雪舟と探幽の「瀟湘八景」そして蕪村の「夜色楼台図」(その四)
図23 江天暮雪図(「東山清音帖」より) 大雅筆
[ 紙本墨画 一帖 全十六面 各二〇・〇×五二・〇cm
本図にのみ「九霞山樵写」と落款が入っているので、八景の締めくくりの図である。たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせ、たちまちにして主山と遠山を描いてしまう。画面が湾曲している扇面形に、これらの主山、遠山の形と配置だけでもじつは難しいのであるが、大雅の筆にはいささかな迷いもなく、ごく自然に、これしかないという形で決まっている。太い墨線の墨がまだ乾かないうちに水を加えて、片側をぼかしている。白い雪、ふわっとした質感の表現であるが、まさに妙技といえる。折しも、一陣の風に、降り積もった新雪が舞い上がる。図25の《江天暮雪図》(注=掲載省略)と比較しても、本図においてはまた一段と円熟味が増しており、堂々たる風格を備わっていることがわかる。 ]
(『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」)
大雅は、若いときから、瀟湘八景を繰り返し描いていた。寛延二年(一七四九)、二十七歳の春、親友の高芙蓉(篆刻家・儒学者)と共に北陸を旅し、金沢に数か月滞在した。その折、瀟湘八景図巻(現在焼失)を描き、これは「芥子園画伝」などを参考にし、八景の図様を独創的に作り上げたという。
爾来、大雅は、画巻・画帖・屏風・掛幅など様々な画面形式で、八景各図を同一させたり同一画面に描き込んだりしてきたが、大雅最晩年期の作とされている、上掲(図23)が収載されている「東山清音帖」では、各図を独立させ、しかもそれを扇面に描いたのであった。さらに各題詩を同形の扇面に書して添えている。
これらの扇面は折れ目が全く無く、一度も扇子に仕立てられたことがなかった。初めから扇子にする予定はなく、扇面という画面形式を選んだのであろう。少年時代に扇屋として出発し、商売として多数の扇画面を描き、扇面構成に熟達した経験が、五十歳代の晩年期になって結実して来たということなのであろう。
画題は、紛れもなく「瀟湘八景」なのであるが、この画帖に「東山清音帖」と命名したのは、生涯の友であった高芙蓉である。
大雅は、安永五年(一七七六)に、その五十四年の生涯を閉じるが、その翌年に、「故東山画隠大雅池君墓」の墓碑が、寺ノ内千本通りの浄光寺に建てられる。この銘の撰者は、若冲の精神的な支援者で知られている大典顕常(禅僧・漢詩人)、篆書は高芙蓉、そして、書者は韓天寿である。
大雅が、高芙蓉(一歳年長)と韓天寿(四歳年下)と知り合ったのは、寛保元年(一七四一)、十九歳のときで、爾来、この三人は刎頸の友の間柄となる。この三人それぞれが「三嶽道者」と号しているが、それは宝暦十年(一七六〇)に、北陸の白山・立山、そして江戸を経て富士山を踏破したことに因るものとされている。
大雅・高芙蓉・韓天寿、そして、大典・若冲の背後には、当時の京都の文人墨客ネットワークの中心に位置した、煎茶の祖・茶神と呼ばれている高遊外売茶翁(法名=月海、還俗後=高遊外、呼称=売茶翁)が見え隠れしている。
この売茶翁は、若冲に「丹青活手妙通神(丹青活手ノ妙神ニ通ズ)」の一行書を呈した。そして、大雅には「寄興罐」と称する湯沸かしを与えている。宝暦十三年(一七六三)に売茶翁が没するが、その遺文を集成した『売茶翁偈語』の「売茶翁伝」を草したのは大典であり、翁の半身像を描いたのは若冲であり、『偈語』の売茶翁の自題を書したのは、大雅その人である。
