他の文芸、西洋文芸の影響から守るという硬い決意が伺える。
参考      松井利彦著「大正の俳人たち」 富士見書房
        川崎展宏、清崎敏郎著「虚子物語」有斐閣書房

(掲出の二句目)

大正二年二月の句。「霜降れば霜を楯とす法の城」と共に、碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した時の決意を表した句。「此れも彼の『法の城』の句と共に現在の余の心の消息である。余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ、句意は多言を要さぬことである。」(暫くぶりの句作・ほととぎす)と自ら語っている。大野林火はこの句について「この二句は(春風やと霜降ればの二句)巷間有名な程、さしてすぐれた句だとは思われない。両句ともに、虚子の俳句復活という、歴史的背景で有名なのであり、それを除けば両句とも内容概念的、詩情また豊かといえぬ。」(新稿高浜虚子・明治書院)と述べている。
参考    松井利彦著「大正の俳人たち」富士見書房
      大野林火「新稿高浜虚子」明治書院

虚子の実像と虚像(十五)

○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (虚子・大正二年)
○ ほととぎす敵は必ず斬るべきもの (草田男・昭和三十七年)

 掲出の一句目の虚子の句については先に触れた。「碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した」ときの虚子の「余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ」という挑戦的状的な決意表明の句である。そして、この掲出の二句目の草田男の句は、その虚子の「ホトトギス」門にあって、いろいろな変遷や経過はあったにしても、その「ホトトギス」の一時代を画した中村草田男の昭和三十七年当時の、かっての盟友ともいうべき「現代俳句協会」分裂に際しての金子兜太らへの挑戦状ともいうべき句なのである。この草田男の句は、たまたま、地方紙「下野新聞」の「季(とき)のううた」(平成十八年五月十八日)に掲載されたものである。この句の解説(評論家・村上護)は次のとおりである。
「五月中旬ごろ南方から渡来する夏鳥がホトトギス。その鳴き声に特色がある。血を吐くがごとき強烈さは、時に人を震え上がらせる。蕪村は『ほととぎす平安城を筋違(すじかい)に』と町の上を真っすぐ突っ切って渡るさまを詠んだ。そこに妥協の余地はない。掲出句も挑戦的で、『敵は必ず斬るべきもの』とは穏やかではない。昭和三十七年の作で、文芸上の論敵を情け容赦なく粉砕する宣戦布告の一句だ」。
 それにしても、この俳句王国といわれる愛媛出身の子規山脈にも連なり、そして師弟の関係にあった、虚子と草田男との挑戦状的な句を並列してみて、改めて、虚子の句の表面の装いとその内情との隔たりの違いということに唖然とする思いと、それに比して、草田男のこの掲出句のストレートさはこれまた「虚子と同じ俳句という土俵上のものなのか」と疑いたくなるようなそんな両者の隔たりを感じたのであった。ひるがえって、今日、俳句という土俵を考えると、この掲出の句で、一句目の虚子の句のような世界がそれとされ、そして、この二句目の草田男の句のような世界は、ともすると異端視される傾向が今なお続いているであろう。そして、今なお、この虚子の世界即俳句の世界といわしめているその根底には、厳然と、虚子がその生涯にわたって精魂を傾けたところの「ホトトギス」という出版活動があったということは、これまた、誰もが均しく認めるところのものであろう。そういう観点から、この草田男の「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」の、夏鳥の「ホトトギス」ではなく、虚子の携わった雑誌(俳誌)の「ホトトギス」が、碧梧桐を始め、どれだけの「敵は必ず斬るべきもの」で「斬り倒してきた」かは、この虚子と草田男との句を同時に鑑賞してみて、今さらながらに実感をするのである。

日曜日, 6月 11, 2006

若き日の蕪村(その六)



(七十一)

(Q)―4
一方、「澱河歌」「春風馬堤曲」の二作が、ほぼ単線的な時間の流れに沿って構成されているのに対して(後者の場合には十三首目から十五首目にかけて娘の回想が挿まれてはいるが)、この作品が、「君あしたに去」った衝撃の中に身を置いている「ゆふべ」の時間、それにつづく「岡のべ」の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっていることも、いっそうそうした疑問をかきたてる。
(A)―4
この「北寿老仙をいたむ」を、いわゆる、「俳諧」(連句)的手法によって構成されていると解すると、その「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章・連)のように解せられるのである(大正十四年に刊行された潁原退蔵著『蕪村全集』では、「雑題」の部に「晋我追悼曲 延享二年」として、行間をあけて次の八句(首・章・連)で表記されており、その表記が鑑賞をする上では理解しやすいと解する)。

