水曜日, 12月 18, 2024

原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その二十二・その二十三~その二十五)

 (その二十二) 「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」と(その二十三)「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」

(その二十二) 「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」





 






「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/26





 

「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」の「解説」(「神林良吉」)

 この句は、大正十二年(一九二三、三十七歳)時の作とするのだが、『原石鼎全句集(沖積社)』では、昭和十二年(一九三七、五十一歳)時の作で収載されている。その前後の句などを見ると、これは、昭和十二年(一九三七)年時の作と解すべきものと思われる。

  日ねもすを鳶のきげんや夏の風

  ※一点の雲なくなんと蟬に風

  木もれ日に背(せ)のひかりみえ法師蝉

  なきやんですぐとぶはやし法師蝉

  夜の蝉電気の紐にとまりけり

 当時の石鼎の住居は、「麻布木村町一一六番地」(『原石鼎全句集(沖積社)』所収「原石鼎年譜」)で、「有栖宮公園の近くの高台で庭も広く北から南に扇のように広がった得な地割りで、眼下に桜の樹々もあり聖心女学院の塔がかなたに見えた」(『石鼎とともに(原コウ子著)』)と、コウ子は記している。

 この年に、原石鼎の自選句集『花影』が改造社より刊行された。この『花影』は、下記のアドレスで閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1261953/1/3





 








『花影(目次)』 : 自選句集 (現代自選俳句叢書 ; 第1)/ (著者・原石鼎 著・出版者・改造社・出版年月日・昭12年)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1261953/1/4

 この「目次」の「五篇」を年次別に見ると、次のとおりとなる(『原石鼎全句集(沖積社)』所収「解説・他句の連想を拒絶する俳句(海上雅臣稿)」)。


深吉野篇 → 大正元年(一九一二)秋より同二年(一九一三)まで

海岸篇  → 大正二年(一九一三)秋より同四年(一九一五)まで

都会篇(一/牛込・麹町時代)→大正四年(一九一五)春より同八年(一九一九)秋まで

都会篇(二/竜土町時代)  →大正八年(一九一九)秋より昭和二年(一九二七)初秋まで

都会篇(三/木村町時代)  →昭和二年(一九二七)初夏より同十二年(一九三七)春まで

 さらに、この石鼎の自選句集『花影』の刊行周辺のことに関して、山本健吉の、次のような記述がある。

[ 「改造社」では大正末期以来現代歌人の自選歌集を何冊か出し、その頃は第三期として六人ほどの歌人の人選を進めている。併せて自選句集を出そうするという企画が決り、「俳句研究」編集主任菅沼純治部を中心に私も加わって、人選を検討した。・・・ 石鼎はその名声に比して、それまで不思議に一つの句集も出していなかったから、蛇笏の『霊芝』秋桜子の『浮葉抄』誓子の『玄冬』石鼎の『花影』の四冊が相次いで出たが、『葛飾』や『凍港』で秋誓二子の句を知っている読者には、かえって『霊芝』と『花影』の刊行がありがったかったのではないかと思う。(山本健吉「石鼎の時代」、「俳句」35巻第3号)  ](『原石鼎全句集(沖積社)』所収「原石鼎全年譜(海上雅臣稿)」 )。

 ここで、当時(昭和十二年=一九三七)の、「虚子・『ホトトギス』」の一大勢力(「旧派」=「ホトトギス」派)に対する、「秋桜子(「馬酔木」主宰))・誓子(「馬酔木」参加・後に「天狼」主宰)・蛇笏(「雲母」主宰)・石鼎(「鹿火屋」主宰)等の、「新派=現代俳句」とも称するべき「非『ホトトギス』派の、その全貌の一端が、その姿を結実して来る。

 秋櫻子(脱「ホトトギス」) → 『葛飾』・『浮葉抄』

 誓子 (離「ホトトギス」) → 『凍港』・『玄冬』

 蛇笏 (非「ホトトギス」) → 『霊芝』

 石鼎 (断「ホトトギス」) → 「花影」

 ここで、「四S(しいエス)」と呼ばれる俳人は、「秋櫻子・誓子」と「青畝と素十」で、これは、「東(東日本=東京)」の『秋櫻子と素十』」、そして、「西(西日本=京都・大阪)の「誓子と青畝」との、「『ホトトギス』圏内での一つの指標」ということになる。

(その二十三)「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」





 







「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」→A図

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/27





 

「「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句 」「解説」(「神林良吉」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/27

 この句は、大正五年(一九一六、三十歳)時の作である。当時の「ホトトギス」社は、「牛込船河原町」にあって、原石鼎は、「下宿を牛込新小川町、神楽坂おでんやの二階、米屋二階等を転々として」(京極杜藻「鹿火屋」)、その「ホトトギス」社に、正式な事務員でなく、書生のような形で手助けなどをしていた(市川一男著『俳句百年・稿本』)。


   夜見が浜も由比ガ浜も同じ蜻蛉かな(前書「昨、山陰の海に親みし身の、今、東海の浪にさまよふ」)


 ※とんぼうの薄羽ならしし虚空かな


 この掲出の「とんぼうの薄羽ならしし虚空かな」は、制作時の、その前の句(夜見が浜も

由比ガ浜も同じ蜻蛉宇かな」の、その「前書き」の「昨、山陰の海に親みし身の、今、東海

のにさまよふ」に接すると、その句意、そして、この句の背景が明瞭になって来る。 

 この前句の、「夜見が浜」は、石鼎の「故郷の海」の、「山陰(鳥取・出雲)」の「夜見が浜」、そして、次の「由比ガ浜」は、虚子の「ホトトギス」派の句会などで度々訪れている「相模(神奈川・鎌倉)」の「由比が浜」ということになろう。

 とすると、この掲出の句の、この「とんぼう(蜻蛉)」は、当時の、故郷の「山陰(鳥取・出

雲)」(「夜見が浜」)と、放浪して、定職のないまま、今に「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比

ガ浜)とを彷徨っている、当時の、「石鼎」自身の化身として解して差し支えなかろう。

 そして、この「薄羽ならしし」は、その「彷徨っている」、当時の「石鼎」自身の、その

「弱弱しい羽音(はおと)」、そして、それは、その当時の「石鼎」自身の、「生きている証し」の息吹ように、その「虚空」(「山陰(鳥取・出雲)」(「夜見が浜」)と「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比ガ浜))とにに、「彷徨っている」・・・、というよう、その句意とその背景ということに解したい。





 







「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」(「裏彩色板画」)→ B図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48

 例えば、このB図(「裏彩色板画」)に接すると、上記に掲げた、その「句意と背景」とが、棟方志功の「色刷り」(「裏彩色」)によって、そのイメージが、更に鮮明になって来る。

 このB図(「裏彩色板画」)の、上部の「群青(グンジョウ)=ブルー(青)」は。眼前即景の「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比ガ浜))の「海」の色、そして、下部の「群青(グンジョウ)=ブルー(青)」は、生れ故郷の「山陰(鳥取・出雲)」(「夜見が浜」)の海の色ということになる。

 そして、その中間を占める「岱赭(たいしゃ)=ブラウン(茶)」は、「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比ガ浜))と、山陰(鳥取・出雲)」(「夜見が浜」)とを結ぶ、「虚空」(「何もない空間、大空」)ということになる。

 それに加えて、「蜻蛉」と、その「ならしつつ」の「なら(鳴ら)」に掛けての、「緑(りょく)=グリーン(緑)」は、その「虚空」(「何もない空間、大空」)を彷徨う、その「羽音()はおと」を暗示しているものと解することも出来よう。


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その十」)」





 







「幾山河の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/30


[ 始めぬ

  呪ひやいかで免れむ、

  神に仕ふるに処女子(おとめご)の地をも

  穢さむ夢見しものに

  われふるさとを

  幾山河雪雲深き

  とつくに死にむといふもこと

  はりなれ

  あゝ倭、お身の名を

  再び呼べばわが目

  にはふるさとり空晴      ]



 


 







「裏の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/30

[ (晴)れ渡り、山々は肌

  も露はに現はるる

  そはわが子いかに見悪くか

  らむも、そをはぐゝま

  むこころには人目もう

  らず胸をはだける

  を母をさながら

  光

  浴

  び

  た

  り            ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)


 この上記の、最終章の、棟方志功の、「大和し美し」の、その「詠み」と「彫り」(A図)のリズムは、その原文(「佐藤一英詩『大和し美し』)のそれは、B図のとおりとなる。


[ あゝ倭、お身の名を

  再び呼べばわが目

  にはふるさとの空晴

  れ渡り、山々は肌

  も露はに現はるる

  そはわが子いかに見悪くか

  らむも、そをはぐゝま

  むこころには人目もう

  らず胸をはだける

  を母をさながら

  光

  浴

  び

  た

  り    ] → A図(棟方志功の、「大和し美し」の、その「詠み」と「彫り」)

[ あゝ倭、お身の名を再び呼べばわが目にはふるさとの・空晴れ渡り、山々は肌も露はに現はるる

  そはわが子いかに見悪くかむも、そをはぐゝまむこころには人目もうらず胸をはだけ

  るを母をさながら光浴び

たり   ]→ B図(佐藤一映第四詩集『大和し美し(新詩論編輯所版)』の最終章) 


 佐藤一映第四詩集『大和し美し(新詩論編輯所版)』は、下記のアドレスで紹介されている。

https://shiki-cogito.net/library/sa/satoichiei-yamato.html

[ 詩集『大和し美し』新詩論編輯所版/佐藤一英 第4詩集/昭和8年10月1日 新詩論編輯所 吉田一穂 発行/並製 21.5×15.7cm [6p]ページ 定価 50銭   ]


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その二十四・その二十五)

(その二十四) 「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」と(その二十五)「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」

「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」





 







「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/28





 


「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」の「解説」(「棟方志功」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/28