売茶翁は、年少(十三歳の頃)にして黄檗宗の本山である京都宇治の黄檗山万福寺にのぼった。以後、生まれ故郷の肥前蓮池(佐賀市)を始め、江戸・陸奥・筑前など各地の放浪を続け、臨済・曹洞の二禅の他、律学をも修した。しかし、六十歳を境にして、京都東山に小さな茶店「通仙亭」を開き、七十歳時に還俗して、法名「月海」を捨て「高遊外」を号し、「売茶翁」を呼ばれるに至った。さらに、八十歳時に売茶業を廃業し、愛用の茶道具も焼却してしまう。
売茶翁が没した宝暦十三年(一七六三)、大雅は、四十一歳の時であったが、この売茶翁の臨終に際して、売茶翁愛用の「寄興罐」(湯沸かし)が、大雅に与えられたのであろう(『池大雅 中国へのあこがれ(小林忠監修)』「池大雅略年譜」)。
売茶翁が茶道具を焼却してしまう時、その茶道具を擬人化して、「私の死後、世間の俗物の手に渡り辱められたら、お前たちは私を恨むだろう。だから火葬にしてやろう」との文章を遺していて、大雅に「寄興罐」を与えたということは、大雅こそ、売茶翁の精神(世俗《売茶翁の売茶業=大雅の売画業》と禅道との融解)を引き継ぐものという意が込められていたのかも知れない。
この売茶翁の「売茶業」の茶店の名前の「通仙亭」の「通仙」、そして、その茶店の脇に掲げられた旗の「清風」(大典書)は、売茶翁の精神の一端を物語っている、唐代の詩人玉川子廬仝(ろどう)の「茶歌」に因るものとされている。その「茶歌」を次に記して置きたい。
一碗喉吻潤 一碗喉吻潤イ (一杯飲メバ喉ヲ潤シ)
兩碗破孤悶 二碗孤悶ヲ破ル (二杯飲メバ孤独ヲ破ル)
三碗捜枯腸 三碗枯腸ヲ捜シ (三杯飲メバ枯腸ヲ探シ)
惟有文字五千巻 惟ダ有リ文字五千巻 (唯文字五千巻ノミ浮カブ)
四碗発軽汗 四碗軽汗ヲ発シ
(四碗飲メバ軽ク汗シ)
平生不平事 平生不平ノ事 (平素ノ不満事モ)
尽向毛孔散 尽ク毛孔ニ向カイ散ズ (毛穴ニ向カイ散リ尽クス)
五碗肌骨清 五碗肌骨清シ (五碗飲メバ肌モ骨モ清シ)
六碗通仙霊 六碗仙霊ニ通ズ (六碗飲メバ仙霊ニ通ズ)
七碗吃不得也 七碗吃スルヲ得ザル也 (七碗飲メバモウ飲メナイ)
唯覚両腋習習清風生
唯ダ両腋ノ習々タル清風ノ生ズルヲ覚ユ (唯両脇ニソソト清風ガ起ツヲ知ル)
蓬萊山在何處 蓬萊山何処ニカ有ル (蓬莱山ハ何処ニ有リヤ)
玉川子乘此清風欲歸去 玉川子此ノ清風ニ乘リ歸リ去ラント欲ス (清風ニ乗リ蓬莱山ニ帰リタイ)
図24 「高芙蓉書・東山清音」(「東山清音帖」題簽 )
「文人画家池大雅の詩書画三絶の妙味が極点に達したのが、最晩年期の傑作「東山清音帖」であることに誰しも異論はあるまい。瀟湘八景の図に中国歴代の文人画家による七言絶句の書が書き添えられている。略筆の画と達筆の書とが一対となって詩意を香り立たせる様は、まさに圧巻というほかはない。」
(『池大雅 中国へのあこがれ(小林忠監修)』「大雅の詩書画三絶」)。
その大雅の「東山清音帖」の題簽「東山清音」は、大雅の刎頸の友の高芙蓉の書である。高芙蓉が、この「瀟湘八景図」と中国歴代の文人画家の「七言絶句」とを書き添えた画帖に、何故、「東山清音」と書したのかは、おそらく、「山水自清音(山水自ラ清音)」(『文選巻二二』「招隠詩(左思)」)などに由来するものなのであろう。
そして、この「東山」は、「晋の謝安ゆかりの浙江省にある東山と、京都東山を掛けている」(『池大雅 中国へのあこがれ(小林忠監修)』「大雅の詩書画三絶」)と理解するのが妥当なのかも知れない。
しかし、この「東山」は、当時の京都の文人墨客ネットワークの中心に位置した売茶翁のバックボーンの「茶歌(玉川子廬仝)」の「蓬莱山=東山(とうざん)」(現実に存しない理想郷)と、その売茶翁が逍遥し、そして、大雅の生涯にわたる京都東山(現実の「知恩院古門前袋町そして祇園 下河原=真葛原草堂」)の「東山(ひがしやま)」をイメージ化したい。
