日曜日, 11月 04, 2012
『冬の日』第三歌仙周辺
『冬の日』第三歌仙周辺(その一)
○三ケ月の東は暗く鐘の声 (芭蕉)
○つゝみかねて月とり落す霽(しぐれ)かな(杜国)
○朝月夜双六うちの旅ねして (杜国)
○こがらしに二日の月のふきちるか (荷兮)
掲出(一句目)の芭蕉の句は、『冬の日』第三歌仙「月とり落す」の「名残の表十一句目(月の定座)」の句である。句意は、「西の空には三日月がかかり、東の空はまだ薄暗く、何処からか入相の鐘が聞えてくる」。歌仙の「二花三月」の、その最後の月の句で、芭蕉の、そして、三日月の句というのも、『七部集』の歌仙の中でも異色といえるものであろう。月齢による月の由来として、新月(朔日の月)→繊月(二日月)→眉月(三日月)と、これらの月の句は、後の月(十三夜)・望月(十五夜)・既望(十六夜)に比すると、その頻度は多くはない。そもそも、この『冬の日』第三歌仙「月とり落す」は、その発句が、「つゝみかねて月とり落す霽(しぐれ)かな」(掲出二句目)と、いわゆる「無月」(「時雨などで月が見えない」のを「時雨の合間に月が見える」との意)に近い句作りで、この異例の月の句を冒頭の発句にしていて、とにもかくにも、異色の展開の歌仙なのである。これらのことに関係するのかどうか、『連句辞典』(東京堂出版)や『十七季』(三省堂)所収の「蕉風俳諧季題表」(付録)では、この杜国の発句には、月の句の表示がなく、この歌仙だけ「二花二月」なのである。ちなみに、『芭蕉七部集』(岩波書店)所収の「歌仙概説」では、この発句は、月の句として扱っているが、『歌仙の世界』(角川書店)所収の「歌仙式目一覧」では、月の句の表示はない(上記の『連句辞典』などは、この「歌仙式目一覧」の元本の『七部集連句早見(嘉永元年)』に因っていると解せられる)。そして、さらに、不可解なことは、この異例の発句の作者杜国が、この掲出の芭蕉の三日月の句と、もう一つの月の句の作者として、「朝月夜双六うちの旅ねして」(掲出三句目、初ウ五句目)と、またもや、杜国その人が登場してくるのである。これらのことから、どうも、この『冬の日』第三歌仙「月とり落す」の、上記の芭蕉の句(掲出一句目)と杜国の句(掲出二・三句目)は、何やら相互に「月の句」関連として微妙な交響ともいうべきものが感知されるのである。しかし、それだけではなく、この『冬の日』の編者ともされている荷兮が、後に、七部集の一つの『あら野』(巻乃五)に収めた、上記の「二日月」の句(掲出四句目)とも、何やら響き合っているものが感知されるのである。この句こそ、後に、「凩の荷兮」と呼ばれるに至った、荷兮の代表作でもある。この荷兮の代表作は、上記の、『冬の日』第三歌仙「月とり落す」の、芭蕉の「三日月」の句(掲出一句目)を意識して、「二日月」という異色の素材に、「ふきちるか」と、作意の荷兮の、不作為の芭蕉への、痛烈な、投げ掛けの一句なのではなかろうか。そして、この荷兮の作意の「二日月」の句を、蕉門にあって、他の誰よりも、高く評価した、その人こそ、同じく作為派の其角その人なのである(『いつを昔』)。芭蕉→其角→荷兮、そして、杜国らの尾張蕉門の面々を、こういった角度から、つぶさに鑑賞していくということも、これまた、醍醐味の一つでもある。
『冬の日』第三歌仙周辺(その二)
この『冬の日』第三歌仙の「月とり落す」での、芭蕉と荷兮との付合は、下記の四場面(表四・五句目、裏九・十句目、名残の表七・八句目、名残の裏五・挙句)である。
オ四 北の御門をおしあけのはる (芭蕉)
五 馬糞掻(カク)あふぎに風の打ちかすみ (荷兮)
