月曜日, 11月 02, 2026

新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-1)』~(第二 かぢのおと(2-19・20)」

( 「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-1)』~(第二 かぢのおと(2-19・20)」


画像などは、下記のアドレス など。)

「酒井抱一句集『屠龍之技』」」ブログ


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-1)』

2-1 星一ツ残して落(おつ)る花火かな


 「名所江戸百景 両国花火」(歌川広重(初代)画 安政5年(1858)刊)

https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5536

『両国の花火を描いた有名な作品です。今でも隅田川の花火大会は多くの人に楽しまれていますが、江戸の人々も夜空に浮かび上がる光の芸術を心待ちにしていました。絵には「ポカ物」と呼ばれる花火の大輪が描かれていますが、江戸時代は花火の技術が発展した時代でもあり、江戸だけでなく、現在の長野県や愛知県などでも花火が作られ、打ち上げられていました。』

🟩解説

   2-1 星一ツ残して落(おつ)る花火かな(抱一『屠龍之技(第二かぢのおと)』)

 季語=花火(初秋)。

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2199

「句意」(その周辺)

 抱一は、寛政二年(一七九〇)の頃、その「梶の音」の序文に「筥崎舟守(はこざきのふなもり)」と署名しており、蠣殻町の、箱崎川に面した酒井家の中屋敷に転居していて、その中屋敷の主人の意を込めての、当時の抱一の号の一つである。

 その「梶の音」の、『屠龍之技(第二かぢのおと)』では、その冒頭の一句ということになる。

 この箱崎川に面した酒井家の中屋敷は、墨田川と直結しており、其角の「舟興」との前書を有する「壱両が花火間もなき光哉 (其角『五元集』)」などの、「両国の花火大会」などが背景にある句のような雰囲気である。

 句意は、「隅田川の屋形船で、江戸の納涼の一大イベントである両国花火大会に興じている。今、そのクライマックスの打ち上げ花火が上がり、夜空一面に満天の星が輝いたと思うと、一瞬にして、闇夜となり、今や、中天には星一つが、なにごとも無かったように輝いている。」

📘句評(俳論風)

 華麗に打ち上がった大輪の花火が夜空を染め上げ、一瞬の狂騒ののちに消え去っていく。その直後、闇に戻った天空にただ一つ、取り残されたように静かに瞬く星の姿が鮮烈な印象を残す句である。

 光の乱舞という「動」から、一刹那で訪れる静寂という「静」への鮮やかな転換が見事であり、そこには江戸の粋な歓楽の情景と、お祭りの後のような一抹の寂寥感、すなわち無常観が美しく同居している。

 さらに、琳派の絵師としても名高い抱一ならではの、卓越した色彩感覚と視覚的な構図の妙が光る。満天の光が一変して一閃の星へと収束するドラマチックな明暗の表現は、まるで一幅の絵画を鑑賞しているかのような深い余韻を現代の私たちにももたらしてくれる。


第二 かぢのおと(2-2)

2-2 生蛸や納屋が柱の茱萸(ぐみ) 帒(ぶくろ)

 🟩「菊の花と呉茱萸(ごしゅゆ)の枝をさした茱萸嚢(しゅゆのう=ぐみぶくろ)」

https://news.yahoo.co.jp/articles/00fbb0b4b5206804ff2da61aa86946340942f737/images/002

「九月九日の重陽(ちょうよう)の節句(菊の節句)に飾られる、邪気祓いと不老長寿を願う伝統的な魔除けの飾り」=「呉茱萸の実(漢方薬にも使われる強い香りの実)を包んだ緋色(赤色)の袋の口を紐で結び、その結び目に菊の花と呉茱萸の枝を挿した掛け飾り」

🟩解説

  2-2 生蛸や納屋が柱の茱萸(ぐみ) 帒(ぶくろ)

 季語=「茱萸袋(ぐみふくろ)」= 晩秋=「茱萸の実を入れた袋をいう。重陽の節句にこの袋を身につければ、茱萸の香気によって邪気がはらわれ、長寿をたまわると信じられていた。食用とする現在の茱萸とは種類が異なる。」

 「蛸・章魚」も季語(三夏)だが、ここでは、「茱萸袋(ぐみふくろ)=晩秋」=時の「蛸」の用例。そして、この抱一の句は、其角の次の「蛸」の句を踏まえている。

あたまから蛸に成(なり)けり六皮半(其角(『五元集拾遺』)

  この其角の句の「六皮半」の詠みは、「六腑(ろっぷ)」の詠みからすると「六皮(ろっぴ)」で、「半」は「瓜は六半(むつはん)に切る」(小笠原家の家伝礼式書「萬躾方之次第」)の詠みを借用すると「ろっぴはん」となる。意味するところは、「武家の躾として瓜は六つ半に切ると決まっていたそうで、其角の句はその切り方を蛸に見立てたかと思われる」(下記一のアドレス)とすると、「瓜(果物)のように皮をむいたら、赤いタコになっちゃたなぁ」(下記二のアドレス)というような雰囲気の、其角の「謎句」、そして、其角の「造語」ということになる。

(下記一のアドレス)

https://weekly-haiku.blogspot.com/2017/02/55.html

(下記二のアドレス)

https://artne.jp/series/890

 句意は、「この真っ赤な『生蛸(なまだこ)』は、其角師匠の「あたまから蛸に成(なり)けり六皮半」の、『瓜(果物)』のように皮をむいたら、『赤いタコ』になっちゃたなぁ」ということの、それを反転して、その真逆の、『この赤い生(真)蛸は、まるで この納屋の、この『重陽の節句の茱萸袋」のような体(姿)であることよ。』」

📘句評(俳論風)

 酒井抱一の「生蛸や納屋が柱の茱萸帒」は、先達である宝井其角の「あたまから蛸に成けり六皮半」という謎句の構造を鮮やかにひっくり返した、確信犯的な「反転の法」の句といえる。

 其角の句は、武家の作法に則って瓜の皮を剥いていくうちに、その赤むけになった姿がまるで「タコ」のようになってしまったという、植物から動物への俗っぽくもユーモラスな見立てのベクトルを持っている。

 これに対して抱一は、そのベクトルを真っ向から逆転させました。納屋の柱に生々しく吊るされた「生蛸」という夏の泥臭い食材を見つめながら、それを重陽の節句に邪気を払うために飾る「茱萸袋」という晩秋の高雅な縁起物へと見立て直している。

 其角が「植物(瓜)をタコに変えた」のなら、抱一は「タコを植物(茱萸袋)に変える」という真逆の軌跡を描いてみせる。この「動物から植物へ」「俗から雅へ」という鮮やかな反転によって、抱一は其角の仕掛けた言葉遊びの奇才ぶりに敬意を払いつつも、自らの絵画的で風流な江戸の粋へと見事に昇華させている。


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-3)」)

2-3 明星や沖から戻る鳫の行(ゆく)


🟩📘2-3 明星や沖から戻る鳫の行(ゆく)

🟩📘 解題

    2-3 明星や沖から戻る鳫の行(ゆく)

 酒井抱一が三十歳前後、寛政二年(一七九〇)頃に詠んだ『屠龍之技』「第二 かぢのおと」所収の句。

一  季語と季節

季語: 鳫(かり/がん)=「雁 」または 「戻る雁(もどるかり)」

季節: 晩春(春)

「解説」秋に日本へ渡ってきた鳫(雁)が、春になって北の繁殖地へと帰っていくことを「帰る雁(かえるかり)」「残る雁」「戻る鳫」と言い、春の季語となる。

二  句意

明けの明星(金星)がパッと輝く早朝、はるか沖合のほうから、北の国へと帰っていく鳫の群れが列をなして飛んでいく、その行く手(あるいはその壮大な行路)よ。

三  背景と鑑賞のポイント

〇 夜明けの美しい色彩(コントラスト)

まだ薄暗い夜明けの空に、ひときわ明るく輝く「明星(みょうじょう)」。そして、きらめく海(沖)の水平線から、春の別れを告げるように飛び去っていく鳫の群れ。視覚的な美しさと、引き締まった朝の空気感がダイレクトに伝わってくる。

〇 抱一の「絵師」としての視覚的センス

抱一は、この時期、まだ江戸琳派の祖として大成する前(浮世絵や大名文化に親しんでいた時期)頃であるが、すでに「絵的な構図」を捉える才能が句に現れている。「明星の点」「沖の線」「鳫の列(動線)」が、まるで一幅の美しい障壁画のように見事に構成されている。

〇 「行(ゆく)」の余韻

結びの「行(ゆく)」は、鳫がどこまでも遠くへ去っていくという空間的な広がりと、旅立ちを見送る作者の切なくも爽やかな旅情(余韻)を強く残している。

🟩📘「明星や」のフレーズから広がる周辺の解説(未整理)

一  其角の「明星や」を本歌取りした抱一抱一がこの句を詠む際、間違いなく頭にあったとされる其角の有名な句がある。

明星や桜定めぬ山かづら(其角) 

 意味: 明けの明星が輝く早朝、まだ薄暗くて、山にかかる雲(山かづら)の白さなのか、それとも満開の山桜の白さなのか、はっきりと見分けがつかないことよ。其角の句は「夜明けの明星 × 白い桜(雲)」という、極めて都会的でエキセントリックな視覚美を切り取ったものです。抱一はこの其角の「明星や」という劇的な夜明けのフレーズをリスペクトし、自身の句「明星や沖から戻る鳫の行」へと展開させました。其角が「山の桜」という静的な美を描いたのに対し、抱一は「海を渡る雁の列」という動的で壮大なスケールへと鮮やかに昇華させています。  

二  抱一と其角(江戸座俳諧)の深い繋がりなぜ抱一がこれほど其角を意識していたかというと、彼が学んだ俳諧のルーツが其角にあるからです。酒井抱一は若い頃、姫路藩主の弟という高貴な身分でありながら、大名文化の中で流行していた「江戸座(えどざ)」の俳人・馬場存義(ばばぞんぎ)に入門しました。この「江戸座」こそ、芭蕉の高弟であった其角が興した学派です。其角の句風は、芭蕉の侘び寂びとは一線を画す、都会的で、機知(ウィット)に富み、派手で絵画的な「洒落風(しゃれふう)」が特徴でした。

  若き日の抱一は、この其角流の「お洒落で都会的なセンス」に猛烈に憧れ、没頭します。実際、抱一は其角の百回忌(1806年)の際には、自ら『其角百回忌集』を編纂するほど、其角の熱狂的な信奉者でした。 

三  『屠龍之技』という題名のウィットこの句が収められている抱一の自選句集のタイトル『屠龍之技(とりょうのぎ)』という言葉自体にも、其角的な江戸前のユーモア(洒落)が効いています。

 「屠龍之技」とは:中国の故事(荘子)に由来する言葉で、「龍を殺す(屠る)ための、もの凄い技術」という意味です。しかし、現実世界に龍はいないため、転じて「莫大な努力をして身につけた、実際には全く役に立たない高針な技術」という自虐的な意味を持ちます。

 抱一は、自分が一生懸命に打ち込んできた俳諧(あるいは絵画)の技術を、敬意を込めて「まあ、私のやってることなんて、世間から見れば『龍を退治する技術』みたいな、風流だけど役立たずな趣味ですよ」と、粋に謙遜してみせたのです。