北寿老仙をいたむ

一 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる・・・・(自他半)

二 君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき・・・(自)

三 蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき・・・(場)

四 雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
  友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき・・・(場)

五 へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき・・・(場)

六 友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ・・・(他)

七 君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる(自他半)

八 我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき・・・(自) 

 そして、この「俳諧」の「百韻」形式の「初折・表」の八句(首・章)の鑑賞に当たっては、まず、一句を鑑賞し、続いて、一・二句、さらに、二・三句(一句の転じ)鑑賞と、いわゆる、「三句の見渡し、前句・付句の付合の鑑賞」という進め方になろう。この観点から鑑賞していくと、何らの違和感もなく、いわゆる、寺田寅彦氏の「連句モンタージュ説」のように(動画を鑑賞するように)、「三コマを視野に入れて、一コマ又は二コマずつ」を鑑賞するのが基本なのであろう。そして、立花北枝の『附方自他伝』の「人情自・人情他・人情自他・人情なし(場)」(一句の視点の人物が自分か・他人か・自分と他人が半々か、それとも景色の句なのか)という視点からの鑑賞も必要となってこよう(参考までにその視点について上記のとおり括弧書きをした)。その上で、連句全体を見渡して、連続・非連続を見極めながら、全体を味わうということになろう。その結果が、丁度、「この作品が、『君あしたに去』った衝撃の中に身を置いている『ゆふべ』の時間、それにつづく『岡のべ』の逍遙の時間の中に、雉子の声の現在の時間、運命の一瞬への雉子の回想の時間を二重の入れ子型にはめ込み、草庵の夜の時間と場面で一篇を結ぶなど、より複雑な構成をとっている」という感慨を抱くということであって、この一連の作品を、あたかも、現代の「自由詩」の鑑賞のように、その十八行を、一つの連続したものとして鑑賞すると、これはどうにも手が追えないということになってしまうであろう(この十八行から、いわゆる俳諧形式の十八句から成る「半歌仙」形式も考えられるが、ここは、『百韻』形式の『初折・表』」の八句(首・章・連)」と解したい)。
(付記)『西脇順三郎詩集』所収の「旅人かへらず」について、那珂太郎氏の解説に「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせの妙は、俳諧連句の附合にも通ふ趣」があるという指摘をしている。その一から一六八の短章のうち、その二章から五章を抜粋して見ると以下のとおりとなる。そして、那珂氏の指摘するように、これらの「章から章への移りゆき、章と章との取り合わせ」という視点での鑑賞が「北寿老仙をいたむ」の鑑賞にも必須のように思われるのである。

旅人かへらず(西脇順三郎)

二   窓に
    うす明りのつく
    人の世の淋しき

三   自然の世の淋しき
    睡眠の淋しき

四   かたい庭

五   やぶがらし


(七十二)

(Q)―5
 「春風馬堤曲」「澱河歌」の二作を収める『夜半楽』の刊行された安永六年は、あたかも晋我三十三回忌に当たっている。六十二歳を迎えた蕪村は、すでに老境の悲しみを知り、心理的にはかっての長晋我を「友」と遇し「君」と呼んでも、それほど不自然ではない年齢に達していた。今は故人を知る数少ない一人、しかも京都俳壇の重鎮ということで、桃彦より追善集への出句の要請を受けていたかも知れない。だが、蕪村は娘くのの婚家とそれにつづく空虚感の中で、それに応える暇がなかった。それが、「馬堤曲」より『新花摘』へとつづいてゆく、幼時から青年時への追想・・・なつかしい時間帯の臥遊の夢に誘いおこされて、この近代詩とも見紛う浪漫的諸篇をつむぎ出すことになったのではあるまいか。そして晋我三十三回忌の追善集刊行の企画が何かの事情で流れて、その五十回忌に「庫のうちより身出」される結果となったのではなかろうか。
(A)―5
先の年譜により、時系列的に「延享年間成立説」・「宝暦年間成立説」・「安永年間成立説」を見ていけば次のとおりとなる。