この芭蕉の短句(オ四)の句意は、「城の北門を押し開け、新年初めての狩に出掛ける」。そして、荷兮の長句(オ五)の句意は、「その門前の往来では馬糞の始末をしており、その扇形の鍬は春風と春霞の中にあり、長閑な光景である」。芭蕉の「北の御門」に、荷兮は「馬糞掻(カク)」、そして、芭蕉の古風な「あけのはる」に、具象性のある「あふぎに風の打ちかすみ」と、荷兮の面目躍如たる付合である。これらの歌仙は、貞享元年(一六八四)の、芭蕉の『野ざらし紀行』の旅の途次にあって、尾張熱田から名古屋に入り、その尾張・名古屋連衆とのものでり、時に、芭蕉、四十一歳、荷兮、三十七才であった。そして、この荷兮を頂点とするこれらの名古屋連衆の野水・杜国・重五らは富商の旦那衆であり、「侘びつくしたるわび人」を自認していた芭蕉にとっては、これらの名古屋連衆との出合いは驚きであったろう。この最初の出合いからの影響かどうか、その後の芭蕉の荷兮らに対する姿勢というのは、江戸の門人達に対するものとは別の、ややへりくだっている姿勢が見られなくもないのである。
ウ九 まがきまで津波の水にくづれ行(ゆき) (荷兮)
十 仏喰(くひ)たる魚(うを)解(ホド)きけり (芭蕉)
荷兮の長句(ウ九)の句意は、「垣根まで津波の水で押し流されてしまった」。その芭蕉の短句(ウ十)の句意は、「魚を捕らえて、その腹を切り開いたら、津波で流された仏像が現れた」というのである。荷兮の津波の句も面白いが、芭蕉の付句はその荷兮の句以上に何ともいえない味わいを有している。それは、後の川柳の原型の一つともいえる、「俳諧武玉川」(初篇)の「津波の町の揃う命日」をも彷彿させる。これらの芭蕉の句に接すると、芭蕉が名古屋連衆に驚きを持って接した以上に、荷兮らの名古屋連衆もまた、芭蕉との出合いは決定的なものであったであろう。そして、この芭蕉と荷兮らの名古屋連衆は、この『冬の日』を始めとして、『春の日』・『あら野』と、実に、『芭蕉七部集』の前半の三部作の原動力となったのである。
ナオ七 雪の狂呉の国の笠めづらしき (荷兮)
八 襟に高尾が片袖をとく (はせを)
荷兮の長句(ナオ七)の句意は、「雪の日に、『笠ハ重シ呉天ノ雪』と詠った唐の国の笠が何とも珍妙である」。それに対して、恋句の名手・芭蕉が、「はせを」の名で、「その珍妙な人は、なんとなんと、吉原の高尾太夫の衣装の片袖を解いたものを襟に巻いている」というのである。これが、当時、『野ざらし紀行』の旅の途次にあっての、「侘びつくしたるわび人」の「はせを」の艶冶な恋の句なのである。さて、芭蕉のその艶冶な恋の句はともかくとして、この荷兮の長句は、『冬の日』冒頭の第一歌仙の、その冒頭の異色の芭蕉の発句、「狂句こがらし身は竹斎に似たる哉」を想起させるのである。その前書きは、「笠は長途の雨にほころび、帋衣はとまりとまりのあらしにもめたり。侘つくしたるわび人、我さへあはれにおぼえける。むかし 狂哥の才士、此国にたどりし事を、不図おもひ出て申侍る」とある。とするならば、この荷兮の句は、「この雪の日に、この名古屋にお出で頂いた、彼の国の狂哥の才士は、何と風雅のお方であろうか」とでも、それに対して、「なんとなんと、風雅人どころか、高尾太夫の端切れを襟に巻いての、遊侠人そのものですよ」とでもなるのであろうか。とにもかくにも、この荷兮と芭蕉(はせを)との付合は絶妙である。
ナウ五 こがれ飛(とぶ)たましゐ花のかげに入(いる) (荷兮)
挙句 その望(もち)の日を我もおなじく (はせを)