補足:其角句の「本句取り」の達人だった抱一  抱一は他にも、其角の句をベースにした名句をたくさん残しています。例えば、次のような有名な対(つい)があります。  

其角: 乙鳥(つばめ)の塵をうごかす柳かな

 抱一: 花びらの山を動かす桜哉このように、

 抱一は古典や其角の句を現代風(当時の最先端)にアレンジする「本歌取り(本句取り)」の達人でした。今回のご質問の「明星や〜」の句も、まさに「敬愛する其角の夜明けの光」を浴びながら、抱一という若き天才絵師が、自分だけの新しい春の空を描き出した瞬間の一句であると言えます。


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-4)」

2-4  あゝ欠(あく)び唐土(もろこし)迄も秋の暮

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 🟩📘2-4  あゝ欠(あく)び唐土(もろこし)迄も秋の暮

🟩📘 解題

   2-4  あゝ欠(あく)び唐土(もろこし)迄も秋の暮

 前回の「明星や〜」の美しく絵画的な情景とは打って変わり、こちらは江戸俳諧らしい「お洒落なユーモア(機知)」と「壮大なナンセンス」が効いた句である。

一 季語と季節

季語: 秋の暮(あきのくれ)

季節: 三秋(秋全体、または晩秋の夕暮れ)

「解説」「秋の暮」には、①「秋という季節の終わり(晩秋)」、②「秋の日の夕暮れ」という2つの意味がある。この句では両方のニュアンスが重なり、秋の終わりが近づく物寂しい夕方、あるいは秋という季節そのものが醸し出す、なんとも言えない寂寥感や退屈さを表している。

二 句意

 あーあ、と大きなあくびが出る。この退屈で物寂しい「秋の暮」の空気は、きっとここ(日本)だけでなく、はるか遠くの中国(唐土)まで、ずーっと一続きに広がっているのだろうなぁ。

三 背景と鑑賞のポイント

「あくび」という大胆な言葉選び

 伝統的な和歌や古い俳諧では、「あくび(欠び)」のような生活感のある、あるいは少しだらしない動作は、上品ではないとしてあまり詠まれませんでした。しかし、抱一が学んだ「江戸座(えどざ)」の俳諧は、そうした日常の俗っぽい一コマをあえて五七五に取り入れ、知的な笑いに変えるのを得意とした。

〇ミクロからマクロへの一瞬のジャンプ

 自分の口から出た「小さなあくび」という極めて個人的でちっぽけな出来事から、一気に「唐土(中国大陸)」という途方もなく巨大な空間へと視線がワープする。

 「秋の夕暮れって、なんて退屈で寂しいんだろう。この気だるい空気は、海を越えた遥か彼方の大陸まで地球全体を包み込んでいるに違いない」という、誇張されたナンセンスなスケール感がこの句の最大の魅力である。

〇其角流の「奇抜さ」の継承

 先ほど解説の井其角(江戸座の祖)は、まさにこうした「突飛な発想」や「言葉の遊び」の天才でした。抱一はこの句で、其角から受け継いだ「お洒落で、ちょっとひねくれた都会的ユーモア」をいかんなく発揮している。

 大名家の生まれである抱一が、部屋でぽつんと贅沢な退屈さを味わいながら、「あーあ」と大きなあくびをして、遠い異国にまで思いを馳せている――そんな彼のチャーミングな素顔や、江戸のインテリたちのエスプリ(知的なウィット)が活き活きと伝わってくる。

🟩📘 抱一の「出家」の背景

酒井抱一が三十七歳(寛政九年・一七九七)の秋に出家し、「等覚院文詮(とうがくいんぶんせん)」と名乗った背景には、いくつかの人間関係や社会的な要因が複雑に絡み合っている。

 一見すると風流を極めるための突飛な行動のようにも見えますが、そこには大名家に生まれた彼なりの「生き残り戦略」と「芸術への執念」がるように思われる。

一  兄・酒井忠以(ただざね)の急逝と立場

最大の契機となったのは、彼の最大の理解者であり、姫路藩主であった実の兄・酒井忠以が、寛政二年(一七九〇)に三十六歳の若さで急逝したことです。抱一はこの時三十歳(ちょうど『屠龍之技(かぢのおと)』を刊行した頃)。兄の死により、藩の政治的な実権は別の親族へ移り、大名家の中での抱一の立場は非常に不安定で息苦しいものになっていることがうかがわれる。

二  「寛政の改革」という暗い時代背景

当時は、松平定信による「寛政の改革」の真っ只中でした。この改革では、武士の「不埒な行動」や「贅沢な町人文化との交流」が厳しく取り締まられている。抱一は若い頃から吉原の遊郭に出入りし、狂歌師、俳人、浮世絵師など、江戸の最先端の町人クリエイターたちと派手に交流していた。大名家の血筋でありながらこのような自由奔放な生活を続けることは、下手をすれば酒井家そのものを改易(取り潰し)や処罰の危機に陥れかねない、極めて危険な状態だったのであろう。

三  「武士」を捨て、「芸術家」として生きるための偽装

 酒井家への迷惑を避けるため、そして自分自身がこれからも江戸の文化人たちと自由に付き合い、絵や俳諧に没頭するためには、「世俗(武士の社会)から完全にドロップアウ

トする」という、一種の「偽装」なのであろう。

 その「偽装」りストレートの装いが「出家」だったのかも知れん井。そのことは、髪を剃って僧侶の姿(形だけの出家)になることで、形式的に武士の身分を離れ、幕府の厳しい監視の目から逃れるということを意味する。。

四  西本願寺との繋がり

抱一の出家は、京都の「西本願寺」の門主・文如上人(もんにょしょうにん)を師として行われた。これにより抱一は、単なる「野良の芸術家」ではなく、「西本願寺お墨付きの風流僧」という非常に動きやすいポジションを手に入れることになる。

五 出家後の抱一:本当の自由へ

出家した翌年、抱一は吉原のすぐ近くである根岸に「雨華庵(うげあん)」という庵を構え、本格的に江戸琳派の絵師としての活動にシフトしていく。


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-5・6・7)」

   少年行

2-5  飛ぶ駕や時雨来る夜の膝頭

2-6 こがらしや明(あけ)は木の

2-7 河豚喰た日はふぐゝうた心かな


🟩📘 少年行

2-5  飛ぶ駕や時雨来る夜の膝頭

2-6 こがらしや明(あけ)は木の椌園(きょうえん)の竹

2-7 河豚喰た日はふぐゝうた心かな

🟩📘 解題

 これら三句の前書きの「少年行」とは、抱一の出家前後の抱一その人を示唆する用例で、「少年行(血気盛んな若者たちの姿・生き様)」と解しても差し支えなかろう。


2-5:飛ぶ駕や時雨来る夜の膝頭

季語:時雨(しぐれ) = 冬の季語=晩秋から初冬にかけて、降ったり止んだりするパラパラとした冷たい雨のこと。

句意:(若者たちが意気揚々と)乗っている駕籠(かご)が、まるで飛ぶような猛烈な速さで夜道を急いでいる。折しも冷たい時雨が降ってきた。急ぐあまり、あるいは興奮のあまり、駕籠の隙間から吹き込む雨に濡れた自分の「膝頭(ひざがしら)」が、寒さと緊張、そして高揚感で引き締まる(あるいはガタガタと震える)ことよ。

解説:「飛ぶ駕(とぶかご)」という表現に、若者たちのスピード感とただ事ではない緊迫感が溢れている。夜遊びに向かうワクワク感なのか、あるいは血気盛んな若者たちの秘密の会合への疾走なのか。闇夜を走る駕籠、冷たい時雨、そして「膝頭」という生々しい身体のパーツに焦点を当てることで、若者の持つナマのエネルギーと冬の寒冷な空気感がダイナミックに表現されている。

2-6:こがらしや明(あけ)は木の

季語: こがらし(木枯らし) = 冬の季語=秋の終わりから冬の初めにかけて吹く、木の葉を吹き落とすような冷たく強い北風のこと。

句意: すさまじい木枯らしが吹き荒れる夜がようやく明け、見上げれば、吹きさらしの冷たい光の中に、すっかり葉を落とした剥き出しの木々が寒々と立っている。

解説: 「少年行」の流れで読むと、一晩中、激しいエネルギーで遊び明かした(あるいは行動した)若者たちが、夜明け(明)を迎えた瞬間の、一抹の虚脱感や寂寥感が漂います。激しく吹き荒れる「木枯らし」のダイナミズムと、夜が明けたときの冷徹な色彩(あるいは木の骨組みだけになった風景)の対比が、若者の激しい情熱とその後のクールダウンを象徴しているようである。

2-7:河豚喰た日はふぐゝうた心かな

季語:河豚(ふぐ) = 冬の季語=冬が旬の魚ですが、江戸時代は今のように安全な調理法が確立されておらず、「命がけで食べる危険なご馳走」であった。

句意: (当時は命がけの危険な食べ物だった)河豚を食べてやったぞ!……しかし、いざ食べて帰ってきたものの、「もしかして毒に当たっていないか?」と胸騒ぎがして、一日中、心がフグフグ(びくびく・落ち着かない様子)と震えっぱなしの情熱と臆病の入り混じった心持ちであることよ。

解説: 非常にユーモラスで、かつ「少年行」の締めくくりにふさわしい傑作です。「ふぐ喰うた」と「ふぐくうた(心が不遇、あるいはビクビク、フグのようにお腹を膨らませて怯える様子)」の音の響きをかけています。

「俺は法律や危険なんか怖くないぜ」と粋がって、仲間と一緒に命がけの河豚を食べてドヤ顔をしたものの、家に帰ると「本当に大丈夫か……?」と急に怖くなって心臓がバクバクしている。そんな「若者特有の、強がりと、その裏にある可愛らしい臆病さ」を、見事に見透かして活写しています。


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-8・9・10・11)」

     青楼

2-8  此(この)年も狐舞せて越へりけり

2-9  絵馬かきやくれゆくとしの走筆

2-10  遊べ春梅の鼻毛の延次第

2-11  余處(よそ)になき箸帋(はしがみ)売りや梅の紋

 

🟩📘 青楼

2-8  此(この)年も狐舞せて越へりけり

2-9  絵馬かきやくれゆくとしの走筆

2-10  遊べ春梅の鼻毛の延次第

2-11  余處(よそ)になき箸帋(はしがみ)売りや梅の紋

🟩📘 解題

       青楼

2-8  此(この)年も狐舞せて越へりけり

2-9  絵馬かきやくれゆくとしの走筆

2-10  遊べ春梅の鼻毛の延次第

2-11  余處(よそ)になき箸帋(はしがみ)売りや梅の紋

 若き日の酒井抱一が、江戸・吉原(青楼)の年の瀬から新春にかけての情景を、絵師ならではの鮮やかな観察眼で切り取った「青楼」四句。


 2-8:此(この)年も狐舞せて越へりけり

季語: 狐舞(きつねまい) — 冬(歳末の季語)

句意:

「今年もまた、あの賑やかな狐舞の芸人を躍らせて、なんとか無事に年を越していくのだなぁ」

背景・解説:

「狐舞」とは、大晦日の夜に狐のお面をかぶった芸人が家々や店を回り、お囃子に合わせて軽快に踊ってみせて祝儀をもらう、江戸の年末の風物詩である。吉原という大歓楽街にとって、年の瀬は借金の精算(締め払い)などで誰もが慌ただしく、どこか殺気立つ時期でもあった。そんな緊迫感漂う大晦日に、陽気な狐舞がやってきて場を賑やかにしていく。抱一は、その「狂騒のなかに漂う安堵感」を捉え、「今年もいろいろあったが、これでようやく年が越せる」という江戸っ子らしい実感を込めて詠んでいる。


 2-9:絵馬かきやくれゆくとしの走筆

季語: 暮るる年(くれゆくとし) — 冬(年末の季語)

句意:

