原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十・その十一)
(その十) 「十 花影婆娑とふむべくありぬ岨の月 1913・句 1956・4板」と(その十一)「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」
(その十) 「十 花影婆娑とふむべくありぬ岨(そば)の月 1913・句 1956・4板」
「十 花影婆娑とふむべくありぬ岨の月 1913・句 1956・4板」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/14
「十 花影婆娑とふむべくありぬ岨の月 1913・句 1956・4板」の「解説」(高浜虚子)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/14
この句の「解説」は、「高浜虚子」であるが、これは、虚子の「進むべき俳句の道」の中のものである。その全文を記すと、次のとおりである。
「 岨道を歩いてゐると、空には月が出てゐる。そこに突き出てゐる桜の枝は空の月の光りを受けて其影を地上に落してゐる。婆娑は影の形容で、其岨道を歩いて行くと自然其花の影を踏んで通らねばならぬ、よろしい、面白い此景色のもとに我れは其影を踏んでやらうといふのである。これも只客観的に叙するならば、「花影婆娑と路上にあるや岨の月」とでもいふべきであるが、作者の興奮した感情はさういふ冷ややかな客観叙法では満足が出来ないで、われはあの影を踏まねばならぬ、よろしい踏んでやらうといふところまで立入つて、打興じた心持で此句は出来たのである。」(『定本高浜虚子全集/第十巻/毎日新聞社刊』所収「進むべき俳句の道」)
この句は、大正二年(一九一三)、二十七歳、深吉野(東吉野村)での作である。
涙目に見ありく背戸や蕗の薹 (「兄故郷へ帰り我一人山に残る」)
春雨や山里ながら広き道 (山中松山といふ所あり、その近くにて)
※花影婆娑と踏むべくありぬ岨(そば)の月
花の戸やひそかに山の月を領す
杣(そま)が灯す柱の影や青芒
老杣のあぐらにくらき蚊遣(かやり)かな
百合たむけて木の間にありぬ山の墓
灯(ともし)置けば百合本箱に映りけり (「山居独房」)
粥すゝる杣が胃の府や夜の秋 (「深吉野の山人は粥をすゝりて生く」)
月見るや山冷到る僧の前 (「鷲屋口宝泉寺にて画筆をふるひて泊る」)
あはれさは鹿火屋に月を守(も)ることか (「三尾に行きて帰る 三句)
淋しさにまた銅鑼(どら)うつや鹿火屋守 (同上)
あさましく山にぞ明けし鹿火屋かな (同上)
船で着く行李待つ我に秋日かな (「放浪の身はまた深吉野ヲ立出でゝ郷里出雲に仮の
宿りを定む」)
想ひ見るや我屍にふるみぞれ (放浪年久しく)
『原石鼎全句集(沖積舎・一九九〇刊)』の「大正二年」作の句からの十五句である。『自選句集 花影(改造社・一九三七)』では、「※花影婆娑と踏むべくありぬ岨(そば)の月」の句は、下記アドレス(「国立国会図書館デジタルコレクション」)で閲覧することが出来る。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1261953/1/12
(その十一)「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」
「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1
https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/47
「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」の「解説」(山口誓子)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/15
この句は、大正九年(一九二〇)、石鼎、三十五歳時の作である。『原石鼎全句集(沖積舎・一九九〇刊)』では、この句の前後に「亀・(狐)・蝶・鯉」と、石鼎の「動物」の句が続く。
花吹雪浮麩(うきふ)噛(か)む亀(かめ)口赤し
※うれしさの狐手を出せ曇り花 (※「曇り花」=「花曇(晩春)」)
初夏の瞳海(どうかい)を飛ぶ蝶一つ(※「瞳海」=「瞳色=青色の海」?)