荷兮の挙句の前の花の句にして恋句(ナウ五)の句意は、「思い焦がれている吾が魂は、ついにその人の身近な花の辺りまで飛んでいった」と、何とも大袈裟な、作意に充ちた雰囲気の句である。そして、挙句の芭蕉の句の句意は、「かの西行が、その春の日に、その願いを遂げたように、私もそうありたいものだ」と、いかにも西行好きの芭蕉その人らしく、西行の、「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃」の本歌取りの一句であろう。この『冬の日』第三歌仙の「月とり落す」は、杜国の異例の無月の句とも思われる発句、「つゝみかねて月とり落す霽(しぐれ)かな」に始まり、これまた、名残の裏に入って、その四句目から五句目の花の定座の恋の句と、異例の展開となる。この芭蕉の挙句にしても、前句の荷兮の恋の句を受けて、「その望(もち)の日を我もおなじく」と、「我も同じく、『こがれ飛(とぶ)たましゐ花のかげに入(いる)』。そして、『願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃』」と、恋句の雰囲気を有している一句と解すべきなのであろう。とにもかくにも、その冒頭の杜国の発句から、これらの、芭蕉と荷兮との直接的な付合を中心にして展開し、その最後の芭蕉の挙句まで、次から次へと和漢のさまざまな意匠を施して、実に、見応えのある一巻となっている。
『冬の日』第三歌仙周辺(その三)
オ五 馬糞掻(カク)あふぎに風の打かすみ 荷兮
ウ九 まがきまで津浪の水にくづれ行(ゆく) 々
ナオ四 庄屋のまつをよみて送りぬ 々
ナオ七 雪の狂呉の国の笠めづらしき 々
ナウ二 声よき念仏薮をへだつる 々
ナウ五 こがれ飛(とぶ)たましゐ花のかげに入(いる)々
『冬の日』第三歌仙の「月とり落す」での荷兮の付句である。その句意については先に触れたものがあるが、ここで改めて記すと次のとおりである。
オ五 門前の往来では馬糞の始末をしており、その扇形の鍬は春風と春霞の中にあり、長閑な光景である。
ウ九 垣根まで津波の水で押し流されてしまった。
ナオ四 庄屋の屋敷の見事な松を一首の歌に詠んで故郷の人に送った。
ナオ七 雪の日に、『笠ハ重シ呉天ノ雪』と詠った唐の国の笠が何とも珍妙である。
ナウ二 藪を隔てた向こうから声の通った念仏称名が聞えてくる。
ナウ五 思い焦がれている吾が魂は、ついにその人の身近な花の辺りまで飛んでいった。
本来、これらの付句というのは、前句との関連で鑑賞されるべきであろうが、これらを並列して改めてその句意などを探って見ると、「馬糞掻(カク)」・「津浪の水」・「庄屋のまつ」・「呉の国」・「声よき念仏」・「たましゐ花のかげに入」など、作意を働かせての劇的趣向の付句を得意としていることが感知される。荷兮は、『芭蕉七部集』の、その前半の、『冬の日』・『春の日』・『あら野』の三部作の編纂などの原動力になるが、後に、芭蕉と袂を分かつこととなる。元禄六年(一六九三)刊の『曠野後集』は芭蕉への反抗第一の書であり、その自序に、「たゞいにしへをこそこひしたはるれ」と古風への郷愁を詠い、蕉風への逆行を示している。その第二集は翌元禄七年刊の『ひるの種』で、これらに対する去来を始めとする蕉門面々の非難は凄まじく、元禄十年刊の『橋守』で反芭蕉の烙印を甘受することとなる。これらのことが起因となってか、正徳年中には俳諧を捨てて、連歌師・昌達へと転進し、蕪村の誕生した享保元年(一七一六)に不遇のうちに没した。
山本荷兮(慶安元年(一六四八)~享保元年(一七一六))
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kakei.htm
本名山本周知、名古屋の医者。通称は武右衛門および太一または太市。橿木堂、加慶は別号。貞亨元年以来の尾張名古屋の蕉門の重鎮であったが、内紛によって後に袖を分かつ。荷兮は、結局保守派で、芭蕉が次々と唱導する俳諧革新、特に「軽み」にはついていくことが出来なかった。元禄六年十一月には、『曠野後集』を出版し、その序文に幽斎・宗因など貞門俳諧を賞賛し、「ただいにしへこそこひしたはれる」とまで書いて反抗した。そのため、蕉門の去来など理論派からは大いに非難された。晩年は、まことに復古調の連歌師になった。離反する以前には、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』等の句集を編纂。また、『更科紀行』では、奴僕を提供して芭蕉一行の旅の安全を支援するなどしている。