「年の瀬もいよいよ押し迫るなか、絵馬描き(私)は、暮れゆく時間を惜しむように一心不乱に筆を走らせていることよ」

背景・解説:

「絵馬かき」は、新年に神社仏閣に奉納するための絵馬に絵を描く職人、あるいはその作業そのものを指します。ここでは、若き日の抱一自身の「自画像」として読むのが最も自然である。大名家の生まれでありながら、浮世絵や琳派、俳諧の世界に没頭した抱一。吉原の知人や馴染みの店から頼まれたのか、あるいは自身の芸術的衝動からか、迫りくる新年に向けて猛烈な勢いで筆を走らせています(走筆)。外の景色が刻一刻と暗く暮れていく時間への焦燥感と、絵を描くことへの充実感がみごとに交錯した、絵師・抱一ならではの臨場感あふれる一句である。


 2-10:遊べ春梅の鼻毛の延次第

季語: 春 / 梅 — 春

句意:

「さあ、待ちに待った春(新年)だ! 鼻毛が伸びるほどに相好を崩し、我を忘れてこの吉原で遊び尽くすお progress(あるいは、遊び尽くすがいいさ)」

背景・解説:

ことわざの「鼻毛を読まれる(女性にすっかりのぼせ上がって、だらしなく見透かされる)」や、「鼻毛が伸びる(だらしなく相好を崩す)」を引き合いに出した、非常にユーモラスで狂歌的な味わいを持つ句である。

吉原の正月は、一年で最も華やかな季節。年末の緊張感から解放された男たちが、美女に囲まれ、お屠蘇(とそ)を飲み、すっかり腑抜けた顔になって浮かれ騒いでいます。抱一はそれを冷ややかに批判するのではなく、「せっかくの春なんだから、それくらい無粋にだらしなく、徹底的に遊び呆けるのが粋というものだ」と、新春の吉原の解放感を肯定的に、かつクスッと笑える視点で描いている。


 2-11:余處(よそ)になき箸帋(はしがみ)売りや梅の紋

季語: 梅の紋(梅) — 春

句意:

「他の場所には決してない、吉原特製の『梅の紋』が入った箸紙(箸袋)を売り歩く声が聞こえる。これぞまさに青楼の正月の風情だな」

背景・解題:

「箸帋(箸紙)」とは、お正月の祝箸などを包む紙(箸袋)のことです。そして「梅の紋」は、江戸・吉原(新吉原)を象徴する紋章であった。

新春の吉原では、この「吉原限定の梅の紋入り箸紙」を売り歩く商人が現れ、大見世(高級茶屋)や通人たちがこぞってそれを買い求めました。「余處になき(他のどこにもない)」という言葉には、江戸のどの盛り場とも違う、最高峰の格調高き遊廓・吉原に対するプライドと、特別な空間への憧れが凝縮されている。白地に映える鮮やかな梅の紋が、新春の清々しい吉原の空気感を引き締めている。


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-12・13・14)」

   遠望

2-12 散る花を汲(くむ)とも見へつ薗抦杓(そのひしゃく)

2-13 車ほど舟押す人や汐干がた

2-14 ほとゝぎす手燭にくらき夜の空

 🟩📘 左図(2-12)・中図(2-13)・右図(2-14)

   遠望

2-12 散る花を汲(くむ)とも見へつ薗抦杓(そのひしゃく)

2-13 車ほど舟押す人や汐干がた

2-14 ほとゝぎす手燭にくらき夜の空

🟩📘 解題

抱一のこの三句は、前書に「遠望」とあることから、一連の景として鑑賞すべき作品である。いずれも対象を遠くから眺め、その距離によって生じる見え方や印象を詠んだ句であり、写生というよりも、視覚的な趣向を楽しむ連作と考えられる。


2-12 散る花を汲とも見へつ薗抦杓

季語 → 散る花(晩春)=俳諧で「花」といえば桜を指し、「散る花」は花吹雪の頃の桜を表す春の季語である。

句意 → 遠くに見える園中の柄杓が、あたかも散りゆく桜の花びらを掬っているように見えた、という意である。

鑑賞 → 「汲む」という動詞は本来、水に対して用いられるものである。しかし遠望すると、柄杓の動きが花吹雪を掬い上げているかのように見える。この現実にはあり得ない取り合わせを、遠望による視覚の錯覚として成立させているところに、この句の趣向がある。


2-13 車ほど舟押す人や汐干がた

季語 →  汐干潟(しおひがた)(春)=春の大潮によって海底が広く現れた干潟をいう。

句意 →  広い干潟の彼方で舟を押している人が、遠くから見ると、舟が車ほどの大きさに見えるほど小さな景として映っていた、という情景である。

鑑賞 →  干潟では、人が舟を押して移動させる光景が見られる。遠望すると人物も舟も極めて小さく見え、距離感によって両者の大きさの関係が曖昧になる。「車ほど」という比喩は、広大な干潟の空間と遠近感とを巧みに表現している。 なお、「車」は牛車ではなく、荷車など一般的な車を指すと解するのが自然である。


2-14 ほとゝぎす手燭にくらき夜の空

季語 → ほととぎす(夏)=初夏を代表する鳥であり、その声は古来、多くの詩歌に詠まれてきた。

句意 →  ほととぎすの声が夜空から聞こえてくる。しかし、その夜空は手燭の灯では照らし及ばないほど深く暗い、という情景である。

鑑賞 → 「手燭にくらき」という措辞が印象的である。手燭は人間の営みを象徴する小さな光であり、それに対して夜空は、その光をまったく受けつけない広大な闇として存在する。その闇の中から姿の見えないほととぎすの声だけが響いてくるのである。視覚が闇に閉ざされる一方で、聴覚のみが遠くへ届く構図となっている。


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-15・16)」

    空懸名月待君王

2-15 今上る客は化物ほとゝぎす

2-16 翌(あす)も又こゆる暑さや雲の峯


 🟩📘 空懸名月待君王

2-15 今上る客は化物ほとゝぎす

2-16 翌(あす)も又こゆる暑さや雲の峯

🟩📘 解題

  この二句は、抱一の俳諧らしく、漢詩的な前書と俳句とが照応する構成になっている。また、吉原を背景とした句と解せられる。

前書=空懸名月待君王

 読み=くうに めいげつを かけて くんおうを まつ

(訓読すれば)=空に名月を懸けて、君王を待つ。あるいは、空に懸かる名月、君王を待つ。

 語義

  空懸名月 … 空に懸かる名月。仲秋の満月を思わせる漢詩的表現。

  君王 … 本来は「帝王」。しかし近世の遊里文学では、必ずしも天子ではなく、遊女が待つ最上の客・恋人・大尽を雅に呼ぶことが少なくな  

     い。つまり、「空には名月が懸かり、(遊女は)待ち人を待っている。」というという艶な情景。


2-15 今上る客は化物ほとゝぎす

季語=ほととぎす(三夏)

句意=「今、二階へ上がって行く客は、まるで化物のような、ほととぎすのような風情である。」

  一見意味が飛躍しているが、

    「吉原では、客は大門を入り、揚屋・妓楼へ上がる。

    「上る」はまさに遊女屋へ上がること。

      そして、

    「ほととぎすには、

     夜だけ現れる姿は見えにくく声ばかり聞こえる珍客が、

    「化物」のような風情で登楼した。


  この句の面白さは、「前書」の「名月の下で君王を待つ」の図が、実際に登楼したのは、「ほととぎす」が化けたような「風流な珍客」であったという、その落差にある。


2-16 翌(あす)も又こゆる暑さや雲の峯

 季語=雲の峯(夏)=積乱雲・入道雲。

 「こゆる」=「超ゆる(越ゆる)=「「度を越す・「並ではない」

 句意=「翌日もまた、耐え難いほど暑い。空には入道雲がそびえている。」

 前書と、この二句を続けて鑑賞すると、

 前書=空に名月を懸けて君王を待つ


   客が来たと思えば

2-15 今上る客は化物ほとゝぎす

   翌朝

2-16 翌(あす)も又こゆる暑さや雲の峯

という一夜の流れになる。


 抱一は吉原を題材にした作品が少なくなく、漢語の雅趣と俳諧の俗趣を巧みに対照させる作風を得意としている。この前書の「君王」は、実際の天子ではなく遊女にとっての待ち人・上客を雅に呼んだものと解しての、連作の二句として鑑賞したい。

 なお、「屠龍之技」のこの連作は、中国故事や漢詩表現を踏まえた見立てが多く用いられている。この「空懸名月待君王」という前書自体も、その典拠は「白居易などの唐詩など」に由来があるように思われる。


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-17・18)」

  「浅草の冨士詣に」

2-17 これよりして御馬がへしや羽織不二

2-18 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓(なつはらひ)

🟩📘「浅草の冨士詣に」

2-17 これよりして御馬がへしや羽織不二

2-18 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓(なつはらひ)

🟩 この酒井抱一の句の、前書「浅草の冨士詣に」は、当時の、「名所江戸百景 浅草田圃酉の町詣」(歌川広重)を彷彿とさせる。この二句について、

  「名所江戸百景 浅草田圃酉の町詣: 歌川広重が描いた有名な浮世絵です。吉原の妓楼(遊女屋)の2階から、浅草田圃(現在の千束付近)の向こうにある鷲神社へお参りに行く人々や、遠くに見える富士山を猫が見つめている構図です。」

 吉原神社 / 吉原弁財天本宮 (台東区千束3丁目): 新吉原遊郭の四隅に祀られていた稲荷社と弁天様が合祀された神社です。遊女たちの信仰を集めた、吉原の歴史を象徴する場所です。

「名所江戸百景 浅草田圃酉の町詣」(歌川広重)

 「浅草富士浅間神社 (台東区浅草5丁目): 江戸時代に浅草周辺の富士講の中心地となった神社です。「お富士さん」の愛称で親しまれ、現在も5月・6月の最終土日に「植木市」が開催されています。」 

 これらを踏まえて、「これよりして御馬がへしや羽織不二(抱一)」」の画像は、上記の「名所江戸百景 浅草田圃酉の町詣」(歌川広重)」に、この句を入れ、二句目の「すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓(抱一)」は、抱一の明るい花鳥画に、この句を入れての画像(📘上記のとおり)

🟩📘 解題

 酒井抱一の二句「これよりして御馬がへしや羽織不二」「すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓」は、江戸の風情と抱一ならではの洗練された美意識が交錯する傑作である。

 一句目「これよりして御馬がへしや羽織不二」の画像表現

 広重の『名所江戸百景 浅草田圃酉の町詣』の静謐かつ大胆な構図の中に、この一句を配する。格子窓越しに吉原の室内から田圃の向こうを望む白猫の背後、あるいは遠景にそびえる富士の余白に、抱一の伸びやかな筆致で「これよりして御馬がへしや羽織不二」ためつすがめつ書き添えられる画像である。遊郭の艶っぽさと、富士講に集う庶民の熱気が、一枚の画面の上で美しく調和する。

 一句目の解説

 前書「浅草の冨士詣に」が示す通り、本句は浅草富士浅間神社への富士詣を題材とする。季語は「羽織不二」に宿る初夏の気配、あるいは富士参りの季節感(夏)である。

 語注を試みれば、「これよりして」はこの地より先という境界を示し、「御馬がへし(駒返)」は富士山登山口などで馬を返す格別の地点、転じてこれ以上は馬で行けず徒歩に切り替える結界を意味する。「羽織不二」とは、夏の薄羽織の背にうっすらと透けて見える、あるいは羽織の背の紋や畳んだ形、さらには遠望する富士の残雪模様を富士になぞらえた抱一独自の粋な見立てである。