さらに、この「清音」も、売茶翁の茶旗の由来となっている「茶歌(玉川子廬仝)」の、その一句の「(大雅)乘此清風欲歸去(清風ニ乗リ蓬莱山ニ帰リタイ) 」の、その「清風」の意と同じような意と解したい。
図25 「高芙蓉書・解衣盤礴」(「東山清音帖」題字 )
高芙蓉は、「東山清音」の題籢に続き、続く題字として「解衣盤礴(かいいばんぱく)」の四字を書している。この「解衣盤礴」は、「衣服を脱いで足を投げ出して坐り、体裁にかまわないこと」(『池大雅 中国へのあこがれ(小林忠監修)』「大雅の詩書画三絶」)の意らしいが、『荘子』に由来するもので、「真にその道を得たものは、一切外見を粧はない」の意が込められているのであろう。
まさに、先に見てきた、探幽や応挙の「晴れの場」の大画面構成による「雪中梅竹遊禽図襖」や「雪松図屏風」に比すると、これぞ普段の日常生活の「褻の場」に相応しい小品の扇面画であることか。しかし、この小品の扇面画の世界は、決して大作たる襖絵や屏風絵の世界に伍して一歩もひけを取らない。
いや、それ以上に、大作たる襖絵や屏風絵は、それが大作なるが故に、無限なる空間というよりも有限なる大空間という印象を受けるのに比してて、小品たる扇面画は、それが小品なるが故に、有限なる小空間の彼方の無限なる空間を連想させるという、丁度、俳諧(連句)の発句(俳句=五七五=十七音字)の世界が、その小なるが故に、無限の空間を創出していることと軌を一にしている印象を深くするのである。
ここで、先に、探幽と応挙とを比較した視点で、探幽・応挙と大雅(図23 荒天暮雪図)との世界を対比して見たい。
一 探幽の「余白」が「言葉のない空間」(語らない空間)、そして、応挙のそれは「言葉のある空間」(語っている空間」)とすると、大雅のそれは「言葉を拒否する空間(「余白」ではなく「白」そのもの無限の空間)ということになる。
二 探幽の「省筆」(減筆体)が上記の「言葉のない空間」、そして、応挙のそれが上記の「言葉のある空間」を生むための作為的(計算的)なものとすると、大雅の「言葉を拒否する空間」は、いわば、「破省筆」という無作為的(偶発的)な世界のものである。
三 探幽の「写実」(写生)は、「本絵」を描くための「下絵」的な従たる世界のもの、そして、応挙のそれは「写生=写実=『実体らしきもの』の描写=究極的世界」の主たる世界のものとすると、大雅のそれは「写意」の世界ということになる。
四 探幽の「空間」が平面的な空間、そして、応挙のそれは立体的な空間の、何れも絵画的(造形的)な空間とすると、大雅のそれは「詩書画三絶」の非絵画的(非造形的)な空間を醸し出している。
五 探幽の絵が「近見の絵」(近くで鑑賞する細密描写に気を配ったもの)、応挙のそれは「遠見の絵」(遠くから見て真価を発揮するもの)の時間をかけた「本絵」(「下絵」から「本絵」へと仕上げていくもの)とすると、即興的な「下絵=本絵」の「手元の絵」(手元で鑑賞する絵)という雰囲気である。
六 「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)と「豊穣な余白」(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)の視点からすると、それこそが、探幽様式であり、その探幽様式を、写生(写実)の「実体らしきもの」の新しい応挙様式へと発展させたのが応挙である。それに比して、大雅は、雪舟水墨画に原点回帰し、その「筆墨飄逸」と「余白の美」をさらに深化させたとも言えよう。
七 探幽の「豊穣な空間」、応挙の「人為の極の美的空間」に比すると、大雅は「禅的無我の自在的空間」を感じさせる。