(荷兮の代表作)
霜月や鶴(カウ)の彳(つく)々ならびゐて (『冬の日』)
春めくや人さまざまの伊勢まいり (『春の日』)
先(まづ)明(あけ)て野の末ひくき霞哉 (『春の日』)
朝日二分柳の動く匂ひかな (『春の日』)
榎木(えのき)まで櫻の遅きながめかな (『春の日』)
萱草(くわんざう)は随分暑き花の色 (『春の日』)
蓮池のふかさわするゝ浮葉かな (『春の日』)
こぬ殿(との)を唐黍(たうきび)高し見おろさん(『春の日』)
秋ひとり琴柱(ことぢ)はづれて寝ぬ夜かな (『春の日』)
あたらしき茶袋ひとつ冬篭 (『春の日』)
連だつや従弟(いとこ)はおかし花の時 (『あら野』)
首出して岡の花見よ蚫(あはび)とり (『あら野』)
むつかしと月を見る日は日も焼かじ (『あら野』)
いつの月もあとを忘れて哀也 (『あら野』)
暮いかに月の氣もなし海の果 (『あら野』)
見る人もたしなき月の夕かな (『あら野』)
ちらちらや淡雪かゝる酒強飯(さかこはひ) (『あら野』)
しづやしづ御階(みはし)にけふの麥厚し (『あら野』)
萬歳のやどを隣に明にけり (『あら野』)
巳のとしやむかしの春のおぼつかな (『あら野』)
蝶鳥を待(まて)るけしきやものゝ枝 (『あら野』)
暁の釣瓶(つるべ)にあがるつばきかな (『あら野』)
いそがしき野鍛冶をしらぬ柳哉 (『あら野』)
蝙蝠(かはほり)にみだるゝ月の柳哉 (『あら野』)
ねぶたしと馬には乗らぬ菫草 (『あら野』)
山まゆに花咲かねる躑躅(つつじ)かな (『あら野』)
髭に焼香(たくかう)もあるべしころもがえ (『あら野』)
鵜のつらに篝(かがり)こぼれて憐也 (『あら野』)
簾(すだれ)して涼しや宿のはいりぐち (『あら野』)
はき庭の砂あつからぬ曇哉 (『あら野』)
あさがほの白きは露も見えぬ也 (『あら野』)
朝顔をその子にやるなくらふもの (『あら野』)
もえきれて帋燭(しそく)をなぐる薄哉 (『あら野』)
見しり逢ふ人のやどりの時雨哉 (『あら野』)
こがらしに二日の月のふきちるか (『あら野』)
ぬつくりと雪舟(そり)に乗たるにくさ哉 (『あら野』)
としのくれ杼(とち)の實一つころころと (『あら野』)
いはけなやとそななめ初(そむ)る人次第 (『あら野』)
としごとに鳥居の藤のつぼみ哉 (『あら野』)
沓音(くつおと)もしづかにかざすさくら哉 (『あら野』)
けふの日やついでに洗ふ佛達 (『あら野』)
おも痩(やせ)て葵付たる髪薄し (『あら野』)
うち明てほどこす米ぞ虫臭き (『あら野』)
わか菜より七夕(たなばた)草ぞ覺えよき (『あら野』)
爪髪も旅のすがたやこまむかえ (『あら野』)
草の葉や足のおれたるきりぎりす (『あら野』)
玉しきの衣かへよとかへり花 (『あら野』)
舞姫に幾たび指を折にけり (『あら野』)
おはれてや脇にはづるゝ鬼の面 (『あら野』)
しら魚の骨や式部が大江山 (『あら野』)
嵯峨までは見事あゆみぬ花盛 (『あら野』)
のどけしや湊の晝(ひる)の生(なま)ざかな (『あら野』)
更級の月は二人に見られけり (『あら野』)
狩野(かの)桶に鹿をなつけよ秋の山 (『あら野』)
いく落葉それほど袖もほころびず (『あら野』)
あゝたつたひとりたつたる冬の旅 (『あら野』)
あやめさす軒さへよそのついで哉 (『あら野』)