鯉の眼に朱(しゅ)の輪黄(き)の輪や幟店
掲出の「※うれしさの狐手を出せ曇り花」の句の「解説」は、「ホトトギス」の「村上鬼城・飯田蛇笏・前田普羅・原石鼎」時代の、次の「四S(水原秋桜子・高野素十・阿波野青畝・山口誓子)」の「山口誓子」のものである。
ここでは、下記のアドレス(「国立国会図書館デジタルコレクション」)の『板画の道(棟方志功著)』所収「青天微笑」の「※うれしさの狐手を出せ曇り花」のものを、抜粋して、その全文を掲載して置きたい。
『板画の道(棟方志功著)』所収「青天微笑」の「※うれしさの狐手を出せ曇り花」の「棟方志功の『鑑賞』」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/116
[ うれしさの狐手を出せ曇り花 石鼎
最初に記した、春の水の句と同じに、この句の絶対を、大変・・と嘆じました。
うれしさの……ここまで息をつく瞬時なく、もう原石鼎氏が、詠まんとする絶対が、叫ばれている様です。
うれしさの……と、嬉しさに、狐手もう、ひとり出に狐手になっている人の格好が浮かんで参ります。
人が狐手にしているのでは、なく、狐が人を狐手にしているのです。もう一つ言いたくなれば、狐自体が面白くなって狐手になっているという狐自体をなくして、狐手になっているという世界です。どうして、こんな形の手になっているんだろうと、不思議なことに驚ろいている狐を思い出されるのです。
それ程に、この狐手・・の魔力があるのです。そのおかしな手首の手を出さないではいられない自然さ・・・に、わたくしは、この句の打ちどころがあると思うのです。
狐手を出せと叫んでいます。出せと言われなくっても出さないでは居られない事になって仕舞っているのです。わたくし達は、どうする事も・・・・・・、こうする事も・・・・・・出来ない所に置かれて仕舞っているのです。
そうして、曇り花・・とおさめられて仕舞うのです。まるで手品師の様に、自由にされて仕舞うんです。
曇り花・・・と結んだ原石鼎氏の真一文字の口振りには、何も申し上げることも出来ません。
会津八一氏の歌の中に、わたくしの好きな、「毘沙門のおもきかかとにまろびふす鬼のもたえも千年へにけむ」という一首があります。
その鬼の様に不易永劫のもだえ・・・の様に、この句の曇り花・・・もどこまでも、いつまでも晴れ切れない花盛りである様です。花曇りは、花盛りではなく、いつも、いつも曇り花である様です。曇り花である様です。](『「板画の道(棟方志功著)」所収「青天微笑」)
この掲出句周辺については、下記のアドレスで紹介されている。
https://river3island.livedoor.blog/archives/22092897.html
https://kajipon.sakura.ne.jp/kt/munakata.html
https://munakatashiko-museum.jp/biography/
(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その四」)」
「大和し美(うるは)し/剣の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/21
[(母となる人)を盗みしわが兄と
われ自らの夢にふるへおののきし
さるにわれ
いましが甘き息の
もと、再び酔
に落ちしこそ
わが過(あやまち)なれ
汝はいまもわれを待
ちらむ、あゝ美夜受(みやづ)、わ
れ待ちがてに、襲(おすび)の欄(すそ)に
またも月
のたゝむとき
契りて
置
きしわが
劔(つるぎ)
かひな
にまかむ
かくてなれわが
肉身を得
ざるにぞ、
まこと
の愛学ぶべし ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)
「大和し美(うるは)し/矢燕の柵」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/21
[あゝ帰らざる昨日をなげき一昨日(おととひ)のな
げきぞ新ら
鎧
ま
と
へる
若者ひとり
岩角(いはかど)に立ち、誇らかに来し方遥
かにふりかへる、そは昨日のわれなり
征矢(や)飛び来つてわが
楯に中(あた)ると見れば
「大和し美(うるは)し/矢燕の柵」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/23
[燕なり、身を翻(ひるが)へしわ
が
肩を
掠めて去りぬ
世は真夏 ]
原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十二・その十三)
(その十二) 「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花 1935・句 1955・3板 」と(その十三)
「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」
(その十二) 「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花 1935・句 1955・3板 」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/16
「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花 1935・句 1955・3板 」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/16