 この掲出の句は、昭和十五年(一九四〇、五十四歳)の、『原石鼎全句集(沖積社)』所収では見当たらない。そこでの「蜩・ひぐらし」の句は次のとおりである。


  あかつきのひぐらし萌黄いろに啼く

  六たびづゝ啼きひぐらしの移りけり

  蜩に夕雲はみな金の色

 さらに、この掲出の句は、棟方志功のものなのだが、そこで、「夏の句としては晩(おそ)い時になるかも知れません。けれども、どうしても夏の句です。これほど、夏を感じさせ、夏を騒がせてゐる句はありません」という、それに続く、この「騒がしさこそ人間とも、虫とものモノではなく、唯黙然たる一つであるといふ事なのです」というのは、この句に対する、これらの句をつくった「石鼎」の「蜩・ひぐらし」に対する、その句の鑑賞者、そして、その鑑賞を、おのれの世界(板画の世界)で、その姿を表出させるためには、「石鼎」(作句者)も、そして、「志功」(板画者)その人もまた、「唯黙然たる一つであるといふ事なのです」ということなのであろう。


「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」





 







「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/29





 



「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板  」の「解説」(「京極杜藻」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/29

 『原石鼎全句集(沖積舎)』は、大正元年(一九一二、二十六歳)の、この句が、その冒頭の一句としてスタートとする。この句は、上記の「解説」(「京極杜藻」)の、「大正元年末のホトトギスに、選者高浜虚子の激賞と共に発表された」、その巻頭の一句である。

 この句の鑑賞は、原石鼎と生涯に亘って、その歩行を一にした、上記の「京極杜藻」のものをもって余すところはない。

https://caphar10.rssing.com/chan-6214340/all_p1.html


(参考)

[一句は、山頂の視界の広がった解放感から思わず「頂上や」ということばが出たのであろう。その高らかな謳い方が「殊に」という措辞によって風の野菊へ一気に収斂してゆく。石鼎俳句はこの句からはじまると言っても過言ではない。実際、この句を含む吉野からの初投句の九句は、「ホトトギス」大正元年十二月号の次巻頭としての登場だった。

 それだけでも読者の瞠目することだったが、さらに翌月の「ホトトギス」には、「石鼎君の句に就いて所感を陳べて見ようと思ひます」ということばに始まって、長文の虚子の鑑賞文が掲載された。これが、「頂上や」の句を一気に広めたのである。この句の第一の斬新さは初語の打ち出しかたにある。本来「や」とは強い詠嘆を込めるために使われてきた。そのことばが「頂上や」という何気ないことばだったことに虚子は驚いたのである。

 山本健吉は「これほど野菊の本情を捕えた句は、他に知らない。季語でも地名でも主観語でもないただの言葉を、「頂上や」と無雑作に置き、「殊に」とさりげなくそのものの存在を取り出し、「吹かれ居り」と軽く結んださまが、野菊そのものの姿を彷彿とさせるのだ。この軽さ、さりげなさは、後のちまで石鼎の句の特徴の一つと思われる(「俳句」昭和61年3月号)」。

 また、それを読んだ清水哲男氏は「言い換えれば、石鼎はこのときに、名器しか乗せない立派な造りの朱塗りの盆である「や」に、ひょいとそこらへんの茶碗を乗せたのだった。だから、当時の俳人はあっと驚いたのである。(増殖する俳句歳時記)」と述べている。石鼎の弟子海上雅臣はこの「頂上や」を芭蕉の「古池や」に替わる写生だと小島信夫著『原石鼎』の中で語っている。(岩淵喜代子) ]





 









「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」(「裏彩色板画」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48


(追記) 「大和し美し」周辺(その一)





 










https://munakatashiko-museum.jp/2020/09/16/post-4811/

[ 油絵を描いていた棟方志功が板画を始めるようになったのは、川上澄生の版画作品《初夏の風》を見たことがきっかけでした。川上自作の詩が彫り込まれている版画を見たとき、棟方は「いいなァ、いいなァ」と、心も体も伸びて行くような気持になっていたそうです。

 棟方は上京する以前から文学を愛する青年で、板画を始めてからも文学者との交友を深めていきました。

 棟方の出世作と言える《大和し美し》は、愛知県出身の詩人佐藤一英が新詩論に発表したものを同郷の文学者福士幸次郎を介して制作の許可を得たもので、棟方作品の中でも傑作のひとつに数えられています。 ]


[棟方志功/むなかたしこう/(1903―1975)

 版画家。明治36年9月5日青森市生まれ。小学校卒業後、家業の鍛冶(かじ)職を手伝い、さらに裁判所の給仕となる。画家を志し、鷹山宇一(たかやまういち)らと洋画グループをつくり、1924年(大正13)上京する。昭和初めから木版画を手がけ、平塚運一(うんいち)の教えを受ける。日本創作版画協会展、春陽会展、国画会展に版画を出品のほか、帝展に油絵を出品。1932年(昭和7)日本版画協会会員となる。柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎ら民芸派の知遇を得、しだいに仏教的主題が多くなる。1937年国画会同人となり、翌年新文展で版画による初の特選となった。第二次世界大戦後は、1955年(昭和30)サン・パウロ・ビエンナーレ展で受賞し、翌1956年ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受け、世界的な評価を確立。その間に日本板画院を創立して主宰。国内とアメリカの各地で数多くの展覧会を開き、1964年度朝日文化賞のほか、1970年には毎日芸術大賞と文化勲章を受けた。縄文的血脈の現代的開花とも評されるその作風は、独特の宗教的表現主義である。日本画の大作も多い。昭和50年9月13日東京で没。木版画の代表作は『大和(やまと)し美(うるわ)し』『二菩薩釈迦(ぼさつしゃか)十大弟子』『湧然(ゆうぜん)する女者達々(にょしゃたちたち)』『柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)』ほか。なお、1963年倉敷市の大原美術館内に棟方板画館、1974年鎌倉市に棟方板画美術館(2010年閉館)、1975年11月には郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。[小倉忠夫 2017年1月19日] ](「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)


[佐藤一英/さとういちえい/(1899―1979)

   詩人。愛知県に生まれる。早稲田(わせだ)大学英文科予科中退。予科時代、吉田一穂(いっすい)、中山義秀(ぎしゅう)、横光利一(りいち)らと知る。菊池寛(かん)論『軽さと重さ』(1919)によって注目されたが、のちに春山行夫(ゆきお)らと詩誌『青騎士』を創刊。また『文芸時代』『詩と詩論』『新詩論』などに精力的に詩、評論を発表。おもな詩集に、若々しいロマンチシズムに彩られた処女詩集『晴天』(1922)、『故園の莱(あかざ)』(1923)、『魂の楯(たて)』(1942)などのほか、第二次世界大戦後の時代状況を歌った『乏しき木片』(1947)、『幻の鐘』(1948)などがある。新韻律詩を実践提唱したことでも知られ、『新韻律詩論』(1940)がある。[原 子朗] ](「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)


[福士幸次郎/ふくしこうじろう/(1889―1946)

 詩人。青森県弘前(ひろさき)に生まれる。国民英学会卒業。1909年(明治42)、人見東明(とうめい)の推薦で『自然と印象』第八集に『錘(おもり)』などの詩を発表。以後『創作』『新文芸』『スバル』などに寄稿。12年(大正1)、千家元麿(せんげもとまろ)らと『テラコツタ』、翌年には『生活』を創刊した。詩集『太陽の子』(1914)、『展望』(1920)で人道主義風な生命の歌を平易な口語体で書いた。『日本音数律論』(1930)、『原日本考』(1942)などの特色のある研究評論書もある。[安藤靖彦]  ](「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

月曜日, 12月 16, 2024

原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十六・その十七~その二十・二十一)

 (その十六) 「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 1922・句 1955・4板 」と(その十七)「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」











「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 1922・句 1955・4板 」



 



「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 1922・句 1955・4板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/20

 この句は、大正十一年(一九二二)、石鼎、三十六歳(数え年、三十七歳)時の作で、「奈良にて眼前即景 九句」との前書のある中の一句である。

 人の前に産み落とされし鹿の子かな (「奈良にて眼前即景 九句」)

 ふるひ落つ一片の葉に鹿生る (同上)

 生るゝや親にねぶられ芝鹿の子 (同上)

 ※神の瞳(め)と我瞳あそべる鹿の子かな (同上)

 日と苔のみどりに育ち鹿の子かな (同上)

 鹿の子とぶよ杉の張根を越え越えて (同上)

 鹿の子よ羊朶踏みはづすことなかれ (同上)

 雨の日の親をはなれぬ子鹿かな (同上)

 雨に立つ親をかぎたる子鹿かな (同上)

 これらの九句は、「奈良・春日大社」の、今に「奈良公園」の一角の「鹿苑(ろくえん)」での句なのであろう。

「奈良・春日大社」の祭神の「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」は、鹿島神宮(茨城県)から「神鹿(しんろく)」に乗ってやってきたという、その伝説に由来する「神の使いとして、神社で飼っておく鹿」なのである。

ここで、歳時記では、「鹿(しか)」は「秋(三秋)」、「鹿の子(かのこ・しかのこ)」は「夏(三夏)」の季語となる。


(芭蕉の「鹿(しか)」の句)

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿(しか) 芭蕉「笈日記」

女(め)をと鹿(じか)や毛に毛がそろうて毛むつかし 芭蕉「貝おほひ」

武蔵野や一寸ほどな鹿(しか)の声 芭蕉「俳諧当世男」

ひれふりてめじかもよるや男鹿島(おがのしま) 芭蕉「五十四郡」

(芭蕉の「鹿(か)の子」の句)

灌仏の日に生れあふ鹿(か)の子哉 (芭蕉「笈の小文」)

 

「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子なる 1922・句 1955・4板 」の「解説」(神林良吉)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/20

 この句の「解説」は、「神林良吉(海上雅臣)」の、「『「神の瞳(め)とわが瞳(め)あそべる」といふ叙法に、いかにも愛らしい鹿の子のありさまがほうふつと浮かんでくる」というのだが、それはそれとして、そこに、例えば、芭蕉の、「ひれふりてめじかもよるや男鹿島(おがのしま)」の句や、「灌仏の日に生れあふ鹿(か)の子哉」の句などを背景にしての、俳人「原石鼎」の「眼前即景」の句と解すると、なお一層、この句の凄さが伝わって来るであろう。


「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」





 






「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/21

 この句は、大正六年(一九一七)、石鼎、三十一歳の時の句で、「高浜虚子から『俳句では食べられないから雑誌社へでも世話して上げようと言われ、憤慨してホトトギス社を退社する。東京日々新聞に迎えられ俳句選者として嘱託入社する』(『原石鼎全句集(沖積社刊)』所収「原石鼎年譜(海上雅臣編)」という、独身時代の句ということになる。