さうぶ入(いる)湯をもらひけり一盥(たらひ)(『あら野』)
あはれなる落葉に焼(た)くや島さより (『あら野』)
つまなしと家主やくれし女郎花(をみなへし) (『あら野』)
橘のかほり顔見ぬばかり也 (『あら野』)
あだ花の小瓜(こうり)とみゆるちぎりかな (『あら野』)
はつきりと有明残る櫻かな (『あら野』)
おもふ事ながれて通るしみづ哉 (『あら野』)
おどろくや門もてありく施餓鬼棚 (『あら野』)
稲妻に大佛おがむ野中哉 (『あら野』)
雁くはぬ心(こころ)佛にならはぬぞ (『あら野』)
曙や伽藍(がらん)伽藍の雪見廻(ま)ひ (『あら野』)
きさらぎや廿四日の月の梅 (『あら野』)
しんしんと梅散(ちり)かゝる庭火(にはび)哉(『あら野』)
川原迄瘧(おこり)まぎれに御祓(みそぎ)哉(『あら野』)
ほとゝぎす待ぬ心の折もあり (『あら野』)
塩魚の歯にはさかふや秋の暮 (『猿蓑』)
陽炎や取つきかぬる雪の上 (『猿蓑』)
家買てことし見初る月夜哉 (『炭俵』)
秋のくれいよいよかるくなる身かな (『炭俵』)
蔦の葉や残らず動く秋の風 (『續猿蓑』)
麥ぬかに餅屋の見世の別かな (『續猿蓑』)
『冬の日』第三歌仙周辺(その四)
発句 つゝみかねて月とり落す霽(しぐれ)かな 杜国 冬月
ウ二 灯籠(とうろ)ふたつになさけくらぶる 々 秋恋
ウ五 朝月夜双六(すごろく)うちの旅ねして 々 秋月
ウ十二 五形(ゲンナ)菫の畠六反 々(とこく) 春
ナオ三 おかざきや矢矧(やはぎ)の橋のながきかな 々 雑
ナオ十 芥子(けし)のひとへに名をこぼす禅 々 夏
ナウ一 烹(に)る事をゆるしてはぜを放(はなち)ける 々 秋
『冬の日』第三歌仙の「月とり落す」での杜国の発句と付句である。簡単にその句意を記すと次のとおりである。
発句 時雨が月を包み損ねて、月の光が射し込んでいる。
ウ二 思いを寄せている二人の男からそれぞれに灯籠が贈られてきて、どちらの方が思い入れが深いか推し量ったいる。
ウ五 有明の月のもと、道中双六をした相手が旅に出発する。
ウ十二 今は柴雲英菫の咲くばかりの畠になっている。
ナオ三 岡崎の矢矧の橋はまさに東海道随一の長さであることよ。
ナオ十 一重の芥子の花が散っているが、その一重の散り様のような禅の悟りは悟りではない。
ナウ一 鯊釣は、煮て食べるのではなく、釣ったらみな放してやる。釣りそのものが楽しみなのである。
この歌仙が巻かれた当時、杜国は二十歳代であり、四十代の芭蕉や、その芭蕉より四歳下
の荷兮らに比すると、付合の応酬などの緊張感というものは感じられないが、「時雨と月」
(発句)・「(恋の句の)灯籠」(ウ二)・「朝月夜と双六と旅」(ウ五)・「岡崎の矢矧の橋」(ナ
オ三)・「鯊釣り」(ナウ一)など、その作句する心が多彩で、柔軟性というものが感知され
る。そして、これらの作句する主題が、「時雨」といい「禅」といい、当時の、「侘びつく
したるわび人」と自認する芭蕉と資質的には相似た共通項のようなものも感知される。事
実、芭蕉の杜国への熱の入れようは、尋常なものではなく、あまつさえ「芭蕉と杜国(万
菊丸)とは衆道関係にあった」ともいわれるほどのものであった。この杜国について、次
のとおり紹介されている。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/tokoku.htm
坪井杜国(~元禄三年(一六九〇)二月二十日)
本名坪井庄兵衛。名古屋の蕉門の有力者。芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほど
は疑わしいが師弟間に男色説がある)。杜国は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であった