 句意は、「ここから先は駒返し(馬を返す場所)であるよ。羽織の背に富士を背負い、あるいは羽織越しに仰ぎ見る富士を目指して、いざ歩みを進めようではないか」となろう。

 鑑賞の視点としては、江戸の地理的現実と見立ての遊戯性が挙げられる。浅草の地に立ちながら、心はすでに富士登山の霊境へと足を踏み入れている。抱一は武家出身の風雅人でありつつ、琳派の絵師として視覚的見立てに長けていた。広重の描いた吉原の窓越しに広がる浅草田圃の風景と重なり合い、遠くの真の富士と、人々の羽織や心に浮かぶ「不二」が二重写しとなって立ち現れるのである。

 二句目「すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓」の画像表現

 抱一の真骨頂である洗練された花鳥画(例えば、夕暮れの薄明かりに浮かび上がる初夏の花々や、瑞々しい青葉を描いた図)の画中に、この一句を流麗な書で流し込む。花鳥の静寂と、夏祓という神事の世俗的な情趣が同居する、極めて詩情豊かな画像となる。

 二句目の解説

 本句の季語は「夏祓(なつはらひ)」であり、仲夏(旧暦六月)の季感である。六月晦日に行われる大祓の神事を指す。

 語注において、「すげ笠(菅笠)」は富士参りや旅路で用いられる菅で編んだ笠であり、「紐ゆふぐれや」は菅笠の紐を結び直す、あるいは解く夕暮れ時の情景を指す。

 句意は、「富士詣の菅笠の紐を整える夕暮れ時、街には夏祓の茅の輪くぐりの賑わいや神聖な空気が満ちている。一日の詣でを終え、夕闇の中で夏祓の儀に心を清めることだ」という意味合いを帯びる。

 鑑賞の視点として、光と時間の移ろいに対する抱一の過敏なまでの美意識に注目したい。昼の喧騒が去り、夕闇が浅草の街を包み込む瞬間の詩情である。菅笠という旅の装飾と、夏祓という季節の節目が、「夕暮れ」という陰影豊かな時間軸の上でひとつに溶け合っている。

鑑賞(総括)

 この二句を通観するとき、我々は酒井抱一という俳人の文人客観的な視線と、江戸町人文化の熟成された粋(いき)の到達点を解明することになる。

 前書「浅草の冨士詣に」に導かれたこの二句は、単なる地理的・宗教的な行事の記録にとどまらない。一句目「これよりして御馬がへしや羽織不二」において、抱一は現実の浅草田圃から富士浅間神社への道のりを、あたかも本物の富士登山の行程に見立てるという言語的・視覚的な戯れを展開してみせる。羽織に富士を見るという軽妙な美意識は、広重の浮世絵に見られるような、日常のすぐ隣に非日常(信仰や遊興)が隣接する江戸独自の空間感覚と見事に響き合っている。

🟩 一つの、若き日の抱一の句に関する、画像と解題を見て、しみじみと、「抱一(琳派)と歌重(浮世絵)」と、そして、それらが交差していることを実感する。ここで、「抱一(琳派)と歌重(浮世絵)」周辺」について、「論稿」をお寄せください。

📘 酒井抱一という稀有な美の体現者を想うとき、我々は江戸という都市が成熟の極みにおいて生み出した、一種の奇跡的な美意識の交差点に立ち会うこととなる。姫路藩主の弟という高貴な血脈に生まれながら、俗世の繁華と風流に身を投げ、やがて出家して美の世界へと沈潜した抱一。彼の残した俳諧と画業の背後には、尾形光琳を頂点とする「琳派」の洗練された装飾美と、歌川広重をはじめとする「浮世絵」が捕らえた生々しくも魅力的な庶民の日常感覚が、混然一体となって息づいている。

 「浅草の冨士詣に」と題された若き日の二句――「これよりして御馬がへしや羽織不二」「すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓」を、広重の描く『名所江戸百景 浅草田圃酉の町詣』のような浮世絵的意匠や、抱一自身の真骨頂である可憐な花鳥図のイメージと重ね合わせるとき、我々が感じるのは単なる二つの芸術様式の折衷ではない。そこには、江戸という時空において「高雅」と「俗情」、「視覚(絵画)」と「言語(俳諧)」が境界を軽やかに踏み越え、相互に響き合いながら高め合っていたという動的な事実である。

 琳派とは、血縁や師承の系譜によって継承された流派ではない。光琳の美意識に魅せられた抱一が、時空を超えて私淑し、自らの手で再発見・再構築した「私淑の美学」であった。そのため、抱一の描く世界には、光琳由来の洗練された意匠性や黄金色の装飾空間が漂う一方で、彼が若き日に親しんだ江戸町人文化の空気、すなわち浮世絵師たちが捉えた吉原の賑わいや浅草の市井の息遣いが、独特の抒情として溶け込んでいる。

 抱一自身、絵師として歩み始める過程において、勝川春章や歌川豊春といった浮世絵の師に学び、浮世絵風の美人画や役者絵を手掛けた時期を経験している。彼にとって浮世絵の視線とは、決して遠い他者のものではなく、自らの美の骨格の一部をなすものであった。広重が『名所江戸百景』で見せたような、吉原の妓楼の室内から遠くの富士や浅草田圃を望むという「境界の視界」――日常のすぐ背後に非日常の空間が広がる江戸特有の地理感覚――は、まさに抱一が俳諧の詞書や句の中で見事に視覚化・言語化した世界観と軌を一にしている。

 「これよりして御馬がへしや羽織不二」において、薄羽織の背に透ける残雪の富士や、旅路の見立てとしての「駒返し」を見出す軽妙な見立ての技法は、まさに浮世絵的な粋と洒落の精神そのものである。しかし、それが単なる戯れにとどまらず、一瞬の情景を永遠の意匠へと昇華させてしまう佇まいには、すでに琳派の絵師としての鋭敏な美意識が閃いている。

 さらに、「すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓」に見られるような、昼の余熱が去りゆく夕暮れ時の淡い光と影、菅笠を結び直す何気ない動作の中に立ち現れる神聖な季節感の捉え方には、抱一の花鳥画に通底する過敏なまでの感性が漂う。広重の風景画が持つのと同質の「旅情」と「季節の移ろい」が、抱一の句においては、洗練された品格を伴った俳趣として結晶しているのである。

 抱一(琳派)と広重(浮世絵)。一方は貴族的な洗練を江戸の地に定着させた装飾美の系譜であり、他方は町人の眼差しを通して都市の風景と旅情を捉えた大衆的メディアの極致である。しかし、この両者は決して断絶していたわけではない。むしろ、浅草の富士講や夏祓といった季節の行事、吉原や浅草田圃という都市の周縁空間を媒介として、深く静かに交差していた。

 抱一の俳諧集『かぢのおと』に漂う、風雅でありながらどこか人恋しい詩情を紐解くとき、我々は一人の天才の胸中で、琳派の装飾性と浮世絵の現実感覚が見事に調和し、一つの洗練された「江戸の美」として成就した奇跡を確信せざるを得ない。画中に句を配し、句の中に色彩豊かな情景を宿すその往還運動こそが、江戸文化が到達した最高峰の美のありようであったと言えよう。


新訂「屠龍之技(第二 かぢのおと(2-19・20)」

  「七里濱にて」

2-19 浪に立(つ)入も馬鹿鳥磯の秋

2-20 かひ巻(掻巻))もとられし音の野分哉

🟩📘「七里濱にて」(前書) 「2-19 浪に立(つ)入も馬鹿鳥磯の秋 2-20 かひ巻(掻巻))もとられし音の野分哉」

🟩📘 解題(その一)

2-19 浪に立(つ)人も馬鹿鳥磯の秋

 季語: 磯の秋(秋・三秋) / 鳥磯(とリいそ:秋の季感に伴う鳥の集まる磯)

 句意:引き波が寄せる磯辺で、わざわざ波の打ち寄せる足元まで入っていっては足を濡らしている(鳥の)姿よ。自分も同じように波打ち際に立ち尽くしているが、そんなところに立つなど実に愚かなことだ。しかし、この物悲しい秋の磯の風景の中では、その「馬鹿さ」さえもどこか愛おしく、深い味わいがあることだ。

 鑑賞(視点):自然の冷たさや厳しさをどこか他人事のように眺めつつ、自分自身もまたその風景の中に愚直に佇んでいるという自嘲と幽玄の視点です。江戸琳派の祖である抱一らしい、軽妙洒脱でありながらもどこか寂涼とした秋の磯辺の静寂が感じられます。

2-20 かひ巻もとられし音の野分哉

 季語: 野分(のわき/のわきかな:秋・三秋/台風・強風)

 句意:凄まじい野分(秋の台風のような強風)が吹き荒れている。あまりの風の強さに、着ていた掻巻(かいまき:防寒用の袖付きの夜着・羽織)までもが吹き飛んで奪われてしまったのではないかと思わせるほどの激しい音が響き渡っていることよ。

 鑑賞(視点):暴風の凄まじさを単に「風が強い」と詠むのではなく、「かいまきを取られた音」という聴覚的かつ具象的な比喩(見立て)で捉えた臨場感あふれる視点です。七里ヶ浜の海風・野分の荒々しさを、江戸前のユーモアと鋭い観察眼で力強く描写しています。

総括( 二句合わせた世界観・イメージ)

 一静一動、そして寂寥感と荒々しさの対比が際立つ二句です。七里ヶ浜の秋の海辺。静かに波が打ち寄せ、波打ち際にポツンと立つ鳥(そしてそれを見つめる抱一自身)の「静かな秋の寂涼(磯の秋)」。そして一転して、浜風が猛烈に吹き荒れ、着物すら吹き飛ばすかのような強風が音を立てる「動的な秋の猛威(野分)」。抱一の視点は、自然の美と厳しさ、そしてそこに居合わせる人間の可笑しみをあたたかく見つめています。

🟩📘 解題(その二) ——酒井抱一「浪に立つ人」をめぐる静塔的試論

    浪に立(つ)人も馬鹿鳥磯の秋  抱一

一、 時代を超越する「運動体」の発見

 「浪に立つ人」というフレーズは、本来ならば浅瀬で波と戯れる滑稽な人影、あるいは漁夫や潮干狩りの姿を素描したものだ。しかし、これを「大波の上に絶妙な均衡で立ち上がり、滑走するサーファー」と読み替えた瞬間、この十七字は強度を劇的に変える。

 自然という容赦のない運動(浪)に対し、二本足で立とうと執着する人間。その姿は、現代の海辺において最も能動的でありながら、同時に極めて偏執的な「滑稽さ」を帯びた「運動体」である。

二、 「馬鹿鳥(アホウドリ)」と「サーファー」の強烈な対照

 ここで真価を発揮するのが、季語(磯の秋)と取り合わされた「馬鹿鳥(アホウドリ)」という存在である。

 馬鹿鳥の属性:陸上では足元がおぼつかなく、無警戒で捕まえやすいことからその名がついたが、ひとたび風に乗れば羽ばたくことなく何千キロも海の上を滑空する「風の覇者」。

 サーファーの属性:陸の上では大きな板を抱えて歩く不格好な「異物」でありながら、波の上では驚くべきバランスで波を乗りこなす。

 「海波に立つ人間」を、嘲笑を込めて「馬鹿鳥」と同列に置く抱一の眼差しには、単なる軽口を超えた精神科医的・臨床的な人間観察(静塔的リアリズム)が潜んでいる。

 自然の巨体(波)に対して、わざわざ板一枚で立ち上がろうとする人間の行為は、傍から見ればまさに「馬鹿」そのものだ。しかし、その「馬鹿さ」こそが、過酷な自然と戯れる人間の業(ごう)であり、秋の澄んだ磯の静寂と鮮やかな対比をなしている。