「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花 1935・句 1955・3板 」の「解説」(棟方志功)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/16
この句は、昭和十年(一九三五)、石鼎、四十九歳時の作で、母が亡くなった時の、一連の句の中の一句である。
ほのと積めば粉雪霰も春のもの(「母危篤の電報により即刻帰省、以下、略」)
一枝の椿を見むと故郷に(「二 一枝の椿を見むと故郷に 1935・句 1956・1板」)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-06-18
母癒えよと春の霰の月に歩す
春雪に華やかなりし夜なりけり
紅椿白玉椿薗の奥
本堂の柱に映る木の芽かな(「母の初七日、中略 二句)
本堂の太しき柱木の芽時(同上)
花の月枝がくれ母の心かも
霞まんとして霞みを居り花の春
※ひとりでににじむ涙や峰の花
『板画の道(棟方志功著)』所収「青天微笑/p211」の、この句の前後の句などは次のとおりである。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/116
「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」
※十二 ひとりでににじむ涙や峰の花
「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」
この三句の、上五の、「ぎくぎくと」・「ひとりでに」・「うれしさの」の、平仮名の平易な切り出しの用例は、「石鼎俳句」の、初期から晩年に至るまで終始変わらぬ、一つの特徴でもある。
なつかしや山人の目に鯨売 (大正元年=一九一二、二十六歳)
かしさはひともしごろの雪山家 (同上)
四 もろもろの木に降る春の霙かな 1934・句 1956・1板 (四十五歳)
七 はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士 1931・句 1956・3板 (四十八歳)
二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句 (三十歳)
二十七 ずんずんと日に秋深むおもひかな 1941・句 1955・9板 (四十七歳)
たぐひなき花の真紅の小菊かな (昭和二十五年=一九五〇、六十四歳)
このわたり華やかならぬ紅葉かな (同上)
たそがれの静けさ添はず冬の木々 (同上)
(その十三)「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」
「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/17
「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」の「解説」(原コウ子)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/17
この句は、『板画の道(棟方志功著)』所収「青天微笑/p211」では、冒頭のトップに出て来る句である。その掲載句の順は次のとおりとなる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/115
一 春の水岸へ岸へと夕かな (「青天微笑/p211」の冒頭のトップの句)
二 「三 この朧海山へだつ思ひかな 1935・句 1956・2板」
四 「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」
五 ※十二 ひとりでににじむ涙や峰の花
六 「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」
この『板画の道(棟方志功著)』の冒頭のトップの掲出の句は、志功にとっても、思い入れの深い句なのであろうが、この『青天抄板畫巻(著者/原石鼎 句, 棟方志功 板/出版者・宝文館)』 では、亡き「石鼎」夫人の、「原コウ子」の解説を載せている。
これは、この掲出の句も、掲出の前句(「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花」)と同じく昭和十年(一九三五)、石鼎、四十九歳時の作で、母が亡くなった時の、一連の句の中の一句なのである。
この昭和十年(一九三五)の「年譜」(『原石鼎全句集・沖積舎刊』所収)には、「二月、母危はを終え、帰京。三月、母死亡。」とあり、この、二月から三月かけての「石鼎の母没」時の石鼎に、終始、その奥様の俳人の「原コウ子」が同行していて、この句は、「原コウ子」にとっても思い入れの深い句であったのであろう。
その「解説」(鑑賞)の、「まことに不思議な『夕』の一字である」は、この句の的矢を得ている思いを深くする。この、「原コウ子」の、この「夕」(一字)の発見は、上記の七句で拾うと、次のとおりとなる。
一 春の水岸へ岸へと夕かな (「青天微笑/p211」の冒頭のトップの句)→「夕」
二 「三 この朧海山へだつ思ひかな 1935・句 1956・2板」 →「朧」
四 「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」 →「乳」