 この句の前後の句は、次のとおりである。

 葉隠れに土恋ふ四葩(よひら)淋しめり

 ※大鯉の押しおよぎけり梅雨の水

 梅天や生死(せうじ)もわかず苫(とま)かゝる

 当時、「ホトトギス」誌上において、芥川龍之介(俳号=我鬼)が、当時の「ホトトギス」系の俳人(子規・虚子・石鼎)の「写生」の傾向などについての論考を寄稿している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-06-08

「写生論(芥川龍之介)」(大正七年=一九一八)

「ホトトギス」(二八一号/大正九年=一九二〇・一月号)

 そこで、石鼎の句は、「客観(「自然・もの」を有りのまま叙する)写生=子規」でもなく、「主観(「自然・もの」に対峙する「作句者の感興」を叙する)写生=虚子」、その中庸の、「印象(「自然・もの」を眼前にしての「作句者の印象」を叙する)写生=石鼎」と、「脱『子規』・脱『虚子」」の、その中庸の「石鼎俳句」の世界を認知したということになる。

 これらのことを、上記の三句に照らすと、

 葉隠れに土恋ふ四葩(よひら)淋しめり

 ※大鯉の押しおよぎけり梅雨の水

 梅天や生死(せうじ)もわかず苫(とま)かゝる

 この一句目の「土恋ふ」、二句目の「押しおよぎけり」、そして、三句目の「生死(せうじ)もわかず」というのは、「子規」でねなく「虚子」でもなく、「石鼎」その人の、「眼前即景」の、その「客体(「四葩」・「大鯉」「梅天」)」から受ける、その「印象」そのものということになる。

 ここで、掲出の、二句目の、

 ※大鯉の押しおよぎけり梅雨の水

 この「大鯉」が、「押しおよぎけり」となると、当時(大正六年=一九一七、三十一歳)、独身で、虚子から「ホトトギス」社の退社勧告を受けて、虚子と訣別するような環境下、「石鼎」というイメージではなく、一刀両断に退社勧告を告げる、当時の「虚子」(四十三歳)の、虚子特有のイメージでなくもない。

 当時の「石鼎」について、「(石鼎は)独身だから費用はかからぬが、何分薄給で好きな煙草を吸うこともできぬ。ついにはこぼれ煙草のまじった袂くそを煙管につめて吸うまでに至った。そこで思いあまった揚句、増給を願い出たところ、虚子の容れるところとならず、発行所を去る結果になった。」(水原秋櫻子『高浜虚子』)と(『原石鼎全句集(沖積社)』所収「原石鼎年譜(海上雅臣編)」)、どうにも、この「大鯉」のイメージとはかけ離れているのである。



 



「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」の「解説」(棟方志功)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/21

 この句の「解説」は棟方志功のものであるが、この大鯉のイメージは、上田秋成の『雨月物語』の「夢応鯉魚」のイメージでとらえている。そして、それは、志功が、昭和十五年(一九四〇、三十七歳)時の「保田與重郎の啓示により制作した秋成の『雨月物語』からの『夢応鯉魚版画柵』」(『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「棟方志功略年譜」)からの、アレンジしたような一図ということになる。



 






『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「夢応鯉魚版画柵」(各図、31.8×31.8㎝)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/52

 志功の、この「夢応鯉魚版画柵」は、秋成の、その怪談・怪奇小説の一つの「夢応の鯉魚」を、二十一図の版画に制作したものである。この秋成の「夢応の鯉魚」については、下記アドレスのものなどが参考となる。

http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/muonorigyo.html

一 題の柵(第一図) → 

一 名の柵(第二図)

一 扉の柵(第三図)

一 三井寺(第四図・略) → この小説は、「三井寺に興義(こうぎ)といふ僧あ

りけり。絵に巧みなるをもて名を世にゆるされけり。」からスタートとして、その「三寺寺」が第一図(略)である。

一 興義(第五図・略) → 「三井寺の僧・興義」が、その第二図(略)である。

一 鯉賊(第六図)

一 死床(第七図) → 「ひととせ病にかかりて、七日を経てたちまちに眼を閉ぢ息絶てむなしくなりぬ。」









『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「夢応鯉魚版画柵」の「鯉賊(第三図)=右図」と「死床(第四図)=左図」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/53

一 助殿(すけどの)の館(第八図・略)

一 酒盛(第九図・略) → 「「誰にもあれ一人、檀家の平の助の殿の館(みたち)に詣(まゐり)て告(まうさん)は、『法師こそ不思議に生きはべれ。君今酒を酌み鮮(あざらけ)き鱠(なます)をつくらしめたまふ。しばらく宴を罷(やめ)て寺に詣でさせたまへ。稀有の物がたり聞こえまいらせん。』とて、彼の人々のある形(さま)を見よ。我が詞に露たがはじ。」

一 夢遊(第十図・略) → 「今思へば愚かなる夢ごゞろなりし。されども人の水に浮かぶは、魚のこゝろよきにはしかず。」

一 大魚(第十一図・略) →「傍にひとつの大魚(まな)ありていふ。」

一 御河伯(おんかっぱ・第十二図) → 「前の大魚(まな)に胯がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくづ)を率ゐて浮かび来たり、我にむかひていふ。」











『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「夢応鯉魚版画柵」の「御河伯(おんかっぱ・第九図)」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/55

一 濡裳(第十三図・略)

一 汀(第十四図・略)

一 膳所城(第十五図・略)

一 瀬田橋(第十六図・略)

一 哭叫(なきさけぶ)の図(第十七図) → 『旁等(かたがたら)は興義をわすれたまふか。宥(ゆるさ)せたまへ。寺にかへさせたまへ』

 と連(しきり)に叫びぬれど、人々しらぬ形にもてなして、ただ手を拍(うつ)て喜びたまふ。鱠手(かしはびと)なるものまづ我が両眼を左手の指にてつよくとらへ、右手に礪(とぎ)すませし刀をとりて、俎盤(まないた)にのぼし既に切るべかりしとき、我くるしさのあまりに大声をあげて、

 『仏弟子を害する例ためしやある。我を助けよ助けよ』

と哭(なき)叫びぬれど、聞き入れず。終(つ)ひに切らるゝとおぼえて夢醒めたり。」







 






棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)所収「夢応鯉魚版画柵」の「哭叫(なきさけぶ)の図・第十七図)」→ A図(「拓刷り) 

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/57

(A図の参考)





 




『雨月物語』 より「夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)」挿絵図(上記の「哭叫(なきさけぶ)の図・第十七図)」に対応する) → B図(「木版印刷図書の挿絵」)

http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/muonorigyo.html

『雨月物語』(「国書データベース」)

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200014740/31?ln=ja

一 神妙の柵(第十八図・略)くはんが

一 威光の柵(第十九図・略)

一 目次の柵(第二十図)

一 裏の椿(第二十一図・略)








 






「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」→ C図(「裏彩板画=裏彩色=うらざいしき)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/49


(参考=説明)

A図(「拓刷り」) → 「拓本刷り板画(版画)」

[「湿拓の手法で、吸湿性のある紙を、写す板画の上にひろげ、水を刷いで密着させ、ブラシや綿でおさえて刻線に紙を押しこみ、乾いたら「たんほ(たんぽ=打包)」に墨汁をつけて叩くと、黒地白ぬきの文字や文様が転写できる。」(『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「空海抄」」(「自作に想う」)の「脚注」)

「拓本刷りにしたのは、文字が非常に多いのと、同じことばのようなひびきがつながるので、退屈なものになりやすい。普通の板画は左字に彫るのですが、それでは退屈になりやすいから、右字にしようと思ったのです。普通に書くように彫るわけです。それで拓本刷りにしました。」(『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「空海抄」(「自作に想う」)の「本文(抜粋」)

拓刷り(拓摺り)

https://zokeifile.musabi.ac.jp/%e6%8b%93%e5%88%b7%e3%82%8a/

たんぽ(打包)

https://zokeifile.musabi.ac.jp/%e3%81%9f%e3%82%93%e3%81%bd/       ]


B図(「木版印刷図書の挿絵」)

[ 『雨月物語』(「国書データベース」)

「記載書名

1.雨月物語(うげつものがたり)(Ugetsumonogatari),内・外・序首・序中・尾

2.雨月(うげつ)(Ugetsu),柱

巻数 巻之一~五

刊写 刊

書写/出版事項 安永5

 〈京都〉梅村/判兵衛

 〈大坂〉野村/長兵衛

形態 22.6×16.0cm   」


「木版印刷の仕組み・歴史・印刷史

https://amix-design.com/asoboad/blog-1234-39587.html   ]


C図(「裏彩板画=裏彩色=うらざいしき)

[ 「板画とわたくし (棟方志功)」

「版画に想う(略) / 新版画説(略) / 版画道(略) / 肉筆と板画(略) / 板画道(略) / 版血脈(板血脈) (略) / 点・一線(略) /  板画真義(略) / 板画とわたし(略) / /板画美(略) / 板経(略) / 板画について はじめに(略) 一 板画という字から(略) 二 板画と肉筆画(略) 四 板画の美しさ(略) 四 刷りということ(略) 五 黒と白の美しさ(略)

六 裏彩色(うらさいしき)について(抜粋)

(前略) 白と黒の板画は、あらゆる微妙な韻と、韻のもつれと、深い静けさとを含み、そしてその板面から生ずる自然の濃淡がすべての美しさを余さない幽玄な仕事をあらわすのでありますが、この微妙な板画の「姿」を、別なあり方で表現したいと思ってやってみたのが、「裏彩色板画」であります。

 これは刷った墨の板画の裏から、手彩色(てざいしき)をするのです。このばあい、あまり色彩を数多くつけては。かえって板画をだめにしてしまうことがあります。わたくしは、たいていは、代赭(だいしゃ)と紺の二色を使っています。(後略)

七 国際的な位置(略) ](『棟方志功全集1/物語の柵』所収「板画とわたくし」(抜粋) 』」)


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その七」)」



 








「髪香(かみか)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/26

[ (見るがご)ときに、その櫛のみこたびは濱

  の白砂(しらさご)に

  半埋る

  を見い

  でむとは

  われは湿りて

  やゝ黒ずみしその櫛を手に受

  けしまゝ茫然たりき(は)