が、倉に実物がないのにいかにも有るように見せかけて米を売買する空米売買の詐欺罪(延
べ取引きといった)に問われ、貞亨二年八月十九日領国追放の身となって畠村(現福江町)
に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美(<ほび>渥美半島南端の渥美町)に隠棲した。
もっとも監視もない流刑の身のこと、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉とと
もに『笈の小文』の旅を続けたりもしていた。 一説によると、杜国は死罪になったが、
この前に「蓬莱や御国のかざり桧木山」という尾張藩を讃仰する句を作ったことを、第二
代尾張藩主徳川光友が記憶していて、罪一等減じて領国追放になったという。元禄三年二
月二十日、三十四歳の若さで死去。愛知県渥美郡渥美町福江の隣江山潮音寺(住職宮本利
寛師)に墓があるという。
(杜国の代表作)
つゝみかねて月とり落す霽(しぐれ)かな (『冬の日』)
曙(あけ)の人顔牡丹霞(ぼたんかすみ)にひらきけり (『春の日』)
足跡に櫻を曲る庵二つ (『春の日』)
馬はぬれ牛ハ夕日の村しぐれ (『春の日』)
この比(ごろ)の氷ふみわる名残かな (『春の日』)
吉野いでて布子(ぬのこ)売りたしころもがへ (『笈の小文』)
麥畑の人見るはるの塘(つつみ)かな (『あら野』)
霜の朝せんだんの實のこぼれけり (『あら野』)
八重がすみ奥迄見たる竜田哉 (『あら野』)
芳野出て布子賣おし更衣 (『あら野』)
散花(ちるはな)にたぶさ恥けり奥の院 (『あら野』)
こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉 (『あら野』)
木履(ぼくり)はく僧も有けり雨の花 (『あら野』)
似合(にあわ)しきけしの一重や須广の里(『猿蓑』)
『冬の日』第三歌仙周辺(その五)
第三 歯朶の葉を初狩人(はつかりびと)の矢に負て 野水 春
ウ四 蕎麦さへ青し滋賀楽(シガラキ)の坊 々 秋
ウ七 しのぶまのわざとて雛を作り居る 々 雑
ナオ二 真昼の馬のねぶたがほ也 々 雑
ナオ十二 秋湖かすかに琴かへす者 々 秋
ナウ三 かげうすき行燈けしに起侘て 々 雑
『冬の日』第三歌仙の「月とり落す」での野水の第三と付句である。簡単にその句意を記すと次のとおりである。
第三 初狩に出掛ける人の矢に祝儀の意の羊歯の葉を添えた。
ウ四 信楽の山寺で蕎麦をご馳走になる。その蕎麦が青く芳しい。
ウ七 世間から隠れ住み、雛の内職の暮らしである。
ナオ二 真昼時、道行く馬の顔もねむたげである。
ナオ十二 秋の夕暮れ、湖上で琴を弾いている者がいる。
ナウ三 明け方で行灯の光も白んでいて、それを消すに起きるのももの憂い。
『冬の日』の第一歌仙「狂句こがらしの」では、芭蕉の発句、「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」に、野水は、「たそやとばしるかさの山茶花」と脇句を付けた。このとき、芭蕉は四十一歳、野水は二十七歳だったという。この『冬の日』歌仙では、脇句を担当すると、次の歌仙は発句を担当するという順付けのようである。第二歌仙では、野水が発句を担当し、「はつ雪のことしも袴きてかへる」、そして、その脇句は杜国の「霜にまだ見る蕣(あさがほ)の食(めし)」である。そして、この第三歌仙では、第二歌仙の脇句を担当した杜国の発句で始まっている。呉服商の野水は、およそ十七年間町総代もつとめるほどの名家で、和歌・茶道にも通じ、俳諧は貞門に学んだという。名古屋大和町に広大な屋敷を持っていて、そこで、この『冬の日』歌仙が興行され、その野水の敷地跡に、現在、「蕉風発祥之地」の句碑が建立されている。