八 探幽が「江戸狩野派」、応挙は「円山四条派」の、それぞれ一大画派集団の長であるのに比して、大雅は「文人画」(南画)という傍流の世界にあって、「詩書画三絶」の「臥遊」の市井絵師に徹したという印象を拭えない。まさに、大雅の世界は、高芙蓉の「東山清音帖」に寄せた題字「解衣盤礴(かいいげんぱく)」の、その「衣服を脱いで足を投げ出して坐り、体裁にかまわないこと」の、何らの制約を受けない自由人としての「融通無碍」の世界のものであったということになろう。
ここで、「東山清音帖」の八景について、玉川子廬仝(ろどう)の「茶歌」に準じて。その八景に大雅が付した漢詩人の七言絶句の一節などを戯画的に紹介して置きたい。
一景(「平沙落雁」)ヲ見レバ、「漁夫自醒還自酔」(漁夫自ラ醒メ、還《マ》タ自ラ酔ウ)
「不知身在画図中」(知ラズ、身ハ図中ニ在ルヲ)
二景(「遠《烟》浦帰帆」)ヲ見レバ、「無奈遊情日与催」(無奈=ドウニモ、遊情ガ日ニ与ニ催シ)
「欲畫楚山青萬里」(楚山ト萬山ヲ、画カント欲ス)
三景(「山市晴嵐」)ヲ見レバ、「老向天涯頗見畫」(天涯ニ老イテ、頻リニ画ヲ見レバ)
「一枝曾折送行人」(曾テ一枝ヲ折リ、行人ニ送ル)
四景(「漁村夕照」)ヲ見レバ、「草堂仍著薜蘿遮」(草堂仍テ薜蘿ヲ著ケ遮リ)
「地僻林深有幾家」(地僻ニシテ、深林幾家カ有ル)
五景(「洞庭秋月」)ヲ見レバ、「仙家應在雲深處」(仙家応ニシテ、雲深キ処ニ在リ)
「祇許人間到石橋」(祇《タダ》許ス、人間石橋ニ到ルヲ)
六景(「瀟湘夜雨」)ヲ見レバ、「前村遥望秋烟起」(前村遥ニ望メバ、秋烟起コリ)
「更在新筝破暁寒」(更ニ新筝ガ、暁寒ヲ破ル)
七景(「遠寺晩鐘」)ヲ見レバ、「百両真珠難買得」(百両ノ真珠、買イ得難キヲ)
「越峯圧倒漫金濤」(峯ヲ越エレバ、圧倒ス金濤ノ漫《ミ》ツルニ)
八景(「江天暮雪」)ヲ見レバ、「暁角寒聲散柳堤」(暁角ノ寒声、柳堤ニ散リ)
「千林雪色亞枝低」(千林ノ雪色、枝ヲ亜シテ低シ)
「行人不到邯鄲道」(行人不到、邯鄲ノ道)
「一種煙霜也自迷」(一種ノ煙霜、也《マタ》自ラ迷ウ)
(董其昌)
図26 荒天暮雪書(「東山清音帖」より「董其昌・七言絶句」 )大雅書
「東山清音帖」の最後を飾る「荒天暮雪図」(図23)と対を為している董其昌の七言絶句(大雅書)である。
この中国の明時代の『画禅室随筆』の著を有する董其昌こそ、中国の「文人画」ならず日本の「文人画」の理論的な支柱を据えた人と言って過言ではなかろう。
その『画禅室随筆』中の、「画ノ六法、一ハ気韻生動ナリ。気韻ハ学ブ不可(ベカラズ)。此レ生マレナガラニシテ之ヲ知り、自ズカラ天授スルニ有リ。然レドモ亦タ学ビ得ル処有リ。『 読万巻書(万巻ノ書ヲ読ミ)/ 行万里路(万里ノ路ヲ行く)』ハ、 胸中ヨリ塵濁ヲ脚芸スレバ、自然ニ丘壑内営シテ、立チニ鄄(鄞)鄂ヲ成シ、手ニ随イテ写出スルモ、皆ナ山水ノ伝神タラン」は、当時の大雅のみならず、以後の日本文人画の世界に足を踏み入れている者の金科玉条であったことであろう。
若き日の大雅は、「已行千里道未読万巻書」(已ニ行ク千里ノ道、未ダ読マズ万巻ノ書)の印章を愛用していたが、これは、董其昌の、『 読万巻書(万巻ノ書ヲ読ミ)/ 行万里路(万里ノ路ヲ行く)』を目指しての、ひたすらに、董其昌の提唱している理想的な文人画家を志してのものなのであろう。
大雅は、七歳の時に、黄檗宗総本山万福寺の杲堂(こうどう)和尚より「七歳神童書云々」の偈を賜っており、爾来、万福寺との関係は深い。十五歳の時に、大雅は文人画風の扇絵を売る「待賈堂(たいかどう)」を開店、その翌年に文人風の印章を彫る「袖亀堂(しゅうきどう)を併せ開いている。
この頃、大和郡山藩の重臣で日本文人画の先駆者の一人である柳沢淇園(柳里恭)の薫陶を受けることになる。大雅の若い時の号、「玉海」は、淇園の別号の「玉桂」の一字を与えられたものと言われている。また、大雅の妻の「玉瀾」も同じ淇園門で、玉瀾の祖母・母とも歌人で、大雅と結婚した後も、「徳山」の姓を用いている女流専門画家である。