  かくもわれとは縁深く、なれ

  の肉親の一部かと

  思はれしその櫛

  に、あはれなれ

  の

  髪の香さへ嗅ぐ   ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)



 








「藻草の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/26

[ (嗅ぐ)を得で藻草(もぐさ)の香のみ蔽

  はむとは

  亡ぶには七日を待

  た/ず、/

  さ/れ/ど/そ/は/ま/だ

  よし

  愛うすくして罪深から

  む輩(やから)には亡ぶに速き忘れ

  あり          ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)



原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十八・その十九)

(その十八) 「十八 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板 」と(その十九)「十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」












「十八 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板 」




「十八 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/22

 この石鼎の句は、昭和十一年(一九三六、五十歳)時の作である。

  夏川のかみに本家しもに分家かな

  夏川のこの上(かみ)に父いましけり

  夏川の大土手を越えてもどりけり

  鮎笛をおろして山日さかんかな

  水に棲んでうす桃色や鮎の口

  この川に鮎は居るかと尋ねけり

  浅みより水脈(みを)へ連るゝ鮎もあり

  ※鮎の背に一抹の朱ありしごとし

 石鼎の故郷は、島根の「簸川(ひかわ)郡塩冶村(現出雲市)」である。これは、この「簸川(ひかわ)郡塩冶村(現出雲市)」を流れる、「神戸川(かんどがわ)」(『出雲国風土記』に出てくる「神門川(かむどのがわ)」) の、その一連の「鮎」の句ということになろう。





 







(立久恵峡の霊光寺付近 浮嵐橋を渡ってすぐの場所にあった)

https://sekihanizumo.theshop.jp/blog/2021/12/20/083000

[「青々とつづく山あり鮎の里」(昭和4年)

 鹿火屋の創刊で多くを門徒を迎え絶頂にあった石鼎も、母に会いに度々故郷へ帰っていたようです。父との確執で勘当同然となっていた石鼎にとって、いつも暖かく見守ってくれた母は大きな心の支えであったことでしょう。母と、母との思い出がつまった故郷への想いは今も数々の句に見ることができます。]

 この「神戸川」の上流の「立久恵峡の霊光寺付近」の「鮎」の句は、昭和四年(一九二九、四十三歳)時の作で、その「年譜」(『原石鼎全句集(沖積社)』所収)の、「二月、コウ子と同伴して帰郷、母を見舞い、稲佐の浜に遊ぶ」の頃の作なのであろう。

 上記の、この句の鑑賞文の「父との確執、母への思慕」などの、当時の石鼎の置かれている、その背景が、これらの上記の一連の「鮎の句」に潜んでいる句と解して差し支えなかろう。

「十八 鮎の背に一抹の朱のそのありしごとし 1936・句 1955・5板 」の「解説」(山本健吉)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/22

 この句の解説は、「山本健吉」であるが、その句は、「鮎の背(せ)に(五音)/一沫(いちまつ)の朱(しゅ)・の(八音)/ありし(「三音」=字足らず)の「破調」の句形で、「※鮎の背(せ)に(五音)/一抹(いちまつ)の朱(あか)(七音)/ありしごとし(「六音」=字余り)の、「朱(あか)・ありし」の「あ」、「ありし・ごとし」の「し」と「韻」を踏んでいる、技巧的な句形とは異なっている。

 どちらの句形が、石鼎の最終の句形なのかどうかは、定かではないが、『原石鼎全句集(沖積社)』では、「※鮎の背に一抹の朱ありしごとし」で、この句形が最終の句形と解すべきなのかも知れない。

 しかし、「ありしごとし」の「ごとし」(比喩的な断定)ではなく、「ありし」(「発句は必ず言ひ切るべし」=「『八雲御抄』・順徳院」の断定の切字)の、さらに「字足らず」の、「言いおほせて何かある」(「『去来抄』・芭蕉」)の余韻の響きを有している、山本健吉の「解説」にある句形の方が、例えば、『去来抄』の松尾芭蕉などが推敲すると、この句形のようにして「治定」するような趣である。

 その上で、山本健吉の、「『あるこどし』ではないのだから、いつそうはかない表現である」という、この「落鮎」の一句の鑑賞としては、首肯できる。


「十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」



 







十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/23







 この句は、大正三年(一九一四、二十八歳)時の作である。その前後の句は次のとおりである。

  行春の浦に烏のこだまかな

  ※盤石をぬく燈台や夏近し

  この曲浦(うらわ)百家一長の幟かな

 この掲出の、二句目の上五の「盤石(ばんじゃく)」とは、「大きい岩。きわめて堅固な岩々」の意で、中七の「ぬく灯台や」の「ぬく」は、「抜(ぬ)く」(「中身のあるものから抜き取ること」) というよりも、「貫(ぬ・つらぬ)く」(「中身のあるものの中を通すこと」)の意であろう。

 この石鼎の、「盤石をぬく燈台や」の、この、上五から中七にかけての「盤石を・ぬく」の、石鼎の用例(その発見)は、これは、まさしく、当時、二十八歳時の、「俳人・石鼎」の「写生眼」(その「眼前即景」を、一句に仕立てる、その表現の「措辞の巧みさ(言葉の絶妙な用例の発見))」の、その典型を示すものと解して差し支えなかろう。



 









(「出雲日御碕灯台(いずもひのみさきとうだい)」・「海岸沿いには柱状の奇岩が続く」)

https://izumo-kankou.gr.jp/677


「十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」の「解説」(「京極杜藻」)

 この「解説」(「京極杜藻」)の、「この『ぬく』は岩を貫いて立つてゐる、という意味で、作者の強い主観を表すに相応しい力のある言葉である。この句は出雲日御崎でできたものだが、日の御崎は島根半島の西端で、燈台はその岩の上に立つてゐる。」の評は、そのものずばりという感を大にする。

 この句は、「出雲市駅」前にも、その石碑が建っている。この句が制作された、大正三年(一九一四、二十八歳)の「年譜」(『原石鼎全句集(沖積舎)』所収)には、「一月、『ホトトギス』誌上で、高浜虚子が『大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎』と記す」とある。

 颯爽と、「前田普羅と原石鼎」とが、俳句界に、その雄姿をデビューした、その「石鼎」

の意気込みが感じられる一句である。



 



(出雲市駅 JRの夜行バスから降りると、すぐ目の前に現れる石碑)

https://sekihanizumo.theshop.jp/blog/2021/12/20/083000


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その八」)」



 








鷲翼(しゅうよく)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/27

[ なれ失ひし悲しみも渡(わたる)の神の

  贄(にへ)となり波にのまれ束の間ぞ

  風、海の衣より起り、波、

  空を行く折しもあれ、忽然と波

  間に消えしなれの顔、その白き

  幻も塒(ねぐら)におりし鳩にはあらで、

  明日(あした)また浮びは出でし

  さるにあはれわがこころにはたゞ

  黒き血に燃え猛る鷲の翼ぞ

  擴ごりたり

  やがてそは贄をのみて跡をも

  見ざるかの暗き走水(はしりみづ)の浪にも  ]

 


 

 








「身胸(みむね)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/27

[ まして翔けさりぬ・・・・

  あゝ父の愛喪ひてなほ愛を

  信じゐたりし幼き頃ぞ

  なつかしき

 望みも果てし暗き

 築地(ついぢ)のわが胸にふと

 も香る梅の花、

 そはわがをば

 倭の御衣裳(みそも)

 に移りし肌の香ぞ

 あゝ倭われかつてお身の胸に    ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その二十・その二十一)

(その二十) 「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」と(その二十一)「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」

「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」





 







「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/24

 この掲出の句は、大正四年(一九一五、二十九歳)時の作である。その時の一連の「目高」の句は、次のとおりである。

  花合歓(ねむ)に目高太るや水深し(「自貧居句会席上」)

  谷水に太る目高のありにけり

  蓮蔭に目高の鰭や朝日さす

  ※緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎

  蓮の葉を動かす風や目高散る

  やゝ深く目高に交る小鮒かな

 この年の「年譜」(『原石鼎全句集(沖積舎)』)には、当時の「石鼎」について、次のとおり記している。

[ 懐中無一文になり上京する。夏、ホトトギス社に入社。九月、高浜虚子は「ホトトギス」に連載していた「進むべき俳句の道」の中で石鼎の懇切な批評を行う。大須賀乙字の『碧悟桐句集を手伝う。』

 ここで、改めて、掲出の志功の「板画(版画)」を見ると、この「緋目高」は、当時の、上京時の、「ホトトギス」入社時の頃の、「石鼎」自画像ということになろう。そして、この「蓮の莖」は、当時の、「高浜虚子」が率いる、その「総合誌(俳誌・ホトトギス))」と解すると、その全貌が見えてくる。






「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」の「解説」(「原石鼎」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/24

 この句の「解説」は、「石鼎」自身のものであるが、これは、もとより、昭和三十年(一九五五)時の、「棟方志功は一年の歳時に添った石鼎の三十六句を板画にし、『青天抄板画集』を公刊した時の、その時の「自解」ではない。

 「石鼎」が亡くなったのは、昭和二十六年(一九五一、六十五歳)」で、この「石鼎」自身の「自解」は、「石鼎」の生前中の、この句が制作された、「大正四年(一九一五、二十九歳)」時の作に、近接したものと解して差し支えなかろう。


「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」



 









「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」→A図

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/25

 この石鼎の句は、昭和九年(一九三四、四十八歳)時の作で、その前後の句は、次のとおりである。

  船虫の甲ひからせぬ月の巌

  ※淋しさは船一つ居る土用浪

  たそがれを降り出し雨や土用浪

 この前年の「昭和八年(一九三三、四十七歳)」時の、『原石鼎全句集(沖積舎)』の「年譜」には。「一月、勅題『朝の海』に因む筝曲のための作詞依頼を宮城道雄から受け、作詞する。これがラジオで演奏される、とある。」とある。

 この「朝(あした)の海」(原石鼎・作詞)は、次のものである。


[ 朝(あした)の海  石鼎       

 あれすさぶ日のありとも

 波治(おさ)まれる朝の海に如(し)くはなし

 春にあれ 夏にしあれ そは永遠(とことは)に

 秋はさらなり 冬はさらでも 

 日の心 月のこころと ときはかきはに

 八十島(やそしま)かけて 陸(くが)をまもれる  ]