水曜日, 12月 18, 2024

原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その二十二・その二十三~その二十五)

 (その二十二) 「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」と(その二十三)「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」

(その二十二) 「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」





 






「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/26





 

「二十二 一点の雲なくなんと蟬に風 1923・句 1955・7板 」の「解説」(「神林良吉」)

 この句は、大正十二年(一九二三、三十七歳)時の作とするのだが、『原石鼎全句集(沖積社)』では、昭和十二年(一九三七、五十一歳)時の作で収載されている。その前後の句などを見ると、これは、昭和十二年(一九三七)年時の作と解すべきものと思われる。

  日ねもすを鳶のきげんや夏の風

  ※一点の雲なくなんと蟬に風

  木もれ日に背(せ)のひかりみえ法師蝉

  なきやんですぐとぶはやし法師蝉

  夜の蝉電気の紐にとまりけり

 当時の石鼎の住居は、「麻布木村町一一六番地」(『原石鼎全句集(沖積社)』所収「原石鼎年譜」)で、「有栖宮公園の近くの高台で庭も広く北から南に扇のように広がった得な地割りで、眼下に桜の樹々もあり聖心女学院の塔がかなたに見えた」(『石鼎とともに(原コウ子著)』)と、コウ子は記している。

 この年に、原石鼎の自選句集『花影』が改造社より刊行された。この『花影』は、下記のアドレスで閲覧することが出来る。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1261953/1/3





 








『花影(目次)』 : 自選句集 (現代自選俳句叢書 ; 第1)/ (著者・原石鼎 著・出版者・改造社・出版年月日・昭12年)(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1261953/1/4

 この「目次」の「五篇」を年次別に見ると、次のとおりとなる(『原石鼎全句集(沖積社)』所収「解説・他句の連想を拒絶する俳句(海上雅臣稿)」)。


深吉野篇 → 大正元年(一九一二)秋より同二年(一九一三)まで

海岸篇  → 大正二年(一九一三)秋より同四年(一九一五)まで

都会篇(一/牛込・麹町時代)→大正四年(一九一五)春より同八年(一九一九)秋まで

都会篇(二/竜土町時代)  →大正八年(一九一九)秋より昭和二年(一九二七)初秋まで

都会篇(三/木村町時代)  →昭和二年(一九二七)初夏より同十二年(一九三七)春まで

 さらに、この石鼎の自選句集『花影』の刊行周辺のことに関して、山本健吉の、次のような記述がある。

[ 「改造社」では大正末期以来現代歌人の自選歌集を何冊か出し、その頃は第三期として六人ほどの歌人の人選を進めている。併せて自選句集を出そうするという企画が決り、「俳句研究」編集主任菅沼純治部を中心に私も加わって、人選を検討した。・・・ 石鼎はその名声に比して、それまで不思議に一つの句集も出していなかったから、蛇笏の『霊芝』秋桜子の『浮葉抄』誓子の『玄冬』石鼎の『花影』の四冊が相次いで出たが、『葛飾』や『凍港』で秋誓二子の句を知っている読者には、かえって『霊芝』と『花影』の刊行がありがったかったのではないかと思う。(山本健吉「石鼎の時代」、「俳句」35巻第3号)  ](『原石鼎全句集(沖積社)』所収「原石鼎全年譜(海上雅臣稿)」 )。

 ここで、当時(昭和十二年=一九三七)の、「虚子・『ホトトギス』」の一大勢力(「旧派」=「ホトトギス」派)に対する、「秋桜子(「馬酔木」主宰))・誓子(「馬酔木」参加・後に「天狼」主宰)・蛇笏(「雲母」主宰)・石鼎(「鹿火屋」主宰)等の、「新派=現代俳句」とも称するべき「非『ホトトギス』派の、その全貌の一端が、その姿を結実して来る。

 秋櫻子(脱「ホトトギス」) → 『葛飾』・『浮葉抄』

 誓子 (離「ホトトギス」) → 『凍港』・『玄冬』

 蛇笏 (非「ホトトギス」) → 『霊芝』

 石鼎 (断「ホトトギス」) → 「花影」

 ここで、「四S(しいエス)」と呼ばれる俳人は、「秋櫻子・誓子」と「青畝と素十」で、これは、「東(東日本=東京)」の『秋櫻子と素十』」、そして、「西(西日本=京都・大阪)の「誓子と青畝」との、「『ホトトギス』圏内での一つの指標」ということになる。

(その二十三)「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」





 







「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」→A図

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/27





 

「「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句 」「解説」(「神林良吉」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/27

 この句は、大正五年(一九一六、三十歳)時の作である。当時の「ホトトギス」社は、「牛込船河原町」にあって、原石鼎は、「下宿を牛込新小川町、神楽坂おでんやの二階、米屋二階等を転々として」(京極杜藻「鹿火屋」)、その「ホトトギス」社に、正式な事務員でなく、書生のような形で手助けなどをしていた(市川一男著『俳句百年・稿本』)。


   夜見が浜も由比ガ浜も同じ蜻蛉かな(前書「昨、山陰の海に親みし身の、今、東海の浪にさまよふ」)


 ※とんぼうの薄羽ならしし虚空かな


 この掲出の「とんぼうの薄羽ならしし虚空かな」は、制作時の、その前の句(夜見が浜も

由比ガ浜も同じ蜻蛉宇かな」の、その「前書き」の「昨、山陰の海に親みし身の、今、東海

のにさまよふ」に接すると、その句意、そして、この句の背景が明瞭になって来る。 

 この前句の、「夜見が浜」は、石鼎の「故郷の海」の、「山陰(鳥取・出雲)」の「夜見が浜」、そして、次の「由比ガ浜」は、虚子の「ホトトギス」派の句会などで度々訪れている「相模(神奈川・鎌倉)」の「由比が浜」ということになろう。

 とすると、この掲出の句の、この「とんぼう(蜻蛉)」は、当時の、故郷の「山陰(鳥取・出

雲)」(「夜見が浜」)と、放浪して、定職のないまま、今に「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比

ガ浜)とを彷徨っている、当時の、「石鼎」自身の化身として解して差し支えなかろう。

 そして、この「薄羽ならしし」は、その「彷徨っている」、当時の「石鼎」自身の、その

「弱弱しい羽音(はおと)」、そして、それは、その当時の「石鼎」自身の、「生きている証し」の息吹ように、その「虚空」(「山陰(鳥取・出雲)」(「夜見が浜」)と「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比ガ浜))とにに、「彷徨っている」・・・、というよう、その句意とその背景ということに解したい。





 







「二十三 とんぼうの薄羽ならしし虚空かな 1916・句 1955・8句  」(「裏彩色板画」)→ B図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48

 例えば、このB図(「裏彩色板画」)に接すると、上記に掲げた、その「句意と背景」とが、棟方志功の「色刷り」(「裏彩色」)によって、そのイメージが、更に鮮明になって来る。

 このB図(「裏彩色板画」)の、上部の「群青(グンジョウ)=ブルー(青)」は。眼前即景の「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比ガ浜))の「海」の色、そして、下部の「群青(グンジョウ)=ブルー(青)」は、生れ故郷の「山陰(鳥取・出雲)」(「夜見が浜」)の海の色ということになる。

 そして、その中間を占める「岱赭(たいしゃ)=ブラウン(茶)」は、「相模((神奈川・鎌倉)」(「由比ガ浜))と、山陰(鳥取・出雲)」(「夜見が浜」)とを結ぶ、「虚空」(「何もない空間、大空」)ということになる。

 それに加えて、「蜻蛉」と、その「ならしつつ」の「なら(鳴ら)」に掛けての、「緑(りょく)=グリーン(緑)」は、その「虚空」(「何もない空間、大空」)を彷徨う、その「羽音()はおと」を暗示しているものと解することも出来よう。


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その十」)」





 







「幾山河の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/30


[ 始めぬ

  呪ひやいかで免れむ、

  神に仕ふるに処女子(おとめご)の地をも

  穢さむ夢見しものに

  われふるさとを

  幾山河雪雲深き

  とつくに死にむといふもこと

  はりなれ

  あゝ倭、お身の名を

  再び呼べばわが目

  にはふるさとり空晴      ]



 


 







「裏の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/30

[ (晴)れ渡り、山々は肌

  も露はに現はるる

  そはわが子いかに見悪くか

  らむも、そをはぐゝま

  むこころには人目もう

  らず胸をはだける

  を母をさながら

  光

  浴

  び

  た

  り            ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)


 この上記の、最終章の、棟方志功の、「大和し美し」の、その「詠み」と「彫り」(A図)のリズムは、その原文(「佐藤一英詩『大和し美し』)のそれは、B図のとおりとなる。


[ あゝ倭、お身の名を

  再び呼べばわが目

  にはふるさとの空晴

  れ渡り、山々は肌

  も露はに現はるる

  そはわが子いかに見悪くか

  らむも、そをはぐゝま

  むこころには人目もう

  らず胸をはだける

  を母をさながら

  光

  浴

  び

  た

  り    ] → A図(棟方志功の、「大和し美し」の、その「詠み」と「彫り」)

[ あゝ倭、お身の名を再び呼べばわが目にはふるさとの・空晴れ渡り、山々は肌も露はに現はるる

  そはわが子いかに見悪くかむも、そをはぐゝまむこころには人目もうらず胸をはだけ

  るを母をさながら光浴び

たり   ]→ B図(佐藤一映第四詩集『大和し美し(新詩論編輯所版)』の最終章) 


 佐藤一映第四詩集『大和し美し(新詩論編輯所版)』は、下記のアドレスで紹介されている。

https://shiki-cogito.net/library/sa/satoichiei-yamato.html

[ 詩集『大和し美し』新詩論編輯所版/佐藤一英 第4詩集/昭和8年10月1日 新詩論編輯所 吉田一穂 発行/並製 21.5×15.7cm [6p]ページ 定価 50銭   ]


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その二十四・その二十五)

(その二十四) 「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」と(その二十五)「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」

「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」





 







「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/28





 


「二十四 暁の蜩四方に起りけり 1940・句 1955・8板 」の「解説」(「棟方志功」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/28

 この掲出の句は、昭和十五年(一九四〇、五十四歳)の、『原石鼎全句集(沖積社)』所収では見当たらない。そこでの「蜩・ひぐらし」の句は次のとおりである。


  あかつきのひぐらし萌黄いろに啼く

  六たびづゝ啼きひぐらしの移りけり

  蜩に夕雲はみな金の色

 さらに、この掲出の句は、棟方志功のものなのだが、そこで、「夏の句としては晩(おそ)い時になるかも知れません。けれども、どうしても夏の句です。これほど、夏を感じさせ、夏を騒がせてゐる句はありません」という、それに続く、この「騒がしさこそ人間とも、虫とものモノではなく、唯黙然たる一つであるといふ事なのです」というのは、この句に対する、これらの句をつくった「石鼎」の「蜩・ひぐらし」に対する、その句の鑑賞者、そして、その鑑賞を、おのれの世界(板画の世界)で、その姿を表出させるためには、「石鼎」(作句者)も、そして、「志功」(板画者)その人もまた、「唯黙然たる一つであるといふ事なのです」ということなのであろう。


「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」





 







「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/29





 



「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板  」の「解説」(「京極杜藻」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/29

 『原石鼎全句集(沖積舎)』は、大正元年(一九一二、二十六歳)の、この句が、その冒頭の一句としてスタートとする。この句は、上記の「解説」(「京極杜藻」)の、「大正元年末のホトトギスに、選者高浜虚子の激賞と共に発表された」、その巻頭の一句である。