五 ※十二 ひとりでににじむ涙や峰の花 →「涙」
六 「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」 →「狐」
「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」の「部分拡大図」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/17
この志功の描く「女神像(一面六臂=腕)」の原型は、興福寺の「阿修羅像=A図」(三面六臂)というよりも、保田保重郎の短歌をテーマにした「絃火頌(かぎろいしょう)」の各図(B図・C図・D図)などのバリエーション(変種)の一つのように思われる。
「興福寺阿修羅像(A図)」(「ウィキペディア」)
「絃火頌(かぎろいしょう)/神火の柵」(棟方志功/昭和30/29.8×24.1㎝)→B図
https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/23
[火の国の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり(歌・保田與重郎)](『棟方志功全集6『詩歌の柵2』』)
「絃火頌(かぎろいしょう)/風立つの柵(乾坤鼓笛の柵)」(棟方志功/昭和29/20.7×25.0㎝)
→C図
https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/19
[このひるのわがあるままのすがしさよいつかに似たる風立ちにけり(歌・保田與重郎) ](『棟方志功全集6『詩歌の柵2』』)
「絃火頌(かぎろいしょう)/吾妹子の柵(葵花の柵)」(棟方志功/昭和30/20.8×26.5㎝)
→D図
https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/30
[吾妹子葵花(きか)咲く八重垣のすずしく水は石ぬらしけり(歌・保田與重郎)](保田保重郎) ](『棟方志功全集6『詩歌の柵2』』)
このD図(「吾妹子の柵(葵花の柵)」)は、「観音経板画巻(「観音経曼荼羅」)」の「阿修羅の柵」や「夜叉の柵」と、同一趣向のものであろう。
「観音経板画巻(「観音経曼荼羅」)/阿修羅の柵」(棟方志功/昭和13/40.9×50.6㎝)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12753895/1/48
[阿修羅身=仏法守護神の一人であるが、よく帝釈天と争うという両方の性格を持つ鬼神]
「観音経板画巻(「観音経曼荼羅」)/夜叉の柵」(棟方志功/昭和13/40.9×50.6㎝)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12753895/1/49
[夜叉身=半神半鬼の性格と神通力をもつ神で、インド神話では人を食う鬼とされ、仏教に入り仏法の守護神となる。]
この「観音経板画巻(「観音経曼荼羅」)は、「棟方志功略年譜」(『棟方志功全集(講談社刊)』所収)の、昭和十三年(一九三八)の項に、「日本民芸館展に『観音経板画巻』を出品。柳宗悦の指導で裏彩色を始める。」とあり、この作品が、志功の本格的な「裏彩色(うらさいしき)」作品のスタートの作品となる。
(「裏彩色」)
http://www.chichibu.ne.jp/~yamato-a-t/munakata.html
[ 裏彩色(抜粋)
日本古来の彩色板画は浮世絵のように多色刷ですが、棟方志功は白黒板画を鮮やかにするために彩色を施しました。初め「ヴェニース生誕」や「大和し美し」のように表に色付けをしました。これを見た柳宗悦が、中国の古法で和紙の裏から色付けする裏彩色を教示しました。この方法だと板画の線がマスクされずに自由に彩色されます。昭和十二年以後の作品は裏彩色によるものがたくさんあります。 ]
(参考) 「大和し美(うるは)し/矢燕の柵(白黒版画図)」(1936年(昭11)と「大和し美(うるは)し/草燕の柵(表彩色版画図)」(19376年(昭12)
左図(白黒版画図)→ 「大和し美(うるは)し/矢燕の柵」(1936年(昭11)/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/21
右図(表彩色版画図) → 「大和し美(うるは)し/草燕の柵」(1937年(昭12))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/31
[ 棟方は「大和し美し」全二十図から五図を選び、初めて表から絵筆で彩色した。その作品を見た柳宗悦は、表からの彩色が版画の効果を損なうを惜しみ、裏からの彩色をすすめた。
(中略) 昭和十二年、「観音経板画巻」で代赭(だいしゃ)色による裏彩色を全作品に施し、裏彩色による棟方独自の作品が完成した。](『棟方志功全集5『詩歌の柵1』』)
(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その五」)」
「大和し美(うるは)し/弟橘の柵」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/24
[ 野はかぎりなき
海にも似たり
住家みな輝く波に
おほはれて人なきごとし
まことの営みは恒にかくあり
そを知らざりしこそわが愚なれ
われは感じぬ、なき妻の
いまはの歌の一節(ひとふし)ぞ勝利