 









「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板 」(「裏彩色図)→B図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48


 原石鼎にとって、故郷の海は、出雲の海なのであろうが、棟方志功が、石鼎の「出雲の海」を題材にしたものは見当たらない。唯一、石鼎の没後に刊行された、この『青天抄板畫巻(著者/原石鼎 句, 棟方志功 板)』所収の「板画(A図=白黒図)」と、その「裏彩色板画(B図)」

 などが、棟方志功の「出雲の海」と解して良かろう。

「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」の「解説」(「原コウ子」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/25


 この句の「解説」は、「原コウ子」であるが、昭和九年(一九三四、四十八歳)当時は、石鼎の母危篤の報などに接し、「原コウ子」同伴で、たびたび、石鼎は帰郷している。

 この「出雲の海」に連なる、志功の作品の一つに、志功が戦時中に疎開した、富山県西礪波郡福光町(現南砺市)の「立山連峰を望む海岸風景」(「倭絵」=日本画)は、今に遺されている。



 









「立山連峰を望む海岸風景」 1950年頃 NHK富山放送局(南砺市立福光美術館寄託)

https://www.aomori-museum.jp/schedule/11835/

 これは、志功が「倭絵」と称する「日本画」(「板画」に比すると「肉筆画」)である。




 








「日立太平洋図」1972年(昭和47)/油絵(「肉筆画」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757332/1/101

 これは、志功の、晩年(六十九歳時)の、「油絵(油彩)=肉筆画」の、「日立太平洋図」である。

 志功は、還暦を迎えた、昭和三十八年(一九六三、六十三歳)時に、「東海道棟方板画」の制作に取り掛かり、爾来、「西海道(九州)棟方板画」、「南海道(四国)棟方板画」、「奥海道(関東・東北=奥の細道)棟方板画」、「羽海道(奥羽・羽越=奥の細道)棟方板画」、そして、「アメリカ・カナダ・インド旅行」と、その晩年は、「棟方行脚」に明け暮れる。

 これらの全貌は、『棟方志功全集11/海道の柵』に収録されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757332/1/8

 ここで、原石鼎の、冒頭の句の、「淋しさは船一つ居る土用波」の句形は、石鼎自身の句形なのだが、志功は、この上五の「淋しさは」を「寂しさ」の句形にアレンジしている。これは、石鼎の「淋しさ」が、「人間関係における孤独感や人々とのつながりが希薄であることを表す用例=特に、師の「高浜虚子との関係など」と解すると、この棟方志功の、この「寂しさは船一つ居る土用波」の「寂しさ」は、「空間(日本海)や時間(夏の「土用浪」)が虚しく感じられる状態を指す」という、棟方志功の、この句に対する「深い詠み」の一例ということになろう。


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その九」)」



 









「身裏の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/27

[ 抱かるる思ひに酔ひてお身の

  御衣裳に鎧せり

  わが身裏(みうら)に溢れし力はわれ

  のものならで

  母のごとく温かき

  お身の愛

  にてありしなり

  さるにわれらが力に優る熊(くま)

  曽(そ)建(たける)

  を討ちてより、お身の

  御衣裳をわが妹

  の肌をたのしむ夫(つま)の

  心に感じ         ]  







 







「倭建尊(やまとたけるのみこと)の柵一」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/28

[ けむことをすゝめしもなれなな

  りき

  げに愛するものは勇

  気

  こそ得

  るなれ           ]

 


 










「倭建尊(やまとたけるのみこと)の柵二」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/29

[ わが

  劔もて

  葦を薙ぎゆくうしろよりそ

  を搔き集め、かの袋にあ

  りし火打ちもて火を放

  ちしもなれなりき       ]

原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十・その十一からその十五)

 原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十・その十一)

(その十) 「十 花影婆娑とふむべくありぬ岨の月 1913・句 1956・4板」と(その十一)「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」

(その十) 「十 花影婆娑とふむべくありぬ岨(そば)の月 1913・句 1956・4板」



 









「十 花影婆娑とふむべくありぬ岨の月 1913・句 1956・4板」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/14



 




「十 花影婆娑とふむべくありぬ岨の月 1913・句 1956・4板」の「解説」(高浜虚子)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/14

 この句の「解説」は、「高浜虚子」であるが、これは、虚子の「進むべき俳句の道」の中のものである。その全文を記すと、次のとおりである。

「 岨道を歩いてゐると、空には月が出てゐる。そこに突き出てゐる桜の枝は空の月の光りを受けて其影を地上に落してゐる。婆娑は影の形容で、其岨道を歩いて行くと自然其花の影を踏んで通らねばならぬ、よろしい、面白い此景色のもとに我れは其影を踏んでやらうといふのである。これも只客観的に叙するならば、「花影婆娑と路上にあるや岨の月」とでもいふべきであるが、作者の興奮した感情はさういふ冷ややかな客観叙法では満足が出来ないで、われはあの影を踏まねばならぬ、よろしい踏んでやらうといふところまで立入つて、打興じた心持で此句は出来たのである。」(『定本高浜虚子全集/第十巻/毎日新聞社刊』所収「進むべき俳句の道」)

 この句は、大正二年(一九一三)、二十七歳、深吉野(東吉野村)での作である。

  涙目に見ありく背戸や蕗の薹 (「兄故郷へ帰り我一人山に残る」)

  春雨や山里ながら広き道 (山中松山といふ所あり、その近くにて)

  ※花影婆娑と踏むべくありぬ岨(そば)の月

  花の戸やひそかに山の月を領す

  杣(そま)が灯す柱の影や青芒

  老杣のあぐらにくらき蚊遣(かやり)かな

  百合たむけて木の間にありぬ山の墓

  灯(ともし)置けば百合本箱に映りけり (「山居独房」)

  粥すゝる杣が胃の府や夜の秋 (「深吉野の山人は粥をすゝりて生く」)

  月見るや山冷到る僧の前 (「鷲屋口宝泉寺にて画筆をふるひて泊る」)

  あはれさは鹿火屋に月を守(も)ることか (「三尾に行きて帰る 三句)

  淋しさにまた銅鑼(どら)うつや鹿火屋守 (同上)

  あさましく山にぞ明けし鹿火屋かな (同上)

  船で着く行李待つ我に秋日かな (「放浪の身はまた深吉野ヲ立出でゝ郷里出雲に仮の

  宿りを定む」)

  想ひ見るや我屍にふるみぞれ (放浪年久しく)

 『原石鼎全句集(沖積舎・一九九〇刊)』の「大正二年」作の句からの十五句である。『自選句集 花影(改造社・一九三七)』では、「※花影婆娑と踏むべくありぬ岨(そば)の月」の句は、下記アドレス(「国立国会図書館デジタルコレクション」)で閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1261953/1/12


(その十一)「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」



 








「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/47

「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」の「解説」(山口誓子)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/15

 この句は、大正九年(一九二〇)、石鼎、三十五歳時の作である。『原石鼎全句集(沖積舎・一九九〇刊)』では、この句の前後に「亀・(狐)・蝶・鯉」と、石鼎の「動物」の句が続く。

  花吹雪浮麩(うきふ)噛(か)む亀(かめ)口赤し

  ※うれしさの狐手を出せ曇り花 (※「曇り花」=「花曇(晩春)」)

  初夏の瞳海(どうかい)を飛ぶ蝶一つ(※「瞳海」=「瞳色=青色の海」?)

  鯉の眼に朱(しゅ)の輪黄(き)の輪や幟店

 掲出の「※うれしさの狐手を出せ曇り花」の句の「解説」は、「ホトトギス」の「村上鬼城・飯田蛇笏・前田普羅・原石鼎」時代の、次の「四S(水原秋桜子・高野素十・阿波野青畝・山口誓子)」の「山口誓子」のものである。

 ここでは、下記のアドレス(「国立国会図書館デジタルコレクション」)の『板画の道(棟方志功著)』所収「青天微笑」の「※うれしさの狐手を出せ曇り花」のものを、抜粋して、その全文を掲載して置きたい。



 








『板画の道(棟方志功著)』所収「青天微笑」の「※うれしさの狐手を出せ曇り花」の「棟方志功の『鑑賞』」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/116

[ うれしさの狐手を出せ曇り花 石鼎  

 最初に記した、春の水の句と同じに、この句の絶対を、大変・・と嘆じました。

うれしさの……ここまで息をつく瞬時なく、もう原石鼎氏が、詠まんとする絶対が、叫ばれている様です。

 うれしさの……と、嬉しさに、狐手もう、ひとり出に狐手になっている人の格好が浮かんで参ります。

 人が狐手にしているのでは、なく、狐が人を狐手にしているのです。もう一つ言いたくなれば、狐自体が面白くなって狐手になっているという狐自体をなくして、狐手になっているという世界です。どうして、こんな形の手になっているんだろうと、不思議なことに驚ろいている狐を思い出されるのです。

 それ程に、この狐手・・の魔力があるのです。そのおかしな手首の手を出さないではいられない自然さ・・・に、わたくしは、この句の打ちどころがあると思うのです。

 狐手を出せと叫んでいます。出せと言われなくっても出さないでは居られない事になって仕舞っているのです。わたくし達は、どうする事も・・・・・・、こうする事も・・・・・・出来ない所に置かれて仕舞っているのです。

 そうして、曇り花・・とおさめられて仕舞うのです。まるで手品師の様に、自由にされて仕舞うんです。

 曇り花・・・と結んだ原石鼎氏の真一文字の口振りには、何も申し上げることも出来ません。

 会津八一氏の歌の中に、わたくしの好きな、「毘沙門のおもきかかとにまろびふす鬼のもたえも千年へにけむ」という一首があります。

 その鬼の様に不易永劫のもだえ・・・の様に、この句の曇り花・・・もどこまでも、いつまでも晴れ切れない花盛りである様です。花曇りは、花盛りではなく、いつも、いつも曇り花である様です。曇り花である様です。](『「板画の道(棟方志功著)」所収「青天微笑」)