大雅と玉瀾とは、祇園下河原の真葛原草堂を住居とするが、そこは、玉瀾の家で、大雅は、結婚前に住んでいた、知恩院袋町の家も利用していたことが、『平安人物史』(明和五年=一七一六版と安永四年=一七七五)上の二人の住所を見ていくと判明して来る(『日本の美術26小学館ブック・オブ・ブックス池大雅(吉沢忠著)』)。
何れにしろ、この二人と淇園との関係は深いものがあり、その淇園は、黄檗僧(万福寺八代住持) 悦峯道章(えっぽうどうしょう)の影響を深く受けており、大雅が董其昌を知ったのは、淇園などを通してのものなのかも知れない。
董其昌は禅に深く傾倒しており、その『画禅室随筆』で、「禅宗に南北二つの派があるが、(中略) 絵の南北二宗もまた唐の時代に分かれた。(中略) 南宗は王摩詰(注・王維)を祖とする」とし、さらに、「文人の画は王右丞(注・王維)より始まり、(中略) 元の四大家(注・王蒙、倪瓉=雲林、黄公望・呉鎮)にいたるまで正しくその法を伝えている。わが朝(注・明朝)の文徴明・沈石田なども、遠く王維の奥義に接している」(『日本の美術№4文人画(飯島勇編)』)とし、「北宗画と南宗画、文人画と南宗画」との関係を論じ、文人画(南宗画)の祖を王維としている。
図27 「倣王摩詰漁楽図」池大雅筆 紙本墨画 一四九・二×五三・八cm 京都国立物館蔵
日本の文人画(南画)の大成者として、池大雅と与謝蕪村との二人の名が挙げられる(『日本の美術25小学館ブック・オブ・ブックス南画と写生画(吉沢忠・山川武著)』)。
[ 廿四日(注・天明三年《一七八三》十二月)の夜は病体いと静(しずか)に、言語も常にかはらず。やをら月渓をちかづけて、病中の吟あり。いそぎ筆とるべしと聞(きこゆ)るにぞ、やがて筆硯料・紙やうのものとり出(いず)る間(ま)も心あは(わ)ただしく、吟声を窺(うかが)ふに、
冬鶯むかし王維が垣根哉
うぐひすや何ごそつかす藪の霜
ときこえつゝ、猶工案のやうすなり。しばらくありて又、
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
こは初春の題を置(おく)べしとぞ。此(この)三句を生涯語の限(かぎり)とし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。]
(蕪村追悼集『から檜葉(高井几董編)』「夜半翁終焉記(高井几董稿)」)
大雅が亡くなったのは、安永五年(一七七六)四月十三日、五十四年の生涯であった。そして、蕪村が六十八年の生涯を閉じたのは、天明三年(一七八三)十二月二十四日であった。上記は蕪村の終焉時の状況である。
蕪村はその臨終に際して、絶吟三句を遺して瞑目した。その三句のうちの一句目、「冬鶯むかし王維が垣根哉」と、董其昌に南画の祖として仰がれている、盛唐期の高級官僚で、詩人・画家・書家・音楽家として名も留めている王維その人に関する句なのである。
この南画の祖の王維を究極の目標と仰ぐ、蕪村と大雅は、明和八年(一七七一)八月に、国宝の「十便十宜画冊」を競作した。時に、蕪村、五十六歳、そして、大雅は四十九歳であった。蕪村と大雅とは親しく付き合った形跡は見当たらないが、この競作は、尾張鳴海の素封家下郷次郎八(号・学海)が「大雅堂に学んだ」ことなどから、大雅に制作を依頼して、大雅が蕪村に合作の仲介依頼などをして実現したものなのであろう(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
この画冊(画帖)は、明末清初の文人(戯曲家)で、文人画のテキストとして有名な「芥子園画伝」の著を有する李漁(号・笠翁)の『伊園(注・笠翁の別荘の名)十便十二宜詩(注・実際には十宜詩か伝わっていない)』を主題にしたものである。