の鼓に優れるを
あゝ橘思ひぞ
いづれ、かの日
空は暗澹として
霙(みぞれ)落ちこむ
景色なり
淵さながらの
空を劃(くぎ)りて涯
もなく葦は ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)
「大和し美(うるは)し/鷺群の柵」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/24
[ 穂を並む
われら道をなきそのなか
をひたすら進みき
なれの頬そこここに血を滲ま
すに
われ気づかへば、
不吉なるものを感ぜしごとく
------道速振(ちはやぶる)神の住む
てふ大沼はいづれにあらむ、
その気もあらず、
怪し
あ
や
し
かく言ひも
終らぬうちに鷺(さぎ)群(むれ)をな
し葦原を飛び ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)
原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十四・その十五)
(その十四) 「十四 青天や白き五弁の梨の花 1936・句 1956・5板 」と(その十五)「十五 高々と蝶こゆる谷の深さかな 1913・句 1955・4板 」
(その十四) 「十四 青天や白き五弁の梨の花 1936・句 1956・5板 」
「十四 青天や白き五弁の梨の花 1936・句 1956・5板 」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/18
「十四 青天や白き五弁の梨の花 1936・句 1956・5板 」の「解説」(京極杜藻)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/18
この句は、昭和十一年(一九三六)、石鼎、五十歳時の作で、『原石鼎全句集(沖積舎刊)』では、一連の「梨の花」(四句)中の一句である。
突風のふるはせすぎぬ梨の花
突風に人はしらじな梨の花
五辯づゝつぶらつぶらに梨の花
※青天や白き五辯の梨の花
京極杜藻の「解説」は、「かういふ句は説明が出来ない。説明はみな蛇足となる。」というのだが、これが、棟方志功の「白黒板画(版画)」の、「白裸の女人像(柵)」と一体となると、この句が、生き生きと躍動してくる。
「絃火頌(かぎろいしょう)/鎮女妃の柵(胸肩妃の柵)」(棟方志功/昭和40/30.4×24.3
㎝) → A図
https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/30
[ 三輪山の中つ尾の上の夜目遠目白きはけだし桜花かな(歌・保田與重郎) ]
掲出の保田與重郎の歌の「三輪山」は、「大和し美し」(板画・棟方志功/詩・佐藤一英)の象徴的な、奈良県北部奈良盆地の南東部に位置する、別名に「三諸山(みもろやま)・美和山」・御諸岳」などと、『古事記』『日本書紀』の三輪山伝説(大物主神の伝説)を、今に伝えている、その象徴的な山である。(「ウィキペディア」)
https://www.pref.nara.jp/50565.htm
「三輪山を 然(しか)もも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや」(額田王『万葉集』巻一・一八番歌)
(【訳】 三輪山をこのように隠すのか。せめて雲だけでも心あってほしいものを。隠すべきではない。)
「三輪山」(抜粋「三輪山に大鳥居が正面となる。」)
http://sakuwa.com/p97.html
[ここに大国主の神愁(うれ)へて告りたまはく、「吾独(ひとり)して、何(いかに)かもよくこの国をえ作らむ。いづれの神と、吾(あ)とよくこの国を相作(つく)らむ」とのりたまひき。この時に海をてらして依りくる神あり。その神の言(の)りたまはく、「我(あ)が前(みまへ)をよく治めば、吾(あれ)よくともどもに相作り成さむ。もし然あらずは、国成り難(がた)けむ」とのりたまひき。ここに大国主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむ状(さま)はいかに」とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、「吾(あ)をば倭(やまと)の青垣(あをかき)の東の山の上に斉(いつ)きまつれ」とのりたまひき。こは御諸(みもろ)の山の上にます神(注)なり。
御諸の山の神 古事記より
三輪山は面積ざっと百万坪、倭青垣山というその別名でもわかるように、日本盆地におけるもっとも美しい独立丘陵である。神岳(かみやま)という別称もえる。秀麗で霊気を感ずる独立丘陵を古代人は神南備山(かんなびやま)ととなえて山そのものを神体としてしまったが、神南備山である三輪山は、日本におけるその古代信仰世界の首座を占める。
古代出雲族の活躍の中心が、いまの島根県でなくむしろ大和であったということ、・・・その大和盆地の政教上の中心が三輪山である。出雲族の首都といっていい。
司馬遼太郎 街道をゆく(1)より ]
「絃火頌(かぎろいしょう)/美輪山の柵(いつきし万比女の柵)(宗像妃の柵)」(棟方志功/昭和40/29.54×23.2㎝) → B図
[三わ山のしつめ乃(の)池の中島の日うらゝかにいつきし万比女(歌・保田與重郎)]