 この句の鑑賞は、原石鼎と生涯に亘って、その歩行を一にした、上記の「京極杜藻」のものをもって余すところはない。

https://caphar10.rssing.com/chan-6214340/all_p1.html


(参考)

[一句は、山頂の視界の広がった解放感から思わず「頂上や」ということばが出たのであろう。その高らかな謳い方が「殊に」という措辞によって風の野菊へ一気に収斂してゆく。石鼎俳句はこの句からはじまると言っても過言ではない。実際、この句を含む吉野からの初投句の九句は、「ホトトギス」大正元年十二月号の次巻頭としての登場だった。

 それだけでも読者の瞠目することだったが、さらに翌月の「ホトトギス」には、「石鼎君の句に就いて所感を陳べて見ようと思ひます」ということばに始まって、長文の虚子の鑑賞文が掲載された。これが、「頂上や」の句を一気に広めたのである。この句の第一の斬新さは初語の打ち出しかたにある。本来「や」とは強い詠嘆を込めるために使われてきた。そのことばが「頂上や」という何気ないことばだったことに虚子は驚いたのである。

 山本健吉は「これほど野菊の本情を捕えた句は、他に知らない。季語でも地名でも主観語でもないただの言葉を、「頂上や」と無雑作に置き、「殊に」とさりげなくそのものの存在を取り出し、「吹かれ居り」と軽く結んださまが、野菊そのものの姿を彷彿とさせるのだ。この軽さ、さりげなさは、後のちまで石鼎の句の特徴の一つと思われる(「俳句」昭和61年3月号)」。

 また、それを読んだ清水哲男氏は「言い換えれば、石鼎はこのときに、名器しか乗せない立派な造りの朱塗りの盆である「や」に、ひょいとそこらへんの茶碗を乗せたのだった。だから、当時の俳人はあっと驚いたのである。(増殖する俳句歳時記)」と述べている。石鼎の弟子海上雅臣はこの「頂上や」を芭蕉の「古池や」に替わる写生だと小島信夫著『原石鼎』の中で語っている。(岩淵喜代子) ]





 









「二十五 頂上や殊に野菊の吹かれをり 1912・句 1955.8板   」(「裏彩色板画」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48


(追記) 「大和し美し」周辺(その一)





 










https://munakatashiko-museum.jp/2020/09/16/post-4811/

[ 油絵を描いていた棟方志功が板画を始めるようになったのは、川上澄生の版画作品《初夏の風》を見たことがきっかけでした。川上自作の詩が彫り込まれている版画を見たとき、棟方は「いいなァ、いいなァ」と、心も体も伸びて行くような気持になっていたそうです。

 棟方は上京する以前から文学を愛する青年で、板画を始めてからも文学者との交友を深めていきました。

 棟方の出世作と言える《大和し美し》は、愛知県出身の詩人佐藤一英が新詩論に発表したものを同郷の文学者福士幸次郎を介して制作の許可を得たもので、棟方作品の中でも傑作のひとつに数えられています。 ]


[棟方志功/むなかたしこう/(1903―1975)

 版画家。明治36年9月5日青森市生まれ。小学校卒業後、家業の鍛冶(かじ)職を手伝い、さらに裁判所の給仕となる。画家を志し、鷹山宇一(たかやまういち)らと洋画グループをつくり、1924年(大正13)上京する。昭和初めから木版画を手がけ、平塚運一(うんいち)の教えを受ける。日本創作版画協会展、春陽会展、国画会展に版画を出品のほか、帝展に油絵を出品。1932年(昭和7)日本版画協会会員となる。柳宗悦(むねよし)、河井寛次郎ら民芸派の知遇を得、しだいに仏教的主題が多くなる。1937年国画会同人となり、翌年新文展で版画による初の特選となった。第二次世界大戦後は、1955年(昭和30)サン・パウロ・ビエンナーレ展で受賞し、翌1956年ベネチア・ビエンナーレ展で国際版画大賞を受け、世界的な評価を確立。その間に日本板画院を創立して主宰。国内とアメリカの各地で数多くの展覧会を開き、1964年度朝日文化賞のほか、1970年には毎日芸術大賞と文化勲章を受けた。縄文的血脈の現代的開花とも評されるその作風は、独特の宗教的表現主義である。日本画の大作も多い。昭和50年9月13日東京で没。木版画の代表作は『大和(やまと)し美(うるわ)し』『二菩薩釈迦(ぼさつしゃか)十大弟子』『湧然(ゆうぜん)する女者達々(にょしゃたちたち)』『柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)』ほか。なお、1963年倉敷市の大原美術館内に棟方板画館、1974年鎌倉市に棟方板画美術館(2010年閉館)、1975年11月には郷里の青森市に棟方志功記念館が開設された。[小倉忠夫 2017年1月19日] ](「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)


[佐藤一英/さとういちえい/(1899―1979)

   詩人。愛知県に生まれる。早稲田(わせだ)大学英文科予科中退。予科時代、吉田一穂(いっすい)、中山義秀(ぎしゅう)、横光利一(りいち)らと知る。菊池寛(かん)論『軽さと重さ』(1919)によって注目されたが、のちに春山行夫(ゆきお)らと詩誌『青騎士』を創刊。また『文芸時代』『詩と詩論』『新詩論』などに精力的に詩、評論を発表。おもな詩集に、若々しいロマンチシズムに彩られた処女詩集『晴天』(1922)、『故園の莱(あかざ)』(1923)、『魂の楯(たて)』(1942)などのほか、第二次世界大戦後の時代状況を歌った『乏しき木片』(1947)、『幻の鐘』(1948)などがある。新韻律詩を実践提唱したことでも知られ、『新韻律詩論』(1940)がある。[原 子朗] ](「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)


[福士幸次郎/ふくしこうじろう/(1889―1946)

 詩人。青森県弘前(ひろさき)に生まれる。国民英学会卒業。1909年(明治42)、人見東明(とうめい)の推薦で『自然と印象』第八集に『錘(おもり)』などの詩を発表。以後『創作』『新文芸』『スバル』などに寄稿。12年(大正1)、千家元麿(せんげもとまろ)らと『テラコツタ』、翌年には『生活』を創刊した。詩集『太陽の子』(1914)、『展望』(1920)で人道主義風な生命の歌を平易な口語体で書いた。『日本音数律論』(1930)、『原日本考』(1942)などの特色のある研究評論書もある。[安藤靖彦]  ](「出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」)

月曜日, 12月 16, 2024

原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十六・その十七~その二十・二十一)

 (その十六) 「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 1922・句 1955・4板 」と(その十七)「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」











「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 1922・句 1955・4板 」



 



「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 1922・句 1955・4板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/20

 この句は、大正十一年(一九二二)、石鼎、三十六歳(数え年、三十七歳)時の作で、「奈良にて眼前即景 九句」との前書のある中の一句である。

 人の前に産み落とされし鹿の子かな (「奈良にて眼前即景 九句」)

 ふるひ落つ一片の葉に鹿生る (同上)

 生るゝや親にねぶられ芝鹿の子 (同上)

 ※神の瞳(め)と我瞳あそべる鹿の子かな (同上)

 日と苔のみどりに育ち鹿の子かな (同上)

 鹿の子とぶよ杉の張根を越え越えて (同上)

 鹿の子よ羊朶踏みはづすことなかれ (同上)

 雨の日の親をはなれぬ子鹿かな (同上)

 雨に立つ親をかぎたる子鹿かな (同上)

 これらの九句は、「奈良・春日大社」の、今に「奈良公園」の一角の「鹿苑(ろくえん)」での句なのであろう。

「奈良・春日大社」の祭神の「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」は、鹿島神宮(茨城県)から「神鹿(しんろく)」に乗ってやってきたという、その伝説に由来する「神の使いとして、神社で飼っておく鹿」なのである。

ここで、歳時記では、「鹿(しか)」は「秋(三秋)」、「鹿の子(かのこ・しかのこ)」は「夏(三夏)」の季語となる。


(芭蕉の「鹿(しか)」の句)

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿(しか) 芭蕉「笈日記」

女(め)をと鹿(じか)や毛に毛がそろうて毛むつかし 芭蕉「貝おほひ」

武蔵野や一寸ほどな鹿(しか)の声 芭蕉「俳諧当世男」

ひれふりてめじかもよるや男鹿島(おがのしま) 芭蕉「五十四郡」

(芭蕉の「鹿(か)の子」の句)

灌仏の日に生れあふ鹿(か)の子哉 (芭蕉「笈の小文」)

 

「十六 神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子なる 1922・句 1955・4板 」の「解説」(神林良吉)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/20

 この句の「解説」は、「神林良吉(海上雅臣)」の、「『「神の瞳(め)とわが瞳(め)あそべる」といふ叙法に、いかにも愛らしい鹿の子のありさまがほうふつと浮かんでくる」というのだが、それはそれとして、そこに、例えば、芭蕉の、「ひれふりてめじかもよるや男鹿島(おがのしま)」の句や、「灌仏の日に生れあふ鹿(か)の子哉」の句などを背景にしての、俳人「原石鼎」の「眼前即景」の句と解すると、なお一層、この句の凄さが伝わって来るであろう。


「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」





 






「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/21

 この句は、大正六年(一九一七)、石鼎、三十一歳の時の句で、「高浜虚子から『俳句では食べられないから雑誌社へでも世話して上げようと言われ、憤慨してホトトギス社を退社する。東京日々新聞に迎えられ俳句選者として嘱託入社する』(『原石鼎全句集(沖積社刊)』所収「原石鼎年譜(海上雅臣編)」という、独身時代の句ということになる。

 この句の前後の句は、次のとおりである。

 葉隠れに土恋ふ四葩(よひら)淋しめり

 ※大鯉の押しおよぎけり梅雨の水

 梅天や生死(せうじ)もわかず苫(とま)かゝる

 当時、「ホトトギス」誌上において、芥川龍之介(俳号=我鬼)が、当時の「ホトトギス」系の俳人(子規・虚子・石鼎)の「写生」の傾向などについての論考を寄稿している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2024-06-08

↓

「写生論(芥川龍之介)」(大正七年=一九一八)

↓

「ホトトギス」(二八一号/大正九年=一九二〇・一月号)

 そこで、石鼎の句は、「客観(「自然・もの」を有りのまま叙する)写生=子規」でもなく、「主観(「自然・もの」に対峙する「作句者の感興」を叙する)写生=虚子」、その中庸の、「印象(「自然・もの」を眼前にしての「作句者の印象」を叙する)写生=石鼎」と、「脱『子規』・脱『虚子」」の、その中庸の「石鼎俳句」の世界を認知したということになる。

 これらのことを、上記の三句に照らすと、

 葉隠れに土恋ふ四葩(よひら)淋しめり

 ※大鯉の押しおよぎけり梅雨の水

 梅天や生死(せうじ)もわかず苫(とま)かゝる

 この一句目の「土恋ふ」、二句目の「押しおよぎけり」、そして、三句目の「生死(せうじ)もわかず」というのは、「子規」でねなく「虚子」でもなく、「石鼎」その人の、「眼前即景」の、その「客体(「四葩」・「大鯉」「梅天」)」から受ける、その「印象」そのものということになる。

 ここで、掲出の、二句目の、

 ※大鯉の押しおよぎけり梅雨の水

 この「大鯉」が、「押しおよぎけり」となると、当時(大正六年=一九一七、三十一歳)、独身で、虚子から「ホトトギス」社の退社勧告を受けて、虚子と訣別するような環境下、「石鼎」というイメージではなく、一刀両断に退社勧告を告げる、当時の「虚子」(四十三歳)の、虚子特有のイメージでなくもない。