その主題のうち、大雅が「十便図」(「耕便=こうべん」「汲便=きゅうべん」「浣灌便=かんたくべん」「灌園便=かんえんべん」「釣便=ちょうべん」「吟便=ぎんべん」「課嚢便=かのうべん」「樵便=しょうべん」「防夜便=ぼうやべん」「眺便=ちょうべん」)、蕪村が「十宜図」(「宜春=ぎしゅん」「宜夏(ぎか)」「宜秋(ぎしゅう)」「宜冬(ぎとう)」「宜暁(ぎぎょう)」「宜晩(ぎばん)」「宜晴(ぎせい)」「宜風(ぎふう)」「宜陰(ぎいん)」「宜雨(ぎう))」を制作している(各絵にそれぞれ該当する賛が記されている)。
もとより、この画帖は絵と書とを鑑賞するように作られており、「画家」と「書家」の両方の専門家である大雅(明和五年の『平安人物史』には両方の部に登録されている)向きの主題で、「画家」と「俳諧師」の蕪村には、やや不向きなものでもあったろう(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
あまつさえ、大雅の担当した「十便図」の方は、俳諧の世界でするならば、人事の世界(人情機微の世界)で、蕪村が担当した「十宜図」の景気の世界(情景・景色の世界)よりも、蕪村としては、これが逆であったならば、もっと本領が発揮出来たような、やや窮屈な印象すら垣間見える。
これらのこともあってか、この「十便十宜画冊」を基準にしての大雅と蕪村トの評価は、「大雅の逸筆、春星(注・蕪村)の戦筆、(中略) 大雅ハ正ニシテ譎(ケツ)ナラズ、春星ハ譎ニシテ正ナラズ。然レドモ均シク一代覇ヲ作(ナ)スノ好敵手」(田能村竹田『山中人饒舌』)などと、文人画の正統(逸筆=逸格の風)は大雅で、蕪村はやや独自の画風が強い(戦筆=「奇なる(個性の強い)風)との評がなされている。
それらはそれとして、大雅と合作・競作した蕪村の「十宜図」は、蕪村の一気呵成の気に興ずるままに描く、いわゆる「草画(俳諧画)」などに比すると、大雅の意を汲んで、主題をよく読み込み、当時の文人画の双璧を為す二人の画家の「合作・競作・連作」としての、相互に、「持てるものは全て出し尽くす」という気概が、これまた、特に、蕪村の「十宜図」に濃厚に彩られている印象を深くするのである。
その蕪村の「十宜図」のうちに「王摩詰(王維)」の名が出て来る「宜晴(ぎせい)」図がある。これは、まさしく、蕪村の、南画の祖たる王維(王維が隠遁している「輞川荘」と王維が描く「輞川荘」周辺の風景)
に向けての、俳諧でするならば、「挨拶」(問い掛け)以外の何物でもないであろう。
そして、この「宜晴(ぎせい)」図(図28)は、大雅の「倣王摩詰漁楽図」(図27)などを胸中に抱いての、
いわゆる、「画・俳」の二道を極めた蕪村(春星)の、年下ではあるが文人画の先達者である「書・画」二道を究めた、大雅への「挨拶」以外の何物でもないであろう。
図28 蕪村筆「十宜図」の「宜晴」図(紙本淡彩 一帖十図 各一七・九×一七・九cm 川端康成記念館蔵)
その蕪村の「宜晴」図中の、李笠翁の詩は次の通りである。この王摩詰(王維)の「輞川荘」周辺の風景(奇鋒)の描法は、文人画家が好んで用いた「披麻皴(ひましゅん)」(麻をほぐしたような柔らかい描線)が遺憾なく発揮され、色彩も軽やかな、蕪村の、文人画(南画)、そして、この合作者・競作者・連作者である大雅へのメッセージなのであろう。
水淡山濃瀑布寒 水淡ク山濃クシテ瀑布寒シ
不須登眺自然寬 登眺ヲ須(もち)イズシテ自然寬ナリ
誰將一幅王摩詰 誰カ将ニ一幅ノ王摩詰ヲ
簪向當門倩我看 當門ニ向カイテ簪(カザ)シ我ニ看ンコトヲ倩ウ
ここまで来ると、大雅・蕪村が目指したもの、いわゆる、日本の文人画(南画)と、当時の日本の絵画史上主流を為していた狩野派の絵画(その中核にある狩野探幽の世界)と、その狩野派に新しい息吹の「写生(写実)」を吹き込んでの円山四条派の世界(その中核にある円山応挙)の世界)との、この三者のもつれ合いというのが、江戸中期の、十八世紀の、京都の「応挙・若冲・大雅・蕪村」時代ということになる。