晩年には専ら茶道に没頭して、許六の『歴代滑稽伝』には、「勘当の門人なり」と記されており、荷兮と同じく蕉門を離脱していたのであろう。句風は、「秋湖かすかに琴かへす者」など文人趣味が感知され、「しのぶまのわざとて雛を作り居る」などその劇的趣向は荷兮に相似ている雰囲気を有している。当時の名古屋俳壇のリーダー格が荷兮とすると、その荷兮の次のような位置にいた俳人だったのであろう。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/yasui.htm
岡田野水(~寛保三(一七四三)年三月二十二日)
埜水とも。尾張名古屋の呉服豪商で町役人。通称は佐右次衛門。本名岡田行胤。芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋に逗留したとき(一六八四年)の『冬の日』同人。そのころ野水は二十七歳の男盛りであった。しかし、この直後に妻と死別したらしい。
(野水の代表作)
はつ雪のことしも袴きてかへる (『冬の日』)
蛙のみきゝてゆゝしき寝覚かな (『春の日』)
瓦ふく家も面白や秋の月 (『春の日』)
具足着て顔のみ多し月見舟 (『春の日』)
みねの雲すこじは花もまじるべし (『あら野』)
なりあひやはつ花よりの物わすれ (『あら野』)
見るものと覚えて人の月見哉 (『あら野』)
はかられし雪の見所有り所 (『あら野』)
たてゝ見む霞やうつる大かゞみ (『あら野』)
曙は春の初やだうぶくら (『あら野』)
精出して摘とも見えぬ若菜哉 (『あら野』)
さとかすむ夕をまつの盛かな (『あら野』)
はやぶさの尻つまげたる白尾鷹 (『あら野』)
風の吹(ふく)方(かた)を後のやなぎ哉 (『あら野』)
はる風にちからくらぶる雲雀哉 (『あら野』)
ほうろくの土とる跡は菫かな (『あら野』)
松明にやま吹うすし夜のいろ (『あら野』)
永き日や油しめ木のよはる音 (『あら野』)
行春(ゆくはる)のあみ塩からを残しけり (『あら野』)
さびしさの色はおぼえずかつこ鳥 (『あら野』)
聞おればたゝくでもなき水鶏(くいな)哉 (『あら野』)
ゆうがほのしぼむは人のしらぬ也 (『あら野』)
雲の峰腰かけ所たくむなり (『あら野』)
梨の花しぐれにぬれて猶淋し (『あら野』)
爐(ろ)を出(いで)て度たび月ぞ面白き (『あら野』)
もち花の後はすゝけてちりぬべし (『あら野』)
氷ゐし添水またなる春の風 (『あら野』)
水鳥のはしに付たる梅白し (『あら野』)
花賣に留主たのまるゝ隣哉 (『あら野』)
寝入なばもの引きよせよ花の下 (『あら野』)
行春もこゝろへがほの野寺かな (『あら野』)
綿脱(わたぬき)は松かぜ聞に行ころか (『あら野』)
蓮の香も行水したる氣色哉 (『あら野』)
涼めとて切ぬきにけり北のまど (『あら野』)
雪の旅それらではなし秋の空 (『あら野』)
秋の雨はれて瓜よぶ人もなし (『あら野』)
ひとしきりひだるうなりて夜ぞ長き (『あら野』)
獨り寐や泣(なき)たる貌にまどの月 (『あら野』)
白菊や素顔で見むを秋の霜 (『あら野』)
こがらしもしばし息つく小春哉 (『あら野』)
鉢たゝき出もこぬむらや雪のかり (『あら野』)
佛名(ぶつみょう)の礼(らい)に腰懐(だ)く白髪哉 (『あら野』)
よし野山も唯大雪の夕哉 (『あら野』)
あき風に申かねたるわかれ哉 (『あら野』)
月に行(ゆく)脇差(わきざし)つめよ馬のうへ (『あら野』)
夢に見し羽織は綿の入にけり (『あら野』)
水無月の霧の一葉と思ふべし (『あら野』)
跡の方と寐なほす夜の神楽哉 (『あら野』)