この保田與重郎の歌の「万比女(まひめ)」は、「額田王」と解して良かろう。そして、「万比女の柵(「額田王」の柵)は、棟方志功は「宗像妃の柵」とも称しており、自分の姓のルーツでもある、「胸肩(むなかた)・宗像(むなかた)・棟方(むなかた)」妃(姫)の原型(御神体)は、「弁財天」(弁才天・吉祥天)であるということについては、下記のアドレスで紹介してきた。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-06-27
そこで、紹介した「弁財天(べんさいてん)妃(ひ)の柵」は、下記(再掲)のとおり、額の中央に赤い「鳥居」が描かれており、これは、上記で紹介している「三輪山に大鳥居」(写真)のイメージとオーバラップしてくる。
そして、この「弁財天(べんさいてん)妃(ひ)の柵」の、その額の「鳥居」は外して、琵琶を抱いている弁財天像こそ、B図の「美輪山の柵(いつきし万比女の柵)(宗像妃の柵)」であり、さらに、それは、A図の「鎮女妃の柵(胸肩妃の柵)」(額に鳥居が描かれている)と連動していると解して差し支えなかろう。
(再掲)
「弁財天(べんさいてん)妃(ひ)の柵」
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748140/1/82
ここで、上記に抜粋掲載した、「神南備山(かんなびやま)である三輪山は、日本におけるその古代信仰世界の首座を占める。古代出雲族の活躍の中心が、いまの島根県でなくむしろ大和であったということ、・・・その大和盆地の政教上の中心が三輪山である。出雲族の首都といっていい。(司馬遼太郎『街道をゆく(1))より)」と関連させると、「棟方志功(津軽「胸肩神社)」・「原石鼎(出雲「出雲大社)」・「橋本平八・北園克衛兄弟(伊勢「伊勢神宮」)・「保田與重郎(大和桜井「大神神社・檜原神社」)らが、「大和し美(うるは)し(棟方志功板画・佐藤一英詩)」の「倭建命・日本武尊(やまとたけるのみこと)・小碓命(おうすのみこと)」を介して一線に結びついて来る。
これらの、「大和し美(うるは)し(棟方志功・板画/佐藤一英・詩)」の世界から、さらに飛翼を遂げて、今に、「桜井市の万葉歌碑(桜井記紀万葉歌碑)」(「昭和46年当時の桜井市長と桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎氏が中心になって、当時の著名な文化人の揮毫を依頼し建立された歌碑」)か、その威容を伝えている。
その全容は、下記のアドレスの『昭和の文人が愛した神なびの郷 桜井記紀万葉歌碑原書展図録』に紹介されているが、その「桜井記紀万葉歌碑」に揮毫を寄せた文化人は、下記のとおりである。
https://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=8222
[ 『昭和の文人が愛した神なびの郷 桜井記紀万葉歌碑原書展図録』(抜粋)
一、山の辺・三輪地域
小林秀雄、中河与一、会津八一、山本健吉、武者小路実篤、佐藤佐太郎、鹿児島寿蔵、岡潔、棟方志功、市原豊太、入江泰吉、吉田富三、※川端康成、東山魁夷、久松潜一、千玄室、徳川宗敬、安田靫彦、北岡壽逸、月山貞一、※※川端康成、樋口隆康、堂本印象、黛敏郎、和田嘉寿男、林房雄、山口誓子、今東光、有島生馬、樋口清之
(注一 ※川端康成=「大和は 国のまほろば/たたなづく 青がき/山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し/(古事記・中巻 倭建命(場所:井寺池畔)→ 下記に掲出
https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91-%E4%BD%9C%E8%80%85%E5%88%A5/10-%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%81%AF%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%BB%E3%82%8D%E3%81%B0/
注二 ※※川端康成=「三輪山を/しかも隠すか/雲だにも/こころあらなむ/隠くさふべしや/(万葉集巻1-18 額田王)( 場所:芝運動公園)
https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91-%E4%BD%9C%E8%80%85%E5%88%A5/46-%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%8B%E3%82%82%E9%9A%A0%E3%81%99%E3%81%8B/
注三 「三輪山を/しかも隠すか/雲だにも/こころあらなむ/隠くさふべしや/(万葉集巻1-18 額田王)の歌碑は、保田與重郎のものもある。(場所:桜井西中学校(校舎内))
二、泊瀬・朝倉地域
木本誠二、辰巳利文、平泉澄、平澤興、保田與重郎、堀口大學、宇野精一、林武、里見弴、阿波野青畝、今日出海
三、磐余・磯城地域
井上靖、犬養孝、金本朝一、有島生馬、宇野哲人、大西良慶、清水比庵、湯川秀樹、山岡荘八、遠藤周作、間中定泉、保田與重郎、徳川宗孝、二條弼基、服部慶太郎、朝永振一郎、福田恆存、中河幹子、小倉遊亀、保田與重郎、犬養孝、熊谷守一、前川佐美雄 ]
掲出(注一 ※川端康成=「大和は 国のまほろば/たたなづく 青がき/山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し/(古事記・中巻 倭建命(場所:井寺池畔)