☆延享二年(一七四五)蕪村・三十歳
△一月二十八日 早見晋我没(享年七十五歳)。※「北寿老仙をいたむ」はこの年に成ったか(延享二年説)。△七月三日  常磐潭北没(享年六十八歳)。□宋屋、奥羽行脚の途次結城の蕪村を訪ねたが不在(宋屋編『杖の土』)。
[寛保二年(一七四二)蕪村・二十七歳 六月六日 夜半亭宋阿没(享年六十七歳。六十六歳説もある)。□ 宋阿没後、江戸を去って結城の同門の先輩砂岡雁宕を頼る。以後、野総奥羽の間を十年にわたって遊行。常磐潭北と上野・下野巡遊の後、単身奥羽行脚を決行。]
☆宝暦七年(一七五四)蕪村・四十二歳
□宮津に在ること三年、京に再帰。「天橋立画賛」(嚢道人蕪村)。帰洛後氏を与謝と改る。△晋我・潭北十三回忌か。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(宝暦年間説)。
宝暦八年(一七五八)△六月六日、宋阿の慈明忌(十七回忌)にあたり、宋屋主催の追善法要が営まれ、上洛した雁宕とともに蕪村も出座、『戴恩謝』刊行。
[☆宝暦二年(一七五二)蕪村・三十七歳 ○宋屋編『杖の土』に「我庵に火箸を角や蝸牛」の句あり、東山麓に住していたか。雁宕・阿誰編『反古衾』刊行、「うかれ越せ鎌倉山を夕千鳥」(釈蕪村)の句など入集。『瘤柳』に「苗しろや植出せ鶴の一歩より」(釈蕪村)の句入集。☆宝暦四年(一七五四)蕪村・三十九歳六月、巴人の十三回忌にあたり、雁宕ら『夜半亭発句帖』(五年二月刊行)を編し、これに跋文を送る。宋屋、宋阿十三回忌集『明の蓮(はちす)』を編んだが、蕪村の名はない。既に丹後に住を移していたか。]
☆安永六年(一七七七)蕪村・六十二歳
○新年初会の歳旦『夜半楽』巻頭歌仙興行、二月春興帖『夜半楽』刊行。「春風馬堤曲」(十八章)・「澱河歌」(三章)・「老鶯児」(一句)の三部作。四月八日『新花つみ』(寛政九年刊行)の夏行を発願。一月晦日付け霞夫宛て書簡。二月二日(推定)付け何来宛て書簡。※「北寿老仙をいたむ」この頃に成ったか(安永六年説)。晋我三十三回忌か。
[安永元年(一七七二年)蕪村・五十七歳 △十二月十五日、阿誰没(享年六十七歳)。安永二年(一七七三)蕪村・五十八歳 七月三十日、砂岡雁宕没(享年七十歳余)。安永三年(一七七四)蕪村・五十九歳 ○四月十四日、暁台・士朗の一行賀茂祭を見物。四月十五日、暁台ら歓迎歌仙興行。六月六日、宋阿三十三回忌。『むかしを今』(追善集)を刊行。安永五年(一七七六)蕪村・六十一歳 ○樋口道立の発起により金福寺境内に芭蕉庵の再興を企て、写経社会を結成。安永五年六月九日付け暁台宛て書簡。]

 安東次男稿「『北寿老仙をいたむ』のわかりにくさ」(日本詩人選『与謝蕪村』)の中で、「要するに、拠るべき資料が何一つ他に発見されていない現在、この詩は延享二年から安永六年ごろまでの間に書かれたという以外には、確たる証明のしようがないのである」という指摘をしている。そういうことを前提として、上記の三説を見ていくと、その一の「延享二年説」(延享年間説)が、いわゆる通説で、その三の「安永六年説」(安永年間説)が近時「延享二年説」を上回る傾向を示している有力説ということになる。そして、その二の「宝暦七年説」(宝暦年間説)は未だ図書・雑誌の類では目にすることができないほどの少数説ということになる。しかし、この「北寿老仙をいたむ」の「釈蕪村」という署名とその「釈蕪村」と署名された他の蕪村の「句文集」をつぶさに見ていくと、これまでに見てきたとおりに、「延享二年説」の疑問(「この異色の俳詩を誕生させるような環境にあったのかどうか」という疑問)も「安永六年説」の疑問(「この異色の俳詩を他の類似の俳詩のもとに同列して鑑賞する」ことへの疑問)をも半ば折衷するような形での第三の「宝暦七年説」というのも、今後、さらに検討されて、少なくとも、「安永六年説」と同じ程度の根拠を有するもと解したいのである。