初雪やことしのびたる桐の木に (『あら野』)
一いろも動く物なき霜夜かな (『猿蓑』)
みのむしや常のなりにて涅槃像 (『猿蓑』)
くつさめの跡しずか也なつの山 (『猿蓑』)
きさらぎや大黑棚もむめの花 (『續猿蓑』)
廣沢や背負ふて帰る秋の暮 (『續猿蓑』)
『冬の日』第三歌仙周辺(その六)
脇 こほりふみ行(ゆく)水のいなづま 重五 冬
ウ一 らうたげに物よむ娘かしづきて 々 雑恋
ウ八 命婦の君より米なんどこす 々 雑
ウ十一 県(あがた)ふるはな見次郎と仰がれて 々 春花
ナオ六 晦日(みそか)をさむく刀売る年 々 冬
ナオ九 あだ人と樽を棺(ひつぎ)に呑ほさん 々 雑恋
ナウ四 おもひかねつも夜るの帯引 々 雑恋
『冬の日』第三歌仙の「月とり落す」での重五の脇句と付句である。簡単にその句意を記すと次のとおりである。
脇 氷を踏み行くと、水の稲妻が閃き走る。
ウ一 愛らしく仮名草子などを読んでいる娘さんを大切に養い育てている。
ウ八 後宮の女官より米などが送り届けてくる。
ウ十一 地方の由緒ある花見次郎と崇められているお方である。
ナオ六 今年の大晦日は遂に腰の一刀まで売る羽目になっている。
ナオ九 この徒人と死なばもろともと酒樽を棺でもすねように呑みに呑んでいる。
重五は、材木商の豪商といわれている。その別荘は古渡橋の南にあり、『冬の日』に続く『春の日』の歌仙は、その重五の別荘で興行されたという。『冬の日』の当時の年齢は、越人編纂の『鷦尾冠』の記載の記事を逆算すると、三十歳前後とのことである。また、その『鷦尾冠』によれば、重五は、病弱でもあったらしく、その子息の二人も越人門の俳人だったという(贅川他石稿「連句私解」)。その句風は、上記を見た限りにおいては、いずれも、それぞれに着眼点などが面白く、その恋句の、「あだ人と樽を棺(ひつぎ)に呑ほさん」などはどこか豪快味をも漂わせている。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/juhgo.htm
加藤重五(~享保二(一七一七)年六月十三日、享年六十四歳)
加藤善右衛門。尾張名古屋の材木問屋の豪商。『冬の日』の同人。
(代表作)
元日の木の間の競馬足ゆるし (『春の日』)
傘張の睡リ胡蝶のやどり哉 (『春の日』)
山畑の茶つみぞかざす夕日かな (『春の日』)
蚊ひとつに寝られぬ夜半ぞはるのくれ (『春の日』)
跡や先(さき)気のつく野邊の郭公 (『あら野』)
山柴(やましば)にうら白まじる竈(かまど)かな (『あら野』)
山賎(やまがつ)が鹿驚作りて笑けり (『あら野』)
麥うつや内外もなき志賀のさと (『あら野』)
門(かど)あかで梅の瑞籬(みずがき)おがみけり(『あら野』)
幾春も竹其儘に見ゆる哉 (『あら野』)
『冬の日』第三歌仙周辺(その七)
『冬の日』第一歌仙「狂句こがらしの」の表の折端に一句、同じく第二歌仙「はつ雪」の表の折端の句に、一句、そして、同じく第三歌仙「月とり落す」歌仙の表の折端の句に、一句と、合計、三句のみに名を見せているのが、正平である。紀州和歌山の人との校注があるが、その他は未詳の謎の俳人である。これらの歌仙の執筆(式目に反していないかどうかを吟味する助手役)ともいわれている。
第一歌仙表・折端 日のちりちりに野に米を刈(かる) 正平
(残光のちらつく夕暮れ、まだ農夫は田野で米を刈っている)
第二歌仙表・折端 桃花をたをる貞徳の富 正平
(桃の花を手折る貞門俳諧の祖の貞徳翁は風雅の富に恵まれていることよ)
第三歌仙表・折端 茶の湯者おしむ野べの蒲公英 正平
(茶の湯をたのしむ好事の者が野辺の蒲公英を愛でている)
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