芭蕉の鹿の句
○ びいと啼(なく)尻声悲し夜ルの鹿
元禄七年九月十日付けの江戸在住の杉風(さんぷう)宛ての書簡の中の一句である。『笈日記』・『芭蕉翁行状記』・『泊船集』・『喪の名残』などにも収録されている。『芭蕉翁真蹟集』・『陸奥千鳥』には、特に、「びい」と濁点が付されており、芭蕉は「びい」と詠んでいたようなのである。しかし、この句については、次下のような詠みのまま、現在の芭蕉集には、三者三様に収録されているのである。
(一)びいと啼(なく)尻声悲し夜ルの鹿 (古典俳文学大系本・新編古典文学全集編本)
(二)ひいと啼く尻声悲し夜の鹿 (潁原退蔵著作集本)
(三)ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿 (「俳句の解釈と鑑賞事典」)
この(一)の詠みが最も一般的なものであるが、この句の解説において、「鹿の鳴声は、古来詩歌の好素材で、和歌・連歌でもうさんざんに詠みふるされている。俳諧が、いかにして和歌・連歌のマンネリズムから脱け出すか。芭蕉はそのために『びいと啼尻声』を工夫した」(新編古典文学全集編本)となると、またして、アンチ「和歌・連歌」の俳諧化ための「擬声語」の「びい」の芭蕉の新工夫が、この句のポイントということになる。そして、この「尻声」について、志田義秀の『芭蕉俳句の解釈と鑑賞』の「尻声とは鹿が鳴いてその声を長く引くことを云うものと考えられる」との解説も引用している。
となると、(三)の「ぴいと啼く尻声」の方が、雄鹿が雌鹿を呼ぶ甲高い声に相応しい詠みなのではないかとも思われるのである。また、濁点を付さない(二)の表記とあわせ「ひい」という尻声もあるのではなかろうかと・・・、ことほどさように俳句の詠み方は難しいということを思いしるのである。まして、この句のように、この「びり」という擬声語が句の生命線のような場合には、原作者がどのような詠み方をしていたかということについて、ことさら、この句に接する者にとっては好奇心が湧いてくるのである。
そして、これが、アンチ「和歌・連歌」の鹿の声の「俳諧化(滑稽化)の新工夫」ということであるならば、文字通り、この「尻声」は、「糞をする時のビリビリという尻声」という、そんな鑑賞すら許されてくるのではなかろうかという妄想が湧いてくるのである。
ともあれ、この芭蕉の句の「びり」の擬声語のような「オノマトペ」については、古来の「和歌・連歌の世界」は言うに及ばず、こと「俳諧・俳句の世界」においても、生命線のような、作句上も鑑賞上も、大事なキィーポイントであることは、よくよく肝に銘じて置く必要があると思われるのである。
なお、芭蕉のこれらの「オノマトペの句」は以下のようなものがあげられる。
馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉
ほろほろと山吹ちるか瀧の音
あかあかと日は難面もあきの風
秋もはやはらつく雨に月の形
むめがゝにのっと日の出る山路かな
昨日からちょっちょっと秋も時雨かな
どむみりとあふちや雨の花曇
ひやひやと壁をふまへて昼寝かな
臘八の旦峨々たる声音かな
0 件のコメント:
コメントを投稿