(七十三)
 
(Q)―6
「君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に」という歌い出しは、晋我の悲報に接した直後のナマナマしい衝撃の中で作られたことを示すものではないかという疑念に対しては、「あした」「ゆふべ」の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む。「釈蕪村」の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で「門人 宰鳥校」と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう。その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい。
(A)―6
上記の「『あした』『ゆふべ』の対句が漢詩表現の常套であることを想起すれば済む」ということについては、この俳詩の発句ともいうべき冒頭の「あした」・「ゆふべ」・「はるかなる」(この「はるか」は「遙か」と「杳か」の両意義に解したい)であり、ここには、萩原朔太郎をして、「常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在してゐるのである」(『郷愁の詩人 与謝蕪村』所収「凧きのふの空の有りどころ」の鑑賞視点)といわしめた「蕪村俳句のモチーブを表出した哲学的標句」(萩原・前掲書)と理解すべきであり、単なる「漢詩表現の常套」的なものではなかろう。
次に「『釈蕪村』の署名も、蕪村が巴人の口質に倣わんことを序文にうたった『夜半楽』の巻尾に、巴人の門下に遊んだ若き日の旧号で『門人 宰鳥校』と奥書きした心意を思い合わせれば、これも懐旧の念から出たものと納得がゆくだろう」ということについては、明和七年に夜半亭二世を継承して、画俳二道を極めた、安永年間の蕪村が、よりによって、還俗前の苦難の絶頂の頃の修行僧時代の「釈蕪村」の「姓・号」を「釈蕪村百拝書」と認めることは到底考えも及ばないところであろう(管見では安永年間に「釈蕪村」という署名は見あたらない。なお、『安永六年春興帖』では、「宰鳥」以前の「宰町」を号したものもあり、いわゆる「春興帖」の一趣向の「門人 宰鳥校」と同一視することは危険であろう)。
続く「その情感の直截性のゆえに、これが三十三年後の作であることを否定する向きには、蕪村が老年に及ぶに伴ってその豊かな想像力によりいよいよみずみずしい青春の花を咲かせた詩人であったことを挙げればよい」ということについては、いかに、晩成の蕪村であっても、「青・壮年」時代の「想像力」と六十歳を越えた「老年」時代の「想像力」では、関心の置き所を自ずから異なにするものであり、もし、「その情感の直截性」ということが察知できるとすれば、それは、より「青・壮年」時代のものと理解すべきものなのであろう。


(七十四)

(Q)―7
砂岡家は雁宕とその嗣子の早世によって廃絶しているから、蕪村の追悼詩が雁宕の遺族に送られてきても受取人が無く、親戚の早見家に渡ってオクラになったということは充分考えられるのである。ついでに言えば、雁宕没後二十年、蕪村没後十年、晋我没後四十八年の寛政五年(一七九三)に「いそのはな」を編んで「北寿老仙をいたむ」を初めて世に発表した晋我の嗣子桃彦は、このときいったい幾歳になっていたのであろうか。仮に晋我三十歳のときの子とすれば九十五歳、四十歳のときの子としても八十五歳である。当時それほどの長寿の例があったのであろうか。北寿老仙即雁宕説が浮上してもおかしくない理由はここにもあるのではないか。
(A)―7
このことについては、『いそのはな』の東都柳塘下七十三叟獅子眠雞口の序文「世を譲(ゆづり)て北寿と呼(よば)れ、行年七十五の春を夢となしぬ」からして、(早見)晋我即北寿(老仙)ということになろう。さらに、「巴人の十七回忌が京都で修せられたときには雁宕は上洛して蕪村とともに修忌の役割を果したりした仲で、その交友は三十年にも及ぶ。晋我とのつきあいはたった三年である。安永二年の蕪村は夜半亭二世の文台をおいて数年、画人としても大成して、つまり人間的にも大きくなっていたから、先輩の雁宕をこそ北寿老仙という敬称で追慕するにふさわしい間柄であったと考えるのが自然」ということについては、雁宕と蕪村との関係はそのとおりとして、晋我と蕪村との関係も、宋阿在世中からのもので、宋阿が江戸に再帰した元文二年(蕪村二十二歳)頃から親交があったと思われ、それからするとやはり七・八年の年数とその晋我の嗣子桃彦始めその弟の田洪などとは昵懇の間柄であり、雁宕とは違った家族ぐるみの交遊関係があったことは、蕪村と桃彦との書簡で明らかなところであろう(宝暦元年十一月□二日付けの桃彦宛ての書簡については先に触れた)。さらに、元文四年の宋阿が撰集した其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(その下巻の版下は蕪村の前号の宰鳥といわれている)に、素順(晋我の別号)の興行した歌仙「空へ吹(く)の巻」も収載されており、蕪村が「北寿老仙をいたむ」の追悼詩を手向けることは、これは自然なものと理解ができよう。蕪村の晩年の安永六年の回想録『新花摘』にも晋我は登場し、とにもかくにも、晋我は、蕪村にとって生涯にわたって忘れ得ざる一人であったということはここでも記しておきたい。
しかし、この「北寿老仙をいたむ」が何時の時点で作成されたのかということを考慮するときに、単に、北寿老仙こと晋我に関することだけではなく、其角門で晋我と兄弟弟子の一人でもあった蕪村の師の宋阿やその宋阿門で晋我の縁者でもあり蕪村にとっては切っても切れない関係にあった結城の俳人・雁宕との関係などを探るということは必須のことであろう。そして、先に触れたところの「宝暦年間成立説」においては、雁宕等編の『反古衾』、巴人の十三回忌にあたり編纂した雁宕ら編の『夜半亭発句帖』、そして、雁宕の菩提寺の弘経寺にその句碑がある「木の葉経(このはぎょう)」句文など、すべからく、その署名の「釈蕪村」とともにその根拠になっていることは、ここで重ねて記しておきたい。