「大和は 國のまほろば」(「桜井市の万葉歌碑(桜井記紀万葉歌碑)」)
https://www.pref.nara.jp/39062.htm
http://sakuwa.com/ya17-1.html
[昭和47年の1月だった。川端康成は山の辺の道をたずねた。細い躯に、澄んだ眼を光らせて。風景の美しい井寺池の堤にたって、「ここがいいね」と、淡い夕陽につぶやいた。
やがて4月、そして16日、なぜか川端は自らの生命を絶つ。もちろん、歌碑の原稿をかくひまもなく、文豪の死は唐突であった。
しかし、碑は、秋11月池の堤にすえられた。秀子夫人の思いやりで、ノーベル賞授賞記念講演「美しい日本の私」の遺稿から、文字を拾い集め、石に刻みこまれたのだ。 榊莫山 路傍の書より ]
「井寺池畔で歌碑の設置場所を決める川端康成(右から二人目)と保田與重郎(左から三人目)
https://www.city.sakurai.lg.jp/material/files/group/16/201906.pdf
「桜井市の万葉歌碑(桜井記紀万葉歌碑)」の全容については、下記のアドレスで紹介されている。
https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/
(その十五)「十五 高々と蝶こゆる谷の深さかな 1913・句 1955・4板 」
「十五 高々と蝶こゆる谷の深さかな 1913・句 1955・4板 」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/19
「十五 高々と蝶こゆる谷の深さかな 1913・句 1955・4板 」の「解説」(前田普羅)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/19
「前田普羅と原石鼎」については、下記のアドレスで紹介している。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-06-10
この石鼎の句は、大正二年(一九一三)、二十七歳時の、深吉野(東吉野村)での作である。この句の前後の句は、次のとおりである。(『原石鼎全句集・沖積社刊』)
鮠(はえ・はや)餌(え)つく水音の背となりにけり
囀や杣(そま)衆が物の置所
※高々と蝶こゆる谷の深さかな
やま人と蜂戦へるけなげかな
一句目の「鮠(はえ・はや)」の句は、「川魚」の句、二句目は「囀(さえずり)」の「鳥」の句、三句目は、「蝶」の「ひらひらと舞う昆虫」の句、そして、五句目は、「蜂」の「ぶんぶんの『蜂の巣取りの杣人(そまびと=)やま人』と『戦う昆虫』」の句である。
ここで、「桜井市の万葉歌碑(桜井記紀万葉歌碑)」の、その『万葉集』には、「蝶」の句(歌)は一句(一首)もなく、下記のアドレスでは、次のように記されている。
https://art-tags.net/manyo/animal/cho.html
[万葉集には蝶が詠まれた歌はありませんが、巻5の梅花32首の序(漢文)に記載されています。
第五巻:0815: 正月立ち春の来らばかくしこそ・・・原文: 梅花歌卅二首并序 / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以□(手偏+慮)情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠
読み下し: 天平二年正月十三日 帥(そち)の老の宅(いえ)に萃(あつま)りて 宴會(えんかい)を申(の)ぶ 時に初春の令月にして 氣淑(よ)く風和ぐ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(ばいご)の香を薫(かお)らす しかのみにあらず 曙(あさけ)の嶺(みね)に雲移り 松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け 夕の岫(みね)に霧を結び 鳥はうすものに封(と)じられて林に迷う 庭に新蝶舞い 空に故鴈(こがん)歸る ここに天を盖にし地に坐し 膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす 言を一室の裏に忘れ 衿を煙霞(えんか)の外に開く 淡然に自ら放し 快然(かいぜん)に自ら足りぬ 若し翰苑(かんえん)に非ずは何を以てか情をのべむ 詩に落梅の篇を紀(しる)す 古と今と夫れ何か異ならむ 宜しく園梅を賦して聊(いささか)に短詠を成すべし
要旨: 天平二年(西暦730年)正月十三日に太宰府の帥(そち)大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で宴会をしました。天気がよく、風も和らぎ、梅は白く色づき、蘭が香っています。嶺には雲(くも)がかかって、松には霞がかかったように見え、山には霧がたちこめ、鳥は霧に迷う。庭には蝶が舞い、空(そら)には雁(かり)が帰ってゆく。空を屋根にし、地を座敷にしてひざを突き合わせて酒を交わす。楽しさに言葉さえ忘れ、着物をゆるめてくつろぎ、好きなように過ごす。梅を詠んで情のありさまをしるしましょう。]
ここで、「保田與重郎」の世界の、その「大和し美し」(昭和十一年=一九三六、三十三歳)の作品に先んじて、「川上澄生」(「初夏の風」)の世界の、処女版画集『星座の花嫁』(昭和六年=一九三一、二十七歳)を刊行している。
後年、棟方志功は、「わたしの板画の流れは、この作品(川上澄生「初夏の風」)から流れだした様のものです」と語っている。(『板画の道』所収「板画への径々/p130」)