 この掲出句周辺については、下記のアドレスで紹介されている。

https://river3island.livedoor.blog/archives/22092897.html

https://kajipon.sakura.ne.jp/kt/munakata.html

https://munakatashiko-museum.jp/biography/


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その四」)」





 






「大和し美(うるは)し/剣の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/21

[(母となる人)を盗みしわが兄と

 われ自らの夢にふるへおののきし

 さるにわれ

 いましが甘き息の

 もと、再び酔

 に落ちしこそ

 わが過(あやまち)なれ

 汝はいまもわれを待

 ちらむ、あゝ美夜受(みやづ)、わ

 れ待ちがてに、襲(おすび)の欄(すそ)に

  またも月

 のたゝむとき

 契りて

 置

 きしわが

 劔(つるぎ)

 かひな

 にまかむ

 かくてなれわが

 肉身を得

 ざるにぞ、

 まこと

 の愛学ぶべし   ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)







 




「大和し美(うるは)し/矢燕の柵」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/21

[あゝ帰らざる昨日をなげき一昨日(おととひ)のな

 げきぞ新ら

 鎧

 ま

 と

 へる

 若者ひとり

 岩角(いはかど)に立ち、誇らかに来し方遥

 かにふりかへる、そは昨日のわれなり

 征矢(や)飛び来つてわが

 楯に中(あた)ると見れば

 


 









「大和し美(うるは)し/矢燕の柵」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/23

[燕なり、身を翻(ひるが)へしわ

 が

 肩を

 掠めて去りぬ

 世は真夏         ]

 

原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十二・その十三)

(その十二) 「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花 1935・句 1955・3板 」と(その十三)

「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」

(その十二) 「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花 1935・句 1955・3板 」

 https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/16











「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花 1935・句 1955・3板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/16

「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花 1935・句 1955・3板 」の「解説」(棟方志功)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/16

 この句は、昭和十年(一九三五)、石鼎、四十九歳時の作で、母が亡くなった時の、一連の句の中の一句である。

  ほのと積めば粉雪霰も春のもの(「母危篤の電報により即刻帰省、以下、略」)

  一枝の椿を見むと故郷に(「二 一枝の椿を見むと故郷に 1935・句 1956・1板」)

  https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-06-18

   母癒えよと春の霰の月に歩す

   春雪に華やかなりし夜なりけり

   紅椿白玉椿薗の奥

   本堂の柱に映る木の芽かな(「母の初七日、中略 二句)

   本堂の太しき柱木の芽時(同上)

   花の月枝がくれ母の心かも

   霞まんとして霞みを居り花の春

   ※ひとりでににじむ涙や峰の花


『板画の道(棟方志功著)』所収「青天微笑/p211」の、この句の前後の句などは次のとおりである。


https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/116


  「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」

 ※十二 ひとりでににじむ涙や峰の花

  「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」

 この三句の、上五の、「ぎくぎくと」・「ひとりでに」・「うれしさの」の、平仮名の平易な切り出しの用例は、「石鼎俳句」の、初期から晩年に至るまで終始変わらぬ、一つの特徴でもある。

   なつかしや山人の目に鯨売 (大正元年=一九一二、二十六歳) 

   かしさはひともしごろの雪山家 (同上)

  四  もろもろの木に降る春の霙かな 1934・句 1956・1板  (四十五歳)

  七  はづかしと雲ひきそめぬ彌生富士 1931・句 1956・3板 (四十八歳)

 二十三  とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句 (三十歳)

 二十七  ずんずんと日に秋深むおもひかな 1941・句 1955・9板 (四十七歳)

  

   たぐひなき花の真紅の小菊かな (昭和二十五年=一九五〇、六十四歳)

   このわたり華やかならぬ紅葉かな (同上)

   たそがれの静けさ添はず冬の木々 (同上)


(その十三)「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」



 








「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/17



 「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」の「解説」(原コウ子)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/17

 この句は、『板画の道(棟方志功著)』所収「青天微笑/p211」では、冒頭のトップに出て来る句である。その掲載句の順は次のとおりとなる。

https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/115

一 春の水岸へ岸へと夕かな (「青天微笑/p211」の冒頭のトップの句)

二 「三 この朧海山へだつ思ひかな 1935・句 1956・2板」 

四 「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」

五  ※十二 ひとりでににじむ涙や峰の花

六 「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」

 この『板画の道(棟方志功著)』の冒頭のトップの掲出の句は、志功にとっても、思い入れの深い句なのであろうが、この『青天抄板畫巻(著者/原石鼎 句, 棟方志功 板/出版者・宝文館)』 では、亡き「石鼎」夫人の、「原コウ子」の解説を載せている。

 これは、この掲出の句も、掲出の前句(「十二 ひとりでににじむ涙や峰の花」)と同じく昭和十年(一九三五)、石鼎、四十九歳時の作で、母が亡くなった時の、一連の句の中の一句なのである。

 この昭和十年(一九三五)の「年譜」(『原石鼎全句集・沖積舎刊』所収)には、「二月、母危はを終え、帰京。三月、母死亡。」とあり、この、二月から三月かけての「石鼎の母没」時の石鼎に、終始、その奥様の俳人の「原コウ子」が同行していて、この句は、「原コウ子」にとっても思い入れの深い句であったのであろう。

 その「解説」(鑑賞)の、「まことに不思議な『夕』の一字である」は、この句の的矢を得ている思いを深くする。この、「原コウ子」の、この「夕」(一字)の発見は、上記の七句で拾うと、次のとおりとなる。

一 春の水岸へ岸へと夕かな (「青天微笑/p211」の冒頭のトップの句)→「夕」

二 「三 この朧海山へだつ思ひかな 1935・句 1956・2板」    →「朧」 

四 「九 ぎくぎくと乳のむあかごや春の潮 1934・句 1955・3板」 →「乳」

五  ※十二 ひとりでににじむ涙や峰の花            →「涙」

六 「十一 うれしさの狐手を出せ曇り花 1920・句 1956・4板 」 →「狐」

 










「十三 春の水岸へ岸へと夕かな 1935・句 1955・3板 」の「部分拡大図」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/17

 この志功の描く「女神像(一面六臂=腕)」の原型は、興福寺の「阿修羅像=A図」(三面六臂)というよりも、保田保重郎の短歌をテーマにした「絃火頌(かぎろいしょう)」の各図(B図・C図・D図)などのバリエーション(変種)の一つのように思われる。




 




「興福寺阿修羅像(A図)」(「ウィキペディア」)



 







「絃火頌(かぎろいしょう)/神火の柵」(棟方志功/昭和30/29.8×24.1㎝)→B図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/23

[火の国の阿蘇の神山神の火の魂依りしづか燃えていませり(歌・保田與重郎)](『棟方志功全集6『詩歌の柵2』』)






 






「絃火頌(かぎろいしょう)/風立つの柵(乾坤鼓笛の柵)」(棟方志功/昭和29/20.7×25.0㎝)

→C図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/19

[このひるのわがあるままのすがしさよいつかに似たる風立ちにけり(歌・保田與重郎) ](『棟方志功全集6『詩歌の柵2』』)




 







「絃火頌(かぎろいしょう)/吾妹子の柵(葵花の柵)」(棟方志功/昭和30/20.8×26.5㎝)

→D図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/30

[吾妹子葵花(きか)咲く八重垣のすずしく水は石ぬらしけり(歌・保田與重郎)](保田保重郎) ](『棟方志功全集6『詩歌の柵2』』)

 このD図(「吾妹子の柵(葵花の柵)」)は、「観音経板画巻(「観音経曼荼羅」)」の「阿修羅の柵」や「夜叉の柵」と、同一趣向のものであろう。



 







「観音経板画巻(「観音経曼荼羅」)/阿修羅の柵」(棟方志功/昭和13/40.9×50.6㎝)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12753895/1/48

[阿修羅身=仏法守護神の一人であるが、よく帝釈天と争うという両方の性格を持つ鬼神]







 



「観音経板画巻(「観音経曼荼羅」)/夜叉の柵」(棟方志功/昭和13/40.9×50.6㎝)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12753895/1/49

[夜叉身=半神半鬼の性格と神通力をもつ神で、インド神話では人を食う鬼とされ、仏教に入り仏法の守護神となる。]

 この「観音経板画巻(「観音経曼荼羅」)は、「棟方志功略年譜」(『棟方志功全集(講談社刊)』所収)の、昭和十三年(一九三八)の項に、「日本民芸館展に『観音経板画巻』を出品。柳宗悦の指導で裏彩色を始める。」とあり、この作品が、志功の本格的な「裏彩色(うらさいしき)」作品のスタートの作品となる。

(「裏彩色」)

http://www.chichibu.ne.jp/~yamato-a-t/munakata.html

[ 裏彩色(抜粋)

日本古来の彩色板画は浮世絵のように多色刷ですが、棟方志功は白黒板画を鮮やかにするために彩色を施しました。初め「ヴェニース生誕」や「大和し美し」のように表に色付けをしました。これを見た柳宗悦が、中国の古法で和紙の裏から色付けする裏彩色を教示しました。この方法だと板画の線がマスクされずに自由に彩色されます。昭和十二年以後の作品は裏彩色によるものがたくさんあります。 ]


(参考) 「大和し美(うるは)し/矢燕の柵(白黒版画図)」(1936年(昭11)と「大和し美(うるは)し/草燕の柵(表彩色版画図)」(19376年(昭12)








 

左図(白黒版画図)→ 「大和し美(うるは)し/矢燕の柵」(1936年(昭11)/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/21

右図(表彩色版画図) → 「大和し美(うるは)し/草燕の柵」(1937年(昭12))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/31

[ 棟方は「大和し美し」全二十図から五図を選び、初めて表から絵筆で彩色した。その作品を見た柳宗悦は、表からの彩色が版画の効果を損なうを惜しみ、裏からの彩色をすすめた。

(中略) 昭和十二年、「観音経板画巻」で代赭(だいしゃ)色による裏彩色を全作品に施し、裏彩色による棟方独自の作品が完成した。](『棟方志功全集5『詩歌の柵1』』)


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その五」)」



 