そして、「狩野派=探幽・円山四条派=応挙・奇想派個性派)=若冲」が、「正ニシテ譎(ケツ)ナラズ」、それ比して、「大雅・蕪村=文人画(南画)」は、「譎ニシテ正ナラズ」ということになるのかも知れない。
ここで問題とする「正と譎」とは、文人画家(大雅・蕪村等)が目指した世界の、「詩書画三絶」「詩画一致」の世界からする「正と譎」であって、純粋に「画(絵画)性」に焦点を当てたものを「正」(絵画における正統派)とすると、文人画(南画)というものは「譎」(非正統派=異端派)の世界のものということに他ならない。
また、その「正」「譎」は、相互の優劣関係を意味するのではなく、画風の違いを相対的に指摘しているに過ぎないということに他ならない。
ここで、中国の文人画というのは、職業画家の画(院体画)に対し、文人(士大夫などの上層階級者)が自娯として描いたものを指し、いわば、その身分によって区分なのであるが、日本の文人画というのは、その身分によってのものではなく、様式(上記の画風など)による区分で、ニュアンスが異なっている。
その文人画と南画との二重の呼称については、北画(北宗画)が、院体画(宮廷画家などの職業画家の画)の系譜を指すのに対して、南画(南宗画)は、上記の文人による画の系譜のものの呼称ということになる。
そもそも、室町時代の雪舟の時代には、中国においては院体画の北画(北宗画)が盛んな時代で、日本に文人画(南画)が入ってきたのは、実に、十八世紀の江戸時代中期の、大雅・蕪村の時代なのである。この文人画(南画)の日本への伝来には、黄檗宗の移入とその舞台となった京都宇治の黄檗山万福寺が大きな役割を果たしたことであろう。
もう一つ、中国の文人画(南画)の「八種画譜」や「芥子園画伝」などの画譜(画集。普通には学習の参考となる画を版刻にして載せたもの)の伝来が大きな影響を与えたことは、大雅・蕪村の二人の画歴を見ただけでも一目瞭然となって来る。
その日本の文人画(南画)に大きな影響を与えた「芥子園画伝」初集を編纂・刊行した人こそ、李漁(号・笠翁)なのである。その別荘の「伊園十便十二宜詩(注・実際には十宜詩か伝わっていない)」を主題にしたものが、大雅と蕪村の合作・競作の「十便十宜画冊」ということになる。
ここに、この大雅と蕪村との稀に見る合作・競作の「十便十宜帖画冊(画帖)」が、日本の文人画(南画)におけるバイブル(原書)的な意味合いを擁することになる。
翻って、「王維(文人画の祖)隠棲後の別荘「輞川荘」→董其昌の「画禅室」(「南北宗論」の『画禅室随筆』の著者の画室名)→李漁(号・笠翁)の別荘「伊園」「 (文人画のバイブル
『芥子園画伝』初集の編纂・刊行者)の晩年の別荘」と、この文人画の系譜というのは、隠遁者(隠棲者)の系譜と重なるものがある。
この文人画(南画)の隠遁者の系譜は、日本文人画(南画)の先駆者、祇園 南海(延宝四年=一六七六)、彭城百川(元禄十年=一六九八)、柳沢淇園(宝永三年=一七〇六)に連なり、そして、それが、大雅(享保八年=一七二三)、そして、蕪村(享保元年=一七一六)の二人によって大成され、その頂点を極めたものが、明和八年(一七七一)の、『十便十宜画冊』ということになろう。
さて、ここで、冒頭の大雅の「江天暮雪図」(図23)に戻りたい。この扇面に大雅が筆を入れたのは、四筆程度で、硯に筆を入れて墨を含ませたのは一・二筆であろう。大雅の、いわゆる「略画」(減筆体と省筆体による簡略画)の最たるものとして差し支えなかろう。