(七十五)

(Q)―8
安永年間成立ならば、「釈蕪村百拝書」という署名をどう理解すればいいのか。蕪村は師である巴人没後得度をして、①延享・寛延頃(註・『反古衾』は宝暦二年刊)の発句「うかれ越せ」(『反古衾』)、②宝暦三年(一七五三)『瘤柳』所収発句「苗しろや」、③宝暦二・三年と推定(註・「宝暦初年」)できる句文「木の葉経」、④宝暦四年(一七五四)に認めた『夜半亭発句帖』跋などに「釈蕪村」と名乗る。また、宝永元年の「名月摺物ノ詞書」にも文中に頭を丸めていたことを明言しているのである。さらにいえば、作品の付記「庫のうちより見出つねまゝに右しるし侍る」を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか、など疑問は絶えない。
(A)―8
これらのことについては、いろいろな形で先に触れてきたところである。ただ一つ、「作品の付記『庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る』を編者桃彦のものとすることに間違いはないのか。この謎めいた付記は何を意味するのか。また、流麗な晩年の蕪村真筆なら何故自筆のまま掲載しなかったか」ということについては、やはり一応の考え方を記しておきたい。
 桃彦(今晋我)が編纂した『いそのはな』の前書きは、編纂者が付したものと作者が付したものと二通りが読み取れる。そして、問題の「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は前書きではなく、末尾に付せられている「奥書」の体裁で、この「奥書」を編纂者・桃彦がしたのか作者・蕪村がしたのかは定かではない。何の疑いもなく編纂者・桃彦が「庫(くら)のうちより見出(みいで)つるまゝに右しるし侍(はべ)る」と理解をしていたが、これを蕪村が記したものと解すると、蕪村には、この種の「手控え」」(文書)などがあって、それが出てきたので、「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」ということになる。このように解すると、「安永年間作成説」又は「宝暦年間作成説」のどちらかということになろう。そして、この「北寿老仙をいたむ」が、他の俳詩の「春風馬堤曲」・「澱河歌」と類似志向が見られるということについては、それらは、これらの「手控え」」(文書)を参考として、成立したものとも考えられ、時系列的に、『いそのはな』へ寄稿した「北寿老仙をいたむ」の原文は、「宝暦年間作成説」の「宝暦年間」に作成されたものという理解も成り立つであろう。丁度、芭蕉の不朽の名作『おくの細道』が、芭蕉が常々携行していたいわゆる「小文」の集大成で形を為してきたと同じような経過をたどり、いわゆる、蕪村の異色の傑作俳詩「春風馬堤曲」・「澱河歌」は成立していくという理解である。ともあれ、ここでは、この「庫のうちより見出つるまゝに右しるし侍る」は編纂者・桃彦が付したものと理解をしておきたい。