 当時の「石鼎」について、「(石鼎は)独身だから費用はかからぬが、何分薄給で好きな煙草を吸うこともできぬ。ついにはこぼれ煙草のまじった袂くそを煙管につめて吸うまでに至った。そこで思いあまった揚句、増給を願い出たところ、虚子の容れるところとならず、発行所を去る結果になった。」(水原秋櫻子『高浜虚子』)と(『原石鼎全句集(沖積社)』所収「原石鼎年譜(海上雅臣編)」)、どうにも、この「大鯉」のイメージとはかけ離れているのである。



 



「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」の「解説」(棟方志功)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/21

 この句の「解説」は棟方志功のものであるが、この大鯉のイメージは、上田秋成の『雨月物語』の「夢応鯉魚」のイメージでとらえている。そして、それは、志功が、昭和十五年(一九四〇、三十七歳)時の「保田與重郎の啓示により制作した秋成の『雨月物語』からの『夢応鯉魚版画柵』」(『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「棟方志功略年譜」)からの、アレンジしたような一図ということになる。



 






『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「夢応鯉魚版画柵」(各図、31.8×31.8㎝)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/52

 志功の、この「夢応鯉魚版画柵」は、秋成の、その怪談・怪奇小説の一つの「夢応の鯉魚」を、二十一図の版画に制作したものである。この秋成の「夢応の鯉魚」については、下記アドレスのものなどが参考となる。

http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/muonorigyo.html

一 題の柵(第一図) → 

一 名の柵(第二図)

一 扉の柵(第三図)

一 三井寺(第四図・略) → この小説は、「三井寺に興義(こうぎ)といふ僧あ

りけり。絵に巧みなるをもて名を世にゆるされけり。」からスタートとして、その「三寺寺」が第一図(略)である。

一 興義(第五図・略) → 「三井寺の僧・興義」が、その第二図(略)である。

一 鯉賊(第六図)

一 死床(第七図) → 「ひととせ病にかかりて、七日を経てたちまちに眼を閉ぢ息絶てむなしくなりぬ。」









『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「夢応鯉魚版画柵」の「鯉賊(第三図)=右図」と「死床(第四図)=左図」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/53

一 助殿(すけどの)の館(第八図・略)

一 酒盛(第九図・略) → 「「誰にもあれ一人、檀家の平の助の殿の館(みたち)に詣(まゐり)て告(まうさん)は、『法師こそ不思議に生きはべれ。君今酒を酌み鮮(あざらけ)き鱠(なます)をつくらしめたまふ。しばらく宴を罷(やめ)て寺に詣でさせたまへ。稀有の物がたり聞こえまいらせん。』とて、彼の人々のある形(さま)を見よ。我が詞に露たがはじ。」

一 夢遊(第十図・略) → 「今思へば愚かなる夢ごゞろなりし。されども人の水に浮かぶは、魚のこゝろよきにはしかず。」

一 大魚(第十一図・略) →「傍にひとつの大魚(まな)ありていふ。」

一 御河伯(おんかっぱ・第十二図) → 「前の大魚(まな)に胯がりて、許多(あまた)の鼇魚(うろくづ)を率ゐて浮かび来たり、我にむかひていふ。」











『棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)』所収「夢応鯉魚版画柵」の「御河伯(おんかっぱ・第九図)」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/55

一 濡裳(第十三図・略)

一 汀(第十四図・略)

一 膳所城(第十五図・略)

一 瀬田橋(第十六図・略)

一 哭叫(なきさけぶ)の図(第十七図) → 『旁等(かたがたら)は興義をわすれたまふか。宥(ゆるさ)せたまへ。寺にかへさせたまへ』

 と連(しきり)に叫びぬれど、人々しらぬ形にもてなして、ただ手を拍(うつ)て喜びたまふ。鱠手(かしはびと)なるものまづ我が両眼を左手の指にてつよくとらへ、右手に礪(とぎ)すませし刀をとりて、俎盤(まないた)にのぼし既に切るべかりしとき、我くるしさのあまりに大声をあげて、

 『仏弟子を害する例ためしやある。我を助けよ助けよ』

と哭(なき)叫びぬれど、聞き入れず。終(つ)ひに切らるゝとおぼえて夢醒めたり。」







 






棟方志功全集 第1巻 (物語の柵)所収「夢応鯉魚版画柵」の「哭叫(なきさけぶ)の図・第十七図)」→ A図(「拓刷り) 

https://dl.ndl.go.jp/pid/12868354/1/57

(A図の参考)





 




『雨月物語』 より「夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)」挿絵図(上記の「哭叫(なきさけぶ)の図・第十七図)」に対応する) → B図(「木版印刷図書の挿絵」)

http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/muonorigyo.html

『雨月物語』(「国書データベース」)

https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200014740/31?ln=ja

一 神妙の柵(第十八図・略)くはんが

一 威光の柵(第十九図・略)

一 目次の柵(第二十図)

一 裏の椿(第二十一図・略)








 






「十七 大鯉の押しおよぎけり梅雨の水 1917・句 1955・5板 」→ C図(「裏彩板画=裏彩色=うらざいしき)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/49


(参考=説明)

A図(「拓刷り」) → 「拓本刷り板画(版画)」

[「湿拓の手法で、吸湿性のある紙を、写す板画の上にひろげ、水を刷いで密着させ、ブラシや綿でおさえて刻線に紙を押しこみ、乾いたら「たんほ(たんぽ=打包)」に墨汁をつけて叩くと、黒地白ぬきの文字や文様が転写できる。」(『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「空海抄」」(「自作に想う」)の「脚注」)

「拓本刷りにしたのは、文字が非常に多いのと、同じことばのようなひびきがつながるので、退屈なものになりやすい。普通の板画は左字に彫るのですが、それでは退屈になりやすいから、右字にしようと思ったのです。普通に書くように彫るわけです。それで拓本刷りにしました。」(『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「空海抄」(「自作に想う」)の「本文(抜粋」)

拓刷り(拓摺り)

https://zokeifile.musabi.ac.jp/%e6%8b%93%e5%88%b7%e3%82%8a/

たんぽ(打包)

https://zokeifile.musabi.ac.jp/%e3%81%9f%e3%82%93%e3%81%bd/       ]


B図(「木版印刷図書の挿絵」)

[ 『雨月物語』(「国書データベース」)

「記載書名

1.雨月物語(うげつものがたり)(Ugetsumonogatari),内・外・序首・序中・尾

2.雨月(うげつ)(Ugetsu),柱

巻数 巻之一~五

刊写 刊

書写/出版事項 安永5

 〈京都〉梅村/判兵衛

 〈大坂〉野村/長兵衛

形態 22.6×16.0cm   」


「木版印刷の仕組み・歴史・印刷史

https://amix-design.com/asoboad/blog-1234-39587.html   ]


C図(「裏彩板画=裏彩色=うらざいしき)

[ 「板画とわたくし (棟方志功)」

「版画に想う(略) / 新版画説(略) / 版画道(略) / 肉筆と板画(略) / 板画道(略) / 版血脈(板血脈) (略) / 点・一線(略) /  板画真義(略) / 板画とわたし(略) / /板画美(略) / 板経(略) / 板画について はじめに(略) 一 板画という字から(略) 二 板画と肉筆画(略) 四 板画の美しさ(略) 四 刷りということ(略) 五 黒と白の美しさ(略)

六 裏彩色(うらさいしき)について(抜粋)

(前略) 白と黒の板画は、あらゆる微妙な韻と、韻のもつれと、深い静けさとを含み、そしてその板面から生ずる自然の濃淡がすべての美しさを余さない幽玄な仕事をあらわすのでありますが、この微妙な板画の「姿」を、別なあり方で表現したいと思ってやってみたのが、「裏彩色板画」であります。

 これは刷った墨の板画の裏から、手彩色(てざいしき)をするのです。このばあい、あまり色彩を数多くつけては。かえって板画をだめにしてしまうことがあります。わたくしは、たいていは、代赭(だいしゃ)と紺の二色を使っています。(後略)

七 国際的な位置(略) ](『棟方志功全集1/物語の柵』所収「板画とわたくし」(抜粋) 』」)


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その七」)」



 








「髪香(かみか)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/26

[ (見るがご)ときに、その櫛のみこたびは濱

  の白砂(しらさご)に

  半埋る

  を見い

  でむとは

  われは湿りて

  やゝ黒ずみしその櫛を手に受

  けしまゝ茫然たりき(は)

  かくもわれとは縁深く、なれ

  の肉親の一部かと

  思はれしその櫛

  に、あはれなれ

  の

  髪の香さへ嗅ぐ   ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)



 








「藻草の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/26

[ (嗅ぐ)を得で藻草(もぐさ)の香のみ蔽

  はむとは

  亡ぶには七日を待

  た/ず、/

  さ/れ/ど/そ/は/ま/だ

  よし

  愛うすくして罪深から

  む輩(やから)には亡ぶに速き忘れ

  あり          ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)



原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その十八・その十九)

(その十八) 「十八 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板 」と(その十九)「十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」












「十八 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板 」




「十八 鮎の背に一抹の朱のありしごとし 1936・句 1955・5板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/22

 この石鼎の句は、昭和十一年(一九三六、五十歳)時の作である。

  夏川のかみに本家しもに分家かな

  夏川のこの上(かみ)に父いましけり

  夏川の大土手を越えてもどりけり

  鮎笛をおろして山日さかんかな

  水に棲んでうす桃色や鮎の口

  この川に鮎は居るかと尋ねけり

  浅みより水脈(みを)へ連るゝ鮎もあり

  ※鮎の背に一抹の朱ありしごとし

 石鼎の故郷は、島根の「簸川(ひかわ)郡塩冶村(現出雲市)」である。これは、この「簸川(ひかわ)郡塩冶村(現出雲市)」を流れる、「神戸川(かんどがわ)」(『出雲国風土記』に出てくる「神門川(かむどのがわ)」) の、その一連の「鮎」の句ということになろう。





 







(立久恵峡の霊光寺付近 浮嵐橋を渡ってすぐの場所にあった)

https://sekihanizumo.theshop.jp/blog/2021/12/20/083000

[「青々とつづく山あり鮎の里」(昭和4年)

 鹿火屋の創刊で多くを門徒を迎え絶頂にあった石鼎も、母に会いに度々故郷へ帰っていたようです。父との確執で勘当同然となっていた石鼎にとって、いつも暖かく見守ってくれた母は大きな心の支えであったことでしょう。母と、母との思い出がつまった故郷への想いは今も数々の句に見ることができます。]

 この「神戸川」の上流の「立久恵峡の霊光寺付近」の「鮎」の句は、昭和四年(一九二九、四十三歳)時の作で、その「年譜」(『原石鼎全句集(沖積社)』所収)の、「二月、コウ子と同伴して帰郷、母を見舞い、稲佐の浜に遊ぶ」の頃の作なのであろう。

 上記の、この句の鑑賞文の「父との確執、母への思慕」などの、当時の石鼎の置かれている、その背景が、これらの上記の一連の「鮎の句」に潜んでいる句と解して差し支えなかろう。

「十八 鮎の背に一抹の朱のそのありしごとし 1936・句 1955・5板 」の「解説」(山本健吉)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/22