この「江天暮雪図」が収載されている、大雅扇面画の帰結点とも言うべき「東山清音帖」は、礬水(どうさ)を強くして墨の滲みを防止している熟紙(加工紙)を用いており、この「江天暮雪図」ですると、
太目の筆に「濃墨・淡墨」を含ませて、山の輪郭を直筆と側筆の描線で描き、その墨の濃淡などによって、見事に、「山の雪が清風によって吹雪いている」状況を描いている。これは、偶発性の墨の滲みによるものではなく、経験による計算し尽くした、一種のたらしこみ・ぼかしの効果なのであろう。
そして、この「江天暮雪図」の余白は、全て、「雪」と「空」の白一色の世界なのであろう。ここまで来ると、禅の教理を暗示している禅画という雰囲気を醸し出している。
大雅は、宝暦元年(一七五一)、二十九歳の時に、臨済宗中興の祖と仰がれている白隠禅師に参禅し、その時の大雅が白隠禅師に呈した詩偈が今に残されている。
耳豈得聞隻手響 (耳ハ豈ニ聞キ得ルヤ隻手ノ響キヲ)
耳能没了尚心存 (耳能ク没了スルモ尚心ニ存ス)
心能没了尚難得 (心能ク没了スルモ尚得ルコト難シ)
却識師恩不識深 (却ッテ識ル師恩ノ深サノ不識ヲ)
奉(タテマツル)
白隠老禅師榻下(ハクインロウゼンシトウカ)
請教(オシエヲコウ)
池無名拝具草(イケノアリナハイグソウ)
これは、白隠禅師が大雅に示した公案「隻手音声(セキシュオンジョウ)」(両手打ツテ音声アリ、隻手ニ何ノ音声アリヤ)に対する、大雅の詩偈(悟りの境地を詩で表現したもの)なのであろう。
大雅の生涯というのは、七歳の幼少の頃から宇治の万福寺に出入りし、爾来、禅僧との交流が続き、中でも、中国人帰化僧の大鵬正鯤(万福寺第十五世住職のち第十八世再任)や、売茶翁の通称で知られている月海元昭(還俗後=高遊外)、そして、この白隠禅師(禅画の第一人者)と、禅宗のへの帰依というよりも、禅そのものの修行者という思いを深くする。
この「江天暮雪図」(図23)は、これに添えた「江天暮雪書」(図26)の、その董其昌の七言絶句の理解が必要になって来る。
「暁角寒聲散柳堤」(暁角ノ寒声、柳堤ニ散リ)
「千林雪色亞枝低」(千林ノ雪色、枝ヲ亜シテ低シ)
「行人不到邯鄲道」(行人不到、邯鄲ノ道)
「一種煙霜也自迷」(一種ノ煙霜、也《マタ》自ラ迷ウ)
(董其昌)
この董其昌の「邯鄲ノ道」というのは、『荘子』秋水篇に出て来る「人を真似ていると、全てが中途半端になり、自分の本分すらも失ってしまう」の「邯鄲の歩み」を指しているのであろう。そして、「一種煙霜也自迷」(一種ノ煙霜、也《マタ》自ラ迷ウ) と、「一種ノ煙霜デ、亦シテモ道ヲ迷ウ」というのであろう。
この大雅の「自迷(自ラ迷ウ)」の、その「自迷」の、文人画の道と禅画の道を引き継いだのは、次の時代の、浦上玉堂と仙崖なのかも知れない。
図29 浦上玉堂寿像(浦上春琴筆) 林原美術館蔵
図30 ○△□(仙厓義梵筆)出光美術館蔵
ここで、大雅の「瀟湘八景」の到達点とも言うべき、「江天暮雪図」(図23)と、その「江天暮雪書」(図26)とを、並列して見て行くと、蕪村と大雅の一時代前(江戸時代前期の後半の元禄時代)の、日本の俳聖・松尾芭蕉の悟道の記録とも言うべき、『野ざらし紀行』の「路粮(みちかて)をつつまず、三更月下無何に入(る)といいけむ、むかしの人の杖にすがりて」の、その荘子に由来する「無何有ノ郷」(「〔荘子 逍遥遊〕
の作為のない自然のままの世界=理想郷=ユートピア=「無何有郷(むかゆうきよう)」)が想起されて来る。
そして、それと、大雅が、その「江天暮雪書」(図26)で引用した、董其昌の「行人不到邯鄲道」(行人不到、邯鄲ノ道)を思い起こすと、芭蕉の全生涯を象徴している、次の一句が浮かび上がって来る。
此道(このみち)や行く人なしに秋の暮 芭蕉 (『笈の小文』)
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