「大和し美(うるは)し/弟橘の柵」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/24

[ 野はかぎりなき

  海にも似たり

  住家みな輝く波に

  おほはれて人なきごとし

   まことの営みは恒にかくあり

   そを知らざりしこそわが愚なれ

   われは感じぬ、なき妻の

   いまはの歌の一節(ひとふし)ぞ勝利

   の鼓に優れるを

   あゝ橘思ひぞ

   いづれ、かの日

   空は暗澹として

   霙(みぞれ)落ちこむ

   景色なり

   淵さながらの

   空を劃(くぎ)りて涯

   もなく葦は        ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)



 








「大和し美(うるは)し/鷺群の柵」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/24

[ 穂を並む

  われら道をなきそのなか

  をひたすら進みき

  なれの頬そこここに血を滲ま

  すに

  われ気づかへば、

  不吉なるものを感ぜしごとく

  ------道速振(ちはやぶる)神の住む

  てふ大沼はいづれにあらむ、

  その気もあらず、

  怪し

  あ

  や

  し

  かく言ひも

  終らぬうちに鷺(さぎ)群(むれ)をな

  し葦原を飛び           ](参考『棟方志功全集5/詩歌の柵1』)


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十四・その十五)

(その十四) 「十四 青天や白き五弁の梨の花 1936・句 1956・5板 」と(その十五)「十五 高々と蝶こゆる谷の深さかな 1913・句 1955・4板 」


(その十四) 「十四 青天や白き五弁の梨の花 1936・句 1956・5板 」



 








「十四 青天や白き五弁の梨の花 1936・句 1956・5板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/18



 「十四 青天や白き五弁の梨の花 1936・句 1956・5板 」の「解説」(京極杜藻)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/18

 この句は、昭和十一年(一九三六)、石鼎、五十歳時の作で、『原石鼎全句集(沖積舎刊)』では、一連の「梨の花」(四句)中の一句である。

  突風のふるはせすぎぬ梨の花

  突風に人はしらじな梨の花

  五辯づゝつぶらつぶらに梨の花

  ※青天や白き五辯の梨の花

 京極杜藻の「解説」は、「かういふ句は説明が出来ない。説明はみな蛇足となる。」というのだが、これが、棟方志功の「白黒板画(版画)」の、「白裸の女人像(柵)」と一体となると、この句が、生き生きと躍動してくる。



 








「絃火頌(かぎろいしょう)/鎮女妃の柵(胸肩妃の柵)」(棟方志功/昭和40/30.4×24.3

㎝) → A図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/30

[ 三輪山の中つ尾の上の夜目遠目白きはけだし桜花かな(歌・保田與重郎) ]

 掲出の保田與重郎の歌の「三輪山」は、「大和し美し」(板画・棟方志功/詩・佐藤一英)の象徴的な、奈良県北部奈良盆地の南東部に位置する、別名に「三諸山(みもろやま)・美和山」・御諸岳」などと、『古事記』『日本書紀』の三輪山伝説(大物主神の伝説)を、今に伝えている、その象徴的な山である。(「ウィキペディア」)


https://www.pref.nara.jp/50565.htm


「三輪山を 然(しか)もも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや」(額田王『万葉集』巻一・一八番歌)

(【訳】 三輪山をこのように隠すのか。せめて雲だけでも心あってほしいものを。隠すべきではない。)



 




「三輪山」(抜粋「三輪山に大鳥居が正面となる。」)

http://sakuwa.com/p97.html

[ここに大国主の神愁(うれ)へて告りたまはく、「吾独(ひとり)して、何(いかに)かもよくこの国をえ作らむ。いづれの神と、吾(あ)とよくこの国を相作(つく)らむ」とのりたまひき。この時に海をてらして依りくる神あり。その神の言(の)りたまはく、「我(あ)が前(みまへ)をよく治めば、吾(あれ)よくともどもに相作り成さむ。もし然あらずは、国成り難(がた)けむ」とのりたまひき。ここに大国主の神まをしたまはく、「然らば治めまつらむ状(さま)はいかに」とまをしたまひしかば答へてのりたまはく、「吾(あ)をば倭(やまと)の青垣(あをかき)の東の山の上に斉(いつ)きまつれ」とのりたまひき。こは御諸(みもろ)の山の上にます神(注)なり。

 御諸の山の神 古事記より

三輪山は面積ざっと百万坪、倭青垣山というその別名でもわかるように、日本盆地におけるもっとも美しい独立丘陵である。神岳(かみやま)という別称もえる。秀麗で霊気を感ずる独立丘陵を古代人は神南備山(かんなびやま)ととなえて山そのものを神体としてしまったが、神南備山である三輪山は、日本におけるその古代信仰世界の首座を占める。

 古代出雲族の活躍の中心が、いまの島根県でなくむしろ大和であったということ、・・・その大和盆地の政教上の中心が三輪山である。出雲族の首都といっていい。

  司馬遼太郎 街道をゆく(1)より   ]







 




「絃火頌(かぎろいしょう)/美輪山の柵(いつきし万比女の柵)(宗像妃の柵)」(棟方志功/昭和40/29.54×23.2㎝) → B図

[三わ山のしつめ乃(の)池の中島の日うらゝかにいつきし万比女(歌・保田與重郎)]

 この保田與重郎の歌の「万比女(まひめ)」は、「額田王」と解して良かろう。そして、「万比女の柵(「額田王」の柵)は、棟方志功は「宗像妃の柵」とも称しており、自分の姓のルーツでもある、「胸肩(むなかた)・宗像(むなかた)・棟方(むなかた)」妃(姫)の原型(御神体)は、「弁財天」(弁才天・吉祥天)であるということについては、下記のアドレスで紹介してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-06-27

 そこで、紹介した「弁財天(べんさいてん)妃(ひ)の柵」は、下記(再掲)のとおり、額の中央に赤い「鳥居」が描かれており、これは、上記で紹介している「三輪山に大鳥居」(写真)のイメージとオーバラップしてくる。

 そして、この「弁財天(べんさいてん)妃(ひ)の柵」の、その額の「鳥居」は外して、琵琶を抱いている弁財天像こそ、B図の「美輪山の柵(いつきし万比女の柵)(宗像妃の柵)」であり、さらに、それは、A図の「鎮女妃の柵(胸肩妃の柵)」(額に鳥居が描かれている)と連動していると解して差し支えなかろう。

(再掲)



 








「弁財天(べんさいてん)妃(ひ)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748140/1/82

 ここで、上記に抜粋掲載した、「神南備山(かんなびやま)である三輪山は、日本におけるその古代信仰世界の首座を占める。古代出雲族の活躍の中心が、いまの島根県でなくむしろ大和であったということ、・・・その大和盆地の政教上の中心が三輪山である。出雲族の首都といっていい。(司馬遼太郎『街道をゆく(1))より)」と関連させると、「棟方志功(津軽「胸肩神社)」・「原石鼎(出雲「出雲大社)」・「橋本平八・北園克衛兄弟(伊勢「伊勢神宮」)・「保田與重郎(大和桜井「大神神社・檜原神社」)らが、「大和し美(うるは)し(棟方志功板画・佐藤一英詩)」の「倭建命・日本武尊(やまとたけるのみこと)・小碓命(おうすのみこと)」を介して一線に結びついて来る。

 これらの、「大和し美(うるは)し(棟方志功・板画/佐藤一英・詩)」の世界から、さらに飛翼を遂げて、今に、「桜井市の万葉歌碑(桜井記紀万葉歌碑)」(「昭和46年当時の桜井市長と桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎氏が中心になって、当時の著名な文化人の揮毫を依頼し建立された歌碑」)か、その威容を伝えている。

 その全容は、下記のアドレスの『昭和の文人が愛した神なびの郷 桜井記紀万葉歌碑原書展図録』に紹介されているが、その「桜井記紀万葉歌碑」に揮毫を寄せた文化人は、下記のとおりである。

https://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=8222


[ 『昭和の文人が愛した神なびの郷 桜井記紀万葉歌碑原書展図録』(抜粋)

一、山の辺・三輪地域

小林秀雄、中河与一、会津八一、山本健吉、武者小路実篤、佐藤佐太郎、鹿児島寿蔵、岡潔、棟方志功、市原豊太、入江泰吉、吉田富三、※川端康成、東山魁夷、久松潜一、千玄室、徳川宗敬、安田靫彦、北岡壽逸、月山貞一、※※川端康成、樋口隆康、堂本印象、黛敏郎、和田嘉寿男、林房雄、山口誓子、今東光、有島生馬、樋口清之

(注一 ※川端康成=「大和は 国のまほろば/たたなづく 青がき/山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し/(古事記・中巻 倭建命(場所:井寺池畔)→ 下記に掲出

https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91-%E4%BD%9C%E8%80%85%E5%88%A5/10-%E5%A4%A7%E5%92%8C%E3%81%AF%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%BB%E3%82%8D%E3%81%B0/

注二 ※※川端康成=「三輪山を/しかも隠すか/雲だにも/こころあらなむ/隠くさふべしや/(万葉集巻1-18 額田王)( 場所:芝運動公園)

https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91-%E4%BD%9C%E8%80%85%E5%88%A5/46-%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%8B%E3%82%82%E9%9A%A0%E3%81%99%E3%81%8B/

注三 「三輪山を/しかも隠すか/雲だにも/こころあらなむ/隠くさふべしや/(万葉集巻1-18 額田王)の歌碑は、保田與重郎のものもある。(場所:桜井西中学校(校舎内))

二、泊瀬・朝倉地域

木本誠二、辰巳利文、平泉澄、平澤興、保田與重郎、堀口大學、宇野精一、林武、里見弴、阿波野青畝、今日出海

三、磐余・磯城地域

井上靖、犬養孝、金本朝一、有島生馬、宇野哲人、大西良慶、清水比庵、湯川秀樹、山岡荘八、遠藤周作、間中定泉、保田與重郎、徳川宗孝、二條弼基、服部慶太郎、朝永振一郎、福田恆存、中河幹子、小倉遊亀、保田與重郎、犬養孝、熊谷守一、前川佐美雄 ]

掲出(注一 ※川端康成=「大和は 国のまほろば/たたなづく 青がき/山ごもれる 大和し 美 (うるわ)し/(古事記・中巻 倭建命(場所:井寺池畔)




 