 この句の解説は、「山本健吉」であるが、その句は、「鮎の背(せ)に(五音)/一沫(いちまつ)の朱(しゅ)・の(八音)/ありし(「三音」=字足らず)の「破調」の句形で、「※鮎の背(せ)に(五音)/一抹(いちまつ)の朱(あか)(七音)/ありしごとし(「六音」=字余り)の、「朱(あか)・ありし」の「あ」、「ありし・ごとし」の「し」と「韻」を踏んでいる、技巧的な句形とは異なっている。

 どちらの句形が、石鼎の最終の句形なのかどうかは、定かではないが、『原石鼎全句集(沖積社)』では、「※鮎の背に一抹の朱ありしごとし」で、この句形が最終の句形と解すべきなのかも知れない。

 しかし、「ありしごとし」の「ごとし」(比喩的な断定)ではなく、「ありし」(「発句は必ず言ひ切るべし」=「『八雲御抄』・順徳院」の断定の切字)の、さらに「字足らず」の、「言いおほせて何かある」(「『去来抄』・芭蕉」)の余韻の響きを有している、山本健吉の「解説」にある句形の方が、例えば、『去来抄』の松尾芭蕉などが推敲すると、この句形のようにして「治定」するような趣である。

 その上で、山本健吉の、「『あるこどし』ではないのだから、いつそうはかない表現である」という、この「落鮎」の一句の鑑賞としては、首肯できる。


「十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」



 

「







十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/23







 この句は、大正三年(一九一四、二十八歳)時の作である。その前後の句は次のとおりである。

  行春の浦に烏のこだまかな

  ※盤石をぬく燈台や夏近し

  この曲浦(うらわ)百家一長の幟かな

 この掲出の、二句目の上五の「盤石(ばんじゃく)」とは、「大きい岩。きわめて堅固な岩々」の意で、中七の「ぬく灯台や」の「ぬく」は、「抜(ぬ)く」(「中身のあるものから抜き取ること」) というよりも、「貫(ぬ・つらぬ)く」(「中身のあるものの中を通すこと」)の意であろう。

 この石鼎の、「盤石をぬく燈台や」の、この、上五から中七にかけての「盤石を・ぬく」の、石鼎の用例(その発見)は、これは、まさしく、当時、二十八歳時の、「俳人・石鼎」の「写生眼」(その「眼前即景」を、一句に仕立てる、その表現の「措辞の巧みさ(言葉の絶妙な用例の発見))」の、その典型を示すものと解して差し支えなかろう。



 









(「出雲日御碕灯台(いずもひのみさきとうだい)」・「海岸沿いには柱状の奇岩が続く」)

https://izumo-kankou.gr.jp/677


「十九 盤石をぬく燈台や夏近し 1914・句 1955・6板 」の「解説」(「京極杜藻」)

 この「解説」(「京極杜藻」)の、「この『ぬく』は岩を貫いて立つてゐる、という意味で、作者の強い主観を表すに相応しい力のある言葉である。この句は出雲日御崎でできたものだが、日の御崎は島根半島の西端で、燈台はその岩の上に立つてゐる。」の評は、そのものずばりという感を大にする。

 この句は、「出雲市駅」前にも、その石碑が建っている。この句が制作された、大正三年(一九一四、二十八歳)の「年譜」(『原石鼎全句集(沖積舎)』所収)には、「一月、『ホトトギス』誌上で、高浜虚子が『大正二年の俳句界に二の新人を得たり、曰く普羅、曰く石鼎』と記す」とある。

 颯爽と、「前田普羅と原石鼎」とが、俳句界に、その雄姿をデビューした、その「石鼎」

の意気込みが感じられる一句である。



 



(出雲市駅 JRの夜行バスから降りると、すぐ目の前に現れる石碑)

https://sekihanizumo.theshop.jp/blog/2021/12/20/083000


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その八」)」



 

「








鷲翼(しゅうよく)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/27

[ なれ失ひし悲しみも渡(わたる)の神の

  贄(にへ)となり波にのまれ束の間ぞ

  風、海の衣より起り、波、

  空を行く折しもあれ、忽然と波

  間に消えしなれの顔、その白き

  幻も塒(ねぐら)におりし鳩にはあらで、

  明日(あした)また浮びは出でし

  さるにあはれわがこころにはたゞ

  黒き血に燃え猛る鷲の翼ぞ

  擴ごりたり

  やがてそは贄をのみて跡をも

  見ざるかの暗き走水(はしりみづ)の浪にも  ]

 


 

 








「身胸(みむね)の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/27

[ まして翔けさりぬ・・・・

  あゝ父の愛喪ひてなほ愛を

  信じゐたりし幼き頃ぞ

  なつかしき

 望みも果てし暗き

 築地(ついぢ)のわが胸にふと

 も香る梅の花、

 そはわがをば

 倭の御衣裳(みそも)

 に移りし肌の香ぞ

 あゝ倭われかつてお身の胸に    ](『棟方志功全集5/詩歌の柵』所収「大和し美し」)


原石鼎(俳句)と棟方志功(板画)との世界(その二十・その二十一)

(その二十) 「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」と(その二十一)「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」

「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」





 







「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/24

 この掲出の句は、大正四年(一九一五、二十九歳)時の作である。その時の一連の「目高」の句は、次のとおりである。

  花合歓(ねむ)に目高太るや水深し(「自貧居句会席上」)

  谷水に太る目高のありにけり

  蓮蔭に目高の鰭や朝日さす

  ※緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎

  蓮の葉を動かす風や目高散る

  やゝ深く目高に交る小鮒かな

 この年の「年譜」(『原石鼎全句集(沖積舎)』)には、当時の「石鼎」について、次のとおり記している。

[ 懐中無一文になり上京する。夏、ホトトギス社に入社。九月、高浜虚子は「ホトトギス」に連載していた「進むべき俳句の道」の中で石鼎の懇切な批評を行う。大須賀乙字の『碧悟桐句集を手伝う。』

 ここで、改めて、掲出の志功の「板画(版画)」を見ると、この「緋目高」は、当時の、上京時の、「ホトトギス」入社時の頃の、「石鼎」自画像ということになろう。そして、この「蓮の莖」は、当時の、「高浜虚子」が率いる、その「総合誌(俳誌・ホトトギス))」と解すると、その全貌が見えてくる。






「二十 緋目高のつゝいてゐるよ蓮の茎 1915・句 1955・7板 」の「解説」(「原石鼎」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/24

 この句の「解説」は、「石鼎」自身のものであるが、これは、もとより、昭和三十年(一九五五)時の、「棟方志功は一年の歳時に添った石鼎の三十六句を板画にし、『青天抄板画集』を公刊した時の、その時の「自解」ではない。

 「石鼎」が亡くなったのは、昭和二十六年(一九五一、六十五歳)」で、この「石鼎」自身の「自解」は、「石鼎」の生前中の、この句が制作された、「大正四年(一九一五、二十九歳)」時の作に、近接したものと解して差し支えなかろう。


「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」



 









「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」→A図

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/25

 この石鼎の句は、昭和九年(一九三四、四十八歳)時の作で、その前後の句は、次のとおりである。

  船虫の甲ひからせぬ月の巌

  ※淋しさは船一つ居る土用浪

  たそがれを降り出し雨や土用浪

 この前年の「昭和八年(一九三三、四十七歳)」時の、『原石鼎全句集(沖積舎)』の「年譜」には。「一月、勅題『朝の海』に因む筝曲のための作詞依頼を宮城道雄から受け、作詞する。これがラジオで演奏される、とある。」とある。

 この「朝(あした)の海」(原石鼎・作詞)は、次のものである。


[ 朝(あした)の海  石鼎       

 あれすさぶ日のありとも

 波治(おさ)まれる朝の海に如(し)くはなし

 春にあれ 夏にしあれ そは永遠(とことは)に

 秋はさらなり 冬はさらでも 

 日の心 月のこころと ときはかきはに

 八十島(やそしま)かけて 陸(くが)をまもれる  ]




 









「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板 」(「裏彩色図)→B図

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757572/1/48


 原石鼎にとって、故郷の海は、出雲の海なのであろうが、棟方志功が、石鼎の「出雲の海」を題材にしたものは見当たらない。唯一、石鼎の没後に刊行された、この『青天抄板畫巻(著者/原石鼎 句, 棟方志功 板)』所収の「板画(A図=白黒図)」と、その「裏彩色板画(B図)」

 などが、棟方志功の「出雲の海」と解して良かろう。

「二十一 淋しさは船一つ居る土用波 1934・句 1955・7板  」の「解説」(「原コウ子」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/2479136/1/25


 この句の「解説」は、「原コウ子」であるが、昭和九年(一九三四、四十八歳)当時は、石鼎の母危篤の報などに接し、「原コウ子」同伴で、たびたび、石鼎は帰郷している。

 この「出雲の海」に連なる、志功の作品の一つに、志功が戦時中に疎開した、富山県西礪波郡福光町(現南砺市)の「立山連峰を望む海岸風景」(「倭絵」=日本画)は、今に遺されている。



 









「立山連峰を望む海岸風景」 1950年頃 NHK富山放送局(南砺市立福光美術館寄託)

https://www.aomori-museum.jp/schedule/11835/

 これは、志功が「倭絵」と称する「日本画」(「板画」に比すると「肉筆画」)である。




 








「日立太平洋図」1972年(昭和47)/油絵(「肉筆画」)

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757332/1/101

 これは、志功の、晩年(六十九歳時)の、「油絵(油彩)=肉筆画」の、「日立太平洋図」である。

 志功は、還暦を迎えた、昭和三十八年(一九六三、六十三歳)時に、「東海道棟方板画」の制作に取り掛かり、爾来、「西海道(九州)棟方板画」、「南海道(四国)棟方板画」、「奥海道(関東・東北=奥の細道)棟方板画」、「羽海道(奥羽・羽越=奥の細道)棟方板画」、そして、「アメリカ・カナダ・インド旅行」と、その晩年は、「棟方行脚」に明け暮れる。

 これらの全貌は、『棟方志功全集11/海道の柵』に収録されている。

https://dl.ndl.go.jp/pid/12757332/1/8

 ここで、原石鼎の、冒頭の句の、「淋しさは船一つ居る土用波」の句形は、石鼎自身の句形なのだが、志功は、この上五の「淋しさは」を「寂しさ」の句形にアレンジしている。これは、石鼎の「淋しさ」が、「人間関係における孤独感や人々とのつながりが希薄であることを表す用例=特に、師の「高浜虚子との関係など」と解すると、この棟方志功の、この「寂しさは船一つ居る土用波」の「寂しさ」は、「空間(日本海)や時間(夏の「土用浪」)が虚しく感じられる状態を指す」という、棟方志功の、この句に対する「深い詠み」の一例ということになろう。


(追記) 「大和し美(うるは)し(「棟方志功板画・その九」)」



 









「身裏の柵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/27

[ 抱かるる思ひに酔ひてお身の

  御衣裳に鎧せり

  わが身裏(みうら)に溢れし力はわれ

  のものならで

  母のごとく温かき

  お身の愛

  にてありしなり

  さるにわれらが力に優る熊(くま)

  曽(そ)建(たける)

  を討ちてより、お身の

  御衣裳をわが妹

  の肌をたのしむ夫(つま)の

  心に感じ         ]  







 







「倭建尊(やまとたけるのみこと)の柵一」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/28

[ けむことをすゝめしもなれなな

  りき

  げに愛するものは勇

  気

  こそ得

  るなれ           ]

 


 










「倭建尊(やまとたけるのみこと)の柵二」

https://dl.ndl.go.jp/pid/12748150/1/29

[ わが

  劔もて

  葦を薙ぎゆくうしろよりそ

  を搔き集め、かの袋にあ

  りし火打ちもて火を放

  ちしもなれなりき       ]