https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/78
「花が蝶々か(『星座の花嫁』)」(昭和4年=1929/23.1×21.5㎝、詩=自作)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/32
花か蝶々か
花か蝶々か蝶々か花か
来てはちらちら迷わせる (棟方志功・詩「花か蝶か」)
「初夏の風」(川上澄生/大正15年=1926/25.0×37.0㎝/第5回国画創作協会展出品)
(『川上澄む生全集第一巻』)=国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12425661/1/8
[かぜとなりたや
はつなつの かぜとなりたや
かのひとの まへにはだかり
かのひとの うしろよりふく
はつなつの はつなつの
かぜとなりたや (川上澄生・詩「初夏の風」) ]
この、川上澄生の「初夏の風」は、『川上澄む生全集第一巻』では、「川上澄生詩集青髭」(詩四篇/挿図六葉/全十八葉/昭和2年=1927)私刊)での、下記の「B図(「わが願ひ」)」として、「初夏の風」のアレンジしたものも登載されている。ここでは、冒頭の「はつなつの」(「初夏の風(A図)の出だしが、「われは」(「わが願ひ」C図)、そして、「かのひと」が「あのひと」と、微妙にアレンジされている。さらに、「ローマ字 初夏の風(D図)」のものもある。
[「わが願ひ」
われは かぜとなりたや
あのひとの うしろよりふき
あのひとの まえにはだかる
はつなつの かぜとなりたや ―詩画集「青髭」から― ]
(B図)「わが願ひ」(『川上澄生詩集青髭』所収)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12425661/1/29
(C図) 「ローマ字 初夏の風」( 1926(大正15)年/木版多色刷/紙/ 21.7×15.5㎝)
https://www.town.tochigi-nakagawa.lg.jp/10kouhou/2007/0712/files/22.pdf
(参考)
[ 保田与重郎(やすだよじゅうろう)(1910―1981)
文芸評論家。明治43年4月15日奈良県生まれ。東京帝国大学美学科卒業。大阪高校時代は左翼思想の影響のうかがえる短歌や評論を同人誌に発表したが、大学に入って高校時代の仲間と出した『コギト』(1932)には「私らはこの国の省みられぬ古典を愛する」と宣して日本の古典論を寄稿した。ついで亀井勝一郎(かめいかついちろう)らと『日本浪曼(ろうまん)派』(1935)を創刊して話題になり、最初の評論集『日本の橋』(1936)が池谷(いけたに)信三郎賞を得て注目されたが、しだいに民族主義と反近代主義の立場を明確にし、『戴冠(たいかん)詩人の御一人者』(1938)、『後鳥羽院(ごとばいん)』(1939)、『民族的優越感』(1941)、『近代の終焉(しゅうえん)』(1941)などを著し、第二次世界大戦下の青年に多大な影響を与えた。戦後は郷里に帰り『祖国』(1949)を発刊、厳しい指弾のなかで姿勢を変えずに言論活動を行い、『現代畸人(きじん)伝』(1963)で論壇に復帰し、『日本浪曼派』評価の議論を喚起した。昭和56年10月4日没。(都築久義)
『『保田与重郎選集』全六巻(1971~72・講談社)』▽『橋川文三著『日本浪曼派批判序説』(1960・未来社)』▽『神谷忠孝著『保田与重郎論』(1979・雁書館)』 ](「日本大百科全書(ニッポニカ)」)
[ 川上澄生(かわかみすみお)(1895―1972)
版画家。横浜市生まれ。1916年(大正5)青山学院高等科を卒業し、翌年から1年余りカナダ、アラスカ、アメリカへ放浪の旅をする。21年から栃木県立宇都宮中学校の英語教師となり、このころから木版画家として活動を始めた。27年(昭和2)日本創作版画協会の会員となり、また国画会展にも出品し、42年には同会の会員となる。文明開化調や南蛮異国趣味に独特の作風を示した。49年(昭和24)第1回栃木県文化功労賞を受賞。また昭和初めから『青髯(あおひげ)』『えげれすいろは』ほか小形木版本を多数刊行した。(小倉忠夫)
『『川上澄生全集』全14巻(中公文庫)](「日本大百科全書(ニッポニカ)」)
(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その六」)」
「大和し美(うるは)し/焔の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/25
[ 立ち去りぬ
時もあらせず
一条の煙昇
れり
――かしこにも、なれの指さす方
既に一團の焔はあがる、
そは
われ
らを
謀(はか)りてやき殺さむとする
賊の仕業なり
けり
げに愛するものは
明智こそ得るなれ
わがをばより賜りし袋を開(く) ]
「大和し美(うるは)し/乱髪の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)
https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/25
[ 賊向ひ火にあふ
られて逃げ散りしのち、
われ
焼跡の
灰にまみれし
櫛を見いでてな
れに
示せば
莞爾として乱
れたる髪を
束ねぬ
図らざりき
その笑顔いま
も見るがご(ときに) ]