「大和は 國のまほろば」(「桜井市の万葉歌碑(桜井記紀万葉歌碑)」)

https://www.pref.nara.jp/39062.htm

http://sakuwa.com/ya17-1.html

[昭和47年の1月だった。川端康成は山の辺の道をたずねた。細い躯に、澄んだ眼を光らせて。風景の美しい井寺池の堤にたって、「ここがいいね」と、淡い夕陽につぶやいた。

 やがて4月、そして16日、なぜか川端は自らの生命を絶つ。もちろん、歌碑の原稿をかくひまもなく、文豪の死は唐突であった。

 しかし、碑は、秋11月池の堤にすえられた。秀子夫人の思いやりで、ノーベル賞授賞記念講演「美しい日本の私」の遺稿から、文字を拾い集め、石に刻みこまれたのだ。 榊莫山 路傍の書より ]






 





「井寺池畔で歌碑の設置場所を決める川端康成(右から二人目)と保田與重郎(左から三人目) 

https://www.city.sakurai.lg.jp/material/files/group/16/201906.pdf



「桜井市の万葉歌碑(桜井記紀万葉歌碑)」の全容については、下記のアドレスで紹介されている。

https://sakurai-kankou.jimdo.com/%E4%B8%87%E8%91%89%E6%AD%8C%E7%A2%91/


(その十五)「十五 高々と蝶こゆる谷の深さかな 1913・句 1955・4板 」



 








「十五 高々と蝶こゆる谷の深さかな 1913・句 1955・4板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/19







「十五 高々と蝶こゆる谷の深さかな 1913・句 1955・4板 」の「解説」(前田普羅)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/19


 「前田普羅と原石鼎」については、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-06-10

 この石鼎の句は、大正二年(一九一三)、二十七歳時の、深吉野(東吉野村)での作である。この句の前後の句は、次のとおりである。(『原石鼎全句集・沖積社刊』)

  鮠(はえ・はや)餌(え)つく水音の背となりにけり

  囀や杣(そま)衆が物の置所

  ※高々と蝶こゆる谷の深さかな

  やま人と蜂戦へるけなげかな

 一句目の「鮠(はえ・はや)」の句は、「川魚」の句、二句目は「囀(さえずり)」の「鳥」の句、三句目は、「蝶」の「ひらひらと舞う昆虫」の句、そして、五句目は、「蜂」の「ぶんぶんの『蜂の巣取りの杣人(そまびと=)やま人』と『戦う昆虫』」の句である。

 ここで、「桜井市の万葉歌碑(桜井記紀万葉歌碑)」の、その『万葉集』には、「蝶」の句(歌)は一句(一首)もなく、下記のアドレスでは、次のように記されている。

https://art-tags.net/manyo/animal/cho.html

[万葉集には蝶が詠まれた歌はありませんが、巻5の梅花32首の序(漢文)に記載されています。

第五巻:0815: 正月立ち春の来らばかくしこそ・・・原文: 梅花歌卅二首并序 / 天平二年正月十三日 萃于帥老之宅 申宴會也 于時初春令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈 於是盖天坐地 促膝飛觴 忘言一室之裏 開衿煙霞之外 淡然自放 快然自足 若非翰苑何以□(手偏+慮)情 詩紀落梅之篇古今夫何異矣 宜賦園梅聊成短詠

読み下し: 天平二年正月十三日 帥(そち)の老の宅(いえ)に萃(あつま)りて 宴會(えんかい)を申(の)ぶ 時に初春の令月にして 氣淑(よ)く風和ぐ 梅は鏡前の粉を披(ひら)き 蘭は珮後(ばいご)の香を薫(かお)らす しかのみにあらず 曙(あさけ)の嶺(みね)に雲移り 松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け 夕の岫(みね)に霧を結び 鳥はうすものに封(と)じられて林に迷う 庭に新蝶舞い 空に故鴈(こがん)歸る ここに天を盖にし地に坐し 膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす 言を一室の裏に忘れ 衿を煙霞(えんか)の外に開く 淡然に自ら放し 快然(かいぜん)に自ら足りぬ 若し翰苑(かんえん)に非ずは何を以てか情をのべむ 詩に落梅の篇を紀(しる)す 古と今と夫れ何か異ならむ 宜しく園梅を賦して聊(いささか)に短詠を成すべし

要旨: 天平二年(西暦730年)正月十三日に太宰府の帥(そち)大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で宴会をしました。天気がよく、風も和らぎ、梅は白く色づき、蘭が香っています。嶺には雲(くも)がかかって、松には霞がかかったように見え、山には霧がたちこめ、鳥は霧に迷う。庭には蝶が舞い、空(そら)には雁(かり)が帰ってゆく。空を屋根にし、地を座敷にしてひざを突き合わせて酒を交わす。楽しさに言葉さえ忘れ、着物をゆるめてくつろぎ、好きなように過ごす。梅を詠んで情のありさまをしるしましょう。]

 ここで、「保田與重郎」の世界の、その「大和し美し」(昭和十一年=一九三六、三十三歳)の作品に先んじて、「川上澄生」(「初夏の風」)の世界の、処女版画集『星座の花嫁』(昭和六年=一九三一、二十七歳)を刊行している。

 後年、棟方志功は、「わたしの板画の流れは、この作品(川上澄生「初夏の風」)から流れだした様のものです」と語っている。(『板画の道』所収「板画への径々/p130」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2481179/1/78



 








「花が蝶々か(『星座の花嫁』)」(昭和4年=1929/23.1×21.5㎝、詩=自作)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/32

 花か蝶々か

 花か蝶々か蝶々か花か

 来てはちらちら迷わせる (棟方志功・詩「花か蝶か」)



 







「初夏の風」(川上澄生/大正15年=1926/25.0×37.0㎝/第5回国画創作協会展出品)

(『川上澄む生全集第一巻』)=国立国会図書館デジタルコレクション

https://dl.ndl.go.jp/pid/12425661/1/8

[かぜとなりたや

はつなつの かぜとなりたや

かのひとの まへにはだかり

かのひとの うしろよりふく

はつなつの はつなつの

かぜとなりたや      (川上澄生・詩「初夏の風」) ]

 この、川上澄生の「初夏の風」は、『川上澄む生全集第一巻』では、「川上澄生詩集青髭」(詩四篇/挿図六葉/全十八葉/昭和2年=1927)私刊)での、下記の「B図(「わが願ひ」)」として、「初夏の風」のアレンジしたものも登載されている。ここでは、冒頭の「はつなつの」(「初夏の風(A図)の出だしが、「われは」(「わが願ひ」C図)、そして、「かのひと」が「あのひと」と、微妙にアレンジされている。さらに、「ローマ字 初夏の風(D図)」のものもある。

[「わが願ひ」

 われは かぜとなりたや

 あのひとの うしろよりふき                    

 あのひとの まえにはだかる

 はつなつの かぜとなりたや ―詩画集「青髭」から― ]






 






(B図)「わが願ひ」(『川上澄生詩集青髭』所収)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12425661/1/29








 






(C図) 「ローマ字 初夏の風」( 1926(大正15)年/木版多色刷/紙/ 21.7×15.5㎝)

https://www.town.tochigi-nakagawa.lg.jp/10kouhou/2007/0712/files/22.pdf


(参考)

[ 保田与重郎(やすだよじゅうろう)(1910―1981)

  文芸評論家。明治43年4月15日奈良県生まれ。東京帝国大学美学科卒業。大阪高校時代は左翼思想の影響のうかがえる短歌や評論を同人誌に発表したが、大学に入って高校時代の仲間と出した『コギト』(1932)には「私らはこの国の省みられぬ古典を愛する」と宣して日本の古典論を寄稿した。ついで亀井勝一郎(かめいかついちろう)らと『日本浪曼(ろうまん)派』(1935)を創刊して話題になり、最初の評論集『日本の橋』(1936)が池谷(いけたに)信三郎賞を得て注目されたが、しだいに民族主義と反近代主義の立場を明確にし、『戴冠(たいかん)詩人の御一人者』(1938)、『後鳥羽院(ごとばいん)』(1939)、『民族的優越感』(1941)、『近代の終焉(しゅうえん)』(1941)などを著し、第二次世界大戦下の青年に多大な影響を与えた。戦後は郷里に帰り『祖国』(1949)を発刊、厳しい指弾のなかで姿勢を変えずに言論活動を行い、『現代畸人(きじん)伝』(1963)で論壇に復帰し、『日本浪曼派』評価の議論を喚起した。昭和56年10月4日没。(都築久義)

 『『保田与重郎選集』全六巻(1971~72・講談社)』▽『橋川文三著『日本浪曼派批判序説』(1960・未来社)』▽『神谷忠孝著『保田与重郎論』(1979・雁書館)』 ](「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

[ 川上澄生(かわかみすみお)(1895―1972)

  版画家。横浜市生まれ。1916年(大正5)青山学院高等科を卒業し、翌年から1年余りカナダ、アラスカ、アメリカへ放浪の旅をする。21年から栃木県立宇都宮中学校の英語教師となり、このころから木版画家として活動を始めた。27年(昭和2)日本創作版画協会の会員となり、また国画会展にも出品し、42年には同会の会員となる。文明開化調や南蛮異国趣味に独特の作風を示した。49年(昭和24)第1回栃木県文化功労賞を受賞。また昭和初めから『青髯(あおひげ)』『えげれすいろは』ほか小形木版本を多数刊行した。(小倉忠夫)

 『『川上澄生全集』全14巻(中公文庫)](「日本大百科全書(ニッポニカ)」) 


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その六」)」





 





「大和し美(うるは)し/焔の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/25

[ 立ち去りぬ

  時もあらせず

  一条の煙昇

  れり

  ――かしこにも、なれの指さす方

  既に一團の焔はあがる、

  そは

  われ

  らを

  謀(はか)りてやき殺さむとする

  賊の仕業なり

  けり

  げに愛するものは

  明智こそ得るなれ

  わがをばより賜りし袋を開(く)   ]




  


 





「大和し美(うるは)し/乱髪の柵)」(1936年(昭11))/24.2×34.8㎝/詩・佐藤一英)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/25

[ 賊向ひ火にあふ

  られて逃げ散りしのち、

  われ

  焼跡の

  灰にまみれし

  櫛を見いでてな

  れに

  示せば

  莞爾として乱

  れたる髪を

  束ねぬ

  図らざりき

  その笑顔いま

  も見るがご(ときに)    ]